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( ^ν^)四月、僕は泥棒になったようです

100名無しさん:2023/12/20(水) 01:23:55 ID:DrdBCTAo0

( ^”ν^)「……もしもし」

( ・∀・)「あっ!お疲れさまです先生〜!今日は出てくれるの早いですね〜珍しい!」

電話口から、やけに明るい森野の声が聞こえる。
思わず通話終了のボタンを押しそうになった指をグッと堪え、引き続きスマホを耳元に当てた。

( ^ν^)「やかましい。さっさと要件だけ話せ」

( ・∀・)「うっげぇ冷たい!先生のために文字通り魂を削ってる専属の編集になんて物言いを…」

( ^ν^)「執筆中なんだ。切るぞ」

( ・∀・)「えっマジすか?またまためっずらし」

( ^ν^)「切る」

(; ・∀・)「わ〜!!待った待った!!言います言います!」

スマホ越しに慌ただしい声が聞こえてくる。
このわざとらしい緩急も彼の人心掌握術の一つなのだろうなと思うと、余計に腹立たしく思えた。

101名無しさん:2023/12/20(水) 01:24:33 ID:DrdBCTAo0

( ・∀・)「杉浦くん、どうです?この前のコンペから、調子良くなったと思いません?」

森野からの質問に短く「ああ」と答える。
どうやら、僕が彼に何かしらの話をしたと勘付いたのだろう。

もしその“話”とやらが、作家の卵を潰す類のものであるなら編集者として見逃すわけにはいかない。
それの確認といったところだろう。全く、どこぞの編集長よりもずっと頭の回る男だ。

( ^ν^)「……僕なりの“書き方のコツ”を少し教えただけだ。後はあいつの素養だよ」

( -∀・)「…へー、教えたんですか?やっぱり一年も一緒にいたら多少なりとも師匠としての自覚が……」

( ^ν^)「違う。切る」

(; ・∀・)「ウェイトウェイト!!ジョークですよ先生、編集者ジョーク!やだなぁもー!」

海外のコメディ俳優を彷彿とさせる笑い声が耳に届く。
次に何かめんどうな事を口走った瞬間切ろうと心に決めた。

102名無しさん:2023/12/20(水) 01:27:53 ID:DrdBCTAo0

( ・∀・)「……ま、それなら良かったです。どっかに先生のことを吹聴されたら困るなーって思ってましたけど、その心配はひとまず要らなそうですね」

( ・∀・)「勝手に失望するとか、筆折るくらいならいいかなーって感じだったんですけど、まさかプラスになってくれるとは思いませんでした」

( ・∀・)「いやぁ、“良い”ですねー杉浦くんも、個人的には先生ほどじゃありませんけど」

さらっと伺えた森野のおそろしく利己的な性格に眉をひそめて舌打ちをする。
出会った頃から何ら変わらない。悪魔を思わせるような言動理由。

( ・∀・)「俺が一番、先生の作品を楽しみにしてるんですから。書き終えるまでに、変なやらかししないでくださいよ〜?」

( ^ν^)「ならあんな奴の面倒を押し付けてくるな。真面目過ぎて肩が凝るんだよ」

( -∀・)「まぁまぁ。何だかんだでちゃーんと、“先生のため”になってるでしょう?」

通話中、二度目の舌打ち。
口惜しいが、こいつの手腕と先を見る目は本物だ。
これで自分より年下だというのだから、世の中は全く油断ならないと評する他ない。

103名無しさん:2023/12/20(水) 01:28:59 ID:DrdBCTAo0

( ・∀・)「…じゃ、本題です。といっても簡単な確認ですけど」

( ・∀・)「――例の小説、進んでます?」

森野の声のボリュームが一回り下がる。
いつになく真剣な問いであることが、電話越しの声色でも分かる。

( ^ν^)「……」

すぐに返答しないまま、僕は右手に握っていたままの万年筆を離す。
そして、作業机の上から二段目の引き出しを開けた。
その更に奥、指にコツンと当たったそれを握り、引き出しからゆっくりと取り出す。

( ^ν^)「……あぁ、順調だよ」

( ^ν^)「これは嘘じゃない、この調子なら、思ったより早く書き上げられそうだ」

そう言うと、電話の向こうで森野がクスリと笑ったのが分かった。

104名無しさん:2023/12/20(水) 01:30:28 ID:DrdBCTAo0

( ・∀・)「…オッケーオッケー、それならいいです」

( -∀-)「小説、心底楽しみにしてますよ。新島先生」

森野からの「失礼します」という言葉で通話が終わり、無用となったスマホを机の上に置く。
空いた方の左手で頬杖をつきながら、僕は自身の右手を見る。
自然と口角が上がってしまったのを自覚しながら、それをクルクルと片手で回す。



――指先には、手のひらに収まるサイズのUSBメモリが握られていた。

105名無しさん:2023/12/20(水) 02:04:32 ID:DrdBCTAo0
>>89
×( ^ν^)「…さっき居酒屋でかかってたパッヘルベルのカノン、良い曲だよな」

○( ^ν^)「…この前行った居酒屋でかかってたパッヘルベルのカノン、良い曲だよな」

ミスがありました。申し訳ない…。

106名無しさん:2023/12/22(金) 21:53:15 ID:gipnhPGk0
乙乙

107名無しさん:2023/12/23(土) 00:16:01 ID:qVDy7ni60
おつ

108名無しさん:2024/08/02(金) 23:35:09 ID:xVkuW.I60

幼い頃から、記憶力だけには自信があった。

無論、テレビ番組とかで取り上げられる海外の天才とか、そういう怪物たちと比べれば流石に劣る。
どこぞの海外文学の文章を最初から最後まで一字一句違わず書き写したり、一度見た景色を完璧にそのまま絵に描いたりと、そういう神様染みたものじゃない。
だがそれでも、一般的な大多数の人たちがするような努力が些か不要になるくらいには、自分は記憶する力に長けていた。

視界の隅に映った車のナンバープレート。気に入った本の一文。感動した絵。数ヶ月おきに様相が変わる街並み。お気に入りの喫茶店で流れるポップソング。日が沈みきる前の茜色。
十年以上前の出来事だったとしても、それが何年何月何日何曜日のことだったのかくらいまでなら、いつでも瞬時に思い返すことが出来る。
生まれた環境も、容姿も、性格も、何にも恵まれなかった自分にとっては、それだけが唯一誇れる特技だった。

けれど、所詮は“他人より少し物覚えがいい”程度の能力だ。
生まれてから見てきた景色の全てを網膜に焼き付けているのかと問われれば、にべもなく首を横に振るしかない。

109名無しさん:2024/08/02(金) 23:36:10 ID:xVkuW.I60

現に僕は、自分が本を好きになったきっかけを覚えていない。

唯一の肉親である父が家を空けがちで、寂しさを紛らわせるため、幼少の頃は家にあった絵本をずっと読んでいたからだろうか。
小学生になっても周りに馴染めず、それでいて家に帰りたくもなく、逃げるように図書館に引き篭もっていたからだろうか。

いくつか推論は立てられるが、どれもイマイチしっくりこない。
どれもが正解なのかもしれないし、間違いなのかもしれない。
とにかく僕は、物心がついた頃からずっと、中毒者のように本を読む人間だった。

クラスメイトと目を合わせた回数より、本を開いた回数の方がずっと多いという確信がある。
大人になった今でも、かつて同じ学び舎にいた人々の名前より、学校の図書室に並んでいた児童書のタイトルの方がずっと覚えている。
いくら記憶力に長けているといってもこの程度。
唯一の特技ですらこの程度だという事実に、我ながら呆れてしまう。

110名無しさん:2024/08/02(金) 23:36:32 ID:1dCNtr3A0
おっしゃ待ってたぜ

111名無しさん:2024/08/02(金) 23:37:17 ID:xVkuW.I60

僕は、僕が本を好きになった理由を覚えていない。
かつてのクラスメイト達の名前や顔も、とんと記憶にない。
テストで良い点数を取るために必要な努力が他の人よりも少なくて済む。言ってしまえば、その程度の記憶力。


それでも、一番最初に自分で書いた話だけは、今でも鮮明に覚えている。


誰に頼まれた訳でもない。
自分も作家になりたいと、幼心に夢想した訳でもない。
けれど、気が付けば自分は手を動かしていた。

中途半端に使わなくなったノートの余り。自分の人差し指よりも短くなっていた鉛筆。ほとんど欠片ほどの大きさまで縮まった消しゴム。
そんな惨めな道具を並べて、悪霊に憑りつかれたかの如く一心不乱に、昔の自分は何かを書いていた。

112名無しさん:2024/08/02(金) 23:38:52 ID:xVkuW.I60

僕は今、”それ”を見ていた。

眼前に、よれよれのシャツを着たまま机に向かっている少年が見える。
正確には、少年と呼ぶには些か成熟しており、青年というにはあまりに年若い。
それくらいの年頃の子が、どこか懐かしい匂いのする一室に座り込んでいた。

(;  ν )っ|

僕だった。
今目の前にいるのは、紛れもない、中学生の頃の僕だ。

文字を書き、時折止まり、頭をガシガシと掻いたかと思えば消しゴムを動かし、面倒そうにカスを払って、また鉛筆を持った手を動かす。その繰り返し。
卓上に積まれた消しカスの量が、彼の作業時間の長さを優に物語っている。
そして、大人の僕は何もせず、黙ったまま、嘗ての自分の背中を眺めていた。

113名無しさん:2024/08/02(金) 23:39:55 ID:xVkuW.I60

ふと、何か大きな物音がした。

音が聞こえた方を見ると、窓ガラスが外の風に吹かれてガタガタと揺れていた。
お世辞にも、裕福とは言えない住まいだ。インターネットで「あばら家」と調べれば、ここが出てくるだろうと思えるようなアパートの一室。
窓は汚れていて、上手く外の様子は見えない。それでも、ギシギシと揺れる窓ガラスや壁の様子から、外では相当強い風が吹いているのだろうことが見て取れる。

とても作業に集中できるような環境ではない。
外からの音は鼓膜を破りそうに五月蠅く、当時の建築基準法に適うかどうかすら不安になる壁や床は、物理的にギシギシと揺れている。
それに、昔の自分が向き合っている机は、中学生はおろか、小学生が使っているような学習机ですらない。
ただのちゃぶ台だ。
それも、所々にヒビが入っている上に、足は一本途中で欠けていて傾いている。
そんな劣悪な環境の中でも、少年はまるで集中を切らすことなく物語を紡ぎ続けていた。

少年に一歩近づく。床が軋むことはなく、僕の歩数は何故か音にならない。
上から、ノートを覗き見る。
ひどく既視感のある文字が、見覚えのある展開を綴っている。

一体、何が彼をこうさせているのだろう。
どうしてこの頃の自分は突然、物語を書こうだなんて思い、行動に移したのだろう。
上から堂々と盗み見をしながら、他人事のような考えが頭に浮かぶ。

中学の課題とかではなかった筈だ。
そもそもこの頃は確か、受験を控えた3年生の夏前で、過度な課題やホームワークはなかった時期。
僕は何処かの部活に入っていた訳でもないし、誰かに強制された覚えもない。

頭を捻りながら、僕は嘗て住んでいた我が家をぐるぐると歩く。
壁にかけられたカレンダーには、僕の記憶の中では疾うに過ぎた筈の四桁の数字と共に、水色の文字で「七月」と記されているのが見える。
微塵も床が軋む音がしないまま、ただただ外の雨風がアパート全体を揺らす音と、鉛筆が走る音だけが聞こえる。

114名無しさん:2024/08/02(金) 23:40:58 ID:xVkuW.I60

ふと、視界の隅で、何か白いものが風鈴のように小さく揺れるのが見えた。

花だった。
こんなオンボロで汚れた空間には全く似合わない、白く気高い、綺麗な一輪の花。
ラベルを剝がされたペットボトルに活けてあるその白花は、暗闇を照らすフィラメントのように輝いているように感じる。

「これは何の花だろうか」と近付き、まじまじと見る。
心が落ち着くような香りを感じられる距離まで狭めて、ようやく分かった。
アネモネだ。季節的には春、四月から五月にかけて咲く花。

そこまで珍しい花でもないが、七月の今の時節に花屋以外で見かけることはあまりない。
やや時期外れだというのに、その花弁には毛ほどの萎れも見当たらない。
花瓶代わりのペットボトルに入れられている水にすら濁りがない。日頃から相当に丁寧な手入れがなされていることが分かった。

115名無しさん:2024/08/02(金) 23:42:23 ID:xVkuW.I60

そういえば、アネモネの花言葉は何だっただろうか。
いや、そもそもこの花は、どうしてうちにあったのだろうか。

意識を遥か過去に飛ばし、ゆっくりと記憶の紐を解いていく。
そして、僕は唐突に思い出した。

こんな荒れた部屋でも絢爛に咲く白花を、誰から貰ったのか。
中学三年生だった頃の僕は何故、こんなにも必死に物語を綴っていたのか。
僕はどうして、興味もない筈の花の名前を、今でも覚えているのだろうか。

再び窓を見る。
汚れが比較的ない僅かな隙間から、無数に降り注ぐ雨粒が見える。


どうして忘れていたのだろう。
どうして今更、思い出したのだろう。
どうして、もっと大切にしなかったのだろう。


そうだ。そうだった。思い出した。

116名無しさん:2024/08/02(金) 23:42:57 ID:xVkuW.I60


確かあの日も、今日みたいな、強い雨風が吹いていた。

117名無しさん:2024/08/02(金) 23:44:22 ID:xVkuW.I60


第二話"風早み"

118名無しさん:2024/08/02(金) 23:45:41 ID:xVkuW.I60


ζ( ー ;ζ「――ねぇ、早く早く!間に合わないよ!」

どこからか、切羽詰まった声が聞こえた。

はっとして顔を上げる。
途端、全身に鉛が巻き付いたかのような重さを感じる。
身に着けている衣服はビショビショで、上空からは針のような雨粒が無数に降り注いでいる。
顔を空に向ければ、とても七月とは思えないような曇り空が果てしなく続いていた。

ζ( Д ;ζ「ちょっと、なんで止まってるの!ほら!」

雨の中、よく耳に馴染む声が、再び耳の奥を刺激する。
日常の位置に視線を戻し、声の主を確認しようとした。
だが、上手くその相貌は伺えない。
異常なまでに強い雨風と、しばらく切っていない前髪から滝のように水が流れているせいだ。

119名無しさん:2024/08/02(金) 23:46:48 ID:xVkuW.I60

そうこうしているうちに、鞄を持っていない方の左手をぎゅっと掴まれる。
上手く現状を理解しきれないまま、焦ったように走る彼女に従って、僕も両の足を忙しなく動かす。

びちゃびちゃと、足が地面に着地する度に水が跳ねた。
道路は既に川のように変貌しており、更には靴の中で水溜まりが出来ている。
上手くいつも通りに足を動かせないながらも、僕は目の前の少女を真似るように、懸命に駆けた。

ζ( Д ;ζ「あっ…!」

僕を引っ張っていた少女の足がピタリと止まった。
落胆や失望の感情が色濃く表れた声に、僕はどうしたのだろうかと顔を上げる。

その疑問はすぐに溶けた。
とんでもない雨風の中、懸命に目を凝らして先の風景を確認する。
朧気な視界の先で、人工的な光が段々と小さくなっていくのが見て取れる。

そうだ。あれはバスだ。
僕と彼女がほぼ毎日、通学のために使っているバス。

それが今、僕らを置いて無情にも出発したのだ。

120名無しさん:2024/08/02(金) 23:47:41 ID:xVkuW.I60

ζ( ー ;ζ「行っちゃった…そんなぁ……」

息を切らしながら少女は僕から手を離し、トボトボと肩を下ろして歩く。
バスの時刻が書いてある停留所のすぐ隣。
“待合所”とは名ばかりの、まるで手入れがされていない、ただ屋根があるだけのスペース。

ζ( 、 *ζ「……しょーがない、座って待とっか」

やや残念さが伺える声を漏らしつつ、彼女は待合所へと歩を進めた。
早足のまま駆ける彼女に続いて、屋根の下に入る。

まあまあ広めの待合所の中には、僕ら二人以外に誰もいなかった。
見慣れた木製の固い長椅子、その奥には錆びだらけの傘立てがポツンと置かれている。
屋根と椅子しかない空間には当然、空調設備らしきものは見当たらず、じめじめとした不快な湿気が満ちていた。

121名無しさん:2024/08/02(金) 23:49:19 ID:xVkuW.I60

ζ( ー *ζ「はぁ〜………」

ζ(゚ー゚*ζ「結局間に合わなかったね、ニュッ君」

さっきからずっと一緒にいた少女とようやく目が合った。
自分の数倍はあるであろう大きな両の瞳、綺麗な鼻筋に、小ぶりな唇。
二つ結びにした淡い栗色の髪先からは、ポタポタと雫が垂れている。
とてもバスに置いて行かれた哀れな少女とは思えないほどに、頑是ない笑顔。


彼女の顔を真正面から見た、その瞬間。
全身に、雷そのものが流れたような衝撃が走った。


喉が詰まって言葉が出ない。
瞬きすら惜しいと思えるほどに、彼女の顔から目が離せない。
何よりも、見慣れている筈のその表情に、なんと言えばいいのか分からない。

昨日も見た筈だ。一昨日も、先週も、先月も、去年も。
いや、もっと。もっと前から見てきた筈だ。
十数年以上前からずっと、僕は彼女の顔を見続けてきた。
今更、彼女の笑顔一つに動揺する理由など、ない筈なのに。

122名無しさん:2024/08/02(金) 23:50:58 ID:xVkuW.I60

ζ(゚、゚*ζ「……?」

ζ(゚、゚*ζ「ニュッ君?どうしたの?」

鈴を転がしたような彼女の声が、じんと心に染み入った。
自分を君付けで呼ぶ人間は、記憶の限りたった一人しかいない。
3歳の頃から付き合いのある、自分にとっては唯一手放しで友人と呼べる少女。

( ^ν^)「…………デレ」

喉の奥からなんとか絞り出せた声は、ひどく口触りの良い、彼女の下の名前だった。
“照屋デレ”。十年以上の付き合いがある、僕の唯一の友人で、幼馴染。

ζ(゚、゚*ζ「…?さっきからどうしたの、ぼーっとして」

大きな瞳を丸くしたまま、彼女は不思議そうに首を小さく傾ける。
嫌というほど見慣れた筈の彼女の仕草が、何故だか、泣きそうになるくらいに懐かしく思えた。

123名無しさん:2024/08/02(金) 23:52:17 ID:xVkuW.I60

ζ(゚ー゚*ζ「ほら、貴方も座りなよ。次のバスまでえっと…」

様子がおかしい僕を不必要に追及することなく、彼女はいつも通りだった。
僕を隣に座るよう促しながら、デレは鞄から出した携帯を慣れた手付きで操作する。
こんな田舎に住んでいる学生にしては珍しいアイテムだ。
家が経済的に貧しい僕はおろか、クラスメイト達だって持っていないだろう。

ζ(゚―゚;ζ「…うわ!警報出てる!次来るのは…2時間後!?」

ζ(゚、゚;ζ「えっ嘘どうしよう…!ど、どうするニュッ君!?」

( ^ν^)「…いや、どうするって…なら、ここで2時間待つしかないだろ」

「歩く訳にもいかないし」と付け加えつつ、僕は一つ席を空けて、彼女の近くに腰掛ける。
右隣りを見ないように視線を逸らしながら、髪に溜まった水を手で払った。

足元に落ちた水滴を呆と見ながら、僕は自分の記憶をゆっくりと想起していく。

そうだ。
僕らは確か、通っている中学から自分たちの家へと帰る途中だったのだ。

124名無しさん:2024/08/02(金) 23:53:34 ID:xVkuW.I60

僕らが通う学校と住んでいる家は、お世辞にも近いとは言えない。
バスに揺られる時間と徒歩にかかる時間を合わせれば、2時間ギリギリかかるかどうか。
学校を出たのが 18時手前だったから、デレがさっき言った遅延を含めればおそらく家に着くのは夜の22時を回るだろう。

不便なことこの上ないが、咲く場所を選べない花と同様、人間も生まれる場所は選べない。
どんなに田舎だろうが、どんなに交通手段に乏しかろうが、甘受しなければならないことでこの世の中は溢れている。
それに、人間というのは順応性に長けた生物である。
あれだけ不便だったこの通学にも、流石に3年目ともなれば2人揃って慣れてしまっていた。

ζ(゚ー゚*ζ「あ、お父さんから連絡来てる…」

外で降りしきる雨音と、デレが文字を打つ音が待合所の中で反響する。
自分は一度も持ったことのない彼女のピンクの携帯もまた、何故だか懐かしく思える。

この待合所に人は来ない。
というかそもそも、僕ら以外に使ってる学生を見たことがない。

田舎といっても、ほとんどは中学から徒歩圏内の所に住んでいる学生が殆どだ。
一時間に一本しか来ないようなバス停を使ってまで通学する生徒など、3学年全員を合わせても自分とデレくらいのもの。
学区ギリギリの辺鄙な場所に住んでいる、自分たちの運が悪いのだ。

125名無しさん:2024/08/02(金) 23:55:03 ID:xVkuW.I60

ζ(゚―゚;ζ「うわ、見てよニュッ君。制服絞れちゃう!すっごい雨だよね〜」

(  ν )「……一々報告すんな、やめろ」

ζ(゚、゚*ζ「え?なんで?というか、貴方も服とか絞った方がいいよ」

ζ(゚ー゚*ζ「風邪ひいちゃっても知らないんだからね!」

まるでこちらの意図を汲もうとしないデレから視線を逸らす。
いくら気心知れた幼馴染といっても、いつまでも昔のままという訳にはいかない。
幼い頃とはまるで異なる体つきに成長した彼女の肌は、今の自分にはあまりに刺激が強すぎる。

だが、いくら指摘をしても彼女は改善しようとせず、昔の距離感のまま接してくる始末。
時折クラスの男子に言い寄られているのだから、自分の女子としての価値は分かっている筈。
それなのに、こうして何の躊躇いもなく肌を見せてくるのは如何なものだろうか。

ζ(゚ー゚*ζ「ありゃ、ソックスもダメだ…気持ち悪いし、脱ごっと」

絹が擦れる音が否応にも耳に届く。
エアコンの一つはおろか満足な壁すらもない。雨風を完全には凌げない、屋根だけの待合所。
そんな劣悪環境を踏まえれば当然、隣から聞こえてくる幼馴染の動作音は嫌というほど聞こえてくる。

126名無しさん:2024/08/02(金) 23:56:20 ID:xVkuW.I60

僕は少し身体の向きを変え、他のことをして気を紛らわせようと、隣に置いていた鞄を開けた。
必要最低限の教科書やノートの奥、大切にしまってあった本を一冊取り出す。
“永日小品”。
日本を代表する文豪、夏目漱石の短い作品集である。

趣味も特技も人並みに持ち合わせていない人間である僕にとって、読書は数少ない趣味の一つだった。
物語なら何でも好い。
恋愛でも、ミステリーでも、ホラーでも、悲劇でも、ギャグでも、詩集でも、何でも。
それが何かしらのストーリーを構築しているのならば、それだけで手を伸ばすに足る。

分かり切ったことしか耳に入らない授業、何の中身もないことを都度繰り返す同級生たち、たまに帰ってきたかと思えば聞くに耐えない罵詈雑言を吐き散らす父親。
僕を取り巻く現実があまりに詰まらないのか、僕自身が詰まらないのか、創作というものが持つ特性があまりに魅力的なのか。
正直、理由はどれでもいいし何でもいい。
欲を言うのなら、一日中ずっと本を読んで過ごしていたいくらいだ。

中学に入ったばかりの頃にデレから貰った、白い花の栞が挟まれているページを開く。
目に入ってきた短編のタイトルは“泥棒”。
夏目漱石が書いた小品の中でも、特にお気に入りの話の一つだ。

127名無しさん:2024/08/02(金) 23:57:49 ID:xVkuW.I60

ζ(゚、゚#ζ「――こら、また本なんて読んで!」

再び侵入してきた二人目の泥棒の正体が明らかになるという終盤。
この短いながらひどく明瞭で美しい物語の緞帳は、無残にも無下なやり方で降ろされた。

顔を上げると、僕から無理やり本を奪い取ったデレの顔があった。
昔、彼女から貰ったアネモネを思わせるほどに白い頬が、風船のように膨らんでいる。

( ^”ν^)「……なにすんだよ、返せ」

ζ(゚ぺ#ζ「返しません。こんな大雨の中でまで読書?それもう依存症だよ」

少しばかり目を細めて睨んだところで、デレはまるで動じず毅然とした態度のままだ。
教師やクラスメイト達にも不評である、睨みつけているように見えるらしい自前の眼も、彼女に通用したことはこの十年余りで一度もない。

ζ(゚ぺ*ζ「そもそも、貴方が問題起こして私までこうして雨宿りしてるんだから」

ζ(゚ー゚*ζ「責任もって、お喋りくらい付き合うよーに!」

僕から取り上げた小説を後ろ手に回し、悪戯好きな子どもみたいに彼女は小さく”べぇ”と舌を出す。
大事な本を人質ならぬ物質にされた上に、”僕のせい”と言われれば流石に僅かだが良心が痛む。
昔から、彼女は僕の細やかな心の隙を突くのが妙に上手い。まことに小賢しく、憎たらしいことである。

128名無しさん:2024/08/02(金) 23:59:27 ID:xVkuW.I60

ζ(゚、゚*ζ「…あ、”勝手に出張ってきたくせに”って顔してる」

( ^”ν^)「……言ってはないだろ」

ζ(゚ぺ*ζ「顔に書いてます!そんなんだから、色んな人たちから反感買っちゃうんだよ」

ζ( ― *ζ「…いつまでも、私が助けてくれると思ったら、大間違いだからね」

( ^”ν^)「そもそも、君に“助けてくれ”なんて言った記憶がない」

ζ(゚、゚#ζ「うわ、可愛げなっ!」

吐き捨てるように言葉を吐く。
事実、今回も、今までの人生においても、僕は一言たりとも彼女に”助けてくれ”と頼んだことはない。
今回だってそうだ。
勝手に僕の態度や言葉を捕まえて、訳の分からない言いがかりをつけてきた顔も名前も碌に覚えていないクラスメイトに、少々言いたい事を言っただけである。

自分としては火に水をかけた行為だったのだが、どうやらそれは相手にとっては油だったようで。
結局、教師が数人ほど間に出張ってくるほどの事態となった。
自分のことが気に入らないのならば、何故わざわざこちらに近付いてくるのか。そもそも、彼ら自身に僕が言葉を向けたことなど一度たりともないというのに。

129名無しさん:2024/08/03(土) 00:01:01 ID:lb1RpH0.0

話を纏めると、とにかく僕の態度だの、言葉使いだの、試験の点数が気に入らないとのことだ。
最初からそう言えばいいのに。全く、大した理由もなく人に石を投げたがる人間の多さには辟易する。
よほど暇なのか、それだけ自分の人生に余裕がないのか、その両方か。

“とかくに人の世は住みにくい”
幼少の頃から親しんだ名作の一文が胸に沸く。
これが今眼前にいる幼馴染のように朗らかならば上手く流せたのだろうが、生まれ持った性分というのは容易には変えようにもない。
結局、論争ともいえぬただの罵詈雑言の嵐は、泥沼化する前に一人の少女の仲介でなんとか収まったというのが真実だ。

人ζ(゚ー゚*ζ「はい!じゃあ今から二時間、私を楽しませるお喋りをしてください!どーぞ!」

パンと叩いた手の音が、どこか心地よく鼓膜を揺らした。
暇を潰すための本もなく、こんな田舎のバス停付近に、娯楽施設がある訳もない。
僕は負け惜しみのような舌打ちを一つわざと零した。

ζ(゚、゚*ζ「うわっ舌打ち…ま、見逃してあげます。はい、どうぞ!」

130名無しさん:2024/08/03(土) 00:04:08 ID:lb1RpH0.0

( ^ν^)「…この前、好きな小説のプレミアムカバーが出た」

ζ(゚ー゚*ζ「却下。はい次」

( ^ν^)「……うちの図書館、”ジャン・クリストフ”の間の二巻がなくて…」

ζ(- -*ζ「申し込んでから1年経つのにまだ入ってきてないんでしょ。何度か聞いた。次」

( ^ν^)「………夏目漱石の本名は”金之助”なんだが、じゃあなんで漱石にしたかっていうと…」

ζ(- -*ζ「その話もう百回聞いてる。次」

( ^”ν^)「…………チッ」

σパチンζ(゚―゚#ζ「舌打ち二回目ペナルティ」

(;  ν )「痛っつ…!」

額に響くデコピンの痛みに顔を顰める。
そもそも、碌にクラスメイトと会話もできず、本と睨めっこをすることしか能のない人間に面白い話を期待することが間違っている。
十数年来の付き合いなのに分かっててこんな無理難題を押し付けてくるなど、僕よりも彼女の方がずっと性格が悪いのではないだろうか。


…なんて、文句を彼女に面と向かって言える訳もなく。
結局、頭を悩ました末に僕が口にしたのは、当たり障りのない平凡な話題だった。

131名無しさん:2024/08/03(土) 00:05:22 ID:lb1RpH0.0

――気が付けば、いつも通りの僕らの会話だった。

時間の流れも雨音も、なにも気に留めることなく、ただただ話がゴム毬みたいにあらゆる方向へ弾んで飛んでいく。

いつの間にか3年生になっていたこと。
高校の受験勉強が面倒なこと。
流行りの映画を観に行きたいが、最寄りの映画館まで片道2時間かかること。

そして。
毎年二人で行っている、隣町の夏祭りが、もう3日後にまで迫っていること。

ζ(゚ー゚*ζ「…あっ、そうそう!」

ζ(^ワ^*ζ「今年はね、私、浴衣着ていこうと思ってるんだ!」

夏祭りの話題になった途端、デレの声のトーンが一つ上がった。

聞き慣れないワードと朗らかな声色に惹かれて、視線を眼前の雨から幼馴染へと移す。
デレの大きな瞳が、いつもより一層煌めいているように見えた。

132名無しさん:2024/08/03(土) 00:06:10 ID:lb1RpH0.0

( ^ν^)「……浴衣?」

ζ(゚ー゚*ζ「そう!お母さんのお古なんだけどね、結構良いの貰ったんだ〜!」

楽し気に話すデレと違って、僕の心中はあまり穏やかではなかった。

隣町と言っても、気軽に行ける距離の場所ではない。
バスを使って駅まで30分。そこから電車に揺られて1時間。
ここは、それだけの時間をかけても、隣の町に足を踏み入れるのがやっとの、そんな田舎だ。

それに、夏祭りといってもそこまで派手な催しではないのだ。
地元民しか知らないような小さい神社の境内で、いくつか屋台が出るだけのイベントに過ぎない。
訪れるのだって地元の住民か、自分たちのような暇を持て余した田舎の子ども程度。
有名人がゲストで来たりはしないし、大きな花火が上がる訳でもない。

そんな所にわざわざ、浴衣という非常に動きにくいことこの上ない装備で赴くというのか。
小さい催しとはいったが、現地の人の数は少なくない。
ただでさえ敷地が狭いのだ。人口密度という点だけに着目すればまさに”人ごみ”。
帰りについても考慮すれば負う疲労やダメージは想像に難くない。

「やめておけ」。そう言おうとした。
意地悪ではない。数少ない友人の体を労わっての、僕にしては珍しい親切の色を帯びた注意。
だが、その言の葉は姿を現すことなく、喉の奥へと落ちていった。

133名無しさん:2024/08/03(土) 00:07:32 ID:lb1RpH0.0

ζ( ー *ζ「……貴方と行けるのも、きっと今年が最後だし」

激しい雨音の中でも、その寂しそうな声はハッキリと聞こえた。


デレは、来年の春に、この町を出ることが決まっている。


彼女の家は、こんな田舎には相応しくないほどに裕福な家庭だ。
父は医者、母は著名なバイオリン奏者。
父方が代々経営している小さな病院が、この町にあるからという理由で、家族でここに住んでいる。

だが、その病院も去年の冬に閉まり、更には彼女の父は来年から東京の病院で働くことが決まった。
母親の音楽の仕事も踏まえると、どう考えても家族で東京に移り住んだ方が合理的だ。そんなことは世間のいろはも知らない自分にも分かる。
結果、デレは東京へ。そして自分は変わらずこの田舎で、高校生活を送ることが決まっていた。

何と返事をすればいいのか分からず口ごもる。
途端にシンとした空気にいたたまれなくなったのか、デレは濡れた髪をかき上げながら何かを誤魔化すように笑った。

134名無しさん:2024/08/03(土) 00:09:27 ID:lb1RpH0.0

ζ(゚ワ゚;ζ「…そ、そうだ!今年の紙芝居、何のお話してくれるだろうね!」

ζ(゚ー゚*ζ「去年は途中で雨が降って、中途半端なところで終わっちゃったから」

「今年は晴れるといいね」なんて、明らかに繕った明るい声色が続いた。
僕は話に合わせて頷きながら、去年のことを思い返す。

気のいいおじさんが毎年、夏祭りでやってくれる紙芝居。
お世辞にも精緻とは言えないが、味のある色彩と画力で描かれた、暖かみのある絵。
それに合わせて、じわりと鼓膜の奥に響く声が、童話をベースにしたオリジナルの物語を語る。
夏祭りに出る屋台やイベントの中で、その朗読がデレの一番のお気に入りだった。

だが、去年は話を聞いている途中に雨が降ってきてしまったのだ。
強い雨風が神社を襲ったのは30分にも満たない短い時間だったが、その間に紙芝居を含めたほとんどの出店は撤退してしまっていた。
雨でぬかるんだ帰り道、「あの続き、どうなるんだろうね」と、二人で展開を予想しながら帰路についたことを、今でもよく覚えている。

135名無しさん:2024/08/03(土) 00:11:40 ID:lb1RpH0.0

ζ(゚、゚*ζ「……あれ?雨、止んでる」

続いた会話を止めたのは、デレの少し驚いた声だった。

視線を前方にやると、あんなに沢山振っていた雨は、一粒たりともその姿がない。
会話に気を取られて気付かなかったが、あれほど煩かった雨音もすっかり止まっている。

隣のデレが、慌てた様子で携帯をポチポチと触る。
すると、彼女はこちらに携帯電話の液晶画面を見せてきた。

いつの間にか、大雨警報が解除されている。
気象予報士が読み違えたのか。それとも、プロの予想すら上回るほどに強すぎる風が、青嵐を吹き飛ばしたのか。
子どもの頃、そんな童話を読んだなとぼんやり思いながら、僕はデレに「よかったな」と声をかけた。

さっきちらりと見た画面に映し出されていた時刻は、僕が予想していたよりもずっと遅い時間だった。
感覚的には無駄話を30分くらいしただけだったが、どうやら実際にはその2倍以上の時間が流れていたらしい。

136名無しさん:2024/08/03(土) 00:13:00 ID:lb1RpH0.0

ふと、遠くから聞き慣れた重低音がした。
体を少し前のめりにし、満足な街灯すらない夜道の先を見る。
そこには期待通り、予報よりも早く来たのであろう、自分たちが乗るバスの光が近づいてきていた。

( ^ν^)「デレ、来たぞ」

ζ(゚、゚;ζ「えっ?」

ζ( ー ;ζ「………早い、ね」

弾かれたように立ち上がったデレは、テクテクとバス停の屋根の下から外へ出る。
雨は止んでいるといっても、即座にその痕跡がなくなる訳じゃない。
足元には未だ変わらず、川のように変貌した水溜まりが鎮座している。

なんとなく、夏祭りで毎年よく見る、金魚すくいの屋台を思い出した。
金魚の生態についてなど何も知らないが、今この足元を流れる水溜まりほどの量なら、金魚でも案外生きられるかもしれないな。

普段、自分たちが歩く道が川となり、そこを悠々と泳ぐ金魚の姿を想像すると、なんだか面白く思える。
そんな、どうでもいいことをぼんやりと考えていた、その時。

137名無しさん:2024/08/03(土) 00:15:29 ID:lb1RpH0.0

変な音が聞こえてきて、顔を別方向に向けた。
バスの音じゃない。
もっと低くて、荒々しい、危険な音。

視線を前にやる。
デレは今か今かと、道路に出てバスの到着を待っている。
彼女の視線が向いている方向の、逆側。


――とんでもないスピードのバイクが、水上スキーのように水を跳ねて近づいてきていた。


(;  ν )「―――っ!?」

ζ(゚ー゚*ζ「え?」

力全てを足に込めて、駆け出す。
懸命に腕を伸ばす。
手に衣服が触れた瞬間、グイと、力の限りひっぱる。



爆弾が破裂したような、激しい波音がした。

138名無しさん:2024/08/03(土) 00:18:09 ID:lb1RpH0.0

ζ( 、 ;ζ「…………」

(;  ν )「……大丈夫 か」

ゆっくりと、出来るだけ落ち着いた声色を作って尋ねる。
自分の胸元に当たる彼女の後頭部が、ぎこちなく縦に数回揺れた。

ζ( 、 ;ζ「………あ、あ 、 あり がと…」

さっと体から彼女を離す。
念のために怪我はないかと尋ねると、デレはさっきと違って首を横にブンブンと振った。

(; ^ν^)「……悪い、咄嗟で、つい」

ζ( ー ;ζ「……ううん」

未だに大量の水が道路に残る中。
とんでもないスピードで、堂々と道交法を違反しながらデレに迫るバイクを見た途端、咄嗟に体が動いていた。

本来なら肩を寄せるだとか、声を掛けるだとか、そういうスマートなやり方があったのだろう。
こういう危機的な状況になってやっと分かる。どうやら僕には咄嗟の決断力だとか、行動力だとか、そういった類の才能もないらしい。
慌てて動いたことで、ただでさえ濡れていたズボンは完全に浸水してしまった。明日はジャージ登校が確定だ。

139名無しさん:2024/08/03(土) 00:19:49 ID:lb1RpH0.0

ζ( 、 ;ζ「………あ…!」

慌てたようにデレがまた道路に出る。
しゃがみこんだかと思えば、何かを拾うような動作をしているのが見えた。

「どうしたのか」。
そう声をかけるのやめたのは、彼女の顔が、ひどく申し訳なさそうだったからだ。

ζ( ー ;ζ「……ごめん、これ…」

デレの手には、ずぶ濡れになった本があった。
バス停で、彼女に取り上げられてしまった、僕の小説。
おそらく、僕が無理にデレを引っ張った時、鞄から飛び出してしまったのだろう。

彼女の手から本を貰う。
表紙も、中のページも、デレから昔貰った栞も、余すところなく水浸しだ。
印刷されていた文字は滲み、開くともはや何という文章が綴られていたのかの判別すら出来なくなっていた。

140名無しさん:2024/08/03(土) 00:21:19 ID:lb1RpH0.0

ζ( ー ;ζ「………」

デレはじっと黙ったまま俯いている。
その小ぶりな唇が時々、「ごめん」と動いているのだけがかろうじて見て取れる。

僕は、黙ったまま何も言わなかった。
怒っていたからじゃない。失望していたからでもない。
胸中に占める感情は、たった一つの”安堵感”だ。

本なんてどうでもよかった。
文章は一字一句頭に入っているし、なんなら同じ出版社から出た同じ本が、まだ部屋の本棚にある。貰った栞は紙製ではないから、水気さえ取ればまだまだ使える。

とにかく、デレがバイクに轢かれずに済んだ。
その事実だけが、ずっと頭を巡っていた。

141名無しさん:2024/08/03(土) 00:22:40 ID:lb1RpH0.0

(; ^ν^)「………いや…」

なんと声をかければいいのか、分からなかった。
現代文のテストなら、教師が授業中に話していた言葉を、空欄に上手く収まるようにかみ砕いて書けばいいだけだ。
紙の上か、そうでないか。大きな差異など、精々そこにしかない。
今まで、「筆者や登場人物の心境を答えなさい」という問題で、点が取れなかったことなどない。
なのに、これはどうしたことか。

ζ( ー ;ζ

もう、十年以上付き合いのある友人に。
気の利いた言葉一つ、パッと答えられてないではないか。

(; ^ν^)「……まぁ、その、あれだ」

ぎこちなく口を開く。
僕の喉から声が出る度に、デレの肩が小さく跳ねる。

142名無しさん:2024/08/03(土) 00:24:18 ID:lb1RpH0.0

(; ^ν^)「気にしてない。怒ってもないし……その、なんだ」

(; ^ν^)「君が、気にやむ必要なんてのは皆無だ。栞は無事だし…それに、同じ本ならもう一冊持ってる。問題も支障も生じてない」

ζ( ー ;ζ「………でも、ごめん」

ζ( ー ;ζ「大事な本だって、知ってたのに」

ζ( ー ;ζ「……私が、取らなかったら…」

何を言っても、頭が上がることはない。
“優しいな”と、羨望と嫉妬交じりにそう思った。

仮に僕がデレの立場だったとして、ここまで深く頭を下げられるだろうか。
「別にいい」と言われた時点で、頭を上げるのではないだろうか。
いや、そもそも。
彼女のように、素直に人に謝ったことなど、人生で一度でもあっただろうか。

143名無しさん:2024/08/03(土) 00:25:15 ID:lb1RpH0.0

バスの音が近づいてきているのが分かる。
このままだと永遠に平行線だ。

デレもまた、僕と同じくらいに自分の意見を曲げず、頑固だ。
もしかしたら、あのバスが行っても、明日になってもずっと、彼女はここで頭を下げ続けるのかもしれない。

流石にない、と言い切れないぐらいには、彼女のことを知っている。
本がどうだの、気にしてないだの、そんなんじゃきっとダメだ。

嘘はついてない。いつもみたいな、強がりの嘘や意地ではない。
けれど、僕は多分、本当のことは何も言えていない。

僕は、何を言いたいのだろう。何を望んでいるのだろう。
気にしてほしくないのだ。落ち込んで欲しくないのだ。
明るく、真夏の向日葵みたいな笑顔でいて欲しいのだ。

これも、一種の押し付けなのかもしれない。
見方を変えれば、笑っていて欲しいとい願うことすら、傲慢なのかもしれない。
けれども、その、なんというか。彼女には。


きっと、笑顔が一番、似合うと思うから。

144名無しさん:2024/08/03(土) 00:27:45 ID:lb1RpH0.0


(; ^ν^)「――――濡れてない!」


互いに黙り込むこと、数秒。
ようやっと口から出たのは、あろうことか、とんでもない大嘘だった。


手に握られている本は、少し力を入れれば水が滴り落ちるほどにびしょ濡れだ。
表紙はおろか、中に印刷された文字も満足に読めやしない。
仮に、家で丁寧に乾かしたりと処置を施したところで、とても後日、満足に読めるようにまでの回復は望めないだろう。
それなのに、”濡れてない”などとは、大嘘にも程がある。

デレの顔が躊躇いがちに少しだけ上がる。
水気が残る髪先から、大きな瞳の光が少しだけ濡れているのが伺えた。

145名無しさん:2024/08/03(土) 00:28:58 ID:lb1RpH0.0

(; ^ν^)「本において大事なのは、書かれた文章だ。それは、間違いない。表紙も挿絵も、後書きも、大切な要素の一つではある」

(; ^ν^)「でも、真に価値があるのは、読んだ文章を、どう自分の中で消化するか、だと思うんだ」

自分でも、何を言っているのか判然としない。
目の前の少女の瞳にも、戸惑いの色が垣間見える。
それでもどうしてか、僕の舌は適当な口述を流すのをやめてはくれない。

(;  ν )「…別に、この本が濡れたからって、漱石の文章が丸ごと全部、この世から消える訳じゃない。漱石が書いた物語自体は、少しだって濡れてやしない」

(; ^ν^)「僕が、漱石に触れた得た感傷や感動は、少したりとも滲んだり、褪せたりしない。あくまで”この本”という物質的損失が発生しただけで、この作品が有する本質的な価値や実存は、少しだって揺らがない」

(; ^ν^)「そもそも、文章だって全部暗記済みなんだ。僕の記憶力は知ってるだろ?24時間365日、漱石だろうが芥川だろうが鴎外だろうが、いつでも諳んじることが出来る僕にとって、一冊本が読めなくなったくらい、何の問題もない」

べらべらとよく回る舌だと、他人事のように感心する。
学校で教師やクラスメイトに詰められた時は、地蔵のように黙ったままだという癖に。
それにしたって、まるで内容が伴っていない文言だ。
説得という目的に用いるには、いささか抽象的が過ぎる言葉の泡々だ。

146名無しさん:2024/08/03(土) 00:30:37 ID:lb1RpH0.0

デレを見る。そして分かる。
彼女の瞳には、”納得”という文字が浮かんでいない。
こんな言葉、ただ彼女を動揺させるだけで、納得させるには至らない。

要するに、僕は何が言いたいのか。
大切にしていた好ましい本が濡れた。もし、これが他のクラスメイトを原因とするものだったのなら、僕は間違いなく怒り狂っていただろう。

なのに、そうはならない。それは何故か。
単純な比較を、脳内で行う。
昔、とある法曹を主人公とする小説によく出てきた、”比較衡量”という言葉。

(; ^ν^)「………要するに、その…なんだ……」

(;  ν )「……つまり… あれ、だ。要は、結果として この本、より」


濡れなかったものがある。轢かれなかったものがある。
それが無事だったから、良かった。安心した。胸を撫で下ろした。
他は、本は、どうでもよかったから。


だから、僕は。

147名無しさん:2024/08/03(土) 00:32:21 ID:lb1RpH0.0



(; ^ν^)「……………君の方が、大事 だから」

(; ^ν^)「だから…………だから、別に いい」

(;  ν )「………君が、無事なら、いい」

148名無しさん:2024/08/03(土) 00:33:12 ID:lb1RpH0.0


近くで、エンジン音が止まる音がした。

急に、僕らの横顔が強く照らされる。
あれほど待ち望んでいたバスが、いつの間にか、停留所に着いている。

顔を上げると。

ζ( 、 *ζ

ζ( ー *ζ「――――そっか」

照れたように微笑む、幼馴染の姿があった。

149名無しさん:2024/08/03(土) 00:36:32 ID:lb1RpH0.0

ζ( ー ;*ζ「……の、乗ろっか!」

僕の隣を通り過ぎ、彼女は軽やかな足取りでバスへと向かった。

少し遅れて、腰につけているパスケースから定期券を取り出しつつ、慣れた動作でバスに乗り込む。
いつもお世話になっている初老の運転手は、定期券を確認してこちらに軽く会釈をした後、バスのドアをゆっくりと閉めた。

先に座席に座っていたデレの方を見る。
進行方向を見て、左側。後ろから数えて2列目の、二人掛けの席。

どこかぎこちなさを感じながら、ゆっくりと彼女の隣に座る。
途端、「ねぇ」と揶揄うような声がかけられた。

150名無しさん:2024/08/03(土) 00:37:37 ID:lb1RpH0.0


ζ(^―^*ζ「――私、本より大事なんだ?」


さっきまでの、儚くてしおらしい雰囲気はどこへやら。
あの強い雨嵐が吹き飛ばしたのだろうか。
それとも、僕が見た束の間の、都合のいい幻覚か何かだったのだろうか。

舌打ちをし、顔を左に背ける。
「3回目!」という楽しそうな声と、僕の額が再び弾かれる音が、合計3人しかいないバスの中に響いた。

151名無しさん:2024/08/04(日) 01:25:33 ID:ZRamFMRU0

*


額に走る痛みを感じたその瞬間、目を瞑った。
開くと、場面が一瞬で変わっていた。

152名無しさん:2024/08/04(日) 01:26:10 ID:ZRamFMRU0

いつの間にか、僕は両の足で立っていた。
さっきまで随分と下半身にジメジメとした不快感があったのだが、それも今はない。

視線を上げる。
思わず背筋が伸びてしまうほどの、格式高い扉が眼前にある。
白を基調としたその扉は、ドアノブから些細な装飾にまで、やけに高級感が漂っていた。

それを見て僕はまたハッとする。
そうだ、ここは照屋家の、デレが住んでいた家だ。

153名無しさん:2024/08/04(日) 01:28:48 ID:ZRamFMRU0

思い出した。
僕は今、デレのお見舞いに来ていたんだった。

抱えていた違和感がふわりと消える。
同時に、僕は躊躇いなくドアを手の甲でトントンと叩く。
「2回ノックはマナー違反」だと、いつか読んだ本に書いてあったのを覚えているが、一々そんなことを気にする間柄じゃない。

中からか細い声が聞こえ、遠慮なくドアを開く。
自分の部屋どころか、家全体と比べても広いであろう、デレ個人の部屋。
大きな学習机や本棚に、可愛らしいぬいぐるみ。部屋の隅には、大きな存在感を纏ったグランドピアノが置かれている。
どれもこれも、自分の家には縁のないものばかりだ。
そして、その奥。大の大人3人は寝れそうなベッドの中心に、幼馴染が横たわっていた。

ζ( ― *ζ「あ……い、いらっしゃい…」

ゴホゴホと力無い咳をしながら、起き上がろうとするデレ。
「そのままでいい」と制止しながら、僕は学習机の前にある椅子をベッドの隣に移動させた。

154名無しさん:2024/08/04(日) 01:30:36 ID:ZRamFMRU0

( ^ν^)「……大丈夫か?」

ζ( ー ;ζ「……まぁまぁ、かな」

椅子に腰を落ち着け、持ってきた荷物を床に下ろしてから、デレの頬に触れる。
手の甲に、淹れたてのコーヒーを彷彿とさせるような暑さが滲んだ。

ζ( ー *ζ「……ふふ。ニュッ君の手、冷たい」

( ^ν^)「こんなので冷たく感じるのに、何が”まぁまぁ”だ。嘘吐きめ」

豪雨に晒され、あのボロボロなバス停で雨宿りをした日から3日。
“憎まれっ子世に憚る”とはよく言ったものだと感心すると同時に、”馬鹿は風邪をひかない”とはやはり妄言だとも確信した。
風邪を引いたのは、自分ではなく、デレだった。

ζ( ー *ζ「……手が冷たい人は、心があったかい人なんだってね」

( -ν^)「どうやら相当重症らしい。せん妄の気もありそうだな」

軽く聞き流しつつ、デレの周りを見る。
ベッドの棚の上には、医者である彼女の父が置いていったらしき薬がいくつか見られた。

155名無しさん:2024/08/04(日) 01:34:53 ID:ZRamFMRU0

ζ( ー *ζ「…お見舞い、ありがと」

( ^ν^)「気にするな。大した手土産も持ってきてない」

( ^ν^)「お陰で、ツンには露骨に嫌な顔をされた。”バイオリンの一つでも持ってきてよ”だと」

ζ( ワ *ζ「へへ、そういうとこも、かわいーでしょ」

“ツン”というのは、年が離れたデレの妹のことだ。
まだ小学生だというのに、その言動はデレよりも成熟したものを思わせる。

だが、似ているのは精々、顔のつくりのみ。昔からずっと、どうしてか俺には懐いてくれない。
今日も「見舞いに来た」と顔を出した瞬間、まるで人殺しでも見るような顔で睨まれた。性格だけを見れば、とてもデレと同じ血が流れているとは思えない。

( ^ν^)「顔以外まるで似てないよな。それこそ赤ん坊の頃から知ってるが、僕に笑ってくれたことなんて一度もないぞ」

ζ(- - *ζ「………昔から、好きになっちゃダメって言ってるからね」

( ^"ν^)「…?なんだ、君が黒幕か。どういう嫌がらせだ?」

ζ( ー *ζ「ふふ、お姉ちゃんだって、回りくどいワガママの一つくらいあるのです」

いまいち言葉の意味が理解できずにいると、デレはゴホゴホと咳き込んだ。
広いからこそ、この部屋は嫌に静かに感じる。
ただの咳が、末期癌の患者のそれのように掠れて聞こえた。

156名無しさん:2024/08/04(日) 01:36:39 ID:ZRamFMRU0

窓からは、未だにパラパラと降る雨の音が聞こえてくる。
3日前のそれと比べれば小雨とはいえ、今日の天気は紛れもない悪天候だ。

ζ( ー ;ζ「……昨日に比べれば、けっこう、元気になったんだよ」

そう言って、唐突にデレはその上体を起き上がらせた。
頬は明らかに異常な赤みを帯びている。時々聞こえる異常な呼吸音は、外の微かな雨音では誤魔化しきれないような悪音だ。

ζ( ー ;ζ「……だから」

ζ( ワ ;ζ「今からなら、さ、ギリギリ――」

( ^ν^)「ダメだ」

デレの言葉を途中で遮る。
この家に来た時、彼女の母親からも、妹のツンからも、きつく言われている。
“今回ばかりは何があっても、デレのお願いを聞かないで”と。

157名無しさん:2024/08/04(日) 01:39:21 ID:ZRamFMRU0

デレの言いたいことは、それこそ手に取るように分かる。
「隣町の夏祭りに行きたい」、だ。

約10年、一度もかかさず、行ってきた夏祭り。
最初こそデレの母親に連れられていたのが、気が付けば、二人で行くようになっていた。
途中で雨が降ったり、電車が事故で来なかったり、アクシデントが起こった年もあった。
それでも、「行かない」なんてことは、今まで一度たりともなかった。

その無念は痛いほど分かる。忌憚なく本音を言えば、僕もずっと楽しみにしていた。
だが、デレに過大な負担をかけてまで、行きたいとは思わない。
世の中には、仕方のないことはある。デレの引越ししかり、今回のことしかり。

( ^ν^)「……僕も行かない。そもそも今日は雨だ。どうせ祭りは中止だし、紙芝居もない」

( ^ν^)「もしかしたら後日、またやってくれるかもしれないだろ。…今日はもう寝ろ」

デレの上体を軽く押し、寝るように促す。
力無くベッドに倒れこんだ彼女は、ひどく申し訳なさそうに片腕で顔を隠した。

ζ( ー *ζ「………ごめんね」

( ^ν^)「気にしてない。いいから今日は…」

ζ( ー *ζ「今年、もう最後だったのに」

“最後”という言葉に、継ごうとした二の句が喉の真下で霧散した。

158名無しさん:2024/08/04(日) 01:40:57 ID:ZRamFMRU0

ζ( ー *ζ「……浴衣、見せたかった」

ζ( ー *ζ「綿飴食べたり、金魚掬いとか、スマートボールとか、やりたかった」

ζ( ー *ζ「紙芝居、見たかった、聞きたかった」

ζ( ー *ζ「……………ごめん」

( ^ν^)「…………いいって」

普段と違って、少しボサッとした髪を撫でる。
ここまで元気がないのは、なんというか、随分と彼女らしくない。
なんだか先日から、変に謝られてばかりに思う。

そもそもあの日だって、自分が変に問題を起こさなければ、デレはいつも通りの時間に帰れた。
あんな突発的な大雨に遭うことはなかったのだ。

いや、3日前に限った話じゃない。
僕に巻き込まれてデレが辛酸を舐めた出来事が、今まで一体いくつあっただろう。
デレは来年でいなくなる。僕はもう、彼女の世話になれなくなる。

そんな事実を目の前にして、ようやく気付いた。
今の今まで、数えきれないほど、僕は彼女に迷惑をかけていたということに。

159名無しさん:2024/08/04(日) 01:42:45 ID:ZRamFMRU0

ζ( ー *ζ「……ねぇ」

( ^ν^)「なんだ。いいから、もう寝た方が…」

ζ( ー *ζ「あの鳥、結局、どこに飛んでいったのかな」

デレの問いかけに、僕は少しだけ目を泳がせた。

何の話をしているのか、僕にはよく分かる。
去年、途中で雨が降り始めたせいで中止になってしまった、夏祭りでの紙芝居の話だ。

聞いたことのない童話だった。
いや、何かしらのモデルや、引用元はあるのだろう。話を全部聞いた訳ではないから、そこまで強い確証はないが。

160名無しさん:2024/08/04(日) 01:43:25 ID:ZRamFMRU0

一羽の、白い鳥を主人公にした物語だった。

その鳥は、何かを探して長い旅をしていた。
日が照りしきる夏を渡り、香り豊かな秋を飛び、寒さ厳しい冬を凌いだ。
巡る季節を旅して、色んな生き物や考え方と出会って、ようやく、暖かな春に辿り着けそうになった、その途端。

空気の読めない雨が降ってきて、そこで、その話は終わってしまった。

そして残念なことに、どうやらあの話はオリジナルだったようで、何をどう調べても類似する話は見つからなかった。
いや、厳密には少し似た話は見つかった。
だが、それはどれもこれも、ほんの一部が似通っているだけ。
例えばオスカー・ワイルドの”幸福な王子”だったり、宮沢賢治の”よだかの星”だったりと、言われてみれば少し設定が似てなくもないと、うっすら感じるものばかり。

結局、今に至るまであの話の正式な続きは知らない。
あの白い鳥は果たしてどこに辿り着いたのかは分からない。

161名無しさん:2024/08/04(日) 01:43:58 ID:ZRamFMRU0

ζ( ー *ζ「……続き、聞きたかったなぁ」

ζ( ー *ζ「今日、やってくれたのかな」

結末の分からない話だったが、デレは随分と気に入ったようで、自分たちなりの終わり方を想像してはそれを互いに話しあったりしていた。
“暖かな春に辿り着いた”、”春は夢で、あの話は冬の厳しさを耐えられなかった鳥が見た走馬灯だった“、”各々の季節の素晴らしさに気付いた鳥は、また四季を巡る旅に出た”など。

あの紙芝居の朗読をしてくれるおじさんは夏祭りでしか会えないのだ。
彼に会わない限り、どうやったって本当のところは知る術がない。
それでも、僕らはこれで満足だった。十二分に楽しかったし、面白かった。
話の続きや終わりを空想しては、学校のからの帰り道や課題をしている途中に、楽しく話しあっていた。

それだけで、僕らは充分に笑えたのだ。

162名無しさん:2024/08/04(日) 01:44:23 ID:ZRamFMRU0

( ^ν^)「………」

僕は黙ったまま、床に置いた荷物をそっと手に取った。

家にあった中で、一番綺麗かつ真面に見えた紙袋。
その中からは、一冊の本が見える。

…いや、”本”と呼んだのは些か、形容が華美すぎたかもしれない。
上から袋の中身をちらと覗いただけでも分かる。
それは、”本”と言うにはあまりに杜撰な代物だった。

だが、作ってしまったものは仕方ない。
それをここまで持ってきたのだから、尚のこと仕方ない。
僕はゆっくりと、紙袋に手を入れて中に入っているものを取り出した。

163名無しさん:2024/08/04(日) 01:45:03 ID:ZRamFMRU0

( ^ν^)「…………なぁ」

遠慮がちに声をかける。
隠れていたデレの左目だけと視線が合う。

一瞬の躊躇いが生じた。
こんなものを作って、何の意味があるのだろうかと。
こんなもので、彼女は喜んでくれるのだろうかと。

けれど生憎、デレを少しでも喜ばせられるものが、他に思いつかなかったのだ。
うちは決して裕福ではない。僕が持っている中で一番高い服は制服だし、古本屋でしか本を買ったことがない。そんな家庭だ。
とても年頃の女子が喜びそうな物は買えないし、用意も出来ない。
そんな中、唯一、思いついたものがこれだった。

( ^ν^)「……僕なりに、あの話の続きを書いてみたんだ」

紙袋の中から現れたのは、紙の束だった。

店で売っているような文庫本じゃない。
それどころか、あの夏祭りでおじさんが作った、絵本のような形にもなっていない。
ただ、文章が印刷されただけの紙の束。
それを、ホッチキスで無理やり綴じた、不格好にも程がある代物だ。

164名無しさん:2024/08/05(月) 00:18:27 ID:cfzOUW3g0

ζ(゚、゚;ζ「……え…?」

デレの両の瞳が、平時より更に大きく開かれた。
それはそうだろう。見舞いにフルーツでも経口補水液でも手紙でも花でもなく、ただの紙クズを持ってきただなんて話、小説でもドラマでも中々見られるものじゃない。

( ^ν^)「…去年から、よく考えてたんだ。あの話の結末」

( ^ν^)「君みたいに、綺麗なハッピーエンドは思いつかなかった。どうしても僕は、あの白い鳥が円満に春を迎えられるとは思えない」

( ^ν^)「…でも、今は少し、違う。前に僕が話した、”ただ雪に埋まって息を引き取る”だなんて終わり方も、やっぱり違うんじゃないかって思うようになった」

紙束をベッドの上に置く。
表紙も何もない、ただ手書きの文字の羅列が並んでいるだけの、とても本とは呼べない物体。

165名無しさん:2024/08/05(月) 00:19:40 ID:cfzOUW3g0

( ^ν^)「……昨日、ふと、思いついたんだ。これなら僕だけじゃなく、君も、納得できるんじゃないかって、結末が」

(; ^ν^)「紙芝居の代わり……になるかは、分からないが…」

(;  ν )「…これなら、その……」

まただ。
あのバス停前での出来事みたいに、言葉が喉に詰まる。

けれど、臆する訳にはいかなかった。
もう、デレと一緒に過ごせる時間は半年ほどしかない。
その間も今までのように、心ない言葉を投げつけるのか。

せめて、これから、春が来て君がいなくなるまでは。
不格好だろうが、恥ずかしかろうが。
そのままの本音を、本心を、言うべきだと決めたのだろうが。

166名無しさん:2024/08/05(月) 00:21:39 ID:cfzOUW3g0

(;  ν )「………君も」

(; ^ν^)「気に入ってくれる。……と、思う」

視線は合わない。合わせられない。
伏せた目の先に映るのは、デレの白い指先だった。

デレの手がゆっくりと動き、僕が置いた紙束に触れる。
彼女は、まるで水面に浮かぶ宝石を掬うように、両手で紙束をゆっくりと持ち上げる。
そして、愛おしそうな笑顔を浮かべながら、ぺらりと紙を一枚捲った。

ζ( 、 *ζ「………」

ζ( 、 *ζ「……私のために、書いて、くれたの?」

視線は紙へと向けられたまま、咳交じりの質問だけがふわりと投げかけられる。
未だ中途半端に閉まった喉に苛立ちを覚えつつ、僕はコクリと首と縦に振った。

ζ( 、 *ζ「………そっか」

ζ( ー *ζ「私のための、本なんだ」

星が転がったような声が部屋に響いた。

167名無しさん:2024/08/05(月) 00:23:34 ID:cfzOUW3g0

(; ^ν^)「……いや、別に本と言えるものじゃ…」

ζ( ー *ζ「はい」

デレの手がこちらに差し出される。
その手には未だに、僕が持ってきた紙束がある。

ζ(゚ー゚*ζ「君が読んでよ」

(; ^ν^)「………は?」

デレの口から出たのは、まるで予想していなかったお願いだった。

ζ(゚ー゚*ζ「紙芝居の代わり、でもあるんでしょ?」

ζ(゚ー゚*ζ「なら、君が朗読してよ。私、風邪ひいてるから、文章読むとしんどくなっちゃうし」

そう言って、彼女は可愛らしく小首を傾げながら僕に再び紙束を差し出す。
風邪のせいもあっていつも以上に儚げに見えるものの、その笑顔にはどこか有無を言わせぬ迫力があった。

168名無しさん:2024/08/05(月) 00:26:11 ID:cfzOUW3g0

朗読など、今までの人生でやったこともない。正しい読み方も、面白く聞かせるための技術も知らない。
小学生の時にあった音読の宿題なんて、自分で判子を押してやったことにしていたし、劇や舞台などといった文化的イベントに足を運んだ経験もない。
それこそ、唯一ある朗読の記憶は、夏祭りの紙芝居くらいのものだ。

ζ( ー *ζ「…ふふ、風邪ひいて良かっただなんて、初めて思った」

ζ(^ー^*ζ「じゃあ、私のために読んでね。ニュッ君」

無言のまま精一杯嫌そうな顔をしてみたのだが、デレはお構いなしに再び上体を寝かして横になった
紙束を開く。
生まれて初めて自分で書いた、物語を綴るための文章。
我が文字ながら、手書きということもあって読み辛い。なにより、物書きでもない完全な素人である自分が、自分で書いた文章を朗読するなど恥ずかしいにも程がある。

169名無しさん:2024/08/05(月) 00:27:03 ID:cfzOUW3g0

(;  ν )「………はぁ」

寸でのところで堪えた舌打ちの代わりに、重い溜息が漏れる。
ベッドの上で寝転びながら、嬉しそうに微笑むデレの顔を一瞥する。

( ^ν^)「……下手でも、面白くなくても、文句言うなよ」

ζ(^ー^*ζ「はーい」

笑ったままの彼女にいよいよ観念し、手元の紙束に視線を落とした。
軽く咳払いをし、一番最初の行を読む。
自分で書いた文章だ。
読まずとも一言一句全て記憶しているが、僕はいつも夏祭りで紙芝居のおじさんがやっていたように、しっかりと文字を追いながら口を動かした。

句読点のある箇所では、少し止まり、息継ぎをする。
その少しの空白に、外を流れる雨粒の音が混ざる。
風景を読む。台詞を読む。感情を読む。物語を読む。

決して長くはない。だが、とても短いかと問われればきっとそうでもない。
文字数で言えばきっと、3万字あるかどうか。
字書きとしてはこれが長いのかも分からない。だが、一読者として言うなら、3万字というのは比較的読みやすい短編程度の長さのように思う。

170名無しさん:2024/08/05(月) 00:30:31 ID:cfzOUW3g0

はたと、音が止んだことに気が付いた。

結末まで読み終わり、紙束から顔を上げる。
ベッドの上に視線をやると、そこには、満足そうに眠っている少女の姿があった。

ζ(-、-*ζスースー

どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

( ^ν^)「………こりゃ、また後日、アンコールかな」

紙束を閉じ、ベッドの隣に置く。
これはデレのために書いた話だ。自分が持っていたって仕方ないし、そもそも見舞いの品として持ってきたもの。ここに置いていくのが妥当だろう。

デレの寝顔を盗み見る。
彼女の柔らかな前髪が、瞳の上に被っている。
静まりかえった部屋の中、彼女の髪に軽く指先で触れ、目の上にかからないように払う。

ふと、静かすぎるのが気になって、僕はベランダへ続いている部屋の窓を見た。
雨風が止んでいる。
その窓の隣、細長く、綺麗なクリアブルーの花瓶に挿された、一輪の花が空調の風で揺れている。

171名無しさん:2024/08/05(月) 00:33:08 ID:cfzOUW3g0

僕は、その白い花の名前を知っていた。

アネモネ。
花に興味がない人間でも惹かれるほどに、大きな花弁が特徴的な春の花。
この部屋にあるみたいに白いものだと、確か4月2日の誕生花になる。
花言葉も色々とあるが、代表的なものなら、確か――。

(; ^ν^)(―――いや、待て)

(; ^ν^)(なんで、そんなこと、知ってるんだ?)

記憶の矛盾に気が付いて、思考を止める。
僕は花になど興味がない。小説を読んで触れた程度の知識なら知っているが、いつの誕生花なのかだの、花言葉だの、そんなことは知らないし調べた覚えもない。

僕は知らない。興味もない。
花が好きなのは僕じゃない。僕の幼馴染だ。
学校からの帰り道や、暇を持て余して休日に外へ遊びに行った時、いつの季節でも道端に咲いている花を指差しては愛でる、奇特な少女の方だ。

では、何故。僕が知っているのか。
いつ、どこで、どうして、こんなどこにでもありそうな花の名前を、覚えているのだろうか。

172名無しさん:2024/08/05(月) 00:38:19 ID:cfzOUW3g0

( ^ν^)「………あぁ、そうか」

一人、納得した声が漏れる。
雨の音も、窓を揺らす風の音もない静かな部屋の中で、僕はやっと気が付いた。
思えば、最初から変だった。
気が付いたら土砂降りの外にいたり、バスに乗ったと思ったら、幼馴染の家に居たり。

いや、そもそも。
君がまだ、僕の前で笑ってる時点で、気が付くべきだったのだ。

ベッドへと視線を移す。
健やかな寝息を立てて眠るデレの頬に、軽く手の甲を当ててゆっくりと撫でる。

思い出した。
僕が一番最初に書いた話は、これだった。
何かの童話をモデルにしたであろう話を、幼馴染のアイデアを勝手に拝借し、更にオマージュしただけの話。
つまらないにも程がある、いわば、盗作の盗作の、そのまた盗作。

そうだった。
一番最初に筆を執った理由は、ひどく陳腐で、つまらないものだった。
例えるなら、盗んできた無地の絵に、盗んできた絵の具で色を付けたような、そんな泥棒みたいな思い出だ。

それでも、そんなものでも。
理由も、行動も、結果も、どれもがひどくつまらないものに思えたとしても。
他人にどう思われようとも、僕自身がどう思おうとも。

173名無しさん:2024/08/05(月) 00:40:23 ID:cfzOUW3g0

( ^ν^)「………………デレ」

( ^ν^)「……………」

( ^ν^)「……君。そういえば、そうか」


君が笑ってくれたのなら。
それだけでいいかと、心の底から思えたのだ。


「そんな顔で笑ってたんだな」

全てが白に染まっていく。自分の輪郭すら、まるで知覚できなくなっていく。

名残惜しくも、彼女の頬からゆっくりと手を離す。
寸前、少しだけ、デレの口角が上がった気がした。

174名無しさん:2024/08/05(月) 00:40:50 ID:cfzOUW3g0


*


目が覚めると、そこは、見慣れたカフェの中だった。

175名無しさん:2024/08/05(月) 00:42:01 ID:cfzOUW3g0

正確にはカフェじゃない。
『ファンファーレ』という、カフェスペースのあるパティスリー。要するに、ケーキ屋だ。

顔を上げる。テーブルの上には白紙のままのメモ帳と、すっかり冷たくなったエスプレッソが置いてある。
カップの中の液体は未だになみなみとしていて、減った様子がない。

( ^ν^)(………寝すぎた)

頭をガシガシと掻き、眠気覚ましにコーヒーを一気に飲み干す。
ひどく冷たく、苦い液体が喉を痛いくらいに潤し、胃の中へと注がれていった。

ポケットからスマホを取り出す。
時刻は夕方。もうすぐ店は閉まる時間だし、進めるつもりだった文字は一字すら進んじゃいない。

諦めの色を含んだ溜息を吐く。
まぁ、久しぶりに良い夢を見れた。その分、リフレッシュは出来たと考えることにしよう。

176名無しさん:2024/08/05(月) 00:42:28 ID:cfzOUW3g0

テーブルに掛けられていた伝票を持ち、席を立つ。
左のポケットから財布を取り出しつつ、ガラス越しに外を見た。
傘を持ってはいるものの、開かずに歩いている人々がちらほらと見える。


どうやら、とっくに雨風は止んでいたようだった。

177名無しさん:2024/08/05(月) 00:45:14 ID:cfzOUW3g0
第二話は以上となります。
第三話の公演開始まで、今しばらくお待ちください。

178名無しさん:2024/08/13(火) 00:24:43 ID:p6ZSnx..0
茜ちゃん見て投下気付いた、おつ!
ファンファーレって店に、バイオリン好きのツンちゃんがいるデレちゃん…もしやプラ心ともリンクしてる?


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