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Web誌友会 板/2

4662a hope:2014/12/07(日) 00:18:41 ID:cEpBaIdo

トキさま 

お返事をありがとうございます。 合掌。

(トキさまのご発言)『生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」
というのは、もともと、「心の法則」を説明する時に使う説明です。』

ですが「神の法則」とは現象人間の偽我による「心の法則」のことではないですよね?

わたしは現象人間の過去に犯した罪や迷いが「心の法則」によって現れるのが自壊作用なのではないかと理解していますが、
この「神の法則」とは「心の法則」でも、実相世界の展開のことなのだと思うのですが・・・。

わたしは、現象世界の法則であっても、その法則が人間の迷いや罪によって屈折することなく実相世界からそのまま真っ直ぐに投影されていれば、
すべてが大調和して現れると思うのです。
ですから、地震などの天変地異などによって現象人間が被害を受けて見えてしまうのは、
現象人間の過去の迷いが消えるための自壊作用なのではないかと思っています。
たしか、雅春先生は、「津波は流産児の涙である」と言われたのですよね?
(今、大熊先生が「赤ちゃんの命を守る運動」を頑張って展開してくださっていますが・・・)

ですから雅宣先生の<<地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。>>
というお考えにはすごく違和感があります。

なぜなら、「甘露の法雨」にも、
「神があらわるればすなわち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、
乏しきものなし。」
とあるように、神があらわれれば地震などという人間を苦しめるような不調和な事態は起きないのが真理だとわたしは信じているからです。

それに、天変地異も戦争も不慮の事故も病気もすべて現象世界の出来事ですから、すべては影であり実在ではないわけですから、
たとえ何が起っても、わたしたち「生長の家の教え」を信仰しているものは実相世界の完全円満さを信じることができるわけですから、
わたしたちは本当に幸せだと思います。


(トキさまのご発言)『 この総裁のご文章は彼個人の自然観を説明するための文章ではありますが、生長の家の信仰を伝えるものではない、といえます。 』

トキさまがハッキリと、「生長の家の信仰を伝えるものではない」と否定して下さっていて「ホッ」としました。

雅宣先生のご文章を拝見していて感じることは、雅宣先生は「生長の家の教え」の概要は頭では理解されているようですが、
「生長の家」の信仰はされていないのではないかということです。(純子先生にも同じことを感じます。)

だって、お二人のFBにも、ブログにも、神想観をしているとか、聖典を拝読しているとか、愛行をしているとかそういうお話はほとんど出てきませんものね。

わたしの感じていることが間違いだったら心からお詫びいたしますが、もしそれが当たっていたとしたら、
そのお二人が「生長の家」の頂点に立つ総裁・副総裁をされているというのはとても不思議なことですね。

4663a hope:2014/12/07(日) 00:33:36 ID:cEpBaIdo
>>4661SAKURAさま

web誌友会ご参加ありがとうございます。 合掌。
今夜は遅いので、また明日お返事させていただきますね。

4664志恩:2014/12/07(日) 05:39:31 ID:.QY5jUA6
a hope様

トキ様、SAKURA様が、コメントされてましたが、大熊良樹先生も ブログに、
この事に関する 生長の家の教えから 観られた コメント を載せておられましたので,転載させて頂きます。
……………………………………….
大熊良樹先生のブログより

📈【 地震は地球の 感情座の異変】📉 平成26年19月9日

▽いのちはひとつであり。。互いに影響 し合っている のである。
それは、人間の関係 においてもそうであるし・・(自他一体であるという事である)
自然(地球)と人間も同じ関係にある。

自然災害について、思う事があります。結果には 必ず原因があり、そこには 必ず法則が 働いています。
 法則自体は「悪」では ありません。。
現象顕現の法則は、「現れ」即「洗われ」として、 浄化の働きを 持つのであります。。
現象は、諸行無常であり、「出たら」(かたちになったら)「消える」(無くなる)のです。
一定のエネルギーがたまると 抑えられたエネルギーは、容量を越えると、機会(縁に触れて)をえて「発露(顕現)」するのが法則であります。

しかし、なに(原因)に対して、なに(結果)が起こるか、法則に照らして、知ること わかること(理解すること)は、 災難を回避するための、
重要な智慧であると思います。。。

▽昭和52年刊行の「如意自在の生活365章」(日本教文社)p45にて、
谷口雅春先生は、天変地異 について こう説かれています。

地球もまた生命体であるから、人間とひとつであり、(「人間は「体」の面から見ると地球より 発生した「地球の子」みたいな
ものであるから」【本文引用】と表現されています。。)

原爆水爆など 地殻実験したり、地球を汚し貶めると)人間の想念感情が乱れたりすると、(また人間同士で貶め合うと)
地球の内層にある霊体・幽体・エーテル体 等に損傷をうけて、
(地球からまた)人間感情に影響を与えたり、噴火 地震などの天変地異という 現象となるという内容である。。。
 (あい呼応してしまう・・という事である)

まさに人と地球は ひとついのちであり 強くつながっているのだ。
地震は周期的に起こるだろうが、起きるタイミング。 人時処、三相応が重大である。。。
同じ地震 といっても・・ 地震の起こる場所で規模で タイプで、津波が起こるか 起こらないが決まる。
また、住宅の 建てる高さ海抜、位置。に寄って被害が変わる。。

朝か、昼か、夜か、いつ起こるかで・・被害も変わる。。
人間の想念感情 ということでいえば・・先祖が津波は ここまで来るぞ、と書いて石碑で残しているのにも関わらず、
無視して・・・千年に一度の災害が 来るものですか・・と、国民を代表する国会議員が震災直前に 言ったりする。。
われわれは、大いに「神」に「先人」に 御先祖様の声に・・・大自然の声に耳を 傾けなければ成らないと思うのであります。。

何々したから これこれが起こった・・   というのは光明思想 ではありません。(天罰思想と いうのでしょうか・・)

神は愛であり、裁きや試練など  一切与え給わないので  あります。逆であります。これこれを大事に しなさいという愛の教訓。
これを大事にしたら幸福になれますよ・・ という「幸福への鍵」。
幸福人生への重大ヒントともいえる・・     

大切な教えが  暗示されているのが  現象なのであります。これを「心象」といいます。 
われらはなお一層、真摯に声なき声に耳を傾けて「心象」たる「現象」から、 如何に生きてゆくべきか  学んでゆかねばなりません。
中絶をこのまま赦し続けて、尊き赤ちゃんのいのちを 見殺しにし続けるのならば、いくら上っ面の「国際平和」を祈り、
(深層に根差した祈りとは  いのちを礼拝する祈りである。)

「自然保護運動」を展開しようとも、

 (現象は心の影であり、 いのちを礼拝するところから自然が整う。)

 それは「空念仏」であり、 本末転倒となるのであります。

そういう「正中」(御意)を外した祈りなき信仰者は私の周囲にはいませんが・・。この事は実に大切なことであります。

4665志恩:2014/12/07(日) 05:43:58 ID:.QY5jUA6
4664: 平成26年19月9日 ➡平成26年10月9日に訂正

4666志恩:2014/12/07(日) 07:53:44 ID:.QY5jUA6
「法則」(ルール)について

雅宣総裁が語られる「物理学や化学の法則」というのは、人間が作り上げた 地球でしか通用しない「地球の法則」
と,私は受け取っております。

一方、谷口雅春先生が説かれた「心の法則」とは、雅宣総裁が言われる
「地球の法則」を“超越した“ “人智を超えた“高級霊界に導かれている「宇宙の法則」だと思っております。

ともかく、いま地球は 大激変中のようですね...、それに伴って、それに連動するかたちで、生長の家も 大激変中のようです。

前に、縹様が詳しく教えて下さいましたが、
雅春先生の神示や、様々な預言に書かれてある通り、 今、われわれは、新しい時代の潮流「宇宙の法則,心の法則」の時代へ と
大きく舵を切ろうとしている転換期の時代のところに 差し掛かっていて、そういう時代に ご一緒に 生きている….。

そして、本来の生長の家の「心の法則」とは、
雅宣総裁が、今、語られておられるような1000人のうち、5人が、理解出来るかどうかも分からないというような
「複雑」「難解」な法則ではなく、創始者であられる雅春先生が説かれておられた法則は、もっともっと「単純」な法則なのでは?

この法則で生きれば、都会に生きようが、森で生きようが、どこで生きようが、どこのどなたでも 大安心の気持ちで生きられる 平易な心の法則です。

このような 元の教えの 心の法則を 確信し、実践さえすれば、

「束縛」➡「自由」
「不公平」➡「公平」
「ムダ・ムラ・ムリ」➡「効率」
「短所是正」➡「長所進展」…..の世界が、宇宙に通用する永遠の法則なのですから、自ずから展開しだすと思います。

「心の法則」ではなく、
雅宣総裁のお立場に立ち、雅宣総裁の説かれる、「地球の法則」の お考えに照合した考え方をしてみますと、正しいことを仰っている。

《人間の文明がこれまで築いてきた社会システムや考え方のために、地球環境は今、大変な危機に直面していること、
それらの危機の原因を作ったのは、人間のエゴと嫉妬心が産み出したことだ。》

この雅宣総裁の これらの考え方は、「地球の理・法則」なのですが、「地球の理・法則」とは、人類が作り上げた、地球でしか通用しない法則のことですから。
もうすぐ通用しなくなりそうですよ。

そして、ここ10年の間に、このような雅宣総裁の考え方は急速に勢いをなくしつつあるように思います。
いま幸せに生きている人たちは、ほとんどが「宇宙の理・心の法則」に従って生きようとしている人たちだからです。

「地球の理・法則」を、
雅宣総裁が、音頭をとって、主張されてる事と,裏腹に、生長の家の教団内部の組織自体が、エゴに支配された閉鎖的な空間になっている、
そのエゴの法則に支配された組織になってしまって、教団全体が、こんなに凋落しているのは、どういうわけでしょう。

このことを1つとっても、このお考えが 
人類を幸福にするものとは、正反対である 誤った一時的な法則である事が、理解出来るではありませんか。

一方、これと対極に位置するのが、雅春先生が説かれた「宇宙の理である心の法則」であると存じますが、

こちらの方が、開放的で共生と融和を基礎にした永遠の法則のようです。

なるべく早く、元の教えであるこちらに変わるのが正しいと思われます。これは「全宇宙で通用しているルール」で、開放系のルールですから。

4667a hope:2014/12/07(日) 10:09:47 ID:cEpBaIdo

>>4661 SAKURAさま

『小櫻姫物語』の興味深いご文章を紹介してくださりありがとうございます。
志恩さまご紹介の>>4664の大熊先生のご文章にも『「地球」が「人間の感情想念」にあい呼応してしまう』という内容があります。
SAKURAさまのご紹介してくださって文章の内容となんとなく似ていると感じました。

以前、このweb誌友会でも、『「人類意識」と大きな災害の関係』の内容を学んだ気がしています。
後で探して、復習してみますね。

SAKURAさまのご参加とても嬉しです。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。 合掌。

4668a hope:2014/12/07(日) 10:12:05 ID:cEpBaIdo
>>4664 志恩さま

大熊先生の貴重なご文章を探し転載してくださりありがとうございます。
このご文章は、赤ちゃんの命を含めた個人の命(魂)の救済をおろそかにしている現教団への警告のようにもとれますね。

<< (現象は心の影であり、 いのちを礼拝するところから自然が整う。)>>

この言葉が「どーん」と心に響きました。



また、>>4666では「法則」についての素晴らしいご指導をありがとうございます。

わたしは、雅宣先生は「生長の家の教え」は小さいころから学ばれていたでしょうから、
頭では十分理解されているのではないかと思うのです。

ですが、現象の問題を見つめられすぎて、そのことに捉われてしまわれた。
そこで、「現象は本来無い」と理屈ではわかっていても、現象的な「地球の理・法則」を重視され、
どうしても現象処理的な運動をされてしまうのだと思うのです。

でも、それは志恩さまがおっしゃるように、雅春先生が説かれた「宇宙の理である心の法則」とは、
まったく別物ですよね。

雅宣先生が一日もはやく、本来の「生長の家」の教えの素晴らしさを思い出して下さることを祈っています。

4669a hope:2014/12/07(日) 10:16:06 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます!

今朝、大熊先生のブログへ行きましたら新しyou-tube が紹介されていましたのでご紹介させていただきます。

https://www.youtube.com/watch?v=9pmz3jbNI8E&feature=youtu.be&list=UU72N5dUOwviUHUlBGtmU92w
↑「いのちを守る親の会」大熊理事長の情熱溢れる文書「退職の辞」公開!!( 2014/12/06 公開)

4670トキ:2014/12/07(日) 20:54:46 ID:PIBoJmSc
a hope 様

 コメント、ありがとうございました。

 遠出をしていましたので、ただいま帰りました。お返事遅れてごめんなさい。


 最初に谷口雅春先生のご著書、「人間そのものの発見とその自覚」という聖典
を拝読させていただきます。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------

「人類の運命を決するもの」という題で話すことになっております。「人類の運命を決す
るもの」という題を話すについては、運命とはなんぞやということを話さなければならな
いと思います。運を天に任せるなんていう言葉がありますが、運という字はめぐるという
字が書いてあるのであります。運というのは誰か神様から強制的に吾々に割り当てられた
ところの宿命というものではないのであります。「因果はめぐる」なんていう諺がありま
すように、原因、結果の法則によって、その原因が結果となり、その結果がまた新たなる
原因を作って循環してゆくことになっているのであります。

 従って、いいことをしたらきっといいことが出てくる。悪いことをしたらきっと悪いこ
とが出てくる。人を憎めば憎まれる。奪えば奪われる、というところのその根本的な
「因果の法則」というものがあるのであります。その「因果の法則」をまた「業の法則」
とも言います。或いは「心の法則」ともいうのであります。吾々個人も、その運命とい
うものを自分がつくってその結果を穫り取るのでありますが、「大体、個人の運命とい
うものは決まっているか」と言うて訊く人がありますが、大体、生まれた時にその運命
の三分の一は決まっているのであります。

 それは、何故、決まっているかというと、これは神様が与えたんじゃなくて、吾々は
何回もこの世に生まれ更わってきているのでありますから、過去に、生まれ更わる間に
積み重ねてきたところの業の蓄積によって決まっているのであります。

(p198より謹写)

(つづく)

4671トキ:2014/12/07(日) 21:23:10 ID:PIBoJmSc
 谷口雅春先生の教えで、「神」と「法則」の言葉が出てきた場合は、いわゆる
「縦の真理」で言及される場合もあれば、「横の真理」で言及される場合もあり
ます。

 例えば、聖経 続々甘露の法雨の中にある、

 「神の子 人間」の上には、神の法則のみ支配す。

とあるのは、縦の真理と理解するのが普通でしょう。一般論として使う場合は、
「神」と「法則」が出てきた場合、大半は「縦の真理」で理解すべきです。

 ただし、「心の法則」での説明と理解すべきあと思われる場合もあります。

「人間そのものの発見とその自覚」(谷口雅春先生著)のP210にある、
「法則としての神と個別的人格としての神」というくだりは、横の真理と解釈する
のべきだと私は解釈しています。

 「神は法則である」という言葉が、生長の家の講演などで使われる場合は、だいたい
「不昧因果」(ふまいいんが) に近い意味に使われています。「神は法則である」と
出たら、だいたい、「だから、えこひいきしない」という言葉が続くのが普通です。もっとも
これは繰り返しますが、私個人の理解ですが。

 特に、総裁がこの二つの言葉を

>>「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」

という理論を正当化する根拠に使ったなら、これは「横の真理」の例えとして使ったとしか
考えられないからです。(「縦の真理」だと、これは疑問の余地なく間違いになります。)

 以上、ご説明申し上げました。

 さて、誌友会に戻ります。

(つづく)

4672トキ:2014/12/07(日) 21:43:12 ID:PIBoJmSc

 さて、生命の実相第15巻の95pに谷口雅春先生が

 「心で心が治せないというのは「迷いの心」で「迷いの心」が治せるはずが
ないということなんでしょう。「迷いの心」でいくら力んでみても「迷いの心」
は治せません。「迷いの心」を治すのは、「真理を知った心」のみです。

とあり、「迷いを治すのは真理のみです」と書かれています。

 ほんとうの真理を知ることの大切さを痛感する次第であります。

4673a hope:2014/12/08(月) 00:08:39 ID:cEpBaIdo

>>4670 >>4671トキさま

「心の法則」と「神」に関するご説明をありがとうございます。
とてもよく理解できました。合掌。

たしか「不昧因果」(ふまいいんが)という言葉は、以前トーキングスティックボードで復興Gさまが、
「百丈野狐」のお話をしてくださった時にお勉強したのを思い出しました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/154
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/159

少し難しいお話だと感じましたが、雅春先生のご解釈が深くて感動したのを覚えています。


<<「人間そのものの発見とその自覚」(谷口雅春先生著)のP210にある、
「法則としての神と個別的人格としての神」というくだりは、横の真理と解釈する
のべきだと私は解釈しています。>>

「人間そのものの発見とその自覚」というタイトルの聖典もあるのですね。
雅春先生はいろんな角度から真理を説いて下さっていますが、わたしは今まで雅春先生の聖典を拝読していて、
矛盾を感じたり混乱したりしたことは一度もありません。
それは、本当に「神さまのお言葉」なんだからだと感じています。


ところで、先日>>4656で謹写した部分の最後の一文が抜け落ちていたので半分だけ再掲させていただきます。

―――――――――――――
p40 後から3行〜
われわれが五官で物質を観、現象を観、それに立脚していろいろ複雑な理論を作りあげて、
物質もある、現象もあると肯定するのはいともやさしいことなのであります。
科学者はみんなそれをやっている。

しかし実相覚で「物質は無い」というのは理屈ではないのです。
誰でも頭の善さを信じて理屈で真理に這入ってゆこうとして理屈をますます複雑にし、
「物質は無い」と単純に承認すればよい所を、
「物質は無いと有るとを超越したところの有るである」と無理に複雑化して言ったり、
「ニセ物の我は無い」と単純に否定すればよいところを「ニセ物の自分も真我(ほんもの)の一顕現として実在である」
などと複雑に言っていられると、いつのまにかその人は物質があるやらないやら、
自分自身で言っていながらわからなくなるのです。
理屈は迷わせるのです。

―――――――――――――――――――

抜け落ちていたのは「理屈は迷わせるのです。」という最後の一文ですが、
雅宣先生のご文章は、本当にこの理屈が多いようにわたしは感じています。

4674志恩:2014/12/08(月) 09:29:46 ID:.QY5jUA6
a hopeさんは、他の掲示板はご覧になってないそうですが、「愛国」本流掲示板にa hopeさんのご発言が転載され、それに対するコメントも書かれてありましたのでご紹介します。

雅宣先生の「次世代への決断」の『大地震は〝神のはからい〝 か?』に混乱・・・ (5593)
日時:2014年12月06日 (土) 12時23分
名前:きんき

トキ掲示板より

a hope:2014/12/06(土) 10:51:36 ID:cEpBaIdo
>>4655 >>4656 a hope所感)

次に、雅宣先生の「次世代への決断」の『大地震は〝神のはからい〝 か?』p82から雅宣先生のご文章を一部ご紹介させていただきます。

<<・・・しかし、その一方で、生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。
この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、
地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。
そうすると「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。
しかし、その場合、自然界の法則によるのは、「百年に一回起こる大地震」だけではなく、
「九十九年間は大地震が起こらない」状態も当然含むのだから、「九十九年間の地殻の安定は神がもたらす」ということも同時に言わなくてはならない。
なぜなら、〝法則としての神〝 は人間にとって悪いことだけをもたらすのではなく、良いこと、ありがたいことも、常にもたらしているからだ。・・・>>p86 3行目〜
(一部分だけの紹介をお許しください。)

みなさんは、この雅宣先生のご文章を読まれて混乱されませんか?

ここにある「物理学や化学の法則」または「自然界の法則」とは地殻変動等を起す「物質世界の法則」のことなのだと思いますが、
雅宣先生は<<「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。>>
とお答えになってしまっているのです。

要するに、物質世界を神の創造であると複雑な表現ではありますが、認めてしまっておられるのです。(二元論)

物質世界(現象世界)は実相世界が屈折されて投影された映像であり、本来無いものであり、
決して神の創造ではありませんよね?

わたしが理解している「神の法則」は「神への中心帰一の法則」です。
「神の法則」が完全に顕われている「実相世界」は久遠の今であり、人間に不幸をもたらすような不安定は存在しない、
常に安定だけをもたらす、完全円満な理想世界だと信じています。

みなさま、わたしの解釈に間違いがあれば、どうそご指摘ご指導をよろしくお願いいたします。

……………………………………………………………………

おいおい、「物理学や化学の法則」が「神」かよ。 (5599)
日時:2014年12月07日 (日) 11時48分
名前:講師会長やめました。

>地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから<

>地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。<

おいおい、「物理学や化学の法則」が「神」かよ。

科学万能は「唯物論」だよ。

霊の法則が抜けているよ。すなわち、「愛の法則」ダ。


さては、講師試験、受けていないな?この人は。

a hopeさんの言われる通りですね。

4675a hope:2014/12/08(月) 11:55:04 ID:cEpBaIdo

>>4674 志恩さま

愛国掲示板の記事をご紹介くださりありがとうございます。
わたしは生長の家関係の掲示板は、すべて拝読はしませんが目を通すようにしていますので、
時々、わたしの投稿を紹介してくださっている方がいるのは知っていました。

今回は、「講師会長やめました。」さんが、わたしの投稿に賛同してくださるコメントをくださっていて心から感謝しています。 合掌。

他の雅宣先生の講習会での質疑応答の内容や、組織板でトキさまが教えて下さった教団の来年度の方針などを拝見してしると、
現教団がおおきく真理から外れて、迷走している様子がハッキリと伝わってきます。

なぜ、この様なことが起こっているのかわかりませんが、わたしはたとえ一人になっても「生命の實相」を学び続け、、
正しい「生長の家」の信仰を続けていきたいと思っています。

4676SAKURA:2014/12/08(月) 19:52:07 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。

>> 4667 「a hope」様 お返事ありがとうございました…。「感・謝」……

昨日…横スレにて…投稿させて頂きました中に…『霊の世界』……
■「小桜姫物語」の引用を…投稿させて頂きました…。
(尚!この著者は、「創立者 谷口雅春先生」とも関連されました方かと思います…。)

尚!重複しますが…下記が詳細投稿の記事(フェイス・ブック)からの抜粋投稿と……
させて頂きます…。此処で…討論されていましたところの
『地震』に関しての話題は〜〜〜『神が与えたもうか?』…
この件の参考になればと…個人的なる解釈として詳細投稿させて頂きます…。
↓↓
              つづく
                     ❤〜SAKURA

4677SAKURA:2014/12/08(月) 19:54:36 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。
>>4676投稿の続きです。

■―― 霊界通信 ――■  −その63− 
「小桜姫物語」 浅野和三郎 著  (転載編) ―その1―
    ―― 【 四十一、海神の怒り  】 ―― 
――――――――――――――――――――――――――――――

■私が伺った橘姫のお物語の中には、まだいろいろお伝えしたいことがございますが、とても一度に
語りつくすことはできませぬ。

何れ又良い機会(おり)がありましたら改めてお漏しすることとして、ただあの走水の海の御入水遊ば
されたお話だけは、何うあっても省く訳にはまいりますまい。あれこそはひとりこの御夫婦の御一代を
飾る、尤も美しい事績であるばかりでなく、又日本の歴史の中での飛び切りの美談と存じます。

私は成るべく姫のお言葉そのままをお取次するRことに致します。

『わたくし達が海辺に降り立ったのはまだ朝の間のことでございました。風が少し吹いて居りましたが、
空には一点の雲もなく、五六里もあろうかと思わる広い内海(いりうみ)の彼方には、総の国の低い
山々が絵のようにぽっかり浮んで居りました。

その時の私達の人数はいつもより小勢(こせい)で、かれこれ四五十名も居ったでございましょうか。
仕立てた船は二艘、どちらも堅牢な新船でございました。

『一同が今日の良き船出を寿(ことほ)ぎ合ったのもほんの束の間、やや一里ばかりも陸へ離れた
覚しき頃から、天候が俄かに不穏の模様に変って了いました。西北の空からどっと吹き寄せる疾風、
見る見る船はグルリと向きをかえ、人々は滝なす飛沫を一ぱいに浴びました。
それにあの時の空模様の怪しさ、赭黒い雲の峰が、右から左からも、もくもくと群がり出でて満天に
折り重なり、四辺(あたり)はさながら真夜中のような暗さに鎖されたと思う間もなく、白刃を植えた
ような稲妻が絶間なくなく雲間に閃き、それにつれてどっと降りしきる大粒の雨は、さながら礫
(つぶて)のように人々の面を打ちました。

わが君をはじめ、一同はしきりに舟子達(かこたち)を励まして、暴れ狂う風浪と闘いましたが、
やがて両三人は波に呑まれ、残余(のこり)は力つきて船底に倒れ、船はいつ覆るか判らなくなり
ました。すべてはものの半刻(はんとき)と経たぬ、ほんの僅かの間のことでございました。

『かかる場合にのぞみて、人間の依むところはただ神業ばかり……。私は一心不乱に、神様にお祈祷
(いのり)をかけました。船のはげしき動揺につれて、幾度となく投げ出さるる私の躯――それでも
私はその都度起き上りて、手を合せて、熱心に祈りつづけました。と、、忽ち私の耳にはっきりとした

一つの囁き、『これは海神の怒り……今日限り命の生命を奪る……。』
覚えずはっとして現実(うつし)にかえれば、耳に入るはただすさまじき波の音、風の叫び――が、
精神(こころ)を鎮めると又もや怪しき囁きがはっきりと耳に聞こえてまいります……。


『二度、三度、五度……幾度くりかえしてもこれに間違のないことが判った時に、私はすべてを
命に打ち明けました。命は日頃の、あの雄々しい御気性とて「何んの愚かなこと!」とただ一言に
打ち消して了われましたが、ただいかにしても打ち消し得ないのは、いつまでも私の耳にきこゆる
あの不思議の囁きでございました。

私はとうとう一存で、神様にお縋りしました。
「命は御国にとりてかけがえない、大切の御身の上……何卒この数ならぬ女の生命を以て
命の御生命にかえさせ玉え……」

二度、三度この祈りを繰りかえして居る内に、私の胸に年来の命の御情思(おんなさけ)が
こみあげて、私の両眼からは涙が滝のように溢れました。一首の歌が自ずと私の口を突いて
出たのもその時でございます。真嶺刺(さねさ)し、相模の小野に、燃ゆる火の、火中に立ち
て、問いし君はも……。

『右の歌を歌い終ると共に、いつしか私の躯は荒れ狂う波間に跳(おど)って居りました、
その時ちらと拝したわが君のはっと愕かれた御面影――それが現世での見納めでございました。』

― その2 ―に続く
❤〜SAKURA

4678SAKURA:2014/12/08(月) 19:56:51 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。
>>4676>>4677の投稿の続きです。

■―― 霊界通信 ――■  −その63− 
「小桜姫物語」 浅野和三郎 著  (転載編) ―その2―

    ―― 【 四十一、海神の怒り  】 ―― 
――――――――――――――――――――――――――――――

■橘姫の御物語は一と先ずこれにて打ち切りといたしますが、ただ私として、ちっとここで申添えて
置きたいと思いますのは、海神の怒りの件でございます。大和武尊さまのような、あんな御立派な
お方が、何故なれば海神の怒りを買われたか?――これは恐らくどなたも御不審の点かと存じまするが、
実は私もこれにつきて、指導役のお爺さんにその訳を伺ったことがあるのでございます。
その時お爺さんは斯う答えられました。――

『それは斯ういう次第じゃ。すべて物には表と裏とがある。命が日本国にとりて並びなき大恩人である
ことはいうまでもなけれど、しかし殺された賊徒の身になって見れば、命ほど、世にも憎いものはない。
命の手にかかって滅ぼされた賊徒の数は何万とも知れぬ。で、それ等が一団の怨靈となって隙を窺い、
たまたま心よからぬ海神の援けを獲て、あんな稀有の暴風雨を巻き起したのじゃ。

あれは人霊のみでできる仕業でなく、又海神のみであったら、よもやあれほどのいたずらはせなかった
であろう。たまたま斯うした二つの力が合致したればこそ、あのような災難が急に降って湧いたのじゃ。

当時の橘姫にはもとよりそうした詳しい事情の判ろう筈もない。
姫があれをただ海神の怒りとのみ感じたのはいささか間違って居るが、それはそうとして、

あの場合の姫の心胸にはまことに涙ぐましい真剣さが宿っていた。あれほど真心が何ですぐ神々の
御胸に通ぜぬことがあろう。それが通じたればこそ大和武尊には無事に、あの災難を切りぬけることが
出来たのじゃ。橘姫は矢張り稀に見るすぐれた御方じゃ。』

 私はこの説明が果してすべてを尽しているか否かは存じませぬ。ただ皆さまの御参考までに、
私の伺ったところを附け加えて置くだけでございます。

                  つづく
❤〜SAKURA

4679SAKURA:2014/12/08(月) 20:00:19 ID:???
「トキ様」 へ 「a hope様」 へ 「観覧者の皆様」へ 
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜す。
>>4676>>4677>>4678 の投稿の続きです。

>> 4667 「a hope」様 お返事ありがとうございました…。「感・謝」……

私の申し伝えたい事は…
■【人間の念!〜〜思念!〜〜〜】つまり人間は肉体人間ではなく…
生命そのもの…つまり!霊的のモノ――>すべて「霊的人間」とは???
【心…】から来るものではないのでしょうか・『心の法則』

ですから〜〜〜

■□「地震・災難」とか?その他の場合は、やはり!
■「霊・界」でも軌道修正は、なされている様です。…が?――>『レイヌのお話』より!
(生命の実相に記載されています。)それが〜〜〜悲しいかな?
『念!〜〜思念!〜〜“心の世界感”が〜〜〜悪の方へ傾いた場合』は、
しかもかなりの【悪・念…】がきたす時は、さすがに「霊・界」でも……
やはり「軌道修正は出来ないとの事」を【生命の実相】でも書かれていました。
…が?【地・震】も〜〜〜「念…想念感情」から?起こりうる事と〜〜〜

そうしますと、現状…【生長の家】は、唯!
全面的に【エコ運動】中心を打ち出している中身ですから『心・の・法・則』は……
都合のいい解釈論で云っているように思います。

本当に!『心が豊かになる!!』のは〜〜〜【物からの“唯物論”の展開】に
どうしても見えて致し方ありません。

■今!の【生長の家】は夜の世界=水物中心とか?このように見えてしまいます。
色々な方の情報を収集しましても……変です〜〜〜ョネ!
最終的には【知・識】これは〜〜〜【心の状態によるモノ】では〜〜?

「神の世界」から〜〜〜遠のいた感じ〜♫が見えて致し方がないのですョネ!!
今回!【小・櫻・姫・物・語】を読んでから、
正直な話…3代目…今の「総裁御夫婦」におりましての【愛…】とは…??
この頃?疑問が〜〜〜いたるところに見えてしまいます…。
また!最近まで「HO職員」という名目上の職員(臨時?外部職員?)なのでしょうか?
果たして、これは【教・化・部】にどのような影響を及ぼすモノなのでしょうかと、
個人的ではありますが〜〜〜じっくり!じっくり!見ております…。

                  ❤〜SAKURA

4680a hope:2014/12/08(月) 21:29:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p41 7行目〜

南――それではわれわれは「物質は無い」「ニセ物の我は無い」と単純に信じていれば一番よいのでございますね。

谷口――そうです。それを反駁(はんばく)する理論づけすることは、肉眼で見て有るように見えるものを有るといい、意識に有るように感じられる「我」を有るというのですから最もやさしいことで、もっとも信じやすい理論ができるのですが、それは今までの人間知恵であって人間が新たに生まれ更(か)わって救われる真理にはならないのです。

南――それでもお釈迦さんは『涅槃経』で「我」があるということをお説きになったではありませんか。

谷口――そうです。お釈迦さんは四十余年間「無我無我」といって「お前たちの我(われ)だと感じている我というものは本来無いものじゃ」とお説きになり、徹底的に「ニセ物の我(われ)」の非存在をお説きになった後、『法華経』と『涅槃経』とに「本物の我」の 存在をお説きになったのです。
『般若経』に無我が説かれていて、『涅槃経』の「有我」が生きてくるのです。
『般若経』のごとくに「我」の存在を否定することをせず、「ニセ物の我」というのも「本物の我」を肯定主張することになりますと、わがまま勝手次第、生存競争、弱肉強食、病気の我の存在をも肯定することになり、そこからショーペンハウエルのように暗い人生観が生まれてくることになるのであります。

4681a hope:2014/12/08(月) 21:31:58 ID:cEpBaIdo

>>4680 a hope所感)

ここでも、偽我「ニセ物の我」の否定と、真我「本物の我」の肯定つまり「悔い改め」がいかに大切か述べられています。

ですが、わたしたちはこうして生きていても、自分が悪いことをしているとか、罪を犯しているなんて思いながら生活している人はあまりいないと思うのです。
ほとんどの人が自分は正しいことをしていると感じているからこそ、衝突が起きたり、喧嘩がはじまったりするのだと思います。

テキストでは、この後、原さんという方が、雅春先生にどうしたら「本当の我」と「ニセ物の我」の区別がつくのかと質問しています。

続けて、謹写していきます。

4682a hope:2014/12/08(月) 22:01:26 ID:cEpBaIdo

>>4676 〜 SAKURAさま

ご紹介くださった「小桜姫物語」の著者、浅野和三郎さんというのは、大本教を谷口雅春先生と御一緒に退会された方ですね。
以下、ウキペディアから抜粋させていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5

<<専従活動家時代[編集]
早稲田大学を中退して大本の専従活動家になっていた谷口は、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記を任せられたり、機関紙の編集主幹などを歴任するなど、教団内で嘱望されていたが、1922年(大正11年)の第一次大本事件を期に、浅野和三郎に従って大本から脱退。浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ねていたが、当時流行のニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。>>

そしてこの「小桜姫物語」というのも、霊界通信のようですがとても興味深い内容ですね。

ところで、SAKURAさまも、最近の教団や雅宣先生や純子先生のご様子がおかしいと感じていらっしゃるのですね。
わたしは、現「生長の家」教団は、どんどん人の感情や心を大切にしないつまり「愛」のない宗教団体になってしまっていくような気がしています。

4683a hope:2014/12/09(火) 21:56:46 ID:cEpBaIdo
>>4680訂正 

正)谷口――そうです。お釈迦さんは四十余年間「無我無我」といって「お前たちの我(われ)だと感じている我というものは本来無いものじゃ」とお説きになり、徹底的に「ニセ物の我(われ)」の非存在をお説きになった後、『法華経』と『涅槃経』とに「本物の我」の 存在をお説きになったのです。
『般若経』に無我が説かれていて、『涅槃経』の「有我」が生きてくるのです。
『般若経』のごとくに「我」の存在を否定することをせず、「ニセ物の我」というのも「本物の我」【というものもひっきょうは一つの真我の顕われだと言って、「ニセ物の我」】を肯定主張することになりますと、わがまま勝手次第、生存競争、弱肉強食、病気の我の存在をも肯定することになり、そこからショーペンハウエルのように暗い人生観が生まれてくることになるのであります。

※【 】内の文が抜けていました。m(__)m

4684a hope:2014/12/09(火) 21:58:21 ID:cEpBaIdo
>>4683につづきます)

原――この行為は「本当の我」の顕われであるか、「ニセ物の我」の顕われであるかとういうことはどうして区別をつけたらよいのですか。

南――誰か悟りというのもを持って来て、これが悟りじゃと見せてくれませんか?

南――(誰も無言なので自分で悟って)心というものを見せてくれというのと同じか。ハッハッハッ……。

谷口――われらの実相は自他一体のものであるから、ヨリ多く自他一体の働きをするものはヨリ多く「本物の我」が顕われており、自他一体を切り割(さ)く働き――利己主義、忘恩、反逆などという「自他一体を切り割(さ)く働き」は「ニセ物の我」が顕われているのです。

4685a hope:2014/12/09(火) 22:00:41 ID:cEpBaIdo

>>4684 a hope所感)

自他一体を切り割く働きが、利己主義、忘恩、反逆などだとすると、その対義語を考えれば自己一体の働きということなのでしょうか?


利己主義(自分の利益だけを考え,他人を顧みないこと) ←→ 利他主義(利他を第一に考えて行動する主義)

忘恩(受けた恩を忘れること)←→ 報恩(恩返し)

反逆(権威・権力などにさからうこと)←→ 帰順(反抗をやめて服従すること)

また、以前、「自他一体の自覚」は生長の家の愛だともトキさまから教わりました。
今の「生長の家」にこの「愛」はあるのでしょうか?

4686a hope:2014/12/14(日) 18:51:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p49 後から7行目〜

谷口――病気の症状も「家庭の中の小言」と同じように、これは「身体(からだ)の中の小言」ですから、やはり、家庭の中の小言をなくする方法と同じようにして治るのですよ。

佐瀬さんのおっしゃった「小言も愛さなければならない、小言を言う人の身になって、ああ言って下さるのでありがたいと思うようになったら、かえって家庭の中の小言がなくなった」という事実と同じように身体(からだ)の中の小言でも同じことです。

身体の中にも治す力と舅姑(しゅうとしゅうとめ)がいて、それが自分の心、身体に応じて小言を言ってくださるのです。

その小言が熱となり、痛みとなり、苦しみとなり、吐瀉(としゃ)となり、下痢となって現われるのですから、自分の内部に働いている「自然寮能博士」という舅姑の心持ちになって、「こんなわたしの身体に気をつけてくださるのだ、ありがたい!」という気持ちになって発熱でも疼痛(とうつう)でもありがたく受ける気持ちになれば速やかにその病が治ってしまうのです。

4687a hope:2014/12/14(日) 18:53:59 ID:cEpBaIdo

>>4686 a hope所感)

『大調和の神示』に「天地万物に感謝せよ」とありますが、わたしたちは病気や犯罪、
災害等の自分にとって不都合にしか思えないことには、なかなか感謝できないのが普通だと思います。

ですが、『それをしなさい』と神さまは「大調和の神示」で繰り返されていますね。
実相世界は「感謝」で満たされていて、「病なく、迷いなく、罪なく」すべてが大調和しているのだから、
わたしたちもすべてに感謝できて、天地の万物と和解できれば、みんな、救われるのですよ、と。

そして、それができるのが「神の子人間」であり、それを人類に知らしめていくことが、
生長の家の「人類光明化運動」なのだと思いました。

4688a hope:2014/12/17(水) 09:59:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p50 6行目〜

谷口 ―― 雑念というのも、病気の症状や家庭の小言と同じことです。
小言は家庭を善くする働きであって、その小言の使命を知り、その小言はありがたいと思って反撥せずに素直に受けるようにしますと、自然と小言を言う必要がなくなって家庭が平和になり統一するのと同じように、雑念というのも実は心を平和にして精神統一をする働きがあるのです。
空の雲というものは一見、空を曇らしているように見えますけれども、雲というものは本当は空を綺麗にすみきらす働きをするものなのです。
(中略)
雲は空気を澄みきらす働き、症状は病気を治す働き、雑念は心を澄みきらす働きなのです。

4689a hope:2014/12/17(水) 10:00:08 ID:cEpBaIdo

>>4688 a hope所感)

途中、中略しましたが、ここに「空の雲」を例えにあげて、「業の自壊」(自壊作用)の説明がとても詳しくされています。
晴れ渡った実相世界から見れば、現象世界での様々な不都合と見える状態はすべてこの雲に当たるのですね。
そう思うと、なんだかどんな困難な現状でも冷静に対応できそうな気がします。

4690:2014/12/17(水) 10:10:20 ID:???

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写―

◆ 信仰の満潮期と干潮期

 吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、凡ゆる方面に吾々の生活が輝いて来て、病は癒やされ、家庭は調和し、事業は繁盛におもむき、「行く所可ならざるなし」というような状態になるのが普通である。そういう時にその人は信仰に熱がのっていて、所謂る「感激中」というような状態になるのである。所がその感激中は、そう長くは続かないのであって所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。最初に自分を感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、それに伴って自分をとり囲んでいる物質的環境も順調に行かなくなって色々の悩みやいらいらしさが現れて来るのである。
 ある場合には、自分自身又は家族の中に突然の病気が現れて来たり、愛する者との間に何か紛争が捲き起って来て耐えがたいような状態を演出することもある。暗黒が自分の周囲をとじこめて、迷宮はますます迷宮に入り、再び真理の光を見る望みは失われ去ったようであり、ともすれば、自暴自棄になろうとする。病気や周囲の不調和そのものの苦しみよりも、一度はあんなにも奇蹟を現して、自分に輝く世界を見せてくれていた真理が、今は何の効果もなく、この悩みを解決する力を失ったという事の打撃の方が、尚一そう痛切に感じられるのである。もう拠り所がない、もう掴むべき一筋もないというような時が往々にして訪れる。淋しい信仰の頽廃期である。

◆ 真理の種子は暗黒の中にも生長する

 かかる時吾々の魂は叫ぶ。真理は無力なのか? 信仰は無駄なのか? 祈りはきかれないのか? 否、否、祈りはきかれているのである。真理は有力に働いているのである。吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。暗闇の中でも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸して吾々を生かしている。かように、真理は吾々の暗黒期の中でも有力に働いていてくれるのである。祈りはきかれてすべてが順調に進んでいるのである。暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに生長し、祈りはそこに実現すべく働いているのである。祈りによって蒔かれたる真理の種子は潜在意識の暗黒の大地の中に蒔かれていて、そこには日光が射さないけれども、種子は次第にふくらみかけているのである。そして、緑の小さい芽がその胚芽から生長し出でつつあるのである。吾々は一旦自分の潜在意識に蒔かれたる真理の種子が、もう芽をふかないかと思って、掘りかえしてみるような愚かな事をしてはならないのである。吾々が種子を目に見えない地面の中に植えつけて、その発芽するのを大地の力に任せてしまうかのように、吾々は祈りの結果を、祈りによって蒔かれたる真理の種子の生長を、神のみ手に完全に委ねて、神が神の方法によってそれを適当な時期に適当な形で、芽を出し茎をのばし、葉を広げ、蕾をつけさせてくれるまで待たなければならないのである。神に任せてこの待つ心のないものは遂に美しき花を見ずに終るかも知れないのである。

4691:2014/12/17(水) 10:11:16 ID:???

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写――

◆「現象の善さ」よりも「魂の善さ」を

 一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々阿が信念の欠乏から、掘り返してみない限りは必ず膨脹し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、頭をもたげ、土を破るのである。その結果は破壊と振動とがその周囲に起るのである。それが起らないようでは、その祈りが効果があったというに足りないのである。新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。かくて古きものは破壊し新しきものが現れるのである。周囲に起る不調和と見えたものは吾々が祈りを求めた新しき状態に移るために古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。これを吾々は「迷いの自壊作用」といって来たのである。この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。吾々はその変化の中に、擾乱の中に、不調和の中に、病気の中に、周囲の反抗の中に、祈りの実現しつつある過程を見て、感謝し得るだけの智慧をもたなければならない。吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。そんな擾乱の中に於いてすらも、その奥に神の智慧と愛との導きのあることを見得る所の魂の発達こそ、神が吾らに課し給うた所のものであるのである。吾々は直に小さな「現象の善さ」を求める。然し、神はもっと立派な「魂の善さ」を与えようと欲していられるのである。吾々が神の前にさし出す盃が余りにも小さいのである。吾々はもっと大きな盃をださなければ神の愛と恵みを完全に受けることはできないのである。神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに気がつかなければならないのである。

◆ 解決を神の方法に委せ切れ

 もし吾々があらゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現れたとしたならば、吾々は喜ばなければならないのである。それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。またその地面を平かにしようと鍬や鋤を加えてはならない。吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。吾々は神に全托しなければならない。神は「神の方法によって」吾が祈りにこたえ給うのである。自分の我の心で「神の方法」を批判してはならない。かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、
「神よ、あなたの無限の智慧を以って吾を導き給え。神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えてわが魂の発達致しますように」というようでなければならないのである。
 もし吾々が、祈りにも拘らずそこに現れた不完全な状態と見えるものに対して、恐れ戦き、或は周章狼狽し、我の心でその状態を変化しようと努力するならば、折角「神よあなたの方法にお任せ致します」と祈ったその祈りを、取消してしまうことになり、神の智慧に逆いて我の智慧を行使することになり、結局、祈った事物の実現をおくらしてしまうことになるのである。
 祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、「神の方法」に逆わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。然しこれは時としては甚だ難しいことがあるかも知れない。ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えてきた相手が自分に反抗して立ち、自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、恩を仇で返すような仕打をしてくることがあるかも知れない。そのような時に、普通ならば吾々は彼を憎み、自己を弁護するために、彼と同じように彼の欠点を数えあげて相手を傷つけたくなるであろう。然しそれでは決して神のみ心にかなうやり方ではないのである。かかる状態が自分の目の前に現れたということは、自分の魂がそれによって磨かれて、かかる敵をすらも愛する力を、わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。

4692:2014/12/17(水) 10:16:53 ID:???


>>4688 a hopeさん

 上記は自壊作用に関する、私の好きな文章の紹介です。雅春先生は、本当に素晴らしいと思えます。

 さて以下に同書より、もうひとつ紹介します。祈りですが、「効果があるから不調和な事が起こるのだ」・・・・・その事がよく理解できる御文章です。そして不調和の中にあっても「これは、祈りの効果が現れつつある過程である」、そう確信できる御文章でもあります。ご紹介しますが、

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写――

◆ 祈りの反応としての不調和

 祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。

 それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。

 発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、新しき組織ができつつあるのである。これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。肉体は魂の「機関」であり、精神の「座」であるから、発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、必要なる所の改造が行われつつあるのである。それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、それは病気でもなければ不調和でもないのである。魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して「ありがとうございます」と感謝しなければならないのである。




4693「訊」:2014/12/17(水) 16:22:31 ID:???

 「web誌友会参考文献板」にも、自壊作用のご文章を掲載しました。199と200がそれです。

 ご参考になさってください。



4694a hope:2014/12/17(水) 22:25:15 ID:cEpBaIdo

>>4692「訊」さま

自壊作用に関する雅春先生の素晴らしいご文章をたくさんご紹介くださりありがとうございます。合掌。
拝読していて、「谷口雅春に訊け」ブログを思い出していました。

毎回、雅春先生やその御子弟の先生方のご文章にぴったりの音楽と映像をつけて紹介してくださっていて、
当時のわたしはあのブログにどれだけ感動してどれだけ救われていたかわかりません。
今となっては懐かしい思い出のようにもなってしまいましたが・・・。

ところで、「迷いの自壊作用」ですが、これぞ「生長の家」の〝個人救済の要〝 となる真理なのではないかと感じています。

わたしは「自壊作用」というと、聖経「天使の言葉」の冒頭にに収録されている「久遠生命」の神示を思い出します。

「久遠生命」の神示
(無相円相一切相の神示)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1896
(帰幽の神示)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1897


わたしは、人が本当に救われるというのは、病気が治ったり、お金に困らなくなったり、人間関係がうまくいったりするような、
現象的に都合がよくなるようなことではないと思っています。

どんな困難な事に出くわしても、神を信じて大安心の心持ちでいられるようになること、
「生き通しの生命」を心から信じられるようになること、
どんな相手であっても自他一体感を感じられるようになること、

そういうことではないかと感じています。

4695まこと:2014/12/17(水) 22:39:53 ID:bVgHiQ3c
雅則さんって
教えを何もわかってないのですねえ世襲って駄目ですね。
さ悟った人がなると良いですね。
物質無しをね。
な中々いないでしょうが。

4696まこと:2014/12/17(水) 22:48:20 ID:bVgHiQ3c
どんな困難に出くわしても、、、
行き遠しの命を信じて、、、
a hopeさん
そうですね、すごい!
そうなれない自分、いったいいつになったら、、

4697a hope:2014/12/18(木) 10:36:13 ID:cEpBaIdo

>>4695 >>4696 まことさま

web誌友会ご参加ありがとうござます。 合掌。

ところで雅則さんとは雅宣先生のことでしょうか?

わたしは、雅宣先生は「現象問題」に捉われすぎてしまって、
混乱されているように感じています。

その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。

だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、
それが迷いだとは気づかないわけですから、同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。

「生命の實相」は完璧な聖典です。
わたしたちは、本当の悟りが得たかったら、大悟された雅春先生の「聖典」だけを拝読していればいいのだと思います。

4698a hope応援団:2014/12/18(木) 10:51:20 ID:V8o5OZMU
その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。

だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、
それが迷いだとは気づかないわけですから、同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。

                     ↓
言葉を変えれば岡山の講習会参加者の半分が自由意思参加者として、4000人は迷いの淵に沈みつつある馬鹿者だということになる

4699トキ:2014/12/18(木) 11:14:22 ID:W358PcAI
 私が若いころは、まだ、谷口雅春先生の直弟子の方々がご存命でしたが、
こういう方々でも、晩年、

 「長年、生長の家をやってきて、やっと最近になって、谷口雅春先生の
言われていたことが少しわかるようになってきた。」

としみじみ述会されていたのを思い出します。現象の世界に生きる私たち
が、谷口雅春先生の教えを完全に体得するのは、少し時間がかかるのかも
しれません。谷口雅春先生ご自身が、「自分も一修行者」と言われていま
したが、進歩向上の余地が無限にあることに喜びを見出すべきなのかもし
れません。

4720a hope:2014/12/18(木) 19:02:05 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p52

荒川――われわれは過去にいろいろ「集積」があってそれを浄めるためにはいろいろの努力をしなければならない。
一朝一夕にその「集積」が集まらない。
善くなろうと思えども善くなれない憾(うら)みをうたた感ずるのであります。

谷口――達磨が「悟り」ということを言い出したために悟らぬ人が殖え、『大乗起信論』に無明の起源が論ぜられたために「無明」はあると思って迷う人が殖えたのです。
「無明」なんか本来ないのですよ。集積は無いから放っておけば自然に消える。
「迷い」は本来無いから放っておけば自然に消える。「ある」と思えば引っかかる。
無いとわかれば自由自在なのです。

荒川――なるほどよくわかりました。

谷口――「迷う我」が本来あると思うから、いろいろと苦労をして迷いから覚めねばならぬと思うのですが、「迷う我は無い」と知ったら「迷い」から覚めねばならぬと苦労する必要はない。
「迷い」から覚めようと苦労しないからいつまでも「迷い」ままでいるかというとそうではない。
心が「迷い」という自分の仮相のものに引っかからなくなるから、「迷い」が自然になくなるのです。・・・

4721a hope:2014/12/18(木) 19:06:45 ID:cEpBaIdo

>>4720 a hopeまとめと所感)

この後、雅春先生は『「迷う我」というものの考え方に三つある』としてその三つをご説明くださっています。(p52 後から3行目〜)

以下にまとめてみます。

「迷う我」の三つの観方

一、「迷う我」は無い(「生長の家」の考え方)
→「迷うまい」と自力的に努力しなくても、無いものに引っかかりようがないから、「迷う我」に引っかかりようがなくなり、自然に本当の自分が顕われてきて本来の自由自在な自分が顕現し現実の上にも人間がよくなる。


二、「迷う我」と見えるものも大生命の大きな一つの流れである(ショーペンハウエルの考え方)
→我欲の自分をそのままのさばらせることも大生命の働きだからそれでいいと肯定することになりこの世に修羅の巷(ちまた)を現出することになる


三、「迷う我」は大生命の顕われだけれども歪な顕われであるから、それを努力によって正しく修養してゆかねばならない(荒川氏の考え方)
→われわれは不断の努力がなかなか大変であって迷わぬまでに修養を継続してゆくことが果たして人間にできるかが問題になる


わたしは、「迷いは自由から来る」とご主張されている雅宣先生の「迷う我」の観方は、
この三番目の荒川氏の考え方によく似ているのではないかと感じています。

4745嘘つきトキ&「訊」応援団:2014/12/18(木) 22:45:17 ID:V8o5OZMU
削除合戦どうしたの

少し時間がかかるのかもしれません……嘘つきトキ

その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。
だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、それが迷いだとは気づかないわけですから、
同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。・・・a hope
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     ↓
言葉を変えれば岡山の講習会参加者の半分が自由意思参加者として、4000人は迷いの淵に沈みつつある馬鹿者だということになる

嘘つきトキ&a hope&縹さんは 真理を知った偉い方なんですね  4000人もの信者の方を迷い道まっしぐらと云えるのですから

只今 訊けさん推薦で広報活動に参っています 耳触りのいい話で釣っておいて 実はここだけの話ですが 版が荒れ 教団と本流両方にダメージを与えて
 漁夫の利を狙っているのよ 私たち嘘つきトキ&訊けは

4746a hope:2014/12/18(木) 23:17:17 ID:cEpBaIdo

「嘘つきトキ&「訊」応援団さま」は曳馬野さまなのですか?

もし、曳馬野さまでしたら、いったいどうされたのですか?

雅宣先生が「生長の家」の正しいご教義をされているのなら、それでいいではないですか。
わたしのような信仰歴の浅い人間の掲示板での発言など誰も気にしないと思いますよ。

4748a hope:2014/12/18(木) 23:42:03 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p53 6行目〜

谷口―― (略)病気でも同じことで、「病気は自分の本来の姿ではない」と知っても病気の状態の実在を認めて「治そう治そう」と考えている間は病気に心がひっかかっていて治りにくいのです。
ところが、「病気の自分は本来無い」とわかれば、病気に引っかからなくなり、病気が消えてしまうのです。
「病気の我」も「健康の我」も同じく大生命の一つの顕われでありがたいという観方になれば、それでありがたいという平和な念を喚起して病気が治ることもありますが、病気の相(すがた)を人間本来、生命本来の相(すがた)だと肯定すること、たとえば我欲の自分も大生命の顕われだとそのまま肯定するのと同様になりますと、「迷いの自分」と「本来の自分」とを混同することになりまして、いつまでも迷いの世界に流転しなければならなくなるのです。
だから、どうしても「病気の自分は無い」と悟る、「迷うわれは本来無い」と悟る――そして常住悟っている、常住健康である自分を見出すことが最も勝(すぐ)れた悟りであって、病気の中に治そうとして働いている生命の力に自分の生命を観、神を見出すのはやはり病気の存在を認めているから最勝(さいしょう)の悟りとは言えないので、次善の悟りということになるのであります。

第一章終わり

4750嘘つきトキ&「訊」応援団:2014/12/18(木) 23:51:07 ID:V8o5OZMU
4000人からの人を迷いの道を進んでいると云ったのはあなた  あ な た

お偉いあなた あ な た なんです

4752a hope:2014/12/19(金) 00:04:03 ID:cEpBaIdo
>>4750 曳馬野さま

わたしはそんなことは言っていませんよ。
どこにそんな証拠がありますか?

4753トンチンカン:2014/12/19(金) 00:07:38 ID:r6TJQSCM

<転載>


1600 :トンチンカン:2014/12/18(木) 22:20:00 ID:r6TJQSCM

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
何故か、「苛立(いらだ)ち」を隠せない、マサノブ爺さん!!

賛同者(信徒)の激減に、「視界不透明」で失敗続き、アァ、八方破れの八つ当たりか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・30年も前から、「綿密に」マサノブ流の<主張>を画策し、清超先生の帰幽の後には、
 <独裁者>として君臨するに至ったのであります。

 <光明掲示板> 「<生長の家・30年の暗黒史>(改訂版)」、、、をご覧下さい!!
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&amp;mode=res&amp;log=461


・「時代と共に変化する」、、との<詭弁>を弄し、雅春先生の説かれた<御教え>の根幹
 部分にまで手を着けるに至ったのであります。


・それだけではありません。 「原宿本部」は解体してしまったのです。 長崎の総本山
 は土足で蹂躙したのです。 ついには、「聖経もどき」までもが・・・


・内心では、「谷口雅春先生を超えた」気持ちだったのでしょうか・・・


・でも、でも、「信徒の目」は騙(だま)し切れるものではありません。


・最近の、「急激なる教勢の低下」こそが、すべてを物語っているのです。


・岡山の「講習会」では、「前回の受講者数」ではなく、35%も低く設定した「目標値」
 との比較をし、「目標を大幅に上回る受講者数」、、と、信徒の目を欺くような<手法>
 を取らざるを得ない所まで、追い込まれてきているのです。


・「衆生の救済」ではなく、「マサノブ爺さんご自身の救済」しか念頭にないのでしょう。


・コトここに至って、周囲に「八つ当たり」しても詮無いことではありませんか?


・「大調和の神示」を説きながら、「ご兄弟との大不調和」を省(かえり)みない、その
 根幹部分をこそ、徹底して<脚下照顧>していただきたいと思う次第であります。

4754嘘つきトキ&「訊」応援団:2014/12/19(金) 00:18:49 ID:V8o5OZMU
a hopeさんへの答え

少し時間がかかるのかもしれません……嘘つきトキ

その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。
だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、それが迷いだとは気づかないわけですから、
同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。・・・a hope
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     ↓
言葉を変えれば岡山の講習会参加者の半分が自由意思参加者として、4000人は迷いの淵に沈みつつある馬鹿者だということになる

嘘つきトキ&a hope&縹さんは 真理を知った偉い方なんですね  4000人もの信者の方を迷い道まっしぐらと云えるのですから

4755a hope:2014/12/19(金) 00:56:15 ID:cEpBaIdo

>>4754曳馬野さま

お返事をありがとうございます。

ふ〜ん。
そういう風に飛躍して解釈されてしまわれたのですね。

でも、先ほども言いましたが、4000人の信徒さんの誰もわたしの発言など気にしないと思いますので、
そんなに感情的になってこの掲示板を荒らさなくてもいいのではないかと感じてしまいますが・・・。

わたしの発言で曳馬野さまがご気分を害されたのであれば、心からお詫びいたします。

4757「訊」:2014/12/19(金) 07:07:48 ID:???

BGM “Rom&eacute;o et Juliette-Aimer ”
https://www.youtube.com/watch?v=MuZ4-cdGgQE

>>曳馬野サマ

 ご立派ですが、認知症の貴殿へお知らせです。以下は、マチガイです。以下は誌友会スレでの、貴殿からhopeさんへのレスですが、

>>>ここに来ているのは『訊け』さんの許可のもとに来ています <<<

 と、ありますね。そして「ここ」とは「誌友会スレ」を指すわけですが「マチガイ」です。

 ・・・・確かに私はドンドンやってね、そう、申しましたよ。けれども「誌友会スレに関して」は、なんと書いていますか。誌友会スレに於いては「堂々のやり取り」を条件にしてます。堂々のやり取りを条件に「来られたし」・・・・当方はそう、申していたわけです。さて、ここで問題ですが、誌友会スレでの貴殿の御振る舞いは、「正々堂々」ですか。



追伸

>>トキ理事長

 誌友会スレの珍文ですが、削除願います。ええ、無論、そんな事をすれば「和解してない!」と(笑)そんな次元で攻撃されましょう(笑)。珍文を削除すると和解していない、そんな事になるそうですが、それでもヤリましょうよ・・・・・・・・。

4758神の子さん:2014/12/19(金) 08:07:00 ID:BSasglMk
203  御教の中へすーっと自分を入れて行く、後は神が好いようにして下さいます。
あとこちらは「WEB誌友会用の資料」を、確認するための場所です



4年経ってもこの掲示板なり生長の家の現状を神がよくしてくれないのは単なる能書きマンであることを証明してるのでしょうか?
「WEB誌友会用の資料」の価値がないと思われますね

それとも別の目論見で能書きするのでしょうか?
また始まったか嘘つきが 訊けの出るとこはどこでも行く 敢えて誌友会版に誘うのかね 荒れるようにしたいのですね と確認済み
嘘つきと話はしない 嘘つきトキ&訊けさん

4759「訊」:2014/12/19(金) 08:08:32 ID:???

>>>嘘つきと話はしない 嘘つきトキ&訊けさん<<<

 じゃあ、サヨウナラ(笑)。

 お疲れ様でした。

 もう、来ないでくださいね、おなごり惜しいですが(笑)

4761「訊」:2014/12/19(金) 08:13:19 ID:???

 ここをアラしては、いけません・・・・・OK?

 >>4757を再読されて、さらには「嘘つきと話はしない」を実行されて、今年の仕事納めを(笑)もう、早急に(笑)


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