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第3章(pp. 54-67)
1
:
YS
:2012/06/30(土) 22:45:35
今回の箇所は(も?)、大変におもしろかったです。
とくに具体的な歴史的状況から中世哲学の端緒を鮮明にしてくれた点が、かなり興味深かったです。
ケルトのドルイドか。ぶっちゃけ、テレビゲームでしか接したことないわww
第2章(pp. 43-55)のスレでORさんが提起していた「ケルト人の間で祭司階級が偉いから布教しやすいって言っても、
そう簡単に他の宗教で置換できるの?」って問いにもかかわりますが、著者のケルト文化の受容って、すごいストレートな
感じがしました。とりわけそう感じたのは、p. 60の中世ヨーロッパの文明開化の箇所です。
ケルトから森を奪う→やったー!ケルト人がすんなり従僕になってくれたお!
んな、ばかな\(^o^)/
でも、そんなものなのかな?
著者の歴史観に疑問を呈したとしても、この疑問は漠とした印象にもとづいているので、疑問としての
正当さが薄弱なのはたしかなのですが・・・
今回の箇所で一番わからなかったのは、実は最初の段落でした。(p. 54)
中世は「ひとつの独立した世界」である。したがって、古代と近・現代の「中間的過去」という捉え方は間違った
歴史観を抱きやすくなってしまう。ここまでは、たしかに以前の箇所で述べられていたと思うのですが、この箇所の
理由づけがよくわからなかったです・・・
ここの理由づけは、「中間的過去」とみなすのは現代的視点の所産であって、中世哲学を興味ないものにさせてしまうから、「中間的過去」
として捉えるのは、本来は内容豊かで現代人にとっても魅力のある中世哲学を魅力のない間違った世界として映し出してしまうという
理屈によって支えられいますよね?・・・たぶんw
まずいいたいのは、そもそも中世って時代区分はたぶんに現代的な歴史観に立脚したものですよね?
中世人って、自分たちが生きていた時代を中世という時代区分のなかで捉えていたとはかんがえづらいです。
でもそれ以上に問題にしたいのは、現代の視点から離れることの必要性が本当に正当なのかどうかという問題です。
ぶっちゃけ、著者の「現代の視点」という語が具体的に何を指示しているのか、ちゃんと理解していないのではありますが、「現代の
視点」から離れた問題提起が、本当に現代人の興味をひくものであるのか、あるいは現代人であるわれわれがいかにして自分自身の視点から
脱却して、公平な観察者の視点(客観的視点)にたつことができるのか(方法論をめぐる問題)等、いろいろな疑問をおさえることが
できません。
いや、これらの問題に着手する前に、p. 54の「現代の視点」なる語がそもそも何を意味しているのか、このことをちゃんと共通理解にさせておくべき
ですよね。
わたしは、「現代の視点」が何を意味しているのか、いまひとつわからなかったです。
あと、これは重箱の隅をつつく指摘ではありますが、p. 54の最後の「したがって」から始まる文章、ここ「したがって」という接続詞は不要ですよねw
最初、文の構造がよくわからなくて。混乱しましたw
2
:
OR
:2012/07/02(月) 12:56:46
やっと読めました。
毎度遅くなって申し訳ないです(焼き土下座)。
>著者のケルト文化の受容って、すごいストレートな感じがしました。
やっぱりそうですよね。
肩すかし食らってえっ?ってなってる間に話が進んじゃう的な…
まあ、ケルト人をキリスト教に改宗させていく話は、たぶん他に本一冊かけるぐらい複雑な話に
なるでしょうし、この本の主なテーマとはそこまで深く関係ないのでバッサリ割愛されてしまった
んでしょうかね?
>「現代の視点」
また妄想と偏見をバリバリ働かせて読むという邪道な読み方をしちゃいますが、作者の方は
「もお!中世って聞いただけで色メガネかけないで、ありのままの中世世界を見ないさいよね!
ていうか中世ヨーロッパってどんな地域のいつの時代のことか分かってないんでしょ?
しょ…しょうがないから私が教えてあげるわよ…!で、でも変な勘違いしないでよね…!」
みたいなことを言いたかったのかなー…と。
あとやっぱり中世贔屓のせいもあるかもですねw
厳密に読めばYSさんのご指摘のような疑問ももちろん出てくるとは思いますが、やっぱりこの
著者の方はそこまで厳密に考えて書いていないのでは?(失礼な言い方ですが)
でも一般読者を想定しているなら、こういう書き方のほうが読みやすいのかな、とも思います。
それから、メールでお話しした件ですが、次回分に関してもこのスレで議論継続という感じ
でしょうか?
3
:
YS
:2012/07/03(火) 07:55:48
>ケルト人をキリスト教に改宗させていく話は、たぶん他に本一冊かけるぐらい複雑な話になるでしょうし
この問題については、すごい気になります。おもしろそう。
中世研究者だと、例の9.11以降、イスラムとの関係をたどるルートが最近の「ホットな」動向であるように
感じられますが、その逆の「クールな」ルートもちゃんと存在しているわけですね。
>一般読者を想定
この問題について、最近研究しているSTSの関係から話をさせていただくと、興味深い対立があることに気づきましたーこの著書の話から
ずれまくった話題、すみません;;「
たとえば戸田山和久や藤垣裕子などが想定している一般読者ーかれらの言葉でいうところの「市民」や
「公衆」や「非専門家」−は、公共的な場で出会うから、「理性的」とでもいっていいのでしょうか、いいかえれば
自分の発言に責任をもち、その後の自分自身の行動に制約をあたえる、そんな人間たちを「非専門家」や「市民」と
同定させて議論しているのにたいして、岸田一隆は「感性的」というか、「共感のコミュニケーション」に着目して、
「非専門家」を共感的人間に同定させ、これからの科学技術コミュニケーションはこうした「共感のコミュニケーション」の
点において安心や満足を与えるようなルートも確保しておかなければならないという、この必要性にかんする重要さを
力説しておりました。
この両者の対立を今回の議論に代入すると、ORさんの想定している「一般読者」は岸田先生のいうところの
「共感的コミュニケーション」をする動物という想定にちかいのかしら?
関係の薄い話題提供、失礼w
4
:
YS
:2012/07/03(火) 07:58:54
しまった、また、テキトーなことかいちゃった気がする・・・
上記の3のレスですが、藤垣裕子先生は「公衆」ということにかんして、戸田山先生に比べると
具体的ではなく曖昧なまま―しかしそれだけ、問題がおきづらい慎重な―議論の進め方をしていた気が
してきました。
ですので、3のレスの「藤垣裕子」という名前は削除ということで、よろしくお願いします。
5
:
OR
:2012/07/06(金) 17:32:25
キリスト教に改宗させていく過程もそうですが、改宗させていく過程(改宗させた後もそうなのかもしれませんが)
の、土着の文化とキリスト教文化が混じり合ってるのも面白いですよね。
っていうかそれって主にアーサー王伝説のことなんですがw
キリスト教的な要素はちりばめられてるのに、聖書的っていうよりも土着の神話伝説風なのがいとをかし。
ああ、やっぱり根っこの部分までキリスト教化することはできなかったんだな…という面白さも。
だからこそ、この本みたいにケルト人を改宗したくだりをさらっと書かれちゃうと違和感を覚えちゃいますね。
>一般読者
あ、すみません、例のごとく今回もそこまで深く考えてませんでした…
(「専門家じゃない人」ぐらいの意味で「一般読者」という言葉を使っただけです…)
不勉強なもので、STSについては全く何も存じ上げないのですが、
「共感的コミュニケーション」をする人についてもう少し詳細をキボンしてもよろしいでしょうか。
「言うだけ言いっぱなし」(すごく乱暴な言い方ですが)みたいな人のことなのでしょうか?
6
:
YS
:2012/07/07(土) 11:23:05
「本文が長すぎます」というエラーが生じたのでもどるを押してみたら、記述した文章が消えやがった・・・w
レス5への回答の文章だったのですが、おなじような文章を書く気力も、ひいては、今回の読解の箇所についての
疑義等の文章を書く気力も、すみません、ちょっと書くためのモチベーションがおおきく失われたので、すこし
時間をおいてから記述するようにいたします。
7
:
YS
:2012/07/07(土) 22:43:24
>それから、メールでお話しした件ですが、次回分に関してもこのスレで議論継続という感>じでしょうか?
それでいきましょう!というか、そうさせていただきまする。
>「共感的コミュニケーション」をする人についてもう少し詳細をキボン
ハイ!よろこんで!!
岸田先生は、まずコミュニケーションの要素をふたつに大別します。一方が情報交換を要素とするコミュニケーションで、他方は共感や共有を要素とするコミュニケーションです。で、共感的コミュニケーションは、後者の共感や共有を要素とするコミュニケーションのことで、このことにかんしては岸田先生の具体例がわかりやすいので、それにならって具体的な説明を試みてみます。
ある夫婦がいて、その夫婦のあいだでこんな会話があったとします。その会話は、嫁から旦那への話題提供によって生じました。その話題は、町内のある問題をめぐっていました。このコミュニケーションのさい、旦那はその問題の具体的な解決案を嫁に伝えました。ところが嫁は、その具体案を耳にして「わかっていない!」と感じました。
このとき、旦那から嫁へ伝達されたのが、情報交換を要素とするコミュニケーションに該当します。これにたいして、嫁が「わかっていない!」と感じたとすると、嫁は旦那とのべつの形態のコミュニケーションを求めたことになります。そしてもし旦那が「おまえも大変なんだな」とねぎらいのことばをなげかけ、嫁が「そうそう、そういうこと」と感じた場合、この場合であれば、そもそも嫁は旦那に共感や同情をもとめたことになり、これが共感を要素とするコミュニケーションに該当します。
岸田先生が、この後者の共感を要素とするコミュニケーションを重要視している理由は、ふたつあります。それは、たとえば安心等の問題をめぐる科学技術コミュニケーションのさい、安全性という点でリスク率0%と科学的に主張できない事柄が問題になっており、それでも科学者が市民と生活の安心について論じなければならない場合、いくら情報交換を要素とするコミュニケーションを試みたとしても、市民の側に納得が生じる確率はあまりたかくないと予想されます。したがってこの場合であれば、共感を要素とするコミュニケーションが効果的ではないのかという期待が、第一の理由です。
8
:
YS
:2012/07/07(土) 22:44:12
第二の理由は、サイエンスカフェの実施数は年々増加傾向にあり、さらには科学フェスティバル等が実施されるようになったとしても、そしてとりわけ日本の場合あの大惨事が生じたとしても、欧米や米国に比べいまだ無関心層の数が相当数います。この無関心層にいかにしたら関心をもってもらえるようになるのかという問題についても、従来のように科学をめぐる知識を伝播してもあまり効果的ではないと思われます。したがって従来の科学コミュニケーションとはことなる形態のコミュニケーションを試みることで、無関心層に関心をもたせるようにしたほうがいいのではないかという、これまた期待が、第二の理由にあります。
この点で、戸田山先生のように大衆と市民を区別して、大衆とのコミュニケーションをきってしまって市民とのコミュニケーションに収斂するルートよりも、岸田先生のルートのほうが、日本社会にとってメリットがあるという点で非常にわたしにとっても興味深いです。なぜ興味深いのかというと、ううう・・・実は先週にご連絡をうけた件なのですが、およそ今から2週間後に開催される某研究会で、研究発表者がきょうきょ発表できない状況になり、そこでわたしに発表にかんする通知がきまして、それへの準備を、これまたきょうきょしているのですが、その発表でSTSの科学技術コミュニケーションを内容としたいと思っており、そこで岸田先生の論点が使いやすいというのが興味深さの理由です。
>「言うだけ言いっぱなし」(すごく乱暴な言い方ですが)みたいな人のことなのでしょうか?
これは根幹的な質問だと思います。岸田先生の共感的コミュニケーションをする科学者の実例として、テレビ等に出演して科学のおもしろさを伝達する者もふくまれております。テレビの場合、「言うだけ言いっぱなし」という状況がどうしてもでてくると思います。たとえ視聴者からの質問が生じたとしても、そくざに応答することは不可能ですし、時間的な意味であれば、「言うだけ言いっぱなし」という問題は回避できないと思います。
ただ、岸田先生もこの問題は考慮しており、共感的コミュニケーションを大衆の扇動と区別しようと試みておりますが、この点で明確な線が引けるのかという問題は非常に重要だと思います。
って、すこし問題がずれてしまいましたね。「言うだけ言いっぱなし」という人は、べつの言葉で表現すれば、応答する(give a response)ことをしない人、すなわち無責任な(irresponsible)人を指示しますよね?こちらの意味に忠実になるのであれば、岸田先生が共感的コミュニケーションにおいて「言うだけ言いっぱなし」の人は意図されていないです―ただし結果的観点をとりいれると、どこまで回避できるのかは、申し訳ない、よくわからないです、というか自信がないです。
では、今週の内容についていきたいと思いまする!
9
:
YS
:2012/07/07(土) 23:01:15
今週の内容についてですが、じつは疑問に思ったことは特にありませんでした。
ベーコンとデカルトの対比を、イギリスとフランスにおけるキリスト教権威との地理的関係から
試みた点は、すごい示唆的でした。
じつは博論の審査の際、KWBR先生からある反論を受けました。その反論とは、フンボルトの大学論にかんする
ものであって、フンボルトの大学論は、中世のdisputatioを否定する旨が記述されております。
フンボルトによると、当時のドイツの大学の口述試験は、いってみれば演劇的な要素がたぶんにあり、つまり
すでにできあがった「台本」があって、その台本どおりに答えれば試験をパスできるというのが通例になっており、
フンボルトはその原因を、明言しておりませんがおそらくスコラ学の、disputatioにみいだし、そのあとはよくある
筋道の展開になります。すなわち、これまでこういうところがいかんかったから、これからの大学はこういうように
しようという、あの筋道です。
フンボルトが大学論を起草していた時代、ドイツというかプロイセンはナポレオンに敗北して、フランスの学術形態を
ドイツに取り入れるべきかどうか、取り入れてないから戦争に弱く、実効性の乏しい成果しか生み出せないのではないか
ということが問題になったようです。
フランスは周知にごとく総合大学(University)を軽視し、独自の大学観のもと教育をおこなっていますが、当時のドイ
ツ人の目には、その教育のあり方こそがナポレオンを生み出せたというように映っていたのかもしれません。
これに対してフンボルトは総合大学の意義を擁護するために、あえて中世に悪役を演じさせたところがあり、ってあれ?
話がずれちゃいましたね・・・('A`)
まま、上記の話を思い出させてくれた箇所でした・・・w
10
:
OR
:2012/07/09(月) 10:23:38
今回の箇所の、p.69〜の近代哲学者による中世哲学のネガキャンのくだりは面白いですね。
こういう見方が定説であるのか、それともこの著者の方の見方であるのかは分かりませんが、
なるほどと思いました。
>中世のdisputatio
僕もkwbr先生から聞いただけですが、中世の討論ってお祭りのときに一般公開されてるもので、
その内容もショー的な要素が強い、というかほぼショーみたいなものだったみたいですね。
もちろん台本ありという…
こんなこと言うと怒られちゃいそうですがテラやらせwwwwww
それから、内容にはあまり関係ないのですが、p.68の梟の話は、有名な「ミネルワの梟」のこと
ですよね?
「ミネルワの梟」が哲学を表すのはいいとして、「黄昏(夜)」の解釈がいまだにいまいち
よく分からないです。
というか、この表現に出会うたびに違う解釈に出会ってるような気が…
今回の箇所では「夜」は「国家衰退の時期」だと著者の方は言っていますが。
「ミネルワの梟〜」についての定まった解釈ってあるんでしょうか?ご存知でしたら教えてください。
11
:
YS
:2012/07/10(火) 05:51:45
>「黄昏(夜)」の解釈
現実的なものは「理性」的であるって場合(現実の後追い)と、国家やら文明やら歴史やら(現実的なもの)の
「衰退」を意味する場合と、たしかにいろいろ耳にしますな。原文を読んだこともなく、定説にかんしてもよく
わからないです。
マルクスの「宗教は人民の阿片である」の「阿片」(負の意味やら医療的意味やら)よろしく、多義的な解釈が
可能な文章なのかしら?
>中世哲学のネガキャン
デカルトとベーコン以降、かれらが原因になってその後、中世を無視する流れが形成されたって
はなし(p. 72の最後あたり)でしたが、中世の研究者たちがキリスト教と自然の哲学を天秤にかけて
前者をとっていった傾向が強かったのにたいして、こんどは自分たちが「自然科学(自然哲学?)」と
天秤にかけられて捨てられる傾向が強いほうにまわったんでしょうな―作者さんもそのことに自覚的で
あるから科学技術にたいする一定の「敵意」みたいなものを、遺憾なく吐露しているのでしょうが。
いずれニュートン以外、とりわけほとんどの哲学者たちは名前と主要著書ならびに主要業績は
概説書(哲学の!)等で目にするけれども、読んだことないや^q^って状況はくるでしょうな。
・・・妄想失礼!w
12
:
OR
:2012/07/10(火) 11:12:53
>多義的な解釈が可能
なるほど…
いろいろググってみましたが(なんという怠惰な調べ方…)、やっぱり解釈は一定しないみたいですね。
昔出会った解釈で、「夜に書いた手紙を朝読むとうわああああってなるのはミネルワの梟のせいなんだよ!」
ってのがありましたが、それは流石にねーよwwwwと思いましたが。
あと関係ないですが、どうしても「ミネルワの梟は夜羽ばたく」と聞くと「圭子の夢は夜ひらく」
を思い出してしまう件
>科学技術にたいする一定の「敵意」みたいなものを、遺憾なく吐露している
以前あった現代社会ディス云々のくだりはこういうところからも来ているんでしょうね。
13
:
YS
:2012/07/11(水) 06:56:11
>現代社会ディス云々
星空がみえない→ネオンのせい
星の運行の現代的解釈→幼稚!
って感じで科学技術への批判的意識がありそうだな〜と思った次第ですが、近代科学技術を直接的
に批判しているっぽいのはp. 43の真ん中ぐらいの「現在の行き詰まりの状態」をめぐる説明文あ
たりということで。
科学技術への敵意と現代社会ディスの関係については、関係ないとことはなさそうだという曖昧な
回答で許してくだせー
>「圭子の夢は夜ひらく」
守備範囲、ひろすぐるでしょw
最近、音楽ってか、歌関係のものを聞かなくなっちゃったな。
中田ヤスタカあたりで完全にストップしてますわ。
14
:
OR
:2012/07/12(木) 20:55:15
今まで読んだ限りですと、科学技術批判というか現代社会批判はこの本の裏テーマ的にも
見えるような気がします。
とは言え現代社会批判は別に珍しいものでもないし、中世をわかりやすく理解させるために
現代と対比した中で、おまけ的に批判も交えてみた、ぐらいなのかもしれませんが、やっぱり
この本の中世贔屓が以下略
>守備範囲
宇多田ヒカルデビューのときに騒がれたからそれなりに世間の知名度はそれなりにある…はず!
と思いましたが、最近宇多田がツイッターで「母の動画保存したかったんじゃダウンロード違法化
がなんぼのもんじゃい!」ってつぶやいてたんですが、それに対して「えっなんで?」という声が
多かったのでそうでもないのかもしれませんね…
>中田ヤスタカ
僕は音楽に全然疎いんですが、きゃろらいんちゃろんぷろっぷさんに楽曲提供したときは
業界騒然だったらしいですね。
さすが楽曲がジョジョスタンド名になっただけあるなあ…
15
:
YS
:2012/07/13(金) 10:29:08
>現代社会批判はこの本の裏テーマ的
たぶんですが、この著書のタイトルの「天使はなぜ堕落するのか」の「天使」は、広義の「人間」
をも含意する(p. 35の2−4行目)方を採用しており、その堕落の端的な事実として現代という時代が
想定されているような気がします。
そりゃ、神の存在を信じ、神の業に近づこうとした中世人が現代人よりも優れている(贔屓される)のも、
そもそも堕落という事態がきわめてキリスト教的世界観を前提にしているから、かぎりなく必然的な帰結として
著者の側から提示されているのかもしれませんね。
なんか、ここまで書いてて、自信がどんどんなくなってきましたが・・・w
>宇多田ヒカルデビューのときに騒がれた
宇多田ヒカルはすごかったですな。あれ?過去形にしちゃうとまずいかな?
>楽曲がジョジョスタンド名
それは知らなかったw
wikiで調べてみたのですが、ジョジョがそもそもいまもなお連載中だったということも
知りませんでしたわ
16
:
OR
:2012/07/14(土) 13:49:21
>「天使はなぜ堕落するのか」の「天使」は、広義の「人間」をも含意する(p. 35の2−4行目)方を
>採用しており、その堕落の端的な事実として現代という時代が想定されている
なるほど、たしかにそう考えると、別に天使が主なテーマだというわけではないこの本が
こういうタイトルになった理由の説明にもなりますね。
>宇多田
今は活動休止中でしたっけ?なら過去形でもいいような。
でも芸能人って少しのお休みでも活動休止って言うし…
それとも、宇多田はもうおわコ…うわなんだお前やめくぁwせdrftgyふじこlp;
>ジョジョ
めっちゃ連載中でめっちゃ新章突入ですよ!
今の8部の舞台が仙台なので今度仙台でイベントやるらしいですよ
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