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【尚六】ケータイSS【広達etc.】

1名無しさん:2008/01/02(水) 21:36:54
幾つかネタが溜まったので、改めてスレを立てさせて頂きました。
ケータイからの投下に付、一回の投稿字数制限上、必然的に使用レス数が
多くなり読み辛いですが、お付き合い頂ければ幸いです。

《時系列》
①「夏日」書き逃げ>>418-430
②「春信」同上>>407-416
③「冬星」同上>>453-466/「北垂・南冥」同上>>472-491
④「秋思」同上>>437-452

尚六と利広×利達をメインに原作重視のオムニバス方式で、マイナーカプも
積極的に書いて行く予定。シチュ萌えがメインなので、エロは殆どありません。
素人の拙文ですが、どうぞ宜しくです。

360尚隆×利広「淫藥」1/5:2008/06/13(金) 18:11:06
久し振りの(最近こればっか)尚隆×利広
「候鳥」(>>99-153)から百年ちょっと後の話です
例によって浮気ネタが地雷だと云う方はスルーを!

 * * * * *

「──確かに、初めて会った時“あんたの好きな様にしていい”とは言ったけ
どさぁ……好きな様にするのと無茶苦茶をやるのとは同義語じゃないんだよ。
知ってるかい──風漢?」
 舜国首都の舎館の一室。利広は先程から独りぶつぶつと文句を言いながら、
覚束無い手付きで己の衣服と格闘していた。
 利広が腰掛けている臥牀の上には、つい先刻まで彼に散々無理を強いていた
相手が、未だ肌脱ぎのままの姿で寝転がっている。
「俺は、それほど無茶をした覚えは無いがな」
 その飄々とした物言いに、利広の蟀谷がぴくりと動く。
「……あんたと違って、こっちは繊細に出来てるんでね」
 無理な体勢をとらされた所為で痛む頸を巡らせ、恨めしげに睨付けるも一向
気にした様子の無い相手は、先程から右手の親指と人差し指とで上下を挟む様
にして持っている小振りの薬瓶から視線を外さず、小さく笑った。
「ほう……その割に、先刻は随分と善がっておった様だが?」
「──……っ!」
 途端に先程までの醜態が脳裏を過り、利広の頬は一瞬にして紅潮する。
「あっ、あれは……そもそも、あんたが黙ってそんな薬使うからだろう!?」
 珍しく声を荒らげて抗議する利広とは対照的に、相手の口調は至って暢気な
ものだった。

361「淫藥」2/5:2008/06/13(金) 18:12:09
「前以て言っていたところで、快諾されたとも思えんのだが」
「あ……当たり前だっ!!」
 手許に転がっていた枕を掴んで投げつける。相手の男はそれを難無く受け止
めると、自分の頭の下に押し込みつつ含笑して言った。
「いやなに、薬種屋の親父が余りに吹っ掛けて来るものでな、ならば一体どれ
ほど効くのか、早く試してみたかったのだ」
「……それで五十年振りに再会した相手に、挨拶も陸すっぽしない内から一服
盛ったって訳かい?」
「そう云う事だ。すまんな」
 相変わらず、悪びれた調子の欠片も無い謝罪の言葉に小さく溜息を吐くと、
利広はこれ以上怨み言を続けても無駄だと察し、中途になっていた小衫の合わ
せに再び取り掛かった。しかし先刻飲まされた媚薬が未だ完全に抜け切ってい
ない所為か指先まで力が入らず、合わせの紐を上手く結ぶ事が出来無い。
「──どうした?」
 微かな舌打ちの音を聞き付けたのか、男がふいと視線を投げて寄越した。
「その大層な薬のお蔭で、手先が縺れるんだよ」
 利広が態と忌々しげに答えると背中越し、小さな苦笑と共に男の起き上がる
気配がした。
「どれ、貸してみろ……」
 軽く肩を掴まれ振り向かされる。牀上に片膝を立てて坐り、僅かに俯きつつ
小衫の紐を結ぶ男の精悍な顔を眼の当たりにし、利広は思わず視線を逸らして
言った。
「──手足の先だけじゃなくて、舌もまだ少し痺れてるんだからな……風漢、
あんた態と用量を誤ったんじゃないのか?」

362「淫藥」3/5:2008/06/13(金) 18:13:23
 紐を結び終えた男が、不意に顔を上げた。利広の文句に再び微苦笑した後、
無言で彼の頤をそっと摘む。男の僅かに眇められた蒼い双眸が眼前に近付き、
利広は咄嗟に顔を背けた。解かれていた砂色の長い髪が背中を叩き、さらりと
乾いた音を立てる。
「──嫌だ……あんたとは、したくない……」
 利広が呟く様に吐き出した言葉に男は一瞬瞠目し、だが直ぐにいつもの笑顔
に戻って言った。
「……こいつは嫌われたものだな」
 大仰に肩を竦める仕種を見遣って、利広も微かに苦笑した。
「よく言うよ……あんただって、私の事なんか嫌いだろう?」
 男は、その問い掛けには一切答えず、口許に笑みの形を残したまま、再び臥
牀にごろりと横たわった。

 利広がその男──風漢と逢うのは、今回で四度目だった。
 最初に出逢ったのは今から百年以上昔。確か範国での事だったと彼は朧気に
記憶している。二度目は、それから凡そ六十年後の戴国。そして三度目は、そ
の二十年後の恭国だった。
 二度目に逢った時は流石の利広も驚きを隠せなかった。最初の邂逅時、既に
相手が只人で無い事は薄々承知していたが、何しろその時から六十年余り経過
していたのだから。賑わう鴻基の大経でばったり出くわし、暫時無言で見つめ
合った後、二人はどちらからとも無く苦笑した。それから近くの舎館に房間を
取り、陸に会話もせず一晩中ただ只管、貪り合う様に何度も躰を重ねた。
 三度目にもなると、驚きは殆ど無かった。その頃には利広も男の正体に関す
る目星はほぼ付いていたし、それは相手も同様らしかった。夕闇の迫る連檣の
場末の酒場で顔を合わせ、そのまま夜半過ぎまで酒を酌み交わして別れた。そ
の時は何故か肌を合わせたいと云う気分は起こらず、男の方も利広に触れる事
は一切無かった。

363「淫藥」4/5:2008/06/13(金) 18:14:39
「──どうだ利広。気に入ったのなら、少しばかり分けてやっても構わんぞ」
 不意に背後から掛けられた声に、利広は回想の小旅行を中断させた。振り返
れば、手にした薬瓶を静かに揺すりつつ笑む風漢と視線が搗ち合う。
 精緻な切子細工の施された、優美で華奢な玻璃の小瓶。その中に湛えられた
液体は、僅かに青味掛かった紫──それは利広の、そして恐らくは眼前の男も
良く見知っているであろう獣の瞳と同じ色だ。
「いいや結構。──媚薬なんか使って言う事を聞かせた相手を抱くなんて私の
趣味じゃないし、第一そんな事をしたって少しも楽しくなんてないからね」
 床から拾い上げた袍子に袖を通しつつ、利広は苦笑混じりに返した。
「ほう?……お前、ものにしたい相手はおらんのか」
 片眉だけを微かに上げ、興味深そうに風漢が尋ねる。長い沈黙の後、利広は
静かに口を開いた。
「……いるよ。だからこそ、そんな物に頼りたくないんだ」
 其処で一旦言葉を切り、ひと回り小さな声で囁く様に続けた。
「──まあ、幾ら努力したところで、あの人が私のものになるとは到底思えな
いけれどね……」
 その科白が聞こえたのか否か、風漢は自嘲気味にくすりと笑ってから、長め
の前髪を無造作に掻き上げた。
「よもや、お前に説教されるとは思わなかったぞ……」
「説教って──別にそんなつもりで言った訳じゃないけど……風漢にはいない
のかい?他の何を差し置いても、大切にしたい相手……」
 利広が身を乗り出す様にして尋ねても、風漢はいつもの態度を崩さない。
「さあ、どうだろうな……」
「何だよ、狡いな。せっかく人が真面目に答えてやったのに」
 飽くまで釣れない男の素振りに、利広は微かに唇を尖らせた。

364「淫藥」5/5:2008/06/13(金) 18:16:07
「──媚薬と言えばさぁ……」
 それまで何処か安穏としていた房間の空気が、急にぴしりと張り詰める。利
広は、開け放たれた濡窓から早々と暮れ始めた初秋の夕景を見遣りつつ言を次
いだ。
「最近、秘薬系の紛い物が各国で大量に出回ってるらしいね……風漢も、勿論
その内偵を兼ねて来たんだろう?」
「……やはりお前もか」
 利広の言葉に、背後から小さく肯定の声が返る。

 古来、良質の薬水が湧出する事で栄えて来た舜国は、世界各国から様々な薬
種が集まる事でもその名を馳せていた。しかし近年、材料も製法も怪しげな薬
──主として媚薬や回春薬の類──が密かに出回る様になり、彼等の郷国に於
いても決して少なくない数の被害者を出していたのだった。

「──薬の商いは人命に関わる信用商売だ。国を挙げて薬事業に関わっている
舜が黒幕だとは思えんが、流通過程で一度はこの国を経由するだろう事は否め
んからな」
「うん、私もそう思って来てみたんだ。“舜から来た物なら間違い無い”と信
じ込ませるのが奴等の最大の魂胆だろうからね」
 加えて官許と云うお墨付きまで貰えれば、正に一石二鳥だ──風漢が口角を
歪めて笑いつつ補足する。
「──これは少しばかり本腰を入れて調べてみる必要がありそうだな……どう
だ利広、これから暫くの間、俺の暇潰しに付き合わんか?」
 利広は窓外に向けていた視線を背後の男に移し、綺麗に微笑んだ。
「私は疾うにそのつもりだよ、風漢──……」
 その瞬間、房間の中に一条の夕影が射し込んだ。その光は臥牀の枕許に置か
れた小瓶を眩いばかりに照らし、淫靡な薬を一瞬だけ、妖しい色に煌めかせた。

 〈了〉

 * * * * *

尚利は理想のセフレカプ…「絶倫」「淫乱」と罵倒し合いつつも
カラダの相性だけは何故かサイコー、とかだと尚良いですw

365◇◇◇index◇◇◇:2008/06/13(金) 18:18:11
だいぶ投下SSが溜まってきたのと、ロビー>>472さんがログ倉庫を作って
下さったとの事で、ここらで一旦インデックス的な物を拵えてみました

《原作時系列準拠SS》◆…尚六/※…利広→利達
(カッコ内数字は「黄昏の岸〜」終了時点に於ける凡その過去年数←創作アリ)
※「夏日」(-610)書き逃げスレ>>418-430
◆「流光」(-480)>>244-250
 「秘玩」(-480)朱衡→帷湍/>>71-74
◆「春信」(-480)>>書き逃げスレ>>407-416
 「菊色」(-390)帷湍×朱衡/>>274-280
 「紅山茶」(-380)成笙→尚隆/>>16-33
※「寒月」(-350)>>251-260
◆「候鳥」(-350)尚隆×利広/>>81-96/>>99-153
◆「孤光」(-350)>>154-162
※「竹声」(-300)>>340-344
 「淫藥」(-220)尚隆×利広/>>360-364
◆「残花」(-200)>>282-289/>>293-303/>>308-331
 「冬星」(-100)尚隆×利広/書き逃げスレ>>453-466
◆※「北垂・南冥」(-100)書き逃げスレ>>472-491
 「蒼蓮華」(-90)阿選→驍宗/>>163-183
 「秋思」(-80)正頼→英章/書き逃げスレ>>437-452
 「蘭容」(-40)英章×正頼/>>268-273
 「白水仙」(-7)桓堆→浩瀚/>>35-52
 「梅香」(-6)桓堆×浩瀚/>>345-350
 「蒿矢」(-2)鳴賢→楽瞬/>>2-12
 「時雨」(-2)桓堆×浩瀚/>>187-242
 「宵瞬」(-2)青江→丕緒/>>334-339
◆「悲風」(0)>>57-70

《尚六ほのぼのSS》
 「夢見ル富士額」>>75-76
 「甘イ生活。」>>263-265
 「雨ノチ晴レ」>>351-356

…しかし我乍ら節操の無いラインナップだと改めてorz

366尚六「星ノ棲ム川」1/5:2008/07/07(月) 12:21:45
尚六ほのぼの・七夕編
この暑い最中に、何故かクリスマスっぽい話…

 *   *   *

 その日、朝議の散会直後から城下へ出掛けていた六太は、日没間際になって
帰城した。

「尚隆ーっ!これ、露台に飾らせて欲しいんだけどさ──」
 精緻な彫刻の施された重厚な扉を勢い良く押し開き、広い室内に音吐朗々呼
び掛ける。その場で返事を待つのももどかしげに、衝立の内側へと半ば駆け込
む様に入室すれば、独り書卓に向かっていた堂室の主が口を半開したまま此方
を凝視していた。
「……何だ六太、その大層な物は」
 朝方から裁可を待つ書面の山に埋もれて──今日まで溜め込んでいた彼の自
業自得なのだが──かなり機嫌の悪化していた尚隆に、すっかり据わってしま
った目付きで無愛想に問われた六太は、己の背丈より遥かに大きな笹竹をその
細い肩に担いだまま、半ば呆れた様に己の怠惰な主を一瞥した。
「なにって、笹飾りだよ。今日は乞巧奠(きこうでん)の節句だろぉ」
「乞巧……ああ、そうか。今夜は七夕(しちせき)だったな」
 漸く得心したと云う表情で、再び手許の書面に嫌々取り掛かった主を後目に
六太は堂室の中央に据えられた大卓の縁に軽々と跳び乗り、腰掛ける。
「どっちでもいーけどさ。とにかくこれ、せっかく城下のちび達と一緒に作っ
たんだから、何処か目立つ所に飾ってくれよ」
 そう言いつつ、先程から肩に凭せ掛けたままの笹の節を軽く揺する。五色の
糸の房飾りに彩られた青笹は左右に揺れる度、さらさらと耳に涼しげな音色を
奏でた。

367「星ノ棲ム川」2/5:2008/07/07(月) 12:23:10
「──しかし何でまた、こんな女子供の節句の飾りなど作ったのだ?」
 沈み行く夕陽に朱く染まる旻天と雲海に囲まれた露台の先端。その欄干の石
柱に、六太の持参した藁縄で手際良く笹飾りを括り付けながら尚隆が尋ねる。
一向に捗らない政務の方は、疾うに放擲してしまったらしい。
「んー。今日はさ、近くの里家を幾つか廻って来たんだ」
 六太は自らも欄干の手摺の上に腰掛け、横合いから主の作業を眺め遣りつつ
答えた。彼の足下の岸壁からは、夕凪の海面が岩肌を洗う静かな波音が繰り返
し聴こえて来る。
 靖州侯を務める六太は時折、近郊の里家を訪れては其処に住まう孤児や老人
達の相手をする事があった──勿論、里家の閭胥ら一部の者以外には、その正
体を隠した上での行動なのだが。
「端午の時に、ちび共と約束してたんだよ。次の節句の頃に、また遊びに来て
やるって……」
 言い終えると同時に、笹の枝先に下げられた紅い木綿糸の房飾りを指先でそ
っと弾いた。それは、彼が冬官府の工舎から貰い受けた古糸を使って里家の少
女達が作った物だ。本来ならば絹糸で作る方が色鮮やかで艶もあり、見た目に
美しいのだが、流石に正絹糸は貴重品とあって、顔馴染みの師匠に頼み込んで
みたものの、結局分けては貰えなかった。
「──成程な。今朝方、やけに嬉しそうに出掛けて行くと思っていたが、そう
云う事だったか」
 笹飾りを括り終えた尚隆は、白石の欄干に凭れて微笑った。六太も笹の葉越
しに小さく笑い返すと、いつの間にか深い紺青にその色を変えていた、孟秋の
夕空を仰ぎ見る。

368「星ノ棲ム川」3/5:2008/07/07(月) 12:24:29
 乞巧奠の節句は、河漢を隔てて引き離された牽牛と織女の二星が、年に一度
鵲橋を渡って出会う事を許された、七月七日の夜を祝して行われる星祭りだ。
少女達は機織の巧みな織女に肖ろうと、笹竹に五色の糸を捧げて織物や裁縫の
上達を願う。そして更に年長の娘達の間では、密かに想い人との恋愛の成就を
祈る事が、この節句のもうひとつの慣例となっていた。
 瞳を輝かせながら、楽しげに飾り糸を編む里家の娘達の活き活きとした表情
を思い出し、くすりと微笑んだ六太の隣で、不意に尚隆が呟く。
「……しかし、年に一度きりしか会えぬ仲とは、不憫な事だ」
 俺には到底耐えられんな、と零す笹飾り越しの横顔に、六太は態と大きく嘆
息した。
「まったく……お前は、こんな時でもやらしー事しか考えられないのかよ」
 侮蔑の色も露に睨め付ければ、珍しく心外そうな表情で見返される。
「莫迦者。そうでは無い……離れていては、不安になるだろう?」
 尚隆は、すっかり夜の衣を纏い終えた虚空を仰ぎ言を次いだ。彼の頭上、遥
か天頂を切り裂く様に輝いているのは、恋人達を遠く隔てたまま滔々と流れる
無情な星の大河だ。
「……己の手の届かぬ場所に居ても、愛しい相手は健やかでいるか。心配事な
ど無いか……」
「尚隆……?」
「──以前と変わらず、自分の事を想ってくれているか……」
 六太は、ゆっくりと自分の視線の先に下りて来た蒼い瞳の真摯な光に捕われ
た途端、鼓動が大きく脈打つのを感じた。
「……へぇ……お前みたいな奴でも、離れたら不安になったりするんだ?」
 意思に反して只管逸る鼓動を抑える為に、態と軽口めかして尋ねる。

369「星ノ棲ム川」4/5:2008/07/07(月) 12:25:51
「当然だろう。こう始終、行方知れずになってしまう様な奴が相手では、片時
も気の休まる暇が無いのだぞ」
 それが一年も続くなど考えられん、と大仰な仕種で嘆く様に言った主を見遣
り、六太は小さく苦笑した。
「よく言うよ……お前だって、おれに黙ってしょっちゅう何処かへ行っちまう
癖にさ……」
 そして、主の瞳を真っ直ぐ見据えたまま、自分達の前に広がる夜の雲海と同
じくらい穏やかな表情と声音で呟いた。
「──なあ、尚隆……おれは、例え百年に一度しか会えなくたって、お前の事
ずっと好きでいられる自信、あるんだぞ……」
「……六太……」
 全て言い終えてから、終ぞ口に出した事の無い類の一大告白をしてしまった
事に、六太は我事乍ら愕然とした。一瞬の後、宵闇の中にも明らかなほど赤面
し、慌てて深く俯く。すると突如、明るい笑い声と共に差し出された大きな掌
に、黄金色の長い髪をくしゃくしゃになるまで掻き回された。
「なっ……なにすんだ急にっ!!」
 驚いて見上げた主の顔には、滅多に見られない満面の笑みが浮かんでいる。
「お前、今宵は随分と嬉しい事を言ってくれるではないか……この分だと明日
は大雨が降りそうだな」
「……う、うるせー!今夜は年に一度の星合だから、特別なんだよっ」
 すっかり乱れてしまった金の髪をぞんざいに撫で付けつつ、六太はもう二度
と言ってやらねーからな、と頬を膨らませた。

370「星ノ棲ム川」5/5:2008/07/07(月) 12:27:19
「──“迢迢たる牽牛星 皎皎たる河漢の女”も、今宵ばかりは久方振りの逢
瀬に忘愁の刻を過ごす……か」
 暫しの後、再び満天の星空を見上げて尚隆が呟いた。
「一年振りに会って、どんな話してんのかなぁ……?」
 何気無い六太の一言に、それは愚問だな、と軽く笑って返す。
「愛し合う二人には言葉など必要無かろう……視線を交わし合うだけでも充分
に解り合えるのが、真の恋人同士と云うものだぞ」
 言下、六太の頬に手を添えて振り向かせると、その零れそうな紫苑の瞳をじ
っと見つめた。急接近した二人の間で、笹の枝葉がさらりと揺れる。
「うわ!ちょっと尚──……」
 歯の浮く様な科白に次いで、間近に迫った主の精悍な顔に思わず息を飲んで
狼狽えた六太は、眼前の蒼い双眸の中に、星光を反射して煌めく雲海の波頭が
無数に映り込んでいる事に気付き、礑と抵抗するのを止めた。
 ──ああ、まるで瞳の中に星の河が流れてるみたいだな……。
 数瞬の間、僅か五寸先の距離で瞬く有限の星宿に見蕩れた後、主の羽織った
絽の上着の袖を優しく握り締めた。
 恋をしている凡ての人達にとって、今宵が幸せな夜でありますよう──六太
は瞼を閉じる瞬間、小さな河漢にそっと祈った。

 〈了〉

 *   *   *

タイトルはグラスバレー(懐かしい…)の曲名を拝借
文中で尚隆がちびっと吟じる古詩は「文選」の「迢迢牽牛星」(作者不詳)
白居易の「白氏文集」と共に平安期から既に広く読まれてたらしいので
風流人の父親を持つ彼なら出だしくらいは憶えてるでしょう(多分

371名無しさん:2008/07/09(水) 21:11:25
可愛い六太に優しい尚隆…
姐さんの書く尚六イイヨイイヨー

372書き手:2008/07/10(木) 22:23:53
>>371
有難う御座居ます^^
尚隆…本当は、もっとクールなオトナの男に書きたいのですが、
どうもヘタレてしまう…何考えてんのか良く分かんないしorz

因みに次回の尚六テーマは「夫婦喧嘩の後」ですw
(その前に毛→成を一本…)

373毛旋→成笙「朝陽」1/16:2008/07/22(火) 12:40:58
「はじめてのチュウ 毛旋編」
ツンデレ成笙&ワンコ毛旋の冗長な割に進展しない話。一応「残花」の続きです
(※オリキャラ登場につき苦手な方はスルーを)

 *   *   *

「──っ……!」
 涼やかな林鐘の夜明け前。毛旋は酷い頭痛に見舞われつつ目を覚ました。苦
労の末に重い瞼を上げれば、辺りは未明の深い闇と静寂に包まれており、閉扉
された牀榻の中では、眼前にある筈の手先すら陸に見えない。
 ──昨夜は、随分と飲み過ぎてしまったなぁ……。
 久方振りに味わう宿酔の容赦無い洗礼に眉根を寄せ軽く頭を振った直後、彼
は自分の隣で何者かの身動ぐ気配を感じた。
「…………!!」
 咄嗟に上体を翻し、いつも枕許に立て掛けている太刀の柄へと素早く腕を伸
ばす──しかし、その指先は虚しく空を掻いた。
 どうやら、現在彼が居るのは自邸の臥室では無いらしい。
 ──一体、どうなってるんだ……?
 恐るおそる寝台脇の小卓に腕を伸ばし、手探りで小さな雪洞に灯を点す。暗
闇だった牀榻の中が漸っと仄明るくなり、同時に幾つかの事実が判明した。
 先ず、自分が下帯を着けているだけの殆ど全裸に近い姿だと云う事。その上
全身に打撲や擦過の痕があり、その凡てがきちんと治療されている。
 次に、自分が眠っていたのは何処かの官邸の臥室らしいと云う事。これは高
官の邸宅の内装が、ほぼ押し並べて似た様な造りになっている為、容易に察し
がついた。
 そして現在、彼の隣に居る人物の正体──それは宮中勤めの女官でも、麾下
の女性師帥でも無かった。

374「朝陽」2/16:2008/07/22(火) 12:42:18
 薄絹の夜着にその褐色の小柄な痩身をゆったりと包み、規則正しい寝息を立
てつつ熟睡しているのは、自分の先代の禁軍左将軍であり、現在は夏官長大司
馬を務める立派な「男」だった。
「──せっ、成笙さま……!?」
 頼り無く揺れる手燭の焔の下、敬愛する上司の無防備過ぎとも取れる寝顔を
認めた途端、毛旋の悪酔いは一気に醒めた。
 ──まさか、酒に酔った勢いで成笙さまと……!?
 一瞬脳裏を過ったあらぬ妄想を、自分の下肢と牀上の状況を素早く確認した
上で、ぶんぶんと激しく首を振り否定する。
 ──でも、一体どうして自分はこんな処に……?
 依然として激痛の走る頭で、毛旋は昨夜の曖昧な記憶を必死に反芻した。

 彼は昨晩、夏官府を上げての大規模な酒宴に出席していた。所謂『半納会』
と呼ばれるもので、毎年中元と歳暮の頃、官府毎に開かれる、役人達を慰労す
る為の催事である。
「──だから、貴公にあの方のお相手は荷が重過ぎると言っているんだ」
 平素は目許涼やかな美丈夫が、口端を歪めて酷薄に微笑う。その表情と声色
に、毛旋は蟀谷の血流が増す音を一瞬はっきりと聴いた気がした。
 昨夜の宴席で毛旋が盃を交わしていたのは、彼の隣に座していた禁軍右将軍
の男である。梟王の時代から上官である成笙の下、共に切磋琢磨し合って来た
公私に渡る親しい朋友だった。彼はまた、武人にしては稀有な美貌の持ち主で
自軍の内外、延いては他官府に至るまで、男女を問わず人気を集めていた。
 その男が成笙の話題になった途端、突如として毛旋に挑む様な態度をとり始
めたのだ。
 その時点で、互いにかなりの酒量を過ごしている事は重々承知していたが、
情け容赦の欠片も無い口調で「お前はあの方に相応しくない」と一刀両断に否
定され、普段は穏やかな毛旋の中の理性も、かなり心許無くなっていた。

375「朝陽」3/16:2008/07/22(火) 12:43:49
「どうして急にそんな事を……いや、そもそもお前からそんな指図を受ける筋
合いなど無いぞ!」
 憤怒と驚愕のない交ぜになった形相で睨め付ければ、口角を嘲笑の形に上げ
つつ見返された。
「いや、大いにあるな。貴公、大司馬に……成笙様に惚れているんだろう?」
「────!!」
 突如として図星を突かれ、返答に詰まった毛旋を後目に、美貌の同輩は尚も
続ける。
「貴公は分かりやすいからな。あの方を見る視線が他とは違う事くらい、私で
なくとも容易に気付くさ……だが、お前には無理だよ」
「な……何だと!?」
 どう云う事だ、と噛み付く様に詰問した毛旋に、益々冷めた笑顔を向ける。
「あの方は、貴公如きが御せるほど容易い相手では無いと云う事さ。潔く諦め
て、早々に他を当たるんだな」
 そう早口でまくし立てると、手酌で注いだ老酒の盃を優雅に口許へと運ぶ。
毛旋は不意に浮かんだ仮定を確かめる為、自分の隣に立て膝で坐す佳人の貌を
恐るおそる覗き込んだ。
「おい……まさか、もしかしてお前も成笙さまを……?」
「──好きだ、と言ったら貴公はどうする?」
 言下、淡い朽葉色をした前髪の隙間から覗く深藍の瞳が妖しく煌めき、毛旋
の鼓動はどくんと跳ねた。
 右将軍はその美貌に加えて武勇の誉高く、その上人望も厚い。実際、毛旋は
彼の方が左将軍職に適しているのではないかと常々思っていた。しかし彼等を
任じたのは他ならぬ成笙である。上司の下した人事に異を唱える事など出来無
いし、するつもりも一切無いが、人選の理由は聞いてみたかった。
 ──だが、もし成笙さまがおれより彼奴の方を買っているとしたら……。

376「朝陽」4/16:2008/07/22(火) 12:45:13
 充分有り得る想像に慄然としていると、不意にくぐもった笑声が聞こえ、右
将軍が口を開いた。
「どうだ、毛旋……この際、私達のどちらがあの方に相応しいか決着をつける
と云うのは」
 毛旋は一瞬、礑と瞠目し、友の濃い藍色の双眸を見返した。
「何を言ってる……第一、此処でおれ達がそんな事を勝手に決めたところで、
所詮は何の意味も無いんだぞ?」
 半ば呆れた様にそう反論するも、右将軍は涼しい顔で答えた。
「確かに……選ぶのは成笙様だが、私としては今の内に厄介な恋敵を一人でも
減らしておきたいんでな」
 そして、いっそ妖艶に微笑う。毛旋は知らず、その精悍な眉を顰めた。
「──分かった。いいだろう……その勝負、受けてやる」
 呟く様に言って掌中の盃を一息に呷る。空いた酒杯を案上に叩き付ける様に
置くなり、勢い良く立ち上がった。

「……あれ……?」
 ──それから、どうなったんだ……?
 寝台の端に腰掛け痛む蟀谷を押さえたまま、毛旋は大きく首を捻った。自分
の着ていた官服が何故か何処にも見当たらないので、仕方無く薄い上掛けを一
枚拝借し、腰に巻いている。
「うーん……」
 右将軍との決闘の為に席を立って以降の記憶が、不思議と綺麗さっぱり消え
ている。最も重要であろう出来事を思い出せない己の不甲斐無さに焦れ、掌で
額をぱしんと打ったその時。
「……起きていたのか」
 背後から僅かに掠れた声と人の起床する気配がして、毛旋は文字通り跳び上
がって驚いた。
「せっ……せせせ成笙さまっ!!」

377「朝陽」5/16:2008/07/22(火) 12:46:50
 そのまま床に跪き深く叩頭する。己の有られも無い姿を成笙に見られない為
と、成笙のしどけ無い姿を自分が見てしまわない為に。だが、当の成笙はそん
な部下の思惑など一切意に解さず、寛げた夜着の衿元もそのままで普段通り無
愛想に呟いた。
「……水」
「は、はいっ!」
 命じられるまま、小卓上の水差しから玻璃の杯に冷水を注ぎ手渡す。成笙は
それを一息に飲み干すと、空の杯を毛旋に返した。
「お前も喉が渇いているなら、勝手に飲め」
「はっ……い、頂きますっ」
 またしても言われるまま、震える手で水を注ぎ一気に呷った。そこでやっと
少し落ち着きを取り戻し、ほうっと小さく溜息を吐いていると、不意に成笙が
衾褥の上をぽんぽんと叩いた。どうやら「此処に来て坐れ」と云う事らしい。
毛旋は大きな背中を丸め恐縮しつつ広い寝台に上がると、胡座を掻く上司の正
面にきちんと膝を揃えて坐った。
「……あの、大司馬……」
 おずおずと切り出せば、直ぐにぴしゃりと遮られる。
「その呼び方は止めろと言っているだろう。まったく、何度言えば解るんだ」
「すっ、すみません──あの、成笙さま……?」
「何だ」
 上司の物言いがぞんざいなのはいつもの事だと分かってはいるが、状況が状
況だけに、つい怯えてしまう。
「い、幾つか伺いたい事があるのですが……ええと、先ず此処は──」
「俺の邸だ。昨夜は帰りが遅かったからな、わざわざ客庁の臥室を用意させる
のが面倒で、俺の寝床に運ばせたんだ。大人二人くらいなら寝られるだろうと
思ったんだが、窮屈だったか?」
「いっ、いいえ!決してその様な事は……あの、泊めて頂き有り難う御座居ま
したっ」

378「朝陽」6/16:2008/07/22(火) 12:48:28
 深く礼を取る毛旋に軽く頷き、成笙は先を促す。
「他に質問は?」
「ええと──では、おれの服は何処に……?」
 控えめに尋ねると、再度仏頂面のまま返答された。
「お前は全身ずぶ濡れになったからな。乾かしておく様、家人に申し付けてあ
るが……ああそうだ、着替えを用意出来無くてすまなかった。何しろ家には、
お前に合う寸法の夜着が無かったものでな」
 今は夏だし一晩くらい裸で寝たところで風邪を引く訳でなし構わんだろう、
とにこりともせず言われ、毛旋は一瞬きょとんと瞠目した。
「ずぶ濡れ……?」
 全く心当たりの無い事を突如として告げられ、毛旋が思わず鸚鵡返しにする
と、成笙は珍しく驚きの表情を浮かべ、訊き返して来た。
「何だ毛旋……お前、何があったか憶えていないのか?」
 毛旋は素直にこくりと頷く──元来、嘘は吐けない質なのだ。
「はあ……恥ずかしながら、悶着を始めた辺りからすっぽりと記憶が……」
 その返答に暫し呆気に取られていた成笙は、しかし直ぐに普段の渋面に戻る
と溜息混じりに告げた。
「──貴様達は、あろう事か宴席上で突然、殴り合いの喧嘩を始めたんだ。巻
き込まれて怪我をする者が出ずに済んだから良かったものの、仮にも禁軍を預
かる将軍同士の私闘など、はっきり言って前代未聞だぞ」
「すっ、すみません……!」
「それだけでは無い。貴様達が暴れた所為で、堂屋の扉が二枚と濡窓の玻璃が
六枚、それから庭院の石灯籠まで壊れたんだ。修繕費用は、お前等の俸禄から
きっちり引いてやるから覚悟しておけ」
 同輩など到底比較にならない、成笙の辛辣な物言いに、毛旋は丸めた背中を
益々小さくする。
「はい……申し訳ありませんでした……」
 悄々と項垂れ、しかし未だ解決していない疑問が残っている事に気付いた。

379「朝陽」7/16:2008/07/22(火) 12:50:49
「あの、成笙さま……もうひとつ伺ってもよろしいですか?」
 上目遣いに尋ねれば、無言の頷きが返る。
「じゃあ、あの……宴席で喧嘩していた筈のおれが、どうして全身ずぶ濡れに
なった上、こうして成笙さまの御厄介になっているんでしょうか?」
 暗灰色の長い髪を煩わしそうに掻き上げつつ部下の言葉を聞いていた成笙の
手の動きが、その瞬間ぴたりと止まった。
「……成笙さま?」
「毛旋……貴様、本当に何も憶えていないんだな?」
 問いを問いで返され、困惑した毛旋が成笙の顔をちらりと覗き込む。何故か
微妙に赤らんでいる頬を怪訝に思いつつも、素直に頷き、答えた。
「はい。ですから何があったのか教えて頂きたく──」
「駄目だ」
 無下に撥ね付けられた事実に、毛旋は暫し面喰らった。
「は?……駄目……?」
「駄目だ。俺には言えん……いや、言いたくない」
 まるで拗ねた子供の様な物言いに半ば茫然としている毛旋を後目に、成笙は
焦った様に早口で言を次ぐ。
「──まだ夜明け前だ。曉鐘までは随分と間があるから、もう少し寝ていろ。
衣もまだ乾いてはいないだろうし……俺も昨夜は色々あって疲れたんでな、今
少し眠りたい」
 そしてくるりと背中を向けると、衾褥を被りさっさと横になってしまった。
ふと悪い予感に襲われた毛旋は、上司の武人にしては有り得ないほど小さな背
中に向かって、おずおずと声を掛けた。
「あの、成笙さま……もしかしておれ、何か物凄く失礼な事でも為出来しまし
たか……?」
 遠慮がちの問いには、僅かな間の後で衾褥越しの答えが返る。
「……違う。そうじゃない……何でも無いんだ」

380「朝陽」8/16:2008/07/22(火) 12:51:56
 その言葉の中に言い知れぬ含みを感じ、毛旋は益々不安に駆られた。
「でもっ!……そんな風に言われたら、余計気になりますよ──」
「何でも無いと言っているだろう。いいから早く寝ろ、この不埒者が……」
 そう吐き捨てる様に呟くと、成笙は薄い上掛けを掻き寄せ、衾褥の中にくる
まってしまった。
「成笙さま……」
 寝台の上に坐り込み、暫時がっくりと項垂れていた毛旋は、先程成笙の呟い
た言葉が聞き覚えのあるものだと云う事にふと気付いた。
 ──頭を冷やせ、この不埒者……!
「……あっ」
 ──思い出した……。
 思わず発した微かな呟きと同時に、毛旋の脳裏で数刻前の記憶が、文字通り
走馬灯の様に再生された。

「──貴様等、そんな処で何をやっている!!」
 突如として響いた迅雷の如き怒声に、今にも掴み合わんとしていた二人の男
は礑とその動きを止めた。
 毛旋は驚きに開口し、右将軍は面白そうに笑って、自分達を取り巻く野次馬
の人垣に割り込んで来た成笙の姿を見遣る。
 彼の斜め後ろには騒ぎの鎮静の為に呼ばれたのか、宴の当初から独り露台で
飲んでいた筈の禁軍中将軍の姿も見える。漆黒の長髪を括りもせず、無造作に
垂らした前髪で顔の左半分を隠したその男は、迷惑至極と云った表情で小柄な
上司の背後に、如何にも面倒臭そうに付き従っていた。
「何って、見ればお分かりでしょう?──男同士の真剣な決闘ですよ」
 至って涼しい顔で右将軍が答える。しかしその口端には血が滲み、彼の纏う
文官のものより幾分動きやすく作られた官服は所々汚れ、破れている。対する
毛旋も、ほぼ同様だった。成笙は二人の姿を見比べる様に一瞥すると、すっと
眼を眇め、一段低く落とした声で厳かに尋ねた。

381「朝陽」9/16:2008/07/22(火) 12:53:34
「ほう……貴様等、それは当然、自分達の立場を理解した上でやっているのだ
ろうな?」
「勿論ですとも……ですが、恋愛に立場や体面などは一切関係ありませんから
──なぁ、毛旋?」
「えっ!?──あ、いや……その──」
 成笙本人の前で急に同意を求められ、毛旋は返答に窮した。一方、話を振っ
た右将軍は、相変わらず楽しそうに笑っている。
「恋愛?……何だお前等、悶着の原因は、たかが女の獲り合いか?」
 成笙の声音から僅かに険が取れ、代わりに呆れた様な響きが加わる。
「たかが、とは酷いですねぇ……おい毛旋、誰を奪い合っての決闘なのか大司
馬に教えて差し上げたらどうだ」
「──なっ……!!」
 口角を上げた右将軍に再び話を振られ、毛旋は瞬時に耳朶まで熱くなるのを
感じた。決して酒に弱い方では無い筈なのに、当の成笙を前にした途端、驚愕
と羞恥も相俟って急激に酔いが回って来た様だった。
「……それとも貴公は、大事な時に己の想い一つ告げられない腰抜けだったの
か?──え、左将軍閣下」
「……な、に……?」
 同輩が嘲笑混じりに発した言葉で、毛旋が辛うじて保っていた理性は一瞬に
して弾け飛んだ。
「──貴様……っ!!」
 それまで決して触れなかった腰の太刀に、思わず手が伸びる。眼前の美丈夫
目掛けて一足踏み込むと同時に、素早く抜刀していた。
「────!」
 俄の出来事に、瞠目し立ち竦む右将軍の間合いが半瞬遅れた、その時。
「毛旋────……!!」

382「朝陽」10/16:2008/07/22(火) 12:54:48
 横合いから突如、疾風の如く飛び込んで来た灰色の影に、毛旋が渾身の力で
振り下ろした筈の太刀は軽々と撥ね飛ばされていた。使い手の身丈に合わせて
打たれた長刀は、澄んだ金属音を響かせつつ弧を描き天高く舞い上がると、傍
らの池の中へ、小さな水音を立てて吸い込まれる様に落ちて行った。
「……あ……」
 ほんの一瞬で再び徒手に戻ってしまった毛旋が、はっと影の正体を見遣る。
周囲でもまた同様に、抜刀し損ねた右将軍が、右将軍を庇う為に飛び出した中
将軍が、そして彼等を取り巻いた多数の武官や文官達が、その眼差しを小柄な
人影ただ一点に注いだ。
 『関岑の翔鷂』──その場に居合わせた一同の脳裏に、殆ど伝説と化した二
つ名が蘇る。──二王に渡る禁軍将軍時代、九州各地の土匪や反乱軍の将兵等
を震え上がらせた、関弓の高嶺を守護する灰翼の鷹──。
 その鷂は、落ち着いた動作で自らの太刀を腰の鞘に収めると、無言のまま毛
旋を殴りつけた。拳に勢いはあったものの、如何せん体格差が大き過ぎた為、
毛旋は何とかその場に踏み留まった。数瞬の間、ぽかんと足下の白い玉砂利を
見つめていた毛旋は、不意に顔を上げ自分を殴った小柄な男に視線を移した。
「……成しょ──」
「この、戯け者!!」
 頭蓋の奥にまで響く様な怒声に、庭院中がしんと静まり返る。その場に居た
誰もが成笙の気迫に圧倒され、手指一本すら動かせなくなっていた。
「毛旋──貴様、俺達が宮中でも佩刀を許されている理由を忘れたか!?」
 その言葉に、切れ長の双眸を大きく見開いた毛旋を見据えたまま、成笙は言
を次ぐ。
「俺達武官の剣は主上と台輔をお護りする、唯その為だけに在るのだ──こん
な下らん私闘ごときで、容易く抜いて良いものでは無い!!」
 庭院の燎火に照らされた成笙の黄玉色の瞳が、瞬間鋭い光を放つ。それは正
に、獲物目掛けて空から舞い降りる猛禽そのものだった。

383「朝陽」11/16:2008/07/22(火) 12:56:11
 成笙の激しい怒気に一同が気圧される中、しかし唯一人毛旋だけは、その拳
を強く握り込んで俯きつつ、ぼそりと呟いた。
「……下らない事などではありません……」
「何だと……?」
 庭燎の薪が爆ぜる音に紛れ、聞き取れる最小限の大きさだった部下の言葉を
再度確認しようと、成笙が一歩踏み出した瞬間。
「──!!──毛せ……」
 成笙の小柄な痩身は、毛旋が素早く伸ばした逞しい両腕の中に呆気無く捕わ
れていた。
 いつしか庭院中を埋め尽くす程に集まっていた夏官府の野次馬達は、怒濤の
展開を目の当たりにして、ほぼ全員が顎を落とさんばかりに驚愕していた。
 今現在、この場で落ち着いている様に見えるのは、妙に感心した表情の禁軍
中将軍と、安堵と寂寥の複雑に混ざり合った笑顔を浮かべている右将軍──そ
して、その腕に最愛の人を強く抱き締めた左将軍の三名だけだった。

「──もっ……毛旋!何をする、離せっ!!」
「嫌です」
 暫時深閑とした静寂が続いた後、常に無く動揺した声で命じた成笙に、毛旋
はしかし凛として歯向かう。日頃、温厚で従順な部下の見せた意外な態度に、
成笙は狼狽えた。胸元にきつく抱き締められている所為で毛旋の表情を窺う事
は出来無いが、頬に押し当てられた分厚い胸板の奥からは、武官服を通しても
早鐘の様に鳴り響く心音が聴こえていた。
「──貴様、何故こんな事をする!?」
 鋭く問えば、長い沈黙の末に答えが返る。
「……貴方が、好きだからです」
 瞬間、僅かに緩んだ腕の隙間から、成笙は弾かれる様に顔を上げた。
「きっ……貴様、何を巫山戯た事を抜かしている!?」

384「朝陽」12/16:2008/07/22(火) 12:57:43
 未だ解かれない抱擁の中、成笙がその黄玉色の大きな瞳を更に見開き怒鳴り
つける。毛旋も、挑む様に大声で返した。
「ふざけてなどいません!……おれは本気で貴方が──成笙さまの事が、好き
なんです!!」
 府第の庭院中に響き渡る様な一大告白──しかも禁軍左将軍から大司馬への
──に、その場に居合わせた者達は皆、釘付けになっていた。いつしか本会場
である筈の堂屋からは一切の人気が絶え、噂好きの官の中には御丁寧に他官府
まで報告に走る者まで現れた。
 しかし、当の成笙はそれどころでは無い。羞恥と困惑に耳朶まで紅く染めつ
つ、眼前の男の広い肩を必死で押し返す。
「お前っ……いきなり何を言い出すかと思えば──」
「いきなりじゃありません……おれは、ずっと以前から貴方を見てました」
 それこそ何百年も前から、と言って毛旋は再び上司を抱く腕に力を込めた。
「だからと云って、こんな処で言う奴があるか!」
「いいえ、今だから言うんです……この機会を逃したら多分、二度と自分の想
いを伝える事は出来無いだろうから……」
 そして、腕の中の貌をじっと見つめる。成笙は自分を真っ直ぐ見下ろして来
る男の燕脂色の瞳の中に妖しい光を見て取り、その頑丈そうな胸板を慌てて力
一杯押し戻した。
「毛旋──お前、酔っているな!?酒の勢いに任せて、滅多な事を言うものでは
無いぞ……!!」
 しかし、成笙の渾身の抵抗にも毛旋はびくともしない。何しろ両者の間には
身丈で一尺、目方で百斤近い差があるのだ。
 そうこうしている内に、成笙はふと毛旋の節立った指に細い頤を掴まれた。
痛みこそ無かったが容赦無く仰向かされ、不快そうに部下を睨め付ける。
「……おれは、酔ってなどいません……至って正気です」
 毛旋の低い囁きが、耳許を掠めた刹那──成笙の唇は、毛旋のそれによって
塞がれていた。

385「朝陽」13/16:2008/07/22(火) 12:59:21
「────っ……!!」
 そっと押し当てられた唇は、稚拙な技巧ながら相手をいとおしむ様に優しく
吸い、舌先でほんの少し輪郭をなぞっただけで、直ぐに離れて行った。

「…………」
 口付けの間、終始無抵抗だった成笙が瞠目したまま毛旋を見上げる。毛旋も
漸っと腕の縛めを解き、放心した様に成笙を見下ろした。
「成笙さま──……」
 不意に成笙の口許が、ふるりと震えた。
「毛旋……貴様、衆目の前で突然何をするかと思えば……」
「……は?──ええっ!?」
 成笙が部下の手首を掴むと同時に、毛旋の充血した燕脂の双眸が大きく見開
かれた。
「──暫くの間、其処で頭を冷やせ、この不埒者っ……!!」
「うわ……っ!?」
 途端に毛旋の視界がぐるりと回転する。投げ飛ばされたのだ、と理解する前
に彼の巨体は軽々と宙を舞う。受け身を取る隙も与えられないまま、先刻己の
太刀を飲み込んだ池の中へ叩き落とされた所で、毛旋の記憶は再び途切れた。

 ──ああ……おれって奴は、幾ら勢いでとは云え何て事を……!
 漸く明らかになった記憶の全容に、毛旋は頭を抱えて牀上に突っ伏した。
「……どうした、痛むのか?」
 疾うに眠っている筈の成笙の声に、再度跳び上がって驚く。
「成笙さまっ!!──い、いいえっ大丈夫です……」
 毛旋は一つ深呼吸をすると、横になったまま自分を見上げている成笙に向き
直った。
「……あの、おれ何があったか思い出したんです……その、誠に申し訳──」

386「朝陽」14/16:2008/07/22(火) 13:01:07
「謝らなくていい。酒の席での失敗は誰にでもある……これに懲りて、次から
は己の酒量を弁えて飲めば良いだけの事だ」
 平素の如く冷静な成笙の言葉を聞いた途端、毛旋の心奥はずきりと痛んだ。
「成笙さま、おれは──……」
 開口し掛けた毛旋の右の額が、ふと冷たい感触を覚える。横たわったままの
成笙が、その華奢な指先で小さな傷痕にそっと触れたのだった。
「……俺が投げ飛ばした拍子に、水底の石で切ったらしい。一応手当てはした
し傷口も塞がっているが……不測の事とは云え、俺も悪かった」
 そう言って触れていた手をそっと下ろし、僅かに眼を伏せた。毛旋は婀娜っ
ぽいその姿に一瞬どきりとしたが、直ぐに深く頭を下げた。
「いいえ!──こうなったのも元は全部おれの所為なのに、怪我の手当てまで
して頂いて……本当にすみませんでした」
「だから謝るなと──」
「ええ。ですからお世話になった事は感謝しますが、貴方への言動に関しては
謝罪も取消しもするつもりはありません」
「──毛旋……」
 成笙の目許が再び険しくなる。しかし毛旋は怯まず続けた。
「──確かに酒の勢いも無かったとは言いませんが、あの場で言った事は凡て
おれの本心です……ずっと昔から貴方を見ていた事も、ずっと前から好きだっ
た事も本当です。どうか信じて下さい──」
「毛旋……!」
 もうやめろ、と怒鳴って寝返りを打ち、成笙は部下に背中を向けた。
「──成笙さま……」
「お前が誰を好きだろうと、それはお前の勝手だ──だが、俺はお前の事など
何とも思ってはいないし、今後もそれを変えるつもりは無い」
 態と突き放す様な口調でまくし立てた成笙の背中越し、毛旋はほんの少し寂
し気に微笑った。

387「朝陽」15/16:2008/07/22(火) 13:02:11
「はい。おれはそれでも構いません……成笙さまは、成笙さまらしく居て下さ
ればいいんです。おれの一番の望みは、もう二度と貴方に哀しい顔をしてほし
くない──ただ、それだけですから」
 先刻はつい右将軍の口車に乗せられて決闘紛いの騒ぎを起こしてしまいまし
たが、と照れながら苦笑する毛旋に背を向けたまま、成笙は遠い過去の記憶を
手繰っていた。

 前王の治世末期、王に諫言した咎で宮城地下の石牢に幽閉された成笙の許を
毛旋は毎日の様に訪れていた。そんな事をしてはお前も叛意ありと見做され、
下手をすれば殺されかねないのだぞ、と成笙が何度説得しても、毛旋は決して
それに従おうとはしなかった。
「だって将軍、こんな暗くてじめじめした所に居たら、ただでさえ気が滅入る
でしょう?自分が来れば話し相手くらいにはなりますから──それに、おれは
こう見えて、案外処世は上手い方なんです」
 そう言って笑った男は、軈て彼等の主がこの世を去り、次の主が現れるまで
の数十年間、遂に一日も欠かす事無く上官の許へ通い続けた。成笙が牢を出た
日、毛旋はその足下に跪き改めて忠誠を誓うと、やっぱり貴方には明るい陽の
光が何より良く似合います、と泣き笑いの表情を浮かべて言ったのだった。

「……俺が……」
「──はい?」
 不意に成笙の発した呟きに、毛旋はその場で素早く姿勢を正した。
「……俺が、お前を禁軍左将軍に任じたのは、お前が一番、俺の意を汲み取る
力に長けているからだ。王師六軍、七万五千の将兵の命を預けるに、お前以上
の適任者は他に居ない。──毛旋、お前は俺の最高の部下だ……」
「……成笙さま……」
 だから今度だけは特別に接吻の事は大目に見てやる、と言った男の項が微か
に紅くなっているのを見て、毛旋はにっこりと微笑んだ。

388「朝陽」16/16:2008/07/22(火) 13:03:24
 灯火を吹き消し、再び未明の帳に包まれた牀榻の中、寝台の端に横になった
毛旋は、いつか成笙と手合わせした時の事をぼんやりと思い出していた。

 剣よりも矛戟の方が得意な自分に合わせて貰ったにも拘わらず、完膚無きま
でに叩きのめされ落ち込んでいると、いきなり背中を力一杯叩かれた。
「うわっ!将軍──あの、折角相手をして頂いたのに申し訳ありません……お
れ、正直自分がここまで弱いとは思っていませんでした……」
 そう零し、がっくりと項垂れる毛旋に、成笙は仏頂面のまま言った。
「莫迦者。お前が弱いのでは無くて、俺が強過ぎるんだ。禁軍左将軍が一介の
師帥如きに、そう簡単に負かされて堪るか」
「は、はあ……」
 上官の辛辣な物言いにはだいぶ慣れたつもりで居た毛旋も流石に肩を落とし
ていると、ふと目許を和らげた成笙が眼前に屈み込んで来た──毛旋はその時
地面に膝を突いていたので。
「──毛旋。お前、筋は悪くないぞ。ただ優し過ぎるんだ……しかし戦場では
その優しさが時に仇となる事もある。肝に銘じておけ」
「……は、はいっ!」
 しかし……と呟いて、成笙はほんの少し笑った。
「味方にとっては、お前の優しさは重要だな。俺は他人に厳し過ぎると良く言
われるから、お前と二人で居れば、丁度釣り合いが取れるだろう……」

 ──そうだ、あの時に自分は決めたんだ。これから先、己の命が尽きるまで
この方の傍を決して離れはしないと……。
 毛旋は隣で眠る成笙の静かな寝息を聴きながら、朝日が昇るまでの残り僅か
な眠りの中へ、ゆっくりと落ちていった。

 〈了〉

 *   *   *

↓以下おまけ

389「朝陽 〜蛇足〜」1:2008/07/22(火) 13:06:46

「──毛旋、毛旋っ!」
 朝議の散会と同時に、声を張り上げ壇上から駆け下りて来た金髪の少年の姿
を視界の端に捉え、毛旋は内心で今朝三十二回目の溜息を吐いた。
「……何でしょう?台輔」
 それでも笑顔は絶やさず、予測された問いに備える。しかし、
「──お前、ゆうべ夏官の宴会場で、酔っ払って成笙を押し倒したってホント
なのか!?」
「──なっ……!?」
 今朝、登府してから何十回も繰り返し尋ねられたものとは明らかに違う質問
に、毛旋は顎を外さんばかりに驚愕した。
「毛旋て奥手な奴だと思ってたけど、意外とやるじゃんか!おれも尚隆も、ゆ
うべは春官の宴会の方に行ってたから、せっかくの勇姿が見られなくて残念だ
ったなー。なぁ尚隆?」
 そう言って振り返った少年の後ろには、いつの間にやら彼等の主までが立っ
ており、まったくだと深く頷いている。
「夏官の荒くれ共が揃って見ている前で、嫌がる成笙を無理矢理素裸に剥いた
そうではないか。お前もやる時はやるんだな、見直したぞ毛旋」
 そう言って高々と笑う主に、毛旋は震える声で尋ねた。
「あの……お二人とも、その話はどこから……?」
「うん?俺は禁軍の右将軍からだが……六太、お前は誰から聞いた?」
「おれは中将軍から聞いたぞー。なんだ、何処か違うのかぁ?」
 声だけでなく肩も細かく震え出した毛旋を可笑しな奴だと訝りつつ、主従は
暢気に答える。
「……あいつら……」
 地の底から絞り出す様にそう呟くと、毛旋は辞去の礼もそこそこに、一足先
に府第へと逃げ帰って行った僚友達を追う為、大股
で歩き出した。

 〈了〉

 *   *   *

無理矢理尚六出してみました^^因みに成笙には怖くて誰も訊けないと云うオチ

390「朝陽 〜蛇足〜」2-1:2008/07/22(火) 13:08:15

 時間は戻って前日深夜。
「──それにしても、お前があの垢抜けない男に惚れていたとはな……正直、
驚きだ」
 夜も更け、だいぶ人気の少なくなった堂屋の片隅で酒器を傾けながら中将軍
が笑って言った。自分達の主が服装や髪型に五月蝿く言わないのを良い事に、
御前でもその黒髪を垂らしたままで居る男は、長い前髪で隠した片目がもし見
えていれば今頃、雁国禁軍一の剣豪であったかも知れない。今から百年ほど前
に地方で起こった小乱の際、彼は毒矢を受けて左目を失明していた。
「余計なお世話だ……貴公には関係無かろう」
 不機嫌そうに右将軍が答える。毛旋に殴られた際に出来た口腔内の傷に酒が
滲み、その美貌を微かに顰めた。
「関係ならあるぞ。俺はお前等の同僚だろう……まったく、前以て俺に一言相
談すれば良いものを、大司馬に惚れているなどと嘘まで吐いて当て馬になって
やるとは……お前がここまで人の良い奴だとは思わなかった」
「……貴公なんぞに相談したところで、話が余計に拗れるだけだろうが」
 頼まれたとてするものか、と盃を呷ってから、不意にぽつりと呟いた。
「……どうやら、彼奴の運命の相手とやらは、私では無く成笙様らしいからな
──『敗軍の将、兵を語らず』……だ」
 その様子を黙って見ていた中将軍が、不意に同輩の形の良い頤を摘んで振り
向かせた。

391「朝陽 〜蛇足〜」2-2:2008/07/22(火) 13:09:45
「そんな顔をするな。折角の美人が台無しだぞ……それに、身近にもっと佳い
男がいるだろうが──……いてててっ!」
 言いつつ伸し掛かろうとした男の長髪を、右将軍が思い切り引っ張る。
「生憎だが、私は軽薄な男が何より嫌いなんだ……大事な右目まで潰されたく
なかったら、さっさとこの手を退けろ」
 打撲で紫色に腫れた口角を上げ、綺麗に微笑んで言った同輩に、中将軍は軽
く苦笑した。
「まったく、どいつもこいつも……おい、今夜は朝まで付き合えよ。大司馬に
上手く執り成してやったのは俺なんだからな。謹慎にならなかっただけでも、
有り難く思え」
「……ふん、分かっているさ。貴公に言われずとも、今宵はとことん自棄酒を
飲むつもりだったんだ」
 そう、僅かに拗ねた様子で呟く美丈夫に、縁まで注がれた酒杯を手渡しつつ
隻眼の男は微笑って言った。
「──そうか。では、改めて乾杯するとしよう……俺とお前の儚く散った恋と
毛旋の前途多難な恋路に──……」
 二人の間で白磁の盃が触れ合い、美しく澄んだ音を立てた。

 〈了〉

 *   *   *

オリキャラに〆させてすいませんorz

392尚六「真夏ノ夜ノ夢」1/6:2008/07/27(日) 20:38:13
暑中御見舞い代わりの尚六ほのぼの 花火&痴話喧嘩編
※常世に於ける火薬の存在云々は笑ってスルーを…

   *   *   *

 赤、青、緑、──それから少し遅れて桃色、黄色。
 晩夏の宵闇の中、遠雷の轟く様な音と共に、色とりどりの大輪の花が次々と
咲いては散って行く。
「綺麗だなぁ……」
 六太は、ぽつりと呟いた。

 今夜は、関弓の毎夏の恒例行事である花火大会が盛大に催されていた。
 郊外の耕作用溜池の畔から打ち上げられる花火を見物しようと、宮城のある
凌雲山の麓には地元靖州ばかりでなく、余州各地からも沢山の見物客が押し寄
せていた。この世界では火薬は大変貴重な為──材料となる硝石や硫黄は、黄
海の奥地でしか産出しない──殆どの人々が花火と云うものを知らないのだ。
 斯く云う六太も、今夜の花火を大層楽しみにしていた。──先刻、彼の主と
喧嘩になる前までは。

「……ちぇっ。──なんだよ、あの分からず屋……」
 今宵、既に何十回と繰り返した怨み言を再度口にする。喧嘩の原因は、所詮
いつも通りの些細な事で疾うに忘れてしまっていたし、今となっては原因など
より喧嘩をした、その事自体のやるせなさと、腹を立てた勢いで思わず飛び出
して来てしまった己の短慮を後悔するばかりだった。幾ら贔屓目に見たところ
で、凡そ八対二の割合で悪いのは自分の方なのだし、今から戻って主に謝ろう
かとも考えた。
 ──ああ、でも多分そろそろ……。

393「真夏ノ夜ノ夢」2/6:2008/07/27(日) 20:39:24
 このところ、喧嘩をした後は、いつも決まって同じ展開になるのだ。自分が
怒って宮城を飛び出し、そして──。
「──こんな処に居ったのか、六太」
 緩い夜風に乗って聞こえて来た良く通る低い声に、六太の鼓動はとくんと高
鳴る。徐に顔を上げれば、極彩色の花火を背景に、鞍も手綱も着けていない己
が騎獣の背に跨坐し宙に留まったまま、此方を見下ろしている主と視線が搗ち
合った。
「……尚隆っ……」
 ──やっぱり、今夜も迎えに来てくれた……。
 嬉しさと恥ずかしさとで胸が一杯になってしまう。ゆったりと乗騎を歩ませ
己の目線の高さまで降下して来た尚隆に、暗闇の中、紅くなった顔を見られな
い事を幸いと、六太は精一杯の意地を張った。
「どっ、──どうしておれが此処に居るって分かったんだよ……」
 気持ちを覚られない様、不機嫌さを装って尋ねれば、笑い含みに返された。
「俺はお前の主だぞ。お前の事で知らぬ事など無い──と言いたいところだが
な、残念ながら沃飛に居場所を訊いたのだ」
 語尾に微かな自嘲の響きを残して呟いた主をちらりと見遣ってから、六太は
態と大きな声量で、姿の見えない己が女怪に文句を言った。
「もう……黙っとけって言っただろ」
 僅かな間の後、彼の足下からは『申し訳ありません……』と、恐縮した風な
女の呟きが漏れる。それを聞いた尚隆は、口許に浮かんだ笑みを軽い苦笑の形
に変化させた。
「まぁ、そう言うな。使令達も、お前の事を心配しているのだぞ」
 そんな事、今更言われずとも分かり過ぎるくらい良く分かっている。だが、
これでは自分が、まるで幼い子供の様ではないか。自分ばかりが好き勝手をし
我儘を通して、周囲に心配を掛ける一方で……。

394「真夏ノ夜ノ夢」3/6:2008/07/27(日) 20:40:41
 自身に苛立ちを感じつつ気不味そうに俯いている六太の耳に再度、主の穏や
かな声が響く。
「──隣、良いか?」
「あ……うん……」
 慌ててこくりと頷くと、尚隆は乗騎の背から、六太の居る岩棚の上へ軽々と
跳び移った。
「たま、御苦労だったな。暫く休んでおれ」
 その言葉に応じるかの様に軽く一鳴きすると、主を乗せて来た美しい獣は二
人から少し離れた岩の上にゆったりと寝そべり、次いで大きな欠伸をした。
 その姿にくすりと微笑んだ六太の横で、ふと尚隆が呟く。
「……此処からだと、良く見えるな」
 丁度その時、尚隆の視線の先では、まさに橙色の菊花の群れが次々と花開い
た。それに半瞬遅れて、周囲の空気をびりびりと震わせる様な爆発音が鳴り響
く。六太は轟音が止むのを待って、主に答えた。
「うん……此処からだとさ、花火が開くとこを、ちょうど同じくらいの高さで
見られるんだよ」
 二人が居るのは、治朝から僅かに下った山腹にある岩棚の上だった。切り立
った崖の途中、僅か三丈四方ほどの広さだけ、岩肌が平たく削り取られた様に
なっている。岩棚の周囲は今を盛りと咲き誇る百日紅の古木に囲まれている為
一見した限り、其処に岩棚がある事にはまず気が付かない。
「──城下に降りて見るのもいいけど、今夜はちょっと人が多過ぎるし、ずっ
と上を向いてなきゃいけないから首が疲れるし……だからと言って、城から雲
海越しに見下ろしたんじゃつまんねーだろ」
 だから此処はとっておきの場所なんだ、と言って六太は小さく笑う。尚隆も
それに笑って頷き、二人はそのまま暫し無言で、咲き競う焔と光の花々に眺め
入った。

395「真夏ノ夜ノ夢」4/6:2008/07/27(日) 20:42:41
「──まったく、情け無い主だな……」
 不意の呟きに、六太は隣の男の長身を見上げる。
「……なんだよ、急に」
 訝りつつ尋ねると、尚隆は先刻見せた自嘲気味の微笑を再度浮かべていた。
「六太……お前は俺が何処に居ようと、王気とやらを頼りに捜し出す事が出来
るのだろう?」
「え?──あ、ああ……」
「それに、使令達はお前の影の中に潜んで、何処までも付いて行ける……そう
だったな?」
 六太は困惑気味に、しかし無言で頷く。
「──彼処に居るたまの奴とて、主の気配や匂いを感じ取って、後を追う事が
出来ると云うのに……お前が居なくなった時、何も出来んのはこの俺だけだ」
「……尚隆……?」
 六太は驚いた。自分の主がそんな事を思っているなど、終ぞ考えもしなかっ
たからだ。
「そっ……そんなの当たり前だろ。だって、王のお前がそんな事する必要ない
んだから──……あっ」
 何故、主が急にそんな事を言い出したのか──六太はそれに気付いて、忽ち
含羞に頬を赤らめた。言うまでも無く、自分がこうして行方を眩ましてばかり
いる所為だ。
「……ごめん、尚隆」
 俯いてぽつりと呟くと、しかし意外なほど明るい声が返った。
「ああ、別に責めている訳では無いから安心しろ。お前には城の奥で大人しく
坐っているより、元気に外を飛び回っている姿の方が、余程似合っておるのだ
からな」
 その言葉に、六太は小さく笑って言い返した。

396「真夏ノ夜ノ夢」5/6:2008/07/27(日) 20:44:10
「だから、他人を犬扱いするなって──」
「……気が済んで帰りたくなった時に、ゆっくり帰って来れば良い。無理強い
は出来んさ……」
「尚隆──……」
 六太は隣に立て膝で坐した主の貌を見上げる。絶え間無く打ち上がる花火の
明かりに照らされた精悍な横顔は、彼の一番好きな表情を湛えていた。
 ふと、その横顔が振り返る。先程よりも更に強く打つ心臓を宥めようと焦る
六太に、尚隆は浮かべた笑みを太くして告げた。
「俺は他の何よりも、六太──お前が自由に、楽しそうにしている姿を見るの
が好きなのだからな……」
「──尚隆……」
 その瞬間──六太の脳裏に城下の人々の姿が浮かんだ。きっと今頃、男達は
酒杯を片手に、女達は団扇で涼を取りつつ、そして子供達は鴉瓜の灯籠を小川
に流しながら、それぞれが年に一度の花火の宵を楽しんでいる事だろう。彼等
の大切な人達と供に……。
 麒麟とは民意を反映する生き物だと云われる。ならばたった今、自分が感じ
ているこのあたたかな気持ちは、彼の幸せであると同時に民の幸せでもあるの
だろう──そう思い至り、六太はふわりと柔らかく微笑んだ。

「……さてと、それでは俺は一足先に帰るとするか」
 主の不意の言葉に、六太は礑と瞠目した。
「えっ?どうして……」
「お前の取って置きの場所に長居するのは気が引けるしな。暫く此処で、ゆっ
くり花火見物していろ」
 そう言って、乗騎を呼ぼうと立ち上がり掛けた尚隆の背に、六太は思わず腕
を伸ばしていた。

397「真夏ノ夜ノ夢」6/6:2008/07/27(日) 20:45:55
「ま……待てよっ!──尚隆、行くなよ……」
「六太……?」
 袍の裾を掴まれ、不思議そうに振り返った主に、六太は紅い顔のまま懇願し
ていた。もう、花火に照らされ見られてしまっても構わなかった。
「もう少し一緒にいてくれよ……おれ、ずっと前から、此処でお前と二人きり
で花火、見たかったんだからさ……」
 言いたい事を言ってしまったら、急に胸の支えが取れた様にすっとした。
「──俺が邪魔して構わんのか?」
「邪魔な訳ないだろ!──おれが、お前と一緒に居たいんだよ……」
 先刻は自分から城を飛び出した癖に、我乍ら現金な奴だと六太は思う。それ
でも、今はこの男と離れたくなかった。
 そんな六太の心中を察したのか否か、尚隆は一つ微笑って頷くと、再びその
場に腰を下ろすなり、少年の小さな身体を己の膝上にひょいと抱き上げた。
「ちょっ!……いきなり何すんだ、尚りゅ──」
 尚隆はそれに答えず、笑いながら華奢な身体を優しく抱き込む。その途端、
主の袍に焚き込まれた夏物の香に鼻腔をふわりと擽られ、六太は軽い目眩に陥
り──気付けば主の肩に頭を凭せ掛け、すっかり身体を預けきっていた。
「……ああ、綺麗だな。流石に海客の花火職人は、良い腕をしている……」
 頭上から聞こえる、尚隆の低い呟きが耳に心地好い。六太は知らず、口を開
いていた。
「尚隆……」
「……うん?」
「──好き、だよ……」
 知っているさ、と云う囁きと共に、髪に額に口付けの雨が降らされる。擽っ
たさに身を捩りつつ、それを受ける六太の視線の先で、丁度その時、人一倍大
きな純白の菊花が咲いた。

 〈了〉

   *   *   *
BGMは勿論アイコでw

398名無しさん:2008/08/04(月) 04:54:45
花火はやっぱり好きな人と眺めたいですよねえv
麒麟にしては自由奔放で意地っ張りな六太を、一枚上手で包み込める尚隆であってほしいので、
こんな包容力あるダンナは大好物です!
膝上抱っこと髪+額へのキスも〜vv

399書き手:2008/08/05(火) 12:46:11
>>398
ありがとうございます^^
自分もキャパのあるオトナな尚隆が理想なので、気に入って頂き嬉しいです!
良かったら、また読んでやって下さい。
(次回は桓浩ですが、こちらもキャパ大なクマ攻w)

400◇投稿テスト◇:2008/08/10(日) 18:16:18
孔子「論語」

子 曰 学 而 時 習 之 不 亦 説 乎
有 朋 自 遠 方 来 不 亦 楽 乎
人 不 知 而 不 慍 不 亦 君 子 乎

子曰はく、「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。
朋有り 遠方より来たる、亦楽しからずや。
人知らずして慍らず、亦君子ならずや」と。


五輪開会式の缶(ふ)の大合奏に、ちょっと感動。
衣装も綺麗だったな(全身LEDタイツ以外…)

401桓タイ×浩瀚「夕陰」1/11:2008/08/12(火) 21:23:43
「時雨」(>>187-242)の続きで桓浩ラストエピ
クマが天然受上司にプロポーズ(笑)します
※「桓堆」に借字&ちょいキチ描写有り

  *   *   *

 桓堆が数名の元麾下を伴い、蟄居していた浩瀚の許を訪れたのは、そろそろ
季節も晩春に移ろうかと云う一日の午後の事である。
 追手からその身を隠す為、幾度も潜伏先を変えていた浩瀚の現在の仮住まい
は、麦州出身のとある豪商が所有する瀟灑な小邸だった。
 それほど広くない正房の堂室で新王からの親書を手渡した後、その場に叩頭
し改めて復朝を乞う元部下達を厳粛に見渡すと、浩瀚は「青と二人だけで内密
に話したい事がある」と言って、桓堆の随従達を退室させた。
 二人きりの室内に暫しの静寂が流れた後、未だ床に跪いたままの桓堆の耳に
供案下の椅子に坐す浩瀚の穏やかな声が届いた。
「……良く、似合っているな」
 一瞬、何の事を言われたのかと困惑した桓堆は、直ぐにそれが自分の纏って
いる慶国禁軍の皮甲を指しているのだと気付き、恐縮頻りと云った様子で浅く
首を垂れた。
「ああ、これですか。──王の使者として赴くのに、正装用の皮甲が無くて困
っていたら、折角余っているのだから使う様にと、主上から無理矢理渡されま
して……正式登用された訳でも無いのに、これを着けるのは正直、恥ずかしい
のですが……」
 実際、彼の体型に合わせて誂えた物では無い為、多少お仕着せ的な部分もあ
ったが、それでも王直属の軍隊である事を表す漆黒の皮甲は、桓堆の日焼けし
た肌と青灰色の髪にしっくりと馴染んでいた。
 借り物であるが故に、現在は何の徽章も付いていないが、浩瀚にはそう遠く
ない未来、其処に輝くであろう将軍章が容易に想像出来るのだった。

402「夕陰」2/11:2008/08/12(火) 21:24:50
「──主上は、どうして居られる?」
 なかなか粋な計らいをする主だと目許を和ませつつ問うと、それに答える声
も柔らかな笑みを含んで返された。
「一昨日、尭天へお戻りになられました。──拓峰の郷城に御滞在中は、城下
の者達に混ざって雑用係をなさっておいでで……」
「雑用係──?」
 軽く眼を瞠って驚く浩瀚に、桓堆は苦笑混じりの表情で続けた。
「何でも、働いていると気が紛れるのだと仰って……俺達が平伏すると露骨に
嫌そうな顔をなさっていましたし、城下の者達にも大層気安くて──皆からは
『陽子』と名前で呼ばれていらしたんですよ」
「……ほう……」
 浩瀚の脳裏を、即位式の際に垣間見た、何処か危うげな異界の少女の面影が
過る。あれから、僅か数箇月の間に彼女の身に何が起こったのか、現在の浩瀚
には知る由も無かった。
「──これから、きっと慶は良い国になりますよ。あの方が、俺達の主になっ
て下さったんですから……」
 濡窓の外に広がる春景を身遣りつつ、そう自信ありげに言う桓堆を見つめ、
浩瀚もふわりと顔を綻ばせた。
「ああ、そうだな……お前がそう言うのなら、間違い無いだろう」
 その言葉に一瞬、面映ゆそうに目許を紅く染めた桓堆は、しかし直ぐに表情
を引き締めると、凜然たる所作で再度その場に平伏した。
「──浩瀚さま、改めましてお願い申し上げます。これより私共と、尭天は金
波宮までお出で下さい。我等が主、景女王陛下が貴方様の一日も早い復朝を心
よりお待ちです……主上は捕縛されし元和州侯呀峰の許より、過日無事解放さ
れた仙伯、乙悦殿を含めた三者にて、近日中に極秘の会談を持ちたいとの御意
向であらせられます」
 そう一息に伝え、浩瀚からの返事を待つ。暫時の後、常に無い厳かな声音が
室内に響き渡った。

403「夕陰」3/11:2008/08/12(火) 21:25:47
「……主上の御意向は、確かに承った。私などが国家のお役に立てるのならば
喜んでこの身を捧げさせて頂く所存だ」
 しかし……と続く言葉に、桓堆の皮甲に包まれた逞しい背筋が一瞬、ぴくり
と緊張する。
「──私がお前の口から聞きたいのは、もっと別の言葉なのだが……」
 ほんの僅か、はにかみを含んだ呟きに桓堆は顔を上げると、自分を見据えた
淡い茶色の瞳に内心の動揺を覚られぬ様、極力押さえた声音で尋ねた。
「……浩瀚さま、それはどう云う──」
「惚ける気か?桓堆──お前は何故、いつも私が聞かせて欲しいと思う言葉を
一番最初に言ってくれないんだ……?」
 僅かに険しくした表情のまま、微動だにしない桓堆の紺碧の双眸を凝視しつ
つ、浩瀚は続ける。
「──前にも言ったろう。私がお前の口から聞きたいのは、そんな言葉では無
いと……まさかお前、私を困らせる為に態とやっている訳では無かろうな?」
「浩瀚さま……」
 小さく呟いた桓堆が不意に俯く。その伏せられた瞳の中に複雑な色の光が宿
る瞬間を、浩瀚は見逃さなかった。
 かたん、と音高く椅子から立ち上がり、下座に位置した男の許へ、ゆっくり
と数歩近付く。
「桓堆──お前、あの夜から今日まで、私が一体どんな思いで過ごして来たか
分かるか?……国政の大事が迫り、おまけに自身は追われる身だ。眼前の問題
だけでも手一杯だったと云うのに……」
 そこで一旦言葉を切り、苦労しつつ呼吸を整える。もし、一息にまくし立て
たりすれば、感情の激するあまり、涙が零れてしまいそうだったからだ。
「──気付けば、思い出すのはいつも、お前の事ばかりだった……今頃、桓堆
はどうしているだろうか。彼奴の事だから、また無茶をして怪我などしていな
いだろうかと、切なくて、苦しくて──……」

404「夕陰」4/11:2008/08/12(火) 21:26:46
 あえかな衣擦れの音が近付き、桓堆の視界が不意に陰った。
「浩瀚さま……」
「──何より……お前が、恋しくて──……」
 桓堆は後に続く言葉を、浩瀚の華奢な腕の中で聞いた。
「……私は、もう自分に嘘を吐きたくないんだ。だから、お前もどうか正直に
言ってくれないか。──これから先、お前自身がどうしたいのか。そして、私
にどうして欲しいのかを……」
 桓堆は暫しの沈黙の後、ふと俯き小さく溜息を吐いた。それを訝しんだ浩瀚
が軽く首を傾げ、その顔を覗き込む。
「桓堆──?」
「浩瀚さま、俺は……本当は後悔しているんです。あの夜の事を……」
「──な、に……?」
 自分を抱き締めた痩身の狼狽えていく様が、厚手の袍の生地を通しても手に
取る様に感じられる。桓堆は再び顔を上げると、浩瀚の形良い耳許にそっと囁
いた。
「浩瀚さま……貴方は今後、この国の中枢を担って行かれるべき重要な地位に
お就きになる方です。──そんなお方が、いつまでも俺の様な半獣相手の瑣事
に捕われていてはならない……」
 そしてゆっくりと右手を上げ、浩瀚の微かに青ざめた頬に優しく触れる。元
来線の細い顔は、この二箇月で更に窶れた様に見える──他でも無い桓堆自身
が、その要因である事は明白だった。
 自分を真っ直ぐ見つめる淡茶の瞳に出来る限り優しく微笑むと、桓堆は準備
して来た通りの落ち着いた口調で、告げるべき言葉を口にした。
「……ですから浩瀚さま、俺との事など始めから無かったものとして、どうか
一刻も早くお忘れに──」
「嫌だ……!!」
 口に出してしまってから、その子供じみた拒絶の響きに我乍ら驚く。しかし
今の浩瀚に、落ち着いて言葉を選ぶ余裕など微塵も残ってはいなかった。

405「夕陰」5/11:2008/08/12(火) 21:27:41
 桓堆の背に廻していた腕をゆるゆると解き、震える指先で皮甲の下の衿首を
掴む。しかし当然の事乍ら、浩瀚程度の力では大柄な半獣の男をどうにかする
事など、到底叶う筈が無い。
 それでも、彼はそうせずには居られなかった。本気で怒っているのだと、眼
前の元部下にどうしても解らせたかったのだ。
「“瑣事”だと?……勝手な事を言うな、桓堆」
 絞り出す様に呟いて、細い指先に力を込める。だが、本人の意に反し両手は
かたかたと震えるばかりで、官服の衿元を満足に握る事すら儘ならなかった。
「……お前はそんな言葉で、私の永年の想いを愚弄するのか?──あの夜、私
が一体どんな思いで心中を打ち明けたか……桓堆、お前は……っ!」
 それまで散々堪えていたものがふつりと堰を切ると、必死で守っていた筈の
矜持までが、呆気無いほど簡単に砕け散る。
 ──いや、そんなもの、この男の前では元々存在すらしなかった……。
 眼下の精悍な頬の上に、ぽたぽたと絶え間無く零れ落ちる己の涙を見つめな
がら、浩瀚はそうぼんやりと思った。
 桓堆は浩瀚の涙を両の頬に受けながら、只管黙ってその泣き顔を見つめてい
た。切なげに歪められた表情は、泣いている本人よりも悲しそうに見えた。
「浩瀚さま……」
 愛しげに名を呼ばれ、到頭その衿元に軽く触れるだけになっていた両手を、
そっと外される。そのまま、桓堆の温かく大きな掌に包み込まれ、指先や手の
甲に何度も優しく口付けられた。
「……あまり、俺を困らせないで下さい」
 心底困った様に囁かれ、かあっと頭に血が上る。
「何を言って──困らせているのは、お前の方だろう!?」
 つい大声を張り上げてしまった事に気付き、焦って戸口の方を見遣る。扉一
枚隔てた隣室には、桓堆の随従達が控えているのだ。

406「夕陰」6/11:2008/08/12(火) 21:28:42
 その姿に小さく苦笑すると、桓堆は浩瀚の涙に濡れた両頬を指先でそっと拭
い、しかし直ぐに眉間を狭めて言った。
「……浩瀚さま、宜しいですか?貴方はもう、貴方だけのものでは無いんです
──此方に戻られたばかりで未だ政にも不明であられる主上をお助けし、この
国を再興すると云う重責を負われる方の傍に、俺の様な輩が存在していては、
貴方にとっても慶にとっても、この先良くないであろう事は明白です。なのに
貴方は御自分の身の安全や反乱の経過を差し置いて、俺の身上を心配していた
などと仰る。その様な事は、本来あってはならない──」
「愛する者の身を案じる事の、何処がいけない!?」
 今度は自分の発した声量など、少しも気にならなかった。驚きに口を半開し
たままの男の上体を、再度その腕にきつく抱き締める。
「私が私のもので無い?──ああ、その通りだとも。私の凡ては、疾うの昔に
お前のものになっているのだからな。あの時もそう言ったろう?……だが、そ
れ以外の事については一つも首肯出来無い。──私は、例え主上から国の為に
愛する者を諦めるよう命じられたとしても、従う気は無い。お前と共に在る事
が叶わない国など、私にとっては微塵の価値も無いのだから──」
「浩瀚さま!──まったく、貴方と云う人は何て事を……」
 腕の中から慌てて諫めようとした桓堆にも、浩瀚は全く取り合わなかった。
「私が今、此処に居るのは、お前がこの国に生きているからだ。──桓堆、私
にはお前が必要なんだ。お前に私が必要なのと同じくらい……」
「────!」
 思わず眼を瞠った桓堆に、浩瀚は潤んだ瞳で優しく微笑む。
「さあ、桓堆──早くお前の本心を聞かせてくれ。今度はきちんと、お前自身
の言葉で……」
 その顔を惚けた様に見上げていた桓堆は、不意に眼を伏せ、ふるりと首を振
って呟いた。

407「夕陰」7/11:2008/08/12(火) 21:30:06
「……貴方は、本当に何一つ解っていない」
「えっ……?」
 俯いた顔をもっと良く見ようと僅かに腰を屈めた瞬間、強く腕を引かれ、浩
瀚はあっと言う間に桓堆の胸に抱き込まれてしまった。
「……か、桓た──!」
「そんな風に簡単に“お前のもの”だなんて言っては駄目ですよ」
 逞しい腕の中にすっぽりと捕われ、不意に甘い目眩を覚えた浩瀚の耳に吐息
が掛かるほど顔を近付けると、桓堆はゆっくりと言い諭す様に囁いた。
「良いですか浩瀚さま……俺は、一人の私人としての──男としての貴方から
凡てを奪い獲ってしまおうとしているんですよ。それこそ、身も心も全部……
貴方の許には、何一つとして残しはしない。俺のものになるとは、そう云う事
なんです。──貴方には、それを受け入れる覚悟がおありですか?」
 桓堆は言葉を途切ると、浩瀚を抱く腕の力をほんの少しだけ緩めた。冷たい
石の床に膝を突いたまま、自分に正対した男の窶れた頬を両の掌で優しく挟み
泣き腫らした淡い茶色の双眸をじっと覗き込む。
「──覚悟があるか、だと……?」
 見つめた瞳が漣を立てる様に揺れ、紺碧を湛えた桓堆のそれを強く見返す。
「私を誰だと思っている?──この先、主上を翼亮し、百官凡てを束ねる重職
に就かんとする身と知った上で訊いているのか?」
 その威厳に満ちた視線と声音に暫し圧倒されたかの様に瞠目していた桓堆は
不意に小さく苦笑した。
「桓堆……?」
「──やっぱり俺は、きっと一生、貴方には敵わないんだろうな……」
 ぽつりと呟き浩瀚の頬から手を離すと、桓堆は腰に帯びた太刀を、鞘からゆ
っくりと中程まで抜いた。未だ新しい剣の刃先が、濡窓から差し込む遅い午後
の陽光を反射し、眩しい程に煌めく。

408「夕陰」8/11:2008/08/12(火) 21:31:09
「桓堆?一体何を──」
 不審げに首を傾げた浩瀚の眼前で左手の薬指を刃先に軽く当てると、そのま
ま刃の上を撫でる様に指先をすうっと滑らせた。
「か、桓堆っ……!?」
 鋭い刃上を滑らかに辿った桓堆の指は、当然の事乍らすっぱりと切れており
浩瀚が慌てふためきつつ見ている間にも、その傷口から鮮血を溢れさせた。
「……少しばかり、深く切り過ぎたかなぁ?」
 僅かに眉根を寄せながら苦笑混じりで独りごちる桓堆に、浩瀚は訳が解らな
いと云った様子で思わず縋り付いた。
「お前っ、何を暢気に言っている!?どうしていきなりそんな傷を──」
「浩瀚さま……少しの間、上を向いて頂けますか」
 言うなり、浩瀚の細い頤に右手を添えて軽く仰向かせる。混乱しつつも大人
しく言われた事に従う浩瀚に優しく微笑むと、桓堆は紅く染まった指先で愛し
い相手の唇にそっと触れた。
「!!──か……」
 浩瀚の淡茶の双眸が、驚きに大きく見開かれる。咄嗟に後退りし掛けた線の
細い肩を空いた右手で捕え、それ以上逃げられない様に強く掴んだ。
「──んっ……桓た、い……」
 痛い、と視線で訴える浩瀚に構わず、桓堆は血濡れた指先で薄い唇の輪郭を
緩やかに数回なぞった。元々色素が薄めの口唇は、滲み出る血液によって本物
の紅を塗られたかの如く鮮やかに、且つ艶かしく彩られていく。
「口を開けて下さい、浩瀚さま……」
 不意に請われ、素直に従いつつも、浩瀚は困惑気味に尋ねる。
「桓堆、これは一体……何故、こんな事を──?」
 しかし、凡てを言い終わる前に口腔に桓堆の長い指が差し入れられ、浩瀚は
異物感と同時に口中に広がった血の味と臭いに驚愕し、酷く狼狽えた。
「ぅ──……んっ……」

409「夕陰」9/11:2008/08/12(火) 21:32:12
 小さく拒絶の喘ぎを漏らした浩瀚を宥める様に、桓堆は右腕をその痩せた背
中に廻し、優しく撫でながら囁いた。
「……これは貴方が俺のものになった証しと、この先一生、お傍を離れないと
云う誓いです」
 麒麟の契約みたいなものですよと言い足し、血の滲む指先を浩瀚の舌の上に
優しく擦り付ける。少量ずつ、しかし確実に浩瀚の口内を侵していく桓堆の鮮
血は、当初違和感を覚えた鼻腔に籠る鉄錆の様な臭気に慣れてしまうと、温か
な海水にも似て不思議と気持ちが落ち着く。軽く眼を伏せ、こくりと喉を鳴ら
して飲み込むと、口腔から名残惜しげに長い指が引き抜かれた。
「……私の血は、要らないのか?」
 初めての感覚にぼうっとしたまま浩瀚が尋ねると、桓堆は微笑って頷く。
「貴方の血なら、疾うに頂戴しましたよ……」
 そう言って、浩瀚の左の眦にそっと触れた。其処に残る小さな傷痕をいとお
しむ様に、この上も無く優しい手付きで。
「桓堆……」
 ──そうだ、この傷が凡ての始まりだったのだ……。
 浩瀚がうっとりとそう思い返していると、不意に抱きかかえられる様にして
その場に立ち上がらされた。再び開いた身長差の為、首を反らして桓堆の顔を
見上げれば、険しいほど真剣な眼差しで見つめ返される。
「──桓堆……?」
「浩瀚さま、一緒に尭天へ行きましょう。──俺はもう、一時たりとも貴方と
離れていたくないんです……」
 情熱的な懇願に微笑んで頷くと、精悍な顔が近付き、そっと口付けられた。
最初は軽く触れるだけ、次は唇に残った血を舐め取る様に舌を使われ、上下の
唇を交互に吸われつつ甘噛みされた。
 徐々に深くなる接吻に溺れていく浩瀚の耳に、長い間待ち焦がれた言葉がゆ
っくりと流れ込んで来る。

410「夕陰」10/11:2008/08/12(火) 21:33:15
「浩瀚さま……俺は、この世の誰より貴方を──貴方だけを、愛しています」
 まるで、永久の封印を解く為の秘密の呪文の様だ──浩瀚は、愛しい男の皮
甲に包まれた逞しい背中に腕を廻しながら、ふとそう思った。

 一行が尭天に向かい出立する頃、周囲の風景はすっかり夕影の朱い色に染ま
っていた。
「綺麗な夕焼けですね……」
 浩瀚を前に乗せ、上空に向かって己の騎獣を駆け出させつつ桓堆が呟く。
「ああ、そうだな……」
 その言葉に頷きながら、こんな風に穏やかな気持ちで夕景を見るのも、実は
随分久し振りなのだと云う事に、浩瀚は今更の様に気付いた。
「……以前、何度か青海に沈む夕日を一緒に見た事があったな」
 ふと思い出し呟くと、背後の男が微笑みながら頷く気配を感じた。
「雲海や内海の日没も良いですが、虚海に沈む夕日と云うのも、また格別なも
のですよ」
 桓堆の発した意外な言葉に、浩瀚は驚きを隠さず尋ねる。
「ほう……桓堆、虚海の日没を見た事があるのか?」
「ええ。餓鬼の頃、家の商売の手伝いで範に行った時に一度だけ……彼の国は
世界の最西に位置しますから、日の入りの時刻が遅くて黄昏時も長いんです。
日没間際は空も海も、見える凡てのものが夕日の真っ赤な色に染まって、それ
は綺麗でしたよ」
 懐かしそうに話す桓堆の笑顔を振り返り、浩瀚も釣られる様に微笑んだ。
「そうか……私も一度、実際に見てみたいものだな──」
「行きましょう、浩瀚さま」
「……えっ……?」
 思い掛けない提案にきょとんと瞠目すると、桓堆が目許を和ませつつ、顔を
覗き込んで来た。
「行きましょう。──いつか二人で、虚海に沈む夕日を眺めに……」
「桓堆──……」

411「夕陰」11/11:2008/08/12(火) 21:34:32
 浩瀚は静かに思い描く。──この世の最西端の岬から、無限に拡がる海原の
彼方へと沈んで行く美しい夕日をこの男と一緒に見る事が出来たら、どんなに
幸せだろうか……。
「ああ、行こう……いつか、必ず」
 約束だ、と言いつつ手綱を握る大きな手に自分の手指を絡ませた浩瀚の耳に
桓堆の深い響きの声が再び届いた。
「──浩瀚さま。今からですと尭天に着くのは深夜になりますから、いまの内
に少しでも眠っておいて下さい」
「私なら別段、眠くは無いが……?」
 不意の言葉に軽く訝りつつ尋ねた浩瀚を見下ろし、桓堆は意味深に続ける。
「明日は早朝から主上に拝謁して頂く予定です。幾ら仙とは云え、寝不足のま
ま御前に上がる訳にはいかないでしょう?」
 そして、未だ真意を掴めずにいる様子の浩瀚の耳許に、そっと囁いた。
「……やっと貴方を手に入れる事が出来たんですからね。今夜は一睡もさせま
せんから、そのつもりで──」
 言いざま、その頬に素早く口付ける。
「かっ……桓堆っ──!?」
 突然の行為に焦って左右を見回す浩瀚に──周囲には桓堆の随従達の騎影も
見えているのだ──半獣の男は微笑って嘯いた。
「──さあ、お分かりになったら早く休んで下さい。貴方の身体は、俺がちゃ
んと支えていますから……」
 そう言って浩瀚の細い腰に腕を廻し、自分の胸に凭れさせる様、そっと引き
寄せた。世界中で一番安らげる場所にその身を預けた事で、強張っていた浩瀚
の全身は忽ち弛緩し、同時にふわりと優しい睡魔が訪れる。
「……分かった。では、少しだけ眠るとしよう……」
 燃える様な夕景を脳裏に刻みつつ徐々に瞼を閉じていく浩瀚の耳に、お休み
なさいと囁く優しい声と、甘い口付けが贈られた。

 〈了〉

  *   *   *

↓以下おまけ(エロ入れたらムダに長い話に…orz)

412「夕陰 〜蛇足〜」1/8:2008/08/12(火) 21:35:44
 浩瀚は寝台に俯せになり枕に顎を乗せたまま、仄かに揺れる灯火の明かりを
ぼんやりと見つめていた。

 夜半に到着した金波宮で王に復朝の挨拶を済ませると、遠路の登城を労われ
後は明日で良いから、と早々に掌客殿の一室へ下がらされた。主のさっぱりと
した為人に好感を抱きつつ正殿を辞去し、一人には些か広過ぎる室内で茶杯を
手に一息吐いていると、其処に皮甲を外し朝服へと着替えた桓堆が訪れた。
 良く抜け出して来られたな、と言い終わらぬ内に唇を塞がれ、あっと云う間
に臥室へと運ばれてしまい──その後は推して知るべし、である。

「……うっ……」
 紗幕が覆う小さな焔を見つめていた浩瀚の脳裏に先程までの光景が蘇り、思
わず赤面してしまう。桓堆の事は勿論好きだし二度と離れたくないが、やはり
同性との行為には未だ抵抗がある。いつ何処で覚えたのか、随分と慣れた様子
の桓堆にいとも容易く翻弄されてしまう事も恥ずかしい。しかし何より、余り
の快感に思わず我を忘れてしまう自分自身が、羞恥の最大の要因だった。
「──浩瀚さま、どうぞ。水です」
 優しく呼ばれた声に振り向くと、夜着を纏った桓堆が水差しと盃を手に枕許
に立っていた。
「ああ、すまない──」
 盃を受け取ろうと衾褥から出した己の腕を見た途端、浩瀚は思わず眼を瞠っ
た。日焼けしていない細い腕の内側には、それこそ手首まで無数の紅い印が刻
まれている。先程まで灯火を消していた所為で、全く気付かなかったのだ。
「浩瀚さま、どうなさいました?」
「……いや、何でもない……」
 涼しい顔で尋ねる桓堆に動揺を覚られない様、態と無愛想に玻璃の盃を受け
取る。ここで下手に騒げば、調子に乗った桓堆がこれ以上の行為に及んで来る
であろう事は、既に身をもって学習済みだった。

413「夕陰 〜蛇足〜」2/8:2008/08/12(火) 21:36:43
 久し振りに再会し、互いの気持ちを確かめ合った後と云う事もあり、もっと
長く触れ合っていたいとも思うのだが、如何せん体力が続かない。お蔭で桓堆
には悪いと思いつつも、こうして一息吐かせて貰っているのだった。
 かと云って、ただ黙って伸びているのも申し訳無いので、浩瀚はふと気にな
っていた事を尋ねてみた。
「──桓堆、訊きたい事があるんだが……」
「はい、何でしょう?」
 寝台の上に立て膝で坐り、手酌で注いだ酒杯を口許に運びつつ、桓堆が微笑
んで返す。
「……もし、私が主上からの召還に応じなかったら、お前はこの先どうするつ
もりだったんだ?」
 その問い掛けに、桓堆の手の動きが礑と止まった。
「桓堆──?」
「……笑わずに、聞いて下さいますか?」
 不意に真剣な光を帯びた紺碧の瞳を見つめ、浩瀚は無言で頷く。
「……貴方が主上に失望して、この国に生きる価値を見出せなくなってしまっ
ていたら、その時には俺が貴方を連れて、何処か他国へ逃げようかと……」
「──えっ……?」
 思いがけない言葉に、空の盃を落としそうになる。桓堆はそれを取り上げつ
つ、小さく笑って続けた。
「──ああ、貴方はもう追われる立場ではありませんから、逃げると云う言い
方は正しくないですが……でも先刻、貴方が正式に復朝の意思を主上に告げら
れるまでは、結構本気で考えていたんですよ」
 そう言って、自分の盃の底に残っていた酒を一息に呷る。彼にしては珍しく
かなり照れている様だった。
「そうだったのか……しかし国を出るとは、また思い切った事を考えたな」
 妙に感心した様子の浩瀚に、広い肩を竦めて答える。
「これでも結構悩んだんですよ。具体的な計画も立てましたし……」

414「夕陰 〜蛇足〜」3/8:2008/08/12(火) 21:37:47
 浩瀚が聞かせて欲しいと請えば、照れ臭そうに笑いつつ、ささやかな逃避行
の計画を明かした。
「──最初は、雁か奏辺りで地方の官職にでも就ければ良いと思っていたんで
す。やはり安定している国の方が暮らし易いし、俺は軍人の経験しか無い半獣
ですから、就ける職種も限られますしね……でも、もし貴方の方が宮仕えに厭
いているのなら別段、役人に拘る必要も無いなと思いまして……」
 桓堆は其処で一旦言葉を切ると、衾褥にくるまったまま興味深げに話を聞い
ている浩瀚の髪を優しく撫で梳いた。濃茶の髪は柔らかく、結った後はいつも
緩く巻いた様な癖が付いてしまう。浩瀚は以前からそんな自分の髪質を女性の
様で嫌だと気にしていたが、桓堆はその柔らかな手触りが気に入っていて、無
意識に髪を撫でて来るのだった。
「それで……何をしようと思っていたんだ?」
 繰り返される優しい愛撫にうっとりと潤んだ瞳で浩瀚が問うと、桓堆は絹糸
の様な毛先に恭しく口付けてから、苦笑混じりに続けた。
「ええと、その──私塾でも開こうかと……」
「私塾──?」
 僅かに驚いた様子の浩瀚を見遣って、恥ずかしそうに前髪──自分の真っ直
ぐで硬い青灰色の──を掻き上げる。
「はい。何処の国でも官吏志望の若者は多いですし、俺と貴方で一緒に出来そ
うな事と云ったら、それくらいかと……」
 開くとすれば、大学を目指す者の為の少塾か、松塾の様な義塾。学問や思想
は浩瀚に任せ、弓射や馬術、礼典等の実技は自分が教えれば良い。慶国の元州
侯と州師将軍と云う触れ込みがあれば、生徒はそこそこ集まる筈だ──桓堆が
ぽつりぽつりと語る内に、浩瀚の瞳は徐々に見開かれていく。
「……可笑しかったら、いっそ笑って下さって構いませんよ。その方が気楽に
なれますから」
 先刻は笑うなと言った癖に、やはり突飛な計画だと恥じているらしい桓堆が
赤面しつつぼそりと呟いた。

415「夕陰 〜蛇足〜」4/8:2008/08/12(火) 21:38:53
「どうして?──良い計画ではないか」
「……そうですか?」
 訝しげな表情で見下ろす桓堆に、浩瀚は眼を輝かせて頷いた。
「ああ。──もし、もっと早くこの話を聞いていたら、気が変わっていたかも
知れない」
「ええっ!?──もしそんな事になったら、主上に顔向け出来ませんよ……」
 黙っていて良かった、と心底安堵した様に溜息を吐いた桓堆に、俯せたまま
くすりと微笑む。
「そうか?……でも私としては少塾や義塾より、もっと気楽なものが良いな。
例えば序学や、雁国の庠序の様な……」
 上の学校を目指す為のものでは無いそれらには、街の老若男女が集まる。其
処で彼等に読み書きを教えたり、のんびりと世間話をして過ごすのも悪くない
様に浩瀚には思えた。子供好きな桓堆に簡単な剣術や体術を教えて貰えれば、
きっと人気が出るだろう──そこまで考えた途端、瞼の裏が熱くなった。
「──っ……!」
 浩瀚は徐に衾褥の中から上体を起こし、桓堆の肩口にそっと額を当てた。
「浩瀚さま……?」
 不思議そうに顔を覗き込みつつ、それでも優しく髪を撫でてくれる掌の温か
さに、涙が零れそうになる。
 仕官せず市井に下るとは、即ち不老の仙から寿命のある人に戻る事を意味す
る。折角手にした幸福な時間にも、数十年後には確実に終わりが訪れる──そ
れは、つまり目の前の男が死んでしまうと云う事なのだ。
「……私は、最低だな」
 ぽつりと呟くと、桓堆が困惑の色を濃くする気配が薄い夜着を通して伝わっ
て来た。
「どうなさったんですか?急に──」
「私には、お前より大事なものなど無いのに、結局いつも私の身勝手でお前を
振り回してばかりいるではないか。お前には幸せになって欲しいのに……私は
つくづく、こんな自分が嫌に──……」

416「夕陰 〜蛇足〜」5/8:2008/08/12(火) 21:40:03
 突如、息が止まるかと思うほど強く抱き締められた。
「かっ……桓堆、くるし──」
「……今度そんな卑屈な態度をとったら、容赦無く殴り倒しますよ」
 低く獰猛な響きの声からは、桓堆が本気で怒っているのだと痛いほど感じら
れ、それと同時に、この男の身体に流れる血の半分が確かに獣のものであると
云う事を、浩瀚は今更乍ら強く思い出させられた。
「……すまない……」
 掠れる声で呟くと、きつかった抱擁は直ぐに緩められた。桓堆は腕の中の細
い身体を再度、優しく抱き締め直す。
「俺は貴方が好きだから、いま此処に居るんです。これは俺自身が決めた事で
例え貴方にも口を挟む権利は無い。それに……」
 抱き締めたままの浩瀚を、その場にゆっくりと押し倒していく。
「──俺の幸せは、何処で何をしているかなんて関係無い。ただ、貴方と一緒
に居られる事だけなんですよ……」
「桓た──……」
 それ以上話すことを禁じる様に、発し掛けた言葉を甘い口付けで封じられ、
浩瀚は瞬く間に快楽の渦の中に飲み込まれてしまった。

 全身のあらゆる所に優しく、強く口付けられる。それと同時に、器用な指先
に感じやすい箇所を次々と暴き出された。それは一旦冷静さを取り戻していた
身体に再び官能の炎が灯っていく過程を一つずつ教え込まれる様で、浩瀚は思
わず頬が熱く火照るのを感じた。
「ぁ……桓堆……っ」
 伸し掛かっている男の素肌にどうしても触れたくなり、浩瀚は桓堆の纏った
夜着の帯を覚束無い手付きで解いた。上質の絹地が擦れ合う音と共に、桓堆の
浅黒く引き締まった素肌が灯火の明かりに照らされ、露になる。
 無意識にほうっと溜息を吐いた浩瀚は、しかし直ぐに僅かに残されていた理
性を取り戻し、慌てて懇願した。

417「夕陰 〜蛇足〜」6/8:2008/08/12(火) 21:41:04
「か、桓堆……頼むから明かりは──」
「解っていますよ。消すんでしょう?」
 頭上で微かに笑う気配がしたかと思うと、直ぐに牀榻の中が闇に包まれる。
桓堆が枕許に置かれた灯火を吹き消したのだった。
 その事に、ほっと安堵し瞼を閉じた浩瀚の唇が、再度優しく塞がれていく。
舌を絡め取られ、口腔内をくまなく舐め尽くされて、あまりの快感に思わず声
高に喘ぎつつ眼を開けると、月光の射し込む牀榻の中、青白く光る一対の瞳が
静かに自分を見下ろしていた。
「……桓堆?……お前、眼が──」
 思わず、びくりと身を硬くする。先刻も暗い中で抱かれたが、何度も達かさ
れ泣かされている間、浩瀚は満足に眼を開けている事すら出来無かったのだ。
「──ああ、御存じありませんでしたか?半獣には夜目の利く者が多いですか
らね。暗い所では、こうして光るんですよ」
 言葉の途中で幾度か瞬きをした為、確かにそれが桓堆の瞳なのだと分かる。
明るい所では深い紺色の双眸が、今はまるで月光そのものの如く冴えた光を放
っている。浩瀚は初めて間近にする不思議で美しい光景に、暫し息を潜めて見
入った──と、不意にある事実に気付く。
「……桓堆。お前、いま“半獣は夜目が利く”と言ったな」
「はあ……それが何か?」
 僅かに訝る様子の双眸目掛けて、手元の枕を力一杯叩き付けた。
「うわっ!?……浩瀚さま、いきなり何を──」
「この大嘘吐きめ!!──お前、確かこの前は暗くて見えないとか何とか言って
無理矢理明るい中で私を……!」
 そう喚きつつ腕の中で暴れる浩瀚を、桓堆は苦笑しつつ優しく抱き込んだ。
「嘘じゃありませんよ……幾ら夜目が利くと言っても、光源が何も無ければ所
詮は人並みですからね。あの夜は雨が降っていましたから、明かりが無ければ
本当に何も見えなかったんです」
 それでもなお不審げな浩瀚の下肢に、突如するりと長い指を絡ませた。

418「夕陰 〜蛇足〜」7/8:2008/08/12(火) 21:42:08
「──か、桓堆!?……あぁっ!」
 突然の直接的な刺激に、浩瀚は一切の抵抗を封じられてしまう。先程まで、
散々達していた筈なのに、指先の動きだけで其処は再び簡単に息衝いていた。
桓堆はその様子を満足げに見下ろすと、枕許から色切子の小瓶を取り出し、す
っかり慣れた手付きで蓋を外した。その途端、百合の花に似た芳香が牀榻内に
満ち、浩瀚は先刻も嗅いだ妖艶な香りに、知らず全身が熱く猛るのを感じた。
 桓堆が用意していたその舜国産の香油は、古来各国の後宮や高級娼館で愛用
されてきたと云う秘蔵の品で、潤滑と感覚を高める作用があるものだった。浩
瀚は当初、女性の使う物なんてと渋ったが、実際に使ってみると最初の時に覚
えた僅かな苦痛すら微塵も感じられず、それでいて鋭敏になった局部の感覚が
堪らなく心地好い。お蔭で、未だ経験不足の身体に散々無理を強いてしまった
のだった。
「──良いですか?浩瀚さま……」
 蟀谷に口付けながら、桓堆が尋ねてくる──もう入っても構わないか、と。
「触って、いれば……分かる、だろう……っ?」
 たっぷりと香油を塗り込められ柔らかく解された其処は、既に桓堆を欲して
微かな痙攣を繰り返している。桓堆は光る瞳で一瞬、余裕の無い笑顔を零して
から、一気に最奥まで押し入った。
「──ぁあああっ……!」
 思わず、切ない喘ぎが漏れる。感じる箇所を擦られている快感も勿論あるが
何より、好きな相手と繋がっていると云う事実がこれ以上無いほど嬉しい。瞼
を閉じたまま口許を笑みの形にすると、頭上からも微かに笑う気配がした。
「珍しいですね、貴方がこんな時に笑うなんて……」
 そう言われ、優しく身体を揺すられる。浩瀚はその甘い刺激に、軽い目眩を
覚えつつ桓堆の首に腕を廻して縋り付いた。
「ああ……今、凄く幸せだな、と思って──」
 そう囁いた直後、体積を増した桓堆に激しく突き上げられた。
「──ん、やっ……あぁっ!」

419「夕陰 〜蛇足〜」8/8:2008/08/12(火) 21:44:28
 快感に潤む眼を僅かに見開くと、直ぐ目の前に月色を反射して光る、ほんの
少し眇められた瞳があり、浩瀚はまるで魅入られた様に動けなくなった。
「──これからは毎日、そう感じさせて差し上げますよ……この俺がね」
 そう囁かれ貪る様に口付けられる。同時に桓堆の身体の動きが速くなった。
「ぁあっ、……ん、っう……ああぁっ──!」
 一息に絶頂まで追い立てられる。弾ける様な吐精の瞬間、浩瀚は瞼の奥に、
おそらく訪れる事の無い未来の幻を見た気がした。

 ゆるゆると瞼を持ち上げると、目の前には少し心配そうな桓堆の貌があり、
浩瀚は見守られていた事に心底安堵して、柔らかく微笑んだ。
 丁度、月明かりが牀榻の中に真っ直ぐ射し込み、灯火が無くとも桓堆の表情
が分かる。青白い双眸が月光を反射し、きらりと煌めいた。
「……綺麗な瞳だ……」
 そう囁いて精悍な頬に触れると、桓堆がふわりと目許を和ませ呟いた。
「……二度目ですね」
「──え?」
「貴方が俺の眼を綺麗だと誉めて下さるのは、これで二度目なんですよ……最
初はいつだったか、憶えておいでですか?」
 浩瀚は暫く考えてみたが、どうしても思い出せなかった。
「すまない……」
 素直に謝ると、笑いながら優しく抱き締められる。
「謝らなくて良いんですよ。俺だけが憶えていればいい事なんですから……」
「だが、私も知りたい。──その時の自分の気持ちを、思い出したいんだ」
 自分を見つめる真摯な眼差しに、桓堆も静かに答えた。
「……長い話ですが、構いませんか?」
 浩瀚は無言で頷く。夜明けまで、時間はまだ充分に残されていた。

 〈了〉

  *   *   *

つー訳で、次回はクマの思い出話です
桓浩なんて超マイナーカプ誰も読みたくないだろうとは思いますが
もう少々書き手のシュミにお付き合い頂ければ幸いに存じます…

420桓タイ→浩瀚「青眼 〜前〜」1/12:2008/08/22(金) 18:46:11
「白水仙」(>>35-52)から更に二年程遡る桓浩ファーストエピ
(所謂「いいヤツ」になる以前のクマが天然上司に恋慕する迄の経緯)
※「桓堆」に借字&オリキャラ登場

  *   *   *

 ──つまらんな……。
 手燭の小さな灯りが揺れる寝台の上でゆっくりと動いていた桓堆は、心中で
そう独りごちると、眼下で有られも無く喘いでいる女の躰から突如、屹立した
ままの自身をずるりと引き抜いた。
「──あぁんっ……」
 途端、切なげな嬌声を上げて縋り付こうとする女の腕を煩そうに振り払い、
緩慢な動作で寝台から降り立つと、脱いだ時のまま榻の背に掛けられていた己
の衣服に手を伸ばす。背後で、困惑気味に起き上がる女の気配がした。
「──ちょっと、どうしたの?桓堆……まだ来たばかりじゃない」
 明らかに不満そうな響きの問い掛けにも振り返らず、袍子の袖にその逞しく
引き締まった腕を通しながら、抑揚の乏しい声で答えた。
「そろそろ、門衛の交代時刻なんだ。悪いな」
 その、微塵も心の込もっていない科白に一瞬鼻白んだ女は、憤懣遣る方無し
と云った様子で室外まで届きそうな声を上げた。
「なっ、何よ!──久し振りにあんたが来るって云うから、先約のお客だって
無理言って断ったのに、あんまりじゃない……!」
 女が喚いている間にすっかり身支度を終えてしまった桓堆は、薄暗い房間を
出て行きしな、未だ寝台の上で茫然としている彼女をちらりと振り返った。
「他の客を断ったのはお前の勝手だろう、李娃。──金なら先に時間分きっち
り払ってあるんだから、途中で帰ろうが何をしようが、一々文句を言われる筋
合いは無いぞ」
 それが嫌なら次から俺の相手はしない事だ、と言い置き扉に手を掛ける。閉
扉する間際「もう、桓堆の莫迦っ!」と叫ぶ声が彼の広い背中を打った。

421「青眼 〜前〜」2/12:2008/08/22(金) 18:47:48
「──これはこれは、お早いお戻りで。青伍長殿」
 一階の飯堂に戻ると、同僚の黎阮が酒杯を片手に笑って出迎えた。桓堆は無
言でその手から盃を奪うと、一気に中身を干した。安物の酒は水の様に薄くて
味気無く、少しも飲んだ気にならない。
「……不味い」
 あからさまに顔を顰めて文句を言えば、皮肉めいた笑みで返された。
「仕方無いだろう。俺達の雀の涙程度の俸給じゃ、三十年物の老酒なんて所詮
夢のまた夢なんだからな」
 そう言って桓堆の手から空の盃を奪い返した男の髪は闇夜の漆黒。褐色の肌
にやや吊り上がった山吹色の瞳子が印象的だ。体格はがっしりとした長身で、
向かいの席に坐った桓堆と比べても決して引けを取らない。そして彼もまた、
眼前の男と同じ半獣だった。
「……ふん、確かにその通りだな。──まあいい、行くぞ」
 桓堆はそう言うと、椅子から立ち上がり脇目も振らずに店を出て行く。黎阮
はその姿を眼で追い、微かに嘆息すると、黙って無愛想な同輩に従った。

 春宵の花街は人出が多く賑やかだ。広途の左右を鮮やかな翠に彩色された柱
の大廈高楼が埋め尽くすこの界隈は、麦州州都の中でも有名な歓楽街となって
いた。青楼街と云っても一種独特の退廃的な雰囲気はまったくと言って良い程
無くて、むしろ明るく、何処か上品な趣さえ感じられる。他国や他州から初め
てこの麦州にやって来た人々は一様にこの光景に驚き、それを見て誇らしげに
笑う地元の住民達に教えられるのだ──この永く続く空位の時代にあっても、
麦州がこれほどまでに栄え住み良い地であり続けているのは、凡て州侯である
浩瀚さまのお蔭なんだ、と。

「おい桓堆──お前、李娃と喧嘩でもしたのか?」
 速足で人混みを擦り抜けながら歩く桓堆に少し遅れて追い付いた黎阮は、僚
友に肩を並べざま尋ねた。

422「青眼 〜前〜」3/12:2008/08/22(金) 18:49:04
「いや、別に……」
 どうして急にそんな事を訊くんだと眼で訴えた桓堆に、黎阮は揶揄混じりの
口調で続ける。
「先刻お前が登楼してから、まだ半刻も経ってないだろう。幾らお前が早漏で
も、流石に早過ぎるんじゃないかと思ってな。──彼奴と何かあったのか」
 その言葉に桓堆は礑と歩みを止めると、隣の男を濃紺の三白眼でぎろりと睨
め付けた。
「誰が早漏だと?……今夜はただ、そう云う気分にならなかっただけだ」
 そう呟いて再び足早に歩き出す。行先は州都の東南に位置する辰門だ。彼等
はこれから、其処で明朝まで門卒の任務に就くのである。
 桓堆も黎阮も、麦州師左軍で半獣の兵卒のみによって構成された両伍の伍長
を務めている。半獣はその性質上、兵士に適した者が多い為、時に軍内部では
重宝がられる存在だが、例えどれほど手柄を立てようと、決して栄達出来無い
旨が慶の国法に明文化されている所為で、熱意に満ちてその任に当たる者は殆
ど居なかった。
 斯く云う彼等もその例に漏れず、軍規に触れない範囲で適度に手を抜きつつ
日々を過ごしていると云うのが現状だった。今日とて、本来ならば一度兵舎に
戻り、身支度を整えてから門に向かわなければならないところを、彼等は部下
に命じて皮甲や戈戟を直接、辰門まで運ばせていた。そのお蔭で、任務の直前
まで悠長に妓楼で遊んでいられたのだ。
 尤も、登楼したところで花娘を買うのは専ら桓堆のみで、黎阮の方は一人、
美味くも無い酒を飲みつつ時間を潰していると云うのが常であった。彼に言わ
せれば「ぎゃあぎゃあ五月蝿い女などより、酒壺を抱いて眠る方が余程幸せ」
なのだそうだ。
 この少々変わった同輩を、桓堆は割合気に入っていた。歳が近い事や、州師
に配属されたのがほぼ同時期だと云う事もあったが、何より黎阮が自分に近い
存在なのだと実感する瞬間が多々あるからだった。また彼が時折見せる、微か
な諦観を滲ませた眼差しや自嘲混じりの笑みも、桓堆にとっては覚えのある、
馴染み深いものだった。

423「青眼 〜前〜」4/12:2008/08/22(金) 18:50:51
「──明後日の穀物輸送の件、その後どうなってる?」
 辰門の歩牆から宵の幄に包まれた街道を見下ろしつつ、黎阮が尋ねる。門卒
の交代を済ませ、部下達を各々の持ち場に配置すると、彼等は楼閣の最上階に
上がって見張りを開始した。玉座が空の時期にあって、夜間の門衛は妖魔の襲
来から街と人々を守る重要且つ過酷な任務だが、ここ半年ほど、不思議と妖魔
の出現回数自体が、僅か乍ら減少して来ている様だった。
 そんな中、彼等の両伍は、郊外の義倉に穀物を補充する傍ら視察に赴く州侯
一行に、警護の為同行する事が決まっていた。
「……ああ、それなら万事予定通りだ。俺達の役目はいつもと変わらず斥候と
索敵、それから最後衛での妖魔避け……」
 槍を持ったまま、大きく伸びをしながら桓堆が答える。このところ連日の様
に夜遊びを続けていた所為か、幾分身体が重い。明後日の護衛の事もあるし、
この任が明けたら久し振りに兵舎に戻って、少し眠っておいた方が良いかも知
れないな、とぼんやり思った。
「……ふん、一番危険な任務は、俺達半獣に押し付けておけばいいって訳か。
まったく毎度の事乍ら、上の奴等の考えは有り難くって反吐が出るな」
 箭楼の床に戟の石突を強く打ち付け、忌々しげに黎阮が吐き捨てる。
「──しかし、麦侯もつくづく物好きな方だな。選りに選ってこんな時期に、
わざわざ危ない処へ進んで出て行かなくても良いだろうに……」
 黎阮が「麦侯」と云う敬称を口にした途端、再度伸びをしていた桓堆の動き
がぴたりと止まった。
「──ん?どうかしたのか」
「……いや。何でもない……」
 訝る同僚に視線を合わせず答える。門前に広がるとろりと湿り気を含んだ晩
春の宵闇を見遣りつつ、彼の脳裏にはつい数日前の出来事が蘇っていた。
 州侯及び荷駄の護衛の任務を拝命する為、珍しく訪れた州城で、彼は麦州侯
浩瀚その人に出会ったのである。

424「青眼 〜前〜」5/12:2008/08/22(金) 18:52:25
 桓堆は勿論、麦侯と一対一で会うのも初めてなら、言葉を交わすのも初めて
だったが、驚いた事に主の方は彼の存在を知っていた。
 訊けば、州師の演習を時々こっそりと覗き見ているのだと言う。この大変な
時期に随分と暢気な御仁だな、と一瞬呆れた桓堆は、直ぐにその解釈が間違っ
ていた事に気付いた。
 彼は自ら見極めているのだ──この乱世に於いても、軍の規律がきちんと守
られ、統制がとれているか。桓堆達の様な末端の兵卒が、不当な扱いを受けて
いないかどうかを。
 更に桓堆は、別れ際に麦侯から掛けられたある一言を、どうしても忘れる事
が出来ずにいた。
『辛い時も、笑ってみると案外道が拓けるものだぞ……』
 そう言って微笑んだ主の、柔和な顔が脳裏を過る。
 ──何故、侯は俺にあんな事を言ったんだ……?
「……堆……桓堆。おい、聞いているのか?」
 黎阮が訝しげに呼ぶ声で、ふと我に返った。
「──ああ、すまん。何だ?」
 二、三度軽く頭を振ってから、不審げに見つめる同輩を振り返る。黎阮は眉
間を狭め、微かに心配そうな表情を浮かべていた。
「なあ、本当に大丈夫か?先刻の事と云い、いつものお前らしくないぞ……ひ
ょっとして、この前登城した時に何か良くない事でも言われたのか?」
「──いや、そうじゃない。別に、大した事でもないんだが……」
 伊達に付き合いが長い訳では無いな、と桓堆は僚友の勘の鋭さに思わず苦笑
する。門の内外に幾つも焚かれた燎火の為、宵闇の中にあっても箭楼の周囲は
かなり明るく照らされている。その篝火の焔を反射し鬱金に光る同僚の瞳を見
返しつつ、桓堆は何気無く尋ねていた。
「──なあ、俺ってそんなに人相悪いか?」

425「青眼 〜前〜」6/12:2008/08/22(金) 18:54:08
 その問いに、黎阮が大仰に肩と顎を落とす姿が夜目にもはっきりと見える。
「はぁ?何を真剣に悩んでるかと思えば、手前の臉の造作の心配かよ……」
 勘弁してくれ、と呟いて夜空を仰ぐ同輩に、桓堆は慌てて言い足した。
「いや──その、別に女絡みじゃ無いぞ。飽くまで一般論として、だ」
 その言葉にちらりと桓堆を見遣ると、黎阮は「どうだかな」と呟き僅かに口
角を上げた。
「……お前は佳い男だよ。少なくとも、街の広途を歩いて擦れ違った女十人の
内、九人が振り返る程度にはな」
 まぁ俺の場合は十人全員が振り返るけどな、と付け加えた後で、つとその笑
みを収めた。
「ただ──お前の顔は、半分しか生きてない様な感じがする」
「……え……?」
 思わず問い返した桓堆を、科白の主はその金色に光る双眸で見つめた。
「時々、まるで疾うに人生に厭いちまった年寄りみたいに見えるんだよ……」
 これはお前だけじゃ無く俺達半獣に共通して言える事だがな、と微笑って呟
いた黎阮の表情もまた、生きていく事に倦みきった翳りを帯びて見え、桓堆は
不意に喉の奥から笑いの衝動が込み上げて来るのを感じた。
「……なるほど……」
 突如くつくつと笑い始めた同輩の姿に、黎阮は先程より数段怪訝そうな表情
を作り、尋ねる。
「──おい、何だよ。俺の言った事がそんなに可笑しかったのか?」
「いや、すまんすまん……違うんだ」
 中々収まらない笑いを、桓堆は何とか押し殺しつつ弁解した。
「……そうか、そう云う事だったのか……」
 ──報われない人生を悲観しているらしい哀れな半獣に、御立派な州侯さま
が有り難いお情けを掛けて下さったと云う訳だ……。
 遂に思い至った結論を前に、桓堆の笑みは瞬く間に乾ききった苦いものへと
変わっていった。

426「青眼 〜前〜」7/12:2008/08/22(金) 18:55:21
 翌朝、辰門の警備を次の両伍に引き継ぐと、翌日に備えて冬器や皮甲の準備
をする為、州師の武庫へ行くと言う黎阮達に後を任せ、桓堆は一足先に兵舎へ
と戻った。
 実際に体調が思わしく無かった所為もあるが、それ以上に酷く苛ついた気分
を、どうにも押さえきれなくなっていたのだ。
 ──どうして、いつまで経っても忘れられないんだ……。
 自室の狭く黴臭い臥牀に寝転がり、薄汚れた天井の染みを睨め付けながら自
問する。麦侯から哀れまれていたのだと知った時、彼が最初に抱いた感情は怒
りや悔しさでは無く、何故か激しい落胆だった。
 ──俺はあの方に、一体何を期待していたんだろう……?
 幾ら出来た人物だと言われていても、相手は自分の様な一介の半獣とは到底
分かり合える筈も無い高位の仙だ。何かを期待する方が間違っている──そう
思った時、桓堆の脳裏に再度、柔らかい笑顔と優しげな声音が蘇った。
『──笑う事も出来るのだな。良かった……』
 その途端、胸を突かれる様な激しい心悸に見舞われた桓堆は直後、己の身体
の変化に暫し茫然となった。
「──なっ……!?」
 あろう事か、ふと想像した麦侯の姿に下肢が反応してしまっていたのだ。
「……おい、冗談だろ……?」
 思わず低い呟きを零す。昨夜、妓楼で最後まで済ませておかなかった所為で
単に溜まっているだけかとも思ったが、彼自身麦侯の事を思い出すまで昨夜の
行いなど、すっかり念頭から消し去っていたのだ。
 明らかに主──同性で、しかも自分よりずっと年上の──相手に欲情してし
まった事実に愕然としつつ、桓堆は牀上に跳ね起きた。
 ──まったく俺って奴は、侯相手に何を考えてる……!?
 冷たい石の壁に凭れ、解いた青灰色の長髪を乱暴に掻き乱す。頭の中から麦
侯の姿を追い出そうと必死になったが、凡て徒労に終わってしまった。

427「青眼 〜前〜」8/12:2008/08/22(金) 18:56:35
 自分が同性も行為の対象に出来るらしい事を、桓堆は過去数回の男娼楼通い
で自覚していた。しかし、彼が相手に選ぶのは声変わりも満足に終えていない
様な少年ばかりだったし、幾ら男娼との躰の相性が良くても、やはり女を抱く
時の快楽に勝るものでは無かった。
 それなのに……と桓堆は忌々しげに吐息する。麦侯の撫で肩の線や細い喉頸
が瞼の裏にちらつく度、彼の欲望はその質量を増していく一方だった。
 ──女みたいに白い肌をしていたな……。
 あまり長時間、陽に当たった事も無いのだろう。殆ど日焼けしていない肌は
淡く滑らかで、きっちりと着込んだ朝服に包まれていてさえ、線の細さがはっ
きりと分かるほど痩せていた。
 書面の束を持つ指先も細く華奢で、筆や笏より重い物など陸に持った事も無
さそうだった──現に桓堆が手を貸していなければ、ほんの僅かな量の書面す
ら満足に運べなかったに違いない。
 しかし、最も印象的なのはその眼だった。
 ほんの少し目尻の下がった切れ長の一重瞼。その奥の淡茶色の瞳は大きく、
微笑むと長い睫毛の下で柔らかく潤んだ。
 ──そうだ、あの眼の所為で俺は……。
 自分に向かって微笑み掛ける優しげな瞳を見てしまってから、何かが少しず
つ狂い始めた様な気がする。
『何だ、ちゃんと笑えるではないか……』
 そう言って自分を見上げる主と視線が搗ち合った瞬間、その瞳から感じ取っ
たのは紛う事無き親愛の情だった筈なのに──。
「……くそ……っ!」
 桓堆は苦々しく吐き捨てると、半袴の前を寛げ自身を強く握り締めていた。
 ──この責任は、しっかり取って貰うからな……。
 年上の男だろうと、遥か雲上の主だろうと、今は一切がどうでも良かった。
桓堆にとって麦侯は、この瞬間、ただ己の感じる狂おしいまでの渇望を満たす
為の存在でしか無かったのだ。

428「青眼 〜前〜」9/12:2008/08/22(金) 18:57:52
 明けて翌早朝、桓堆は最悪の体調と機嫌のまま護衛の任務に赴いた。
 結局、昨日は黄昏時に同室の黎阮が戻って来るまで、麦侯相手の有らぬ妄想
を種に散々自慰行為を重ねてしまった。あんなに幾度も続けてした事など十代
の頃でも終ぞ無かった様な気がするが、主の細い指が自分のものにそっと絡ん
だり、薄い唇の隙間からちろりと出した桃色の舌先で淫らに舐め上げられたり
する情景を思い浮かべるだけで、達したばかりの自身は直ぐにその力を取り戻
した。挙げ句、自分の腕の中で有られも無く喘ぎ声を上げる主の姿までが鮮明
に浮かんでしまい、桓堆は自らの想像力の逞しさに思わず苦笑していた。
 しかし、それでも彼の鬱屈した思いは中々収まらず、心配する黎阮を無理矢
理引き摺って宵の街へ繰り出し、日付が変わる頃まで浴びる様に深酒をしてか
ら、漸く兵舎に戻って少しだけ眠る事が出来た。お蔭で無理に付き合わされた
黎阮の方も、寝不足と宿酔の為、相当に苛ついている様だった。
「……お前に何があったかなんて、正直どうでもいいし知りたくも無いがな、
もし今日、何か事が起こって俺がへまをやらかしたり、それが元で死んだりし
たら、全部お前の責任だからな。良く憶えておけよ」
 そう呟きつつ山吹色の瞳──昼間は瞳孔が三日月の様に細くなっている──
で睨んできた黎阮に、桓堆は思わず口許を歪めて微笑った。
「ああ、分かっているさ……その時は俺も一緒に死んでやるから安心しろ」
 その言葉にほんの僅か眉根を寄せた黎阮は、一瞬もの言いたげな視線を投げ
てから己の馬首を巡らせ、歩兵の部下達と斥候の任務に当たる為、一足先に出
発して行った。

 この日、近郊の郷城まで運ぶ荷駄は大型の駟──四頭立ての馬車──で五台
分。広い荷台に山と積まれた麻袋の中身は大量の米や大豆、雑穀類である。先
代の比王が登遐してから既に二十年以上続く空位の時代にあってなお、これだ
けの収穫を得る事が出来、且つ何とか持ち堪えられているのも、偏に麦侯の指
揮した治水事業や減税策が効を奏しているからに他ならない。

429「青眼 〜前〜」10/12:2008/08/22(金) 18:59:24
 桓堆が荷馬車の列を見廻っていると、急に周囲のざわめきが鎮まった。どう
やら州侯一行が姿を現したらしい。
 傍らの両司馬に倣って下馬し、その場に跪いて礼をとる。麦侯に同行するの
は州宰の柴望と州司徒ら地官の官吏が数名。彼等の直接の警護には、州師左将
軍以下の精鋭が当たる予定だと聞いていた。
「──皆、早朝から御苦労だ。今日は宜しく頼むぞ」
 不意に響いた低く落ち着いた声は、州宰の発したものだろうか。深く俯いて
いた所為で、桓堆には麦侯が何処に居るかまでは分からなかった。
 やがて準備が整い、駟の列が整然と進み始めた。先行した黎阮ら率いる二伍
が斥候と索敵──食料を運搬する際、最も警戒しなければならないのは妖魔よ
りも寧ろ土匪や草寇である為だ──を行い、残った三伍で荷駄列の周囲を警戒
する。桓堆は最後尾に位置し、背後からの敵襲に備えた。
 ゆっくりとした速度で進む馬上から前方を見遣れば、遥か先に麦侯らの姿が
見える。通常、貴人は華軒や墨車等の馬車や輿を使い移動するものだが、彼等
は道すがら、整地や水路の計画を実際の土地を検分しつつ相談する予定である
らしく、各々が自ら騎獣を駆っていた。
 麦侯が手綱を取っているのは珍しい葦毛の吉量で、雪の様に白い毛並みが騎
乗した主に良く似合っていると桓堆は思った。
 すると、まるで彼の思考を読んだかの様に、麦侯が後ろを振り返ったのだ。
「────!!」
 桓堆は慌てて顔を逸らしたが、一瞬視線が合ってしまった様な気がする。
 ──気付かれたか……?
 今日の護衛に半獣の両伍が当たる事は麦侯も既知の筈だから、隊列に桓堆の
姿があったところで何ら不思議は無いのだが、桓堆の方はどうにも気不味さが
拭えなかった。主に対する複雑な心境も勿論その理由の一つだが、何より昨日
彼相手の不埒な妄想に耽ってしまったばかりなのだ。

430「青眼 〜前〜」11/12:2008/08/22(金) 19:01:21
 そんな桓堆の動揺を他所に、隊列は郡境の山道を進んで行く。この峠は高低
差はさほど無いものの、樹木が濃く生い茂っている所為で見通しが効かない。
飛行する騎獣で空から警戒しようにも、木々の枝葉に阻まれ対象が認識出来無
い上、返って此方の存在を敵に知らせてしまいかねない。その為、相手の気配
や匂いを敏感に察知出来る半獣に頼るしか無いのだ。
 暫くすると、先行していた黎阮が合流して来た。
「どうだ、様子は」
 騎馬を並ばせつつ尋ねると、至ってつまらなそうな答えが返る。
「静かなもんだ──この先は伯頤達に任せてあるから、まず問題無いだろう」
 伯頤は黎阮の部下の狼半獣で、人の姿でいる時も五里先の相手の匂いを正確
に嗅ぎ分ける事が出来た。
「そうか。──このまま、何事も起こらなければいいんだがな……」
 ぽつりと呟いて空を見上げる。穏やかな季春の陽は、そろそろ中天に達しよ
うとしていた。
「もうすぐ峠の頂上だ。其処を過ぎれば下りになるから駟の速度も上がるし、
少しは楽になるだろうさ」
 桓堆が渡した竹筒の水を飲みつつ──酒じゃないのかよ、と不満げに零した
後で──黎阮が暢気に言った。
 それに無言で頷いてから桓堆は再度、視線を列の前方に向ける。縹色の位袍
を纏った姿勢の良い背中は、それまでにも何度と無く見ていた所為で直ぐにも
視界の中央に捉える事が出来た。
 ──何故、こんなにも気になってしまうんだろう……。
 隣に騎首を並べた州宰らと意見を交わしつつ進んでいるのだろう、時折見え
る細面の横顔が、頷いたり微笑んだりしている。結った髪を包み肩まで覆った
帛巾の端が、春の微風を受けてふわりと戦ぐのが見えた。
『──桓堆……』
 嘗て一度だけ字で呼ばれた時の、柔らかな響きの声音が忘れられない。その
声を思い返すだけで、桓堆の身体は瞬時に熱くなった。

431「青眼 〜前〜」12/12:2008/08/22(金) 19:03:09
 ──その時。突如として遥か前方から、馬の嘶きと人の叫び声が上がった。
桓堆と黎阮は弾かれた様に一瞬だけ視線を交わすと、勢い良く騎馬の横腹を蹴
り、宛ら篠箭の如くその場を駆け出した。
 途中、麦侯らを追い抜く際にほんの一瞬そちらを見遣ると、左将軍らに周囲
を護られつつも不安げな表情をした主と、今度は間違い無く眼が合った。彼が
しっかりと護衛されている事に安堵しつつ、馬の速度を上げる。
「──桓堆、彼処だ!」
 黎阮の鋭い呼び声に指差す方向を見れば、先頭の駟の内の二頭が狂った様に
竿立っている。二人の馭者は為す術無く狼狽えるばかりで、とても馬を抑える
どころでは無さそうだった。
 ──何があった?何故、これほど暴れている……?
 自らの騎馬を前方に廻り込ませた桓堆が眼を凝らす。と、不意に空気を切り
裂く様な微音が聞こえ、その直後三頭目が悲愴な嘶きと共に高く竿立った。
 ──矢!?土匪か……!!
 良く見れば馬達は腹や脚から出血している。目標に当たると鏃を残して箭柄
が落ちてしまう特殊な物だった為、気付くのが遅れたのだ。
「黎阮!射手は林の中だ!!」
 桓堆の助言に素早く頷き俊足の部下数名を伴うと、黎阮は林の方へ馬を疾走
させて行った。
「残った者は駟を守れ!馬の脚を狙われない様、充分注意しろ!!」
 桓堆がそう呶鳴った直後、矢を受け暴れていた先頭の駟が、遂に山道を外れ
て走り出した。

 〈未了〉

  *   *   *

長くなりそうなんで一旦切ります
次回は愉快な動物たちが大活躍(笑)
(ただのオリジ話ですいません…今月はすっかり桓浩月間w)

432桓タイ→浩瀚「青眼 〜後〜」1/18:2008/08/31(日) 18:04:16
前回の続き
桓堆、遂にクマ化&浩瀚も漸く喋ります…

  *   *   *

「──しまった!」
 桓堆は鋭く舌打ちした。山道は間も無く峠を越える。その先、本道は緩やか
に下りながら大きく迂回するが、急斜面を真っ直ぐ進んだ突き当たりは、切り
立った崖になっているのだ。そして暴走を始めた駟は、正にその斜面の方へと
向かって走り出している。
「駟を追うぞ!膂力の強い奴、一緒に来い!!」
 馬首を巡らせざま周囲の部下達に呼び掛けると、直ぐに数名の兵士がそれに
応えた。彼等は皆、野牛や狒々などの半獣だ。桓堆は一つ頷くと、間近の部下
に自分の持っていた長鎗を投げ渡しつつ、別の部下の手から半ば奪う様にして
戚と呼ばれる小型の鉞を受け取った。
「──行くぞ!他の者は引き続き警戒を怠るなよ!!」
 部下達の諒解する声を合図に桓堆は馬を駆け出させ、制御不能になった荷馬
車を追った。険しい斜面を下りつつ疾走する騎馬の背で、ふと疑問が浮かぶ。
 ──斥候の部下を何人も送り込んでいた筈なのに何故、今まで敵の気配に気
付けなかったんだ……?
 その時、前方に暴走する馬車の荷車が見えて来た。
「伍長、彼処に駟が!」
 銀の毛並の狒々に姿を変えた部下が、背後から声を張り上げる。人の姿のま
までは到底追い付けない為、歩兵の部下達は多くが獣化していた。
 桓堆は頷き、立ち塞がる木々を巧みに避けつつ駟の横に馬を付けると、恐怖
に竦み上がっている馭者達に向かって呶鳴った。

433「青眼 〜後〜」2/18:2008/08/31(日) 18:05:19
「今、助けてやる!──馬を外せるか!?」
 その問い掛けに、桓堆に近い方の男が蒼白のまま必死の形相で首を振る。
「む、無理だ!こんなに揺れてちゃ──」
「解った!お前等、しっかり掴まってろよ!!」
 桓堆は、にっと口角を上げて答えると僅かだけ騎馬を進ませ、荷車本体と馬
達を繋いでいる轅目掛け、力任せに戚を振り下ろした。
 瞬間、太い梶棒が一刀のもとに粉砕される。桓堆は間を置かず、直ぐ横で血
泡を吹きつつ走る驂──列の最端の馬──の横腹を蹴り飛ばした。
「そら、──行け!」
 腹を蹴られた驂が悲鳴の様な嘶きを上げて横に逸れ始めると、衡で繋がれた
残りの三頭もそれに連れて荷車から離れて行く。これで少しばかり速度は落ち
たものの、暴走する馬に曳かれた上、急斜面で勢いの付いた荷車がそう簡単に
止まる筈も無い。
 桓堆は戚を投げ捨てると、限界まで己の騎馬の速度を上げた。完全に荷車を
追い抜いてしまうと、此方も相当に息の上がっている馬の頸領を軽く叩く。
「よーし、いい子だ。──後で腹一杯、水を飲ませてやるからな……」
 もし俺が運良く生きていればの話だが、と小さく呟くと、突如としてその背
から飛び降りる。──地面に脚が付くと同時に、その姿は小山の様に巨大な青
灰色の毛並の熊に変わっていた。
 桓堆はそのまま速度を落とす事無く駆け荷車の行く手に廻り込むと、丸太の
様に太い前肢を広げて立ち上がった。
 ──支えきれるか……!?
 荷駄の穀物は、一つの麻袋が凡そ二百斤。それが優に百以上も積まれている
のだ──尤も、暴走している間に幾つか落ちてしまってはいたが。
 桓堆が逡巡している間に、荷車は忽ち目の前に迫って来た。馭台にしがみ付
いたまま腰を抜かしている男達の顔がはっきりと確認出来る位置まで近付いた
瞬間、彼はふっと小さく微笑った。
 ──当たって砕けろ、か……!

434「青眼 〜後〜」3/18:2008/08/31(日) 18:06:31
 瞬間、地響きの様な衝突音と共に凄まじいまでの加重が全身に襲い掛かる。
常人ならば一瞬で跳ね飛ばされてしまう程の衝撃を、身の丈十尺を超える巨熊
に姿を変えた桓堆は何とか、その躯全体で受け止めた。しかし、充分に加速度
の付いた荷車は、依然として直進を続けている。
「伍長────!!」
 荷車の背後や横合いから、やっと追い付いたらしい部下達の叫びにも似た声
が聞こえる。体当たりの衝撃で脳が揺さぶられ、一瞬遠退いた意識をその声で
間一髪、引き戻した。
 桓堆は鋭い前脚の爪を馭台の縁に食い込ませ、同時に逞しい肩をその下に宛
がい上体を固定すると、引き摺られる様に激しく地面と擦れ合っていた後脚を
渾身の力を込めて踏み締めた。
「────ッ……!!」
 直後、ざりざりっという乾いた音と、荷車の車輪が軋む不快な音が木々の間
に響き渡った。赤松の群生する山の斜面は地質が硬く、土煙を上げながらの激
しい摩擦によって、彼の後脚は見る間に鮮血で染まっていく。
「ぐあぁ……っ!!」
 激痛に思わず呻いたが、荷車を押さえる力は決して緩めなかった。

 一体どれ程そうしていたのだろうか。桓堆には途轍も無く長い時間の様に思
えたが、実際はほんの瞬きの間の事だったらしい。彼がふと気付くと、荷車は
既に停止していた。
「伍長、お怪我は──!?」
 心配そうな部下の声にゆっくりと顔を上げれば、眼前には完全に色を失った
馭者達の顔があった。かなり動転している様だが、馭台にしっかり掴まってい
たお蔭で怪我は負っていないらしい。
 桓堆はそれを見て一つ大きく息を吐くと、徐に後ろを振り返った。
「……はは。まさに危機一髪、だったな……」
 断崖の縁まで、残り二丈も無かった。

435「青眼 〜後〜」4/18:2008/08/31(日) 18:07:52
 その時、急坂を駆け下りて来る一体の騎影が桓堆達の視界に入った。騎獣は
葦毛の吉量、そしてその背に在るのは、縹色の官服を纏った痩身──。
「こ、侯……!?」
 桓堆が唖然としている間に、吉量の主は荷車の傍で乗騎の脚を止めると、そ
の背からひらりと跳び降りた。
「──桓堆、無事かっ!?」
 吉量の主──麦侯は、初めて見る巨大な熊の姿に一瞬躊躇したものの、直ぐ
に半ば駆ける様な歩調で近付いて来た。暫時、そんな主の姿を惚けた様に見つ
めていた桓堆は、礑と思い出した様にその場で姿勢を低くする。周囲で同様に
呆気に取られていた部下達も、慌ててそれに倣った。
「……顔を上げてくれ、桓堆。──お前達もだ」
 静かに命じられ、それに従いつつも桓堆の内心は千々に混乱していた──何
故、麦侯は護衛も伴わずこんな所に来たのか。黎阮達は敵を総て捕える事が出
来たのか。それに──……。
「桓堆、彼等に采配してくれ。皆、お前の命が無いと動けないのだろう?」
 麦侯の言葉ではっと我に返る。間近の部下に簡単な事後処理──荷車を斜面
上まで運び上げる事や逃がした馬達を捕獲する事、壊してしまった轅の代わり
にする為、近くの竹林から太めの竹を切って来させる事など──を命じ、それ
に従い素早く動き始める部下達を見遣ってから、再度その場に跪いた──と言
っても、未だ熊の姿をしたままなので、軽く蹲る様な格好になっただけだった
のだが。
「お見苦しい姿で失礼致します。なにぶん急を要したもので……」
 俯いたまま恐縮して告げると、僅かに苛立った様な声音が返る。
「──そんな事より、怪我は無いのか?」
 そう問われてから脚を負傷していた事を思い出したが、桓堆は首を振った。
今の姿勢のままならば、両脚からの多量の出血も見咎められる事は無い。
 何よりも先ず、彼は目の前の主に余計な心配を掛けたくなかったのだ。

436「青眼 〜後〜」5/18:2008/08/31(日) 18:09:40
「──そうだ、土匪は……」
 ふと思い出し、独りごちる様に呟いた桓堆に、麦侯は静かに答える。
「……ああ、それなら心配要らない。お前の同僚達が捕えてくれたから……」
 何故か言葉の内容とは裏腹なその声の暗さを僅かに訝しんでいると、不意に
麦侯が深く頭を下げた。
「桓堆──いや、青。すまなかった……」
「──えっ……?」
 突然の事に訳も分からず狼狽える桓堆を後目に、彼の主はその平素は穏やか
な眉間を僅かに険しくしつつ言を継いだ。
「……実は今日、この山中で土匪の襲撃がある事は予め分かっていたんだ」
「────!?」
 思い掛けない科白に、桓堆は麦侯の細面の貌を見つめたまま絶句した──本
来、臣下は主君の顔を見てはならないと云う決まり事など完全に忘れていた。
 麦侯は続ける──以前から、この辺りを根城にしていた土匪の一味が街道を
通る旅人や商隊を襲い、金品や荷駄を奪う草寇紛いの行為を繰り返して問題に
なっていた事。今回、義倉の補充を行うに当たり、積み荷の穀物を餌に奴等を
誘き出し、一網打尽にする計画が挙がった事。その為、穀物輸送の情報を事前
に態と漏洩させ、更に相手を油断させる為に州侯である自らが視察を装って同
行した事──通常ならば、土匪を捕える為の罠と云う危険な道行に貴人が伴う
事など、到底有り得ないからである。
「……だが、断じてお前達を危険な目に合わせるつもりは無かった。それなの
に、こんな事になってしまって──……本当に、申し訳無い……」
 桓堆の脳裏に、一昨夜の黎阮の言葉が蘇る。
『──麦侯もつくづく物好きな方だな。選りに選ってこんな時期に、わざわざ
危ない処へ進んで出て行かなくても良いだろうに……』
 ──そうか、そう云う事だったのか……。
 漸く合点が行き、無言で軽く嘆息した桓堆の顔を、麦侯は低い位置から恐る
おそる覗き込んだ。

437「青眼 〜後〜」6/18:2008/08/31(日) 18:11:18
「……怒らないのか?」
「──は……!?」
 主の突拍子も無い問いに、思わず顎を落とす。この人は急に何を言い出すん
だ、と呆気に取られている桓堆の顔を凝視しつつ、麦侯は続けた。
「私は、お前達を騙したんだぞ?その上、こんな危険な目にまで合わせて……
幾ら土匪を捕える為とは云え、今回の事は決して公正な方法では無かった。お
前にも、お前の同僚や部下達にも、本当に済まない事をした……許して貰える
とは思っていないが、どうか謝罪させて欲しい──……」
 そう言って再度頭を下げようとする主に、桓堆は慌てて首を振る。
「おっ……お止め下さい!──俺達臣下が主君の為に働くのは当然の事です。
それから俺に、──いや俺達半獣に中途半端な同情をなさるのも、もう止めて
頂けますか……?」
 顔を背け視線を外し、心中に凝っていた感情を思い切って吐露すると、眼下
の主が不思議そうに首を傾げる気配が伝わった。麦侯が徐に口を開く。
「……同情?何だ、それは」
 一体どう云う意味だ、と重ねて訊く麦侯の澄んだ薄茶の瞳に、一度は抑えて
いた苛立ちが再燃する。──桓堆は、鋭い牙の並ぶ頑丈な頤を戦慄かせた。
「どう云う意味って──そんなの口にしたあんたが一番良く解ってるんじゃな
いのか?幾ら半獣があんた達にとっちゃ使い捨ての道具みたいなもんだったと
しても、俺達にだって誇りはある。一時つまらん情けを掛けられたくらいで、
有り難がって簡単に尻尾を振るほど、目出度く出来ちゃいねえんだよ……!」
 礼節や言葉遣いの事などすっかり忘れ、一気に捲し立てた。凡て言い終えて
しまってから、自分の為出来した事態の深刻さに礑と気付き、顔面蒼白になっ
て──と云っても熊の姿なので顔色の変化は分からないのだが──地面に頭を
擦り付けた。
「──もっ、申し訳御座い──……!」
「……朝からの不機嫌の理由は、それだったのか……」

438「青眼 〜後〜」7/18:2008/08/31(日) 18:12:21
 思わず、えっと頓狂な声を発して顔を上げた桓堆に、麦侯は静かに続けた。
「可笑しいと思ってはいたんだ。ずっと此方を気にしていた癖に、決して視線
を合わせようとしないし……」
 麦侯は、その端整な貌に何処か苦笑にも似た表情を浮かべていたが、しかし
決して笑んではいなかった。
「桓堆──お前、先日の州城での事を気に病んでいるのだな?」
 再度、彼を字で呼んだ主に難無く思考を読まれてしまい、桓堆は思わず言葉
に詰まる。麦侯は、その姿に小さく嘆息してから微かに俯き、呟いた。
「……あの時、私が口にした事でお前やお前の朋友達を傷付けてしまったのだ
としたら、素直に謝罪しよう。桓堆、本当にすまなかった。──しかし、私は
断じて軽々しい同情でお前に声を掛けた訳では無いんだ。それだけは、どうか
信じて貰えないだろうか……」
 桓堆は、再び自分を真っ直ぐ見据えてきた麦侯の視線を、今度は外す事無く
見つめ返した。
「……ならば何故、貴方は──……」
 あの時、会ったばかりの自分に、あんな事を言ったのか──桓堆はどうして
も知りたくなり、自然と口を開いていた。それを聞いた麦侯は不意に目許を和
ませると、徐に右手を伸べ、桓堆の左目の下──人の姿であれば丁度、頬の辺
りにそっと触れた。その柔らかな接触に一瞬びくりと身動いだ桓堆は──何し
ろ獣形の時に他人に触れられた経験などほぼ皆無だったのだから──それでも
抗わず、黙ってされるが儘になっていた。
「それは……」
 少し硬い青灰色の毛並の手触りを確かめる様に、その華奢な指先で優しく撫
でつつ麦侯が呟く。
「──それは……桓堆、お前の瞳が──……」
 その時、麦侯の背後の繁みが微かに揺れた。それに気付いた桓堆が前肢を素
早く伸ばし主を胸の中に抱き込むのと、繁みの奥から弓を構えた皮甲姿の男が
姿を現すのとは、ほぼ同時だった。

439「青眼 〜後〜」8/18:2008/08/31(日) 18:13:33
「──麦州侯浩瀚、覚悟しろ!!」
 絶叫の様な声と共に、男が矢を放つ。自分達目掛けて一直線に向かって来る
飛箭を凝視し、桓堆は咄嗟に麦侯を背後に庇った。
 ──俺一人なら跳び退って避けられるが、侯が居ては無理だ……!
 その直後、桓堆は鏃が己の右前肢の付け根──人で言うならば肩の辺り──
の硬い筋肉を貫く鈍い音を聞いた。
「────ッ……!!」
「桓堆──!?」
 広い背に庇われたままの麦侯が、色を失して青灰の毛並に縋る。
 初射を外した男が、低く舌打ちしつつ次の矢を番えたその時、頭上の赤松の
枝間から、漆黒の影が男目掛けて飛び掛かって来た。
「ぎゃああぁーっ!!」
 絶叫と共に男がどさりと倒れ込む。黒い影の様に見えたのは大きな黒豹で、
男に襲い掛かった瞬間、その喉笛を鋭い牙で噛み切っていた。
「れ……黎阮!!」
 桓堆が激痛を堪えて声を張り上げると、絶命した男に伸し掛かったままの黒
豹がくるりと振り向き、紅く染まった口許を酷薄に一舐めした。
「──すまん、桓堆。遅くなった」
 黎阮は、眼前の麦侯には一瞥もくれず、負傷した僚友の傍に駆け寄った。
「まったく、お前ともあろう者が簡単にやられやがって……」
 言いつつ桓堆の箭痍を検分する。それほど深く刺さっていない事を確認して
から、軽く吐息した。
「──彼奴等、他の仲間が潜んでいる場所を中々吐かなくてな。一人侯に張り
付いてる奴が居るって聞いた時は肝が冷えたぞ。おまけに、その御当人は何故
か突然、隊列の中から飛び出してお前の後を追ったって言うし……」
 そう呟いてから、漸く麦侯の顔を、その山吹色の鋭い双眸できっと睨め付け
る。一介の兵卒──それも獣形の──から容赦無い視線を浴びせられたにも関
わらず、麦侯は恐縮した様に無言で俯いた。

440「青眼 〜後〜」9/18:2008/08/31(日) 18:14:57
「──まぁ、いいじゃないか。侯が無事だったんだから」
 あからさまに剣呑な雰囲気を漂わせた同輩を宥める様に言った後、桓堆は声
を一段低めてぽつりと呟いた。
「それにしても、斥候を出していたのにどうして奴等が潜んでいる事に気付け
なかったんだろう……」
 疑問を口にしつつ、不意に微かな倦怠感に襲われる。元々体調が良くなかっ
た上、全身の彼方此方に怪我を負った所為で、身体が疲労を訴え始めたのだろ
うか、とぼんやり考えた。
「……ああ、その事ならな──」
 向こうにも俺達の同類がいたんだよ、と黎阮は忌々しげに言った。半獣は相
手の気配を感じ取る事が出来るが、自分の気配を消す事にも長けているのだ。
此方の様子を探りつつ、匂いで気付かれない様、常に風下を移動しながら荷駄
と州侯を襲う機会を窺っていたのだと言う。
「なるほど。──土匪と雖ど、敵も然る者だな……」
 一聴、暢気とも取れる呟きを零した桓堆を、黎阮が呆れた様に見上げる。
「莫迦野郎。感心してる場合か……いつまでもこんな処にいないで、さっさと
列に戻って傷を診て貰えよ。──侯も、どうかお早く」
「あ、──ああ。分かった……」
 眼前の会話に耳を傾けていた桓堆は、不意に瞼が重くなるのを感じた。別段
眠い訳でも無いのに、やけに身体がだるく、気分が悪い。一体、自分はどうし
てしまったんだろうと思ったところで突如、上体がぐらりと傾いだ。
「か、桓堆……?」
 異変に気付いた麦侯が訝しげに俯いた顔を覗き込んで来る。一方、何かを察
した黎阮は射手の死体の傍へと跳ぶ様に駆け戻り、男の背から箙の紐を噛み千
切って引き摺り出すと、暫しの検分の後、大声で叫んだ。
「しまった!──こいつは、毒矢だ……!!」
 ──ああ、やっぱりそうだったのか。だから身体が動かないんだ……。
 その場にゆっくりと頽れて行きつつ、桓堆が最後に見たものは、潤んで揺れ
る淡い茶色の瞳だった。

441「青眼 〜後〜」10/18:2008/08/31(日) 18:16:19
 それから数日後、桓堆は独り麦州城の露台から夜の雲海を見下ろしていた。
 毒矢に射たれ気を失った後、桓堆は急ぎ州城に運ばれ、瘍医の手厚い治療を
受けた。仙である麦侯を狙った箭毒はかなり強いものだったが、生来の頑健さ
と処置の早さに加えて、毒物の廻りが遅い体躯の大きな熊の姿だった事が幸い
し、彼は何とか一命を取り留めた。
 そして今夜は、州侯の身を守り土匪討伐に尽力した桓堆らの両伍の功績を称
え、特別に州夏官府の堂屋で酒宴が催されていた。
「──何だ、こんな処にいたのか」
 常に無い明るい声に振り返ると、青磁の酒器と窯変天目を手にした黎阮が、
機嫌良さげに近付いて来るところだった。
「今夜の主役がこんな処で暢気に油を売っていてどうする。折角、美味い酒も
飲み放題だってのに……」
 言いつつ、大きな茶碗にどぼどぼと酒を注ぐ。中身は彼が夢にまで見た、三
十年ものの老黄酒だ。
「うーん……俺も飲みたいのは山々なんだが、まだ身体の方が本調子じゃない
んだよな」
 桓堆が苦笑混じりに答えれば、心底同情した視線を向けられた。
「そりゃお気の毒に……なら仕方無い、お前の分も俺が飲んでおいてやるか」
「嬉しそうに言うなよ。嫌な奴だなぁ……」
 笑って言いつつ、左手の拳で黎阮の胸板を軽く小突く──利き手の右腕は肩
から白巾で吊っている為、未だ動かす事が出来無いのだ。腕以外にも桓堆の全
身は傷だらけで立っているのも辛く、本音を言えば兵舎の房間で寝ていたかっ
た。しかし、彼にはどうしても確かめなくてはならない事があったのだ。
「──両長、偉く御機嫌だぞ。上手くいけば昇進出来そうだってな」
「……そうか……」
 黎阮の言葉に、桓堆は小さく呟いてほんの少し微笑む。
 彼等の両伍、二十五兵卒を纏める両司馬は只人だが、半獣にも偏見を持たず
部下達をまるで自分の弟や息子の様に可愛がってくれる男だった。

442「青眼 〜後〜」11/18:2008/08/31(日) 18:17:54
 桓堆も黎阮も、そんな両長を数少ない信頼出来る人物として慕っていただけ
に、彼の栄逹は素直に嬉しかったが、一方もうその下で働けなくなるのだと思
うと、一抹の寂しさも感じるのだった。
 ──次に自分達の上官になるのは、どんな人物だろう……。
 彼等は過去、数人の両長の下に付いて来たが、殆どの人物が半獣を蔑視し、
中には彼等を家畜並みに扱う者もいた。幾ら麦侯達が眼を光らせていたとして
も、州師三軍、二万余の兵士凡てを監視する事など、到底無理なのだ。
「……なぁ、黎阮。お前、今の暮らしに満足してるか?」
 滅多に見られない雲海を眼下に眺めつつ、独りごちる様に呟いた桓堆の濃紺
の瞳を、黒豹の半獣は何か珍しい物でも発見したかの如くしげしげと見つめ、
笑い含みに返した。
「そうだなぁ……俺は兵士になっていなければ、とっくに建州の田舎でくたば
ってただろうからな。何とか命があって、喰う物や寝る場所に困らないだけで
も充分、幸せなんだと思うぞ」
 何処かの捨て鉢な奴のお蔭で美味い酒にもありつけてるしな、と口角を上げ
老酒の注がれた漆黒の茶碗を軽く掲げる。
 黎阮は建州の貧農の一家に生まれた。兄弟の中で唯一の半獣だった彼は、耕
作の手助けになる牛馬の姿では無かった為、まだ十代の初め頃、半ば追われる
様にして家を出た。その後、流れ着いた麦州の地で今の職を得たのである。
 生まれも育ちもこの麦州で、代々州府とも繋がりのある大きな商家に暮らし
て来た桓堆には、黎阮の苦労はそれこそ計り知れないものだったが、同じ半獣
であると云う事が出自の違いを超越し、彼等の友誼を揺るぎ無くしていた。
「そうか。──でも、本当にそれだけで良いんだろうか……」
 自問する様に呟いた桓堆を黎阮は再度、不審そうに見遣る。
「……どう云う意味だ?」
 露台の両端に明々と焚かれた燎火の焔が、視線を交わした男達の瞳の中で深
紅に揺らめいた。

443「青眼 〜後〜」12/18:2008/08/31(日) 18:19:31
「時々、考える事は無いか?──俺達は、一体何の為に命を張ってまで戦って
いるんだろうと……」
 額に負った傷に繃帯を巻いている為、桓堆は髪を結わず、下ろしたまま紐で
簡単に括っているだけだった。その長い髪が雲海からの緩い夜風を受け、肩の
上でさらりと靡く。
「なるほど。──お互い胸を張って“国の為だ”とは、とてもじゃないが言え
る立場に無いからなぁ……」
 自らも雲海の沖を眺め遣りつつ、黎阮が苦笑混じりに返した。そして、桓堆
の隣で花崗岩の手摺に凭れ掛かり、月夜の雲海面に所々白く立つ波頭を見ると
も無しに見た後で、再度静かに呟く。
「そうだなぁ、例えば──……」
 桓堆が横を向くと、普段は質の悪い冗談や皮肉しか口に出さない男が、珍し
く真摯な表情を浮かべ、厳かとも取れる口調で言を継いだ。
「──心の底から“この人を守りたい”と思える様な相手に出逢えたら、多分
その瞬間、何かが変わるかも知れない……」
「……黎阮……」
 ぽかんと口を半開させたまま見つめる桓堆に、皮肉屋の黒豹は「なんてな」
と言って小さく笑うと、不意に堂屋の方を見遣り、ほんの僅か慌てた素振りを
見せた。
「──どうした?」
 桓堆が訝り尋ねる間に、大振りな天目の中に残っていた酒を一息に呷ると、
来た時と同じ様に酒器と茶碗を両手に抱えた。
「俺の苦手な御仁の足音が近付いて来たんでな、中に戻る──後は頼んだぞ」
 そう早口で言うと、黎阮は足音も立てずに──これも彼の特技だ──そそく
さと露台を後にした。
「……苦手な御仁……?」
 桓堆が訳も分からず立ち尽くしていると、堂へと通じる扉の向こうから不意
に麦侯が姿を現した。

444「青眼 〜後〜」13/18:2008/08/31(日) 18:20:41
「……侯……!」
 桓堆は慌てて跪く。膝を折った拍子に、両足に巻いた膝袴の下の傷が酷く痛
んだが、歯を喰い縛って堪えた。
 燎火の間をゆったりとした歩調で歩いて来た麦侯は、其処に桓堆が居る事に
酷く驚いた様子だった。
「桓堆──怪我はもう良いのか?」
 休んでいなくて大丈夫なのか、と重ねて訊く。桓堆は俯いたまま答えた。
「はい。俺──私は丈夫なだけが取り柄ですので……それに、侯のお蔭で瘍医
にも診て貰えましたし」
 通常、一兵卒の怪我の治療に瘍医が呼ばれる事は先ず無い。麦侯が直に命じ
た為、桓堆は特別に診療を受ける事が出来たのだ。
「そんな事、当然だろう……お前は私を守ってくれたのだから」
 呆れたと言いたげに麦侯が返し、桓堆はふと、毒矢を受けて意識を失う寸前
に見た、心配そうな表情を思い出した。
 ──確かめたい、この感情の正体を……。
 桓堆は自由になる左手で袍子の合わせを強く握り締め、軽く呼吸を整えると
思い切って口を開いた。
「侯、──ひとつお願いしてもよろしいでしょうか?」
「……ああ、何だ?」
 若干の間の後、穏やかな諒承の声が耳に届き、桓堆は静かに吐息してから僅
かだけ顔を上げた。
「──先日、仰り掛けてそのままになっていた言葉の続きを、お聞かせ願えま
せんか……?」
 言って、再度深く俯く。
 ──あの時、山中で獣の姿をした自分に麦侯が伝えようとした事は一体、何
だったのか……。
 足許の白石を見つめたまま主の言葉を待っていた桓堆の髪が、不意に柔らか
く触れて来るものを感じた。

445「青眼 〜後〜」14/18:2008/08/31(日) 18:23:20
「…………?」
 少し硬めの青灰色の髪に触れる麦侯の細い指先は、その手触りを確認するか
の様に桓堆の頭を優しく撫でていく。額の怪我に巻かれた繃帯の上で一瞬止ま
り、そのままゆっくりと下ろして頬にそっと触れた。
 ──あの時と同じだ……。
 山中で、熊の姿をした自分に触れた時と同じ主の手の動きに桓堆が微かに動
揺した刹那。
「……顔を上げてくれ」
 決して命令ではない声の響きに、桓堆は微塵も抗う事無く従う。ゆっくりと
仰向けば、彼等の足下に広がる夜の雲海の如く穏やかに凪いだ表情の主と視線
が溶け合った。
「……お前の瞳は綺麗だな……」
「──え……?」
 突然の言葉に戸惑う桓堆を見遣って麦侯はくすりと笑み、先を続ける。
「深みのある紺碧の色がとても綺麗だ。此処で初めて間近に見た時、そう思っ
た。──だが、折角美しい眼をしているのに、お前の顔は何故かとても険しく
て……辛そうに見えたんだ」
 まるで疾うに厭世して、一日も早い死の訪れを願う老人の様に──そう続け
た麦侯の整った貌を見上げつつ、桓堆はいつか僚友からも同様に言われた事を
思い出していた。
「……恥ずかしながら、私はお前に会うまで、殆ど半獣と話した事が無かった
んだ。だから、お前達がどんなに辛い思いをして来たか、私などには想像もつ
かない──……」
 しかし、と麦侯は厳かに呟く。
「私は、お前に──お前達麦州の民総てに、笑顔で居て欲しいと思う。こんな
時代でも──いや、こんな時代だからこそ……」
「侯──……」
 僅かに瞠目して見上げる桓堆に、彼の主は優しく微笑み掛けた。

446「青眼 〜後〜」15/18:2008/08/31(日) 18:24:41
「……桓堆、私からも頼みたい事があるんだが、聞いて貰えるだろうか?」
 桓堆が無言で頷くと、麦侯は彼の頬に触れていた手を一旦離し、左肩の上に
そっと置いた。
「どうか、これからも私の傍に居て貰いたい──麦州の地と民を護る為、私に
お前の力を貸して欲しいんだ……」
 その時、桓堆の中で何かが音を立てて弾けた。
『──心の底から“この人を守りたい”と思える様な相手に出逢えたら、多分
その瞬間、何かが変わるかも知れない……』
 黎阮の言葉が、怒濤の様に脳裏を過る。
 ──ああ、そうだったのか……。
 今まで自分の中に蟠っていたあらゆるものが、一瞬にして溶け、形を失って
いく。桓堆は胸に手を当て、そっと瞼を閉じた。
 ──俺は、この人に恋をしてるんだ……。
 多分、初めて出逢った瞬間から。今まで誰かを本気で好きになった事が無か
った為に、これが恋だとは気付かなかったのだ。
 桓堆は静かに開眼すると、肩口に置かれたままだった主の手を恭しく取り、
綺麗だと言われたその濃紺の瞳を柔らかく和ませつつ、にっこりと微笑んだ。
「はい、浩瀚さま──この命に代えても、貴方様を必ずお守り致します……」
 月明かりの下、静かに打ち寄せる雲海の岸辺で、桓堆はこうして自らの死処
を得たのだった。

「──近々、軍内で官職の異動があるらしいぞ。それも相当規模のでかい奴だ
って、専らの噂だ」
 州城での酒宴から更に三日後。珍しく二人揃って兵舎に残り、のんびり休日
を過ごしていると、臥牀に寝転がり書物を読んでいた黎阮が不意に言った。
 今、彼が読んでいるのは遥か昔、山客によって伝えられた崑崙の架空の物語
だ。神祇に背いた罰として、一夜の内にその姿を虎に変えられてしまった憐れ
な男の話で、黎阮は随分とこの物語を気に入っていた。何でも「他人の気がし
ない」からだそうだ。

447「青眼 〜後〜」16/18:2008/08/31(日) 18:26:00
「──ふぅん……」
 黎阮の向かいの臥牀に腰掛け槍の穂先を手入れしつつ、桓堆が興味無さげに
生返事をする。
「ふぅんてお前、自分に関係ある事かも知れないんだぞ?」
 そんな暢気に構えてる場合じゃ無いだろう、と呆れ顔で言われ、桓堆は一瞬
呆気に取られた。
「……どうしてだ?」
 鋭い刃先を磨く手を止め尋ねると、黎阮は横になったままの姿勢で、秘密を
勿体振る子供の様な視線を向けて来た。
「お前、州師内じゃすっかり有名人なんだぞ。“我が身を挺して州侯の命を救
った誇るべき英雄”ってな」
「……その事と俺の昇進と、一体どう関係してるんだ?」
 第一、半獣は官位に就けない筈だろう、と続けた桓堆に、黒豹の同輩は少し
ばかり意地の悪い笑みを浮かべた。
「この間の一件で“左軍の精鋭”とやらが殆ど役に立たなかった事に、州宰の
柴望さまが相当ご立腹だったらしい。まぁ近頃は大きな内乱も無くて、上の奴
等も惚け始めてたからな。丁度いい薬になるんじゃないか。……で、急遽浮上
したのが我等の英雄、青辛伍長って訳だ」
 そう言って面白そうに笑う。桓堆はそんな僚友の言葉を聞きつつ、暫し無言
で槍を持った手許を見つめると──左腕の白巾は既に外していた──僅かに複
雑そうな表情で、ぽつりと呟いた。
「……評価して貰えるのは有り難いが、別に栄逹したい訳じゃないんだよな」
 それを聞いた黎阮が突然、牀上に勢い良く起き上がる。
「お前、なに寝惚けた事を言ってんだ?昇進すれば俸給だって上がるんだぞ。
そうすれば今より美味い酒が飲めるし、妓楼だってもっと質の高い処に──」
「……辞めたんだ」
 桓堆の一言に、黎阮は思わずぽかんと開口する。奇しくも過日、辰門の楼閣
上で見せたのと同じ表情になっていた。

448「青眼 〜後〜」17/18:2008/08/31(日) 18:27:29
「……何を辞めたって?」
 同僚の問いに、今度は明確に答える。
「妓楼通い。──俺、もう花娘は買わない事に決めたんだよ」
 再び槍の手入れに戻った桓堆を珍獣でも眺める様に見遣った後、黎阮は礑と
顔色を変え、言い辛そうにおずおずと尋ねた。
「桓堆……お前、ひょっとして何か悪い病気でも伝染されたんじゃ──」
「貴様、今すぐこの槍で突き殺してやろうか?」
 桓堆は限界まで眉間を狭め、黎阮を睨み付けてから、珍しくほんの少し赤面
して俯き、呟いた。
「……見つけたんだよ。お前の言ってた“心の底から守りたいと思える相手”
って奴を……」
 その言葉に黎阮は一瞬眼を瞠り、次いで天井を仰ぎつつ、大仰な仕草で額に
手を当てた。
「──ああ、そう云う事か……だからお前、最近様子が可笑しかったんだな」
 そう言いつつ一人納得する黎阮に、桓堆は小さく苦笑した。実際の事情とは
若干異なるが、この際そう云う事にしておくか、と密かに思う。それに“守り
たい相手”の正体が自分達の主だとは、例え口が裂けても言う訳にはいかなか
った。黎阮も桓堆の性的嗜好に関しては既知だが、麦侯に眷恋しているなどと
知られた日には、兵舎中に響き渡る程の大声で笑われ、莫迦にされるに決まっ
ているのだ。
 桓堆が余り好ましくない想像をあれこれ巡らせていると、不意に黎阮が臥牀
からすっくと立ち上がった。
「──なんだ?」
 訝しげに尋ねた桓堆を後目に、そそくさと外出の準備を始める。
「飲みに行くぞ!──勿論、お前の奢りでな」
 だから早く支度しろ、と急かす同輩を、桓堆は呆れ顔で見上げた。
「……おい。こう見えても、俺はまだ完治してない病人だぞ?」

449「青眼 〜後〜」18/18:2008/08/31(日) 18:29:04
 土匪の放った毒矢のお蔭で、数日前まで病床で唸っていた身で酒など飲める
か、しかも俺の奢りって何だよ──と反論する桓堆には全く構わず、黎阮は房
間の戸口に向かって歩き出す。桓堆は、溜息混じりで同輩に呼び掛けた。
「おい、黎──……」
「桓堆……お前、少し顔付きが変わったな」
 徐に振り返った黎阮が、その口許に皮肉めいたものではない笑みを浮かべつ
つ言った為、桓堆は軽い驚愕に言葉を途切れさせた。
「──今は、ちゃんと生きてる人間の顔になってるよ……」
 そう続けた僚友に、桓堆もくすりと微笑み返す。
「半分だけじゃなく、か?」
 確かめる様に尋ねれば、黒髪の男は大きく頷いた。
「ああ、全部だ……」
 その言葉を聞き、桓堆もやれやれと言って立ち上がる。小さな濡窓の外では
そろそろ晩春の陽が沈もうとしていた。

 〈了〉

  *   *   *

〜追記〜
「青眼」←→白眼 好ましい相手に向ける視線の意(晋書/阮籍伝)
オリキャラ黒豹の黎阮くんが読んでたのは「人虎伝」(唐/李景亮)

浩瀚に出逢う以前の桓堆はかなり厭世・刹那主義的なやさぐれたヤツ
だったのでは無いかと云う勝手な思い込みで書きました…
他にもネタは沢山ありますが、桓浩SSはこの話で一応最後にします
長い話を懲りずに読んで下さった方、どうも有り難う御座居ました

450名無しさん:2008/09/03(水) 21:31:21
姐さん乙でした!
浩瀚受け好きとしては、これが最後だと思うと少し淋しいけど…
次回も楽しみにしてるよー

451尚六「月ノ舟」1/8:2008/09/05(金) 12:13:43
尚六ほのぼの 秋の夕暮れデート編
仲良し兄弟が昆虫達と戯れます

  *   *   *

 広大な平原は一面、秋風に揺れる芒の白い穂に覆われていた。

「……りゅ──……尚隆っ、ちょっと……待てってばぁ!」
 背の高い芒を懸命に掻き分け進みながら、六太はもう随分と引き離されてし
まった主に呼び掛ける。
「──どうした、六太。早く来んか」
 遥か前方から聞こえて来る音声のみの主に向かって、額にうっすらと浮かん
だ汗を袖口でぞんざいに拭いつつ声を張り上げた。
「ここ、歩きにくいんだよおっ!おまけに、芒がでか過ぎて方向わかんねーし
誰かさんは、どんどん先に行っちまうし……」
 すると、前方からは微かな笑声が返って来る。六太がぷうっと剥れていると
再度おおらかな声が聞こえて来た。
「あと少しだから、我慢して歩け。苦労した分の価値はある景色だぞ」
 その言葉に一つ大きく嘆息すると、六太は再び眼前に立ちはだかる芒の林を
掻き分け始めた。

 今宵は仲秋の名月だ。雁では、国の行事として正式に定められてはいないも
のの、九州各地で観月会を催す事が古くからの慣例になっている。それは勿論
彼等の住まう玄英宮も例外では無く、行事好きの秋官長、朱衡──そう云う性
癖の男性の事を蓬莱では“アニバ男”と呼ぶんだ、と六太は先日景王から教え
られていた──の依頼、と云うより言い付けで、わざわざ下界まで『大きくて
尚且つ形も良く、見映えのする』芒を取りにやって来たのだ。

452「月ノ舟」2/8:2008/09/05(金) 12:14:49
「──はぁ、やっと着いた……!」
 最後の芒の列を横に押し遣り、遂に開けた場所に出ると、六太は思わずその
場にへたり込んだ。
「疲れただろう。──ほら、飲め」
 目の前に小さな竹筒が差し出され、思わず縋り付く様に受け取る。
「うわ、ありがと尚隆!……さっきから、すっげぇ喉渇いてたんだよー」
 言いつつ口の栓を抜いて、中身をこくこくと飲み干す。秋とはいえ、日中は
まだ暑いこの時期に長時間歩かされた身体には、ただの水も宛ら甘露の如く感
じられた。
 喉が潤い一息吐いたところで、六太はやっと周囲を見渡し──暫時、呆気に
取られたかの様に開口すると、次いで溜息混じりに感嘆の呟きを洩らした。
「────すごい、綺麗だ……!」
 彼等二人が佇んでいるのは、広大な原野のほぼ中央。まるで小さな丘の様に
周囲よりも小高くなっていて、何故か其処だけは芒が一本も生えておらず、そ
の代わり、芝生の様に柔らかな草紅葉に覆われていた。
 そして其処から見渡す限り、四周は凡て芒の平原だった。風に戦ぐふさふさ
とした白い穂が、夕暮れ間近の陽光を受けて銀色に煌めいている。
「──どうだ、わざわざ歩いて来た甲斐があっただろう?」
 不意に頭上から聞こえた楽しそうな笑い含みの声に、六太は無言で頷く。野
原の入口で乗騎から降ろされ「此処からは歩いて行くぞ」と言われた時は驚い
たし、それから優に一刻近く歩かされた日には、尚隆の奴後でぜってー悧角の
餌にしてやる、と半ば本気で恨んだが、そんな思いも眼前に広がる景色を見て
いる内に、すっかり雲散霧消してしまった。
「ほんと、すごいな……ところで、なんでお前こんなとこ知ってんの?」
 隣に立ったままの主を見上げつつ、ふと尋ねる。この辺りは禁苑になってい
るが、特に見るべきものも無い為に、六太は殆ど訪れた事がなかった。
「以前、この近くを飛んでいた時に偶然見つけたのだ。城で調べてみたが、ど
うやら梟王が鷹狩をする為に作らせたものらしいな」

453「月ノ舟」3/8:2008/09/05(金) 12:16:07
「へぇ、そうなんだ……畿内にこんな処があるなんて、全然知らなかった」
 前王は奢侈に耽溺する人物では無かったそうだが、地方の文官の出でありな
がら武芸に秀で、剣の腕は勿論、弓射や馬術にも長けていたと聞く。ならばき
っと鷹狩も好んでいたのだろう。六太はふと、当時の事に詳しい者から話を聞
いてみたくなったが、梟王の統治時代を良く知る者が、宮城には既に一人も残
っていないのだと思い出した。
「……どうした、六太?」
 不意にしんみりしてしまった六太を訝り、尚隆が頭の上に掌を乗せてくる。
二、三度ぽんぽんと軽く叩かれ、俯いたまま軽く首を振った。
「ううん、なんでもない……」
 すると少しの間の後、不意に尚隆が声を低めた──まるで、秘密の宝物を親
友だけにこっそり見せる少年の様に。
「──六太、上を見てみろ……驚くぞ」
「……え……?」
 此処は野原の真っ只中だ。上には空しかないに決まっているのに、突然何を
言い出すのだろう──そう不審に思いつつ顔を上げた六太の天青の双眸が、忽
ち驚愕に見開かれていく。
「──うわぁ……すっげえ……!!」
 高く澄んだ旻天には、刷毛で薄く描かれた様な夕雲が幾条も細く棚引いてい
る。その景色の美しさも息を飲む程だったが、彼を心底驚かせたのは、その空
一面に飛び交う、何千と云う数の赤蜻蛉の群れだった。
 別に蜻蛉自体が珍しい訳では無いが、これほど多くの赤蜻蛉が一時に群れ飛
ぶ様子を見るのは、随分長い事生きてきた六太でさえ初めての経験だ。
「……どうだ、吃驚しただろう?」
 くすりと微笑みつつ、尚隆が見下ろしてくる。六太は惚けた様に頷きながら
ゆっくりとその場に立ち上がった。
「──毎年、この時期になると何処からか群れでやって来るんだ。そして、こ
の芒野原で数日を過ごし、再びいずこかへと旅立って行く……」

454「月ノ舟」4/8:2008/09/05(金) 12:17:31
 六太は主の言葉を聞きながら、無数の小さな命によって形作られた奇跡の様
な風景に見入った。
 上空を飛び交う蜻蛉達の透明な羽が暮れ始めた秋の陽を反射し、きらきらと
虹色に輝く。細長い尾の鮮やかな紅色は、背景になった夕焼け空の朱色と溶け
合う様に調和していた。
 ふと視線を巡らせれば、周りを囲んだ芒の穂の上にも、飛ぶのに疲れたらし
い赤蜻蛉が無数に留まり、文字通り羽を休めている姿が眼に入った。
 六太は静かに歩み寄ると、間近の芒の穂上に留まっていた一匹にそっと手を
伸ばす──しかし、身の危険を察知したのか、小さな蜻蛉は少年の指先に掠り
もせず、素早く飛び去ってしまった。
「──ああ、行っちゃった……」
 六太が肩を竦め、がっかりした様に零すと、背後から如何にも楽しそうな笑
い声が響いた。
「何だ六太、蜻蛉を捕まえたいのか?」
 主の問い掛けに、六太は微かに頬を赤らめて答える。
「ううん……捕まえるんじゃなくて、もっと近くで見てみたいんだよ」
 そう言いつつ再度手を伸ばしたが、やはり素早く逃げられてしまった。暫し
己の麒麟の悪戦苦闘ぶりを笑って眺めていた尚隆は、不意に右手の人差し指を
空に向かって真っ直ぐ立てると、その手を身体から少しだけ離し、丁度自分の
目線ほどの高さで止めた。
「……なにしてんだ?」
 不思議そうに首を傾げた六太に、口角を上げつつ答える。
「蜻蛉と云うのは、細い物の先端に留まるのが好きなんだ……見ていろ」
 すると、まるで彼の指先に吸い寄せられるかの様に、一匹の赤蜻蛉がすうっ
と空から下りて来たのだ。
「うっそ……まじで……!?」
 六太は眼を丸くし、小声で感嘆する──蜻蛉を驚かせてしまわない様に。

455「月ノ舟」5/8:2008/09/05(金) 12:18:33
 六太が驚いている間に、小さな蜻蛉は至極自然に尚隆の指先に落ち着いた。
彼はそれを見て小さく微笑うと、少年の目線の高さまで、静かに腕を下ろして
くれた。
「ほら、──これで良く見えるだろう」
 主の長い指の先に留まった小さな紅い命に、六太は夢中で見入った。薄くて
透明な四枚の羽には、良く見ると細かい線が幾条も走っていて、それが陽光を
反射し油膜の様な色に輝いている。二つの大きな眼も、その中で更に数え切れ
ないほど無数に別れており、羽の輝きとはまた違った複雑な質感と光の反射を
見せた。
「……金銀や宝石なんかより、ずっと綺麗だ……」
 思わず溜息混じりに呟くと、それを聞いた尚隆が笑って肯首する。
「それは、此奴が生きているからだな。命あるものの美しさは、それが有限だ
からこそ更に引き立つんだ……」
 六太は、この日何度目かの無言の頷きを主に返した。
 生あるものは美しい。それは無為の造形美によって形創られているからだ。
──いや、正確には天の意思が確かに介在している筈なのだが、それでも永久
の美しさを求めて作為的に造られたものより、遥かに輝いて見えた。
 眼の前で一時、疲れた羽を休めているこの小さな生き物も、冬が訪れるまで
の短い余命を精一杯生きている。だからこんなにも綺麗なのだろう──そう思
って微笑んだ六太を見下ろしていた尚隆が、突如としてぷっと噴き出した。そ
の所為で大きく揺れた右手の先から、小さな赤蜻蛉は驚いた様に素早く飛び立
って行ってしまう。
 あ、と言って暫くの間、赤蜻蛉が再び戻った空を眺めていた六太は、直ぐに
怪訝そうな表情で主を振り返った。
「……どうしたんだよ、急に笑ったりして」
 尚隆は、なおもくつくつと肩を揺らしながら、少年の金の髪を指差した。
「お前の頭の天辺にも一匹、留まっておるぞ」
「──えっ、ほんとか?」

456「月ノ舟」6/8:2008/09/05(金) 12:19:44
 ぱっとその表情を明るくした六太に、尚隆は含笑したまま頷く。
「きっと、お前の頭を芒の穂と間違えたのだろうな」
「なーんだ……へへ、間抜けな奴だなぁ……」
 笑って言いつつ、六太は己の金の髪に触れようとしたが、直ぐにその手をそ
っと下ろした。
 彼がそのまま暫し身動きせずに居ると、蜻蛉は不意にふわりと飛び立った。
すると、同時に涼やかな夕風が原野を駆け抜け、彼の長髪を入り日の色に染め
つつ吹き流していった。
「……もう、行ってしまったぞ」
 尚隆が微笑んで言うと、六太も笑い返した。
「そっか。──じゃ、日が沈む前に早いとこ芒、刈っちまおーぜ」
 そう言って、再び眼下の芒野原に向かう少年の小さな背中を、尚隆は心底い
とおしげに見つめた。

「──なぁ、尚隆……あれ、何て虫の声?」
 二人して刈り集めた芒と、此処に来る途中で摘んだ竜胆──お前の眼と同じ
綺麗な青紫色だな、と尚隆は言った──を細い藁縄で一束に纏めて縛りつつ、
六太がふと尋ねる。太陽は未だ、辛うじて西の地平線付近にその姿を留めてい
るものの、東天に眼を転じれば、早くも宵の薄闇色を纏い始めていた。急いで
用事を済ませなければ、平原の只中で日没を迎えてしまう事になる。
「虫の声?──そんなもの、俺には聴こえんぞ」
 六太の結んだ細い縄の余った端を、小刀で器用に切り取りつつ尚隆が返す。
「いや、聴こえるって。──風の音に紛れて、分かりにくいんだ」
 ちゃんと耳すまして聴いてみろよ、と言われ、暫し作業の手を休める。する
と、芒が風に揺れる音に混じって、微かではあるが確かに、虫が羽を擦り合わ
せる小さな音が聴こえて来た。
「──ほら、聴こえるだろ?……すごく綺麗な音だ……」
 その音色に聴き惚れたかの様に、うっとりと六太が呟く。

457「月ノ舟」7/8:2008/09/05(金) 12:21:26
 尚隆は耳の後ろに手を添えて微かな音を拾いつつ、小さく笑んで頷いた。
「ああ、あの音は……邯鄲だな」
 こんな早い時刻から鳴くとは珍しい、と呟いた主に、六太はきょとんと瞠目
して訊き返す。
「かんたん?……って、あの『邯鄲の夢』とか『邯鄲の歩』の?」
 その問いに尚隆は再び微笑うと、今度は軽く首を振った。
「それは崑崙の古い地名だ。確かに、同じ字を当てるが……」
 今、芒の穂陰で鳴いているのは、鈴虫くらいの大きさの黄緑色をした虫だと
尚隆は教えてくれた。
「なりは小さいが、美しい音を奏でる為に“秋の虫の女王”とも呼ばれている
のだぞ」
 その言葉に六太は感心して頷く。初めて耳にする音色は、聴き慣れた蟋蟀や
螽斯のものとはまったく違う、透き通った玲瓏たる響きを有していたからだ。
 二人が暫時、邯鄲の稀有な歌声に耳を傾けている内、西の地平線にしがみ付
いていた太陽は遂に姿を消し、それと入れ替わる様に東の山の稜線から、十五
夜の望月が貌を見せていた。
「──ああ、とうとう日が暮れちゃったな……」
 柔らかな草紅葉の上に腰を下ろしていた六太が、衣服に付いた枯れ葉をぱた
ぱたとはたき落としつつ立ち上がった。
 観月会の開始までにはまだ少し時間があるが、早く帰ってやらなければ下官
や女官達を心配させてしまう。六太は、芒と竜胆の束を小脇に抱えたまま東の
空の大きな月に眺め入っている主の横顔を、ふと見上げた。
「なぁ尚隆、そろそろ城に帰──……」
 尚隆の纏う檳榔の袍子の袖に伸ばし掛けた手が、ぴたりと止まる──六太は
何故か突然、全身が戦慄するほどの恐怖に見舞われたのだ。
 ──もし、これが凡て夢の中の出来事だったらどうしよう……。
 六太は不意に、いつか読んだ『邯鄲の夢』の筋書を思い出していた。

458「月ノ舟」8/8:2008/09/05(金) 12:24:05
 邯鄲の街の宿で、道士呂翁の枕を借りて転た寝をした青年盧生は、夢の中で
立身出世の栄華を極めた人生を送る。しかし目覚めてみると、永遠の様に思わ
れた歳月は、宿の主人が黄粱を煮るほんの僅かな時間でしかなかったのだ。
 ──おれが今まで生きてきたこの国や、出会った人たちの全部が幻で、親に
捨てられて山奥で死に掛けてるのが本当の自分だとしたら……。
 急にどうしようもなく不安になり、未だ満月に視線を向けている尚隆の蒼い
光を浴びた横顔を、恐るおそる見上げた。
「……どうした?」
 六太の様子に気付いたのか、不意に尚隆が微笑んで見返して来る。
「…………」
 主の顔を見つめたまま黙り込んでいると突如、右手で──左手は芒の束を抱
えていたので──胸元にぐいっと抱き寄せられた。
「ぅわっ!尚隆──……」
 捕われた胸の中は温かく、規則正しく打つ鼓動が何とも心地好い。これが夢
などである筈は無い──六太は大きく安堵の息を吐くと、主の広い背中にそっ
と腕を廻した。
「──六太……?」
 珍しく抱き返して来た腕の中の少年に、尚隆が不思議そうに問い掛ける。
「……何でもない。それより早く帰ろう、朱衡たちが待ってる」
 尚隆はその言葉に微笑んで頷くと、乗騎を呼ぶ為に指笛を鳴らした。
 仲秋の月下、高く澄んだその音色は、邯鄲の羽音と溶け合いながら芒の平原
に遠く響き渡って行った。

 〈了〉

  *   *   *

タイトルは池田聡(だから古いって)これも尚六的名曲v
重陽(9/9)ネタは帷朱で使用済みだったので
白露(9/7)と仲秋観月(9/14)をテーマにしてみました

>>450
有り難う御座居ます!浩瀚受イイですよね^^
(因みにクマが毎度怪我するのは私が流血萌えだからv)

次回から、そろそろ纏めに入ります

459利達独白「槐安夢」1/18:2008/09/20(土) 19:02:08
利達兄さんと死んだ恋人との昔話(仍てオリキャラ登場要注意)
一応「竹声」(>>340-344)の利達サイドになってます

  *   *   *

 利達が初めて彼と出逢ったのは、街の古書店の片隅だった。一冊の書物に、
ほぼ同時に手を伸ばした為、指先がぶつかり互いに酷く驚いた。
「──あ、すみません」
「いや、僕の方こそ……」
 店内には他に何千と云う数の書籍があるのに、二人が選んだのは埃を分厚く
積もらせた一冊の本だった。
「……蓬莱の話に興味があるの?」
 優しげな目許を更に和ませつつ尋ねて来た青年に、利達も自然と微笑み返し
ていた。
「いえ、そう云う訳では無いんですが。初めて眼にする書名だったもので……
これは蓬莱の説話なんですか?」
 良く御存じですね、と続けた問い掛けに、彼はほんの少し照れ笑いを浮かべ
つつ頷く。
「ああ……今、個人的に海客の事を勉強してる最中なんだ」
 利達は軽い驚きの表情で隣に立つ青年を見上げた。かなり痩せてはいるが、
身丈は自分よりも僅かに高い。
「……貴方、学生さんですか?」
 身なりは随分きちんとしているし、歳も二十五の自分より幾つか上に見える
為、郡府辺りの役人だろうと漠然と思っていた。青年は、そんな利達の心中を
読んだかの様に再度微笑んで頷く。
「ああ、慶で大学に通ってるんだ。──尤も今は、ちょっとした訳ありで休学
中なんだけどね……」
 こうして、利達は彼──杜鵑と知り合った。


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