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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

198Twelve Y.O.:2009/08/11(火) 00:21:50 ID:1fDn27tQ0
済みません、加筆があります…… >>191

 言いながらも、高槻の口調はどこか歯切れが悪かった。
 高槻の言う通りで、結局最後まで口に出せなかった自分も同じだ。
 慰めの言葉すら自分が言うと空疎で中身のないもののように思えたからなのだが、そうではないのかもしれない。

 自分達には言葉がなかった。杏の気持ちに気を使うあまりに何を言っていいのか分からなかったのだ。
 不器用と言えばそれまでの話だが、実際は無遠慮や素直さ、真っ直ぐさを忘れてしまったからなのだろう。
 大人になって様々な芥を浴びてきた自分達は言葉を額面通りに捉えられなくなってしまった。
 裏を探し、真意を読もうとし、素直に受け取る術を忘れてしまった大人。
 思う気持ちはあっても、大人として生きる術を覚えてしまった体が踏み込むことを躊躇わせた。
 高槻が煮え切らないのもそこに起因するのに違いなかった。

「自分勝手だな、俺は」

 ぽつりと呟かれた高槻の声は微かで、隣にいた芳野にも僅かな音量でしか届かなかった。

「生きるためには人の力が必要なことも分かってるのに、肝心なときに何もしようとしない。黙って見てるだけだ」
「そしてそれを自覚していながら、結局は踏み止まる。自分のことしか考えられずに……」

 高槻の後を引き取り、芳野が続けた。
 ここで人から教わったこと、学んだことは多いのに、恩に対して無言という形でしか応えていない。
 自分が変わった、良くなったという自覚はあっても、人に同様のことができたかというと答えは否だ。

 やろうと思ってやれるものでもないし、やるものでもない。
 それでも無為にしてしまうことに後ろめたいものがあった。
 こうなりたいと思って、なったわけではないのだから。

 無為にしてしまったという意味では、霧島聖に対しても借りを返すことは出来なかった。
 一ノ瀬ことみはまだ生きているようだったが、少なくとも争いに巻き込まれたのには違いない。
 あの聖のことだ。多分、ことみを庇って逝ってしまったのだろう。
 ことみは聖に対して懐いているようだったから心配ではあったが、聖の性格から考えると最悪の事態にだけはなっているまいと思う。
 大人でありながら誠実さを忘れずにいた彼女と、もう一度会いたかったと思いを結びながら、芳野はごく短い黙祷を終えた。

「なぁ、芳野の兄ちゃん。告白のひとつやふたつやったことはあるだろ?」
「いきなりどうした、藪から棒に」
「いいから答えろ」

としてください。お手数ですが宜しくお願い致します

199へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:51:07 ID:e5.BK2Jg0
 デウス・エクス・マキナというものがある。
 機械仕掛けの神という意味で、脈絡もなく現れて物事を一気に解決してしまう。
 いわゆるご都合主義のことを指す。本来、そういうものは現実にありえるわけがないのだし、信じられるものでもなかったが――
 今、機械仕掛けの神は目の前に存在していた。

「……本当にありましたね」

 半ば唖然としている皆の先陣を切って、古河渚はぽつりとだが漏らした。
 学校裏側の駐車場。車が一台とバイクが二台。さあ使ってくださいと言わんばかりに暗闇の中で鈍色の光沢を放っている。
 流石に鍵こそかかっていなかったが、あまりにも早く見つかりすぎたので拍子抜けする思いの方が強かった。
 何故廃校になっていたはずの場所に車とバイクがあるのだろうか。渚はその旨の質問を重ねてみたが、宗一からすぐに返答があった。

「ここ、人工島かもしれないって言ったぜ」
「そうでしたね……」

 言われて、渚はようやく納得を抱えた。機械仕掛けの神が舞い降りたのではなく、この舞台そのものが神に作られていたのだ。
 言ってしまえば殺し合いご都合主義に即したものの配置になっているということだ。
 多分、鍵だって探せばすぐ見つかるのかもしれない。
 だが利用できるのなら何も問題はない。今の自分達がやるべきことは生きて帰ること。それだけだ。

 ここまで来たという感慨が実を結び、渚の中にようやくひとつの光景が見えるようになった。
 霞がかかっていて一歩先までしか見えなかったはずの坂道が、もう坂の上まで見通せるようになっている。
 ひとりで歩いていたはずの坂にはいつの間にか人が増えており、自分はその人達と肩を並べて歩いている。
 ようやく立たなければならない場所まで戻ってこれた、いや進んでこれたのだと自覚する。

 まだ終わりではない。道はまだ続いていて、登りきった先にどうするかも決めてはいない。
 空白のページはたくさんある。一つ一つ丁寧に埋めていけばいい。
 急く必要はない。横からアドバイスしてくれるひとも、アドバイスを求められるひともここにはいるのだから。

「やほほーい♪ さー動かすぞー!」

200へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:51:25 ID:e5.BK2Jg0
 いつの間にかドライバーやら何やらを手に持って飛び出していたのは朝霧麻亜子だった。
 どうやら鍵を探す気は皆無らしく、早速バイクに取り付いてがちゃがちゃと弄繰り回していた。
 相変わらず凄まじいバイタリティだなあ、と感心しながら渚は他のメンバーの顔を見回した。

「どうします? 鍵、探してきたほうがいいでしょうか」
「いや、それには及ばん」

 ニヤと笑った宗一の手にあったのはツールセットだった。どうやら宗一も鍵を探す気はないらしい。

「まあ任せとけ。数分もあれば終わるさ」

 ぐっ、と指を立てて宗一は車へと突進していった。
 車には鍵がかかっているようだったが、それも開ける気まんまんのようだった。
 バイクに張り付いて作業していた麻亜子が「勝負じゃ若造がー!」と言うのに合わせて「格の違いを思い知らせてやる!」と息巻いていた。
 渚だけでなく全員が苦笑していた。出番が全くなくなってしまったので待つしかなく、必然的に立ち話に移行した。

「で、振り分けはどうする?」

 国崎往人がバイクと車を見ながら言う。そういえば結局あの時……移動手段について話し合っていたときはうやむやになってしまっていた。
 現在の人員は七人。車には四人、バイクにはそれぞれ二人は乗れる。
 車には若干余裕があるようだったが、ルーシー・マリア・ミソラが「車には荷物を載せるべきだろう」という意見に全員が一致の意を得たので、
 車に三人、バイクに二人ずつということに落ち着いた。勿論麻亜子にも宗一にも相談はしていない。
 麻亜子の方は後々文句を言ってきそうな気がしなくもなかったのだが、楽しそうに勝負していたので邪魔するのも憚られた。

「というか、あいつが混ざるとグダグダになるからこのまま進める」

 それは先の一件でも明らかだったので、これにも全員が頷いた。
 あまりこういうことはしないのが渚の信条だったが、往人の言葉もまた頷けるものだったので今回は何も言わないことにしたのだった。
 それに、ちょっとした仕返しです。さっきからかわれましたから。
 こんなことを考える自分は、少し遠慮がなくなったのかもしれないと渚は思った。

201へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:51:45 ID:e5.BK2Jg0
「とりあえず、那須とまーりゃんと川澄はそれぞれ別だな?」
「だな。それは確定事項だ」

 ルーシーの言葉に往人が首肯する。付け加えるなら宗一が車で、他の二人がバイク。
 となれば、後は基本ここの面子の希望で配置が決定されることになる。
 なんだか修学旅行みたいだ、と渚は場違いだと思いながらもそんな感想を抱いた。

 いつもこういうときはひとりで、気がつけばバス席も部屋割りも決まっていた。
 小学校や中学校ではそんな感じで、高校に至っては病欠という有様だった。
 ひとりじゃないという感慨が浮かび上がり、渚は気持ちが落ち着いてゆくのを感じていた。

「はいっ。風子バイクがいいです」

 元気に手を上げて発言したのは伊吹風子だった。
 期待に目を輝かせ、しゃきっとした表情になってピンと手を伸ばす風子には、滅多にできない経験への興味があるようだった。
 こういう部分は変わっていないのだなと渚は苦笑する。

 久々に再会した風子はどこか様変わりしていて、ぼんやりしたところがなくなり、代わりに鋭さを備えたように見えた。
 くりくりとした大きな薄茶色の瞳の奥に見える、決然とした堅い意思。
 幼さを残す風貌と不釣合いになっていることが可笑しく、また危うさを含んでいるようにも感じられた。

 今にも己自身を壊してしまいそうな、どこまでも真っ直ぐに過ぎるひとつの決意――
 衝動的に抱きしめてしまったのはそれらの脆さを感じてしまったからなのかもしれない。
 ふぅちゃんは、ふぅちゃんのままいてくれれば、それでいいんです。
 口に出せなかったのは想像はできても確信には至れなかったことがあるかもしれない。
 また、止められるものではないと分かっているからなのかもしれなかった。

 知り合ったときから変わらない一種の頑固さ、意固地さは更に強くなっているように思えた。
 そんな風子だからこそ、尚更生き続けて欲しいと、渚は切に願ったのだった。

202へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:52:03 ID:e5.BK2Jg0
「よし。ならまーりゃんの後ろだな」
「ええっ」

 風子が途端に嫌そうな……とまではいかないが、不満を滲ませた声を出した。
 頭を撫でられるたびにふーっ! と反発していた風子からすると、子供扱いする麻亜子とは性が合わないのかもしれない。
 実際二人の外見年齢はほぼ同じだったし、納得いかないものがあるのだろう。
 ……実年齢もほぼ同じだというのもあるのかもしれないが。

「身長的に考えてお前が適任だろう?」

 ルーシーの理路整然とした言葉に「それはそうでしょうけど……」と憮然とした態度で答えた風子は、
 麻亜子の方をちらりと見て、「やっぱりヤです」と言った。

「どうして」
「セクハラされますっ」

 往人の目とルーシーの目が風子の胸に注がれた。風子は胸に手をやり、持ち上げる仕草をした。
 二人は顔を見合わせ、深く頷きあった。

「「いっぺん出直して来い」」
「がーん!?」

 大仰にショックを受けたリアクションをとって、風子はよよよと泣き崩れた。
 渚は自分の認識を訂正しようと思った。麻亜子と風子は似ている。間違いなく。

「そ、そんな……風子の貞操はこうして奪われてしまうのですね」
「伊吹。川澄の胸を見てみろ。ぼいんぼいんだ」

203へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:52:24 ID:e5.BK2Jg0
 微妙にセクハラ発言をしているルーシーだが、顔が極めて真顔かつ真面目なので突っ込めない。
 風子の目が舞に移る。胴衣の上からでも分かる大きな盛り上がりに「ふーっ!」と敵愾心に満ちた声を上げた。

「……嫌われた?」
「たぶん、ただのライバル意識なんじゃないかと……」

 しゅんと落ちこんだ舞に渚がフォローする。何故胸の話になったのだろうと思いながらも。

「いいんです! おっぱいの大きさなんて些細な問題なんです! おっぱいは形! 風子は美乳だからセクハラされると大問題なんです!」
「美乳じゃなくて微乳の間違いだろう」
「というか、お前が胸を語れる立場か」
「大顰蹙ですっ!?」

 往人とルーシーに一蹴され、そんな馬鹿なとくず折れる風子。
 いつからここは胸を議論する集団になったのだろうという認識が持ち上がりながらも、勝手に話が捻れていくのでどうしようもなかった。

「まーりゃんとそっくり……あっちは意図的だけど、こっちは天然」

 的を的確に射ていた舞の言葉に、渚はただ頷くしかなかった。

「あのー……それで、結局ふぅちゃんはどこになるのでしょうか」
「まーりゃんと一緒。もう確定だ」
「そ、そんな! 数の暴力ですっ!」
「わっはっは、何がそんなに嬉しいのかね?」

 尚も反論しようとしていた風子の肩をがしっと掴んだのはいつの間にか背後に忍び寄っていた麻亜子だった。
 わーっ! と抵抗するが麻亜子は器用に風子を羽交い絞めにすると頬を摺り寄せてうりうりとし始める。
 自分達がおっぱい議論をしている間に向こうは決着がついてしまったらしく、宗一は車に寄りかかってこちらを眺めていた。
 勝負の行方はどうなったのだろう、などと渚は思いながら、隣で聞こえる喧騒を半ば聞き流していた。

「さて、一組目は決まった。後は誰が舞と同乗するかなんだが」

204へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:52:53 ID:e5.BK2Jg0
 うーっ! とか ふーっ! とか風子の貞操がー、などと聞こえてくる声は誰も気にしていないようだった。
 というよりは触れてしまったらまた話がややこしくなると誰もが認識しているからなのだろう。
 渚も別に喧嘩しているわけでもなさそうなので口は挟まなかった。「風子、お嫁にいけません……」なんて聞こえたような気がしたが、
 それでも気にしないことにした。仲良きことは美しきかな。
 ……ですよね?

「まあぶっちゃけた話、私か渚が適当だろう」
「なんでですか?」

 渚は首を傾げた。普通に考えればそれまで行動を共にしてきた往人が一番適当だと思っていたからだ。
 疑問を挟まれたことそのものが意外だったらしいルーシーは目をしばたかせたが、すぐに合点のいった様子になった。

「いや、いい。気にするな。渚は渚の信じる道を行くがいい」
「……なんで話が大きくなってるんですか?」

 ルーシーは薄く笑っただけで、ぽんぽんと渚の肩を叩いた。ちんぷんかんぷんだった。

「……で、どうするの?」
「そこで俺に振るか」

 話の流れを読んだ舞が往人に聞いていた。

「私は別に構わない」
「いや……それでいいのか?」
「あーっ! 往人ちんめ、ここぞとばかりにおっぱへぶっ!」

 敏感に会話の内容を察知したらしい麻亜子が割り込もうとしたが、風子の頭突きによって阻まれる。
 たぶん、みんな心の中で親指立ててるんだろうなあと思いながら、渚はようやくルーシーが言おうとしたことの意味を察していた。

205へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:53:07 ID:e5.BK2Jg0
 よくよく考えればすぐ分かることだった。バイクに二人乗りするということは、必然、体が密着するわけである。
 それまでよく分からないおっぱい議論の渦中にいたせいで感覚が麻痺していたのかもしれない。
 自分は案外空気に毒されやすいのだと渚は認識せざるを得なかった。
 内省をしている間に、麻亜子と風子はキャットファイトの様相を呈していた。なぜ頭突きしたし! とか、ふかーっ! とか聞こえていたが、
 殴り合いでも引っかき合いでもなさそうだったので大丈夫そうだと理解して、渚は放っておくことにする。

「……いや、遠慮する。身長差があるし、見た目にも格好がつかん」
「そう……」

 無表情に頷いた舞の言葉は落胆しているようでもあり、最初から分かっていたと納得しているようでもあった。
 往人もなんとなく目を合わせ辛くなったのか、「……荷物、運ぶぞ」と言って舞や渚達の荷物を持ち、車の方へと歩いていってしまった。
 残された三人の間には微妙な空気の流れが漂い、口が開きにくい状況になってしまった。

 発端は自分だ。そう思い返した渚はおずおずと手を上げて「じゃあ、わたしが舞さんと一緒でいいですか?」と提案していた。
 気付いていなかったとはいえ、やや後ろめたいものがあるのは事実だったし、それに……
 自分に話せるだけの余裕も知識も、器の大きさもあるのだろうかと逡巡したが、やろうと思い立っている自分がいることは事実だった。
 もっと、知りたいから。

 その気持ちがあればいいと断じて、渚はもう一度「どうでしょうか」と尋ねていた。
 舞はこくりと頷き、ルーシーも「なら、私もそれでいい」と言っていた。

「じゃあ、よろしくお願いしますね、舞さん」

 はにかんだ笑顔を向けると、舞はうん、と再度頷きかけて……ぴたりとその動きを止めた。

「どうしたんですか?」
「……私、スクーターしか乗ったことがない」

 え、と渚の顔が強張る。
 つまり、それは。

206へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:53:21 ID:e5.BK2Jg0
「バイクに乗ったことはない……ってことですか?」

 ん、と申し訳なさげに舞は頷いた。よくよく考えてみれば学生という身分でバイクに乗れるなんてことは金銭面的に難しいところがある。
 一応免許を取る過程で運転はしているかもしれない。が、ペーパードライバー同然だという事実は覆しようもあるはずがない。

「だ、大丈夫ですっ。安全運転なら大丈夫ですよ……ね?」

 思わず確認してしまったのは失敗だったかもしれない、と渚は後悔した。
 舞は少し目を泳がせ、「多分」といくらか細い声で言った。
 ルーシーは既に車に乗り込もうとしていた。またもや漂い始めた微妙な空気を察知したらしい。
 どうする術もなくした渚は「えへへ」と笑うしかなかった。

「大丈夫……私が守る」

 交通安全か、渚の身か。どちらにしてもこの場では滑稽以上の意味を持たない言葉であることは、間違いがなかった。

207へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 21:53:40 ID:e5.BK2Jg0
【時間:3日目午前2時00分頃】
【場所:F−3】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている。バイクに乗って移動(相棒は渚)】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている。バイクに乗って移動(相棒は風子)】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、投げナイフ1本、鉈、H&K SMGⅡ(30/30)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(6/6)とその予備弾丸9発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。鎌石村小学校に移動し、脱出の計画を練る。車に乗って移動(同乗者は往人・ルーシー)】 

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】
支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。民家に残る】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:とりあえず渚にくっついていく】 

→B-10

208へっぽこマーチ:2009/08/14(金) 22:53:54 ID:e5.BK2Jg0
おっと、感想スレで指摘があったみたいだ…
その通りです、「鍵はかかっていなかったが」じゃなくて「鍵はかかっていたが」です…

209メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:52:12 ID:NMxDrVA.0
 漆黒の闇はいよいよ深まり、明かりも殆どないこの島では見えていたものさえ見えなくなる。
 雨は上がり、雲もなくなった空では少し欠けた月と星の瞬きが地上を照らし出しているのがせめてもの救いだった。

 車に荷物を詰め込み、もう忘れ物がないかと再三に渡るチェックを行ったリサ=ヴィクセンは、
 廃屋同然になった民家を眺めてひとつ息をついた。

 何せ車があるのをいいことに持っていけるものは持ち出せるだけ持ち出したのだ。
 タオル、着替え、食べられるもの、食器、果ては生理用品まで。
 まるで夜逃げのようだとリサは思ったものだったが、実際はこんなものは持っていかないだろう。
 通帳と手形、パスポートに印鑑といったものを頭に浮かべ、ひとつとして荷物の中になかったことを考えると、
 寧ろ旅行というに相応しいという結論に至り、リサは苦笑するしかなかった。

 徐々に自分たちは日常に回帰しつつある。人と人が関わることを始め、自らもその環に入っている事実。
 決して元通りではない、それどころか何一つとして戻ってくるものなどはない。
 バラバラに砕け散って、寄せ集めて形にしたようなものでしかない。そうすることでしか傷を塞げないのが自分たちなのだろう。
 だが元に戻せなくとも、傷が完全に癒えなくともなんとか出来てしまうのが人間なのだし、新しい欠片を見つけて繋ぎ合わせることだって出来る。
 その気になりさえすれば理由をつけ、しぶとく生きていられるのが人間なのだ。

 少なくとも、そういう逞しさ、ひたむきさを身につけたのは間違いのないことだった。
 もっとも、私はただ諦めが悪いだけなのかもしれないけれど……

 筋を通しきれずここまで来てしまった女。まだ何も為していない。それは機会を逃してしまった結果だろう。
 英二に先を越され、愚直になりきれなかったがために、自分はまだ生きている。
 それで良かった。筋を通して生き抜いた英二の姿を見たからこそ、こうして責任を覚える生き方をしている自分がいるのだから。
 恐らく、早かれ遅かれ、どちらかが死に、どちらかが残されていたのだろう。英二と自分、双方ともが不実を抱えていた人間だったから。
 生きる役割を任されたのが自分なら、それを全うしてみせるのが軍人だった。

 でも、とリサは思う。それでも共に道を歩める未来があっても良かったのではないだろうか、と考えてしまう。
 掴めるはずのない理想なのだとしても、二人で道を拓けたかのもしれないのに……
 できなかったのは、二人ともが大人であったから。その一事に尽きるのだろうと結論したリサは、
 いつか英二と同じ場所に行ったら散々に愚痴ってやろうと考えたのだった。
 女を残して行ってしまったことは、少々許しがたいものがあった。

210メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:52:29 ID:NMxDrVA.0
 どうやら諦めが悪いのは異性との関係についても同じことらしいと自覚し、雌狐と渾名された理由が掴めたような気がした。
 自分が俄かに人の匂いを帯び始めたことがただ可笑しく、口元を歪めながらリサは民家を後にした。

「リサさーん。まだ?」

 踵を返してみると、車の窓から顔を出している一ノ瀬ことみの姿があった。
 腕をぷらぷらさせ、顎を枠に乗せている様子からは、失明したとは思えないほどの元気さがあった。
 或いは、怪我などもうどうでもいいという領域にまで達しているのかもしれない。
 どっこい生きてる、という彼女の言葉と、やりたいことがあると語った真っ直ぐな表情との両方を思い出して、そうなのだろうとリサは納得する。

 不思議と、悲しいことだとは思わなかった。悲劇ではあるが、それを乗り越えられるくらいのものも手に入れている。
 だからといって幸せでもないのも確かだ。ことみ自身が今のことみを受け入れているから、悲しくはないだけのかもしれない。
 詮無いことだ、とリサは思った。自分だって、今が幸せだと言えるはずもない。だが納得はしているし、それでいいとも思っている。
 昔のままでは掴めなかった、知るはずのなかった希望が、自分の手元にあるのを感じられるから……

「瑠璃と浩之は?」
「寝てるの」

 窓から後部座席を覗き見ると、そこでは肩を寄せ合って、静かに寝息を立てている二人が確認できた。
 荷物に囲まれて窮屈そうではあったが、緊張の糸が切れたかのように安らかに眠っている。
 無理もない。ここまで緊張状態を保ってきて、体が疲れていないはずはなかった。
 逆に、ようやく眠れる場所を見つけていることに安心する気持ちを覚えながら、リサは「まあ、いいわ」と微笑んだ。

「起こすのも可哀想だし。あなたも寝ていいのよ」

 ことみにもそう言ったが、彼女はゆっくりと首を振る。

「もう寝たから」

211メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:52:48 ID:NMxDrVA.0
 ああ、とリサは頷いた。一応、麻酔で眠ってはいた。意識的に眠れない状況なのだろう。
 苦笑を漏らし、「だから、居眠り運転しないように見張っててあげるの」と続けたことみに、リサは「どうも」と言いながら肩を竦めてみせた。
 正直なところ、疲れてはいるが眠くはなかった。そうなるように訓練されているからだ。
 走行距離にしたってここから目的地までは三十分ほどの距離だ。呆けることもないはずだった。

 運転席に乗り込み、キーが刺さっていることを確認し、エンジンをかける。
 浩之の情報ではバンパーが潰れているだけ、らしかったが、実際のところはどうか分からない。
 だがそんなものは杞憂だったようで、エンジンが小気味よく音を立て始め、車が微弱に揺れた。
 音からしても特に問題はなさそうだった。

「……そういや、マニュアルじゃないのね」

 リサ達が乗り込んでいるのは一般的によくあるオートマ車で、よく乗っている車種とは程遠い。
 運転する快感は得られないのか、とどこかで残念がっている自分を見つけ、贅沢を言うなと言ってやる。

「車、好きなの?」
「ええ。早く走らせると気持ちいいものよ」
「……走り屋さん?」
「子供ね」

 恐らくはボケだったのだろうが、リサは眉一つ動かさず受け流した。
 逆にムッ、としたのはことみの方で、一蹴されたことが気に障ったようだった。

「免許取って、アメリカあたりにあるただっ広い田舎道を走ってみれば分かるわよ。特に自分の操作がダイレクトに伝わるタイプの車だと、最高」
「そういうものなの?」
「そういうものよ」

212メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:53:03 ID:NMxDrVA.0
 言いながら、リサはアクセルを踏み込んで車を走らせた。思った通り、ごくありふれた車では思った以上の初速も得られない。
 やはり残念がっている自分がいて、走り屋と言ったことみが正しいようにも思えたリサは、
 逆らうようにゆっくりとした速度を保ちながら運転を始めた。今までの調子だとどんな運転になってしまうかも知れず、
 寝ている二人を起こしてしまう可能性があったからだった。

 存外大人しい運転のリサに、ことみはしばらく怪訝な目を向けていたが、
 やがて気にすることもなく、車の窓を開けて夜陰の涼しい風に身を浸すようになった。
 低いエンジン音の他には何の音もない、静けさそのものに沖木島は包まれていた。

「そういえば」

 ふと思い出したように、ことみが呟いた言葉が流れてくる。

「もしも、の話なんだけど、学校にいっぱい人が集まってることって、十分考えられるよね」
「そうね。宗一も人は何人か集めてるだろうし」
「今の生き残りが十四人。どれくらい集まるかな」
「流石に、全員ってことはないでしょうけど……」

 専ら美坂栞と行動を共にしていたので、遭遇した人間は少ない。残り十四人のうちどれだけがまだ殺し合いを続けようとしているのかは分からない。
 それでも、自分達のように脱出を目論もうとする連中よりは少ないことは確実だろう。
 氷川村において、宮沢有紀寧を始めとして五人の『乗っている』人間は死亡している。大きくバランスが傾いたのは間違いない。
 完全にいない、と楽観視はできる状況とは言い難いが、一箇所に集合することができたなら、もはや一人二人程度ではどうにもならない。

 武器も集まっていることから、どれだけの犠牲を出したとしても『乗っている』連中を殲滅することは事実上可能だ。
 逆に言えば、説得も可能ということになる。脱出の手段があることを示してやれば、応じる可能性は十分に高い。
 それこそ、柳川祐也のように絶望しか見る事ができなくなってしまった人間でもない限りは。

 想定の上では殲滅は出来ると考えたが、実際のところもう参加者同士で戦うのは無駄だとリサは思っていた。
 戦力は一人でも多い方がいいし、この状況で人殺しだの何だのと言い合っている場合でもない。
 人の死に関わっていない人なんているわけがないのだ。
 説得に応じ、これまで行ってきたことを正直に告白するのならば、リサは殺すつもりはなかった。
 絶望と対峙してきた中で、それ以上に信じられるものもあると理解することが出来たのだから。

213メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:53:22 ID:NMxDrVA.0
「ちょっと、電話使っていいかな」
「どこにかけるの?」
「学校。言い忘れてたけど、別行動してる人がいるの」

 言い忘れていたというよりは、言わなかったのだろう。リサは即座にそう考えた。
 別行動というからには理由があるはずだった。
 例えば、脱出するのに必要な資材の確保だとか、その他雑貨の調達などだ。
 そうでなければ立て篭もっている方が安全性は高い。

 ことみにしろ、ことみの仲間にしろ外に出なければいけないくらい時間と道具が不足していたのだろう。
 いくら計画が完璧であっても、先立つものがなければ意味はない。
 そういう意味では不完全なことみの計画に乗せられたということになる。
 一種の駆け引きに負けたということだ。悔しいとは思ったが、それよりもことみのしたたかさは本物だと気付けたことが幸いだった。

 彼女の頭のキレは、脱出するのに必要不可欠だと言える。少しばかりムラはあるが、誤差の範囲だろう。
 人間性よりも先に能力の方を見てしまうのは癖としか言いようがなく、リサは誰にも聞こえないくらいの溜息をついた。
 この感覚を共有できる相手がいなくなってしまったことが、本当に惜しすぎる。

「どうぞ。どんな人なの?」
「んー、友達、なの」

 既にスピーカーの向こうに意識をやっているらしいことみは話半分にしか聞いていないようだった。
 聞き耳を立てるわけにもいかず、リサは運転に集中することにした。
 とは言っても、安全すぎるほど安全運転なので、集中も何もあったものではなかったが。

「Mary had a little lamb, little lamb, little lamb, Mary had a little lamb...」
「なんでメリーさんの羊?」
「メリーが羊を大好きだから」
「ことみちゃんは困って、困って、困ってことみちゃんはしくしく泣きだした」

214メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:53:43 ID:NMxDrVA.0
 言葉とは裏腹に、ことみはどこかしてやったという表情をしていた。
 続きを返しようがないと分かっているからだ。こういう遊びでは敵わないのかもしれないと思いながら、リサは続きを口ずさんだ。

「Its fleece was white as snow...」

 どこにでもついてきていたはずの羊は、もういない。
 やっぱり、それは、乗り越えたはずでもとても辛いことで、悲しいことなのだった。

     *     *     *

 はい皆様こんにちは、テレフォンショッキングのお時間がやって参りました。
 さ、今回は先々週月曜のナイ=スガイさんからのご紹介でナナ=シサンですどうぞ。
 ピリリリリリ。ピリリリリリ。

 今時珍しいPHSのようなコール音を鳴り響かせながら佇む電話の前で人間四人……あいや、人間三人+ロボ一体がじっと凝視している。
 さてどうしたものか。この正体不明の主と優雅な接触を図るか。
 それとも力の限りスルーして電話の主を徒労に終わらせるか。

「で、どうするんだ」

 芳野の兄ちゃんが俺を見る。釣られるように藤林とゆめみも見る。何だよ、俺がリーダー的な扱いになってるし。
 どうしろったってなあ。もうコール音は三十六回目だ。普通ならもうとっくに諦めてそうなもんだが、なかなかどうしてしつこい。
 これで新聞の勧誘だとか抜かしやがったらブチ切れるかもしれない。いや喜ぶべきところなのか?

 電話なんて滅多なことでは考えられないことだ。何故ならそうするだけの理由がほぼないからなんだな。
 だって正体不明の相手にかけたり、そもそもいるかどうかも分からないのに電話するわきゃねえだろう。
 となれば、理由はたったひとつだ。特定の相手が出ることを期待してるに違いない。
 俺はそんな約束をした覚えはない。ということは……

215メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:53:59 ID:NMxDrVA.0
「おい、誰か電話の約束とかしてなかったか」

 藤林と芳野を見る。二人はしばらくきょとんとして、やがて「ああ!」と思い出したように手を打った。
 忘れてたのか。

「ことみよ! 間違いない! ピンポイントで電話できるのなんて、あの子しかいないもの!」

 どうやら信用できる相手に至ったようだ。やれやれだぜ。
 まあ、ここ最近は色々あったからな。それに疲れもある。頭がちと鈍くなってもおかしくはない。
 思い出しただけでよしとしよう。
 コール音が四十七回目になったのを確認して、俺は藤林が受話器を取るより前に取り上げた。
 は? という表情で藤林が睨んだが、頭のボケた奴に任せる気はない。

「もしもし」
『どうせなら、五十回目まで待って欲しかったの』
「そうはいくか」

 受話器の向こうから聞こえてくるのは間延びした女の声だ。予想外であるはずの俺の声を聞いても平然としてやがる。
 或いは、この電話に出た時点で信用できる人間だと考えているのかもしれない。
 藤林が電話をもぎ取ろうとするが、手で制する。「いいから任せろ」と付け加えて。

「ということでどうも。学校の主ででございます。何か御用ですかね」
『生憎だけど、占拠させてもらうの』
「ほほう。攻め込んでこようというのかね」
『制圧前進のみなの。あなた達に生きる術はないなの』
「面白い、やってみるがいい」
「ちょっと! なんか話がおかしいじゃない!」

216メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:54:22 ID:NMxDrVA.0
 あーもう、いいところで邪魔しやがって。
 ゆめみに目配せしてみたが、首を傾げられた。この絶妙な会話を理解していないようだ。
 これだから融通の利かないロボットは……やはりメイド修行をさせるべきだな、うん。
 芳野に目配せしてみるが、奴も分かっていないようだった。なんてこった。我が軍の参謀は壊滅的ではないか。

「大丈夫だって。これからがが本番だ」

 藤林は納得のいかない表情だったが、俺にも一応実績はあることは知っているのでどうしても押し切れないようだった。
 無論、本気で戦争しようという気はない。ちょっとした言葉遊びだ。

「ことみー! 私は大丈夫だからね!」

 それでも誤解されるのを恐れたのか、藤林は口を大きくあけてそう叫ぶと、腕を組んで俺の動向を見守り……あいや、監視を始めた。
 信用ねえな。ま、自業自得か。

「聞いての通り、こちらには優秀な部下が揃っている。お前に勝ち目はないな」
『ふふふ、杏ちゃんごときなんてことないの』
「おい藤林。お前のダチ、藤林のことを大したことない、ってよ」
「……へぇ?」
『……いじめる?』

 若干顔を引き攣らせた藤林の顔と一転して涙声になったことみとやらのギャップが可笑しく、俺は声を押し殺して笑った。
 電話の主は調子に乗るとミスをやらかすらしい。或いは、藤林を恐れてるだけなのかもしれないが。
 まああの藤林の友達だもんな。お察しするぜ。

『いじめる? いじめる?』
「いじめないから続けろ」
『ん……えっと、とにかく、こっちには強力な武器があるからそっちには勝ち目などない! なの』
「ほう。こちらの鉄壁の守りを崩せるものとな」
『我が軍の大砲の前にはどんな防御壁も無意味なの。どっかーん! 敵は木っ端微塵なの』
「おお、こわいこわい」
『そういうことで覚悟してろなの。……それと』
「それと?」
『聖先生のこと、大丈夫だから、って伝えてくれないかな』
「あいよ。精々頑張って攻め込んでくるんだな」

217メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:54:39 ID:NMxDrVA.0
 プツン。そこで電話は途切れ、ツーツーという味気ない音だけが残った。
 グッ、と親指を上げてキラリと白い歯を輝かせて微笑んでみたが、藤林に殴られた。
 いてぇ。

「どこが真面目なのよ!」

 さ、最後はシリアスだったのに……説明を求める藤林の目に、俺は渋々ながら言ってやることにした。

「お前の友達は大丈夫だそうだ。今そっちに向かってるってよ」
「それだけ?」
「まあ要約するとそうだな」
「……なんか、話がこじれた気がするんだけど」
「俺の交渉術は完璧だ。時代が時代ならネゴシエイターになっててもおかしくはなかった」
「今でも、その職業は存在するからな」

 芳野が絶妙なタイミングで余計な口を出してくれやがったが、まあ気にするまい。
 確かに、無事であることを伝えてこっちまで向かってくる、というのを聞くだけなら藤林でも役目は務まった。
 しかし残念ながらその先は俺じゃないと務まらないんだな。

 これでも俺はFARGOの研究員に上り詰めただけの頭の良さ、悪く言えば小賢しさは備えている。
 何も考えず、目の前の仕事にだけ打ち込んできた日々が続いていたとはいってもキレは衰えてはいないつもりだ。
 これは自慢でも慢心でもない、れっきとした自負だ。そうとも、狡さにかけては悪党顔負けのものを持っているのさ。
 それを生かせず、責任逃れを続けてきた時点で俺の人間性は落ちぶれているも同然だが……今はいい。

218メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:54:58 ID:NMxDrVA.0
 とにかく、あの小娘……ことみとやらの会話の初めで、俺は奴がただ者ではないと思ったね。
 あんな喋り方だが、ここまで生き延びてきた奴だ。それだけで評価する価値はある。
 次にあれだけ軽口を叩けるということは、精神的にも余裕があるということだ。
 少なくとも追い詰められてはいない。俺が出てきたことに驚きもしない。
 普通なら、驚いて電話を切るか藤林の居所を探ろうとするかのどちらかだろう。

 だがそうせず、寧ろ会話を続けようとした。俺のふざけた会話にも乗ってきたということは落ち着いているという証拠だ。
 そして会話を続けようとしたこと。これは何か俺達に伝えたいことがあるということだ。
 藤林個人や、その連れである芳野に向けてではなく、藤林や芳野と一緒にいる人間全てに。

 となれば、重要事であるのは疑いようがない。だから俺は藤林に受話器を渡さなかったんだな。
 言っちゃ悪いが、藤林は言葉遊びは苦手っぽいからな……良くも悪くも直情怪行なのがあいつだ。
 芳野も芳野で鈍いところがあるしな。あいつら、案外似ているのかも。

 それはそれとして、だ。会話の中で、ことみ嬢は『大砲』を持ってきているらしい。
 『敵は木っ端微塵だ』とも。『敵』は当然俺達じゃない。残る敵……それはつまり、ここの島そのもの、引いては主催者連中のことだろう。
 要するに、ことみ嬢は『爆弾』の調達に成功したという見込みが高い。
 聞いたときには突拍子もないもんだと思ったが、まさか本当に持ってくるとはこの海の目の高槻にも見抜けなんだわ。

 敵さんは当然爆弾なんて大火力は想定してさえいないだろう。
 だから想定の外を突ける。奴らの懐に入り込める。そういうことだ。
 ピースはひとつ、揃った。後は脱出手段の確保と、忌々しい首輪の爆弾と、どこを爆破するか、だ。

「ったく……なんか、疲れた……」

 怒り疲れたらしい藤林は肩を落としてその辺の回転椅子に座ってぐるぐると回り始めた。
 あの子もあの子よ、と小さく愚痴を漏らしながら。
 しかしその顔はなんとなくホッとしていて、安心感のようなものがあった。
 なんだかんだ言って、やっぱ無事なのは嬉しいんだろう。

219メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:55:14 ID:NMxDrVA.0
 芳野はこれ以上何もなさそうだと思ったのか、同様に椅子に腰を下ろして、軽く目を閉じていた。
 ことみ嬢が来るまで休憩するつもりらしい。そういや、色々労働していたみたいだしな。

「あのう……」

 二人の様子を眺めていた俺の脇腹をつんつんとつつくものがあった。ゆめみさんだった。

「ええと、その、電話は……」

 見てみると、何故か受話器を手にとって耳に当てているゆめみの姿が。どうやらまだ切れていないと思っているらしい。
 そうか。こいつの常識では切るときにも何か言うのが普通なんだろうな。
 ここはひとつメイド修行をさせてやるべきだと判断した俺は、ゆめみの肩を叩きながら言った。

「いいか。俺についてこい。修行の時間だ」

 受話器を握ったまま、ゆめみは目をしばたかせていた。

220メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:55:30 ID:NMxDrVA.0
【時間:3日目午前1時30分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【所持品3:何種類かの薬、ベレッタM92(10/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:車で鎌石村の学校に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している。寝てる】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる。寝てる】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー9割、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

221メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:55:44 ID:NMxDrVA.0

【時間:3日目午前02時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

ネゴシエイター高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、コルトガバメント(装弾数:7/7)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、P−90(50/50)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。主催者を直々にブッ潰す。ゆめみを修行させよう】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(5/5、予備弾2発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾30/30)、予備マガジン×2、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:休憩中。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。休憩中】

ウォプタル
【状態:杏が乗馬中】

ポテト
【状態:光二個、ウォプタルに乗馬中】

222メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:56:39 ID:NMxDrVA.0
追記忘れ。

→B-10です。

223メリーさんの羊はどこへ消えた?/へっぽこ四重奏:2009/08/27(木) 23:59:20 ID:NMxDrVA.0
…更に追記忘れ。

【時間:3日目午前1時30分頃】
【場所:I-6】



【時間:3日目午前2時10分頃】
【場所:H-8】



【時間:3日目午前02時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】



【時間:3日目午前02時10分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】


ですね。

224末期、少女病:2009/08/28(金) 14:55:26 ID:yHwYMvpU0
 
懐かしい匂いに目を覚ます。
それは、夏の終わりの、隆山の夜の匂いだ。

夕立の上がった後の濡れた土。
川のせせらぎの運ぶ涼風は梢を揺らし、
草いきれは幻燈のように瞬く蛍の舞の中に消え、
一足早い松虫に誘われるように鳴き出した油蝉の聲が暗い森に吸い込まれていく。

浮かぶ月は青く、照らされる夜空は星の掴めそうなほどに近く。
炊かれる線香と送り火の煙がどこまでも棚引いて、
瞼を開ければそこには、
闇に沈んでなお鮮やかな夜の裏山の林が、
木々の向こうに垣間見える、満ちて引く潮騒の騒々しい静謐が、
土の匂いと、緑の匂いと、潮の匂いとが入り混じった、咽返るような命の力強さに満ちた空気が、
懐かしくて、切なくなるほど綺麗なものたちが、あるはずで、

あるはずなのに、

あるはずのものが、

そこに、ない。

225末期、少女病:2009/08/28(金) 14:55:48 ID:yHwYMvpU0
 
 
目に映るそれは―――煉獄の情景だった。
芽生える命は、そこにない。心安らぐそよ風も、冷たい川のせせらぎも、
まだ色付かぬ紅葉と楠とに蔦を這わせる葛の葉の深い緑も、何もない。
そこにはただ吹き荒ぶ烈風と、飛沫く血潮と、最早誰のものとも知れぬ血溜まりに覆われた岩盤と、
そういうものがゆらゆらと揺らめく炎に照らされて、纏わりつくような腥い湿気の中、
闇と朱色の影芝居のようにぼんやりと浮き上がっている。
腐敗と背徳と罪業と、悪徳という悪徳に取り憑かれた者たちが死後に堕ちる冥府。
永劫に続く苦痛と惨劇の街都。
柏木楓の、片方が潰れて白く濁った瞳に映るのは、そういう世界であった。

すう、と息を吸えば鉄錆の味がする。
嫌悪感に引き攣った肺腑が横隔膜と腹筋とを巻き込んで盛大に抗議の声を上げた。
身を捩った拍子に傷口から漏れ出した血がぐじゅりと音を立てる。
既に痛みはない。それが良いことなのか、そうでないのか、判断はつかなかった。
代わりに滲んだ涙が、視界をぼやけさせる。
ぼやけた視界の中で朱色の光景が滅茶苦茶に捏ね回されて、潰れて消えた。
もう一度、息を吸う。

ぎり、と。
眼前の煉獄と、全身の苦痛とを噛み砕くように、歯を食い縛る。
目を閉じれば、瞼の裏側に朱色はない。
小さな闇の中、そこには懐かしい、濡れた土の匂いがある。
懐かしい満天の星空と、懐かしい蛍の光と、懐かしい潮騒と、
そこにはまだ、隆山の夜がある。
それで、充分だった。

身体は、まだ、動く。



***

226末期、少女病:2009/08/28(金) 14:56:10 ID:yHwYMvpU0
 
 
跳んだ綾香の、緋色の霧を纏った身体が、爆ぜるように軌道を変える。
中空、大気を蹴りつけるが如き非常識な重心移動。
否。それは実に、空気抵抗を鋼鉄の壁となす速度を以て繰り出された蹴撃である。
人の肉体を容易く挽き潰す圧力に、綾香の右脚が骨と肉との塊に還元される。
それでも紅の弾丸は止まらない。
潰れた傍から癒えゆく脚を巻き付けるように綾香が身を捻る。
円弧から直線、間合いは数歩、いずれ差は僅か。
しかし弧を描く軌道を待ち構えていた千鶴に、最短距離で迫る綾香は捉えきれない。
超絶的な反応速度を以てすら対応できぬ、意識の間隙を突いた軌道から繰り出されるのは左の踵。
ばつり、と綾香の大腿筋が内側から膨らみ爆ぜて、強引に回転を加速させる。
刹那の間に一回転、二回転、更に半分までを回って、速度と全体重とを遠心力に積算した一撃が、
まともに千鶴の頭上へと落ちた。

「―――ッ……!」

が、と己が口から漏れた呻きの欠片を、千鶴の鼓膜は岩盤に叩きつけられた直後に拾い上げる。
みしり、と。ほんの一瞬前まで立っていた筈の岩盤に入った罅が、音を立てて頬に食い込むのを、
千鶴は感じていた。地面に倒れている、と認識。
無防備な顔面を庇って腕を翳すのと同時、被せるように追撃が来た。
びぢりと堅いものが砕ける嫌な音は、両の側から。
咄嗟にガードを上げた腕の向こう、振り下ろされた脚が荷重に耐えきれず粉砕していく音。
そして千鶴の頭を挟んで反対側、押し付けられた岩盤が、更なる衝撃に罅を拡げ、遂に陥没する音だった。

227末期、少女病:2009/08/28(金) 14:56:41 ID:yHwYMvpU0
「―――ッ!」

呼気一閃。
ガードした蹴りを弾くように裏拳で振った千鶴の爪が空を切る。
僅かな間に、綾香は紅の軌跡の外側に飛び退っていた。
勢いを殺さず跳ね起きる。
立ち上がった拍子に、どろりと口元から垂れるものがある。
拭えば、鮮血。
振り払うように睨み付けた、千鶴の視線の先には綾香が哂っている。
ぶくぶくと泡を噴き、桃色の糸を縦横に伸ばして瞬く間に再生していく両の脚を気にした風もなく、
這い蹲るような低い姿勢から見上げるその瞳には、どろどろと濁った溶岩のような色が宿っている。

「生き汚い……!」

吐き棄てるように呟いた、千鶴の声が闇に溶けるよりも早く。
綾香が、加速する。
着いた手と薄皮の貼った脚とが、獣の四肢の如くに地を噛んだ。
膨らみ爆ぜたのは上腕上肢、ほぼ同時。
血霧を棚引かせて、地をのたくるように綾香が疾走する。
千鶴の膝丈ほどの極端に低い前傾体勢。
迎撃の爪は機能しない。
故に蹴り上げるか、踏み下ろすか、逡巡は一瞬。
蛇の如く迫る綾香に対し千鶴が反射的に選択したのは蹴り上げ。
単純かつ原始的な打撃。しかし鬼の筋力に吹きつける風に混じる砂粒をすら見分ける動体視力と
反射速度とが重なれば、それは致死の一撃へと変化する。
カウンターのタイミングは完璧。
コンマ数秒の狂いもなく綾香の顔面へと吸い込まれていく千鶴の脚が、

「……ッ!?」

綾香の手に、がっちりと掴まれていた。
先を読まれていた、と後悔する間もない。
掴まれた脚が、そのまま脇へと弾かれる。
崩れた重心を支えようとする軸足が、踝の裏側から掬われた。
千鶴の視界が流れる。
映るのは闇。蜀台の焔も届かぬ高い天井。
中空、仰向けの姿勢。
危険、と本能の鳴らす警告に、しかし千鶴の知識と経験とは回答を返せない。
危険。何が。危険。どう。危険。対処が。危険。できない。危険。誰が。誰?
そうだ、敵は、来栖川綾香はどこにいる、と。
ようやくにしてそこまでを思考した刹那、衝撃が来た。

228末期、少女病:2009/08/28(金) 14:57:10 ID:yHwYMvpU0
「……ぁ、……ッ!」

か、と。
肺の奥から、呼気を一滴残らず搾り出される感覚。
気圧差に引きずられた舌が喉に詰まって貼り付く嫌悪感と嘔吐感。
一瞬だけ遅れて、突き抜けるような激痛。
真後ろ、背骨と右の肩甲骨の間を縫って叩き込まれた、それは突きか、蹴りか。
それすらも分からず、中空、体を入れ替えることも叶わないまま懸命に身を捩って振り向こうとした
千鶴の耳朶を打つ、低い声があった。

「生き汚い……?」

底冷えするような、暗い声音。
千鶴の視界を占める天井の闇を薄めて溶かしたようなその呟きが、消えると同時。
次の打撃が、来た。

「……っ」

今度は声も、漏らせない。
第二撃が襲ったのは、残された左の肺。
拡散していくのは痛みではなかった。
波のように広がっていく、それは痺れと痙攣。
そして、耐え難い寒気だった。
急激に鈍化していく論理思考の中、千鶴が己が異常を必死に分析する。
両肺への打撃。強制的に排出された酸素の不足。
加えて二つ目の打撃点は心臓に程近かった。
衝撃で生じた一時的な不整脈が、酸素を溶かさない血液を不定期かつ大規模に動脈へと送り出している。
結果、無酸素状態の筋肉が急速に機能を停止させつつある。
それこそが、麻痺と痙攣と悪寒の正体。
解決策はただ一つ。単純な回答、息を吸え。
そして、それが迂闊だった。

「 ――― 」

瞬間、千鶴の意識がホワイトアウトする。
見透かしたような綾香の第三撃は、既にどこへ打ち込まれたものかも分からない。
肌に感じる風の流れからただぼんやりと、自身が相当な勢いで吹き飛ばされているのを認識していた。
息を吸うとき、生物の筋肉は弛緩する。
気管を開けば、打撃は体内に浸透する。
呼吸のリズムを読まれるのは、敵に打撃のタイミングを教えるに等しい。
吐く息は長く、吸う息は短く。
何も知らぬ子供が入門したその日に教えられるような基礎中の基礎すら、柏木千鶴の知識には存在しなかった。
一撃、二撃と肺腑に与えられた打撃こそが布石であると、気付くことができなかった。

「……戦ってんだよ、あたしらはさぁ……!」

来栖川綾香の声は、届かない。


***

229末期、少女病:2009/08/28(金) 14:57:32 ID:yHwYMvpU0
 
―――ぐう、と。

顔を上げれば、そこには映る。
吹き荒ぶ一対の風が描く、血の色の輪舞。

愚かしいもの。蔑むべきもの。
この世界に在っては、いけないもの。
そういうものが、柏木楓の目に映る。

握り締めれば、そこに爪。
身体は、動く。


***

230末期、少女病:2009/08/28(金) 14:57:56 ID:yHwYMvpU0
 
がつ、と鈍い音が千鶴の鼓膜を揺らす。
どうやら頭から地面に落ちたようで、がりがりと尖った岩が頬を削るのを感じる。
びたりと受身も無しに妙な角度で叩きつけられた左の上腕が嫌な痺れ方をしていた。
まず間違いなく、肩口で折れている。
構わない。砕けているのでなければ、すぐに繋がる。
僅かな間を置いて、視界がゆっくりと回復していく。
周縁部に闇をまとわりつかせた中途半端な視野の中、捉えたのは赤い斑模様の裸身。
倒れ伏した千鶴に対して、姿勢は高い。
左腕を持ち上げようとして指先に鋭い痛み。
ならばと振った右腕が、あらぬ方へと走って空を切った。
抑止にもならぬ一閃を気にした風もない綾香の足が、前蹴り気味に伸びて千鶴の顔面を捉える。
さすがに、防いだ。
正面からの真正直な一撃ならば、『耐えられる』。
みずかと名乗る得体の知れぬ少女から授けられた、それが力の一つだった。
闇雲に振り回した迎撃の爪を避けるように、綾香の裸身が離れる。

腹筋だけで身を起こし、ぜひ、と喘鳴を漏らしながら伝線だらけのストッキングに覆われた膝を立てた、その瞬間。
吸った酸素が、まるで悪意でも持っていたかのように。
肺の内側を目の細かい紙やすりで擦られるような、圧倒的な嫌悪感が、千鶴を襲っていた。
咄嗟に吐き棄てた吐息が、ぬるぬると濡れている。
つんと鼻をつく異臭に、千鶴は初めて己が反吐を漏らしていることに気付いた。
嘔吐感はない。痛むのは肺腑であって、胃でも食道でもない。
それなのにただ胃液がせり上がって口の端から零れている。
異常を異常と認識できぬ、それこそが真に異常であると千鶴が自覚すると同時、ぐにゃりと視野が歪んだ。
まずい、と思ったその瞬間には、再び顔面から岩場に倒れこんでいた。
事ここに至って、千鶴はようやくに理解する。
どの段階で負ったものかは分からない。
分からないが―――柏木千鶴は脳神経系に、極めて深刻な打撃を受けている。
単純な脳震盪であればまだいい。或いはどこか、出血しているかもしれない。
危険だった。いかなエルクゥの驚異的な回復力といえど、脳への直接打撃は致命となり得る。
まして今は交戦中。相手は宿敵、来栖川。
そうだ、来栖川。敵だ、敵が、今、目の前に。
と。
ともすれば散逸しようとする意識を掻き集めて見上げた千鶴の視界を覆ったのは焔と闇と、
それから赤と白の斑模様だった。

231末期、少女病:2009/08/28(金) 14:58:11 ID:yHwYMvpU0
「……ッ!?」

咄嗟にぐらぐらと揺れる頭を引いた、その眼前に足が落とされる。
転瞬、叩きつけられた綾香の膨らんだ腓骨筋が爆ぜ、真っ赤な鮮血の霧と衝撃で砕いた岩盤の礫とをばら撒いた。
文字通りの間一髪、数センチの距離を駆け抜けた致死の一撃に、千鶴が息を呑みながら跳び退ろうとする。
が、上体に力が入らない。どうにか身体を起こそうとして、そこまでだった。
ただ締まらない口元からぼたりと反吐の残りが垂れ落ちた。
唇から顎に糸を引く反吐が、ふと微かな風に吹かれて、その奇妙な冷たさに下腹の奥でぞわりと悪寒が走る。
右腕一本で地面を掻くように後ずさった、その一瞬後には綾香の薙ぐような蹴りが奔っていた。
咄嗟に顔を引く。壊れた撥条仕掛けの玩具のような、無様な回避。
鼻先を掠めていく一閃に、千鶴が戦慄する。
ほんの僅かの差で直撃していたであろう、恐るべき威力にではない。

―――見えなかった。

その一点である。
それだけがただ、柏木千鶴をして戦慄せしめている。
今の一閃。右方向からこちらの顔面を狙った左の蹴り。
何の変哲もない、工夫も小細工もない、ただ驚異的な速度と威力をもって放たれただけの、蹴りだっただろう。
それが、見えなかった。
目にも止まらぬ速さ、認識を超えた速度、そういう位相の話ではなかった。
ただ。ただ単に、来栖川綾香の蹴り足は、千鶴の視野の右側に拡がる闇から、唐突に現れたのだ。
子供だましの怪談映画の、黒一色の画面から手招きする白い腕のように、それは闇の中から突然に姿を現した。
それが来栖川綾香の獲得した何らかの異能であるかと、脳裏を過ぎりもした。
しかし今、狂ったようなリズムを刻む心臓の鼓動に追い立てられるように僅か右を向き、左を向いて、
その焔と血みどろの岩盤とゆらゆらと照らされる闇と、今まさに次の一撃を放とうと体を捻る斑模様の裸身と、
そういうもので構成される世界の隅にべったりと墨汁を溢したような闇がついてくるとなれば。
意味するところは一つ―――そこには最初から、闇などない。
己が右の視野が、ひどく欠けているのだと、柏木千鶴は、ようやくにして認める。

232末期、少女病:2009/08/28(金) 14:58:30 ID:yHwYMvpU0
―――何たる無様。
服は乱れて引き千切れ、折れた片腕はまだ繋がらず、ぐらぐらと定まらぬ平衡感覚のまま反吐を垂れ流し。
挙句、瞳に世界を映すことすらままならぬ。
病持ちの河原乞食の、橋の下からぼんやりと立ち昇る陽炎を眺めるような、哀れで醜い間抜け面。
傍から見ればきっとそんな風に、締まりのない顔つきを晒しているのだろう。
く、と。内心の自嘲が漏れたか、千鶴の口の端が上がる。
思い通りに動かぬ身体が、こんな時ばかり気持ちに追従する。
その皮肉が、千鶴の意識をどろどろと濁った泥濘へと引きずり込んでいく。
心中、身を焦がすほどに燃えていたはずの黒い炎が、音もなく降りしきる嫌な臭いのする雨に消えていく。
ぶすぶすと上がった煙すらもが、灰色に澱んだ空に溶けていこうとしていた。

何をしようとしていたのか。
何を憤り、何を嘆き、何を叫んでいたものか。
ほんの今し方まで、永劫に忘れ得ぬと刻んでいたはずの想いまでもが、靄に隠れてぼやけて消える。

僅かな躓きだった。
柏木千鶴は未だ、敗れてなどいなかった。
何一つとして、失いすらしていなかった。
ただ一方的な蹂躙に終わるはずの、戦いとも呼べぬものになるはずだった戦いに、
これほどの無様を晒したそのことに、安い気勢を削がれたに過ぎなかった。
ただそれだけのことで、無為無策のままあらゆるものを手放そうとしていた柏木千鶴が、
迫り来る赤と白の斑模様の裸身の中の、染みのように滲んだ『それ』に気付いたのは、
だから、偶然である。


***

233末期、少女病:2009/08/28(金) 14:58:54 ID:yHwYMvpU0
 
一撃、左の掌底。
二撃、右掌底。
決め手になったのは三撃目、腕を折り畳みながら放った延髄への肘だろうか。

茫洋として定まらぬ視線、緩慢な動作。
ぐったりと倒れた柏木千鶴の意識は完全に飛んでいると、綾香の経験は告げる。
リングの上であればゴングも鳴るだろう。
しかし、と綾香は更なる一歩を踏み込みながら思う。
しかしこれは、命のやり取りにまで辿り着く戦いだ。
そうでなければ、終わらない。終われない。

ぼんやりとこちらを見上げる赤い瞳に向けて、足を振り下ろす。
鼻筋から眼窩にかけて、頭蓋の薄い部位を踏み砕かんとする打撃。
微かな躊躇もなく、しかし同時にその瞬間、綾香には悪意や敵意、殺意すらもない。
ただ純粋に、息をするように敵の命を断たんと望む一撃は、僅かな差で回避される。
作用反作用の法則に従って、叩き付けた右脚と叩き付けられた岩盤が等しく砕け、飛び散った。
綾香が瞬間的に筋肉を肥大させて放つ一撃は、既に人体の耐久限界を大きく超過している。
着弾の度、運動エネルギーを殺しきれず破壊される手足を刹那の間に癒しながら、綾香は闘争に臨んでいた。
心拍数は毎分数百を遥かに超え、大小の血管は全身で弾けては繋がり、奇妙に捩じくれて綾香を構成している。
それが危うい綱渡りどころか、細い絹糸の上を足を踏み鳴らしながら駆け抜けるが如き蛮行であると、
その程度は理解していた。理解し、極端な危険性を認識してなお、綾香はそれを取るに足りぬと一蹴する。
眼前に闘争があり、倒すべき敵が存在し。
ならば来栖川綾香の生きるとは、糸の切れるを恐れることでは、断じてない。
切らば切れよと哂いながら、綾香が桃色の肉を剥き出した右脚を大地に突き立てて軸足とする。
放つのは左、中段回し蹴り。
おそらくは無意識に近い状態で半端に身を起こした、柏木千鶴の顔面を真横から刈る軌道。
視野正面に近い占位からの一撃。
相手の意識が霞んでいるとはいえ、半ば以上は『防護』されることを前提に放った布石の蹴りである。
無数の派生をシミュレートしながら放たれたその蹴りは、しかし意外な展開をみせた。
柏木千鶴が『防護』を選ばなかったのだ。
まるで直撃の寸前になって初めて蹴りの軌道に気付いたとでもいうような、奇妙な回避。
超反応に任せた見切り、という類の動作ではなかった。
ひどく余裕のない、焦燥感に満ちた躱し方。
何となれば、回避したはずの柏木千鶴の表情にも明白な驚愕が浮かんでいる。

234末期、少女病:2009/08/28(金) 14:59:10 ID:yHwYMvpU0
となれば、と。
綾香の膨大な経験と知識とが、千鶴の反応から瞬時に状況を推測し、仮説を構築する。
薬物の浸透した脳細胞は触れれば焼けるほどに熱く、しかし同時に冷厳とすら呼べる沈着を保って
高揚した精神の手綱を制御する。限界まで充血し撓んだ筋肉がこれ以上は堪えきれぬと爆ぜ飛ぶ寸前。
仮説は傍証を得て有力な推論へと昇華し、ぶすぶすと焦げては繋がる神経系統が無数のバイパスを経て
綾香の全身に次に採るべき一手を伝達する。
転瞬、軛から解き放たれた肉体と精神とが狂喜に近い猛りと共に行動を開始。
一歩を踏み出せばそこは既に間合いの内。
牽制に放つ膝は座り込んだままの千鶴に躱され、気にせず更に踏み込んで伸ばすのは左の手。
無造作とも見えるその手が、しかし至極あっさりと千鶴の、血と埃とで汚れた頬へと届いた。
案の定、と綾香が哂う。やはり柏木千鶴は、右の目に何らかの障害を負っている。
出血や打撲や骨折、様々な理由で片側の視界を喪失した者たちの挙動は、それこそ幾十幾百を見てきたのが
来栖川綾香であった。感触に気付いた千鶴が慌てたように爪を振るう頃にはもう遅い。
真っ赤な紅を引いた唇から垂れる反吐を拭い取るように滑らせた綾香の手が、視界を覆い隠すように
千鶴の顔を鷲掴みにすると同時。奇妙に唸るような声を漏らして、綾香の肉体が歪む。
露わな胸元から両の肩、二の腕までが順番に膨れ、爆ぜ、鉄錆の臭いのする霧を撒き散らし、
しかし莫大な負荷と力とが集積されていく肘から先は膨れ上がることなく静謐を保っている。
否。びくり、と最初に震えたのは、手指でも筋繊維でもない、紅の紋様であった。
燃え上がる焔か、或いはちろちろと伸びる大蛇の舌先を連想させる綾香の腕に浮き出した紋様が、
まるで本当に独立した命を得たように震え、幾重にも枝分かれしたその身を互いに絡ませていく。
と、まぐわうように重なり合う紋様の中心、綾香の白い腕の内側に、ぽつりと染みが生まれた。
色は漆黒。最初は小さな黒子のようだったその染みが、瞬く間に拡がっていく。
紋様の紅を駆逐し、肌の白を蹂躙し、拡散し肥大する黒が、綾香の腕を包み込み、変生させる。
一瞬の後、そこにあったのは綾香の、優美とすら映る筋肉と薄い脂肪層とに覆われた腕ではない。
石炭とコールタールとを練り合わせて乱雑に塗り重ねたような、罅の入った醜くも太い豪腕である。
柏木千鶴の両腕と委細違わぬ、鬼と称されるものの、それは腕だった。


***

235末期、少女病:2009/08/28(金) 14:59:50 ID:yHwYMvpU0
 
両の腕を漆黒と変じさせ、爛々と輝く瞳には血の色の深紅を湛え。
弓形に吊り上げた口腔からは折れた笛のような吐息を漏らして、来栖川綾香が拳を振り上げる。
みぢり、と。鬼と化した綾香の手に掴まれた千鶴の頭部が、嫌な音を立てて軋んだ。
座り込む千鶴を無理やりに引き起こすように顔面を鷲掴みにしたそれは、いまや千鶴の両目を完全に覆い隠している。
千鶴の異能が目に映り認識した打撃を『防護』するならば、視野そのものを潰せばいいとでもいうような、
ひどく暴論じみた、或いはどこか冒涜めいた光景。
固定した頭部を粉砕せんと、弓を引き絞るように構えられた綾香の漆黒の右腕が、解き放たれる。
一直線。流星の夜空に煌くように奔った拳が、

「―――」

がり、とじゃり、の間、削岩機が固い岩盤を噛むような音と共に、三叉に分かれていた。
食い込んでいたのは、深紅の刃。
噴き出す鮮血よりも先、紅く鋭い破片が飛び散って地面に落ちる。
真っ直ぐに伸びた綾香の右正拳をその手の甲の半ばまで切り裂いていたのは、柏木千鶴の爪刃である。
ざっくりと食い込んだ刃は、五指の内で三本までを折り砕かれながらも、確かに綾香の拳を止めていた。
刹那、静止した綾香の右腕を横合いから薙ぐ風がある。
千鶴の空いた右爪。
血風が、漆黒の腕に激突する。
至近、体重は乗らず体幹の回転もなく、しかし手打ちで叩きつけるような横薙ぎの一撃は、
ただ鬼の怪力を以て無双の破壊力を備えるに至る。
ぶづりぶぢりと嫌な音が響いた。
綾香の右腕、黒く硬化した皮膚に護られた神経組織と筋繊維が引き千切られていく音。
鎧の如き肌を切り裂いた深紅の刃は骨を食み、ようやく勢いを止める。
僅かに遅れて、思い出したように血が流れ出し、ぼたぼたと垂れ落ちた。

236末期、少女病:2009/08/28(金) 15:00:09 ID:yHwYMvpU0
完膚なきまでに破壊された右腕にちらりと目をやった綾香の判断は一瞬。
千鶴の爪が縦横に食い込んだままの腕を、強引に引き戻す。
ぞぶりと拡がった傷から流れようとする血を、しかし傷口の断面からずぶずぶと伸びた桃色の糸が
瞬く間に舌を伸ばして嘗め取っていく。
抉られた肉が、削られた骨の欠片が、掬い取りきれない血に混じって落ちるのも綾香は意に介さない。
弓形に歪められた口の端が、牙を剥くように吊りあがっていく。
苦痛でも、憤怒でもない、それは混じり気のない悦楽の表情。
暴力の臭いに染まった笑みを浮かべた綾香の、いまだ千鶴の顔を押さえたままの左腕が、ぎしりと音を立てた。
無理やりに引き抜かれた爪からばたばたと返り血を落としながら振るわれる千鶴の一閃を、
間一髪のバックステップで躱すその刹那。
開く距離に、綾香が千鶴の顔から手を離そうとする、その瞬間。
哂う綾香の、漆黒の手から、深紅の爪が伸びた。
鋭く尖った、獲物を突き刺し引き裂くためだけに特化した刃が抉るのは、ただ一点。
頬骨を掠め、鼻梁を辿り、伸びる先には―――眼球。
がり、と。
怖気の立つような音を錯覚させる、一瞬。
針の如く尖った綾香の人差し指の爪の先が、見開かれた千鶴の、深紅に染まった左の瞳の、
角膜の数ミリを、削った。
ぷつりと、深紅の瞳孔の上に、鮮血の紅の珠が、浮かんだ。
彼我の距離が、離れる。

237末期、少女病:2009/08/28(金) 15:00:29 ID:yHwYMvpU0
「―――」

悲鳴は、上がらない。
声なき声にのたうつでも、なかった。
咄嗟に左眼を押さえたその姿勢のまま、柏木千鶴は、微動だにしない。
庇うように翳された、その手の隙間から覗く右の目が、ただ爛々と光っている。
奇妙なことに、そこに苦痛の色はない。
ほんの僅か前までその瞳に燻っていた、霞のような自嘲も滓のような諦観も、既になかった。
浮かんでいるのは、どこか熱に浮かされたような、忘我とも妄執ともつかぬ、どろどろと粘りつくような色。

「その、腕……」

縋るように見据えるのは、綾香の腕。
漆黒に変生した、鬼の腕。
狩猟者と呼ばれる一族の、血の証。
奇妙に罅割れた、硬く醜く、剛い腕。
鬼と変じた娘、柏木初音のそれを模倣した、腕。
それだけを、見つめて。

「その、腕……!」

ぼたり。
ぼたり、ぼたり、と。
柏木千鶴の瞳から、深紅の雫が垂れ落ちる。

「その―――、腕ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――!!」

血涙の、地に落ちるよりも先に爆ぜて散るような。
絶叫に程近い、裂帛の咆哮。


刹那、風が、凪いだ。




***

238末期、少女病:2009/08/28(金) 15:01:01 ID:yHwYMvpU0
 
 
 
時の凍りついたような、その刹那。

その瞳には、それが千載一遇の好機と映ったのかも知れない。
或いは実際にそうであったのかも知れなかった。

だが、それの動きは遅すぎた。
弱きに過ぎ、鈍きに過ぎ、蒙きに過ぎ、脆きに過ぎた。
人を凌駕し鬼を超え、生物種としての限界を超越する鬩ぎ合いを演じたその間に割って入るには、
何もかもが足りなすぎた。


それは、目障りな蝿を追い払うような仕草。
一対の鬼がほぼ同時に振るった爪の、ただの一薙ぎだった。

それが、致命傷となった。

柏木楓の腕は、ただのそれだけで十二の輪切りとなり。
柏木楓の胸は、ただのそれだけで肺腑から心臓までを断ち割られ。
柏木楓の命は、ただのそれだけで、絶えた。



ただ、世界は美しくあるべきだと、その生の最期の一瞬に至るまで、
何ら一片の曇りなく信じさせる病の名を、少女という。

柏木楓は、少女であった。



***

239末期、少女病:2009/08/28(金) 15:01:29 ID:yHwYMvpU0
 
 
爪の先から伝わってくる鈍い手応えが、細波のように柏木千鶴に打ち寄せ、その身体を揺らす。
軽く、細く、小さな何かを断ち割った。
ほんの微かな、濡れたような感触。

脳髄の芯が痺れるような憤怒が、瘧のような昂奮が、砂の城のように崩れて消える。
わからない。
何が起きたのか、わからない。
わからないが、何か、取り返しのつかない何かが起きたことだけが、わかった。

わかりたくない、だけだった。

ばらばらと。
目の前を何かが落ちていく。
大きな、小さな、或いは丸く、或いは尖った、沢山の何か。

さらりさらりと。
涼やかな音さえ聞こえるような。
美しい黒髪が、流れていく。

ゆっくりと、ゆっくりと落ちていく、短く切り揃えられた絹のような髪の向こうから。
黒い瞳が、覗いていた。
光を映さぬ、瞳だった。

240末期、少女病:2009/08/28(金) 15:01:51 ID:yHwYMvpU0
認識が、臓腑の奥底から悲鳴を運んでくるよりも早く。
奔るものが、あった。
千鶴の目に映るそれは、漆黒の拳。
一直線に千鶴を目指して駆ける、その軌道には、黒髪と、虚ろな瞳とがあって。

だから、その一瞬。
妹の首を抱き締めるように庇った、柏木千鶴の心には。
確かにそれを、柏木楓を護ろうという意志が、あったのだろう。

そうして。
撃ち出された、漆黒の拳。
来栖川綾香の放つ、拳には。
庇護の概念を穿ち貫く、魔弾の異能が、宿っていた。


―――意志の悉くが、貫かれる。

241末期、少女病:2009/08/28(金) 15:02:07 ID:yHwYMvpU0
 
闇を纏うような拳が、柏木千鶴を穿った。
その無防備な背を易々と貫いた一撃が、肋骨を粉砕し脾臓と膵臓とを抉り横隔膜を引き裂き、
消化器系の左半分を喰らい尽くして桃色の合挽き肉へと変えた後、腹側から抜けた。
そこには、何も残らない。
大型の肉食獣に一息に噛み破られたような、無惨な傷痕から、ばたばたと止め処なく鮮血が流れ落ちる。
既に誰のものかも判らぬ血溜りが、新たな潤いに波立った。
ばたばたと、ばたばたと止め処なく。
柏木千鶴の命が、流れ落ちていく。
それ以上は、立っていることも、叶わなかった。
そこだけは無事でいられた両の腕に小さな首を一つ抱いて、千鶴がゆっくりと、倒れ伏す。

「……かえ、で」

顔を上げることもできないままに呟いた、その眼前。
ふつ、ふつと。
蜀台の焔が、消えていく。
広い、広い岩窟に灯された、何を焚き付けに燃えているかも分からぬ、奇妙な焔が、
一つ、また一つと、消えていく。
それはまるで、絶叫の音色を以て奏でられる、か細い慟哭に吹き消されるように。
闇が、広がる。



***

242末期、少女病:2009/08/28(金) 15:02:38 ID:yHwYMvpU0
 
 
否。
最後の焔が消えた後も、岩窟を真の闇が支配することは、なかった。
漆黒に近い闇の中、立ち昇る一筋の光があった。

ゆらゆらと。
今にも途絶えそうに、ゆらゆらと。
煙のように立ち昇るのは、金色に近い、ひどく物悲しい色。

光は、一つではない。
目を凝らせば、闇に沈んだ岩窟のそこかしこに、それはあった。
いつからあったものかは判然としない。
或いは、焔の消える前から、それは立ち昇っていたものかも知れなかった。

光っているのは、指だ。
或いは骨片であり、爪だった。
肉の欠片や、髪束や、皮膚や目玉や腕だったものや脚だったものや腹だったものや、
そういうものの全部が、ほんの微かな光を放っているのだった。

一際強い光は、柏木千鶴の抱く、柏木楓の首から立ち昇っていた。
まるで、命や魂や、そういう名前で呼ばれる何かが、ゆらゆらと漏れ出して、天へと昇るように。

昇る光は中空、遥かな高みに集まっていく。
高みは、光の坩堝だった。
互いに手を取り合うように融けあい、その輝きを増した光が、やがて金色の光珠へと変じていく。
それはさながら、闇を打ち払う小さな日輪。
或いは、天へと続く、光の門のようにも、見えた。

「―――」

金色の光の下、柏木千鶴は動かない。
妹であったものを抱き締めて、ただ緩慢に死を待つように倒れ伏し、
ぼんやりと光の坩堝をその深紅の瞳に映している。

243末期、少女病:2009/08/28(金) 15:03:09 ID:yHwYMvpU0
 
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ、瀕死】

柏木楓
 【状態:死亡】

→1087 ルートD-5

244鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:17:19 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――来栖川綾香・1



ゴングは鳴らない。
レフェリーは止めに入らない。
観客のブーイングも、セコンドからのタオルもない。
それでも。

―――最後まで、やるかい?

綾香は声に出さず、問う。
問いながら、答えなど聞くまでもないと、笑う。
この女に、柏木千鶴に、或いは自分に、来栖川綾香に、否やのあろう筈がない。
これは、そういう闘いだ。
否。自分は、自分たちは、そういう生き物なのだ。
続き続く生の、残りの全部を焼き尽くしたとしても。
振るうべき拳と、追い立てられるような焦燥と、胸を焦がすような高揚が、この身を衝き動かす。
来栖川綾香の、それは決意であり、確信であり、或いは既に遠いどこかへの、訣別でもあった。

―――最後までやろうよ。

その、最後まで。



.

245鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:17:45 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――柏木千鶴・1



そこには風が、吹いている。


無色透明な風だ。
からからに乾いていて、肌を切るように冷たくて、
そうしてどんなに微かな音も立てない、それは無音の風だ。

無音の風が吹く光景は、それ自体が音を吸い込まれてしまったように静かで、
まるでヘッドホンのジャックが刺さったままのテレビの画面みたいだった。
深夜、うたた寝から眼を覚ましたときの、暗く沈んだ部屋にぼんやりと白く浮かび上がる四角い画面。
その中に映る古い洋画の、牧歌的で鷹揚な人々の歩き回る、無音の世界。
時計の針に目をやっても、闇に沈んで何も見えない。
体を預けた三人がけのソファーの、広く空いた隣に誰がいたのかも、思い出せない。
薄暗く、寂しくて、ほんの少しだけ、懐かしくなるような。
そんな風が、吹いていた。

音のない世界はひどく虚構じみている。
晴れた空の青は書き割りのようで、談笑は脚本の段取りのままに進行する一幕芝居。
作り物。何もかもが安っぽい作り物で、そんなことは分かっていて、それでも。
それでも、そこにあるのは今でも夜毎に夢にみる、どれほどに手を伸ばしてももう届かない、
大切な、本当に大切な、光景だった。

246鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:18:06 ID:bWAxO1UY0
それは柏木の家だった。
夏には暑く、冬には寒い、歩けば軋みの響くような旧い造りの家。
透明な風の吹く、音のない世界の真ん中にあるのは、がらんとした居間だ。
微かに黄ばんだ襖はいつも開け放たれて、続きの部屋と中庭とを吹き抜ける風の通り道になっていた。
背の低い箪笥の上には湯呑みと急須。
がたがたと安定の悪い、小さな丸い卓袱台を囲むように座るいくつかの背中。
―――いくつかの? 
いいや、いいや。
私の目に映る背中は、ずっと昔から、たったひとつだった。
居間の奥まった一角、上座に置かれた座椅子に腰掛ける、大きな背中。
いくら手を伸ばしても届かない、遠い、遠い背中。

ああ、どうして音が、聞こえないのだろう。
あの場所には、ゆっくりと、本当にゆっくりと時間が流れていくあの暖かい居間にはきっと、
小さなラジオから流れるノイズ混じりの掠れた音が満ちているはずだというのに。
それは、あのひとが好きだった音。
テレビは忙しなくて嫌だと笑って、いつもラジオの音楽とニュースばかりを聴いていたあのひとの、
だからそれは、思い出の音だ。
だけど大切な音が、私には聞こえない。
聞こえないから私はいなくて、それで談笑は安っぽく、空は薄っぺらい書き割りで、
そんな作り物の思い出にも、私は届かない。

ぴしり、と。
もどかしさに歯噛みする私の目の前で、世界に罅が入る。
いや、それは傷だった。
風呂上りの肌を爪で引っ掻くような、薄く小さく、鈍い傷。
そんな傷が、何本も、何本も入って音のない世界を汚していく。

247鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:18:27 ID:bWAxO1UY0
だけどそれは、仕方のないことだ。
無音の風に音は融けて、音のないその居間には、だから大切なピースが欠けている。
不完全な構造の光景は、初めから軋みを上げていて。
まるで壊れたデッキに入れたビデオテープが絡まって何度も何度も同じシーンを再生するように、
安っぽい作り物の談笑を、書き割りの空を、私の大切な光景を、がりがりと掻き毟るように傷つけながら、
繰り返しているのだ。

傷が、疾った。
おおらかに口を開けて笑う誰かの影が、首の辺りから千切れるように、傷に引き裂かれた。
それを寂しいと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が増えていく。
困ったように相槌を打つ小さな影は、細かい傷に覆われて、いつの間にかもう見えない。
それを辛いと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が、色々なものを塗り潰す。
凍りついたような無表情のまま箸を動かしていた影の、その箸を持つ手が、傷に掻き潰されていく。
それをやるせないと、思う。
だけど涙は、流れない。

―――考えるな。

寂しくて、辛くて、やるせなくて切なくて、だけど涙は流れない。
どうしてだろう、と問うまでもなく。


―――気付くな。認めるな。


答えなんて、初めから分かっていた。


―――理解するな。認識するな。自覚するな。


ああ、私は。
何もかもが塗り潰された世界の中で、たったひとつ。
たったひとつの大きな背中だけが、そこに残っているのなら。
それだけが、色褪せずにいるならば。
他の何が消えたって。


―――気付いてしまえば、


悲しくなんか、ないのだ。


―――もう、


もうどこにもいない、大切なひと。


―――戻れない。


柏木賢治の、思い出だけが、あれば。




.

248鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:19:06 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――来栖川綾香・2



誰の心にも、棘は刺さっている。
来栖川綾香に刺さるそれは、細く短く、しかし確実にその身を蝕む毒を秘めた、硬い棘だった。
あるとき、それは視線だった。
またあるとき、それは冷笑だった。
あるときはあからさまな蔑みの言葉であり、またあるときは呆れたように首を振る仕草であり、
そしてそれは常に、声だった。

何故戦うと、問う声だ。
その問いは幼い頃から幾度も、幾度も繰り返され、しかし綾香は一度も、その問いに答えたことはなかった。
回答など返すまでもないと、綾香は確信していた。

逆に問い返したかった。
何故そのような、愚かな問いを発し得るのかと。
ただ在るべくして在ろうと志すならば、戦うよりないと。
抗うよりないと、切り開くより他に道などないと、それが何故分からないのかと。

ならば、在るべくして在るとは何だ。
重ねられる問いに、来栖川綾香は、拳を握る。
拳を握って、歩を踏み出す。
それが、返答だった。

ただ一点、ただの一点。
来栖川綾香が来栖川綾香であるためのただ一点。

来栖川綾香はただ来栖川綾香であるのだと、他の何者でもないのだと、
或いは、私は私であり、誰かが誰かであり、他の何者でもないのだと。
何故、誰もが全ての外側に在るのだと気付けずにいるのか、
何故、そうではなくなった自らに目を瞑っていられるのか。

それは詰問であり回答であり、慟哭であり絶叫であり、悲鳴であり希求であり、
そして同時にまた、宣戦でもあった。

自らを彼岸を蠢く死者に非ずと、ただそれを証し立てる術の、その悉くが。
闘争という名で、呼び習わされる。
故に来栖川綾香は拳を握り歩を踏み出し。
故にそれをして、来栖川綾香は―――或いは柏木千鶴は―――己が道を、生と呼ぶ。

249鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:19:30 ID:bWAxO1UY0



「―――こんな、最後か?」



問いは、誰に発したものか。
金色の光の坩堝の下、踏み出した足に力を込めれば、眼下には敵。
剥き出しの臓物を微かに震わせて動かぬ、柏木千鶴がそこにいる。
握った拳を、胸元まで引き寄せた。

「……、」

と。
ほんの僅か、立ち昇る光が、揺らいだ。
それは静かな問いの、此岸と彼岸との境にも、届いたものであろうか。

「……は、」

初めに聞こえたのは、囁くような声。
ぴくりと、千切れた横隔膜が震えるのが見えた。

「はは、あはははは、」

声はやがて、弾けるように拡がる。
ぐらりぐらりと、合挽き肉のように潰れた大腸が揺れていた。

「あはははは、あはははははははははははははははは、」

そして爆ぜるように、哄笑が、響いた。
柏木千鶴が、抉れた腹とひしゃげた骨と崩れた臓腑を捩って、血を吐きながら哄っていた。

「あはははははははははははははははは、あはははははははははは、はははははははははははははは、」
「―――」

見下ろす綾香の瞳には、細波の一つも立たず。
断ち切るように、拳を振り下ろした。




.

250鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:20:22 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――柏木千鶴・2



肌を刺すような冷たい雨が好きだった。
そんな雨の降る日には一日中、あの背中が書斎の文机に向かっていて、
私はそれをずっと静かに、見ていられた。
それが、私の幸福だった。

愛している。
柏木梓を愛している。
あの家に響く笑い声やどたばたと喧しい足音を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも寂しい。

愛している。
柏木初音を愛している。
あの家の台所から響く包丁の音や風呂桶を磨く音と一緒に聞こえてくる控えめな鼻歌を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも辛い。

愛している。
柏木楓を愛している。
あの家に満ちる笑い声を凍りつかせる一言や食後にいつも駆け込む洗面所から漂う胃液の臭いを、愛している。
それが喪われたことが、こんなにもやるせない。

ああ、今こそ。
欺瞞なく、誇張なく、はっきりと告げよう。
私が護りたかったのは、私の妹ではない。
柏木楓という名の少女でもない。
それは柏木梓という名前でも、柏木初音と呼ばれるものでもなかった。

柏木千鶴がその心から、その身を捧げて護ろうと誓い、殉じたのは―――柏木の家、そのものだ。
血筋ではなく、家族でもなく。
愛おしく夢想する柏木の家を構成するすべてを、私は護りたかった。
柏木の家に笑う梓を、柏木の家の台所に立つ初音を、柏木の家の洗面所を汚す楓を、私は愛していた。

251鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:20:46 ID:bWAxO1UY0
それは、思い出の入れ物。
化粧台の抽斗の中に仕舞われた小さな飾り箱、その煌く宝石に彩られた箱の中の、一枚の写真だ。
写っているのは輝いていた頃の世界。
心から、笑っていられた頃の。
懐かしい、色褪せない、一枚の写真。
柏木賢治の穏やかな笑顔が写る、それこそが、私がすべてを投げ打って護りたかった、思い出のかたちだった。

梓も。楓も。初音も。
その写真を形作る、大切な、大切な、歯車だったのに。
今、私の目の前で、その最後の欠片が光になって、




『―――こんな、最後か?』




声が、聴こえた。


.

252鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:21:15 ID:bWAxO1UY0
 
それは、水面に落ちたひと滴。
微かな波紋はやがて漣となり、漣はうねりを呼び、うねりは波濤となって、私の中の、一番奥に打ち寄せた。
押し寄せては引き、引いてはまた押し寄せる奔流が、ずっと底の方に沈んでいた何かを呼び覚ましていく。
それは、鋭く、細く、手を触れることもできないほどに熱く灼けた何か。
止まりかけた心臓と、痙攣するだけの肺と、弛緩した筋肉の全部をいっぺんに叩き起こすような、
それは紅く、紅く、激流を染め上げてなお紅い、名前のない感情だった。
感情が、目を覚ます。
感情が、立ち上がる。
感情が、拳を握って。
感情が、口を開いた。

感情が、叫ぶ―――赦さない、と。

赦さない。
赦せない。
大切な写真のフレームが、歪んでいくのが、赦せない。
柏木の家を形作る何もかも、私の夢想する大切な何もかもが穢されていくのが赦せない。
私の抱く無上の幻想に、来栖川綾香は土足で踏み込んだ。
ただ、それだけだった。
それだけで、十分だった。
柏木の血を、嘲笑うように。
柏木の家を、踏み躙るように。
奪い盗んだに違いない鬼の手を翳す、あの女を。
柏木千鶴は、赦さない。

梓の笑顔が、楓の視線が、初音の微笑が脳裏を過ぎる。
最後にほんの少しだけ、柏木耕一の顔を思い浮かべた。
柏木耕一。あのひとの影。
あのひとがいなくなって、ふわふわとどこかへ飛び去ってしまいそうな私を縛り付ける、あのひとのかたちをした楔。
その死は、辛い。辛く、寂しく、やるせない。
だけどそれはきっと、指で傷口を無理やりに押し広げて血を流すような、そういう類の痛みだ。

253鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:21:34 ID:bWAxO1UY0
かたかたと鳴る歯を、食い縛る。
漏れる吐息にはもう、温度が感じられない。
構わなかった。
生きるも死ぬも、既に問題ではなかった。
復讐でも報復でもなく、赦せないから、殺す。
そうあらねばならない。
私は、来栖川綾香を殺し尽くさねばならない。
台無しにされた、思い出のフレームの代わりに。
それが公正で、正当で、真っ当な―――あるべきこの世のかたちに、他ならない。
そうでなければならないのだ。
柏木千鶴の夜ごとに愛おしく抱き締める、甘やかな思い出を捧げる飾り棚の如き世界は。
そういう風にできていなければ、それはつまり、間違っているということだ。
間違っているのならば―――それは、正されなければならない。
殺し尽くされるべき来栖川綾香が生きているのならば、それは殺し尽くされねばならないのだ。
他の全部は些細なことだ。
他の誰が生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
私の如きが生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
ただ私は、私の大切な思い出が歪められた、そのことだけが赦せない。
それだけが、唯一にして絶対の罪業。
だから私は、ただ一つのことを、それだけを、思う。

お前を赦さない。
故に、死ね。

「―――はは、あはははは、」

口の端から漏れたのは、溢れ出した鮮血か、それとも余分な感情か。
げたげたと、けたけたと、からからと漏れ、響き、私を揺らす。
箍の外れたような、けたたましい笑い声の中、私は胸に抱いた楓の首を引き寄せて、
その青白い唇に、キスをした。



.

254鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:14 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――ふたり



振り下ろされた一撃の先に、柏木千鶴の姿はない。
空しく大地を割った拳をゆっくりと引きながら視線を上げた、来栖川綾香の眼前。

血の色の鬼が、ゆらりと、立ち上がる。
その身を染める深紅は、返り血と己から流れ出したそれとが混じり合って昏く。
漆黒の両腕の先端、爪刃の朱と爛々と燃える焔色の瞳だけが、辺りを満たす金色の光を圧して鮮やかに煌き。

鬼は、哄っていた。
視界の欠けた右の眼と、抉り裂かれた左眼と。
両の目から血涙を流しながら、すすり泣くように姦しく、咆哮の如く密やかに、哄っていた。
その手の中にはもう、柏木楓の首はなかった。
十の爪はそのすべてが薙いだものの命を奪う凶器としての本性を取り戻したように研ぎ澄まされて美しく、
眼前の敵へと振るわれる時を待っている。

抉られた腹は桃色の腹膜と動脈血に濡れた臓腑とが蠢く様を隠そうともせず、
左の腹側筋と腹直筋を千切り取られた脊柱が立位を可能とする筈がなく、
消化器系と循環器系との半分方を喪失して生命活動が維持される道理もなく、
しかし、その何もかもを無視して、鬼は、柏木千鶴は、立っていた。
そう在ることが当然だと、傲岸に言い放つが如く、その両足は地を踏み締めている。

「―――」

視線が、交錯する。
鬼の瞳に燃える焔を、来栖川綾香は、真っ直ぐに見据える。
見据えて、哂った。
愉しそうに、心の底から幸福そうに、牙を剥いて、哂った。

す、と。
綾香の両手の爪が伸びて、交差するようにもう一方の腕へと、添えられる。
左の爪は右腕に、右の爪は左の腕に。
腕を組むような姿勢は一瞬。
真紅の刃が、漆黒の腕に静かに食い込んだかと見えるや。
ぞぶりと、寸分違わぬ間を以て、両の爪が、両の腕を、引き斬った。

255鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:26 ID:bWAxO1UY0
濡れた、重い音が足元から響く頃には、傷の断面から先を争うように伸びた桃色の肉糸が、絡み合い、
骨を造って肉を盛り神経を張り巡らせて薄皮を貼り、瞬く間に白い手指の再生を完了していた。
生まれたばかりの長い、しかし拳胼胝だらけの節くれ立った指が、地に落ちた黒い腕を、拾い上げる。
己が切り落とした己の腕を、弄ぶように手に取って、硬く罅割れた黒い皮膚の感触を確かめるように
指の腹でそっと撫で回し、

「これはもう―――」

おもむろに握って、力を込めた。
音はない。
主を喪った漆黒の腕は、ただ花の枯れるが如く、灰のように砕けて散った。

「―――いらないな」

舞い散る灰が、金色の光に照らされてきらきらと輝いている。
きらきらと舞う光の渦の中、小指から一本づつ折り畳まれていく指が、やがて白い拳を形作る。
裸身を這うように伸びた紅の紋様が絡み付いて、固めた拳を彩った。

ゆらりと、金色の光が揺らいだ。
まるでそれが、合図であったかのように。
二人が同時に、地を蹴った。



.

256鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:43 ID:bWAxO1UY0
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】


→1091 ルートD-5

257ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:13:57 ID:np6NvLE.0
 
振り乱された長い髪が、深紅の霧を切り裂くように弧を描く。
黒髪の薄幕の向こうから襲い来る爪刃を、来栖川綾香が大きく身を反らして躱す。
真横に薙がれた爪の通り過ぎざま、重心は後傾姿勢から更に後ろへ。
入れ替わり、弾けるように跳ね上がったのは綾香の白い左脚である。
顎を縦に射貫く軌道は、しかし僅かに半歩を踏み込んだ柏木千鶴の頬を掠めて宙を舞う。
振り抜かれると同時、綾香の脚からぶつりと響いたのは肥大した筋繊維が遠心力に耐えきれず断裂した音だった。
盛り上がった肉の爆ぜた拍子に皮膚が破れ血の霧を撒き散らす。
頭上から鮮血の霧雨を浴びた千鶴はひうひうと奇妙に擦れた呼吸音を穴の開いた肺腑から漏らしながら追撃。
体勢の流れた勢いをそのままに空中で後転しようとする綾香の軸足を掴むや、力任せに引き抜いて振り回す。
掴み潰された腓骨の砕ける鈍く重い音が千鶴の手の中から聴こえた。
屠殺された獣の肉が叩いて伸ばされるように、片足を掴まれた綾香の体が無造作に振り上げられる。
そのまま無防備に岩盤に向けて振り下ろされるかと見えた寸前、千鶴の右側頭部を直撃したのは
綾香の空いた蹴り足、右の踵である。
こめかみを真横から打ち抜かれた千鶴の手が僅かに緩む間に、綾香の砕けた左脚が拘束を脱した。
中空、浮いた姿勢から千鶴の肩口を足場にして蹴りつけるように後ろへ跳ぶ。
着地の瞬間には、砕けた左の腓骨は既に半ばまで再生を完了している。
代わりに脹脛を構成する腓腹筋が着地の衝撃に耐えかねたように爆ぜて、粘り気のある血を周囲にばら撒いた。

258ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:16 ID:np6NvLE.0
ぐらりとたたらを踏んだ綾香の隙を見逃さず、千鶴が距離を詰める。
刹那の間、数歩分の距離を一足に踏み越えて迫るその速度は先刻までのそれとは比較にならぬほどに鋭く、速い。
綾香が迎撃に放つ左の逆突きを鎖骨に受け、折れ砕ける鈍い残響を残しながらも千鶴の加速は止まらない。
爛と煌く瞳の焔が、夜空に星の流れるように、金色の光の中に軌跡を残す。
視力など、そこにはもう殆ど残ってはいない筈だった。
しかし千鶴の眼は赤黒い涙を流しながらも見開かれ、一直線に綾香を捉えている。
宿る深紅の光に、躊躇の色はない。
ただ身体の内に燃え盛る焔にのみ衝き動かされるかのような、迷いの無さ。
それこそが千鶴の肉体をして限界をとうに越え、或いは生死の境を踏み越えてなお加速を続けさせる原動力であった。
その血の色の瞳には危険に対する防衛本能、被弾に対する恐怖というものが存在しない。
ただ己が目に映る獲物を掴み抉り引き裂く、原初の生を具現化したかのような、闘争の牙。
それだけを研ぎ澄まして、柏木千鶴は死線に臨んでいる。

259ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:32 ID:np6NvLE.0
深紅の軌跡は右下から袈裟懸けを逆さに辿るような爪の切り上げ。
咄嗟に肘を引き半歩を退いたその右腕と肝臓と第十二肋骨から下三本までを輪切りにして抜けた、
致死の斬撃にしかし、裸身の綾香は舌打ち一つ。
噴出す血潮に眼もくれず、左半身の構えから正拳で打つのは体の流れた千鶴の空いた顔面、鼻筋である。
一発、真後ろに弾けるようにのけぞった千鶴の突き出された顎にもう一撃。
三発目を放とうと引いた左の腕が、二の腕から爆ぜて血と肉を撒き散らした。
それでも綾香は流れを止めず、骨に纏わりついた肉の塊のような腕を伸ばす。
突きではない。拳を開いたその手が鷲掴みにしたのは千鶴の長い黒髪である。
ぐずぐずと赤黒い筋が泡立って糸を引く腕が千鶴の頭部を引き寄せ、強引に押し下げる。
同時、寸分の狂いもないタイミングで右膝が跳ね上がっていた。
来栖川綾香必殺の、顔面へ突き刺すような膝。
鼻梁と頬骨と眼窩とを粉砕せんとする鉄槌を一撃、二撃、今度は三撃までを叩き込んで、
四撃目が着弾すると同時に膨れた綾香の大腿筋が破裂した。
瞬間、流れるような打撃のリズムが止まる。
掴んだ髪を放り投げるように突き放すのが、一瞬だけ、遅れた。

爪が薙がれ、
黒髪が流れ、
金色の光の下、幾筋もの真紅が興を競うように舞い散った。
互いに二歩、三歩、たたらを踏んで距離を開けた、その姿は凄惨を極めている。

260ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:49 ID:np6NvLE.0
柏木千鶴の整った顔立ちは今や見る影もない。
鼻筋は折れ曲がって濁った血を垂れ流し、血涙を流す右の目の周りは青黒く腫れ上がり左眼は醜く落ち窪み、
どちらも眼窩の骨が砕けているのが一目瞭然だった。
或いは砕けた欠片が眼球にも刺さっているのかも知れない。
窪んだ左眼はびくりびくりと時折あらぬ方へ痙攣するように視線の向きを変えていた。
前歯は上下とも半ばまでが折れて見当たらず、ぽっかりと虚ろな穴の開いたような口腔からは
掠れた喘鳴だけが響いている。ひ、ひ、と奇妙な音と共に片肺が膨らみ、萎む。
もう片側の肺腑は刻まれた傷から裂け目が拡がって既に機能を止めていた。
震えるように蠢く心臓が送り出す血液が、どれほど残されているものか。
吹き曝しの臓物は既に震えてすらいない。
十の爪と瞳の奥の真紅だけが、辺りを満たす金色に抗うように、澄んでいる。

対峙する来栖川綾香もまた、その裸身を余すところなく血に染めていた。
五体はかろうじてその呈を留めている。
形を留め、しかしそれだけだった。
千切れかけた右腕はずるずると桃色の糸を引き、皮膚という皮膚の剥がれた左腕はぶつぶつと血の色の泡を噴いて止まらず、
爆ぜ飛んだ左の脹脛は肉が剥き出しのまま、右の腿は子供が傷に匙を突き込んで無邪気に掻き混ぜたようにぐずぐずと崩れ、
胴には既に薄皮が張っている右の腹部の代わりとでもいうように、真新しい創傷がざっくりと口を開けている。
腰の左側から切り上げるように腹膜を裂いた、それはたった今、離れ際に千鶴の爪が抉り去ったものであった。
垂れ落ちる鮮血が、なだらかな曲線を描く下腹部と腰とを伝って足元へ流れていく。
それは癒えるよりも速く、傷が増えていくものであったか。
否。先刻までは舐め取るように血を掬っていた、肉の糸の動きが鈍い。
傷の癒える速度は、明らかに落ちていた。
肉の爆ぜる度に撒き散らす真紅の霧に混じって鬼と仙命樹の血の次第に流れ出たものか。
或いは人体の許容量を遥か眼下に見下ろすように過剰投与された薬物の無理が、遂に治癒の限界を超えた結果か。
いずれ、不死の加護を受けたかとすら見えた女の、それは落日の兆候であった。

自身の全身を覆う致命の傷の数々を見下ろして、それでも悠然と笑んだ綾香の、
細めた左眼が、唐突に爆ぜた。
爆ぜて、しかしその速度を緩めながらも回復を始める左眼の、裂けた水晶体から垂れ落ちる血とも体液ともつかぬ
薄紅色の雫を、笑んだ綾香が、べろりと舐めた。

261ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:15:05 ID:np6NvLE.0
転瞬、距離が詰まる。
仕掛けたのはやはり千鶴。
突撃は極端な前傾、右の爪を内から外へ薙ぐ姿勢。
ガードの気配、或いはその意識自体がない千鶴へ綾香が迎撃に放つのは左の横蹴り。
赤い網目模様の血管が張り巡らされた桃色の腓腹筋が張り詰め、凝固し、打撃を構成する。
タイミングは十全、吸い込まれるように伸びた脚が千鶴の顔面へと直撃する。
残った前歯の根を砕き折って、ざくりと刺さった歯の欠片を足裏に残したまま引き抜かれようとした
綾香の左脚を、真紅の爪が薙いだ。
薄皮も張らぬ肉に直接食い込んだ刃が、ぶちぶちと音を立てて筋繊維を千切っていく。
加えて、もう一撃。
千鶴の空いた左の爪が、綾香の伸ばされた姿も艶かしい、無傷の太腿に突き込まれる。
刺さった爪刃が、ぐじゅりと濡れた音と共に、円を描くように肉を抉った。
白い肌に走る紅の紋様が寸断され、噴き出した鮮血に塗り潰されていく。
脚の一本を縦横に刻まれて声一つ上げぬ綾香の対応は簡潔。
軸足から体幹ごと捻るように重心を移動させれば、遠心力は伸びた左脚を真横へと振る。
真っ赤に染め上げられた血みどろの脚が、刃の刺さったまま強引に移動を開始。
ぶづぶづと、何本かの腱と筋とが断末魔の悲鳴を上げて切り裂かれていくのを完全に無視して、
綾香が体を左へと捻っていく。
塞がらぬままに攀じられた腹の傷からごぼりと粘つく泡の塊が撥ね散った。
肉を裂き骨に食い込んだ刃が引き抜ける刹那、僅かに引きずられるように流れた千鶴の右腕を、
綾香の桃色の薄皮の斑に張った手が、掴む。
べしゃりと濡れた音と共に綾香の左脚が大地に着いたその瞬間、互いのベクトルは共に
左回りで回転する体側に沿った円軌道。
軸は綾香。縁は千鶴。
正しく流れるように、綾香の手に引き寄せられた千鶴の身体が、加速する円の渦に巻き込まれる。
密着は一瞬。
釣り込む腕と体躯を捌く腰、崩れた重心を掬うように払われる足。
三点が連動し、ただの一瞬、回転という運動に破壊的な力を付与する。
変則の、しかし恐るべき威力を内包して放たれた、体落とし。
釣り手の制動は存在しない。千鶴の、剥き出しの肋骨と脊柱とが加速の頂点で岩盤に叩きつけられ、
受身を許されぬまま、鈍い音と共に幾本かが砕けて飛んだ。

262ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:15:39 ID:np6NvLE.0
仰向けに倒れびくりと震えた千鶴から、しかし見下ろす綾香は引き手を離さない。
間髪入れず、掴んだ腕を捻り上げるように内側へと捩じる。
同時、狙い澄ました打撃が奔った。
千鶴の肩関節と肘関節の回転可動域が、限界に達した瞬間である。
捌いた右足を引き戻しざまの、叩き付けるような綾香の下段蹴りが、
伸びきった千鶴の肘を裏側から正確に撃ち抜いていた。
ぐづゅごぐり、と。
尖った石を擦り合わせたような耳障りな音が、破壊された関節の絶叫だった。
千鶴の右腕が、あり得ぬ方向に、くの字を描いた。
真紅の爪刃を生やした五指が、見えない何かを掻き毟るように痙攣した、その直後。

鈍く重い音が、もう一つ。
咲いたのは真紅の霧の華である。
綾香の左脚が、蹴り足の衝撃を支えきれなかったとでもいうように、爆ぜていた。
肥大した筋繊維が、一瞬だけ奇妙なオブジェのように重なり合い、膨れて、弾ける。
千切れた腱が撥条仕掛けのように縮み、支える筋を失った骨がぐらりと揺らぐ。
肉の糸がふるふると細い手を伸ばし、しかし間に合わない。
軸足の支えを失い、血の霧の中に崩れるように倒れ込んだ綾香が一声、吼えるように息をついて
立ち上がろうとした、それを許さぬ、ものがある。
鬼の手だった。

263ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:16:05 ID:np6NvLE.0
漆黒の、罅割れた分厚い左の手が、しっかりと綾香の腕を掴んでいた。
掴んだ腕を骨ごと握り潰す怪力が、その胸で抱き止めるように綾香を引き寄せた。
視線の交錯は、ほんの一瞬。
千鶴の濁った紅い瞳が、弓形に細められる。
吐息のかかるような間近、笑むように、千鶴が口の端を上げた。
折れた前歯の残滓と切れて爛れた歯茎の向こう側は奇妙に暗い。
底知れぬ深淵を思わせる笑みが、拡がる。
裂けていく千鶴の口の端の、青黒い唇の中から、赤が、覗いた。
切歯を喪失し、臼歯の多くは砕かれて、しかし、そこにはまだ、残るものがあった。
鋭く、太い、犬歯。
乾きかけた血に汚れ、なお鋭利を以て己を誇示する、肉食の根源。
それが元来、牙と呼ばれていたことを見る者すべてに思い出させる、獣の刃。
がぱりと、笑みの形のまま、顎が開いた。

音と飛沫が、金色の光を真紅に染め上げる。

濡れた音は、牙が綾香の鎖骨の僅か上、きめの細かい肌を刺し、その張力の限界を超えて体内を侵す音。
重い音は、牙が綾香の身体を縦横に走る血管の、その最大の一本を探り当て、千切り、食い破る音。
びちゃびちゃと。
ぐちゃぐちゃと。
地面に広がる血の海に、新たな飛沫が上がった。
綾香の頚動脈から噴き出した鮮血が、千鶴の口腔から溢れて流れ出し、止め処なく垂れ落ちていた。

264ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:16:41 ID:np6NvLE.0
ひゅうと漏れた悲鳴じみた吐息は、動脈と共に綾香の気管までもが裂かれた証だった。
首筋に食い込んだ牙を引き剥がそうと、綾香の手が宙を掻く。
がり、と。
爪の食い込む柔らかい感触は、千鶴の眼窩に食い込んだものであったか。
見えぬまま、指の掛かるに任せて無理やりに引いた、綾香の左手が、その半ばから、喪失する。
首から離れた千鶴の牙が、その手に喰らいつき、細い骨と薄い腱とを咀嚼していた。

転瞬、鈍い重低音。
骨と肉とを噛んで含んで、鮮血を垂らしながら笑むように歪んだ鬼の貌が、弾かれるように真横へ流れた。
叩きつけられていたのは綾香が固めた右の裏拳、横殴り。
鬼の頬骨と己が中手骨とが同時に粉砕される手応えにも、綾香の拳は止まらない。
拳を止めず、しかし振り抜かず、肥大した筋力に任せて綾香は強引に打撃のベクトルを下へと向けていく。
二の腕が、爆ぜた。
舞う血の霧は激しく、しかしその霧の勢いに押されるように軌道を変えた綾香の拳が、千鶴の頭部を
大地に叩き付けた。
血溜まりが、撥ねる。

265ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:17:04 ID:np6NvLE.0
仰向けに倒れ伏した千鶴に、綾香がずるりと裸身を引き摺るように圧し掛かる。
同時、拳を、振り下ろす。
一撃。鬼の貌が奇妙に歪んで血を吐いた。
二撃。叩き付けた岩盤の罅割れに、薄紅色の何かが流れ出す。
三撃。拳を振るう綾香の背筋が膨れて弾けた。
四撃。硬い音はもうしない。
五撃。拳は砕けて五指の形を保てず。
六撃。綾香の腹に開いた傷からどろりと粘つく肉の塊が零れ落ちた。
七撃。癒えぬ脚がぐずぐずと融けるように真っ赤な泡を吹き。
八撃。塞がりかけた綾香の左眼が、再び血の霧を咲かせた。
九撃。肩が爆ぜ。
十撃。二の腕が爆ぜ。

千鶴はとうに動かない。
飛び散る血潮すら、既にない。
剥き出しの腹の中に、乾いた赤黒い臓腑が覗いていた。


 ―――最後までやろうよ。


だらだらと、赤い血と薄黄色の体液とを垂れ流す綾香の瞳が、
動かない千鶴の、動かない腹の中の、動かない臓腑を、見つめる。
横隔膜の向こう、肺腑の間に、命の根源が、見えた。

砕けて癒えぬ、震える手が、伸びた。
だらりと力なく絡みつく血管や神経束や筋を引き千切り、
粘つく肉を掻き分けて、
終に辿り着いたその手の中の、
もう動かない心臓は、
それでも生温く。


 ―――その、最後まで。


傲、と吼えて。
引き摺り出した。

 
.

266ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:17:20 ID:np6NvLE.0
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:死亡】


→1091 ルートD-5

267感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:14 ID:w7rQ/C/M0
 どうも、こんばんは。古河渚です。
 ちょっと体がガチガチです。周りの景色なんて見えません。だって目をつぶってますから。
 バイクの二人乗りって案外怖いです。運転手さんの舞さん曰く安全運転らしいですが、揺れます。早いです。

 ヘルメットもつけていないわたしはハラハラしっ放しでした。
 舞さんを信じていないわけじゃないですけど……その、防衛本能というか。
 色々お話したかったですけど、緊張と怖さの余り言葉も出ませんでした。
 必死にしがみついていたのでもうへろへろです。運動下手なのって損ですね……
 それでも、舞さんの言うとおりかなり低速だったみたいで、わたし達が一番遅いみたいでした。

 後で舞さんに聞いたところによると、ふぅちゃんは悲鳴を上げていたみたいです。
 まーさんは相当かっ飛ばしていたみたいです。正直な話、舞さんの後ろで良かったと思っています……
 なんだか、わたしも自分に正直になっているみたいです。言い訳をするのも少なくなったり、はっきりと結論を出すようにしたり。
 わたしも何だかんだでお父さんの娘なのかもしれません。お父さん、神経が図太かったですから。

 あ、悪いことだなんて思ってないです。凄く羨ましいと思ってたくらいですから……嬉しい、というよりも、安心しています。
 わたしだって少しはまともになれるんだ、って分かりましたから。
 岡崎さんは自信を持っていい、といつだったか言ってくれましたよね。
 わたしは今でも自信はありません。まだわたしは何もしていない。宗一さんや他の皆さんの後ろにくっついているだけです。

 でもわたしには戦える力なんてない。無理にそうしようとしてもどうにもならないのが自分だというのも分かっています。
 だから、今のわたしには『安いプライド』しかないのだと思います。
 変わっていけるかもしれない。マシになれるかもしれないって、現在のわたしを肯定するだけの『安いプライド』です。
 でもそれがあるから、わたしはここにいられる。たったそれだけで、坂の上を目指せる力になるのだと思っています。
 ですから、わたしはしがみ続けるのだと思います。『安いプライド』に。『誇れる自信』に変わるときまで。

「……」

 つんつん、とわたしの頬を何かがつつきました。
 そういえば、揺れが収まっています。そもそもバイクが停車していました。
 目を開けると、少し困った顔をした舞さんがこちらを見ていました。

268感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:33 ID:w7rQ/C/M0
「ついたから、降りて欲しい」

 ぎゅーっと、力いっぱいしがみついていることに気付き、慌てて腕を離しました。

「わっ」

 焦っていたわたしは話した拍子にぐらりと後ろに傾き、そのまま落馬……もとい、バイクから落下しました。
 したたか腰を打ちつけ、にべもなく地面に転がってしまいました。何をやっているのでしょうか……
 笑うしかなかったわたしに、舞さんが手を差し伸べてくれました。

「ありがとうございます……」

 恥ずかしさがありましたが、すぐに手を取って起き上がることが出来ました。
 どうやら、わたし達が一番最後みたいです。他の皆さんの車やバイクが見えました。
 目的地の小学校。ここに宗一さんの知り合いの方がいらっしゃるとか。
 多分、電気がついているところにいるのでしょう。
 ぼーっと眺めていると、舞さんが先を行くように促しました。

「早く。遅刻、良くないと思う」

 そういえばそうかと思い至り、そうですねと返して、小走りに昇降口まで向かうことにします。
 遅れてしまうのは、あの時から変わらないのだな、と思うと、少し可笑しく感じました。

「遅れてばかりなのは変わらないですね」
「……そうなの?」
「遅刻魔だったんです、わたし」

 あまり表情の変わらない舞さんが、ぱちぱちと物珍しそうに瞬きするのが新しい発見のように思えました。

269感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:48 ID:w7rQ/C/M0
「私も、そう。不良生徒だった。生徒会から目を付けられてた」

 窓ガラスとかよく割ってたから、と付け足した舞さんに、今度はわたしが絶句する番でした。
 そういうことをするような人には全然思えなかったので……
 お互いの意外すぎる一面を知って、自然と笑みが零れていました。

 奇妙な共通点に、舞さんも笑っていました。
 昔のことだって、全部が悪いことだけじゃない。
 そんな思いを抱えながら、わたし達は校舎の中に入っていきました。

     *     *     *

「いいかゆめみよ、まずお茶を出すときには心得ておかねばならぬものがある」
「はい」
「とりあえずお湯を入れることからはじめよう、な?」

 引き攣った笑顔で高槻さんはそう言いました。わたしは首を傾げました。
 お茶を出してみろ、というお言葉に従ったまでのことなのですが……

「もう一度聞こう。お茶っ葉をカップ一杯に注いで何をしろと」
「はい! 美味しく召し上がってください!」
「牛になれと」
「眠いのですか?」

 お腹がいっぱいになってすぐに寝ると『牛になる』そうです。
 量が多すぎたのでしょうか。
 メイド修行とは難しいものですね……

270感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:04 ID:w7rQ/C/M0
 ところで、どうしてコンパニオンロボのわたしがメイドになるのでしょうか。
 メイドロボの基本行動様式は既に削除されてしまっているのですが。
 高槻さんのなさることなのできっと深い理由があるのでしょう。
 ですからわたしは何も言わずについていったのですが。

「もういい。俺がやるからよく見ていろ。そして覚えろ」
「はい。見て、覚えます」

 覚えることは大得意です。じっと高槻さんを注視すると、コホンと咳払いをして、まずは空のカップを手に取りました。
 次にカップにお湯を注ぎます。なるほど、あの粉だけではいけないのですね。
 それからさっきわたしが入れていた粉をお湯に投入しました。あ、お湯の色が変わってます。

「これがお茶の淹れ方だ!」
「なるほど! そうなのですね!」

 ……と思う、と小声で付け足したのが聞こえましたが、高槻さんが言うのです、間違いありません。
 手順は既にインプットしましたから完璧に行えます。わたしがぐっ、と拳を握ると、
 高槻さんはぽりぽりと頭を掻きつつも、「まあいいか」と言ってくれました。

「あとはこいつを人数分入れて、みんなのところに持って行ってやれ」
「承知しました」
「それと、もう一つだけ覚えておけ」
「はい」

 再度インプットモードに入ります。このモードのときはじっと教授してくださる方の挙動を窺うのですが、
 高槻さんはいつも最初に苦笑します。そういうことで、わたしもそれらしい表情を浮かべることにしています。
 鏡がないのできちんと実践できているかどうかは分かりませんが。

「人間、疲れたときに暖かい食べ物や飲み物を出されるとホッとするもんだ。大抵はな」
「そうなのですか」
「そうだ。そしてありがたみを忘れてしまった奴もいる」

271感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:20 ID:w7rQ/C/M0
 どういう意図があって言ったのかは分かりませんでした。曖昧に頷くわたしは、適当という挙動を実践しているのかもしれません。

「お前は、疲れている奴にすっと茶を出せるような優しさを学べよ。
 誰かそのものじゃない、参考になることだけ学べばいいんだ。駄目なところも学んじゃいけない」

 それについては万事完璧です。人間として素晴らしい行動規範をお持ちになっている方が目の前にいらっしゃるのですから。
 そういうことだ、と付け足して、高槻さんはお茶を淹れろと促しました。
 わたしはお茶を飲めないので、この場合三人分必要ですね。
 苦笑を浮かべて、わたしはお湯を注ぎ始めました。

     *     *     *

 遅いな、と思いながら振り返ってみるが、川澄と渚の乗ったバイクは見当たらない。
 相当ゆっくり走っていたのだから、まだしばらく時間はかかるのかもしれない。
 そんなことを思いながら、俺は車に体を預け、溜息をついた。
 リサからは学校で、と指定されたが、具体的にどこの部屋でとは指定されなかったのでとりあえず外で待ってはいるのだが……
 現れやしねえ。遅刻だろうな、こりゃ。

「俺達はいつまでこうしてればいいんだ」

 車の助手席から身を乗り出して尋ねてきたのは国崎さんだった。
 後ろの席ではルーシーが退屈そうに腕組みをして足を荷物に乗せている。
 まーりゃんと伊吹は相変わらず仲良くケンカしている。今回の理由は『運転が乱暴すぎるから』というものだった。
 寿命が縮んだだとか肝が潰れたとか文句を言う伊吹に対してまーりゃんはそんなんだからチビ助なんだぞー、とからかっている。
 取っ組み合いにならないのは単純に伊吹が限界だからだろう。乗り物酔い的な意味で。

「誰かがいそうなんだけどな。ひょっとしたら先にいるのか……」
「俺達が先行してもいいんじゃないか」

272感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:38 ID:w7rQ/C/M0
 校舎の中では明かりが点いていることから、誰かがいるのかもしれないと予測はできるが、果たしてそれがリサ達のものなのかは分からない。
 俺達がいる場所も、明かりのあるところからはギリギリ死角になるような場所だ。
 誰かが出て行けば応じて出てくるのかもしれないが、安全が保障されているわけではない。
 完全に参加者間での殺し合いが途絶えたと確信できる理由はないのだ。

 行くにしても、のこのこと出て行くのだけは避ける。
 人を疑い続ける職業である俺の癖と言うべきものであるが、必要なことだと分かっている。
 疑うことは決して悪ではない。身を守るための最善の手段なんだから。
 渚は信じることで知ろうとしている。俺は疑うことで知る。方法は違えど、人間を知るということにおいては変わりない。
 ただ、そういう俺を、渚は知って受け入れてくれるのだろうか……

「いい加減行ってみてもいいかもな……リサも同じ立場だ。こっちを窺ってるのかもしれない」
「行くのか?」

 顎を上げてルーシーが反応する。頷くと、「じゃあ、携行武器がいるだろう」と拳銃を寄越した。
 形状からしてM1076だろう。ルーシーはどちらかと言えば俺の側に近い存在だ。
 もっとも、それは対外的な存在に対してであって、身内には少々甘いところがある。
 それはそれでいいと思っていた。人と人を繋げるきっかけでもあると言えるのだから。

「俺も行こう。……邪魔か?」
「あまり大人数だと困るけどな。国崎さんがいればいいか」

 単独行動で仕事することの多い俺だが、チームプレイも得意だ。伊達にエディと組んでいたわけじゃない。
 ただ、ひとつのグループをまとめるのは苦手だ。精々が三人までというところだろう。
 俺自身の疲労も考えれば二人が一番いい。見ていたルーシーに首を振ると、やれやれという風にまた車のシートに身を預けた。
 違うのは、膝の上にマシンガンを乗せていることだったが。

 国崎さんを選んだのは怪我の度合いから見てのことだ。一番傷が浅く、なおかつ男だ。見た感じタフそうでもあるし。
 まあそれに……まーりゃんや伊吹だと、絶対に話がスムーズに行かない。断言できる。

273感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:55 ID:w7rQ/C/M0
「むむっ! あたしを呼ぶ声が聞こえたような気がした!」

 考えた瞬間にまーりゃんが鋭敏に反応していたが、俺と国崎さんが揃って首を振ると「ありゃ」と首を傾げて、ぽりぽりと頭を掻いていた。
 なんて鋭い奴だ。まーりゃんにミステリの探偵役を任せたら、たちまち解決してくれるかも。
 伊吹は疲れたのか、バイクのシートでぐったりとしていた。大丈夫なんだろうか。

「行くか」
「なるべく慎重にな」
「言うまでもない」

 お互いに牽制し合いながら、俺達は学校へ向けて歩き出した。

     *     *     *

 存外に時間がかかってしまった、と思った。
 急激に曲がりくねった道が多かったのと視界の悪さのせいなんだけど。
 まさか激突の衝撃でライトが壊れてるなんて気付かなかった……
 星明かりに感謝したことは初めてかもしれないわね。

 もし雨が降り続いて空が雲に覆われたままだったら、もっと時間がかかっていたでしょうね。
 まあそれを抜きにしてもあのトンネルが一番時間がかかったでしょうけど。
 一寸先は闇、という日本語を思い出したわ。本当、何も見えないったらありゃしない。
 ガリガリと車を壁にこすりつけてしまったのは一生の不覚だわ。今度は暗闇でも運転できるように訓練しないと。

 意外とムキになっていることが可笑しかった。やっぱり、私は車が好きなのだろう。
 何故、と考えてみても理由に繋がる思い出が浮かばない。

 任務のために運転技術を習得する必要があった? 違う。
 対人関係の上で、上手な方がイニシアチブを取れると考えたから? 違う。
 広い道で車を最速で飛ばすことを楽しみに感じられるようになったのも、より速い車を好むようになったのも、
 全ては私自身の意思で、そのためにかけた時間も私が選択したことに他ならない。

274感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:11 ID:w7rQ/C/M0
 なんだ、と思った。任務遂行の歯車、復讐に徹するだけの機械かと思えば、実は新しい自分を見つけ出していたってわけね。
 気付かなかったし、気付こうともしなかっただけで、奥底にある私そのものが変わろうと努めていたのかもしれない。
 そう思うと今まで靄がかかって想像さえできなかった未来の自分がふっとその姿を見せたように思えた。
 想像することに関しては幼稚でしかない私は、
 レーシングドライバーになればいいかもしれないなんて馬鹿げたことを考えているみたいだけど。

 ……いや、きっとそれは私が軍人の道を歩まなかったときのIfなのでしょうね。
 復讐に身をやつさずとも、やさしさで絶望を乗り越えられるような、そんな人間だったなら。
 凡俗で、憎悪の炎を燃やして消費するだけでしかなった私が前を向けるようになったのには、
 相応の時間と出会いと別れを繰り返さなければならなかった。

 私にはまだ、思うままに任せて暮らすというようなことが出来そうになかった。
 不実を清算しきれていない。だから軍人を続ける必要がある。そう結論して。

「おっと、先客がいるみたいね」
「先客?」

 顔を真っ青にしたことみが言う。先ほどからの運転のせいだ。ちなみに、後ろの二人はまだすやすやと寝ている。
 いい寝つきね。別に責めているわけじゃないけれど、図太い神経だって思うわ。
 ……いや、張り詰めていたものが切れたから、か。
 私なんかは切れては繋いで、切れては繋いでいたからもう簡単なことじゃ切れなくなっちゃったけど。

「あそこ」

 思考を払って、ことみの質問に答える。学校へと歩いている二つの棒があった。間違いなく人影でしょうね。

「クラクション鳴らしたら?」
「危なくないかしら? 誰かに感づかれたら」
「今さらだと思うけど……」

275感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:27 ID:w7rQ/C/M0
 それは今の14人という人数のことを言っているのか、車という存在感のある乗り物に乗っていることを言っているのか。
 蒼白な顔をして溜息をつくことみの顔色は先程より悪くなっているように感じられた。
 ひょっとしたら、乗り物酔いの気があるのかもしれない。
 我慢しているのは偉い。言ってくれても良かったのにとも思うけど。

「そうかもしれないわね。一応、二人を起こして」

 首を振って促すと、ことみはシートベルトを外して後ろの席へと身を乗り出していた。
 その間に私は思い切りクラクションを鳴らし、前方の二人へと向かってアピールを開始した。
 今まで気付かれなかったのは単にライトが点いていなかったからなのかしら。
 音でようやく気付いた二人組は素早く拳銃を取り出し、いつでも構えられるようにしているようだった。

 一瞬迂闊だったか、という思いが過ぎりつつも、この状況ではそれも当然と冷静な軍人の頭が告げ、
 このまま速度を緩めて接触を図ることにする。ライトが点いていればもう二人組の正体は判別できていたのでしょうけど、
 生憎と濃すぎる暗闇の中ではまだ顔までは判別できなかった。

 暗視スコープなどという文明の利器を駆使してきたお陰で夜目が少々利かなくなっているようね。
 それとも、単に疲れているからなのかしら……
 眠らなくとも保つ体だとはいえ、限界というものはあった。

「ん……着いたん……?」

 眠そうな声に欠伸を混ぜた様子の瑠璃の声が届いた。緊張感の欠片もない、と思ったけど、
 「アホか、準備しろ」と慌てた浩之の声が続き、「すいません、寝てました」と言ったことで、チャラにしてやろう、と思った。
 瑠璃も言われて、自分の発言の迂闊さに気付いたようで「ご、ごめんなさい」と上ずった声で謝罪した。

「油断だけはしないようにね」

276感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:42 ID:w7rQ/C/M0
 釘だけを刺しつつ、私はようやく見えた二人組の顔にホッと一息ついた。
 宗一がいる。こちらにも気付いた宗一は目に見えるくらいに安心した表情になって挨拶するように手を振っていた。
 どうやら、お互いここまで無事に引っ張ってこれたことに安堵しているみたいね。
 私はともかく、宗一が牽引役までやっていたことは意外だったけど。
 あの子、キャプテンではあってもリーダーじゃないもの。

 車を降りると「久しぶりだな」という相変わらずの溌剌とした様子で、宗一が手を差し出した。
 挨拶代わりに手を捻ってやろうと、緩みかけた気を引き締める意味合いも兼ねて宗一に手を伸ばす。
 けど素早く捻られるはずだった宗一の手は私の手を弾き、代わりに私の腕を搦め取ろうと反対の手を伸ばしてきていた。

 同じことを考えていた。奇妙な嬉しさが溢れてくるのを感じながら、一歩引いてそれを躱す。
 軽くジャブを打ち込んでみるが、器用に捌かれ、ラッシュが止まったところにカウンターのキックが入れられる。
 私だってそう単純じゃない。足を取って投げてやろうと掴んだが、もう片方の足が蹴りかかっていた。
 舌打ちして掴んでいた方とは反対の手で蹴りを止める。
 その間に掴まれていた足をほどき、トントンとバランスを取るように二歩、下がった。

 私と宗一以外の人間は突如始まった格闘に唖然としている。
 もっと続けたかったが、いらぬ誤解を招きかねないので「もういいでしょ」と手をかざした。
 ふむ、と宗一も応じて構えを解く。「一泡吹かせてやろうと思ったのに」と悪びれもせず言う宗一に、私は不敵な笑みだけを返した。
 どうやらお互いの考えはそう変わっていないらしいということを理解して、私達は今度こそ普通の握手を交わした。

「お前ら、それが普通なのか」

 ようやくといった感じで宗一の連れが呆れたような声を出したが、別にいつもやってるわけじゃないのに。
 あ、そう言えば宗一との初体面でもこんなことやったっけ。

「ワケわかんねえ」
「うん」

 乱闘だと思ったらしく、武器を抱えて車から飛び出していた浩之と瑠璃に、私は肩を竦めるしかなかった。

277感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:00 ID:w7rQ/C/M0
     *     *     *

 まあ、こうして色々あったようななかったようなわけなんだが、とにかくおれ達は無事学校に着いたってことだ。
 ……道中、寝てたけどな。気が緩んでたのは認めざるを得ない。
 こんなんで瑠璃を守れるのかよ、と思ったが、寝て鋭気を養ったということにしておこう。

「ところで、宗一側はそれだけなの?」
「ああ、俺達が先行してただけだ。残りは別にいる」

 宗一というその人は一見俺と変わらないくらいの年に思える。だがあのリサさんと互角に戦っていたんだから実は凄い人なんだろう。
 リサさんが本気ではないのは分かっていたが、それは相手にしたって同じことだろうし。

「どこに?」
「ま、着いてくれば分かる」
「ふむ、相変わらずガードは固いわね」
「悪いね。習い性なんだ」

 仲間だと分かっているはずなのに、なかなか手の内を見せようとしない。
 習い性だと言っているから、そうポロポロ喋るということじゃないんだろう。
 リサさんもそれを試していたらしく、合格という風に頷いていた。
 おれだったら嬉しさの余りついつい喋っちゃうんだろうな。そんで怒られるんだろう。
 ……元々、おれに合流の喜びを分かち合える奴なんていなくなったようなもんだけど、な。

「浩之」

 ぼーっと二人を眺めていたおれに、瑠璃がぽんと肩を叩いてくる。

「荷物、下ろそ」

278感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:18 ID:w7rQ/C/M0
 優しく微笑んだ瑠璃には、感傷に浸りかけたおれを気遣ってくれるものがあった。
 ああ、俺は一人じゃない。そんな気持ちが込み上がり、底に沈んでいたはずの自分、
 かったりぃと言っていたころの自分が浮き上がってくるのを感じる。

 自分で手放して、二度と掴まないと決めていたはずのものだったのに。
 迷っているのだろうか。もう肩肘を張る必要はないと心のどこかで分かっているのだろうか。
 おれでは決められず、結論を出すことはできなかった。

 そうするだけの自信がない。結局のところ何だってしてこれず、
 みさきを振り切ったおれには自分の判断だけで自分を肯定なんてできなかった。
 甘え、弱さだと言えば、そうなのかもしれない。
 それでもおれは、自分ひとりだけでは決めることが出来ないものがあり、誰かに依存する術を知ってしまった。
 だから……おれは、誰かに肯定してもらいたいのだろう。

「手伝おう」

 横から現れた男が瑠璃の持っていた荷物を肩代わりしてくれた。確か、宗一って人の隣にいた人だ。
 切れ長の細い瞳、少し痩せた頬という顔つきにも関わらず、体はがっしりとしていて、屈強の一語を即座に連想させた。

「あ……すまねえ。えっと、名前は」
「後でいい。どうせ集合した後にでもするだろうからな。それに俺は生憎物覚えがいい方ではないんでね」

 はあ、と生返事すると、男は踵を返してさっさと歩いていってしまった。
 親切なのか無愛想なのか分からず、おれは瑠璃と顔を見合わせて苦笑した。

     *     *     *

 しばらく休んでいると、また体の傷が疼きだしたのか、全身に鈍い痛みがじわりと浸透してきていた。
 或いは一時でも安心する時間を貰ったからなのかもしれないけど、少し辛いのには変わりなく、あたしはより深く椅子に身を委ねた。
 長い溜息が漏れ、それを疲労と察してくれたのか、芳野さんが救急箱から鎮痛剤を渡してくれた。

279感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:33 ID:w7rQ/C/M0
 ありがとうと会釈を返しつつ、錠剤を飲み込む。水がないので緩やかにしか喉を通らなかったが、
 体が一生懸命奥へ運ぼうとしているところからは、あたしもまだまだ生きているのだなと実感する。
 生きていたい、という言葉に置き換えてもいい。こんなに辛いのに、苦しいのに、命は前にしか行こうとしない。

 きっと、あたしはゆめみさんに憧れている。
 正確にはゆめみさんの中にある人の意思、理想と言ってもいい。
 人のやさしさを詰め込んだ、在るべきひとのかたちに、あたしは惹かれている。
 だから妹の死を究明してみようと思ったし、今のあたしをどうにかしたいとも思った。

 ゆめみさん自身はただのプログラムを積んだロボットでしかないのかもしれない。
 それでも、プログラムを設計したのは人であり、根幹は人の善意を信じて作られたと思わせるようなものが随所にある。
 ひとの理想であるからこそ、あたしはそこを目指そうと思ったんだろう。
 現実は少しずつしか変わらず、一足飛びに実現できるものではないと分かっていても、いつかは同じ位置に辿り着けると信じて……

「皆さん、お茶をお持ちしました」

 と、そこで憧れの対象であるゆめみさんがトレイに湯飲みを数点乗せて帰ってきた。
 どこに行っていたのかと思えば、お茶を淹れてきてくれたというわけだ。
 なるほど流石は気の利くロボット……とか思ってたら、
 その後ろから「ワシが育てた」とでも言わんばかりに偉そうな表情を浮かべた高槻がやってきた。

 そう言えばメイド修行だとかなんだとか言っていたような気がする。
 メイド服を着せていないあたりは評価してやってもいいかもしれないけど。
 あたしはそこで自分の発想の貧困さに気付き、少し愕然とした。
 苦々しい気持ちを打ち消すために、飲んで落ち着こうと思い、お茶を受け取る。

「ありがと……って」

280感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:52 ID:w7rQ/C/M0
 湯飲みを口に運ぼうとしたあたしの手が緊急停止をかけた。芳野さんも湯飲みの中を見て固まっている。
 それもそうだ。お茶っ葉がこれ見よがしにぷかぷかと浮いていたのだ。
 あたしは即座に池にびっしりと広がるアオコを想像してしまい、げんなりとした気分になった。
 茶柱がどうとか、そういうレベルではなかった。適当もいいところに淹れられたお茶は、きっと濃すぎる味に違いなかった。
 なまじ家庭科のスキルがあるあたしとしては口を開かずにはいられない状況だった。

「これ、お茶の淹れ方が違うんだけど」
「え?」「何だって?」

 既にぐいぐいと中身を飲み干していた高槻がお茶っ葉を口元に張り付かせながら反応し、ゆめみさんも頭を傾げた。
 気にしていないところを見ると、間違ったお茶の淹れ方を指図したのはあいつであるらしいと推論したあたしは、ジロリと睨んでやる。

「お湯にそのままお茶の葉を突っ込んだでしょ」
「違うのか」
「あのね……」

 あまりの知識のなさに怒る気にもなれず、あたしは閉口するしかなかった。
 こいつが妙に知識の偏りがあることは前々から承知の事柄だったが、ここまで適当だとは思わない。
 ざっくばらんの一言では括れないフリーダムぶりに、どう返したものかと思っていると、芳野さんが助け舟を出してくれた。

「間違っちゃいない。だけどな、お茶の葉は濾してから淹れるもんだ。葉をそのまんま突っ込むのはどうかと思うぞ」
「マジでか」
「飲めなくはないがな……礼儀としての問題だ」

 言いたいことを見事に言ってくれた芳野さんにあたしはただ感服する思いだった。
 この人はいい意味で大人だと思う。さっきだって、気配を察して薬をくれたし。
 落ち着いているだけじゃない、色々なことで気を配れる芳野さんの姿に、わけもなく心が昂揚するのを感じた。

「あの、淹れたのはわたしです。至らなかったのはわたしにも非があると思います……申し訳ありませんでした」
「いいのよ。どうせ適当に教えられたんでしょ」

281感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:09 ID:w7rQ/C/M0
 いつものように過剰なくらいに詫びるゆめみさんに対して、あたしは苦笑しながら言う。
 今回ばかりは返す言葉もないらしい高槻はぐうの音も出ないという感じで、「悪かったな、世間知らずで」と珍しく非を認めていた。

「まあ世間知らずというよりは、単に知識不足なだけな気がするがな」
「うっせ。理系脳なんだよ」
「理系だろうがなんだろうが、簡単なお茶の淹れ方は常識の範疇だと思うが?」

 ぐっ、と声を詰まらせる高槻に、あたしは声を押し殺して笑った。
 芳野さんも悪意があるわけではないのだろうけど、本能的に突っ込みを入れずにはいられないのだろう。

「常識に囚われてなくて悪かったな」
「ああ。早く現実に戻って来い」

 憎まれ口を叩き合う二人は、きっとここじゃなければ悪友と呼べる間柄なのかもしれない。
 不意に朋也と陽平の姿が思い出され、感傷が心に広がってゆく。
 ああ、あたしはもっと、あんな風景を見ていたかったんだな……

「あ、あの、お二人とも、ケンカは……」
「大丈夫よ、分かっててやってるから。ケンカにはならない」
「そうでしょうか……?」
「そうよ。あたしには分かるから。それより、今度からはあたしが教えてあげるから、その時はあたしに言ってね」
「……はあ。分かりました」

 ゆめみさんの目にはケンカにしか映っていないのであろう二人の言葉の応酬を目にしながら、
 あたしはこいつらも好きなんだな、と認識が新たになるのを感じていた。

「わーったよ! 責任取って見回りに行って来る! 覚えてろよ芳野!」

282感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:30 ID:w7rQ/C/M0
 逃げの口上か、それともまだ疲れているあたし達を察したのか、高槻は唐突にそう言うとずかずかと出て行った。
 まあきっと前者なんだろうけど。
 それを見たゆめみさんが「あ、待ってください!」と慌ててついてゆく。そうしてここにはあたしと芳野さんだけが残される。

 高槻がいなくなったことで、今まで抑えていた笑いの衝動を抑えきれなくなり、「バカよねぇ、本当」と言いながらあたしは笑った。
 釣られるようにして芳野さんも「近年まれに見るバカだな」と言いつつ微笑していた。
 お茶の淹れ方ひとつでここまで盛り上がれるあたし達もバカだった。

     *     *     *

 藤林の笑った顔を見るのは、これが初めてかもしれなかった。
 今まではずっと緊張を巡らせていて、触れれば壊れてしまうガラス細工のようにしか見えなかったのに。
 傷だらけの体。全身あちこちに包帯を巻かれ、歩くことさえままならない彼女の身体は、闊達な言動とは裏腹にひどく華奢に思える。
 それだけではない、傷ついた心、もう二度と取り返せなくなった日常に打ちのめされた心であるはずの藤林は、
 しかし今は、どこにでもいる少女のようで、俺と同じ位置にいる少女のものとは考えられなかった。

 一体何が彼女の心境に変化をもたらしたのかは分からない。ただ言えることは、この集団に身を置くことで変質したものらしいということだ。
 俺にしてもそれは同じで、もっと自由に物事を考えてもいいと思えるようになった頭しかり、
 変質を受け入れて身を委ねられるようになったある種の余裕しかりだった。
 公子さん……俺はきっと、あなたと出会った頃の俺に戻っているのかもしれませんね。

 何も知らず、現在を全力で駆け抜けることしか考えていなかった過去の俺が思い出される。
 どこまでも真っ直ぐで、挫折や絶望なんて視野にも無く、ただ希望だけを信じられた昔。
 大人として最低限の分別を身につけたとはいえ、茫漠とした未来に期待を寄せ、
 自らそこへ歩んでゆくという意思を持っているという点では、俺は昔と何ら変わりのない人間だった。
 だからだろうか、先程から笑っていたことと合わせて、俺は珍しく雑談の口を開いていた。

「どうする? お茶はまだ大量に残ってるんだが」

 藤林は俺の意外な言葉に少し目を丸くしたようだったが、すぐに生来の会話好きな気質を刺激されたのか、すぐに応じてくれた。

283感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:48 ID:w7rQ/C/M0
「まあ、残すのも悪いですし、飲んじゃいましょう」
「そうだな、冷める前に一気に……お、茶柱だ」
「えっ、本当に?」

 これだけお茶っ葉があればひとつくらいはあってもよさそうなもので、俺の湯飲みにもぷかぷかと控えめに浮く一本の茶柱があった。
 藤林が興味を持ったのか、体を俺に寄せて覗き込んできた。
 不意に女の香り、有り体に言ってしまえば普段彼女が使っているだろうシャンプーの匂いが土臭さを突き破って俺の鼻を刺激する。
 あまりにも久しぶりすぎる感覚に、俺は思わず石になってしまった唾を飲み干していた。
 言っちゃ悪いが、公子さんとは健全すぎる付き合いしかしてこなかったからな……

 いやそもそも結婚前提の前の付き合いという段階で、しかもある事情のお陰で恋愛を楽しむ暇なんてなかったから、
 実質俺は恋愛に初心なのと同然なのかもしれなかった。
 いや、別に公子さんに恨みを抱いてるわけじゃないんですよ。ただもう少し色々やっておきたかったなというだけで。
 俺の言い訳に、仕方ないなぁと苦笑を浮かべた公子さんが、じゃあ思うようにやってみて、と一歩身を引いたのが感じられた。

「あーホントだ。あたし、一つもないんですけど……」

 スッと差し出された湯飲みには、確かに茶柱はなかった。言ってしまえば確率でしかないのだが、それほど低そうな確率でもないだけに、
 俺は「運が悪いな」、と率直な感想を口に出してしまっていた。

「何それ、勝者の余裕ですか?」
「あ、いや、すまん」

 口を尖らせた藤林に咄嗟に謝罪すると、今度は藤林が慌てたような顔になる。

「いや、そんな真っ正直に謝られても」
「今のは俺の口が悪かった」
「あたしだって、別に悪気があったわけじゃ……」

284感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:07 ID:w7rQ/C/M0
 そこで藤林が破顔した。互いに謝りあうということが可笑しかったらしく、「なんで茶柱一本で謝りあってるんだろ」と続けた彼女は、
 笑うことで体に痛みが走るのも構わず腹を抱えていた。
 こうなるとほしのゆめみが間違えたお茶の淹れ方をしたのも寧ろ正しかったように思え、
 そう考えられるのだから人間現金なものだと思ってしまう。ただ、心地良いことだけは疑いようがなかった。

「……ん?」

 ふと、視界の隅に人影らしきものが横切った。正確には職員室から見える、さらにその先の廊下の窓から見えたという方が正しい。
 高槻かと思ったが、外に出るとは思えず、俺は湯飲みを机に置き、藤林に耳打ちする。

「外に誰かいるぞ。……侵入者かもしれない」

 敢えて侵入者という不穏当な言葉を使ったせいなのかもしれなかったが、
 藤林の顔が女の子のものから殺し合いを潜り抜けてきた人間の顔になり、身構えるのが分かった。

「ことみ達かもしれませんけど」
「確かに。だが、そうじゃない可能性もある」
「……電話してみます? リダイヤルを使えば」

 とりあえず自分が見てこよう、と提案しかけたのを制して藤林が言った。電話するという発想は頭になく、
 虚を突かれる思いで俺は藤林を見ていた。なるほど、そういう手もあるのか。

「頼む。俺は一応警戒しておく」
「任せてください」

 素直に自分の提案が受け入れられたことが嬉しかったらしく、藤林はほんの少し誇らしげな表情になって電話を取った。
 しばらくして、電話が繋がったのか、受話器越しに藤林と誰かが会話を始めた。

「あ、もしもし? 今どこ?」
「え? もう来てる? ああ、ここが見えてるんだ」
「……うん。分かった。それじゃあ迎えをあげる。あたし? 大丈夫、動くと痛いだけだから。死にゃしないわよ」

285感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:30 ID:w7rQ/C/M0
 藤林の声だけ聞いてると、どこにでもある、友達同士での会話のようにしか思えなかった。
 まあ、迎えというのは多分俺のことなんだろう。高槻とほしのゆめみは出払ってるしな。
 あいつらは気付かなかったんだろうか。……タイミングの問題だと思うことにしよう。

「ということで芳野さん、お願いできますか」
「どこに行けばいい?」
「とりあえず、職員室廊下の窓を開けてもらえば」
「……何故窓を?」
「さぁ? 正面から堂々と入るのはある意味危険だとかなんだとか」
「面倒くさいだけなんじゃないのか」
「……ああ。モノは言い様ですね」

 そういう解釈もできるらしいと気付いた藤林は苦笑し、まあいいじゃないですか、と付け加えた。
 確かにトラブルがあるよりはずっといい。そもそも、規格外なら高槻とほしのゆめみで慣れている。
 なら俺も規格外なのか、と考えて、それでもいいかもしれないと思う自分が可笑しかった。
 どうやら俺も毒されてしまっているらしいと結論して、強くなりすぎないように藤林の肩を叩いた。

「行って来る。……また、無駄話にでも付き合ってくれ」

 言わなくてもいいはずの言葉を付け加えてしまったのは、吹っ切った部分があるからなのかもしれなかった。
 想像外の言葉だったのだろう、面食らった顔になった藤林はしかしすぐに「いいですよ」とだけ言ってくれた。
 短すぎるその声は、俺でも照れることなくすんなりと受け入れることが出来た。

     *     *     *

「うん、それじゃまた」

 子供っぽい髪飾りの女が携帯を仕舞うのを確認した俺達は、先導されるようにしてついていった。
 最初はひどい怪我だと思っていたが、案外平気で行動しているので、大した怪我ではないのかもしれない。
 荷物持ちは俺と那須、さっき少しだけ会話したやつを中心に、後は女性陣が少しずつだ。

286感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:46 ID:w7rQ/C/M0
 それにしてもこんだけ大量の荷物を何に使う気なのだろうか。
 説明もない以上、俺には想像ができるはずもなく、黙って後をついていくしかないのが現状だった。
 こんなことならあいつと自己紹介でもしておくべきだったかと考えたが、今さら後の祭りだ。
 それに、俺は話題を作って話し続けられるだけの技量もないしな……精々聞き役に回れるくらいだ。

 舞の誘いを断ってから、どうも煮え切らない何かが渦巻いている。
 あの状況ではそうするのが妥当だと思えたし、正しいとも頭では理解していたのだが、舞のどこか残念そうな顔が頭から離れない。
 普段から無表情なのだから、気のせいだと思うことだって出来たのだが、俺の直感はそうは思ってくれていないらしかった。
 なら、俺はどうすれば良かったのか。仮に受け入れていたところで冷やかされ、無言になるのは目に見えていた。

 ……いや、なんで無言にならなきゃいけないんだ?
 当たり前のようにそう思っていたことに俺自身わけが分からず、あの時の舞の顔をもう一度思い返してみる。
 俺に確認を取ってきたときの、いつも通りの真っ直ぐな視線。

 ……本当に、いつも通りだったか?
 記憶とは曖昧なもので、そのいつも通りさえ思い出せず、俺は何をやってるんだという思いだけが募った。
 逆に、どうしてここまで舞のことを考えているのかと自答する。
 既に知り合いが悉く死に絶えてしまったからだろうか。霧島姉妹を亡くし、晴子と観鈴を失い、美凪とみちるの死を知ったからか?

 それならそれで考えるべきことはいくらでもあった。彼女らの最期はどうだったのか。
 幸福に逝けたのだろうか。何かを伝えて生き抜くことができたのだろうか。
 ここにいる連中にでも、尋ねてみてもよいはずだったのに、そうしようと考えるだけの頭はなかった。
 どうでもいい、とは思っていない。ただそれ以上に今のことで頭が一杯だった。
 その『今』の象徴が舞であり、それについて思索を巡らせている俺なのかもしれなかった。

 ……『今』か。
 俺の目標はと言えば、人を笑わせるために生きると言ったはいいものの、肝心の相棒である人形がいないということだった。
 そのせいで俺は荷物運びだとかをすることが多くなり、結果的に会話から遠ざかっているのも頷けた。
 つまりは人形劇ができないと俺は何もできないということなのだろうか。

287感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:04 ID:w7rQ/C/M0
 人を笑わせることも……

 そう考える俺の頭にはやはり舞の姿があって、彼女もまた笑っているのだった。
 ……そういえば、俺は舞の笑った顔って、見た事がないような。
 想像はしてみたものの、今まで以上に靄がかかっていて、表情の細部まで想像することができていなかった。
 泣き笑い、微笑、苦笑という、別の感情が入り混じった笑いなら見てきたが、喜び一色の笑いは見た事がなく、俺はひとつの納得を得ていた。
 そうか。俺は、舞の本当に笑った顔が見てみたいのかもしれない……

 全ての疑問が解消される答えを見つけた瞬間、同時に舞に惹かれているのかもしれないとも自覚し、俺も男か、という思いが実を結んだ。
 決心を固めてから、最初に人形劇を見せたから、というのも理由のひとつではあるのかもしれない。
 徐々に寄せられる信頼に応えたいという気持ちもあるのだろう。
 一緒に死地を潜り抜けてきたという連帯感だってあるはずだった。
 惹かれているという表現はそれらが一緒くたになったものであり、川澄舞という女の子に対する総括なのだろうと思える。
 好き、だとかそういうものには少し遠いのかもしれない。
 それでも今まで共に生きてきたという経験を通して、もっと繋がりを深めたいという思いは事実だった。

「こっちだ」

 ふと聞き覚えのある声が俺の耳に止まり、奇妙な懐かしさが込み上げる。

「久しぶりだな」
「そっちこそ、元気で何よりだ」

 声を返してやると、全員がこちらに寄ってくる気配があった。
 子供っぽい髪飾りの女が挨拶するように手を上げると、半日ぶりに会った芳野が会釈で応じた。

「とりあえず、荷物からだな。こっちに渡してくれ」

 芳野の指示に即応して、一人ずつが順番に荷物を渡してゆく。中には重たい荷物もあったので、それは俺と那須で協力して持ち上げる。

288感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:22 ID:w7rQ/C/M0
「さっき話してたけど、知り合いかよ?」
「多少話した仲だ」

 那須はふうん、と頷き、荷物の大半が校舎の中に入ったのを確認すると、金髪の女に向き直る。

「外で待ってる奴らを連れてくる。先に入ってていいぞ」

 他の連中が頷いて三々五々窓から侵入してゆくのを尻目に、俺と那須は仲間の待っているところまで歩き出す。
 舞と古河は遅れているようだったが、もう着いているだろうか。

「……ひょっとして、ここには今の生き残り全員が集まってるのかな」

 行きすがら、那須がぽつりと漏らした声に「ひょっとしなくても、全員集まってるだろう」と返す。

「どうして? まだ不確定組はいる」
「……最後の一人は、以前会ったことがあるんだ。名簿では高槻、って奴だったか」

 会ったのが一日目のことだから、もう随分と前になる。あの時は俺と一緒に罠にハマって往生してたっけな。
 散々間抜け面を晒していたが、一応悪い奴ではなさそうだった……気がする。
 だが、単に小悪党ならとっくの昔に死んでいてもおかしくない。よほどの狡猾ぶりとも思えなかったし、
 恐らくはあの調子のまんま殺し合いに乗ることもなく生き延びてきたんだろう。
 そういやポテトが随分懐いているようだったが、あいつは今どうしてるんだろうか。

「なるほど。国崎さんと話してた人も含めて、これで完全に敵はいなくなったってわけだ」
「どうだかな……油断はしない方がいいんじゃないのか」

 ここに集まった連中を疑うわけではないが、簡潔に過ぎる主催組の動きが気になる。
 もう殺し合いを続ける気がない連中ばかりだと知ったら何をするか分かったものではない。
 そういう俺の意識を敏感に感じ取ったのか、那須は「それもそうか」と短く返事した。

289感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:41 ID:w7rQ/C/M0
 まだ正体不明もいいところの殺し合いの管理者。
 俺達の目的は脱出で、出会わないに越したことはないのだが、どうしても障害になる可能性は高かった。
 しばらく歩いて、正門前まで辿り着いたとき、俺達は一組の男女が睨み合っているのを目撃した。
 一人はまーりゃん。そしてもう一人は……今しがた話題にしていた男だった。

     *     *     *

 旅の恥はかき捨て、というが、これからも行動を共にしなきゃならん俺にとっては恥は投げ捨てるもの、というわけにはいかなくなった。
 そうだ旅に行こう。イスラエルの若者は兵役につく前の一年間旅に出るというじゃありませんか。
 ところがどっこい俺が旅に出るためにはまず島を脱出せねばならんわけで。
 結局のところ俺は名誉挽回という言葉に縋らねばならず、せめてもの見栄にとニヒルにフッと溜息をつくしかなかった。

「あの、高槻さん」

 遠慮がちにちょこちょことカルガモの子供みたいについてきていたゆめみさんがこれまた遠慮がちに声をかけてくる。
 そういや、なんでこいつもついてくるんだろう?
 恥をかいたのはお茶の誤った淹れ方を教えた俺であり、別に俺みたくすごすごと退散する必要はなかったのに。

「申し訳ありません、わたしが知識不足なばかりに」
「いいんだよ、元はと言えば俺がアホだったせいだ」

 普段ならささくれたっているはずの気持ちは不思議と穏やかで、自然にゆめみをフォローする言葉が出ていた。
 ゆめみが俺に毒されているのと同様、俺もゆめみの能天気に毒されているのかもしれなかった。
 ったく、なんで俺は変なのにばかり好かれるんだろうな。
 ロボットに地球外毛玉生命体に……

「ぴこー」

290感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:59 ID:w7rQ/C/M0
 そんな俺の目の前に噂をすればの地球外毛玉生命体がやってきた。
 俺はいつものようにポテトを肩に乗せると「お喋りは終わったのか」と尋ねていた。
 言葉が理解できるはずもないのに、と思いながらも。

「ぴっこり」

 ……まあ、古代の生命体と地球外の生命体同士気があったのだろう。
 そう思うことにする。

「ゆめみもいつまでも離れてないで、こっちに来い」
「あ、はい」

 少し躊躇するような素振りを見せたが、とことこと意外に可愛らしい動作で俺の横に並ぶ。
 いつもの陣形の完成だった。この一人と一匹と一体になるのも久しぶりな気がする。
 なんだかんだでこいつらとの付き合いも長くなったもんだ。ポテトはここに来て以来の相棒だし、ゆめみも寺以来の付き合いだ。
 よく映画や小説では人間と地球外生命体やロボットとは折りが悪くなって争ってたりしてるが、
 現実は案外そうでもないのかもしれないって思えてくるわな。

 少なくとも、種族からして違うこの一人と一匹と一体がトリオ漫才を繰り広げている時点で、俺はそう思う。
 縁は異なもの、とはよく言ったもんだ。
 しかし俺の人間受けが悪いのはどうしたもんかねえ。しょうがない部分はあるんだが、そろそろ素敵な出会いのひとつでも欲しいもんだ。
 てめーには無理だ天パ、という風な視線がポテトから向けられたような気がした。

「ぴ、ぴこぴこっ」

 ギクリと身を硬直させ、ポテトが必死に頭を振る。

「ほう、久々にいい度胸しているようだな」

 ここまで来てあんまりひどいことをするのも躊躇われたので、俺はソフトなお仕置きを実行してやることにする。
 ポテトをむんずと掴むと、ボーリングの容量でポテトを廊下の彼方へと転がしてやった。

291感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:14 ID:w7rQ/C/M0
「ぴこ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜………………」

 妙なエコーを響かせながら転がってゆくポテトに「決まったな」と言ってみる。

「あの……」
「ロスではよくあることだ」
「はぁ、そうなのですか」

 きっとゆめみの中では新しい知識として『ロスの住民は毛玉犬でボーリングするのが日常』という事項が追加されているのだろう。
 疑うことを知らないのはロボットの特性であり、欠点と同時に人間が決して持ち得ない美点でもあった。
 人が嘘をつけない種族なのだとしたら、きっとロボットは生まれなかったに違いない。

 そんな感想を抱きながら、ふと窓の外に目を移したときだった。
 思わず絶句してしまう光景があった。
 髪をサイドでまとめた変わったポニーテール、小学生と言っても差し支えない体型。
 忘れるわけもない、憎いあんちくしょうが俺の目の前を横切っていきやがった。
 事実を飲み込んだ頭はすぐに白熱し、俺は武器を装備するのも忘れて外へと続くドアを押し開けていた。

「高槻さん!?」

 ゆめみの叫ぶ声が聞こえたが、気の利いた冗談を返せる余裕はなかった。
 あいつら……河野貴明、観月マナ、久寿川ささらに対して義理立てしているわけじゃない。
 正義感で行動できるほど人ができていないのは自分でも先刻承知だ。
 ただ、そいつらを犠牲にしてまで生き延びてのうのうとしている根性が許せないだけだ。
 守りたいと言っておきながら責任を取るそぶりも見せず我が物顔でのさばっているあの女からは、俺の匂いがするんだよ。

 ……ああ。なんだ、つまり、自己嫌悪か。これも結局は自分のためでしかない。
 俺でも汚点というものを、清算したいのかもしれなかった。
 次第に腹の底が冷えてゆくのを感じながら、俺の存在に気付きもしていない連中に対して大口を切った。

292感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:31 ID:w7rQ/C/M0
「見つけたぞ……まーりゃんとやら!」

 そういや、こいつと遭遇したのもここだったんだよな。は、奇特な縁というやつのようで。
 いきなり現れた俺に対する驚愕と、出し抜けに自分の名前を呼ばれたことに戸惑いを隠せない様子でまーりゃんが振り向いたが、
 次第にその顔が平静なものへと変わってゆくのが分かった。来るべきときが来たとでも言うように。
 俺はそんなまーりゃんがますます憎らしく感じ、冷えが全身へと伝播してゆくのを自覚していた。

「まだ生きてたとはな。どうだ、今の気分は」

 河野と久寿川のことを言ったつもりだった。引き合いに出す自分に一瞬嫌気が差したが、憎らしく思う気持ちが先立っていた。
 どんな取り繕いの言葉にも対応できるように、俺は罵倒する言葉を引き出しからいくつも用意する。

「……分かってる。あたしをやっつけに来たんでしょ? 
 そりゃ、あたしがあんたの相棒だったさーりゃんとか、たかりゃんとかを間接的に殺したも同然だもんな。
 許せないのは分かってる。どうしてくれてもいいよ。いつか、こういう時が来るのは分かってたから、さ」
「な……」

 開いた口が塞がらない。あれだけ殺しに回っていた人間が今は自分の非を認め、罪を受け入れようとしている。
 あまりに変心ぶりに準備していたはずの言葉が抜け落ち、変わってそんなことをしようとしていた自分に対する羞恥が沸き上がり、
 俺は何をしているんだという冷めた思考と、ならどうしてあのときに心変わりしなかったんだという疑問とがない交ぜとなって、
 わけの分からない感情が渦を巻き始めたのが分かった。

 俺と同様、責任を取ろうとしている女に、自己嫌悪をぶつける大義名分を失ったからなのかもしれなかった。
 惑わされるな、という俺の意地、落とし前をつけようとする男としての心理が声を上げる一方、
 正体不明の別の感情はやめろと言っているように思え、俺は交差する短い感覚の中で、うるさいと声を大にした。
 感情だけでなく、体の自由も制御できなくなった俺は走るやいなや、まーりゃんの胸倉を掴みあげていた。

「てめぇ、そんなことで落とし前がつけられると思ってんのか……! 何をしてきたか分かってモノを言ってるのか、ああ!?」

293感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:46 ID:w7rQ/C/M0
 宙に浮いたまーりゃんは苦悶の表情を浮かべる一方、制御できなくなった俺を真正面から見据えるようにして、
 もう隠す必要もお為ごかしの言葉もいらないというように搾り出す。

「分かってる……何人も殺してきたよ。最初からこうしていれば死ぬ必要もない人たちばかりだった。
 取り返しのつかないことをしたってことも、あたしがこうしてることであの人たちの死が無駄になってしまったのも分かってる」
「だったらお前は何をしてるんだよ! こうしてのほほんとしやがって、何様のつもりだっ!」

 言葉を重ねるたびに俺自身言えることなのかと疑問が突き上げたが、面子を立たせなければならない、
 決着をつけねばならないと頑なになっている俺の意識は岩のように硬くなって動かず、
 資格はないはずだと分かっているのに止めることが出来ずにいた。
 自分の正しさを証明することでしか生き様を見せられないという男という生き物が、ひどく無様に見えた。

「だから、生きたいって思った。逃げちゃダメなんだって、誤魔化してちゃダメなんだって分かったから、
 正直に事実を全部受け止めて、どんな償いでもする。一生奉仕しろというなら、そうするよ。
 でも、あたしは絶対に死ねない。死にたくないんだ」

 逃げない、誤魔化さないという言葉が突き刺さり、そこにいるのが敵ではなく、俺と同じ種類の人間に変わったことを告げ、
 決定的な敗北感が炸裂した。もうこの女には、男のちっぽけな論理なんて通じるわけがない。
 なら、俺のこの自己嫌悪はどこに行き渡らせればいい? クソったれた俺の残りカスはどうすればいいんだ?

 既に清算を終えてしまったまーりゃんと、未だに清算できず、抱えてしまったままの俺。
 正しさを証明できなくなって、俺はどうすればいいんだ?
 そんな俺が辿り着いた結論は、暴力を振るうという情けない男にピッタリの帰結だった。

 論理で勝てないなら、力で勝てばいいという単純でクソ喰らえな思考。
 今の俺が吐き気がするほど嫌いであるはずのそれが、今は最善の手段に思えてしまった。
 手を振り上げ、拳に力を込めた瞬間、がしっと掴むものがあった。

「ダメです!」

294感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:05 ID:w7rQ/C/M0
 パンク寸前の俺の頭を弾けさせたのはゆめみの腕だった。
 その瞬間にはまーりゃん以外見えなかった視界が明瞭になり、俺達の近くにはゆめみやまーりゃんだけではなく、見知らぬ連中も何人かいた。
 恐らくはまーりゃんの仲間なのだろうと理解した瞬間、ふっと体の力が抜けた。

 それは俺が郁乃の遺体に対して「利用した」と告白してもなお着いて行くと言ってくれたゆめみの姿に重なったからなのかもしれなかった。
 やり直して、自分の悪さを愚直なまでに認めて、それでも付き従ってくれる仲間がいる。
 そんな奴を一方的に殴れる理由がどこにある?
 がっくりと膝を折る俺の硬くなった拳をほどいてくれるゆめみの指が、あまりにもやさしく思えて、俺は泣きたくなった。

「ぴこ」

 最後にポテトが俺の肩を叩いた。もういい。そう言ってくれているように思え、俺はここでようやく強張った顔が崩れてゆくのが分かった。
 ほんの数分前まであったはずの憎らしい思いが霧散し、あれほどぶつけたがっていた自己嫌悪もなりを潜めてくれたようだった。
 まだ清算できないというのが、ある意味では俺らしいのかもしれない。
 苦笑が浮かび、俺は少ししわがれた声で「すまなかった」と口にしていた。
 見れば向こうもいっぱいいっぱいだったらしいまーりゃんも仲間に支えられていて、「殴ってもいいよ」と言っていた。

「あたしだって、けじめをつけたいし、さ」

 あんたもそうだろ、と告げる瞳が俺に向けられ、その通りだ、と正直に頷いておいた。
 殴ったところで俺は何も清算できないし、付き合わされるまーりゃんだって痛いだけだろう。
 それでもつけなければならないけじめというものは存在する。まーりゃんが分かって言っていることは理解できた。
 これは俺の約束ではなく、殴ってくれと言っていた河野の約束だった。
 幾分かほとぼりの冷めた顔になったのを自覚して、俺はまだ握っているゆめみに「大丈夫だ」と伝えた。

「はい。信じます」

 微笑を浮かべたゆめみに今の心の機微を見抜かれたような気がして少し悔しく感じてしまったのか、
 あえてゆめみの助けも借りずに立ち上がった。まーりゃんも仲間と一言二言交し合って、俺の前に立った。

295感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:21 ID:w7rQ/C/M0
「悪いが、思いっきりいかせてもらう」
「どうぞどうぞ。……あーでも、歯は折らないで欲しいかな? 乙女の命だし?」

 ふざけろ、と笑って、俺はまーりゃんの横っ面を思いっきり殴ったさ。
 少しだけ清々としたのは、中々面白い具合の表情をしてノックダウンしたまーりゃんが可笑しかったからなのかもしれなかった。

     *     *     *

 鋭い男の声を聞いた私は、すぐに伊吹に声をかけて現場へと急行した。無論、武器は持って。
 各々で周囲を警戒しよう、ということにしたのが仇になったかと舌打ちする。
 これ以上私の前で死なせてたまるか。うーへいや美凪の姿がまーりゃんに重なり、私の中の強い意思を呼び覚ます。

 現場は近く、まーりゃんはすぐに見つかった。
 見れば、まーりゃんの胸倉を男の腕が掴んでおり、その後ろではメイドロボらしいのと犬っぽいのが黙って見守っていた。
 なぜ止めない、と心中に憤りつつまずは伊吹と一緒に二人を止めようと走り出そうとすると、「待ってください」と静止の声がかかった。
 後ろに控えていたメイドロボのものだった。既に目前に回りこんでいた彼女は、遮るように両手を広げる。

 男は血が上っているのか、今もまーりゃんに激しい言葉を浴びせており、今にも傷つけかねない勢いだった。
 こちらの存在にすら気付いていない。なぜ邪魔をすると目を細めて凄んでみたが、メイドロボは一歩も引かない様子だった。

「いま少しだけ待っていただけませんか。万が一になりそうなら、わたしが止めます。ですが、今止めると仰るのならこちらも退きません」
「どういうことか知ってるんですか」

 伊吹が前に出て問い質す。メイドロボはちらりと周囲を確認しつつ「あの人の……高槻さんの、敵です」と言った。

「話に聞いただけですが、わたしの、引いては高槻さんの仲間だった方が、あの女の方に殺されました」

 私と伊吹が絶句する。だとしたら、こいつらにとってまーりゃんは仇敵ということか?
 復讐という言葉が頭を掠め、なら尚更止めるべきだという思いが持ち上がり、私は一歩踏み出そうとした。

「やめろ。ここは俺達が口出ししていいところじゃない」

296感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:37 ID:w7rQ/C/M0
 その声と共に私の肩が掴まれた。振り向くと、そこにはいつの間に戻ってきたのか那須と国崎の姿があった。
 振りほどこうとしてみたが、那須の腕力は強く、私が解けるものではなかった。「やめるんだ」と国崎の声が重ねられる。

「人にはな、どうしてもけじめをつけなきゃならない時があるんだ。まーりゃんは、今がその時なんだ」
「だが……!」
「水瀬名雪とけじめをつけたお前になら、分かるだろ?」

 その名前を持ち出した那須に体の動きが止まり、抵抗する力が抜けてゆくのが分かった。
 よく見れば、まーりゃんは何ら抵抗することなく、男の言葉を受け止め続けている。決して、目を逸らすことなく。
 名雪と決着をつけ、渚と一緒に自分の気持ちを再確認したときの情景がそこに重なり、
 私はとんでもないことをしようとしていたのではないかという恐れが浮かび上がった。

 そこで水を差されてしまえば、私だって自分を許せなくなってしまう――
 落ち着きを取り戻した私の心を感じ取ったのか、那須がゆっくりと私を掴んでいた腕を解く。

「あんた、高槻の連れだな」

 国崎がメイドロボに問うと、彼女は首肯した。

「知り合いですか?」
「そんなところだ」

 伊吹の質問に国崎は頷いた。
 後からやってきたはずの那須と国崎が妙に物分りがよかったのは国崎が男……高槻を知っていたかららしい。
 既にメイドロボは二人の様子をじっと窺っていて、一瞬たりとも見逃さないという風情だった。

297感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:55 ID:w7rQ/C/M0
 もう私にできることはないという確信が浮かび、けじめという言葉の中身を反芻するしかなかった。
 少しはまーりゃんのことについては分かっていたつもりだったが、全然そうではなかった。
 彼女について思い出せるのは騒いでいる姿ばかりで、何をしてきたかについては殆ど知らない。
 隠していた、とは思わなかった。本当に隠しているなら国崎や那須だって知らなかっただろう。
 まーりゃんはただ、自分の思うように振る舞っていただけなんだ。

 だから自分自身のことは自分だけで決着をつけるべく、最低限以外の人には喋らなかった。
 人とはそういうものなのかもしれない、と私は奇妙な納得を得ていた。
 私にしろ、渚にしろ、美凪にしろ、本当に大切なことに終止符を打つためには自分で考え、自分の意思のみで答えを導き出そうとする。
 そうしなければ誰かに甘えることを覚え、ずるずると引き摺ってゆくのが分かっているから……

 人の在り様がそうだとすれば、私は『みんな』の中に入ってゆけたということなのだろうか。
 言葉だけの『るー』の誇りでもない、形だけの思想や目的に動かされるということでもない、意思を持ったひとつの命として。
 沈思していた私の意識を揺り戻したのは、メイドロボの叫んだ声だった。
 殴りかかろうとしていたらしい高槻の腕を、しっかりと押さえているメイドロボの姿があった。
 私を止めた那須と、全く同じように。

 どうやらそれで高槻は私達の姿に気付いたらしく、がっくりと膝を折って項垂れていた。
 まーりゃんもそれまで気張っていた糸が切れたのか、ふらりとよろめいたところを伊吹と国崎が支えていた。
 へへへ、としわがれた声を出すまーりゃんの顔は、少しだけ辛酸を乗り越えた表情になっていたが、
 まだ終わったと安堵している顔ではなかった。

 私が渚に名前で呼ぶと確約したように、まーりゃんもこのまま締めるつもりはないのだろうと予感した。
 数分後、まーりゃんは高槻のパンチを受けて盛大にノックダウンしていた。
 妙に晴れやかな様子だったのが、かえって可笑しかった。

     *     *     *

 いたた。あんちくしょー、思いっきり殴りおって。
 じんじんするほっぺたをさすりつつ、あたし達は学校の職員室へと向かっていましたとさ。
 それにしても殺されるかと思ったね。胸が縮んじゃうかと思ったぞ。もう縮む胸なんてないけどね! あっはっは。


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