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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

2440名無しさん:2019/01/17(木) 20:06:47 ID:dfb3bRCo0
https://www.sankei.com/west/news/190117/wst1901170036-n1.html
【維新150年】外交官が見たOSAKA
大阪メトロ谷町九丁目駅から高津宮(こうづぐう)に向かった。谷町筋から西へ1本入った中寺町は文字通り寺院が連なる町。大相撲春場所の頃には、界隈(かいわい)の寺を宿所とする力士の姿も見られる。
 めざす正法寺(大阪市中央区中寺)は“高津さん”の参道の手前に見えた。幕末、大坂(大阪)に入った英国のハリー・パークス公使ら同国代表団のために幕府は正法寺など4つの寺を提供した。パークスの有能な部下で通訳のアーネスト・サトウが宿泊した本覚寺は、通りをはさんで東のマンションあたりにあった。
すでに幕府の機能は大坂(大阪)城にあり、英国のほか、フランス、米国、オランダの代表団も中寺町周辺に宿所=臨時公使館を置いた。大坂は外交の舞台となり、初めて見る異国人に街はざわめいていた。
   
× × ×
 慶応2(1866)年12月、徳川慶喜が「最後の将軍」となり、幕府は4カ国の公使に大坂城で会談すると通知した。第2次征長戦争で敗れ、大坂開市・兵庫開港問題で外国と朝廷とのはざまに立つ慶喜が、「積極的開国」で外国に友誼(ゆうぎ)をアピールし、併せて朝廷と薩長を牽制(けんせい)する狙いだったのだろうか。
 会談の事前準備でサトウが同僚3人と大坂に入ったのは翌年の慶応3年1月12日。その回想録「一外交官の見た明治維新」(坂田精一訳、岩波文庫)にサトウが綴(つづ)る。
 《大坂(オーザカ)の町に着いた。大きな木橋(天満橋)を渡り、左へ折れ、右へ曲がり、長い街路を通ってようやく本覚院(寺)に着いた》
 一行には護衛の兵士が付き、宿舎では外国係の役人の歓待を受けたようだ。食卓に葡萄(ぶどう)酒が置かれ、トイレには石けんとオー・デ・コロンも用意されていた。
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 翌日、早速、大坂一の繁華街、心斎橋筋に散歩に出かけたが、そこには異様な風景が広がる。
 《黒山のような人々が異国人の姿をひと目見ようと、後ろからぞろぞろついてきた。暗くなるまで本屋や呉服屋をひやかしながら歩き回った》
https://www.sankei.com/west/news/190117/wst1901170036-n2.html
将軍と外国公使の会談は3月末から4月初めにかけて行われた。パークスら英国代表団は3月25日、大坂城本丸御殿白書院で初めて慶喜に謁見(えっけん)した。
 このときの慶喜の印象をサトウは「日本人の中でも最も貴族的な容貌をそなえた一人で立派な紳士であった」と称賛した。洋式の晩餐(ばんさん)の卓上でもきわめて慇懃(いんぎん)で、パークスが壁に飾られた三十六歌仙の絵をほめると、慶喜はその1枚を贈ったという。
 サトウは大坂を拠点に多忙な日々を送った。兵庫開港が勅許され、川口と神戸の居留地が決まると、その準備のため幕府役人と交渉を重ねた。長崎で英国水兵が殺害されたイカルス号事件では、幕府最高幹部や前土佐藩主の山内容堂、長崎奉行らと折衝。この間、大坂で諸藩有力者と交流し、特に薩摩の西郷隆盛らとは緊密な関係を築いていた。
 大阪城公園の玉造口にある「市民の森」。かつて玉造口定番(じょうばん)=城代を補佐する当番の大名=の下屋敷がその一角にあり、大政奉還から1カ月後の慶応3年11月下旬、英国公使館は中寺町から、この広大な屋敷に移った。ちなみにフランス公使館は今の大阪家庭裁判所付近にあったとされる。
 城外とはいえ、本丸御殿まで徒歩数分という、大坂でも超一等地に移ったのは幕府の英仏への期待の表れだった。それは、政権を返上したとはいえ、引き続き新体制の中心となって日本を統治し、外交を継承するという慶喜の意思の表れだったのかもしれない。
 その慶喜が王政復古のクーデターを受けて都落ちした12月12日、サトウは京橋口で騎馬の一隊を迎える。
 《日本人はみなひざまずいた。私たちはこの転落の偉人に脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、顔はやつれて物悲しげであった》
 年が明けた1月3日の夜、サトウは伏見方面に大きな火の手を見る。慶喜が城を脱出したことを知るのは7日朝。2日後、城からのぼった白煙が黒煙の雲に変わるころ、公使館は群衆の略奪に遭っていた。
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 サトウは大坂で幕府の最期を目撃したのである。(今村義明)

 アーネスト・サトウ(1843〜1929年) 英国の外交官、日本研究家。文久2(1862)年8月、駐日公使館の通訳として横浜に着任し、幕府や諸藩との交渉で活躍。日本語が堪能で、的確な情勢分析、情報収集力は高く評価された。横浜の英字新聞に発表した「英国策論」は日本語に翻訳され、その後の明治維新にも影響を与えたとされる。明治28年、駐日特命全権公使。

2441名無しさん:2019/01/20(日) 18:24:11 ID:NrdB.GxU0
20日、難波八阪神社「綱引神事」
2019年1月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190117/20190117034.html

 大阪市浪速区の難波八阪神社(粟辻勲宮司)で20日、年頭恒例の「綱引(つなひき)神事」(大阪市指定無形民俗文化財)が執り行われる。

 同神社の祭神スサノオノミコトが八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除いたという故事に基づく伝統行事。江戸時代に出版された「摂津名所図会(ずえ)」などにも紹介されている

 午前8時から神事を斎行。文化財保持者である綱引神事保存会(竹立威三雄会長)が奉仕し、細縄を幾重にもより合わせ、オロチに見立てた全長約30メートルの大綱を制作する。

 完成後は大綱を抱えて綱引きを行うほか、神社周辺の氏地を巡行する。一般参拝者も工程を見学可。

 問い合わせは電話06(6641)1149。

2442名無しさん:2019/01/20(日) 18:40:42 ID:NrdB.GxU0
「お弓神事」で景気向上祈願 御霊神社
2019年1月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190118/20190118027.html

 大阪市中央区の御霊神社(園文夫宮司)で17日、「お弓神事」が厳かに執り行われた。平安時代の宮中行事で大的を射る「射礼(じゃらい)」にちなむ年頭行事。都心の静寂な境内で古式ゆかしく弓の作法が披露され、多くの参拝者が矢の行方を追った。

 本内周辺は古くからの一大商業地であることから、当たり矢で景気向上も祈願したとも伝わる。

 近隣の大阪ガスの弓道部所属の2人が奉仕。本殿でおはらいを受けた後、境内に設けられた直径約70センチの的を狙い、1人が3本ずつ矢を放った。矢が的に立つと、見守る人々から歓声と拍手が沸いた。

 拝殿内の神事では、弓を持った神職が矢を射る所作を繰り返す四方邪気ばらいのほか、みこによる弓神楽も奉納された。

 園宮司は「今年は変化の多い年になると思われるが、皆さんには平穏に過ごしていただきたい」と話した。

2443名無しさん:2019/01/20(日) 19:34:52 ID:NrdB.GxU0
長原遺跡の出土品・さまざまな埴輪から知る、古代大阪の展覧会
1/19(土) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190119-00056191-lmaga-l27

 大阪市内の大規模な遺跡「長原遺跡」(大阪市平野区)に着目した展覧会が、1月26日より「大阪歴史博物館」(大阪市中央区)でおこなわれる。

 大阪の古代遺跡といえば、堺市や羽曳野市の巨大な前方後円墳が有名だが、長原遺跡も大規模なもの。発掘調査は昭和49年(1974)から始まった。その結果、200基を超す規模の古墳群や多彩なモノ作りを行った集落(居住域)の存在が明らかに。本展では墓葬・生活・生産に注目し、約450点の資料で大阪の古墳時代を振りかえる。

第1章では長原古墳群を特徴づける形象埴輪や円筒埴輪を一堂に展覧。国指定重要文化財に指定されている「船形埴輪」を中心に、近畿地方で出土した主な船形埴輪も展示する。第2章では古墳時代中期から後期(4世紀後半〜6世紀)に形成された長原遺跡の全貌を4期に分けて紹介。第3章では古墳群に葬られた人々が暮らした集落跡としての長原遺跡を紹介する。

大阪の歴史は豊臣秀吉が大坂城を築いた近世以降がクローズアップされがちだが、実は古代にも豊かな文化が広がっていた。本展を通してその実相を確認して。期間は3月17日まで、料金は大人1000円。

文/小吹隆文(美術ライター)

2444名無しさん:2019/01/20(日) 19:38:26 ID:NrdB.GxU0
徳川家光ゆかりの「釣鐘」、立ち退き危機から一転…“救世主”現る
1/18(金) 19:10配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190118-00026193-mbsnews-l27

 大阪城の近くにある徳川家光ゆかりの釣鐘。この鐘がわけあって立ち退きの危機に瀕していましたが、その後、“救世主”が現れてピンチを脱したようです。

 ビルやマンションが建ち並ぶ大阪市中央区釣鐘町の一角に「時報鐘」はあります。1日3回、コンピューターで制御された棒が自動で動き、鐘を鳴らします。

 「朝8時には鳴るので、鳴ると、あ、8時なんやなと思う」(近所の人)
 「お寺の鐘あるでしょ、あれと違うね。静かないい音ですよ」
 「朝と昼と夕方。大切ですよこの音は」

 地元の人にも愛されるこの釣鐘を守っているのは、地域の保存会の会長・梅本憲史さんです。

 「これはみなさんの持ち物だから、みんなが守っていかないといけない。だから、これからも大事に大事にしてあげてくださいね」(大坂町中時報鐘顕彰保存会 梅本憲史会長)

 「時報鐘」の歴史は古く約380年前、江戸幕府の3代将軍・徳川家光が大阪城を訪れた際、大阪の地代、いまで言う固定資産税を永代免除としました。これに感謝した町民が記念に鐘をつくったと伝わっていて、釣鐘は明治時代に入ると寺や博物館などを転々としました。その後、梅本さんら地元の要望もあり、1985年にいまの場所に戻ってきました。しかし、歴史的価値の高いこの釣鐘が存続の危機に直面していました。

 「唐突に出てきて買い取れとか言われても、ちょっと私どもにとっては寝耳に水」(梅本憲史会長・2017年)

 釣鐘のある土地を所有する大阪市内の不動産会社が3年前、事前に通知した上で、保存会と大阪府を相手に土地の明け渡しを求めて提訴したのです。鐘が町に戻ってきた当時の土地の所有者と保存会との間では「土地は無償貸与する」との協定が結ばれていて、大阪府が保存会の連帯保証人となっていました。その後、2010年に今回の不動産会社が協定を引き継いで土地を購入。不動産会社は鐘のある17坪の土地の買い取り手を探しましたが見つからず、年間約17万円の固定資産税をこれ以上負担するのは困難として提訴する事態となったのです。そんな釣鐘に突如、“救世主”が現れました。

 「(土地を)買い取りますと、私どもにとっては願ってもないことだった」(梅本憲史会長)

 去年、鐘の窮状を知った大阪市内の会社経営の男性が保存会に鐘のある土地の買い取りを申し出てきたのです。そして去年11月、不動産会社が男性に1500万円で売却することを条件に和解が成立しました。

 「本当に頼もしい限りですね。庶民が徳川さんの善政をみなさんに知っていただこうということではじまった鐘なんでね、今になって固定資産税でまた苦労せなあかんのは皮肉な話」(梅本憲史会長)

 守られた鐘の音。保存会の梅本さんは男性と一緒に知恵を絞って長く守っていく方法を考えていきたいとしています。

2445名無しさん:2019/01/23(水) 20:45:27 ID:z0ZZDKf.0
江戸初期に大坂幕府構想?「ゆくゆく御居城に」 小堀遠州の書状公開
https://mainichi.jp/articles/20190123/k00/00m/040/197000c

 大阪城天守閣(大阪市)は23日、江戸時代初期に大坂幕府構想があったことを
示す小堀遠州の書状を26日〜3月19日に大阪城天守閣で展示すると発表した。

 大坂夏の陣(1615年)で焼けた大坂城の再築担当となった小堀遠州が義父・
藤堂高虎に宛てた寛永3(1626)年12月17日付の書状で、縦17センチ、横245センチ。
昨年、三重県に住む収集家が名古屋市の古美術商から購入。12月に三重大や…
(以下会員限定有料記事)


毎日新聞・会員限定有料記事(2019年1月23日 20時24分、最終更新 1月23日 20時25分)

2446名無しさん:2019/01/23(水) 22:04:48 ID:z0ZZDKf.0
大阪城天守閣に調査を依頼した。
 書状では朝廷に生まれた親王に対する祝儀を贈り終わったことや、徳川秀忠の上洛予定を質問していた。
https://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/entertainment/kyodo_nor-2019012301001999.html

2447名無しさん:2019/01/23(水) 22:31:10 ID:z0ZZDKf.0
更なる解説
http://hawksbaseballparkchikugo.whdnews.com/p/1812/zpKgKJUD1.html

2448名無しさん:2019/01/27(日) 13:46:28 ID:NrdB.GxU0
四天王寺庚申堂で「初庚申」 護摩木の炎に願い託し
2019年1月24日

 えとの組み合わせで約2カ月に一度巡ってくる「庚(かのえ)」と「申(さる)」の日にちなんだ信仰行事「庚申(こうしん)まいり」で、新年最初となる初庚申が23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺庚申堂であった。初庚申の際にのみ行われる盛大な柴灯(さいとう)大護摩供も斎行。無病息災や所願成就などの願いが込められた護摩木が盛大にたかれ、大勢の参詣者が立ち上る炎に手を合わせた。
 
 四天王寺庚申堂は、日本の庚申尊出現の地とされ、徐災無病の霊験を持つ青面(しょうめん)金剛童子(秘仏)が祭られている。

 護摩供では、同寺僧侶と奈良県大峯山の修験行者が奉仕。願文を読み上げた後、古式ゆかしい作法で点火されると無数の護摩木が高く燃え上がった。

 点火に先立ち護摩壇の四方を清める奉剣や、実際に弓で軽く矢を放つ奉弓などの作法も行われた。

 参詣者の宮北三郎さん(83)=同市生野区=は、昨年の初庚申で偶然キャッチした矢を持参し丁重に返納。「おかげで一年を無事に過ごすことができた」と話し、伝統行事をカメラに収めていた。

 年内の庚申まいり(本庚申)は、3月24日▽5月23日▽7月22日▽9月20日▽11月19日。それぞれの前日に宵庚申が執り行われる。

2449名無しさん:2019/01/28(月) 20:05:10 ID:NrdB.GxU0
「大坂幕府構想」書状初公開
01月26日 12時44分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190126/0011966.html

 江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す書状が、26日から大阪城天守閣で公開されています。

この書状は、大坂の陣のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたものです。
書状の中で遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。
誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で、遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
展示室を訪れた人は、大坂を徳川幕府の本拠地とする大坂幕府構想が検討されていた可能性を示す書状を興味深そうに眺めていました。
山口県から訪れた男性は「徳川は江戸城にずっといるものと感じていたが、大阪に居城を構えていたら日本の首都になっていたかもしれないと思うと、歴史の偶然を感じますね」と話していました。
この書状は3月19日まで大阪城天守閣で公開されています。

2450名無しさん:2019/01/30(水) 18:59:23 ID:NrdB.GxU0
ウメキタフロアに静御前 3月のうめだ文楽アピール
2019年1月29日 https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190129/20190129030.html


 3月に大阪市北区のグランフロント大阪北館4階ナレッジシアターで上演する「うめだ文楽2019」の出演者が28日、同館6階のウメキタフロアで文楽人形の練り歩きを行った。食事中の会社員らが驚いた様子でカメラを向ける中、「静御前」などの人形を操りながら公演をPRした。

 大阪が誇る伝統芸能である文楽をより多くの人に親しんでもらおうと、在阪民放5局とナレッジキャピタルが2015年から毎年上演。今年は5周年を祝して初めて2演目用意し、「二人三番叟(ににんさんばそう)」と「義経千本桜〜道行初音旅(みちゆきはつねのたび)〜」を上演する。

 練り歩きには「義経千本桜」に登場する「静御前」と「狐(キツネ)」の人形2体が登場。吉田簑紫郎さん、吉田玉彦さん、吉田簑之さん、吉田玉延さんらが、食事中の会社員らにあいさつしながらフロアを回った。

 簑紫郎さんは「初めて見る方にも分かりやすく、華やかな演目です。若手で力を合わせて頑張りたい」と話した。公演は3月29〜31日に行われる。

2451名無しさん:2019/02/04(月) 20:04:14 ID:NrdB.GxU0
繁昌亭 改修で6月から休館に
02月02日 12時24分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190202/0012230.html

 大阪の上方落語専門の定席「天満天神繁昌亭」が、設備の改修のため、ことし6月から1か月間、休館することになりました。

繁昌亭は大阪・北区にある上方落語専門の寄席で、平成18年にオープンして以来、ほぼ休みなく上方落語の公演を行ってきました。
しかし、オープンから10年以上たち設備の老朽化が目立っていて、去年は天井につり下げられたちょうちんが割れたり、空調設備が壊れたりといったトラブルがあったということです。
このため繁昌亭を運営する上方落語協会は、設備の改修工事を行うことを決め、ことし6月から1か月間、休館することになりました。
工事では約1200個のちょうちんをすべて入れ替えるほか、ロビーも拡充するということで、7月には公演を再開するということです。
また、再開後は昼間の公演について座席指定ができるようにするほか、開演時間をこれまでより1時間遅い午後2時にするということで、ゆっくりと昼食を食べたあと落語を鑑賞したいという要望に応えたいとしています。
上方落語協会の笑福亭仁智会長は、「お客さんが快適に過ごせるようにしたい。新しくなった繁昌亭で、よりいっそうおもしろく落語を見てもらえると思う」とコメントしています。

2452名無しさん:2019/02/05(火) 22:36:20 ID:NrdB.GxU0
長原古墳群の埴輪一堂に 大阪歴史博物館で特別展
2019年2月2日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190202/20190202054.html

 大阪市平野区に広がる長原遺跡の出土品にスポットを当てた特別展「はにわ大行進-長原古墳群と長原遺跡」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。同遺跡の長原古墳群(4世紀後半〜6世紀)から出た埴輪(はにわ)を一堂に集め、「古墳時代の先進地であった大阪」に迫っている。3月17日まで。

長原遺跡は面積3平方キロメートルで、旧石器時代から始まる複合遺跡。地下鉄谷町線延伸工事に伴い1974年から発掘調査が始まり、長原古墳群からは200基以上が発見されている。調査は規模を縮小しながら現在も続いている。

 同展では人物や動物、建物、船、武具などを模した「形象埴輪」や「円筒埴輪」など約450点を展示。3章構成で、1章は埴輪の展示、2章では古墳群を4期に分けて紹介。3章では古墳群に葬られた人々の暮らしを浮き彫りにしている。

 形象埴輪の中でも、船形埴輪は船首と船尾が上下に分かれる二体構造を精巧に模したものなどを展示。動物埴輪には馬や鳥があり、当時の人々の生活と動物との関わりをうかがい知ることができる。

 主催団体の一つである大阪文化財研究所の南秀雄所長は「大阪市の考古学のルーツは、一つは難波宮で、もう一方は長原遺跡といっても過言ではない」と指摘。「大阪市の埴輪が一堂に展示されるのはまれな例であり、市内にこんな素晴らしい古墳群が埋もれていることを知っていただければ幸い」と話していた。

 関連行事として、記念講演会「発掘45周年 長原古墳群と長原遺跡」が23日に同館4階講堂で開かれる。講師は大阪文化財研究所の大庭重信学芸員と、高橋工学芸員。定員250人(先着順)、参加費300円(特別展の観覧券もしくは半券提示で無料)。

2453名無しさん:2019/02/05(火) 23:31:25 ID:NrdB.GxU0
無病息災願い舌鼓 厄よけの「天王寺かぶら汁」
2019年2月4日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190204/20190204036.html

 なにわの伝統野菜の一つである「天王寺蕪(かぶら)」の発祥地とされる、大阪市天王寺区の四天王寺は3日、節分の故事にちなんだ厄よけの「天王寺かぶら汁」を境内で販売した。参拝者らは無病息災を願い、温かいカブに舌鼓を打ちながらおいしそうに頬張った。

 
天王寺蕪は根が扁平(へんぺい)で、一般のカブに比べて甘みが強い白カブ。2015年から催しを手掛ける同寺によると、江戸時代には旧天王寺村の名物として竹垣に干したカブが商われたという。味に引かれた信濃の僧が故郷へ種を持ち帰り、その子孫が野沢菜に派生したという口伝も残る。

 境内では、干したカブと葉、同じ伝統野菜の難波葱(ねぎ)、大阪湾で採れたノリを具材にした白みそ仕立てのみそ汁と麦飯、野沢菜漬けを提供した。

 今年は初めて四天王寺中の生徒が、境内で育てたカブも材料に加えた。1食千円で販売したところ、用意した400食は2時間足らずで完売した。

 府内に実家があるという会社員女性(54)=奈良県大和高田市=は「体が温まった。境内にカブが干してあり、由来も知れて味わい深かった」と満足そうだった。

2454名無しさん:2019/02/08(金) 21:14:19 ID:NrdB.GxU0
甲冑姿の300人練る 三好長慶公武者行列in大東
2019年2月7日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190207/20190207033.html

 大東市は3月2日、同市の「飯盛城」を居城とした戦国大名・三好長慶をたたえ、約300人が甲冑(かっちゅう)姿で市内を練り歩く「第3回三好長慶公武者行列in大東」を開催する。

 長慶は近畿から四国の広大な地域を支配。堺を拠点に独自の海外交易ルートを確立し、キリスト教を保護する政治手腕を発揮した。

 小説や映画の表舞台に出ることがない長慶だが、2015年に市民による「大東・三好長慶会」(河村共之代表)が発足。武者行列は17年から始めた。

 今年は初めて長慶役を公募。11人の応募者の中から、同市にキャンパスがある大阪産業大経済学部の小川雅司教授(43)が選ばれた。

 観光など地域政策が専門で「その日だけヒーローの気分。飯盛山と三好長慶の二つの宝を市民の方に知ってほしい」と意気込む。

 武者行列には、子ども時代の長慶役3人、長慶の父・元長ら三好家も登場。長慶ゆかりの高槻市や堺市、出身地の徳島県三好市からも“援軍”が来る。

 当日は正午に「いいもりぷらざ」を出発。東高野街道から野崎参道商店街を回る2.5キロを2時間かけて歩く。会場では、長慶の紹介コーナーや物産展も行われる。

2455名無しさん:2019/02/08(金) 21:30:15 ID:NrdB.GxU0
大阪天満宮で「針供養」
02月08日 11時52分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190208/0012441.html

 使い古した針を特大のこんにゃくに刺して労をねぎらう「針供養」が、大阪天満宮で行われました。

針供養は、使い古した針をやわらかいものに刺すことで感謝をあらわすとともに裁縫技術の上達を祈る伝統行事です。
大阪・北区の大阪天満宮では、奈良時代に刺しゅうや裁縫の技術を日本に伝えたとされる遣唐使の吉備真備がまつられていることから、およそ90年前から毎年行われています。
8日は和服を仕立てる和裁士や服飾を学ぶ生徒などおよそ1000人が参加し、幅50センチ、高さが10センチほどの特大のこんにゃくに縫い針やまち針を次々と刺して針を供養していました。
兵庫県西宮市から訪れた60代の女性は「和裁を習っているので、うまくなるように1年間使ってきた針を供養にきました」と話していました。
大阪府内で洋裁教室を開いている40代の女性は「生徒たちの技術の上達と、服作りの楽しさが普及するよう願いを込めました」と話していました。

2456名無しさん:2019/02/09(土) 15:58:24 ID:ylDuNnHU0
梅酒展示でギネス世界記録
02月09日 12時42分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190209/0012468.html

 梅酒を1度にどれだけ多く展示したかでギネス世界記録を目指す催しが大阪天満宮で行われ、295種類で世界記録に認定されました。

この催しは、大阪天満宮の「梅酒まつり」にあわせて地元の商店街などが企画し、神社の本殿には全国各地から集められた梅酒の瓶が並べられました。
ギネス世界記録の公式認定員が一つ一つ銘柄を確認し、295種類の梅酒が展示されているとして、初めてのギネス世界記録に認定されました。
このあと会場では、これらの梅酒が一杯100円から500円で販売され、訪れた大勢の人たちが飲み比べるなどして楽しんでいました。
大阪市の40代の男性は、「これだけたくさんの種類があるとどれを飲もうか迷ってしまいます。何杯か飲みましたが、もう5杯ほど味わいたいです」と話していました。
催しを企画した実行委員会の上田久雄さんは、「ギネス世界記録に認定されてとてもうれしいです。大阪には国内外からたくさんの観光客が訪れるので今回の認定を機に、1人でも多くの方に大阪天満宮に足を運んでもらい地域の活性につながればいいです」と話していました。
これらの梅酒を味わえる「梅酒まつり」は、11日まで開かれています。

2457名無しさん:2019/02/09(土) 16:07:45 ID:ylDuNnHU0
1年間の労ねぎらう 大阪天満宮「お針祭」
2019年2月9日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190209/20190209051.html

 裁縫上達を願い、豆腐やこんにゃくといった軟らかいものに針を刺すお針祭(針供養)が8日、大阪市北区の大阪天満宮で行われた。大阪和服裁縫協同組合(大森貴之理事長)が主催し、職人らが1年間の針の労をねぎらいながら、さらなる精進を誓った。

 境内には日本に刺繍(ししゅう)技術を伝え、「縫い物の神様」といわれる吉備真備をまつる吉備社がある。

 長さ約40センチ、厚さ約10センチの巨大こんにゃくが用意され、参拝した人たちは縫い針やまち針、ミシン針を刺して手を合わせた。針は吉備社の針塚に納められた。和裁用具の販売やバザーもあり、境内はにぎわった。

 大森理事長は「針を大事にしながら仕事に精進し、伝統の針の技術を次の時代に伝えていきたい」と決意を新たにした。

2458名無しさん:2019/02/09(土) 16:58:26 ID:ylDuNnHU0
「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令
『渡邊大門』 2019/01/27
https://ironna.jp/article/11765

渡邊大門(歴史学者)

 前回、戦国時代における人身売買の実態について、武田氏などの例を見てきた。今回は、豊臣秀吉が織田信長に代わって天下取りに名乗りを上げて以降、人身売買にどのような対策を講じたのかを確認することにしよう。

 秀吉の天下取りは、戦いの連続であった。信長が本能寺の変で横死した天正10(1582)年6月以降の主な戦いに限って列挙すると、次のようになる。

 ①天正10年――明智光秀を滅亡に追い込む(山崎の戦い)。

 ②天正11年――柴田勝家を滅亡に追い込む。

 ③天正12年――徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)。

 ④天正13年――土佐の長宗我部氏を降伏に追い込む(四国征伐)。

 ⑤天正14年――薩摩の島津氏を降伏に追い込む(九州征伐)。

 ⑥天正18年――小田原北条氏を滅亡に追い込む。

 この間にも小さな戦いはたくさんあり、秀吉は全国平定に向けて、着々と足元を固めていった。戦いでは雑兵による略奪行為の「乱取り」が行われ、それが人身売買の温床になったことは言うまでもない。秀吉は人身売買を禁止すべく熱心に対策を講じており、九州征伐や小田原征伐において関係史料を確認することができる。

 天正14年の九州征伐の直前、薩摩の戦国大名・島津氏に対抗すべく、秀吉に助けを求めたのは豊後の戦国大名・大友宗麟である。かつて大友氏は九州北部を統一する勢いだったが、この頃には島津氏を相手に苦戦を強いられていた。

 宗麟は日の出の勢いの秀吉に助力を求めたが、島津氏は秀吉の実力を侮っていた。そして、大友氏を血祭りに上げるべく、豊後に攻め込んだのである。戦乱の中で、乱取りや人身売買に苦しめられたのが、豊後に住む普通の人々であった。ポルトガル人宣教師のフロイスは著作『日本史』で、乱取りや人身売買の惨状を次のように記している。

 薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来(長崎県諫早市)に運んで売った。このように三会・島原(以上、長崎県島原市)では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。

 実に生々しい光景である。島津氏配下の雑兵は捕らえた豊後の人々を肥後で売ろうとしたが、飢饉により売買が困難と知るや、今度は現在の長崎県諫早市へ行って売買した。売られた人々は、かなりの数であったことが判明する。

 いくら奴隷が安価な労働力とはいえ、二束三文とはあまりに安すぎる。この話が事実であったことは、島津氏の家臣、上井覚兼(うわい・かくけん)の日記『上井覚兼日記』天正14年7月12日条に次の通り記されている。

 路次すがら、疵(きず)を負った人に会った。そのほか濫妨人(らんぼうにん、乱暴狼藉を働く人)などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。

 島津領内には、戦いで負傷した兵卒たちも帰還したが、濫妨人は戦利品として豊後から女や子供をたくさん引き連れ、道が混雑していたというのである。戦利品として人を略奪するのは、すでに当たり前になっていた。

2459名無しさん:2019/02/09(土) 17:00:33 ID:ylDuNnHU0
https://ironna.jp/article/11765?p=2

 この惨劇を目の当たりにしたであろう秀吉は、いかなる対応をしたのであろうか。以下、確認しておこう。

 先に掲出したフロイスや上井覚兼の記述は事実であり、秀吉はすぐに人身売買の対策を行った。天正16年8月になって、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状を発給している(「下川文書」)。次に示しておく。

 豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること。

 この文書は、加藤清正と小西行長に宛てられたものである。2人が肥後国に配置されたのは、天正16年閏5月15日のことである。したがって、2人の肥後入部直後には、秀吉から指示があったと考えられる。

 この場合、人を買った者には、秀吉からの金銭的な補償はなく、「買い損」ということになっている。では、どのような理由があって、秀吉は買われた人々を豊後へ連れ戻す措置を指示したのだろうか。

 戦場で雑兵が戦利品として人々を連れ去り、売買することは前回も述べた。しかし、戦争で田畑が荒れ果てたうえ、肝心の農民たちが他国に売買されたとなると、農村の復興が進まなくなる。それでは農作物の収穫がなくなるので、大名領国化の経済を揺るがす、非常に大きな問題だった。

 逃散(ちょうさん)などによって農地が放棄されるがごとく、人身売買によって肝心の耕作者がいなくなってしまうことは、秀吉の本意ではなかった。秀吉はこれまでも、戦争後に還住令(逃げた農民が元の土地に戻るよう勧める法令)を発布するなどし、戦災後の復興に力を入れていた。そうでなければ、土地を奪い取った意味がなくなるからである。

 同じような朱印状は、筑後の大名である立花宗茂と毛利秀包(ひでかね)にも発給された。やはり、対象となったのは、豊後から筑後へ売買された人々の扱いであった。大友氏の領国である豊後は戦場になったのであるが、年貢を納入する主体の農民が数多く連れ去られ、農村の荒廃が進んでいたのは疑いないところである。

 秀吉の人身売買禁止という強い姿勢は、降伏に追い込んだ島津氏にも向けられた。次に、史料を掲出しておこう(「島津家文書」)。

 先年、豊後から連れ去った男女のことは、薩摩の領内を捜し出し、見付け次第に帰国させることを申し付ける。隠し置いた場合は、落ち度である。人の売買は一切禁止することは、先年定めたとはいえ、重ねて言うところである。

 本文書の発給された年次は不詳であるが、天正16年ごろと見るのが妥当ではないだろうか。和睦したとはいえ、薩摩・島津氏は大身の大名である。それでも容赦せずに、薩摩領内にいる豊後の人々を帰還させるように命じた。2行目の後半部分にあるように、人身売買禁止はすでに決まっており、重ねての通知だったようだ。

https://ironna.jp/article/11765?p=3

 ところが、人身売買の禁止令は、戦場となった豊後だけが対象ではなかった。次に、秀吉が寺沢広高に宛てた朱印状を挙げておこう(「島津家文書」)。

 薩摩出水、肥後水俣の侍・百姓、男女に限らず、薩摩・大隅・日向そのほか隣国へ彼らが買い取られたことを聞いた。法度の旨に任せて、早々に召し返して帰還させるように申し付ける。もし違反する者があったら、すぐに報告すること。右の趣旨を堅く申し触れ、彼らを帰還させること

2460名無しさん:2019/02/09(土) 17:03:27 ID:ylDuNnHU0
 薩摩出水(鹿児島県出水市)、肥後水俣(熊本県水俣市)では侍・百姓や男女を問わず、島津氏領国の薩摩・大隅・日向やその隣国で売買されていた。秀吉は、それらの人々を早急に帰還させよというのである。こちらも本文に記されているように、人身売買は違法行為であることが強調されている。

 実は、薩摩出水、肥後水俣を治めていた島津忠辰(ただとき)は、秀吉にその領土を没収されていた。その後の措置にあたったのが肥前唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高であったが、混乱の中で領内の多くの人々は売り払われたのであろう。これでは、戦後の復興はままならない。秀吉は人身売買禁止という方針をもとに、その対策を広高に命じたのであった。

 かつて、戦場における人の略奪は、当然の行為として認識されてきた印象がある。しかし、秀吉は人の略奪や人身売買禁止という政策を採った。その方針は、国内の大戦争である小田原北条氏との戦いでも受け継がれた。

 天下取りを目指す豊臣秀吉にとって、最後の強敵は小田原北条氏を残すのみとなった。北条氏は関東一円を支配下に収め、その実力は侮れないものがあった。

 天正17年11月の名胡桃(なぐるみ)城事件が秀吉の惣無事(私戦の禁止)の基調に違反したため、同年末に秀吉は北条氏に宣戦布告し、両者の戦いが始まった。名胡桃城事件とは、沼田城代の北条氏の家臣である猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が、謀略によって真田昌幸の名胡桃城を占拠した事件である。戦いは関東各地で繰り広げられたが、北条氏は徐々に劣勢に追い込まれ、ついに天正18年6月に小田原開城となった。

 この間、秀吉は諸大名に対して、人身売買を禁じる旨を申し伝えている。天正18年4月27日、秀吉は上杉景勝に宛てて朱印状を発給した。次に、内容を確認しておこう(「上杉家文書」)。

 国々の地下人・百姓などは、小田原町中の外で、ことごとく還住させることを申し付ける。そのような中で、人身売買を行う者があるという。言語道断で許しがたいことである。人を売る者も買う者も、ともに罪科は軽いものではない。人を買った者は、早々に彼らをもといた場所に返すこと。以後、人の売買は堅く禁止するので、下々まで厳重に申し付けること。

 小田原城が戦場になったものの、戦いは関東各地で繰り広げられたので、人々は戦火を避けてあっちこっちに避難したのであろう。豊臣方は戦いを優勢に進める中で、未だに戦場である小田原町を除き、そのほかの場所については、百姓らを帰還させるように手配した。秀吉は戦争が終結した地域から順に、復興を進めたのである。

https://ironna.jp/article/11765?p=4

 一連の措置には、人々が元にいた場所に帰還させることによって、できるだけ早く戦後復興を円滑に進めるという目的があった。しかし、戦争というどさくさの状況で、人身売買が横行したこともあり、秀吉はその禁止を命じた。それは人を買う者であっても、売る者であっても罪は等しく重かったのである。

 上杉景勝が主戦場としていたのは、松井田城(群馬県安中市)であり、同年4月22日に城主である大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)は降伏していた。人身売買の禁止は、それから5日後の措置である。実は、ほぼ同内容の書状は、同年4月29日に秀吉から真田昌幸に送られている(「真田家文書」)。

 つまり、戦いが終わった場所では、速やかに人を帰還させるように昌幸に命じ、その間の人身売買を無効としたうえで、人を売買する者の摘発を命じている。やはり小田原を除いているのは、まだ同地では戦争が継続していたからである。

 秀吉の人身売買禁止令は、小田原北条氏の滅亡後も徹底していた。天正18年8月、秀吉は下野の宇都宮国綱に対して掟書の条々を送った。そのポイントは、次の2つになろう(「宇都宮家蔵文書」)。

2461名無しさん:2019/02/09(土) 17:05:09 ID:ylDuNnHU0
・百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者は召し返すこと。

・人身売買は、一切禁止すること。

 重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐということになろう。同時に人身売買によって、貴重な労働力が移動することも危惧された。つまり、人身売買の禁止というのは、さまざまな目的があるものの、倫理的、人道的な問題というよりも、むしろ労働力の問題として重視されたと考えられる。

 天正18年以降に秀吉が発給したと考えられる文書には、次のような規定がなされている(「紀伊続風土記」所収文書)。

 人の売買については、一切禁止する。天正十六年以降、人が売買された件は無効とする。今後、人を売る者はもちろんのこと、買う者についても罪とするので、噂を聞きつけて報告した者には褒美を遣わす。

 このように見る限り、天正16年という年を一つの基点にしていることがわかる。また、これまで人を買った者は、未だに罪として認識していなかったようである。売る方は積極的であったが、買う方は受動的であったので罪が軽かったのだろうか。いずれにしても、人身売買は売るのも買うのも、罪は等しくされたのである。

 そもそも人を略奪して人身売買をすることは、出陣した兵の給与の一部のようなものだった。しかし、戦後復興を考えたとき、人身売買によって人がいなくなり、耕作地が荒れると収穫が減るので大問題だった。それゆえ秀吉は倫理的、人道的というよりも、労働力の問題として、人身売買を禁止したのである。こうして経済基盤の安定化を図ったのである。

 ところで、人身売買の問題を考えるには、キリスト教や南蛮貿易のこと、また、ポルトガル商人を通して日本人奴隷が海外に売りさばかれた例を検討する必要がある。秀吉は日本人奴隷が海外に輸出されることを懸念していた。この点に関しては、次回に取り上げることにしよう。

2462名無しさん:2019/02/09(土) 17:08:13 ID:ylDuNnHU0
「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈
『渡邊大門』 2019/02/09
https://ironna.jp/article/11884
渡邊大門(歴史学者)

 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。

 最初に、キリスト教の布教について説明しておく。船による長距離の移動が可能になり、ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になった。これが大航海時代である。商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。

 1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。彼らは清貧・貞潔・服従を誓約し、イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。

 その中には、後に日本でキリスト教布教の中心的な役割を果たした、フランシスコ・ザビエルも含まれている。イエズス会は、1540年にローマ教皇の認可を受けた。以降、イエズス会の面々は、アジアや新大陸で熱心に布教活動を行った。

 ザビエルとは、いかなる人物なのだろうか。ザビエルが誕生したのは1506年のことで、日本ではちょうど戦国時代が始まったころである。ザビエルは、ナバラ王国(ピレネー山脈西南部)出身のバスク人であった。

 ザビエルは19歳でパリ大学の聖バルバラ学院で神学を学び、イエズス会の創設に加わった。1542年にはインドのゴアに派遣され、布教活動に従事した。その後、ザビエルはマラッカで布教中に、「アンジロー」という薩摩出身の日本人と会う。これが日本へ赴くきっかけとなった。

 1549年4月、ゴアを出発したザビエルは、8月に薩摩に上陸した。ザビエルは島津貴久に面会を求めるなど精力的に活動し、周防の大内義隆や豊後の大友宗麟に布教への理解を求めた。ザビエルは2年余り伝道を行い、いったんインドに帰国し、さらに中国へと向かうが、1552年に中国の広東で病没した。ザビエルの布教活動により、キリスト教に理解を示した人々もいたので、大きな功績と言えるであろう。

 ザビエルの後を受け継ぐかのごとく、登場したのがルイス・フロイスである。1532年、フロイスはポルトガルのリスボンに誕生した。16歳でイエズス会に入り、その後はインドに渡海した。フロイスが日本への渡海を果たしたのは、永禄6(1563)年のことである。

 肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸したフロイスは、スペイン出身の宣教師、フェルナンデスから日本語と日本の習俗について教えを受けた。その後、織田信長や豊臣秀吉に接近し、円滑に布教活動を行うべく奮闘した。これまでもたびたび引用した、フロイスの『日本史』は当時の日本を知る上で、貴重な史料である。

 キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。天文12(1543)年にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。

 ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ、生糸など多くの物資がもたらされた。逆に、日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。

 これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。

 ムーア人とは現在のモロッコやモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。キリシタンからすれば、異教徒だった。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取ったという。

https://ironna.jp/article/11884?p=2

 このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵攻し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外(主にアフリカ)から奴隷を調達することにより、復活を遂げたのである。では、奴隷制度は宗教的に問題はなかったのだろうか。

 1454年、アフリカら奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次の通りである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。

2463名無しさん:2019/02/09(土) 17:10:09 ID:ylDuNnHU0

神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。

 文中の「その国民」と「彼らは」とは、アフリカから連行された奴隷たちを意味している。奴隷の多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の恩寵」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。

 そして、彼らの魂はキリストの利益になると強引に解釈し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリスト教徒にとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。

 当初、アフリカがヨーロッパに近かったため、かなり遠い日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、海外との交易が盛んになり、その魔の手は着々と伸びていたのである。この問題に関しては、岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』(六甲書房)に詳しいので以下、同書を参照して考えてみたい。

 日本でイエズス会が布教を始めて以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次の通りである。

①ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。

②買い取った日本人奴隷を解放すること。

③禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。

 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。彼らが安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見た通りである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね二つに集約することができよう。

 一つは、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジア諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのである。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。

https://ironna.jp/article/11884?p=3

 もう一つの問題は、イエズス会とポルトガル商人にかかわるものであるが、こちらは後述することにしたい。

 では、秀吉は日本人奴隷の問題にどう対処したのだろうか。天正14年から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉の勝利に終わった。前回触れたが、戦場となった豊後では百姓らが捕らえられ、それぞれの大名の領国へと連れ去られた。

 奴隷商人が関与していたのは疑いなく、秀吉によって人身売買は固く禁止された。実は、人身売買に関与していたのは、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあったのである。

 そのような事情を受けて、秀吉は強い決意をもって、人身売買の問題に取り組んだ。天正15年4月、島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋した。そこで、ついに問題が発生する。

 翌天正16年6月、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである(『イエズス会日本年報』下)。次に、お互いの主張を挙げておこう。

2464名無しさん:2019/02/09(土) 17:13:09 ID:ylDuNnHU0
秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」

コエリョ「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」

 秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。コエリョが実際にどう思ったのかは分からないが、答えは苦し紛れのものであった。

 しかも、奴隷売買の原因を異教徒の日本人に求めており、自分たちは悪くないとした上で、あくまで売る者が悪いと主張しているのである。もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。

 日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。

日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。

 この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。

2465名無しさん:2019/02/09(土) 17:15:21 ID:ylDuNnHU0
 それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。

 理由がいかなるところにあれ、秀吉にとって日本人が奴隷として海外に輸出されることは、決して許されることではなかった。また、イエズス会にとっては、片方でキリスト教を布教しながら、一方で奴隷売買を黙認することは、伝道する上で大きな障壁となった。イエズス会は、苦境に立たされたと言えよう。そうした観点から、彼らはポルトガル国王に奴隷売買の禁止を要請していたのである。

 しかし、日本に合法的な奴隷が存在すれば、話は別である。率直に言えば、当時の奴隷は家畜のように売買される存在であった。モノを売るのであれば、それはまったく問題ないと解釈することが可能である。

 幸か不幸か、少なくとも奴隷売買商人は、日本には法律で認められた奴隷が存在すると考えていた。次の史料は、牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣)に紹介された史料である。

日本には奴隷が存在するか否か、また何ゆえに奴隷となるのか。また子供は、奴隷である父もしくは母の状態を継続するのか否か。彼ら(=奴隷売買商人)が答えて言うには、奴隷は存在する、と。奴隷は戦争中に発生する。また、貧しい親は自分の子供を売って、奴隷とする場合もある。(以下、二つ目の質問に関する回答)子供は次の方法によって、親の状態を受け継ぐ。つまり、父が奴隷で母が自由民の場合は、誕生した男子は奴隷で、女性は自由人である。父が自由人で母が奴隷の場合は、誕生した男子は自由人で、女性は奴隷である。両親とも奴隷の場合は、誕生した男女はともに奴隷である。

 この問答の様子は、イエズス会が奴隷売買業者を破門にするか否かの尋問を記録したものである。牧氏が指摘するように、この回答は的を射たものである。たとえば、奴隷が戦争中に発生するというのも、これまで戦場での略奪行為「乱取り」で見てきた通りである。親が子を売る例も、たびたび見られた。

 加えて、親の奴隷身分(あるいは自由民の身分)がどのような形で引き継がれるかも、日本の慣習に符合したものであった。当時における日本の情勢と比較して、彼らの言葉に特段の矛盾点は見られないようである。

 このような解釈が存在したため、イエズス会では奴隷売買の商人による日本人奴隷の売買を黙認していた節がある。とはいうものの、こうしたデリケートな問題は、徐々にキリスト教の布教をやりにくくしていった。

 大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、日本人奴隷の売買に関与していたということである。そのような状況の中で出されたのが、先述したポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。

 ここで触れた、ポルトガル商人による奴隷売買については、次回も続けて取り上げることにしよう。

2466名無しさん:2019/02/11(月) 13:09:29 ID:NrdB.GxU0
強運の鐘 次代へ
01/31 05:00
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/feature/CO005844/20190130-OYTAT50037/

 近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」でお初と徳兵衛が心中に向かう際に聞いた鐘の音が、現在も大阪の人たちに時刻を知らせている。大阪市中央区の「大坂町中時報鐘おおさかまちじゅうじほうしょう」(高さ1.9メートル、重さ3トン)。午前8時と正午、日没の1日3回、コンピューター制御でつかれる鐘は、数奇な運命をたどってきた。

 寛永11年(1634年)、江戸幕府の3代将軍・徳川家光は豊臣びいきの大坂の町民の心をつかむため、現在の固定資産税にあたる「地子銀じしぎん」を城下で免除した。鐘は、この恩に報いようと町民が資金を出し合って造ったものだ。2時間おきにつかれ、4度の大火を経ても焼失せず、時報の役目を果たし続けた。

 明治初期に大阪城内から打ち出される号砲が新たな「時報」になった後、鐘は寺や博物館を転々とした。1926年から府庁に保管されていたが、85年に地元の声に応えて元々あった「釣鐘屋敷跡」に戻った。

 毎年、6月10日(時の記念日)と大みそかには実際に鐘つきを体験できる。大坂町中時報鐘顕彰保存会の梅本憲史会長(76)は「戦時中の金属供出も免れて残った、まさに『強運の鐘』。平成が終わっても世代を超えて愛されてほしい」と話す。(吉野拓也)

2467名無しさん:2019/02/17(日) 11:57:39 ID:NrdB.GxU0
人間国宝一堂に 上方芸能フェスティバル
2019年2月15日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190215/20190215038.html

 25日に開場する「クール・ジャパン・パーク大阪」(JR・大阪メトロ森ノ宮駅前)のこけら落とし公演の一つとして、SSホール(300席)を使って関西在住の人間国宝らを集めた「上方芸能フェスティバル」が開催される。「なじみの薄い芸にも触れて」「芸の奥深さを感じて」と出演者は張り切っている。

 
初日の25日は「おめでたづくし」(午後7時開演)として、まずは祝い事の趣を持った能「猩々乱(しょうじょうみだれ)」を人間国宝の三島元太郎が太鼓方を務めて上演する。文楽はお祝いの定番「二人三番叟(さんばそう)」を人間国宝の吉田和生が演じる。筑前琵琶の人間国宝奥村旭翠による「那須与一」と続き、トリは桂文枝の創作落語「鯛(たい)」で締める。

 翌日から午後2時と7時の2回公演となり、26日は華やかな芸の魅力に触れる「忠信三変化」がテーマで、後場に焦点を当てた半能「忠信」、文楽は「義経千本桜」で狐(きつね)忠信の段、落語は林家菊丸が忠信と義経千本桜ゆかりの「猫の忠信」を口演。トリは講談で旭堂南海が「忠信三変化」。

 最終日の27日は、多彩さを演出する「船弁慶三体」がテーマで、半能で「船弁慶」の原型を見た後、文楽「義経千本桜」から知盛幽霊の段、筑前琵琶で奥村旭翠が「船弁慶」を奏で、落語「船弁慶」を月亭文都が口演。トリは講談「船弁慶三体」を真打ち講釈師の旭堂南龍が読む。

 文楽の吉田和生は「いずれも大阪で育てていただいた芸。テーマ別で一度に見られる機会はめったにありません。ぜひなじみの薄い芸にも触れてみてください」と説明。人間国宝の結集に、上方落語協会の文枝・前会長は「それぞれの芸の奥深さを感じていただければ。それにしてもこれだけ人間国宝の方が集まられると壮観ですな。私も『どうしたらなれるのか』とうかがっておかないと…」と笑いを取ると、三島と奥村は口をそろえ「うまいからなっているのではなく、後継者を育てるのが責務です」と恐縮する一幕も。

 期間中、ホールロビーでこれらの伝統芸能に関するふれあい展示会を開催。衣装や楽器、文楽人形などを展示し、入場者に無料で公開する。

 入場料7千円(25日のみ9千円)、当日券は500円増し。問い合わせは電話0570(550)100、チケットよしもと。

2468名無しさん:2019/02/17(日) 12:21:48 ID:NrdB.GxU0
天皇皇后両陛下ご結婚60年の写真展 大丸梅田店
2/16(土) 11:59配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190216-00026622-mbsnewsv-l27

 ことし4月にご結婚60年を迎える天皇皇后両陛下のこれまでの歩みを振り返る写真展が大阪で始まりました。

 日本中がお祝いムードに沸いたご結婚パレードの様子の写真。(当時)沿道を埋めた約53万人に笑顔で応えられました。ご静養のため訪れた奥日光での1枚は、仲睦まじい姿が印象的です。

 16日に大阪の大丸梅田店で始まった「天皇皇后両陛下」の写真展。ご成婚60年を記念して企画されたもので、被災地のお見舞いや高齢者など福祉施設の訪問のご様子などをおさめた写真約150点が展示されています。天皇としてのご公務をまもなく次へ引き継がれることもあり関心は高く、会場には朝から多くの人が訪れています。

 写真展は大丸梅田店で来月4日までです。

2469名無しさん:2019/02/17(日) 13:17:57 ID:NrdB.GxU0
特攻隊員恋文 思い切々
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20190216-OYTNT50250/

北区 ギャラリーよみうりで企画展

 太平洋戦争末期に特攻隊員が記した手紙や遺書、写真などを公開する企画展「恋人への最後の手紙」が、大阪市北区のギャラリーよみうりで開かれている。主催する知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)は「隊員一人一人に、かけがえのない人生があったことを知ってほしい」と呼びかけている。

 九州最南端の陸軍特攻基地跡に立つ会館では、沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員1036人の遺書などを保管。戦後70年あまりが経過し、戦争を知る世代が少なくなっていることから、積極的に県外での展示を実施している。府内では今回、初めて実現した。

 会場では、23歳で戦死した福島県出身の穴澤利夫大尉と、府出身の特攻隊員6人が恋人や家族に宛てた手紙の複製を展示。最愛の人に向けた言葉の数々からは、自分の死後も相手の幸せを願う純粋で、強い思いが伝わってくる。

 穴澤大尉の展示では、婚約者への聞き取りや手紙を基に、2人の出会いから戦死までを説明。特攻隊入隊前に愛を打ち明けられた婚約者が恋文を読んだ後、「眺めた空が殊に美しく思われた」とつづったメモや、穴澤大尉が「あなたの幸せを希ねがふ以外に何物もない」と記した最後の手紙などを紹介している。

 大阪市阿倍野区の会社員山田彩世さん(30)は「激動の時代を生きた若い恋人たちの言葉に触れ、どんな思いで過ごしていたのかと胸が痛んだ。日々を大切に生きようと思った」と振り返り、堺市中区の会社員先山信次さん(63)は「貴重な史料を見ることができてよかった。県外展示は、すばらしい試み」と話した。

 入場無料で20日まで。問い合わせは知覧特攻平和会館(0993・83・2525)。

2470名無しさん:2019/02/17(日) 13:40:17 ID:NrdB.GxU0
川口さんグランプリ 四天王寺写真コン
2019年2月17日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190217/20190217034.html

 聖徳太子創建として知られる和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区、森田俊朗管長)が主催する「第4回四天王寺フォトコンテスト」の各賞が決まり、最高賞のグランプリ大賞には大阪府の川口清榮さんの作品「護符を求めて」が選ばれた。

 同フォトコンは、四天王寺の数多い年中行事や四季折々の風景を題材として開催。昨年7〜9月の募集期間に大阪府内外から251点の力作が寄せられ、写真家の和栗敬一郎さんを審査委員長に、同寺関係者など審査員が厳正に審査した。

 川口さんの作品は、年頭の修正会結願(しゅしょうえけちがん)日に執り行われる伝統行事「どやどや」を撮影。若者らが境内・六時礼讃堂で冷水を浴びながらも、天井からわずかにまかれる護符(お札)をつかもうとする躍動感あふれる姿を捉えた。

 このほか準グランプリ賞(2点)や各特別賞、入賞などが決定。全入選作品は同寺ホームページ上で公開している。

2471名無しさん:2019/02/18(月) 18:58:09 ID:7/nDZLDA0
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2019021702000146.html

直木孝次郎さん死去 古代史研究で指導的役割
2019年2月17日

 日本古代史研究で指導的役割を果たした大阪市立大名誉教授の直木孝次郎(なおきこうじろう)さんが二日、老衰のため死去した。百歳。神戸市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長女東野美穂子(とうのみほこ)さん。
 一九四三年、京都帝国大を卒業して海軍に入隊、海軍士官で終戦を迎えた。大阪市立大教授、岡山大教授などを歴任した。
 文献を中心にした律令(りつりょう)国家成立過程の研究で知られ五四年には続日本紀研究会の立ち上げに参加した。極彩色壁画が見つかった奈良県明日香村の高松塚古墳では、被葬者を天武天皇の皇子である忍壁(おさかべ)皇子と早くから推論し注目を浴びた。邪馬台国論争では畿内説の立場で加わるなど幅広く研究し、戦後の古代史研究の指導者的役割を果たした。大阪の河内地方の勢力が初期大和政権を打倒したとする河内政権説を唱えた。
 また、平城宮(奈良市)、難波宮(大阪市)の保存運動も率いたほか、万葉集に詠まれた和歌山市の和歌浦の景観訴訟も支援した。
 万葉集にひかれ、古代を学ぶ傍ら、歌にも親しみ、八七年の歌会始の召人にも選ばれた。
 憲法九条を守り、改憲を阻止しようと結成された「九条の会・おおさか」の発起人にも名を連ねた。八九年に大阪文化賞、二〇〇〇年に和島誠一賞、〇三年に井上靖文化賞を受賞。
 著書に「日本古代国家の構造」「古代河内政権の研究」など。

2472名無しさん:2019/02/20(水) 20:47:57 ID:NrdB.GxU0
「大阪落語への招待」 市立大が4月から公開授業
2019年2月20日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190220/20190220042.html

 大阪市立大は2019年4月に杉本キャンパス(大阪市住吉区)で開講する公開授業「大阪落語への招待」の受講者を募集している。受講無料。

 講師には大阪市大の久堀裕朗教授に加え、四代目桂春團治さん、桂春雨さんら第一線で活躍する落語家を客員教授として迎える。

 江戸落語との違いや、歌舞伎や音曲との関係など、その歴史や表現の特色を明らかにし、大阪の文化・芸能・市民生活について考える機会を提供する。

 期間は4月10日〜7月24日の全14回。開講時間は午後5時10分〜同6時50分。

 対象は18歳以上で全期間通じて受講可能な人。募集人数は100人(申し込み多数の場合は抽選で、初めての人優先)。

 申し込みは大阪市大ホームページからメールで、または往復はがきで。問い合わせは電話06(6605)3504、大阪市大地域連携センター「大阪落語への招待」係。締め切りは3月1日必着。

2473名無しさん:2019/02/20(水) 22:02:47 ID:NrdB.GxU0
大山古墳発掘調査を報告
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20190217-OYTNT50182/

 堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)で昨年、宮内庁と堺市が初めて共同で行った発掘調査について、市の学芸員が17日、同市北区で開かれた「百舌鳥もず古墳群講演会」の中で調査結果を報告し、参加した約800人が耳を傾けた。

 調査は、陵墓の保全整備に向けた基礎資料の収集を目的に昨年に実施。今回、市民らに調査について知ってもらおうと、講演会の中で説明することにした。

 調査した市文化財課の海辺博史さんが登壇。今回、堤の外側で円筒埴輪はにわ列が見つかったことに触れ、海辺さんは「堤の内側からも出てくると思っていたが予想外だった。本当に外側だけなのかは今回の調査だけではわからない」と述べた。石が敷き詰められていたことは、「堤を装飾する目的だったのか、保護だったのか。今後の課題だ」などと語った。

 ロビーでは発掘現場の写真などパネルも並べられ、訪れた人たちが熱心に見入っていた。パネルは19日〜3月3日に市博物館でも展示する予定。

2474名無しさん:2019/02/24(日) 15:16:16 ID:NrdB.GxU0
うめだ文楽盛り上げよう 記念ラッピングカー登場
2019年2月24日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190224/20190224033.html

 3月に大阪市北区のグランフロント大阪北館のナレッジシアターで上演する「うめだ文楽2019」を盛り上げようと、同館1階に上演を記念したラッピングカーが登場した。演目の世界観を落とし込んだデザインの乗用車が来館者の注目を集めている。

 メルセデス・ベンツの乗用車に、うめだ文楽の上演演目でもある「義経千本桜」に登場する「静御前」や「狐(きつね)」などが描かれ、鼓からの音色を車体全体に広がるようにデザインした。

 21日に同所で行われた除幕式で、人形遣いの吉田簑紫郎さんと吉田玉勢さんらが、人形の静御前と佐藤忠信を操り除幕。簑紫郎さんは「斬新で見たことないメルセデスになっている。本番を見る前に気持ちが高まる」と感激した。

 うめだ文楽は、より多くの人に伝統芸能の文楽に親しんでもらおうと、在阪民放5局とナレッジキャピタルが2015年から毎年上演。車両は、千秋楽の3月31日まで展示される。

2475名無しさん:2019/02/24(日) 15:20:06 ID:NrdB.GxU0
笑福亭松之助さん死去
02月22日 22時21分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190222/0012869.html

 上方落語界の長老として知られ、タレントの明石家さんまさんの師匠で名付け親でもある笑福亭松之助さんが、22日、亡くなりました。93歳でした。

笑福亭松之助さん、本名、明石徳三さんは、大正14年、神戸市に生まれ、昭和23年、5代目・笑福亭松鶴さんに入門しました。
松之助さんは、古典落語だけでなく数々の新作落語を創作し、明るくとぼけたキャラクターで人気を博したほか、当時、喜劇を中心に上演していた「宝塚新芸座」などで役者としても活躍しました。
その後、吉本新喜劇の前身にあたる「吉本ヴァラエティ」で座長を務め、映画やNHKの連続テレビ小説「わかば」や「まんてん」にも出演しました。
昭和49年には、明石家さんまさんが弟子入りし、明石家さんまという名前の名付け親になったことでも知られています。
また、70歳近くになってから出場した日本マスターズ水泳協会大阪大会の200メートル自由形で1位になるなど、水泳が趣味だったことでも知られていました。
関係者によりますと松之助さんは、最近は体調を崩して入院していましたが、22日、兵庫県内の病院で93歳で亡くなりました。

2476名無しさん:2019/02/24(日) 15:25:33 ID:NrdB.GxU0
江戸時代の人気浮世絵師 作品展
02月23日 12時39分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190223/0012877.html

 アメリカの収集家が集めた菱川師宣や葛飾北斎など江戸時代の人気浮世絵師たちの作品を集めた展示会が、23日から大阪・難波の百貨店で始まりました。

この展示会は、アメリカの収集家が所蔵する浮世絵のうち、江戸時代の人気浮世絵師たちの作品およそ160点あまりが、時代を追って展示されています。
このうち浮世絵の祖ともされる菱川師宣の「衝立のかげ」という作品は、衝立のかげで若い男女が見つめ合う場面を描いた作品で、伸びやかな線と素朴な色合いが初期の浮世絵の特徴を表しています。
また葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」は13点が展示されていて、このうち「神奈川沖浪裏」は、富士山を背景に荒波が船を襲う様子をダイナミックな描写で描いています。
ほかにも北斎や喜多川歌麿の世界に数点しか残っていない貴重な作品なども展示されています。
監修に参加した浮世絵研究家の岩切友里子さんは「このような世界的に貴重な作品が一同に集まる機会はめったにありません。ぜひごらんください」と話していました。
この展示会は、大阪・難波の高島屋大阪店で3月11日まで開かれています。

2477名無しさん:2019/02/24(日) 15:30:20 ID:NrdB.GxU0
天皇陛下即位30年 皇居で祝賀行事
2019年2月24日 11時28分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826311000.html?utm_int=all_side_ranking-social_004

 天皇皇后両陛下は24日、皇居で天皇陛下の即位30年を祝う行事に臨み、皇太子ご夫妻など皇族方から祝賀を受けられました。




天皇陛下は、先月7日に即位30年を迎えられ、24日の午後には、これを記念する政府主催の式典が、両陛下も出席されて東京の国立劇場で開かれます。

これに先立って、皇居・宮殿の「松の間」では、午前中、天皇陛下が皇后さまとともに、皇族方の祝賀を受けられました。

はじめに、皇太子さまが雅子さまとともに天皇陛下の前に進み出て「ご即位30年心からお祝い申し上げます」と述べられると、天皇陛下が「どうもありがとう」と答えられました。

続いて、秋篠宮ご夫妻など皇族方が、それぞれお祝いを述べられました。

午後の記念式典では、安倍総理大臣や衆参両院の議長のほか、国民を代表して福島県の内堀知事などが祝辞を述べたあと、天皇陛下がおことばを述べられます。

2478名無しさん:2019/02/24(日) 15:31:54 ID:NrdB.GxU0
天皇陛下おことば 全文
2019年2月24日 15時24分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html

 在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。

島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。

しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。

これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。

災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。

数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。

2479名無しさん:2019/02/24(日) 15:32:34 ID:NrdB.GxU0
心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。

そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

2480名無しさん:2019/02/24(日) 16:06:18 ID:NrdB.GxU0
大阪・船場で恒例のひな祭り 旧家のひな人形を一般公開 /大阪
2/22(金) 7:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190222-00000002-minkei-l27

 「船場のおひなまつり2019」が2月26日、大阪・北船場エリア一帯で始まる。主催は船場博覧会実行委員会。(船場経済新聞)

 船場の歴史や文化を発信するため、毎年ひなまつりに合わせて船場の旧家に伝わるひな飾りを一般に公開する同イベント。今年で5回目を迎える。

 イベントのメインは「船場のおひなさま展」。公開するのは、新井家、尾嵜家、芝川家、別所家、鷹岡家、生駒家など9つの旧家のひな人形で、今年は、宗田(むねた)家、三原家の人形が加わった。宗田家の住居は大正時代の町家建築で、昨年リノベーションしたことをきっかけに、これまで「大阪くらしの今昔館」(北区天神橋)で展示されていたひな人形が「里帰り」するという。

 「花外楼」(北浜1)や「吉野寿司」(淡路町3)などの老舗店が特別メニューを提供する企画では、うなぎ料理の「本家柴藤(ほんけしばとう)」(高麗橋2)が初参加し、「ひなまつり御膳」(5,240円)を用意する。

 ほか、「五人ばやし」に扮した山本能楽堂の山本章弘さんらによる演奏や、子どもを対象にした撮影会など、老若男女問わず楽しめる関連イベントも展開する。

 各イベントの開催時間は会場により異なる。3月3日まで。

2481名無しさん:2019/02/24(日) 16:10:14 ID:NrdB.GxU0
大阪歴史博物館が特集、多才な指物師・三好木屑の遺した作品
2/24(日) 9:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190224-00060067-lmaga-l27

 クギや接着剤を一切使わずに、家具を作る木工技術「指物」。「指物師」と呼ばれる家具作りのプロでありながら、他ジャンルの芸術も追求した大阪の職人・三好木屑(みよし・もくしょう)を取り上げる展示が「大阪歴史博物館」(大阪市中央区)で開催される。

 これまでも、大阪に生きた文化人にまつわる特別展示『なにわ人物誌』を開催してきた同博物館。今回フィーチャーされる指物師・三代目三好木屑は、祖父の代から活動した指物師でありながら、「漆」など家具作りとは全く勝手の違う芸術にチャレンジし続けた「奇才」として知られている。本展では指物に加え、そうした漆作品も展示する。

陶工・野々村仁清による陶器の名作を漆で再現した作品からは、いくつかの芸術・技術を行き来しようとする彼の好奇心が見て取れる。また、茶道具の家具について書き残した歴史的な資料「香茶棚物図誌」も公開。期間は3月20日から5月6日までとなる。

2482名無しさん:2019/02/28(木) 20:14:39 ID:NrdB.GxU0
歴史や文化 再発見 「船場のおひなまつり」始まる
2019年2月27日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190227/20190227024.html

 大阪・船場地区の旧家に伝わる貴重なひな人形などを公開する「春の船場博覧会2019『船場のおひなまつり』」(実行委主催)が26日、大阪市中央区内で始まった。多くの市民が八つの展示会場を巡りながら、船場が育んだ歴史文化の再発見を楽しんでいる。3月3日まで。

 このうち同区伏見町3丁目の芝川ビル4階では、芝川家に伝わる大正・昭和初期頃のひな飾りをはじめ、一族の芝川照吉氏が収集した日本各地の民芸・工芸品のひな飾りの数々を展示している。

 来場者は、色彩や細やかな仕上げに「どれも立派」「すてきな時代があった」と感心しながら見入っていた。このほか戦前の船場のモダンな生活を記録した写真も紹介し、注目を集めている。

 ◇同会場では、最終日にひな飾りの前で「こども撮影会」(午前10時〜同11時、申し込み不要・無料)を実施するなど、会期中は各会場でイベントを予定している。問い合わせは電話06(6681)6170、実行委(平日午前10時〜午後4時)。

2483名無しさん:2019/02/28(木) 20:59:28 ID:NrdB.GxU0
力士と対戦、礼儀も学ぶ 住吉大社で園児50人
2019年2月27日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190227/20190227023.html

 大相撲春場所(3月10日初日、エディオンアリーナ大阪)を前に、立浪部屋が合宿する大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で26日、地元の園児を稽古場に招く「わんぱく相撲体験」があった。同区内の墨江、住吉の両幼稚園から計約50人が参加し、大きな力士にぶつかりながら礼儀もしっかりと学んだ。

同大社と同部屋の協力で毎年開かれており、今年で8回目。園児らは立浪耐治親方(元小結・旭豊)と11人の力士に迎えられ、四股踏みなどの準備運動から体験した。

 「勝っても負けてもきちんとあいさつする」と教わった後、5人一組が一礼して力士と“対戦”。土俵際に追い込むたびに「押せ、押せ」の大歓声で沸いた。終了後、全園児がお礼のあいさつで「春場所頑張ってください。応援しています」とエールを送った。

 墨江幼稚園の大倉有紀園長は「力士の皆さんと触れ合う貴重な機会をいただき感謝します。礼儀作法も含めていい経験になったと思います」と話した。

 住吉消防署の協力で消火訓練も行われ、力士らが訓練用水消火器を使って初期消火に挑んだ。

2484名無しさん:2019/03/03(日) 17:12:53 ID:NrdB.GxU0
住吉大社で横綱が土俵入り奉納
03月02日 19時09分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190302/0013087.html

 3月10日に初日を迎える大相撲春場所を前に白鵬と鶴竜の両横綱が大阪の住吉大社で、土俵入りを奉納しました。

大阪・住吉区にある住吉大社での横綱土俵入りは、春場所の成功と安全を祈願して毎年行われています。
今年は1月の初場所で稀勢の里が引退したため、白鵬と鶴竜の二横綱による土俵入りとなりました。
両横綱は、はじめに参拝したあと、白鵬が「不知火型」、鶴竜が「雲竜型」で順番に土俵入りを披露しました。
境内には2300人が訪れ、2人の横綱の力強い土俵入りに「日本一」などのかけ声とともに大きな拍手が送られていました。
白鵬は、二横綱となったことについて「横綱がだんだん少なくなってきたが、与えられた責任は変わらない。責任を果たしていきたい」と話しました。
また、貴景勝や御嶽海など若い力士の初優勝が相次いでいることについては「もっと早く出てきてもおかしくなかったし、遅いぐらいだ。一緒に場所を盛り上げられればと思う」と活躍を歓迎していました。
一方、鶴竜は「稀勢の里が引退してさみしくはあるが、やることをちゃんとやらなければという思いだ。大阪のファンは、物事をはっきり言ってくれるから好きなので、いい相撲を取って喜ばせたい」と話していました。
大相撲春場所は、3月10日に大阪府立体育会館で初日を迎えます。

2485名無しさん:2019/03/06(水) 22:24:01 ID:NrdB.GxU0
安閑天皇陵「本来の形、対称だった可能性」 研究者が立ち入り 大阪
https://mainichi.jp/articles/20190223/k00/00m/040/064000c

 宮内庁が「安閑天皇陵」として管理する大阪府羽曳野市の高屋築山古墳で22日、日本考古学協会など考古学、歴史学関係の16団体の研究者16人が立ち入り調査をし、墳丘の状況を観察した。

 高屋築山古墳は古市古墳群南部に位置する長さ約120メートルの前方後円墳で、中世には畠山氏の居城として使われていた。世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥( もず )・古市古墳群」の構成資産には含まれない。1992年の宮内庁の発掘調査では6世紀の円筒埴輪(はにわ)や須恵器が出土。東京国立博物館が所蔵するペルシャ製とみられるカットガラスの碗(わん)が出土したとの伝承がある。

 研究者らは午後1時半から約1時間半かけ墳丘の裾部分などを歩いた。日本考古学協会陵墓担当理事の杉井健・熊本大准教授は「中世の築城時に本来の斜面を削って急にするなど大きく造り変えられている。形が左右非対称なことが特徴と言われていたが、本来は対称だった可能性もある」と話した。

 陵墓は普段立ち入りが制限されているが、研究者団体の要望を受け宮内庁が2008年から条件付きで許可している。【花澤茂人】

2486名無しさん:2019/03/09(土) 16:11:14 ID:NrdB.GxU0
改元前にシステム改修の注意説明
03月07日 15時01分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190307/0013215.html

 ことし5月1日に元号を改める「改元」を控え、企業の情報システムの改修について、注意点などをまとめた説明会が大阪・中央区で開かれました。

説明会は、経済産業省が全国で実施しているもので、7日は、大阪・中央区で開かれ、企業や自治体からおよそ120人が出席しました。
経済産業省によりますと、企業の情報システムは、2000年問題を経て多くが西暦を使用するようになっていますが、和暦を使っている場合、改元に対応しなければ、日付が認識されず、会計システムの不具合などのトラブルが発生するおそれがあるということです。
そのうえで、▼自分の会社の情報システムで和暦が使われていないか確認して改修することや、▼改修後もテストを繰り返すなどの対応を促しました。
参加した企業の担当者は、「システムの改修はだいたい終わっているが、実際は、ふたを開けてみないとわからないところもある。不安もあるが何とか乗り切りたい」と話していました。

2487名無しさん:2019/03/11(月) 22:00:28 ID:NrdB.GxU0
仁徳天皇陵清掃に地元住民ら400人 大阪
3/11(月) 7:55配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190311-00000017-san-l27

 今夏の世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥・古市古墳群」のひとつ、仁徳天皇陵(堺市堺区)の周辺で10日、地元住民や高校生らによる清掃活動が行われた。

 同古墳を訪れる人たちに、気持ちよく参拝してもらおうとボランティア団体「仁徳陵をまもり隊」が呼びかけた。同隊は堺市や地域団体などが協力して平成18年に設立。清掃活動を中心に活動を年2回のペースで定期的に行っており、今回で27回目。

 この日の清掃活動には、約400人が参加。古墳周辺の歩道上で空き缶や落ち葉などのごみ拾いを行った。同隊の草野利夫事務局長(65)は「長い間、世界遺産登録のために清掃活動に励んできた。今年こそは決まってくれることを期待している」と話していた。

2488名無しさん:2019/03/13(水) 21:11:49 ID:NrdB.GxU0
小学校の校歌にも出てくる「ご神木」残したい 台風21号から半年…語り継ぐ“災害”
3/13(水) 19:06配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00026970-mbsnews-l27

 昨年秋の台風の影響で、近畿各地では倒木が相次ぐなど大きな被害が出ました。あれから約半年、大阪の神社では倒れたご神木を保存して台風被害を語り継ごうと動き始めています。

 大阪府泉大津市にある泉穴師神社。1300年以上前の創建で、本殿などが国の重要文化財に指定されている由緒ある神社です。宮司の津守康有さんの案内で境内を歩いてみると…

 「まだこの大きな木も倒れているので…」(泉穴師神社・宮司 津守康有さん)

 多くの木が倒れたままになっていました。

 「根っこから倒れている気が数十本あるので、危ない木は整備しないといけない」(泉穴師神社宮司 津守康有さん)

 昨年9月に近畿地方を非常に強い勢力で縦断した台風21号。当時、各地の街路樹や公園などで数多くの倒木被害が報告され、処理が追い付かないほどでした。泉穴師神社も例外ではなく、地域の憩いの場となっていた境内の木々が、無残になぎ倒されてしまいました。特にショックを受けたのが…

 「これが今回の台風で一番大きなクスノキが倒れたところで、だいたい600年、この神社とか氏子の人を見守ってくれていたご神木なので、倒れてしまったのは残念」(津守康有さん)

 樹齢600年ともいわれる高さ25メートルのご神木が根元から倒れてしまったのです。最初は泣く泣く切断し処分するつもりでしたが、地元のシンボルでもあった御神木を残したいと、氏子から提案があったといいます。

 「小学校の校歌にも『くすの大木』とか『穴師の森』と歌詞が入っているくらい、地元にとってはなくてはならない。(自然災害遺産として)何とか残したいなと」(氏子 辻川正實さん(69))

 慣れ親しんだご神木を残し、未曾有の台風被害を語り継ぐことにしたのです。しかし、建物の屋根の修理やほかの倒木の撤去費用もかさんでいたため、保存にかかる費用はクラウドファンディングで集めることに。お礼の品には絵馬や御朱印帳のほか、普段は公開されていない本殿の見学会が用意され、締め切りまで3日を残して約130万円の寄付が集まったのです。

 「予想以上に反響があり、クラウドファンディングはあと3日ですが、すでに目標金額を大幅に超える金額をご寄付いただきました。このクスノキを残すことで、台風21号のような大きな台風が来ることを思い返すひとつのきっかけになればと思います」(津守康有さん)

 長い間、町を見守ってきたご神木。これからは自然災害遺産として地元の人たちが語り継いでいきます。

2489名無しさん:2019/03/13(水) 21:28:16 ID:NrdB.GxU0
「四代 桂小文枝」襲名披露公演
03月13日 07時15分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190313/0013397.html

 落語家の桂きん枝さんが上方落語の名跡、「桂小文枝」を襲名し、12日夜、大阪で襲名披露公演が行われました。

「桂小文枝」は、明治時代から戦後にかけて上方落語を支えた由緒ある名跡で、きん枝さんの師匠にあたる先代の桂文枝さんが長く名乗っていたことでも知られています。
「四代 桂小文枝」を襲名したきん枝さんは12日夜、大阪・ミナミの「なんばグランド花月」で襲名披露公演を行いました。
公演では、同じ一門の六代桂文枝さんや三遊亭円楽さんら東西の落語家6人が口上を行い、このうち文枝さんは「これからも一生懸命、支えていきたいと思うので、どうかよろしくお願いします」と述べました。
そして襲名後、初めて高座に上がった小文枝さんは、変わり者で知られた男が花見の代わりに墓を見に行く「天神山」という落語を披露し、勢いある滑稽な語り口に会場からは大きな笑い声が響いていました。
公演のあと、小文枝さんは「師匠の先代文枝は小文枝という名前に愛着を持っていた。師匠には及ばないかもしれないが、この名前を次につないでいくためにも大事にしていきたい」と話していました。
桂小文枝さんの襲名披露公演は、今後1年かけて全国で行われる予定です。

2490名無しさん:2019/03/13(水) 23:07:26 ID:NrdB.GxU0
南船場で写真展「わが大阪」 古き良き大阪を見つめ直す /大阪
3/13(水) 16:18配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000044-minkei-l27

  大阪・南船場の写真ギャラリー「Photo Gallery 壹燈舎(いっとうしゃ)」(大阪市中央区南船場2、TEL 06-6121-6202)で3月12日、同ギャラリー開設10周年企画第1弾となる写真展「杉本征克写真展-わが大阪-」が始まった。(なんば経済新聞)

 同ギャラリーを主宰する杉本征克さんの個展。26歳から写真を始めた杉本さんは、会社員として働く傍ら写真を撮り続け、南船場のギャラリー「ナダール」での個展や、キヤノンの巡回展などの個展を開いたほか、グループ展にも多数出展。

 同展では、ドラマチックな場面ではなく、大阪の町と人々、日々の生活や風景といった何気ない瞬間をテーマに32点の作品を展示。ギャラリーソラリスで同時に個展を開いている写真家・河合止揚さんと共に、「2つの写真展が手触り感のある『大阪』を盛り上げることに、少しでも役に立つことができれば」との思いを込めて開催。

 杉本さんは「カジノ開発や万博で盛り上がっているが、そういうことと無関係に生活している人々の粘り強さを感じてもらえれば」と話す

 開催時間は12時〜19時(最終日は18時まで)。月曜・火曜定休。今月17日まで。

2491名無しさん:2019/03/15(金) 19:23:41 ID:NrdB.GxU0
【維新150年】立憲国家めざした「大阪会議」の地
2019.3.15 08:04
https://www.sankei.com/life/news/190315/lif1903150004-n1.html

京阪天満橋駅から大川沿いに岸辺を散策する。「八軒家浜(はちけんやはま)船着場」は水都・大阪の水上ターミナルの一つで、明治初年の頃は駅ビルの反対側、土佐堀通南側の昆布店のあたりにあった。その脇を抜け石段を上っていくと、高台の一角に「三橋楼(さんきょうろう)跡」の顕彰碑(大阪市中央区石町)。天満橋、天神橋、難波橋を眺望できる人気料亭だったという。

 東横堀川の葭屋(よしや)橋を渡って北浜へ。今は証券の街というイメージだが、古くは「蟹島新地」「今橋築地」と呼ばれた歓楽街だった。「専崎楼」や「竹式楼」など、中之島を望む高楼が軒を連ね、今橋、高麗橋の旦那衆が贔屓(ひいき)にしたが、市電開通や証券取引所の拡大でやがて姿を消した。唯一残るのが料亭「加賀伊」=「花外楼(かがいろう)」(中央区北浜)で、世に言う「大阪会議」の歴史を伝えている。

 明治7(1874)年、新政府は維新の大業なかばで崩壊という最大の危機にあった。

 直接の火種は、征韓論(武力で朝鮮を開国させるという主張)をめぐり、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派が、内政改革、国力増強を優先する大久保利通や岩倉具視らに敗れ、下野した「明治6年の政変」だ。翌年には台湾征討に失望した木戸孝允が参議を辞職、維新三傑の2人が中央政府を去った。

 当時、国内には徴兵制や急激な西洋化に反発する士族・守旧派の不満がくすぶっていた。国会の開設をめぐる急進派と漸進派の対立や、大久保の専制政治への反感もあり、日本は「反政府」で爆発する寸前だったのである。


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 大久保は木戸を政府に復帰させるため伊藤博文に協力を要請。すでに下野して大阪で実業家として活躍していた井上馨と五代友厚も水面下で動いた結果、木戸と大久保が大阪で会談することが決まった。さらに井上の画策で板垣も加わることになり、明治8年1月、三者三様の思惑をのせた大阪会議が始まった。

 最高実力者の大久保は丁重に木戸をもてなした。2週間前には大阪入りし、靱(うつぼ)の五代邸(西区靱本町)に逗留(とうりゅう)を重ねながら、1月5日、神戸に木戸を出迎えた。3日後には木戸の宿泊先「加賀伊」を訪ね、天満橋の「三橋楼」に案内し、酒席を伴う最初の会談は10時間に及んだという。

2492名無しさん:2019/03/15(金) 19:25:08 ID:NrdB.GxU0
https://www.sankei.com/life/news/190315/lif1903150004-n2.html

 ところが、この会談で酒乱の黒田清隆が暴言を吐き、木戸が激怒した。初日で決裂したかと思われたが、2人を大阪にとどまらせたのは囲碁だった。大久保は何度も木戸を囲碁に誘い、木戸も囲碁会を主催し、大久保らを呼んだ。

 一方で、伊藤は「木戸の望みは政策のみ」と、木戸の政体構想に理解を示したうえで、大久保に対し、元老院や大審院の設立、地方官会議の開催など、国会の開設と三権分立につながる4カ条の改革案を提案。伊藤の斡旋(あっせん)を軸に会合は1カ月余、加賀伊や三橋楼、伊藤の宿舎「専崎楼」などで断続的に行われた。

 この間、井上の仲介で木戸-板垣会談も実現。大久保は4カ条の改革を約束し、木戸と板垣は政府に戻ることで合意した。2月11日に加賀伊で全員が顔を合わせ、大団円を迎えたが、大阪会議はこうした予備会議、個別会談を含めた総称とするのが正確だろう。

 落ち着いた雰囲気のビルの1階、料亭「花外楼」の玄関に「大阪会議開催の地」の碑がある。大阪市が歴史的な場所や文化財を顕彰する233カ所の史跡のうち、昭和34年に指定された第1号の石碑である。

 2階に上がる階段の踊り場に「花外楼」の扁額がある。大阪会議の成功に気をよくした木戸が「加賀伊」から改めるよう与えた揮毫(きごう)である。さらに、伊藤が書いた回想録か日記の下書きのような一文が店に残っている。

 その中で伊藤は大久保の「国家ノ大政ニ就テハ木戸君の驥尾(きび)に付従シ」という言葉を引き合いに、大久保の木戸招聘(しょうへい)にかける強い決意を伝えている。

 大久保は政権の強化を図り、木戸は独裁を抑制し、板垣は国会開設を急ぐ-。大阪会議はやはり同床異夢の舞台だったのか、新政権もまもなく瓦解(がかい)する。ただ、大阪で立憲国家への方向性を示し、礎を築いたことはまちがいない。(今村義明)




 明治6年の政変 征韓論をめぐり明治政府内で起きた政変。岩倉使節団の外遊中、武力行使を辞さない征韓派と全権大使の派遣を主張する遣韓派が西郷隆盛の派遣を決定。使節団帰国後、岩倉具視や大久保利通が反対し、派遣は無期限延期となり、西郷や板垣退助らが下野、軍人や官僚約600人が一斉に辞職し、後の佐賀の乱、西南戦争につながっていく。

2493名無しさん:2019/03/17(日) 17:27:04 ID:NrdB.GxU0
蕪村のまち 伝えるで…都島の商店主ら 活性期待
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20190316-OYTNT50207/

おおさか東線 城北公園通駅

 府東部を南北に結ぶJR西日本の「おおさか東線」(新大阪―久宝寺、20・3キロ)が全線開通した16日、大阪市旭区の新駅「城北公園通駅」でも式典が開かれ、JRや地元の関係者らが開業を祝った。新大阪駅と10分弱で結ばれることになり、周辺の商店主らは「地元の魅力を発信し、活性化につなげたい」としている。

 駅西側の都島区は江戸期の俳人で画家の与謝蕪村の出身地とされる。城北公園通駅の西口は「蕪村口」と名付けられ、構内に蕪村像も設置された。蕪村通り商店街(約20店)で呉服店を夫婦で営む糀谷時子さん(82)が約10年前に地元住民と協力して造った像で、これまで店の中にあった。糀谷さんは「蕪村の俳句しか知らなかったが、絵を見て衝撃を受けた。蕪村のことをもっと知ってほしい」と話す。

 商店街の金子清治会長(71)は「駅ができれば商店街を通る人も増える。蕪村のまちだと誇りを持って伝えていきたい」と語り、開業式を見に来た都島区の自営業高橋英尊さん(37)は「新大阪とつながるので出張や旅行に使いやすい。商店街もにぎやかになるのでは」と期待する。

2494名無しさん:2019/03/17(日) 18:47:48 ID:NrdB.GxU0
「芸術選奨」に藤山直美、蒼井優、小野絢子、篠原聖一、菅原直樹ら
3/7(木) 11:40配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190307-00000029-natalies-ent

 文化庁が主催する「芸術選奨」の、2018年度受賞者が発表された。

演劇部門の文部科学大臣賞を受賞したのは文楽太夫の豊竹呂勢太夫と、「おもろい女」の成果を評価された藤山直美。新人賞には、先日、第26回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞した蒼井優が、「アンチゴーヌ」ほかの成果を認められ輝いた。

このほか、舞踊部門の大臣賞にはバレエダンサーの小野絢子、舞踊家の篠原聖一、新人賞には日本舞踊家の井上安寿子が、芸術振興の新人賞には「老いと演劇」OiBokkeShi主宰の菅原直樹が、評論等の大臣賞には「評伝 鶴屋南北」の著者・古井戸秀夫が選ばれ、メディア芸術の新人賞を蓮沼執太が獲得している。

2495名無しさん:2019/03/17(日) 19:07:56 ID:NrdB.GxU0
「天王祭舞楽」番組に 関係者、森町長に今夏放映PR
3/15(金) 7:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190315-00000007-at_s-l22

 全国各地の祭りを後世に伝える企画「ダイドードリンコ日本の祭り」を実施しているダイドードリンコ(大阪市)の関係者が14日、取り組みの一環として放映する山名神社(森町)の「天王祭舞楽」特別番組のPRのため、同町役場に太田康雄町長を訪ねた。

 舞楽は国指定重要無形民俗文化財。毎年7月に開かれ、児童らが八つの演目を披露する。カマキリを模したかぶり物を付けて演じる「蟷螂(とうろう)の舞」は全国的にも珍しく、室町時代中期に現在の大阪の四天王寺から伝えられたとされる舞楽は、京都の祇園祭の要素も含むという。

 番組は今夏に静岡放送で放送予定。舞楽の模様を事前の練習から撮影し、1時間のドキュメンタリー番組に仕上げる。

 同社の「日本の祭り事務局」の森田忠良事務局長は「地元の皆さんと祭りの関わりや歴史を踏まえ、祭りを全国にPRしたい」と意気込んだ。太田町長は「全国有数の祭りとお墨付きをいだたいた形。取り上げていただき記録にも残る」と歓迎した。

2496名無しさん:2019/03/17(日) 19:13:17 ID:NrdB.GxU0
聖徳太子の悲願だった律令制度、大化改新後はどうなったのか?
3/5(火) 18:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190305-00010144-besttimes-pol

■中臣鎌足による皇位継承の辞退案と難波宮

『日本書紀』をよく読んでみると、中大兄皇子が律令制度導入にあまり積極的でなかったと思えてくる。それどころか、むしろ中大兄皇子はこの新制度をつぶそうとさえしていたのではないかと思われる。

 
では、中大兄皇子が律令制度をつぶそうとした理由はあったのだろうか。

問題は、改新後の朝廷の動きにある。

入鹿暗殺後の朝廷が最初に取り組んだ仕事は、皇位継承問題だった。皇極女帝が譲位を申し出たのである。そしてこのとき、どういうわけかクーデターの最大の功労者、中大兄皇子が即位しなかったのだ。

『日本書紀』の記述にしたがえば、このとき皇極天皇は、まず最初に皇位を中大兄皇子に譲ろうとした。ところがこの申し出に対し、皇子の側近である中臣鎌足は辞退するよう忠告する。

「古人大兄は殿下(中大兄皇子)の異母兄、軽皇子(のちの孝徳天皇)は叔父です。それなのに、今殿下が即位すれば、人の道に反することになりましょう。そこでしばらく軽皇子を立てて民衆の願いにしたがったほうがよいと思われます」

そこで中大兄皇子は母・皇極の譲位を断ったうえで、軽皇子を推挙したのである。

2497名無しさん:2019/03/17(日) 19:17:22 ID:NrdB.GxU0
こうして孝徳天皇が誕生し、都が難波(現在の大阪)に遷され、改新の詔が出の律令制度整備のための布石であり、ここに聖徳太子の悲願は成就され
されるにいたった。ここに孝徳天皇を頂点とし、中大兄皇子が補佐するといった新体制が築きあげられたのである。そして、これは朝廷たと『日本書紀』は意味づけている。

ところが、こういった『日本書紀』の示す大化改新と律令制度という図式には、数々の腑に落ちない点が見られるのだ。

たしかに孝徳天皇は日本に新しい風を入れようと努めた気配がある。

その好例として難波宮(正確には難波長柄豊崎宮と称される)を挙げることができる。

大阪城外濠の南側の高台に位置するこの宮は、完成当時、目の前に海がせまった、水上輸送を眼中に入れた画期的な宮だった。

しかも発掘調査の結果、この宮の朝堂院の構造と規模は、のちの平城京をもしのぐほどの広さであったことが分かっている。つまり、この宮が藤原京・平城京・平安京といった都城のさきがけであったことは明らかである。

ちなみに、難波宮が完成するまでの天皇宮は天皇が替わるたびに遷しかえられるという、悪くいえば小屋に毛の生えたような意外と質素なものだった。だが、難波宮は 何代もの天皇が使用可能な構造になっていた。(次回に続く)

2498名無しさん:2019/03/17(日) 20:01:13 ID:NrdB.GxU0
「古墳」にコーフンする女子増加中! グッズ化で「女性でも好きと言いやすく」
2/1(金) 12:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190201-00014385-jprime-life&p=1

 世界遺産指定を目指す、日本最大級の古墳・仁徳天皇陵の発掘調査が、宮内庁と地元の大阪・堺市により昨年秋に行われた。

 
歴代天皇の陵墓とされる古墳を、宮内庁が外部機関と共同で発掘するのは初めての試みとあり、大きな話題を集めたが、実はここ数年、古墳が好きな女性が増加中って知ってました?

 10年ほど前に、奈良県の家具店が地元を盛り上げるためにグッズを製作。そのキュートさがネットで話題を集め、ハマる女子が急増。『古墳の歩き方』など初心者向けの本が出版されたり、ポータルサイトまで誕生するブームに♪

 そこで本誌記者が実際に現地に行って、大調査。マニアでなくても思わず欲しくなるグッズからグルメまで、古墳の楽しみ方を紹介しちゃいます♪
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女性でも好きと言いやすくなった

 古墳に関する作品もある、漫画家でイラストレーターの“古墳女子”水谷さるころさん。

「もともと興味はありましたが、足を運ぶようになったのはパワースポットとして訪れた、奈良県にある箸墓(はしはか)古墳がキッカケ。“卑弥呼の墓”ともいわれている場所なのですが、生で見て一気にハマりました」

 ’11年からは大阪・高槻市にある今城塚古墳公園で古墳×アートのコラボイベント『古墳フェスハニコット』もスタート。一昨年は2万8000人の来場者が訪れるなど、開運グッズやイベントも増加中!

「古墳シンガー・まりこふんさんが’13年に立ち上げたポータルサイト『古墳にコーフン協会』の存在が大きいですね。古墳って教科書で学ぶメジャーな存在なので、潜在的ファンは多かったと思うんです。そこに情報がまとめられたサイトができたことで、初心者も楽しみやすくなった。そして東急ハンズがグッズ販売に力を入れたり、本が出版されたことで、女性でも好きと言いやすくなった印象はありますね」

 スカパー!の旅チャンネル『行くぞ! 30日間世界一周』という企画で世界の史跡を訪れたことで、改めてその魅力に気づいたとか。

「西暦400年ごろにできた史跡が、同じ民族、文化の中で残っているのは世界的にも珍しいんです。しかも現在の日本文化とも密接な関係があり、宮内庁が管理している。古墳を通じて歴史を調べていくと、その奥深さ、日本という国の面白さも発見できると思いますよ!」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190201-00014385-jprime-life&p=2

 記者が古墳に行ってみた!大阪・堺市

 仁徳天皇陵があることで知られる堺・百舌鳥(もず)古墳群。かつては100基以上あったといわれ、現在でも44基が残っている、古墳好きの聖地。今年の世界文化遺産登録に向けて、町をあげて盛り上げているんです。そこで古墳初心者の記者が半日かけて、ガチンコ調査。古墳&ゆかりの店巡りをしてきました!

 仁徳天皇陵前にはボランティアスタッフが常駐。説明のほか、写真撮影もしてくれるので、ひとりで行っても楽しめる。

 百舌鳥・古市古墳群で撮った写真を見せるともらえる『もずふるカード』。記者は12枚ゲット!

 JR阪和線・南海電鉄の三国ヶ丘駅西出口徒歩1分の場所にある『Co.FUNカフェ』(大阪府堺市堺区向陵西町4-11-15)では、クッキーやたわしなどオリジナルグッズを多数販売中!

 JR阪和線・百舌鳥駅近くにある『お食事処 花茶碗』(大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2-265)では、古墳カレーも。このために作ったという専用容器も、古墳好きにはたまらない♪

 大仙公園内にある堺市博物館ではVR体験も(大人800円)。また博物館や近くにある土産物店には古墳グッズがたくさん販売されていました

2499名無しさん:2019/03/20(水) 21:04:55 ID:NrdB.GxU0
木造僧形八幡神及諸神坐像など 重文、府内3件指定へ
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20190318-OYTNT50246/

文化審答申


 国の文化審議会が18日、柴山文部科学相に行った答申で、府内からは壺井八幡宮(羽曳野市)の「木造僧形八幡神及諸神坐像もくぞうそうぎょうはちまんしんおよびしょしんざぞう」など3件が、国の重要文化財に指定される見込みとなった。

 木造僧形八幡神及諸神坐像は、高さ20・2〜59・8センチの5体。うち1体の像の底に記された銘文などから、南北朝時代の1353〜54年に制作されたとみられる。制作年代が特定でき、彩色もきれいに残っていることから同時代の像の基準として役立つ点が評価された。
 
  ほかに答申されたのは、桃山時代の高級食器「黄瀬戸福字鉢きせとふくじはち」(大阪市中央区、湯木美術館所有)と、鎌倉時代から江戸時代にかけての文書群「和田家文書みきたけもんじょ」(個人蔵、堺市博物館に寄託)。

 黄瀬戸福字鉢は直径16・6センチで、中央に「福」の文字が押されている。和田家文書は、現在の堺市南区美木多地域に本拠を置いた武士・和田氏に関係する文書で、104通が巻物や掛け軸として整理されている。

 答申では、阿倍王子神社旧本殿など(大阪市阿倍野区)、安倍晴明あべせいめい神社本殿など(同)、萩原家住宅主屋など(八尾市)を有形文化財(建造物)に登録することも求めた。

2500名無しさん:2019/03/20(水) 22:06:40 ID:NrdB.GxU0
豊臣六大将・佐竹義宣氏邸宅か 大坂城西側で出土
3/20(水) 20:49配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190320-00000609-san-cul

 大坂城の建物跡としては最大規模となる大名屋敷跡が大阪市中央区の建設現場から出土し、大阪府文化財センターが20日、発表した。出土した瓦の紋=扇(おうぎ)に月丸(つきまる)紋=などから、徳川氏や島津氏などと同じ豊臣政権六大将の一人とも呼ばれる佐竹義宣の屋敷跡と推定される。大坂城の大名屋敷跡が見つかるのは初めて。難攻不落とたたえられた大坂城を壮観な大名屋敷が守る情景が明らかになった。

 豊臣秀吉が築城した大坂城の西側の三ノ丸があったとされる場所で出土。東西約20メートル、南北約15メートルで100坪を超える。柱を支える礎石や建物の周囲を囲う玉砂利が見つかり、格式の高さをうかがわせる。

 周辺では「さ竹(たけ)内」と墨書された木簡や佐竹氏の家紋瓦などが出土。その場所から、屋敷の敷地範囲は東西約150メートル、南北約100メートルと想定され、大型建物跡はその中央に位置する。

 秀吉は最晩年の慶長3(1598)年、東国諸大名の屋敷を京都の伏見城から大坂城に移し、大坂城の守りを固めた。大阪歴史博物館の大澤研一学芸課長は「大名屋敷群の様子を伝える史料は乏しい。今回の発見は具体的事例として初めてであり、非常に重要」と話す。

 現地説明会は23日午前10時〜午後3時。問い合わせは現地事務所(06・6467・4769)。

 千田嘉博・奈良大教授の話「大坂城の一等地に築かれており、佐竹義宣や妻子が過ごした書院造りの奥御殿だろう。豊臣時代の大名屋敷がこれほど大きかったとは驚いた。天下人の政権の力を示す感動的な大成果だ」

2501名無しさん:2019/03/24(日) 15:37:29 ID:NrdB.GxU0
幕末の改元詔書下書き、大阪で発見
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20190324-OYO1T50005/

 1860年に「安政」から「万延まんえん」に改元した際、孝明天皇が発布した「改元詔書」の下書きが、大阪府内で見つかった。漢籍に詳しい公家・清岡家に伝わったものとみられ、前年の江戸城本丸焼失や、欧米への開国などの「災い」の一掃を理由に挙げ、新年を「某元年」としていた。下書きが見つかるのは珍しく、公家が改元に関与していたことを改めて示す発見だ。

 元号は明治時代に天皇一代に一つとすることが制度化されたが、その前は天皇の在位期間中にも災害や戦乱を理由に改元が行われた。下書きは縦33センチ、横45センチの和紙で、漢文で書かれている。現所有者の親族が1964年頃、清岡家の子孫から譲り受けたという古文書の一つで、元号や朝廷文化に詳しい吉野健一・京都府立丹後郷土資料館学芸員(日本近世史)が調査した。

 安政6年(1859年)に火災で江戸城本丸が灰燼かいじんに帰したことや、「蛮夷ばんい」(欧米諸国)に迫られての開国、疫病の流行を列挙。「咎在朕躬」〈その咎とが(責任)は朕ちん(天皇)の身にある〉と憂え、「宜よろしく旧号を革あらため、以もって新元を施すべし」と改元理由を説明し、「安政七年を改め某元年と為なす」としている。

 宮内庁所蔵の実際の改元詔書と比べると、「某元年」が「万延元年」となる以外は、ほぼ同内容という。吉野学芸員によると、「万延」の元号が決まる前に、清岡家が記した文書の可能性が高いという。江戸時代の改元は朝廷か幕府の申し入れで進められた。朝廷が清岡家など菅原道真の子孫とされる公家らに、元号案を複数出させる「勘申かんじん」を行い、幕府と相談の上で天皇が最終決定したとされる。

2502名無しさん:2019/03/24(日) 15:57:52 ID:NrdB.GxU0
新西国霊場の38寺院が集結 四天王寺で記念事業
2019年3月24日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190324/20190324035.html

 多くの人々に親しまれている近畿2府4県の巡拝コース「新西国霊場」の第1番所である和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)で6月5〜9日、「霊場巡拝(おまいり)いこか〜新西国ほとけさま大集合」が執り行われる。同寺など全38札所寺院でつくる新西国霊場会の発足90周年事業のほか、2022年の年忌法要「聖徳太子一四〇〇年御聖忌」や新天皇即位に伴う新元号施行を記念する一大行事。関係者が着々と準備を進めている。

 新西国霊場は、日本仏教の基礎を築いた聖徳太子の信仰と身心健全な行楽を兼ねる巡拝コース。同寺での行事には、記念法要や趣向を凝らした特別プログラムなどを用意している。

 事業の中心となる「出開帳(でかいちょう)」(参拝料千円)では、ご朱印とお砂踏みの巡礼を行う。五重塔がそびえる境内・中心伽藍(がらん)の回廊に38カ寺がずらりと並び、札所巡りが途中の人や初めての人でも一度で集印、万願が可能だ。

 お砂踏みは“一日で巡る巡礼の旅”として人気。本坊・五智光院(ごちこういん)(重要文化財)を会場に、各寺院から集められた砂の上でお参りができることから、両方とも期間中はにぎわいが予想される。

 事前予約限定の授与品の数々も製作中。38の全ご朱印が押印されている記念法印帳(朱印帳)をはじめ、記念お軸、記念笈摺(おいずる)(いずれも朱印料込み)などが決まり、同寺によると早くも予約や問い合わせが多数寄せられているという。

 このほか、聖霊院(しょうりょういん)絵堂特別開扉での絵解きと法話▽道成寺(和歌山県)による「出張絵解き」(縁起や安珍清姫伝説)▽国内外の参詣者が世界平和など祈願する「インターナショナル座禅会」▽縁日屋台とフードコート-などを予定している。

 四天王寺参詣課の山岡武明課長は「多くの方々と大きな節目をお祝いできれば。タイトルの通り気軽に足を運んでもらい、『巡拝に来てよかった』と感じていただける行事を目指したい」と、細部の調整に励んでいる。問い合わせは電話06(6771)0066、同寺。

2503名無しさん:2019/03/24(日) 16:14:44 ID:NrdB.GxU0
>天津神社の舞楽は能生白山神社の舞楽と共に大阪四天王寺の舞楽を伝承しているといわれ


神輿をぶつけ合うお祭り!新潟県糸魚川市「糸魚川けんか祭り」
3/24(日) 7:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190324-00183931-tkwalk-life

 五穀豊穣・豊漁を祈願して二基の御輿をぶつけ合う「天津神社春大祭(糸魚川けんか祭り)」が、4月10日(水)・11日(木)の2日間、新潟県糸魚川市の天津神社で開催される。

 10日(水)は、男御輿(一の御輿)と女御輿(二の御輿)と呼ばる二基の御輿が、早朝から舞が行われる舞台の上に据えられ、舞台で神事が行われた後に、露払いの鳥爺(とりじ)を先頭に担ぎ手や獅子頭・錫杖を持った金棒などが境内を歩く行列「お練り」が行われる。

お練りには衣装をまとった「お稚児さん」が大人に肩車されて参加し、そのお稚児さんが舞台に降りると、それまでの静けさが一変した喚声の中激しく凄まじい勢いの「御輿の競り合い」が始まる。境内の周囲を全速力で走り抜け、御輿をぶつけ合い、再び疾走し激しくぶつけることを10回前後繰り返す。

激しい神輿の競い合いが終わると、神へ奉納する12の舞により静けさを取り戻す。天津神社の舞楽は能生白山神社の舞楽と共に大阪四天王寺の舞楽を伝承しているといわれ、「糸魚川・能生の舞楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。なお、舞楽は10日・11日とも12曲が奉納され、11日は衣装が変わる。

春の糸魚川市で激しい「動」のけんか神輿と、おごそかな「静」の舞を楽しむことができる「天津神社春大祭(糸魚川けんか祭り)」に参加してみよう。

2504名無しさん:2019/03/24(日) 16:16:46 ID:NrdB.GxU0
>カマキリを模したかぶり物を付けて演じる「蟷螂(とうろう)の舞」は全国的にも珍しく、室町時代中期に現在の
>大阪の四天王寺から伝えられたとされる舞楽は


「天王祭舞楽」番組に 関係者、森町長に今夏放映PR
3/15(金) 7:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190315-00000007-at_s-l22

 全国各地の祭りを後世に伝える企画「ダイドードリンコ日本の祭り」を実施しているダイドードリンコ(大阪市)の関係者が14日、取り組みの一環として放映する山名神社(森町)の「天王祭舞楽」特別番組のPRのため、同町役場に太田康雄町長を訪ねた。

 舞楽は国指定重要無形民俗文化財。毎年7月に開かれ、児童らが八つの演目を披露する。カマキリを模したかぶり物を付けて演じる「蟷螂(とうろう)の舞」は全国的にも珍しく、室町時代中期に現在の大阪の四天王寺から伝えられたとされる舞楽は、京都の祇園祭の要素も含むという。

 番組は今夏に静岡放送で放送予定。舞楽の模様を事前の練習から撮影し、1時間のドキュメンタリー番組に仕上げる。

 同社の「日本の祭り事務局」の森田忠良事務局長は「地元の皆さんと祭りの関わりや歴史を踏まえ、祭りを全国にPRしたい」と意気込んだ。太田町長は「全国有数の祭りとお墨付きをいだたいた形。取り上げていただき記録にも残る」と歓迎した。

2505名無しさん:2019/03/30(土) 21:32:03 ID:NrdB.GxU0
廻り舞台で役者気分 道頓堀ミュージアム並木座
2019年3月29日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190329/20190329035.html

 大阪市中央区道頓堀のビル1階に30日にオープンする歴史館「道頓堀ミュージアム並木座」が28日、報道陣に公開された。直径1・8メートルの小さな廻(まわ)り舞台も設け、歌舞伎や文楽など上方文化を育んだ芝居町の歴史を体感できる施設となっている。

 道頓堀通に面したビルを改装し、芝居小屋が並ぶ芝居町として栄えた江戸時代の道頓堀の風情を演出。「廻り舞台」や「セリ」を考案・活用した歌舞伎作家の並木正三や、「義経千本桜」など人形浄瑠璃三大名作すべてに関わった並木千柳の紹介、日本最古の芝居小屋で廻り舞台を人力で動かす様子などを捉えた動画上映などを行っている。

 スタッフが人力で動かす廻り舞台の上には顔を乗せて撮影できるパネルが設置されており、来館者はかつらを着けて役者気分で記念撮影ができる。仕掛け人の山根秀宣さん(大阪まちプロデュース主宰)は「道頓堀がエンターテインメントの街として再認識されるきっかけになれば」と話している。

   ◇    ◇

 午前10時半(30日のみ11時)〜午後6時半。大人600円、子ども300円。問い合わせは電話06(6575)7919。

2506名無しさん:2019/03/30(土) 21:57:56 ID:NrdB.GxU0
上板の9歳文楽太夫入門 藤本君(高志小3年) 小学生36年ぶり 来月から 大阪の師の下 芸磨く
3/30(土) 8:06配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190330-03182243-tokushimav-l36

 上板町の高志小3年藤本智大君(9)=同町瀬部=が、大阪の人形浄瑠璃文楽の太夫(語り手)の竹本織太夫さん(43)に弟子入りした。小学生の太夫は織太夫さん以来36年ぶりで、「竹本織子太夫」の名を授かった。4月1日から文楽協会研究生となり、師匠の下に通って芸を磨く。

 藤本君は小2だった2017年4月、徳島市で開かれた体験会で阿波人形浄瑠璃に出合った。すぐに太夫の竹本友和嘉さん(56)=徳島市八万町西山=に師事。その後、公益財団法人阿波人形浄瑠璃振興会に所属して同年12月に阿波十郎兵衛屋敷で初舞台を踏み、勝浦町や鳴門市などで計7回、語りを披露した。同年の「チャレンジとくしま芸術祭」では、最も印象深い出演者に贈られるMIPを受賞した。

 国立文楽劇場(大阪市)にも数カ月に一度のペースで通って公演を鑑賞していた。昨年6月に織太夫さんと出会い、太夫になることを決意。織太夫さんも1983年に8歳で入門していた。

 これまでは友和嘉さんの自宅に月4回通い、稽古をつけてもらっていた。藤本君は対面で「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」をおうむ返しに繰り返し、演目の後半で語りのテンポが速まっても、軽妙な語り口で情感たっぷりに語っている。

 友和嘉さんは「最初から度胸があった」と話し、「語りは人間の心情が分かっていないとできない。最近は心から言葉がにじみ出てくるようになった」と評価する。

 4月以降は週末や夏休みを利用して、大阪で稽古に励む日々が続く。藤本君は「もっと上手になって憧れの舞台に立ちたい」と話している。

2507名無しさん:2019/03/30(土) 22:03:12 ID:NrdB.GxU0
【センバツ】父と兄は人形浄瑠璃文楽の人形遣い、福知山成美・岩田「尊敬している」
3/19(火) 20:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190319-00000180-sph-base

 第91回センバツ高校野球大会(3月23日から12日間・甲子園)の甲子園練習2日目が19日、行われた。5年ぶりの出場となった福知山成美(京都)の岩田涼雅(りょうが)内野手(3年)も1時間、室内練習場で練習を行い「雨でグラウンドでできなくて残念だった。甲子園の中に入るのは初めて。スタンドは階段状になっていて、広くて包まれたような感じ」と初々しい感想を口にした。 岩田の父・哲志さん(49)と兄の悠甫さん(23)は、人形浄瑠璃文楽の人形遣いとして大阪の国立文楽劇場を中心に、東京や海外など各地で公演を行っている。自宅で夜遅くまで練習をする父を見て育った岩田も「小さい頃から人形を持たせてもらっていたりしました。小さい頃は言葉が難しくてあんまり分からなかったけど、中学からは言葉も分かるようになって、伝統的なものなんだって分かってきました」と幼少期から文楽に親しんできた。

 岩田家は曽祖父から4代にわたって人形遣いを務めてきており、父は中学卒業後から、兄も大阪・豊島高卒業後から文楽の世界に本格的に足を踏み入れた。現在、吉田一輔(いちすけ)として活躍する父と、吉田簑悠(みのひさ)として奮闘する兄を、岩田は「尊敬しています」と誇りに思っている。兄が後を継いだこともあり将来は「好きにして良いと言われています」と話すが「高校に入ってから(文楽を)1回も見に行けていないので、引退したら見に行きたい。将来の選択肢としてはアリだと思っています」と卒業後は父、兄とともに伝統芸能を継承していくことも視野に入れている。

 初戦の第4日第1試合の筑陽学園(福岡)戦は、たまたま公演がないため、父も兄も甲子園に応援に来られることになった。兄は高校まで野球を、父も中学までソフトボールをプレー。5日ほど前に右肩を脱臼してしまった岩田に対し、父からは「やりきって、でも無理だけはしないように。存分に楽しめ!」とLINEが届き、兄からも「甲子園おめでとう。友達を集めて応援に行くから」と祝福されたという。甲子園の舞台は「緊張します」と話す岩田だが、家族にとびっきりカッコイイ姿を見せる。

2508名無しさん:2019/03/31(日) 16:48:53 ID:NrdB.GxU0
大阪城の“やぐら” 内部を特別公開
3/30(土) 12:19配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190330-00021288-asahibcv-cul

 大阪城にある重要文化財で、普段は非公開の「やぐら」の内部が、特別公開されています。

公開されているのは、大阪城の玄関にあたる、大手口を守る、千貫櫓などの内部、3ヵ所で、いずれも、江戸時代初期に建てられたものです。「銃眼」と呼ばれる壁の穴は、外に向けて火縄銃を構え、城を守る戦いで使われていたということです。特別公開は土曜・日曜・祝日限定ですが、春休み期間中は、毎日行われています。

2509名無しさん:2019/04/03(水) 21:53:34 ID:NrdB.GxU0
>「令和」の典拠、いわゆる出典について「『令和』は『万葉集』の梅花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよ)風和らぎ(やわらぎ)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす』から引用したものだ」と述べました。
 (菅官房長官の発表より引用)
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190401/k10011868721000.html?utm_int=all_side_ranking-social_001

>「『令和』は『万葉集』の梅花の歌

 そして『梅』は『大阪府の花』でもあります。

>「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という歌で、現在の大阪市及びその辺りにおいて、
>寒さに耐え冬籠りをしていた梅の花が、春を感じ咲いた様子が詠まれたものだぞ。
 http://www.kami-chan.net/kuni-ken-flower/z0089.html

 そしてそして、

>元号使用の歴史
>難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7

 大阪は日本文化揺籃の地、日本国の母なる大地であり、今なお日本国を代表する世界中から注目を集める先端的大都市であるという稀有な存在なんですよね。
 大阪の人たちはそういう誇りを持っていい、もっと自分たちに自信を持っていい。


「奉祝の記帳」始まる 四天王寺
2019年4月2日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190402/20190402029.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)では、新天皇即位(御代替大典)に伴う「奉祝の記帳」が始まった。聖徳太子を祭る境内・聖霊(しょうりょう)院(太子殿)の堂内に記帳台が設けられ、多くの参詣者が足を運んでいる。

 当初、案内看板は新元号の部分が空欄になっていたが、発表後に職員が「令和」の文字を貼り出すと、記帳に訪れた人々が足を止めて見入っていた。

 一番目に記帳した加藤利美さん(70)=和泉市=は「毎月お参りに来ているが、きょうはとてもいい記念になった。新元号に『和』の文字が入っているので四天王寺さんとの縁を感じる」と笑顔で話した。

 記帳(千円、新元号入り授与品付き)は午前8時半〜午後4時半。10月22日まで受け付けており、以後、同寺が宮内庁に奉納する。

 このほか納経所では、奉祝のご朱印(500円)が新たにお目見えし、注目を集めた。

2510名無しさん:2019/04/03(水) 22:33:03 ID:NrdB.GxU0
石切劔箭神社の改元奉祝「刀剣奉納」プロジェクト、支援額4200万円超に /大阪
4/2(火) 20:18配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190402-00000073-minkei-l27
石切劔箭神社(東大阪市東石切町1、TEL 072-982-3621)が所蔵する「太刀 石切丸」を新たに復元し奉納する「復元石切丸『刀剣奉納』プロジェクト」のクラウドファンディングが3月26日に始まり、4月2日現在、4200万円を超える支援金が寄せられている。(東大阪経済新聞)

 「太刀 石切丸」は重要美術品に認定されているため神前に奉納できず、同神社では、元号が「平成」から「令和」に変わる奉祝の事業として石切丸を復元し、矢筒とともに奉納しようと同プロジェクトを始動。同神社と縁が深く、奈良県無形文化財に指定されている刀匠・河内國平さんに作刀を依頼し、平安時代に作刀された当時の石切丸を復元する。

 同プロジェクトには、刀剣を擬人化したキャラクターの一人として石切丸が登場するオンラインゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」が賛同し、神社やゲームにちなんだプロジェクト限定商品や刀剣奉納祭への参加などの返礼品を用意。2,500円から50万円の20コースを設けた。クラウドファンディングの開始から4時間弱で目標金額の1000万円に到達し、翌日には3000万円の支援が集まった。

 支援金は作刀と刀装に使うとし、「余剰金が出た場合には研磨されていない刀剣の研磨など、所蔵する刀の維持管理に使わせていただきたい」と同神社宮司の木積康弘さん。「皆さまの、それも全国の皆さまからの御懇志に大変感謝している。改元奉祝事業は来年まで続く事業となるのでまだ始まったばかり。改元奉祝事業へのご協力を引き続きお願いいただければ」と話す。

 同プロジェクト支援募集締め切りは5月15日。

2511名無しさん:2019/04/07(日) 19:32:12 ID:NrdB.GxU0
笑福亭松之助でなければ、あの“お笑い怪獣”こと明石屋さんまさんを御せなかった。ここまで大きな人にはならなかった。


笑福亭松之助さんを偲ぶ会 弟子の明石家さんまさんなど約200人が参列
4/7(日) 18:22配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190407-18220608-kantelev-l27

 今年2月、93歳で亡くなった落語家の笑福亭松之助さんを偲ぶ会が開かれ、親交のあった人たちが別れを惜しみました。

大阪市内で開かれた笑福亭松之助さんを偲ぶ会には、弟子の明石家さんまさんや落語家の月亭八方さんなど約200人が参列しました。

松之助さんは、1948年に五代目・笑福亭松鶴に入門しました。自身の本名から「明石家」という名前を弟子のさんまさんに授けた名付親でもあり、式ではさんまさんが思い出を語ったということです。

【長男・明石家のんきさん】
「まさかこんな盛大に楽しい偲ぶ会になるとは思ってなかった。100歳まで生きると言うて、孫の成人式には参加するといっていたので、それは悔やまれる」

参列した人たちは、思い思いに松之助さんとの別れを惜しみました。

2512名無しさん:2019/04/10(水) 14:55:51 ID:NrdB.GxU0
"心の琴線"触れる新院歌 太魂院、年祭で披露へ
2019年4月10日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190410/20190410039.html

 妙見宗「太魂(ふとたま)院」(東住吉区山坂、浅田妙浄主管)は、今年5月5日の年祭に向け「変革と感謝の式典にしたい」と新しい「院歌」を作った。これまでの「参拝歌」「太魂音頭」「祝歌」も編曲し、“新曲”として披露する。完成した新・太魂音頭は「ハア〜 ここは大阪 田辺の町よ/人の情けが かよう町」と明るく元気の出る曲でラジオ関西のラジオ番組「嶺陽子の歌の散歩道」でも放送され反響を呼んだ。浅田修法副主管は「今年の年祭は、一緒に歌い楽しく踊っていただきたい」と呼び掛けている。

同院は「一人でも多くの人々に幸福になってもらいたい」と、本部玄関脇に開運の神「運子童子」の設置や落語会「にんやか寄席」を院内で開くなど地元に広く開放している。

 新曲は音楽事務所「ソルトワークス」(箕面市、塩川桂三代表)がプロデュースし、作曲家の池田八声さん、「太魂音頭」の歌を市町村演(援)歌歌手として知られる嶺陽子さん、曲の振り付けを創作舞踊家、花柳輿桂(よか)さんが担当した。

 作詞・作曲の最終案が決まり、妙浄主管の了承を得て、ソルトワークスの塩川代表、歌手の嶺さん、太魂院の「歌・音頭」チームのメンバーらも参加して、大阪市内のスタジオでレコーディングを行った。完成した新曲は妙浄主管からも「“心の琴線”に触れる未来に残るいい歌」とねぎらいの言葉を掛けられた。

 浅田芳順法嗣は「今年の5月から新元号に変わるその時を、新しい太魂院の出発の日にしたいです」と話している。

2513名無しさん:2019/04/16(火) 21:25:44 ID:NrdB.GxU0
赤字でも奮闘続ける落語茶屋 「若手」のために…オーナーの熱い落語愛
4/15(月) 10:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190415-00000053-dal-life

 落語と料理が楽しめる落語茶屋「あすか」が今年1月、大阪市住吉区にオープンし、話題を呼んでいる。オーナーの石川武さん(70)が「若手の発表の場が増えたら」との思いから作り上げた。店の中央にある小さな高座が何とも粋。プロの落語家の噺を間近で堪能し、うまい料理とお酒を楽しめる落語茶屋は「関西初です」と石川さん。落語愛を貫き、赤字でも奮闘している。

 阪堺電軌「姫松」駅から徒歩1分。レトロな路面電車を降りると、ほどなく「あすか」の看板が見える。元は串カツ店で17年間空き家だった店舗。「交通の便が良く、家賃が安くて天井が高いことを条件に探しました」と石川さん。前の借主が3億円かけたという内装は、エントランスに囲炉裏があったり、大理石のトイレなどゴージャスな片りんが残る。しかし、古さは否めず電気系統やエアコンを取り付け、落語会用の「高座」を設けるなど約800万円かけて改装した。

 石川さんは元商社マン。わけあって40歳で脱サラ後は飲食店の経営などに携わってきた。5年ほど前から落語にひかれ始め、落語会や寄席をはしごするように。落語の魅力について「たった一人、扇子と手ぬぐいという最小限の小道具で演じるひとり芝居。引き算の美学を感じます。同じ演目でも演者の表現能力によってイメージが変わるところが奥深い」と言う。

 さらに、「テレビでも落語の中継がありCDでもよく聞きましたが、ナマで聞くのが何倍も面白い」と力説する。

 寄席に通ううちに若手〜中堅噺家の勢いある落語にはまっていき、「彼らの発表する場が一つでも増えたら」という思いが大きくなっていった。飲食店経営のつながりや経験を活かし「儲からないのは覚悟の上で」落語茶屋を誕生させた。

 「あすか寄席」は現在、毎水・金曜日に開催。昼席は午前11時、夜席は午後7時から。桂佐ん吉(35)がプログラムを構成し出演者の采配も担当している。昼・夜席共に2人が各30分の落語を披露する。

 取材日は“美人落語家”露の紫(45)、昨年の繁昌亭大賞奨励賞を受賞した桂雀太(42)の出演だった。露のは、江戸と上方の賭場の違いを題材にした「看板の一(ピン)」を、雀太は古典落語「芝浜」をアレンジした「夢の革財布」を演じた。両者共にさすがはプロの迫力で、ぐいぐいと引き込んでいく。

 最前列で聴き入っていた中学生の男子は「女性落語家さんの実物は初めて。楽しかった」とにっこり。近所に住む70代の夫婦は「こんなに間近で落語が聞けるとは。楽しいひとときでした」と満足そう。

 紫は「お客さんの反応がダイレクトで勉強になります。(1席)30分という時間もちょうどいい感じですね」。

 落語2席と1ソフトドリンクで1500円。店内はテーブル席と、掘りごたつの座敷があり、くつろげる雰囲気に。料理は気鋭のシェフが手掛ける中華、洋食のメニュー。ローストビーフ500円、酢豚600円などリーズナブル。昼席のランチも炒飯500円などとなっている。

 石川さんは「落語は芸術とも言われているが良い意味で“たかが落語”だと思う。気軽にお酒を飲みながら、若い人から年配の方まで、ゆったり落語を堪能してもらえれば」。

 ただ、目下、赤字が続いているそうで「続けていくためにもいろいろと試みていきたい」と、イベントやサークルなどに店ごと貸し出す「一日席亭」を募集中。「高座は小さなステージにもなり、文化施設のように使えると思う。厨房があるので内輪のパーティーもできますよ」と呼びかけている。(デイリースポーツ特約記者・入谷晴美)

2514名無しさん:2019/04/16(火) 21:26:31 ID:NrdB.GxU0
▼落語茶屋「あすか」 大阪市住吉区帝塚山東1-3-34 PLOT帝塚山ビル地下1F 阪堺電軌姫松駅から1分、南海電鉄帝塚山駅から8分。落語2席、1ドリンク1500円。アルコールは差額で。予約がベター。「1日席亭」は午前11時〜午後5時の利用で8000円、午後5時〜同9時は1万円。

2515名無しさん:2019/04/16(火) 21:32:01 ID:NrdB.GxU0
20日に淀屋研究会講演 大阪駅前第3ビル
2019年4月16日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190416/20190416026.html

 講演会「幕末の鳥取藩と淀屋」が20日、大阪市北区の鳥取県関西本部交流室(大阪駅前第3ビル22階)で開かれる。午後2時10分〜4時。入場無料。

 淀屋橋で知られる江戸期の大坂の豪商「淀屋」を顕彰する淀屋研究会(大江昭夫代表代行兼事務局長)が、総会に合わせて開催する。

 講師は森本良和氏(元鳥取県立図書館長、映画監督)。幕末の京都で結成された農兵隊で、鳥取藩に加わり戊辰(ぼしん)戦争で活躍した「山国(やまぐに)隊」をはじめ、リーダーを務めた鳥取藩士・河田左久馬(影与)ら人物にもスポットを当てる。

 会員以外の入場は、総会閉会後の午後2時から。問い合わせは電話090(3263)4108、大江さん。

2516名無しさん:2019/04/19(金) 21:21:08 ID:NrdB.GxU0
剣は磨けよ、しかし使うべからず。
江戸幕府天下泰平260年の世においても、武備の整備は怠らず。
もっとも幕末の頃には幕府の鉄砲の多くは旧式となり、徳川親藩も同様。
それにより攘夷は果たせず、そして倒幕派にも抗しきれず江戸幕府は滅ぶに至る。
平和を欲するのであれば、平和な時に粛々と時代の趨勢に合わせて武備を整備しなければならないのです。

堺の鉄砲鍛冶、平和な江戸時代も活況だった 斜陽化したという通説を覆す
4/19(金) 9:30配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190419-00000504-san-l27

 近世の鉄砲生産の中心地の一つだった堺で、江戸時代にも盛んに鉄砲が製造されていたことがわかった。鉄砲鍛冶(かじ)屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺市堺区)に所蔵されていた資料を分析して判明したもので、「江戸時代に堺の鉄砲産業は斜陽化した」という通説を覆すことになる。調査関係者は「さらに精査して、知られざる鉄砲ビジネスの全容を明らかにしたい」と意気込んでいる。(古野英明)

 堺市と関西大学が、井上家に残された2万点を超える資料を4年間にわたって共同調査。鉄砲の注文数が江戸後期になるにつれて増加していた。天保10(1839)年には280丁を超える鉄砲を受注し、天保13(1842)年には関東から九州までの大名・旗本232家から注文があった。

 また、幕府の軍事拠点だった大坂城の鉄砲の維持・管理に井上家が深く関わっていたことも判明した。関西大の藪田貫(ゆたか)名誉教授(日本近世史)は「大坂城には1万丁以上の鉄砲が備蓄されていたことはわかっていたが、誰がメンテナンスしていたのかとの視点がまったくなかった」と、井上家の大きなビジネスになっていた可能性を指摘する。

 そのうえで「戦はなくても、有事の備えとして鉄砲は必要だった。農民たちも獣害対策として鉄砲を使っていた。外国船が来航した幕末には、沿岸警備の需要もあった。資料だけでも『平和が続いたから鉄砲産業が衰退した』という定説を覆すに十分な証拠になる」と評価している。

2517名無しさん:2019/04/25(木) 20:42:29 ID:NrdB.GxU0
ワッハ上方リニューアルオープン
04月24日 12時04分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190424/0014943.html

 落語や漫才など上方演芸の資料の収集などを行う大阪府の施設「ワッハ上方」が、資料の展示や解説などを充実させた施設としてリニューアルオープンしました。

平成8年にオープンした「ワッハ上方」は、入館者が目標を下回っていたことなどから規模を縮小して運営されていましたが、展示スペースを充実させた施設としてリニューアルオープンしました。
24日はオープニングイベントが開かれ、大阪府の吉村洋文知事が「全国の中で笑いの資料館は大阪が唯一です。国内外から多くの人が訪れるので、上方演芸をどんどん発信していきたい」とあいさつしました。
新たな施設は、漫才の小道具など7万点を超える所蔵資料から貴重な品々が大阪弁を解説するパネルなどとともに展示されています。
また、画面に映し出されたお笑い芸人とにらめっこをしたり一緒に記念撮影したりできる体験型のスペースもあります。
このほか施設には、NHK大阪放送局など大阪にあるテレビやラジオで放送されたおよそ3000本の落語や漫才などの演芸番組や、上方演芸に関する書籍を無料で視聴し、閲覧できるブースが備えられています。

2518名無しさん:2019/04/27(土) 19:42:19 ID:NrdB.GxU0
四天王寺の亀形石槽は飛鳥時代か
04月26日 17時29分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190426/0015036.html

 大阪の四天王寺にある亀の形をした石造物が7世紀・飛鳥時代に作られたものとみられることが分かりました。
同じ亀形の石造物は、奈良県の酒船石遺跡でも見つかっていて、専門家は、四天王寺が飛鳥時代、重要な場所であったことを示す貴重な資料だとしています。

これは、調査を行った四天王寺と元興寺文化財研究所のグループが発表したものです。
四天王寺にある亀井堂には亀をかたどった石の水槽と、そこから出た水を受ける同じく亀の形をした石の水槽があり、古くから儀式などで使われてきました。
グループがこの2つの石造物を調査したところ、古墳時代から飛鳥時代に使われていた「竜山石(たつやまいし)」と呼ばれる石が使われていたことが分かりました。
また、水が流れ出すほうの亀の形は後の時代に作られたもので、当初は単純な造りの石の水槽から出た水を、亀の形をした別の水槽が受ける構造であったことも分かったということです。
こうした構造は、奈良県明日香村にある、斉明天皇ゆかりとされる酒船石遺跡の亀形石造物と同じで、作られたのも同じ7世紀ごろと考えられるということです。
元興寺文化財研究所の佐藤亜聖研究員は「四天王寺が当時の国家にとって重要な場所であったことを示す資料だ。酒船石遺跡と比較することで当時の祭祀(さいし)について考える手がかりとなる」と話していました。


太子たたえ盛大に 四天王寺で「聖霊会」
2019年4月23日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190423/20190423033.html

 聖徳太子の命日にちなむ伝統行事「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」が22日、太子創建の和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区、森田俊朗管長)で盛大に執り行われた。多数の奉仕者によって舞楽と法要がみやびやかに繰り広げられた。

 約1400年の歴史があり、同寺の最も重要かつ大規模な年中行事。聖霊会の奉納舞楽は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 “日本三舞台”の一つに数えられる境内・石舞台上では、同寺僧侶が太子をたたえる声明を唱えたほか、天王寺舞楽伝承団体である天王寺楽所(がくそ)の舞人・楽人が奉仕。舞楽の幕開けを告げる「振鉾(えんぶ)」をはじめ、唐で舞われたと伝わる「賀殿(かてん)」などを数多く奉納した。

 大阪管区気象台によると同日の大阪市では日中の最高気温が6月中旬並みの27・6度まで上がり、今年最初の夏日に。境内では多くの参詣者が初夏の日差しの下で、平成最後となる一大行事に見入っていた。

2519名無しさん:2019/04/27(土) 20:22:30 ID:NrdB.GxU0
羽曳野にはにわ作り体験施設完成
04月26日 12時48分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190426/0015022.html

 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録を目指す大阪・羽曳野市に、はにわ作りを体験できる施設が完成しました。

この施設は、古墳やはにわにちなんだグッズを製作している地元の企業が設けたもので、27日のオープンを前に関係者に公開されました。
施設には、古墳群について紹介するパネル展示や古墳にちなんだ各地のグッズを販売するコーナー、それに、はにわ作りを体験できるスペースがあります。
26日は近所の人たちが体験に訪れ、粘土で胴体などを作ったあと、ヘラを使って顔や模様を描いていました。
はにわは、このあと窯で焼くなどして1か月から2か月ほどで出来上がります。
参加した近所の女性は「胴体に付けた輪っかの模様や頭にリボンを付けたところにこだわりました。初めて作りましたが、よくできたと思います」と話していました。
百舌鳥・古市古墳群をめぐっては、来月にもユネスコの諮問機関から世界遺産にふさわしいかどうか勧告が出される見通しです。
施設の運営会社でプロジェクトリーダーを務める朝野亜紀子さんは「1500年前の古墳時代に、たくさんの古墳やはにわが近くで作られていたという古代ロマンを感じてもらい、世界遺産の登録に向けた機運醸成に貢献したいです」と話していました。

2520名無しさん:2019/04/27(土) 20:56:01 ID:NrdB.GxU0
江戸期の農村支配地域の古文書読む 住民ら郷土史理解
2019年4月26日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190426/20190426031.html

 東住吉区の田辺地域に残る古文書をひもとき、大坂近郊農村の姿を明らかにする講演会「古文書から見る江戸時代の農村支配システム」が東田辺2丁目の東住吉会館であった。幕府が定める法令の回覧手段などの解説があり、住民が郷土史に理解を深めた。

 21日に講演したのは、大阪大の村田路人教授(日本近世史)。村田教授は、領主が頻繁に入れ替わり、所領も入り乱れていたのが上方の特徴とした上で、旧北田辺村に残る「御触書御用留(おふれがきごようとどめ)」を引き合いにした。

 この資料は、幕末の1858(安政5)〜66(慶応2)年の9年間に村々を回覧した「触書」が書き留めてあり、当時米英など五カ国と結んだ不平等条約を背景に、幕府が新しく鋳造した貨幣の流通制度や交換レートを収録。当時は、代官や大名、社寺など変動しがちな領主とは別に、大坂町奉行所(幕府)による広域統治を加えた二重行政が敷かれており、資料からは触書が二つのルートを通じて巡ったことが分かる。

 また、「用聞(ようきき)」と呼ばれる第三者が情報伝達に介在する役割を果たしており、大坂周辺に所領を有する領主に召し抱えられ、兼業または専業となる業者もあったとした。

 約100人が見守る中、村田教授は「支配の政策を見るだけでは不十分。実現メカニズムを併せて見ることが大事だ」と説いた。

 主催は「にんやか田辺」(田辺HOPEゾーン協議会)。

2521名無しさん:2019/05/03(金) 20:58:48 ID:NrdB.GxU0
極楽浄土へ「万部おねり」法要
05月02日 19時07分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190502/0015149.html

 人々を極楽浄土に導こうと、金色の面をかぶった僧りょがぼさつにふんして境内を練り歩く「万部おねり」という法要が、大阪・平野区の寺で行われています。

大阪市の無形民俗文化財に指定されている「万部おねり」は、平野区の大念佛寺で毎年5月1日から5日まで行われる法要です。
金色の面をかぶった僧りょが境内を練り歩き、命が尽きるときに阿弥陀仏がぼさつを従えて極楽浄土から迎えにくる様子をあらわそうとしたのが始まりとされています。
面とともにきらびやかな衣装をまとった僧りょたちが、本堂の周りに設けられた高さ2メートル余りの橋の上をゆっくりと歩いていきました。
そして、本堂に入ったあと雅楽の調べが響く中、仏前に花を手向けると、見守っていた参拝客たちも静かに手を合わせたり写真を撮ったりしていました。
大阪市から訪れた70代の女性は「すごく厳かでよかった。令和の時代になったので、平和で家族が健康でいられるよう気持ちも新たに頑張っていきたい」と話していました。

2522名無しさん:2019/05/03(金) 21:03:58 ID:NrdB.GxU0
記念御朱印色紙 きょう参拝客に授与 大阪天満宮
2019年5月1日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190501/20190501038.html

 新天皇の即位に合わせ、大阪天満宮(大阪市北区)では1日、記念の御朱印色紙を参拝客に授与する。神職が一枚一枚、筆で新元号「令和」の文字を金色でしたためた色紙で、新時代の幕開けへの期待が込められている。

 平成最後の日を迎えた30日、神職が筆を取り、真剣な表情で一枚一枚に丁寧に文字を書いていった。色紙の中央に大きく令和と書かれ、その横に新元号の基となった日本最古の歌集「万葉集」の一節が添えられている。

 また、1日は境内で奉祝行事も行われる。餅や酒が参拝客に振る舞われるほか、落語や雅楽が披露される。

 権禰宜(ねぎ)の小林倫宏さん(26)は「平成への感謝と令和への期待を持って新しい時代を迎えてほしい」と話している。

 記念色紙は限定250枚で、初穂料2千円が必要。午前9時から授与する。このほか、1日は「慶祝」と書かれた御朱印も授与する。

2523名無しさん:2019/05/03(金) 21:05:37 ID:NrdB.GxU0
祝賀準備万全に 新天皇陛下あす即位 府内社寺
2019年4月30日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190430/20190430037.html

 5月1日の「天皇の即位の日」を目前に、大阪府内各地の社寺で奉祝の準備が着々と進んでいる。

 府神社庁のお膝元、大阪市中央区の坐摩(いかすり)神社(渡邉紘一宮司)では、神職が境内に掲げる奉祝懸垂旗やのぼりなどを準備。汚れなどがないかチェックしたほか掲揚する場所を調整した。田中裕人権禰宜(ねぎ)は「平成の御代に感謝するとともに、すがすがしい気持ちで新しい御代をお祝いしたい」と話した。
 このほか同市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)では、御即位奉祝奉納行事を行う。記帳や神館特別拝観(1〜6日)をはじめ、1日には風流武者行事、住吉踊(おどり)、江戸芸かっぽれ、枕太鼓など。2日にはみこし、獅子舞などを予定している。 同市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)では、30日夜に「奉祝の鐘」が行われる。僧侶が午後11時45分ごろから境内・北引導鐘堂と太子引導鐘堂の2カ所でお経を唱え、平成から令和に変わるタイミングで引導鐘を21回突く。この様子をより多くの人に見てもらおうと、インターネットでライブ配信する予定で、同寺ホームページからリンクできるよう調整中という。

2524名無しさん:2019/05/03(金) 21:09:39 ID:NrdB.GxU0
住吉大社 平成最後の御朱印
04月30日 12時55分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190430/0015107.html

 平成最後の日の30日、大阪市の住吉大社には「平成」の日付が書かれた最後の御朱印を求めて多くの人が参拝に訪れています。

大阪・住吉区の住吉大社は神功皇后ゆかりの全国の住吉神社の総本社で、大阪では「すみよっさん」の愛称で親しまれています。
30日は、「平成」の日付が書かれた最後の御朱印を求めて朝から約50人が列を作りました。
訪れた人たちはそれぞれの御朱印帳に黒い墨で「奉拝 住吉大社平成三十一年四月三十日」の文字が入った御朱印を受け取ると、早速、平成の日付を確認していました。
住吉大社では、「平成」の日付が書かれた御朱印を求める人たちが連休に入ってから増えているということで、29日は普段の倍以上の500人ほどが御朱印を受け取ったということです。
吹田市から親子で訪れた10歳の男の子は、「平成最後の御朱印を授かって改めて平成が終わってしまう悲しみを感じています。令和は幸福な時代になってほしいです」と話していました。
住吉大社の万力一雅権禰宜は「平成最後の御朱印を受けていただくことで平成の時代を振り返ってもらい、新たな時代もすがすがしく迎えてもらいたい」と話していました。

2525名無しさん:2019/05/03(金) 21:37:31 ID:NrdB.GxU0
5日「幸村祭」 天王寺・安居神社
2019年5月3日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190503/20190503037.html

 「大坂の陣」の奮戦で知られる信州上田の武将・真田幸村を慰霊する伝統行事「幸村祭」が5日、大阪市天王寺区逢阪1丁目の安居神社(中島一熈宮司)で行われる。午前11時から。見学自由。

 同神社は大坂夏の陣(1615年)の「天王寺口の戦い」で幸村が戦死した地と伝わることから、神社関係者らが長年にわたり顕彰や慰霊を手掛けている。

 同日は慰霊祭に続いて、大阪城真田鉄砲隊(澤田平代表)、長野県上田市の殺陣サークル眞による奉納演武などを予定。問い合わせは電話06(6771)4932

2526名無しさん:2019/05/03(金) 22:05:04 ID:NrdB.GxU0
皇族ゆかりの「神館」 新天皇即位を祝い特別公開 大阪・住吉大社
5/2(木) 11:56配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000019-ytv-l27

 大阪市の住吉大社で、新天皇の即位をお祝いして、皇族ゆかりの建物・「神館」が特別に公開されている。

 住吉大社で特別公開されている「神館」は、約100年前に大正天皇の即位を記念して、皇族が滞在する建物として作られ、国の登録有形文化財に指定されている。

 建物の中には、皇族が休憩するための部屋「『玉座』の間」があるほか、明治天皇から送られたひな人形や、歴代の天皇が書かれた和歌の短冊など皇族にゆかりの品、約30点が展示されている。

 訪れた70代夫婦は「ここで結婚式を挙げさせていただいて、何十年ぶりかにお参りしようと」と話していた。

 境内には、新天皇の即位をお祝いする記帳所も設けられていて、特別公開とともに、6日まで行われる予定だ。

2527名無しさん:2019/05/03(金) 22:06:12 ID:NrdB.GxU0
「難波宮」古代水路を特別公開
05月03日 19時41分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190503/0015161.html

 古代の「難波宮」にあった巨大な石組みの水路の見学会が、大阪歴史博物館で行われました。

飛鳥時代の宮殿「難波宮」の跡にあたる大阪・中央区の大阪歴史博物館では、地下6メートルのところに、巨大な石組みの水路が保存されています。
幅およそ50センチメートル、深さ1メートルほどのこの水路は、わき水を難波宮の外に流す目的で作られたと考えられています。
ふだんは一般に公開されておらず、3日の見学会に訪れた人たちは、1300年あまり前の古代の土木技術に見入っていました。
建築関係の仕事をしているという50代の男性は「大きな石を運ぶクレーンがない時代にこれだけの水路を作るのは大変な労力だったと思う。設計も含め、大昔の土木技術に感心しました」と話していました。

2528名無しさん:2019/05/08(水) 20:45:36 ID:NrdB.GxU0
幼稚園児が作ったこいのぼり100匹 豊中の椋橋総社
2019年5月8日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190508/20190508034.html

 コイが神の使いであるとの伝説が伝わる豊中市庄本町の椋橋総社境内に、幼稚園児が作ったこいのぼり約100匹が飾られている。赤や青、緑と色とりどりのこいのぼりが大空を気持ち良さそうに泳いでいる。

 庄本地区には、奈良時代の僧・行基が猪名川に橋を架けるため、同総社に工事の成功を祈願すると、無数のコイが集まって背を並べて魚橋となり、工事を完成させたという「鯉(コイ)伝説」が残る。境内の池には、現在も100匹以上のコイが泳ぐ。

 こいのぼりは、鯉伝説を後世に伝えるために、同総社に隣接する私立庄本幼稚園(川辺豊園長)が2005年から制作。長さ80センチほどでビニール袋を使って作った。境内に飾られたこいのぼりを見た園児たちは「こいのぼり、飛んでる!」「作ったこいのぼりあった!」と歓声を上げて喜んでいた。こいのぼりは5月中旬まで飾られる。

 川辺園長は「例年の行事となり、地域の皆さんに鯉伝説を知ってもらえています。この時期の風物詩を多くの人に楽しんでいただけたら」と話している。

2529名無しさん:2019/05/08(水) 21:18:39 ID:NrdB.GxU0
みやびやか卯之葉神事 住吉大社
2019年5月8日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190508/20190508028.html

 大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)は6日、祭神である住吉大神の鎮座を記念する「卯之葉(うのは)神事」を執り行い、多くの参拝者が厳かな神事をはじめ奉納行事を見守った。

 
毎年、卯の花(ウツギ)が咲く5月最初の「卯」の日に行われる伝統行事。

 境内・第一本宮の本殿祭では、初夏の日差しの中、ウツギを装飾した神職らが厳かに神事を斎行。玉串拝礼の際、参列者らが本来のサカキではなくウツギを神前にささげた。

 同神事恒例の奉納舞楽は通常、境内の石舞台上で行われるが、今年は天皇即位奉祝記念行事として吉祥殿内の特設舞台で大々的に実施。天王寺舞楽の伝承団体「天王寺楽所(がくそ)」の舞人・楽人が奉仕し、天皇即位礼大饗(たいきょう)に必ず奏される「萬歳楽(まんざいらく)」などをみやびやかに披露した。

 続いて、すみよし反橋能実行委による奉納能「大典」が上演され、約500人の来場者を魅了した。

2530名無しさん:2019/05/10(金) 21:32:49 ID:NrdB.GxU0
ミナミに若手芸妓11年ぶり誕生
05月10日 17時14分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190510/0015395.html

 かつて日本有数の花街としてにぎわいを見せていた大阪・ミナミに、11年ぶりに若手の芸妓が誕生し、10日、関係者にお披露目されました。

新人芸妓としてデビューしたのは、奈良県出身で20歳の「玉幸」さんと大阪出身で24歳の「多美鶴」さんです。
10日は、大阪・ミナミに唯一残る茶屋「たに川」で、報道関係者を前に、先輩の「八重鶴」さんとともに、舞踊や三味線の演奏を披露しました。
ミナミはかつて「南地」と呼ばれる花街があり、およそ2000人の芸妓を抱えていましたが、芸妓や茶屋は次第に減り続け、ここ数年は地元の芸妓が1人だけの状況が続いていたということです。
ミナミで若手の芸妓が誕生するのは11年ぶりだということで、玉幸さんは、「中学生から続けていた日本舞踊を仕事にしたいと思い、インターネットで調べて芸妓に興味をもつようになりました。大阪は若い芸妓がいなかったので、大阪の伝統文化を継承していけるように頑張りたいです」と話していました。

2531名無しさん:2019/05/10(金) 21:40:20 ID:NrdB.GxU0
高島屋東別館が有形文化財に登録 「国土の歴史的景観に寄与」 /大阪
5/10(金) 10:52配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190510-00000015-minkei-l27

  高島屋東別館(大阪市浪速区日本橋3)が、国の有形文化財(建造物)に登録された。(なんば経済新聞)

 
同館は、1928(昭和3)年の建築。鉄筋コンクリート造、地上9階、地下3階建てで、延べ床面積は4750平方メートル。昭和の初めに建設され、これまで約90年にわたり、百貨店が最も華麗だった頃の内外装を今に伝える貴重な建築物として知られている。今回、有形文化財の登録基準である「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と評価された。

 建築から1966(昭和41)年まで松坂屋大阪店として営業。この間、増改築を繰り返し、1940(昭和15)年には、延べ床面積が1万2000坪と松坂屋最大で、国内でも最大規模の百貨店だったという。その後、1968(昭和43)年に高島屋が東別館として事務所などとしての利用を開始。1970(昭和45)年には高島屋が保有する美術・着物・資料などを展示する高島屋史料館も開設した(現在は改装のため休館中)。

 全体にアールデコ調のデザインでまとめられた建物外観は、1階と2階の一部を「基壇」、2階〜6階を「主階」、7階を「アテック階」とする3層構成となっており、堺筋沿いの1階には約67メートルものアーケードを設け、11連のアーチ状の開口部が外観の特徴となっている。

 現在は改装工事中で、サービスレジデンス(キッチンなど長期滞在を可能とする設備を設けたホテル)を核テナントとした施設に転換するほか、高島屋史料館もリニューアルオープンを予定する。
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2532名無しさん:2019/05/12(日) 14:13:01 ID:NrdB.GxU0
天神祭も「令和」お祝い 本年度初の実行委で方針
2019年5月11日
https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190511/20190511039.html

 日本三大祭りの一つ、天神祭の渡御行事保存協賛会は10日、本年度の実行委員会の初会合を大阪市北区の大阪天満宮で開いた。代替わりに伴う天皇陛下即位を祝う行事を、祭りの中で斎行する方針を示し、関係者らは令和で初めてとなる祭りの成功に向けて士気を高めた。

 本年度は天皇陛下の即位に関連し、大阪天満宮の本殿前や門前、行事の道中にのぼりや懸垂幕を設置するなどして祝意を表す。

 本宮祭は、即位を祝う「奉祝祭」を兼ねて斎行することにし、国歌斉唱や万歳といった儀式を含む祭儀にすると報告。寺井種治宮司は「天神祭でも奉祝の気持ちを伝えたい」と意欲を示した。

 初会合では、例年と同じく7月24日に宵宮祭、翌25日に本宮祭や奉納花火約5千発を打ち上げるなどの事業計画案を承認。栗原宏武実行委員長は「令和の初めにふさわしく、盛大かつ安全に斎行したい」と本番に思いをはせた。

 承認された案は、5月末の委員総会で議決する。

2533名無しさん:2019/05/12(日) 16:08:39 ID:NrdB.GxU0
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産 登録なるか
5/9(木) 18:33配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190509-00000161-nnn-soci

  世の中で議論を呼んでいる話題について、ゲストに意見を聞く「opinions」。今回の話題は「百舌鳥・古市古墳群 世界遺産 登録なるか」。雑誌「Discover Japan」の編集長・高橋俊宏氏に聞いた。

世界遺産登録に向けて期待が高まる大阪府の百舌鳥・古市古墳群。
日本最大の古墳として知られる仁徳天皇陵や、応神天皇陵など45件、49基の古墳で構成されている。

ユネスコの諮問機関「イコモス」が「世界文化遺産への登録がふさわしい」とユネスコに勧告するかどうかが注目されていて、近く結果が判明する見通しだ。

ネット上ではこんな意見が見られた。

「日本の文化が認められていいこと」
「その歴史的価値は明白」
「全体が見渡せる場所があるといいな」


――この話題について高橋さんにフリップを書いていただきました。

「天皇から日本、再発見!」です。

元号が変わり、天皇というものに対して関心が高まっていますが、天皇も神話の時代から数えると2700年続いていることになるのですが、実際は、実在した天皇というのは諸説あるのですが、仁徳天皇から実在したのではないかというような話があるんです。

つまり1700年前から天皇がいたのではないかと、そういう意味でいうと、実在された仁徳天皇のお墓の仁徳天皇陵が認められれば、さらに機運が高まるのではないかと思います。

また、仁徳天皇陵は“世界三大墳墓”のひとつなんですけど、クフ王のピラミッドも秦の始皇帝陵も世界遺産になっています。ここで世界三大墳墓の最後のひとつとして、世界遺産に認定されればと期待したいところです。


――日本にとっても大きなことですよね。

古墳でいうと日本で1位、2位、3位が、ここにありますからね。私は出身が岡山なんですが、4位の造山古墳というのがありまして、子どものころ行ったことがありますが、そこのナンバースリーがある。いわば古墳銀座です。古墳の魅力再発見につながるといいなと思います。

2534名無しさん:2019/05/12(日) 16:09:18 ID:NrdB.GxU0
――古墳に行きたいという人もいらっしゃると思うのですが、楽しみ方というのは、どういったところなのでしょう。

仁徳天皇陵は中に入れないと思うのですが、やはり想像力とロマンで見るというのと、あとは堺市の市役所の展望台から見えるらしいので、そういうところから見て楽しむのというのもあると思います。

あと、古墳マニアとしては前方後円墳があってお堀が残っているというのはすごいんです。大体、お堀が埋められてなくなっているところが多いんですが、本来の姿が残っているので上空から見ると、かなりインパクトがありますし、こういってはあれですが、インスタ映えもすると思います。


――展望台から中はどうなっているんだろうとロマンを感じながら眺めるといいんですね。

副葬品とかも出ていますので、それらは美術館や博物館で見ていただいて、当時のことに思いを寄せるというのも楽しいんじゃないでしょうか。


――気になるのが、古墳というのは海外の方はどう見ているのでしょうか。

海外から見ても、ピラミッドにみんな行きたいのと同じで、私も始皇帝の兵馬俑を見に行きましたが、観光のスポットとして重要だと思います。やはり日本を知る上でのルーツですから。

【the SOCIAL opinionsより】

2535名無しさん:2019/05/14(火) 08:46:12 ID:qyBlkDVA0
「仁徳陵」など古墳群、世界遺産へ ユネスコ機関が勧告
2019年5月14日
https://www.asahi.com/articles/ASM4L6JB7M4LUCVL01W.html?ref=yahoo

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に「大山(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)が登録される見通しとなった。事前審査する諮問機関が「登録が適当」と勧告した。6月30日からアゼルバイジャンで開かれる世界遺産委員会で最終的に決まる。

 ユネスコが13日、諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)の勧告内容を日本政府に伝えた。

 古墳時代最盛期の4世紀後半〜5世紀後半に築造された古墳群。国内最大の前方後円墳「大山古墳」(墳丘長486メートル、堺市)、2番目の規模の「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵)」(同425メートル、羽曳野市)のほか、帆立貝形墳や円墳、方墳など大きさも形も多様な45件49基で構成される。

 古墳が密集する堺市の百舌鳥エリアと羽曳野(はびきの)・藤井寺両市の古市エリアは、古代日本の政治や文化の中心地の一つ。個人の権力の大きさや身分の差が目に見える形で示されるようになっていった日本の歴史を物語る物証として顕著な特徴があると認められた。

 49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓(りょうぼ)など。「静安と尊厳の保持」を理由に一般の人の立ち入りは禁じられ、学術的な調査も制限される。名称についても、宮内庁の指定に沿って「仁徳天皇陵古墳」などで推薦されたが、考古学や歴史学者から「被葬者が学術的に確定していない」として地名に基づき大山古墳などと呼ぶべきだとの指摘がある。こうした点がどう評価されるのかが注目されていた。

 イコモスは、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の4段階の評価で勧告する。世界遺産の総数は1092件。日本からは文化遺産18件、自然遺産4件の計22件が登録されており、正式に決まれば、大阪府では初めてとなる。

2536名無しさん:2019/05/14(火) 19:55:03 ID:NrdB.GxU0
古墳群世界遺産登録へ 喜びの声
05月14日 12時10分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190514/0015509.html

 世界文化遺産への登録を目指している大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」について、ユネスコの諮問機関は、登録することがふさわしいとする勧告をまとめました。
これにより、「仁徳天皇陵」として管理されている国内最大の前方後円墳などが、ことし世界文化遺産に登録される見通しとなりました。

「百舌鳥・古市古墳群」の地元大阪・堺市では市民が集まり、世界遺産に登録される見通しになったことを祝う横断幕を掲げました。
「百舌鳥・古市古墳群」を構成する古墳のひとつ「仁徳天皇陵」とされる国内最大の前方後円墳の近くにある大仙公園には、14日午前中からボランティアガイドとして活動する市民などおよそ50人が集まりました。
集まった人たちは「百舌鳥・古市古墳群登録勧告!」と書かれた横断幕を掲げ、万歳して喜びを分かち合いました。
このあと、ハニワのかぶり物をした堺市のマスコットキャラクターハニワ課長が公園を訪れた人たちに「世界遺産ニュース」と題した号外を配り、世界遺産登録に向けて大きく前進したことをPRしました。
ハニワ課長は「土器だけにドキドキして勧告を待っていました。これからも古墳のすばらしさを知ってもらえるよう活動したい」と話していました。
また、古墳周辺で10年以上清掃活動を続けていて去年9月にはユネスコの諮問機関イコモスの現地調査で活動の様子を説明した草野利夫さんは「こつこつ活動してきた結果が実り、うれしいです。イコモスの調査員にも良い説明ができていたのではないか」と話していました。

【市役所展望ロビーでも喜びの声】
「仁徳天皇陵」を見渡せる、地上80メートルの堺市役所の21階の展望ロビーでも喜びの声が聞かれました。
堺市の60代の女性は、「世界文化遺産登録を目指していると知ってから、これまで長い間待ち望んでいただけにとてもうれしいです」と話していました。
また、夫と展望ロビーに来ていた堺市の40代の女性は、「世界の人たちに堺の歴史を知ってもらえることになり、とてもうれしいです。ただ、展望ロビーから見ても、全体がはっきりと見えないので、全体が見えるような場所ができたら観光客にも喜ばれるのではないか」と話していました。

【吉村知事“観光振興につなげたい”】
大阪府の吉村知事は、大阪府庁で記者団に対し、「世界遺産にふさわしいという勧告を受けてうれしく思う。大阪初の世界遺産を目指して、正式に登録されるよう、地元自治体や国と協力しながらやっていきたい。堺、大阪にとって、ものすごく大きな魅力になるので、観光振興につなげていきたい」と述べました。

【専門家は】
「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録される見通しになったことについて、大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、「ピラミッドや秦の始皇帝陵などとともに、世界的に非常に巨大で独特の形態や構造を持つ日本の前方後円墳が、世界遺産として登録されるにふさわしいものだと判断され、古墳の研究に従事する者として非常にうれしく思う」と述べました。
そのうえで、「畿内を中心に日本列島各地の勢力が政治連合を形成していた、日本の初期国家のあり方を反映しており、貴重な遺産であるということが評価されたのではないか。また、当時の人たちの死後の世界観についてや、東アジアの国々から日本にどのようなものが伝わってきていたのかなど、当時の国際関係について考えるうえでも、重要な遺産であることも評価されたのではないか」と述べました。
今後、必要となる取り組みについては、「宮内庁の管理のもとでこれまで保護されてきたのは良かった一方、一般に公開されていないのは問題点だと思う。公開のあり方についてはさまざまな意見があるので、世界遺産への登録を機に、国民的議論が深まることを期待したい」と話していました。

2537名無しさん:2019/05/14(火) 19:55:55 ID:NrdB.GxU0

【地元の店も「古墳効果」に期待】
「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録される見通しとなったことを受けて、地元では地域の魅力が高まり、より多くの人が訪れてくれると期待する声が上がっています。
このうち、仁徳天皇陵とされる古墳のすぐ近くの飲食店では世界遺産登録に向けた機運を盛り上げようと前方後円墳をかたどった「古墳カレー」を提供してきました。
古墳カレーは特製の型を使って古墳の形にごはんを盛り付けたあと、古墳群がまたがる羽曳野市で生産されたいちじくを混ぜ込んだルーをかけたこだわりのカレーです。
店主の中屋麗子さんは「国全体でこれから古墳を守っていこうという流れになっていくので良かったと思います。店に来るお客さんにも古墳は大事なものなんだと意識してもらいながらカレーを食べてもらえるとうれしいです」と話していました。
また、堺市内の堺山之口商店街にある雑貨店では5年ほど前から古墳をモチーフにしたアクセサリーやTシャツなどを販売しています。
店舗を経営する松永友美さんは大の古墳好きで去年からは商店街の中で半年に1度、「古墳祭り」と題したイベントを開催しています。
今月初めの大型連休中に開催したイベントではおよそ2500人が全国各地から訪れ、古墳に関連した商品などを買い求めていたということです。
松永さんは「全国各地を巡っていても古墳がある町にはとても魅力があると感じます。登録に向けた勧告や古墳のイベントが商店街の存在を知ってもらうきっかけになれば」と話してました。

【古墳ファン「まりこふん」さんは】
「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録される見通しとなったことについて、長年の古墳ファンで、古墳の歌を歌うシンガーソングライターの「まりこふん」さんは、「古墳だけに大興奮です。古墳ファンにとって歴史的な日なのではないでしょうか。やっと日本の古墳が世界に知ってもらえる時が来た」と話していました。
また、古墳の楽しみ方については、「まずは周りを歩いてどのくらい大きいか感じて、古墳を作った当時の人に思いをはせてほしい。地元には古墳型のカレーや、古墳のクッションなどさまざまなグッズがあるので、おしゃれでカワイイ古墳の形を楽しんでもらいたいです」と話していました。
まりこふんさんは、「古墳は全国におよそ16万基あり、身近なところに古墳は存在しているので、自分の街の古墳にも注目してもらえたらうれしいです」と話していました。

2538名無しさん:2019/05/14(火) 19:56:32 ID:NrdB.GxU0
【百舌鳥・古市古墳群とは】
「百舌鳥・古市古墳群」は大阪府南部の堺市と、羽曳野市、藤井寺市にまたがる2つの古墳群で、4世紀後半から5世紀後半ごろに造られた49基の古墳からなります。
巨大な前方後円墳が集中しているのが特徴で、このうち堺市にあり宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理し、「大山古墳」とも呼ばれる前方後円墳は全長およそ500メートルと国内で最大です。
エジプト・クフ王のピラミッドや中国・秦の始皇帝陵などと並び世界最大級の王の墓とされています。
また、羽曳野市にあり、「応神天皇陵」として管理されている前方後円墳は国内で2番目の大きさです。
巨大な古墳の近くに大小さまざまな古墳があるのも特徴で円墳や方墳など古墳の形や大きさは埋葬された人物の地位を表していると考えられています。
巨大な前方後円墳に葬られた王の親族や臣下の墓とみられ、日本列島における古代王権の成り立ちを表す貴重な遺跡とされています。

【登録までの経緯】
日本国内の世界遺産は、文化遺産と自然遺産のあわせて22件ありますが、近畿の2府4県では唯一、大阪府だけ世界遺産がなく、府は地元とともに「百舌鳥・古市古墳群」の登録に力を入れてきました。
府と地元の3つの市がユネスコへの国内推薦を目指して初めて名乗りをあげたのが平成25年です。
しかし、国内候補地を決める文化審議会から、古墳や周囲を含む一帯の保全のあり方や計画が十分でないなど10点にのぼる課題が指摘されました。
堺市などは屋外広告を規制する条例の策定に取り組みましたが、2回目の挑戦となった平成27年にも再び推薦が見送られ、海外の人にも分かる古墳の価値の詳しい説明など5点の課題を指摘されました。
そして、翌年の3回目の挑戦でも推薦は見送られ、古墳の歴史的な価値をさらに分かりやすくすることや、観光客の移動手段など、より具体的な課題が指摘されました。
そして、4回目となったおととしの挑戦では、保存状態の悪い古墳を除いて49まで絞り込んだうえで、将来にわたる保全や管理の計画を具体化しました。
さらに巡回バスの運行など観光客の移動手段などの解決にも取り組んだ結果、その年の7月、国内推薦の候補に決まりました。

【古墳全景が見えない課題】
百舌鳥・古市古墳群は古墳の周辺に展望施設がほとんどなく、巨大な古墳の全景を見渡すことができないのが大きな課題となっています。
このうち仁徳天皇陵とされる国内最大の前方後円墳は、堺市役所の21階にある展望ホールから見ることはできますが、鍵形をした古墳の全景を確認することはできません。
堺市ではこうした課題に対応するため去年10月、民間の会社と協力して古墳の上空をヘリコプターで遊覧飛行するツアーを試験的に行いました。
市はこうしたツアーを定期的に開催できるよう調整を進めています。
このほか、仁徳天皇陵とされる古墳と隣接する場所には高さ12メートルほどの展望デッキを整備する計画もあります。
展望デッキの下には古墳群の成り立ちなどを詳しく解説するガイダンス施設も整備されるということです。

2539名無しさん:2019/05/14(火) 20:40:14 ID:NrdB.GxU0
日本文化揺籃の地・大阪。
日本国の母なる大地・大阪。
豊潤な歴史を誇る・大阪。

新しい御代・令和における日本国最初の世界遺産のある場所として選ばれた大阪。
時代は大阪。時の流れは大阪へ向かう。

世界の目が大阪へ集まる新時代の始まり。


「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産登録勧告 地元・堺市は早くも“お祝いモード”
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190514-00027750-mbsnewsv-l27

 大阪府にある「百舌鳥・古市古墳群」がユネスコの諮問機関から世界遺産に登録するよう勧告されました。今後、世界遺産委員会で登録が正式に決定する見通しです。地元・堺市では14日朝から祝福ムードです。

 「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録勧告を受け、近くの公園では市民らが号外を配りました。イベントにはこの方も…。

 「元号が変わったタイミングでこれは運命だと思いますので、非常にめでたいと喜びたいと思います」(ハニワ課長)
 「念願がやっと叶って夢のようでございます。(Q.どれぐらい応援してきた?)1600年」(堺市民)

 一方、こんな祝い方も…。

 「古墳こんにゃくといううちのオリジナル商品があるのですが、それを勧告の記念にふるまわせていただきます」
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MBSニュース


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