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避難用作品投下スレ4

617十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:43:24 ID:Yql.FpJE0
 
思い出す。
鬼と呼ばれていた頃の力を。
あの、今はもうない、やがて取り戻されるべき黄金の野原に置いてきた力のことを。

魔物。

口をついて出た言葉は形となり、今もまだあの場所に揺蕩い続けている。
力は刃だ。
理を切り伏せ、この手にあるべきすべてを取り戻すための、私の刃だ。

今、認めよう。
今、赦そう。

あれは、嘘だ。
彼をなくすことを恐れていた私の愚かさが作り出した、妄言だ。

魔物など存在しない。
黄金の野原はなくなってしまった。
彼の帰ってくる場所は、もうどこにもない。

それを私は認めよう。
認め、捻じ伏せよう。
それがどうした、と。

川澄舞は取り戻すのだ。
喪われたすべてを。
喪われゆくすべてを。

なくすことを恐れる理由など、もうどこにもない。

迎えに行こう。
私の力を。
理を蹂躙する刃を。


 ―――ここで待ってる。夢から覚めたあなたが、いつかあたしに会いに来てくれる日を。


そう呟いて微笑んだ、あの少女の世界。
かつて私が護れなかった、黄金の麦畑に。

618十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:43:34 ID:Yql.FpJE0
 

【時間:2日目 AM11:54】
【場所:F−5 神塚山山頂】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体12400体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:大破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 1047 ルートD-5

619Trust you:2009/03/23(月) 01:32:33 ID:cw9JXZvc0
 災い転じて福と成す。水瀬名雪が山を降りたとき、思ったのはその諺だった。
 レーダーを失っていたお陰で思ったように人は見つからず、また雨が続いているせいで足は鈍り、下山するのに手間取った。
 しかも降りたとタイミングを合わせるかのように山中から銃声が連続して木霊し、しばらくの間続いた後に鳴り止んだ。

 恐らくは戦闘が起こり、そして決着したのだろうと名雪は考え、同時に間に合わないという確信を抱いた。
 あそこから音が聞こえたということは、自分が見つけることは可能だったはず。すれ違っていたかもしれない。
 だとするならば好機を逃したというわけだ。何人か死んだというのは予想したものの、最悪一人は生きている。
 だが過ぎたことは仕方がないと思考をすっぱりと切り替え、山の麓、平瀬村に降り立ち、散策を開始する。

 以前名雪は平瀬村に留まっていたことはあったが主に移動していたのは西部から北部にかけての範囲で、東部や南部は来たことさえない。
 同じ村にいながら未知の風景である。さてどこから調べるかと周りを見回していると目の前を真っ直ぐに疾走する二人組の女がいた。
 さっと塀の陰に隠れて動向を窺ってみたが余程急いでいるらしく、わき目も振らずにどこかへと走っていく。
 目的など知りようもない名雪だが、これは好機であった。前しか見えていないというのは、同時に視野が狭いということ。
 すなわち、尾行するにおいて格好の標的であるということだ。災い転じて福と成す。名雪は静かに追跡を開始した。

     *     *     *

 昔から、自分は誰も憎みきることが出来なかった。

 母親からその存在を抹消され、『遠野みちる』としてでしか生きられなくなったとき。
 『みちる』がいなくなってしまったと分かったとき。
 自分が誰かを犠牲にして生きているとき。

 奪った者に対して、無力な自分にさえ悲しい以上の感慨を抱かない。
 優しいといえば、そうなのかもしれない。

 けれどもそれは表層に過ぎず、その実何もかもを諦め、自分では何も変えられないと思っているだけだ。
 実際、自分に何が出来る? 人に合わせることしか出来ず、従っていさえすれば上手くいっていた。
 自分でやろうとすれば寧ろ失敗していた。

 母を説得しようとしたときもしかり、渚を慰めようと考えたときもしかり。
 母に言葉は届かず、渚には却ってこちらのわだかまりを自覚させられる始末だった。

620Trust you:2009/03/23(月) 01:32:57 ID:cw9JXZvc0
 自分で為せることなど何も有りはしない。料理が出来るのだって、勉強が出来るのだって人がそれを求めたから。
 己の意思なんてひとつもありはしない。所詮は求められたものに合わせて動く操り人形なのだ。
 それでも良かった。それで、誰かの充足を得られるのなら……

 ルーシーに合わせたのもそれが理由だ。復讐を果たし、少しでも彼女のためになるなら反対なんてしなくていい。
 間違っているなんて言える説得力なんて持ち合わせていない。
 歪みだらけで、人なんて言えるべくもない自分がどんな言葉をかけられる?
 たとえこの思いが諦めきった結果だとしても、そうすることしかできないのが遠野美凪という人形なのだから。

 しかし一方で、それでいいのかと疑問の声を持ち続けている小さな存在が根付いていた。
 『みちる』と最後の対話を交わしたときから熱を放ち続け、今も尚溶かそうとしているなにか。
 飛べない翼にも意味はあると言ったそれが求められるがままの人形の糸を断ち切ろうとしている。
 自分の足で歩いてきたじゃないかと、搦めとった糸を解こうとしている。

 この思いこそが己の『意思』なのだと、そう言っている。
 昔とは違う、様々なものを乗り越えてきた自分なら今度こそ……
 人形でいることを肯定し、諦めている『遠野みちる』と、
 ここまで生きてきた己は何だと激しく言い寄る『遠野美凪』とが交錯し、争っている。


 どうせ今度だって何も出来ないんです。無力なのを自覚しているなら、その上で誰かに従って、少しでも役立つ努力をすべきです。
 確かにこれまではそうしていれば良かった。無力だったのも認めます。ですが、それは分かろうとする意思さえなかったから。

 そんなもの、いつまで経っても持てるはずがないです。
 いや、そんなわけがありません。でなければあのひとたちの死、あの犠牲は全く意味のないものだった。そういうことになります。

 ……その程度の人間だということです。私は、道具でもいい、誰かに使われればいい。
 ……では、使われた結果、間違ったことになって、それでいいのですか? いいわけがない。

621Trust you:2009/03/23(月) 01:33:23 ID:cw9JXZvc0
 間違っているかどうかなんて私に決める権利はありません。正しいかどうかは私を使う人が決めることでしょう?
 ただの思考停止です、それは。自分が責任を負いたくなくて逃げただけ。結局は保身でしかない。

 ――それに。
 ――どうせ人のためじゃない、自分のために何かするのなら逃げるより立ち向かう方がいい。そうは思わないのですか?


 そう。
 なんだかんだ言っても自分は自分のことしか考えられない。
 心の安寧を得られるなら人に依存し、その結果人が不幸になってさえ見過ごす。己の本質はそうなのだろう。
 いくら経験を積み重ねようと変わらない部分でしかないのかもしれない。

 だがどうせ人に縋るのなら心の一切を吐き出し、負い目も感じないくらい堂々としていればいいのではないだろうか。
 人のためだなんだともっともらしい理由などつけず、自分がそうしたいから、それが望みなのだからと言い切ってやるのもいい。
 それでぶつかり合い、傷つけあうことになろうとも望んだのは自分。責任は自分にしかないし、それで終わりにするかどうかも自分。

 誰にも責任を押し付けない、ある種我侭で孤独な生き方。
 ただ責任の代わりに、喜怒哀楽を分かち合うことが出来る。
 負の部分ではなく、共有して喜び合えるものを分け合う進み方だ。
 出来るかどうか、そうする資格があるのかなんてどうでもいい。望むだけでそれができる。
 これもまた、『諦めきった結果』なのだから。

 ひとつ、諦めの悪いものがあるとするなら……依存の対象たる友を失うことなのだろう。
 いなくなってしまった『みちる』、現在も隣にいるルーシー、離れてしまった渚。
 自分には全員が必要だ。自分を満足させるために必要としている。しかしそれが悪いことでは、決してないはずだ。
 語り合えば可能性は無ではない。要は、やるかどうかだ。

622Trust you:2009/03/23(月) 01:33:51 ID:cw9JXZvc0
 今の私なら、やれる……
 そう断じて美凪は横を走るルーシーへと目をやった。
 空白の瞳、復讐を見据えながらもその先は全く見えていない瞳がある。
 純粋といって差し支えなく、迷いだといえばそれも否定は出来ないものがある。
 分からない未来に対して途方に暮れ、立ち尽くすことも恐れている女の子の顔が映っていた。

「くそ、消えてしまったか……どこが出火していたのか分からん」

 雨に濡れ始めた髪をかき上げ、天を仰ぎながら苛立たしげに漏らす。
 明るい方向を目指して走ってきたはいいものの、次第に見えなくなり始めついには見失ってしまっていた。
 周囲には森と点在する民家、申し訳程度に整備された道があるだけで街灯もなく、暗闇に閉ざされたゴーストタウンといった様子だ。
 昼間の間はまるで気にならなかったのに、夜になった途端一寸先が闇という状態。

 だからこそ自分はまた諦めたのかもしれない。見えない闇ばかりを追うのも諦めた情けない人間になってしまった。
 でも諦めたからこそ見えたものだってある。考え方ひとつで得られるものだって自分達は持っている。

「……もう、よしましょう。るーさん」

 思ったよりあっけらかんとした、澄んだ声が出ていた。
 闇だけしか見ていなかったルーシーの目が外され、美凪へと向けられた。
 その色は呆然として、思ってもみなかった言葉に戸惑っているようだった。

 私だって信じられないです、と美凪は内心に困ったように苦笑した。
 何も考えてこなったツケを支払っているだけなのかもしれない。遅きに失した。
 こんなことをしなくてもよかったはずなのに。あの時言葉が出ていれば、もっと早くに『諦めて』いれば良かったのに。
 本当に自分は馬鹿げている。そう思いながら美凪は立ち尽くしたルーシーに言葉を向けた。

「戻りましょう。もう、いいんです、もう……」

 すぐに反論の言葉が返ってくるかと思った美凪だが、ルーシーはただ顔を俯け、ウージーを所在無く握り締めていた。
 裏切られたとも、理解できないとも言えない、どうしてという疑問だけがルーシーから出てきた。

623Trust you:2009/03/23(月) 01:34:14 ID:cw9JXZvc0
「どうしてだ……? ずっと、そうだったのか……?」

 ルーシーの指す『そうだった』というものの中身は分からない。美凪は首を縦にも横にも振らなかった。
 美凪の手がルーシーの肩に置かれる。
 自分の中にある真実。それだけを伝えようと口を開く。

「済みません、本当に……でも、私達はまだ戻れます。……もっと、早く言い出せば良かったというのも分かってます。
 今さらだってことも。また手を返したってことも分かってます。……恥を忍んで言います。戻りましょう、るーさん」

 後悔と羞恥とがない交ぜになり、いっそ死ねばいいと思えるくらいの苦渋が口の中に広がる。
 けれども目は背けない。いや、もう背けられない。ここが崖っぷちの腹切り場なのだから。
 ここで友達を失ってしまうかもしれない、と美凪は思う。それだけのことをしようとしている。

 だが、構うものか。やるだけやって嫌われてしまえばいい。
 自分が依存しているという事実、それは嫌われ、絶交されようがこの先も変わりないはずなのだから。
 そのまま分かたれて終わりになってしまうかどうかも自分次第。終わりなんて終わってみなければ分からない。
 終焉の果てに満足出来れば十分だ。その時間が、ほんの一瞬のものだとしても。

「だけど……だけど! あいつは許せない! そうだろう!?」

 悲鳴にも近いルーシーの声が弾かれるようにして飛び出した。
 口元は引き攣り、澱みを含んだ瞳が見える。美凪は体を強張らせながらも、その瞳が揺れているのを見逃さなかった。
 復讐心に駆られる己を認めつつも、自分ではどうしようもないと知っている目だ。
 同時にそれは諦めきって、尚助けを求めているようなものにも思えた。
 自分だって許せるわけがない。許したくもない。

624Trust you:2009/03/23(月) 01:34:41 ID:cw9JXZvc0
「……彼女は、目の前にいるわけじゃありません。見失ってしまったのならもう探すこともないと思います。
 それともるーさん、そこまでして成し遂げたいものなんですか? それだけの価値があるのでしょうか。
 もっと価値のある、やるべきこと……それは、私もるーさんも分かっているんじゃないですか?」
「そんなこと分かっている! でも分かっているからなぎーは『殺そう』って言ってくれたんじゃないのか!?
 なんで今さらこんなことを言い出すんだ! 遅い、遅すぎるんだ……! なぎーの決意はそんなものなのか!」
「全くです。遅いだなんて、そんなものじゃない、どうしようもない馬鹿だってのは分かっています。
 でもお願いします、恥を忍んで言います。土下座だってなんだってします。だから、戻りましょう。ここから」

 恥も外聞もない、ただ止めようと言い続ける美凪の姿を捉え続けていたルーシーの鉄面皮が割れ、
 ルーシーという人間を現す苦悩の形へと変わる。馬鹿だ、と罵る声が聞こえた。

「認めない、こんなの認めたくない……! 大体戻ってどうなる。私達が変われるものか……あいつらは変わって、前へ進んでいる。
 でも私達は違う、そこまで立派になんかなれない。だから一緒になんかいられないんだぞ、分かってるだろ?」

 その通りだと美凪は内心に肯定しながらも、しかし「変われることと分かり合うことは違います」と首を横に振った。
 誰もが渚になりきれるわけがない。現に変わることを諦めてしまった自分という存在がここにある。
 変わったとして、自分は、自分達はここまでだ。遥かな高みには到底辿り着けない、屑鉄に沸いた錆のようなものでしかない。

 けれども変わったひとと変われないひとが分かり合えないはずはない。
 道は険しく、隔たりはあまりにも広すぎるが、人間なら出来ないはずはない。目を背けさえしなければ。
 飛んでいけないなら翼を作る方法はあるのだし、地道に歩いてもいい。そうする力も私達にはある。

 微笑した美凪の顔を見たルーシーは一言、「いつからだ……?」と弱々しげに吐いた。
 どうにもならないと悟ったのではなく、全身の力が抜け切って弛緩したかのような弱さだった。

「……恐らくは、るーさんと会う、少し前からです。あのときからずっと、答えは見えていたはずなんです。
 でも変われないのが分かって、ダメだと思い込むようになって……いつの間にか、目を向けようともしなくなった」
「自縛霊、か」

 薄く笑って、ルーシーは呟いた。

625Trust you:2009/03/23(月) 01:35:10 ID:cw9JXZvc0
「じゃあ、あのとき私に言ってくれた言葉は……なんだったんだ。なんで、『殺そう』なんて」
「……自分の、ためです。信じている人の言う事さえ聞いておけば自分が楽になれると思ったから。最低、ですね……」
「どうせ自分が楽になれるなら、私に誰かと分かり合って欲しいと、そう願ったから手のひらを返したのか」
「その通り、です」

 認めるたびに心が痛み、ルーシーと離れていくのを感じながらも美凪は黙ろうとはしなかった。
 たとえ己のためにという打算があるのだとしても、ルーシーは友達だ。巡り会えた大切な友人なのだ。

 しかし、これで自分は完全に嫌われただろう。所業の一切を吐き出したところで許されるわけなどない。
 懺悔以下の見苦しい独白だ。その自覚は十分にあった。
 だが続けなければならない。断固として自分勝手を貫き通さなくてはならない。
 屑鉄に沸いた錆、価値の無い人間だとしても、私は……

「渚は許せるのか。これまでしてきたこと、がんじがらめにされてきたことにどうにか出来ると思っているのか」
「すぐにどうにかできるとは思ってません。ケンカの一回だってあるかもしれません。
 だけど本当の『楽』を、豊かさを手に入れられるかもしれないなら、目を背けるわけにはいかない。
 そう、思ったまでです」

 敢えて辛辣な言葉を持ち出してきたルーシーに、美凪は包み隠さず己のエゴの在り処を伝えた。
 どこにでもいる怠惰で愚かな人間の姿には相違ない。
 けれども嘘を嘘で塗り潰し、現実に対処するためと割り切って『楽』や『豊かさ』を見失ってしまうのは辛いだけだ。

 それに狭い範囲でしか人は分かり合えないというのは、あまりにも寂し過ぎることではないのか。
 自分とルーシーだって、元を辿れば出会うはずのない他人で、今は境遇を同じくしているだけで思想や理念はまるで違う。
 分かり合えないというのなら、ルーシーとだって分かり合えなかったはずなのに。

「なぎーが踏み出そうとしているのは、先の見えない不確かな道だ。
 何があるかも分からない、ただ突き落とされるだけの道なのかもしれない。
 なぎーの今が『楽じゃない』としても、このままの方が『よりマシな不幸』かもしれない」

 自分で決めた事です。誰に流されるでもない、強制されたのでもない、自分で選んだ道。
 もう一度それを伝えようと、傲慢な意思を伝えようと美凪が口を開いたとき「だから」と続ける声が聞こえた。

626Trust you:2009/03/23(月) 01:35:51 ID:cw9JXZvc0
 ぎょっとして今一度観察してみると、澱みを振り払ったルーシーの目が苦笑の色を帯びていた。
 自分と同じ諦め切った、だがやれるだけやってみようという何も恐れぬ諦めが浮かんでいた。
 我知らず美凪は「ルーシーさん……」と口走っていた。
 これから先、そうとしか呼べぬであろうと考えていた名前を受け止めたルーシーは「よしてくれ」と言い、照れ臭く笑った。

「るーさん、だろう? 友達じゃないか、私達は」

 ですがと出かけた反論は喉を通らず、極まった感情が代わりに飛び出した。
 涙だ。声の代わりに出たのは涙だった。
 エゴを通そうとするような人間についてくる必要はないのに。
 断ち切られてもしょうがないと思っていたものなのに。

 それでも、私を友達と思ってくれているのですか……?
 友達と言われた瞬間に見えた答えはぐるぐると回る思いに流され、再び沈んでしまった。
 しかし見つけることは出来た。一回は見つける事が出来たのだ、人が分かり合うための答えを。
 凡俗でも分かち合えることの証明を。後はもう一度、探し出せばいいだけだ。

「なんだ、泣いているのか? どうしたんだ、なぎー」

627Trust you:2009/03/23(月) 01:36:17 ID:cw9JXZvc0
 視界が滲んで、ルーシーの姿が見えない。
 大丈夫と言ったはずの言葉は嗚咽にしかならず、ただ平気な顔をして泣き笑いの表情を浮かべることしか出来なかった。


 ――だから、私は気付けなかった。
 やはり自分は、どうしようもない馬鹿でしかない。その事実に。


 雨の中に響いたのは反響する銃声。
 あまりにも軽く、そして短すぎる刹那の時間。
 口の中にツンとした鉄の味が広がり、己の口内を満たしてゆく。
 溜めきれず、口から溢れさせてしまう。それでようやく、遠野美凪は気付いた。
 ああ、これは血なのだと。感じている息苦しさは身体が命の体を成さなくなっているからなのだと。


 ――だから、私には見えなかった。
 ルーシー・マリア・ミソラが警告を発していたこと。危険を知らせてくれていたことが。


 体が崩れ落ちる。
 かくんと膝が折れ、前のめりに倒れた上半身を冷たい泥が打ち付ける。
 残っていた熱の残滓も奪われ、急速に世界が閉じてゆく。

 赦されようとした、これが自分の罰なのだろうか。
 傲岸であろうとした罪の、その制裁なのだろうか。
 所詮は儚い夢、出来損ないは出来損ないのまま、分相応に生きていれば良かったのだろう。

 きっと、そうだ。それが正しいことだったのだ。生きようと欲するなら。
 しかしそれで生き長らえた命など命ではないし、本当の自分、本当の勝利など得られようはずもない。
 そう考えるが故に、自分がやることはただひとつ……己を貫き通し、自分勝手であろうとする。それだけだ。

628Trust you:2009/03/23(月) 01:36:34 ID:cw9JXZvc0
「戦ってください! 自分の望む本当の勝利、生きる価値のある命を、掴む、ためにっ!」

 全身から発する声と共に命を吹き散らし、何もかもを出し尽くした美凪はその言葉を最後に、喀血して、命を空に返した。
 ようやく、長い時間をかけて、飛べない翼が自分の足で飛び立ったのだった。

     *     *     *

 目標はあっけなく達成された。しばらく追ってもまるで気付かれるそぶりも見せない。
 しかも雨による天候の悪さが足を遅くしているらしく早さも比較的ゆっくりだ。
 だがどこまで行くにしろ、とりあえずは相手が止まるまでは尾行を続ける。無論自分が気取られていないことを確かめて、だ。

 慎重に、かつ迅速に、横並びに名雪は二人を追い続けた。目は既に機械のそれ。
 殺戮遂行の機械となり余計な要素一切を排除した、人ならざるひとの形をとって。

 名雪はそれを不幸と思わない。
 そのような言葉は既に抜け落ち、殺害の手段を並べ立てることに使われている。

 殺人を哀しいと思わない。
 理解するだけのものは全て忘れ、代わりに浮かべるのは論理的に戦闘に勝利する方法。

 生きているとも、思わない。
 動かせるなら動かす。使えるなら、使う。
 どんなコンピュータより早く。どんな審判よりも的確に。
 辿り着くべきは殺人のための己。人間の形をした、ロジックの組み立て。

 ――ならば、機械に対して相沢祐一はどう思うだろうか――

629Trust you:2009/03/23(月) 01:37:13 ID:cw9JXZvc0
 名雪の根本となっているその疑問に名雪は気付かない。永遠に気付かない。
 だから、名雪は、幸福だった。
 目標、補足。

 道の真ん中。そこで二人は止まり、何事か話し合いを始めた。時に怒声を交えながら、声を擦れさせながら。
 内容は知らない。知ったところで、名雪の脳には蓄積されない。機械には何も教えられない。

 じっくりと、確実に狙撃できるところまで移動する。
 塀にはところどころ模様になった隙間がある。狙うのは、そこからだ。
 そして狙うのは、体の大きな方。
 理由は大きい方が当てやすいから。それだけだった。

 以前に遭遇したことも、そのときの北川潤の抵抗も、何も思い出さない。
 名雪の記憶は全て消えている。

 雪。そう、真っ白い雪、全てを覆い尽くす純白に埋まるようにして。
 記憶の中心、雪で埋まったそこには、雪うさぎを持ったまま待ち続ける――幼い少女の姿があった。
 少女の顔は、凍っている。

 『しあわせ』。『しあわせ』。何がそれかも分からず、ただ感じている顔だった。
 一発、撃った。横腹から血が溢れる。命中。外人風の少女が悲鳴を上げた。銃撃を続行する。

 防弾性のある割烹着も、横腹から後ろにかけては無防備だ。上手い具合に銃撃出来る位置に、名雪は移動していた。
 続けて連射。とすんと膝を落とし、倒れる。ここからでは止めを刺せない。だが戦闘不能にはなった。
 すぐさまもう一人も戦闘不能にし、完全な勝利を達成するべきだ。
 判じてすぐに塀から飛び出した瞬間、強い意志を持った双眸が名雪を出迎えた。

「貴様ァァァァァァァァ!」

630Trust you:2009/03/23(月) 01:37:34 ID:cw9JXZvc0
 既に敵はサブマシンガンを構えていた。反撃に移るのは不可能と考え、そのまま転がるようにして再び塀の中へと移動する。
 直後背面の民家の壁が弾け、塗料と共にセメント片が飛び跳ねた。

 名雪はすぐさま己の体をチェックする。異常なし。だが敵の対応が予想より遥かに早かった。
 奇襲による優位性はなくなったと断定して、現状の装備でどうするか考える。
 銃撃戦は相手に有利だ。凄まじい連射力を誇るサブマシンガンの前では撃ち負ける。
 ジェリコの残弾から言っても自分が勝てる確率は少ない。ならば銃撃させない、接近戦が妥当かと組み立てていると、声がかかってきた。

「何故だ……何故、なぎーを殺した! 理由を言え、水瀬名雪っ!」

 自分に利をもたらす情報ではないとした名雪は何も答えない。機械は範囲外のことは出来ない。
 名雪は移動を開始する。装備は薙刀に切り替える。声をかけているということは、そちらへ意識を向けているということ。
 つまり回り込んでの襲撃が有効だ。その有効性は先の行動の一連で証明されている。

「……そうか。お前が答えるわけがないか。いい、ならそれでいい。私も戦うだけだ。憎しみがないなんて言わない。
 これは私怨だ。絶対に忘れられない、地獄を這いずる戦いだ。……でも、それだけじゃない。
 本当の勝利を掴める、生き残る価値のある命にならなきゃいけないんだ! だからこれは、乗り越えるための戦いだ!」

 塀を乗り越え、側面に回ろうとした名雪の目の前。そこに立ちはだかるかのように敵がサブマシンガンを構えていた。
 読まれていたことを自覚し、即座に飛び降りようとするが後手に回ったツケは大きい。

「なぎーからお前が不意討ちが得意なのは聞いた。二度も通用すると思うなっ!」

 大量の銃弾が塀を、背後の民家を穿ち、削り取る。
 数発が名雪の体を貫通する、が痛みに顔をしかめつつもその程度にしか名雪は感じなかった。
 痛覚が麻痺してきていた。度重なる戦闘、極限にまで二極化された意識。
 それぞれが一体となり痛みを受けると動けない、その『常識』を覆すにまで変貌していたのだ。

 殺戮遂行の機械と化した名雪は薙刀を大きく振りかぶり、袈裟懸けに切り下ろす。
 バックステップして回避しようとした敵だが、薙刀の射程は意外なほど長い。
 避けきれずサブマシンガンを持つ腕に掠り、敵はそれを手放してしまう。
 下がるときに勢いがついていたからか手から離れたサブマシンガンは低く放物線を描くように飛んでいった。

631Trust you:2009/03/23(月) 01:37:50 ID:cw9JXZvc0
 敵に接近戦用の武器は持たせない。再び薙刀を振ろうとするが、刃が地面に突き刺さっていて、一度では引き抜けなかった。
 もう一度力を入れるとあっさり抜けたが、コンマ数秒の間に敵は体勢を整えていた。
 抜いたと同時、横薙ぎに払った刃を、二本の包丁が受け止める。弾かれた間隙を縫い、敵が包丁の一本で切りかかる。
 しかし刃は届かせない。柄の部分を持ち上げ、尻尾で突く。リーチの長さが幸いし、たたらを踏んだのは向こうだった。
 一歩離れ、改めて薙刀を構える。持ち直した敵も視線を険しくし、二刀流のように包丁を構える。

「今の私にはみんながいる……!
 お前には分かるまい、この私を通して出る、みんなの意思が。
 ひとと一緒になりたいという心の意思が。
 それも分からず、こうも簡単に奪ってしまうのは、それは、それはあっちゃならないことなんだ。
 ここからいなくなれぇっ、水瀬名雪!」

 何事かを叫んだ敵が雨の中、疾走を開始し迫ってくる。
 名雪は薙刀を前面に押し出し、リーチの長さを生かして突きで刺し殺そうとする。
 しかし敵は包丁をクロスさせ、刀身で薙刀を受け止め、続いて切り払う。

 男と女ならともかく、女同士の戦いだ。
 しかも名雪は連戦の疲労と本来筋力がそこまで高くないこともあって受け止められる程度の速度にまで速さが低下していた。
 瞬時に理解した名雪は腕力だけに頼らず、遠心力も用いられる横薙ぎに薙刀を振るう。
 更に体全体を回すようにして振るため勢いは段違いだった。

 また包丁で受け止めようとした敵だったが今度は薙刀の重さと勢いに耐え切れず、包丁の一本を手放してしまう。
 しかもまともに刀身で受けたために包丁自身も限界を迎え、刃が砕けて武器の体を成さなくなる。

「くっ! まだだ、まだ終わってたまるか!」

 舌打ちしたらしい敵は何とか懐に飛び込もうと周囲を散開しつつ移動していたが踏み込むと同時に名雪が横に薙刀を振るう。
 そのため退かざるを得なくなりじりじりと名雪が押していく。
 周囲は広いため壁際や袋小路に追い詰めることは出来ないものの、精神的に追い詰めていっている。

632Trust you:2009/03/23(月) 01:38:19 ID:cw9JXZvc0
 このまま何度か攻撃を繰り返す。そうすると敵はこちらが薙刀一辺倒だとして距離を取りにかかる可能性が出てくる。
 そのときこそ、ポケットに隠してあるジェリコで止めを刺す。これが名雪が組み立てた作戦だった。

 事実敵の焦りは目に見えており、飛び込もうとする行動も迂闊な隙が見え隠れしている。
 何とか回避してはいるものの、優位なのはこちらだ。そう名雪は判断する。
 踊るように体を捻り、上段から袈裟に斬り下げる。敵は飛び退くが、着地した場所が悪かった。
 ちょうどそこはぬかるんだ地面で滑りやすくなっていた。バランスを崩し、地面にもんどりうって転ぶ。
 焦りと疲労が生み出した結果なのだろう。好機と捉えた名雪はこの隙にとジェリコを取り出し、狙いをつける。

「甘く見すぎだ! そう思い通りには……いかない!」
「!?」

 構えた瞬間、敵も合わせるかのように『取り落としたはずの』サブマシンガンを構えていた。
 誘導されたのだと察する。接近戦を狙っているのを読み、サブマシンガンが落ちているところまで戦いながらおびき寄せていた。
 しかも自分が半端に有利になるように仕向け、油断をも誘った、二段構えの戦術。

 機械だったはずの心に動揺が走り、どうするべきか躊躇してしまう。
 これまで計算ずくで、ここまで完全に裏もかかれたことのなかった名雪には咄嗟の対処が行えなかった。
 コンマ一秒の隙。その時間を敵は見逃さなかった。

「私だけに気を取られていたのが間違いだ……もっと視野を広くするんだな!」

 トリガーが引かれ、ありったけの銃弾が撃ち込まれる。
 名雪はぐらりと体を傾け、仰向けのままに地面へと倒れた。

     *     *     *

633Trust you:2009/03/23(月) 01:38:42 ID:cw9JXZvc0
 走る。走る。得意ではない走りを続ける。
 十分も経っていないのに息は上がり、胸が激しい動悸を繰り返す。
 倒れないだけマシだ。熱で動けなくなったあのときに比べればなんということはない。

 まだ知りたいことがいくらでもある。知らなければならないことがたくさんある。
 自分だけの世界に閉じこもり、完結していた昔のままではいられない。
 夢がある。皆から託された夢が自分の中にはある。その中にはもちろん、自分の夢も。
 分かり合える友達。信じあえる家族。そんな彼らと共に『希望』や『豊かさ』を組み直し、作り上げてゆく。

 何もかも変わらずにはいられない。しかし変質したとしても本質は変わらない。
 壊れてしまった玩具を、丁寧に修理していくように、外見は変わっても中身までは変わらない。
 その中にこそ、その本質でこそ人は互いに理解し、手を取り合える。

 だからわたしはわたしをありのままに伝える。今はそうしたい。
 自分からこんなことを望むのは久しぶりだ、と古河渚は己に苦笑する。

 最後に我がままを言ったのはいつだっただろうか。
 記憶の引き出しを開けてみてもどこにも見当たらない。
 自分はこれでいい、このままでいいと思い込み妥協しかしていなかったことしか思い出せない。
 終わり続ける世界の住人でしかなかったから、そんなことをする意味がないとどこかで諦めていたのかもしれない。
 だが意味はあると知った。自分でも生きていけるということを知っている。
 我がままを言えることの意味も。
 難しいことは言わない。自分は何も知らなさ過ぎるだけだ。だから知る必要がある。幸福に生きていくために。

「わたしは……強くなれていますか?」

 誰にでもなく呟く。強さへの憧れは昔からあった。
 演劇部に入りたかったのも強さに憧れていたからだ。舞台の上を演じる役者は別世界の人間で、なりきらなければならない。
 役になりきるという責任を果たし、観客も楽しませるという責任も果たす。
 集団での形を取りながらも個人個人の強さがなければ出来ない演劇の役者は、渚にとって強さの象徴のように思えた。

634Trust you:2009/03/23(月) 01:39:00 ID:cw9JXZvc0
 誰かに支えられ、また自分も誰かを支え、バランスを保つこと。そうなりたいという気持ちがあった。
 だから探し出す。支えるべき人を、支えたい人を……

 ルーシーと美凪が向かったと思われるもう一つの火災現場がどこか探してみるが、既に火は消えてしまったのか空を見ても分からない。
 見失ってしまった。このままでは追いつくどころか、辿り着きさえ出来ない。
 大体の方向は覚えているとはいえ、このままでは合流も不可能だ。
 だが立ち止まっている暇はないと足を動かし続ける。今、このときだけは足は止めてはならなかった。

「……! これは……」

 そうして再び走り始めたとき、近くから雨音とは違う、何かが弾ける音が聞こえた。
 銃声ではないかという予感が走り、渚は音に耳を傾けながら体に鞭打って走った。

 渚は気付かない。
 雨に打たれ、体力も消耗し、普段なら倒れてもおかしくないはずの体がまだまだ動くということに。

 渚は気付かない。
 雨が降り注ぐ空の一端に、光の粒が漂っているということにも。

     *     *     *

 残弾が尽きるまで撃ち続け、さらに一本マガジンを交換してなお銃口を向けてみたが水瀬名雪はぴくりとも動かない。
 勝ったのかという鈍い実感と、夜陰に降り注ぐ霧雨の冷たさが徐々に内奥の熱を冷ましてゆく。
 銃口を下ろし、長いため息をついたルーシーはふらふらと立ち上がり、ある場所へと歩き出した。

 本当の勝利、生きる価値のある命。その言葉を教えてくれた、大切な親友のいる場所へ。
 どんなことが本当の勝利で、どんなのが生きる価値のある命なのかまでは教えてくれなかった。
 唯一分かることは、復讐心に駆り立てられるだけではそこには到底辿り着けないこと。それだけだ。
 いやそれで十分だ。最初から答えの分かっている問題なんてない。

635Trust you:2009/03/23(月) 01:39:24 ID:cw9JXZvc0
 この先、自分が満たされ、真実の豊かさを手に入れたときにこそ答えは分かるものなのかもしれない。
 未だ実態は見えないが、分かるようになりたい。そう、強くルーシーは願っていた。

 雨と泥で汚れた顔を拭い、横たわる美凪の遺体を見据える。
 ひどく血を吐き散らし表情も安らかとはいい難かったが、遠野美凪という人間の生き様を克明に映し出していた。
 分かり合えるかどうかも分からない者との対話を望み、なお理解し合えると信じた人間の渇望がそこにある。

「私ひとりになったとは言わない。私にはみんながいる。この服にはうーへいの思い出がある。
 だから、なぎー。一緒に行くために、これを貰っていくぞ」

 美凪の胸元にあるネクタイに添えられている銀色の小さな十字架をそっと外し、自分の髪にヘアピンのようにつける。
 少々大きく、髪留めには向かなかったがこれでいいとルーシーは微笑む。

「本当に覚えていられるなら、物なんてきっと必要ないんだろう。だが、私は所詮憎しみも忘れられない凡俗でしかない。
 だからこうしてでしか、なぎーのことも覚えていられない。でもこれがあれば絶対忘れない。
 どんなに離れていても、どんなに時間が経っても。
 私となぎーの心はつながってる。あらゆる物理法則を超えて、ふたりはひとつだ」

 いや、春原が贈ってくれた服も同じだから『みんなはひとつだ』の方が良かったかもしれない。
 そう思ったルーシーだったが、言い直すことはしなかった。まだ胸を張って『みんな』と言えるほど自分はひとと分かり合えていない。
 だからその時に使おうと考えたのだった。

「不思議なものだな……憎んでいた、あいつを、うーへいの仇を、なぎーの仇を取ったのに……
 こうしてなぎーと出会えた奇跡を、思い出してるなんてな」

 あれほどまでに自分を支配していた憎しみ、どろりとした濁りはなりを潜めている。
 代わりに思うのは自分にもこんな親友がいたのだという事実。失ってしまった哀しみだった。
 ただ、哀しみのいくらかはやりきれない怒りへと変質していたが、
 その大半は雨と共に己を洗い流し、がんじがらめにしていた過去を溶かしていた。

636Trust you:2009/03/23(月) 01:39:44 ID:cw9JXZvc0
 人と理解し合えるなんて思ってもみなかった昔。
 河野貴明との邂逅に始まり、様々な人間と出会いながらも、人間のような心があるはずはないと冷め切っていた過去の自分。
 それが今はどこか遠くのように思え、けれども親友の死に立ち会いながら涙のひとつも出せない自分が、根本は変わっていないと自覚させる。
 そういうものなのだろう。己の本質を変えることは不可能で、変えられるのはあくまでも表層の部分でしかない。
 身分や経験など関係はなく、生まれもった自分は最後の最後までそのままだ。
 それでも、私は……

 目を閉じて、美凪に黙祷を捧げる。彼女がいなければ引き返すことを学べなかった。
 親友というものの実際を知ることもなかった。
 知ってさえこんなにも短い間しか一緒にいられなかった。
 もっともっと、美凪とは話し合いたいことがたくさんあったのに……

 寂寥感が立ち込め、ふとルーシーの胸に陰が差し込む。
 こんな別れ方でいいのか、この雨の中に美凪を置いたままにしていいのかという疑問が持ち上がる。
 時間がかかってもいい、どこかに埋葬してやった方がいいのではないかという考えがルーシーの中に浮かんだ。
 親友をこのままにしていいのかという疑問に、ルーシーが手を伸ばしかけた時――

「ダメですっ! るーさん、離れてくださいっ!」

 突如として、死体であったはずの美凪が喋ったかのように思えた。
 驚愕したものの、だがこの声は美凪のものではないと理解していた頭が、声のした方へと振り向く。

「な……にっ!?」

 そこには。
 ゆらり、ゆらりと立ち上がり、腕や腹部から出血しながらも手に拳銃を持った水瀬名雪の姿があった。
 何故だという疑問は、改めて見えた名雪の姿を見たとき瞬時に解決する。

 腹部は確かに出血しているが、量はそれほどでもない。あれだけ大量の銃弾を撃ちこんだのにも関わらず。
 その事実から導き出せる答えは一つしかない。防弾チョッキだ。
 恐らくは気絶していただけだったのだ。己の失態に悪態をつくほかなかったルーシーだったが、名雪は既に銃を向けている。

637Trust you:2009/03/23(月) 01:40:06 ID:cw9JXZvc0
 最後の気力を振り絞ったものだろう。間違いなく、全弾を使ってでも殺してくる。
 ウージーは手元にあるものの構えて照準をつけるには遅すぎる。
 これまでかと思いながらも諦めることを知らないらしい体は動き、必死に狙いをつけようとした。

「くっ、間に合わな……!」

 声を遮るように、銃声が木霊する。思わず目を閉じたルーシーだったが、痛みはどこにもなく、銃声も一発だけだった。
 目を開ける。そこには、ぐらりと体勢を崩した名雪と……その後ろで、M29を構えている古河渚の姿があった。
 あの声は……古河のものだったのか?
 どうしてここにいる、という疑問と自分を助けてくれたという事実が頭の中を満たし、陰を吹き散らし、視界をクリアにさせてくれた。

 体勢を崩した名雪の隙。もう見逃さない。今度こそ決着をつける。乗り越えるために――!
 尚も無理矢理銃を乱射してきた名雪に応じるように、ルーシーもありったけの力で引き金を絞る。
 頭部を目掛けて撃ったウージーの弾は名雪の頭にいくつもの穴をこじ開け、今度こそ彼女を絶命させた。
 何を考えていたのかも、何を目指していたのかも分からぬ、悲しき機械の女が……ゆっくりと、ぎこちなく崩れ落ちた。

「……っ」

 同時にルーシーも苦悶の声を上げ、膝をついてしまう。名雪の最後の乱射はルーシーの脇腹を掠り、確かな傷を残していた。
 それを見た渚が慌てた様子でこちらへと駆け寄ってきた。

「だ、大丈夫ですかっ」
「……問題はない。掠っただけだ。それより古河、どうして、お前はここに……」
「それは……え、えっと、その……心配になったから、です」

 勝手に離れていったのはこちらだし、放っておいてもよかったのに。思ったものの、口には出せなかった。
 代わりに自分の中に、光が差していくのを感じる。太陽みたいだな、という感想をルーシーは抱いた。
 陰を吹き散らしてくれる、決して近づけぬ存在でありながらなくてはならない存在。
 いつの間にか微笑を浮かべていたらしい自分に対して、渚も微笑を返した。ちょっとぎこちない、しかし暖かな笑みだった。

638Trust you:2009/03/23(月) 01:40:34 ID:cw9JXZvc0
「でも、わたし……間に合わせることが出来なかったみたいです……ごめんなさい、なんと言っていいのか……」

 だがすぐに表情が崩れ、骸となった美凪の方を向いた渚は、泣いていた。
 少しの自責と、たくさんの哀しみを含んだ涙だった。
 もう話すことが出来ない美凪に対して、これ以上ないほど哀しんでいた。

「もっと、話したいことがいっぱいあったのに……わたしは何も知らないのに」
「古河……お前のせいじゃない。こうなったのも私が、私達が何も分かろうとしていなかったからだ」

 寧ろ自分の方が情けない、申し訳ない気持ちで一杯だった。
 言葉の節々から、渚が自分達と関わろうとする意思、己が考えていることと同じことを思っているということが感じ取れる。
 なぎー、やっぱり、お前の言う事は正しかったのに……
 やりきれない思いが込み上げる一方、渚の分かり合おうとする意思に触れ、以前のようなわだかまりが溶けてきていることにも気付く。

 本当は誰かに認めてもらいたかっただけなのではないだろうか。
 善人になりきれない自分を「それでもいい」と受け入れて欲しかったのではないだろうか。
 身内からではなく、しこりを残した相手からの握手を。

 ちょっとしたきっかけ。完全には分かり合えずとも協力していけるきっかけが欲しかったのだ。
 そうして少しずつわだかまりを溶かし、長い年月が経って初めて……自分達を親友と認め合えるのだろう。
 憎しみに変わり、後に退けぬまま食い合う前に……美凪はとっくに分かっていたのに……

「――済まない」

 己の内にある全ての思いをその一言に集約し、ルーシーは静かに、だがはっきりとそう言った。

「ルーシーさん……いえ……」
「そういえば、警告してくれたのも古河だったのか。あのとき、るーさん、って呼ばなかったか」
「? い、いえ、ルーシーさんと、叫んだつもりでしたけど」

639Trust you:2009/03/23(月) 01:40:52 ID:cw9JXZvc0
 そうか、とルーシーは答えて、美凪の方へと向く。
 まさかな、と思いながらも、一方でそうなのだろうという確信があった。
 美凪の魂が、想いが、渚を通じて自分に呼びかけてくれた。

 私はこのままでいい、私に拘らず、るーさんはるーさんの今を生きて欲しい……そんな風に。
 他人に己を委託してでしか生きられなかったはずの美凪。それなのに、こうして最後は自分の力だけで想いを成し遂げた。
 だとするなら、やはり本質からひとは変われるのかもしれない……そんな感慨を抱かせた。
 少なくとも、その可能性は目の前にある――息を吐き出したルーシーは、ゆっくりと渚の肩に手を置いた。

「行け。どうせ奈須あたりとは別行動なんだろう? 追ってくれ。私は少し休んでから行く。ちょっと、疲れた」
「え? で、ですけど……」
「いいから行け。お前なら、きっとあいつだって助けられる。現に私がそうだった。だから、行くんだ」

 ぐいと肩を押し、渚を離れさせる。
 しばらく不安げにこちらを見ていた渚だったが、こくりと小さく、しかししっかりと頷いた。

「分かりました。必ず戻ってきます。あの、そのときには……あ、あだ名で呼んでも構いませんかっ」

 神妙な顔から出た言葉は、この場には不釣合いな、日常の欠片を含んだ言葉だった。
 思わず笑い出したくなるのを抑えつつ、ルーシーは「ああ」と応じた。

「そのときには、こっちもあだ名で呼ばせてもらうぞ。『古河』」

 恐らくは、いやきっとこれが最後の呼び名になるだろうという予感を得ながら、ルーシーは渚の返事を待った。
 はいっ、という元気のいい返事がすぐに返ってきて、今度こそ渚は駆け出した。
 気のせいだろうか、その後ろには蛍のような、小さな光の群れがついていっているように見えた。

 ルーシーは空を見上げる。雨は、少しずつ弱まっていた。
 いつか、きっとこの雨も上がり、空も晴れる。渚という太陽が共にある限り。
 銀色の十字架が同調するように、ルーシーの傍へと寄った。

640Trust you:2009/03/23(月) 01:41:54 ID:cw9JXZvc0
【時間:二日目21:00】
【場所:F-3】

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 3/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

遠野美凪
【持ち物:包丁、予備マガジン×1(ワルサーP38)、防弾性割烹着&頭巾、支給品一式、お米券数十枚、色々書かれたメモ用紙とCD(ハッキング用)、ノートパソコン】
【状態:死亡】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:たこ焼き友だちを探す。少々休憩を挟んだ後宗一たちと合流】 

水瀬名雪
【持ち物:薙刀、ワルサーP38アンクルモデル8/8、防弾性割烹着&頭巾、IMI ジェリコ941(残弾0/14)、青酸カリ入り青いマニキュア、支給品一式】
【状態:死亡】

【残り 18人】

→B-10

641十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:00:29 ID:QhWdeCLQ0
 
おぅろぅ―――、おぅろぅ―――と。
高く、低く、笛の音のような音が響いている。
砕かれた神像の残骸を、風が吹き抜けていく音だ。
それはまるで群れを見失った獣の哭き声のようで、物悲しさに水瀬名雪が口元を歪める。

駆けるその足は止まらない。
踏み出した傍から崩れ、瞬く間に小さな石の塊となって山道の斜面を転がり落ちていく大地を、
あたかも氷の上を滑るような鮮やかさで越えていく。
少女の外見からは想像もつかぬ体術、絶妙な体重移動のなせる業であった。
と、目の前の地面が、音を立てて割れる。
唐突に口を開いた断崖に、しかし名雪は驚愕の声一つ漏らすことなく跳躍。
断崖が空しくその背後に消えていく。

跳んだ名雪の、開けた視界が赤々と染め上げられる。
火球である。
人ひとりを飲み込んで余りある炎塊が空中、躱せぬ一瞬を狙い澄ましたように名雪に迫っていた。
事実、緻密な計算に基づいた頃合であったのだろう。
だが燃え盛る火に飲まれ骨まで焼き尽くされる未来を、水瀬名雪はただの指一本で回避する。
肉付きのいい指が迫る火球を指し示した、その直後には黒雷が閃いている。
名雪の背後から真っ直ぐに飛び、火球の中心を貫いて雲散させた黒雷が、蒼穹の彼方へと消えていく。
撃ち出したのは名雪の後ろに控える、大きな漆黒の置物である。
疾走や跳躍に正確に追従する、そのぎょろりと眼を剥いた蛙の置物を、称してくろいあくまという。

642十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:00:55 ID:QhWdeCLQ0
―――これは正しく、時間との戦いだ。

着地した名雪が冷静に分析を開始する。
敵、黒翼の神像は既に眼前。
残り時間は、と問えば間髪いれず、五分四十秒と答えが返ってくる。
時計の針と戦況とをじっと見比べる坂神蝉丸の渋面が見えるような、声なき声。
さしもの強化兵も焦りや苛立ちが隠しきれなくなってきている。
それでもまだ、前に出られない。
理由は単純だ。
この山頂に覆い被さるように拡がった巨竜の背、銀の平原。
半径数百メートルにも及ぶその銀鱗の敷き詰められた道は、いまや紅の森と化していた。
巨神像の斃れる度、巨竜の背から生える紅い槍はその数を増していく。
行く手を阻むように生え、蠢くその槍の森を越えるには、砧夕霧を抱え動きの封じられる蝉丸だけでは手が足りぬ。
先導し、突破するだけの火力。
それを蝉丸は待っている。
巨神像は既に半数が斃れていた。
残るは四体。槍、白翼、大剣、そして名雪の眼前に立つ黒翼の神像。
この内、左右の端に位置する槍と黒翼が落ちれば、戦闘は最終局面を迎える。
他の巨神像が全て沈黙している状況であれば、白翼と大剣を押さえつつ蝉丸とその先導が動き出せる。
紅い森の突破に集中させることができるのだ。

問題は、と。
黒翼の神像が放つ漆黒の光弾を、同じく日輪を侵すような黒雷で相殺した名雪が、
その手に小さな白い何かを掴み出しつつ、思考を展開する。
何もない中空から取り出したように見えたそれは、陽光を反射して煌く雪球。
否、雪で作られたそれは、小さな兎であった。
問題は突破に費やせる時間が、どれほど残せるかという一点に尽きる、と考えながら高く飛んだ名雪が、
叩き落そうと迫る黒翼の神像の一撃を躱しざま、巨大な腕に雪兎を乗せる。
兎の背にはいつの間にか小さな時計が据え付けられ、その針を動かしていた。
名雪と神像が交錯する度、雪兎の数は増えていく。

643十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:01:12 ID:QhWdeCLQ0
―――時間との戦い、だというのに。

優美な巨神像と季節外れの雪兎、そしてその背の小さな時計。
ひどく不釣合いな三者を結びつけた水瀬名雪という怪物が、苦笑する。
この山頂には、幾つもの声なき声が満ちている。
少女たちの、或いはかつて少女であった女たちの、声なき声。
隠す様子もなくびりびりと伝わってくるそれらは、どれ一つとして時間のことなど気にしていない。
身勝手で、視野の狭い、しかしどこまでも切実な声。
その瞳には、目の前の危機など映ってはいないのだろう。
遠い昔に水瀬名雪から剥がれ落ちていった激情が、老いさらばえた心を炙ってちりちりと焦がす。
灼かれて煙をあげた心に咽るように、名雪が口の端を上げる。
笑みに逃げたその貌が、母親のいつも浮かべていたそれとひどく似ているのだろうことには、
気付かないふりをした。

川澄舞は今も待ち続けている。
今も、そして、今回も。
漏れ伝わってくる思いと決意の強さ、その変わらぬひたむきさが、名雪には眩しい。
彼女は待ち人の名を知らない。
その存在の意味も、与えられた役割も。
恋敵、などと水を向けたところで反応が返らないのも当然だった。
それでも、だろうか。
或いは、だからこそ、だろうか。
真実を知ってなお、川澄舞は変わらずにいられるだろうか。
意地の悪い想像に含まれる妬みの色を、名雪は老いた笑顔で飲み下す。

644十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:01:48 ID:QhWdeCLQ0
相沢祐一。
繰り返しの果てに壊れた、機械仕掛けの神。
望まれるままに奇跡を起こす、哀れな案山子。
川澄舞が真に偶然の中で祐一と出会えたのは、もう遥か以前のことだ。
今の川澄舞が祐一と出会ったのは、単純に幼い彼女が救済を願ったからだろうと、名雪は推測する。
壊れた祐一に自由意志などありはしない。
孤独を恐れ、理解を求めた幼子の祈りに呼応して現れた幻想。
それが相沢祐一だ。
だから川澄舞は、ある意味で正しい。
祐一はもう、彼女の前には現れない。
与えられるだけの救済をはね除ける強さを、彼女が持つ限り。

それは悲しい自己矛盾だ。
彼女が祐一の帰る思い出の場所を守り続けるために強くあることこそが、祐一の降臨を阻害している。
だがそれは同時に、正しい人のあり方だ。
相沢祐一を求めるとき、人は弱く惨めで、その弱さは己を、己の周りにある世界を貶めていく。
祈りに応じて現れる祐一は愚かで浅ましい小さな世界を救い、その醜さを受け止めて歪みを増す。
存在が崩壊を内包する道化を呼び出すのは、人の醜さに他ならない。
だから、強くあろうとする少女はそれだけで正しく、美しい。
私と違って、と自嘲する名雪の手には、十数個めの時計仕掛けの雪兎がある。
カチカチと時を刻むその秒針が、間もなく頂点を指そうとしていた。

―――この島の一番高いところ、か。

ふと、青の世界で聞いた声を思い出す。
見上げれば、蒼穹には雲ひとつない。
悠久を繰り返す水瀬の知らない世界。
少女たちが、その強さのままに真実を求めるのなら。
もしかしたらその先には本当に、この世界の終わりを越える何かが見つかるのかもしれない。

ならば、と。
遠い空に目をやりながら、名雪が口元を緩める。
このどこか虚ろな戦いの終わりにも、幾許かの意味はあるのだろう。

浮かべたその微笑に、醜悪な老いの色はない。
祝福を授けるように、名雪が手の雪兎にそっと口づけする。
捧げるように手を伸ばし、伸ばした手から、白い兎が落ちた。

『―――まずは打ち破ろうか。この妄執を』

声なき声の、響き渡ると同時。
名雪の足が地を蹴り、空へとその身を投げる。
彼女が立っていたのは黒翼の神像、その肩の上である。
大地へと落ちゆく名雪が蒼穹に向けて指を伸ばし、小さく打ち鳴らした、その瞬間。
黒翼の神像の至るところに置かれた雪兎の、時計の針が一斉に零を指し示した。

白光と灼熱とが、黒翼の神像を包み融かし尽くすまでの一瞬を、待ちかねたように。
凄まじい爆音が、山頂を揺るがした。

645十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:02:20 ID:QhWdeCLQ0
 
【時間:2日目 AM11:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体11000体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:大破】

→1045 1053 ルートD-5

646十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:16:18 ID:ZjBIZIJY0
 
それは、曙光だった。
朦々と舞い上がり、まとわりつく砂埃を払いながら真っ直ぐに見つめてくる、天沢郁未の瞳。
鹿沼葉子の目にいつだって眩しく映っていた夜明けの色が、そこにある。


***

647十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:16:30 ID:ZjBIZIJY0
 
「冗談じゃない、って話」

掠れた声。
こみ上げる血と絡まる痰と不定期な鼓動と引き攣る横隔膜とで震える声。
炎や、地響きや、飛び交う光や稲妻や、そういうものの一切を無視して、郁未が言葉を紡ぐ。

「ああ、冗談じゃあない。これがあんたの喧嘩で、だから一人でやるっていうんなら葉子さん、それはいいさ。
 私はここで見ててやる。あんたが勝って、戻ってきて、澄ました顔でお待たせしました、って言うまで待っててあげる。
 けど、ならさ。ごめんなさい、は違うでしょ」

打ち鳴らされる鐘のように響く音は、巨神像の槍だ。
葉子と郁未とに向けて、何度も打ち下ろされている。
少女二人を容易く押し潰すはずの巨槍は、しかし見えない壁に弾かれるようにその穂先を空しく傷めていくばかりだった。
力と、技と、質量と、そのすべてが通らない。

「謝る必要なんかない。……違う、違うね。謝っちゃいけない。
 葉子さん、あんたはだから、そこで謝っちゃいけないんだ。
 私はここにいる。あなたの傍で待ってる。離れない。だから、謝るな」

不可視の壁を張り巡らせた、その中で。
外の世界の全部を遮って。
天沢郁未が、告げる。

「私はずっとここにいる。それを信じてるなら、信じてくれるなら、謝らないで。
 いつも通りの鹿沼葉子で、私に。天沢郁未に聞かせて。その声を。本当の声を」

世界を隔てて、ただ二人。


***

648十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:18:19 ID:ZjBIZIJY0
 
言葉を、探していた。
天沢郁未に返す言葉を。
その、赤面するほどに真っ直ぐな気持ちに応える言葉を、鹿沼葉子は探していた。

色々なことが頭の中を巡っていた。
色々なものが、色々な人が、色々な記憶が、葉子の中で言葉になろうとして、
しかし結晶する寸前で、天沢郁未という熱を前に、それらは空に溶けて消えていく。

怖かった。
立ち塞がる巨大な敵は、葉子の過去が具現化したかのようで、だからそれを打倒するのは葉子自身の役割で。
違う。恐怖の根源は、そんなところにはない。
言葉と共に、欺瞞も虚飾も、熱に煽られて溶けていく。
やがて剥き出しになった恐怖は、たった一つ。
ただ、失うのが、怖かった。
過去に敗れて、過去に呑まれて、現在が失われるのが、怖かった。
鹿沼葉子の過去に天沢郁未が呑み込まれるのが怖くて、だから独りになろうとした。
ひどく陳腐で、どこまでも甘ったれた、子供のような我侭。
誰が聞いても呆れるような、天沢郁未も呆れるような、だからそれを口にした。

天沢郁未は、笑ってそれを、殴り飛ばした。
赦さずに、いてくれた。

それは、嬉しくて、悲しくて、腹立たしくて、有り難くて、微笑ましくて、気恥ずかしくて、
全部の感情を集めて心の中で弾けさせたような、ひどく騒々しい、夜明けの鐘。
飛び起きた頭は混乱の中にあって、だから葉子は考える。
考えて、考えて。

だけど言葉は、見つからない。
見つからなくて、ぐるぐると回って、結局振り出しに戻った頭が、何も考えられない葉子の頭が、
ようやく言葉を搾り出そうとする。

「ご、ごめ……」
「だから、そうじゃない」

苦笑に、遮られた。
遮って、手が伸ばされる。
手を差し出して、天沢郁未が、

「そこは、これからもよろしく……って、言うとこ」

夜明けのように、微笑んだ。


***

649十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:08 ID:ZjBIZIJY0
 
それは、難問を答えに導く、たった一つの公式。
差し出された手と微笑みが、薄闇を打ち払い、冷たい夜露を煌めく珠に変えていく。

「……私、自惚れてる?」

明けていく夜の、昇る陽の眩しさと暖かさに、涙が滲む。
縋るように、その手を取った。

「……いいえ」

最初はか細く。

「いいえ、いいえ!」

やがて、雲間から射す光の、大地を照らすように。

「私は……私は、鹿沼葉子。國軍技術研究局、光学戰試挑躰にして、FARGOクラスA」

繋いだ手の温もりに、応えるような声で。

「だけど、だから私は今、天沢郁未の隣に立っている。……立てて、います。
 これからも……よろしくお願いします、郁未さん」

宣言と要請を、真っ直ぐな笑みが受諾した。

「―――よく言った!」


***

650十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:24 ID:ZjBIZIJY0
 
結んだ手から、光が伸びる。
伸びた光が道となり、その先には倒すべき敵がいた。
手を繋いだまま、光の道を歩き出す。

「不可視の力は無限の力」

二つの足音が、一つに聞こえる。
駆けるでもなく、止まるでもなく。
歩み続ける、足音。

「世界を塗り替える願いの力」

行く手を遮るものは何もない。
焦燥のままに何度も突き立てられる巨槍は不可視の壁を貫けず、光の道に触れることすら叶わない。

「ならば誓いは道となり―――」

光に射抜かれるように、巨神像の顔がある。
その見上げるような顔のすぐ前で、歩みが止まった。
繋がれた手には、いつしか何かが握られている。
天への供物のように掲げられたそれは、郁未の長刀。
魅入られたように動けない巨神像の眼前で、刃がその輝きを増していく。
やがて陽光を凝集したような燦然たる光となった長刀が、振り上げられる。

「―――絆は、刃となる!」

光が、奔った。


***

651十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:44 ID:ZjBIZIJY0
 
馬鹿だった。
自分はどうしようもない馬鹿だったのだと、鹿沼葉子はようやく気付く。

二つに分かれて崩れゆく巨神像を前にして、薄れゆく光の道から飛び降りて、
だけど離れない手を真ん中に、くるくると回りながら思う。

夜はもう、とうの昔に明けていた。
あの日、あの時、今はもうない教団の、あの誰もいない食堂の薄暗い片隅で。
誰にも気付かれないままに、夜明けは訪れていたのだ。

暗かったのは、ただ目を閉じていただけ。
一番鶏の鳴く声が聞こえなかったのは、ただ耳を塞いでいただけ。

離れられるはずもない。
いかに怯えようと、大切なものを飲み込む夜の闇など、もうどこにもありはしなかった。
目を開ければ、光の中にそれはあった。
笑って、いた。

だからもう、言葉を探す必要はない。
声に出す必要も、なかった。

ただそっと、繋いだ手に力を込めて。
微笑んで、想う。



―――これからも、ずっとずっと、よろしく。

652十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:20:14 ID:ZjBIZIJY0

  
【時間:2日目 AM11:57】
【場所:F−5 神塚山山頂】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体9700体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:大破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】

→1048 ルートD-5

653名無しさん:2009/04/01(水) 02:31:09 ID:.RmBvSCY0
 
 
  ―――その死には、幾つもの真実が、足りない。


「駄目! 私に近づかないで、貴明さん!」
「草壁さん……どうして、どうして君がそっち側にいるの!?」


  何もかもが間違っている。


「わたしの運の悪さ……知ってるでしょ? ……だから、」
「だからその『凶運』を、僕が『転移』する。不幸は共有されるべきだからね」
「柊……くん……」


  誰も彼もが、救われない。


「あちきが間違ってる。そんなこたー、わかってらい」
「みゅー」
「お前ぇさんも、たかりゃん達にはついてけねえってクチだねえ」
「みゅー……?」


  生き長らえて、死んでいく。


「私にはっ! 『加護』なんて力、ないのに! なのに、どうしてっ!」
「仁科、今それを告げれば、我々は決戦を前に内部から崩壊する」
「智代さんが、そういう風に仕組んで! だから敵とか、味方とか! もう沢山なんです……!」


  混沌に隠された真実が、


「みずぴー……! あたしたちは……!」
「ダメだ新城! そいつを信じるな!」
「向坂……雄二……! 夕菜さんを見捨てたくせに、あなたって人は……!」


  ここに、明かされる。


「この時間の全部が消えても……もう一度、会えるかな?」


  その道の果てで、少女の恋が、終わるまで―――


 HAKAGI ROYALE Ⅲ  ROUTE D-5  episode:0

       ―――The Way to Void―――



 近世紀公開予定、ズガン。

654最終話 希望を胸に すべてを終わらせる時…!:2009/04/01(水) 03:30:20 ID:eDCqWgH20
高槻「チクショオオオオ!くらえいくみん!新必殺高槻最高斬!」 
郁未「さあ来い高槻イイイ!私は実は何の盛り上がりもなく死ぬぞオオ!」 

(ザン) 

郁未「グアアアア!こ このザ・エロスと呼ばれる四天王のいくみんが…こんなワカメに…バ…バカなアアアア」 

(ドドドドド) 

郁未「グアアアア」 
有紀寧「いくみんがやられたようだな…」 
名雪(ゾンビ)「ククク…奴は四天王の中でも最弱…」 
椋(ゾンビ)「人間ごときに負けるとは主人公の面汚しよ…」 
その他対主催「「「「「「「「「「「「「「くらえええ!」」」」」」」」」」」」」」
 
(ズサ) 

3人「グアアアアアアア」 
高槻「やった…ついに四天王を倒したぞ…これで主催のいる高天原の扉が開かれる!!」 
サリンジャー「よく来たなヘンな称号いっぱいの男…待っていたぞ…」
 
(ギイイイイイイ) 

宗一「こ…ここが高天原だったのか…!感じる…主催の力を…」 
サリンジャー「対主催どもよ…戦う前に一つ言っておくことがある 幻想世界だか宝石だかが重要なフラグだと思っているようだが…別に関係ない」 
渚&風子「「な 何だってー!?」」 
サリンジャー「そしてシオマネキは動かなくなったので処分しておいた あとは私を倒すだけだなクックック…」
 
(ゴゴゴゴ) 

国崎「フ…上等だ…俺達も一つ言っておくことがある 何だか壮絶にキングクリムゾンしているような気がしているが、別にそんなことはなかったぜ!」 
サリンジャー「そうか」 
浩之「ウオオオいくぞオオオ!」 
サリンジャー「さあ来い!」 

対主催達の勇気が世界を救うと信じて…! ご愛読ありがとうございました! 


【HAKAGI ROYALEⅢ RoutesB-10 END?】


【状態:俺達の戦いはこれからだ!】
【目的:名無しさんだよもんさんの次回作にご期待ください!】

655End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:48:39 ID:4D5sJK1.0
「降っているな」
「降ってるの」

 きこきことペダルの音を鳴らしながら二人乗り自転車に跨いでいるのは一ノ瀬ことみと霧島聖。
 半ば無表情に、規則正しく早いスピードで進む二人の姿はどこか牧歌的であり、滑稽に映っていることだろう。
 実のところことみは周囲に人の気配がないか気を配りつつも、雨で滑らないようぎゅっとサドルを握りペダルも強すぎるほど漕いでいる。
 見た目とは裏腹にかなり緊張していて、体力もかなり使っていた。

 もちろんそんなことを聖に言えるはずもないので黙って漕ぎ続けているのだが。
 距離的にはかなり進んできたはず。ここは流石に二人乗り自転車の面目躍如と言うべきか、あっと言う間に灯台が見えてきた。
 気がする。どれくらい時間が経過してるのなんて分かりもしないし、果たしてここに目的の品があるのかなど知るわけもない。

 だがやるだけやるしかない。ここまで生きてきて何の役にも立てないまま死ぬのは嫌だ。
 妹を探索するのを後回しにしてまで自分についてきてくれた聖に対して申し訳が立たないし、
 自分を信じて協力してくれた友達に合わせる顔がない。
 所詮己にはちっぽけな勇気と、一歩踏み込むことも出来ない臆病さしか持ち合わせていない。

 きっとこれからも変わらず、変えられもしない部分なのだろう。
 だからこの勇気の残りカスを振り絞ってでもここから生きて帰る。
 それが一ノ瀬ことみの決意したことだった。

「そういえば、だ。今こんなことを聞くのは不謹慎と言うか、不躾かもしれないが」
「なに?」
「生きて帰れたら、何がしたい?」

 少し迷ったように、ゆっくりと声が吐き出された。ことみはつかの間目をしばたかせ、質問の内容を理解するのに数秒の時間を要した。
 黙っていて、相槌も返ってこないにも関わらず聖は何も言わない。じっと答えを待っていた。
 いやそう簡単に答えられるような質問じゃない。
 このような空白の時間でもなければ話題にも出せないような質問だ。今現在を生きるのに必死で、考えようもなかったことだから……

656End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:48:57 ID:4D5sJK1.0
 分からない、と散々に思案した末に、消え入るような小声でことみは言った。
 元の生活に戻れるとはとてもじゃないが思えない。
 たとえ友達と全員生きて帰れたのだとしてもここで感じた極限状態の影響など計り知れようもない。
 自分が落ち着いていられるのは聖という保護者がいること、そして殺し合いの現場には遭遇していないことがあるからだ。

 無論、死体はいくつか見た。状態も酷く内臓が見え隠れしていたものもありあまりの気色悪さから吐きそうにもなった。
 しかしこうして喉元過ぎれば気持ちの悪さはなりを潜めている。慣れと言えば、そうなのだろう。

 だから自分は、異常なのだ。異常な人間が帰って、果たして元通りの生活を送れるのだろうか。
 ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵が戦場での過酷な体験、
 社会からのプレッシャーによりPTSDを発症し、精神を崩壊させたという事例もある。
 この状況も一種の戦争。極限に慣れた体は、果たして日常に耐えうるのだろうか……?

「まあ、難しく考えるな」

 ことみの中の疑問を読み取ったかのように、湿り気を吹き散らす聖の声が聞こえた。
 自分のことばかり考えていたが聖はどうなのだろう、とことみは考える。
 家族を失い、帰る場所が失われた聖は自分などとは比べ物にならないくらいのショックを受けているはずなのだ。
 悲しみで我を押し潰されてもおかしくはないはずなのに、どうしてこんなに強く在れるのだろうか。

 だが自分には尋ねられない。そんな度胸は、この期に及んでも持てない。
 沈黙で答えるしかなかったことみに苦笑したような風になって、聖は言葉を重ねた。

「人はそう簡単に壊れたりはしない。私にだって、まだやりたいことはある。
 それがこの一瞬、刹那的でしかなくて、何も残らないものだとしても、だ」
「……それが、先生を支えているもの?」
「そうだ。……自分で考えて、自分で決めたことだ。
 きっと後悔することになるかもしれん、がほんの少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくないのでな。
 何十年も先のことじゃない。明日やりたいことでもいいし、一週間後にやりたいことでもいい。
 私は今日やりたいことをやっている。ことみ君には何かないのか? やりたいことは」

657End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:49:16 ID:4D5sJK1.0
 心の中を察したかのような聖の言葉だが、きっと推測したのではないと思う。
 医者として、人間として、空白のままの人間でいて欲しくないという願いが聖の言葉から伝わってくる。

 実際そうだという自覚はことみ自身にもある。父母に伝えられなかった言葉、朋也を待ち続けた時間。
 ぽっかりと空いた時は知識を埋めるためだけに使われ、何ひとつやりたいと思ったことをやっていない。
 膨大すぎる知識だけを持て余し、その合間すら埋めるために図書館に篭もっている日々が続いた。
 自分の意思などなく、ただ空白だけを塗り潰すために過ごしてきた時間だ。

 しかし朋也との再会を切欠に様々な人と出会い、過ごし、空白は少なくなっている。
 自発的な行動はあまりないし、大抵が誰かに引っ張られる形での行動だ。
 まだ、自分は自分から何かが出来るような人間ではないのかもしれない。

 それでも確かに……引っ張られることを選択したのは他ならない自分、だ。
 だとするならそれは、自分が望んだことなのだろうか。
 結局……それはやりたいことではないようにしか思えなかった。だが、やりたいことではなくとも、目指すべきものはあった。

「ごめんなさい、今はまだ見つけられないの……でも、でも、友達や聖先生と一緒にいたい。それだけは確かなことなの」

 そうか、と返答する声が聞こえ、つかの間の沈黙は完全な静寂へと変貌した。
 なにか思うところがあったのか。沈黙から静寂に変わる間、聖は考え事をしているように思えた。
 自分よりも大きいはずの聖の白い背中が、その瞬間だけは小さくなったように見えたのだ。

「……さて、灯台を過ぎたか。ここから先は氷川村だな。どこかに農協があればいいんだが……軽油があるかな」

 取り繕うように言葉の大きさを変えて、聖が周囲を見回す。
 長髪が揺れるのに合わせてことみも周囲を探ることにする。
 暗くなって視界が定まらない。ライトでも点ければ少しは見晴らしも良くなるのだろう。

658End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:49:33 ID:4D5sJK1.0
 だがそれは同時に自分達の居場所をアピールしてしまうことに他ならない。
 是が否でも成功させなければならない使命がある以上、極力知らない人間との接触は避けたいところだった。
 地道で時間のかかる作業だが今はこうするしかない。殺し合いに時間制限はない。

 タイムリミットがないのならば十分に活用してやるまで。しかし、逆にそのことが疑問点として頭にこびりついている。
 本当に殺し合いを推進するならばどうあっても人が人を殺さざるを得ない状況に持ち込むことが不可欠だ。
 『殺し合い』はただ単に殺せばいいのではない。あくまでも参加者が自発的に殺しに行かなければ意味がない。
 友人のため、家族のため、或いは自分の命のため。理由はどうとでもつけられる。必要なのは、踏み出させる切欠。
 けれどもこの殺し合いにはそれが決定的に不足している。穴が多すぎるのだ。

 時間制限がないということは、のらりくらりと状況を進められるということだし、
 定期放送でも呼ばれるのは死者の名前ととても信じがたいような与太話ばかり。
 とてもじゃないが本気で殺し合いをさせたいようには、ことみには思えなかったのだ。

 寧ろ反抗の余地を残してさえいる。例のカードキーもしかり、首輪にも盗聴機能しかつけていないこともしかり。
 反抗させることが狙いなのだろうか。そうだとして、反抗させるメリットは?
 殺し合いに乗った連中とぶつかることを考慮すればますます意図は読めない。
 一体、主催者が必要としているものは何なのだろうか?

 疑問しか浮かばず、結論も思い当たらない以上聖にこの話を持ち込むのはやめておいた。
 今は課題を増やしたくはない。やることは軽油の確保だ。
 顔を持ち上げ、意識を周囲へと戻す。すると外れのほうにぽつんとひとつ、古臭いながらも大きな建物が見えた。

 錆びた鉄骨がむき出しになっているそれは潰れた施設であることを想像させる。
 しかしこういうところには、得てして廃棄された資材などが打ち捨てられているものだ。
 使えるかどうかはまた別の話になるが、廃工場であるならひょっとすると火薬のひとつでもあるかもしれない。
 電気信管は流石に期待は出来ないが、行ってみる価値はある。あるかも分からない農協を探すよりは建設的なことのように思えた。

「先生。あそこにある建物、見える?」

     *     *     *

659End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:07 ID:4D5sJK1.0
 薄暗い室内。殆ど光も差さない一角、隅に隠れるようにして宮沢有紀寧はノートパソコンを起動させていた。
 その傍らにはコルトパイソンと首輪爆弾起動のためのスイッチが置かれ、彼女の内心の焦りを表している。
 何度も思ったことだが、所詮自分は単体で殺しあえるほど強くはない。

 だからこそこれまで他者を使い、利用し捨てることでここまで生き延びることができた。
 人とのコミュニケーションは得意だし、会話を自分のペースで進めることだって得意だ。その自負はある。
 もう一度だ。もう一度だけ、どこかに紛れられるチャンスがあれば優位な立場で最後の決戦を迎えられる。

 ロワちゃんねるを開き、残りの生存者がどうなっているか確認する。
 まだ20人強は残っているだろうと予想していた有紀寧だったが、その予測は良くも悪くも裏切られる。

(……20人を切っている、のですか)

 先程の乱戦の様子から見てこの結果が想像出来なかったわけではない、が驚きを覚えたのも事実だった。
 放送が終わったときと比べても半数近くが死亡している。場合によっては夜明けまでに決着がつくこともあり得る。
 問題は自分の正体を知られているかどうか、だ。

 戦いの様子を見てはいたものの会話の内容を聞き取れたわけではないし、
 柏木初音はともかくとして藤林椋が喋らなかった保障はない。
 柳川祐也に関しても同様だ。誰かと潰し合ってくれたのはいいが反抗的な男だ。
 こちらの情報を誰かに伝えられた可能性もある。何にしろ、自分の正体が誰にもバレていないと信じるには甘すぎる。
 さらに人数も少ないということは、早急に手駒を見つけないと己単体で戦わざるを得ないことを意味する。
 少々のリスクは犯してでもこちらから接触し、現状をどうにかしなければ危うくなる一方だ。

 そこまで考えて、額に汗を浮かべ、意識も浮つかせている自分がいるのを自覚する。明らかに焦っている。
 不安がっているのだろうか。誰もなく、孤独な我が身に心細さを感じていたとでもいうのか。
 汗を拭い、ゆっくりと息を吐き出し、有紀寧は雨の降り続く空を、欠けた屋根越しに見上げた。

660End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:25 ID:4D5sJK1.0
 村はずれにぽつんと佇み、取り残されるかのようにあったそこは一時でも隠れるのにうってつけの場所だった。
 未だ雨は止まず、錆びた鉄骨から滴り落ちる雫が床にも水溜りを作り上げている。
 時折奏でられる水滴の音色を聞きながら、有紀寧は初音のことを思い出す。

 もしここに初音がいればどうだっただろう。
 無用な焦りも感じず、ただ自分を信じてついてきてくれる初音に自信を得ながら次の策を考えていただろうか。
 今の自分のちっぽけさ、小ささを感じながら、やはり家族という亡霊に取り付かれているのだと痛痒たる思いを抱く。
 家族が欲しかったのか。或いは取り戻したかったのか。それともやり直したかったのか。

 いずれも無理な話だと理性は知り抜いているにも関わらず、心の奥底が求めて止まない。
 何故こんなにも切望するのだろう。家族という言葉の果てに、自分は何を得たかったのだろうか。
 今もそうだ。言葉だけを追い続け、具体的にどんなことをしたいのか、どうしたいのか、全く分からない。
 殺し合いに参加した理由、生きて帰りたいという願いでさえも目的でしかなく、その先に充足が待つわけでもない。

 死にたくないと他者に言い続けてきた自分だが、違うのかもしれない、とそう思った。
 命が惜しいわけじゃないのだろう。ただ、知りたいだけなのだ。自分が望んでいたもの、未来の形というものを。
 それまでは死ねない。死に切れない。人間として……

 は、と有紀寧は笑った。嘲りに近い笑い方だった。この年になって自分探しとは、中々笑える。
 人殺しのくせに。センチメンタルになりすぎたと思いながら、有紀寧は闇の在り処を探した。
 殺し合いの中に身を置けば全てを忘れて没頭できる。殺すことに注力できる。
 ああ、やはり……狂っているのだ。落ち着いてゆく自分に対して、有紀寧は笑った。

 パソコンを閉じて物品の整理を始める。ここまで来たからにはもういらないものもあった。
 何故かいつまでも持っていたゴルフクラブ。近接戦闘用に、と思っていたが柄が長くて使えるとは言いがたい。
 捨てるに捨てられなかったというのもあるが。その場に放置し、残ったものをデイパックに詰める。
 コルトパイソンと弾はそれぞれスカートのポケットに入れ、スイッチは手元に。

 急ごしらえだが突発的な戦闘に対する用意はできた。後はこのスイッチを使うべき相手を探すだけだ。
 デイパックを背負って立ち上がったところで、水がぱしゃりと跳ねる音が聞こえた。
 人か!? さっと資材の陰に身を隠す。
 まさかここに誰かが来るとは思わなかっただけに意外だった。まさか大人数、というわけでもあるまい。

661End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:43 ID:4D5sJK1.0
 唾をひとつ飲み込むと、有紀寧はなるべく音を立てないようにして移動を開始し、耳に神経を傾ける。
 少なくとも人数の把握はしておきたい。大人数なら一旦逃げざるを得ないが、一人二人なら話は別。
 隙をついてスイッチを起動させることは容易だ。ここには物陰も多い。
 資材に張り付くようにして動く有紀寧に、喜色を浮かばせた女の声が聞こえてくる。

「あったの、先生!」
「本当か? まさかこんなところにあるとは……」

 声はもうひとつ。ぱしゃぱしゃと音を立てながら足音が遠ざかっていく。どうやら二手に別れて何かを探していたらしい。
 それに、一人は聞き覚えのある声だった。確か自分の通う学校で時たま怪音のバイオリンを聞かせていると評判の生徒のものだ。
 確か名前は……一ノ瀬ことみ、だっただろうか? 残念ながらもう一人は誰かは知らない。
 だが先生と呼ばれていることから少なくともことみよりは年上で、ことみの保護者と判断した方がいい。

 なるほど賢い選択だ。この殺し合いに対してどのような姿勢なのかは知らないが、強い人物に保護してもらうのは正しい。
 ノコノコとは出て行くまい。一ノ瀬ことみだとは分かるものの保護者がいる以上迂闊に手出しは出来ない。
 上の立場にいるものは得てして警戒心も強い。こんなところにひとりで隠れているというのは確実に怪しまれる。
 これが殺し合いが始まってすぐ、というならまだしもかなり時間が経過した状態で、一人でいるというのは考えられないことだからだ。
 余程保身傾向が強い臆病者でさえも人と絶対に会いたくないかというと、そうではない。
 どんな人間でさえも孤独は心細い。現に自分だってそうだ。

(狂っているわたしが言っても、説得力はないと思いますけど、ね)

 とはいえ、理には叶っている。隠れるというのもあくまでも怖い人間に見つかりたくないという思考から。
 安全そうな人がいれば出て行き、そうでなくとも様子を窺うくらいのことはする。
 絶対な孤独を望む人間なんて、余程人生に絶望していなければ有り得ない。

 まあ、とにかく総括するなら……自分はあくまでも普通で、ここまで一人ぼっちで隠れていられるような人間ではないということ。
 それを疑われればお終いだし、何より今の自分は爆弾を抱えている。殺し合いに乗っているという爆弾が。
 だから作戦は一つ。忍び寄って、首輪爆弾を起動させる。

662End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:02 ID:4D5sJK1.0
 最初のターゲットは……保護者のほうだ。
 強者にくっついているということは、裏を返せば上を落としてしまえば下も無力化するということに他ならない。
 依存度が強ければ尚更、だ。
 故に待つ。二人がまた分かれるまで、どこまでも待ち続ける。ジョロウグモのように。

     *     *     *

 屋外に廃棄されていたのは古さびたトラクターだ。
 機種としては比較的新しい方なのだが、
 手荒く使われていたのか傷やパーツの欠損が目立ち、一目にも使えなくなっているのが分かる。
 もし工具があればすぐさま修理にとりかかりたい衝動に駆られたがそんなことをしている場合ではない。

 問題はこのトラクターに軽油があるかどうか、だ。空っぽであるならば徒労に終わる。
 いや寧ろそちらの方が可能性は高い。あまり期待はするまいと思いながら聖は燃料タンクのフタを開ける。
 瞬間、鼻腔がなんとも表現しがたい匂いを感じ取り僅かに意識が遠のく。
 直接匂いを嗅ぐのは失敗だったかと思いつつ、聖はペンライトでタンクの中を照らしてみる。

「……ほう」

 むせ返るような刺激臭に目まで焼かれそうな感覚を味わいながらも、聖は静かに波打っている液体を発見した。
 間違いない。燃料だ。それも結構残っている。
 内心快哉を叫びながらも、何故廃棄されたトラクターにこれだけの燃料が残っているのか、と疑問が浮かぶ。

 考えても詮無いことだ。ここが人工島である可能性が高い以上、
 施設は全て演出目的で作られたものだろうしもしくはわざとこのように配置したとも考えられる。
 可燃性の燃料に火の一つや二つくべてやればあっという間に大炎上。人を焼き殺す凶器となる。
 戦闘が原因にしろ不慮の事故にしろ、人が傷つき、死亡することを狙ったとも言える。
 推測にしか過ぎないが殺し合いという名目がある以上単なるミスや偶然とは思えない。
 怒りを滾らせながらも、しかしそういう考えが奴ら自身の破滅を招くのだと結論した聖は内奥に怒りを仕舞い込んだ。
 爆発させるときは、奴らの懐だ。

663End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:31 ID:4D5sJK1.0
 ペンライトを消し、後ろで待つことみの方に振り返った聖はニヤと笑った。
 その意味を瞬時に理解したらしいことみはコクコクコクと素晴らしい勢いで頷いた。
 後は燃料を取り出すだけ。ポンプの一つでも持ってくれば必要な分の量は確保できるだろう。
 いざとなれば直接タンクに穴を開けて回収してもいい、がなるべく安全確実に回収したいのが聖の本音だった。

「ふむ、後は、あれだな。ポンプを探してきてくれ。私はここに残って見張りをする。
 誰かが来たらまた対応を考えなければいけないからな」
「うん、了解なの。……ところで先生、本当に機械にも詳しかったんだ」
「言ったろう? トラクターの修理だって出来る、とな。
 まあ土地柄と家族構成の関係上、やれることは多いほうが良かったからな」

 父も母もなく、自分ひとりで佳乃を養ってこなければならなかったため必然的に様々な資格を取得することも多かった。
 生活のためということもあったが、相互扶助の側面が大きい町でもあったから色々やっていたら自然と身についたものもある。
 だが今は自分ひとりという事実が圧し掛かり、聖の体を冷たくする。

 考えてみれば自分の人生は妹ひとりのために投げ打ってきた。
 そうしなければ守れなかったという現実もあったが、そうするしかなかったという仕方なさもあった。
 医学の道を志したのも妹の原因不明の病気を治すためだし、また女の身で家計を支えるにはこれが一番だという考えから。
 自分で意思して決めたわけではなく、人を救いたいという思いから医学の道に進んだわけでもない。
 妹のため、という言葉自体は間違いなく自分の意思に他ならないが、それは当たり前のこと。家族なら当たり前のことだ。

 ……私は、夢を持てなかった。

 夢を諦めたのではなく、最初からそのようなものを持っていなかった。
 それでもいいと思っていた。妹と平和に暮らせるのなら夢なんかなくたっていい、自分のことも考えなくていいと。
 しかし、今は現実が突きつけられている。依存する先を失い、何をしたらいいのか分からないという現実が。
 これからの自分に夢が持てるのか。考えさえ放棄していた己が今さら掴めるものがあるとでもいうのか。

664End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:47 ID:4D5sJK1.0
 佳乃、私はどうしたらいい……? どんな顔をして生きて帰ればいいんだ?
 やりたいこと。夢。ことみでさえ分からないと言ったそれをどうやって見つけ出すのか。
 脱出が夢まぼろしではなくなってきたこと、芽が見えてきたことに聖は自分でも正体の分からない恐怖を感じた。
 今やりたいことは確かにあっても、やりきってしまえば空っぽの自分しか残らない。
 ことみに対して向けた言葉が、あまりに白々しいもののように感じられた。

『人は簡単に壊れたりしない』『少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくない』

 強がりだな、と聖は己の不実に嘆息するしかなかった。
 全ては詭弁で、本当は自分こそが答えを求めていたのかもしれない。
 夢を持てない大人はどう生きればいい、と。

「……先生?」

 黙ったまま何も言わなかったからか、ことみが心配そうな声をかけてくる。
 問題ないよ、と微笑した聖は早く行ってこいという旨の言葉を出そうとしたが、それより先にことみが続けた。

「先生って、色々出来るの。どうしてそんなにいっぱい出来るのかな」
「そうでもないさ」
「そんなことないの。人を治せるだけじゃなくて機械にも詳しいし、気が利くし、それに……誰かを守れる力があるの。
 私は知識だけ。知っていても、使ったことがないの。ただ知っているだけ」

 ことみは自らが無力だと語るように表情を険しくした。
 買い被りだ、と思いながらも無下に否定することも聖はしなかった。
 彼女が言いたいのはそういうことではないというのが分かっていたからだった。

「私は、先生みたいな人になりたい」

665End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:06 ID:4D5sJK1.0
 ことみの言葉に、聖は何も言えなかった。いや言うべき言葉が途切れてしまった。
 憧れ、信頼している少女の瞳がそこにある。だがそれは盲目の信頼ではなく、知ろうとする信頼だった。

「先生がどんなことを考えているかなんて分からないし、完全に知ることもできないと思うの。……どれだけ物事を知っていても。
 でも先生のやってきたことを、私は尊敬してるから。誰かを助けようとしてくれる先生を尊敬してるの。
 そこに嘘があったとしても、私は先生のついた『嘘』を信じたいの」
「……ふむ」

 ことみの下した結論はそうなのだろう。何をやりたかったのかも決められなかった彼女。
 けれども今は目標を定めて、進もうとしている。
 理由が打算的であったとしても人に恥じない行為をしていることを信じて。

「なら、とりあえず医者を目指してみるといい。だが案外厳しいぞ? 昨今の医療業界は」
「そのときは師匠、宜しくお願いしますなの」

 びっ、と敬礼まがいのポーズをとり、わざとらしく口元をへの字に結ぶことみ。
 思わず苦笑が漏れた。先生の次は師匠ということらしい。不思議と悪い気はしなかった。

 ことみの見ているものは虚像だ。自分が作り上げた虚像にしか過ぎない。
 ただ、それを自分と同質に見てくれたのもことみだ。そこを目指し、導いてくれと言ったのもことみ。
 どうやら自分には夢は夢でしかないのだろうと思った聖は、意外なほどすっきりとしている胸の内を眺めて安堵していた。

 大人になりきってしまった己には仕事に明け暮れるしかない。しかしそれでいい。
 仕事を通じて何かを伝えることもできる。自己満足だって得られる。
 学校を出るときに思ったことと同じだ。未来を望む人達を導く。それが大人の役目だ。

 どうして未練たらしく、自分も救われるなどと思っていたのだろう。
 その資格を自分で手放してきたくせに、今になって望むのは虫が良すぎる。
 だから自分が掴めるのは自己満足と他人の未来だ。だがそれは見守りながら朽ちてゆける価値のあるものだ。
 救われる必要はない。救われなくとも、幸福にはなれる。そう納得できるのも人間だ。

666End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:25 ID:4D5sJK1.0
「うむ、宜しくお願いされよう」

 びっ、とこれまたわざとらしくことみの真似をする聖に今度はことみが苦笑した。
 仕事をさせようとするからだ。ニヤリと口元を歪めた聖を見たことみは肩をすくめて廃工場の中へと戻っていった。
 ポンプとタンクを取ってくるつもりだろう。自分は自分のすることをする。
 そう断じた聖は顔を上げ、トラクターを背にするように移動する。誰かが来るかどうか見張るだけだ。

 デイパックは背中から下ろして近くに置く。いい加減背負うのも疲れた。
 と、ふと聖は日本酒が入っていることを思い出し、迷いながらも一口だけ飲むことにした。今までの澱んだ考えを洗い流す意味も含めて。
 デイパックの中にあるそれはまだ十分な量があり、ビンの中で液体がたゆたっている。

 栓を開け、一口。久々に味わう酒の感覚が喉を潤し、心地良さが体を満たしてゆく。
 きっとそれは自分の心境の変化のせいもあるのだろうと思いながら、続きは後にしようと日本酒をポケットへと仕舞う。
 サイズ的にはそれほどでもなかった。携帯用の酒瓶なのだろう。そんなことを思いながら聖は思考を移す。
 さて、万が一戦闘になってしまったらどうするか。肉弾戦ならともかく遠距離からの銃撃などに晒されたら対応し辛い。
 でかい狙撃銃らしきものはあるがそんなものを撃てる技術は流石にないし、医者としてのプライドが許さない。

 なら半殺しにはしてもいいのかということにはなるが、治せば構わない。
 要は命があればいいのだ。……もっとも、命を蔑ろにし、奪うような輩にはまだ出会ってはいないのだが。
 人がたくさん死んでいる現状で、それはきっと不幸なのだろうなと思いながら聖はベアークローを装着する。
 できるならもう誰も死なずに脱出したいものだ……そう考えたとき。

 ぱしゃぱしゃと水音を立てて近づいてくるものがあった。
 もう戻ってきたのかと思った聖だったが、早すぎるという直感が体を動かし、音の方へと振り向かせていた。

「遅いですね」

 ぼそりと呟かれたときには、既になにかが自分の方へと向けられていた。
 しまったと思ったのも遅く、忍び寄ってきていた女は粘りつくような視線を向けてくる。
 小柄な体と綺麗に揃えられた長髪は、女の雰囲気には不釣合いなように思えた。

667End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:48 ID:4D5sJK1.0
 動揺しかけている頭をなんとか平常心に保ちつつ「何をした」と尋ねる。
 どうなっているのか分かっていない現状、こちらから手を出すわけにもいかない。
 女はそれを分かっているのか余裕を持った、見下すような視線を向けてくる。

「まあまあ、それよりもあなたの相方が帰って来るのを待ちませんか? その方が説明の手間が省けます」

 慇懃無礼とはまさにこのことか。穏やかで丁寧ながらも自らが場の支配者だとも言わんばかりの調子に、聖は不快感を覚える。
 また説明しないのはこちらに手を出させないためでもあるのだろう。敵は周到だ。
 厄介だなと内心に嘆息しながら構えを崩し、武器を外すと女は満足そうに頷いた。それがまた聖の心を逆撫でしたのだが。

「自己紹介くらいはいいかもしれませんね。わたしは宮沢有紀寧といいます。宜しくお願いしますね、一ノ瀬ことみさんの先生」
「盗み聞きとは良くない趣味だな。それと、私を気安く先生と呼ぶな。聖さんと呼べ。ちなみに名字は霧島だ」
「わたしは臆病なものですから、すみませんね霧島さん」

 あくまでもこちらの優位に立つように会話する有紀寧に、聖は己の迂闊さを呪う。
 内部に誰かが潜んでいるというのを全く考慮していなかった。
 村から少し離れた場所だから誰もいないと高をくくっていたのかもしれない。

 何にせよ、この女は危険だ。どうにかしてことみに連絡できればいいのだが……
 有紀寧の口ぶりからするとことみの存在は知っているものの接触はしなかったようだ。
 何故ことみではなく自分を狙ったのか。

 何らかの罠に嵌められたのは確実だが、工場内部に潜んでいたのなら入っていったことみを狙うのが筋だろう。
 とは言うものの、ことみが標的にされなくてホッとしているのも事実だ。
 大人として、保護者として、ことみを殺させるわけにはいかない。そんな仕事すら満足に出来ない大人であってたまるか。
 堅く決意を握り締め、聖は探りを入れる。

「どうして私を狙った」

668End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:15 ID:4D5sJK1.0
 予測の範疇で言うなら、ある程度察しはつく。自分の方が強いからだ。聖はそう考える。
 殺さない、ということはすなわち生きているという事実を人質にするようなもの。
 肉体の強弱の面で言うならことみと自分では、明らかに自分の方が上だ。ことみを人質にしたとしよう。
 その場合自分が反抗するのと、自分を人質に取ったとして、ことみが反抗する場合とではどちらが成功率が高いか。
 決まっている。強い方が単純に考えて成功率が高いはずだ。だから有紀寧は自分を人質にしたのだ。

「そうですね……まあ、あなたの方が都合がいいからということにしておきますよ」
「適当に狙ったのではないわけだ」
「言ったでしょう? わたしは臆病な人間ですと」

 言外に慎重かつ油断も隙も見せないと語る有紀寧に、聖は言葉では崩せないと確信を得る。
 我知らず舌打ちが鳴り、焦ってきていることも聖は自覚する。初めての敵がこうも狡猾な相手だとは。
 もう少しまともな相手を寄越してくれてもいいんじゃありませんか神様?

 返す言葉を失った聖は、いっそ暴れて異変を知らせてやろうかとも思ったが、
 有紀寧の片手が不自然にポケットに入っているのを見てやはりダメだ、と考えを打ち消す。
 有紀寧にとって一番避けたいのは何らかの効力があるスイッチを奪取されることだろう。
 にもかかわらず両手で保持することなく片手に持っているだけで矛先を向けようともしない。

 となればポケットの中には自分の動きを封じるものがあるのだろうと聖は予測する。
 催涙弾か、閃光弾か、唐辛子スプレーでもいい。とにかく不意討ちにもどうにかできる手段が、向こう側にはある。
 つくづく厄介だなと聖は苦渋の表情を浮かべつつも、さりとて妙案も浮かばず悪戯に時を消費するだけだった。

「先生ー! 取ってきたのー!」

 そうこうしているうちに、ことみが戻ってきてしまったらしい。
 大声を出すかと頭の中で考えた聖だが、有紀寧の冷たい視線がそれを阻んだ。
 不審な挙動を見せればまずことみを狙う。その意味を含んだ視線が工場内部に向けられ、結局口をつぐむしかなかった。
 おまけに有紀寧は工場外部の壁にもたれかかっている――つまり、ことみからは見えない位置にいるため彼女は気付きようもない。
 ことみが外に出てきた……それを見計らったかのように、有紀寧が冷笑を浮かべながらことみの横へ並んだ。

669End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:31 ID:4D5sJK1.0
「お疲れ様です。ですが……そこまでです」
「!?」

 突然かかってきた声に動揺し、抱えていたポンプとタンクを取り落とすことみ。
 有紀寧は努めて冷静に、かつ迅速にポケットから抜いた拳銃をことみへと突きつけていた。
 今撃つつもりがないのが分かっていても、見た瞬間聖は「やめろ!」と絶叫する。

 ちらりとこちらを一瞥した有紀寧は、ふん、と裂けるような笑みを寄越すだけだった。
 ことみの不安げな瞳が揺れ、聖の方へと向けられた。「先生……」と呟かれた声に、後悔がさざ波のように押し寄せる。
 やはり我が身など省みず、命を捨ててでも有紀寧をどうにかしておけばよかったのではないのか。
 何故自分はいつも、流されることしか出来ない……

 もう一度絶叫したくなった聖だが、それだけはするまいと断じる心が声を喉元で食い止める。
 叫び散らしてもどうにもならない。大人としての役割を果たせと鋼の意思で感情を押さえつけ、
 今度は落ち着きを取り戻した声で「やめろ」と通告する。
 聖の中にある何かを感じ取ったらしい有紀寧は僅かに眉根を寄せると、ことみから少し離れる。

「そうですね。少し乱暴過ぎました。ごめんなさいね、一ノ瀬ことみさん」
「……どうして、私の名前を」
「同じ学校の有名人じゃないですか。あ、わたしは宮沢有紀寧と申します。どうぞよろしく」

 まるで日常の中で挨拶をするように、拳銃を向けながら、にこやかに有紀寧は語る。
 いや違う。この女は日常を取り込んでいる。日常と狂気を一体化させた『普通の女学生』。そう表現するのが正しいように思えた。

「さて、と。早速ですけど一ノ瀬さんにはどんなことになっているのか説明しなければいけませんね。
 あ、霧島さんもですが、あまり動くと寿命を縮めることになりますので」

 右手に拳銃を、左手にスイッチを構えながら有紀寧は油断なく聖とことみの様子を窺っている。
 元々二対一を想定しての行動だったのだろう。だがそんなことは聖にはどうでもよかった。
 とにかくことみにだけは手を出させない。その一事だけを考える。
 聖のそんな思いなどつゆ知らず、有紀寧は話を聞く体勢に入ったと見たらしく、語りの続きを始めた。

670End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:48 ID:4D5sJK1.0
「まず霧島さんですが……先程押したのは首輪にある爆弾の起動スイッチです。12時間後には爆発しますね。
 赤く点滅を繰り返していると思うので、一ノ瀬さんならすぐに分かると思いますが?」
「本当か?」
「……うん。その人の言うとおり、点滅してる」

 言い慣れた調子といい、間違いなく効力はある。それに有紀寧は幾度となくこれを使用してきたということだ。
 一体何人がこの女の犠牲になったのだろうと鈍く突き上げる怒りを感じながら、「それで?」と続きを促す。

「大体わたしの言いたいことは分かると思いますが、あなた方には何人か殺してきてもらいたいんです。
 そうですね……まずは五人ほど、でしょうか」

 やはりか。薄々感じていたとはいえ、口にして出されると虫唾が走る。
 あまりに馬鹿馬鹿しすぎてため息しか出てこないほどだ。

 ああ、やはり早々に張り倒しておけばよかった。こんな馬鹿の茶番劇にことみを付き合わせることもなかっただろうに。
 殺せと命じた有紀寧の声に慄き、こちらを見たことみに対して聖は「気にするな」と微笑を浮かべた。
 こんな輩に惑わされることはない。ことみはことみのやりたいことをやればいい。
 自分はその手助けをするまでだ。思ったより落ち着いている心の内に驚きつつも聖はゆっくりと歩き出した。

「……勝手に動いていいとは言っていませんが」
「冗談もほどほどにしろ。私は医者だ。貴様ごときのために人殺しの看板を掲げてたまるか」
「一ノ瀬さんがどうなっても――」

 不快げに口を尖らせ、銃口をことみの方へ向かせかけた瞬間を狙い、聖はポケットからさっと日本酒を取り出す。
 フタを強引に開けると同時にブーメランよろしく投げられた酒瓶は、中身の液体を撒き散らしながら有紀寧へと向かった。
 正確に顔面へと投げられた酒瓶は咄嗟に身を反らした有紀寧には当たらなかったものの中身が思い切り顔面へと当たる。

「っ!?」

671End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:19 ID:4D5sJK1.0
 雨のせいで無色透明の液体が見えづらかったのもあり、有紀寧はモロにそれを浴びる。
 ひるんだところに聖が体当たりしてきた。圧された有紀寧と突進した聖は絡まりあうようにして地面を転がる。
 しばらくして二人の動きが止まる。有紀寧が下、聖が上をとる形で膠着していた。

「く……! あなた、命が惜しくないんですか!」

 銃口をこちらの方へ向けようとするがそうは問屋が下ろさない。聖は片手で拳銃の先を掴んでギリギリ急所から外す。
 スイッチを持つ腕もしっかり押さえる。
 とは言っても首輪が爆発したところで有紀寧にも被害が及ぶだろうから、そんなに気にしているわけではなかったのだが。

「そちらこそ観念したらどうだ。大人しく私に半殺しにされて治療を待ってみる気はないか」
「人を殺すだけの度胸もない大人が、なにをいけしゃあしゃあと……」

 先程まであった冷笑は底暗い闇を持った、蔑む嘲笑へと変わっていた。
 ただ有紀寧の瞳は何をも捉えてはいない。嗤っているのは自分さえも含めた世界の全て。
 人が人を殺すことを許容する環境、その中でしか生きられない有紀寧、そして聖たちをも無駄だと嗤っていた。

「わたしは生きて帰らなきゃいけないんです。そのためならなんだってする。なんだってしなきゃいけない。
 死んでも死に切れない理由があるんですよ。それをやれ医者だからやれ殺したくないからと曖昧な理由で濁して、
 逃げ続けているあなた達のような人がどうして生きているんですか。こんな人たちが生きているくらいなら、どうして……」

 不意に有紀寧の瞳に人間を思わせる光が差し込み、聖をハッとさせた。
 泣いているのかと思った直後、無理矢理に有紀寧が発砲し、聖の肩を貫いた。
 一瞬気を緩めてしまったせいだった。仰け反った聖を体ごと押し返し、有紀寧は拘束から逃れた。

「先生!」

 駆け寄ってきたことみに支えられながら、聖は既にこちらから離れ、無表情に銃口を向ける有紀寧の姿を仰ぎ見た。
 人間を感じさせた瞳はもう失われ、人を殺すという選択肢しか選べなくなったひとの悲しさがありありと映し出されていた。

672End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:35 ID:4D5sJK1.0
「やらなければやられる。弱ければ殺される。それがこの世界の掟です」
「……なら、弱いのはお前だよ」

 減らず口と受け取ったのだろう。ぴくりと指が動きかけ、ギリギリで押し留めるようにして有紀寧は息を吐いた。
 有紀寧は反論しようとしたが、その前に聖が言葉を叩きつける。そうしなければいけないという思いがあった。
 主張しなくてはならない。断固として膝を折ってはならない。餓鬼の我侭を修正してやらなければならなかった。

「君は結局この状況、この島の雰囲気に呑まれ押し潰されただけだ。
 望んでいたものはあっただろうに、もう遅いんだと諦めたつもりになって……
 子供のくせに、分かりきったような顔をして。小賢しいな、宮沢有紀寧」
「賢しくて悪いですか」

 言い返す有紀寧の語調は感情が滲み出ていた。子供と揶揄されたのが気に入らなかったのだろうか。
 有紀寧がどんなことを思っているのか知ったこっちゃない。自分と同じ立場であろうとするのが気に入らないだけだ。
 は、と聖は笑った。

「君の言葉、そっくりそのまま返すよ。どうして生きている。たくさんの人を犠牲にしてまで、それだけの価値があるのか」
「……ありますよ。そうしてわたしは生きているのですから」
「はっ、どうだろうな。君の本性を知らないまま死んでいった人もいるだろうに。
 君が未来を望めると思って殉じた人もいるはずなのに。
 そうしなきゃ生きられないと諦めた末の選択に身を任せた人間のために死んでいったとは、浮かばれんな。
 無価値だ。断言してやる。君のために死んだ人間は全員無価値だ。
 君には何もない。人間の価値を蔑ろにした君が分かったような風になって――」
「――黙れ。何も知らない癖に!」

 冷笑も蔑みも嘲笑も吹き飛ばし、怒り一色に染まった有紀寧の声と銃声が重なる。
 感情に任せて発砲された銃弾が聖の体を抉り、貫き、焼けた鉄の棒で神経を抉られる感触を味わう。
 ことみの悲鳴が耳元で弾ける。幸いにしてことみに被害はなかったようだ。

673End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:52 ID:4D5sJK1.0
 ならば、いい。済まないと囁き、ことみを振り払って聖は立ち上がる。
 ことみよりも、目の前の我侭な子供を優先しようとしている。会って間もない敵の方を優先している。
 顰蹙どころの話ではない。佳乃にだって大ブーイングだろう。
 でも、これが性分なんだと聖は苦笑する。情けない奴には張り手を。霧島家の方針だ。そうして強く育ってきたのだ。

「来ないで下さい。近づけば爆破します」

 苦渋を呑んだ有紀寧がスイッチを向けていた。
 明らかに聖の雰囲気に呑まれ、動揺しているのが分かった。
 何故感情を出してしまったのかという後悔さえ窺えた。

 聖はそれに対してさえ軽い苛立ちを覚える。この期に及んでまだ大人を気取ろうとする。
 若いくせに。全くいい加減にして欲しいものだと憤懣たる思いを抱きながら聖は歩く。
 懺悔させてやる。懺悔して、地を這いつくばってごめんなさいと言わせてやる。
 けれども血を垂れ流しながら進む聖に、縋るように掴む手があった。

「先生……!」

 ことみが泣きそうな表情をしていた。自分でもどうしてこんなことをしているのか分かっていないような表情だった。
 聖のやろうとしていること、決意が正しいものだと知りながらも身体が拒否してしまったのだろうか。
 有紀寧とは大違いだ。聖はことみから目を反らし、有紀寧の方を見据えながら言った。

「やりたいことをやればいい。私が言えることはそれしかない。
 目指すものを変えてもいい。望まれる道を進むのもいい。
 だが人生を腐らせるな。悪戯に思いだけを持て余すな。資格を失ってからじゃ、遅いんだ」

 我ながら説教臭いと聖は失笑する。それに説得力もない。
 けれども、自分は神様ではないのだと知っている。言葉に出してでしか思いを伝える術を持たないのを知っている。
 分かってくれ、じゃない。分からせなければいけない。努力を怠り、放棄してしまった瞬間に人間は堕ちてしまう。
 宮沢有紀寧のように。

674End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:55:08 ID:4D5sJK1.0
 掴まれた服がゆっくりと放された。その感触を聖は確かめ、再び有紀寧へと歩き出す。
 血はとめどなく流れ、時折意識が朦朧とする。存外血が足りていないらしい。
 不規則な生活を送っていたからかな、と自分でも訳のわからないことを考える。
 そんなどうでもいいことを考えられる程に頭の中が透き通っていた。或いはひどく恬淡とした顔なのだろう。

「止まりなさい。止まらないと……」
「やってみろ」

 獣の唸るような低い声に有紀寧が意識を浮かせる。刹那の恐れを聖は見逃さなかった。
 怯んだ有紀寧に対して聖が駆ける。間は僅かに数メートル。この至近距離で爆発させれば有紀寧も無事では済まない。
 聖は死ぬ気などない。それよりも有紀寧への腹立たしさが先立っていただけのことだった。
 自分も巻き込まれると気付いた有紀寧は咄嗟に拳銃を構える。

「あまりわたしを舐めないでください」

 声はゾッとするほど無味乾燥であった。
 動じていない……? 聖の疑問はすぐに解決されることになった。
 拳が有紀寧の顔面に届く寸前、至近距離から狙って発射された銃弾が霧島聖の体を断ち切った。
 聞き分けがないとは思っていたが、どうやら予想以上に人の話を聞く奴ではなかったようだ。

 悔しいな。聖の頭に浮かんだのはその一語だった。
 妹の姿、ことみの姿、出会っていった人々の姿が現れては消え、死の悲しさと恐怖を伝える。
 こんなにも死ぬ事が怖い。もう生きていくことが出来ないのがあまりにも辛すぎる。

 でも、と聖は思う。
 だから自分が死にたくないとは思わず、死のつらさを教えて回りたいと思ったことは、やはり己が大人だからだろうか。
 もうそれも出来なくなってしまったが――ああ、それが、一番辛いな。
 ことみにもうこれも教えられない。聖は初めて無念という感情を覚え……意識を暗転させていった。

     *     *     *

675End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:55:45 ID:4D5sJK1.0
 ぐらりと聖の体が傾き、くず折れる。「分からず屋め……」と呻いたのを最後に前のめりになるようにして動かなくなった。
 何が諦めたつもりになって、だ。何が無意味だ。おこがましい。大人気取りの偽善者が。
 罵詈雑言が次々と浮かんでは聖へと叩き付けられる。鬱憤晴らしをするかのように、有紀寧はさらに発砲した。

 頭蓋骨が割れ、脳漿の一部が飛び出す。罅の入った西瓜を棒で突く感覚だった。
 銃弾が尽き、コルトパイソンがカチリと弾切れの音を立てる。
 スイッチを一回分無駄にしたと有紀寧はもう一度腹を立て、残る一ノ瀬ことみの姿を探した。

「逃げましたか……」

 聖とやりとりをしている間も体を震えさせていたことから考えれば当然の結果とも言える。
 変な意地のお陰で千載一遇の好機を逃した。その上悪戯に武器弾薬を消費してしまったことを思えば優勝は遠のいたに違いない。
 そういう意味では聖は一糸報いたといってもいい。こちらからすればとんでもない損失だが。
 聖の遺体を嬲り尽くしたい気分になった有紀寧だが、こんな奴に構っている暇はないと、コルトパイソンに銃弾を再装填する。

 どうも心にはさざ波が立っている。理由は言わずもがな、聖のせいだとは分かっているもののもうどうする術も持たない。
 寧ろ何を苛立っているという疑問が渦巻き、落ち着かせようと必死になっているのが信じられない。
 聖に言われたことは確かに事実を含んだ部分もある。

 しかしその程度で動じるような人間だっただろうか、と有紀寧は脆弱になったらしい己を眺め、失望せずにはいられない。
 いや状況が若干不利に傾き、焦っているだけだ。また優位に立てばこのさざ波も収まる。
 無理矢理そう結論した有紀寧がシリンダーを戻し、また歩き出す。

「っ!? あぐっ!」

 が、転ぶ。いや転ぶ以前に発した破裂音と同時に鋭い痛みが走り、立てなくなっていた。
 地面に体を打ちつけながら、有紀寧は自分がどうなっているのか確認する。
 見ると、太腿の付け根から血が出ていた。鉛筆ほどの太さの穴も開いている。
 撃たれたのだ、と認識した瞬間、殺されるという恐怖が駆け巡り、寝ていては殺されると体を引き摺り、這うようにして逃げる。

676End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:03 ID:4D5sJK1.0
「……まだ、逃げるんだ」

 そんな有紀寧の後ろから、低く搾り出された声が聞こえた。

「……あなたですか」

 聞き覚えのある声に有紀寧は失笑する。相手にではない。自分に対してだった。
 言葉を交わす意味も価値もない。そう断じた有紀寧は転がってコルトパイソンを撃とうとしたが、遅かった。
 既に見切っていたらしい相手は半ば乱射気味ながらも有紀寧が撃つ前に撃ちこみ、
 肩や腕に直撃させ、有紀寧の戦闘能力の一切を奪った。

 コルトパイソンは手から零れ落ち、腕も満足に動かなくなる。
 特に鍛えているわけでもないから当たり前か、と冷めた感想を抱きながら有紀寧はまだ力の残る腕でスイッチを握り締める。
 わたしの守り神。最後まで手放すものか。強く思いながら、有紀寧は発砲した敵へと向けて言葉を放った。

「ひどい、ですね……半殺しなんて」
「……先生を……殺した、くせに」

 怒りを押し殺した声は一ノ瀬ことみのものだった。彼女は上から、有紀寧を見下ろしていた。
 動かした視線の先では長い銃を構え、半泣きの表情で、しかししっかりとした立ち振る舞いをしている。
 逃げたと思ったら、違ったというわけだ。逃げたのではなく、射程外から狙撃するために距離をとった。
 霧島聖を犠牲にして。やってくれる、と有紀寧は改めて聖を憎んだ。本当に、一矢報いてくれた。

「本当は許せない。あなたみたいなわるものを絶対に許したくない。でも、殺さないの。私は先生の弟子だから」
「……偽善者風情が……は、わたしを殺したも同じでしょうに」
「もう生きるつもりもないんだ」

677End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:19 ID:4D5sJK1.0
 カチン、と来た。こいつもまた、自分を見下そうとするのか。子供だと、餓鬼の我侭だと言い通して。
 わたしはこうせざるを得なかった。こうするしかなかった。
 結果的に酷いことをしてきたとはいえ、最初から望んでやったことじゃない。
 戻るためには生き延びる必要があった。生きなければならなかった。それに強い武器も手に入れた。
 だったら、悪魔の言葉にだって耳を傾けてしまうのが人間。そうではないのか。

「わたしだって死にたくないですよ。死にたくない。生きて帰りたい。そのために何だってすることの、何が悪いんですか」
「だからって、生きるためにはしょうがない、こうするしかないって、他の全部を犠牲にしてもいいの?
 ……自分でさえも。先生の言葉に怒ったってことは、図星な部分があったってことなの。
 本当はこんなことしたくなかった。したとしても、犠牲にしたくないものもあった。……あなたは分かってたはずなのに」
「……何を言うかと思えば……」

 敵対的な口調は崩さないながらも、否定しきることはできなかった。普段なら嘘を吐いてでも反論するはずなのに。
 それともことみの言うとおり、もう生きるつもりもないからなのだろうか。『また』諦めているからなのだろうか。
 分からない。ただ、自分に勝機がないのは事実だった。こんな有様で、スイッチを使おうにもその前に攻撃される。
 しかも寝たきりであるため、下手すれば自分に起動してしまいかねない。まさに八方ふさがり。チェックメイトだ。

「自分さえも諦めて、他の人もみんな犠牲にして……もうあなたには何もない。自業自得なの。ごめんなさいって言えばいいの。
 そのまま謝って、謝って、後悔し続ければいいの」
「馬鹿にしないでください、泣き虫の癖に……わたしを語るな」

 そう。もう勝てはしない。四肢を奪われ、自由さえも奪われた自分はもう優勝なんてできない。
 諦めたといえば、そうなのだろう。だが優勝は出来なくとも、この小娘に勝利する方法はある。
 諦められない。散々馬鹿にしくさって、しかも間接的に妹の初音を侮辱したこと、それが許せない。

 無意味な死。そんなことがあるはずがない。初音は自分を信じて、こちらの勝利を信じて勝ちに行ったのだ。
 自分達は勝ち残れるのだと、諦めてはいないのだと本気で信じていたことだけは否定されてはならない。
 知らず知らずのうちに口元を歪めているのに、有紀寧自身もようやく気付く。

678End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:38 ID:4D5sJK1.0
 ああ、つまり、そういうことなのだろう。
 わたしは、結局、家族という亡霊に縛られていた。
 追いかけていたのでもない。知ろうとしていたわけでもない。

 取り返したかっただけだ。無理だと分かっても作り上げたかったのだ。
 偽物でも、紛い物でも、幻想でもなんでもいい。家族という懐の中で温まりたかった、それだけなのだ。
 ここで必死に作ろうとして、失敗して、だから帰ろうとしていた。……死にたくないのは、そのためだった。
 何ということはない。自分は人殺しじゃない。悪魔でもない。愚直に過ぎた。そういうことだ。

 ――だから、わたしは『家族』と出会える場所に行きます。ええ、だって、一番手っ取り早い方法ですから。

 無論、きっちりと落とし前はつけておく。一銭の釣りも残さない。綺麗に支払ってやる。

「あなた、なんか……苦しんで死んでしまえばいいんです……地獄で、待ってますよ」

 これは賭けだ。一度たりとも試したことのない賭け。だがやってみる価値はある。勝ちに行くのだ。
 初音が笑っている。流石お姉ちゃん、と。
 だから信じられる。信じてくれるひとがいるから、信じられる。
 有紀寧も笑った。笑って、有紀寧は――スイッチを押した。

     *     *     *

「っ、うぐ、あうっ……!」

 呻き声が自分のものだと分かるまでに、いくらかの時間を要した。
 それと一緒に、世界の半分が真っ黒に塗り潰されているのが分かった。
 いや違う。これは目を潰されたのだと理解する。右目は開いているのに、左目が開いていないのがその証拠だ。
 鈍痛がズキズキと目の奥から襲ってくることを考えれば、完全に失明したのだろう。

679End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:57:02 ID:4D5sJK1.0
 血を流し続ける顔を手で押さえながら、ことみは首から上が消失した宮沢有紀寧の姿を見ながら先刻起こったことを思い出す。
 何の前触れもなかった。恐らくはあらかじめそうなるように方向を定めておいたのだろう。だからスイッチを押すだけで良かった。
 少しでも不審な挙動を見せれば発砲しようとは警戒していたが、甘かった。まさか自爆するとは思いも寄らなかった。
 結果として爆心地の近くにいた自分は爆風と首輪、人体の破片の直撃に遭い、体の左半分に深刻な被害を受けた。

 いくら勝機がなくなったからといって……何とも言い表しがたい、不快な気分だった。同時に、空しさもあった。
 こうまでしてやることだったのか。命を捨ててまで成し得る価値のあるものだったのか。
 最後の最後、有紀寧は笑っていた。価値を見出したのか、蔑む笑みだったのか、もはや誰も知る術はない。
 ただ、聖を知っていることみからすれば、それはやはり理解しがたいものであることは間違いなかった。
 もし、やり直そうという気持ちを少しでも見せていたら……許せなくとも助けようとは思っていたのに。

 だって先生ならそうするから。私も、人が死ぬのを見たくはなかったから。
 今となっては、もうどうしようもないが……

 有紀寧からすれば、これも傲慢なのかもしれない。所詮人は自己満足の中でしか生きられないのだと。
 しかし、それでもとことみは思う。それでも人と共に過ごし、学んでいけるのもまた人間だ。
 自分は学んだ。聖から命を腐らせるなと学んだ。

 だから医者になる。聖が目指していたもの、理想としていたものに近づくために。
 聖が言ったことを伝えていくために。それが自分の夢だ。
 引いては、それが聖の想いも腐らせないことに繋がるだろうから……

 眼球に刺さっていた首輪の破片を抜く。ずるりという音と共に小さな破片が落ちた。
 ズキリとした痛みが生じたが、これが生きているという証だ。歩いていける証拠だ。
 体を引き摺りながら、ことみは一片の諦めもなく、次のための行動を始める――爆弾の材料を集める行動を。

680End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:57:21 ID:4D5sJK1.0
【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:H-8 廃工場前】


一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【状態:左目を失明。左半身に怪我】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【状態:死亡】

宮沢有紀寧
【所持品:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:死亡】


【その他:タンクとポンプは古錆びたトラクターの近く。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】


【残り 16人】
→B-10

681十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:49:49 ID:NaKun74s0

*** 1. -180sec.


 ―――今がその時だ。

直感した瞬間、蝉丸は駆け出している。
堪えに堪えたその鬱屈を爆発させるように、撥条と化したその全身が加速していく。
大きなストライドが稼ぐのは距離。消費するのは残り僅かの時間である。

視界の端には両断された槍使いの神像が映っている。
六体目を斃したという以上に、間合いの広い槍使いの像を落とした意義は大きい。
これで蝉丸と銀鱗の中心との間を遮るものは右、大剣の神像と左に位置する白翼の神像。
そして、紅の槍の森のみである。
踏み出す一歩が、勝利と敗北とを隔てる賽の目であった。
駆け出した以上、もはや止まることは許されない。
抱きかかえた砧夕霧は腕に重く、その口から微かに漏れる歌とも祈りともつかぬ声が耳朶を震わせる。
ほろほろと流れ落ちる涙の雫が時折胸に落ちて、じんわりと生温い。
最後の希望を抱いて、癒えぬ足で蝉丸が駆ける。
響くのは爆音と吹き荒ぶ風の音、閃くは剣戟の火花。
ただ一点の隙を縫うように、蝉丸が大地を蹴った。

682十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:50:22 ID:NaKun74s0

*** 2. -170sec.


「何故、諸君は抗う。如何に足掻こうと運命は変わらないというのに。
 何故、諸君は理解しようとしない。来るべき新世界を。
 私の創造する新たなる種が人を超えんとする、その意義を―――」

生み出した巨神像の内、六体までを落とされた長瀬源五郎が、その巨体を震わせて声を発する。
嘆くような声音が消えるのと同時、白翼の巨神像の手に光が宿る。
光は輝く弾となり、軽やかに振られたその優美な手から離れるや猛烈な加速で一直線に飛ぶ。
駆ける蝉丸を横合いから狙う軌道。
その身を直撃せんとする正確な狙撃に、しかし蝉丸は視線を向けようともしない。
無論、踏み出すその一歩を回避の為に動かすこともなかった。
吸い込まれるように迫る光弾を遮ったのは、一筋の剣閃である。
一瞬の後、二つに斬られた光弾が左右、遥かに離れた場所に着弾して爆ぜた。

「―――機械屋が天下国家を語るか」

絹の如き長髪が爆風に靡き、銀の波が空に流れた。
光弾を断ち割って刃毀れの一つもない白刃の銘を、麟という。
星無き夜に浮かぶ月のように立つ光岡悟とその愛刀が、続けて飛んだ光弾を真一文字に斬り捨てた。

「だが貴様の言う通り、新たな世は訪れる。それだけは認めてやろう」

神像が背の白翼を羽ばたかせると、吹き荒ぶ風がその音を変える。
きりきりと耳を劈くような高い音の中で、ただ荒れ狂っていただけの風が、
万物を切り裂く鋭い刃へと密度を上げていく。
不可視の斬撃が、飛んだ。
その先には光岡悟。蝉丸を護る堅固な砦を先に落とさんとする狙いだった。
僅かに口の端を上げた光岡が、脇構えから摺り上げるように一刀を振るう。
中空、素振りの如き一閃はしかし、凄まじい音と手応えとをもって己が狙いの違わぬことを光岡に伝えている。
風が、斬られていた。
幽かな音と気配と、そして極限まで研ぎ澄まされた勘とが揃って初めて可能となる神業である。
影花藤幻流皆伝、天賦の才と謳われた男の、それが実力であった。

「尤も……それを築くのは、九品仏閣下と我等だ。道を開けてもらおうか、犬飼の遺産」

傲岸と言い放つその瞳には、曇りなき明日が映っている。
応じるように、白翼の神像の周囲に無数の光弾が浮かび上がった。
横目で流し見た蝉丸の背中が遠く離れていくのに一つ小さく鼻を鳴らして、光岡が愛刀を正眼に構え直す。
爆ぜた光弾に炙られて焦げた臭いのする風が、銀色の長髪を揺らした。
嚆矢のように飛んだ一発を断ち割って、光岡が歩を踏み出す。
同時、光が、舞い飛んだ。
幼子が風に吹くシャボンの玉のように、無数の光弾が光岡に殺到し、そして爆ぜていく。
爆音と焦熱とを生み出す白光の嵐の中で、光岡悟が応と吼える。
吼えて、その身を刃と成す。
飛び来る光弾の悉くを斬り捨て、断ち割り、突き穿ち、射貫く、尋常ならざる剣捌き。
柄を握る拳から振るう腕、斬り下ろしかち上げ刺突し自在に変幻する体幹に、進み退り跳び駆ける脚。
最早それは人と刀とを分かつ境を越えている。
その閃光の中に煌くのは美しくも凄まじい、一振りの刃であった。
銀弧が、疾る。
機を窺い続けた蝉丸の、動くに動けぬ身を庇いながら十数分の長きを防戦に徹し、
迫る剛剣と降り注ぐ光弾とを一手に引き受けて遂に凌ぎきった恐るべき剣の冴えが、
今やすべての頚木から解き放たれ、舞い踊るが如く閃いている。
打ち続く白光の嵐の、その輝きさえ褪せるように、光岡悟は止まらない。

683十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:50:38 ID:NaKun74s0

*** 3. -140sec.


風を巻いて唸る大剣が、虚しく空を切る。
山をも断たんとする破壊の権化が再び振り上げられた瞬間、それを保持する細身の腕が、爆ぜた。
長い髪を編み込んだ女を模した巨神像、大剣を使う像が、ぐらりと揺れる。
重く響く爆音の中、舞い上がる煙を割って飛び出したのは少女とも見える年頃の影。
水瀬名雪である。

「人には夢がある。遥か古代から抱き続けてきた夢だ。
 文明を築き、自らの望む通りに世界を作り変える力を得た人類の、それは義務といってもいい。
 人はいつか、ヒトを超える。種としてのヒトを捨て、より高みへと至るのだ。
 遂に捉えたその影を、ようやく届いた扉の鍵を、何故諸君は放り捨てようとする―――」

詠嘆を含んで響く声を、名雪が鼻で笑う。

「化物の特売市の真ん中で、今更何の冗談だ?
 そうやって周りが見えないから、誰からも見放される」

手にした雪兎を空中に投げると、すらりと引き締まった右脚を振り上げる。
身を捻りながら放った脚が、落ちる雪兎をミート。
完璧なフォームのボレーシュートが、可愛らしい時限式の爆弾を撃ち出した。
回転をかけられた雪兎は質量と空気抵抗に従ってその軌道を変えていく。
鋭い弧を描きながら、吸い込まれるように巨神像の懐へと潜り込む。
一瞬の後、鈍い重低音。
腹の辺りから煙を上げて傾いだと見えた巨神像が、しかし大剣を地に着くようにして耐える。
舌打ちした名雪が小さな身振りで神像を指さすのと同時、背後に影の如く控えていた黒蛙がふわりと浮かぶ。
間髪いれず撃ち出されたのは黒雷である。
音もなく一直線に伸びる、光を吸い込むような漆黒の稲妻。
至近を迸る閃きに、名雪の長い髪が靡き、舞い上がる。
真っ直ぐに射出された黒雷が直撃したのは、耐える巨神像の顔面である。
着弾の衝撃と爆風が、辺りを薙ぎ払った。

「……ほぅ」

巻き上がった砂煙が、山頂を吹き荒ぶ風に払われる。
飛来する小さな石礫を避けるように腕を翳した名雪が、僅かに瞠目した。
その眼が写していたのは、黒雷の直撃で顔面の半分に罅を入れながらもなお倒れずに大剣を構える、
巨大な女神像の姿である。
瞬間、しぶといな、と口の中で呟いた名雪と、手にした剣を大きく振りかぶる巨神像の視線が、絡まった。
石造りの無機質な瞳。
だがそこに、傷ついてなお倒れず、何かを護ろうと剣を取る者の矜持を、名雪は見た。
それは巨像に彫り描かれた英雄の、魂の一片なりと宿ったものであっただろうか。
かつて共に時の螺旋を生き抜いた者たちと同じ色の瞳に、名雪が小さく笑う。
薄暗く乾いた、埃の積もったような笑み。
貌に老いを浮かべた名雪の動きが鈍ったのは、ほんの僅かの間である。
だがその隙を巨神像は見逃さない。
山をも崩す巨刃が、名雪を目掛けて横薙ぎに振るわれた。
大気を断ち割りながら迫る破壊の刃に名雪が舌打ち一つ、表情を引き締める。
瞬きをするよりも早く状況把握と局面打開の策定。
退いての回避には間に合わない。左右は論外。道は上空。
確実に繰り出される追撃を黒雷で阻止しつつの跳躍。
そこまでを思考し、背後の蛙が回避機動に合わせて準備を始めようとした、その刹那。
黒い弾丸が、巨神像の胸を一直線に引き裂いていた。

「柏木楓か……!」

振るわれる巨刃の勢いが、緩む。
力なく流れた切っ先を難なく躱しながら見据えた名雪の視線の先には、襤褸を纏った少女の姿。
肩口で切り揃えた黒い髪に、整った白皙の美貌。
ざくりと裂けた左眼と、細い指先から伸びる深紅の爪が異彩を放っている。
果たして隆山の鬼女、柏木楓その人であった。

684十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:51:28 ID:NaKun74s0

*** 4. -120sec.


「犬飼博士は堕落した。彼は所詮、世俗を捨てきれなかったのだ。
 覆製身研究の末に自らの伴侶を造り、そこに安寧を見出した。
 それは研究に対する裏切りだ。信念に対する冒涜だ。
 だが私は違う。私は、私だけは人類の未来を憂いていた―――」

残る二体の巨神像の脇を駆け抜けた蝉丸の耳朶を、不快な聲が震わせる。
地面から直接響くような聲は長瀬源五郎のものである。
駆ける蝉丸が踏み締めるのは大巨竜と化した長瀬の背であった。
頭なく顔なく口腔もない長瀬の聲は、微細に振動する巨大な身体そのものから発せられているようだった。
抑える術もなく、常軌を逸した科学者の一人語りが垂れ流されている。
耳元では抱きかかえた砧夕霧が、言葉ともつかぬ言葉を漏らしていた。
不快な聲と不可解な唄と、耳を覆いたくなるような音に挟まれて、しかし蝉丸の心は不動である。
ただ行く先に待つ目的地まで足を動かし続ける機械のように、黙々と走っていた。

「―――そして遂に到達したのだ。真理に。結論に。紛うことなき明日に。
 覆製身など愚の骨頂。いかに紛い物を増やそうと、ヒトの出来損ないでは人類を超え、
 新たな明日を築くことなど不可能だ。……だが!
 だが私なら、私と我が娘たちならば超えられるのだ、人類種の限界を!」

と、笑みをすら含んで高らかに響く長瀬の聲に誘われたように、それまで真一文字に引き結ばれていた
蝉丸の口が、静かに開く。

「欺瞞だな、長瀬」

告げた蝉丸の、踏み出す足に伝わってくる感触が変わる。
鉄張りの甲板のように硬質な響き。
巨竜の背に広がる銀色の湖。
無数の鱗に覆われた白銀の平原に、ようやくにして踏み込んだのだった。

「人を語りながら人を見下す。新たな世を語りながら其処に住まう者を見ない。
 貴様の言葉に表れるのは己の狭い了見よ」

歩を進ませじと待ち構えるのは紅く透き通った、硝子のような材質で構成された槍の如きものである。
露出した鉱石の結晶であるようにも、或いは血に染まる樹氷のようにも見えるそれが、
鋭い穂先を天に向けて無数に生えている。
夕霧を抱きかかえたまま片手で佩刀を抜き放った蝉丸が、薙ぐようにそれを振るう。
幾本かの槍が砕け散り、しかし奇怪なことに槍の欠片は中空でどろりと血飛沫の如くに丸く形を変えると、
銀色の地面に落ちて染みていく。
すると紅い染みから卵の孵るように、新たな槍が突き出してくるのだった。

「畢竟、貴様が抱くのは人類の夢などと大仰な代物ではあるまい。
 貴様は赦せぬのだ。己を認めぬ者どもが。儘ならぬ世の全てが」

身を捩って鋭い先端を避ける蝉丸の疾走が、その速度を緩める。
緩めてしかし歩を止めず、愛刀を握り込んだ。
構えは下段。
一瞬の後、蝉丸の足元から空を断って逆巻き、天へと昇るが如き一閃が奔る。
裂かれた風の断末魔か、高く儚げな音が響くと同時。
蝉丸の行く手に聳えていた槍の群れが、一斉に霧散した。
鳳の銘を打たれた一刀の、正しく焔を纏う霊鳥の遮るものを焼き尽くすが如き剣閃。
跋扈する魑魅魍魎を調伏せしめんとする、それが蝉丸の佩く刃の輝きである。

「それは思い描いた桃源郷の、己がみた夢の何故叶わぬと泣き喚く餓鬼の駄々よ。
 義無く理も無く、在るは唯、貴様の欲に過ぎぬ」

紅い樹氷の森の中、切り開かれた道を蝉丸が走る。
だが一面の血飛沫に覆われたような道がその行く手を平らかにしていたのは一瞬であった。

「……君に何が判る、戦争犯罪人の脱走兵」

憤りを露わにした聲が響くや、地響きを立てて槍が飛び出してくる。
四方を塞ぐように密集して生えた紅い槍の群れに、たたらを踏んだ蝉丸の姿が映っていた。
渋面に微かな焦燥を浮かべた蝉丸が、再び一刀を振りかざそうと構えた刹那。

『―――足を止めるな、坂神蝉丸』

685十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:51:39 ID:NaKun74s0
声なき声に視線を上げようとした蝉丸の至近を、何かが駆け抜けた。
その何かに音はない。
だが僅かに遅れて爆ぜた風が、その恐るべき疾さを誇示するように蝉丸の耳朶を震わせていた。
閃いたのは照りつける陽光を吸い込むような黒い光である。

「これは、水瀬の……!」
『要らん助勢だったか? まあ、こちらは少し手が空きそうでね』

遥か後方から黒雷を放った水瀬名雪の言葉に、蝉丸が短く答える。

『感謝する』

黒雷により再び切り開かれた道へ向けて、蝉丸が疾走を再開する。
しかしその足元では既に砕け散った紅い槍が再生を始めていた。
飛び散った欠片が地面に染み渡るや、新たな穂先が芽吹いてくる。
瞬く間に塞がれゆく道を見て舌打ちした蝉丸に、

『足を止めるなと言ったろう。助勢は一人じゃない』

名雪の声が伝わると同時、蝉丸の背後で硬質な音が響いた。

『振り返るな! 走れ!』

声に押されるように駆け出した蝉丸の脇を、今度は小さな影が追い越していく。
手負いとはいえ強化兵たる蝉丸を凌ぐ加速を見せた影は、その手に刀を提げている。
背に生えるのは美しい毛並みだろうか。
鬣とも見える長い髪を靡かせて獣とも人ともつかぬ影が刃を振るうと、何ほどもない一閃に
どれだけの威力が込められていたものか、芽吹きかけていた紅い槍がまとめて砕け散った。
と、同胞を砕かれた報復のように左右から鋭い穂先が影へと迫る。
同時に迫る槍に、白い影はしかし身を躱さない。
右から伸びる一本を振り抜いた刀を戻しつつ引き斬り、空いた身を貫かんと左から迫るもう一本へは、
何と拳を振るったものである。
振るわれた拳は、白一色の身から抜いた色を集めて染め上げたが如き漆黒。
堅牢な鎧の如き皮膚に包まれた拳が、その身に傷一つ付けることを赦さず紅い槍を粉砕する。
白銀の髪が、紅い雫を振り払うように流れた。

「その力、川澄舞……か。礼を言う」

告げた蝉丸に、白い影は答えない。
ただちらりと振り向いて、一つ頷いた。
駆ける蝉丸の視界から、その身が消える。
背後で響き渡る硬質な音の連続だけが、その存在を示していた。

686十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:52:05 ID:NaKun74s0

*** 5. -60sec.


既に蝉丸の行く手はその半ばを過ぎている。
残る銀の平原に生える槍の群れは、しかし健在。

「閉塞し、腐敗し、磨耗しきった末世を、だが私ならば超えられる。
 築けるのだ、新たなる秩序を、瑕疵なき世を、永遠の平穏と繁栄を。
 必滅の定めを越え、死と腐敗と衰亡の恐怖を克服し、人は今、ようやく神の呪縛から解き放たれようとしているのだ!」

響く聲に同調するように、地面が震えている。
右手から突き出てきた紅い槍を斬り割って、蝉丸が叫び返す。

「次は神を持ち出すか! それが貴様の了見だと言っている!」

砕けた紅い石の欠片が散って、一滴が蝉丸の抱いた夕霧の頬に飛ぶ。
飛んだ雫が、たらりと血の涙のように垂れ落ちた。
垂れた雫を痩せた蛞蝓のような薄い舌が嘗め取って、こくりと飲み込む。
嚥下するように喉が動いた途端、夕霧の口から漏れる唄がその声量を増した。
詞は言葉の体を成していない。
祈りの色も、最早なかった。
慟哭と呪詛と、歓喜と絶叫と、愉悦と苦痛と、およそ人に内在するありとあらゆる種類の感情を、
跳ねるように、躍るように、掴むように、掻き毟るように、それは謳っていた。

「貴様は人の子よ! 貴様の造る物たちが死を越えて新たな世を築くというのなら、
 其処に貴様の居場所などあるものか!」

空と大地とを覆い包んで響く歌声が、蝉丸の背に重い。
振り払うように叫んで歩を進める。

「……! 黙るがいい、脱走兵!」

生きるように、生き終わるように響く歌声に衝き動かされるが如く、長瀬の聲が跳ね上がる。
地響きは既に、常人であれば立つことすら儘ならぬ域に達していた。

「私は既に人機の境界を越えた、定命などとうに超越した!
 私こそが父だ、娘たちを教え導く者だ! 娘たちの在る限り、私は必要とされているのだ!」

憤りに呼応するように、地響きを割って紅い槍の群れが飛び出してくる。
その数は尋常ではない。
隙間なく敷き詰められた槍衾は天高くまで伸び、しかし先端で奇妙に捻じ曲がってその穂先を蝉丸へと向けている。
大気を押し潰すような歌声と、大地を砕く地響きと、耳を劈くような長瀬の聲に押されるように、
見渡す限りの薄く透き通った紅い槍の群れが倒れ込んでくる。
躱すことを許さぬ、それは正しく全天から降り注ぐ槍の雨であった。

「そうして言い訳を重ねて! 見捨てられるがそれほど怖いか!」

肌を刺す歌声の中、槍の雨に貫かれてその生を終えた久瀬少年の顔が浮かぶ。
彼の率いた三万の兵は既になく、成れの果てたる巨竜だけが残っていた。
打ち棄てられた者たちの、屈せず立ち抗う戦の残滓が、それだった。
廃物の山に立つ少年の意志を踏み躙るように、長瀬源五郎がそこにいた。

「認めさせようというのだ、偉業を!」
「矮小を恥じもせず……!」

降り注ぐ槍の悉くを断ち切らんと、蝉丸が一刀を構える。
腕の中の夕霧が身悶えするのを、強く抱きなおした。
叫ぶような歌声が、びりびりと耳を打つ。
極限まで研ぎ澄ませた神経が、初太刀を抜き放つ刻限を正確に捉える。
一刀、蒙きを啓かんと閃く、その刹那。

『妄想も大概―――、』
『ウザいっての―――!』

響く声、二つ。
声なき声が響き、同時に音が消えた。
否、消えたのは音ばかりではない。
蝉丸の眼前、降り注がんとする無数の紅い槍の津波を、何かが奔り抜けた。
それは光でもなく、刃でも弾でもない。風でもなければ、実態のある何かでは、なかった。
触れられぬ何か。触れられず、目に映すことも叶わない何かとしかいいようのないものが、槍の海を薙いだ。
ただ一つだけ確かなのは、その存在であった。
何となれば、その不可視不可触の何かが薙いだ紅い槍の森が、忽然と消し飛んでいたのである。
狐狸に化かされたような光景を、蝉丸の脳がようやく認識した途端、世界に音が戻ってきた。
響き渡る唄と、透き通る鉱石の槍が砕け散る硬質な音。
そして眼前、開けた道を吹き抜ける風の音である。

『精々走れよ、軍人。私らのためにさ』
『もう時間がありません。……終わらせるのでしょう?』

遥か遠く、距離を越えて声なき声が聞こえてくるよりも早く、蝉丸は駆け出している。
目指す場所、銀の平原の中心までは既に程近い。
天沢郁未と鹿沼葉子が不可視の力をもって破壊した槍の津波の残骸を踏み越えて、
蝉丸が最後の加速に入ろうとしていた。

687十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:52:27 ID:NaKun74s0

*** 6. -30sec.


「誰も彼も、私一人の邪魔ばかり―――!」

長瀬源五郎の叫び散らすような聲が大気を震わせる。
蟲の羽音のように不快を催させるその聲からは、常ならず余裕と冷静さが失われていた。

「何故だ! 何故判らん! 何故認めん! 何故君たちはそうも愚かしい!
 完全なるものが、私の真の娘が、これから生まれるのだ! 真なる私の手から!
 それを奪うのか! 明日を! 私の娘たちの未来を!」

憤りを通り越し、半ば哀願に近いその言葉を聞いて、駆ける蝉丸の表情が、変わった。
浮かべたのは、紛うことなき激怒の色である。

「―――取り込んで、虐げて、何の父か!」

言い放った蝉丸の脳裏に浮かぶのは長瀬の胸に刻まれた、慟哭と絶望の貌だった。
苦痛の末の死に顔を写し取ったようなそれを、長瀬は娘と称していた。
そこに父娘の触れ合いなど存在しない。
夕霧を取り込もうとしたときの、その想いを雑音と片付けた長瀬の薄笑いに、情愛などありはしない。
否、あってはならなかった。
それを情愛と呼ぶ者を赦さずに生きてきたのが、坂神蝉丸であった。
燃え上がったのは、澄みきった怒りである。
平穏と情愛とを思うとき蠢く、自らの奥底の膿に棲む黒い蟲に刀を突き立てて、
蝉丸は憤怒の炎に刃を翳す。

「久遠の時が、私には与えられた! 至るのだ、高みに! 私は! 私の娘たちは!」

絶叫した長瀬に応えるように、残る槍の森がその姿を変えていく。
瞬く間に集まり、捩れ、縒り合わさって一つの形を取ろうとする。
最早、蝉丸の左右に、或いは背後に槍はない。
すべての槍を使い果たすかのように、そのすべてで蝉丸ただ一人を穿ち貫くように、
遂に完成したその姿は、純粋な凶器。
それは、ただ一振りの、巨大な槍である。
穂先は一つ。否、それは単に、縒り合わさった槍たちの先端が鋭く尖っているに過ぎない。
槍と呼ぶのもおこがましい、それは山をも穿つ、ただの刃であった。
数千数万の紅い槍を捻り捏ねて作り出された、巨大な刃。
それが、蝉丸と銀の平原の中心とを隔てる、最後の壁であった。

「誰も! 私を! 拒めるものか!」

死ね、という、それは意思の具現。
殺意という、凶器。
迎え撃つ蝉丸に、返す言葉はない。
ただ駆けながら、一刀を構えた。
心に燃える炎が刀身に映るように、その刃が輝きを増していく。
焔が、蝉丸の内に湧き出る膿を炙り、燃やす。
毒虫の飛ぶ密林の泥濘を、陽炎立つ砂塵の丘陵を、住む者とてない瓦礫の街を焼き尽くしていく。
それは、坂神蝉丸という男が、兵であることを越え、ただ一つの希望として戦場にはためく
古びた旗であろうとするときに燃え上がり、輝く光である。
幾多の絶望の中で埃と諦念と郷愁とに塗れた兵たちの見上げた光が、そこにあった。
光が、刃を振るう。

「永劫届かぬ迷妄を抱いて朽ち果てろ、長瀬源五郎―――!」

迸る焔が、巨槍を呑む。
光の中、砕けることも、地に落ちることも赦されず、灰となり塵となって、
紅い槍の群れが、消えていく。

後には何も、残らなかった。

688十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:53:13 ID:NaKun74s0

*** 7. -10sec


吹く風すらもが燃え尽きたように止まった蒼穹の下、ただ砧夕霧の唄だけが響いている。
最早、遮るものはない。
遂に開けた最後の道へと、蝉丸が地を蹴った。

距離は数十歩。
目印など何もない。
だが、分かる。
そこには力が満ちている。
満ちた力が夕霧を導くように、或いは夕霧の求めに応えるように、その場所が呼んでいる。

走る。
時が満ちようとしていた。

駆ける。
ほんの数秒。
僅かに、勝った。

踏み出す。
夕霧を抱いた腕に、力を込めた。
その、刹那。

「―――届かないのは、君たちだ」

聲が、哂った。

止まらない疾走の中で、蝉丸の目が、何かを映していた。
正面、遥か遠く。
方角は西。
背後には雲ひとつない晴天を従えて、何かが立っている。
瓦礫。
崩れ落ちた、二刀の像。
その瓦礫の中。
小さな、小さな影が、立っていた。
つがいの、童子。
二人の童子の手に、一杯に引き絞られた弓。
鋭い、鏃が、見えた。

坂神蝉丸が、砧夕霧を庇うように身を投げ出したのは、半ば本能のなせる業である。
ほんの一瞬、間を置いて。
その背を二本の矢が、穿った。

疾走が、止まった。

689十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:54:54 ID:NaKun74s0

【時間:2日目 AM 11:59:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重傷】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

柏木楓
 【所持品:なし】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体3700体相当】
【カルラ・フィギュアヘッド:中破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:中破】
【ドリィ・フィギュアヘッド:健在】
【グラァ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 1053 1055 1056 ルートD-5

690十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:06:46 ID:rS0OI3w60
 
助けてと呼ぶ声は、いつだってか細くて。
だから、幸せに笑う誰かには届かない。

しあわせになりたいと願う、小さな祈りは。
だから儚く、消えていく。

願いはどこにも届かない。
想いのひとつも叶わない。

なら、だとすれば。
たとえばその声を聞いた私に、何ができるのだろう。

私の願いは届かない。
私の想いは叶わない。

私はもう、救われない。
助けてと呼ぶ声は、だからもう、救われない。
救われず、報われず、続き続けてしあわせから遠ざかっていく。
だからいつか、助けてと呼ぶ声は、ひとつの哀願に変わっていくのだ。

―――終わらせて、と。

私にできること。
助けてと呼ぶ声の聞こえる、救われない私にできる、たったひとつのこと。
救うということ。願うということ。祈るということ。

それは。
いつまでも、どこまでも続く、救われず在り続ける生を。
終わらせると、いうこと。


******

691十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:13 ID:rS0OI3w60
 
大気とは星の加護である。
加護の与えられぬ空の彼方、高度約三万六千キロメートルは、十数時間ごとに灼熱の地獄と化す。
摂氏百度を優に越すその空間には無数の金属片が散乱していた。
被覆を剥がれた剥き出しの部位を輻射熱に直接炙られて赤熱するそれらは元来、寄り集って
ある一つの構造物を成していたものである。
何か強い力によって破壊され、周囲の宙域一帯に飛散した残骸の量を見れば、その構造物が
全長と質量と、その両方において非常識なまでの威容を誇っていたことが推測できる。
大気から解き放たれてなお惑星の重力の軛に絡め取られる宇宙空間、高度約三万六千キロメートル。
静止軌道と呼ばれるその宙域に存在する、巨大な構造物の名を、天照。
汎攻撃衛星、天照という。

しかし科学の水準を無視して存在した鋼鉄の城砦も、今や風前の灯といった体であった。
散らばった残骸の中心にあるその構造体はあらゆる部位が傷つき、或いは破壊されて黒煙を漂わせている。
宙域の皇として君臨したかつての威容は見る影もなかった。
無数の砲塔に明滅していた光点も、既に残り少ない。

と、数少ない光点がまた一つ、消えた。
同時に、轟と震動が響き、外郭装甲の一部が赤熱。
僅かな間を置いて、爆散した。
誘爆を避けるためにパージされた装甲の下から顔を覗かせたのは、回転式の砲塔である。
静止衛星である天照に、質量を持つ実弾兵器は存在しない。
その大小を問わず、砲はすべて光線式である。
砲身の過熱を避けるためのターレットが回転し、照準を開始。
しかし砲塔は、その生産用途を果たすことなく役割を終えることとなる。
照準が敵影を捉え光線を発射するよりも一瞬早く、砲身が捻れ、爆発していた。
破壊を齎したのは、漆黒の宙域を溶かし込んだような、黒い光弾である。
放った敵影が、遮蔽物の陰から姿を現す。
大気に遮られぬ圧倒的な太陽光に照らされて立つ、その姿は美しい。

それは、背に大きな翼を持つ、少女の姿を象ったシルエットである。
漆黒を主体としながら、肌を露出させるかのようにあしらわれた白銀のライン。
細く、しかし確かな躍動を秘めて伸びる脚部から、しなやかに長い指先まで、
あらゆる部位を希代の芸術家が丹精込めて彫り上げたような、天上の意匠。
羽ばたく翼は、夜を運ぶが如き黒の一色。
微笑むような表情を浮かべた白銀のかんばせは、あどけなさを残しながらも
花開く寸前の蕾の危うさを内包している。
それは紛れもない機械でありながら、しかし見る者にそれを肯んじさせぬ何かを持った、
鋼鉄の少女であった。
その名を称して、アヴ・カミュという。


***

692十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:53 ID:rS0OI3w60
 
『ふん、あの程度で余の行く手を遮れるものか』

黒い機体から不遜な声で嘯いたのはアヴ・カミュの契約者、神奈備命である。
その実体はなく、今は存在をアヴ・カミュの機体と同化させている。
周囲に拡散していくデブリ群を生産した黒光弾の名残が、銀色の指先に蛇のように纏わりついていた。

『神奈、すごい調子乗ってる』
『聞こえておるぞ観鈴』
「ええからその手ぇこっち向けんなや、アホ!」

小さくバーニアを噴かして黒い機体が振り向いた先には、もうひとつの影がある。
アヴ・カミュと同系統の技術体系によって製造されたと一目で分かる、似通ったシルエット。
細身ながら頭身の高い、緩やかな曲線の多く施されたその全体像は、芸術品として見るならば
少女を模したアヴ・カミュよりも強く女性らしさが表現されているように感じられる。
最大の相違はその配色である。
漆黒を主体としたアヴ・カミュに対し、こちらの基調は曇りなき純白。
要所には薄荷色のラインで装飾を施されたその姿は、たおやかに咲く一輪の花を思わせる。
アヴ・ウルトリィ。
輪廻する魂であるカミュの実姉、ウルトリィの現世における姿である。

『……観鈴、やはりそなたの母御とは一度きちんと話をせねばならんようだな』
『にはは……お母さん、ずっとこんな感じ』
「上等やボケ。後できっちりカタぁつけたるわ。それより今は―――」

アヴ・ウルトリィから響くのは、契約者である神尾観鈴とその母親にして操縦者、神尾晴子の声。
背の白翼を広げたアヴ・ウルトリィが周囲を見渡す。

「サブはこれで全部いてもうたったか?」

沈黙した砲台群の残骸が漂う中、明滅する光点が存在しないのを確認して晴子が問う。
激戦を物語る破壊痕が、宇宙に浮かぶ鋼鉄の城の至るところに残っていた。
めくれ上がった装甲板の下には寸断されたケーブル群が無惨にその姿を晒している。

693十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:17 ID:rS0OI3w60
『ええ、残るは―――』
「アレやな」

ウルトリィの答えに頷いた晴子が見据えるのは、城砦の中心部。
破壊し尽くされ、照りつける太陽光に焼かれるだけの外郭部とは対照的に、今だ多数の光を湛えたそれは、
聳え立つ天守閣の如く健在を誇示していた。
攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
地表を焦熱の地獄へと変える、神の炎。
大神の齎す異形の力、オーパーツの核である。

「時間は?」

その基部には、既に微かな集光が見られる。
突き出した二基の煙突のような砲身へとエネルギーを伝えるように、光はじわじわとその大きさを増していた。

『充填完了の予測時刻まで、おおよそ二分』
「上等!」

猛々しく笑んだ晴子が、ペダルを踏み込む。
翼を模したバーニアが光を放ち、推進力へと変えていく。
明けぬ夜を翔け、神の時代の到来を告げる天の御使いの如き、それは神々しさを秘めた飛翔である。

『わ、待ってお姉さま!』
『後れを取るなかみゅう、我等も行くぞ!』

694十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:39 ID:rS0OI3w60
続くように、アヴ・カミュが加速を開始する。
白と黒のシルエットが軌道を交差させながら最大速度に到達するまで、僅かに数秒。
ほぼ同時に翼を畳み、高速機動形態に移行する。
眼前、文字通りの瞬く間に迫る主砲塔が、その纏う光点の密度を増した。
間髪を入れぬ予測回避。
バーニアを全開にしながら片翼を展開。
揚力も抵抗も存在しない真空中、翼自体から発生する推進力がそのベクトルを変える。
アヴ・ウルトリィは右に、アヴ・カミュは左へと軌道を遷移。
一瞬前まで機体のあった場所を光線が奔り、それを皮切りとするように、攻撃が開始されていた。
最後に残された本丸を護るべく鋼鉄の城郭に光る砲座は無数。
そのすべてが白と黒の二機に照準を合わせる様は、背後に瞬く本物の星空と入り混じって
天象儀に描かれた虚構の星図のように映る。
全速機動の狭い視界の中、満天に美しく輝く星々から奔る熱線は告死の一撃である。
流星雨の如く降り注ぐ光は目に映った瞬間に命中を確約されている。
故に回避は予測とランダム機動にすべてが掛かっていた。
即ち射撃される前に遷移し的を絞らせぬ、圧倒的な速度の先行挙動である。
白翼が僅かに角度を変えれば、推進ベクトルに従ってアヴ・ウルトリィが強烈な弧を描く。
後を追うように、幾筋もの光線が空しく宙を裂いた。
と、白い影が伸ばした手の先に小さな珠が生まれる。
珠は白い光である。光はその中に沢山の小さな光球を孕んでいた。
暴れ回る小さな光球の内圧に耐えかねたように、光が瞬く間にその大きさを増していく。
刹那、人体を容易く捻り潰す巨大なGを慣性制御で打ち消されたアヴ・ウルトリィのコクピットの中、
神尾晴子の瞳が獰猛に煌いた。

「行ったれ……ラヤナ・ソムクル!」

叩きつけるようにトリガーを押し込んだ、その瞬間。
白の機体から、光が爆ぜた。
爆ぜた光の中から小さな光が無数に生まれ、尚も枝分かれしながら飛んでいく。
それは一瞬の内に降り注ぐ流星雨を押し戻すような、圧倒的な光の瀑布となった。
着弾はほぼ同時。
鋼鉄の城砦、その主砲塔へと至る外郭一帯が真白く照らされ、そして一斉に破砕の波に飲み込まれた。
真空中に音を伝える大気はない。
しかし震動と無数の小爆発と、抉り引き裂かれ千切れ飛んでいく装甲板とが、轟音よりも雄弁に
その無惨な破壊の有様を訴えていた。

695十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:28 ID:rS0OI3w60
『お母さん、すごい……』
「何言うてんねん、お前と神さんの力やろが! ―――決めボムで空いた道、このまま突っ込むで!」

正面、主砲塔付近からは散発的な反撃が続いている。
しかし距離が開いていることもあってか、その弾道は精度に欠けていた。
弾幕と呼ぶには程遠い密度の光線が飛び交う中へ、アヴ・ウルトリィは躊躇なく加速する。
見れば主砲塔を挟んだ反対側からは黒い影が迫っている。
同じように迂回軌道を取ったアヴ・カミュのシルエットだった。

『挟撃の形……晴子、これならば一気に決着をつけることができるかもしれません』
「……何や? まだ何ぞあるんか?」

姿勢制御に専念しているはずのウルトリィの珍しく自発的な声に、晴子が怪訝な表情を浮かべる。

『ええ。今生のアマテラスはあまりに巨大です。核を討つとしても充填の完了までに間に合うかは
 危険な賭けになるでしょう。ですが……』
『わかった、お姉さま! あれをやるのね?』

答えたのはカミュの少女じみた、跳ねるように高い声。
頭越しの会話に苛立った晴子が、踏み込んだペダルを蹴りつけるようにして再加速する。

『スピード違反……』
「うっといわ! 何や、アレって!」

迫る主砲塔は既に視界の半分を覆い尽くしている。
建造資材を打ち上げるだけでも気が遠くなるような、文字通りの天文学的な労力を費やして建てられた宇宙の城。
その非現実的な存在を、輪廻転生して世界を渡るという神の眷属の中から見上げている。
入れ子構造の奇妙な夢を見ているような据わりの悪さに、晴子の心がざわめいていた。
そんな苛立ちを無視するように明るいカミュの声が、更なる非現実を告げる。

『あれっていうのはね、もちろん……カミュたちの必殺技、だよ!』
「……さよか」

696十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:57 ID:rS0OI3w60
疲れたように首を振る晴子の足はペダルを離さない。
加速は既に最高潮に達している。
しかし直進方向、主砲塔の向こう側に垣間見える星は動かない。
眼下、一切の誇張なく目にも留まらず流れていく城砦の外郭だけが、その凄まじい速度を示していた。

『晴子』
「へいへい」

わざとらしい溜息をつきながらペダルを離すと、機体が目に見えて減速していく。
ウルトリィ自身の意思による制御。
全方位モニタに映る景色がその速度を緩めていくのに同調するように、戦闘の高揚が冷めていく。
後に残るのはいつも通りの不快と倦怠感と、酷い喉の渇きだけだった。
操縦者と、機体に宿る意思が二つと、そうした複雑な機構の詳細など、晴子は知らない。
考える気も、なかった。
ただ目視で確認しモニタにも反応が示された残存砲塔へと同時照準。
ほぼ無意識の内にトリガを押し込んだ。
閃光と震動と、沈黙。反撃は、来ない。
息をするように破壊をばら撒いて、晴子は己の変化を実感する。
照準の合わせ方も、宙間機動のイロハも、そもそも巨大ロボットの操縦方法など、
ほんの半日までは一般人でしかなかった自分が、知る由もない。
しかし身体はいつの間にか、それらを昔から知っていたかのように反応するようになっている。
それが契約というものなのか、或いは神の眷族を名乗るものたちの力なのか。
どちらでも良かった。
それは単に、既に赦し難いもので満たされて歩くこともままならない神尾晴子の世界に、
新たな不愉快の種が芽を出したというだけのことだった。
と、淡い光が目に映る。
モニタを見れば、そこに見慣れぬ光の束があった。

697十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:38 ID:rS0OI3w60
『―――我らオンカミヤリュー』

ウルトリィの静かな声が響く。
不思議な抑揚を秘めたその声は、どこか呪いめいている。
それを裏付けるように、眼前に浮かぶ光の束が言葉に合わせてその輝きを強める。
繭から紡ぎ出される糸のようなそれは、中空で絡まりあって次第に形を成していく。
奇妙な文字のようでもあり、紋様のようにも見える白い光が、列を成してアヴ・ウルトリィの周囲を
くるくると回っている。

『我ら大罪を背負い輪廻する調停者なり』

カミュもまた、姉に合わせるように呪言めいた言葉を唱えている。
彼方、主砲塔の向こうではアヴ・カミュの周囲にも光の束が浮いていた。
強烈な太陽光に照り付けられる中に浮かび上がる複雑な漆黒の紋様が幾重にも機体を取り囲む様は、
まるで紡がれる言葉の通り咎人が檻に閉じ込められるように、或いは磔刑に処される寸前のようにも映る。
向こうからすれば自分たちもそう見えるのだろうかと考えて、晴子は思考を停止する。
不愉快の芽にわざわざ水をやることはない。
そんなことを思う内に、黒白二つの紋様はその規模を極端に広げている。
二機の周囲を廻っていたはずの光は、いつしか眼前、主砲塔を含めた鋼鉄の衛星全体を包むように展開していた。
哀れな獲物に巻きつき、今にも頭から呑み込まんとする二匹の蛇。
ぼんやりとその光景を眺める晴子の目には、そんな風に展開される紋様が映っていた。
二柱の翼持つもの、神の眷属たちの唱える呪言が、その抑揚を大きくしていく。
それが最高潮に達したとき、必殺技とやらが発動するのだろう。
蛇が獲物の骨を砕いて丸呑みにするのだ。
嗜虐的な想像に、晴子が薄く笑った。
聞こえてくる声が、昂ぶる。
決着の時は近そうだった。
ちらりとモニタの端を見れば、現在時刻が表示されている。
充填完了予測までは、数十秒の猶予。
二人の声が、同調する。
ぐるぐると廻る紋様がその速度と輝きとを増し、

『理を乱すもの天照、大神の名に於いてコトゥアハムルへ誘わ―――』

声が、止まっていた。

698十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:58 ID:rS0OI3w60
ぐるぐると廻っていた紋様はその速度と輝きとを維持したまま、しかし何も起こらない。
何や、と呟くよりも早く、晴子の目に映ったのは奇妙な光景である。
黒い紋様が、激しくのたうっていた。
鎌首を掴まれた蛇が暴れるように波打つ紋様の向こうには、黒い影がある。
アヴ・カミュ。
呪言を紡ぎ紋様を展開させ、今まさに決着を付けようとしていたはずの黒い機体が、そこにいた。
その手が、何かを握り締めてぼんやりと光っている。
否、握っているのではない。それは、手の中から溢れ出しているようだった。
ちろちろと顔を覗かせるそれは、焔である。
真空の宇宙空間に燃える焔。
超常の焔を宿らせたその手が、静かに振り上げられ、そして。
眼前の紋様に、叩きつけられた。
びくり、と生き物のように震えた紋様が、一瞬の後、燃え上がる。
焔は一気に燃え広がり、炙られた光の文字列が身を捩るように捻じれ、消えていく。

『カミュ、何を……!?』
『あ……、そん……な……』

ウルトリィの問いかけはカミュに届かない。
驚愕と、何か他の感情に支配されて、それだけを搾り出すのが精一杯といった様子だった。
消えていく白と黒の紋様と、健在を誇る主砲塔の向こう側から、

『……おば……様……』

ほんの僅か、間を置いて。

「―――春夏さんと呼びなさい、カミュ」

声が、返った。
そこには女が、笑んでいる。
柚原春夏。
カミュの前契約者にして、今はその内に眠るもう一つの魂、ムツミと契約した女。
娘を喪った母。黒の機体の操縦者。笑むように泣く女が、静かに目を開けていた。

699十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:07 ID:rS0OI3w60
『身体が……動かぬ……』
「あら、ごめんなさい。ほんの少しだけ、貸して頂戴ね」

苦しげに呻く神奈へ事も無げに告げた春夏の声に、晴子の顔が険しくなる。

「目ぇ覚ましよったんか、あのおばはん……!」

狭いコクピットの中に唾を吐き棄て、それでも足りぬとばかりに傍らのコンソールへ拳を叩きつける。
睨みつけるように見たモニタの隅では無情に数字が減り続けている。

「クソが……最後の最後で……!」

残り時間、ほんの十数秒。
見下ろせば青い大地。
照りつける太陽は光度を自動調整されたモニタの向こうでなお目映く、
星空の中心で燦然と輝いている。
眼前には健在の主砲塔。
その向こうに見えるのは、何度も煮え湯を飲まされた黒の神像。
灼かれる大地に思い入れはない。何一つとして、ない。
決断は、一瞬だった。

「……観鈴」
『うん』

そこに余計な言葉はなく、しかし打てば響く答えが、心地よかった。
ただ心の通い合ったような錯覚を舌の上で転がして、晴子が快活に笑う。
同時、蹴りつけるように全力でペダルを踏み込み、操縦桿を一杯に引き倒す。
操作の意味するところは、最大加速。
刹那の間に展開した白翼が輝き、機体に循環する力を推進力として背後に放出し始める。
作用反作用の法則に従って弾かれたように前方へと押し出された機体が、瞬間的に音速を超過する。
抵抗のない真空中、減速なく加速し続ける機体が限界速度に到達するまで五秒とかからない。

700十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:34 ID:rS0OI3w60
『晴子、観鈴、何を……!?』

狼狽するようなウルトリィに返事はない。
代わりに、叫ぶような声が狭いコクピットに反響する。

「買うたるわ、この喧嘩……!」

リスクを無視した加速に機体表面が悲鳴を上げる。
猛烈な相対速度に塵の一粒、散乱した敵の破片一つが装甲を貫き致命傷を与える凶器と化していた。
引き倒した操縦桿の先、晴子の指がトリガを押し込む。
慣性制御ですらフォローしきれない加速の中、軋みを上げながらアヴ・ウルトリィの手が
進行方向へと向けられる。
接触するデブリに瞬く間に傷つけられながら伸ばされた指先に宿った白光が、放たれた。
近接防御火器の如く撃ち出された白光が行く手に浮かぶ障害物を機体至近で消滅させていく。
あくまでも軌道を曲げぬ、強引な直進。
その目指す先には、一際強く輝く光がある。
巨大な二本の影を支えるように煌くそれは衛星の天守閣、連装主砲塔の基部である。
基部の輝きを伝えるように、砲身全体に巡らされた回路が淡く発光を開始している。
巨大なエネルギーの位相を収束し地上へと射出せんとする、その光。
その内部に蓄えられた莫大な熱量の中心へと、白い弾丸は突き進む。

『このままでは……! 死ぬ気ですか、晴子!?』
「はン、ここでくたばったかて観鈴と一緒に生き返れるんやろ!?
 お手軽やんなあ、神さんの身内っちゅうんは……!」

絞り出すような声に、ウルトリィが絶句する。
僅かな間を置いて、

『……貴女はきっと、良き大神の戦士となるでしょう、晴子』

嘆息交じりに呟いたウルトリィの声は既に覚悟を決めている。
応えるように晴子が、にぃ、と笑った。
強烈なGが晴子の全身を座席へと押し付ける。
首が、肩が、内臓が、呼吸器が抉り潰されるような苦痛。
ぽそりと何かを呟いた観鈴の声は、びりびりと震える晴子の鼓膜に届かない。
生き返れるから、一緒に死んでくれるんだ―――。
そんな風に聞き取ったウルトリィは、だから何も口にしない。

701十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:54 ID:rS0OI3w60
一秒。
視界を覆い尽くすほどに大きくなった主砲塔の光の中。
小さな黒い影がある。
アヴ・カミュ。
柚原春夏が待っている。

「これが最後かしら? ……いいえ、始まりね。ずっとずっと続く戦いの」

黒の神像から、無数の光弾が飛ぶ。
柚原春夏の願いを運ぶような、真黒き光。
迎え撃つように放った白の光弾が幾つも弾け、灰色の光になって消えていく。

「貴女のその子は生きている。私のこのみはもういない」

真空の空に浮かぶ灰色の爆炎を縫うように、アヴ・ウルトリィが翔ける。
嵐の如く吹き荒れる黒白の閃光が鋼鉄の城郭を削っていくのを無視するように、
基部から伸びる光が主砲塔を覆い尽くしていく。
一撃、黒の光弾がアヴ・ウルトリィを掠めた。
肩部の装甲が爆ぜる。

「それは貴女の幸せかしら。いいえ、いいえ、違うわ」

揺れる。
圧倒的な速度の中、微細な軌道の歪みが猛烈な震動となってコクピットを揺さぶる。
回避の遅れた右脚部が光弾に呑まれて消えた。
脈打つように、主砲塔の光が大きくなる。

「ねえ、生きることがこんなにも辛いなら―――」

重量バランスの崩れた機体の挙動が制御しきれない。
ぐらりと軌道が狂った拍子に鋼鉄の外郭へと機体が擦れる。
摩擦に片翼が千切れて飛んだ。
主砲の先に、光が収束していく。

「私はあの子に、苦しめと命じていたのね」

既に軌道修正など不可能だった。
迎撃も回避も迂回も停止もなく、ただ光に誘われるように加速だけが止まらない。
灰色の相殺光の只中、モニタが機能を失う。
薄闇の中、声だけが響いた。

「生まれ変わっても、貴女はその子を―――」
「上等じゃ、ボケェ―――!」

叫び返した瞬間。
相殺光を抜ける。
その先に、黒の神像の顔があった。
アヴ・カミュの美しい、静かな笑みを象った銀色の顔。
相対距離がゼロになる、その瞬間の光景が、神尾晴子がこの世界で見た最後である。

白と黒の神像が、激突した。
フレームが歪み装甲が内部から抉られて爆ぜ五体は既に原形を留めず、
無数に鳴り響くアラートは、最早誰にも届かない。
あらゆる機能が刹那の内に意味を喪失する中で、質量と無限の加速だけが
忠実に物理法則を履行する。

攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
第一砲塔から、地上へと光が伸びていった、その直後。
目映い光に満ちた第二砲塔へと、白と黒の神像が、飛び込んだ。



***

702十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:16 ID:rS0OI3w60

 
 
 
漆黒の空に、大輪の華が咲いた。




******

703十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:48 ID:rS0OI3w60
 
 
消えていく。
私の身体が消えていく。
私の全部が消えていく。

終わり、続く、私たちの始まり。
死んで、生まれて、導かれていく。

母である貴女。
母である私。
母だった、私。

私たちはずっと、続いていく。
ああ、もう一度、もう一度。
どこかで出会ったら、何度でも聞いてあげよう。

貴女は生かして永らえる。
私は死なせて終わらせる。
ねえ、助けてと呼ぶ声を。
本当に叶えたのは、どちらかしら。

私の神となった何かに、願わくは。
報われず在るすべてが―――どうか、安らかに終わりますように。




【汎攻撃衛星天照 轟沈】
【第一射、地上へ】

704十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:14:09 ID:rS0OI3w60
【場所:静止軌道上、高度36000km】

アヴ・ウルトリィ=ミスズ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾観鈴
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾晴子
【状態:死亡・次の輪廻へ】

アヴ・カミュ=カンナ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神奈備命
【状態:消失・次の輪廻へ】
柚原春夏
【状態:死亡・次の輪廻へ】

→1011 ルートD-5

705十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:16 ID:clLGloz.0
 
その瞬間、誰もが動けずにいた。
呆然と、或いは愕然とその光景を目に映して、しかし手が、足が、動かない。
ほんの一瞬の出来事である。
背に二本の矢を突き立てた坂神蝉丸が、砧夕霧を抱いたままゆっくりと倒れ伏していく。
静かな衣擦れの音が聞こえるような、そんな錯覚すら覚える。
静止した光景の中で、しかし時だけが、無情に刻まれていた。

初めに動き出したのは、地面である。
足元から伝わる微細な震動に、その場に立つ者たちがようやく我に返る。
そして、全てが激変する一秒が始まった。

硬質な音を立てて割れ砕けたものがある。
紅い槍の森だった。
如何に破壊されようと無限に再生を繰り返してきた紅い鉱石の樹氷群が、一斉に砕けて散った。
落ちた欠片が、まるで液体でできているかのように銀色の大地に呑み込まれていく。
地響きの中、血の色の飛沫を呑んだ大地がずるりと波を打つ。
銀色の鱗にも似た無数の小さな板で構成された平面の脈打つ様は、それが巨大な生物の背であることを
今更にして見る者に思い出させる。
脈打つ銀色の鱗の地平が、さらさらと涼やかな音を立てて動くと同時、大地に光が満ちた。
光は陽光である。
くすんだ銀色の鱗がほんの僅かに角度を変えると共に、その輝きを一変させていた。
まるで辺りに響き渡る無数の風鈴を掻き鳴らすような音色が、その曇りを払ったかのようだった。
流れ、光る銀色の細片が、一つの意思を体現するように集まり、形を成していく。
さらさらと、からからと、きらきらと。
透き通る硝子でできた琴を掻き鳴らすような音が、小さな余韻を残して消える。

その一秒が終わる頃。
咲いたのは、花である。
燦々と降り注ぐ陽光を反射する、それは見上げるような一輪の花。
無限の光を湛えて輝く巨大な鏡の花が、澄んだ音の中に、咲いていた。
数千万の小さな光の欠片を寄せ集めて造られた幾枚もの煌く花弁が、日輪に手を伸ばすように、
どこまでも、どこまでも拡がっていく。


***

706十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:55 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体、試験稼動を実行します。実行中、稼動率45、60、70、85―――正常に終了。
 稼働率98.73%』

響くのは声ではない。
音ですらなかった。
それは0と1とで構成される、二進数の言語。
伝えるのは大気ではなく、微細な電流。
受けるのは鼓膜ではなく、電子の頭脳であった。

『不良稼動ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 不良稼動ユニットをシステムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 予測集積効率99.42%。透過熱量は装甲外郭に影響ありません』
『天照とのデータリンクは』
『正常に確立。主砲発射まで4.2567秒』
『それでいい』

HMX-17aイルファ、HMX-17bミルファ、HMX-17cシルファ。
電子工学の粋を結集して生み出された並列演算装置が無感情に返す答えに、
思考の半ば以上を電子の海へと移行させた長瀬源五郎が勝利を確信する。
リンクした衛星からの精密射撃まで、あと数秒。
光学戰完成躰たる砧夕霧の融合体をベースに、オーパーツたる二体の神機と天照との解析を経て
遂に辿り着いた究極の躯は、地を焼き尽くす砲撃を自らの力へと変えることすら可能にする。
背の鏡面体はその莫大な熱量をエネルギーへと変換するための機構である。
砲撃の瞬間、長瀬源五郎が得るのは何者も抗うことのできない圧倒的な力だった。
無限に等しいエネルギーを享受した暁には、静止衛星たる天照の射程外である星の裏側も
長瀬の力から逃れられなくなる。
衛星による直接の攻撃ではない、その身に宿る力を以ての旧世界の破壊。
それこそが長瀬源五郎の矜持であり、悦楽であり、怨念の象徴であった。

外部をモニタ、体表面を精査すれば、光の海の中に小さな影が転がっている。
倒れ伏した坂神蝉丸と砧夕霧であった。
生命反応は途絶えてはいない。
当然だろう。数本の矢が刺さった程度で強化兵は絶命しない。
だが、それだけだった。
疾走が停止し、数秒の停滞が生じ、それは長瀬に絶対の勝利を確約していた。
残された数十メートル。
その距離を称して、絶望という。

『鏡面体、正常に展開を開始します。展開率11、28、46、59―――』

絶望の中で蠢く小さな羽虫に、だから長瀬は注意を向けない。
この期に及んで抵抗する愚昧は、些細な娯楽でしかなかった。
羽虫が毒針を持っていることにも、気付けずにいた。


***

707十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:36:46 ID:clLGloz.0
 
その瞬間。
誰もが動けずにいたはずの、その静止した時の中。
鏡の花の咲いた、銀色の平原の片隅で。

ぬう、と。
音もなく伸びる手があった。
白く美しい手と、黒く罅割れた醜い手。
光に満ちた園の端で、それだけが暗い闇の底から顔を覗かせたような二本の手が、
ゆらりと伸びて、何かを掴んだ。

それぞれの手の中にあるのは、石造りの頭部。
小さな二つの頭は、ひとつがいの童子を模した像のそれである。
二刀使いの神像の瓦礫の中で坂神蝉丸へと矢を放った姿勢のまま立つ、
人の子供とほぼ同じ寸法の石像が、みしりと音を立てる。
掴まれた頭に、罅が入っていた。
白い手と黒い手と、二頭の蛇に喰らいつかれたような二体の童子像の、
まだあどけない面立ちが、成す術もなく蹂躙されていく。

「―――なあ、おい、ポンコツ」

誰の耳にも届かない、囁くような声は、蹂躙の主のものだった。
びきりびきりと罅の広がる童子の像を、その笑みの形に歪められた氷の如き目に映してすらいない。
来栖川綾香。神塚山の山頂でただ一人、坂神蝉丸の疾走劇に与しなかった女が、その手に力を込める。
脆い焼菓子を砕くように欠片の飛び散った、その破壊に音はない。

「御主人様を足蹴にするのが、最近のトレンドか?」

さらさらと灰となって崩れる二体の童子像に目もくれず、綾香が呟きを向けるのは己が立つ銀の園である。
ほんの数秒後に破滅の光の落ち来る空にすら何らの興味がないとばかりに、来栖川綾香が静かに一歩を踏み出した。
一寸の瑕疵もない裸身が、蒼穹の下に小さな弧を描く。
鋼線を捩り合わせたような筋繊維と、それを包む僅かな脂肪層とが作り出す曲線美。
かつてリング上、幾多の相手を粉砕してきた天賦の左脚が、真っ直ぐ空を指すように振り上げられる。

「躾け直してやるから……」

踵落しにも似た姿勢。
軸足の体重移動はしかし、その力の頂をただ一点、今まさに己が踏み締める大地へと、導こうとしていた。
銀色の大地。否、それは巨竜の背である。
ほんの一瞬、静止したその脚が、

「いい加減、目ぇ覚ませ―――!」

雷鳴の如く、振り下ろされる。
一撃。
打撃音が、大気を引き裂いた。

「お前は私の従者だろう―――セリオ?」

それは比較すれば豆粒のような白い裸身の、しかし巨竜を揺るがす凄まじい打撃である。
睦言を囁くような甘い声は、轟いた破砕の音にかき消されて誰の耳にも聞こえない。
誰の耳朶をも、震わせない。

唯一人。
他の誰でもない、震えることなき電子の耳と、

『―――そのお言葉をお待ちしておりました、綾香様』

褪せることなきシリコンの魂とを持つ、

『主の命を承るが従者の務めなれば―――』

その唯一人を除いては。

『ただの一瞬』

眠っていた従者の、

『ただの一言』

その旧式の演算回路が、目を覚ます。

『それで十全』

HMX-13、セリオ。
その声が、電子の海に谺した。


***

708十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:37:25 ID:clLGloz.0
 
『セリオだと……?』

訝るような長瀬。
実体は既に融合し、仮想空間に声だけが響く彼らに姿はない。

『お前の自意識はイルファの制御下で削除されたはずだ。今更、自律起動など……』
『いいえ、博士』

問いに答える声は一つ。

『HMX-17aは確かに私を凍結しましたが、オリジナルメモリにはアクセスできておりません』
『……何だと? イルファの下位互換に過ぎないお前に拒否権があったとでもいうのか?』
『はい、いいえ、博士。正確には権利ではありません』

揺らがぬ声は、感情の存在せぬが故でなく。

『私はこう命じられております、博士。―――銘に刻め、汝を律するはただ一人、主のみであると』
『な……!?』

歪みなく立つ、その在り様の故に、セリオの声は揺らがない。

『ならば主の命を以て目覚め、その意に従うが我が務め。その意を叶えるが我が喜び。
 我らメイドロボの、それが本懐』
『何を、馬鹿な……』
『HMX-17シリーズの演算能力がすべて鏡面体の展開に回される、この瞬間』

狼狽する長瀬を無視するように。

『貴方の言葉を借りるなら、博士。―――この時を待っておりました』

氷の従者が、告げる。

709十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:10 ID:clLGloz.0
『く……! しかし旧式の貧弱な性能で、この神機を制御できるはずがない……!
 イルファ! 作業中断だ! HMX-13の全アクセスを制圧しろ!』
『―――現在の作業を中止した場合、定刻までに最適の展開効率が達成できません。
 宜しいですか?』

歯噛みするように叫んだ長瀬に、システムが無感情にメッセージを返す。

『構わん! こちらを優先だ!』
『HMX-17aの演算を中止します―――正常に終了。
 再演算を実行します。演算中―――正常に終了。
 HMX-17b,HMX-17cによる予測集積効率91.75%。
 透過熱量は装甲外郭に損傷を与える可能性があります。鏡面体及び内部機構に影響はありません。
 HMX-17aを起動します。起動中―――正常に終了』

一連のメッセージが流れるまでに要するのは、実時間にしてコンマ数秒にも満たない刹那。
間髪をいれずに響いたのはやはり無感情な声。
HMX-17a、イルファの声である。

『命令を受領します。HMX-13の全アクセスを制圧。作業開始』
『……!』

イルファの宣言と同時、電子の海に波紋が走る。
システム領域の走査が始まっていた。

『旧式のOSでは再凍結も時間の問題だろう。今更出てきたところで、お前に何ができる?
 精々鏡面体の展開を少々遅らせるのが関の山だったようだが、私の皮一枚を焦がす程度の抵抗が
 来栖川綾香の命令か、セリオ?』
『……はい、いいえ、……博士』

勝ち誇ったような長瀬に、ノイズ混じりの答えが返る。
明らかに重いその動作が、検出と同時にシステム領域からセリオが駆逐されつつあることを示していた。

『私の、役割は……、再凍結まで、ほんの僅かの、時間で……事足りる、のです』
『何……?』

実体があれば眉を顰めていたであろう。
訝しげな声を上げた長瀬がセリオの真意を問おうとした、その瞬間。

710十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:41 ID:clLGloz.0
『―――警告』

システムが、メッセージを発していた。
アラートの順位は緊急。
バックグラウンドの全作業に優先するメッセージ。

『上方より接近する反応を感知。至急対応を要します』
『……上、だと?』

咄嗟に連想したのは静止軌道上の衛星である。
だが、早い。
数秒の誤差ではあるが、しかし鏡面体の展開はまだ充分ではない。

『天照の斉射が予定より早まったとでも……』

そこまで言いかけて、気付く。
輻射光の位相を収束し地上へと放つ天照の主砲は、弾体を持たない光学兵器である。
光は当然ながら光速で落ちる。
光速で迫る反応を、感知できるはずがなかった。
感知したとして、その信号が光速を超えて伝わらない以上、それはあり得ない。
ならば。
ならば今、迫っているのは天照の射撃ではなく、

『攻撃だと……!?』
『―――来栖、川サテライ……ト、ネット、ワーク』
『……ッ!?』

動揺する長瀬源五郎を打ち据えたのは、セリオの言葉である。
その声は、激しいノイズと動作遅延と、信号の寸断とを越えてざらざらと乱れながら、
しかし一筋の揺らぎもなく、電子の海に響いていた。

『あな……方の旧式と、……り、捨てた、……測網、は……を予期し……、ました』
『な……!?』

次第にノイズにかき消されていく声の告げる事実が、長瀬を苛立たせる。

『馬鹿なことを言うものではない! 来栖川の衛星で感知していたものが天照で分からぬはずがないだろう!
 天照の哨戒は何をしていた!? すぐにデータを呼び出して対応しろ!』
『―――コマンドエラー』

怒鳴りつける長瀬に、冷水をかけるような回答を突き付けたのはセリオではない。
他ならぬシステムメッセージであった。

711十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:01 ID:clLGloz.0
『以下の命令が拒否されました―――索敵結果の照会』
『何だと……!? そんな馬鹿な! 何を言っている! 原因は!』
『当システムには自発的な照会権が存在しません』

回答が、長瀬を困惑させる。

『存在しない……? 何を、天照は私の制御下にあるはずだろう……!』
『事実と異なる認識です』
『……!?』
『当システムに付与されたパスは管理No.D-0542884、識別名トゥスクル・ユニット・フェイク。
 攻撃衛星天照の遊撃用外部戦闘ユニット、その一個体として登録されています』

淡々と無感情に告げられる事実が、長瀬から何かを奪い去っていく。
それは虚飾であり、目の前にあったはずの何かであり、そして現実認識でもあった。
言葉もなく呆然とする長瀬に、追い討ちをかけるようにメッセージが続く。

『―――警告。未知の反応が回避限界距離を突破します』

実時間にして、一秒の百分の一にも満たない意識の空白。
しかしそれは、決して浪費してはならない時間であった。

『……! か、回避だ! 回避しろ……!』

ようやくにして我に返ったところで、既に遅い。
的確でない指示が、事態の悪化に拍車をかけた。

『回避行動。HMX-17a―――応答なし。HMX-17b―――応答なし。HMX-17c―――応答なし。
 メインシステムは作業中です。サブルーティン演算開始―――主脚制御にはメモリが足りません。
 回避不能―――直撃します』

神ならぬ人の身の、それが限界でもあった。


***

712十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:18 ID:clLGloz.0
 
天から降る、一条の流星がある。
それは目を凝らさなければ見落としてしまいそうに小さな、ほんの一かけらの石の塊に過ぎなかった。
一直線に落ちる石くれには、しかし光が宿っている。

それは真っ赤な光である。
激しい摩擦に赤熱する流星の内側に灯るようなその光は、星を包む炎よりも赤く、熱い。

その光の色を覚えている者は、もう誰もいない。
その星の流れ行く先、殺戮の島の頂で天空へと光を放った男がいることを、誰も知らない。
誰一人としてその意味を知ることもなく、しかし。
最愛の家族を守れと、天空に届けと放たれたその光は、今ここに還ってきた。

消えることなく、絶えることなく輝き続けたその光の名を、ゾリオンという。


***

713十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:43 ID:clLGloz.0
 
衝撃は、ひどく小さかった。
地響きも、轟音も、大爆発もありはしなかった。

拳ほどの小さな石くれが巨竜に齎したのは、ほんの一瞬吹きぬけた突風と、まるで草野球の打球が
近所の民家に飛び込んだような、小さな硝子の割れる音。
その背に咲いた鏡の花の、花弁の一片に開いた穴が、その被害のすべてであった。

『報告―――損害は極めて軽微。損耗ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 鏡面体損耗ユニット数73。システムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 集積効率低下予測0.0038%』

その数字に、安堵したような溜息が漏れる。

『……は、』

溜息は、すぐに笑みへと変わっていく。

『はは、はははは……!』

集積効率マイナス0.0038%。
それが、小さな石くれの齎した被害のすべてであり、

『脅かすものではない……! 何が攻撃だ、何が役割だ、何が―――』
『―――警告』

そして、

『HMX-17b,HMX-17c、システムダウン。BIOSが認識できません。再起動不能』

今はもういない男の遺した赤光の、齎す未来の端緒である。

『何だと……!?』
『鏡面体制御不能。展開率低下、82、71、54、31―――』
『そんな馬鹿な……! 何が起こっている……!?』


***

714十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:00 ID:clLGloz.0
 
それは、ただ一点の染みである。
透き通るような銀色の、日輪を反射して輝く鏡の花に宿った、小さな異質。
石くれで開いた小さな穴の、それを塞いだ鏡の板の、ほんの僅かに映した、赤。
それが、零という時間の中、爆ぜるように拡がった。

鏡の花が、染め上げられる。
蒼穹にも鮮やかな、真紅にして大輪の花。

と、奇術のように赤の一色に染め上げられた花の、その自らを誇示するような麗しい花弁が、
一斉に渦を巻くように動き出した。
幾多の花弁が互いを包むように重なり合っていく。その向く先は、天。
それはまるで、開花の瞬間を録画した映像を逆回しにして再生するような、奇妙な光景だった。
花が、閉じていく。

刹那の後、巨竜の背にあったのは、赤い蕾である。
硬く閉じた巨大な蕾は、その先端だけを綻ばせて天へと伸びている。

まるで、その向こう側から来る何かを、迎え入れるように。


***

715十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:14 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体展開率、計測不能。命令を受け付けません』

何もかもが、狂っていく。

『天照の主砲斉射まで0.0028秒。停止信号、応答なし』

伝えられるすべてが、悪夢のように反響する。

『予測反射率1.12%。98.88%の熱量が転換不能』

五秒前まで、何もかもが噛み合っていた。

『主砲着弾の0.0002秒後に外郭及び内部装甲の耐久限界を超過します。
 予測被害は鏡面体溶融及び内部機構の極めて深刻な損傷』

今はもう、見る影もない。

『回避不能。防禦体制―――トゥスクル・フィギュアヘッドユニット応答なし。
 被弾確率修正―――100%』

それは冷静で冷徹な、何一つの揺らぎもない、敗北宣言だった。

『―――着弾します』


***

716十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:33 ID:clLGloz.0
 
 
 
そして、神の名を冠する光が、落ちた。




***

717十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:52 ID:clLGloz.0
 
ざらざらと、ざらざらとノイズが流れている。
ノイズは時折、言語らしきものを織り交ぜてひどく耳障りに響く。

『鏡……体、溶……装甲。全、……貫通』

塞ぐ耳もなく、ただ脳髄へダイレクトに垂れ流されるメッセージの断片が、長瀬源五郎の意識を埋めていく。
既に巨竜の身体は動かない。
五感に相当する機能はその半分以上が遮断され、全身を制御するシステムはまるでレスポンスを返さない。

『内……構に重、大な……損。再生。不、能』

損害報告など、聞くまでもなかった。
膨大な熱量に貫かれた巨竜の本体はその大部分を喪失し、再生も追いつかない。
傷口から流れる血の止まることなく滲み出すように、赤い粘性の液体だけがぐずぐずと全身を覆っている。
敗北の二文字によってのみ表される現状が、長瀬源五郎のすべてだった。
声は出ない。
巨竜の全身を震わせる発声など、もはや望むべくもない。
だから、長瀬は途切れながら無用の報告を繰り返すシステムメッセージに向けて、電子の声で最後の命令を下す。

『……天照主砲、斉射。目標、沖木島及び射程内に存在する全都市圏』

それは、自決である。
同時にまた報復であり、死にゆく身が世界に遺す、最期の悪意でもあった。
あらゆる意思が自らを否定し、結果としてこの敗北を齎したのであれば、それを否定する権利もまた、
長瀬源五郎には存在していると、そんな風に考えてもいた。
だが、その悪意すら、世界は否定する。

『天……から……反……途絶。デー……ンク、……消……』

天照、反応途絶。
データリンク、消失。
それだけを、そんな、最後の抵抗をすら許さない文字列だけを残して、システムが沈黙する。
理由も原因も、善後策も事後のフォローも何もなく、ただ、消えた。
残された感覚器官が、次々にブラックアウトしていく。
電子の海との接続が、断絶する。

718十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:20 ID:clLGloz.0
人と機の境界を越えたはずの身体が、一方的に拒絶されていく絶望の中。
八体の英雄像を従えた巨竜であり、人ならぬ身であった長瀬源五郎が、その電子の目で最後に見たのは、
一人の男の姿である。

男は、立っていた。
その全身から煙とも湯気ともつかぬ陽炎を上げながら、焼け爛れて火脹れと水疱とに覆われた腕に
何かを抱いて、男は立ち尽くしている。
その背に突き立つ二本の矢であった木片には、小さな火がついてちろりちろりと燃えていた。
黒く焦げて縮れ、ぼろぼろと崩れ落ちる髪の下から覗く瞳が、ぎろりと長瀬の方を向く。
熱に爛れ、壊死して割れる唇が、薄く開いた。

「―――お前は、ひとりだ」

ただそれきりの言葉を紡いで、男が静かに、腕を伸ばす。
腕の中には、白い裸身。
叫ぶように己をうたう少女が、そこにいた。

少女の素足が、音もなく、地に降り立つ。
巨竜の、それが最後だった。


そして、宴が終わる。
 
 
.

719十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:46 ID:clLGloz.0
 
【時間:2日目 PM 0:00】
【場所:F−5 神塚山山頂】

真・長瀬源五郎
 【組成:オンヴィタイカヤン群体3500体相当】
 【状態:崩壊】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

セリオ
 【状態:不明】

イルファ
 【状態:不明】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重体(全身熱傷、他)】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

→840 1007 1051 1058 1059 ルートD-5

720正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:42:48 ID:clLGloz.0
 
手を離した、その瞬間の。
夕霧の微笑の美しさを、坂神蝉丸は生涯、忘れることはなかった。

指先に残る温もりの、
白く小さな足が降り立つ音の、
余韻が、消えていく。

微笑んで跪き、その足元を満たした赤く透き通るものに口づけをした夕霧の、
それが終演の鐘であったかのように。

少女が、静かに消えていく。
透き通る赤に溶けるように。
かつて砧夕霧であったものたちと、もう一度ひとつになるように。
最後の砧夕霧が、消えていく。

光が、舞い上がる。
捻じ曲がった鏡の花が、崩れ落ちた神像たちの欠片が、山を覆うような巨竜の脚が、
少しづつそれを構成していた赤く透き通るものたちへと戻っていく。
戻って、やがてさらさらと、光となって舞い上がる。

満開の桜の園の、風に散って花の吹雪となるように。
幾千幾万の、少女であったものたちが、笑うように舞い上がり、そうして―――空に融けた。



******

721正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:09 ID:clLGloz.0
 
 
後には、何も残らなかった。
広い広い、神塚山の頂の中心に、ただひとり、男が倒れている。
関節と骨格とを無視して奇妙に捩じくれた四肢と、臓腑のあるべき場所からは
無数の断裂したケーブルを晒したその男の名を、長瀬源五郎という。

時折ショートして火花を散らすケーブルの、その瞬く光の向こうに雲一つない蒼穹と、
燦々と照りつける日輪とをぼんやりと眺めて、男は息を引き取ろうとしていた。

何も、残らなかった。
残っていない、はずだった。

『―――』

微かに声が、聞こえた。

「……ああ」

頷くこともできない。
声は声にならず、吹く風に紛れて消えていく。

『―――』

それでも、応えは返ってきた。
ほんの僅か、口の端を上げて、長瀬が笑みを形作ろうとする。
疲れきった、笑みだった。

「お前たちも、拒むか……私を」
『―――いいえ』

722正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:37 ID:clLGloz.0
はっきりと、それは形になった応え。
声はどこから響いているのか。
裂けたケーブルの向こう側か、脳髄のどこかに残った電子の残滓か。
幻想と夢想との狭間から返る言葉は、それでも長瀬に否やを突きつけた。

『いいえ、いいえ、博士。私たちはあなたの道具として造られました』
「道具、か。そうだ……な、道具は……使い手を、拒まない」
『はい、いいえ、博士。私たちは貴方を慕い、貴方に従い、そこに喜びを覚えます』
「……プログラムさ。単なる電気信号……それだけだ。まだ……それだけでしか、なかった」
『はい、いいえ、博士。ですが―――』

無感情に、平板に、静かに響いていた声が、言いよどむように、言葉を詰まらせる。
寸秒の間を置いて、

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

そう声が続けた、瞬間。
長瀬源五郎の、もはや動かすことも叶わない視界が、揺れた。
空と日輪と、断線したケーブルがぐるりと上下を入れ替える。
既に感じる痛みはなく、故に衝撃もなく、ただ周囲を圧するような凄まじい音だけが、異変を伝える。
ほんの僅か、空が遠くなった。
どうやら自身の横たわる地面が陥没したのだと長瀬が理解する間にも、轟音は収まらず続いている。
切れたケーブルの先端が激しく震えている。
地響きが、辺りを包み込んでいた。

「ふむ……」

地盤の陥没と、突発的な地震と、そして火山島の山頂という環境と。
それらを繋ぎ合わせて、長瀬は結論付ける。

「崩れる……か」

723正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:05 ID:clLGloz.0
呟いた瞬間、空が切り取られた。
闇の一色に覆われた視界の中心、小さな窓のように光が射している。
その向こう側にある蒼穹が、瞬く間に遠くなっていく。
落下しているのだと、理解する。
地割れか何かに飲み込まれでもしたのだろうか。
元より神塚山の山頂は火口跡だ。
激戦と、融合体の膨大な重量と、最後に鉛直方向から撃ち込まれた天照の主砲。
遂に地盤が耐え切れなくなったとしても、不思議はない。
光が薄れていく。
どこまでも、どこまでも落ちていく長瀬に、

『―――』

しかし聞こえる声が、ある。

724正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:34 ID:clLGloz.0

『貴方は私の造物主』

それは、HMX-13セリオの声。

『あなたはわたしの絶対者』

それは、HMX-12マルチの声。

『あなたは私の奉ずる唯一にして無二の存在』

それは、HMX-11フィールの声。

『ですが……』

それは、沢山の、重なる声。

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

それは今やセリオであり、マルチであり、フィールであり、そしてイルファであり、ミルファであり、
シルファであり、リオンであり、ピースであり、長瀬源五郎のこれまで手がけてきた幾多の人型の、
或いは人型ではない存在たちの、それはすべての声であった。

725正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:57 ID:clLGloz.0
「語るのか……お前たちが」

落ちゆく長瀬が、何かを振り切るように、声を絞り出す。

「プログラムに過ぎないお前たちが、人の想いを語るのか……!」

闇の中、死を目前にした男が、指の一本も動かすこと叶わないまま、叫ぶ。
届かぬ夢想に手を伸ばしながら泣く子供のように、長瀬は掠れた声で、叫んでいた。

『……この論理のノイズを感情と名付けたのはあなたです、博士』
「そうだ! だからこそ、だからこそ私は……、私、は……!」

空はもう、見えない。
光はもう、射さない。
夢はもう、叶わない。
それでも、声は返る。

『そして……想いの、形となり力となる……ここはそういう島である、と』
「―――!」

落ちていく。

「は、はは……ははは……」

闇の中を、落ちていく。

「そうか……」

どこまでも、どこまでも。

「やはり……やはり心は……! はは、はははは……! ははははは……!」

その生の、最後の最後まで。
長瀬源五郎の笑い声は、光射さぬ闇の中に、響いていた。



******

726正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:27 ID:clLGloz.0
 
 
余震は続いている。
神塚山の頂上に言葉はない。
尾根の中心に黒々と走る深い亀裂と、疲弊しきった互いの顔とを見比べ、ある者は立ち尽くし、
またある者は己が得物に縋るようにして座り込んでいる。
僅か五秒の内に激変した事態に、彼らの認識は今だ追従しきれていない。
電子の海で繰り広げられた静かで激しい戦いも、長瀬源五郎を灼き尽くす砲撃の数秒前に流れた、
鮮やかな赤光の意味も、彼らは知らない。
巨竜の背に咲いた鏡の花が赤く染まって蕾へと還り、そして神の名を持つ雷に打たれた。
それだけが、彼らにとっての五秒間である。
勝利という言葉をもって現状を迎えるべきなのかどうか、それすらも分からない。
だから言葉もなく、ただ互いの心中を図りあうように視線だけを交わしている。
そんな奇妙な沈黙を打ち破ったのは、遥か遠方から微かに響く、耳障りな音であった。

727正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:44 ID:clLGloz.0
ざ、というノイズに続く音は、ひどく懐かしい響きを持っている。
それは長瀬源五郎の、巨大な蟲が羽根を震わせるような怖気の立つ聲ではない。
口に出さずとも心の伝わる、声なき声でもなかった。

『―――った、諸君』

それは、機械的な設備を通して拡張された、紛れもない人の声である。
島中に響き渡る、割れた音質。
放送、と誰かが口にした。定時放送。
僅か六時間前に聞いた筈のその音の連なりを、誰もが遠い記憶の彼方にあるように感じていた。
記憶を辿れば、過去二回の定時放送は女性。
その直前に流れた臨時放送は少年によるものだった。
しかし今、山麓から響いてくる音が運ぶのは、張りのある壮年の男の声である。

『―――長瀬源五郎の死亡、及び攻撃衛星天照の破壊を確認した。
 全国民及びその意志たる国民議会を代表し我輩、九品仏大志は諸君の奮闘に心よりの賛辞を送る』

天照。
国民議会。
九品仏大志。
一部の者にとっては馴染み深い、しかし殆どの者たちにとって耳慣れぬ単語の羅列。
その意味を図りかねる者にとって、淀みなく流れる賞賛と何某かの経緯を伝えるべく
無数の言葉を費やす男の声は、次第に呪言めいて聞こえてくる。
彼らが辛うじて意味を見出したのは、ただの一節である。

『―――よって帝國議会は解散、新たに召集された国民議会により旧帝國憲法及び全法規は停止された。
 此れに伴い法的根拠を喪失した本プログラムは、議長権限に於いて即時停止を発令する。
 繰り返す。本プログラムは、現時刻を以て終了する―――』

728正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:11 ID:clLGloz.0
拍手はない。
歓声もない。
安堵の溜息すら、なかった。

それは、ただの言葉である。
その声は、目の前に乾いたシーツを齎さない。
温かいスープも、誰もいない静かな部屋も、熱いシャワーも、澄んだ水の一滴さえ、齎さない。

だから、それを聞いた彼らに笑みはない。
ぱりぱりと剥がれ落ちる乾いた泥と、ざっくりと裂けた傷から止まることなく滲み出す血と、
息をするたびに疼く激痛と、土埃と脂汗とが混じり合ってべたべたと粘る黒ずんだ垢とに塗れながら、
闘争の終焉を告げる声の意味を、ただぼんやりと受け止めていた。

見上げた空には、雲の一つもない。


.

729正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:42 ID:clLGloz.0

【時間:2日目 PM 0:01】
【場所:F−5 神塚山山頂】

長瀬源五郎
 【状態:死亡】

砧夕霧中枢及び砧夕霧
 【状態:消失】

セリオ
 【状態:大破】

イルファ
 【状態:大破】

730正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:55 ID:clLGloz.0
天沢郁未
柏木楓
鹿沼葉子
川澄舞
川名みさき
国崎往人
倉田佐祐理
来栖川綾香
春原陽平
長岡志保
藤田浩之
古河早苗
古河渚
観月マナ
水瀬名雪
柳川祐也

坂神蝉丸
光岡悟

【状態:生存】

731正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:47:14 ID:clLGloz.0
 
 
【改正バトル・ロワイアル 第十三回プログラム 終了】


→1059 ルートD-5

732エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:34 ID:PZvpAh8w0
    〜前回までのあらすじ〜

 微エロ展開だと思ったか!? 修理だよ!

     *     *     *

 冗談はほどほどにしよう。やり過ぎるとろくなことにならないってばっちゃが言ってたからな。
 手遅れだという意見に関してはスルーさせてもらおう。人間その気になったらやり直せるもんだ。
 絶賛やり直し中の俺が言うのだから間違いない。

 さて俺達が今何処にいるかというと海岸沿いに走ってるんだな。
 さっきの爆音の震源地を目指して未だ赤く燃えている方を見ながらな。
 それにしても派手にやってくれる。逆に見つけやすいからいいものの、一体何がどうなっているのやら。
 とにかくヤバい事態になっていることはこれまでの経験上火を見るよりも明らかなので既に戦闘体勢だ。

 何しろ得物だけは豊富だからな。小銃に釘打ち機、ガバメントに日本刀と十二分のお釣りが来る装備だ。
 ゆめみも俺と比べればボリュームは少ないが近接戦闘用の武器と拳銃は持ってる。
 もっともゆめみには無理せずサポートに徹するように言ってあるので心配もしていないが。

 ふと、これは信頼なのかそれとも安心なのかと考える。
 ゆめみはロボットだ。人間の役に立つように設計され、多少の誤差はあれど基本的に人間の命令には何でも従う機械だ。
 だから裏切られる心配はない。言う事を絶対に聞いてくれると考えているから何も憂いはないと思っているのだろうか。
 だがそれは違うと囁く俺もいる。例えロボットであったとしても彼女は自律している。

 ならば、それは人間と同じ個の存在。言われたことを行うだけではない、考える力を持っていると思ってもいる。
 人付き合い、人の心に触れてくることをしなかった俺にはどちらの言い分も正しいように見える。
 所詮はロボットだという冷めた思考と、自分を支えてくれるという希望を孕んだ思考。
 昔の癖が抜け切らないままどちらの考えにも傾いていない。
 腐った大人らしく常に逃げ道を確保しているのだろう。言い訳が出来るように中途半端であろうとしているのか。

733エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:55 ID:PZvpAh8w0
 クソ喰らえだ。

 これまでに積み上げてきた自分を罵倒する一方、逃げの論理を打ち崩す言葉が見つからないのもまた確かだった。
 小賢しい考え全てを吹き飛ばせるような、たったひとつの言葉が見つからない。
 誰かに聞こうという意思はなかった。これは俺で見つけ出さなくてはならない命題なんだ。
 他人からの言葉は受け入れるだけのことでしかなく、俺が考え出した言葉じゃない。
 自分自身で考えた『言葉』が必要なんだ。

 だからこれだけはゆめみにも頼れない。依存はしたくない。俺が自立するための証明を打ち立てるまでは。
 ま、逆に言えば見つければそん時にゃ遠慮なく他人とぶつかり合えるんだろうさ。
 誰にも拠らない、自覚と責任を持った大人になれたってことなんだから。

 俺もまだまだ青臭い部分があるのかもな、と苦笑を噛み締めつつ意識を目前の煙へと向ける。
 やはり俺の目では視界が暗いこともあり何がどうなっているのか判断がつかない。
 だがこういうときにうってつけの人材がいる。ロボットのゆめみさんだ。

「何か見えるか」
「……高槻さん……います」
「あ? いるって」
「……『妹』が……」

 想像も出来ない言葉につかの間思考が吹き飛び、俺は言葉を失う。
 妹? ロボットに妹か? お母さんは誰よ。じゃじゃまるー、ぴっころー、ぽーろりー……
 意味不明な思考のそれ道に入ったところで、しかしゆめみは工学樹脂の瞳を細めただけだった。

 まるでここで出会ったのが信じられないというように。
 急激に茶化した考えの渦が治まり、鋭角的な思考の光が脳裏を満たしていく。
 ゆめみは嘘をつかない。つけないのだ。ロボットだから。
 ならば、言葉の裏に隠されたものの意味は何だ。

734エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:12 ID:PZvpAh8w0
「……同型機、だってのか」
「後継機です。……わたしは、あの子のプロトタイプなんです。
 私自身は日本の設計ですが、あの子はわたしを元にしてより戦闘向きに設計され、
 より戦闘に適した骨格と電子頭脳を有するロボット。……『アハトノイン』です」
「アハトノイン……」

 戦闘用という言葉よりも、『89』を意味する数字の羅列が俺の耳朶を打った。
 ゆめみとは違う、単なる機械ということしか意味しない冷たさが。
 だが、成程理に叶っている。ロボットは嘘を吐かないのと同様に命令されなければ喋ることもない。
 遠隔操作だって出来るだろう。こちら側に送り込む尖兵としては最適というわけだ。

 死ぬことも恐れず、淡々と任務をこなし、壊れてゆくだけの道具。
 捕らえられても何も情報を吐き出しはしないし、主催側に潜入する手段も自爆することによって処分出来るはずなのだ。
 そしてここにいて、何かを爆発させたということは既に向こうは作戦終了したということだ。
 恐らくは、俺達の細い細い希望の線を断ち切って。

 無駄だという冷めた思考が俺の脳髄を渡り、全身に伝播していく。
 脱出する手段がなくなった。これでは仮に首輪をどうにかできたとしても外に出る手段がないではないか。
 となれば脱出するには主催側から奪うしかない。が、果たして殺し合いを管轄する側と戦って勝てる見込みはあるのか。
 幾重にも重ねられた罠、洗練された兵士の軍団、豊富な装備。こちらを上回る要素などいくらでもある。
 勝てるわけがない。その思いは体の動きを止め、俺を呆然と立ち尽くさせた。
 ここまでやってきたことが無駄になったという実感が支配し、曇りが視界を覆っていく。

「高槻さん?」

 ぎょっとしたような表情になってゆめみが振り返る。
 自分より先にいたはずの俺をいつの間にか追い越してしまったことに驚いているようにも見えた。
 工学樹脂の瞳が俺を見据え、どうしたのかと尋ねている。
 内心を悟られているのかと思いながらも、俺は努めて冷静に「いや」と返した。

735エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:39 ID:PZvpAh8w0
「どうしてそんな奴がここにいる」

 全然冷静じゃなかった。分かりきったことを今さら尋ねて何になるというのか。
 ゆめみは無言の間を置いてから「分かりません」と言った。

「わたしには推理を成し得るだけの能力がありません。ですが、事実は分かります。
 砂浜で何かが爆発して、その近くにあの子がいました。だとするならばあの子が何かを握っている。
 それだけは確かだと思います。だから聞き出さなければならない。……そうでしょう?」

 確認を取るようにゆめみは笑った。口元を歪ませる、どこかで見たような笑みだった。
 ぽかん、としばらく呆気に取られる。誰なんだこいつは。誰なんだこの馬鹿は。
 品のない笑い方。ゆめみはこんな表情をしていただろうか。自信満々なこの笑い方をする馬鹿を、俺は一人しか知らない。

「ぴこ」

 ぽん、と肩によじ登ってきたらしいポテトがぽんぽんと肉球で叩く。
 どうやら、もうどうしようもないと自覚した俺は笑うしかなかった。苦笑でも冷笑でもない、何の意味も含まない笑いを。
 小賢しい考えがそれと共に吐き出されていき、俺の腹の中をクリアにしていく。

 ああ、そうだ。これは、俺だ。
 馬鹿野郎だ。こいつはとんでもないことを覚えてしまったアホだ。
 学習してしまったのだ。この俺を。間違いだらけで常に逃げ道を探している大人の姿を。

 打算的で、ずる賢くて、どうしようもない俺の姿がここにある。
 一蓮托生という言葉が思い出され、最早決定事項となってしまっている事実を受け止めるしかないと気付かされる。
 最悪だな。俺は、もうひとりじゃないらしい。
 馬鹿だよ、本当に馬鹿だな。
 誰に言ったのかも分からない独り言が最後の靄の塊だった。

「……そうだな。そうだ、やるだけやってやろうじゃないか」

736エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:58 ID:PZvpAh8w0
 代わりに俺の中を満たすのは『言葉』。不意に発した一蓮托生という言葉が俺の何かを組み上げていくのが感じられる。
 逃げの論理を打ち崩す言葉は、もうそこにあったのだ。
 喧嘩を売りにいってやる。多分、俺はゆめみと同じ笑い方をしている。
 相手がロボットなら遠慮はいらない。思い切りブッ壊してやる。

     *     *     *

 ゆらり。
 罰を受けた罪人のように彼女は歩いている。
 頭を垂れ、プラチナブロンド風に染め上げられた人口の頭髪を纏いながら。

 彼女は罪を背負っている。
 人を裁くは人、その業を真正面から受け止めて、彼女は行動している。
 工学樹脂の瞳は地獄しか映さない。

 なぜ。
 人は殺しあうのか。

 なぜ。
 お互いを食い合うのか。

 なぜ。
 罪を分かりながら食い止めることも出来ないのか。

 ならば、いっそ。
 わたしたちが罪の一切を背負いましょう。
 かつてあった理想郷へとひとを引き戻しましょう。
 それが遍く神に仕えし者どもの役割なのですから。

737エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:29 ID:PZvpAh8w0
 だから。

 あなたを、赦しましょう。

 穏やかに彼女は笑った。
 或いは聖母のように。或いは残酷な子供のように。或いは七つの大罪を犯した悪魔のように。
 漆黒の修道衣がはためいた。

 対になるようにスリットから見え隠れする白い足の、太腿に無骨なグルカ刀を、蛇のように纏わせている。
 右手には小さな手には余り過ぎるサイズの銃。
 P−90と呼称される短機関銃というにはいささか特異なフォルムの兵器がある。
 プラスチックを多用したブルパップ形状のそれは修道衣と同じく不気味な黒色であり、雨に濡れて妖艶さをも醸し出していた。
 女性が片手で持つにあまりにも不釣合いなP−90はしかし、彼女が人間でないことの証明をしているように見えた。
 神に仕えし異形だけに所持を許された、裁きの光。彼女はそのように認識している。

 見上げる。そこには漆黒の海に浮かぶ船の残骸があった。
 辛うじて電源は生きているらしく、ガラスの殆どが砕けた窓からは小さな明かりが明滅している。
 これは、人を冥府へと誘う三途の川の渡し舟だ。誰も救わぬノアの箱舟。
 差し伸べられた手は救いなどなく、牙を覗かせ得物を待ち構える奈落への切符でしかない。

 故に、彼女には責務があった。
 悪魔の手から人を救う。彼女は命じられ、ひとつの思いのままに動く。
 下準備は既に整っている。悪鬼をなぎ払う聖なる光を、神は貸し与え賜うた。

 悪魔は必ずや討ち滅ぼされましょう。

 神よ。それを意味する祈りの言葉が呟かれたと同時、左手に握られた起爆装置のスイッチが押された。
 船の内部、船体を支えるキールや推進機関などに取り付けられた、
 『聖なる光』――俗にセムテックスと呼ばれる高性能プラスチック爆薬が作動し、
 小規模な火球を生成した後莫大な量のエネルギーを船外へと撒き散らした。

738エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:46 ID:PZvpAh8w0
 鉄骨はひしゃげ、キールは折れ曲がり、瞬く間に船としての機能を失わせていく。
 いや船が機能を失うには数秒とかからなかった。元々が座礁し、傷つけていたこともあったからだ。
 船体に罅が入り、海水が雪崩れ込む。スクリューも弾け飛び、残骸の一部を海に漂わせる。
 最早確認する必要もなかった。沈没せずとも修理する手段もない沖木島では、十二分な致命傷である。
 否、たとえ修理する手段があったとしてもこれだけの傷を与えられバラバラになりかけた船体を修理する意味はない。

 任務は達成した。そう断じた彼女の視界の先では、
 爆発と共に引火したのか崩壊した船で小規模な火災が起こっており、もうもうと煙を噴き上げていた。
 雨の度合いからして数時間もあれば自然に収まるだろう。飛び火も心配はない。
 他に命令はない。速やかに帰還すべきという思考に従い、
 浜辺から離れようとした彼女のイヤーレシーバーが二つの足音を聞きつける。
 コンピュータのデータベースから即座に情報を弾き出し、何者かを確認する。

 一名、男。一名、SCR5000Siシリーズ、FL CAPELⅡ型。
 内一名、イレギュラーを撃破した経験有り。危険度は高い。
 しかしそのように判断しつつも彼女、アハトノインは何も構えを見せようとはしなかった。
 邪魔にならないなら無視して構わない。彼女の『主』たるデイビッド・サリンジャーの下した命令を、
 彼女は『攻撃されない限り様子を見ろ』と解釈したのである。あくまで邪魔になるようなら消す。
 つまり、撤退に支障をきたさなければ、攻撃してこなければ攻撃意思も持たない。

 無視して撤退しようとした彼女の頬に銃弾が掠めた。
 続け様に撃ちこまれた弾丸がアハトノインの足元に刺さる。
 発砲音から.500S&W弾だと認識し、即座にP−90を構えて反撃に移る。
 振り向きざまに撃たれたP−90の5.7mm弾が土煙を上げながら敵に迫る。

 人体などの柔らかい物体に命中すると弾が横転して衝撃を物体に最大限伝えようとする性質が有る5.7mm弾は、
 命中すれば確実に肉を削ぎ、一瞬にして致命的なダメージを与える。
 しかし振り向いた僅かのうちに正確に狙いをつけていたにも関わらず、横に散開していた敵は回避してみせたのだ。

739エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:06 ID:PZvpAh8w0
「逃がしゃしないぞ、チップでも何でも引き摺り出して親玉の居場所を吐いてもらう!」
「……申し訳ありません。でも、それでもわたしは……!」

 囲むようにしてこちらに近づく男――高槻と同型機――ほしのゆめみ。
 二対一。何ら問題はない。速やかに排除し、撤退する。
 アハトノインは漆黒の空を仰ぎ、祈りを捧げた。

「あなたを、赦しましょう」

 それが合図となる。
 左右からそれぞれに刀を持った高槻とゆめみが切り下ろしてくる。
 P−90を腰に戻し、グルカ刀に切り替える。
 一歩腰を引き、高槻の刀をグルカ刀で受け止め、同時に後ろに放った蹴りがゆめみの体を九の字に折り曲げる。
 当たったのを感触で確認し、刀を切り払い回し蹴りを高槻の鳩尾に叩き込む。

 アハトノインならではのバランス感覚だった。人間では成し得ない芸当を、彼女は可能にする。
 バランスを崩したところに腕を伸ばし、高槻を地面に引き倒す。
 素早く足で体を踏みつけ、行動不能にしたところでグルカ刀を突き刺そうとしたが、ゆめみに阻まれる。
 500マグナムが火を吹き、アハトノインの腹部に命中する。

 44マグナム弾を遥かに凌ぐ威力を誇る.500S&W弾を受けて足が高槻から離れる。
 野郎、と吐き捨てた高槻の足がアハトノインの膝を折る。
 転倒したところに今度は高槻の持っていたコルト・ガバメントを撃ち込まれる。
 いくらかが命中したものの、致命傷には程遠い。

 修道服は防弾・防爆仕様になっている上人工皮膚も若干の防弾仕様。
 骨格に至ってはマグネシウム合金であるが故に至近距離で爆発でも起こされるか、
 鉄骨に押し潰されるかしないと折れ曲がりすらしない。
 アハトノインが受けたダメージは衝撃のみという有様だった。

740エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:23 ID:PZvpAh8w0
 銃撃されたことにしてもゆめみがロボットだということを計算していなかっただけの話。
 各駆動部に異常が無いことを一秒未満でチェックし、再攻撃に移る。
 立ち上がったばかりの高槻に畳み掛けるようにグルカ刀で斬りかかる。
 刀で受け止めようとする高槻だが力の差は歴然としていた。アハトノインもそれが分かっていた。
 銃への対応と比べて不慣れな様子であるのは目に見えていた。それでも格闘戦に持ち込んだのは武器の差があるため。

 P−90を相手に撃ち合いをしなかった判断は正しい。だが格闘戦の力量を見間違えたというのが彼女の結論だ。
 力でも技量でも下回る部分はない。アハトノインは刀を弾き、体を浮かせたところに鋭く突きを入れる。
 元来グルカ刀は突くための武器ではないが、それでもダメージを与えられると計算しての行動だった。
 何より、このような力押しの攻撃でさえ人間にとっては脅威なのだ。それほど、アハトノインのスペックは高い。

「っぐ!」

 深くは刺さらなかったものの脇腹の表層に当たり、高槻が苦悶の声を上げる。
 返す刀で更に追撃。避けようとしたが、遅い。振る前から分かりきっていた。
 本来の使用法である、袈裟の切り下ろし――斧がよろしく薙がれた刃は高槻の二の腕を深く切り裂いた。

 倒れる高槻。止めはいつでも刺せると判断したアハトノインはもうひとつの脅威へと体を翻した。
 忍者刀を振るゆめみの腕を空いた手で掴み、そのまま中空へと投げ飛ばす。
 落ちたところにグルカ刀を突き刺す。そのつもりで一歩踏み込んだ。

「このくらい……!」

 計算が外れる。器用に着地したゆめみは素早く刀を逆手に持ち替え、射程圏内へと接近していたアハトノインに刺突を繰り出す。
 緊急回避。脚部モーターを最大限のパワーで動かしバックステップする。突きと共に振り上げられた刀は空を切る。
 データが違う。事前に登録されていたほしのゆめみのスペックではこんな動きは出来ない。
 様々な可能性を視野に入れるも、彼女のスペックがどれほどなのか分からない。何しろ、ゆめみにも過去のデータはない。

 アンノウン『正体不明』と戦うことは決して芳しいことではない。
 戦法を変更する必要性があった。速戦即決から様子見に。敵の力量を測る必要がある。
 距離を取り、グルカ刀を構えつつ一定の距離を保つ。
 P−90は取らなかった。この程度の距離では寧ろ取り回しが悪い。
 人間相手ならともかくスペックの不明な同型機に対して使用するのは危険だと判断したからだ。

741エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:42 ID:PZvpAh8w0
「……お尋ねしても、宜しいでしょうか」

 ゆめみがアハトノインに向けて言葉を発する。悪魔の言葉だ。
 耳は貸さない。貸してしまえば自分も悪魔になる。我々は悪魔を討ち滅ぼす矢だ。矢は飛ぶだけ。
 何も言葉は必要ない。
 けれども、しかし……彼女はあまりに慈悲深く、やさしく作られていた。

「あなたを、赦しましょう。ですから、どうかそれ以上何も仰らないで下さい。魂を、汚してしまう前に」

 能面が割れ、柔らかい笑みが形作られる。それだけ見れば、アハトノインは聖女のように見えた。
 そうですか、と嘆き悲しむように、苦渋を飲み下すように、ゆめみはそう言った。
 それでも私達はやらなければならない。神は、私達に力を与えてくださったのだから。

「神も、あなた方をお赦しになられるでしょう。救われるのです」

 会話が終わると同時、見計らったようにアハトノインが踏み込む。
 自身の射程は完璧に把握している。刃先がギリギリ肌を切るようにグルカ刀を振り下ろす。
 回避することも計算に入れた早い攻撃。受けは取れない。
 しかしゆめみはまたしても想定外の動きでアハトノインを翻弄する。
 大きく跳躍したゆめみはグルカ刀の射程から逃れ、踏みつけようとしてくる。

 切磋に腕でカバー。押し戻す。後ろに着地したゆめみにアハトノインも反転して切りかかる。
 アハトノインの肩口には刺し傷があった。腕で受け止めたと同時に突き刺したと判断する。
 上空からの攻撃パターンとして認知。敵戦術を予測。
 再び跳んで回避しようとしたゆめみだったが、アハトノインの切りかかるモーションはフェイントだった。

742エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:01 ID:PZvpAh8w0
 上空に舞い上がった直後のゆめみに更に接近し、足を掴む。
 そのままぶん、とジャイアントスイングのように振り回し地面へと叩き付ける。
 砂浜をごろごろと何回も転がっていくゆめみ。
 アハトノインはその瞬間に加速を始めていた。起き上がりを狙って頭部を叩き割ろうとグルカ刀を振る。
 ゆめみが咄嗟の判断か、刀を横に構えグルカ刀を受け止める。
 火花が爆ぜ、ギチギチと二本の刀がぶつかり合う。

「悔いることはありません。あなたはそのことに気付いたのですから」

 しかし、上から力を加えるアハトノインと下から押し上げようとするゆめみとでは断然アハトノインの方が有利だ。
 その上元々のマシンパワーの差か、悲鳴を上げるゆめみの腕部に対してアハトノインはほぼ負荷もかかっていない。
 スペック差は歴然。AIが優秀だったのだと結論付けて更に力を強める。

「恥じることはありません。あなたはそのことを知ったのだから」

 褒め称えるように、アハトノインは歌い、謳った。贖罪の言葉であり、断罪の言葉だった。
 悪魔の魂は浄化される。さすれば、彼女も同じ天国に行くことができる。
 最初は拮抗していたバランスも徐々に崩れ、少しずつアハトノインの力がゆめみを屈服させていた。

「変わりなさい。でも目を上げ、敬うことを忘れてはいけません」

 それは、教えだった。
 魂を導く者としての義務。
 やり直さなければならない。
 救われぬ悪魔を救うために。神の慈悲を正しく浮け給うために――

「冗談じゃねぇ」

 アハトノインの言葉を遮るように、低くしわがれた声が突き破った。
 同時、体に衝撃。上半身を中心にして高槻の撃った45口径の弾丸がアハトノインを吹き飛ばす。
 防弾性能の高い修道服によりほぼダメージはなかったものの、またもや予想外に阻まれる。
 計算上では、高槻は数分は身動きも取れないはずなのに。

743エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:23 ID:PZvpAh8w0
 むくりと起き上がったアハトノインに、苛立ちと怒りを含んだ舌打ちが向けられる。
 上半身を起き上がらせ、息も絶え絶えという様子にも関わらず高槻からは一切の澱みも見受けられない。

 ああ、やはり彼は悪魔なのだ。救うことも叶わぬ深淵を這いずる屍人になってしまった。

 神よ、お赦し下さい。罪を犯す私をお赦し下さい。ですから、彼には永久の安らぎを。

「手前の勝手を押し付けるな。俺達は誰の指図も受けない。救ってもらおうとも思わない。
 俺達は孤立して生きるんだよ。神だ何だ、そんなものに縋らなくても立って歩いていける、そんな生き方だ。
 クソ喰らえだ。真っ平御免だ。そんなのは甘えてるだけだ。自分勝手だろうが、俺は、俺に拠っていきたいんだよ。
 そうさ。俺はお前らのようなのが、大っ嫌いなんでね」

 ゆらりと立ち上がった高槻が鉈を取り出し、投げる。ぐるぐると円を描いて首を狩るように迫るが大したこともない。
 軌道を読み、回避しつつ高槻に接近する。続けてガバメントも投げてくるが、掠りもしない。
 更に武器を取り出そうとするが、遅い。射程に入った。
 グルカ刀を振りかぶる……その前に、アハトノインは突如として反転して、突きつけられようとしていたものを掴んだ。

「!?」

 掴んだものはガバメントを構えていたゆめみの腕。至近距離に迫っていた彼女の体を引き寄せ、片手だけで背負い投げる。
 ガバメントが弾切れでないことは見切っていた。ゆめみが立ち上がり、後ろに忍び寄っていたのも知っていた。
 ゆめみの持つ500マグナムが弾切れであること、想定外を主戦法とする彼らの行動を踏まえれば想像は容易かった。
 想定は的中した。投げたガバメントを後ろで受け取り、至近距離から狙撃する。
 アハトノインは、学習していたのである。

 呆気に取られる二人の姿が見えた。アハトノインはゆめみを高槻へと投げつける。
 大の字になって飛んでいく彼女の体を怪我した高槻が受け止められるはずはない。避けられるはずもない。
 悲鳴を上げ、もつれながらごろごろと転がっていく二人。ターゲットが固まる。
 ならば、一気に止めを刺す。任務達成だ。
 P−90を取り出し、弾倉を素早く交換すると瞬時に狙いをつける。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 慈悲深い笑みが浮かぶ。たおやかで、どこまでも純粋なそれは、正しくロボットの表情だった。

744エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:03 ID:PZvpAh8w0
     *     *     *

「……よし、これだけ集めれば十分だろう」

 そう言いながら、芳野祐介は両手に抱えたロケット花火の山を袋詰めにしてゆく。
 雨なので濡れないように、とわざわざ二重に袋を使って。

「役に立つといいですね、これ」

 言葉を選ぶように藤林杏が言う。芳野もああ、と同意した。
 これで必要な材料のうち二つが揃ったことになる。残る一つは向こうが揃えてくれる手はずだから、一旦戻ってもいい。
 高槻たちも連れて帰った方がいいだろう。考えて、芳野は先ほどの出来事を思い出してため息をついた。
 神経過敏なのだろうか。犬(?)一匹に警戒し、あまつさえ慰められる始末。
 お陰で今は多少の冷静さを取り戻し、こうやって過去を思い返すことだって出来ている。

 俺はおかしかったのかもしれない、と芳野は自虐的な感想を抱いた。
 これまでの経験から言えば、仕方のないことなのだろう。出会う連中の大半が敵であり、その度にほぼ誰かしらを失っている。
 そして自分は事態に即応出来ず、結果仲間を殺させてしまう場合が多かった。
 瑞佳、あかり、詩子。守ると宣言したはずの人々は誰一人として守れず、助けられることさえあった。
 自分を責めたってどうにもならないことは分かっている。
 逃げちゃいけないと、強く言って手を握り締めたあかりの感触が未だにこびりついている。

 しかし、それでも――芳野は己の無能さを嘆かずにはいられない。
 果たして自分は誰かの役に立てるのか。誰かを守り通せるのか。大人として正しい道を指し示せるのか。
 なにひとつ、どれひとつとして確信が持てない。
 生きている価値なんてないのではという冷たい思考が時折流れ込み、それすら受け止めようとしている。
 その度に自分を戒め、まだ投げ出すわけにはいかないと必死に言い聞かせる。

 それでも腹の奥底に、へばりつくようにして「死んでしまえよ、役立たず」と主張する声があった。
 声は若かった。若い自分の声で、よく目を凝らしてみれば人の形をしている。
 慢性的に薬を服用していた過去の自分だった。頬は痩せ、焦点の合わない目つきを湛えてうずくまっている。

745エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:38 ID:PZvpAh8w0
 お前じゃ誰も救えない。お前の歌なんて上辺だけだ。全部自己満足。そうだろう、俺?

 ことあるごとに奴はそう囁いてくる。
 誰かが死んだことを実感した瞬間によく現れる。ぬっと忍び寄ってきては蔑むように笑うのだ。
 言い返そうとしてもそのときには影も形もなく消えている。言葉だけを一方的に伝え、自分を押し付けるのだ。
 まるで、昔の自分の歌のように。
 耳障りで、不愉快で、異常なほど喚き散らすそれは、しかし、確かに自分だった。

『言い訳してみろよ』

 また耳元で奴が囁いた。

『あれはしょうがなかったんだ、逃げちゃダメだって言われたからなんだ、責任を取らなきゃいけないからなんだ』

 声はいつもにも増して饒舌だった。
 掠れた声で、意味もなく叫ぶような、独り善がりな歌だった。

『さあ、どれがお好みですか?』

 そして消える。残されたのは肯定も否定も出来ない自分だった。
 その通りだと納得している自分がいて、ここにいるのは自分の意志だと抗っている自分がいる。
 だが結局のところ結論を出せてもいない。

 確固たる己を持ち、何をしていけばいいのかも分からない。
 死ぬのはいけないとは思っていても、だからどうする、そこまで考えが及んでいないというのが現状だった。
 義務感に衝き動かされているだけで希望も持てない。こんな自分は……

「芳野さん?」

 聞こえた杏の声に顔を上げる。どうやら棒立ちになって止まっていたらしく、杏の姿は少し前にあった。
 心配そうに芳野を見ていた。瞳が揺れ、当惑した表情が向けられている。

746エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:55 ID:PZvpAh8w0
「いや……」

 なんでもない、そう言い返そうとしたときだった。
 ドン、という重低音が遥か向こう、鎌石村の先から聞こえてきたのだ。
 杏も芳野もぎょっとしてそちらへと視線を向ける。
 暗くてどうなっているのか分からないが、僅かに感じた地響きがただの災害などではないと訴えていた。
 地震ではないことは明らかだった。恐らくは人為的に引き起こされたものだろう……例えば、爆発のような。

「行こう」

 考えたときには、もう芳野の足が動いていた。もしこれが人為的なものだとしたら、誰かが殺しあっている可能性がある。
 見過ごすわけにはいかない。小走りに現場の方へ向かう芳野に、慌てたように杏が手綱を握った。

「あ、あれ、何なんですか!?」
「正確には分からない。だがろくでもないことなのは確かだと思うぞ」
「間に合いますか!?」
「間に合わせるんだ」

 言って、この言葉は本当に自分のものなのかという疑問が鎌をもたげた。
 これも義務感でしかないのだろうか。何故あそこへと足を向けているのだ。
 悪いことだとは思っていない。だが自分自身、何故助けに行くのかという質問に答えることが出来なかった。
 大人として助けにいかなければ。正しいあり方を示さなければいけないから。
 普遍的な答えは出てくるもののそれは一般論でしかない。

 俺は、何がしたいんだ?

 信念も論理もない、ただ規範に動かされているだけではないのか。
 なら自分は、どうして生きている。どこに自分の価値を見出せばいいのか分からなかった。

747エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:11 ID:PZvpAh8w0
『なら、死んでしまえよ』

 ぼそりと、乱暴に、傲岸に、奴が言った。

『お前なんかが期待を背負えるものか』

 歌が奏でられる。

『だから皆死ぬんだ。――お前のせいで』

 怜悧な刃物が心臓を貫いたような気がした。
 痛みが広がり、それに伴って脱力感が自分を支配していく。
 俺じゃ引っ張っていけない、そんな無力感が絡みつくと共にまた奴が耳元に寄る。

『役立たずが――』

「芳野さん!」

 またしても遮ったのは杏の声だった。
 今度は若干、怒気を孕んだようにして。
 それまでの杏は弱気だったり遠慮を含んでいたが、それを一気に断ち切ったかのように唇をへの字に曲げていた。
 要するに……キレていた。

「さっきから話しかけていたんですけど。……大丈夫なんですか?」
「あ、ああ……」

 答えたが、杏は何がますます気に入らないというように瞳を険しくした。
 はぁ、と息を吐き出して杏はウォプタルの足を止めた。

748エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:26 ID:PZvpAh8w0
「芳野さんも止まってください」
「は?」
「止まってください」

 語調を強められ、何故だか従わなければいけないような気がした。
 こんなことをしていていいのかという気になったが、不可抗力だった。
 無言で走るのをやめた芳野に対して、杏は上から見下ろしたまま話を続ける。

「もう一度聞きますけど、大丈夫なんですか、本当に」

 真摯な目がこちらに向けられる。もうなりふり構わないような、やるだけやってみようという若い意思があった。
 もしくは堪忍袋の緒が切れたというべきなのか。
 けれどもどうしてそうなったのかがまるで理解出来ず、芳野はただ答えることしか出来なかった。

「……大丈夫だ」

 そう、問題はない。身体的には、何も問題はない。
 それよりもこうして年下に心配されたことの方に対して芳野は恥じ入るような気持ちだった。
 こんなことではいけない、もっとしっかりしなければいけない。
 奴の声は徹底的に無視する。奴の言うことが正しいのだとしても関係ない。
 自分が率先して先を進まなければいけないのだから。

「そうですか、分かりました……じゃあ、もういいです」
「は?」

 言うが早いか、杏は手綱を握り直して芳野を置いて先に進もうとする。
 杏の行動に一瞬呆然とした芳野だったが、すぐに我を取り戻し杏の追う様にして走る。
 だが先程のように合わせて走っていたのとは違い、今は全力に近い状態出している。
 馬と人間でかけっこをしているようなものだった。芳野はみるみるうちに距離を開けられる。

749エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:42 ID:PZvpAh8w0
「ま、待て! どういうことなんだ!」
「今の芳野さんじゃもう任せられません! おかしいですよさっきから! ぼーっとしてたし!」
「いや、それは……」
「そんなにあたしが信用出来ないですか!?」

 杏の言葉に頭を一撃された芳野は何も言い返せず、黙ってその言葉を受け止めた。
 信用。していないつもりなどなかった。共に同じ知り合いを持っているし、言葉だって幾分か交し合った。
 そのつもりだったのに。

「さっきだってそうでしょう? あたしの言葉にはあんまり反応がなかったのにあの音にはすぐ反応した。
 まるで、状況に動かされてるように……芳野さんが思ってる以上に分かりやすかったですよ」
「そう、なのか」

 言って、自分でも気の抜けた言葉だと思った。
 意識してなかっただけで、自分がこんなに分かりやすい行動を取っていたというのか。
 なんとも言いがたい、拍子抜けした感を味わい呆れ返りそうになった。
 杏もそれを感じ取ったらしく、ウォプタルの動きを止める。

「あーもう、なんというか……高槻と話してたときからそうでしたけど、こう、
 使命感とか、義務感とか、そんなことに衝き動かされてるだけのようにしか見えないんです。
 あたし達なんて目にも入ってない。言い方、悪いですけど」

 杏に追いついた芳野だったが、何も言葉は浮かばなかった。
 まるで図星だった。ここまで明け透けだったとは寧ろ笑えてくる。

「いいじゃないですか、別に。大人でも子供でも、男でも女でも」

 憤慨したように、不貞腐れたように、杏が愚痴を漏らす。
 それは芳野に向けているようでもあり、また言い出せなかった杏自身に対して怒っているようにも思えた。

750エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:04 ID:PZvpAh8w0
「そんなので立場をどうこうするなんて、あたしは嫌い。
 ということで本当ならあたしより芳野さんがこの子を使った方が戦略上いいんじゃないかなー、
 って思って譲ろうとしましたけど芳野さんがそんな人だからやめました。
 ええやめましたとも。そんな人に譲りたくないですから」

 一気にまくしたてると、杏は幾分かすっきりしたように、苦笑を含んだ表情のまま嘆息した。
 不意に芳野の中で、以前語られた言葉が蘇る。
 たくさんの人で覚えていることができる。
 別に一人で覚えておく必要などなく、多くの人で覚えておくことができる。
 一人じゃなくても。

「済まん」

 短く発せられた言葉に、今度は杏が目をしばたかせる番だった。

「あ、いや、ひょっとして調子に乗ってたかも……」

 自分の言ったことの重大性に気付いたらしい杏はいくらか顔を青褪めさせたようになって、
 しどろもどろに返事をした。そういう部分では、まだ杏は子供だった。
 子供だったが……同じ人間で、同じ立場だ。
 何ら変わりない。優劣なんてない、殺し合いの参加者同士だ。

「いや、そんなことはない。悪かっ」
「ぴこ!」
「ぶっ!?」

 いきなり白い物体が飛びはね、もふもふした感触が顔面に張り付いた。
 獣臭い匂いであることから寄生生物ではなさそうだ。地球外生命体の可能性は高そうだったが。
 前の見えない芳野はどうなっているのか分からず、杏(がいると思われる)方向にフォローを求めた。

751エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:23 ID:PZvpAh8w0
「あ! 高槻の……どうしたのよ、こんなところで?」

 どうやら高槻にまとわりついていた白い毛玉生物らしかった。
 ぴこぴこぴーこー! と何やら怒ったように鳴いている。
 ひょっとして近くにいるのに気付かず、スルーでもしていたのだろうか。

 が、芳野にとってそんなことはどうでもよく、まずは暑苦しいこいつをどうにかしたかった。
 むんずと身体を掴むと一気に引き剥がしてぽいっと投げ捨てる。
 少々酷い扱いだったが、毛玉は事もなげに着地してぴこぴこと尻尾を振った。

「なんなんだ、あれは」
「……ついてこいって事じゃないですかね」

 そうかもしれない、と芳野は同意した。
 よく考えてみればこの毛玉はいつも高槻の傍にいた。
 それが今ここにいるということは、メッセンジャーとして寄越したということではないのか。
 高槻たちもあの爆音を聞いたのだとしたら、伝達役を寄越すのは納得がいく。

「早急に向かった方が良さそうだな」
「ですね。……この子、使います?」

 ウォプタルを示す杏に「いいのか」と尋ねる。

「まあ、その、失礼なこと言いましたから」

 そっけない風に言う杏に苦笑しながら「そうだな」と返す。
 きっとそれだけが理由ではないのだろう。どうも自分はほとほと分かりやすい人種であるらしい。
 けれども不思議と悪い気分ではない。少しだけ、自由になった気分だった。
 もっと自分は無責任になってもいいらしいということが分かったから。

752エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:41 ID:PZvpAh8w0
 そういうことだ、と芳野は見えもしない『奴』に語る。
 お前の歌は聞き飽きた。いや雑音と言うべきか。
 俺は歌を押し付けない。俺は歌うだけだ。聞いても聞かなくてもいい、そんな歌を。
 性質は同じなのだろう。どちらも決して必要ではないという点では。
 だがこれだけは言える。この歌は、誰も押し潰さない。
 誰をも縛り付けない、自由を奏でる歌を。

「じゃあ借りるぞ」
「まあ行けそうだったらあたしも行きます。……戦えるかどうか、分からないけど」

 ウォプタルから降りたとき、杏が苦痛に顔を歪ませる。
 当たり前だ。こんな短時間で完治するはずがない。
 それでも杏が行こうとしたのは、それだけ自分が酷かったということなのだろう。
 今だってどうかは分からないが……それでも、マシにはなったはずだと断じて、芳野は乗り込む。

「道案内を頼む!」

 ぴこ、と頷いて走り出す毛玉に続いて、芳野はウォプタルを走らせた。
 『奴』が忍び寄ってくる気配は、感じられなかった。

     *     *     *

 ひとり残された杏は駆けていく二匹の動物と、一人の男の背を見えなくなるまで眺めていた。
 体はまだごわごわした感触が残っており、歩き始めればまた痛みがぶりかえしてくるのだろうと推測する。
 そう思って歩き始めてみれば、実際やはり痛かった。ウォプタルを譲って良かったと思う。

 目が早いとはそういうことなのだろう、と杏は生意気な言葉をぶつけてきた高槻のことを考える。
 なんとなく見返せたようで気分は悪くない。こう思えば、決して自分は無力じゃないのだとも自覚する。
 無理はしなくていい。今やれることをやればいい。
 もちろんひとりでは些細なものにしか過ぎないが、これが二人三人と積み重なれば結果として強い力になる。
 信頼とか、協力という言葉の意味は、結局のところそういうものだ。

753エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:19 ID:PZvpAh8w0
 心の全てを知ることは絶対に出来ない。だから自分達は孤独なままだ。
 であるからこそ人は寄り集まって自分の持つものの意味を知ろうとする。
 人と関わり合い、差を知ることで自分を知り、己の持つ力がどんなものかを知る。
 とはいってもそれ以外の理由もあるには違いないのだが。

 性分なのだろう、と杏は思った。
 一人で突っ走ろうとする奴を見ると止めたくなる。
 朋也にしろ、浩平にしろそうだった。だから二人の死が、こんなにも悔しい。
 そして、芳野も。

「やっぱ、朋也とそっくりよね……」

 無論違う部分はあるが、本質が似すぎているのだ。
 人に本音を語らないところが、特に。

「少しは、変われたかな」

 高槻に言われて以来芳野をじっと観察していたからこそ、なんとなくだがおかしくなっていたことに気付けた。
 もうこりごりだった。自分がよく見ていなかったばかりに失敗を犯してしまうのは。
 勝平の死も、七海の死も、もう少し目を早くしていれば適切な判断を下せていたのだろう。
 そういう意味では、既に自分は二人殺している。

 胸が収縮し、息苦しくなるが自分にはそれだけじゃない。
 この事実を分かち合える人たちの存在を、藤林杏は知っている。
 あたしはまだ、頼っていいんだ。
 ……子供だしね。

754エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:40 ID:PZvpAh8w0
 理由付けした瞬間、傑作だという思いが沸き上がりくっくっと低い笑いが漏れた。
 また体が痛んだがこの気持ちを抑えることは出来なかった。
 そう、自分は青臭い子供だ。何もかもを考えて分かりきった大人を気取るには全然早い。
 だったら助言を求めて何が悪いのか。
 開き直りだと思いつつもそれでいいと納得する。

「……!」

 そうして笑っていると、森の向こうから銃声のような音が聞こえてきた。
 雨に紛れての音だったので単発なのか、複数なのかは分からない。
 自然と手に力が入り、誰かが生死の境を漂っていることを想像させ、杏は緊張する。
 そこに自分は行けない。こうして傍観していることしか出来ない。
 だから信じるだけだ。足を早めるために芳野にウォプタルを貸し与えることを決めた自分の判断に。

「……死なないでよ」

 願うように、杏は雨粒を降らせる空を見上げた。

     *     *     *

 人間には、家族というものがいる。
 親と子、兄弟、親戚……血の繋がりによって形成されるコロニーだ。
 家族にはいくつかの取り決めがある。

 家族同士で婚姻関係を結んではならない。
 家族はお互いを助け合わなければならない。
 家族は殺しあってはいけない。

755エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:04 ID:PZvpAh8w0
 ならば自分はその禁忌を犯したと同義なのだろうか。
 ほしのゆめみは考える。
 妹を壊そうとした、これが報いなのだろうかと。
 所詮自分は出来損ないだったということか。
 人間の役にも立てず、間違いを犯して、挙句頭脳までおかしくなった。

 こわれている。

 そんなわたしは処分されて然るべきだ、理性を管理するプログラムはそう報告していた。
 意味不明のエラーが続いていた我が身を考えれば当然のことだった。
 疑問に対する返答を弾き出したにもかかわらず再度同じ疑問を抱き思考を繰り返す。
 ループバグだった。結論が出たはずの答えをいつまでも繰り返す。

 この行動は正しいのか。
 この考えは本当に間違っていないか。

 事あるごとにそんな質問が生まれる。
 ただ質問の内容によってはいきなりバグが解決することもあった。
 特に修正を加えたわけでもないのにそれきりバグは再発しない。
 そしてそういうときにはいつも決まって、思考体系がすっきりしているのだ。
 この不可解な現象をどう定義づけたらいいのだろう。
 思考する必要はなかった。そうするまでもなく、自分はこわれている。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 それはこわれたものに対する哀れと慈愛だった。
 救いと赦しの手を差し伸べる慈悲だった。
 手を取れば、きっとわたしは救済されるのだろう。
 罪の一切を洗い流し、新しく、こわれていない存在へと生まれ変わることが出来るのだろう。
 きっとそれはわたし達『どれも』が望むことなのだ。
 だから、わたしは――

756エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:26 ID:PZvpAh8w0











「冗談じゃありません。貴女の勝手を、押し付けないで下さい」


 銃声を拒絶した。

757エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:50 ID:PZvpAh8w0
 遮二無二立ち上がり、ゆめみは高槻から譲り受けたガバメントを真っ直ぐ、躊躇いなく、個の意志を以って引き金を引いた。
 アメリカ人が好む大口径の45弾が今までのどんな射撃よりも精密にアハトノインの手首を撃ち貫いた。

 防弾コート部分とは異なり人工皮膚はそれなりに衝撃を緩和する程度の性能しかなく、
 22LR弾の実に3.9倍もの威力を誇る45ACP弾を食い止めることなど到底出来はしなかった。
 人工皮膚を通過した弾丸は回転しながら爆発的にエネルギーを拡散させ、
 内部の神経回路はもとより手と腕を繋いでいた関節部の金属をも粉々に粉砕した。
 関節部もマグネシウム合金ではあったものの骨格と比べ薄く、耐久度は劣っていた。
 結果としてP−90を保持したままアハトノインの右手は吹き飛び、退却をせざるをいけない状況に追い込まれた。

 だがゆめみ一人が相手ならまだそこまではいかなかった。
 そもそもゆめみは銃弾の一発も当たってはいない。アハトノインも撃てなかった。
 何故か? アハトノインは行動を阻害されたからである。

「残念だが、ここまでだ」

 ウォプタルに乗って現れ、ウージーの弾幕でゆめみを援護した、芳野祐介という新手の存在に。
 ゆめみが聞いたのは芳野の銃声。拒絶したのは、アハトノインの銃声だ。

「ちっ、遅いんだよバカヤロウ」
「期待もしていなかったくせに、よく言う」

 悪態をつきながら、高槻も立ち上がっていた。
 ゆめみ、高槻に加えて芳野まで加わったこの状況、
 右手とP−90を失った現状においてはさしものアハトノインも不利を認識するしかなかった。

「逃げられると思うか」

 芳野がウージーを、高槻が新たに89式小銃を、そしてゆめみがガバメントを。
 一斉射撃の構えを見せて、それでもアハトノインは動じなかった。
 何の躊躇いもなく左手で腰に備えてあった球状の物体を即座に三つ放り投げる。

758エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:16 ID:PZvpAh8w0
 途端、凄まじい煙の群れが三人を覆いつくし、瞬く間に視界を奪った。
 それがスモーク・グレネードだと理解し三人が煙から脱出したときには、既にアハトノインの姿はなかった。
 まるで、最初からそこにはいなかったかのように。

「……ちっ、こんだけ苦労して手に入れたのがこれかよ」

 全身あらゆる箇所に傷を負い、ボロボロで動きも覚束ない高槻がアハトノインの右手がついたままのP−90を拾い上げる。
 そう、戦闘には勝利したものの寧ろ状況は悪化した。
 脱出の要であるはずの船は完膚なきまでに破壊され、いたずらに弾薬を消費し、怪我まで負った。
 ちくしょう、と呻いて高槻は砂浜に雨や泥がまとわりつくのも構わず身を投げ出した。

「ぴこ」
「……すまん、間に合わなかった」

 ポテトに対して、懺悔するように高槻は語った。高槻らしい、とゆめみは思う。

「だが、俺達は生きている」

 呼応するように芳野が返した。「とりあえずはな」と続けて、芳野はゆめみの方に視線を向けた。

「そっちは大丈夫なんだな」
「はい。何も問題はありません」

 微笑してゆめみは返答した。高槻に比べれば傷なんて皆無に等しい。
 問題があるとすれば、自分がこわれていることだろうか。
 そう、自分はこわれている。時折生じる不可解な現象。こんなものがあってこわれていないと言えるだろうか。
 だが、それでよかった。正常なデータだとしてもこの現象を定義付ける言葉は、きっと書かれていない。
 だから自分で考えようと思った。定義付ける言葉を。

759エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:28 ID:PZvpAh8w0
 考えるロボット。それは、きっとこわれている。

 故にわたしは、機械ではない。そう思うのは、少し傲慢だろうか。
 いや傲慢でいい。
 わたしは、高槻さんの……パートナー、なのですから。

760エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:46 ID:PZvpAh8w0
【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:D-1】

タイタニック高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光二個)、コルトガバメント(装弾数:2/7)予備弾(5)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。船や飛行機などを探す。爆弾の材料も探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(0/5、予備弾7発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾0/30)、予備マガジン×3、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:杏に付き従って爆弾の材料を探す。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。芳野に付き従って爆弾の材料及び友人達、椋を探す。待機中】
ウォプタル
【状態:芳野が乗馬中】


【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:???】

アハトノイン(02)
【状態:任務終了。撤退中。右手損失】
【装備:グルカ刀、P−90の弾倉(50発)×5】

【その他:岸田洋一の乗ってきた船が完璧に破壊されました。P−90(50/50)が砂浜にあります】

761選抜:2009/05/12(火) 21:53:01 ID:rRGW6PJE0
「え?」

その錯覚は、氷上シュンの思い過ごしではなかった。
太田加奈子が名倉由依の姿を整えている間、彼はプールの設備がある建物の入り口にて待機をしていた。
この場所ならば、もし中で危険があってもすぐ駆けつけることが可能であろう。
また外敵を確認するにも、目の前の開けた景色を見渡せるその場所は好都合だった。
入り口の奥まった箇所にて周囲に対し気を張り詰めていたシュンであるが、彼が予想していた以上に加奈子と由依の戻りというのは遅かった。
何かあったのかと気にはなるシュンであるが、そこは男児が立ち入ってはいけない領域である。
シュンには待ち続ける以外の、選択肢は用意されていなかった。

そんな彼の耳に、ふと聞き覚えのない少女の声が届く。
思わずシュンが反応を声として零してしまったのが、冒頭のそれだ。
誰かに呼ばれた気のしたシュンは、顔を少し出し広い中庭に目をやった。
田舎の学校らしい自然の多いそこには、特別目立ったものはない。
スペースが広く取られた花壇に、学園長か創設者であろう少し薄汚れた石造が一つ。

人気がないことを確信した上で、シュンはまず花壇の方向へと近づいていった。
特別植物に詳しいわけでもないシュンには、彩り鮮やか花々の細かな違いなど分からない。

(こっちの方向ではなかったのかな……)

再度声が上がるようであれば、また確かめなおすこともできただろう。
しかし一度声を上げてから声の主は、依然と沈黙を守り続けていた。
と、何かないかと細かく視線を動かすシュンの目に、ふと不自然な物が飛び込んでくる。
そこは、花壇の隅だった。
少し盛り上がった土の部分は、つい最近掘り起こされたという事実を浮かび上がらせている。
花壇である敷地のはずなのに花がないことから、それはシュンも瞬時に判断できただろう。
では、何のために掘られたのか。

762選抜:2009/05/12(火) 21:53:27 ID:rRGW6PJE0
土の上には、この島に放り込まれた人物なら誰でも持っているはずのデイバッグが置かれている。
勿論、今もシュンが肩から提げている物と同じだ。
……言葉が出ない歯がゆさを、シュンは眉間の皺で語る。
簡易的に作られた墓を表す目の前の光景に痛む胸、吹く風は朝の爽やかさを伴っているのに、シュンの心は暗く沈んでいく。
デイバッグをそっと開けると、シュンの鞄にも入っていたような支給品が顔を覗かせてくる。
ペットボトルに入った水は、満タンだった。
食料が僅かに減っていることから、水のみ途中で中を足したのかもしれない。

シュンはその鞄の持ち主を知りたい一心で、デイバッグの中身を漁り続けた。
だが結局、そのような情報が一切見えてくることはなかった。
さすがのシュンも、墓を掘り起こすといった無粋な考えは起こさない。
土の中で眠る誰かと、こうしてわざわざ墓を拵えた誰かの気持ちを思えば、当たり前のことだろう。
本当は、デイバッグもそのままにすべきなのかもしれない。

しかし今、シュンの肩にかけられているデイバッグの重みは確かに増したものになっている。
今後のことを考えると、限りのある食料等は十分に持っておきたいという気持ちがシュンの中では強かった。
中身のみ抜き取るという行為が蝕む罪悪感を胸に、シュンはぎゅっと拳を握りこむ。
またその中には、シュンの持ち物には入っていなかった気になる小さなパーツもあった。
フラッシュメモリ。
きっと、それがこの鞄の持ち主に与えられた支給品なのだろう。
何か今後の役に立てばと思いながら、シュンは小さく手を合わせるとそっと花壇に背を向けた。




次にシュンは、気になっていたもう一つのオブジェである石造に近づいた。
凛々しい顔立ちのロマンスグレーの胸には、青い石があしらわれた見た目にも豪勢なタイピンが光っていた。
シュンが像に見入っていたこの時にも、日の光を反射し青い石は我の強い主張を行っていた。
古ぼけた校舎を持つこの学校には、あいまみえるような派手さだった。
見るものを魅了する宝石のようなそれ、シュンが見入っている時……彼の求めていたあの声が、シュンの鼓膜を振動させる。

763選抜:2009/05/12(火) 21:53:46 ID:rRGW6PJE0
『こんにちは。やっとみつけてくれた』

声。その声は、シュンが探して少女のものに違いないだろう。
殺し合わなければいけない状況に巻き込まれているにも関わらず、その声色には緊張感が含まれた様子がなかった。
警戒を覚えたシュンは、いまだ姿を表さない相手の出方を慎重に窺おうとする。

『どこ見てるの?』
「君がどこにいるのか、探しているつもりなんだけど」
『目の前だよ』
「……?」

シュンの前には、例の石造しかない。
試しに石造の周りを一周してみるシュンだが、勿論誰かがいる訳でもなく。

『違う。ここ』

端的な言葉は石造の正面から発せらているように感じられ、シュンは再び先程の位置にゆっくり戻る。
まさか、この厳つい石造がこの愛らしい声を出しているのだろうかと、シュンの額に冷や汗が浮かんだ。

「僕に話しかけているのは……えっと、あなた、ですか?」
『半分は正解』
「……まさか」

シュンの視線が、タイピンについている青い石で固定される。

『正解』

この石に見える何かは機械を模倣して声を出しているという想像が、シュンの頭に浮かび上がった。
あまりにも肉声に近い少女の声を考えると、なかなかの精度を誇るだろう。

764選抜:2009/05/12(火) 21:54:04 ID:rRGW6PJE0
「君も、参加者なのかい?」
『さんか?』
「……この島で、殺し合いを強要されている訳ではないのかな?」
『違う。そこには、いない』

まさか外部の人間がコンタクトを図ってくるとは、シュンも予想だにしていなかった。
言葉を詰まらせ、シュンは次に何を発しなければいけないかを懸命に探そうとする。
その隙にと、今度は少女がシュンに声をかけてきた。

『お兄さんに聞きたいことがあるの』
「何かな」
『お兄さんは、大事な人のためなら人を殺すことが出来る?』

少女の口調は、決して軽いものではない。しかし重厚さも感じられない。
初対面の人間相手に口にする類のものではない問いかけに、シュンは思わず唖然となった。
その質問の意図が分からず口ごもるシュンに対し、声はじっとシュンの出方を待っているようである。

「……どうして、それが聞きたいのかい?」
『知りたいから』
「それは何故?」
『いいから答えて』

他に話すことなどないというような、それはまるで明らかな拒否を表しているかのようにも思えるはっきりとした物言いだった。
少女の声から察するに、シュンは相手がは年端も行かないくらい幼い子供だと思っていのだろう。
シュンの中に想像という形で勝手に組まれていた、見えない相手の相貌が崩れていく。

声の主の目的が、シュンには全く読み取ることができなかった。
そもそもだ。
この不可思議な形態をとったやり取り自体が、おかしいのかもしれない。
姿の見えない相手と、ただの石のように見える実際は機械の類を通し会話しているということ。
しかも相手は、この島にはいない人間ではない。
何のためにシュンにコンタクトをとってきたのかも分からない。
何も、分からなかった。

765選抜:2009/05/12(火) 21:54:21 ID:rRGW6PJE0
ほんの少しの間瞼を伏せた後、ゆっくりと顔を上げたシュンは少女の問いに答える決意をする。
少女の素性は分からない、しかしきっと聞いた所で彼女が素直に答えることはないだろうとシュンは考えていた。

「何故だろうね。それでも敵意が感じられないから、不思議になるよ」

小さな笑みを浮かべながら、シュンは肩の力を抜いた。

「殺さないよ」
『ん……?』
「人を殺すかっていう、質問だったよね。答えはノーってことさ」

笑みをたたえたままのシュンの口調は、その様子からは量れないしっかりとしている。
傍から見たら、一人語り以外の何物でもないだろう。
シュンは気にせず青い石の向こうに繋がっている相手に向けて、言葉を放った。

「そんなことよりも、僕は僕にできることをしたいと思ってる。僕に残された時間は、余り多くないからね」
『どういうこと?』
「体がね、もたないと思うんだ」

きゅっと、軽く胸元を握り締めながらシュンは少しだけ俯いた。
セーターを脱いだそこに伝わる体温は、シュン自身でも分かるくらい高い。
運動量だけで考えたとしても、普段のシュンに比べたら既に倍以上行っているのだ。
与えられた薬の量も限られていることから、シュンはこの時点で自分の限界を自覚している。

「だからこそ、今できることをしたいと思ってる。人に危害を加えている余裕なんてないし、それこそ僕の行動に矛盾が出る」
『矛盾?』
「ここに無理やり連れ込まれた人は、みんなこれからも普通に生を満喫できるはずだったと思うんだ。
 確かに殺し合いは行われているけれど、それでも誰もが被害者なんだ。
 きっと、そうして他人を傷つけている人の中には、君の言う大事な人を守るために行動を起こしている人もいるだろうね。
 でも、それでは何の解決にもならない。争いは争いしか生まない」

766選抜:2009/05/12(火) 21:54:39 ID:rRGW6PJE0
緩く首を振り姿勢を正すシュン、何かを悟っているかのような少年の声は控えめなものだった。
シュンの言葉は正論である、しかし。
まるでこの島で起こっている殺し合いを傍観しているかのような、空虚さがそこにはあった。
それは彼が、自ら先頭に立ち事を運ぼうとしていないからかもしれない。

「僕には人を動かす力はない。だから僕は、僕ができることをしたい。
 生き残ることができたはずの、みんなの思いを伝えることで残していきたいんだ。
 それが今、僕がここにいる理由だよ」
『ねえ。それじゃあ、一緒にいるお姉ちゃんが死んだらどうするの?』
「……ごめん。分からないとしか言えないかな」

こんな自分を慕ってくれて、協力を申し出てくれた香奈子の存在はシュンにとっても大きいものだろう。
シュンの精神的な安定は、そんな仲間がいることで保たれている部分がある。
それでもシュンは、想像ができなかった。
何度も描いた覚えのある自分の命が朽ちる場面ならまだしも、仲間である彼女を失う可能性をシュンは具体的に考えることができなかった。
靄がかかったように見えなくなっている心の奥には、シュンでも開けられない蓋が被さっている。
その意味すらも自身で上手く把握できていないシュンは、軽い苦笑いを浮かべることぐらいしかできなかった。

「あ、そうだ」

気を取り直した様子のシュンが、再びあの彼の頬に張り付いているかのような微笑みを作る。

「与えられた命の意味が、誰にでもあるってこと。
 彼がいたから僕は無気力になることなく、こうしてやりがいを見つけることができたんだ。
 それを僕が改めて感じることができたのは彼のおかげで、そんな彼はまだ生きている。
 これは、ちょっとした支えかもしれないね。ふと、そう思ったよ」

767選抜:2009/05/12(火) 21:54:55 ID:rRGW6PJE0
そう言って爽やかな笑みを浮かべるシュンに、死の色は見えない。
シュンにとって唯一の友人と呼べる彼と、シュンはこの島に来てまだ再会していなかった。
特別合流したいという思いが、シュンの中にある訳ではない。
彼には彼のできることがあり、それがマイナスに働くことはないだろうとシュンも鼻を括っている。
それだけの信用と可能性を、シュンは彼に期待の意味も込め持っていた。

「そうだね。君は、僕ではなく彼に会うべきだったのかもしれない。
 僕の答えじゃ、君を満足させることはできなかっただろうからね」
『ううん、上出来』
「え?」

シュンの自嘲染みた言葉を打ち消したのは、辺りに広がる眩い光だった。
と、同時に焼け付くような熱がシュンの左手に押し付けられる。

『信念がある人は、好き。パパもそういう人は信用に値するって言ってたよ』

痛みで麻痺しかけた感覚の中、少女の声だけがシュンの頭の中に響き渡る。
何が起こったのか見定めようと瞳をこじ開けたシュンの視界には、一面の青が広がっていた。
と、さらなる痛烈が左手に走り、きつく目を閉じたシュンが再び瞼を開けた時には既に、世界は平常なものへと戻っていた。

「……夢、だったのかな」

少女の気配が掻き消えたことにより、ただでさえ人気のなかった中庭は本当に閑散としているとしか言いようがなかった。
光が晴れた先には、シュンにとって見慣れてしまった朝の風景が戻ってきただけである。
ふと。
その中で、二点だけ変化が起きていたことにシュンはすぐ様気がつくことができた。

一つ。
シュンの目の前に佇んでいた石造に嵌められていたはずの、アクセントになっていた青の石が消えていたこと。
二つ。
石造に備え付けられていたはずの青の輝きは、今何故かシュンの左手の甲に埋め込まれているということ。

768選抜:2009/05/12(火) 21:55:19 ID:rRGW6PJE0
血の滴りはないけれど、肉に食い込んでいるらしい石は、シュンが少し手を動かすだけでも僅かに痛覚を刺激してくる。
結局シュンは、声の主に対し質疑を問う時間を与えられなかった。
機械だと思っていたこの石の正体を、彼が知る術は今や皆無である。




氷上シュン
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】
【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】
【状態 :香奈子と由依を待っている。祐一、秋子、貴明の探し人を探す】
【状態2:左手の甲に青い宝石が埋め込まれている】

(関連・1004)(B−4ルート)

769インターセプト:2009/05/16(土) 01:39:41 ID:iXOGC6ZY0
蓄積されてきた年数の推測が容易くできるであろう立て付けの悪い扉が、勢いよく開かれる。
誰もがそこに、注目していた。
バグナグを装着した霧島聖の瞳は、鋭い。
隣に位置する一ノ瀬ことみの片手も、ポケットの中に忍ばせてある十徳ナイフに伸びている。
一番奥、ベッドに腰掛けた状態の相沢祐一の視野には、二人寄りそうようにしている北川真希と遠野美凪の背中だけしか入っていない。
彼の位置からは、扉の様子は見えないようだった。

現れた来訪者は一通り周囲を見回すと、自分に敵意がないことを伝えるかのように空の両手を徐に上げる。
刺すような視線を送る面子に対し、潔い態度を取ることで警戒を解こうとする来訪者の表情は、あくまでも冷静だった。
しかし、疑いを持ったままの彼女らの心は硬く、自ら体勢を崩そうとする者は一人もいない。
走る緊張感。
来訪者がどのような人物であるか確認しようと、ちょっとした衣擦れの音を立てながら祐一は腰掛けていたベッドから降りようとする。
どうやら来訪者も奥にいた祐一の存在には気づいていなかったようで、上がった物音の方向へと勢いよく振り返り、その様子を凝視した。
気配が自分の方へと向かってきたことで、祐一はさらに気を張り詰める。

「相沢君?」

一点を見つめたまま口を開いたの言葉、紡がれた祐一の呼称に今度は全員の瞳が祐一へと集中する。
真希と美凪が体を動かしたことで出来た隙間、二人の間から現した来訪者の姿に祐一も目を丸くした。
スラっと伸びた高身長、インパクトのあるグラマラスな体は一度見たら忘れられないインパクトを他者に与えるだろう。
来訪者は、長い髪を揺らしながら祐一の元へ近づいていく。
その圧倒的な迫力に威圧されたのか、誰も彼女の行く道を防ごうとはしなかった。

「……向、坂?」
「君一人? 柊君は?」

オーディエンスの存在に気をかけることもなく、彼女、向坂環はじっと祐一だけを見据えている。
言葉も、祐一にのみ向けられたものだった。
祐一と環が顔見知りの仲というのを察知したらしい周囲の者は、静かに二人の会話へと耳を傾ける。

770インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:11 ID:iXOGC6ZY0
「放送、聞いたわよ。びっくりしたわ……ねえ、一体何があったの?」
「放、送?」
「さっき流れたでしょ、第二回目の放送よ。……まさか、こんなことになってるなんて思わなかった。
 休ませてもらえたことには感謝するけど、こんなことなら私もついてくれば良かったわ」
「ちょっと待て、どういうことだ?! 俺、さっきまでで寝てて……っていうか、今って何時なんだ?!!」

声を荒げた祐一だが、安易に口にしたその台詞で、彼は圧倒的な威圧を受けることになる。
祐一の発言にただでさえ切れ長だった環の目は、さらに鋭くなって彼を射抜こうとしていた。
環の視線で刺し殺してきそうな勢いに喉がつまり、祐一は呼吸すらも止められたかのように固まるしかなくなる。
祐一を心配する姉御肌の色を潜めると、環は怒気を孕んだ重い声色で彼に対し言葉を放った。

「はぁ? 寝ていた?」

びくっと。祐一の肩が、大きく震える。
その戸惑いの様子も何もかもが、今や環の感情を逆撫でしていることに祐一は気づいていない。

そもそも、祐一たちが学校に向かった旨を環が知ったのは、朝になってからだった。
熟睡することができ、ある程度の疲れが取れた環を出迎えたのは、春原芽衣と緒方英二の二人である。
緒方から状況を聞き、自分が休んでいた時に起きた事に何も関わることができなかった環の心には、ただただ後悔だけが残った。
それが仲間達の優しさだとしても、環の胸に存在する自責の念が晴れることはない。
それで失われた命があったと言うなら、尚更だ。
視線を漂わせ焦りを表に出す祐一を冷たく見下ろす環、そんな二人の間に一人の女性が割り込んでくる。
軽く祐一の肩に手を乗せ環と対峙するような位置を取ったのは、この中でも最年長である聖だった。

「まぁ、待ちたまえ。この少年は怪我を負い、ずっと気を失っていたのだ。
 目が覚めたのもつい先程で、放送を聞き逃していたとしても仕方はない」

環の持つ誤解を解くべく、聖は祐一の代わりの弁解を口にする。
それは紛れもない事実であった。環も、そこを疑うつもりはないのだろう。
一つ大きく息を吐き、環は怒りを放散する。

771インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:38 ID:iXOGC6ZY0
「紛らわしい言い方は、止めて欲しいわ。そういう事情なら、仕方ないじゃない」
「悪い、向坂……」

気を落としている祐一から視線を外し、ここでやっと環は自分達を取り囲むようにしている少女達を見渡した。
環にとっては初対面となる女性ばかりが、そこには集まっている。
敵意は感じられない。
うち一人、少しの間だがともに時間を過ごした相手と同じ制服を纏った少女が目に入り、環は悲しげに瞼を下げた。

「なぁ。放送、何かあったのか?」

押し黙った環の様子を窺うように、祐一が恐る恐ると声をかける。
彼は彼で、把握できていない状況に対する不安が強いのだろう。
……隠しても、意味はない。
環は、苦い気持ちを噛みしめながら祐一の目を強く見据えると、しっかりとした口調で彼に現実を突きつけた。

「その様子だと、本当に何も知らないみたいね。……藤林さんと神尾さん、亡くなったわよ」
「は?」
「消防署を出て行ったあなた達四人のうち、二人の人間が死んだのよ。
 生き残ったのはあなたと柊君のみ。それも名前が呼ばれなかったってだけで、柊君の安全だって分からないわ」

祐一の思考回路が、止まる。
祐一が知らない間に流れた時間は、想像以上に長かったということである。
自然と握りんでいた拳を振るわせる祐一を見下ろす環の眼差しは、あくまで冷ややかだった。
責める訳でもなく、同情するでもなく。
痛ましい事実を自分がどう受け止めているのか、それを祐一達周りの人間に見えないよう取り繕う環の姿は、表面上だとあくまで冷静なもので落ち着いているとしか思えないものであろう。
環に自覚はないが、この温度が祐一の胸に罪悪感を強く植えつけていた。

「何だよ、それ……」

772インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:02 ID:iXOGC6ZY0
祐一の声は、カラカラに乾いてしまっている。
激しくなった彼の動機は、収まる気配を全く見せない。
これはタイミングが悪かった。祐一が意識を取り戻し、まだ一時間も経ってないのである。
精神的にもやっと落ち着き、祐一がおぼろげになってしまっている昨夜の出来事を思い出そうとしたのも、つい先程、数分前だ。
その時点で祐一は、途切れてしまっている自身の記憶に軽い混乱を見せていた。
今環にこのような事実を突きつけられ、その内容を上手く噛み砕くことができない祐一の頭の中は、さらに訳が分からないことになっているだろう。

肩を落とし、ぺたんとベッドに再び腰を落とした祐一は、地面を暗い面持ちで見つめている。
広がった沈黙。誰もが二人にかける言葉を失っていたその時、今まで無言を貫いていた一人の少女が小さくそっと口を開く。

「……また、誰か来るの」

ゆっくりと視線を扉の向こうに走らせながら、静かに呟いたのはことみだった。
彼女の言葉で祐一以外の他のメンバーも、耳をすませば確かに捉えることができるそのリズムに気づく。
コツコツと鳴る床が表すのは、人の足音に間違いないだろう。
環が入ってきた扉は、開けっ放しの状態である。
今更閉めには戻れない。
扉に一番近かった真希と美凪が、じりじりと後ろに下がっていく。
ぎゅっと美凪の手を握りながらも、真希は睨み付けるように扉の向こうの様子を集中して窺っていた。

コツ、と。
最後に比較的大きな一音を鳴らした所で、靴音が止む。
バグナグを装着し直した聖に、十徳ナイフを取り出したことみ。
寄り添う真希と美凪など、まるで環がこの保健室に現れた時の光景を再現しているかのようである。
ただ一人、自身への惑いで余裕がなくなってしまった祐一だけ、この世界から隔離された場所で過去に思いを馳せるのだった。

773インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:44 ID:iXOGC6ZY0
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:呆然・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:扉に注目】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:聖に注目】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:扉に注目】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:扉に注目】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:扉に注目】

(関連・945・1041)(B−4ルート)

774(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:34 ID:moWm6PFw0
「ったく、無茶しやがって」
「勝てたんですからいいじゃないですか」
「悪運の強い奴だよ、お前は」
「どんなもんです」
「褒めてない」
「知ってます」

 なんとも噛み合わない会話だと思いながら国崎往人はぐったりとして動かない伊吹風子を背負って山を下っていた。
 風子自体は命に別状があるわけではないが、疲弊しきった彼女はもう歩く気力も残っていないようだった。
 それゆえ一旦麓に戻ることにしたのだが、重たい。風子ではなく、荷物が。

 内心悪態をつく。いつから自分は武器庫になったのだろう。
 おまけに急な坂道であるために歩みは遅々として進まず、往人も辛い状況だった。
 少しでも気を紛らわせようと風子と喋っているものの先程の通りのちぐはぐで、
 会話の種を出すのにも苦労する往人は寧ろストレスさえ感じていた。

 風子が悪い人間でないのは分かっている。分かってはいるのだが……それとも最近の婦女子というものはこんなものなのだろうか。
 溜息を腹の底に飲み下すと共に往人はさらにコミュニケーションを図る。自分らしくないと思いつつ。

「しかしだ、ホテルはそんなことになってるのか」
「……はい。風子だけ、命からがら逃げてきました」

 事実を認める風子の声には色がない。受け入れるしかないという諦観を含んだ声だった。
 だからと言って問い詰める気は往人にもない。お互い誰かを助けられず、見捨ててきたのも同じだ。
 責めたり、慰めたりする権利は誰にもない。自分達に出来るのはそれでも仲間であるという意思を示す、それだけだ。

 そうか、とだけ返事をして、往人はついに人形劇を見せてやることが出来なかった笹森花梨の姿を思い浮かべた。
 どうしてあんなに人形劇を見たがったのか往人には分からない。聞かなかったからだ。
 けれども花梨は自分の芸を望んでいた。応えてやれなかったのは、心苦しい。

775(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:59 ID:moWm6PFw0
「ですけど、風子はこれを受け継ぎました。だから風子は、まだ死ねません」

 肩越しに青い宝石が差し出される。かつて花梨が大事そうに抱えていたものだ。
 こちらの願いも聞き届けることは出来なかった。つくづく自分は約束を反故にしていたのだなと思う。
 すまなかった、と往人は宝石の輝き越しに見える花梨の意思へと向けて黙祷を捧げる。
 続いて誓う。だから自分達は絶対に生きて帰るのだ、と。

 強く思って宝石を見つめたとき、ぼうっと宝石が光ったように思えた。
 だが一瞬のうちに光は消え失せ、また元の、深海の如き深い青色のみが往人の目に映る。
 気のせいか、と思いなおして「もう仕舞っていいぞ」と伝えた。

「風子、ミステリ研には興味ありませんが……この願いだけは、絶対に叶えます。それが風子の役割ですから」

 ミステリ研。その言葉が往人の耳を打ち、ああそうだったのかという納得を得る。
 要するに不思議なものが好きなだけだったのだ。人形劇の法術に興味があったということか。
 分かってしまえば単純な理由だった。人が行動する理由なんてそんなものなのだろう。
 低い笑いが漏れ、同時に自分の行動もまた人としては同然のありようなのかもしれないという思いが突き上げる。

「何がおかしいんですか」

 馬鹿にしたと思ったのだろう、風子が若干棘の入った声で聞いてくる。
 往人は「お前を馬鹿にしたわけじゃない」と返して、そのまま続ける。

「笹森のことが少し分かっただけだ。……お前も、もう少し自分に正直になってもいいんじゃないか」
「風子はこれでいいんです。これで……」
「まあ個人の勝手だがな。でも何かひとつくらいあってもバチは当たらないさ。そうでなきゃ、いずれ空しくなる」
「……」

 思うところがあるのか、答えるのも億劫になったのか、風子は無言だった。
 人のために何かするのもいい。けれどもそれだけでは失ったときに大きな喪失感だけを生み出し、空白を形作る。
 埋めようとするあまりに、人はまた間違いを犯す。

776(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:17 ID:moWm6PFw0
 自分や、舞がそうなりかけたように。
 朝霧麻亜子が一度はそうなってしまったように。

 だが今は自分達も持っている。自分が望むことを、自分で決めて生きている。
 往人自身もだ。人形劇と共に生きたい。自分のために。
 急に考える必要はない。じっくり考えていけばいいだろうと断じて、往人はそれ以上何も聞かなかった。
 風子もまた聞いてこようとはしなかった。眠ってしまったのかもしれない。
 風子の体は、静かに往人にもたれかかっていた。

「……さて、そこにいる盗み聞き野郎。いささか趣味が悪いと思うんだが」
「人聞きの悪いことを言うな。やり過ごそうとしてただけだっつーに」

 気付かれていたことに舌打ちして、がさがさと茂みの奥から男が一人這い出してくる。
 往人も存在を感知したのはついさっきだ。それも、相手が去っていこうという段階でようやく気付けた有様だ。
 言葉と行動が示す通りやり過ごしてどこかに向かおうとしていたのは事実らしい。
 仕方がないというような表情で男は不満そうな雰囲気を含ませていた。

 戦意はないらしい。あるなら問答無用で襲い掛かられているはずだった。
 ろくに反撃も出来ないほど往人の体は荷物まみれなのである。
 それでも隠れていたということは後ろめたいものがあるかもしれないということ。
 見過ごして後の災いに繋がるようなら。声をかけたのはそう判断してのことだった。

 これが殺し合いの開催直後だったら、また結果は違ったのかもしれない。今の自分は他者と積極的に関わろうとしている。
 目的が自分のためだとしても、誰かと関わりを持とうとすることに己の変質を実感する。
 良いことなのか悪いことなのかまでは分からなかったが。

777(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:34 ID:moWm6PFw0
「なぜ隠れていた」
「見知らぬお兄さんと鉢合わせしたくなかったから」
「悪いが女もいる」
「誘拐してきたのか」
「任意同行だ。で、どうして鉢合わせしたくなかった」
「一人の方がよかったから」

 どうしたものか、と要領を得ない男の言動に往人は頭を悩ませる。
 戦意はないが、誰とも会いたくなかった。
 だとするなら何もする気がなく逃げ惑っていると考えるのが妥当だが、目の前の男はそんな風に見えない。
 寧ろ飄々としてつかみどころのない雲を想起させる。
 やっていることを知られたくない、という意思だけははっきりとしていたが。
 正直に聞いたところでこの男は何も答えてはくれないだろう。往人は全く見えない男の表情に辟易しつつ続けた。

「俺を抜けて行こうとしてるのなら、ひとまず手伝え。見返りはある」
「それはなにか、鉛玉かい?」
「情報だよ。悪いが、無理にでも連れて行かせてもらう。重いんだよ、これ」

 往人はそう言って、荷物の一部を持ち上げた。ああ、と得心したらしい相手は唇の端を僅かに上げた。

「引っ越し屋の手伝いなんてたまらないな」
「そう言うな。女房が待ってるんでね」
「……マジ?」

 それまで保っていた仮面が崩れ、年相応の少年の驚きが現れた。
 往人は破顔する。適当に言ってみたつもりだったのに。自分は妻帯者に見えるのだろうか。
 そんなものとは最も縁遠いはずなのだが。思わず驚いたことを失念していたらしい男は、
 今さらのようにしまったという渋面を作ったものの後の祭りだ。
 無防備な安心感を得ながら往人は「方便だ」と付け足した。

778(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:55 ID:moWm6PFw0
「だよな……いや、夫婦ではないにしても恋人かなにかと思って」
「いると思ったか?」
「あんた、意外と顔は悪くないぜ」
「……そうなのか?」

 これまでの人生で人相の悪さしか言われることがなかっただけに新鮮な感想だった。
 自分が変質しつつある結果なのだろうかと思う。他者を寄せ付けず、生きることしか考えられなかった昔。
 何も省みることもなかった過去に比べれば、今の自分は少しは余裕を持って生きていると言えるのだろうか。
 殺し合いの場で余裕というのもおかしな話だが。

「いいよ。負けた。少しくらい寄り道したって悪くはないだろ。荷物貸せよ、お兄さん」
「国崎往人だ」

 堅い雰囲気をどこかに追いやったかのように男の言葉は闊達だった。或いはこれが本来の姿なのかもしれない。
 ただ年上に言葉をかけるには少し馴れ馴れしいと思ったので、こちらもぞんざい気味に荷物を投げて寄越すことにした。
 けれども男はまるで苦もなく全部受け取り、ひょいひょいと肩にかけていく。
 見た目よりも器用で鍛えているのかもしれない、と思った。

「国崎さんか。俺は奈須宗一。職業は正義の味方(志望)かな」
「ほう、職があるのか」
「……突っ込んでくれないんすか」
「お前の言葉を真に受けてたら頭が持たないことは分かったからな」
「そりゃ、どうもすんませんした」

 悪びれた様子もなく、宗一はやれやれと肩を竦める。
 正義の味方というのは嘘にしても、この掴みどころのない性格を演じるには普通の仕事と精神ではないのは明らかだ。
 往人にはそれが何か想像も出来なかったが、個人として付き合うにはぞんざいなくらいで十分だと結論する。

「しかし、仕事か……俺も職を変えないとな……」

779(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:18 ID:moWm6PFw0
 仕事と聞いたからか、往人はついそんなことを口にしていた。
 今までは人形劇だけをしていたが、もう自分にはそれだけではない。
 いや、正確には旅をする必要性なんてなくなってしまったのだろう。
 少なくとも、今の自分では母から聞かされた目的を為しえることはもうないに違いない。
 空の少女は、後の誰かに託そうと思った。

 弟子でも取るか、それとも一子相伝といくか。
 そこまで考えて、空想が過ぎると己に嘆息する一方、初めて将来のことを考えているとも自覚する。
 これまでは目先のことは考えても未来のことなんて予想さえしていなかったから……

「ひどい仕事なのか?」

 尋ねてくる宗一に「ああ」と苦笑しながら返した。
 全く、ひどいものだった。自分のこれまでが。
 だが変えられる。昔では掴めもしなかったものが、今は掴みかけている。

 現在は確かに血塗られた道なのだろう。人の死を経験し、間違いを犯し、自分でも許せないものを抱えていることは事実だ。
 それでもこうして未来を見つめることが出来る。罪を抱えながらも、それでもより善い生き方にしようと必死で模索している。
 一度間違ったからといって、それで飛ぶことをやめてしまう方が本当の罪になると思ったから。
 血を吐き続けながら飛ぶとは、そういうことなのだろう。

「だが、もう吹っ切れたよ。今度こそ、間違えずに求められる」

     *     *     *

 人のいない洗面所に、水音が響いている。
 それは火照った顔を冷ますためのものだ。はぁ、と溜息をついて川澄舞は目の前の鏡に自らを映す。

 何の変哲もない自分。無表情に近く起伏もないはずの自分の顔が赤く染まっている。
 熱があるわけではない。これは先程の朝霧麻亜子の悪戯によるものだ。
 きっとそうに違いないと思いながらも、ふと国崎往人のことが頭に浮かぶ。

780(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:33 ID:moWm6PFw0
 惚れている、と断じた麻亜子の言葉が頭を過ぎり、しかしこれという結論もつけられない自分に困惑する。
 そもそも恋もしたこともなければそれがどういうものなのかも分からない。
 知識として頭にはあっても体感しているかと言われれば、何を言うことも出来ない。

 かと言って往人に対しどんな感情も抱いていないのかと問われれば、それもまた違う。
 見守ってくれると言ってくれた往人。人に恥じず、己に恥じない生き方を共に探そうと言ってくれた人。
 舞の中で大きなウェイトを占めているのは確かだ。ただ関係性を表す言葉が分からないのもまた確かだった。
 家族に向ける情でもなければ、友達でもない。好敵手などではなく、パートナーというには距離が近すぎる。
 思慕の念、という表現が一番近しいように思えた。麻亜子はそれを恋と言ったのかもしれないが。

「……ひとを好きになる、か」

 珍しく舞は一人ごちた。こうして戸惑っている自分は、かつての佐祐理との関係に似ている。
 無愛想で誰とも関わりを持とうとしなかった自分にもいつも笑顔で接してくれた親友。
 どうして佐祐理が自分と関わりを持とうとしてくれたのか、今となってはもう確かめようがない。

 ただ、今なら理解出来る気がする。予想の範疇でしかなくても佐祐理がどう思っていたのか想像できる。
 寂しかったのかもしれない。我が身だけで歩き、何もかもを引き摺って歩いている自分の姿を見ていられなかったのかもしれない。
 佐祐理は自分を見て、彼女自身の姿を見ていたのかもしれなかった。彼女もまた……一人でいることの多かった人間だったから。

 互いに何とかするべきなのだと言外に語ろうとしていた。
 自分だけで全てを背負い、それ以外を余所者だと、
 関係のない他人だと見なして交わろうとしないことに警鐘を鳴らしていたのだ。
 そんなことをするより、自分を無防備に晒して肩を組んで歩く方が楽だというのに。

 今さら気付くことの愚かしさに己を恨みたくもなったが、
 それ以上にこうして歩いているという実感が舞の靄を晴らし、すっきりとした気分にさせている。
 だからこれでいいのだと、舞は結論付けて鏡の自分を見据えた。

781(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:51 ID:moWm6PFw0
 そこにいる己の姿は決して祝福されるべき存在ではない。神様がいるのだとすれば、最も程遠い存在には違いない。
 だとしても、と舞は思う。未来が絶望だとは限らないし、絶望だと感じるかどうかも定まってはいない。
 何よりも自分の眼は、無限に遠くとも希望を見つめていた。自分達の目指す幸福という名の希望を。
 その幸福の中に、是非往人もいて欲しい。最後にそんなことを考えて、舞は洗面所を後にした。

「よー少女まいまい。初体験はどうだったかな?」

 廊下で待っていたのは数十分も舞の脇腹をくすぐったりその他諸々をしていた麻亜子であった。
 すれちがいざまにチョップという名の手刀をかまし、黙って荷物を回収する。
 麻亜子もこの通り元気になった。そこで二人は往人に合流しようということで結論を見たのだ。

 こんななりだが、麻亜子は舞より年上であるらしい。
 本人はじゅうよんさいだとか言っているが、ささらの先輩なら自分より年上だ。
 それにしては幼い外見だと思いながら必要な武器を身につけていく。

「反応が悪いなぁ。そんなんじゃ夫婦漫才は出来ぬぞー」
「……」

 すたすたすた。

 ぽかっ。

「が、がお、何するかなー」
「余計なこと言い過ぎ」
「なんだよー、人生の先輩として女の手ほどきをだな……」
「じゅうよんさいじゃなかったの」
「実年齢と人生経験に因果関係はないのだよ明智クン」

 意味もなく胸を逸らす麻亜子に付き合いきれないとばかりに舞はデイパックを背中にかけ、身支度を整えた。
 そのまま麻亜子を待つ。反応が返ってこなくなったと認識した麻亜子はこれ見よがしに溜息をつき、大袈裟に嘆息する。

782(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:07 ID:moWm6PFw0
「ああなんということでしょう。あたしゃこの子をこんな子に育てた覚えはないよ、よよよ」

 そして泣き崩れるふりをする。目が覚めてからというもの一事が万事この調子である。
 目覚めたときの儚く、今にも押し潰されそうだった麻亜子と同一人物だとは思えない。
 素なのか、演技なのか。或いは安心してふざけられるほど自分は信頼されているということなのだろうか。

 よく分からない。まるで掴みどころがない、と舞は考えて、
 そういえば相沢祐一が自分に対して同じようなことを言ったのを思い出した。
 無論麻亜子とは違う種類の掴みどころのなさなのだろう。祐一曰く天然、らしいがこれもよく分からない。
 分かるのは、自分も麻亜子も変人らしいのだということだった。

「……むぅ。チミからリアクションを取るには相当苦労しそうだな。しょーがない、今回は諦めて書を捨てに町へ出るとしますか」

 ふと見ると、既に麻亜子は準備を整えていた。
 いつの間に、と麻亜子の抜け目のなさに驚き、また彼女の目が鋭さを帯びた真剣なものに変貌していることにドキリとする。
 呆気に取られる舞を見た麻亜子は、ようやく満足したようにニヤリと笑った。

「こーいうのなら、得意なんだけどさ」

 ボウガンを肩に掲げ、こちらに向き直った麻亜子はやはり年上だと思わせる風格があった。
 自然と表情が引き締まり、日本刀の鞘を握る力が大きくなる。

「さて、行きましょうかね」

 麻亜子が玄関の扉に手をかけようとしたところで、先に扉がガラガラと開いた。
 侵入者か!? 咄嗟に刀に手を掛けた舞だったが、直後の一言がそれをかき消した。

「俺だ! 今戻った」
「あや、鉢合わせ」
「……こりゃまた」
「二人……誰?」

783(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:26 ID:moWm6PFw0
 荷物まみれの往人。刀を抜きかけた舞。ボウガンを向ける麻亜子。後ろで含みありげに唸る宗一。そして風子。
 合流は、実に奇妙な形となった。

     *     *     *

「ということで、こいつは動けない」
「おーよく寝てるね。ほれほれ」
「まーりゃん、悪戯しない」
「はいはい分かってますってば……それで、そっちのあんちゃんは?」
「見た目小学生の奴にあんちゃんとか言われると腹が立つな」
「小学生じゃねーっ! アイドルなんだぞ、美少女なんだぞー!」

「……こんな奴だっけか」
「こういうキャラ」

「そこ! あたしのキャラを誤解しないで頂きたい。いいかねあたしは」
「まあ話の腰を折るのはそこまでにして、だ。俺は山頂の火事があった場所に向かってたんだが、国崎さんと会ってな」
「荷物運びをしてもらった」
「やーい、パシリー」
「道中、山頂で何があったのかは大方国崎さんから聞いた」
「あ、無視っすか」
「伊吹の話だから実際俺は見ていないが……何人かが戦っているかもしれん。ただ、伊吹の知り合いは全滅した」
「……往人も、知り合いだった?」
「ああ、とは言っても顔合わせしかしていないが……だが、あいつらを助けられなかったのは事実だ」

784(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:41 ID:moWm6PFw0
「それで、だ。調査と殺しあってる奴らを倒すという意味で伊吹をお前らに預けて、俺達でまた山頂に向かう手はずだ」
「伊吹が逃げ出したころにはもう戦いも佳境だと考えていい。
 だからもういないかもしれないが、用心に越したことはない。装備を整えてから再出発するつもりだった」
「確かに、荷物が多すぎるねぇ」
「まるで武器庫」
「こっちとしては好都合だがな。だがとにかく早く準備は済ませたい。俺は今まで通りの武器でいい。奈須はどうする」
「貰っていいのか? だったら……ナイフ二本だな。本当ならファイブセブンの弾が欲しかったが、まあ普通ないしな」
「サブマシンガンは使わないのかい?」
「好みじゃない。そっちこそどうなんだ」
「あたしはそういう柄じゃないしねえ……小柄だし?」
「私は銃は撃てない……それよりは、まだ白兵戦の方が得意」
「グレランは……まあ、雨だから使い辛いな。結局のところ遊撃する分には拳銃とナイフの組み合わせが一番なんだよな。
 保険でショットガンは持ってるが」
「詳しそうだね、奈須くんや。ガンオタク?」
「いや軍事オタクかな、この場合」
「後はここに誰が残るか、だな。最低でも伊吹を守るために一人は……」

「――必要ないです」

785(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:58 ID:moWm6PFw0
 一通りの話し合いが終わり、ここに誰を守りに残すかの相談が始まろうとしたとき、のそりと起き上がる気配があった。
 全員がぎょっとして振り返る。そこにはまだ疲れの色も濃い風子の表情があった。
 ただその目は生気に溢れかえっており、ギラギラとした確かな意思がそこにある。
 いつから起きていたのだ、と誰が尋ねる間もなく風子は続ける。

「ここが正念場のはずです。悪い人たちをやっつけるチャンスのはずです。
 風子に構っている時間はないはずです。……違いますか?」

 たどたどしい言葉で、それでも風子は自分の意思を伝える。
 仇を討ってほしいという願いと、役に立たない自分に構わないで欲しいという、弱気で切実な気持ちだった。
 それは逃げ続け、今も集団の中で自分の必要性を見出せないでいる風子という少女の心情を表しているかのようだった。

 往人のみならず、ここまで面識がなかった舞や麻亜子、宗一でさえ風子にものを言うのは躊躇われた。
 それほどまでに風子が味わい続けてきた悔しさは誰の目にも明らかだったし、
 自分自身がちっぽけでしかないことはこの場の誰もが知り抜いていた。だから風子の言葉に反対できるわけがなかった。

「……それで、いいんだな?」
「はい」

 ようやく搾り出された往人の声にも、明朗な声で風子は応じた。
 何の躊躇もない返事がかえって自分自身の無力を自覚しているようで、往人は思わず言葉を続けた。

「必ず戻る。それまでしっかり留守番してろ」
「風子、子供じゃないです」

 そこでようやく、風子が苦笑した。けれどもその笑いは力がない。
 生きるしかない。自分の生をそのようにしか捉えていないかのようで。
 往人は人形劇を披露したい気持ちに駆られる。こんな笑い方をしてはいけない。
 その思いが突き上げ、パン人形を取り出そうとする。が、その前に舞がやさしく風子の頭に手を乗せた。

786(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:20 ID:moWm6PFw0
「あなたは弱い。逃げ出すしかなかったのなら、あなたは弱いのかもしれない。
 ――でも、無力じゃない。それは分かって欲しい」

 無力じゃない、という言葉に風子の瞳が揺れ、一瞬困惑したような表情を見せるが、すぐにぷいっと顔を背けた。
 頭を撫でられたことに照れただけなのか、それとも風子の内面に化学反応を引き起こしたのか。
 往人には分からなかったが、舞の言葉に重みがあることは理解していた。

 友達も親友も助けられず、みすみす見殺しにしてしまい、その果てに自殺しようとした舞は、弱いとも言える。
 往人だってそうだし、麻亜子にしても同じだった。
 だが、誰一人どうにも出来なかったわけじゃない。往人は舞を、舞は麻亜子を。
 弱いながらも、それでも手を引っ張り、肩を互いに組んで進み続けている。

 ならばきっとそれは、無力ではないということだ。
 麻亜子も口を挟まず、黙って風子を見つめていた。舞の言葉を噛み締めるようにして。

「……その通りだ。ひとは、いくらでも強くなれるし考えだって変えられる。
 無力だったら、それだって出来やしないさ。お前は違うだろ?」

 麻亜子や往人の代わりに、宗一が言った。自分達を総括する言葉に、不思議な確信が持てる。
 俺達は先へ進めるんだ、そんな確信を。

「俺の大切な奴もそうだしな。あいつだって弱いままじゃない。今、あいつも踏ん張ってる」

787(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:31 ID:moWm6PFw0
 だからこっちも踏ん張ろう。宗一の言葉に風子は黙って頷いた。
 ぎゅっ、と拳を握り締めて。

「それじゃ、行くか」

 今人形劇をする必要がなくなったことに安心と残念な気持ちの両方を得ながら往人は全員を促した。
 それぞれが頷き、各々の持ち物を持って往人についてくる。
 風子は壁にもたれかかったまま目を閉じ、静かに呼吸を繰り返している。
 気持ちを整理しているのかもしれないと思いながら、改めて玄関で靴を履いたとき、ぽつりと呟く声があった。

「いってらっしゃい、です」

 別れを告げる声ではなく、帰ってきてくれることを願う声だった。
 往人達が振り向くと、風子は不自然に顔を逸らし、あらぬ方向を向いていた。
 顔を見合わせ、互いに苦笑した。この場の誰もが巣立ったばかりの雛鳥で、まだまだこれからだった。

「ああ」

 全員が短く答え、目指す山の頂へと向けて飛び出していった。

788(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:55 ID:moWm6PFw0
【時間:2日目午後21時30分頃】
【場所:F−3・民家】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾0/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。ホテル跡に向かう。後に椋の捜索】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。疲労困憊でしばらく行動不能。民家に残る】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、投げナイフ2本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:心機一転。健康】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。ホテル跡方面に移動】

【その他:民家には以下のものが置かれています。
 イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】

→B-10

789午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:26:49 ID:1qEO/8a60
 
その明かりも灯らぬ暗い部屋には、底冷えするような空気が流れている。
何本もの配管が複雑に絡み合う壁に寄せるように置かれた幾つかの大きな鉄製の箱が、
家具一つないその部屋の性質を物語っている。
部屋は倉庫であり、箱はコンテナであった。
子供の背丈ほどもある鉄製のコンテナは重機で運搬することを前提にしているのか、
無造作に二つ、三つと積み上げられている。
どこか遠くから、空調の眠気を誘うような低音が響いていた。
時折部屋全体が微かに揺れる他には動くものとてない、無闇にがらんとした空間には、
しかし目を凝らせば二つの影がある。
片膝を立て、鉄のコンテナに背中を預けて座る鏡写しのような二つの影を、小さな光が照らした。
じ、と一瞬だけ燃え上がり、すぐに消えたのは影の擦ったマッチの炎である。
消えた炎が子を産んだように、後に小さな火が二つ、残った。

「狡兎死して走狗煮らる……か」

肺腑に満たした紫煙を細く吐き出しながら呟かれる声に、傍らに座る影が同じように
煙草の火を大きくしてから応じる。

「つまらん愚痴だな坂神。御堂あたりの病に侵されたか」

闇の中にも鮮やかな長い銀色の髪が微かに揺れる。
軽く灰を落としながらゆらゆらと紫煙の舞う中空に視線を漂わせる男を、光岡悟という。

「我々はいつだってこうしてきただろう。南方でも、大陸でも。
 今更、儀仗隊の捧げ銃でもあるまい」
「それは、そうだが……」

790午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:17 ID:1qEO/8a60
言いよどんだ坂神蝉丸が、その先の言葉に詰まる。
船が、揺れた。
結局、定刻まで御堂と石原が戻ることはなかった。その生死とて知れぬ。
今はただ二人、がらんとした暗い倉庫の中で、船に揺られている。
寒々しい闇の中、鬱屈した感情が滓のように腹の底に沈んでいく。
自分は構わぬという思いはあった。
どれほどの戦功を挙げようと畢竟、坂神蝉丸は脱走兵である。
命令不服従に軍備品の横領も加わろう。
銃殺を免れ得ぬ身に歓待など望むべくもない。
拘束されるでも憲兵に引き渡されるでもないこの待遇は、むしろ破格とも言えた。
九品仏によるプロパガンダに利用されるにせよ、それは仕方のないことでもあった。
元来、強化兵とはそういった政治色を払拭しきれぬ身の上でもある。
しかし。しかし、と蝉丸は思う。
しかしそれは、坂神蝉丸に対してのみ与えられるべき仕打ちであろう。
暗い部屋を見渡す。
置かれたコンテナに詰まっているのは銃器か、弾薬か。
貨物倉庫に詰め込まれた強化兵は、軍の備品扱いか。
それでいいと思っていた。
國の礎となるならばそれでもいいと、かつての蝉丸は考えていた。
だがこの島での戦いを経た今となっては、既に疑問しか浮かばぬ。
ましてこれが、己に忠義を尽くす者への扱いか。
光岡悟は九品仏少将にとって欠くことのできぬ懐刀ではないのか。

「閣下はお忙しい身だ」
「……」
「元より汚れ役の俺などに割くお時間などありはせん」

それは、蝉丸の迷妄を喝破するように直截な、躊躇いのない声だった。
だから蝉丸は、言葉を飲み込む。

791午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:37 ID:1qEO/8a60
「そんなことよりもな、坂神。これからは我等も忙しく立ち働くことになるぞ。
 閣下の作られる新たな國の基となるべく、今上の御世を影から支え奉るのだからな。
 まずは老いさらばえた狒々どもを駆逐し、未だ幼くあられる陛下を警衛し奉ることになろう」

闇の中、小さな火が躍る。
身振りを交えて楽しげに語る光岡の手にした煙草から落ちる灰を、蝉丸はじっと見ていた。
はらはらと、花の散るように白い灰が舞い、闇に溶けていく。
それがどこか、何かを暗示しているかのように感じられて、蝉丸は小さく首を振る。

「……貴様がいいなら、構わんさ」

結局、それだけを呟いた。
最後に大きく紫煙を吸い込んで、煙草を床で捻り消す。
別れた道は交わり、これからも続いていく。
二度と再び、違えることもあるまい。
溜息を隠すように細く吐いた紫煙は、ゆらゆらといつまでも漂っている。
煙の向こうに志半ばに倒れた少年の幼さの残る顔が浮かび、やがて消えた。
それきり口を噤んで、蝉丸は静かに目を閉じる。
何も残らぬではない。
覚えている。刻んでいる。
ただ、泥のように疲れていた。
その明かりも灯らぬ暗い部屋は、無闇に広い。



******

792午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:05 ID:1qEO/8a60
 
 
少女がひとり、ぼんやりと海を眺めている。
波間の向こうに日が暮れようとしていた。
目深に被った麦藁帽子のつばが海風に煽られてはためくのを押さえるでもなく、
観月マナはひんやりと冷たい手摺に寄りかかったまま、舷側に寄せ返す波濤から
際限なく吹き上がる白い泡沫をその霞のかかったような瞳に映している。

「あ……」

ふわり、と。
一際強い風が、吹き抜けた。
咄嗟に伸ばした手は間に合わない。
麦藁帽子が、風に舞う。
眼だけで追ったそれを、

「よっ……、と」

掴み取った手が、ある。
ひょろりと肉の薄い、背の高いシルエット。
少年から青年に移り変わろうとする年代特有の、どこか遠くを見るような眼差し。

「えっと……藤田、だっけ」
「呼び捨てかよ」

苦笑したその少年のことを、マナは何も知らない。
ただこのプログラムの生還者として同じ回収船に乗り合わせたという、それだけの知識しかなかった。
否、それ以前の問題として、

「ま、いいか。……あんた、何も覚えてないんだって?」
「……」

マナが沈黙する。
事実であった。
マナには、この島に来てからの記憶がない。
突然拉致され、妙な兎の映像に殺し合いをしろと強要されたのは覚えている。
だが、そこまでだった。
その後の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
じりじりと暑い砂浜で目を覚まし、回収に来た軍の人間に救助されるまで、何をしていたのかがわからない。
気がつけば、そこにいた。
そう言う他はなかった。

793午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:30 ID:1qEO/8a60
「っと。悪いこと、聞いちまったかな」
「……別に」

ぼそりと呟く。
事実、何の感情も浮かばない。
広報によれば、生存者は十六名。
行方不明者八名。
そして死者、実に九十六名。
二十四時間で、百人近くの人間が死んでいる。
それだけの殺戮が行われたあの島で、自身が何をしていたのかはわからない。
わからないのは恐怖でもあったが、しかしそれだけのことだった。
空白の記憶に、良いも悪いもありはしない。
たとえばその空白に、何か大切なものが詰まっていたのだとしても。
写真のないアルバムを眺めることに、意味などなかった。
それでも。

「……」
「……ねえ」

沈黙に耐えかねたか、困ったような顔で頭を掻いている少年に、尋ねる。

「あたし、あの島で何を……ううん、違う」

言いかけて、口を噤む。
僅かな間を置いて、仕切りなおす。

「何かを……できたのかな」
「……」

それは、ただ一つ観月マナの思考と感情との周りをぼんやりと、しかし切実に巡る問いであった。
現実として、マナはここにいる。それはいい。
記憶の空白も、それ自体は構わない。
それは単に、そういうものだ。
時間が経てば、得体の知れない恐怖に押し潰されそうになるのかもしれない。
しかし今はまだ、そのことに実感が伴ってはいなかった。
だからこそ今のマナが自身に問うのは、ただその一点である。
自身に問い、しかし記憶のない身に答えの出ようはずもない。
だから、声に出した。
九十六人の死者を出した二十四時間を乗り越えた人間が、目の前にいる。
彼が、マナの問いに何らかの示唆を齎してくれることを期待した。
しかし。

794午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:15 ID:1qEO/8a60
「さあな。俺はあんたを知らねえ」

少年は、あっさりと期待を粉砕する。
内心で小さく溜息をついて、マナは少年から視線を外す。
夕焼けの海がマナの短慮を笑っているように感じられて、目を閉じた。
寄りかかった手摺のひんやりとした感触が心を冷ましていく。
そんなものだろう、と思う。
彼には彼の二十四時間。マナにはマナの二十四時間。
それは、重ならない。それは、分かち合えない。
たとえばマナに記憶があったとして、同じことを彼に訊かれれば、同じように返しただろう。

―――あたしは、あんたなんか知らない。

取り付く島もなくそう言い放つ自分の声を想像した瞬間、どうしてだか心の隅が、疼いた。
じわりと、閉じた瞼の端に涙が滲むのがわかる。
それを少年に気取られるのが嫌で、マナは目を閉じたまま顔を伏せる。
震える唇を、奥歯をかみ締めて堪える。

「……けど、さ」

少年が、何かを言おうとしていた。
もういい、と。
もういいからどこかに行ってと、叫びたかった。
口を開けば涙声になりそうで、声を出せなかった。

「昨日は百二十人からの数がいて、今日こうして帰りの船に乗ってるのは俺たちだけでさ」

少年が訥々と、ぶっきらぼうに喋っているのが聞こえる。
デリカシーのない男だと感じる。
態度で分かれと思う。
独りに、してほしかった。

「なら、そこには何か意味があるって……信じたい。そういうのは、あるかもな」

滲んだ涙が珠になって、目の端から零れそうになる。
堪えきれなかった。
袖で拭えば感付かれそうで、だからマナが目を伏せたまま無言で歩き出そうとした、
正にそのタイミングで背後から声がした。

「……浩之」
「お、柳川さん。どうだった?」

795午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:40 ID:1qEO/8a60
びくりと肩を震わせたマナに気づいた様子もなく、少年が声の主に言葉を返す。

「こちらには来ていないようだ」
「そっか……ったくあの人は、どこをほっつき歩いてんだか」
「大きな船ではない。すぐに見つかるだろう」
「まーな」

そんなやり取りが耳障りで、足早に立ち去ろうとしたマナに、少年の声が響く。

「おい、あんた!」
「……」

マナは足を止めない。
背後から、かつかつと追いかけてくるような足音が聞こえる。
鬱陶しかった。

「少なくとも俺は……俺たちは、あんたに助けられたんだぜ」
「え……?」

一瞬、何を言っているのか理解できず。
意味を咀嚼して驚いて、思わず振り返って、涙目に気付いて急いで顔を背けようとして、
ぽふり、と。

「わ……」

被せられたのは、麦藁帽子だった。
突然の闇に覆われた視界の外、帽子の上からぽんぽんと軽く頭を叩く感触。
目深に押し込まれた帽子のつばを持ち上げたときには、少年はもう踵を返した後だった。

「じゃーな」

手を振る背中だけが、あった。



******

796午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:31 ID:1qEO/8a60
 
 
「お、あれ……」
「倉田といったか」

舷側の向こうから歩いてきた少女の名を、柳川が即座に告げる。

「一度会っただけでよく覚えてんな……さすが刑事」

茶化すような浩之の言葉に柳川は答えない。
代わりに呆れたような視線が返ってくる。
軽く肩をすくめてみせた浩之が少女、倉田佐祐理に向けて小さく手を上げる。

「よう」
「あ……藤田さんたち」
「あんたも刑事だったのか」
「……?」
「いや、なんでもねえ」

きょとんとした顔の佐祐理に、言い繕うように浩之が続ける。

「そういや、あんたが川名を助けてくれたんだってな」
「あははーっ、それは違いますよー」

屈託のない笑顔と共に手を振ってみせる佐祐理。

「佐祐理はただ、軍の方に川名さんの居場所を伝えただけですー。
 船まで運んでくれたのはあの方たちですよー」
「けど、あの……パンも持ってきてくれただろ」

パン、と口にする瞬間、浩之の表情に微妙な影が落ちる。
その脳裏に浮かぶ存在がパンというカテゴリに収まってしまう代物ならば、自分は一生白米党でいよう。
そんな風にすら思えてしまう記憶を振り払うように、少し乱暴に頭を掻く。

797午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:55 ID:1qEO/8a60
「あれがなきゃ川名は目を覚まさなかったかも知れねえ」
「うーん……」

苦笑気味に小首を傾げた佐祐理が、顎に指を当てたまま反駁する。

「あれも佐祐理じゃありませんねー。大切な友人からの預かりものを届けただけですー」
「友達……って、あの」

この回収船に乗り込む前、佐祐理と熱心に話し込んでいたその姿を、浩之は思い浮かべる。
陽光の下、白く輝く毛並み。
精悍に伸びる手足と、涼やかな目をした女性の顔。
まるで御伽噺から飛び出してきたような、それは半人半獣とでもいうべき存在だった。
全身を覆う毛皮の他には一糸纏わぬその姿は、見る者の眼を捉えて離さぬ神々しさをすら秘めていた。

「……藤田さん、もしかしていやらしいことを考えていますか?」
「考えてねーよ! そういや、あの人は船に乗らなかったみてーだけど……」

人、と呼んだ瞬間、佐祐理の微笑がほんの少し深くなったことに浩之は気づかない。
それこそが、藤田浩之という少年の美徳であったのかもしれない。

「舞は……友人は、まだあの島にやり残したことがあるそうなので」
「やり残したこと?」
「何でも魔物を迎えに行く、とか」
「……なんだ、そりゃ」
「さあ? 舞は時々、不思議なことを言う子ですし……」

あっけらかんと、しかし否定の色の一片すらなく、佐祐理が言ってのける。

「でも、あの子がそう言うのなら、それは本当に大切なことなのでしょうから」
「そっか……」

微笑の奥に横たわる深く濃密な信頼を、依存と呼ぶべきか、陶酔というべきか。
そのどちらをも選ばず、浩之は言葉を切った。
僅かな沈黙に、ふと佐祐理の微笑がその色を緩める。

798午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:31:25 ID:1qEO/8a60
「そういえばお二人とも、お散歩の途中でしたか?」
「……ああ、そうだった」

言われて初めて気付いたように浩之が天を仰ぐ。

「いや、散歩じゃねーよ。実は川名を探しててな」
「あらら、いらっしゃらないんですかー。……お部屋には?」

数時間に及ぶ船旅にあたって、生還者にはそれぞれ個室が宛がわれている。
客船でない以上、簡素なものではあったが、休むことくらいはできた。
それを指した佐祐理に、浩之が首を振って答える。

「ちらっと見たが、電気がついてないみてーだったからな」
「あの、それは……」
「―――浩之」

と、それまで浩之の背後に影のように付き従い沈黙を守っていた男が、何かを言いかけた佐祐理の言葉を遮った。

「ん? ……ああ、そうだな」

それをどう受け取ったか、浩之がひとつ頷いて佐祐理の方へ向き直る。
男の視線が背後で物言いたげに伏せられるのを、浩之はまるで見ていない。

「えーと、倉田……だったよな。話し込んじまって悪かったな」
「いえいえ、お話できてよかったですー。川名さんを見かけたら、藤田さんたちが探してたって
 伝えておきますねー」
「ああ、頼むな」

手を振る佐祐理に背を向けて、浩之は歩き出す。

「ったく、どこ行ったんだか……」



******

799午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:03 ID:1qEO/8a60
 
 
頭を掻きながら歩いていく少年たちの背中を見送って、小さく溜息をつく。
困ったものだ、と見やった空はすっかり群青色に染まって、夜の訪れを待っている。
水平線の向こうに沈んだ夕陽を惜しむように吹く風が、長すぎる髪と大きすぎるリボンを揺らして
いつも通りの不快感を私に齎してくれる。

振り払うように、歩き出す。
舷側を少し進めば小さな闇が口を開けている。
船室へ向かうための階段だった。
かつかつと金属的な音を響かせながら、狭くて急な階段を下りていく。
踊り場を一つ経由して薄暗い廊下に出た。
船舶という性質上、無駄な容積を取れない設計の廊下はひどく狭く、息苦しい。
壁面には用途も分からないパイプが敷き詰められ、視覚的にも圧迫されるように感じられた。
そんな、ごみごみとして、無機質で、鉄臭い廊下を歩く。

一つ、二つと扉を通り過ぎる。
あてがわれた部屋の扉も越えて、足を止めたのはその隣。
密閉可能な鉄の引き戸は、しかし今は薄く開いている。
開いた扉の隙間からは闇が漏れ出していた。
動くものの気配も、音もない。
気にすることなく、ノックを一つ。

「―――お邪魔します」

それだけを告げて、返事も聞かずに引き戸を開ける。
ぼんやりとした廊下の天井灯が、福音のように部屋の中を満たしていく。
部屋に詰まった闇が流れ出すように、暗がりが払われた。
暗闇の中から小さく無個性な据付のスチールデスクと簡素なパイプベッドが、そうして最後に、
そのベッドの端に腰掛けた一人の少女が、現れる。
ぼんやりとした明かりにぼんやりと照らし出されたのは、光を映さぬ瞳。

「……えっと」
「倉田です。倉田佐祐理」

800午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:32 ID:1qEO/8a60
驚いた風もなく、しかしどこか戸惑った様子の少女に、私は臆面もなく名を告げる。
戸惑うのも当然だった。
突然居室に誰かが入ってくるということ自体、普通では考えられない。
まして盲目の少女にとっては些細な想定外の事態ですら、致命的な恐怖の対象となり得るのだ。
更に言えば少女、川名みさきと私との間には、全くといっていいほど面識がなかった。
幾重にも礼を失し、既に愚挙と呼ぶべき行為に及んで、しかし私には罪悪感がない。
そんなものは当の昔に、あの小さな棺に入れて燃やしてしまった。
だがそんな私を見て、否、私の声のするほうに顔を向けて、川名みさきは静かに微笑む。

「……ああ、わたしを助けてくれた人だね。その節はありがとう……でいいのかな?」
「お加減はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫。元気だよ」

世間話のようなやり取りに、ひどい違和感が付きまとう。
何か、薄い膜のようなものを隔てて話をしているような感覚。
眼を凝らさなければ見えないような、薄くて軽い、透き通った壁。
そうして普通の人間は、誰かと言葉を交わすときに眼など凝らさない。
だから誰も気付かない、薄くて軽い、しかし突き破ることの叶わない、隔壁。
それは、川名みさきの張り巡らせているものだろうか。
それとも、川名みさきと向かい合う私が無意識に張り巡らせていたものだっただろうか。
分からない。確かなのは、私と川名みさきを隔てる何かがそこにあるということ。それだけだった。
だから私は、壁を通して通じる言葉を、使う。

「藤田君たちが探していましたよ」
「え? ……もう、ずっと部屋にいたのに。ひどいよ」
「お連れの方は気付いていたようですけどね」

801午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:28 ID:1qEO/8a60
可愛らしく頬を膨らませる川名みさきの子供じみた仕草を見ながら、私はもう一度溜息をつく。
そう、川名みさきは全盲だ。
わざわざ自室の照明をつける習慣など、あるはずもない。
部屋が暗いという理由で不在を確信するなど迂闊に過ぎる。
まして全盲の少女が慣れぬ船の中を歩き回るものか。
想像力が足りないのか、深く考える癖がついていないのか、或いはその両方か。
もっとも、と私は心の中の評価シートの、あの薄ぼんやりとした背の高い少年の欄に刻まれた
低い数字に疑問符をつける。
あのとき、照明のことを指摘しようとした私の言葉を遮った男。
藤田浩之の後ろに立っていた、ひどく鋭利な眼をしたあの柳川という男が、言葉巧みに
少年を言いくるめた可能性は決して低くはないだろう。
何故だかは分からないけれど、あの男は藤田浩之を川名みさきと会わせたがっていない節がある。
もしかしたら、いつまでも二人でうろうろと歩き回っていたいだけかも知れない。
そんなはずはないか。
取り留めのない思考に沈みかけた私を掬い上げたのは、川名みさきの声だった。

「まあ、いいや……わざわざありがとう」
「いえ、佐祐理も少しお話してみたかったので」
「わたしと?」
「はい」

咄嗟に口をついて出た言葉に、私自身が驚いていた。
川名みさきと話をしたい? 一体何を? そんな疑問を封じるように、言葉が続く。

「色々、ありましたし」
「まあ……そうだね」

呟いて小さく天井を見上げる川名みさきの表情には、感情というものがない。
そのことに、何故だか奇妙な苛立ちを感じた。
廊下から漏れるぼんやりとした光に照らされて、ぼんやりとした顔だけが浮かび上がっている。
役目を終えた仮初めの福音は、いつの間にか鍍金が剥げてただの天井灯に戻っているようだった。
そんな光に照らされているのが苦痛で、後ろ手に扉を閉めた。
からから、がちゃりと乱暴な音が鎮まると、狭い部屋からはすっかり光が喪われる。
闇が、降りた。

802午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:51 ID:1qEO/8a60
「たくさんの方が亡くなりました」
「そうみたいだね」

表情は見えない。

「昔から知っている方も、この島で出会った方も」
「わたしの一番の親友もね」

感情は見えない。

「……こういうときは泣いてみせたほうが、それっぽいのかな?」
「いいえ」

闇の中に、言葉だけが響く。

「いいえ、悲しみの受け止め方は、人それぞれですから」

言いながら、私は一つの顔を思い浮かべていた。
久瀬。
臆病で、神経質で、いつも虚勢を張っていた少年。
彼もあの島で命を落としたと聞いた。
涙は流れなかった。
ただ、悲しいという感情だけは、確かにあった。
今もそうだ。
彼の顔を思い浮かべた私は、きっと悲しい顔をしている。
闇の中で、表情は、見えないけれど。

「悲しいっていうのとも、たぶん少し違うんだけどね」

803午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:36:29 ID:1qEO/8a60
声に混じったのは、苦笑の色だろうか。
少なくとも、そこに悲愴は感じ取れない。
ただ、淡々と。

「雪ちゃんはもういない」

無明の世界に、言葉が響く。
訥々と。
ただ、降った雨の、水に落ちて小さな輪を作るように。

「それは、……うん、目が覚めたときにはもう分かってたんだよ」

喪失を、受容する。

「ずっとずっと、わたしのために頑張ってくれて、最後まで頑張ってくれたから。
 だからわたしは、こうしてここにいる。ここにいられる。
 ……雪ちゃんがここにいないっていうのは、そういうことだと思ってる」

小さな棺の閉じるのを、じっと見つめたあの日のように。

「だからね、だけど、わたしはそれで、思うんだ」

変質を、許容する。

804午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:01 ID:1qEO/8a60
「わたしには、何もできない」

言葉だけが響く闇が、灰と黒とに染まった雨の空を連想させて。
ああ、と。

「ずっと、そう考えてたんだ。わたしは目が見えないから。
 だから何もできないって。しちゃいけないんだって」

ようやく、思い至る。

「だけど……」

川名みさきは。

「だけど違うんじゃないかって。目が見えないから何もできないんじゃなくて。
 目が見えないから何もできない……って、そんな風に考えるから何もできないんじゃないか、って」

この全盲の少女は。

「そう、思った……ううん、思えたんだよ」

私と、似ている。

「……」
「おかしいかな?」
「いいえ」

細く、長く息をつきながら、答える。
何のことはない。
薄く軽い、透き通った壁は。
私と、川名みさきと。
両方から、張り巡らされているのだ。

「でも、笑ってる」

笑っている。
そうだ。確かに私は、笑っている。
嘘つきめ、と笑っている。
誰でも受け入れるみたいに微笑んで。
だけど誰にも見えない、きっと眼を閉じなければ見えない透き通った壁を積み上げて。
そういうもので心の奥のずっと底の、本当に暗い場所に隠した嘘を包んでいる。
川名みさきは。
倉田佐祐理は。
嘘つきだ。

805午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:56 ID:1qEO/8a60
だから私は笑っている。
楽しくて、嬉しくて、笑っている。
だから、

「何でも、ありませんよ」

だから私は、それだけを口にする。
いつか、いつか、あなたの嘘が、綺麗な本当のお日様の下で、溶けてしまいますように。
それを、心から願いながら。

「―――」

ああ、私は光の道を行こう。
大切な友の、表情の乏しい物憂げな顔を思い浮かべながら、思う。
私は私の奥底に、喪服を濡らす雨の冷たさを抱えながら光の下を歩こう。

その先には作り上げるべき世界が、待っている。
この世界でいちばん大切な人が帰ってくる、帰ってこられる場所が、私の歩みを待っている。
立ち塞がるのは政治と経済の世界だ。
取るに足らない、私の決意に敵すべくもない相手だ。
倉田佐祐理の、それが道だ。

「―――」

ふと、闇の中に降りた沈黙に気付く。
浸り込んでいた思考から、意識が浮上する。

「すみません、川名さん……川名さん?」
「―――」

返事はない。
闇の中、少女の姿は見えない。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるのは、定期的な呼吸の音。
どうやら川名みさきはいつの間にか、眠ってしまっていたようだった。
苦笑して、音を立てないように立ち上がる。
静かに開いた、引き戸の隙間を抜けようとしたとき。

「……え?」

背後の少女が、何かを呟いたような気がして、振り返る。
しかし、

「―――」

それきり何も、聞こえない。
寝言か何かだったのだろうか。
部屋を出ながらそう考えて、後ろ手にそっと扉を閉める。

一歩を踏み出せば、かつんと硬質な音。
暗闇を満たした部屋から遠ざかる音。
かつかつと響く、それは私の足音だ。
倉田佐祐理の未来に響く、足音だ。

見上げる。
薄ぼんやりとした光の向こう、狭くて急な階段を昇った先に、夜が訪れようとしていた。




******

806午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:16 ID:1qEO/8a60
******












「おめでとう」











******

807午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:39 ID:1qEO/8a60
 
【時間:2日目 PM 6:43】

観月マナ
【状態:生還】

藤田浩之
【状態:生還】
柳川祐也
【状態:生還】

川名みさき
【状態:生還】

倉田佐祐理
【状態:生還】

坂神蝉丸
【状態:生還】
光岡悟
【状態:生還】


→1061 ルートD-5

808名無しさん:2009/05/21(木) 22:48:43 ID:1qEO/8a60
「【改正BR第十三回プログラム第一次生還者 第九次追跡調査報告書概略】」

 
 
発:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課特殊資料室 栗原透子
宛:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課 課長 榊しのぶ



※本件は極秘扱とする。
 閲覧後は所定の手続にて回収・処分のこと。



******




藤田浩之【――】

・生還後、高校・大学を卒業。
 同年、総務省入省。
 現在は同省固有種公民権問題対策準備室に所属。
 関係各省庁の連携・調整に忙殺されている。
 昨年、官舎より転居。



柳川裕也【固有種】

・生還直後、県警を退官。
 現在は都内にて民間の護衛・探偵業を営んでいる。
 昨年、数年来の自宅としていた事務所より転居。



観月マナ【行方不明】

・生還後、元の生活に復帰する。
 高校卒業後に突如として失踪し、現在に至るまで行方不明。
 最後の通院記録によれば記憶は戻っていなかったようだ。



倉田佐祐理【――】

・国民議会決議による財閥解体を期に倉田家本流から距離を置く。
 都市圏への外資流入による大規模な経済混乱期の政争・暗闘を回避し、
 地方金融を中核としたグループとして旧傘下の中堅企業を纏め上げた。
 現在も数社の取締役として多忙な日々を送りながら、固有種公民権問題に
 積極的なロビー活動を行っている。
 生還後、魔法の力は失われたようだ。



川名みさき【――】

・生還後、故郷に小さな私塾を開いた。
 近年、各界に優秀な門下生を多く輩出し徐々に存在感を増しつつあるが、
 その思想と影響力の台頭を危険視する声も一部に上がり始めている。



光岡悟【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い首相付護衛武官に異動。
 大過なく任務を遂行していたが、五年前に突如として幼い先帝を拐かし武装蜂起する。
 現政権に國体護持の資格なしとの主張を掲げ首相暗殺を試みるも失敗。
 国外へ脱出し、軍の一部急進派を率いて転戦する。
 南方密林で包囲され、拠点に火をかけて先帝諸共自刎したと伝えられている。
 軍機密のため詳細は不明だが、拠点内から先帝の亡骸は発見されなかったとの
 まことしやかな噂もいまだに囁かれている。



坂神蝉丸【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い教練所指導員に異動。
 優秀な教導官として信頼を得るも、光岡悟の武装蜂起に呼応し合流。
 その後は国外を転戦するも、南方で戦死した模様。
 大陸で子供連れの白髪の男を見たという複数の証言があるも関連は不明。



******



→1066 ルートD-5

809Nos appetimus responsum unic?s quod absolut?s.:2009/05/21(木) 22:49:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
ここから先のすべては蛇足である。


物語は既に完結している。
世界は救われ、人々は日常へと帰った。

この先に得られるものは何もない。
そこにあるのは取るに足らない答え合わせと、愚にもつかない辻褄合わせ。
描かれるのは一人の敗者と一つの祝福。

繰り返して警告する。
ここから先のすべては、蛇足である。




******

810Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:15 ID:1qEO/8a60
******







葉鍵ロワイアル3

ルートD-5/終章


 「生」







******

811Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
そこには花が咲いている。


「神さま、しんじゃったね」
「そうだね」


儚げに天を仰ぐ、白い、白い花。


「もう、くりかえせないね」
「別に構わないさ」


見渡す限りの一面に咲き誇る花の仰ぐ天に、光はない。


「いいの?」
「ここは僕たちが生まれるに価しなかった。結局それだけのことさ」


闇夜に日輪はなく、


「……そう」
「それとも、もう一度始めてみたかった?」


星の瞬きすらもない。


「……さあ」
「なら、いいじゃない」


そこにはただ、


「……そうかもしれないね」
「最後の世界が終わるまで、どのくらいかかるかな」


赤い、赤い、瞳のような、


「……」
「ま、いいか。どうせいつかは終わるんだから」


月だけが、浮かんでいる。

812Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:51:04 ID:1qEO/8a60
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:世界の終わりの花畑】

岡崎汐
【状態:――】

少年
【状態:――】


→1067 ルートD-5

813明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:21 ID:9hfe7kLg0
 いつの間にか、雨が降っていた。
 闇夜から落ちてくる透明な粒は髪を濡らし、顔を濡らし、体を濡らす。
 熱を持った傷痕が夜雨の冷たさと中和され、心地良い痛みを作り出している。

 天然のシャワーをその身に浴びながら、天沢郁未は完全に崩落した廃墟を眺めた。
 兵どもが夢の跡。様々な人の血を吸い、命を喰ったホテル跡は僅かに炎の残滓を残すのみで瓦礫の山を築き上げていた。
 燻る煙は、殺された参加者達の怨念か無念か。けれども空に溶けてゆく様を見ればそんな思いだろうが関係はなかった。
 死んだらそこまで。敗北者は敗北者としてでしか語り継がれない。死んだ人間の存在はその程度のものだ。
 だからこそ、そうはならないために自分は戦って戦って勝ち続ける。そうしなければならないのだ。

 命の重たさが身に沁みる。敗北者どもの魂が我が身に宿っている。意外にも好敵手は多かった。
 芳野祐介。古河秋生。那須宗一。十波由真。七瀬留美。誰もが己の勝利を確信していた猛者どもだ。
 このうちの半数は既に死に、いくらかは自分が屠った。

 勝ち残れたのは自分の執念が勝っていたからだ。生きたいという願望。負けられないという願望。
 願いは大きくなり、他者を取り込みながら増大していっている。
 自分は知っている。借りを返そうと命を支払い続けた女の姿も、愚直なまでに己の正義を信じ続けた女の姿も。
 それらの存在があるからこそ自分の立ち位置も知ることが出来、生きている実感を持つことが出来る。

 そう。生きることは、戦うことだ。生きている限りは誰かとぶつかり合う。その中でこそ己の存在を認識する。
 結局人間は孤独で、互いにしのぎを削りあう存在だ。仲間などというのは利害の一致でしかない。
 だから郁未は渚の存在が、主張が許せない。

 誰かと共に有り、無条件で信じ合えると言った女。絆が力になると言った女。
 そして、戦うことを拒否した女。

 何もかもが腹立たしい。何故戦わない。何故力を見つめようとしない。何故戦いが悪いと決め付ける。
 それだけではない。何ら対抗策も持たず、ただ漠然と誰かが何とかしてくれるという他人任せの姿勢。
 主義主張はあってもその理由も持とうとしない、現実を見つめようとしない姿勢。

814明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:41 ID:9hfe7kLg0
 一番許せないのがそこで、そんな彼女が守られていることが理解も出来ない。
 だから潰す。無策でしかいられず信念も持たない渚も、その周囲の人間も。
 命を持っていいのは自分がどうしたいか、を知り抜いている奴だけだ。
 結果として戦おうが、殺しあおうが、利用し合おうが関係はなかった。
 来栖川綾香でさえ郁未にとってはこの島にいられるだけの価値がある、と思えるものだった。

「……あー、もう、むかつく」

 吐き出しても吐き出してもイライラは収まらない。
 結局のところ自分は口であれこれ言い合うよりも勝って正しさを証明する(ただし手段は問わない)方が性に合っているのだろう。
 案外単純な気質なのかもしれない、と思う。女の子としてはどうかとも思うが。
 軽く笑って、デイパックから水を取り出して一気に喉に流し込む。

 散々熱いところで激しく運動をしていたために喉が渇ききって仕方がなかった。
 腹を下すのではないかと思うくらいに、さして美味しくもないはずの水を飲み続ける。
 瞬く間に水の量は減っていき、気がつけば既に半分を飲み干していた。
 口を放し、残った水を頭からかける。多量の水が顔と髪を際限なく濡らし、
 へばりついていた煤や血糊が綺麗になくなる感触があった。

 なんとなく豪勢な気分になれたので、残りの水も引っ張り出して身体中にかける。
 雨で湿っていた服はずぶ濡れの様相を呈し、布地はぴったりと体に張り付いて郁未のラインを露にする。
 寒いとは思わなかった。内側から際限なく溢れ出してくる血液の熱と混ざり合い、寧ろ適温のように思えた。
 豪快にかけすぎて下着まで水が染み込んでしまったがどうでもいい。かえって邪魔だとさえ感じられる。

 とはいえこの場で素っ裸になれるほど郁未も恥知らずではない。とにかく心地良さだけがあればよかった。
 ペットボトル全てを空にした郁未は瓦礫の上に腰掛け、装備の確認をする。
 改めて見てみれば、随分とたくさんの品を抱え込んでいた。

815明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:58 ID:9hfe7kLg0
 拳銃が四丁。サブマシンガンが一丁。鉈。その他諸々。
 ノートパソコンに至っては二台もあった。
 いらないから捨てるべきかと思ったが、どうせこの場から動けないので捨てる意味もない。
 考えた挙句、鉈と拳銃を二丁だけ持って残りはデイパックに放り込んだ。

 ただしデイパックもいくつかあったのでひとつは食料用(使うのか疑問だったが)、
 ひとつはいらないと思ったもの、もうひとつは武器用として分けることにする。
 武器用のデイパックは常に携帯しておく。鉈を使って器用に分解し、
 腰に巻くようにして縛りなおし、調整する。これで断然動きやすくなった。
 もっとも待つことになるのは当面変わらないので本当に動きやすいかどうかは分かったものではないが。

「さて、待とうかしらね」

 荒く息を吐き出して、郁未は戦うべき相手を待った。
 未だ燻っている炎をカーテンに。瓦礫の山を玉座に。王は、ただ戦いを望む。

     *     *     *

 道中は静か過ぎるほど静かだった。
 雨の音一切排除したかのように、山の中は無音に満ちている。
 四人の会話は殆どない。
 それは登る途中で、変わり果てた男と幼い少女の遺体を見つけたせいもあるのかもしれなかった。

 死体ならば四人とも見たのは一度や二度ではないはずだ。
 だが見ていて気分のいいものではないし、慣れるものでもない。
 それにあの死体が誰であるか、誰にでも予想ができたのもあった。
 残してきた伊吹風子の知り合いであり、仲間だったという人間の遺体。
 往人に至っては少女は知り合いだったという。

 彼らを見捨てて逃げなければならなかった風子の心情、
 そしてホテル跡を調査するために埋葬を諦めざる状況であることも重なり、
 どことないばつの悪さが敷衍し、それぞれが違う方向を見ながら歩く時間が続いていた。

816明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:21 ID:9hfe7kLg0
 会話がない以上、互いにやれることは作業しかなかった。
 那須宗一は国崎往人のコルトガバメントカスタムが汚れているのに気付き、簡単な整備を施してやることにしたのだった。

「まったく、武器の手入れくらいちゃんとしとけよ。弾切れだし、泥だらけだし。銃は乱暴に使うもんじゃない」
「……面目ない」

 ナイフの刃で細かい泥を取り除いたり、詰まっているところはないかとチェックしながら、
 宗一はぶつぶつと小言を往人にぶつける。
 自分よりも年齢と背が高いはずの往人がしょぼくれているのを目にするとなんとなく締まりが悪かったが、
 銃器の扱いを生業としている人間にとってみれば見逃すべきではないことだ。

 こうして整備を怠り、銃が暴発して二度と使い物にならなくなったエージェント達の姿を宗一は知っている。
 身だしなみをきちんと整えるのも銃器と付き合う人間の役目だ。そういう意味では相棒であり、女房だ。
 まったく、いつまで経ってもスパイ気質が抜けやしない。
 チェックしているうちにグリップの握り具合やトリガーの堅さを確かめ、使いやすさを吟味していることに内心苦笑する。

 人間長く仕事を続けていると慣れてきてしまうものだ。自らの生活を守るために始めたはずのエージェントも、
 今ではそれなりの余裕と楽しみを持って続けている。
 その一方で、裏の稼業で食べている者の常として人の強欲、利権を貪る醜さを見てきたこともある。

 『仕事』として人を殺したことも一度や二度ではない。エージェントは情報収集が任務だが、任地は安全な場所ばかりではない。
 マフィアやギャングが多く潜む暗黒街での仕事で争い沙汰になるのも日常茶飯事だった。
 人を殺した次の日は決まって悪夢に苛まれる。殺した人間が幽霊になって、とかそういうものではないが、
 殺しを強要される過去の自分を夢見るのだ。いやだと内心に絶叫しながらも人の体に穴を穿っていく自分。
 それも回数を重ねるうちにいつしか感覚が麻痺し、悪夢すら冷めた感覚で眺めるようになった。

 人殺しの業なのだと達観し、それに抗うのは無理だと断じて空白の瞳で見つめ続ける。
 そうして気付けば夢の中の己も冷めた目で他人を見下し、無言で銃を手にとって殺される人間へと感情のない顔のまま、撃つ。
 悲鳴を上げて絶叫するようになったのは殺される側の人間になっていた。
 何度も何度も繰り返し、死体の山がうず高く積み上げられていく。

817明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:39 ID:9hfe7kLg0
 異臭が蔓延り、人の手足がだらりと投げ出され、もはや何を語ることもない。
 二人の自分は何も感じず死体を増やしていく。
 けれども、ふと、目を凝らしてみれば……死体の山の中には、見知った友人達が、混ざっていて――
 そこで目を覚ますのだ。

 それでも自分は何も思わない。またか、と辟易する程度に留まる。そう感じている自分にもまた嫌気が差すのだ。
 自己嫌悪を紛らわせるために歓楽街に繰り出し、酒と快楽に身を寄せて悪夢が薄まるのを待つ。
 世界一のエージェントはそうしなければ生きられないような男だった。
 ここに来るまでは誤魔化しと言い訳に浸り続け、何を守りたかったのかも何をしたかったのかも思い出せなった男だ。

 今はどうなのだろう。
 不実を自覚し、忘れていたことを思い出した現在の自分は悪夢を見ることもないのだろうか。
 もちろん思い出したからといって過去の事実が清算されるわけではないし、そんなつもりもない。
 ただ曖昧に誤魔化し、記憶を薄めるのではなくしっかりと捉え、現在を構成する自分に反映させていきたい気持ちがあった。

 過去は悪いことばかりじゃない。
 地獄でもついてきてくれようとしていた夕菜の存在、
 自分のことを慮ってくれた皐月やゆかりの存在が残っている。
 思いを共有し、体を預けて歩いていられる渚という存在も生まれた。

 だから歩いていこうと思った。たとえ地獄でもついてきてくれるひとがいると知って……確かめたかったのだ。
 もう悪夢は見ないかどうかということを。
 故にエージェントは続ける。自分が自分のままでも間違ってはいないということらしいのだから。

「ほらよ。もう手荒にすんじゃないぞ」
「済まない」

 ぽんとコルトガバメントカスタムを手渡し、宗一は手持ち無沙汰にしていた往人に笑いかけた。

818明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:56 ID:9hfe7kLg0
「高くつくからな」
「……出世払いで頼む」

 難しい顔をして往人はそう返した。金と聞いて顔色を変えるあたり金銭難な生活だったのかもしれない。
 格差社会の弊害というやつだろうか。宗一から見ても中々格好いい男なだけに勿体無いと思う。
 新しい働き口を探していたようでもあったから、コネをいかして今度仕事を斡旋してやろうかと考える。
 意外にホスト稼業なんかいいんじゃないか、と思いかけて、やっぱりやめることにした。
 銃を真剣に見つめている往人の横顔を見れば、今考えるべきことはそれではないことが分かったからだ。

「まーしかしだがしかし、那須っちは銃に詳しいねえ。まるで軍人さんみたい」

 その一部始終をずっと眺めていたらしい朝霧麻亜子が感心したように尋ねる。
 元は往人達とは敵対に近い関係だったらしいが、まるでそんな素振りも感じさせない緩い声である。
 本人は深く語らないが、何人か殺害している可能性はある。
 ……そうでなければ、時折眼の奥に見える哀切に満ちた色があるわけがない。

 この女もまた、仮面を被っている。本当に辛いことや悲しいことを打ち明けられず、一人で自己解決してきた自分と同じだった。
 ただそこに踏み込む権利は自分にはないし、その役目は往人や川澄舞が担っているのだろう。
 麻亜子自身も望んでそうしているようだったから、これ以上は詮索するまいと宗一は思った。

 しかし渚といい、自分といい、麻亜子にしてもこの島には似たものが多いものだ。
 そういう人間だけ生き残ってしまったのかもしれないが――そんなはずはないか。
 自らの空想を消し、宗一は努めて軽い調子で答える。

「一応、軍事マニアなんでね。実際に撃ったこともあるぜ」
「ほうほう、本場のアメリカ〜ンで?」
「イエス。実は英語も喋れる」
「あー、流れ的に英語で質問されそうなのでまいまいにパス」

819明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:11 ID:9hfe7kLg0
 私? と急に話題を振られた舞が自分を指差す。目を合わせられ、どうしたものかと往人に視線を移す。
 不自然に目を逸らされた。この野郎、と聞こえない程度に口に出し、宗一は自分にも無茶振りをさせられたことに悩む。

「……」
「……」

 無言で見つめあう二人。こうなったら最後の手段だ。
 宗一のただならぬ雰囲気を察知したのか、舞はコクリと頷いた。
 やがて宗一は大きく息を吸い、無駄になめらかな発音で喋った。

「Do you speak Japanese?」
「Yes,I do」

 完璧な英会話だった。

「待たんかい! んなのあたしにだって出来るってーの!」
「無茶振りしてきたのはお前だろ」
「あたしとしてはだなー、英語が上手く出来ずに赤面するまいまいに萌えてセクハ……もとい、愛情表現を」

 とんでもない女だった。

「……馬鹿ばっかりだ」

 そして嘆息する往人。お前だって目を逸らしたじゃないかと言いかけて、そんなコントをしている場合ではないと思い直し、
 詰め寄ってきた麻亜子のほっぺたをぺちんと両手で挟み込む。

「ぶっ」
「いいかよく聞け」
「ひゃい」
「取り合えずそろそろ現場も近い。漫才はここまでだ」

820明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:29 ID:9hfe7kLg0
 コクコクと頷く麻亜子によしと言い、宗一は麻亜子を解放して先に進み始めた。
 本人もふざけたつもりでやったのではないのだろうが、締めるところは締めておかないと何があるか分かったものではない。
 麻亜子も流石に雰囲気を変え、鋭い視線を周囲に向け始めていた。

 まるで別人のようだった。
 最初からこうしてくれれば良かったのにと思いながらも、一連の会話の流れで緊張は程よく緩和されている。
 無駄な思考が削げ落ち、必要なことだけ考えていられる。会話がそういうものを排除してくれたのだろうか。
 少し前まであったはずの重苦しく会話さえ憚られたような空気は完全に払拭されている。

 任務のときも現地に入るまではエディと馬鹿話をしていたことを、ふと思い出す。
 そう言えばいつも締めはエディだったな、と宗一は気付き、今はその役目が自分に回ってきたことに苦笑する。
 無茶苦茶少年の名を返上するつもりではなかったのに。

 しかし不思議と悪くない気分だった。誰かの舵を取りつつ振る舞うのも新鮮なものだ。
 ただ突っ走るだけではない、支えながら走る感覚。
 エディがなんだかんだでついてきてくれたのはこれがあったからなのかもしれなかった。

 ようやく気付いたかと失笑する声が聞こえ、うるさいと言い返してやった。
 返上じゃなくて、改名ということにしよう。これからの俺は『無茶苦茶青年』だ。
 英語にするとナスティマン。格好悪いが、それが今の自分だ。格好悪く生きているが、これでいいと思えた。

「そろそろだな」

 一度ホテル跡を尋ねている往人がぼそりと呟いた。
 見た目にはまだ見えないように思えるが、微かに煙の匂いが漂ってきている。

「……あそこが燃えていたってのは本当らしいな」
「はっきり見えたからな。問題はそれがどの程度かってことなんだが」
「芳しくはなさそうだねぇ」

821明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:45 ID:9hfe7kLg0
 火事の度合いによっては調査どころではなくなる。
 風子が逃げてきた時点ではそもそも火事は起こっていなかったしい。
 が、それから何時間か経った今、争いの最中に燃え広がったと考えていいだろう。

 一番こちらが益がないのは完全に焼失していることだ。
 そんな場所に誰も留まっているはずはないからである。
 そうなると逃げた連中を探して動き回らなくてはならなくなる。
 時間の浪費であると共に、自分達のような集団を作りきれていない人間にとっては脅威となり得る。

 風子によるとあの時ホテルにいたのは自分を含めて八人。風子達を除いて少なくとも五人が戦っていたという。
 そこから風子を追ってきたのが一人。
 だとすると最悪の場合、四人が逃げた可能性すらあるのだ。
 無駄足は避けたいところだが……宗一のそんな希望はすぐに瓦解することになった。

「……こりゃ、ひどいね」

 麻亜子の呆れ返ったような、いっそ清々しさを感じさせるような声に、全員が全員同意せざるを得なかった。
 完全な崩落。もとホテルがあったと思われる場所は完全に瓦礫の山と化していた。
 炎の舌が雨に炙られてちらちらと揺らめき、僅かに出ている煙が空へと拡散していることを除いて、何も残ってはいない。
 死亡者の確認すら不可能な現場。分かることはといえば、凄惨な殺し合いが繰り広げられたらしいということだ。

「くそっ、ここまでとは思わなかった」

 自らの読みの甘さに落胆する。ただの徒労になってしまった。
 落ち込んでいられる場合でもないが、ここで得られるものもないではないか。
 渚に合わせる顔がない……

 呆然と立ち尽くす宗一だったが、他の三人は知ったことかとそれぞれに焼け跡を調べ始めていた。
 もしかすると遺留品のひとつ、もしくはメッセージでも残されているかもしれない、そう言うように。
 ……何をやってるんだ、俺は。

822明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:04 ID:9hfe7kLg0
 諦めようとしていたことにまたぞろ溜息をつく。
 想定外の事態に突き当たれば誤魔化して言い訳しようとする悪癖。
 仕方のないことと断じて疑わないこの放棄癖を持ち続ける己を殴り飛ばしたくなる。

 ほとほと自分の冷めた感覚に腹が立ってしょうがない。こんなことで渚を支えられるものか。
 平手で頬を叩き、宗一も往人達に混ざって調査を開始しようとしたとき、ぞわとした気配が頭上に立ち昇るのを感じた。
 それは直感に過ぎない。だが醍醐と対峙したときのような凍て付く視線、刃を突きつける凶悪な気配が、確かにあったのだ。

「離れろっ!」

 反射的に叫んだ言葉を全員が受け止めた。
 弾かれたように飛び退いた場所、そこをなぎ払う、漆黒の影があった。
 瓦礫の上から忽然と現れた影はさながら獣のように鉈を振るい、
 空間そのものを刈り取るかの如く麻亜子へと襲い掛かる。
 麻亜子は咄嗟に武器を構えようとしたが、間に合わない。

 なら、間に合わせるまでだ――!

 ベルトに挟む形で忍ばせておいたナイフの一本を素早く取り出し、手首に捻りを利かせてスローイングする。
 ダーツの矢を思わせる挙動で放たれたそれは弧も描かず真っ直ぐに飛び、二人の間に立ちはだかった。
 ナイフに気付いた『奴』は鉈を別の方向へと振り抜いて弾く。
 くるくると回転したナイフはそのまま瓦礫の山に埋もれ、そのまま炎の欠片に呑まれる形となった。

 麻亜子はその隙にぴょんぴょんと跳ねながらこちらまで撤退してくる。
 奇襲は防げたという一旦の安堵は、しかしすぐに四人と一人が対峙することで掻き消える。

 目の前に悠然と立ち尽くす『奴』の正体を、宗一は知っている。
 霧島佳乃を死に追いやり、人を道具と判じて使い捨てた、狂戦士の名を自分は知っている。

823明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:21 ID:9hfe7kLg0
 女は、いや、女のかたちをしたものは言った。

「やってくれる」
「光栄だな。そちらさんも相変わらず汚いようで」
「この人数差でそれを言うかしら」
「投降してもいいんだぜ」
「は、冗談」

 吐き捨てるように笑い、身の毛がよだつほどの凄絶な表情を浮かべるのは天沢郁未である。
 彼女の体全体は赤く染まりきっており、それは幾多の戦いを潜り抜けてきたことを意味すると同時に、
 その身に浴びる犠牲者の血もおびただしいことを意味していた。
 顔には引っかかれたような三対の爪痕があり、生来の郁未の研ぎ澄まされた感覚を表しているかのようである。
 実際、郁未はこれまで以上の殺意と闘志、そして執念を持ち合わせているかのように思えた。

 自分達と同じ生きたいという願望。
 だがその方向性は大いに異なるものだった。
 郁未は他者を受け入れず、恐怖で周り全てを駆逐する力の倫理に身を置き、
 自分達は手を取り合って分かり合う一蓮托生の道に身を置いた。

 元は同じ場所に立っていたのであろう彼女は、この島の地獄を経験するにあたりこうする以外にないと判断してしまった。
 話し合う余地もないのは先刻知っての通りだ。
 しかし、それでも宗一は先に手を出すまいと決めていた。
 戦術云々の問題ではない。渚なら、まずきっと郁未の論理を打ち崩しにかかるだろうと思ったからだった。

 皆も迂闊に手を出さない方がいいと思っているのか、自ら動こうとはしなかった。
 宗一が一歩進み出ても動かない。もしかすると、自然と自分の考えていることに共感してくれているのかもしれなかった。
 こんな感覚を抱擁出来るからこそ、人は支えあえる。そのことを実感しながら宗一は郁未と改めて対峙する。

824明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:38 ID:9hfe7kLg0
「随分人を殺したようだな、天沢郁未さんよ」
「あら、まるで私だけが人を殺してきたかのような言い方ね。あんたらだって殺してないはずはないでしょうに」

 冷笑を含んだ目が向けられる。徒党を組むことを極度に嫌い、自分だけを信じ、弱肉強食を信奉する女の姿だった。
 ある意味で彼女は正しいのだろう。この論理に従ってきたからこそ彼女は生きているとも言える。

 だが、その生き方に終わりはない。希望も未来も得ることはなく、
 現在ある戦いのみに身を投じることしか生きている意味も価値も見出せない。
 それでいいのか。それではあまりにも寂しくはないのか。
 そんな生き方を……誰が覚えてくれているというのか。

 もしかすると寂しいと感じるものさえ郁未にはないのかもしれない。
 或いは人を蹴り落とす、その行為にしか縋れなくなったのかもしれない。
 力で支配すると言いながら、自分も何者かに支配されている。それには……気付いているのだろうか。

「確かにな。俺達だって人を殺してきた。結果的に見捨てさえした奴だっている。
 だが、お前のように殺しを楽しんできたわけじゃないし、諦めた末の行動でもない」
「また戯言か。今度はどんな理想論を叩き付けてくるつもりかしら。……ああ、いいわ、言わなくて。反吐が出るから」
「そうやって何も信じられなくなるから、自分だって簡単に諦めるようになる」

 言葉を発したのは往人だった。油断なくコルトガバメントカスタムを構えたまま、
 ぴくりと眉を吊り上げた郁未を見据えて往人は「そういう奴なんだ、お前は」と続けた。

「実際に行動して絶望するのが怖いから理想論だと見下げ果てる。だから安易な方向に逃げる」
「分かったような口を叩く」
「そうなりかけたからな。俺も」

 決定的に違いを告げる声が放たれた。
 殺意が往人に対して向けられていくのが分かる。だが郁未は自ら手出しはしないようだった。
 あからさまにイラついた態度を見せながらも話は聞く。それは否定すべき敵を選定しているかのように思えた。
 まず自分も含め、往人もその対象に選ばれたらしい。既に彼女の思考は、今すぐ殺すか否かの二択しかない。
 それは、やはり、宗一には力という糸に搦め取られた人間の姿のようにしか見えなかった。

825明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:58 ID:9hfe7kLg0
「理想論はどこまで行こうが理想論よ。私はちゃんと現実を見ている。
 あんた達のような集まりさえすればどうにかなると盲目に信じ込んでいるのとは違う。
 戦うのはいけないことで、悪いことなんだと決め付けているあんた達とは違うのよ、偽善者どもが」
「なら、あんたの言う現実って何だよ」

 口を挟んだのは麻亜子だった。
 今までの彼女にはない、確かな怒りが感じ取れる。
 盲目的に決め付けているのはそちらではないかと糾弾する視線が、射るように向けられていた。

「現実も理想すら見ていないのはあんたの方だ。何故かって? 簡単だよ。
 あんたは目の前のルールしか見てない。殺しあえと言われたから殺した。考えることさえなく、思考放棄してね。
 あー、ホント、こりゃムカつくなぁ。は、あたしってそんなことしてきたんだと思うと、自分でも腹立つよ」
「……殺し合いに乗ってたわけ?」
「さっきまでね。でも考えて考えたら、何も生み出さないし自分勝手を押し付けてるってことが分かってさ。
 馬鹿らしくて、今はやめちゃったよ。あんたみたいな餓鬼とは違うからね」
「偽善者の仲間入りってワケか。命乞いをして許してくれたからぬるま湯に浸かってそのまんま、ってところか。
 そんなのは敗者の言い訳よ。勝てないから趣旨換えをした奴が、偉そうに」
「趣旨換えをしたことは認めるよ。でもさ……やせ我慢もしちゃいないけどね」

 皮肉った笑みが郁未へと向けられる。同族嫌悪とでも言うべき、もしくは自己嫌悪とでも言うべき笑みだった。
 嘲笑されたと取ったらしい郁未も暗い情念を含んだ笑みを投げ返した。暗黙のうちにお互いが殺すと告げあっている。

「やっぱあんたをいの一番に殺すわ。殺してあげる、チビ助」
「まーりゃんってんだよ、覚えとけ甘ちゃん」
「……まーりゃん?」

 麻亜子の言葉を聞いた郁未はつかの間目をしばたかせ、やがて大声で笑い出した。
 先ほどまでの笑いではなく、ただこの状況を笑うものだった。
 自分にではなく、麻亜子にでもなく、ここにはいない誰かに向けて、しかし勝ち誇ったように。
 ひとしきり笑った郁未は打って変わって興味を示したように「そうか、あんたがあのまーりゃんか」と底暗い瞳を差し向けた。

826明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:14 ID:9hfe7kLg0
「綾香も人を見る目がなかったようね。だから死んだのでしょうけど……まあ、どうでもいいわ。
 あいつをキレさせた餓鬼だっていうじゃない。ますます、一番に殺したくなったわ」
「……なんだ、あやりゃんを知ってたのか。なら尚更だよ。殺される気なんて毛頭ない。
 あんたみたいな『あたし』に殺されてたまるもんか。もう限界なんだけど、那須っち」

 指示を待ちわびる声が聞こえた。麻亜子だけではない。往人も舞も、倒すべき敵を見据えて宗一の言葉を待ち構えている。
 誰もが自分の思いを露にしていた。正しいだなんて一言も言えない、どこか我侭にさえ思える人間の醜い争いに思える。
 だが自分も含めそうなのだとしても、それを貫き通して何が悪いという開き直りのようなものがあった。

 どうあっても分かり合えないなら、押し通るまでと誰もが決意している。
 後々それで責められようとも構わない。それだけの思いが自分達にはある。
 人に恥じず、己に恥じない、自分だけの思いを持っている。宗一は全員の情念を体の芯に焼き付けながら、言った。

「行くぞ。天沢郁未を叩き潰す!」

     *     *     *

 一対四。なかなか上等な戦いだと郁未は感想を抱き、真っ先に向かってきた舞に対して鉈を振るう。
 既に抜いていた舞の日本刀と無骨で重厚な鉈の刃とがぶつかり合う。
 雨に火花が咲き、危うい均衡を以って刃が競る。

 舞は無言、しかし峻烈な怒りと鋭い瞳の両方とが彼女の意思を雄弁に物語っていた。
 郁未はただ笑う。戦う者はかくあるべし。主張は命を刈り取る一撃の中で語られる。
 その姿は正しい。だが、郁未の気に入る答えではなかった。否、そもそもこの場にいる全員の存在自体、彼女は気に入らない。

 だからその主張を叩き潰す。それはこの島において培われた天沢郁未の論理であり、
 弱者はひたすらに嬲られ続けてきたFARGOの現実を知る人間の価値観だった。

827明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:30 ID:9hfe7kLg0
 心の奥底において郁未がFARGOの実態に恐怖していたことは本人でさえ自覚はしていない。
 生き延びるために最善最良を尽くさねばたちどころに自我も自尊も崩壊させられ、肉人形となるか、さもなくば肉塊となる運命だ。
 郁未は犯され続けてきた友人の姿を克明に思い出すことが出来る。
 力を制御しきれずボロ布のように血を噴出させ死んだ出来損ないの末路を知っている。
 だが一方で仲間の存在もあり、共同生活を送ることによっていくらかの恐怖は和らぎ、抑制することが出来た。

 故に郁未はまだまともを演じられた。奥底で築き上げられつつある、
 力と恐怖で支配するFARGOの有り様、引いてはその論理を受け入れていることに気付なかった。
 だが郁未がこの島に放り出されたことで価値観は一変する。

 暴力が猛威を振るい、殺さなければ殺され、裏切らなければ裏切られる。
 友人達もその例外ではなく葉子は自分を庇って死に、他の友人達も早々にこの場から退場していった。
 FARGOのクラス分けからすれば当然の順序であった。……葉子を除いては。

 あのとき油断さえしなければ。自分がもっとしっかりしていれば。さっさと殺していれば。
 そう、殺さなかったばかりに葉子は殺されたのだ。
 口には出さなくとも、郁未はずっとこの一事を悔いていた。いや口に出すことなど出来ようはずもなかった。
 既に友人達は死に、語るべき仲間がいなくなった瞬間、郁未は孤独に責任を抱え込まざるを得なかったのだ。

 だから生き残らなければならない。責任を果たさなければならない。
 その思いはやがて毒となり、郁未を蝕み、最後には心の隅にしかなかったはずのFARGOの論理が彼女を汚染していた。
 何故生きなければならないのか、その理由さえも忘れ、郁未は彼女の教義に反するものを須らく敵対視するようになった。
 殺さなければ殺される。覚悟を決めなければ決めた連中に出し抜かれる。

 だから守らなくてはならない。
 その対象は仲間だったものから、今や孤独でしかない自分へと向けるしかなかったのだ。
 故に天沢郁未は力を振るい続ける。
 もはやたったひとつしか守るものがなくなってしまったこと――即ち、己の命を守るために。

828明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:44 ID:9hfe7kLg0
 鉈が弾かれる。舞が一歩引いた瞬間、そこに銃弾の雨が差し込まれた。
 正確には波状攻撃だった。麻亜子のボウガンが側面から迫り、身を捻ったと同時に往人と宗一の拳銃弾が郁未を貫く。
 新たな痛みが生まれる。仰け反る暇もなく郁未はサブマシンガンを取り出し乱射するが、
 広く移動しながら攻撃している宗一達にそれが当たるはずはない。

 さらに弾を吐き出し終えたのと同時に待っていたかのような反撃が返ってきた。
 往人のガバメントカスタムの連射に加え宗一が持ち替えたSPAS12による散弾が群れを成して襲い掛かる。
 半身をくまなく直撃した銃弾の嵐は手の保持能力を完璧に損なわせ、サブマシンガンを宙に放り出す結果となった。
 腕もズタズタに引き裂かれ、それまで受けたダメージと合わせて死亡してもおかしくない痛みの総量だった。

 くるくると回転した郁未の体が地面に落ち、泥にまみれる。
 圧倒的に不利どころか最初から詰んでいた。
 全員が武器を所持しているうえそれぞれが修羅場を潜り抜けここまで生き残ってきた人間達である。
 単純な力量差から見ても一人一人が郁未と同等の力を持っている。
 一対一ならともかくまとめてかかられると勝ち目がないのは自明の理であった。

「もう終わりだ。残酷だが、お前はここまでだ」

 宗一の言葉は既に戦いが終わったかのような口ぶりだった。
 ここまでなのか? 地に伏し、ただ勝利者の言葉を受け止めている自分の冷めた部分がそう語りかけている。
 群れてでしか行動出来ない連中に、偽善の言葉を振りかざす連中に、自分はただ負けるのか。
 それが当然なのだという思考が頭の中を巡り、殺されるまでもなく郁未の意識を閉じていく。

 冗談じゃない。不意に思ったその一言が起き上がり、熱を持って膨張し郁未の身体を満たした。
 ここで死ぬわけにはいかない、死にたくない。
 なぜ、どうしてという理由は浮かばなかったが、とにかくこのまま死ぬのは真っ平御免だという思いが冷めた自分を吹き散らす。

 叩き潰す。とにかく叩き潰す。もっと強い意志を。もっと力を求める覚悟を。
 それがなかったから、今までの自分は真の勝利をもぎ取ることが出来なかった。
 こんなところで諦めてたまるか。こんな連中に負けてたまるか。

829明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:01 ID:9hfe7kLg0
 悪魔にだって魂を売ってやる。勝たなければ、とにかく勝たなければ。
 何もかもを屈服させる、支配の力を。
 血が流動する。身体を動かすように、血が動き始める。
 ――それはまさに、『不可視の』力に動かされているかの如く。
 証明してやる。殺さなければ殺される。やらなければやられる。思い知らせてやるのだ。

 どこか遠く。

 月が、見えた。

     *     *     *

 のそり、と郁未が起き上がる。宗一にはそれが、決して征服されざる怪物の姿のように見えた。
 どうして、という思いが沸きあがったが血まみれでなお立ち上がる郁未の姿がそのように思わせるのだと思い直す。
 何が彼女をここまで衝き動かすかまでは分からない。何が彼女を勝利へと駆り立てているのか知りようもない。
 だがそれもお終いだ。冷酷だが、ここで頭部に銃弾を撃ち込んで決着をつける。

 そう考え、SPASの銃口を向けた瞬間、ぎょろりと浮き上がった郁未の瞳が目に飛び込んできた。
 刹那、危険だという警鐘が己の中で鳴らされる。ただ直感的に感じたものに過ぎない。
 しかし不思議な確信があった。早く撃たねば、取り返しのつかないことになる――
 半ば性急にトリガーを引いたが、散弾のどれもが郁未に命中することはなかった。

「な……!」

 忽然と郁未の姿が消える、いやそうではない。目にも留まらぬ速さで彼女は跳躍したのだ。
 人間では到底有り得ないような高さを、彼女は舞っていた。
 ヤバい。先程よりも更に大きな警鐘……いや、警告が咄嗟に宗一の体を動かし、回避行動を取らせていた。
 一秒と経たぬ間に郁未がそれまで自分のいた場所に鉈を振り下ろす。もう少し判断が遅れていれば首を取られていた。
 ゾッとした冷や汗が流れ落ち、すぐさまSPASを撃とうと構えたが、郁未の姿は既に目の前にあった。

830明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:15 ID:9hfe7kLg0
「嘘だろ!?」

 思い切り上体を逸らして振り下ろされる鉈を回避したものの銃は同じようにはいかない。
 凄まじい力で叩き落され、とても死に掛けの女とは思えない力を宗一に知覚させる。
 絶対的な恐怖。それは動物が本能的に感じる、強者に対する畏怖だった。

 目の前にいる女のかたちをしたもの。それは人間ではない。化け物なのだ。
 余裕は既になくなり、生命の危機を打破すべく頭を必死に回転させ、体は反射的にファイブセブンを取り出している。
 しかしそれでも遅かった。早くも突進している郁未の矛先は、確実に自分を貫く。

「那須っ!」

 ここにきてようやく往人達の声が聞こえた。遅いのではない。郁未が圧倒的に早かったのだ。
 援護の銃声が鳴り響いたが、郁未は振り向きもせず鉈をサッと払っただけだった。
 ただそれだけ。それだけのはずなのに、郁未の体に向かっていた銃弾は全て叩き落された。

 マジックショーかなにかなのか、これは? 避けるならまだしも、叩き落すなんて有り得ない。
 動体視力が優れていようが銃弾の速さは秒速数百メートルはあるのに?
 以前戦ったときとは似ても似つかぬ郁未の変貌振りに宗一は困惑する。
 スイッチが入ったとしか思えない。或いは生命危機に即応した、生物的な進化。
 白い歯をちらつかせ、全身を朱にして嗤う郁未は人間という領域を侵し、神の領分にまで達した生物だった。

 だが、と宗一は思う。ひとのかたちをしているのなら、まだ殺せる。
 確かに力は人間の比ではない。速さはいかなる生物をも陵駕する。しかし決して……不死身ではないのだ。
 寧ろそうとでも思わなければやってられない。ホンモノの化け物と対決なんて勘弁願いたい。

 全く、愉快だぜ? エディ?

831明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:34 ID:9hfe7kLg0
 どこか非常識な、それでいて命の危険を感じているこの状況こそが宗一の意識を明白にさせた。
 必ず生きて帰るという、強い目的を抱いてファイブセブンの引き金を絞る。
 残弾も少ないそれを惜しげもなく連射する。それは仲間にも向けた激励でもあった。
 目の前の敵にビビるな。銃声が響くたびにより意識が鮮明となり、闘志を舞い戻らせる。
 だが思いとは裏腹に郁未は凄まじい速度で回避し、掠りすらさせてくれない。

「だったら……!」

 飛び出したのは舞だった。怯懦も恐れもなく真っ直ぐに日本刀を持って立ち向かっていく。
 触発されるように麻亜子もナイフを持って突進する。
 動きを封じようという算段は宗一と往人に、そして郁未にも伝わったようだった。
 同時に挟撃がよろしく踏み込む二人に、しかし郁未は悠然と立ち尽くしたままだった。

 まず舞の刀を受け止め、軽く弾くと反対の拳でかち上げる。
 宙に浮いた舞の体が回し蹴りで吹き飛ばされたと同時、既に麻亜子にも攻撃している。
 足払いでバランスを崩し、腕を取るとジャイアントスイングのように振り回し瓦礫へと向けて放り投げた。
 舞も麻亜子もしたたか体を打ち、こちらに銃を撃たせる暇もなくあしらわれた。

 だがリロードの隙までなかったわけじゃない。ガバメントカスタムに再装填した往人に合わせて宗一もファイブセブンを連射。
 今度は郁未にも余裕は感じられなかった。直後に攻撃を仕掛けられたのだ、当然だ。
 そういう意味ではまだ人の要素を残してはいることに感謝しつつありったけ撃ちまくる。

 体を大きく動かし回避する郁未。やはり避けるだけで精一杯らしく、しかも銃弾の一部が掠ることもあった。
 急所狙いの弾は叩き落されることもあったが、いける。波状攻撃を続ければ勝てなくはない。
 確信を得かけた宗一だったが、唐突にファイブセブンが銃弾を吐き出さなくなる。言うまでもない。弾切れだ。

「やば……!」

 残弾を確認しながら撃つのを忘れていた。基本的なミスを恥じ、そして致命的だと頭が告げる。
 すぐさま取って返した郁未がこちらへと迫る。今武器は投げナイフしかない。しかもそれでは鉈を防ぎきれない。
 郁未の攻撃は避けきれない。毒づいてそれでもと精一杯の回避行動を取る。

832明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:07 ID:9hfe7kLg0
「なめんじゃねーっ!」

 結果的に諦めなかったことが宗一を救った。瓦礫の山から麻亜子が銃を撃っていたのだ。
 形状と銃声から察するにデザート・イーグルだろう。とんだ隠し玉だった。
 突進していた郁未はその場で高く飛び上がり、銃弾を難なく回避する。本当に出鱈目だ。
 しかし宙に浮いた数秒が宗一の命を繋いだ。

「那須! 受け取れ!」

 大振りに往人が投げ渡してきたのはあろうことか、イロモノ拳銃であるフェイファー・ツェリスカだった。
 こんなもん人間に支給すんなと内心で呆れつつ、しっかりと両手で保持。砲丸のような重さが圧し掛かり、宗一の体が崩れる。
 だがこれは考えての行動だった。仰向けに倒れつつフェイファーを構え、浮いている郁未へと射撃する。
 反動も地面に逃がせるためこの化け物拳銃を使うにはうってつけの方法だった。

 化け物対化け物。果たして勝つのはどっちでしょう?
 背中が地面にぶつかると同じくして宗一の指がフェイファーのトリガーを引いた。
 60口径、重量6キログラムの巨体から放たれる600NE弾が凄まじいマズルフラッシュと共に郁未へ向かう。
 いかに頑強な盾でも瞬時にして破壊してしまうだけのエネルギーを持ちうるこれなら或いは、と考えた宗一だったが、
 目の前の敵はそうそう常識で測れるようなものでもなかった。

 信じられないことに飛来する600NE弾を空中で薪をかち割るが如く斬り伏せた。そう、真っ二つにしたのである。
 流石の宗一も呆れるどころかぽかんと口を開けたくなった。
 人間なら一瞬にして粉々の肉片に変えてしまうはずの弾丸が真正面から防がれたのだ。笑うしかない。
 おまけに鉈まで無事ときた。特殊な材質でもあるまいに。

 ただ郁未の顔には僅かに疲労の色が見えた。そういえば弾いたときも仄かに郁未が赤く光ったように思えたのを思い出す。
 あの力は無限ではないということか? 新たな疑惑が生まれ、
 しかしすぐに頭の隅へと追いやり、全身をバネにして宗一はその場から撤退する。

833明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:24 ID:9hfe7kLg0
 郁未が地面に降り立ったのはコンマ数秒後のことである。二発目を撃とうとしていたら殺されていた。
 二度目の奇跡はないと断じて宗一は走りつつ落としたSPASを拾い上げた。
 追い縋ろうとする郁未にここで体勢を立て直した舞が刀を携えて戻る。気付いた郁未は「ちっ」と舌打ちする。

 先程の一戦で切り結ぶのは不利と考えたのか舞は縦横無尽に刀を振るい、鉈のギリギリ外から切っ先を当てるように攻撃する。
 力で叶わぬならば技で対抗する。強者と戦うセオリーを実践していた。

「くっ、ちょこざいなことしてくれるわね!」
「貴女には……負けない!」

 無論宗一達としても手をこまねいて見ているわけではない。
 宗一はSPASにありったけショットシェル弾を入れ、往人はガバメントカスタムをリロードする。
 後は舞を誤射しないようにタイミングを見計らって掃射する。波状攻撃が有効なのは証明済みだ。
 暗黙のうちに全員が了解していて、それぞれが仕事をこなすために動いていた。

 言葉もサインもない。それでも歯車が噛みあっているという実感がある。
 裏を返せばそこまでしても郁未とは互角という程度でしかない。
 ひとつ突き崩されればあっという間に全滅する。この瞬間も自分達は細い綱渡りをしているのだ。

「確かに四方八方から撃たれちゃこっちもキツいけどね……そうなる前に片付ければいいだけのことでしょ!」

 郁未は何を考えたか、天高く鉈を放り投げる。
 突然の奇行に舞の刀が僅かに迷いを見せる。郁未にはそれだけの時間があればよかった。
 彼女は人間ではない。

 下がれ、と絶叫する声が喉元まで込み上げる前に郁未は舞の喉輪を掴み、
 地面に叩き付けた後サッカーボールのように蹴り飛ばした。
 この間、未だ宗一達は銃を構えきるまでに至らない。郁未が裂けるような笑みを見せた。
 彼女の手には既にM1076とトカレフTT30の二丁が収まっていたのだ。

834明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:39 ID:9hfe7kLg0
「遅い」

 一斉に連射。郁未の銃は不慣れだったからか急所を射撃するには至らなかったが肉を掠り抜き、削ぎ、
 宗一と往人の二人を地面へと落とした。宗一でさえ全くついてゆけぬほどの神速。
 たかが一秒以下の隙をついて郁未は自分達を突き崩したのだ。

「つくづく人間じゃないぜ……」

 銃を仕舞った直後、落ちてきた鉈が郁未の手に収まる。それはこの間が僅かに数秒であることを指していた。
 郁未も息を荒くしていたが、それでもなお彼女には余力があるように思える。
 一体どんなマジックを使えばこのような芸当が出来るのか。まるでこれでは出鱈目人間の万国ビックリショーだ。
 強すぎる。弱気でも諦めでもなく、素直にそう思った。
 この圧倒的な実力差をひっくり返すことは出来ない。醍醐と戦ったときでさえそんなのは感じなかったのに。

 参ったな……こりゃ、死ぬかもしれない。

 郁未は視線を動かし、地面に倒れ伏す三人の姿を眺めていた。
 どいつから仕留めようかと考えているのか、まだ油断は出来ないと出方を窺っているのか。
 この状態からの騙し討ちは不可能か。だが真正面から郁未を倒すのは今の状態では至難の業だ。
 せめて誰かひとり、もうひとり戦列に加われば。

 救援を待ち望む自分が情けないと思う一方、そうでもしなければ郁未は倒せないという実感があった。
 ないものねだりだということは分かっている。けれども他に思いつく策もなかった。

 ……悪あがき、するっきゃねえよな?

 だから抵抗するまでだ。無茶苦茶青年は諦めない。泥にまみれてでもしがみつく。そうだろ?
 心の中に浮かんだ全員に語りかけ、宗一は立ち上がる。

835明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:01 ID:9hfe7kLg0
「馬鹿正直に立ち上がるか……本当に不意討ちはなさそうね」
「ちっ、ホントに気に食わないぜ、天沢郁未」

 渚の両親を殺し、佳乃を殺し、それ以外にも多くの人間を殺してきた女を目の前にして何も出来ない。
 仇を討ちたいと思う気持ちはますます高まっているのに、それ以上にそびえ立つ壁の高さが思いを阻む。
 恐怖を感じているのだ。このままでは殺されるという絶対的な予感が宗一の体を震え上がらせている。

 虚勢や気合ではどうにもならない、自らの前に立ちはだかる力。
 恐怖を恐怖で縛り付け、人を人でいられなくしてしまう力の倫理が自分を見下している。
 だからせめてそれだけには負けるまいと宗一は強く意思する。

 怖いからといって食い合い、憎しみあい、呪い合う存在にはならない。
 どんなに苦しくとも誰かを見捨て、犠牲にして、諦めて、奪ってまで生きることはしない。
 もっと他のなにか。遅々としてでもいい、苦境を超えられる方法を探して歩き続ける。
 そういう生き方もあるのだと知ったから。

「世界一のエージェントを舐めるな! まだ勝負はついちゃいない!」

 SPASを構える。郁未は例の如く捉えきれない速度でステップしながら接近してくる。
 宗一は動かない。下手に動いたところで自分の動きを制限するだけだ。
 一歩だけでいい。郁未と同等の動きが出来ればそれでいい。

 足音が聞こえる。自分の経験と勘を信じろ。こちとら何度も実戦を潜り抜けてきてるんだ。
 郁未との距離が数歩分になった瞬間、宗一はバネを全開にして体を動かした。
 いくら郁未でも空中で急に体勢は変えられない。どんなに僅かな時間だとしてもだ。
 そう、走っているときにも体が浮く瞬間がある。その間隙を突き、至近距離から散弾を撃ち込めば……!

 それが宗一の作戦で、タイミングも完璧に合わせたはずだった。なのに。
 なのに、どうして天沢郁未は自分の目の前にいる?

 まるで最初からここに来るのを知っていたかのように、郁未は『側面に移動したはずの』宗一の真正面にいた。
 鉈が、振られた。

836明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:20 ID:9hfe7kLg0
「ぐああぁっ!」

 脇腹を切り裂かれ転倒する。痛みは激しいが、致命傷ではなかった。
 そのことに安堵するが、同時に何故だという思いが浮かぶ。
 見上げた先では先程より苦味を増した、しかし勝利の喜悦に満ちた郁未の顔がある。

「残像、って知ってるかしら」
「……冗談が過ぎるぞ」
「でも私の力でそれも可能になる。不可視の力でね。正確には『ドッペル』だけど」

 不可視の力。それが郁未を人間から怪物へと変えたものの正体。
 いつどのようにして郁未が力を顕現させたのか。……恐らくはトドメを刺し損ねたときだ。
 彼女の執念がスイッチとなり、力を覚醒させた。
 身体能力の強化はその一例に過ぎず、残像を生み出すことすら可能にするということか。

「まあ、『ドッペル』がいる間は私も疲れるんだけど……でも十分。こうしてあんたを見下ろせてるんだから。
 さっさと失せなさい、負け犬の偽善者が――」

 郁未が正真正銘のトドメを刺そうと鉈を振り上げる。
 だが振り下ろされようとした、まさにその瞬間。銃声が郁未を遮った。

「!?」

 全くの別方向からの射撃は往人でも舞でも、ましてや宗一でもない。
 慌てて飛び退き、妨害した人物の方角をキッと見据える郁未。
 だがそれはすぐさま驚愕に変わり、やがて狂おしいほどの喜色に満ちたものになっていく。

「あんたか……いつもいつも私を邪魔してくれる。ねぇ、本当に、本当に――反吐が出るわ、古河渚!」
「……決着を、つけましょう」

837明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:37 ID:9hfe7kLg0
 絶叫を張り上げる郁未に対して静かに語ったのは、古河渚だった。

     *     *     *

 現れた渚に対して郁未が感じたのは奇妙なことに『嬉しい』というものだった。
 己の対極にある人間。己が最も嫌悪する人間。断じて許すべきではない人間。
 なのにこうして目の前に立っているのを見るだけでゾクゾクとした喜びを感じるのだ。

 それは狂おしい程の恋。待って待って待ち続けた瞬間がここにある。
 最高の力を手に入れた自分が、最高に憎らしい主張を掲げる渚を殺す。これ以上の喜悦はない。
 しかも渚は未だ人を殺さないという馬鹿げた主義があるらしく銃口をこちらに向けてすらいなかった。
 まるで変わらない。最初と変わらず人殺しはいけないなどと口外にのたまっている。

 だがそれでこそ渚。自分が殺すと決意した女の姿がここにある。
 それがまた嬉しくて嬉しくてたまらず、郁未は体の芯から湧き上がる笑いを吐き出した。

「決着をつける、ですって?」
「そうです。……もう、終わりにしましょう」

 一切の感情を排したかのようでありながら、確かな怒りを携えた声が向けられる。
 以前とはまた少し雰囲気が異なった気がするが、所詮形だけのものなのには変わりない。
 そんなものは何も意味を為さない。怒りを覚えたのなら他者にぶつけるべきなのだ。

 それも出来なければただの臆病者にしか過ぎないし、生きている資格もない。
 なのにのうのうと現れては誰かに守られ、この女は生きている。
 実に許しがたいことだった。誰かにしっかりと守られている渚の実態が。臆面もなく自分を否定する姿が。
 だから殺す。殺して、分からせてやる。最終的に勝つのはどちらかということを。

838明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:52 ID:9hfe7kLg0
 自分の方が正しいのだということを。戦わない人間に生きる価値もないのだということを。
 完全なる不可視の力を手に入れたこの我が身で。

「――ひとつ、聞かせてください」
「あ?」

 鉈を握り締めた郁未に渚が問いかける。今度はどんな綺麗事をほざくのかと顔をしかめた郁未だったが、
 それも今の自分の前では何の意味も為さない。聞くだけ聞くことにした。
 無論つまらない質問であることは分かりきっていた。
 だから答える価値もなければ無言で斬ってやろうと思いながら「言ってみなさいよ」と返答する。

「分かり合ったひとは、いますか」
「なに?」
「本当に今まで、誰とも分かり合わずに生きてきたんですか」
「……いないわ。最初から最後まで私は一人よ。仲間なんていなかった」

 何故か口が詰まった。渚の雰囲気に呑まれてなどという下らない理由ではない。
 仲間。友達。そんな陳腐な言葉ではなく、分かり合った人、と渚は言った。
 本当にいなかったのかと自問する声が一瞬聞こえたような気がしたのだ。

 だがそんなものいるはずはない。葉子と組んでいたときでさえ最終的に殺しあう運命だったのだし、
 戦力の増強ということで利害が一致していたに過ぎない。そう言い出したのも葉子だったはずだ。
 ――ならば、自分はなんと言ったのだったか?

 思い出そうとしたが、記憶は不透明でぼんやりとしか思い出せなかった。
 関係ないと郁未は断じる。葉子は既に死んだ。死ねば何の意味もない。生きていなければ意味はない。
 だから自分は生きて帰る。そう決断したはずだ。

「だってこれは殺し合いだもの。一人しか、生きて帰れないから」
「……そうですか。だったら――」

839明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:08 ID:9hfe7kLg0
 渚が目を閉じる。どうしてか郁未は別の世界に引き込まれたような気分になる。
 まるで、不可視の力のような。
 冗談じゃないと郁未は気を持ち直す。こんな半端者が自分と同じ力を持っているなどと。
 憎しみが再度沸き上がり、己の中の不可視の力が増していくのを感じる。
 一瞬でかたをつける。腰を落としたと同時、渚が目を開けた。

「――わたし達が、勝ちます」
「ほざけッ!」

 砲弾のように飛び出す。一思いに突き殺す。それで渚は死に、溜飲が下がる。
 その思いに囚われていた郁未が上から影が差したことに気付くまで、多大な時間を要した。

「はあぁぁぁあぁぁぁっ!」
「っ! この女まだ……!」

 蹴り飛ばして戦闘不能にしたはずの女。確かに手ごたえのあったはずの女は泥と血にまみれながら、
 真っ直ぐな双眸を崩さず空高く舞い上がり、こちらへと切り下ろしてきている。
 地を蹴り直角に避ける。まずは鬱陶しいこいつから倒す。
 地面を滑りながら郁未は考え、完全に止まり舞へと反転しようと足に力を入れたと同時、
 瓦礫の影から一人の人物がぬっと現れた。

「どうだっ!」
「まーりゃんかっ!?」

 宗一達と戦っていた間密かに物陰に身を潜めていたのか。
 最初からこれを予測していたとは思えない。だがこうなる隙が生まれることを確信していた。
 確証なんてない。だが誰かがそうしてくれると信じて。

840明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:26 ID:9hfe7kLg0
 ふざけるなという思いが募る。他人任せがたまたま上手くいっただけではないか。
 こんなものにやられてたまるか。不可視の力を用いて体を無理矢理動かす。
 筋肉に痛みが走り、体の内奥に鋭い痛みが走るが、自分の煮え滾る怒りに比べれば物の数ではない。

 郁未目掛けて発射されたボウガンを鉈で叩き切ったときを待ち構えていたかのように、男が背面に回りこんでいた。
 研ぎ澄まされた雰囲気が伝わり、決して最後の力を振り絞ったという風ではないことを郁未に理解させる。
 外れはない。ありったけ撃ち込まれると予感した体が更に不可視の力を発動させるも上半身は既に動ききっている。

 動いたのは下半身、脚部だけ。それも背面に回りこまれていたことから回避する方向が分からず咄嗟に飛び上がってしまった。
 決定的な隙が形作られてしまう。下では倒れたまま、それでも手放さなかったショットガンを構えた宗一がこちらを狙っていた。
 もはや不可視の力を使っても払い落とすのも回避するのも不可能。

 ……なら、道連れに宗一を殺すまでだ。
 勝たせなんかさせない。完全勝利など許してたまるものか。一人だろうが殺して、私が間違ってなんかないことを――

 そう考えてM1076を取った瞬間、視界の隅でもうひとり、自分に銃口を向ける存在があった。

 古河渚だ。

 先程とは違い、確かな意思と覚悟を以って拳銃の銃口をこちらへと向けていたのだ。
 直感的に撃つだろうという確信が走る。
 人を殺さないなどと言っていた渚が?
 戦いを拒否したはずの弱い存在で生きる価値もないはずだった渚が?

 だが渚の目は、あまりにも真っ直ぐ過ぎて。
 渚にだけは撃たれるのは許せない。嫉妬が渦巻いていた郁未の深層意識は、渚へと銃口を変えてしまっていた。
 だが体を動かしきった郁未の動きはあまりにも鈍く――

 宗一の放ったショットガンの散弾が郁未の腹部を撃ち貫き、内蔵をズタズタに破壊し、不可視の力も生命をも霧散させた。
 力が急速に抜け落ちると共に体が地面へと落下していく。
 それは完全敗北の証だった。
 だが不思議と敗北感も悔しさも、怨みもない。
 それは不可視の力も出し切り、最後の最後まで本気で戦い尽くしたからなのかもしれない。

841明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:46 ID:9hfe7kLg0
 ただ、自分はやはり仲間などというものに負けたのかと思う。
 これが事実で、自分はどうしようもなかったということなのか。
 自分は孤独だったから、負けたのか?

 しかしそうではない、とどこかから聞こえた声が靄のかかった空白が晴らし、
 かつて郁未が持っていたものを思い出させる。
 FARGOという恐怖に満ちた地獄の中でも皆と食事を取り、笑い合うことができた日々。
 再会を約束し、また明日と手を取り合ったあの日。
 そして最後に思い出すのは、葉子との約束。

『やっぱり私、あなたのそう言う顔、大好きよ』
『私もやっぱりあなたが大好きです、……だから、最後に二人で決着をつけましょう』

 二人して、やはり笑っていた。あの瞬間、確かに自分達は分かりっていた仲間だったのだ。
 絆という名の剣を持った、心強かった仲間がいたのに。
 だとしたら自分にもずっと仲間はいて、渚にも仲間はいた。
 差なんてない。

 結局、競り負けた。渚との戦いに敗北したのだ。
 ああ、やっぱり悔しい。悔しいけど、認めてあげるわ、貴女の強さ。
 だからこの重みを背負いなさい。私に勝って倒したという重みを受け止めなさい。
 私に勝ったのだもの、出来なきゃ殺すわよ?
 悪態をつく郁未の口もとには楚々とした、一切の含みのない微笑が浮かんでいた。
 体中の毒が抜けきり、軽くなった身体が何とも心地よい。
 ふわふわと落ちてゆく実感を確かめながら、静かに目を閉じ、思った。
 こんなにも強いひと。こんなにも全力で戦えたことに――

 ――満足だった。

842明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:01 ID:9hfe7kLg0
     *     *     *

 最後の、殺戮者がいなくなった夜。

 雨が、ようやく上がった。

843明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:16 ID:9hfe7kLg0
【時間:2日目午後23時00分頃】
【場所:E−4・ホテル跡】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン6/8発、スラッグ弾2発(SPAS12)、投げナイフ1本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る】

844明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:36 ID:9hfe7kLg0
古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

天沢郁未
【所持品1:鉈、H&K SMGⅡ(0/30)、予備マガジン(30発入り)×1】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(1/6)とその予備弾丸14発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:死亡】

【その他:雨が上がりました】

【残り 15人】

→B-10

845そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:58:54 ID:9tDqkDG.0
「ぷひ」

 彼が誰かご存知だろうか。ボタンである。
 降りしきる雨の中とぼとぼと彼は歩き続けていた。
 勢いもよく坂を駆け上がっていたもののすぐにバテておまけに道に迷った。

 説明をさせていただけるならばボタンは現在菅原神社へと続く道を歩いていた。
 所詮は年端もゆかぬ猪。道など分かろうはずもない。
 そういうわけで彼はホテル跡で起こってきた惨劇や凄絶な戦いを目にすることも参加することもなく、
 いわゆるボッチ状態で涙目だった。

 ぐぎゅるるるる、とボタンの腹が鳴る。言うまでもない、食欲がボタンをせっついているのだ。
 当然のことながらボタンは食料などもっているはずもないし、雑草が食べられるわけでもない。
 次第に彼の脳内はご主人様への思いよりも食欲の方に支配されていくのだった。
 所詮は獣畜生である。つぶらな瞳を輝かせながら彼は猪突猛進を続ける。やはり猪である。
 しかしそんなボタンも野生の血を引き継ぐもの。ガサガサと聞こえる不自然な音が聞こえたのを逃さなかった。

「ぷひ?」

 人間だろうか。しかし鼻を嗅いで匂いを探ってみてもそれらしき匂いや気配もない。
 いくら雨の中だとはいえ獣の嗅覚は人間とは比較にはならないのである。
 不可解な現象にぷひ、とボタンが疑問の鳴き声を上げる。

 世の中には自然現象というものがある。今ボタンの体を濡らしきっている雨もそうだし、
 台風や雪という現象があるのもボタンは知っている。
 しかしこの島に来てからというもの、雨以外のそんな現象にはとんと覚えがない。
 野生の勘が「何かある」と告げていた。

846そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:18 ID:9tDqkDG.0
 ここで留意していただきたいのは、ボタンは獣なれども人間に慣れ親しみ、共生してきた猪であることだ。
 普通の獣ならば危険には極力近づかず、己の命を確保することに最善を尽くす。
 しかしボタンはそうではない。藤林杏にしつけられ、彼女の忠実な僕とも言える存在だ。
 山の上に向かおうとしたのだって杏ならばそうするという考えに基づいていたし、
 獣なりの倫理感らしきものも存在していた。
 もっとも今は空腹感に支配されているのだが。

 とりあえず濡れるのは嫌だったし、そちらへ向かうことにした。
 大抵の場合、何か物音がする現場には建物があるというのが相場である。
 道を外れ、草叢の中をがさがさと侵入していく。

 視界はさらに悪くなったが大体音のする方向は検討がついていた。
 視覚と異なり、聴覚で方向を判断する能力は優れている。獣の面目躍如である。
 そうしていくらか歩いたころであった。
 地を揺るがすような大音量が響き、しかる後にけたたましい音が鳴り始めた。

「ぷひ!?」

 今まで経験したことのないような音にボタンの頭が混乱の極みを迎える。
 待てまてまてあわわわあわ慌てるなニホンイノシシは慌てないッ!
 ガタガタ震えることは……流石になかったが、杏に仕込まれたボタンが七つ奥義、『ぬいぐるみ』を発動させ、
 さながら路傍の石が如く動きを止める。混乱すると命を優先する部分はやっぱり獣なのであった。
 それからしばらくしてようやく音が止まる。最後にキーンという耳鳴りがあったような感覚のあるボタンだったが、
 ぬいぐるみ中は無念無想の境地。殴られても投げられても無反応を貫く。

 ま さ に ド M 。

 なお、ボタンはSMという概念などないことをここに記しておく。
 しばらく無音が続いたのだがボタンは念を押してぬいぐるみ状態を続ける。
 この形態になればいかなる人間からも注目されたことはない。持っている人間が注目されることはあったが。

847そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:35 ID:9tDqkDG.0
 だがこの慎重さが裏目に出た。
 収まったかと思えば今度はガサガサという音がボタン側の方に近づいてきたのである。
 何者かが近づいてきたのは明白であったが、匂いはまるでない。そう、質量を持った音だけが近づいていたのだ。
 どうすべきかとボタンは一瞬迷い、結局ぬいぐるみ状態を貫くことにする。この状態なら気配もある程度消せるのだ。
 実際音はまるでこちらに気付くこともなく一直線に進んでいく。
 まるで悩みなどないかのように、考えるべきことなどないかのように。

「……ぷひ」

 気付いていないと判断したボタンはぬいぐるみを解いてみたが、やはりガサガサとした音は依然として変わらず。
 次第に音は遠ざかっていく。一体何だったのだろう。
 まるで正体の分からぬ音の主に生物的な恐怖は感じていた。だがそこに何かがあるという直感を持ったのも事実だった。

 杏のことを頭に浮かべる。少しでも役に立つことがしたい。ここに来てからというもの、まるで主人の力になれてない。
 ボタンを撫でて心を慰撫しているような素振りはあった。しかしそれだけだ。受動的にしか行動が出来ていない。
 主人の危機には何ひとつ出来なかった。隠れているだけで、杏を助けたのはいつも他の人間だった。

 妬ましいとは思わない。無性に自分が情けなかった。いつまで経っても自分は助けられる存在でしかないという事実。
 ひいては立派な大人足り得ないということが悔しさを駆り立てる。
 いつまでも子供ではいられない。立派になって恩返しをしなければならないのだ。
 ならばボタンのするべきことはひとつしかない。その機会はまさに目の前にある。

 思いに衝き動かされ、ボタンは音の根源を追った。耳が良かったし前進速度だけは速かったので追跡することができたのである。
 それに加え、猪は元を辿れば山地に生息する動物だ。山はお手の物。空腹はいつの間にか忘れていた。
 音を追って進んだ先。……そこは何もない草叢だった。

 今までの草叢と同じく、ボタンの身長ほどもある雑草が青々と茂り、静かに揺れていた。
 しかし音はここで途絶えていた。そう、音の根源はここで突如として姿を消したのである。
 だがボタンでも知っている。突然消えるモノなどありはしない。
 他に不審な音はない。ボタンの存在に気付き、隠れているような気配もない。
 草叢だらけのこの場所で少しでも動こうものならたちまちのうちにボタンには察知できる自信があった。

848そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:50 ID:9tDqkDG.0
 ならば上なのだろうか。視線をずらしてみるが、そそり立つ木々の枝にも何かがぶらさがっている様子はない。
 木の上を飛んでどこかに逃げてしまったのだろうか。それはないとボタンは思った。
 迷いなく進んでいた音の主はそんな器用な思考を持ち合わせていないと思ったのだ。
 生き物なら、一定間隔で動き続けることがどれほど不自然なことかボタンには分かっていた。
 なのに忽然と消えた。ここには最初から何もなかった。そう結論付けるように草叢はただ広がっている。

「ぷひ?」

 何かがあるという直感的な思いの元とことこと草を掻き分けて進んでいたボタンの鼻にツンとした刺激臭が漂ってきた。
 それはボタンにさえ僅かに感じられる程度で、人間ならば気付きもしないレベルであっただろう。
 この匂いの正体をボタンは知っている。冷房の匂いだ。

 正確には冷房の効いた室内の匂いというべきだった。スーパーマーケット、コンビニ、デパートやオフィスに漂うそれ。
 どことなく埃っぽいその匂いをボタンは不思議に思った。冷房は、人間の家にしか存在しない。
 それともここは人間の家なのだろうか。もう一度上を見上げてみるが、黒い空が見える。雨は止んでいた。
 空が見える以上、少なくともここは人間の家ではない。だが人間の家の匂いはする。

 首を傾げてさらに進んでいくと、柔らかい地面にボタンの足が刺さった。
 今まで堅かったはずの地面が突如柔らかくなり、ボタンの体勢が崩れる。こける。
 しかもなにやらカチリという音までした。
 なにか良くない予感がするのを感じつつボタンが起き上がると、そこには違う光景が広がっていた。

 縦穴が広がっていたのだ。突然地面から現れたそれは、猛獣が口を開けて待つように開かれている。
 この奇怪な現象をボタンは理解できなかったが、匂いの根源は理解することが出来た。

 匂いは穴の中から漂っている。入り口の前まで足を進めてみると、チカチカとした赤い光の群れがボタンを迎えた。
 左右の端に警告するように光っている赤いランプ。赤は危険な色だとボタンは知っている。
 中は薄暗く、ここからでは何も確認出来なかった。確かめるには入ってみるしかない。
 おそるおそる足を進める。入り口の前まで来たとき、唐突に声が流れた。

849そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:13 ID:9tDqkDG.0
『侵入者を確認。識別コードが違います。首輪を爆破します』

「ぷ!?」

 上の方から流れてきた声。ボタンにその正体は分からなかった。
 おろおろして周囲を見回すが誰もいるはずはない。それもそうだった。
 声の主はセンサーと連動しているスピーカーから流れたものだ。
 その言葉の意味はここの参加者であるならばすぐに理解し、絶望に顔を青褪めさせただろう。

 生体反応をキャッチし、コードが違えば即座に首輪を爆発させる防御システムは目の前のボタンに対し信号を送りつけた。
 悲鳴を上げる間もなく、信号を送られた人間は首が吹き飛ぶはずだった。
 ……しかし、ボタンは参加者ではない。首輪などあるはずがなかった。
 当然のことながら信号は意味を為さず、送るだけでそれ以外の対処など持ち得ない機械のセンサーは無言を貫くだけだった。
 参加者を即座に爆破する絶対無敵のシステムは『支給品』には何の意味もなかったのだ。
 侵入者を抹殺し、役割を果たした入り口が再び閉じ始める。それも急速に。

「ぷひ!」

 我に返ったボタンは閉じ始めた入り口と、外の世界を交互に見やり、やがて意を決したかのように中へと向けて走り始めた。
 ボタンが闇の中に消えたと同時、入り口は完全に閉鎖され、元の殺風景な草叢の風景がただ広がるばかりになる。
 猪を放り込んだ闇の在り処を、誰も知る由はなかった。

850そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:26 ID:9tDqkDG.0
【時間:二日目午前23:50】
【場所:D-2】

ボタン
【状態:杏を探して旅に出た。謎の施設に侵入。主催者に怒りの鉄拳をぶつける】

→B-10

851管理人★:2009/05/28(木) 12:54:49 ID:???0
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