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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

250迷える大羊:2007/10/01(月) 22:48:22
キリスト教徒の歴史観
 ここのところ、カトリック教会ではペトロ岐部、原主水などの戦国末期から江戸時代にかけての殉教者がよく取り上げられまして、ちょくちょく覗きにいく教会でも、ゆかりの地の巡礼ツア−、遠足などをやっていたりしますね。。

 もちろん、この時代に殉教していった多くの信徒や司祭は個人としては純粋に頑張った、立派とも思います。だけど、私の歴史観だと、だからといって、キリシタンを弾圧した秀吉、家康や江戸幕府が単純に血も涙もない極悪非道な連中で、キリシタン、キリスト教側がこれまた単純に一方的に苛められるばかりの善意の人たちばかり、とは思えないんですよね。

 キリシタン大名の領地では逆に仏教神道が迫害されて、神社仏閣が破壊されていましたし、ロ−マ教皇に土地を寄進までした大名もいたし、あの当時のキリスト教、宣教師といえば、植民地獲得の露払い役的な役割があって、現にフィリピンなどその土地の伝統文化、宗教がすっかり破壊されてしまって、国名までスペイン国王の名前になっちゃったわけですよね。(後の時代のハワイなどもやっぱり伝統文化、宗教がすっかりなくなっちゃいました)

 それにキリスト教って今でも、他宗教、他の伝統宗教に対し、非常に排他的な態度を取る信徒、聖職者が少なからずいますよね。まして、この時代ならなおさらで、ザビエルはじめとする宣教師たちも、キリシタン大名の領地で仏閣、寺院が破壊されることを褒め称えていたわけで、私など、この時代、日本がキリスト教国にならなかったのはむしろ幸運なこと、今でもキリスト教徒の人口比1%以下なのは、残念でもあるけど、一方で一つの国としてはある意味では健全、精神的に独立している証拠で必ずしも悪いことじゃないな、とも思っていたりします。

 大体、同時代(戦国末期〜江戸時代初期)に逆に日本の僧侶や神官があちら(ヨ−ロッパ)に行って、自由に仏教や神道の布教活動ができたのかどうか?同じキリスト教内でも異端だ、魔女だとかいって殺し合いしてましたし、キリスト教徒でなくなる、つまり教会から破門されることは、社会生活が営めなくなることを意味するわけで、だからこそ、ガリレオも涙を呑んで、地動説を撤回したわけですよね。こんなところにとても、他宗教が入る余地があったとは思えません。多分、寺院を建てたり、信者獲得の間もなく、あっという間に逮捕、宗教裁判にかけられるのがオチであるような気がします。

 それに対し、日本ではある期間まではキリスト教の布教活動ができたわけで、それなりにある程度までは受け容れられたわけですよね。秀吉や家康にしても最初からキリスト教迫害をしていたわけではなく、当初は好意的だったり黙認していたりしたわけで、この時代に関していえば、日本の方がどう考えても、キリスト教国のヨ−ロッパより、今でいうところの「信教の自由」があり、宗教的には寛容だった気がします。

 要するに、話を戻せば、多くの殉教信徒や殉教司祭の頑張りはわかりますが、単純に感動できない、むしろ迫害する側の考えもわかる気がするなぁ、というのが私の歴史観なんですけど、こういう考え方をする人間ってクリスチャン、カトリック教徒としては受け難いですかね?そりゃ、まあ、保守的な人にはいい顔をされない考え方でしょうけど・・。

251Fusako:2007/10/01(月) 23:02:06
マルタの話
最近、キリスト教の女子校出身の友人たちと、一人は同窓の友人、一人は別の学校の若い友人と話す機会があって、「猫のソシアル」に出ているたとえ話のことをきいてみましたら、二人とも、マルタの話に納得できなかった、とやはり言っていました。わたしも含めて、三人とも、学校時代はキリスト教にも、お嬢さん学校的女子校の雰囲気にも反発していた口で、若い人は、「不合理なたとえ話」にはいまだに納得できないようでしたが、同窓の友人は、わたしと同年代でけっこう大変な暮らしを経てきていまだにタイヘンという人で、わたしもですが、自分が「10タラント」の人間とは特に思わなくなっているし、まあ、人それぞれがそもそも同じタラントで一直線上に並べられるものでもないと思うようになっているので、「なかなか味わい深いものがあるたとえ話よねー、信者じゃないけど、若い頃にキリスト教に触れたのは良かったわ」と二人でうなづきあった次第でした。

252vino:2007/10/08(月) 10:01:26
まず、御用ありきでして・・・
このマルタとマリアのお話はいつも胸に深く染み込んでおります。まだまだ私程度のレベルですと、礼拝中も<この後、あの件を○○さんに確認して、来週のあの事を××さんと相談して・・・>という感じで教会へ出掛けるイコールまずは御用!!になってしまいがちです。神様にはちょっと失礼しちゃう事ばかりです。いくつかの事を同時進行でできる能力はそうそう授かるものではないですよね・・・。思えば、求道中の方が今よりもずっと素直で熱心でした(笑)  キリスト教は逆説の信仰とも言うそうですからボチボチと、できる人ができる時にできる事をするよりないのでしょうね。

253Sekko:2007/10/08(月) 17:58:09
いろいろ
大羊さま、
この夏、江戸時代のキリシタン狩りでキリシタンを告発したら賞金がでて、身分の高い人なら高額、一般人でも今にして700万円ももらえたので、貧乏なうちは家族の一人を無理やりキリシタンとして売った、という話を聞きました。なかには、キリシタンのことに無知で偽物だとばれてしまった人もあったそうです。
日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。
「えーい、邪魔だ、皆殺し」とか感情的なとこがあまりないんですね。それだけにより怖いとも思います。ヨーロッパの連中の魔女狩りとか先住民狩りの方が単純といえば単純かもしれません。悪における洗練の問題って、倒錯的ですが、必ず傑出した天才が隠れているので、凡人には平凡な悪しか手が届かないみたいです。だからと言って害が少ないわけではないですけど。

Fusako様、vino様、
人生って、生存に必要なメンテナンスと、生活に必要な義務と雑用と、それがメインで、スピリチュアルな部分って、嵐の夜の閃光みたいなものかもしれませんね。でも、逆に、超越的なものの陽光にずっと照らされていたりしたら、かえって誰もそれに気がつかないかも。
一度でも光を意識できた人が、その記憶にすがって長い信仰の夜を生きていく、ていうのが普通かもしれません。マザー・テレサの50年にわたる信仰の夜が最近話題になりましたが、彼女は神がいないといったんじゃなくて、隠れてる、見えない、と苦しんでいたんですね。
「見えないときは気にしない」、天気や昼夜を変えるわけにはいかないんだから、と不可知論的にあしらってもいいんじゃないでしょうか。信仰に基づいた行動規範さえあれば(マザーテレサがそれで50年やってきたように)いいんですよ、きっと。

254迷える大羊:2007/10/13(土) 16:34:30
カトリックとロ−マ帝国
 >日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。

 イジメにしても欧米がストレ−トなもの言い、行動をするのに比べ、日本は精神的に追い詰める、疎外していく、というパタ−ンが多い感じですよね。しかし、金目当てに家族売るんですか?旧約聖書にも確か、優秀で親の覚えもめでたい末っ子をエジプトに奴隷として売り飛ばす、とんでもない兄貴たちの話がありますが・・。昔は子供を売り飛ばすことって今考えるほどとんでもない話じゃなかったんですかね?

 ところで、話変わりますが、私がキリスト教の中でもカトリックに近づいた理由として、もちろん、感覚や考え方に違和感が少ない、ということが第一ですが、古代ロ−マ人の感覚、文化を色濃く残している宗教、教派ってこともあるんですよね。

 いささかミ−ハ−で恐縮ですが、塩野七生の「ロ−マ人の物語」とか「スタ−ウォ−ズ」(宇宙が舞台になっていても、皇帝やら元老院やらが出てきたりして、そこで展開される世界はまるっきり古代ロ−マ帝国)、「ベンハ−」、「スパルタクス」、「グラデュエ−タ−」などロ−マ帝国関連の小説、映画が大好きだったりします。

 カトリックの場合、マリア崇敬は昔のロ−マ人の女神ビ−ナス信仰がマリアに置き換わったもの、と聞きますし、教皇制はかつてのロ−マ帝政の制度の影響をある程度受けたものなのかな?と思いますし。かつてのロ−マ帝国では国家に貢献した皇帝、軍人、著名人は元老院の承認の上、神に祀り上げられましたが、カトリックの聖人とか福者というのもその名残なのかな?と思ったりします。あと、昔はラテン語でミサを行っていたこともロ−マ帝国の匂いを色濃く感じるところですね。

 また、カトリック教会が比較的、異教の風習、文化に寛容で抵抗なく取り入れるところもかつてのロ−マ帝国、ロ−マ人の気質と共通するところを感じるんですよね。

 当方の勘違いなのかもしれませんが、こういうカトリックの諸制度や考え方を見聞きすると古代ロ−マ帝国の影響をかなり感じますが、実際のところ、どうなのでしょうね?

255Sekko:2007/10/14(日) 05:05:09
そうですね。
少なくとも今の大手の、いわゆるカトリックって、ローマ帝国の版図に広がったローマ・カトリックだし、今に至るまでのインカルチュレーションのやり方とか、ローマ帝国の広げ方と似てますよね。

そういった古代のギリシャ・ローマ系の土台に、かなり異質なパレスチナの荒野の一神教が接木されてしまったところがハイブリッドで興味があります。

まあ、私のいるフランスなんかは、ラテンとケルトとゲルマンのまざった辺境だったんで、そこを地中海系の高度な文化や宗教が席巻して、それでもある程度自己流に変えてお茶を濁しちゃってます。

日本に道教やら仏教やら儒教やらが大陸から入ってきたのを日本化しちゃってるのと意外と似てるなあと思います。

旧約聖書のヨセフを兄たちが売ったのはどっちかと言うと嫉妬のせいです。貧乏のせいじゃないですよ。
でも貧乏な家族が生き延びるために子を売るなんて、昔は珍しくなかったのでは? 口減らしに奉公にやっちゃうのはもちろん、女の子を遊郭に売ったなんてよくある話です。だからいいってわけじゃないけど。
その金はたいしたことなかったと思うんで、それに比べたら、キリシタン告発でもらえる金はいかにも大金だったと思います。
家族内部でのキリシタン告発でも金をやる、これはけっこう私にとって盲点だったんで、他の国のキリシタン弾圧にはなかったんじゃないかなあ、と思います。誰かに調べてほしいですね。

256greencurry:2007/10/19(金) 10:01:40
弱い父ヨセフ
Sekkoさま、「弱い父ヨセフ」読み始めました。まだほんの数ページですが、今まで知らなかったことがいっぱい出てきて興味深く読んでいます。
それで、とっても基本的なことをお伺いしますが、プロテスタントは聖人信仰という迷信を排除した、というくだりがあったと思うのですが、
聖人信仰はカトリックだけのものなのですか?
あとギリシャ正教とかにもあるのですか?

257管理人:2007/10/24(水) 11:57:43
特定の宗教の宣伝不可
サイト管理人です。
このサイトでは、特定の宗教の宣伝は不可とします。
したがって、そのように私がみなしたものについては削除します。
よってこの直前の投稿については削除いたしました。

258太陽丸:2007/10/25(木) 21:55:15
感謝 感激
なんだか竹下さんのサイトみていると、毎回、エンパワ−され、元気づけられます。本当に、ありがとうございます。

 私が共鳴、エンパワ−された竹下語録を以下に。

 1、理想が、戒があるからこそ、人は悪手を少しでも減らすことができる。よって、各種 の戒律、規範はすごい智慧であること。
 2、何宗教、名派なんてことより、愛とか連帯、いたわり等の精神の実践のほうが大切。
 3、人生は、悪手の山河、嵐、泥沼を渡り歩いているようなものだが、いつしか、来たる 超越の光にてらされるまで、その闇夜をバランスのとれた紳士な精神で、はっきりした理 由は証明しきれなくとも、続けることが大切である。
 4、信仰というのは、理性とか利害とかを超えた、突き抜けた行為である。それ故、危険 な面もあり、真実も含まれている。
 5、結構、現状が劣勢で、外部が崩壊してきていても、内部を充実させるチャンスである こと。外部が結構、崩壊しても、自己イメ−ジのク−ルな下方修正によって、相応の喜び は得られるという救い。
 6、猫の存在から愛の感覚へのインスピレ−ションのありがたいお話。

まだまだ、感謝語録は満載ですが、とりあえず、私の勝手な味付けも加えながら、とっても元気づけられたことを、感謝、申し上げます。

ありがとうございました。  文は下手です。

259太陽丸:2007/10/28(日) 18:35:32
ごめんあそばせ
質問じゃなかったので、別掲示板に投稿すればよかったですね。
では。

260Sekko:2007/10/29(月) 02:25:59
いえいえ
 こんな風に言っていただけると、何らかの形でこのサイトがお役に立ってると思ってうれしいです。
 言葉が人を深いところで変革する力を持っているというのは、私も実感しているので、そういう言葉を醸成できるような心の余裕を持ちたいです。今読んでいるChristiane Singer という作家によるエロイーズの手記の中に、啓示とは、幻想の調和世界に亀裂が入ることで、そこから内臓に穴が穿たれた時に、人は、はじめて真実に向き合う用意ができるという意味のことが書いてありました。
 言葉って、ただ脳内世界で構築されたものじゃなく、内臓の傷を通して生まなきゃいけないんだなあ、とか思いました。
 これからもよろしくお願いします。

261太陽丸:2007/10/29(月) 19:48:51
お忙しいなか、ありがとうございます
ほんと、竹下さんの、著作やサイト、交流作業によって救われている人はたくさんいると思います。
そして、ご返信ありがとうございました。私には、少し難しくて、深くは理解できません。
でも、思い当たる節としては、例えば、日常生活において、紳士的でない邪念(実に、さまざまな形状、種類がありますよね)が脳内に生じたときに、それを打ち消すポジティブな内語をつかうのですが、容易に打ち消せるときはよいとして、身を切るほどつらい、抵抗感のあるケ−スもあります。
まるで、体中に泣きがはいるほどストイックでつらいときもあります、そして、そんなときにオ−ラみたいなものが大きく立ち上がる感じがするのです。つまり、体、精神の根源的なツボにふれて、正解の合図なのかもしれないなどと感じています。
このような、体中に、泣きがはいるほど辛い、身を切るようなポジティブな打ち消しの内語で対処する作業のときに、もしかして、内臓にも泣きの傷が刻み込まれて、刻印されて、それが、その人の身体性に反映され、その変化した身体性から、その人ならではの、独自の言葉、まさに、マニュアルでない、身を削ったエネルギ−のあるい迫力いっぱいの言葉や響き
言霊がうまれてくるのかもしれないと感じました。

少しは、合っているでしょうか?  末永く、よろしくお願いいたします。

262迷える大羊:2007/11/12(月) 23:17:58
クリスマスって・・
 クリスマスが近いんですけど、いつも感じる疑問。クリスマスって元々、キリスト教の祭りではなくて多神教時代の古代ローマ帝国にあった太陽神信仰の宗教のお祭りですよね。
 保守的なキリスト教会だと七五三や初詣などを異教のイベント、崇拝として拒否しますが、だったらクリスマスはなんでOKなんだ?といつも思ってました。
 冗談抜きで誰かこの疑問にスジの通った説明ができる方、いらっしゃいませんか?

263Sekko:2007/11/12(月) 23:33:38
クリスマス
 それは、ちゃんと意識的に、太陽神の祭りを置き換えるために教会がわざわざ冬至をクリスマスに設定したんですよ。日照時間が一年で一番短くなり、次の日からまた長くなるので、死と再生のイニシエーション儀式でもあるし、救世主の「誕生」のシンボリズムともぴったりだったんですね。ユダヤ人がエジプト時代に太陽神の信仰に触れたことで、それまでの民族神が普遍的な一神教に進化したという可能性もあるし、もともと、地球上の生物にとって、すべての生命の源のような太陽は「一神教」か、少なくとも「最高神」になりやすいですからね。
 教会はたいてい主祭壇が東にあって、朝のミサは、昇る
朝日に向かって捧げられる形でした。太陽の運行の方向や高さや日照時間を無視した宗教なんて、古代には成立しなかったでしょうね。その後も1月1日のヤヌス神の祭りはイエスの割礼の祝日だとか、太陽カレンダーや異教カレンダーをイエスの生涯にうまく当てはめてうまく調整していったわけです。七五三まではちょっと無理でしたね。

264迷える大羊:2007/11/12(月) 23:50:59
信じる理由
 現在、とあるカトリック教会の信徒有志が運営する、アルファコースという学びで様々なカトリック信徒、予備軍の方々と交流してますが、思ったより面白いですね。単に仲良くやっていけそう、というだけではなく、肝心の宗教観も私とそう大きく隔たっておらず(他宗教に寛容、積極的に理解する姿勢がある方が多いところが好感が持てるところですね)。意外と私と同年代の人間も結構いて、これは教会員としてもやっていけそうかも?という感触が現在のところあります。一緒に参加した妻(いささか保守的なプロテスタント信徒、結婚しました)もカトリック教会への印象が良くなったみたいで、「**(私のこと)ここで受洗してもいいんじゃない」といっております。彼女自身は特に改宗する予定はないですが、身内を預けても問題ないし、教会は違っても同じ宗教に居場所を見出してくれるのは単純にいいこととと思ってくれたみたいです。

 ただ、俺は本当に神様って信じてるかな?というと微妙です。もちろん、無神論者なわけはありませんが、強烈に信じている、というより、神様がいる、と仮定して生きた方が人生楽だし、筋の通った生き方ができるかもしれないな、という程度の認識なんですよね。
 正直、聖書が「誤りなき神の御言葉」とまでは思えないし(価値は認めてますが)、理解しがたいことは山ほどあります。

 ただ、遠藤周作氏の受け売りみたいになるんですが、「90%の疑いと10%の希望。その10%の可能性に賭けてみる」といった感じの心境といったところでしょうか?
 こんな感じで受洗なんて可能なんですかね?カト、プロ問わず受洗されたクリスチャンの方の受洗時の心境っていかがなものでしたでしょうか?

265Sekko:2007/11/13(火) 03:15:24
おめでとうございます
 結婚されたんですね。おめでとうございます。
 奥様のカトリック観も軟化(?)したみたいでよかったですね。受洗は到達点じゃなくて出発点だと考えるといいのでは?
 結婚生活もそうですよね。大羊さんの毎日がすてきなことでいっぱい満たされますように。

266迷える大羊:2007/11/13(火) 21:41:38
毎度お世話様です。
 なるほど、相性が良い風習をうまく調整して取り入れた、というわけですか。でも、やっぱりまだちょっと釈然としないところはありますねぇ。ヨーロッパの異教ならOKで日本の異教はペケですか?所詮は欧米人のための宗教なのね、みたいな感じがして。
 実はこの異教のあまりに頑なな排除がキリスト教への大きな抵抗の一つでもありましたから。
 そう思っていたら、カトリック教会って七五三のミサやってたりして、お、公平じゃないか、話がわかるではないか、と感心したことが、カトリックっていいよね、と思った理由の一つだったりします。

 受洗に至る過程、その時点での信仰度、心境は、また信徒の方にアルファコースで出会った際にじっくりお話を聞いてみよう、と思います。

267Sekko:2007/11/14(水) 00:50:11
七五三のミサ
 へー、七五三のミサなんてあるんですね。知りませんでした。

 ヨーロッパの異教はOKで日本のはだめ、ってわけでなく、ローマ帝国の版図にキリスト教が広がる過程で、先行するギリシャ・ローマの多神教とどう折り合いをつけるかという戦略だったんでしょう。

 それを見すえて典礼カレンダーを整備したわけです。で、日本に宣教、って時代には、すでに帝国主義的メンタリティだったので、インカルチュレーション、なに、それ? って状態だったんでしょうね。

 でも、中南米とか見てたら、やはり帝国主義メンタリティで布教されたにもかかわらず、インディオの宗教とかアフリカからの宗教とかがカトリックと習合してブードゥーみたいなものすごい繁殖力を持ちましたから、何が何でも力で制覇するってのは、心の問題や死生観のかかわる分野では所詮無理なのかも、です。

 日本人は真面目だから、そして、中央集権がが確立して来た時代だったから、中途半端な習合に至らずに、完璧追放と弾圧にふみきったのかもしれませんね。仏教を神道と習合させてしまったような業をもう一度使うには、キリスト教は一神教過ぎた、ってことなのでしょうか。

268vino:2007/11/17(土) 15:30:59
(無題)
大羊さん、ご結婚、おめでとうございます。人生の墓場の先輩として、お喜び申し上げます。いえいえ、墓場はオーバーですが、何がどう回っても、大変な事の方が多いのが人生ですものね。既婚、未婚、子有り、子無し、関係ありません。  間違っていたらごめんなさい。大羊さん、DのK高校、T先生のBBSで時折見かけるノンクリさと同一人物でしょうか?<S・・・な気持ち>なんて表現もされていますし・・・。私もあちらも良く覘かせていただいています。SEKKOさん、<超越的なものの陽光に照らされ・・・>のコメント、本当にありがとうございます。まさに私が言いたくて上手に表現できなかった気持ちにピッタリです。この数年、<夢で観た>ならかわいいほうで、<声を聞いた>とか<姿を観た>とか、何ですか、<霊的出会い>を強調する人の多い環境におりますので、ホッとしました。(すみません、またまた悪口言ってますね。)  さて、カト〜に七五三のミサがあるように、プロ〜にもこの時期、児童祝福式なるものがあります。S公会の人いわく、上手に当てはめたのねとのことです。時の王様が自分が離婚して再婚したいがために作られたS公会、現代の信徒は妙に達観している人が多いような感じです。濃いFの方はS公会のことをMIXなんて呼んでいてこれまた、びっくりしました。信仰の形や色はほんとうに様々ですね。

269迷える大羊:2007/11/18(日) 10:58:18
そうですよ
 T先生にもいろいろ教えていただきましたし、あちらのオフ会も出たことありますよ。
ネットのオフ会っていうと男性ばかりのことが多いのですが、キリスト教関係はどこも女性が多数派。いつもながら驚きます。

 信仰やキリスト教ではいろいろ困惑したり、悩んだりしましたので、いろいろなキリスト教関係者(ただし熱すぎない人)の意見を聞いてみたくて。そう思っていた矢先にこちらやT先生のサイトに出会ったわけです。
 思いもよらなかった交友(といえるかな?)関係が広がったのは単純に楽しいですね。

270nao:2007/11/18(日) 11:28:26
おめでとうございます。
大羊さま ご結婚おめでとうございます。毎朝、新妻と共にお食事できるのは、新鮮な喜びでしょうね!!大昔をおもいだしますが、私は働き続けていたので、なんだか、バタバタしたことだけが、記憶にあります。教会には行けなくなるし(夫は反対ではないけれど、日曜一人でいることに抵抗しました)さびしかつたことも思いだします。
今日は七・五・三のお祝いのミサでした。子どもが答唱詩篇を歌いました。「世界よ、神に向かつて喜びの声をあげ・・」という詩篇98の歌でした。朗読も子ども。大人よりきれいです。声が若いつて、素敵でした。ミサのあと神父さまから、祝福を受け、メダイを首にかけてもらい、千歳あめの袋に似せて、聖絵がかかれた、お菓子の袋をもらいました。25名くらい。さすがに小学低学年までの子だけでしたが、別に7・5・3歳でなくてもいいようでした。
信仰の入り口は本当に個性的ですね。加賀乙彦さんは「城塞」のなかで臨終のおじさんに「何故神を信じるようになつたのか」について語らせています。「聖書には一つもまちがつたことが書いてない。だから私はイエスの言葉を100%信じようとした。それを信仰の入り口とした」と。遠藤さんは10%の希望にかけた。遠藤さんは加賀さんの代父だつたかな?安岡さんも。男の人つて、自分の意識できめるんだな〜とおもいましたね。私は大学生のころ、3年公教要理(当時はカトリツク要理のことを、こうよびました)の勉強をし、わからんとこだらけで、でも「もういいわ、賭けてみよう」と決心して、親の猛反対をおしきつて受洗。今から考えると、私の精神的自立を果たしたわけです。「賭けてみよう」とおもつたのは、神父さまの生き様に心うたれたからかな・・信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる、と思えたときが決断の時でした。
聖書の言葉はいまでもわからないところだらけです。でも「信仰の書」として、今わからなくても、深い意味があるんだろう、とレスペクトする精神でよんでいます(さぼりですが)
大羊さん 奥様はやはり神様への橋渡しをしてくださつた、大事な方ですね。二重の意味でおめでとうございます。

271迷える大羊:2007/11/18(日) 21:35:25
女性は素直です
 皆様、ありがとうございます。

>信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる

 今日はとあるプロテスタント教会の礼拝に出てまいりましたが、その礼拝で信徒の一グループが受洗に至る過程、経緯をそれぞれ報告されてました。女性ばかりのグループでしたし、信仰に至る過程は皆、様々なのですが、全般的に女性の方々って素直で感性豊かですよね。彼女もそうですが、話を聞くとなんだか自分が理屈っぽい、ひねくれたイヤな奴なのかなぁ、と思えてきます。聖書(特に旧約部分)を読んでも、「うわー、こんなとんでもないこと書いてあるよぉ」とついアラ探しみたいなことはじめだしますし(もちろん、好きな聖句だってありますけど)。

 男って信仰のあるなしに関わらず、素直になれない、弱さを出せない、損な生き物なのかも、と思うことしきりですね。

272迷える大羊:2007/12/22(土) 23:53:57
クリスチャンと休日
 キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

 一応、カトリック、聖公会の場合ですと、ある程度以上の規模の教会に限りますが、平日も早朝にミサをやっていたりしますし、プロテスタントの場合も主に水曜日に祈祷会をやっていたりします。でも、そういう平日ミサのない地方の教会、プロテスタントの場合は休日がうまく祈祷会に当たらない人は実質的に教会活動は無理ですよね。

 まあ、教会に行くばかりが信仰ではないとはいえ、そういう交流がないのはちょっとつらい、というか寂しいものもあるのでは?という気もします。

 どうしてこんな疑問を感じるか?というと私の前職が工事関係で土日出が非常に多く、休日数が少ない職業であったこと、特に中小の下請会社、職人となると「いつ休むの?」といった感じの方が少なくありません。

 また、警察官、消防官、鉄道バス、コンビニ、デパートなどの流通関係に勤務している人も教会生活は困難でしょうね。でも、こういう人々がいなければ世の中は回りません。過去に転職したり世渡りをした個人的経験からいえば、少々乱暴ですが、なんだかんだいっても現在の日本で土日祝完全に休みで存分に教会活動ができる人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないかな?という気がします。

 諸外国のことはわかりませんが、今の日本で完全に土日祝休みの職、業界といえば、なんといっても事務系公務員、大企業社員、実家暮らしなどで正社員になったり、しゃかりきに働かなくとも、とも生活に困らない人などなど・・、比較的「恵まれた」人が多い気がします。

 結局、何がいいたいか?というと、電車を動かし、コンビニで働く、工事などなど、土日祝も休まずに働く職業の人がいるからこそ(人によっては大変ひどい労働条件で)、世の中回っているのに、そういう人々が信仰の恵みに授かりにくく、別にキリスト教信仰の恵みにあずからなくたって十分恵まれていそうな(つまり、土日休みで、なおかつ生活に困らない人々)が存分に教会活動の楽しみを味わえる、というのはなんとも理不尽、とはいかないまでも不条理を感じてしまったりしたからなんですが。

 こういう、土日休めない職業に従事しているクリスチャンの方の知人、友人がいらっしゃる方、彼らの信仰生活ぶりはどうなのか知りたいところですね。

273nao:2007/12/28(金) 09:27:57
偉大ではなかつた生涯 作者不詳
彼は 小さな村に おとめを母として生まれた。
別の村で成長し そこで30歳まで大工として働いた。
その後 3年の間 巡回説教者として村々を巡り歩いた。

彼は一冊の本も書かなかつた。
選挙に出たこともなく 家庭も 自分の家ももたなかつた。
故郷から300キロ以上遠くには旅したこともなく
ふつうの人が偉大だと考えることは 何一つしなかつた。
自分の身一つ以外に 何の肩書きもなかつた。

世評が彼を攻撃し始めたとき 彼はまだ33歳だつた。
友人たちも彼を見捨てた。
敵の手に引き渡され 形だけの裁判でなぶりものにされた。
二人の泥棒にはさまれ
その真ん中に 釘で十字架に打ちつけられた。

死を目前に彼の唯一の持ち物だつた衣服は、
死刑執行人たちのくじ引きにされた。
彼が死んだ時 死骸は 知人の同情で友人の墓に葬られた。

それからおよそ2000年が過ぎ去つた。
今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。

今日に至る歴史の中で かつて進軍した いかなる軍隊も
かつて航行した いかなる戦艦も
成立した いかなる議会も
統治した いかなる王たちも
さらにそれらすべてを合わせても
この たつた一人の人の生涯ほどには
地球上の人間の生に 影響を与えることはなかつた。


遅まきながら、主のご降誕のお祝いを申し上げます。

大羊さん、クリスマスはどのように過ごされましたでしょうか?カト教会のクリスマスは如何でした?福音派のクリスマスは?
私は足が悪い老人ですので、周りの方々のご好意がなければ、教会にはいけません。それは日曜日にミサに行けない方々と少し似たところがあります。
私はつれていつて下さる方が必ず、毎週いてくいださるので(人はかわりますし、たのんでいるわけでもないのに)クリスマスの夜のミサに預かることができました。
そして、大羊さんが書いておられた、教会に行けない人々のことを、しつかり心に刻み、お祈りをしました。またいつも私の生活を支えてくださる方々に幸せがありますように、とお祈りしました。
クリスマスはこういう感謝の気持ちや、不遇な方々のために祈る気持ちにさせてくれるありがたい日です。こういう気持ちが常に新たにされる、ということ自体、私の心をすくつているわけで、改めて信仰のありがたさとその不思議さに思いをいたしました。

うちの教会報にこの詩がのつていました。どこからとつてきたものか、かいてありません。どなたか、ご存知のかたがおられましたら教えてください。この「偉大でなかつた生涯」をおくられた方のおかげで、日々暮らしてゆける老女がいるというのは、やはり奇跡です。

SEKKO先生、大羊さま、VINOさま
いいお年をお迎えくださいませ。

274:2007/12/28(金) 13:24:18
ごあいさつ
はじめておたよりさせていただきます。
あまり模範的とはいえないカトリック信者です。
ことしはほとんど教会のミサにあずかることができませんでしたが、ぎうぎうの通勤電車の中でロザリオを唱えるという生活習慣を確立することができて、
自分ではそのことをよろこんでいます。
主日†主がご復活なさった日曜日すなわち土曜日の日没後†に教会のミサにあずかるのは、信者としての義務!であるわけですが、高校生の頃、パブテスト派のともだちと教会とはどのような場をいうのかと、語り合い、それは「建物のことではなく、心をひとつにする人々の居る場所のこと」であると、話がついて以来、どこで祈るかということでは、わたしは心煩うことを忘れました。金祝(誓願50年)を迎えられたC.N.D.シスタ、ホスチアさまにおかれましては、あり得ない信仰態度であっても、ユダヤ系ポーランド人ドミニコ会士懐疑派の主任司祭トマスさまは、肩をすくめて「余計な邪魔が入らないお祈りはさいわいでしょう」と祝福!してくださいます。シスタはわたしの憧れですが、その謹厳さが頑迷にうつることもありました。
竹下節子さんの著作を読むことで、共感的ではあっても、聖なるものに対して理性的なアプローチがありなんだと勇気づけられました。未読の著作もまだありますし、このサイトもたくさん情報が紹介されていて、きゃほう!です。竹下さんに主の祝福がかぎりなく注がれますように!

信仰にしても、妄想にしても、いつも複数のことを頭においておりますし、道草が好きなので、自分がなにを考えて調べていたのかわからなくなることが、よくあります。おたよりすることで、さまざまなことばが連なればさいわいと考えます。どぞよろしく。

275塩梅:2007/12/28(金) 14:41:36
お久しぶりです。
大羊さま

>キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

私は昔、介護職員でして、土日休みはまずあり得ませんでした。
当時通っていたところが、超教派で日曜日夜に集会を持っていたため、宿直・夜勤明けとか早番あがりで努力をしていましたが。しかし、それでも、毎週とまではいかなかったです。しかし、そのうち集会で知り合った夜間神学校のスタッフの女性がその学校の聴講に招いてくれるようになり、そこで一種埋め合わす形でした。
ただ不規則勤務でしたので、気力のみで乗りきった感じです。無理はしなかったつもりなんですけど、そのうち持病の発作が頻回になってドクターストップがかかってしまい、職場を辞めて療養の形になり…今に至ります。

当時の同業、また看護士の人たちに聞くと、

「夜間勤務のみにしてもらって、規則的な生活を取れるようにしている」

という人もいました。しかし、そういう条件で雇用いただける場所は限られているのではないかと思います。

介護の仕事を辞めてから、いくつかの仕事、家族介護を経由しましたが、特に家族介護しているときが教会に通いたくても通えない時期でした。そういうことで、私もロザリオを覚えたのです。数珠(…)の扱いが苦手な頃は、両手の指とかでやってました。未だに指でやる癖があります。信者でない家族への遠慮もあって、家ではなるべくそっとやってます。あと、自分のいける日でお聖堂に入れる時間にそっと入れていただいてお祈りさせていただくこともあります。そこは神父さまやシスター、教会事務の方にご理解をいただいてなんですが。私の場合は、率直に相談してよかったようです。

そう言えば、もう年末なんですね。このBBS管理・閲覧者の皆さま、どうぞ良いお年を。

276Sekko:2007/12/29(土) 01:31:42
みなさま、よいお年を
 おー、このコーナーはなんだか心優しい人の集まるあったか掲示板化してますね。ありがとうございます。日本のキリスト者の方、みなさん誠実ですね。フランスで葬式カトリックをやってる人たちとはえらい違いです。

 でも、私の中で仏教があまりインド的でないのと同じように、フランスにいるせいか、キリスト教って、パレスチナ起源とか、世界宗教というより、コーカソイドご用達だよなあ、という気がします。

それで、

「今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。」

 って言われると、教会報的にはもちろんマルでしょうが、「全人類」とか「最重要」って形容されると、ほんとかよ、と突っ込みたくなることを告白します。

 キリスト者のみなさん、「彼」の死後(というか復活後)、2000年も、あなたたちは、彼のメッセージに忠実でしたか? 「向上」しましたか?
 すみません、けちをつける気はありません。
 軍隊やら戦艦や王たちよりも、長きに渡ってメッセージを発し続けるイエスという存在に感謝します。毎クリスマスに、これでもか、これでもかって、デジャヴの生誕シーンによって、光と希望を与えてくれることにも。

 パキスタンでベナジル・ブットがテロにやられましたよね。その後の暴動でさらに20人近くが死んでます。その20人は「その他大勢」あつかいです。そんなことすべてに不条理を感じる年の瀬です。「自分以外の人も大切にする」って、そんな単純な唯一のことを誰も守れないんでしょうか。
 この世には権力や経済や政治のパワーゲームがある。環境問題も格差問題もある。それらの問題の答えはもちろん一つではありません。
 X+Y=5 という式があったら、それは「不良設定計算問題」です。
 マイナスの整数やら少数もOKであれば、答えは無限にあるからです。
 でも、計算の拘束条件があれば?
 たとえば、自然数だけといえば、可能性はぐっと減ります。
 この世の複雑な問題も、「他者を大切にする」っていうルールさえ設定すれば、限りのない相対主義やカオスや憎悪の増幅には向かわないだろうに。

 宗教の教祖たる人は、釈迦でもキリストでもみんな口をすっぱくして利他を説いているのに・・・
 確かに、「彼」だけは、賛同者にまで見捨てられ、敵になぶりものにされてこの世の第一幕を閉じました。それは、胸を締めつけられる出来事です。だから、「彼」を信じる人はせめて、他者の不幸に共感力を持てる人であって欲しいです。
 すみません、なんか、空気を暗くして・・

 空頭さま、伝統キリスト教は理性的アプローチを含んでいますよ。ギリシャ哲学の牙城に切りこんでいったんですから、理性をツールとせずにはおれなかったんです。去年の秋、教皇がドイツでうっかり言っちゃったのはそういうことです。カトリックと理性は古くから野合しました。だからこそ、カトリック無神論は大きな力として成立したり、西洋近代が生まれたりしたんです。
 その意味で、プロテスタントやイスラムが文句を言ったのは無理もないです。
 まあ、内部にこういう絶対のパラドクスをかかえてるところがカトの魅力でもありますが。純然たる「信仰」には、理性は太刀打ちできませんから。

 というわけで(どういうわけ?)、お仕事やましてや肉体的ハンディや介護などのため、教会にいけない方、全然気に病むことはないと思います。自分を必要とする他者のそばにいる、ことほど、大切なことはないでしょうから。教会法上、教会に行くことは義務となってますが、あなたのそばにいて助けを必要としている人の役に立つことの方が、「義務を果たすよい信者」でいることより優先すると私は思います。「彼」だって、きっとそう言ってくれると思いますよ。

277迷える大羊:2007/12/31(月) 14:42:27
皆様よいお年を
 この年末は残業、また残業の猛烈な忙しさで、おまけに風邪ひいて寝込んでしまってさんざんでした。

 クリスマスはどこの教会もやることは一緒ですね。行きましたよ、カトリックも福音系も・・。まあ、ちょっと福音派の教会については大袈裟に言いすぎたきらいがなきにしもあらずですね、我ながら(私にとってはあの伝道熱心さ、クリスチャンホームへの異様なこだわりが困ったところなんですが)。NAOさん、足が悪い、というのは初めて聞きました。階段の多い都会で何かと大変とは思いますが、この年末年始、不慮の事故には十分お気を付け下さいね。

 塩梅さんは元介護職員ですか、大変なお仕事ですよね。で、聞くところによれば、大変な重労働なのに給料が恐ろしく安いらしいですね。同じ大学を出て、介護職員なんかよりはるかに労働条件が楽な一般企業のOLの方がずっと高収入、なんていうんじゃやってられませんよね。介護職員に限らず、今の日本で福祉関係の職はおしなべて、低賃金かつ厳しい労働条件を強いられる場合が多いですね。いつまでもボランティア精神あふれる人の献身に期待するのにも限度がある気がしますが・・。

 もっとも、僕は祖母がそういった介護施設に入所していますが、利用する立場からすると、人件費アップで利用料が上がっても困る、というのも偽らざる本音だし、難しいところで、ここでエラそうなことはとてもいえません。

 なるほど、ロザリオというのは、教会に行けない人の祈りの場、という意味合いもあるんですね。教会に行ける、行けないの問題は然るべき人に相談したり、工夫次第でなんとかなるみたいですね。

 僕はプロ・カト問わずあまりに教会べったり、イエス様べったり(つまり、キリスト教以外の価値観とか世界に対する視野が狭い)のクリスチャンって嫌い、とはいわないにしてもあまり望ましいものとは思わないので、教会に頼らず、信仰を自分なりに工夫して保っていくというのはかえっていいことなのかも、と思ったりもします。

 まあ、年末にエラそうな御託をいろいろ並べたててしまいましたが、皆様、良い新年をお迎えください。

278nao:2008/01/02(水) 10:14:49
介護職員の方々
私の夫はカトリツクの特養に3年間お世話になりました。カトリツクの施設なので、信徒の方が職員に多いのかとおもつていましたら、事務のかたは殆どカトリツクなのに、現場の看護、介護職員さん達には一人も信者がいませんでした。外部回りのかたには2名いましたが。現場の介護職員さんは実にいろんな宗教にはいつていましたね。宗教にはいつていない人のほうが、すくないのです。あまりよく知られていない、小さな教団がおおかつたです。その方たちの親切さは、見事でした。手かざし、とか、祈りを唱えながら世話するとか。おおきな教団が力を失なつていることは確かだとおもいました。でもその方たちもミサにはちやんと、参加して、共同祈願をいつてくれました。日本て、いろんな宗教が共存できる不思議な国だとおもいました。
大羊さん、足はたいしたことないんです。大腿部骨折で、杖がないとあるけないんです。それだけ。まあ、少しはあるけますが、遠方は無理なので、皆さんがたすけてくださいます。要介護一を頂いています。お掃除、買い物、通院には介助が必要な身ですが、家のことはこなしています。大げさになりましたね。ごめんなさい。
元旦のミサには帰省した若い方々で、教会がいつぺんに若返りました。クリスマスと元旦だけは若い人で溢れますが、それでも少なくなつた印象があります。まあ、配られたおもちは160個なくなつたようですが・・。

279迷える大羊:2008/01/06(日) 22:09:37
奇跡話とは?
 以前にも似たようなスレ立てましたし、しつこくて恐縮なんですが、私がキリスト教について気になる、いまいち踏み込めないなぁと思うことの一つに「これは個人崇拝の宗教ではないか?」というものがあります。(言い訳めきますが、私だって「彼」のことは敬愛してますよ)

 その象徴的な話が福音書に見られる、「彼」が水の上歩いた、とか死人を蘇らせたとかいった類の奇跡話で、私が最初に関わった教会ではどうもこれを字句通り信じているのでは?といった感じの方が少なくないところでした。彼らは「私たちはそういう能力を持つ神様の存在を信じているんです」とか「自分が信仰を託す神様は一番強くて無敵でないと困るんです」とかいうのですが・・。

 私からすると、もちろん奇跡話自体が荒唐無稽でダメ、ってこともありますが、キリスト教は現世利益を追い求める宗教でない、といいつつそんなものに憧れる、そういう俗っぽい「超能力」を「教祖」「開祖」に期待するメンタリティが理解不能ですし、それでは「尊師は空中浮揚ができる」とか「うちの総裁はチャネリングであの世の著名人とお話できる」とか「先生は世界各国の大学から名誉博士号を受けた」なんてことを信じて喜んでいる、カルト団体、新興宗教の信徒とレベル的に大して変わらないじゃないか!と思うこともあります。

 こういう、カルト団体、新興宗教の教祖様の「超能力」を信じることと、「彼」ことイエスの「超能力」を字句通りに信じることの質的にどう違うのか?おちゃらけでなく真面目に知りたいです。

280vino:2008/01/08(火) 19:05:43
明けましておめでとうございます
2008年も滑り出し、子供達の成長と共に、こちらの老い、両親の老い、そして何よりも時間の過ぎる速さを痛感します。 T先生のブログに<ヨーロッパのクリスマスを経験する事は牧師を現役中は無理>なる意味の事が書いてあり、本当にあのお立場は大変な事ばかりなのだと改めて思わされた次第です。 それこそ、遠方に年の多い親御さんがあるなんていう場合は<その節>にも親の死に目にも会えないですし、親子で牧師の場合も親御さんの<偲ぶ会>に欠席して自分の御用を執り行うわけですし、クリスマス疲れの後の気楽なお正月・・・になるのも無理の無い事です。憧れや思い出でと共にどんなものも少し遠くにありてこそ美しいだけで済むのですね。  我家ではお雑煮やお節料理、年賀状なども日本人の普通の家庭の行事として行っていますが、F派の濃い方々ですと、<あれは良いけれどこれはNG>なんて感じで大変なんでしょうか?  勿論、節分だの、恵方巻きなど、サタンだったりするんでしょうか?  悪口になりますが、そして大羊さんの疑問の答えにはならないでしょうが、イエスをあまりにも担ぎ上げるあの方向性は日本史で習った<摂政・関白>のごとき感じを受けてしまいます。お神輿を動かすのは人間であって結局自分の都合の良い方向へ進んでいるだけなような・・・。 今年は特にアメリカで大統領選挙のある年ですし、<モスリムは悪>ってことにしておけば都合よく済む・・・ってなもんでしょう。 人口のわずか1%にも満たない日本のクリ〜ですが、明治維新以後、政府のお雇い外国人と交流のあった旧・武士階級から信仰が広まったそうです。あの時代、英語が身近にあったり、ミッション・スクールに通うなどほとんどの庶民には別世界の話ですものね。  今も<高収入、高学歴、高意識>な人が多いと言われているようですし、<敷居が高い>感じなのもこんなところからも来ているのでしょうね。本当に必要なところへは届いていないのかしら?病院やホスピスでの奉仕で日曜も教会には来られない方もK団の信徒にはいらっしゃいます。近所のお年寄りの病院やらそれこそお寺さん通いの運転を引き受けていて自分の教会の御用ができない方もあります。勿論、牧師や皆さんの考え方にもよるでしょうが、<必要とされている場所>で働く事は大切だと思います。だからこそ、<時と健康を感謝して・・・>なる表現も多様されるのでしょうね。  寒い季節です、皆さん、お体を大切に。NAO様、ご無理をなさらないでくださいね。  今年もどうぞよろしくお願いします。

281Sekko:2008/01/08(火) 23:21:59
大羊さんへ
 みなさま、今年も宜しくお願いいたします。

 大羊さん、相変わらず「迷える」状態で大変ですね。

 イエスの奇跡とか、超能力について、私は、全然、気にしてません。
 イエスの奇跡は信仰の対象になっていますが、それは、別に証明の対象じゃないですからね。

 ヒーラーといわれる存在は世にいろいろいるみたいだし、ああ、そうですかと思いますが、私は自分にはあまり期待してません。それこそ「信仰が足りない」と思うんで。絶対救ってもらえると思うより、あきらめる方が私には簡単かも、です。

 奇跡譚は、まあ、水上を歩くなら、普段歩いて渡れる川が増水して渡れないのに、向こう岸に行きたいって時には便利かもですが、まあ、船って手もあるし、胡坐をかいて空中浮揚なんて、それこそ、何の役に立つのか・・・って感じです。イエスの「超能力」は同時代的じゃないので別に問題ないです。同じ能力を獲得するために修行しろとか教祖の風呂の残り湯を飲めとか言われるのじゃなければ気にしません。別に特に「尊敬」の対象にもなりません。「超」でなくとも、「能力」を尊敬したい人たちは無限にいますけど。

 大体、聖書の解釈学の歴史を紐解くと、イエスの「奇跡譚」について徹底的に否定した時代や傾向もありました。あれはいわゆるレトリックで、シンポリックな表現なので文字通り受け取ってはいけないとか、新約の中ではパウロの手紙類が一番古いテキストで、そこには奇跡譚は出てこない、福音書は、原始教会がイエスを救世主とした後で編集された教育的言説なので文学の一種である、奇跡譚はその時代のその地方の文学の流れの中で形成されたのだ、とか・・・

 人間が世界を見る視座には、科学的なものと宗教的なものの二つがあります。科学的なものは、仮説をたてて実験的に再現できるなど、試行錯誤的真理であり、宗教的なものは、超越的な視野を持つことです。

 ややこしいのは、ここで「宗教的」といったのは、「キリスト教的」と言うことです。キリスト教以前は、アニミズム的、つまり、「呪術的視座」が普通でした。そこにキリスト教が、ギリシャ的な科学観をツールにして、人を呪術的世界から「解放」しようとしたのですね。しかし、ギリシャ的な科学が、コスモスを閉じた秩序と見てその中に人の居場所を見つけようとしたのに対して、キリスト教(ユダヤ教も)は神が人を自由意志を持つ自分の似姿で、自分のプロジェクトに参加させようと、契約をかわした、という考えを打ち出しました。「進歩思想」というのはそこから生まれ、近代科学もそこから生まれたんですね。

 でも宗教としてのキリスト教は、世界を超越的に捉えようとしたので、聖書にも世界の呈示はあっても「解明」はありません。ガリレオが地動説を捨てて転向したのは教会の圧力でしたが、聖書が天動説をうたっていたわけではなく、地動説は当時教会が採用していた「アリストテレス的宇宙観」と相容れなかったからなんです。

 ギリシャ科学と神学をまぜちゃったところが失敗だったんですね。でも、そうやって形成された西洋科学主義は、結局、近代科学を生んで、今のカトリックでは、「世界の解明」は「科学」に任せるという、宗教と科学を分離するスタンスが普通かと思います。超越の視座と、実証主義の視座、二つのシステム、二つの理解の仕方であり、そのどちらかがどちらかを「従属」させようとする時に無益な対立や戦いが起こるわけです。

 日本はアニミズム的呪術的世界を温存してたので、「西洋近代科学=実はギリシャ科学とキリスト教の融合」を輸入した時、「和魂洋才」という二つの視座にあまり悩みませんでした。
 呪術と理性は葛藤しなかったんですね。近代西洋で超越と理性が葛藤したようには。
 まあ西洋以外のキリスト教文化では、呪術的心性をハイブリッドしてるところは多いですが。また、西洋的世界でも抑圧されてきた呪術的志向が、キリスト教の中の超能力とかオカルトとかを歪んだかたちで引き出しているという動きもあります。

 だから、この問題は、すごく複雑なんですよ。この辺のところを解説した本を今書いてるところです。

 ガリレオは、地動説は確信してたんですが、「この世には死んだり殺されたりされるに足る値打ちのあるような科学的真実などない」といって、地動説を引っ込めました。「それでも地球は動く」・・・

 ですから、大羊さんも、周りに宗教と科学と呪術を混ぜてしまってる人がいても、勘違いしてるんだなあ、とスルーして、あまり悩まない方がいいですよ。

282greencurry:2008/01/10(木) 23:02:45
奇跡
奇跡の話といえば、空海も奇跡を起こしたと言われていますね。持っていた杖(?)で地面を叩いたら温泉が湧き出て、人々がそれで癒されたとか。(それ以外の話も聞いたことありますけど覚えてないです、すいません)
私はいわゆる葬式仏教徒ですが、神道の考え方や密教、仏像などには興味を持ってます。空海の奇跡譚も、彼ならそんなこともあるかも・・なんて考えます。でも、私が空海を(大げさな言い方をすれば)尊敬するのに奇跡は必要ありません。
とある新興宗教の教祖(?)にはまっている知人は、その教祖が手品のように手から宝石とかを出したことを「すごい」と言います。だから尊敬に値するのだ、といわんばかりで。私はそれを聞いてMr.マリックもすごいぞ、それがどうした?と思ってしまうのですが、本人はとにかくそれで尊敬しちゃってるみたいです。
これって奇跡に対する温度差かもしれないなーとも思いました。
私にとってはそれが手品であるほうが尊敬してしまいます。
大羊さんの周辺の方々もその辺の温度差ってあるかもしれないですね。知人を見ていて「この人は不思議な話が好きなんだなー」って思いました。あと尊敬すべき対象が「すごい」人であるための単純な根拠みたいなのが必要なのかなーとも。
私はキリスト教徒の方で奇跡譚を信じている方を知らないのでなんともいえないですが、新興宗教の教祖の奇跡を信じることの方がちょっと危険な感じがします。
大羊さんの問いへの答えにはもちろんなってませんが、私もいろいろ考えちゃいましたので。
最後になりましたが、今年もよろしくお願いします。

283迷える大羊:2008/01/12(土) 20:15:15
奇跡話とは?2
 皆さん、レスありがとうございます。さすがにこちらのBBSには奇跡話を字句通りに受け取る方はいませんね。まあ、イエスの場合、別に権力者だったわけでもないし、キリスト教団を作ったわけでもない(むしろ、彼は組織化された宗教団体には否定的な感じがするのですが)んで、超人と崇めてもとくに害があるわけではないんですけどね。

 イエス、といっても宗教家として活動していたのは数年にも満たない期間だし、具体的な記録も聖書の福音書(それにしても書かれたのはイエスの活動期間より数十年後)しかないんで、人によって、イエス観が様々になってしまうんでしょう。そして、各々が描くイエス像にその人の神に対する見方、期待するものが見えてくるんでしょうね。

 ちなみに私は超能力者イエス、には何の興味もなく、かえって胡散臭く思えてしまいます。私からすればイエスは普通の、いや普通以下の弱い人だから信用できて共感できるし、その普通以下の人間がどんなに馬鹿にされようが、屈辱的な扱いをされようが、人を愛することをやめず、ひたすら己の信じる「救世主」の役割を放棄せず生き抜いたところが偉大というか「真の人、真の神」の所以ではないか、と思ってます。

 なんか、「救世主」とか「神」に死人を蘇らせるだの、らい病を一瞬のうちに治すだの、水の上を歩くだの、なんて超能力を期待する人って、新約聖書の時代にイエスにイスラエルからローマ帝国を駆逐する政治軍事的な役割を期待し、それが間違いとわかると「うそつき、磔だ」なんて叫んだ一般庶民と似たりよったりの気がしてしょうがないんですよね。

 ところで個人崇拝、で思い出しましたが、竹下先生の著作「ローマ法王」によれば、北朝鮮の「教祖」、故金日成首席の外戚はクリスチャンで、その関係か、かの国の食糧難の際には他の国に先駆けてヴァチカンに援助を求めてきたそうですね。かの国の独裁体制がやたらと宗教的なのはそのせい?(やはり、金父子に関する奇跡話が喧伝されているようです)
  朝鮮民主主義人民共和国になる以前のピョンヤンはあらゆる宗教が花盛りの土地だったとも聞きますし。

 これまた「ローマ法王」からの引用ですが、キューバのカストロも両親は実に敬虔なカトリック信者で本人もカトリックの教育を受けているそうですし、旧ソ連のスターリンも確か神学校の出身だったはずで、宗教、キリスト教が嫌いなはずの旧共産圏の独裁者はなぜか揃いも揃って、人一倍宗教的、キリスト教的な環境で育っているのは不思議といえば不思議。

 神に対して可愛さ余って憎さ百倍、ってところがあるんでしょうかね??

284迷える大羊:2008/01/19(土) 23:05:56
洗礼の基準って?
 なんだか、私一人でいろいろ書き連ねて、恐れ入りますが・・・。このサイトでさんざんキリスト教へのツッコミやらケチを入れている私。ケンカ、論争をふっかけている、と誤解をされる方もいるかもしれません。

 そんなことはないんです。イエス自身の生き方、死に様、思想は共感していますし、尊敬してます(マネは無理ですが・・)。でなければ、いくら妻が信者とはいえ、もっと徹底的に教会との関わりも否定してますし、第一このサイトにも出入りしません。
 クリスチャンの条件がイエスという宗教家、思想家の思想、行動、ライフスタイルに共感できるか?ということだけであればとっくに今頃、受洗していたでしょう。

 しかし、現実のキリスト教となると、「余計」な話が多すぎる、というのが実感でして・・。処女懐胎だの三位一体だの、イエスは神の子かそうでないか、とか、キツめのところとなると神社、寺で拝んじゃいかんとかいいとか、神をとるか進化論をとるかとか、ありゃなんとかならんのか?というのが偽らざる本音でして(やっぱりケチをつけてるんでしょうか?)。

 こちらの板で話題にした「キリスト教はイエス様への個人崇拝?」の疑問もとある教会の牧師さん(表現の通り、カトリックではありません)にぶつけてみたところ、「イエス様は神が人間の姿になったんです、人間がウジ虫になったものなんです、すごいことなんです。」と熱く語られ、困ってしまいました。「あなたも信仰をもてばそう思えるようになります」っていいますが、かえって「そういう問題かなぁ?これは俺のついていけない世界かも・・」と思わされたものでした。

 処女懐胎も三位一体も「真の人、真の神」論もすべて理解不能、「イエス様は至って普通の人(だから信じられる)です」といいきってしまう、焼香拒否のクリスチャンに対しては「自分が神を信じるなら、他の人間の信じる神にも礼儀を払わんかい!」といいたくなってしまう・・。唯一クリスチャンとしての条件を満たしている部分といえば、前述したとおり、イエスの生き様、死に様、思想、行動に共感できる、ことくらい。

 前述した牧師さんにそういう話をしたところ「それじゃ、ガンジーだとか、仏陀を尊敬するのとレベル的に変わらないんです、単なる道徳なんです」みたいなことを言われ、「それで何がまずいの?」とわけがわかんなくなりました。そういうものですかね?古代や中世の話とか、カルト団体の話ならともかく、現代にそこまで人を神と熱く信じ込めるメンタリティとか信仰って、なんだか想像がつかなくて。まあ、なんでも合理的ならいいって世界ではない、ってことくらいのことはわかりますが、それにしても、、という感じで。

 皆さんが洗礼を受けた際、やはり「イエスは神が人の形をとった(実在する人物を神のなんとか、と信じるのは前述したとおりどうにもカルト教団的な感じがして抵抗がある)」と信じてましたか?やっぱり「偉大な宗教家、思想家、その生きざま、死に様に共感する」程度じゃダメなんですかね?

285Sekko:2008/01/20(日) 07:30:23
大切なこと
 ここはカテキストさんのサイトでもなく、司祭さんや牧師さんや神学者のサイトでもないので、今大羊さんの関わっている信仰共同体で、何がどういう基準なのかは分かりませんし、私が答えることもできません。
 ここで是非お勧めしたいのは、マルシェル・ゴーシェの本なのですが、今アマゾンで検索したら、何と、翻訳が1冊しか出てないようなのです。それも私のお勧めの本ではありませんでした・・・その本を読んでくださると話は早いのですが・・・私の今執筆中の本には解説するつもりなので、もう少し待ってください・・・
 ここで大切なとこを押さえときますと、キリスト教というのは、やはり、イエスという人の思想に共感、というところから生まれた宗教ではないんですよ。
 当時、思想や生き様に共感した人たちは、死に方にはがっかりしたんです。
 その中からキリスト教がキリスト教として成立したのは、やはりイエスが復活したことと、それから彼を神と同格の「主」とみなしたところにあるわけです。
 それに比べたら、処女懐胎とか奇跡とかは枝葉です。
 で、三位一体で、神が受肉して人になって云々のディスクールですが、これは検証するとか証明できるような問題ではないわけですが、「これを受け入れた世界には何が起こったか」が興味深いところです。
 それまでも、人間のいるところ、神とか聖なるものとかの感覚やそれを扱うシステムはどこにでもあったわけですが、そのほとんどは、「聖なるもの」が社会か自然かのどちらかに癒着していたんです。そのどちらにおいても、聖なるものと個々の人間の関係は、個人が聖なるものに従属するものでした。供物を捧げるとか人身御供とか・・・それが龍神さまの怒りを鎮めるためであれ、共同体の秩序のためであれ。あるいは、個人がその個人性を消して聖なるものにフージョンするとかいうイメージでした。
 ところが、キリスト教は、神が先に自分の子=分身を人間に贈り捧げたということになり、神と人間の間の相互の「行き来」の関係性が生まれました。
 そこで、神は、自然とか社会とよりも、人間と癒着しちゃったわけです。
 それでキリスト教には、人間が神を通さなくても自然や社会を組織できるという予知が生まれたので、自然の研究とか管理の発想が生まれ、政教分離の発想も登場してきました。
 もちろん、最初は、これでは当時のローマ帝国の秩序には合うはずもなく、壊滅しようと図られたのですが、信者は増えるばかりで、結局コンスタンティヌス帝は、この宗教を利用することにしました。それから1500年以上も、世俗の権威と宗教の権威が住み分けながら拮抗して並び立つ体制ができたんですね。
 その中で、宗教の権威=教会も社会に干渉しようとしてきましたし、自然観にも干渉しようとしてきました。
 教会は長いことこの癖がついてるので、いまだに世俗を従属させようとする部分もあります。

 でも、こういう聖俗の権威同士の葛藤や煩悩にも関わらず、キリスト教は、「神が人間になった」という、そもそもの出発点はなぜか捨てなかったんです。まあ、捨てたらそれはもうキリスト教ではなくなるのですが。

 それで、その細々とだけど強靭に受け入れられ手来た信仰のおかげで、自然の驚異もある程度コントロールでき、個人が共同体のいいなりにならずにある程度の自由を生きることのできる「近代文明」や「近代社会」が、キリスト教ヨーロッパに生まれたわけです。

 私たちはその恩恵を受けています。
 基本的人権とか、民主主義とか、信教の自由とかでさえ、キリスト教の持っていた、この「聖なるもの」と人間の主従関係をとっぱらった「開かれた相互関係」によって少しずつ可能になった成果なんです。
 成果、それは弱者にとっての成果ですね。昔ながらの共同体でもその強い側にいる人はいいでしょう。でも、「賤民」に生まれちゃうとか、障害を持って生まれちゃうとか、時には単に女に生まれちゃうとか言うだけで、尊厳や権利を奪われる時代や場所はいくらでもあったわけです。
 私たちは、今、アニミズムや汎神論的な世界の方が地球に優しいとか、村落共同体のほうが情があったとか言いがちですが、その中で、弱い者が搾取されたり犠牲に供されることは当然のようにあったわけで、たとえ環境に優しくて共同体のためになっても、私は自分が「龍神の生贄」に捧げられたりするのは嫌です。

 こういう経過を鑑みるに、この時代のこの世界に生きることのできた私のような弱者にとっては、イエスという人の生と死が発展的に解消してキリスト教というものになってくれて、それが自由・平等・友愛とかいう近代ユニヴァーサル理念を生んでくれてよかった、よかった、って思うんですよ。

 そして、歴史上の具体的なキリスト教権威者がどんな愚行をしたところで、元のイエスの生き方や思想にはすでにそういうユニヴァーサリズムが確かにありました。

 だから、イエスのメッセージはそれ自体としても価値を持ち続けているし、その彼の生と死と復活を信仰告白としたキリスト教については、メッセージの内容より、それが開き、導き、可能にした関係性の方が大切だと私には思えるんです。
 だから、進化論だめだとか神仏を拝むなとかは「よけいな枝葉」で、「イエスは神が人間の姿になったというのが大事」というのは、根幹ですね。
 牧師さんのいうとおり、人間が蛆虫の姿になったとしたら、人間と蛆虫の関係だってラディカルに変わるでしょうね。その時点で、蛆虫は、忌むべき下等な存在ではなくなりますもの。
 三位一体を分けの分からないこじつけと見るか、いろんなことの出発点になったキリスト教マジックと見るか、いろいろ考えてみてください。

286迷える大羊:2008/01/20(日) 17:02:21
三位一体の不思議
 またまた、すみません。説明が不足してました。「人がウジ虫に」の話はキリスト教に関わりだした初期の話ですけど、未だに解けない疑問だし、キリスト教信仰の根幹にまつわる話、というのはなんとなくわかるので、やはりきっちりした説明をいろいろ聞きたいな、と考えたものですから。まあ、あの頃は「神をとるか進化論」をとるかの話にあまりにびっくりしたので、またまた、わけのわからん話が・・、てな感じで受け止めてしまったんですね。
 カトリックのカテキズムの講習はまだ受けたことがないので、どういうものかわかりません。

 おっしゃるとおり、基本的人権とか信教の自由とか民主主義などはキリスト教の成果であることはわかりますし、認めてますし、思想とか教養としてのキリスト教は受け入れるのに全然やぶさかではないんです。

 しかし、「宗教」「信仰」としてとなると??だらけで。
 決して揚げ足とりをやってるつもりはなくて、真面目に勉強したり、調べたりしてるつもりなんですけど、真面目に考えれば考えるほど「えー?」とか「ちょっと待てよ」みたいな話が次々に出てくる、といった感じで。

 三位一体もその一つで、理屈そのものもさることながら、不可解なのはキリスト教界(プロ・カト、教会問わず)での扱いなんです。
 「真の人、真の神」もそうなんですが、いくつかの教会で学び会ですとか入門講座にいろいろ出てみましたけど、三位一体の話を進んで積極的にする教会って私の知る限りほとんどないんですよね。こちらから切り出さない限り、ほとんどそういう話をしません。

 でも、ミサや礼拝に出ればいやでも「父と子と聖霊の御名により」なんてやっているのが目に耳に入ってくるわけで、当然「何、それ?」となるわけで、調べると「三位一体」なんて教義があるわけです。これまた当然「三つで一つってなんですか?キリスト教って神は一つなんじゃないんですか?」という単純きわまりない疑問がわいて聞くんですが、大抵の場合、触れてはならないタブーとはいわないまでも「えー、そんなこと聞いてくるの?」みたいな反応をされます。

 その上、返ってくる答えもなんだか要領を得ないものが多く(私の理解度が足りないせいもあるんでしょうが)、聖職者だとか信仰歴の長そうな人でも「人智では到底わからない奥義」だとか「そういうもんだ、として受け入れるしかないね」みたいな、私的には到底納得しかねる答えだったり、ごくごく普通の信徒さんの場合も「そういうもの」みたいな答えが大半。私の知る限りでは、どうも、普段深く考えたことない人がほとんどみたいなんですよね。

 だったらキリスト教の本筋とは関係のない(聖書にも出てこないし)ことだし、信じられなくても全然差し支えないんだな、と思ったら「キリスト教の根幹にまつわる」重大な教義で、これなくしてはキリスト教は成り立たない、とまでいわれるわけで、そんな重大な話がなんで「そういうものだ」で済むんだ?ワケもわからず、そんな「黒いカラスを白いといえ」みたいな話を「信じるなら受け入れろ」なんてそんなムチャな、と思ったものでした。

 歴史の本をひっくり返して調べると、別にイエスの時代からあった教義でもなんでもなく、ましてやイエスやパウロや使徒たちが言い出したことでもなんでもない、私が読んだ限りでは聖書に出てくる話でもない、325年の二ケア公会議ですさまじい論争の末、やっと決定した教義で、三位一体説をとらず、闘争に負けたアリウス派はあえなく「異端」となる、とあって、なんだ結局、教会内の政治的な事情で決まったことやんか、どうしてそれが今に至るまで神聖不可侵の不磨の大典みたいな扱いをされるんだか?と理解に苦しむところがあるんですよね。

 私には宗教的感性が全然ないから、こういうひねくれた見方をしてしまうのかな、とも思いましたが、出典は忘れましたが、イスラム教の開祖、ムハンマドも私と似たような疑問(三位一体の扱いだとかキリスト教はイエス個人崇拝なんじゃないのか?みたいな)を持ちしまいには怒りだしたみたいで、時空を超えて「そうですよね、ムハンマドさんもそう思いますか?」なんて感じで思わず握手したくなりました(笑)。そのせいかどうか他の面はともかく神様に関する定義に関していえばイスラム教ってキリスト教に比べるとちょっと合理的なのはそのせいか、とも思ったりもしました。いや、別にイスラム教の肩を持ってるわけじゃないんですけど・・・。

 それよりなにより、子供のころから家の宗教だった、という信者さんはともかく、成人になって自発的にクリスチャンになった人って、私みたいな疑問やら躓きやらって持ったことないのかな?やっぱり宗教って失業、失恋、病気、借金みたいな何か人生上の大きな苦難を経ないと素直に心に入ってこないものなのかな?とも思ったりもします。

 いろいろ、教会を巡ったり、勉強もしてみましたが、どうも私には宗教としてのキリスト教は向いてないような感じがしてきました。皮肉や冷やかしではなく、なんで皆さんあんなに受け入れられたり感動したり信じられたりするんかなー、と未だに心理的な面は未だにわからんことだらけです。キリスト教に限らず、宗教全般に関して。

287Sekko:2008/01/20(日) 21:10:01
分かんなくてもいいのでは・・
 最近、キューブラー・ロス『子供と死について』(中公文庫)を読みました。

 子供を病気や事故や犯罪で失った親たちがどういう風に生き続けるか、みたいな例がつまってます。

 大筋は、子供の肉体は繭であって、死んだ子は蝶になって飛び立った、っていうアレゴリーなんです。今流行のスピリチュアルの、魂が修行のためにこの世に来る、みたいなのと同工です。

 私は、こういう魂がなんたら、っていうのはあまり信じられないんです。
 まあ、これも証明しようのない話なので、信じてる人はどうぞって感じで、でも、うさんくさいとか思ってしまいます。

 でも・・・

 もし、今、あるいはこれから、自分の子供を失うような体験をするとしたら、
 もう、「蝶々」にまっしぐらだと思います。

 多くの親たちを癒してきたこういう考え方があってよかった。
 こういう本の存在を知っといてよかった。

 と感謝するでしょう。
 そしてこの考えに救われるでしょう。

 だとしたら、私の「信」は、必要から生まれるのです。

 だから、この考え方を知っといて損だとは思わないし、そういう「流派」の中にも、ちゃんとした誠実なのもあれば、親の悲しみにつけこんで、高額で霊媒が死んだ子供と話しさせてくれるみたいな悪質なのもあると学習しときます。

 そしたら、いざ、そういう「信仰」を必要とした時に、つけこまれたりするダメージは少ないかもしれない。自分の悲しみを乗り越えて他の人と連帯する方向にいけるかもしれない、って思います。

 つまり、そうなると、「教義」の字句の内容が問題じゃないんで、どういう文脈でどういう風に語られ、どういう関係性を生きられるのか、が問題なんですね。
 それなしで、字句だけ取り出しても、文脈を共有してない限り、所詮、字句は字句です。

 あまりこだわらないで、今は、「学習」だけで、いいのでは?

 私は、カトリック主流国でカトリック・カルチャーの人と暮らしてますから、年取ったり死んだり死なれたり、という局面には、カトリック共同体が頼りになるかも、と思ってます。だから、別にカトの人に、「三位一体」って変じゃない?とか言う必要も感じません。

 大羊さんはやはり奥様の信仰の関係でキリスト教に近づかれたわけですから、その関係性をいい感じで育んで、長い人生で出会うかもしれない試練を前にした時にささえ合えるような「信仰」を今のところはゆるーく視界にいれとく、だけでいいのでは?

288Fusako:2008/01/28(月) 07:25:43
弱い父ヨセフ
ずっと前に読み終わりましたが、感想がまとまらずにいました。
あまりにも圧倒的だったので。何が圧倒的かというと、「おまえの子ではないけど、面倒見るように」と言われて素直にその声に従い、辛い旅の間、妻を守り、生まれた子をだいじに育てて、その後はひっそり身をひいてしまう、普通、そんな「父」は有り得ない。それを真正面からとりあげて論じられて初めて、目の前にあったものに初めて驚く、そんな感じだったので。
「自分で見る、自分で考える」人のお話をきく醍醐味を味わいました。ありがとうございました。で、失礼ですが、西成で献身的に活動しておられる渡部宗正師(カトリック)におまわししました。

289迷える大羊:2008/01/28(月) 21:25:43
同伴者イエス
 宗教、信仰としてのキリスト教はなかなかわからない私ですが、なんとなく分かる気もする信仰のあり方もあるんです。例えば、遠藤周作氏の「イエスの生涯」に登場するようなイエスなら全然、自分にとって違和感のないイエス像なんですけどね。

 遠藤周作氏といっても、有名どころの小説(沈黙など)を数冊、エッセイを数冊読んだことがある程度ですが、彼のような、ああいうリベラルな信仰のあり方っていいな、と思うことあります。(特に彼のキリスト教、宗教エッセイ「私にとって神とは」は、キリスト教に限らず、あらゆる宗教の入門本になるのでは?と思います)。

 しかし、彼が属していたカトリック教会における、遠藤的信仰の立場ってどんなものなんでしょう?やっぱり、少数派?
 別のキリスト教サイトではカトリック教会で遠藤的な信仰をあまり期待すると肩すかしを食らう、なんて書きこみがありましたし、名作「沈黙」も華々しい殉教者をひたすら美化した「聖人列伝」を書いておれば、「いい信者」なんて教会から思われた時代に最後は主人公が棄教するストーリーは、猛烈な反発が教会、保守的信徒からあったらしく、ミサで名指しで批判を食らう、なんて出来事もあったそうで。

 現在のカトリック教会ではどうなんでしょうね。彼のような信仰、「同伴者イエス」的な考え方って違和感がないものなんでしょうか?まあ、教会により、人により、神父さんにより信仰に対する考えは様々でしょうから、一概にどうこうとはいえないでしょうけど、少なくとも非難を浴びるようなものでなければよいな、とは思いますが。

290nao:2008/02/02(土) 08:43:27
違和感はないと・・
かつて、遠藤周作先生の造られた「キリスト教芸術センター」に属しておりました。じかに先生に触れる機会もおおかつたですし、旅行も一緒にさせていおただきました。旅行はもう20数年前のはなしですが。そのころ先生は「『沈黙』が出たときのカトリツク教会の批判のすごかつたこと、ひどいものだつた。ところがどうだ、今は僕の考えに同調する人がすごく多いじゃないか。かわつたものだよ」とおつしゃつたのを、今まざまざとおもいだします。
今のカト教会で遠藤先生の考えに批判的なことをおつしゃる方にはあまりお目にかかりません。いろんな考えがあつて、当然という雰囲気のようにおもいます。もつとも私はサボりですから、あまり教会の中には深くはいりこんでいませんので、よくわかりませんが、すくなくとも反対とう方にはお目にかかりません。

291迷える大羊:2008/02/02(土) 14:23:27
お久しぶりです
 nao様 お久しぶりです。そうですか、遠藤先生と直接、お会いしたりお話したりしたご経験があるのですね。羨ましい。彼の語るキリスト教って私には一番理解しやすいもので、他宗教に対する考え、聖書の読み方などは私にも共感できるものが多く、キリスト教に触れたときの違和感、アレルギーが彼の作品からは感じられないんですよね。

 発表当時は物議をかもした「沈黙」も今ではプロテスタント教会の映画鑑賞会でも上映されますし、マーチン・スコセッシ監督の手によりハリウッド映画になる計画も進行中のようです。ただ、ハリウッド映画の方はわけもなくニンジャやゲイシャがでてくるような、あちらのオリエント趣味に阿った映画にならなきゃいいけど、なんて懸念もあったりしますが(笑)。

292迷える大羊:2008/02/03(日) 22:32:24
西洋音楽とキリスト教
 先日、カトリック生活2月号を購入して読んだら音楽と信仰の特集でした。いろいろ読むと西洋音楽の成り立ちって教会と密接な関係があるんですね。

 もっともクラシックや教会音楽はさっぱり知識がなく、私にとって西洋音楽といえば、ロックなんですが、ロックやジャズ、リズム&ブルースも思えば、教会中心、キリスト教中心の音楽に対する一種の反抗みたいなところが少なからずあるのかな、という気がしてきましたがどうなんでしょう?(ビートルズの曲にも「ROLL OVER BEETHOVEN」なんて曲があったりする)

 実際、アメリカなどはロックの本場である一方で、キリスト教右派を中心に有害図書ならぬ有害音楽として忌み嫌う向きも多いらしいですし。
 もっともロックが好き、といっても一部の教会で行われているらしい、フォークとかロックミサとか、礼拝って全然興味ないです。やっぱり教会には教会にふさわしい音楽がいいな、って思う方ですね、私は。

293Fusako:2008/02/04(月) 01:49:00
ロックと教会
教会は、あちらの日常生活ですから、ロックにも別に普通に入っていますよ。あれは1980年代半ばかな、アメリカのグループMr.Misterの"Kyrie"という曲が大ヒットしましたし、ヴァン・ヘイレンには「カテドラル」という名曲があるし、クイーンが代表作の一つ、"We will rock you"を教会で録音したというのは有名な話だし、とか、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画「天使にラブソングを」や、古いけれど、教会で育った孤児の恩返し映画「ブルース・ブラザーズ」とか、「反抗」でない「ロックと教会」の話はいーっぱいありますよ。
あと、クラシックとロックで言えば、ロックが反クラシックではないですよ。ちなみに"Roll over Beethoven"はビートルズではなく、チャック・ベリーの曲ですが、反クラシックというよりは、気取ってクラシックしか音楽と認めないことへの反抗、でしょうね。クラシックの音楽家でロックやジャズの愛好家、その逆とかいっぱいいますし、欧米ではとっぢも好きな人の方が多いように思います。ロックだけ、とか、クラシックだけ、みたいな人の方が多い日本がむしろ西洋音楽についての例外のような。ヴァン・ヘイレンの「カテドラル」なんて、知らないできいたらロックと思わないでしょうし、クイーンは、オペラ(「ボヘミアン・ラプソディ」)、シャンソン(「キラー・クイーン」)、ゴスペル(フレディの曲ですが「タイム」)と何でも使ってますね。

294Fusako:2008/02/04(月) 01:55:45
追加
「天使にラブソングを」は、教会が人々に親しまれる音楽を通して再び地域に根付いてゆく話ですので、機会があったら見てください。

あと、全然関係ないけど、「カテドラル」を、B'zが「闇の雨」に引用していましたね。

295rotondo:2008/02/04(月) 15:34:58
ご存知の方、教えてください!!
初めて投稿させていただきます。

昨年末から今年にかけてイタリアへ行って参りました。カスキアへの
聖女リタさんの教会へも行ったのですが…

現地では気づかなかったのですが、帰国後!?と思った事があります。

リタさんのご遺体の前にあった、装飾された硝子の二重容器(展示されていた聖遺物の
結婚指輪やミニロザリオの容器と同じ様な)の中身は一体何なのでしょうか??

多分、聖遺物だとは思うのですが…額に刺さった棘?心臓?

もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください!!

296迷える大羊:2008/02/06(水) 20:36:39
ロックと教会
 確かに、ロック=教会音楽へのプロテストっていうのは単純すぎる見方でしょうね。「Roll OVER BEETHOVEN」はまあ、確かに原曲はチャック・ベリーですが、ビートルズのカバーバージョンのイメージの方が強かったもので。
 右派系の教会から目をつけられやすいのはロック全体というより、一部のヘビメタの類でしょうね。それにしたって草創期の50年代、60年代ならともかく、いまどき「ロック=反抗、カブキ者」のイメージなんて成り立たないですね。

 それに、ロック界のスターたちも結構、教会との関わりある人、多いですね。プレスリーやレッド・ツェッペリンのベーシスト兼キーボードのジョン・ポール・ジョーンズは聖歌隊出身だったり教会音楽の演奏者出身だったりしますし、ビートルズのジョンとポールが最初に顔合わせしたのは教会のパーティだし。

 全く話が脱線しますが、聖書の「ヨハネ黙示録」、あのシュールな世界はジミ・ヘンドリックスの「Purple Haze」、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」など、ドラッグソングと噂された60年代、70年代の名曲を思い出しちゃいます・・・。

297Sekko:2008/02/07(木) 07:59:12
rotondoさま
 聖女リタの遺体の前の聖遺物について、今すぐに思い出せません。内臓系なら心臓でしょう。心臓を別にするのは一般的でしたし。棘ってことはないですよ。あれは棘が飛んできて刺さったと言ってるだけで、聖痕はできても棘がくっついてたとは聞いてません。こないだアヴィラの聖女テレサの聖遺物をいろいろ見てきたとこで、彼女はもう目いっぱい解体されてるので、ばらばらでしたね。
 リタは本体のインパクトがあるので、付属聖遺物はインパクトが小さいかなと思います。この季節ではウンブリアは寒かったのでは?

298rotondo:2008/02/07(木) 21:03:54
ご回答を賜り、ありがとうございました。
竹下先生の著書「聖女の条件」に導かれ、カスキア巡礼に行ってまいりました。カスキアは所々に雪が残っていて、とても寒かったです!!

また先生の別の著書「奇跡の泉ルルドへ」や、訳本「聖カタリナ・ラブレ」を拝読し、昨年の春先にはフランス巡礼にも行く事が出来ました。

どちらの巡礼も先生の書かれた素晴らしい本にめぐり合い、お導きを頂いたからこそと、心より感謝致しております。ありがとうございました。

聖女リタさんについてはイタリアから帰国後、写真を見て初めてご遺体の前のガラス容器に気付きました。残念ながら中身までは、はっきり写っておらず、ひょっとして心臓かも!?と、インターネットで何時間もかけて検索してみたのですが、結局判らずじまいでした…。

またいつの日かその中身について、お気づきになられましたら、お書き込み頂けませんでしょうか。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

299nao:2008/02/16(土) 10:15:13
Lourdes
2・11に「France Facile」のニユースをきいていましたら、最後にLoudes,depuis 150
ans ,
n`est plus la petite ville qu`elle etait en fevrier 1858,Genevieve Delrue.
とありました。それまでのところはルルドの解説です。最後のGenevieve Delrue
というのはその地方の名前なのでしょうか?先生の「奇跡の泉ルルドへ」でしらべてみましたが出てまいりません。
150周年のルルドに病気の知人がゆけるといいなあ〜と願つておりますが。病人があつまるのに、明るさが支配するルルドに夫と行けたこと(最初で最後の旅行となりました)を、本当に幸せにおもつております。

300nao:2008/02/16(土) 10:19:29
フランス語質問箱の間違い
すみません。フランス語質問箱にいれたつもりになつておりました。どちらにも関係はありますが・・申し訳ありません。

301Sekko:2008/02/16(土) 18:00:21
それはジャーナリストの名前です
 こういう文脈なら、必ず、それはその放送をしている人の名前です。署名みたいなものですね。フランス語では、姓名を並べて一気に言うと、なんか公式のレッテルみたいになるんですよ。日本語なら「ご案内は・・・でした」とかい
うフレーズになりますから分かりやすいですが。
 普通のインタヴューで、本人を前にしても、「ムシュー・・・」というほかに敬称抜きでフルネームを使えます。肩書きなしでそういえる場合は、公人としてとかいう意味がありますね。

 ためしに今、Google で検策しましたらそのジャーナリストの顔も出てました。
 http://www.rfi.fr/radiofr/emissions/072/accueil_50.asp

 ご参考に。

 naoさんはルルドに行かれたんですね。私も今年是非行きたいと思ってます。
 行けたらみなさんのためにろうそく捧げときますね。

302nao:2008/02/17(日) 08:37:24
なんと・・
あらまあ〜なんということ。ジャーナリストの名なんですね。すぐ後ろにきていたので、想像できませんでした。女の方なんですね。
間違いのおかげで、しつかり先生の御本を読み返しておりますので、かえつてよかつたです。ルルドからまた「聖母マリア」を再読です。この本は実に素晴らしい!!の一言です。前にお聞きしたことがありますが、「聖母」という訳は誰がつけたのでしょうか?ある学会でもききましたが、だれも知りませんでした。もし、すでにおわかりでしたら教えていただけると、嬉しいです。

303迷える大羊:2008/03/08(土) 23:08:00
組長はイエス?
 ノンクリスチャンながら、身内の信仰がキリスト教でその世界に片足を突っ込むようになって大分経ちます。決して悪いものとは思っていないし、人類史への貢献ぶりは認めるものの、信仰となると躊躇してしまっているところ。その理由の一つにこれはイエスという2000年前の実在する宗教家を実質的に神と崇めるということがあるのですが・・。

 でも、最近読んだ、牧師やクリスチャンになった元ヤクザのグループ(?)ミッション・バラバの本にそのことに関して妙に納得のいく説明があって、それは、誰の発言かは忘れましたが「親分がイエス様になっただけのこと」といった趣旨の発言で、思わず、ああなるほどね、と思ってしまいました。以前も似たような趣旨の発言を冗談半分にUPしましたが、最近は冷やかしでも冗談でもなくそう思うこと多いです。

 うまく、言葉にできないんですけど、そういうヤクザ的な論理で考えると、つまり、構成員(信者)にとって「親分、組長は絶対だ、神同然」というのは当然のことで、カタギの理屈で「個人崇拝だ」「三位一体なんてヘン」なんてツッコミを入れる方が野暮に思えてきますし、自分が頼みとする親分が「奇跡を巻き起こし」、「永遠の存在(復活した)」である無敵の存在であって欲しい、という願望、信仰も物理的、歴史的事実としては到底受け容れ難い話ですが、心情としては分かる気がしてきます。

 もちろん、クリスチャンとかキリスト教はヤクザと違って反社会的な行為を生業としているわけではないですし、長い歴史に揉まれた末、そのスタイルも考えも洗練されたものとなってはいますが、なんていったらいいのか、カタギの常識的な発想で考えると理解不能な風習、慣習もやくざ的論理を当てはめるとな〜るほど、と思えるところが少なからずあるような感じがするといいますか、根本的な発想に似たようなところがあるんじゃないのか、という気がして・・。

 例えば、ヤクザもクリスチャンも建前上、ともに組長、親分、イエスを中心とした擬似家族制ですし(教会報など公の文書では信者同士〜姉とか〜兄なんていいますし)、構成員(信者)になるに際して、盃を交わす、洗礼を受けるなどの儀式がある、組員(信者)からの上納金(献金)で組織が成り立っている、ともに構成員(信者)の高齢化が進むなどなど妙な共通点がありますし・・・。聖母マリアはさしずめ「姐さん」といったところでしょうか・・。極端な話、宗教とかキリスト教とヤクザとか暴力団というのは裏と表、神と悪魔、光と闇のような関係なんじゃないのか、と思ったりします。

 パンやワインをイエスの血と肉になぞらえた聖餐式も亡き(という表現はキリスト教的には変か?)「組長」「親分」との今も変わらない連帯感の確認の儀式と考えればなんだか私的に理解できるような・・。
 そう、クリスチャンとはイエスを「親分」「組長」とする任侠道ならぬ、人道団体の構成員(組員)と思えば、これまでキリスト教に関して不思議でならなかった風習、考えの謎がクリアーに分かる気がするのですが、どんなものでしょうかね??

 この譬え、もし不謹慎、不快に思われる方がいらっしゃればごめんなさい。

304Sekko:2008/03/09(日) 05:27:15
親の心子知らず
 理念や理想を掲げる共同体みたいなのは、どこでも、えてしてこうなりますね。やくざは功利的目的があるかもしれないけど、社会の表で生きにくい人が生き延びる救済システムに多少の美学も足したものって面もあるでしょう・・・
 でも、親分や兄弟分とあまり情動的関係を結ぶと、冷静な状況分析ができなくなったりしますね。やくざ映画でも、子分の先走りや暴走のせいでどうにもならなくなった親分が涙を呑んで、負けると分かっている戦いをしたりなんてシーンがあります。西南戦争の西郷隆盛とかも?
 自分で権力欲にかられて演出する人はかってだけど、頼ってくる人々から神のように祭り上げられたトップが、自分の意に反して、カタストロフィに突き進むとか、自分を犠牲にしても子分の期待に応えてしまうとか、そういうのはこまりますね。ミュージカルの「ジーザス・クライスト・スーパースター」もちょっとそんな感じでしたっけ?

 でも、共同体のうちわの家族的満足じゃなく、公共の利益というのもあるし、やはり、外にも開いているグループでないと、風通しが悪くなってあちこち故障がでると思います。何を信じるかというより、他に対して、どう働いていくかによってそのグループの価値が問われると思います。

 特定の誰かを崇めることで、そこから得た安心やエネルギーを、助けを必要としている人たちに広く分け与えるようなグループだったらいいですね。

305迷える大羊:2008/03/23(日) 18:15:13
ミサの式次第
 について何か分かりやすい、解説書ってありますでしょうか?何回かカトリック教会のミサに参加しておりますが、いつも、次はこの賛美歌、今度は答礼で・・なんて電光掲示板みて、あたふたしているうちにいつの間にやら聖餐となり、気がつくと終わってしまうといった感じでして(笑)、結構疲れます。信徒の皆さんはこれ完全に暗記してるんでしょうか?慣れの問題とはいえ、よく覚えるものだなぁ、って思います。

 余談ですが、うちの妻はプロテスタントですが、カトリックグッズが結構好きでイエスの像のついたカトリック式の十字架ペンダントしてますし、ロザリオ欲しがってたので、ミサの後、売店で買っていきました・・。

306塩梅:2008/03/24(月) 02:05:27
お役に立つと良いのですが…
大羊さま>
ごミサ全体の進行が分からないというお話でしたら、「カトリックの祈り」(サンパウロ刊)があれば、大体は大丈夫と思いますが…。文庫サイズの祈祷書になりますが、もっとハンディなものをお探しでしたら「キリストと我等のミサ(改訂版)」(サンパウロ刊)というのがあったと思います。教会の売店みたいなところでお聞きになって、現物ご覧になられてご確認されるとよろしいかと思います。
あと歌われる聖歌は、多分ミサ前にどれを歌うかが表示されてると思います…典礼聖歌集に何本も栞が付いているのって、あらかじめはさんでおくためのものだと思いますし。それとオリエンス宗教研究所が出しているリーフレット(こういうのです→http://www.oriens.or.jp/st/seiten.html )でアレルヤ唱+答唱詩篇は歌詞が分かると思います。

307迷える大羊:2008/03/24(月) 22:07:05
ありがとうございます
 塩梅さん、お久ぶりです。いつもありがとうございます。聖歌、賛美歌歌って、あとは牧師の説教を聞いておればよいプロテスタントと違って、カトリックのミサは実に忙しいですよね。オリエンスのリーフレットとか、聖歌集などを手にとっては見ますが、どこでどれをさっと開くかが問題ですね・・(^^;。もう神父さんに顔と名前を覚えられるくらいにミサに出ているのに全然進歩ないです(^^;。

 信徒の皆さんはよくさっさかさっさか反応できるもんだ、と感心します。思うにカトリック教会は信仰とか教義を頭ではなく、感覚、身体で覚えこませる、という傾向が強いのだな、と感じますね。説教もプロテスタントに比べ短めだし・・、と思いきや、行きつけの教会で担当の主任司祭が出張(?)していて別の教会の司祭さんが司式を担当したことがあったけど、そのときの説教の長いこと長いこと。カトリックのミサでも説教が長いことががあるんだ、とちょっと驚きました。

308Sekko:2008/03/24(月) 22:50:42
ちょっと遅ればせですが、
 復活祭、おめでとうございます。
日本のことはよく分からないので、塩梅さま、ありがとうございました。
フランスのカトリックのミサは、いつ行っても、その日に歌う文句が式次第とともに印刷されてるので、簡単に歌える感じです。たまには聖歌集の番号が書いてあることもあってその時はページを繰らなければなりませんが。しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし、声を出せるので退屈しないし、私は好きですが。その代わり途中で入って、次第を手にしなかったときなんかは、あんまり歌えなくてがっかりです。うちの娘なんかは、リセの時に週2回ミサに出席してたそうで、たいていの歌はすべて覚えているので、たまに友人の結婚式とかに招かれてミサに出席しても歌詞をみなくても全部歌えるので尊敬されると言ってました。
 復活祭、となると、あらためて、イエスの復活なんてことが「ほんとうに」あったのかどうかなんて疑問が湧き上ります。
 それを信じた人たちがいて、それをもとにして、「正義」による復讐とか懲罰とかいうロジックをラディカルに断ち切った宗教が生まれ、「生き続けている」キリストに背中を押し続けられる、というのは理解もできるし、実感もできます。そしてそのことについては、もう、事件の「真相」が何であったかなんてことを超越してるというのも分かるのですが、でも、あの日、そしてそれに続く40日間やその後10日目に、ほんとに何が起こったかと言うのは、やはり永遠のミステリーで、時々好奇心に身が焼かれます。
 私たちは私たちの人生においてそれを別のやり方で証しし続けるように招かれているんでしょうけど。

309迷える大羊:2008/03/28(金) 22:41:19
教会あれこれ
>しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし

 逆に歌うことが嫌いだとつらいんでしょうね。私、実はやたらとオッサン臭い悪声で音痴なのと、以前も触れたとおり「主をたたえ〜」みたいな歌詞を大声で歌うことに対する気恥ずかしさが未だに抜けないところがありまして、ちょっと疲れるところもあります。

 あと、教会員になった場合の奉仕の負担はどのようなものなんでしょうかね?特に慢性的聖職者不足のカトリック教会は信徒の力なしでは教会が成り立たないでしょうし。マンションの自治会や管理組合の役員、理事を誰にするか、でいつも役目の押し付け合いみたいなことがありますが、やっぱり教会でもそういうことあるのでしょうかね?

 正直、平日夜遅くまで働いて、また土日も仕事まがいのことすることになるんじゃたまらんなぁ、というのも偽らざる本音、といっていつもお世話になっといて何にもしない、というのもこれまた良心がうずく・・。信徒の皆さん、この教会における奉仕の問題はどう考えていらっしゃるんでしょうか?現役の信徒さんの忌憚のない本音が聞ければ幸いです。

310nao:2008/04/06(日) 15:58:29
やはり大変なようです。
私はもう老人なので、教会の役割からははずしてもらつていますが、少し若いころは婦人会の選挙でいつ、何があたつてくるかわからないので、ハラハラしていました。病気や仕事の関係で逃れてきましたが、皆さんに申し訳なくおもつてもきました。
男性の場合は壮年会(社会人)に入ることは、義務になつていますね。典礼、会計、建物の管理、広報など、役割がまわつてきます。日曜、ミサのあと少し居残りということもありますね。

311nao:2008/04/06(日) 16:09:26
ミス
途中ではいつてしまいました。
教会が300名くらいですと、やはり何かは仕事をしなければなりません。でも自分にできそうなことを申しでれば、家でやれるようなものもあります。広報の原稿とか。大きい教会では役はまわつてこないのでは・・。でもこれらは信者になつてからの話ですから、これらの仕事がこまるので、教会にゆくのはやめよう・・という風にはならないでくださいね。
私のように、遂になにもしないけれど、朗読やら共同祈願くらいはするという方も多いですし。あまり心配ないとおもいますよ。やつておられるかたは本当にすごい時間さいてますね。本当のところはどうなつているのか、教会員でもわかりません。それだけ、役員さんは苦労しておられるんでしょうね。役員にならないかぎり、まあ〜たいした仕事はありません。女性のほうが掃除当番があるので、大変です。役員さんになんとなく、聞かれるのもいいかとおもいます。いい加減なお返事ですみません。どなたも書き込みなかつたもので、つい・・。

312迷える大羊:2008/04/06(日) 23:06:10
お久しぶりです
 nao様、お久しぶりです。お聞きしたところでは、マンションの管理組合とか自治会と全く同じですね。まあ、自ら望んで、組織に所属しているかいないかの違いはありますが。

 まあ、月に1回程度の掃除当番とか、朗読当番くらいなら、当然だろうな、と思うし負担感はないでしょうね。しかし、役員ともなるとなると、教会に限らずどこの組織でも大変ですよね。

 実は私、マンションの管理組合の役員やってまして、年度末になり、任期切れ近くなり次の後継者を探しているところですが、これが気の重い仕事でして、皆さん、よくそんなに次から次へ断る言い訳考えるよなぁ、感心するくらい、理由をつけて免れようとする方が結構いて、「ほんとにいい大人が・・」と思わされることがたびたび。ホント、人って「罪深い」ですねぇ。

 教会でも、同じことがあったら、そりゃまあ、クリスチャン、カトリック教徒だって基本的に普通の人とわかっちゃいても、ちょっと幻滅しちゃうかも(自分のことは棚にあげて、ですけど(笑))。
 あと、とあるカトリック教会の学びで、現役信徒から聞いた話ですが、告解、いわゆる懺悔も教会員には意外にも人気のないイベント(?)らしく、その順序、当番(っていうんですか?)を巡ってもめる、とか、20代、30代の信徒が教会になかなか来ない、とかいろいろあるみたいで、基本的によくも悪くも「普通の人」の集まりなんだな、教会って、と思ったものでした。まあ、言い方は悪いかもしれませんけど、水をかけられたくらいで、いきなり人間が変わったら誰も苦労しませんよ、といったところでしょうか・・。

313nao:2008/04/09(水) 16:14:51
役員
自治会役員とホント、おなじようなものですね。婦人会でついこの間まで役員選挙がありました。そこでとうとう当てられた人が「教会つて、こんなに恐ろしいところだとは思わなかつた」と皆の前で言いました。皆、彼女に役員を押し付けたわけですから、シーンとなりました。「申し訳ないけどお願いします」ということで、彼女は1年間頑張りました。こんなことがあつてから、現在は役員さんが次ぎの方に直接交渉して、なんとかなつてもらう、というかたちになりました。毎年、これはなんとかしなくては、といいながら皆の努力でカバーするしかないということになつています。年一回の夏の大掃除もあつて、さすがにこの日はさぼりにくいです。なんだか、出張にかこつけて休む方やら旅行中にしていたり、みなせこいですが、私も同様でいやはや・・冷や汗ものです。組織がある以上、どうにもならんのでしょうか?

314迷える大羊:2008/04/10(木) 23:32:15
いやはや・・
 なんだかねぇ、ほっとしたようながっかりするような・・。ほっとする部分は、クリスチャンといえば、金銭抜きの慈善事業に精出すような、あるいはコルベ神父やらマザーテレサみたいやたらと立派な人にならんといかんのかなぁ、なんて思ってましたが、なんや、一皮むけばまるっきり普通の人でも、カトリック、クリスチャンやってるやん、という安心感。

 がっかりな部分は、神様信じたからからといって、クリスチャンになったからといって、教会にいったからといって、人間関係のわずらわしさとか、共同体に属する面倒くささ、人のズルさ、せこさから逃れられるわけではなく、相変わらずそういうことで悩んだり、腹を立てたりし続けることは変わらないこと、ですねぇ。
 うーん、結局面倒が一つ増えるだけかなぁ。

 ところで、海外の教会のこういう奉仕事情ってどうなってるんでしょうね?特にカトリックのホームグラウンドであるイタリア、フランスの教会はどうなんでしょうね?すごい偏見であることを承知でいえば、どうもこういうラテン系の人々がしおらしく、大掃除したりしたり、真面目に教会委員の活動に励んでいる姿がどうにも想像がつかないんですが・・・(笑)、

315Sekko:2008/04/15(火) 01:09:08
私の知ってること
 日本ではマイノリティってことで、「一般的な傾向」っていうのがひょっとしてあるのかもしれませんが、フランスでは地域によっていろいろでしょう。
 私のよく知ってるフランドルの小教区(つまり一つの村全部ということです。洗礼率100%でしょう)では、教会のお掃除などは、教区の持ち物である家にタダで何十年も住んでいる家族の主婦が受け持ってました。教会に隣接してる家で、彼女にとって、教会は自分の家の延長みたいな感じです。
 概して、機械的に当番を割り当てられるというより、皆が自分のできることをする、ということが多いと思います。カテキズムがあるので、子供たち、カテキスト、そしてそういう子供を持ってる親たち、それから高校生から大学生くらいで人道活動に目覚めたような若者、後は年金生活者、って感じの人がそれぞれ得意の分野で協力するって感じです。子供が大きくなってもう教会に行かなくなったような親は自分たちもまた行かなくなって、次は子供の結婚式とか孫の洗礼とかでまた少し近寄るって感じが多いですね。弱者救済の連帯というのは基本なので、仕事のない人や住まいのない人を教区が助けてその代わりに奉仕をしてもらうというのはすごく自然でいいと思って見ています。
 日本のように、地域の自治会とか町内会というのがないので、小教区の各種組織がその役割を果たしていることも多いですね。でも、都会では今は、移動が激しくてそんな感じではないように思います。できる時にできることをする、というスタンスの人は結構いるでしょうね。
 嫌なのを無理に当番させられるくらいなら、それなりの金銭的負担をして、お掃除や雑用とかなら信者でなくとも、仕事を必要としてる人に提供して支払った方が人助けにもなると思いますけど、どうなんでしょうね。

316迷える大羊:2008/04/18(金) 22:39:27
なるほど
 確かにSEKKOさんが御存知の教会のような自然発生的な奉仕が理想的ですよね。
思うに日本人は真面目に考え、組織をかっちり作りすぎて、却って身動きが取れなくなっている、みたいなところがあるのかも。でも、日本ではカトリックとかクリスチャンってマイノリティ、至って特殊な存在なので、なかなか同じようにはいかないでしょうし、ちょっと考えがまとまりませんね・・。

 ちなみにマンションの管理組合の後継者は、人の善意とボランティア精神に期待することは諦め、規約と法を前面に出し、半強制的に決めることとしました。古参の住民の方に相談したところ「そんな、まともに頼みにいったってダメよ」といわれ、そうしました。

 なんだか、キリスト教の性悪説がなんとなくわかる、というかほの見えた一瞬でしたね(大げさな・・(笑))

317迷える大羊:2008/04/20(日) 10:20:52
何度もすみません
 もう、何回となく同じ話をして申し訳ないのですが、自分にとってキリスト教最大の障害は、イエスを実質上、神そのものズバリ、としてしまうこと。

 もちろん、別にイエスが嫌いとか反発してるわけじゃありません。その行動思想はおおいに学ぶところあり、と思ってますし、宗教家としての偉大さは全く疑っておりません。聖書のいい部分は存分に認めてます。

 しかし、神そのものずばり、でその教祖様が奇跡を巻き起こすとなると、(もちろん、皆が皆、字句通りとっているわけではないことはわかりますが)どうしても世間を騒がせる怪しい教団、ヤバイ宗教の「教祖」を連想して「うぇ」となりアレルギー反応をおこすのです。現代人でなく、二千年前の人間にだって理解に苦しむ考えで、聖書を読むと、やはりイエス=神の子論に対する信者以外の人々の反発、冷笑の反応はいたるところにでてきますよね。

 一体、この辺どう考えてるんだ、ということをプロ・カト問わず、牧師、神父、信者の皆さんに聞いてみましたが、彼らにとってイエス=神はあまりに当たり前すぎて、「神といったら神なんだ、わかんなきゃいい」という問答無用のお答えか、普段、あまり深く考えていなくて、説明できないか、あるいは、やはりクリスチャンにとってカンに障る話なのかイヤな顔をされてしまうか、のいずれかです。
 「これは信仰なんだから」ともいわれますが、イスラムは開祖ムハンマドと神をきっちり分離してますし、開祖様の奇跡談なんてほとんどないですが、ちゃんと宗教、信仰として成り立ってるじゃない、とも思っちゃいます。

 いずれにしても、私の満足のいくお話って得られないのです。揚げ足とり、意地悪をしているつもりはなくて、真面目に考えてるからこそ出てくる疑問なんですが、やはり、言い方がマズいのかな?とも思ってしまいます。

 で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってないものでしょうか?
 あくまで、歴史と過程です。教義そのものは真面目に考えるとおかしくなりそうなのでパスします(笑)。

 多分、私みたいな考え方ってちょっと「アリウス」派っぽいのかも。世が世なら追放刑だとか火あぶりの刑になるのかな?冗談のつもりですが、「神といったら神なんだ」といった問答無用の反応をみると、まんざら冗談ですまないような気もします。

318Sekko:2008/04/20(日) 20:29:13
神の子が神になったわけ
 「何度もすみません」どころか、大羊さんが今まで質問をしてきたギョーカイの人々がこの大切なところにちゃんと答えられてない方が大問題です。
 私は、考えれば考えるほど、ナザレのイエスを神とした三位一体の神学の意味に感動しています。詭弁とか、単なる伝統とか、深く追求しないで敬して遠ざけるっていうようなものではありません。
 今の私たちから見ると、古代の人たちはこうこうだと言われたら何でも受け入れたけれど現代人には納得できないものは呑みこめないよな、と思うかもしれませんが、昔から、三位一体が「なんか変だ」「無理がある」と思う人はいくらでもいたわけです。いやむしろその方が多かったでしょう。それですごく論争が起こり、325年のニカイア公会議で司教たちの多数決で「イエスは神」としたわけです。その時点ではそう認めることの必要性がいくつかあったわけです。しかし、キリストは神とは別の被造物で神の養子になっただけとするアリウス派系統の力は依然として強く、皇帝コンスタンティヌス2世もそっちを支持しました。
 今のキリスト教でもエホバの証人なんかはイエス=神を認めてなかったと思います。とにかく、「三位一体」って無理があるんじゃない? という疑問は、キリスト教の成立の歴史と同じくらい古い疑問出し、解決していない問題だと言えるかもしれません。
 だからこそ、ニカイア公会議から100年以上も経った後でまた、451年のカルゲドン公会議で、改めて、「イエス=キリスト=神ではない」説が弾劾されました。でもそのおかげで、この二つの公会議の間に、この教義を確立した教父たちが出て、とてもすてきな三位一体弁護論を繰り広げています。私は特にナジアンズのグレゴリウスが好きで、彼の論議の展開を見ていると、イエスの死と復活の物語が今日的に有効であり得るには、三位一体のダイナミズムが絶対必要だったんだなあ、と納得できます。あの時代の最高の知性たちが、どうしてもこの教義をたてなければ呪術的な古代世界から弱者を解放できないと考えたのは、理解できるんです。そして今も、残念ながら世界中で弱者が抑圧されてる現実は変わっていないので、この考え方を継承するのは意味があると思います。私にとっては結果オーライだなあって。

 今、たとえば「教祖が神だという強弁」を誤解されないようにとキリスト教関係者が及び腰になって人間イエスのすばらしさだけ強調したり、あるいは、三位一体のような教義は禁域に隔離して祀っておくだけみたいな態度をとるのは不思議なことです。
 このことについて、少しだけ、『カトリック生活』(ドンボスコ社)の5月号(発売中)と、次号(5月10日発売)に書きました。

>で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか
>「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、
>歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってない
>ものでしょうか? あくまで、歴史と過程です。

 という大羊さんの質問にどなたか答えてくださるとうれしいです。
 なければそのうち私が書きますよ。

319迷える大羊:2008/04/22(火) 00:01:59
謎に満ちているのは・・
 毎度、ありがとうございます。やっと、まともな回答にありつけましたね。今までは「俺、そんなにイヤなこと、変なこと、無茶なこと聞いてるかぁ?」といいたくなるような反応が多かったですから。

 先日行った某教会の信仰入門の先生もとにかくこの件に関しては、とにかく神といったら神なの的な答えで聞く耳もたず。ああ、説教もうまいし、70代とは思えないはつらつとした方で、いい先生、と思ってたんだがなぁ、とちょっとがっかりしたところでした。
(単に忙しいのに、苦手なところをしつこくつっつく私がうっとおしかったのかもしれませんが・・)

 三位一体、イエス=神で人で、の教義そのものより、こういう実際のクリスチャンたちの反応の方が私にはよっぽど不可解で謎に満ちてます。変なたとえですが、八つ墓村で触れてはならないタブーに触れた金田一耕介の気分でしょうか。何かタタリでもあるんですか?と聞きたくなります。

 でも、この疑問ってある意味、クリスチャンの個人単位での性格とか信仰のあり方を計るリトマス紙になりそうですね。以下、私の独断と偏見で分類します。

 1.「よくわかりません、知りません」 素直でいいと思います。聖職者であってもちっとも恥ずかしいことではないと思います。そんなことで「牧師のくせに」とか「神父のくせに」なんて思ったりしません。
 別にキリスト教とか教会はオタク的な知識を競う場ではないと思いますし、〜を知ってるからすごい、とかエライといった世界でもないと思いますから。でも、キリスト教の肝心かなめの部分がそれでいいのか、という一抹の不安は感じる。

 2.「これは人間業ではわからない奥義で云々」 ホントかぁ?やたら話を仰々しくして誤魔化してない?本当はあなたもよく知らなくて勉強してないでしょ?といった疑いを持ってしまう。教義そのものの説明は難しくても、そんなものが教義になったワケぐらいは教えてくれたっていいでしょ?と思ってしまう。実際、SEKKOさんはきちんと御説明されているわけだし。

 3.「これは信仰なのだから」 とにかく受け容れろ、丸呑みしろ、とのお答え。だけど、大してわかってもいない、実は心の奥底ではあんまり納得もしていないことを信じたフリをするというのは自分に対しても神様に対しても不誠実じゃないですか?との感想を持ってしまう。

 4.「問答無用、神といったら神だ」 私にとって最悪です。こんなこという牧師や神父さんは他にいくらいいところがあっても一発で幻滅してしまいそうです。信仰って無理やり自分にマインドコントロールをかけることなんですか?と思ってしまう。

 まあ、くどいようですが、あくまで私の偏見ですから。月並みですが、人間、年齢、身分問わず素直なのが一番いいですね、という結論になるのでした(そういうお前はどうなんだ、というツッコミはなしで・・)

 SEKKOさん、是非、三位一体、イエス=人であり神であり、について本書いて下さい。楽しみにしてます。

320迷える大羊:2008/05/02(金) 23:38:05
信仰と道徳の違いとは?
 キリスト教、宗教の話をしていつも言われるのは「これは単なる道徳律とは違うんです」ということ。例えば、聖書について「確かに今から見ると変な話も多いですけど、人を裁くな、とか、神の国はあなたがたの間にあるとか、いろいろいいことも書いてありますよね〜」というふうに話をすると「ええ、でもそれだと論語などと変わらないんです。単なる道徳なんです」ということを、これまた教会、教派問わずいわれます。

 で、この信仰・宗教と道徳・哲学との違い境目とか違いって何なのでしょう?信仰・宗教として聖書を読むとするなら、現代、あるいは未信者の感覚からしてどんなにメチャクチャなことが書いてあっても「神の御言葉」「神の霊感によって書かれた」として受け取らなくてはいけないんでしょうか?

 あくまで、書かれた状況や時代を鑑みて「著者はなんでこう表現したのかな?」とウラを読みながら、その意図を考えていく、なんて読み方は邪道になるんでしょうかね?
 いや、自分としては至って普通のことを言っているつもりなんですが、「宗教・信仰」の世界では通じない話なのでしょうか?
 またまた、すみませんが、どなたかお教え下されば幸いです。

321nao:2008/05/03(土) 22:16:31
公式巡礼、公式行列
竹下先生のご著書「奇跡の泉ルルドへ」のなかに「公式巡礼」「公式行列」という言葉が度々でてきます。「公式」というのは、どういうことなのでしょうか?だれかが組織してくる巡礼、行列なのでしょうか?私は10年前、日本の枢機卿と共に25名で巡礼しましたが、そのような巡礼は「私的」というのでしょうか?「公式」と「私的」の違いをご教示くださいませ。

大羊さんの問いにはいつも啓発されております。信者になつて、「このような問いに自分はどう答えることができるだろうか?」と考えてしまいます。でも残念ながら答えの言葉がまつたくでてきません。何故なのか?いつも悩んでいます。プロの司祭様たちがこのサイトをご存知なら、ご登場ねがいたいものです。

322Sekko:2008/05/03(土) 22:42:26
聖書との付き合い方について
 私の立場でお答えしときます。別にその筋のお墨付きではないのでそのつもりで。

 キリスト教に関しては、紀元1世紀にパレスチナで生きたナザレのイエスという人間が「人間でありそのまま神である」という信仰が基盤になっているわけです。
 そこのところは一応おいといて、ともかく「神が人となった」というのですが、すべての「人」は社会的歴史的存在なので、ナザレのイエスがどういう時代のどういう場所でどういう伝統と共同体意識の中に生まれたかということは彼の「人間」の部分にとって大きい意味を持っています。
 たとえば、ある人が突然「神懸り」になってそれ以降は生き神として機能し、それ以前の個人史は問題にならないとか、逆に、生まれた時から「神の化身とか生まれ変わり」であり普通の人間の文脈からは超越しているんだというタイプの宗教もあるでしょう。
 でも、キリスト教では、ナザレのイエスというユダヤの歴史や伝統を背負って生きて死んだ男が神としていかにして普遍宗教の核になったかを、弟子たちが書きとめたわけです。彼らの宗教がはじめにユダヤ人の間で形成されたことは、イエスが救世主となることを「ユダヤの聖典の成就」であるという「後付け」がなされたことを示しています。
 それで、旧約聖書の部分は、それが「文字通りの絶対真実」というプレゼンテーションではなく、イエス・キリストがどういう「時代と文化の文脈に生まれたのか」、そういうコンテキストの中でその民族的枠をどのようにして突破して普遍宗教〈地縁血縁を救いの条件にしない宗教〉に展開していったかの道筋を残す部分です。イエスの教えや行動は、他の普遍宗教の開祖と同様その社会では革命的であったにせよ、だからこそ生きた時代や伝統からインスパイアされたものであります。
 旧約聖書があるからこそ、イエスがどういう人間であり、弟子たちがどういう風にイエスを理解したかが私たちにも追体験できます。
 新旧聖書のおかげで、イエスの人間としての文化的社会的ルーツをも知ることができ、それを、使徒たちや初期教会の人たちが、どのように新しい世界観を提供し、戒律主義や偶像崇拝や権力維持に陥りやすい人間の性向からその犠牲者である弱者を解放していくシステムを作ったのかがよく分かります。

 人はどのような身分に生まれてどのような能力を持っているかということでは評価されず、それをいかにして運用するか〈=自分より弱い者に仕えるか〉が大事なのだというガイドラインを示した点では、「・・・するなかれ」の古典的で形骸化しやすい戒律主義から一歩進んだ倫理感も提供しました。

 キリスト教の歴史の中では、聖書を文字通りに解釈してそれを知識や行動規範としておしつけるというような蒙昧主義や教条主義も何度もありましたし、今もあると思います。逆に、それに反発して、すべてはシンボリックだとか比喩だとか、神話だとか、文学だとか言って、「イエスという手本にすべき立派な人間の物語」だとか、その他多くの道徳や宗教や哲学のテキストの一つに過ぎない、と位置づけるとかの、矮小化や相対化の流れもたくさんあります。
 いろんな読み方読まれ方をすること自体は、他人に抑圧的にならない限り、別に自由でいいんじゃないでしょうか。

 けれども、

 旧約の世界に養われて、
 新約の世界が突破して、
 時空を超えたメッセージとして、
 今、現在も、平和と利他の実現のためにキリスト教を生きている人も実際にいるわけです。

 そういう存在の根っこの部分で人を連帯に導くために突き動かす力は、聖書には充分あると私は見ています。

 各派教会筋の方にはそれぞれの立場上いろいろあるのでしょうが、大羊さんは、今の所、とりあえず、旧約はイエスの人間の部分の理解とキリスト教の生まれたユダヤ世界の共同幻想〈と言って悪ければ伝統的世界観とか歴史観〉を知るための資料集、新約はその中で生まれたイエスの生と死と復活が、旧約的文脈の中でどのようにして世界宗教となるほどの信仰の普遍性を生んだのかを語ってくれる「証言」集、というスタンスでお付き合いすればいいんではないでしょうか。
見方を、あるいは崇め方?を押し付けられても、別に、それで信仰が深まるとかいう問題ではないと思いますけど。それで信仰が深まるならただの洗脳でしょ。

 あと、新約に関しては、逆説的な表現が結構多く、それが魅力にもなっているので玩味できるのでは?

 このテーマについて、私にとって聖書はこうだったけど、今はこうなった、という体験談とかあればどうぞ。アドヴァイスの場であっても論議の場にはしたくないのでよろしく。

323Sekko:2008/05/03(土) 23:19:06
naoさま
 すみません、本が手元にないので〈お貸ししたり差し上げたりしてすぐなくなるんです)、どの箇所かは分かりませんが、Pelerinage officiel というフランス語が出てきたときにそれをそう訳出したんだと思います。今聖域は300名近い常勤職員のいる会社のような組織があって、聖域主催の午後の聖体行列とか夜の蝋燭行列とかは混乱が起きぬようにセキュリティとかがすごくよく管理されてるものです。他のグループの行列とか巡礼も、ある程度の規模以上なら届け出てオーガナイズされてると思います。司教区が主催するような巡礼は、宿泊のこともありますから当然、聖域と連携してるでしょうね。聖域のカレンダーに明記されてる巡礼のことだと思いますが、確認しないと分かりません。
 狭い意味での「公式の巡礼」とは、タルブ=ルルド司教区の主催する巡礼という意味かもしれません。たとえば、ルルドの第一回「公式巡礼」は1864年4月4日とありますから〈下にコピーしときます)。

La première apparition de la Vierge à Bernadette remonte au 11 février 1858. La commission d’enquête, nommée par l’évêque de Tarbes, Mgr Laurence, conclut en janvier 1862 à l’authenticité des faits. Depuis 1858, en dépit de la fermeture de la grotte de Lourdes par les autorités municipales et préfectorales, le mouvement de prière et de conversion, popularisé et rendu public par des guérisons éclatantes, n’a jamais cessé. Le premier pèlerinage officiel remonte au 4 avril 1864, à l’occasion de la bénédiction et de l’inauguration solennelle de la statue de Notre-Dame de Lourdes à la grotte des apparitions, cette première procession donne le branle à toute une série de pèlerinages paroissiaux. La crypte, commencée en 1863, est consacrée le 21 mai 1866, la ville de Lourdes est reliée par le train à Bayonne depuis 1867 et à Toulouse l’année suivante. Les Assomptionnistes parisiens prennent la direction et l’encadrement du premier pèlerinage national de 1873.

324nao:2008/05/08(木) 09:23:23
奉献
お返事いただきありがとうございました。また質問です。
マリアは聖書外典によると、3歳で神殿奉献され、神殿に移ります。この奉献は神殿に身柄をうつしますので、巫女のような生活になつたものと想像しております。イエスも奉献されますが、これは「長男はみな主に聖別されたものととなえられねばならない」というユダヤ教のしきたりに従うものであつたようです。辞書を引くと「聖別」とは人の場合「祈祷、儀式などによつて、神の礼拝、神への奉仕のために捧げる行為をいう」とあります。そうすると、長男の生活には他の子とちがつた義務が生じてきたのでしょうか?聖別されても儀式だけうけたのか、特別な神への義務が生じたのか、よくわかりません。細かいことで申し訳ありませんが、教えていただけますと、ありがたいです。

325Sekko:2008/05/08(木) 16:25:27
イエスの神殿奉献
 イエスの場合についての特別なことは知りませんが、これは当時の感覚ではただの「お宮参り」みたいなものだったと思います。
 形としては出エジプト記の13章、レビ記の12章にある規定を守ったわけで、産婦の妊娠出産による穢れの清めの儀式、贖罪の儀式がメインで、穢れを解消してコミュニティへ復帰するというシンボリックな意味、それから事実上は捧げものが神殿の財源の一つになっていた、最後に、イスラエルの神の「初子」に対するこだわりの現れでしょう。エジプトを出たときにユダヤ人以外の家庭の初子を神がことごとく殺したというエピソードが、さすがに集団トラウマになって、その犠牲を忘れないように、自分たちの子も神に捧げ続けるという形をとったように思われます。現実には出産後の節目であり、子供の将来も祝福してもらおうという、古今東西変わらぬ普通の行事だったと思うんですが。もちろんイエスの場合それがいろいろシンボリックな意味を持ってくるわけですが。

326nao:2008/05/08(木) 17:22:06
ありがとうございました。
お忙しいなか、早速お返事いただきまして、ありがとうございました。当時、トラウマはまだなまなましかつたわけですから、初子はまず、神殿へ・・と急いだことでしょう。「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」ときめられた捧げ物をしたということですから、財源となつたことでしょう。当時の様子を描いてみるのも楽しいことでした。有り難くおもつております。

327Sekko:2008/05/08(木) 18:13:34
捧げもの
「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」は、レビ記で「産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は」という、貧乏人のオプションなんですよね。この辺が将来のイエスの物語の伏線にもなってる感じかな。
 「産婦が貧しくて」とありますが、では父親は関係ないとして、マリアの実家のヨアキムやアンナは裕福なようだったから、何で実家が子羊を調達しなかったのかなあと思うんですけど。やはりイエスの出生がいまいち「誰の子か分からない」という感じで、ヨセフの手前、実家がおおっぴらに祝福しにくかったんでしょうか。と、つまらぬことをいろいろ考えてしまいます。

328迷える大羊:2008/05/25(日) 21:58:53
法とキリスト教
 私事でなんですが・・・。最近、仕事で内部統制関係の仕事をすることになったんですが・・。
 まず、内部統制って何なのか、といいますと、ここ10年来のアメリカではエンロン、ワールドコム、日本ではカネボウ、などの巨額の粉飾決算、三菱自動車のリコール隠しなど、上場企業、株式市場の信頼性を揺るがす不祥事が相次いだことを受けて、アメリカで「サーベンス・オクスリー法(発案した議員の名らしいです)」略してSOX法が2002年に成立、その動きを受けて、日本でも06年に金融商品取引法、いわゆるJ−SOX法が成立しました。

 ということで、日本でも上場企業ですとか、その関連企業は、簡単にいえば、この法にのっとって、正確な財務情報の提供、不祥事防止の体制つくりなどが必要となってくるわけですが、これが、いたるところで責任者、上長のチェック、承認、文書による証明の連続で、純粋な日本人的発想だと、人間関係で築かれる信頼関係とか、話し合いですますところも徹底的にチェックで正直、面倒というか、余計な仕事が増えて、うっとおしいですし、あまり人を信用しないシステムというかなんというか、まあ、不祥事防止の為にできた制度だから当たり前ではあるんですが、それにしても、徹底しているというか・・。

 これまた、欧米生まれの企業活動の品質規格であるISOもそうで、これまた、責任者のチェック、承認、文書による証明の連続で、参ってしまいます。

 これって、キリスト教の原罪思想、つまり、人はほっとけば神から離れていく生き物なのだよ、みたいな考え方がやっぱり元にあるんだろうか?とふと考えるのですが、どうでしょうかね?あと、契約に関する考えなんかも・・。

 とにかく、一般のごくごく普通の日本人の感覚からすると、そこまでせんでも、みたいなところがあるのは確かですね・・。

329迷える大羊:2008/07/20(日) 23:49:20
「正統派」の中のカルト?
 以前、こちらのBBSで塩梅さんが過去に在籍されていた教会の様子について発言されていたことがありましたが、その様子が異様で、「正統派」となっていることになっている教会にも極めて運営が怪しげなところがあると知り、驚いたことがありました。

 そしたら、最近になって朝日新聞系の週刊誌「アエラ」が7月28日号でまさにその問題に触れていました。タイトルは「キリスト教会の「カルト化」。牧師に対する個人崇拝、ささいな理由で行われる体罰。時代錯誤な「悪霊払い」による「病気治療」、「皇帝牧師」の乱れた異性関係などなど・・・。そういった問題で係争中の教会を中心に取り上げていました。

 それが、大多数の主流派教会で関係を否定される「エホバ」「モルモン」「統一教会」ではなく、「正統派」ということになっている、つまり、三位一体の教義をとり、「異端」ではない聖書を使う教会なので驚きます。
 それにしても、記事中にもありましたが、教会らしい建物をもち、聖書をひいてもっともらしいことをいう「牧師」を純粋な人はつい信じてしまうみたいですね。

 教会はともかく「聖書」が清廉潔白で道徳的な話ばかり、と信じている人が多いのにはとにかく驚きます(かつての私もそうだったけど)。もちろん、そういう面もあるのだけども、実際のところ、旧約は下ネタ、暴力ネタが極めて多い文書だし、新約になると大分大人しくなるし、イエスの教えは傾聴に値するものが多いけど、そのイエスにしても過激発言(例・私と父(神)は一体だ! ヨハネ福音書より)が結構あるし、決して単純な勧善懲悪の本、文書じゃないのに。
 とにかく良くも悪くも使えるのが「聖書」という書物で、その諸刃の剣、取り扱い注意な面をもっと既存の教会はきちんと求道者とか信者さんにきちんと説明すべきなんじゃないかなぁ、とも思いましたね。きれいなところ、カッコいいところばかりを読み上げるんじゃなくて・・。

 記事の締めくくりとして 櫻井北海道大大学院教授のコメントが掲載されてまして、要約すると・・、

 ・牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得した上で信仰を持つこと

 ・いろいろな教会を比較し、一番しっくり行くところを選ぶのがベター、そういう行動を不信仰などという牧師がいたら、その教会は止めた方がいい

 とのことでした。それにしても、以前にも「アエラ」誌はこうした特集を組んでましたし、キリスト教会と何かあるんでしょうかね?

330塩梅:2008/07/21(月) 09:06:03
Re:「正統派」の中のカルト?
カト関係の掲示板でこういう話をするのも何なんですが…。
何だか申し訳ありませんです。>All

大羊さま>
多分、今回「アエラ」掲載の関係、あれは非常に残念です。
事の推移を見守っていましたが、かなり昔に聴講生として通っていた神学校ほかお世話になっていた聖職者・共同体(少なからないのです)が俎上に上がっていますので、かなり悲しく思っています。勿論、被害者になられてしまった方々に関しては…当方はあのような肉体的な暴力といった仕打ちは受けたことはないけれど、非常にお気持ち察するところがあります。

プロテスタントというのは、カトリックみたいなヒエラルキー的な人間組織の頂点に立つバチカンみたいなところがない(そもそも聖座の腐敗へのアンチテーゼみたいなところが大きいか)、あと明確な教会法であるとかそういうものも無い。ある意味…教会運営が個々の教団・そして教会の良心にひたすら任されている状況だと思います。あと教団にいられなくなったら、どこの教団にも属さない「単立」という形も取れてしまいます。
そんな中できちんとした活動を行っている教会もあるんですが、やはり何かあったときのチェック機能が甘くなってしまうのかな…とは。で、やっぱりH派・S派関係で、信仰そのものというよりいわゆる「カリスマ牧師」およびその共同体への依存に持ち込んでしまっている教会があるとは思います。気付く人は気付くんですが、やっぱり「傷つくような何か」があってのことなので…その後はトラウマとの闘いです。

で、多分、俎上に上がっている教会の元・信者さんもこれからその辺が大変だと思うんです。受け入れてくれる教会があるか、聖職者及び共同体がそういった問題に関する理解度が少しでもあるか…そういうところで。受け入れ自体は多分にプロテスタント教会のお仕事になると思いますが、やはり問題のある共同体にいたとか母教会(洗礼を受けた教会)に問題があった場合に「まず、受け入れてもらえない」という問題が出る可能性があるかな、と。

そういう経緯もあって、私の場合は最終的にカトリックに飛び込んだので…。
ただカトリックに飛び込むのは(本当に知らない世界だったので)それこそ「清水の舞台から…」と言った気持ちで、最初カトリック教会にお電話して「行ってもよろしいでしょうか?」と。受話器を持つ手がプルプル震える、そんな感じでした。

ただ、個人的にカトリック教会にお世話になるとき、神父さまに言われたのは、

「以前の教会へのアンチテーゼでは(改宗は)ダメですよ」

と。そこら辺を解決するのに、私の場合は随分時間がかかりました。何年単位のことでしたが、やっぱりそれで良かったんだと思います。それと結局は洗礼の有効性などの問題があって、受け直しなんですが…かえってそれもいいかな、と。

331迷える大羊:2008/07/21(月) 10:08:21
宗教にも規格が必要??
 アエラ誌の記事や塩梅さんのお話を伺うと、宗教団体にも一般企業のISOや金融取引法に基づく「内部統制」の仕組みに相当する規格を導入した方がいいんじゃないか?と思えてきますね。

 例えば、〜規格に基づいた審査を受けその資格を取得している教会、団体なら
とりあえずおかしなことはないだろう、みたいな目安になるんじゃないかな?信者(消費者)にとっては。まあ、実際は言論、思想、信仰の自由の問題が絡んで難しいし、それが本当に有効に機能するかはわからないけど、何にもないよりマシかなぁ、なんて思ったんですけどね。

 ISOとか、「内部統制」ではその企業の業務・活動内容、財務内容について、第三者にも一目で分かるよう文書化、担当者以外の第三者がチェックに入るようなシステム作りが求められます。半年ぐらいに一回くらい、規格に沿った企業・活動運営が行われているかどうか。外部の関係機関の監査が入ります。(まあ、これはこれでいろいろ問題はありますが)
 それに絡んで「コンプライアンス」、というと難しそうですが、要は「法令順守」ですね、に対しても企業社会は日々うるさくなってきています。

 元々、アメリカのエンロンの粉飾決算だとか、日本では、西武鉄道、カネボウ、ホリエモン、村上ファンドなどの問題があって、声高に叫ばれるようになったわけですが、宗教界だって、これだけ不祥事が出れば、似たような流れ、動きがあって然るべきなんじゃないかなぁ、と思うんですけどね、キリスト教系団体、仏教系団体、その他を問わず。
 「うちはそんなことやってないから大丈夫」とか「正統派の教会だから安心」なんていうんじゃなくて・・。
 結局、宗教界、キリスト教の世界といえども「神の目」があるから安心、ってことはまったくなくて「第三者の目」がないと、ロクでもないことをやる人間が必ず現れる、というのは俗界と全く同じで、なんだかなぁ、という気がしましたね。

332Sekko:2008/07/21(月) 16:21:38
サービス機関かブランドか
 アエラの記事は読んでないので細かいことはわかりませんが、今朝のラジオで、オーストラリアのカトリック青年の日の行事の最終日に教皇が、みんなの期待していたように、聖職者の不祥事についての謝罪をした、って言ってました。謝罪できるトップ(その身辺はきれいだと認められている)がいるというのはこういう時、確かに分かりやすいですね。でも、プロテスタントの牧師さんたちはその成り立ちから言って信者代表の立場だから、シンボリックな意味は担いにくいです。

 どんな仕事でも、立場や肩書きが責任感や使命感や自律を促したリ育てたりってことはあるでしょうが、やはり、心の問題に関しては、サービスや救いを求める側が、相手の人間性を直接見て判断するしかないですね。でも、弱っていて救いを求めている人にはそういう判断が難しいかもしれないし、だからこそそれにつけこむようなのは許せないですが・・・

 宗教機関の「正統派」をブランドと見なして、消費者の信頼を裏切ったとか、モラルの低下みたいにも見えますが、宗教帰属が消費行動になること自体がおかしいとも思います。行きずりの寺社におまいりしてお賽銭を上げて頼みごとをしても、帰属感はないから、その一時の安心感やら希望を買った消費みたいなもんで後腐れはないですが、要は、何につけ、「人間のやっていること」に「期待」してはだめということだと思います。キリスト教的には信仰と期待はセットになっていますが、それは基本的にはこの世を越えたところでの救いの話ですから。

 ともかく、正統派とか何とか言う「ブランド」に関係なく、サービス機関としてかかわるなら「消費者」の方にもそれなりの意識の高さや分別力が必要出し、ある機関が道を外さないように、また弱者を守るためには、最低限の法の規制や枷や監査機構は必要でしょうね。

 カトで私が最近気になったのは、復活祭に教皇がエジプト系イタリア人ジャーナリストに洗礼を授けたことです。その人を取り巻くイスラム環境的には改宗は死に値するそうで、JP2は、そのために、ムスリムの改宗洗礼にたいしてすごく慎重だったそうなんですが、B16のやり方は挑発じゃないかという意見もありました。そっと内輪でやればいいのに・・・
 良心に恥じるところがないからって堂々とやるのも困りものです。
 フランスには8月にダライラマが来て、9月に教皇が来るというんで、宗教とか平和とか外交とか政教分離とかについていろいろ考察が促されるでしょうしそれは楽しみです。

333迷える大羊:2008/07/21(月) 20:32:49
最近のアエラ
って、時折、こういう宗教問題を取り上げることありますね。「こういう宗教問題」というのは、かつてのオウムのように、誰が見ても、はっきりとヘンだ、カルトだ、とわかる教団とか宗教ではなく、一見するとまとも、派手な反社会的行動を取っているわけでもない、それどころか、世間一般のウケも良い団体に潜む問題とか悪だとかといったものですね。

 今回はプロテスタントの所謂「単立教会」が遡上に上ってましたが、詳しい年月日は失念しましたが、数ヶ月前には日本キリスト教団とかカトリックとか聖公会、ホーリネスなどなど、いわゆる老舗の伝統的教会のそれもしっかり遡上に載せておりました。アエラ以外の他のメディアにはあんまり出てこない種類の記事なので、「あれ?」と思ってつい読んでしまいましたね(他はそもそもキリスト教会自体に無関心だったり無知だったりで・・)。

 私の読んだところ、アエラの前回、今回に共通する論調としては・・、

 キリスト教は日本では人口比1%以下の極めてマイナーな世界、にも関わらず、欧米先進諸国の文化に連なっている、ミッションスクールの質の高さ、なども相まって、そのイメージは高く、存在感もある、しかし、そのイメージに惑わされず、自分の考え、目と耳でよく見極めないと、中にはとんでもない教会、聖職者も存在しますよ・・、

 といったタッチ、趣旨ですね。

 「正統派云々」という話も、記事で取り上げた問題ある教会、聖職者が生き延び続ける理由として「「正統なキリスト教会」であることを掲げている点が指摘できる」とアエラ誌が推理、結論しているところからきてます。

 まあ、人間は「性善説」より「性悪説」で見た方が後々の失望が少なくていいかもしれませんね。その点、キリスト教の人間観察は鋭いと思います。だからこそ、宗教に限らず、不祥事や人の悪に対する抜本的な対策は是非キリスト教会の側から出てくれば、と期待したりするのですが。
 な〜んて、こんなこというなんて、少し前の私からは考えられないことで、なんだかんだいって私もキリスト教の世界に染まってるんだなぁ、と思っちゃいました(笑)

 >B16

 どこかで、SEKKO先生もおっしゃっていたことですが、やっぱりこの方、「KY」なんじゃ?決して悪い人ではないことは分かるんですが・・。

334nao:2008/08/17(日) 21:05:41
恵果の呼び名
空海に密教世界の両部(金剛界と胎蔵界の世界観)をすべて伝えた「恵果」の呼び名はなんというのでしょうか?梅原猛、末木文美士は「けいか」、司馬遼太郎は「えか」と呼んでいます。どちらも正しいのでしょうか?中国ではどう呼ぶのでしょうか?

335Sekko:2008/08/18(月) 02:53:00
恵果の読み方
 ええと私は「けいか」で行こうと思っています。

 理由は、種智院大学学長の頼富さん(この方のお寺が私の母の実家の檀那寺でした)が監修されている一般向けの空海入門書で「けいか」とルビがふってあったからです。これからやるかもしれない仕事の参考図書としてそれを渡されているので。
 今の中国語のピンイン表記では「hui-guo」となりますが、「hui」は、日本語表記するとフェイとかフイとかホエとかホェイとか、いろいろですね。空海と恵果の出会いを中国の古代劇にすることを考えているので、そしたら、読み方も古代風になるのかもしれません。
 「恵」を「エ」と読むのは呉音で、もとは「ウェ」ですね。真言宗や一般に仏教は呉音を使うことが多いので、司馬さんが取材した時に真言の人は「えか」って言ってたのかも知れません。「けい」は漢音で、今は、一般的に、中国人の名の日本語読みは漢音ですることが通例なので、「けいか」でいいのだと思います。漢音はもともと7、8世紀に遣唐使が伝えた読みで、唐音は鎌倉時代以降で禅語などが中心と聞きますから、空海は「恵果」のことを「けいか」に近い呼び方をしていた可能性はありますね。恵果あじゃり(変換できません)という時も「空海と恵果」という時も、「けいか」の方が語呂がいいので「けいか」でいいんじゃないかしら。司馬さんの『空海の風景』は、30年前に読んだ時は、なんだか想像ばかりでたゆたいすぎていて、はっきりしないなあ、感情移入できないなあ、と思った記憶があるんですが、今読み返してみると、すごいなあ、空海のように神話や信仰の対象になってるような人を作品で料理するにはこれくらいの洞察と距離感が必要なんだなあ、と感心しています。こういうスタンスの人のイエス伝も読んでみたいくらいです。

336nao:2008/08/18(月) 09:35:26
ありがとうございました。
呉音と漢音があることも、中国語の読み方もなにもわかりませんでした。ありがとうございました。これからは先生にならつて、「けいか」とよむことにします。そのほうがよみやすいものですから。

337nao:2008/08/18(月) 16:21:00
「空海の風景」
途中で投稿になつてしまい、しりきれトンボになりました。司馬遼太郎の「空海の風景」は近所の真言宗の若いお坊さんに勧めていただきました。「やはり小説風のもののほうがよみやすいですよ」と20代のお坊さんがいいました。昭和50年度初版のものが2005年新装改版になり字が大きくて、よみやすくなりました。司馬遼太郎記念館は近いので、何度もいつてますのに、この本のことを、今はじめて知りました。夢中になつて読ませる迫力があります。空海という人のことも我が家が真言宗で菩提寺が高野山にありますのに、しらべたこともありませんでした。でも今回「両部は不二である」という空海のことばにつよく惹かれるものがあります。しかし即身成仏だけはどうしても解りませんし、惹かれません。すごい教養と鋭い政治感覚、宗教的天才、理論家としての天才性。三筆のひとり。というようにものすごい人だつたんですね。
先生がどのような古代劇をお書きになられるのか、非常に興味がありますし、そのお芝居の日や場所がはつきりしましたら、サイトにいれてくださいますよう、おねがいいたします。
日本に帰国してからの空海にも興味はつきません。「曼荼羅」についても、勉強したいとおもつております。今度高野山にゆくときには観るものがちがつてみえるだろう、とこの本を読みながら、その日が楽しみになつてきました。いつもきちんと、お返事いただき有り難くおもつております。

338迷える大羊:2008/08/21(木) 22:43:47
聖母マリアと聖書
 実はこれ、別のキリスト教関係のウェブでも出した話なんですが、いろいろなクリスチャン、キリスト教関係者の見解が知りたいということで、ここでもお話させていただきます。

 それはイエスの母マリアの位置づけ、です。カトリックのマリア崇敬は有名で、中にはイエス差様よりマリア様の方が好きなんじゃないの?といいたくなる人もいますし、教派にもよりますが、プロテスタント教会でも処女懐胎は感慨深く語られる出来事です。

 でも、実際に聖書読むと、処女懐胎がはっきりと描かれるのはルカの福音書だけ、そのルカにしても聖母マリアが「活躍」するのは、誕生時だけであとは至って影が薄いような・・・。もう少し母親らしく、イエスを叱ったとか諭したとか庇ったとかいう、親子らしい触れ合いのドラマがあったってよさそうなものなのにそこら辺の話が全然ない。ルカに一つだけ、少年イエスが神殿で親から離れて、学者たち(だったかな?)と議論する、なんてエピソードがあって、ルカはイエスがいかに神秘的で賢い少年であるかを説明したいようですが、どちらかといえば、生意気な印象を与え逆効果のような気も・・。
 とにかく、福音書全体を通じて少年時代、青年時代のイエスについての部分がまるでスカスカで、母のマリアがイエスをどんなふうに育て、どんな影響を与えたのかまるでわからない。

 親子の触れ合いどころか、福音書中のイエスの言動を見ると、家族とか血縁というものに対して非常に冷淡な考えを持つ人物、彼自身の家族関係自体、あまりうまくいってないのでは?との疑惑に駆られるセリフや描写が少なからずあって、例えば、「私が来たのは地上に平和をもたらすためではない(中略)人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、こうして自分の家族が敵になる」とか「私より自分の父母を愛するものは私にふさわしくない」、なんてどこかのカルト教団の教祖のような怖いことをいってますし、イエスが群集に語りかけているときに彼の兄弟と母(聖母マリア)が外にきて話したがっていて、それを誰かがイエスに知らせると「母って誰?兄弟って誰?」などと実にそっけない返事をしてます。これには後に、「天の御心を行う人こそが私の兄弟、姉妹、母」というフォローが入るのですが、こんなときにあてつけがましくいわんでも・・、との感が否めないです。

 さらに問題は「復活」の時で、聖母、聖家族信仰の観点からすると、イエスは復活したら、真っ先に母親マリアの前に参上すべきでは?と思うのですが、真っ先に参上するのはマリアはマリアでも「マグダラのマリア」の前であって、聖母マリアの元に参上した記録がどの福音書にもない・・。

 福音書の後は使徒言行録を皮切りにパオロやその他、使徒たちの記録と手紙になるわけですが、これも不可解なのは、使徒言行録とか使徒の手紙にこの処女懐胎(イエスの奇跡の数々もですが)が全然出てこないこと。ひょっとしたら触れられているのかもしれないですが、少なくとも目につくような分量、形では見当たらない。

 使徒たちはイエスを神の子、メシアと主張するために旧約聖書の記述の引用をしきりにしていて、それはそれで間違いではないと思うのだけれども、どうして福音書に書かれた処女懐胎という劇的な生まれ方を話さないのだろう?と思ってしまいます。まさに彼が神の子、メシアであることを証明する決定打であるはずなのに?。

 私はキリスト教とか聖書について専門の教育を受けたわけではありませんし、聖書って私にとって決してスラスラと読みやすい文書とは言い難いので、何かと勘違いとか読み落としをしていることがあるのかもしれません。

 でも、読んだ限りだと聖母とか聖家族、ましてやマリアの無原罪ってどこからどう出た話なのかがわからないし(神学的な理論づけはいろいろあるようですが)、私などよりずっと聖書を読み込んでいるはずのカトリック信徒やクリスチャンの皆さんがどうして、こうした聖書の記述と矛盾することなく、聖母マリア、聖家族信仰を保てるのかがわからないんです。

 お断りしなくてはなりませんが、あくまで「わからない」のであって正しいとか間違っているとかいっているわけではありません。また、人の信仰心にチャチャを入れるつもりは毛頭ありません。
 その辺の「信じる気持ち」を教えてもらえないものでしょうか?単純に信仰心というものを知りたいだけで、繰り返しますが、いいとか悪いとか、あれこれいうつもりは全くありません。

339Sekko:2008/08/25(月) 05:37:33
聖家族とか・・・
 返事遅れてすみません。ひと言じゃいえないし。
 聖家族信仰の成立については、私の『弱い父ヨセフ』(選書メチエ)を一度読んでください。『聖母マリア』には聖母の位置づけの変遷をちょっと書いています。

 私の了解しているキリスト教は、別に聖書のコンテンツを理性で理解して納得して、たとえばイエスがちょっと変な言動をしても、「これには自分の分からない深い意味があるんだろうな」とか、「まあ、これは不問に付しとこう」とか思ってめでたく信仰成立ってものではないです。
 キリスト教の成立したヘレニズム世界はストア派の論客がたくさんいて、福音書の伝承の変なとこはすでに批判されたりもしてました。だから「神の子」の言動にふさわしく改竄するとか、いろいろな手があったかもしれないのにそのまま残したのは、使徒たちや初期共同体の中にも大きな疑問符があったわけで、でもそれをはらんだままでスタートしたということは、ヘレニズム世界の弁証法的思考があったからです。その緊張と本質的な不安が、キリスト教を育てたんだと思います。

 無理があるけど、確かに使徒や初期の信者が確かに信じたと思えるのは、イエスの死と復活と昇天で、ほんとに何が起こったのかは今となってはわかりませんが、それを軸にパウロが各教会に手紙を書きまくったのが、キリスト教の核をなしているわけで、その結果どうなったか、というところが私には興味があります。そしてそのパウロは、聖母がどうしたかとか、復活前のイエスがこう言った、ああ言ったとかはほとんど問題にしてません。その意味では、後からの神学的整合性の追求は別として聖母の処女性とか、イエスの言動とかは、本質的ではないと思います。

 聖書に出てくるとこだけ読んだら、私だって、あんな息子、あんまり欲しくないし、あんなこと言われたらむっとしますけど、まあ、普通の人の言動ですら、文脈を無視したり視座を定めないと、どうにでも編集されちゃいますからね。
 イエスとパウロによって人は、「法」からは解放され、ただ、「愛」についてのみ責任を要求されました。そのせいで生まれたのが「秩序」より「緊張」です。
 これが、キリスト教世界観が円環でなく螺旋であるゆえんですね。

 私は、弁証法的思考法にはまっているせいか、「答えがない状態」が嫌ではないです。すべて、答えのある状態とは、多分弱者に抑圧的に働くと思うから。

 これからも大羊さんは、いろんな答えを知ろうとして「迷える羊」であり続けるでしょうが、そこで見つかるのは、いつも、「答え」ではなくて、「新たな問い」でしょう。でもその問いはどんどん深くなると思います。それが本当にキリスト教らしい旅だと私は思いますけどね。

340迷える大羊:2008/08/27(水) 23:02:25
イメージと実態のギャップ
 我ながらいろいろ細かく突っ込みすぎなのか、と思わないでもないですが、それは聖書とかイエスってイメージとその実態のギャップが結構あるからなんですよね・・・。

 聖書といえば、世界一のベストセラー、世界人口3分の1の人間にとって「聖典」であり、人類を代表する世界宗教「キリスト教」の大元なわけで。また、教会によっては「誤りなき神の御言葉」で「聖書にどう書いてあるか?」でその行動、思想を決めてしまう、人生の規範とする人々が多くいる。極端なところでは「聖書はすべて事実が書いてある」とし、よって「創世記の記述と矛盾する進化論は間違っている、人の倫理を乱す、学校で教えるな、学校で創造論を教えろ」などと言い出す人々までいるわけで。

 こういう人々を輩出する聖書って一体何が書いてあるのかな?、まさか、すべて事実が書いてあるとは思わないにしても、さぞかし、練り上げられた完璧なストーリー展開、涙なくしては語れないストーリーがてんこ盛りで、人間や神のあるべき理想の姿が高らかに歌い上げられている・・、に違いない、と思って読んでみた、そしたら、あまりにも、とまではいわないにしても、何か違うんで戸惑ってしまう、というのが実感なのですよ・・。

 もちろん、イメージ通りのところもあります。十戒の8割方は正しいと思うし、預言者たちだっていいことを言うことはいっている、イエスの道徳、倫理的な教え、生き方はもちろん敬意を払うに値するとは思います。

 だけど、そのストーリーというか、話の組み立ては結構アバウトでいい加減なところがあるし、旧約聖書は下ネタ、暴力の連続、これを信仰している、というクリスチャン、ユダヤ教徒は一体何を信仰しているんだ??と思ってしまう。

 イエスも「左の頬をぶたれたら、右の頬を・・」などと言っている先から神殿で大暴れ、ムチまで作って持ち込んで、振り回して、完璧な確信犯・・。親子仲は悪そうだし、自分を受け入れない町に呪いの捨て台詞を吐く上、弟子に自分のことを「あなたは神の子」なんてわざとらしく言わせる・・・。マリアには教会の伝承とは裏腹に「聖母」を思わせるエピソードがほとんどない・・。宗教画や教会で語られる、優しげで慈悲にあふれ、意地悪くいえば、ちょっとナヨっとしたヤサ男風のイエスは一体何なのだ?どこからそんな人物像が??と思ってしまう・・・。

 今まで、思い描いていた、キリスト教とかイエスとかとは違った姿がいろいろ出てくるんで驚くんですよね、聖書をちゃんと読んでみると。でも、いろいろ、文句を言わせつつも読ませてしまう聖書というのはやはりすごい本なのかもしれません。

 「弱い父ヨセフ」、読みますね。ヨセフもマリア以上に聖書では影が薄く、聖書記述と教会の伝承との差が目立つ人物だし、タイトル通り、なんだかぱっとしないイメージですね。
 今度、教会の神父さんにもいろいろ聞いてみます。でも、揚げ足とりと思われて嫌がられるかな??

341charis:2008/08/28(木) 10:33:33
迷える大羊さんへ
はじまして。この質問箱、たのしく読ませていただいています。たしかに、『聖書』というのは不思議な本で、旧約と新約とでもずいぶん違います。

大羊さんのような疑問に対しては、スピノザ『神学・政治論』をお読みになるのが一番よいと思います。『聖書』を「聖典」としてではなく、人間が書いた文書として、テクスト・クリティークを行った、おそらく最初の本でしょう。

その他にも、ユング『ヨブへの応答』など、聖書の内容とキリスト教信仰とのズレについて書かれた興味深い本はたくさんあります。いろいろと覗いてみられたらいかがでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

342迷える大羊:2008/08/29(金) 21:58:57
はじめまして
 charis様 はじめまして。ご指南ありがとうございます。まあ、私は難しい神学、哲学とかの学問の類の話はさっぱりで、きちんと理解できるかな?との不安はありますが。

 今回の聖書と実際のキリスト教とのギャップの話も、とにかく、聖書を買って、余計な知識に頼らず、ストレートに読んでみた結果出てきた素朴な疑問、感想をつらつらと並べ立てただけなわけで、神学的、哲学的のバックグラウンドは何もありません。SEKKO先生よりせっかくご返事をいただいても「弁証法的思考?何?うにゃ?調べなきゃ」などという誠にお粗末なレベルです。

 ただ、実際に教会や信者の方々に関わった実感からすると、聖書が実際に信仰に占める割合って大きそうに見えて、実は小さいのかも?と思うことあります。かなり信仰歴の長い人でも、聖書を隅から隅まで読んだって人は稀ですし。もちろん、教会でよく取り上げられるところ、ミサや礼拝の説教に出てくるところ、についてはよく知ってます。でも、その「メインルート」から外れた部分については意外と知らない、読んだことがない人が多いみたいで。
 考えてみれば、クーデンベルクが印刷機を開発し、ルターが登場するまで、普通の人は聖書などまったく読んだことがないわけで、それでも立派にキリスト教徒、クリスチャンをやっていたわけだし、聖書を完璧に読みこなし、理解しなければクリスチャンできない、なんてことになれば、世界のクリスチャンは激減しちゃいますよね、みんな、そんなにヒマでもないでしょうし。
 また、SEKKO先生もおっしゃるように聖書のコンテンツを理性で納得したらOKというものでもなく、聖書のあそこがどうした、イエスのここがヘン、なんていうのは信仰の本質とはあまり関係ないのでしょう。でも、やっぱりつい気になってあれこれいいたくなる私ってヤな性格かな?とちょっと悩んじゃいますが(笑)

343nao:2008/09/02(火) 08:55:19
私もまた・・
charisさまに勢いをお借りしまして、私もまた本の紹介させてください。「気になつてあれこれいいたくなる性格」つて、私は尊敬しますね。イヤな奴なんて、とんでもない。
私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました。でもそういう人つて、案外多くて頼りになるんですよね。遠藤周作もそうでしたし。
ユングはその最たる人。彼の理論はキリスト教に対する疑問からはじまりました。それだけに迫力があります。
聖母マリアの処女性について、はつきり目えをひらかせてくれたのは湯浅泰雄「ユングとキリスト教」人文書院の解説でした。「ユダヤ教の伝統が肉の中に霊的価値が宿ることを認めようとしないかぎり、原始キリスト教はこれから分離せざるを得ない必然性をもつていたのである。要するに童貞聖母の理念は、霊と肉の分離と一致という論理的に矛盾する二つの考え方の結合を示している。原始キリスト教の人間観のもつ運命的な両義性がここに生まれたのである」「処女懐胎の理念はやがて聖母崇拝を生み出す。古代キリスト教が地中海世界にひろまつてゆく過程で、聖母信仰は非常に大きな役割を果たした。それは古代諸民族の宗教に共通した地母神信仰をキリスト教のなかに吸収してゆく通路の役目を果たしたからである。しかしこの理念は新しい困難をよび起こさざるを得ない。聖母となつた人間マリアは、神といかなる関係に立つのかという弁神論的問題があらためておこつてくるからである」134p。

344nao:2008/09/02(火) 09:19:24
続き
途中ではいつてしまいました。続けます。
この問題は精神と身体、肉と霊、人間性と神性、を如何に考えるかということで、キリスト教内部では東方教会のソフイア性、西方教会の男性性、カトリシズムとプロテスタンテイズムというように、キリスト教精神史の展開はこの人間本姓論の課題を軸として回転している・・ということになります。
私は哲学なんて難しくてわからないんですが、湯浅先生のユング論にはこころうごかされました。
でもまだ、満足できなかつたときに竹下先生の「聖母マリア」にであいました。両方の本をあわせて、マリアの問題は、いまのところ、「これでいいや」とおもえるようになつてきています。
ついでにいいますとユングはマリアの被昇天の教義を大変歓迎しました。そこには深層心理学的な観点があります。深層心理学からみると、随分おかしな表現もすごい象徴性をもつている場合があります。やればやれほど、おかしなことの方が、大事だつたりしてきます。
竹下先生は、信仰の迷いといわれましたが、この迷いほど、人生を豊かにしてくれるものはそう、ざらにないと私はおもつています。
大羊さんの疑問はつねに私には刺激です。これからもどしどし、投稿してくださることをねがつております。

345迷える大羊:2008/09/02(火) 22:20:07
マリアって・・・
 nao様 毎度です。

>私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました

 やはり、そう思いましたか?そうですよね。通常の常識を持ったまま、聖書を読むと、なんでこの人がここまで特別扱いされる?って思いますよね。カトリック信徒でもそうなんだ・・。charis様も引き合いに出されていましたが、ユングもやっぱり同じこと考えたんですね・・。キリスト教世界のど真ん中にいるような人でも似たようなこと考えるとは。
 といっても、ユングについては精神分析の大家、としか知らなくて、その著作は全然読んだことがないんですが・・。しかし、何しろ「無意識」という概念の発明者らしいし、一度は読まねばなりませんね。

 彼のキャリアのスタートがキリスト教への疑問から始まっているというのは興味深いですね。また、そんな人が、「マリア被昇天」を歓迎、というのもまた興味深い・・。
 思うのですが、欧米で反宗教、反キリストを掲げる人って実のところキリスト教にくわしかったり、人一倍影響を受けている場合が多いような・・。

 私が知っている例ですと、元ビートルズのジョン・レノンで、反教会ともとれる発言で物議をかもしたりしたものですが、その作る曲とか詞というは「IMAGINE」とか「ALL YOU NEED IS LOVE」とか妙にキリスト教的、イエス的だったりするのがおかしい・・。

 マリア問題に関しては私も、少々大人げないのかな?とも思うこともありますね。まあ、言ってみればSF映画の「スターウォーズ」を観て、宇宙空間で音がするのはおかしい、とかなんとかツッコミを入れているようなもので、ひょっとしたらかなり野暮なことを言っているのかなぁって。

 もちろん、アメリカのファンダメンタリストのごとく、「処女懐胎は科学的に可能、神は科学の法則も変えるのだ!!」みたいなことを言い出したら、ドン引きしますし、これは何か言わねば、と思いますが、純粋に伝承として、見えない世界に思いを馳せる、ということなら、まあ、多かれ少なかれ宗教ってそういうものかもしれないし、あれこれ言う筋合いもないかな?と・・。

 聖書に照らし合わせてあれこれ言ったものの、聖書に忠実ってことが必ずしもいいこととは思えない気もしますし。というのはいわゆるファンダメンタリストとか他宗教、他文化に対して極度に排他的(例えば、仏式の葬儀に出るとか出ないとか言い出す)な姿勢をとるクリスチャンって私の知る限りでは、信仰が「聖書のみ」のプロテスタントの方が割合的にずっと多いので・・。

 マリア信仰もどうやらキリスト教以前の民俗信仰が深く関わっているようで、これも一種の文化的な豊かさ、と割り切ればいいのかもしれませんね。

346:2008/09/08(月) 15:54:09
聖ヨセフの油
フレール アンドレの聖ヨセフの油の入手方法がおわかりでしたら、
教えて頂けないでしょうか?

先生の御著書 弱い父ヨセフ を読んで知りました。
宜しくお願いします。

347:2008/09/20(土) 08:44:50
キリスト教の歴史
 少し前、友人から質問を受けました。キリスト教(カトリック)が、政治と(国家と)深い関わりを持つようになったのはいつ頃からなのでしょうか?現在の日本の教会のような体制ではなく、いわゆる「政教一致」のような状態はキリスト教の歴史にも存在したのでしょうか?また、現在はどうなのでしょうか?
 愚問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

348Sekko:2008/09/21(日) 00:42:48
とやまさんへ
 ローマ・カトリックに関して言えば、カロリンガ朝を始めたPepin le Brefが、ロンヴァルディアを征服してローマ教皇に寄進したことで、ローマ教皇が封建領主の仲間入りをしてからでしょうか。その後、800年にシャルルマーニュが教皇から神聖ローマ帝国皇帝として戴冠されたりしたあたりから、ヨーロッパで王権と宗教の馴れ合いと対立が一体となった歴史が本格的に始まったと思われます。今は、ローマ教会は、いわゆる領地をほとんど持たないし、ヨーロッパ諸国は建前的にはどこも政教分離なので、政教一致はないですね。モナコの王室がカトリックとか、イギリスの王室の国教会とか、王室自体の伝統は残っているところが多いと思いますが。
 普通の西洋史の本の中でも書かれてると思いますよ。

349Sekko:2008/09/21(日) 01:29:20
岡田さんへ
 見落としていまして、お返事遅れて失礼しました。

 以前は L’Oratoire Saint‐Joseph のサイトに載っていたと思うのですが、今調べたらありませんでした。エゾテリックの店の通信販売みたいなのはありましたがお勧めではありません。

 もっと調べてもいいのですが、私は、こういう「奇跡のグッズ」的なものの普及に積極的に協力するつもりはありませんので、ご縁がなかったと思ってください。

 私は個人的には聖女リタの聖油を持っています。その他、聖油、聖水、メダル類もたくさん持っています。
 でも、それで何かを治したとか願いがかなったとかいう体験は全くありません。
 信じ方が足りない、心がけが悪い、使用法を間違っていた、効果がでるまで待たずに早く諦めすぎた、それらがただの水や油や気休めのグッズだった、などのいろんな理由が考えられます。でも、たとえ偶然にせよ、これらのグッズのおかげで恩恵を蒙っていたら、つい人にも勧めたくなると思うので、何かのご利益を得たという実感がなくてよかったと思っています。
 グッズに頼らなくてもかなう願い事が、その人に適した恵みだという気がします。

 私は確かに、「他の人の身に起こった奇跡話」が好きです。で、つい、本にも書いてしまいます。人間の願望やら絶望やら欲望やら、いろいろなものが宗教というシステムやら宇宙やらを動かしていきます。それ自体に感慨を覚えます。
 でも実は私は散文的な人間で、お守り類を本当に信じてるわけではありません。開運グッズを手に入れたりするのは、アンティックのメダルでも、温泉地の招き猫でも、わりと好きなのですが、たいていはそれで終わりです。

 申し訳ありません。

 でも、もし岡田さんが、自分ではどうすることもできないような心配事を抱えていらっしゃるとか、大切な方の病気の快癒を願っているなどのシチュエーションでしたら、どこか身近な教会とか寺社とか、岡田さんの宗教的風景に適した場所でお祈りをなさるだけでも楽になると思います。

 私も、信じるとか信じないとかは別に、何かにすがりたくなることはたまにあります。そういう時には、そういうグッズを身につけることで、「まさかこれ以上はひどくならないだろう」とか、「一応やるだけのことはやった」と思えることがありますので、岡田さんが何かを見つけられるとよいのですが。

 本にも書きましたが、聖ヨゼフは「効く」という噂なので、聖油で効くものなら、お祈りだけでもきっと効きますよ。

 毎年10万本の聖ヨゼフの油が売られている(聖油そのものは売れないので、ビンの値段ということです)とサイトにもありますから、モントリオールにいる知り合いに今度持ってきてもらいましょう。その時には喜んで差し上げますよ。


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