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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

1700よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/23(日) 15:42:47 ID:dAQqKbvo0
地下ホールに豊臣期の石垣…大阪城16年公開へ
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140222-OYO1T00255.htm?from=newslist

 豊臣秀吉時代の大坂城の石垣を公開する事業で、大阪市は21日、現大阪城(大阪市中央区)の本丸内に整備する公開施設の概要を発表した。大坂夏の陣から400年となる2015年に着工、16年の完成を目指す。事業費の一部には、市と読売新聞大阪本社が共同で進めている「太閤(たいこう)なにわの夢募金」を充てる

 豊臣期の石垣は本丸の地下に埋もれており、現在発掘調査が進んでいる。

 施設は地上、地下の2層。石垣を展示する地下階のホールでは豊臣期の地層(深さ7メートル)から高さ6メートルの石垣を間近で見上げ、触ることもできる。石垣に連なる形で豊臣期の天守閣のイメージ映像も投影し、壮大なスケールをよみがえらせる。

 一方、出入り口のある地上階のガイダンスルームでは、豊臣、徳川両時代の大坂城の模型やパネルのほか、太閤なにわの夢募金の100万円以上の寄付者の記念芳名板、10万円以上の氏名板などを展示する。

 豊臣期の初代大坂城は夏の陣(1615年)で落城。徳川幕府がその上に2代目大坂城を再建し、現在の石垣はこの時に築いた。

 一方、地中に埋もれた豊臣期の石垣は、自然石を加工せずに積み上げる「野面積(のづらづ)み」と呼ばれる工法で築かれており、これまで、公開施設の場所を含め、数か所で見つかっている。

 太閤なにわの夢募金の目標額は5億円で、1月末現在で約2300件、計約7600万円が寄せられている。個人の場合は「ふるさと納税」の対象となり、所得税、住民税の控除を受けられる。また1万円以上の寄付者には造幣局製造の記念メダル「太閤通宝」の贈呈もある。

 大阪市の担当者は「多くの方の支援を得て、秀吉と大坂城の激動の歴史物語を肌で感じてもらえる施設にしたい」としている。問い合わせは、大阪市・大阪城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)。

(2014年2月22日 読売新聞)

1702よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/24(月) 23:15:19 ID:u7lBKGbE0
前期難波宮の造営は7世紀前半、「年輪セルロース酸素同位体比法」で確定 日本書記と一致 地球研・文化財センター公表
2014.2.24 21:26
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140224/wlf14022421280022-n1.htm


 前期難波宮跡(大阪市中央区)から出土した柱2本の伐採時期が7世紀前半だったことが、新たに開発された年輪セルロース酸素同位体比の年代測定法よって分かり24日、大阪府文化財センターが公表した。日本書紀に記された難波宮の造営時期とほぼ一致した。この測定法による世界初の実証例で、歴史資料の年代決定に大きな進展をもたらす可能性がある。

 前期難波宮は、大化改新につながる「乙巳(いっし)の変」(645年)を機に飛鳥から遷都し、652年に完成した。柱は平成16年、大阪府警本部の新築の際に出土した。直径約30センチのコウヤマキで、宮域の北限を東西に延びる塀を支えていた。

 年代を確定できる遺物が乏しく、同センターは当初、気候によって変動する年輪幅から木材の伐採年代を求める「年輪年代法」の適用を目指した。紫香楽宮(しがらきのみや)(滋賀県甲賀市)や池上曽根(いけがみそね)遺跡(大阪府和泉市)の造営年代を確定させた手法だが、測定可能な樹種がスギやヒノキなどに限られ、一定の樹齢以下のコウヤマキでは困難だった。

 ところが近年、総合地球環境学研究所(京都市北区)の中塚武教授が、木材の主要成分であるセルロースに含まれる3種類の酸素の「同位体比」値を年輪ごとに測定できる年輪判定法を開発。2本の柱で試みたところ、最も外側に残る年輪はそれぞれ583年、612年と確定した。

 伐採年が分かる樹皮部分は残っていなかったが、612年の方は年輪の形状から樹皮近くまで残っていると判断、2本とも612年から間もない時期に伐採されたとみられるという。

 同センターの江浦洋事務局次長は「前期難波宮の造営の時期を決める科学的データを得られた意義は大きい。応用範囲も広く、古代史の謎が解き明かされる夢がある」と話している。

難波宮

 大阪・上町台地上に造営された古代の都宮。「乙巳の変」(645年)後の難波長柄豊碕宮(なおがらとよさきのみや)を前期難波宮といい、のち天武天皇も副都とした。これに対し、聖武天皇が神亀3(726)年に造り始めたのが、後期難波宮。2つの宮跡は重なり、考古学者の山根徳太郎氏によって遺構が確認された。近くからは西暦648年をあらわず「戊申(ぼしん)年」銘の木簡も出土している。

年輪セルロース酸素同位体比法

 酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。

1703よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/24(月) 23:34:07 ID:u7lBKGbE0
扇子手に軽やか 大阪天満宮にすずめ踊り奉納
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140224-OYT8T00011.htm

 約400年前に堺の石工たちが始めたと伝わる「すずめ踊り」が23日、大阪市北区の大阪天満宮で奉納された。参拝客が集まる本殿前で、法被姿で扇子を手にした踊り手や太鼓、笛など「堺すずめ踊り連盟」(堺市堺区)の会員約40人が、扇子を広げて跳びはねる軽やかな踊りを披露した。

 1603年、青葉城(仙台市)の築城を祝う宴席で、石垣工事に従事した堺の石工たちが、藩主の伊達政宗に即興で披露したのが起源とされる。跳ね踊る姿がすずめに似ており、仙台の伝統芸能として引き継がれてきた。

 同連盟は約10年前に堺で踊りを復活させ、本場の「仙台・青葉まつり」で披露。天神祭の船渡御を迎える船に飾られる「お迎え人形」の中に「すずめ踊り」がある縁で、同天満宮でも2年前から奉納している。

 同連盟の松村進一会長(31)は「東日本大震災の復興を願い、様々な行事で踊っていきたい」と話した。

(2014年2月24日 読売新聞)

1707よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/07(金) 21:17:27 ID:hhmlCOPQ0
太閤の石垣、ファン熱視線…大阪城で公開始まる
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140307-OYO1T00742.htm

 国の特別史跡・大阪城(大阪市中央区)の地下から発掘された豊臣期大坂城の石垣の一般公開が7日始まり、多くの歴史ファンでにぎわった。9日まで。

 石垣は1984年の水道管の取り換え工事に伴って発見。調査後いったん埋め戻されたが、2016年に公開施設をつくるため、30年ぶりに発掘された。

 この日は、午前10時の公開開始と同時に約60人が集まり、その後も大勢の人たちが訪れた。大阪文化財研究所の担当者から「野面積(のづらづ)み」という技法が用いられていることなどについて説明を受けた後、熱心に見入り、写真を撮っていた。

 大阪市住之江区の会社員鎌田英雄さん(57)は「大坂夏の陣の頃と同じ風景を目の当たりにして感動した。公開施設の完成が楽しみ」と話していた。

           ◇

 読売新聞大阪本社は公開施設の資金を募る「太閤(たいこう)なにわの夢募金」を、市と共同で実施している。問い合わせは大阪市・大阪城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)へ。

(2014年3月7日 読売新聞)

1708よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/09(日) 13:29:05 ID:IrwYCgVQ0
金熊寺で梅林見ごろ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140309-OYT8T00074.htm

 白梅を中心に約2000本が植えられ「大阪みどりの百選」に選ばれている泉南市の金熊寺(きんゆうじ)梅林で、梅が見頃を迎えた。訪れた人は、山あいを埋め尽くす白や桃色の花が風に揺れている間を散策したり、写真撮影をしたりと楽しんでいる。

 約270年前から栽培される白梅を中心に、段々畑に連なるように植えられている梅林。周辺住民が組合を作り遊歩道を整備したり、交配をして種類を増やしたりして、管理している。

 今年は冬の冷え込みが厳しく平年より1週間程度開花が遅れたが、金熊寺梅林組合の福本寛組合長(79)によると9日頃に満開になるといい、「満開後も1週間は楽しめる。ぜひ、足を運んで」と話している。問い合わせなどは市産業観光課(072・483・8191)へ。

(2014年3月9日 読売新聞)

1709よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/09(日) 16:49:56 ID:6nt42Sw60
秘仏も開帳、地域と信仰再生へ 「十六羅漢祭」のにぎわい取り戻せ 大阪・貝塚
2014.3.8 15:25
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140308/wlf14030812480018-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140308/wlf14030812480018-n2.htm

 白鳳時代(645〜710年)の開基とされる吉祥園寺(きっしょうえんじ)(真言宗御室派)がある大阪府貝塚市王子地区の住民が、寺に伝わる秘仏「十六羅漢(らかん)画像」を開帳する春祭り「十六羅漢祭」のにぎわいを取り戻そうと、初めての“例大祭”を今月16日に開催することになった。住民の高齢化などで担い手が減少するのに伴って年々規模を縮小せざるを得なかったが、「このままでは廃れてしまう」と、地域と寺が協力して立ち上がった。

 矢野寛耕住職(56)によると、十六羅漢画像は吉祥園寺に伝わる掛け軸の秘仏で、室町中期の画僧・兆殿司(ちょう・でんす)の筆とされる。大和絵系と呼ばれる技法で描かれており、現存する羅漢図では国内で2番目に古いうえ、16幅がそろっているのは全国的にも珍しく、市の文化財にも指定されている。

 地元の口伝などでは、秘仏を開帳する羅漢祭の始まりは1500年代後半の安土桃山時代。その後、五穀豊穣(ほうじょう)を祈念する祭りになったが、江戸末期に中止したところその年泉州地域に疫病がはやり大飢饉(ききん)が起こったことから翌年復活。以降は無病息災なども祈願して実施されてきた。

 地元住民によると「戦前までは泉州一円から人が集まり、縁日の店もずらりと並ぶ盛大さで、『春の羅漢さん、秋のだんじり』と言われた」という。

 吉祥園寺は長らく無住寺だったため、地元住民が「十六羅漢講」という団体をつくって寺を支えてきたが、近年は若者の地元離れなどもあって担い手が減少。ここ十数年は、一部の住民が参加して法要を営む程度になっていた。

 今年は、もともと人気の高い恒例行事だった福引を復活。特別祈?(厄よけ、交通安全など)や願い事などを書いたのぼり奉納なども実施する。さらに地元のイベントともリンクし、貝塚市のゆるキャラ「つげさん」も参加し、グッズの販売をするなどお年寄りから子供までが楽しめる祭りにするという。

 矢野住職は「数百年も続いた行事を途絶えさせるわけにはいかないという地域の熱い思いが伝わってきました。これから手を取り合って、十六羅漢祭を盛り上げていきたい」と話している。問い合わせは吉祥園寺((電)072・423・1654)。

(藤浦淳)

      ◇

十六羅漢 仏教用語で聖者を意味する阿羅漢(あらかん、羅漢)のうち、仏法を守り、衆生(しゅじょう)を正しく導くことを誓った釈迦の16人の弟子(カナカバッサ、スピンダなど)をさす。仏像や石仏、絵画などとして全国各地に存在し、信仰を集めたり観光名所となったりしている。

1710よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/13(木) 22:04:14 ID:dy5AzadQ0
大阪の模擬原爆被害知って
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140311-OYT8T00046.htm

◇大空襲「語る会」久保さん 証言集を復刊

 1945年の広島・長崎への原爆投下直前、米軍が「訓練」として投下した模擬原爆で被害を受けた大阪市東住吉区田辺の住民たちの証言集が、戦争体験者の手で復刊された。初版は約20年前に出版されたが、その後、散逸して1冊しか残っておらず、失われつつある模擬原爆の記憶を後世に伝えたいと再編集した。(南部さやか)

 復刊したのは、「大阪大空襲の体験を語る会」代表の久保三也子さん(84)(大阪市福島区)で、自らも45年3月の大阪大空襲を経験している。

 模擬原爆は、B29爆撃機が投下後の衝撃に巻き込まれずに飛行するための訓練用として、実物と同じ重さ(5トン)で製造、火薬が詰め込まれた。45年7〜8月には全国約30都市の工場などを標的に、計50発が使用され、東住吉区田辺では7月26日午前9時26分、投下された。

 大阪市が戦後作成した資料によると、この時の爆撃の被害は死者7人、重軽傷者73人、被災家屋486戸にのぼったという。

 模擬原爆の存在は、91年に「春日井の戦争を記録する会」(愛知県)が、国立国会図書館(東京都)で米軍の資料を調査して明らかになった。当時、久保さんら、語る会のメンバー5人も田辺地区で体験者を捜し求め、2年がかりで23人分(男性15人、女性8人)の証言を集めて、93年に1000部を出版した。

 〈なんの予告もなく、ザーという落下音とともにすさまじい地響きがして、家の窓ガラスが音を立てて粉々に割れた〉〈直爆した料亭は跡形もなく、付近の家もつぶれ、大きな穴があいていた〉〈真黒な砂煙で夜のように暗くなった〉

 〈あちこちで、血で黒く染まった人が歩いていた〉〈人々が「新型爆弾や」と騒いでいた〉。体験者の証言はいずれも悲惨な状況を生々しく語っていた。

 しかし、その初版も、持っていた人が亡くなって廃棄されたり、散逸したりし、久保さんの手元にも1冊しか残っていない。証言した人の多くも亡くなり、調査をしたメンバーも久保さん以外は他界している。

 久保さんが復刊を思い立ったのは、「模擬原爆を知りたい」という研究者や教育関係者らが最近増えたことがきっかけだ。残った1冊をもとに今回、全国各地で50発を投下した米軍の訓練記録の一覧を追加して再編集し、300部(A5判、35ページ)を出版した。

 久保さんは「証言者が高齢化で少なくなる中、改めて模擬原爆の事実を知ってほしい」と話し、今後、ピースおおさか(大阪国際平和センター)などに寄贈する予定。一部は、希望者にも提供するという。

 模擬原爆を確認した「春日井の戦争を記録する会」のメンバーで元中学教諭の金子力さん(63)は「模擬原爆の被害があったことは、広くは知られていない。正確な投下場所や被害人数も分からない点があり、実際に見た住民の証言は非常に貴重だ」と話している。

(2014年3月11日 読売新聞)

1711よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/13(木) 22:33:24 ID:dy5AzadQ0
大阪大空襲から69年 当時の生徒ら出席し“幻の卒業式”
2014.3.13 21:46
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140313/wlf14031321510041-n1.htm

 大阪大空襲から69年となる13日、大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)で、当時の国民学校の生徒を対象とした“幻の卒業式”が行われた。第1回大空襲は昭和20年3月13日深夜から14日未明にかけて。14日は同市内の多くの国民学校で卒業式が予定されていたが、空襲直後で開催できなかった。

 この日は、当時の国民学校の生徒で卒業式を迎えるはずだった3人が出席。同館の岡田重信館長が、当時の国民服姿で卒業証書を手渡した。

 桜川国民学校(浪速区)に在籍していた大阪府岸和田市の田中(旧姓・川本)芳子さん(81)は、証書を受け取り「当時のことを思い出しました」と感極まった様子。空襲時は近所の子供たちと学校に逃げ込んで難を逃れたという。「学校を休んだことがなく皆勤賞だったので、卒業式が迎えられなかったことが心残りだった。ほっとした」と話してた。

1712よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/14(金) 19:27:17 ID:vLSSQSuA0
常光寺本堂など 市文化財に指定 八尾市教委 大阪
2014.3.13 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140313/osk14031302020003-n1.htm

 八尾市教育委員会は、常光寺(同市本町)の「本堂・阿弥陀堂・行者堂」と、薗光寺(おんこうじ)(同市水越)所有の「木造 阿弥陀如来立像」を市文化財に指定した。

 常光寺は、府内でも珍しい臨済宗南禅寺派の寺院。また河内音頭発祥の地とされ、流し節正調河内音頭が披露される地蔵盆踊りや大般若絵(だいはんにゃえ)、狂言「八尾」でも知られる。

 薗光寺の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代に多く制作された「三尺阿弥陀像」。西方極楽浄土から迎えに来るときの印を結び、右足をわずかに前に踏み出し、やや前傾して蓮花座上に立っているのが特徴だ。

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1713よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/16(日) 17:08:00 ID:yTpqvOJs0
生駒山に春の訪れ 東大阪で戸開式
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140316-OYT8T00030.htm

 修験道場として知られる東大阪市東豊浦町の髪切山(ごぎりさん)慈光寺(槙尾実英住職)で15日、生駒山に春の到来を告げる儀式「戸開(とあけ)式」が行われ、約100人が山の安全や無病息災を祈った。

 同寺は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、約1300年前に開いたとされる。役行者が生駒山中で悪行を繰り返していた鬼を捕らえて髪を切り、改心させて家来にしたという言い伝えから「髪切」の名がついたという。

 槙尾住職から役行者をまつるお堂の鍵を受け取った鍵役が、鬼にふんした山伏らと石段を上って扉を開け、柴灯(さいとう)護摩も行われた。

 同市立花町、主婦森本美砂子さん(69)は「ウグイスの鳴き声が聞こえ、春の足音を感じた。健康に過ごせるように祈りました」と話していた。

(2014年3月16日 読売新聞)

1714よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/16(日) 17:50:21 ID:yTpqvOJs0
礼儀正しく「仕舞」体験 豊中不動尊能舞台で「こども教室」 大阪
2014.3.16 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140316/osk14031602020000-n1.htm

 子供たちに伝統芸能・能楽の「仕舞」体験を通して、日本文化のすばらしさを感じてもらう「能楽・仕舞(しまい)こども教室」が15日、豊中市緑丘の豊中不動尊能舞台で開かれた。

 文化庁の「文化遺産を活かした地域活性化事業」の一環として、豊中こども能楽塾(山本博通代表=観世流シテ方)が開催した。

 仕舞は、能の演目の一部を面、衣装をつけず紋付袴(はかま)や着物で舞う。伴奏は地謡(じうたい)のみで、簡略化された能のエッセンスを楽しめる。

 教室には小学生ら29人が参加し、今年1月から8回にわたり、仕舞の基本的な舞い方や謡いの発声方法を、能楽師らの指導で稽古してきた。

 最終回のこの日は、稽古の成果を披露する発表会形式で行われた。

 着物に着替えた子供たちは、神妙な表情で能舞台に立ち、ひとり約1分間、春の到来や長寿を祝う「老松(おいまつ)」などを元気な謡いとともに熱演した。

 保護者らは「伝統文化に触れ、正座ができるようになるなど礼儀正しくなった」と喜んでいた。

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1715よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/19(水) 05:42:34 ID:xlhhN.wA0
「郷墓」の変遷明らかに 八尾・神宮寺墓地
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140318-OYT8T00051.htm

◇市教委が報告書、中・近世の石造物多数

八尾市の神宮寺墓地(来迎=らいごう=寺共同墓地)にある石仏や石塔などの石造物を市教委が調査し、報告書にまとめた。同墓地の中央部は複数の旧村(江戸時代の村、現在の大字)の人々が葬られた「郷墓(ごうばか)(惣墓=そうばか=)」で、鎌倉時代前期の五輪塔を始め、中世から近世の石造物が数多く残されていた。府内で郷墓の全体的な調査が行われるのは初めてで、市教委は「墓地も貴重な歴史遺産だと明らかになった」としている。

 同墓地は、奈良時代の高僧・行基が造ったとされる共同墓地「河内七墓」の一つで、八尾、柏原両市にまたがる。今回、古い石造物が多く残る八尾市側について、2010年度から3年計画で調査した。結果、石塔などの総数は約5500基で、明治時代以前のものは約1700基と判明。約150基に造立された年号が刻まれ、鎌倉時代前期〜江戸時代の石塔類の構成や時期的な変遷が明らかになった。

 市教委文化財課は「身近な文化財である石塔や石仏が、地域の信仰や歴史の解明に役立つことを知ってほしい」とし、河内七墓のうち市内にある垣内(かいち)、神立(こうだち)、植松の3か所についても今後、調査、報告する。

 白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「近年の生活様式の変化によって、中近世以来の姿をとどめる墓地は大きく変貌しつつあり、記録化が急がれる。非常に重要な取り組みだ」と評価している。

 報告書はA4判、158ページ。800円(税込み)。問い合わせは同課(072・924・8555)へ。

(2014年3月18日 読売新聞)

1716よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/21(金) 05:28:38 ID:s.Xz6LEo0
重文に府内5点 文化審議会答申
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140320-OYT8T00043.htm

◇取水施設「木樋」など、登録文化財は4か所

  国の文化審議会が文部科学相に行った答申で、現存する日本最古の人工ため池「狭山池」(大阪狭山市)から出土した取水施設「木樋(もくひ)」など府内の5点が重要文化財に選ばれた。

 狭山池は7世紀前半の築造とされ、これまで飛鳥時代の木製の通水路(全長約70メートル)などが見つかっている。中世に池を改修した僧・重源(ちょうげん)が作った石碑や、江戸時代の取水施設も同時に選ばれた。「日本の高度な土木技術が確認できる希少な資料」と評価された。

 ほかに、桃山時代の絵師・狩野永徳の弟・宗秀(そうしゅう)の代表作「紙本金地著色四季花鳥図(しほんきんじちゃくしょくしきかちょうず)」、7世紀末に中国で刊行された伝奇小説の現存最古の写本「遊仙窟(ゆうせんくつ) 残巻(ざんかん)」、安土桃山時代の医学書「啓迪集(けいてきしゅう) 自筆本」、鎌倉時代の追善供養の実態がうかがえる「後伏見院庁諷誦文(ごふしみいんのちょうふじゅもん)」の4点が選ばれた。

 また、外国人建築家が和の様式を採り入れて建設した「カトリック豊中教会」(豊中市)などの建造物4か所、25件は登録有形文化財に選ばれた。府内の重要文化財(美術工芸品)は571件、登録有形文化財(建造物)は215か所、583件となる予定。

(2014年3月20日 読売新聞)

1717よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 06:32:57 ID:J/y31gqo0
戦国武将の書状など84点  大阪城で企画展
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140322-OYT8T00009.htm

 豊臣秀吉の生きた安土桃山時代から豊臣家が滅びた大坂の陣までの古文書を集めた企画展「乱世からの手紙」が21日、大阪城天守閣(大阪市中央区)で始まった。戦国武将の書状や誓約書など、同天守閣が収蔵品などからえりすぐった84点を展示している。5月6日まで。

 上杉謙信は、永禄10年(1567年)に美濃国(現・岐阜県)を平定した織田信長に送った書状で「比類なき活躍、めでたい」とたたえている。後に敵対関係となるが、勢力を伸ばし始めた信長と良好な関係を築こうとした謙信側の思惑が読み取れる。

 また、秀吉が晩年の文禄2年(93年)に授かった我が子・秀頼の乳飲み子の頃に書いた私信には「先日は見送ってくれて満足」などとつづられ、幼子への愛情が伝わってくる。

 寝屋川市の会社員山内康さん(33)は「武将の心の内や当時の様子が想像できて楽しい」と話し、展示品に見入っていた。

 無休。入館料は一般600円、中学生以下無料。



 大阪城天守閣は桜の季節や大型連休など春の行楽シーズンに合わせ、開館時間(通常は午前9時〜午後5時)を延長する。

 4月6日までは2時間延長して午後7時まで、同26日〜5月6日は1時間延長して午後6時まで。問い合わせは同天守閣(06・6941・3044)へ。

(2014年3月22日 読売新聞)

1718よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:05:11 ID:l/NPVHr60
大阪の町名は「まち」読みが多い? 地名守った商人魂
2014/3/23 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD11024_S4A310C1AA1P00/

大阪に転勤して間もない頃、タクシーで「『あわじちょう』まで」と言うと、運転手は一瞬どこだか分からない様子。しばらくして「ああ、『あわじまち』ですね。お客さん、どこから来たんですか」。運転手いわく「大阪では『ちょう』ではなく『まち』と言うので、よそから来た人はすぐに分かります」とのこと。本当だろうか。

  大阪市営地下鉄・御堂筋線の淀屋橋駅あたりから南下すると「伏見町」「道修町」「平野町」……と「まち」と読む町名が並ぶ。「淡路町」は同じ漢字の町名が東京都千代田区にもあるが、こちらは「あわじちょう」。「安土町」は滋賀県近江八幡市では「あづちちょう」と読む。大阪以外の地域では「ちょう」と読むことが多いようだ。

 もちろん、大阪市内でも「宗右衛門町」のように「ちょう」と読む町名はある。大阪市の地図を調べてみると、市内に「町」の字が付く町名は約150あり、半数が「まち」読み。しかし中央区に限ると、45のうち35が「まち」と読むことが分かった。市の中心部に集中しているため、「大阪は『まち』が多い」という印象を与えているようだ。

 東京都内では原則、大手町など武家屋敷のあったところは「まち」、鍛冶町など町人が住んでいた地域は「ちょう」と区別されているという。では大阪はどうなのか。

 「大阪『地理・地名・地図』の謎」などの著書があるノンフィクション作家の谷川彰秀さんに聞くと、「大阪天満宮や四天王寺の周辺などに『まち』が多く見られるので、寺町が由来ではないか」という。確かに寺社の周辺に「まち」は多いが、「ちょう」も存在する。中央区は特段、寺社が多いわけでもなく、この説では説明しきれない。

1719よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:06:26 ID:l/NPVHr60
>>1718

http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD11024_S4A310C1AA1P00/?df=2

 次に大阪歴史博物館の学芸員、八木滋さんを訪ねた。現在の中央区のあたりは、大阪城が築城されたのち、主に江戸時代に入ってから発展した。八木さんは「江戸時代から大阪は商人の町。武士はほとんど住んでおらず、身分や職業による区別はなかった」と話す。「ただ、江戸時代にはすでに『まち』と読む慣習が根付いていた」と言って、古い文献を見せてくれた。

 1842年(天保13年)刊行の「大坂町鑑」。当時の大阪の町名約600について、「まち」と読む町名には「町」の字、「ちょう」と読む町名は「丁」と分けて記載している。当時の人々がどのように「町」を読んでいたのかが分かる。「ざっと数えたところ、3分の2程度が『まち』だった」と八木さん。「理由はよく分からないが、古い町名がそのまま残っているところが多いことが、中央区に『まち』が多い一因ではないか」と指摘する。

 1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、全国的に古い町名を整理して新しい町名に変える動きがあった。住所を頼りに訪問先を探し当てたり郵便物を配達したりしやすくするためだ。大阪市中央区の南船場や難波などはいくつかの町が統合されてできた新しい町名だ。

 ところが中央区のなかでも、長堀通以北の旧東区と呼ばれる地域は、江戸時代からの町名がそのままというところが多い。薬問屋が集まる道修町や繊維問屋が集まった安土町、本町などは江戸時代、商いのまちとして栄えた。

 中央区道修町が本社のボンドケミカル商事の小西哲夫社長は、明治初期にこの地で創業したコニシの創業家。当時の事情について聞くと「この辺りには、江戸時代から続く料亭や商家が多く、地元への愛着が強い。古い町名を残すために団結した」と話してくれた。町内会長のような立場の人が中心になって、行政などへ働き掛けたのだという。

 道修町には今でも製薬会社の本社が立ち並び、「薬のまち」の面影を残す。船場大阪を語る会の三島佑一会長は「道修町は町内会で神社を造ってしまうほど、結束が強い」と話す。薬の神様をまつる少彦名神社は道修町に店を構えた薬問屋が造ったもので、毎年11月22〜23日に開く祭りには、製薬会社など約350社が加入する薬祖講が運営。祭りの日には各社からのボランティアが集まり、見物客が道路を埋め尽くすほどだ。

 最近は新しいマンションやオフィスビルが増え、古くからの住人や商店は減ってきた。町名の由来を知る人も少なくなったが、歴史のある古い町名には先人の思いが詰まっている。

(大阪経済部 小国由美子)

1720よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:29:35 ID:l/NPVHr60
澪標 ―みおつくし―

「生國魂造」二つの特徴

生國魂神社権禰宜 中村 文隆
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/140225/20140225033.html

 前稿では大阪の始まりの地が大阪湾に浮かぶ「難波埼(なにわのみさき)−現・上町台地−」であり、その三方を海で囲まれた北端の地の占有者が日本国の実質的な統治者であることを見てまいりました。これは大坂城築城より今日に至る400年だけを指すのではなく、神話と歴史の接点となった神武東征の物語から連綿と続く2700年間のことを指します。

 では、秀吉の築城に際し、同地を離れた生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)はその後どうなったのでしょうか。

 実は秀吉・秀頼父子は後の上町台地と呼ばれるようになった難波埼の中央部、現在の上本町界隈(かいわい)に約2万5千坪の代替地を寄進し、全国に8万社ある神社の中で唯一の建築様式である「生國魂造(いくたまづくり)」と呼ばれる社殿を普請しています。この無双の生國魂造には日本の歴史を反映した二つの特徴があります。

 まず一つ目は20メートルを超える巨大な本殿であるという点です。出雲大社など、神話の時代から大きな社殿を建てることを社是としてきた神社を除き、一般的に神社建築は大きな社殿を建てる必要がありません。ちなみに仏教は建築の技法や道具、職人、果てはそれらを包括する建築という概念そのものを伴って日本に伝来したため、寺院を建立すること自体に布教の側面があり、大きければ大きほど、立派であればあるほど信仰の大きさが見て取れます。

 一方、仏教伝来前、原初の神社大半は、神の社(もり)という字が示す通り、神や祖霊の鎮まる森や山などの場所や空間を指しました。ところが、文明の進展に比例し人間の感受性が鈍り、その場所の象徴が、老木や巨石からより人間の視覚に訴えやすい社殿という人工物に変遷します。しかし、人間側が社殿を通じてその空間に神を認識できれば事足りるので、殊更大きな社殿を構える必要性はありません。

 生國魂造の二つ目の特徴は、大神様のお鎮まりになる本殿と幣物などを献じる幣殿の二つの社殿が一つの大屋根で葺(ふ)き下ろされ、その上に三つの破風(はふう)が据え付けられている複雑な桃山時代の様式を今に伝えている点です。勘の良い方は既にお気づきのことと存じますが、大坂城築城とそれに伴う生國魂神社の遷座の経緯から勘案しますと、この複雑な建築様式の社殿は、先に見た特徴である巨大さと併せ、次期に継承された徳川期大坂城も含めて兄弟関係にあるといえます。

 長らく続いた戦国の動乱が収斂(しゅうれん)へ向かう過程で集約された力は、最終局面で大きなうねりとなって前例のない二つの巨大建築をここ大阪に生み出しました。天下統一の物的証拠が今もなお街の中央部に並び立ち、そこに多くの人が訪れるのも大阪が持つ根源的な街の魅力でしょう。

 徳川方が政権を継承して以降は戦のない天下太平の江戸時代が続き、安定した営みに立脚した町衆が力をつけ始めます。特に物流の中心となり、天下の台所と呼ばれた大坂の発展は目覚ましく、そこに暮らす町衆から次々と新しい文化が生まれます。その最大の集積地がいくたまさんで、近松門左衛門や井原西鶴、上方落語の始祖・米澤彦八などをはじめとした多種多様な人材が活躍し、上方芸能・上方文化が花咲く場所となりました。

 その後、明治維新を経て日本の中心的神社として再認識され官幣大社に列格しますが、以降も度重なる災害や戦火に見舞われます。

 しかしその都度、大阪市民の皆さんと共に困難を乗り越え、街と共に歩んで現在に至り、今も生國魂祭(いくたままつり)の渡御列(とぎょれつ)復興などの課題に取り組んでいます。

 大阪繁栄の象徴がいくたまさんのご社頭の賑(にぎ)わいであるならば、逆説的ではありますが、これからもその賑わいを絶やすことなく祈り続けてまいりたいと存じます。

 以上、昨年より貴重な紙面をお預かりし、いくたまさんという定点を通じて大阪から日本を俯瞰(ふかん)してまいりました。紙幅の都合上、やむなく割愛した部分もございますので、この続きは境内でお待ちしております。

 (なかむら・ふみたか 大阪市天王寺区)


2014年2月25日

1721よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 21:21:38 ID:6iplpaSg0
<上宮天満宮>サル、猫に癒やされる
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/feature/osaka1391186241539_02/news/20140315-OYT8T00066.htm

 車道をまたぐ大鳥居をくぐり、丁字路の突き当たりの階段を上がると、目の前に開けた境内で、猫が大あくびをしていた。

 JR高槻駅から北約500メートルにある鎮守の森に囲まれた「上宮天満宮」。境内に居着いた野良猫の保護のため、作業小屋などに5か所の「居場所」を設け、昨年4月には猫を含めたペットの健康や長寿、死んだ後の鎮魂を祈る「守護天神」も完成した。

 本能寺の変(1582年)で織田信長を討った明智光秀を、豊臣秀吉は山崎の戦いで破った。その記念として、本陣を置いていたこの天満宮の社殿を美しく改修した。秀吉が現代の天満宮ののどかな様子を見れば、思わず目を細めるのではないだろうか。

 あまり知られてはいないが、秀吉は猫好きだった。

 秀吉の重臣・浅野長政が文禄2年(1593年)、同僚に宛てた書状に、秀吉がかわいがっていた猫がいなくなり、見つけるよう命じられたとつづられている。「見つかるまで、虎毛の猫1匹を借用したい」と書かれた文面から、長政が必死だった様子がうかがえる。

 今も昔も、猫が好きな人は多いのだろう。その気持ちを知りたいと、阪急高槻市駅の近くにある猫カフェ「ねこの部屋 あまえんぼう」を訪ねた。上宮天満宮の境内と同じく、店内にはのんびりとくつろぐ猫が15匹いた。

 店員の中田愛里さん(25)は「犬猿の仲と言われるから、サルと呼ばれた秀吉さんも、犬ではなく猫をかわいがったのではないでしょうか」と笑った。

 長政が猫捜しに追われていた頃、秀吉は朝鮮に兵を出し、国内では関白職を譲った養子の秀次と不和になるなど、心がざわめく日々だった。権力者の孤独を、猫が癒やした。(上野将平)

 ◆上宮天満宮 平安時代の創建。学問の神様、菅原道真をまつる全国の天神社のうち、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)に次いで、2番目に古いとされる。豊臣秀吉は1582年の山崎の戦いで、上宮天満宮の参道に本陣を置いた。近年では、1996年に本殿が火災で焼失した後、2002年に竹で再建された。JR高槻駅から北に徒歩10分。(電)072・682・0025

 大阪市と読売新聞大阪本社は、大阪城の地下に眠る秀吉時代の石垣を発掘、公開する事業の資金を募るため、「太閤なにわの夢募金」に共同で取り組んでいます。1万円以上の寄付をした方に造幣局製造の「太閤通宝」を贈呈するなどの特典があるほか、寄付額に応じて所得税、住民税が控除される優遇措置もあります。

 寄付はゆうちょ銀行、郵便局での振り込みか、公式ホームページ(http://www.toyotomi‐ishigaki.com/)からのクレジットカードによる申し込みになります。

 問い合わせは、大阪市・城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)へ。

 この募金の応援企画として、毎月第1、3水曜日夕刊で、現代に息づく秀吉の夢や功績を取り上げる「なにわの夢」を掲載しています。

(2014年3月15日 読売新聞)

1722よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 02:02:12 ID:Fw9nCOM20
春場所“成就”に感謝 住吉大社で土俵まつり
2014年3月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140324/20140324040.html

 大相撲春場所が千秋楽を迎えた23日、立浪部屋の宿舎となっていた大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で、土俵祭が執り行われた。参列した力士たちは相撲の守護神、住吉大神に、1カ月にわたった稽古の安全と修行成就を感謝した。

 境内の土俵で、神様を天に送る儀式「昇神之儀」を行い、力士15人が「エイエイオー」と声を上げながら、神様の象徴である御幣(ごへい)を抱いた神職を胴上げした。儀式を見守っていた約40人の地元住民からは拍手が起こった。

 このほか、参列者による神酒の乾杯や大阪締めが行われた。儀式の中で神職は「また明年会えることを待ち望み、たくさん白星をあげることを祈っている」と力士たちに声を掛けた。

 同大社は相撲と縁が深く、「横綱」の称号の起源の地と伝わる。同部屋の合宿は2007年の三月場所から受け入れている。神様を招く儀式「降神之儀」は2月20日に執り行われた。

1723よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 02:06:49 ID:Fw9nCOM20
1500年前の古墳 映像に
03月24日 19時20分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140324/3133681.html 

堺市は、世界文化遺産への登録を目指す地元の古墳群について理解を深めてもらおうと市の博物館に、古墳が作られた当時の様子を再現し、大型スクリーンの映像で紹介するミニシアターを設置しました。
「百舌鳥古墳群ガイダンスコーナー」と呼ばれるこのミニシアターは堺市博物館に作られ、あすのオープンを前に報道関係者に公開されました。
シアターは、30の座席を備え前方に縦2メートル40センチ横4メートル30センチの大型スクリーンが設置されています。
堺市が、大阪府などと世界文化遺産への登録を目指している「百舌鳥・古市古墳群」のうち、堺市内に点在する「百舌鳥古墳群」を12分間のビデオで紹介しています。
ビデオではこれまでの発掘調査などを元に再現されたおよそ1500年前の当時の古墳の様子などがコンピューターグラフィックスで紹介されています。
堺市世界文化遺産推進室の大村慶次長は「現在の古墳は森のように見えますが、作られた当時は、土の上に石を置いた構造物だったと見られています。多くの人たち見てもらい、百舌鳥古墳群について関心を高めてほしいです」と話していました。

1724よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 20:01:52 ID:LpBpZQOM0
山本能楽堂 改修完了へ 4月、一般向け内覧会
2014年3月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140325/20140325036.html

 2011年から実施してきた山本能楽堂(大阪市中央区)の改修が3月末で完了する見込みとなり、公益財団法人山本能楽堂の山本章弘代表理事は24日、同能楽堂を一般にお披露目する内覧会「花と芸能−春爛漫」を4月25〜27日の3日間開催すると発表した。

 同能楽堂は、1927年に設立され、大阪大空襲で焼失、50年に再建。2011年に始まった文化庁の「重要文化財建造物等公開活用事業」に初採択され、観光振興・地域活性化の拠点として、登録有形文化財建造物を効果的に公開活用するための整備に対し補助を受けた。補助金、自己資金、寄付が3分の1ずつで、総事業費は約2億円。

 安井建築設計事務所や、中之島を拠点に世界で活躍するデザイン事務所「graf」の服部滋樹さんが協力し、1670万色の色彩を表現できるLED照明や床暖房、資料室などを備えて生まれ変わった。

 内覧会では、能楽堂全体の空間を楽しんでもらおうと、東京五輪招致委員会などを担当したフラワーデザイナーの藤吉恒雄さんが、1〜3階を花で飾るほか、貴重な能の装束、当時の設計図面、てんぐが謡曲を楽しんでいる様子を描いた富岡鉄斎の掛け軸などを公開。文楽や落語、講談、舞踊、西洋音楽など、同能楽堂にゆかりのあるさまざまな演者が駆け付け、お祝いとして各種芸能を披露する。

 山本さんは「能を見るだけの場所でなく、この建物が何かの表現の場であり、社交の場になれば。ここをランドマークとして、海外旅行客を呼んだり、学校教育に生かしたりして、恥じない活動をしたい」と力をこめる。

 内覧会は25日午前11時〜午後8時(26日午後6時、27日午後4時半まで)、入場料2千円。問い合わせは同能楽堂、電話06(6943)9454。

1725よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/26(水) 22:30:05 ID:g4RgbTlo0
空から見る仁徳陵
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140325-OYT8T00043.htm

 ◇堺市博物館にミニシアター

 堺市博物館(堺区)に、墳墓として世界最大級の仁徳天皇陵古墳などで構成する「百舌鳥(もず)古墳群」の上空を飛ぶ疑似体験などが楽しめるミニシアターが整備され、24日、報道陣に公開された。コンピューターグラフィックス(CG)技術を応用し、20キロ上空から撮影した古墳群の眺めなどが楽しめる。

 市が博物館内に、同古墳群のガイダンス(案内)コーナーを新設。ミニシアターは約200インチ(縦2・4メートル、横4・3メートル)のスクリーンを備え、宅地開発などで消失した11基を含む55基や、古墳の壕(ほり)から墳丘を望む映像なども投影する。

 5世紀半ばに延べ680万人が作業したと試算される仁徳天皇陵古墳の築造当時を想像し、埴輪(はにわ)や土器で装飾されていた映像や、大阪平野の風景も再現した。上映時間は約12分。総事業費約7000万円。

 市は「古墳群の価値を理解してもらい、世界文化遺産登録に向けた機運を高めたい」としている。

 入場無料で、利用は午前10時〜午後4時半。問い合わせは市博物館(072・245・6201)へ。

(2014年3月25日 読売新聞)

1726よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/27(木) 20:41:13 ID:QjVGHqTs0
今城塚古墳築造の労力数値化 論文が懸賞最優秀に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140327-OYT8T00029.htm

◇延べ53万人動員、工期7年

  継体天皇の墓とされる今城塚古墳(6世紀、高槻市)について、築造の労力を数値化した論文が、同市の古代史をテーマにした懸賞論文の最優秀賞に輝いた。論文では、元ゼネコンの土木技術者が、現場監督の立場になって計算。使った土の量や当時の周辺人口などから、現在の市人口の1・5倍に当たる延べ53万人が動員され、約7年かけて完成させたとしている。(上野将平)

 東京都練馬区在住の高津和夫さん(84)の論文(A4判、16ページ)で、懸賞論文「いましろ賞」の応募作。

 論文では、主な作業を掘削や運搬、盛り土とし、当時の墳丘の高さや面積などから計17万5000立方メートルの土が使われたと計算。自身の経験から、1人が1日に掘ることのできる量を1・5立方メートルとし、運搬や盛り土も含めた作業には、延べ48万2380人が必要だったと推測している。

 さらに石棺や埴輪の製造・運搬にも、延べ4万4280人が関わったとした。

 1日の動員数は、周辺の水田面積や季節を考慮。農繁期は180人、農閑期は370人と時期による労働者の増減も計算し、工期は約7年と結論づけた。

 高津さんはゼネコン時代の大部分を現場で過ごし、現場監督も経験。ブルドーザーなどの重機が少なかった1960年頃まで、スコップなどを使った人力の作業を経験したという。

 1959年から6年間の大阪勤務で、仁徳天皇陵(堺市)をはじめとする百舌鳥(もず)・古市古墳群を見て、駆り出された民衆の気持ちになって研究を開始。退職後、奈良大の聴講生となり、報告書の書き方などを学んだ。

 今回の論文について、高津さんは「動員数は多いように思えるが、仁徳陵などの工事と比べると、余裕を持って築造したようだ。国力に見合った判断で、現場監督の立場としても感心させられた」と話す。今後は、土を採った場所や、水田面積などの詳細な計算を続けるとしており、市立今城塚古代歴史館の森田克行館長(63)は、「築造の様子や規模が目に浮かぶ論文だ。さらに研究を進める手助けをしたい」と話している。

(2014年3月27日 読売新聞)

1727よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/27(木) 20:46:55 ID:QjVGHqTs0
国立文楽劇場30周年で集い
03月27日 19時36分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140327/5969581.html

大阪の国立文楽劇場が来月、開館から30年になるのを記念する集いが行われ今年5月の公演を最後に引退する文楽の語り手で人間国宝の竹本住大夫さんらが演目を披露しました。
大阪・中央区にある国立文楽劇場は文楽を上演するための劇場として造られ、来月、昭和59年4月の開館から30年を迎えます。
きょうは劇場で記念の集いが行われ招待客などおよそ700人が集まりました。
劇場を運営する日本芸術文化振興会の茂木七左衛門理事長は「伝統芸能の文楽を継承するためには若い世代を中心に観客を呼び込むことが必要だ」と述べました。
続いて地元の企業などから寄贈された新しい3つのどんちょうが披露されました。
このあと今年5月の東京公演を最後に引退する文楽の語り手の第一人者で人間国宝の竹本住大夫さんらが正月などに上演される演目 「寿式三番叟」を披露し集まった人たちが熱心に見入っていました。
..

1728よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/28(金) 20:39:20 ID:9J8UFdxE0
30周年、国立文楽劇場で開場記念のつどい
2014.3.27 21:31
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140327/wlf14032721360018-n1.htm

 大阪の人形浄瑠璃文楽の本拠地、国立文楽劇場(大阪市中央区)が今月、開場30周年を迎え、「記念のつどい」が27日午後、同劇場で開かれた。4月の文楽公演が大阪での引退公演となる人間国宝、竹本住大夫さんらの出演で、おめでたい「寿(ことぶき)式(しき)三(さん)番(ば)叟(そう)」が披露されると、招待された関係者やファンら約700人から大きな拍手がわき起こった。

 国立文楽劇場は昭和59年3月に開場。文楽をはじめ、日本舞踊、歌舞伎、邦楽、演芸など上方芸能の継承、発展の本拠地として親しまれてきた。

 この日行われた「記念のつどい」では、独立行政法人日本芸術文化振興会の茂木七左衛門理事長が「文楽は大阪の地に発祥し、大阪の風土とともに発展した世界に誇る伝統芸能。国立文楽劇場には文楽を後世に伝えていくという重大な使命がある」とあいさつ。

 青柳正規文化庁長官も「東京オリンピックが開かれる2020年には上方芸能の拠点としてさらに発展することを祈念している」と祝辞を述べた。

 新しい緞帳が披露され、同劇場の三十年間の歴史を懐かしい映像で上映。

 最後に住大夫さんをはじめ、人形遣いの吉田和生さんらの出演で「寿式三番叟」が上演、荘重な語りやリズミカルな人形の動きに場内は見入っていた。

1729よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/29(土) 22:11:21 ID:UUK3FAMg0
「学童集団疎開」から70年 関連書籍2冊発刊
2014年3月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140329/20140329033.html

 太平洋戦争末期の1944年6月に閣議決定された「学童疎開促進要綱」に基づき着手された学童集団疎開から今年で70年−。四半世紀以上にわたり毎年夏に戦争体験集「孫たちへの証言」の発刊を手掛けている新風書房(大阪市天王寺区、福山琢磨代表)が「記憶を風化させてはならない」と学童疎開をテーマにした書籍2冊を刊行した。いずれも体験者の貴重な証言や資料を紹介し、子どもたちに暗い影を落とした疎開の実態に焦点を当てている。

 大阪の歴史や文化、産業など毎号特色ある特集を組む同社の「大阪春秋」(本体千円)は「国民学校と学童集団疎開」を特集した。

 元天理大学人間学部教授の赤塚康雄氏、国民学校と学童疎開を考える会理事長の奥村誠一氏ら体験者による座談会をはじめ、大阪市内各区別の他府県への疎開地と疎開児童数の推移、関連年表といった詳細な資料を紹介。疎開先の火災で児童16人が犠牲となった南恩加島国民学校(大阪市大正区)の児童を悼む「16地蔵」の由来や、疎開中に空襲などで家族と死別した戦争孤児が歩んだ過酷な戦後についても触れている。

 もう一つの「学童疎開」(本体1200円)は「孫たち−」第7集以降の中から疎開関連の証言を抜粋、補筆し、多くの写真やカラーの体験画も盛り込んでいる。

 福山代表(79)は「大阪府内郊外への学童疎開があったことや、各家庭に児童一人当たり月10円の費用が必要だったことなど、知られていない点も多い。幼い児童まで戦争の黒い渦に巻き込んだ史実をしっかりと検証する必要がある」と、2冊の編集に込めた思いを話している。

 問い合わせは電話06(6768)4600、新風書房へ。

1730よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/05(土) 22:44:08 ID:UvJUOOwM0
竹本住大夫さん 引退公演
04月05日 21時26分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140405/5631031.html 

人形浄瑠璃「文楽」の語り手の第一人者として長年活躍し、来月引退する人間国宝の竹本住大夫さんの地元・大阪での最後の公演が始まりました。
大阪市生まれで89歳の竹本住大夫さんは文楽の語り手「太夫(たゆう)」の第一人者として長年活躍し、平成元年には人間国宝に認定されましたが、体調などを理由に来月東京で行われる公演を最後に引退します。
大阪市の国立文楽劇場では地元・大阪での引退前最後の公演が5日から始まりました。
演目は、平安時代に都から九州の太宰府に左遷された菅原道真と周りの人々の人間模様を描いた「菅原伝授手習鑑」です。
竹本住大夫さんは、道真の家来の切腹の場面を描いた「桜丸切腹の段」で出演し、情感豊かに語る姿に観客から大きな拍手が送られました。
竹本住大夫さんの大阪での公演は今月27日まで行われ、引退公演となる東京での公演は来月10日から26日まで行われることになっています。
.

1731よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/05(土) 22:50:04 ID:UvJUOOwM0
区と市立工芸高が連携 「あべの歴史マップ」作成
2014年4月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140405/20140405038.html

 大阪市阿倍野区は同区に親しみと関心を持ってもらおうと、近くの大阪市立工芸高校と連携して「あべの歴史マップ」を作成、区民や観光客への活用を呼び掛けている。

 ビジュアルデザイン科3年の生徒10人が昨年7月から11月まで選択授業で取り組んだ。マップに使う資料や写真は同区が提供し、生徒に自由に製作してもらった。提出された10点のマップのうち、同区が審査して、平岡風花さん(当時3年)の作品を採用することにした。

 平岡さんの作品は、阿倍野区の地図を中心に置いて、名所旧跡に番号を付けて、写真と解説を周辺に配置。分かりやすく見やすいことが評価された。弥生時代に始まったとされる「あべの」の由来や、市の指定有形文化財に登録されている同校、安倍晴明神社や桃ケ池公園などを掲載している。

 マップは、同区の広報紙「広報あべの」の1月号に見開き(タブロイド判、縦約20センチ、横約40センチ)で入れ込み、4万6500部発行。新聞折り込みや配布希望のあった人、駅や図書館、区役所の情報コーナーなどに配布した。ホームページでも閲覧でき、今月上旬には英語、韓国語、中国語のマップもできる。

 同区役所企画調整課では「同区の南側にはたくさんの歴史がある。市民や外国の人にも活用してもらい、興味を持ってもらいたい」と話していた。

1732よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/06(日) 12:28:36 ID:cShBI6To0
甘茶掛け 息災願う 北御堂「花まつり」
2014年4月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140406/20140406019.html

 仏教の始祖であるお釈迦(しゃか)様の生誕を祝う「花まつり」の催しが5日、大阪市中央区の本願寺津村別院(北御堂)であり、信徒をはじめ友人、家族連れらが無病息災を願って厳かに両手を合わせた。

 お釈迦様が誕生の際に甘露の雨が降り、その露を産湯にしたという伝説に基づく習俗。逸話にならい、参列者は本堂に設けられた立像にひしゃくですくった甘茶を掛け、静かに手を合わせた。

 子どもたちによる献灯、献花もあり、菅義成輪番は講話で「人生を少しでも温かく、強く、心を豊かに生きていきましょう」と問い掛けた。

 “おつとめ”の後にはお菓子が配られ、子どもたちも笑顔。親子3代で訪れた角谷久代さん(71)=同市東成区=は「孫たちも楽しかったと喜んでくれている」とにこやかに話した。

1733よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/09(水) 21:00:13 ID:xhr83Z9Y0
「真田丸」再現の軍資金募る…模型作製へ
2014年04月09日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140409-OYO1T50025.html

 大坂の陣(1614〜15年)から400年の節目に合わせ、豊臣方の武将・真田幸村が現在の大阪市天王寺区に築いた大坂城の出城「真田丸」を模型でよみがえらせるプロジェクトが同区で進んでいる。全国の幸村ファンに寄付を呼びかけ、集まった金額が多ければ多いほど、模型のサイズを大きく、より精巧にできるという趣向だ。

 真田丸は幸村が大坂冬の陣(1614年)で大坂城の南側に構えた戦闘拠点。銃撃隊を率いる幸村の巧みな采配で徳川方の猛攻撃を防いだと伝わる。現在、跡地とみられる地域は、真田山公園になっている。

 区内にはほかにも、徳川家康が本陣を置いた茶臼山や、幸村が討ち死にしたという安居神社も残る。

 真田丸の模型作りは、大坂冬・夏の陣から400年を迎えるのを盛り上げようと、同区が計画。製作費を全額、寄付金でまかなうため、真田家の家紋にちなんだ基金「六文銭ファンド」を市が設立し、全国に善意を募ることにした。

 寄付は個人住民税や所得税が軽減される「ふるさと納税制度」を適用。六文銭をデザインしたグッズがもらえるなど特典があり、6000円以上の寄付者は模型に氏名も刻まれる。

 お金が集まるほど、模型のグレードもどんどん上がる仕組みだ。例えば、100万円あれば、発泡スチロールで縦横1メートルの模型。1000万円だと、縦横1・8メートルで、精巧な真田丸の櫓(やぐら)や幟(のぼり)、甲冑(かっちゅう)姿の武者を並べることができるという。

 寄付は3月末現在で32万円余り。8月末まで募る予定で、水谷翔太区長(29)は「皆さんの協力で、立派な真田丸を再現したい」と呼びかけている。

 模型は専門家の考証を経て再現。来年5月を目標に完成させ、同11月まで区内で開催されている「天王寺 真田幸村博」で目玉として展示される。問い合わせは同区企画総務課(06・6774・9938)。

真田幸村 1567〜1615年。信濃国・上田城主の真田昌幸の次男。1600年の関ヶ原の戦いでは敗れた西軍につき、戦後、和歌山・九度山にちっ居したが、豊臣秀頼の招きで大坂の陣に参戦。冬の陣は真田丸で奮戦し、夏の陣では徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込んだという。「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれ、現代も根強い人気を持つ。家紋は「六文銭」。


2014年04月09日

1734よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/10(木) 19:42:28 ID:udf0wvv20
>沖縄戦などで亡くなった3万5000人余りの大阪の関係者
  
 こんなにも多数の方々が沖縄で亡くなっていたとは・・・
 
沖縄で大阪の戦没者を追悼
04月10日 18時40分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140410/3474441.html 

太平洋戦争末期の沖縄戦などで命を落とした大阪の関係者を慰霊する50回目の追悼式が大阪府の松井知事と大阪市の橋下市長も出席して沖縄で開かれました。
沖縄戦などで亡くなった3万  5000人余りの大阪の関係者を慰霊するため大阪府と大阪市などは昭和40年に沖縄県糸満市の平和祈念公園に「なにわの塔」を建立し、毎年、追悼式を開いています。
今年で50回目となる追悼式には遺族およそ50人の他、大阪府の松井知事と大阪市の橋下市長も出席しました。
式では松井知事と橋下市長が追悼の意を表し、このうち橋下市長は「戦争の悲惨さと、そこから学んだ教訓を語り継ぎ世界の恒久平和の実現のため全力を尽くすことが私たちの責務だ」と述べました。
続いて出席者全員が塔の正面に設けられた献花台に花を手向け戦没者を悼みました。
松井知事は記者団に対し「今は当たり前のように平和を享受しているが戦争で亡くなられた方々の思いをしっかり受けとめ、次の世代に平和な日本を引き継がなければならない」と述べました。
橋下市長は「自分の子どもが戦争で命を落としたと考えると耐えられない。遺族の方々は僕の想像を超える悲しみをずっと抱き続けている。戦争は2度と繰り返してはならない」と述べました。

1735よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/10(木) 20:49:59 ID:udf0wvv20
江戸期おみくじ文化財に
2014年04月09日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140409-OYTNT50135.html

 ◇大吉「誰もがあなたを尊敬」

 島本町の勝幡寺(しょうばんじ)(山崎)所蔵の江戸時代中期のおみくじの版木や木箱などが、同町の有形民俗文化財に指定された。大吉の版木には「誰もがあなたを尊敬するでしょう」という意味の言葉などが刻まれている。町は今秋にも一般公開する。

 おみくじは木箱から、番号が書かれた竹棒を引き、棒の番号に応じて「大吉」「凶」などが刷られた紙の「みくじ箋(せん)」を受ける方式。版木(縦20センチ、横80センチ)9枚や竹棒99本、棒を入れる木箱、みくじ箋を入れるタンスでなる「勝幡寺 元三(がんざん)大師みくじ版木関係資料 一式」として指定された。

 大吉の版木には、購入者が尊敬の対象になるという意味の「衆人皆仰望」の文言などが並び、木箱には、比叡山中興の祖で、おみくじを考案したとされる良源(912〜85)を表す「元三大師」の文字も。

 現存するのは江戸時代後期のおみくじが多いが、彫りが深く施された版木の特徴から、同時代中期と特定された。町教委は「一式が残っていることが価値を高めている」としている。

 問い合わせは町教委生涯学習課(075・962・6316)へ。

2014年04月09日

1736よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/13(日) 16:27:52 ID:O0PdIz3Y0
【河内幻視行】
徳川政権を創り、滅ぼした「京街道」の“諸行無常の響きあり”
2014.4.13 12:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n1.htm

 坂道を登ったところに、道幅の狭い道が場違いのような感じで、ゆるやかに曲がりながら延びていた。本町橋と書かれた橋があった。橋といっても陸橋で、左手には京阪守口市駅の高架ホームがほぼ正面に見えた。

 橋のそばにある高層マンションの手前に、「文禄堤」と書かれた案内板があった。豊臣秀吉が文禄5(1596)年、毛利輝元ら3大名に命じ、淀川沿いに築かせた堤防上の道、とあった。

 道は京と大坂を最短で結び、京に向かうときは京街道、大坂に向かうときは大坂街道と呼ばれた。付近は、江戸から大坂にいたる東海道57次の57次目で、守口宿があった。

 中2階の古い民家や寺院もあった。古街道のおもかげも、かすかに残っている。

 橋の右手の眼下には、広い道が延び、ビルや商店街が続いている。現在は淀川まで1キロほど離れているが、当時はここまで流れが迫っていた。国道1号沿いにある守口市役所を中心とする官庁街は、すべて川底か河川敷であった。

 京街道の終点は、伏見である。なぜ伏見か。秀吉がここに伏見城を築いたからである。

 伏見城は天正19(1591)年、甥の秀次に関白の地位を譲ったあと、「隠居城」として建設がはじまった。

 天才的な土木技師でもあった秀吉は隠居城であっても、ハンパな城造りでは納得しなかった。本格的な「都城」にするために、京街道のほか、宇治川沿いには奈良方面からの大和街道に植島堤を造らせた。

 大ざっぱな地理教示をすれば、ふたつの街道は逆「V」字形の先端で、伏見城下にある南北の京町通りに合流する。この通りを中心とした城下町に人々が集散し、日本一のにぎやかな繁華街にするのがネライであった。

 ふたつの街道の整備は、だが秀吉にとっては、アダとなった。大坂を攻めるさい、かっこうの進撃コースにもなるからだ。

 街道が造られてから、わずか20年後の元和元(1615)年4月、大坂夏の陣が起き、豊臣家は滅亡した。京の二条城で開かれた軍議で、徳川家康は逆「V」字形の地図を眺めながら、ニンマリと笑った。「この、ふたつの街道を利用するのじゃ」と、配下に命じたはずである。

 2代将軍秀忠が率いる12万の兵は京街道、松平忠輝率いる約3万5千は大和街道と二手にわけ、道明寺(藤井寺市)付近で合流する作戦を立てた。すでに濠(ほり)を埋め立てられてしまった大坂城は、南方面からの攻撃には弱かったからである。

 真田幸村などの活躍はあったが、大坂城は家康のネライ通りに落城した。「V」字形の街道が、「VICTORY・ROAD」となったのである。

 だが約12万もの大軍が進んだ京街道のほうは、難渋したはずである。堤の上の街道だから、道幅が狭すぎた。明治前期の史料でも「京街道 守口町ヨリ仁和寺村ヲ経テ枚方村ニ向フ 道幅二米五十ヨリ二米八十」と記載されている。

1737よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/13(日) 16:30:11 ID:O0PdIz3Y0
>>1736

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n3.htm

 おそらくヨコ2列程度でしか進めなかった。先頭集団が守口宿あたりに達したとき、シンガリの軍はまだ京を出発できなかった。

 この狭さが二百数十年後、こんどは徳川方の命取りとなった。鳥羽伏見の戦いである。

 15代将軍、慶喜が率いる大坂城の幕府軍が京の薩長軍討伐のために、城から出兵したのは、慶応4(1868)年正月2日から3日にかけてであった。

 総勢1万5千、対する薩長軍は5千。数で見るかぎり、幕府軍が圧倒的に有利であった。だが大和街道や西国、高野両街道のコースもあったのに、京街道から伏見、鳥羽両街道になだれこむという、愚直としかいいようがない作戦を立てた。

 京街道は、さすがに家康の時代より道幅が広くなったものの、ヨコ4列程度しか通れなかった。タテに長い兵を、アリのように進めるだけであった。信じられないことに、先頭の兵たちの銃には、弾がこめられていなかった。

 鳥羽、伏見両街道での戦いは、もちろん惨敗であった。わずか3日後の6日には、こんどは京街道だけでなく、大和、高野街道などを、ちりぢりになった敗残兵の列が続いた。

 それでも幕府軍は、守口宿で歩兵一大隊の防御陣地を築く方針だった。だが午後8時ころ、大坂城から「すべて城に引きあげよ」という慶喜の伝令がとどいた。だれもが難攻不落の大坂城での籠城戦を展開すると思いこんだ。

 だがその日の深夜、慶喜はひそかに城から逃げ出した。幕府軍の総崩れがはじまった。

 −−京街道から坂をおりると、ふつうの区画の住宅やビルが建ちならんでいた。幕府軍がこのあたりに最後の防御陣地を構築し、慶喜が徹底抗戦にのぞんだら、まだ勝利の「V」の可能性は残っていた。

1738よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 04:57:16 ID:hg3U0WwM0
家康を殺しかけた銃も展示…大坂の陣は「科学力の闘い」
2014.4.13 21:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n2.htm

 豊臣家と徳川家が争った大坂の陣の勃発から今秋で400年を迎える。人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士としても知られる沢田平さんは、鉄砲研究家として盛り上げに一役買おうと、豊臣方の名将・真田幸村に関するコレクションの展示を準備中だ。

(聞き手 川西健士郎)


 −−今年が大坂の陣から400年にあたるのに合わせ、自宅横の資料室で真田幸村に関する資料の展示を準備されていますね

 沢田 幸村公の研究を続けてきたものですから、今月から2年間、オープンするつもりで準備しています。私ひとりでやっている資料室ですので、事前予約制になりますが、展示品を説明させてもらい、手にとって見てもらいたいと思っています。興味のある方は電話いただければ、対応いたします。

 −−どのような品を見ることができるのでしょう

 沢田 まず、茶臼山(大阪市天王寺区)で、幸村が家康公の面前までいって発射しようとした鉄砲、馬上宿許(しゅくしゃ)筒です。馬の動揺のために幸村が取り落として敵の手にわたってしまったものです。マシンガンのルーツともいえる連発銃です。もしこのとき、この鉄砲が火を噴いていたら、家康公の命はそこで終わったわけですから、その後時代はどうなったか。江戸時代はなかったことになるかもしれませんね。

 −−馬上筒はどうやって手に入れたのですか

 沢田 紀州徳川家に伝わり、家臣の砲術家・勝野家に預けられ、勝野流秘銃として明治まで紀州藩に温存されてきたものです。戦後、進駐軍の武器狩りによって米国に流出していたのを発見しました。

 戦利品として持ち帰った進駐軍の兵隊さんが80歳を超える老齢になり、5〜6年にわたる交渉の末に譲ってもらえることになりました。幸村の出身地の長野県では何度か紹介したもので、大阪での展示は初めてです。

1739よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 04:59:32 ID:hg3U0WwM0
>>1738

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n4.htm

 −−そうした遺品から見えてくる幸村の実像とは

 沢田 幸村は日本一(ひのもといち)の強士(つわもの)と称賛されますが、単なる勇猛な武将ではありません。甲冑から推定する体の大きさも、ごく普通です。幸村の遺品には、忍術を思わせるものも数多くあります。幸村に仕えた「真田十勇士」の猿飛佐助や霧隠才蔵は架空ともいわれますが、幸村の元に忍術つかいがいたことは間違いありません。

 幸村は関ケ原の合戦後、大坂の陣までの14年間、高野山の麓の九度山に蟄居(ちっきょ)していました。馬上宿許筒はこのとき開発されたと考えていますが、同時に真田紐(ひも)という丈夫で美しい紐をつくり、全国各地に販売したことが知られています。

 幸村は身内に財政支援を求める文書が残っていて、金に困っていたといわれます。ところがどっこい、それは生活の実態を隠した表向きの顔であって、実際は優れた経済人であり、各地で真田紐や薬を売って情報を集めていたのです。

 −−徳川軍の遺品はありますか

 沢田 大坂の陣で徳川軍が使ったと考えられる全長2メートルの大鉄砲2丁を展示します。国内に大鉄砲はこの2丁を含む4丁しかありません。国友と堺でつくられたもので、関ケ原の合戦の前に砲術の第一人者、稲富祐直(いなどめすけなお)に家康が作らせたものです。

 大坂冬の陣では幸村の砦(とりで)が徳川軍の侵入を完全に防いで、大坂城は難攻不落を誇っていました。しかし、徳川軍は城の外から天守閣に砲撃を加え、淀君らを驚かせて講和に持ち込み、大坂城は堀を埋められてしまいます。大鉄砲は、徳川軍がこのとき使ったものと考えてよいと思います。

 −−鉄砲の性能が大坂の陣の勝敗に大きく影響しているのですね

 沢田 大坂の陣は、科学の力のぶつかり合いでした。幸村は世界最先端の連発銃をもっていましたが、大坂城に届く鉄砲を長年にわたって開発してきた家康の執念が勝ったといえましょう。どうですか、科学の重要性を分かっていただけたでしょうか。

【プロフィル】沢田平(さわだ・たいら) 昭和10(1935)年、大阪市生まれ。近畿大学法科、関西医療学園を経て、大阪市東成区で沢田整骨院の院長を務める。堺鉄砲研究会を主宰し、古式砲術と古式銃の研究に取り組む。和時計やエレキテルなど江戸時代の科学技術の研究家としても知られる。主な著書に「日本の古銃」「和時計」など。78歳。

1740よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 20:47:57 ID:Kr2ABlFE0
■百舌鳥・古市古墳群 世界遺産目指し…周辺の高さを制限
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000004437.shtml

 堺市の「仁徳天皇陵」を含む百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録を目指し、大阪府と周辺自治体は景観を守るため、建築物の高さ制限などの案をまとめました。

 堺、羽曳野、藤井寺の3市にまたがる百舌鳥・古市古墳群には、「仁徳天皇陵」など61基の墓が集中し、大阪府などは世界遺産登録を目指しています。

 「建築物の高さ、形態意匠、屋外広告物を対象に規制。古墳との調和した景観を目指す」(事務局)

 選考のポイントには、周辺環境の整備も含まれています。

 大阪府などは14日の会議で、古墳の近辺で15メートル以下の高さ制限を設けるほか、屋外広告や派手な色の外壁を禁止する案をまとめました。

 今後、議会などにはかった上で、2017年の世界遺産登録を目指すということです。 (04/14 18:07)


百舌鳥・古市 周辺で高さ規制
04月14日 18時42分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140414/3650301.html 

大阪の百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録をめざして大阪府や堺市など関係する自治体は課題となっている周辺の景観保全の対策として新たな建築物の高さなどを規制する方針を決めました。
百舌鳥・古市古墳群について大阪府や地元の堺市などはユネスコの世界文化遺産への登録をめざしていましたが古墳群周辺の環境や景観を保全する対策が不十分だなどとして去年8月に推薦が見送られました。
これを受けて関係する自治体などが会議を開き、条例で周辺の建物の高さなどを規制する方針を決めました。
具体的には古墳からの距離が  100メートル前後の範囲では新たな建物の高さを15メートル以下とし外壁も目立ちにくい色に規制する他、広告物の掲示を原則禁止するとしています。
またその外側の一定の範囲では建物の高さを45メートル以下とするとしています。
関係する自治体では今後、条例の制定を目指して説明会を開くなどして地元の住民に理解を求めていくことにしています。

1741よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 21:13:30 ID:Kr2ABlFE0
「大阪根付き『鴈治郎はん』と呼ばれる役者に」中村翫雀さん、四代目襲名へ意気込み
2014.4.14 12:58
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140414/wlf14041412580010-n1.htm

 上方歌舞伎の大名跡「中村鴈治郎(がんじろう)」を来年1月、10年ぶりに四代目として襲名する歌舞伎俳優、中村翫雀(かんじゃく)さん(55)が14日、東京都内で記者会見し、「鴈治郎は憧れの名前。どうしても継ぎたかった」と話した。

 「今年中に大阪へ住民票を移す予定。大阪に根付き『鴈治郎はん』と呼ばれるような役者になりたい」と抱負を語った翫雀さん。襲名披露興行は来年1、2月の大阪松竹座からスタート。引き続き4月に東京・歌舞伎座、6月に福岡・博多座、12月の京都・南座などで行われる。

 中村鴈治郎の初代は翫雀さんの曽祖父が名乗り、上方歌舞伎の大スターに。以降、祖父で人間国宝の二代目の後は父の人間国宝、坂田藤十郎さん(82)が平成17年の藤十郎襲名まで三代目を名乗っていた。

1742よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/18(金) 04:48:52 ID:9PbiG0ZQ0
四天王寺絵堂を特別御開扉 聖徳太子の偉業眼前に
2014年4月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140417/20140417018.html

 聖徳太子の遺業を受け継ごう−。太子創建の和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区、奥田聖應管長)で16日、境内・絵堂の特別御開扉が始まった。8年後の2022年に迎える「聖徳太子御遠忌(おんき)1400年」に向けた取り組み。太子一生の事跡を描いた壁画が奉納されている堂内では、僧侶による解説「絵解き」も行われ、多くの参詣者が太子の偉大な足跡に見入っている。

 「遠忌」は仏教の宗派の開祖などの年忌法要を意味し、約50年間隔で建物の修繕や記念事業といった数々の取り組みがある。1922年の御遠忌1300年記念事業では、四天王寺四箇院の一つで、仏教修行や人間教育の場「敬田(きょうでん)院」を受け継ぎ、四天王寺高校・中学校の前身である「天王寺高等女学校」の創立をはじめ大きな動きがあった。

 御遠忌1400年に向けても各種事業の計画が進み、今回の特別御開扉はその第一歩として企画された。

 絵堂は79年再建で、堂内には画家の故・杉本健吉氏が6年がかりで手掛けた7面からなる「聖徳太子絵伝」が掲げられている。これまで僧侶による絵解きは法要出席者など一部の関係者には行われていたが、一般参詣者対象としては今回が初の試み。

 この日最初の絵解きには約50人が来堂。皇位継承をめぐり崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)らと排仏派の物部守屋(もののべのもりや)らが対立した際、太子が崇仏派のために仏法守護神「四天王」に戦勝を祈願した姿について、僧侶は「後の四天王寺建立につながる重要な場面」と説明し、人々が興味深く耳を傾けていた。

 池田市から家族で訪れた男性(76)は「拝観と解説で深く太子について知ることができた」と満足そう。同寺参詣部の山岡武明さんは「1400年の節目に向けて歴史的な資料の数々を通じて、人々の心の中に聖徳太子が復活することを願いたい」と話している。

 開扉は30日までで、時間は午前8時半〜午後4時半。絵解きは午後1時、同3時の2回行われる。入堂無料。

1743よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/18(金) 20:50:21 ID:tRdXJz4g0
大阪ロマン紀行

 大阪のDNAを感じさせる場所や企業、人を、独自の嗅覚を持つコラムニストの岡力氏が、関西に点在するオカルトスポットを、妖怪講座が人気の亀井澄夫・妖怪研究所所長が、代わる代わる紹介していきます。二人の案内人がお薦めする“ディープ大阪”を存分にお楽しみください。

今も地元に愛される若き武人

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2014年4月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/140418/20140418051.html

八尾市幸町 木村重成の墓

 今年と来年は大坂の陣から400年ということで、各地で記念のイベントが開かれている。大阪人にとって祝うべき出来事ではないと思うが、当時の武将の中に、その生きざま、戦場での散り際の見事さが、凄(すさ)まじく、あっぱれで、今も人々の胸を熱くし、感じ得る人物がいる。

 その中の筆頭が、今なお愛され続けている武人、木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)である。

 1614(慶長19)年の大坂冬の陣が木村重成の初陣で、当時、20歳そこそこの年齢であった。ということは、夏の陣と合わせて、生涯に2度しか参戦しなかったのである。冬の陣で佐竹義宣(さたけよしのぶ)の軍を蹴散らし、大勝利を収める。その噂(うわさ)は重成の槍(やり)の威力とともに、敵味方の双方に驚異的武将として瞬く間に伝わっていった。

 翌15(慶長20)年、大坂夏の陣の出陣に際し、死しても見苦しくないよう、体を清め、髪を洗い、髪と甲冑(かっちゅう)に香を焚(た)き込めた。これが後に、徳川家康が重成の首を手にしたとき、頭髪の香と兜(かぶと)が脱げないように緒の端を切り落としているのに気付き、二度と兜を自ら脱ぐことはないという、討ち死にの覚悟の清さに感嘆したと言われている。

 冬の陣で重成は山口重信と一騎打ちに臨む。重信は重成の妹婿にあたる(諸説あり)。この勝負を名勝負とすることが、せめてもの妹婿への情けと思い、得意の槍を手放して組み合った。激闘の末、重信を破った重成だが、井伊家の庵原朝昌(いはらあさまさ)の槍にあっさり刺されて討ち死にする。重成が槍を手にして戦っていたなら、このような死に方はしなかったものを、という思いから、八尾市幸町にある彼の墓は別称「無念塚」と呼ばれている。

 現地に行ってみると、のどかな公園の入り口に大きな石柱が2本あり「木村重成公」「噫忠勇武烈(ああちゅうゆうぶれつ)」と彫られている。墓所も公園の中で広い敷地をしめており、その立派さに重成の人気の高さがうかがえる。

 この公園は「木村公園」と呼ばれているようで、近くの三つの橋も「木村橋」「東木村橋」「西木村橋」という名で、「このへんに住む木村さんは、自分の橋や公園みたいでいいなあ」なんて思いつつ、近くのお寺「蓮城寺(れんじょうじ)」に行ってみると、5月に「木村重成公四百年御遠忌追善法要(ごおんきついぜんほうよう)」が行われるとのこと。本当に地元で今も愛されている武将なのだ。「若江岩田」駅まで歩く途中「若江木村通」の交差点まであった。

 大阪に移住を考えている木村さんが、もし、いたなら、この木村重成の墓周辺をお勧めしたい。実際に木村さんの「マイタウン」になること請け合いである。

1744よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/20(日) 05:20:20 ID:3apyuSJc0
今城塚古墳の埴輪、クリーンアップ 高槻でイベント 大阪
2014.4.20 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140420/osk14042002000003-n1.htm

 高槻市郡家新町の史跡公園「いましろ 大王(だいおう)の杜(もり)」にある今城塚古墳で19日、埴輪(はにわ)のクリーンアップ作戦が行われた。

 6世紀前半に築造された同古墳は、淀川流域最大の前方後円墳。継体(けいたい)天皇(聖徳太子の曾祖父)の真の陵墓とされており、10年間にわたる発掘作業で出土した「埴輪祭祀(さいし)場」(650平方メートル)には、約200体の埴輪が復元・配置され、古代王権の儀礼様式を今に伝えている。

 クリーンアップ作戦は、史跡公園内にある市立今城塚古代歴史館の主催。ゴールデンウイークを前に公園をきれいにし、観光客に気持ちよく散策してもらうのが狙いで、市内の小学生軟式野球チーム「リトルジャイアンツ」のメンバーや家族連れら約120人が参加した。

 参加者たちは、古墳北側にある埴輪祭祀場に入り、水でぬらしたタワシを手に、武人や巫女(みこ)、動物、家などさまざまな形をした埴輪を次々に磨き、周辺の雑草を抜いた。約1時間の作業で埴輪はすっかりきれいになった。参加した子供たちは「すごい古墳が高槻にあるんだ」と誇らしそうだった。

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1745よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 18:55:20 ID:0nbYKVAc0
活気伝わる道頓堀 芝居小屋資料130点展示
2014年4月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140420/20140420025.html

 開削から来年で400年を迎える道頓堀をテーマにした企画展「再現!道頓堀の芝居小屋」が19日、大阪市北区天神橋6丁目の市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」で始まった。芝居小屋の建絵図など貴重な資料130点を展示。多くの来館者が「道頓堀五座」に代表される大阪文化の発信地の歴史の一幕に見入っている。5月25日まで。

 同館と関西大学都市遺産研究センターが主催。会場には舞台背景やポスター制作で活躍した芝居画家山田伸吉による作品の数々や、大阪出身の劇場大工中村儀右衛門が手掛けた浪花座、角座といった劇場の建絵図など同センター所蔵の資料がずらり。来館者は「当時の活気が伝わってくる」「いい時代だった」とつぶやきながら往時に思いをはせていた。

 このほか明治中期に描かれながら不採用となった洋風の浪花座の建絵図や、これを基に精巧に復元された縮尺模型もお目見え。セレモニーでは浪花座での上演という想定で能勢人形浄瑠璃鹿角座による三番叟(さんばそう)も披露され、開幕を盛り上げた。

 同大学文学部の長谷洋一教授は「大きな節目を前にさまざまな切り口から道頓堀の良さを再認識していただきたい」と話していた。午前10時〜午後5時。

1746よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 19:27:15 ID:0nbYKVAc0
飛び出し注意、縁もPR 四天王寺に聖徳太子看板
2014年4月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140420/20140420022.html

 聖徳太子が「飛び出し坊や」に−。聖徳太子が摂政皇太子として最初に建立したことで知られる大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)でこのほど、太子をデザインした飛び出し注意看板が完成した。笏(しゃく)を手に、にっこりと駆け出すユーモラスなポーズ。本来の注意喚起はもちろんのこと、天王寺が聖徳太子のまちであることを発信する役目も担っている。遺業がしっかりと受け継がれている寺、まちだけに太子看板の“降臨”は話題となりそうだ。

 境内では半年ほど前から北西の「中之門」などに太子を描いた立て看板を設置。車での参詣者に一時停止や徐行といった安全運転を促している。同寺参詣部の山岡武明さんは「『四天王寺=聖徳太子』ということを皆さんに知ってもらいたい」と看板のデザインを手掛けた。約40年前に誕生し、元祖とされる看板「飛び出し坊や」が静かなブームを呼んでいることにも着目。発祥の地である滋賀県へ赴き、さまざまな関連グッズまで売られている状況なども視察した。

 「立てる場所によって左右の向きの看板が必要であることや、歩行者に危険がないように縁は必ず丸みをもたせるなど、意外と気付かない点も多く試行錯誤の連続だった」と振り返る。

 看板自体の大きさは全長約80センチ、幅約40センチで支柱は高さの調節も可能。所有者や団体名を記す空欄もある。素材にプラスチックをアルミで挟んだ複合板を使って軽量に仕上げた。現在6基が完成しており、まずは境内で設置場所を調整中という。

 看板には本来の交通安全以外の役目もある。同寺では8年後に聖徳太子の年忌法要「御遠忌(おんき)1400年」が控えており、太子を祭る「聖霊(しょうりょう)院」(太子殿)周辺や、戦後から復興してない箇所の改修など一大事業の計画が着々と進んでいる。今回の看板制作もその一環という位置付けだ。

 山岡さんは「現在、天王寺のまちを歩いても聖徳太子の姿はないが、看板がまちの方々に立つことで、より多くの人に聖徳太子とのゆかりを認識もらいたい」と力説。境内以外の設置については「地域や団体などと相談し、申し出があれば既存の古い看板と交換してもらいたい」と広がりに大きな期待を寄せる。設置場所は同寺のホームページで順次紹介していく予定。

1747よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 19:56:48 ID:0nbYKVAc0
「公園100選」木々伐採も
2014年04月19日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140419-OYTNT50068.html

 ◇枚方・百済寺跡再整備 根が遺構一部破損

 枚方市が今年度計画する国特別史跡・百済寺跡(8世紀中頃)の再整備を巡り、市教委が難問に直面している。約1700本ある木々のうち、遺構に影響のあるものを伐採しなければならないためだ。市民からは「慣れ親しんだ景観が変わる」と、反発する声が出ている。(編集委員・関口和哉)

 1967年に史跡公園第1号として整備された際、府教委がアラカシ2200本などを植栽した。その後、市がマツやサクラなどを植えており、寺跡には現在、計約1760本が茂っている。

 市は73年、同寺跡を「百済寺跡の松風」として「枚方八景」に指定。2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれており、市民らの憩いの場になっている。

 ところが、今年度からの再整備を前にした市教委の調査で、西塔跡に生えた直径約1メートルのクス2本の根が、塔の土台(基壇)を壊していることが判明。講堂跡にも、マツ2本が直径約50センチに育ち、遺構に悪影響を及ぼしていた。寺跡の下層には、寺院造営以前の遺構も存在し、根で破壊される懸念が出ているという。

 市教委文化財課は「整備当初は、樹木が遺跡に悪影響を与える認識が薄かった。保存に影響する樹木は伐採するしかない」として処分する樹木の選定を進める。文化庁記念物課は「遺跡の重要性を考慮すれば、やむを得ない」としている。

 現在の計画では多くの人が花見に訪れるサクラは残す方針だが、その他の多くの木々は処分される見込み。新緑の季節を前に地元の主婦(70)は「住宅街の中にある貴重な緑地で、長年親しんできた。一本の木も切ってほしくない」と反発している。

 椎名慎太郎・山梨学院大名誉教授(文化財保護法)の話「地域住民の協力なしに遺跡の保護・活用はできない。行政は情報公開を進めるとともに幅広く意見を聞き、伐採するなら必要性を丁寧に説明すべきだ」

<百済寺跡> 渡来系氏族の百済王(くだらのこにきし)氏が創建したとされる寺跡。国庫補助事業で整備された。当時の調査で、東西両塔や金堂など主要伽藍(がらん)を確認。2005年度からの調査では、寺域が約140メートル四方と判明した。

2014年04月19日

1748よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/22(火) 22:39:10 ID:XxvIsJGY0
命日に聖徳太子しのぶ聖霊会
04月22日 17時14分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140422/3895791.html

聖徳太子ゆかりの大阪の四天王寺で聖徳太子をしのぶ大規模な法要「聖霊会」が行われました。
大阪・天王寺区の四天王寺では聖徳太子の命日とされる4月22日に聖徳太子をしのんで毎年「聖霊会」を行っています。
午後0時半から始まった法要では、まず僧侶や寺の関係者らおよそ 100人が列を作り笛や太鼓を吹き鳴らしながら境内を練り歩きました。
このあと境内にある池の上につくられた石舞台で舞楽が奉納されました。
この舞楽はおよそ1400年の歴史を引き継ぐとされ国の重要無形民俗文化財に指定されています。
このうち「振鉾」と呼ばれる最初に行われる舞は舞台を清め法要の無事を祈るもので赤と緑の衣装をきた人たちがほこを大きく回したり左右に振ったりしながら優雅な舞を披露しました。
境内には全国各地から多くの人が訪れ華やかな舞を見つめていました。
群馬から訪れた男性は「初めて見ましたが、とてもすばらしいです。
時間の流れがゆっくり感じました」と話していました。
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1749よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/23(水) 23:06:39 ID:dXS2xURE0
華麗歴史絵巻 四天王寺「聖霊会舞楽大法要」
2014年4月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140423/20140423031.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で22日、開祖・聖徳太子の命日にちなんだ「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」(重要無形民俗文化財)が執り行われた。太子の御霊を慰める法要と舞楽が厳修され、みやびやかな音色が響く中、多くの参詣者が歴史絵巻を思わせる光景にじっくりと見入った。

  同法要は約1400年の歴史を誇り、同寺の数ある年中行事のうち重要かつ最大規模として知られる。境内の石舞台では衆僧による声明(しょうみょう)に続き、天王寺楽所雅亮会(がくそがりょうかい)(小野功龍理事長)の舞人、楽人が勇壮華麗な舞楽の数々を奉納。朝鮮半島伝来とされ、太子の目覚めを慰める供養舞と伝わる5人舞「蘇利古(そりこ)」や、鳥の羽根を背にした童子による華やかな童舞「迦陵頻(かりょうびん)」などが次々と繰り広げられた。古式ゆかしい装束と所作、舞台の四方に立つ曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の装飾などが相まって人々を終始魅了した。

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1751よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/25(金) 21:35:43 ID:Z6okUgAc0
古都・大阪と最先端大都市・大阪の融合の象徴とも言えるニュースです。


■山本能楽堂 改修完了 「メインは最新型LED」
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000004526.shtml

 大阪で最も古く、国の登録有形文化財にも指定されている「山本能楽堂」で、ほぼ3年間にわたった改修工事が完了し、関係者に公開されました。

 「メインは最新型のLED照明にしたこと」(能楽師 山本章弘さん)

 舞台には1,670万色を表現できるLED照明を設け、夕日や月の光などで効果的な演出ができるようにしました。

 能楽以外でも様々な芸能に活用できるということです。

 1927年に建てられた、「山本能楽堂」は、戦争で焼失したあと再建。

 今回の工事は、総事業費2億円で耐震性も強化されました。

 稽古場や資料室も一新され、上方芸能を世界に向けて発信できる拠点にしたいということです。 (04/24 18:06)

1752よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/26(土) 05:02:31 ID:l4D2tR7I0
大坂冬の陣400周年 「赤い通天閣」で真田幸村博をPR
2014.4.25 23:21
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140425/wlf14042523210032-n1.htm

 大坂冬の陣400周年記念イベントの一環で、大阪のシンボル・通天閣が25日、一日限定で真田幸村の甲冑と同じ赤色にライトアップされた。

 幸村は大阪市天王寺区に激戦地となった砦「真田丸」を築いた。同区などは、これにちなみ5月4日に天王寺公園で「天王寺 真田幸村博」を開催する。

 通天閣には、甲冑姿の市民約10人が集まり、点灯式を開催。新世界も練り歩き「400年ぶりに東京に倍返しを」と“燃える大坂”をPRした。

1753よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/26(土) 21:47:39 ID:RWsJT6G.0
藤十郎さん「曽根崎心中」お初を演じ納め 1351回目、異例のカーテンコール
2014.4.26 21:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140426/wlf14042621090033-n1.htm

 歌舞伎の人間国宝で高松宮殿下記念世界文化賞受賞者の坂田藤十郎さん(82)が26日、代名詞ともいえる「曽根崎心中」のヒロインお初を演じ納めた。60年以上にわたり演じ続けた当たり役は、この日で実に1351回目。客席を埋めた観客は、最後となるお初に名残を惜しんだ。

 藤十郎さんは今月、東京・歌舞伎座の「鳳凰(ほうおう)祭四月大歌舞伎」に出演。千秋楽のこの日、藤十郎さんのお初を惜しむ拍手は鳴りやまず、歌舞伎では異例のカーテンコールも行われた。 終演後、藤十郎さんは「明日からお初に会えないかと思うと寂しい。カーテンコールがとてもうれしかった」と話していた。

 お初と徳兵衛の悲恋を描いた「曽根崎心中」は近松門左衛門の代表作。長く上演が途絶えていたが、藤十郎さんは昭和28年の復活上演以来、ほぼ一人で演じてきた。

1754よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/27(日) 22:04:18 ID:lztlrN2g0
四天王寺で「大古本祭り」
04月27日 12時27分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140427/3958071.html 

関西の古書店が一堂に会する、恒例の「大古本祭り」が、大阪の四天王寺で開かれています。
ことしの「大古本祭り」には、大阪や兵庫、京都などから29の古書店が参加し、およそ40万点の古本や版画などが展示・販売されています。大阪の四天王寺の境内にはテントが並び、訪れた人たちが、専門書や児童書などを手にとって、品定めしていました。
大阪・八尾市の古書店のテントでは、明治34年に現在の早稲田大学の学生が書いたとされる絵入りの日記が展示され、創設者の大隈重信との会話や、大隈の自宅が焼けたときの様子などが書かれています。主催した「関西古書研究会」の菅哲夫会長は、「掘り出し物との出会いを楽しんでほしい」と話していました。
「大古本祭り」は、大阪の四天王寺で、今月30日まで開かれています。

1755よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/27(日) 22:13:44 ID:lztlrN2g0
「大阪で生まれ育った文楽お引き立てを」…人間国宝「竹本住大夫さん」引退公演が「千秋楽」迎える
2014.4.27 21:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140427/wlf14042721090024-n1.htm

 人形浄瑠璃文楽の人間国宝、竹本住大夫さん(89)の大阪での引退公演が27日、大阪市中央区の国立文楽劇場で千秋楽を迎え、住大夫さんは「菅原伝授手習鑑・桜丸切腹の段」を渾(こん)身(しん)の力を込めて語り、本拠地・大阪の舞台に別れを告げた。

 この日、最後の舞台に詰めかけた満員の観客は、住大夫さんの滋味にじむ語りに名残を惜しみ、拍手はしばらく鳴り止まなかった。

 語り終わった後、本舞台に登場した住大夫さんは「みなさまの支えと励ましで今日まで来られて幸せでした。私が去りました後も、大阪で生まれ育った文楽に叱咤激励とお引き立てをよろしくお願いいたします」とあいさつ。人形遣いの人間国宝、吉田簑助さん(80)が遣う桜丸の人形から花束を受け取った。

 今月は初日から大入り満員が続き、千秋楽までに2万9973人を動員。昭和59年の同劇場開場以来、2部制公演としては歴代最高の入場者数を記録した。

1756よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 05:49:54 ID:OZANmrVw0
大阪ロマン紀行

 大阪のDNAを感じさせる場所や企業、人を、独自の嗅覚を持つコラムニストの岡力氏が、関西に点在するオカルトスポットを、妖怪講座が人気の亀井澄夫・妖怪研究所所長が、代わる代わる紹介していきます。二人の案内人がお薦めする“ディープ大阪”を存分にお楽しみください。

命かけた仇討ちの連鎖

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2014年5月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/140502/20140502042.html

高槻市芥川町 芥川仇討ちの辻
 
 本日は、芥川仇(あくたがわあだ)討ちの一席を申し上げる。石見(いわみ)の国、吉永(島根県大田市)に早川八之丞、大崎長三郎という若侍がいた。二人は何かにつけ張り合うライバル同士。この日も城主の小姓をめぐって言い争いとなり、果たし合いまで行うこととなった。通常は立会人が必要であるが、二人だけで決着をつけることにし、斬り合いの末、長三郎は殺された。

 いかに武士の意地とはいえ、事の重大さに気づいた八之丞が、自室で切腹しようとしたところ、異変に気づいた父親、四郎兵衛が思いとどまらせ、八之丞に城下を去らせた。

 武士の社会で果たし合いは珍しくもないが、城主の側近である松下源左衛門の妻が、殺された長三郎の姉であり、彼女がこのことを城主に直接訴えた。そうなると城主も八之丞を逃がした四郎兵衛の責任を追及せざるを得ず、四郎兵衛に切腹を命じた。

 後日、八之丞の耳に父の悲報が届く。長三郎の姉が自分の立場を利用したことを怨(うら)み、八之丞は松下源左衛門をねらうようになる。しかし、なかなか好機が訪れず、10年の月日が流れてしまった。ようやく源左衛門が主命で江戸にいることをつきとめ、夜陰に乗じて寝所に押し入り「妻が勝手にしたこと」と言う言葉も耳に入らず、源左衛門を切り刻んだ。

 そうなると今度は源左衛門の息子たちが黙っていない。長男、三郎平(異説として助三郎とも言う)と次男の忠三郎、それに2人の従者がついて八之丞の後を追った。八之丞はすでに世を捨て、虚無僧(こむそう)姿で旅に出ているという。雲をつかむような話を追い続け、ついに1671(寛文11)年9月8日、芥川の宿にいるという情報をつかみ、長男と従者1人は、たまたまその日はいなかったが、好機を逃してはならないと、次男、忠三郎と従者の2人だけで、出立した八之丞の後をつけ、ついに討ち果たした。

 討たれた八之丞の懐には「自分は2人も殺した者で、討たれて当然。討った者に咎(とが)はない」という内容の書状があった。この事件は当時、本にも書かれ、美談として語られた(これらの話は弟と兄の役割や名前が違っていたり、内容の違う話がいくつか伝わっている)。

 このように、仇討ちは生涯をかけた大事業なのである。人によっては、それで一生を費やす者もいる。人を殺すということを考えぬく者もいるだろうし、だからこそ、仇討ちの重要性を感じるのだが、この芥川の仇討ちは「あっぱれ」と、手放しで喜べないものがどうしても残る。仇討ちが行われた辻(つじ)には、美談として書かれた案内板と小さな地蔵を祀(まつ)った祠(ほこら)があった。そうこうするうちに、雨が降ってきた。傘を忘れたので雨の中、辻に立ちすくみながら、殺し合いの連鎖について、濡れ鼠(ねずみ)になって、いっとき考え込んでしまった。

1757よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 06:16:46 ID:OZANmrVw0
中之島に蔵の跡 大名のものか
05月02日 19時02分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140502/4128381.html 

大阪の中心部の中之島で江戸時代の大名などが使ったとみられる蔵の跡が見つかりました。蔵屋敷が並ぶ当時の姿を知る手がかりになると注目されています。
大阪文化財研究所などが大阪・中之島のマンションの建設予定地で発掘調査をしたところ幅およそ8メートル、奥行き35メートルほどの蔵の跡が4棟分見つかりました。
出土品などから18世紀後半の江戸時代に建てられたとみられ石を積んだ基礎の内側に礎石が規則正しく並べられていることから板張りの床があったと推測されています。
当時、中之島には参勤交代で江戸に向かう西国の大名が滞在したり特産品を保管したりする蔵屋敷が120ほど建ち並んでいたということです。
見つかった蔵は当時の絵図などから今の秋田県に拠点を置く生駒氏が使ったあと佐賀県にあった鹿島藩の鍋島氏が利用したとみられています。
大阪文化財研究所の市川創学芸員は「石高が多い藩の蔵屋敷は見つかっているが規模の小さい藩の蔵が見つかったのは初めてだ。大阪の経済を支えた中之島の当時の姿を知る手がかりになる」と話しています。
この発掘調査については今月10日に現地で説明会が行われます。


小藩ながら立派な蔵 中之島西部で跡確認
2014年05月03日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140502-OYTNT50542.html

 大阪市教委などは2日、同市北区中之島で江戸時代の土蔵跡が見つかったと発表した。中之島には当時、各藩の蔵屋敷が並んでいたとされ、今回の土蔵は、文献史料などから、比較的小さな藩が所有していた可能性が高いが、大きさは雄藩の蔵に劣っていないという。市教委は「小さな藩でも立派な蔵を使っていたことがわかる」としている。

 調査は今年1月から中之島の西部約2100平方メートルで実施し、土蔵4棟の基礎にあたる石積みなどが見つかった。いずれも幅約8メートルで、このうち2棟は、長さ約35メートルあることが確認でき、過去に近くで発掘された広島藩などの蔵跡に引けを取らない大きさだという。

 蔵の間には通路があり、当時、近くの堂島川から荷揚げされた特産物を運ぶのに使われていたとみられる。一方、他の藩のような、藩主が泊まったとされる屋敷跡は発見されなかった。

 市教委は、当時の地図などと位置を照らし合わせ、矢島藩(秋田県)、鹿島藩(佐賀県)が順に使用していた可能性があるとしている。石積みは1960年代まで、民間企業の倉庫の基礎に使われていたという。

 市教委などは10日午後1時から、現地説明会を開く。問い合わせは中之島蔵屋敷跡発掘現場事務所(090・2386・7682)へ。

2014年05月03日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1758よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 06:21:48 ID:OZANmrVw0
「大坂の陣」盛り上げへ 道明寺合戦まつりPR
2014年4月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140430/20140430025.html

 5月3日に開催される「道明寺合戦まつり」(藤井寺市)と4日の「天王寺 真田幸村博プレイベント」(天王寺公園)など、大坂の陣400年にちなんだイベントのPRが29日、大阪市阿倍野区のあべのキューズモールであった。「真田の赤備え」を身にまとった天王寺区の水谷翔太区長と、道明寺の地元商店主らでつくる「道明寺甲冑(かっちゅう)隊」のメンバーが、親子連れなど多くの買い物客らに来場を呼び掛けた。

 会場に登場した水谷区長は多彩なプログラムを紹介し「連日楽しんでもらい、ゴールデンウイークを『大坂の陣』一色で盛り上げてほしい」とPR。成功を祈願して勝ちどきを上げた。後藤又兵衛に扮(ふん)した同合戦まつり実行委員長の森田剛浩さん(52)は、「老若男女に楽しんでもらえるプログラムを予定。まつりを契機に道明寺のまちに親しんでもらえれば」と期待を込めた。

 3日は石川河川敷で午前10時の出陣太鼓に続き、再現パフォーマンスや武術演武などを実施。午後からは合戦再現などが繰り広げられる。道明寺天満宮会場(午後3時〜同8時)では灯ろうづくりワークショップや旭堂南陵さんの講談(同5時)、ライトアップ(同6時)などが予定されている。

1759よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 06:26:51 ID:OZANmrVw0
境内に極楽浄土 平野・大念佛寺「万部おねり」
2014年5月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140502/20140502037.html

 大阪市平野区の融通念佛宗(倍巌良舜管長)総本山大念佛寺で1日、伝統行事の大法会「万部(まんぶ)おねり」(市指定無形民俗文化財)が始まった。快晴の青空の下、菩薩(ぼさつ)が現世から極楽浄土に向かう来迎の光景が再現され、多くの参詣者が荘厳な儀式に目を奪われている。

 万部おねりの正式名は「阿弥陀(あみだ)経万部読誦(どくじゅ)・二十五菩薩聖聚(しょうじゅ)来迎会(え)」といい、同寺で最大の行事として知られる。本堂沿いに設けられた回廊では、稚児や諸講の行列に続いて、紫蓮台を手にした観世音菩薩など、きらびやかな面と装束姿の二十五菩薩が登場。参詣者が見守る中、厳かにお練りを繰り広げ、極楽浄土に見立てた本堂へ順次入堂した。

 行事は5日まで。お練りは連日午後1時から行われる。

1760よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/05(月) 01:38:39 ID:v67YhLNw0
子供の健やかな成長祈り 生國魂神社であす「走馬神事」 大阪
2014.5.4 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140504/osk14050402030001-n1.htm

 「こどもの日」の5日、「いくたまさん」の愛称で親しまれる大阪市天王寺区の生國魂神社で、子供の健やかな成長を祈る「走馬(そうめ)神事」が行われ、子供の乗馬体験などの行事がにぎやかに開催される。

 走馬神事は江戸時代、大阪城と縁の深い同神社で始まり、馬を走らせながら弓を射る流鏑馬(やぶさめ)なども行われていた。明治期以降は、神事のみが続いていたが、午年の今年、行事を拡大することにした。

 当日は午前10時から、神社近くの生玉公園で子供の乗馬体験、午後3時からは神事に続いて神社境内で、小笠原流の流鏑馬の型が木馬を使って披露される。

 参加無料。問い合わせは同神社(電)06・6771・0002。

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1761よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/05(月) 21:46:09 ID:G6UaGqm60
由縁の地、朱に染まる 「真田幸村博」沸く
2014年5月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140505/20140505026.html

 大阪市天王寺区に由縁の武将、真田幸村の魅力を発信する「天王寺・真田幸村博」(同実行委員会主催)が4日、同区の天王寺公園で開かれた。朱塗りのよろい、かぶとの「赤備え」で統一した兵士らが練り歩き、大勢のファンがカメラのシャッターを盛んに押していた。幸村の末裔(まつえい)が登場したトークショーも会場を盛り上げた。

 幸村は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣家と徳川家が争った大坂の陣(1614〜15年)は豊臣方として活躍。同区には、大坂冬の陣の「真田丸の戦い」の跡地や幸村が討ち取られたとされる安居神社など由縁の場所が多い。

 この日は、大坂の陣から400年目のことし11月と来年の2年にわたり実施される本イベントのPR行事として「幸村博」を企画。ステージでは幸村に仕えた「真田十勇士」の迫力あふれる殺陣が観客を沸かせた。

 幸村から14代目の真田徹さん(65)=東京都=が、真田丸の戦いの勝因を「とりでの中でじっと待ち、敵を引き付けたこと」と分析するなど持論を展開。音楽ライブや一般参加のちゃんばらも人気を集めていた。実行委員長の水谷翔太区長は「歴史の町としてブランド化したい」と意気込んでいた。

1762よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/11(日) 18:17:00 ID:J3HWtnw20
岸和田だんじり祭の経済効果は
05月11日 05時00分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140511/4030251.html 

江戸時代から 300年以上続くとされる大阪・岸和田市の「岸和田だんじり祭」の経済波及効果がおよそ40億円にのぼると見られることがわかりました。
この調査は大阪南部・泉州地域のまちづくりについて調査・研究を行っている「堺都市政策研究所」と岸和田市が、初めて行ったもので、調査では去年9月14日から2日間行われた「岸和田だんじり祭」の地元への経済波及効果を調べました。
それによりますと、祭には46万人あまりが訪れたと見られ、宿泊費など来訪者による消費額や祭の運営費として支出された額などを推計したところ、経済波及効果は泉州地域全体でおよそ39億8900万円に上ったとしています。
一方、調査は、去年は台風などの影響で祭の来訪者数が例年のおよそ60万人を大きく下回ったことから例年通りであれば経済波及効果はさらに大きかっただろうと結論付けています。
堺都市政策研究所は、「岸和田だんじり祭は地域の文化の継承という面だけではなく、経済面でも地域に大きな効果をもたらしていることがわかった」と話しています。

1763よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/11(日) 19:37:47 ID:J3HWtnw20
歴史ある街大阪

https://www.youtube.com/watch?v=7qeWX0h-zOM

1764よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/11(日) 20:08:00 ID:J3HWtnw20
みやびやか薫風に舞う 住吉大社で卯之葉神事
2014年5月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140509/20140509019.html

 住吉大神の鎮座を記念する祝祭行事「卯之葉(うのは)神事」が8日、大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で執り行われた。多くの関係者が参列し、みやびやかに奉納される舞楽を堪能した。

 卯の花(ウツギ)が咲き誇る5月最初の「卯」の日の伝統行事。この日はさわやかな風が吹き抜け葉擦れの音が響く中、第一本宮で本殿祭を斎行。祝詞奏上や献香、献茶がなされ、参列者代表が神前に卯の葉の玉串をささげた。

 重要文化財の石舞台では舞楽を奉納。大阪の四天王寺、広島の厳島神社とともに日本三大舞台として知られる名所で、天王寺楽所雅亮(がくそがりょう)会が奉仕した。

 舞人が優美な雅楽の音色に合わせて、開始を告げる儀式的舞曲「振鉾(えんぶ)」や4人舞の「打毬楽(たぎゅうらく)」「延喜楽(えんぎらく)」などを舞った。参拝者は、古式ゆかしい装束と相まって荘重な雅楽特有の所作に見入っていた。

1765よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/12(月) 20:24:34 ID:e/g8GQkc0
大阪発 羅針盤

 地域の取り組みや課題、人々の動きや思いを通して大阪の明日、日本の未来を展望します。

淀屋闕所310年
2014年5月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/compass2011/140512/20140512035.html

閉塞した時代に活路 豪商が残した「教訓」

 高層ビルが立ち並ぶ大阪・中之島は、江戸時代に各藩の蔵屋敷が集積した。その蔵屋敷跡を発掘調査した大阪市教育委員会による10日の現地説明会に、当時豪商だった「淀屋」を顕彰するグループの姿があった。中之島を開拓した淀屋が、幕府の命によって財産没収と大坂追放の闕所(けっしょ)になった1705年から来年で310年の節目。淀屋の足跡を再評価し「閉塞(へいそく)した時代」に活路を開く試みが加速しつつある。

 「潮の満ち引きによる難工事も乗り越えた。勇気と先見性があった」。現地説明会に訪れた淀屋研究会代表の毛利信二さん(71)は、往時を想像して淀屋の業績に敬服したという。

 ススキやアシが密生する砂地だった中之島に着目した淀屋初代の常安(じょうあん)が、徳川家康に願い出て開拓を完了した1619年を境に大坂への蔵屋敷集積は進行。今回の発掘調査で見つかった4棟の土蔵跡は、蔵屋敷沿いの堂島川から荷揚げされた物資を効率的に搬入する配置を取っていたことを物語り、中之島一帯が「天下の台所」の象徴だった歴史を浮き彫りにした。

 淀屋が闕所になった原因は「ぜいだく」「おごり」と当時の大坂人は受け止め、生活の質素、倹約を進めるきっかけになったとされる。しかし、淀屋が残した「教訓」はこれにとどまらず、暖簾(のれん)復活を期した商人魂にあった。

「勇気と先見性」に目を 温故知新、実行の時

 中之島の開拓をはじめ米市の設立、青物市の再開などを手掛けて「日本一の豪商」と呼ばれた淀屋だが、持ち過ぎた財力は1705年、闕所(けっしょ)の憂き目を招いてしまう。その300年後の2005年に発足した淀屋研究会の目的は、淀屋に関する真実の探求。着目している点が、山陰地方の鳥取県倉吉市にあった旧商家「牧田家」との密接な関係だ。

1766よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/12(月) 20:25:41 ID:e/g8GQkc0
>>1765

■来年10月にサミット

 「闕所の約60年後、淀屋跡地に淀屋清兵衛を名乗る商人が活躍している。倉吉の大蓮寺には牧田家代々のお墓と共に『大坂淀屋清兵衛』と刻まれた供養塔が建てられている」

 淀屋研究会が06年に編集した図録『淀屋の歴史と偉業』に寄稿した長谷川稔倉吉市長(当時)は、地元と淀屋の関係をそう伝えている。

 つまり、淀屋は倉吉でひそかに暖簾(のれん)をつなぎ、元の淀屋橋で淀屋清兵衛を公称して再興した。その後、1859年に突如、大坂と倉吉の店を閉鎖し、資金を朝廷に献上してこの世から去ったというわけだ。

 しかし、長谷川市長と対談した関淳一大阪市長(当時)は「闕所の真相も含めて分からないことが多い。淀屋の屋敷跡の碑にこの地とのよすがを伝えるのみ」と同図録に言及。淀屋の足跡が“伝承”の域にとどまる現状に対し、淀屋研究会は、闕所310年に当たる2015年10月10日に「淀屋サミット」の開催を通して足跡を深掘りする意向だ。

■歴史に活路を

 研究会と関わりのある作家の新山通江氏は、暖簾復活を期した淀屋4〜5代の商人魂を描いた著書『真説淀屋辰五郎』の巻頭で次のようにつづっている。

 「閉塞(へいそく)した時代の、あるいは個人的な憂い事の、活路を開いていただくヒントが見つかりますように」

 折しも、今後30年間で20〜30代の女性が半分以下に減る自治体は896市区町村に上るという試算が8日に発表されたばかり。東京に続く第2の都市である大阪市内でも郊外や再開発未定の大正、浪速、西成、住之江、中央の五つの区が半減するなどまさに「閉塞した時代」を迎えている。

 だからこそ「勇気と先見性」(毛利信二研究会代表)を持っていた淀屋の足跡に目を向け、民間活力が地域を発展させた大阪の歴史に学びたい。温故知新を実行する時である。

1767よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/12(月) 21:09:36 ID:e/g8GQkc0
再来年の大河ドラマ「真田丸」
05月12日 17時47分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140512/4377221.html 

再来年、平成28年に放送されるNHKの大河ドラマは、「大坂冬の陣」と「夏の陣」で豊臣方の武将として徳川家康率いる幕府軍と果敢に戦った、真田幸村の生涯を描く「真田丸」に決まりました。
大河ドラマ「真田丸」は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、真田幸村が主人公です。
ドラマは、天下を争う大名たちにほんろうされながらも、父や兄をはじめとする家族とともに、知恵を頼りに生き抜き、江戸幕府によって追い込まれた豊臣家のために果敢に戦った幸村の姿を描きます。
「真田丸」は、大坂の陣の際に幸村が今の大阪・天王寺区に築いたとされる砦の名前で、戦国の荒波に立ち向かう真田家を、一そうの船に例えて名付けたと言われています。
脚本を担当するのは三谷幸喜さんで、大河ドラマの脚本は平成16年の「新選組!」以来2度目となります。
大河ドラマ「真田丸」は再来年、平成28年の1月から1年間放送されます。

1768よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/14(水) 21:44:40 ID:Kcm4v5Q.0
適塾 耐震工事終え再公開へ
05月14日 19時03分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140514/4152511.html 

福沢諭吉などの多くの人材を輩出した大阪の適塾の建物が耐震工事を終え、15日から再び公開されることになりました。
適塾は、幕末の蘭学者、緒方洪庵が、蘭学や医学を教えるために開いた塾で、福沢諭吉など、日本の近代化に貢献した多くの人材を輩出しました。大阪・中央区にある適塾の建物を管理する大阪大学は内部を公開していましたが、去年秋から一時休館して耐震改修工事を行い、完成したことから、14日、内覧会を開きました。
工事では、元の土壁を取り除いたあと、金属製の2枚の板の間にゴム状の素材を挟んで揺れを吸収する特殊な壁を取り付け、その上にしっくいを塗るという、重要文化財では初めての技術が使われ、展示室では、元の景観を損なわないこれらの工法についてもパネルなどで紹介しています。
大阪大学適塾記念センターの廣川和花准教授は、「古い建物を守るため、最新の技術を応用して耐震工事を行った。たくさんの人に見にきていただきたい」と話していました。
適塾の建物は、15日から再び一般に公開されます。
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1769よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/15(木) 05:24:41 ID:knmty1Hk0
適塾が耐震工事終え、15日から一般公開 内覧会に洪庵の子孫も
2014.5.14 22:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140514/wlf14051422000027-n1.htm

江戸時代の蘭医学者、緒方洪庵(1810〜63年)が開き、大阪大の原点とされる私塾「適塾」(大阪市中央区、国重要文化財)の耐震改修工事が完了し、阪大は15日から一般公開を再開する。14日は関係者向けに内覧会が開かれ、洪庵から数えて5代目の子孫がテープカットで再オープンを祝った。

 適塾の建物は木造一部2階建ての約285平方メートル。築200年以上と推測され、洪庵が弘化2(1845)年に購入。全国から集まった若者がここで医学や蘭学を学び、慶応義塾の創設者、福沢諭吉らを輩出した。また適塾の門人が阪大医学部の前身、大阪医学校などの要職に就いたことから阪大の源流の一つとされている。

 昭和51〜55年にかけて、大規模な改修工事が実施されたが、平成の改修となる今回は昨年10月〜今年3月、約6千万円をかけて屋根の軽量化や耐震壁の設置などを行った。改修により震度7までの揺れに耐えられるという。

 内覧会に奈良市から駆けつけた洪庵の子孫、緒方惟之さん(89)は「かつて、理想に満ちた多くの若者が学んだ空気を感じてほしい」と話していた。

1770よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/15(木) 20:49:36 ID:HYCetVuM0
「天満の名水」復活へ 天神祭実行委が初会合
2014年5月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140515/20140515025.html

 日本三大祭りの一つ「天神祭」の実行委員会は14日、2014年度の初会合を大阪市北区の天満宮会館で開き、今夏の天神祭までに天満宮境内に井戸を掘って井戸水「天満の名水」を復活させる方針が示された。

 会合には大阪天満宮の寺井種治権宮司や京極俊明実行委員長ら関係者約80人が参加。14年度の行事計画として7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭を例年通りの内容で執り行うと決めた。

 天満の名水復活について、寺井権宮司は「祭りのにぎわいに生かせないか検討していく」と語った。

 京極実行委員長は「伝統を受け継ぐべきところは継承しつつ、改良できる点はしていくべきだ」と述べ、15年度以降の行事計画について関係者やにぎわいづくりの専門家らを交えた検討委員会の新設を提案。今後祭りの関係者との会合で設置について議論していく。

 会合では行事に関する13年度収支の決算や14年度予算も審議。収支悪化が顕在化している現状を踏まえ、改善に向けて協議した。

1771よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/17(土) 20:33:28 ID:u9D6AiKI0
徳川大坂城の採石場跡…航空レーザー計測で確認
2014年05月17日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140517-OYO1T50022.html

 江戸初期の徳川期大坂城築造の際、石垣に使う花崗岩(かこうがん)を切り出したとされる兵庫県西宮市の甲山(かぶとやま)東側に広がる丘陵地で、林の中から採石場跡とみられる遺構を「3次元航空レーザー計測システム」で確認したと、同市が16日、発表した。大坂城にかかわる採石場で最大の「東六甲採石場」の東端と考えられるという。

 同システムは、上空からレーザー光を照射し、広範囲の地表の凹凸を精密にとらえ、立体地図の作製に利用。この光は樹木をすりぬけるため、活断層や古墳の形を調べる際にも使う。

 市によると、東六甲採石場は現在の西宮市から神戸市にかけての六甲山系に位置し、石垣の約3分の1を産出したとされる。西宮市内でも、普請した鍋島藩などの印が刻まれた石材が見つかっている。しかし、採石場跡は住宅地となって発掘が難しい箇所が多く、同市の甲陽園地区でしか確認できなかった。

 市は2012年から、切りそろえたような石(縦横約1・5メートル、高さ約3メートル)が散乱する標高140メートルの地点を同システムで調査。近くの谷に直径10〜20メートルのくぼみが連続。この形が、兵庫県芦屋市内で発掘された採石場に酷似していた。西宮市は今後、発掘して特定するという。

 芦屋市で東六甲採石場を調べた森岡秀人・日本考古学協会理事(62)は「3次元航空レーザー計測システムによる調査が進めば、採石場の全体像がわかるのではないか」と期待している。

徳川期大坂城 豊臣秀吉の築いた大坂城が大坂夏の陣(1615年)で落ち、徳川幕府は西日本の大名64人に新たな城を築くよう命じた。城は1629年に完成したが、天守閣は65年に落雷で焼失した。

1772よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/17(土) 20:44:14 ID:vPLMBLrI0
富田林興正寺別院 重文に
2014年05月17日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140517-OYTNT50055.html?from=ycont_top_txt

 ◇「寺内町とセットで残存」評価

 富田林市の寺内町にある人気スポット「富田林興正寺別院」が16日、国の重要文化財(建造物)に指定されることになった。寺内町が形成される第一歩となった寺で、山門は豊臣秀吉が築いた伏見城(京都)のものが移築されたと伝わる。関係者は「これを機に、さらに魅力を発信していきたい」と喜びの声を上げた。(岡田英也、桜井悠介)

 本堂は、江戸時代初期の1638年に建立され、浄土真宗寺院のものとしては府内で最古。江戸後期に建てられた鐘楼(しょうろう)、鼓楼(ころう)、御成門(おなりもん)などと合わせて計6棟が指定された。

 周囲は、東西400メートル、南北350メートルの範囲に町家などが立ち並ぶ寺内町で、府内唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれている。「寺と寺内町がセットで良好に残る貴重な事例」と高い評価を受けた。

 同地区での重文指定は「旧杉山家住宅」に続き2例目。観光客の案内を担う「じないまち・ボランティアガイドの会」の山口完内会長(76)は「ガイドで外せないスポットで、指定を待ちわびていた。本堂内のふすま絵や欄間(らんま)彫刻など見所が多く、さらに多くの観光客に魅力を伝えたい」と張り切る。

 興正寺別院の華園勝文代務住職(83)は「歴史的な価値が認められ、身が引き締まる思い。先人から守られてきた建物を、次の世代に引き継いでいく重責を感じています」と話した。


 今回の指定で、府内の重要文化財(建造物)は99件(184棟)となった。

2014年05月17日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1773よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/18(日) 06:10:39 ID:/b1eD7WA0
【舞台の遺伝子】
大阪で叶えた夢 歌舞伎の原点取り戻す 中村勘三郎
2014.5.17 14:35
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140517/wlf14051714350030-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140517/wlf14051714350030-n2.htm

 初夏が近づくと、中村勘三郎さんを思い出す。

 20〜30年ほど前、大阪の7月は、勘三郎さんの舞台で熱く燃えた。

 道頓堀の中座を舞台に、躍動的に動き回り、すさまじいエネルギーを撒き散らし、愛嬌(あいきょう)たっぷりの演技に客席は沸いた。「東海道四谷怪談」では客席から幽霊を出して悲鳴を上げさせ、「高坏(たかつき)」では軽やかな下駄のタップダンスに場内から手拍子がわき起こった。

 「歌舞伎ってこんなに面白い」。勘三郎さんは古典芸能に見向きもしなかった大阪の若者たちをぐいっと歌舞伎に引き寄せた。それがいまに続く歌舞伎ブームのさきがけとなった。

 そんな勘三郎さんの涙を大阪で見たことがある。

 平成22年、大阪城公園西の丸庭園に建てられた「平成中村座」のお披露目のとき。江戸時代の芝居小屋を現代に蘇らせた平成中村座は、勘三郎さんの夢の結晶でもあった。

 その舞台後方を開け放った瞬間、大阪城の天守閣が姿を現したのだ。「これはすごい」。勘三郎さんの目に涙がにじんだ。

 天守閣の向こうに大阪の摩天楼がそびえる。それは伝統と現代を結びつけた希代の歌舞伎役者が夢見た風景だったのかもしれない。

 勘三郎さんが初めて大阪で「平成中村座」公演を行ったのは平成14年11月。

 梅田の繁華街にほど近い扇町公園の砂ぼこり立つ空間に突如、その芝居小屋は出現した。入り口には色とりどりの幟(のぼり)がはためき、場内に入ると桟敷(さじき)席。江戸時代にタイムスリップしたような風景に、観客は度肝を抜かれたものだ。

 勘三郎さんから任されて設計、建築を行った金井大道具の金井勇一郎社長(53)は「テントですから外の騒音も聞こえる。雨はうるさいけど、パトカーの音はかえっておもしろかった。ここでいったい何ができるんだろう。勘三郎さんも僕もワクワクしながら作り上げた」と振り返る。

1774よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/18(日) 06:13:54 ID:/b1eD7WA0
>>1773

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/write.cgi/travel/6501/1294119348/
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140517/wlf14051714350030-n4.htm

 平成中村座の「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」のラストシーン。舅(しゅうと)殺しをした浪速の侠客(きょうかく)、団七(勘三郎)と義兄弟の徳兵衛(中村橋之助)は捕手に追い詰められ、現代の扇町公園の土の上を大阪の街に向かって疾走していった。

          □

 実は勘三郎さんに平成中村座を思いつかせたのはアングラ演劇の旗手、唐十郎さんの紅(あか)テントであった。

 19歳のとき、初めて紅テントで唐さんが主宰する状況劇場の芝居を見て衝撃を受けたという。神社や公園に出現する紅テントは猥雑(わいざつ)で妖しく、劇中、テントの後ろを開けると現代の風景が飛び込んでくる演出は魅惑的であった。

 「これだよ、これ」。勘三郎さんは足しげく紅テントに通った。

 現在、唐さん主宰の唐組で俳優兼演出を務める久保井研さん(51)はそんな勘三郎さんの姿をよく覚えている。

 「他のお客さんと一緒に膝をつき合わせて桟敷席で見ていらっしゃいました。打ち上げでは劇団員たちと車座になって話されていた。『これが歌舞伎の原点なんだ。歌舞伎もこれに戻らなきゃいけないんだよ』。そんなことを飛び上がるほど興奮しながら唐さんと話していましたね」

 歌舞伎が近代化の波の中で失ったものを取り戻したい。それこそが勘三郎さんの夢だったのではないか。

         □

  勘三郎さんは歌舞伎が低迷していた大阪に、歌舞伎の種をまいて花を咲かせ、突然、逝ってしまった。

 しかし、大阪の7月の歌舞伎公演は、勘三郎さんらの奮闘のおかげで途切れることなく続き、今年も松竹座で開催される。

 〈あんたはんは東京一、道頓堀が似合う役者はんや〉。大阪の見知らぬおばちゃんからそんなファンレターをもらったと、うれしそうに教えてくれた勘三郎さんの屈託のない笑顔が忘れられない。

中村勘三郎(1955〜2012年) 人間国宝だった十七代目中村勘三郎さんの長男として生まれ、昭和34年、東京・歌舞伎座で五代目中村勘九郎を名乗って初舞台。平成17年、歌舞伎座で十八代目中村勘三郎を襲名。華のある芸風で、立役から女形まで芸域は幅広く、古典の古格を守りながらも、新作歌舞伎、コクーン歌舞伎、平成中村座など果敢に挑み、歌舞伎の地平を豊かに切り拓いた。57歳というあまりにも早い死は現代歌舞伎の底知れぬ損失となった。

1775よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/18(日) 20:54:43 ID:HkvDen6w0
「歴史的な日」だんじり24台がパレード 市制60年の大阪・河内長野
2014.5.18 20:24
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140518/wlf14051820240030-n1.htm

 大阪府河内長野市で18日、市民らがだんじり24台を引きながらメーンストリートを練り歩くパレードが開かれた。今年で市制60周年を迎えたのを記念するイベントで、沿道は約2万5千人でにぎわった。

 24台は同日午後、市役所に集結。そろいの法被姿の市民らが、だんじりを引きながら威勢よく練り歩いた。例年、秋の祭りでは後輪を持ち上げてこまのように速く回す「ぶん回し」がみられるが、この日はだんじりの彫刻などを楽しんでもらおうと、ゆっくり進んだ。

 実行委員長の鉾谷祐二さん(39)は「24台が集まった歴史的な日。こんなことは秋祭りでもない」。市内に住む上田まさ子さん(67)は「24台なんてびっくり。今しかないと思って見に来ました」と話した。

1776よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/21(水) 20:04:51 ID:jKmfYW4.0
真田幸村の資料館来月オープン
05月21日 06時00分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140521/4472601.html

豊臣と徳川の軍勢が戦った「大坂の陣」から400年を迎え、豊臣方の武将、真田幸村ゆかりの品々を集めた資料館が、大阪市にオープンすることになりました。
「真田幸村公資料館」は「大坂の陣」から400年になるのを記念して、大阪の鉄砲研究家、澤田平さんが大阪・東成区に、来月・6月からオープンさせるものです。
「資料館」には、▼「大坂夏の陣」で幸村が、徳川方に攻め込み、家康を撃とうとしたとされる「宿許筒」と呼ばれる火縄銃や▼徳川方が使ったとされる長さ1メートル70センチの「慶長大鉄砲」、それに、▼後世の武家が幸村の戦術を学んでつくったとされる手裏剣や吹き矢など、およそ300点が展示されるということです。
また、資料館を訪れた人たちは、澤田さんの説明を受けながら見学できるということですが、入館には予約が必要だということです。
「真田幸村公資料館」の連絡先は、06−6974−1186で、随時、予約の相談や問い合わせに応じるということです。

1777よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/21(水) 20:08:53 ID:jKmfYW4.0
この地道な努力に敬服いたします。 


空襲前のミナミ、45年かけ地図…聞き取り重ね
2014年05月19日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140519-OYO1T50024.html

空襲で焼ける前の大阪・ミナミ周辺の詳細な地図を45年かけて作っている男性がいる。資料を調べ、1000人以上に聞き取りをした。情報を求めて歩くうち、ふるさとの面影がよみがえったという。千日前から、道頓堀、心斎橋と広げ、今は最後の船場地区を作業中だ。戦後70年の来年、大阪市立中央図書館(西区)に寄贈する。(南部さやか)

 安藤豊さん(78)(中央区千日前)の幼い日の思い出は、国民学校3年時点で断ち切れる。

 春休みで集団疎開先から戻っていた1945年3月13日夜、大阪大空襲に遭った。焼夷(しょうい)弾が降り、燃え上がる町を家族で逃げ回った。千日前の自宅周辺は跡形もなく焼けた。避難先の知人宅から千日前に戻れた中学入学の頃、まだバラックが並び、西部劇のように砂ぼこりが舞っていた。

 地図作りの始まりは、証券マンだった68年、小学生の息子が「町の歴史を知りたい」と言ったことだ。資料を探して訪ねた図書館で、自分が国民学校1年だった42年の職業・個人電話帳を見つけた。これを手がかりに記憶をたぐり、地図を描いてみようと思った。

 今、ビックカメラなんば店が立つ場所に大阪歌舞伎座があった。劇場は近辺に12か所。戦争映画の宣伝看板が並び、作業着姿の男性が大勢、自転車をこいで見に来ていたのを思い出した。

 通っていた精華国民学校の近くは駄菓子や肉、すし、青果店が軒を連ね、道頓堀の、今は看板がまぶしいあたりに料亭があって、芸者さんが歩いていた。

 休日に先輩や同級生、近所の商店主らを訪ね歩き、「これ間違ってへんか」と、自作の地図を見せては情報を集めた。歴史雑誌や手記を読み、知らない建物名や地名を見つけるとまた調べて回った。

 地図が埋まってくると、街の光景と、思い出がよみがえる。繁華街の路地にろう石でマルを描いてケンケンをしたこと。通りが行商人たちの声であふれていたこと。てんびん籠を下げたイワシ売り、傘の修繕、うどん、玄米パン。毎月の夜店のあめ細工……。

 古い資料を持っている人や、同じように自宅周辺の昔の地図を作っている人にも出会い、情報交換した。「戦前のメインストリートは堺筋やったんや」「ここが、織田作之助の通った波屋書房があったとこ」。聞いて集めたエピソードも一緒に記録に残す。作製中の地図の大きさは縦横約2メートルになった。

 スタートから45年がたち、話を聞かせてもらった人の多くが他界しており、「これ以上は難しいだろう」と言う。

東西約4・5キロ、南北約6・3キロ。あの空襲では、この大半が焼けた。失われたものの大きさに今も慄然とする。

 安藤さんは「たくさんの生き証人の協力があって再現できた、空襲で消えた町のことを知ってほしい」と話している。

 古川武志・大阪市史料調査会調査員は「限られた地区の絵図などはあったが、大阪大空襲前の住宅地図はなく、貴重なものだ。地元で育った安藤さんだけに細部まで書き込んでおり、当時の町並みや人々の暮らしぶりがよくわかる」と話している。

大阪大空襲 大阪国際平和センター「ピースおおさか」(大阪市中央区)によると、大阪への空襲は、1944年12月〜45年8月に約50回行われ、うちB29爆撃機100機以上の大規模な空襲は計8回あった。45年3月13日の被害が最も甚大だった。

2014年05月19日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1778よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/25(日) 05:58:40 ID:YzhJ0.rE0
古墳周辺の景観保全対策説明
05月24日 12時28分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140524/4641481.html 

大阪の百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録をめざして堺市は、住民説明会を開き、新たな建物の高さの規制など、周辺の景観保全対策を説明し、理解を求めました。
百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録をめぐっては、周辺の景観の保全が不十分だなどとして、去年8月に推薦が見送られたことから、地元の堺市などは、先月、建物の高さの規制など、新たな対策を決めました。これを受けて、24日、地元の住民を対象にしたはじめての市の説明会が開かれ、およそ50人が参加しました。
市の担当者は、古墳群のそばでのこれまでの規制に加え、古墳群の周辺でも、新たな建物の高さや、建物の外壁の色を規制することなどを盛り込んでいまの条例を改正する方針を説明しました。
これに対して、参加者からは、「自治会単位で必要となる対応についてもっと説明してほしい」という要望が相次いだほか、「マンションの高さを変えて、資産価値が下がった場合、補償はあるのか」といった質問も出されていました。
堺市の宮前誠世界文化遺産推進室長は、「古墳群を世界文化遺産として守っていくため理解をいただけるよう説明を続けていきたい」と話しています。

1779よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/26(月) 05:01:18 ID:AfElV3sQ0
幻の「海岸寺」解明に期待
2014年05月23日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140523-OYTNT50017.html

 ◇明治期移築先とされる貝塚・常照寺から175年前の鬼瓦

 貝塚市の常照寺本堂(名越)で、約175年前の江戸時代に製造されたとみられる鬼瓦が見つかった。同寺は、かつて徳川将軍家の位牌(いはい)をまつり、その後、姿を消した「海岸寺」が移築されたものとみられている。瓦には当時の職人と思われる名も残っており、地元研究家は「幻の寺の全容を知る鍵になるかもしれない」と期待している。

 常照寺は、1532年建立の浄土真宗本願寺派の寺。天保時代の古文書で記された間取りや妻入り造りの建築様式などから、岸和田城の初代城主・岡部宣勝(1597〜1668)が1657年に建てた海岸寺が、後に移築されたとみられている。

 海岸寺は、3代将軍家光以降の歴代将軍の位牌堂。現在の貝塚市半田にあったが、明治時代に解体され、位牌や石灯籠の一部は泉南市の寺に移された。宝物類などは行方不明になったという。

 常照寺では、約3年前から本堂を改築。その際、古い鬼瓦を歴史研究家の赤坂勇さん(69)が調べたところ、裏に岡部家菩提(ぼだい)寺の瓦に刻まれていた「岸泉仁」や、「天保九戌三月 瓦屋周三郎」など、瓦職人とみられる人名を見つけた。今後、瓦の価値を分析したり、刻まれた人名の子孫などを調べたりするという。

 赤坂さんは「約360年前に建てられた海岸寺の実態を知る糸口になるかもしれない貴重な資料」と評価、常照寺の藤塚知暁住職(64)は「鬼瓦は寺に安置された位牌を守る役割を果たしていたのでは。壊れないよう保存方法を考えたい」と話している。

2014年05月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1780よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/26(月) 20:59:39 ID:LMIRksUU0
長い間、本当にお疲れ様でした。

「泣いたらあかんけど…」 拍手鳴り止まず 文楽の人間国宝、竹本住大夫さんが最後の舞台
2014.5.26 20:38
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140526/wlf14052620380028-n1.htm

 人形浄瑠璃文楽の太夫(浄瑠璃語り)で、人間国宝の竹本住大夫(すみたゆう)さん(89)の引退公演が26日、東京・国立劇場で千秋楽を迎えた。住大夫さんは亡き父、六世住大夫さんの引退公演と同じ「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)・沓掛(くつかけ)村の段」を語り、68年の太夫人生に幕を引いた。

 住大夫さんは45分間にわたり、子供や老母らの心情を情感豊かに表現。その余韻を惜しむ拍手はしばらく鳴り止まなかった。

 舞台上で行われた引退セレモニーでは「寂しゅうてまだ、次の公演に出るような気がします。これからも文楽を末永くお願いします」とあいさつ。長年、苦楽をともにしてきた人形遣いの人間国宝、吉田簑助さん(80)から花束を贈られ、感無量の面持ちを見せていた。

 セレモニー後、取材に応じた住大夫さんは「拍手を聞いていたら胸が詰まって。泣いたらあかんと我慢したが、楽屋に戻ってみんなの顔を見たら泣いてしまいましたわ」と語った。

1781よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/26(月) 21:00:50 ID:LMIRksUU0
■文楽・竹本住大夫さん引退 「感謝と敬いの心でいっぱい」
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000004786.shtml

 人形浄瑠璃文楽の最長老で、今年2月、引退を表明した竹本住大夫さん(89)の最後の舞台が東京・国立劇場で上演されました。

 68年にわたる大夫人生を締めくくった最後の演目は、「沓掛村」。

 これは父の6代目、竹本住大夫さんが引退公演で演じたものと同じです。

 住太夫さんは戦後、すぐ文楽の世界に入門し、ストーリーを語る「大夫」という役割で、1989年には人間国宝に認定されました。

 大阪市の補助金削減問題では、技芸員のトップとして奔走。

 おととし7月に脳梗塞で倒れ、リハビリを経て、半年後に舞台復帰を果たしたものの、後遺症のため引退することを決めました。

 「いい星の下に生まれた運のいい男でね。感謝と敬いの心でいっぱいでございます」(竹本住大夫さん) (05/26 18:14)

1782よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/27(火) 23:11:34 ID:twV4LRaI0
雨中 地上の“花火” 坐摩神社のアジサイ
2014年5月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140527/20140527024.html

 大阪市中央区久太郎町の坐摩(いかすり)神社(渡邉紘一宮司)でアジサイがほころび始め、雨空に映える紫や赤、白などの花々が境内に彩りを添えている。

 同神社では神職が挿し木で株を増やすなど、丹精込めてアジサイを栽培している。葉の形状がカシワに似た「カシワバアジサイ」や「アナベル」、「スミダノハナビ(墨田の花火)」など約20種があり、開花期に合わせて鉢植えを境内に配置。今年は約200株が連なった。

 26日の近畿地方は気圧の谷や温かく湿った空気の影響で、終日、断続的な雨に見舞われた。

 境内の花は約1週間前から確認。全体では花数はまだ少ないが、多くの参拝客が、雨に打たれながら、つつましく咲く花姿に見入っている。同神社によると花は6月中旬まで楽しめる見込み。開門時間は午前7時半〜午後5時。

1783よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/01(日) 19:03:14 ID:w03L5oM60
入浴剤あの顔のモデル

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2014年5月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/140530/20140530024.html

東大阪市大蓮東「中将姫供養塔」

 今回は麗しの中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説である。天平19(747)年、藤原豊成(ふじわらのとよなり)に女の子が生まれた。長谷寺の観音様に祈願して、ようやくできた娘である。しかし、姫が5歳の時に母は亡くなり父は後妻を迎えたが、男の子ができたことで後妻は姫を憎み、14歳の時、後妻は家臣に姫を殺すよう命じた。だが、心やさしい姫をどうしても殺せず、家臣は日張山(ひばりやま)の青蓮寺(せいれんじ)に隠した。

 翌年、父が宇陀(うだ)に狩猟に来た際、洞窟で読経する女性に出会い、それが実は姫であることが分かって、姫を都に連れ戻した。13歳の時、三位中将の位を持つ内侍(ないし)となり、それから中将姫と呼ばれるようになった。

 16歳の時、世上の栄華から離れ、二上山の當麻寺(たいまでら)にて仏の道に仕えることを決心する。姫が生身の弥陀(みだ)を拝みたいと念じていると、長谷寺の観音が現れ、蓮華(れんげ)の茎から糸を取って曼陀羅(まんだら)を織るがよい、と教えられた。

 そこで、近江・大和・河内から蓮(はす)の茎を集めて「當麻曼茶羅(たいままんだら)」を織りあげた(この織物は最古にして最大ということで国宝に指定されている)。そして姫が29歳の時、阿弥陀(あみだ)如来と二十五菩薩(ぼさつ)が現れて、中将姫を生きながら西方浄土へ迎えたという。(以上、諸説あり)

 さて、日張山で最初に身を寄せた藤村家で姫は、婦人病によく効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」になった。津村順天堂(現・株式会社ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)は日張山青蓮寺の檀家(だんか)であり、母の実家の藤村家に伝わる中将湯を婦人薬として商品化し、大ヒットさせた。

 だから津村順天堂のマークは創業当時から中将姫なのである。中将湯もお茶だけでなく明治30(1897)年に「浴剤中将湯」が発売される。それが昭和5(1930)年に「バスクリン」と改名され、今もロングセラーを続けているのだ。

 その姫の供養塔が高槻市にあるということで行ってみた。場所を近くのおばちゃんに聞いてみたら「あんたみたいな人が、ようウロウロしてるで」と言いつつ、丁寧に教えてくれた。

 そこには案内板も何もなかったが、異説では、幼い中将姫を守った「産婆」が住んでいたともいう。多くの人は中将姫のことは知らなくても、津村順天堂のマーク(現・メモリアルマーク)の清純でかわいく、気高ささえ感じる美人のことは誰もが思い出すことだろう。

 能に姫を題材にした「當麻」や「雲雀山(ひばりやま)」があり、御伽草子や草双紙のヒロインでもある。高槻市の供養塔を誰が作ったか知らないが、中将姫のことが大好きな人であることは間違いない。

 そう、中将姫は忘れがたく、私にとっても、時として「思い出したい人」なのである。津村順天堂の成功の一因は、当時、マークと広告を手掛けた画家、高畠華宵(たかばたけかしょう)の画力が相乗効果を上げた、中将姫のイメージなのである。

1784よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/06(金) 21:24:52 ID:3i.cgynI0
そうなんや 大阪24区

中央区 難波宮跡公園
2014年6月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/sounanya/140606/20140606043.html

発掘調査60年の節目

  「大化の改新」「日本書紀」「聖武天皇」、教科書でもおなじみの古代ロマンを今に伝えるのが中央区法円坂一帯に広がる「難波宮(なにわのみや)」跡公園だ。ことしは発掘調査が始まって60年の節目。近隣の大阪歴史博物館は21日から特別展「大阪遺産 難波宮」を開き、メモリアルイヤーを盛り上げる。

 同地で明らかになっているのは飛鳥時代と奈良時代の2時期の宮殿跡。前期は大化の改新後の飛鳥からうつった「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」、後期は聖武天皇が造営し、平城京の副都として栄えたという。

 大阪市立大学教授の山根徳太郎博士(1889〜1973年)が1954年から発掘調査を行い、中心部は国の史跡に指定。調査は現在も続き、公園内には天皇が重要な儀式で使用した後期の「大極殿(だいごくでん)」の基壇などが復元、住民らの憩いの場になっている。

 大阪歴史博物館は常設展示で難波宮を年代別に紹介しているが、特別展で本格的に取り上げるのは開館以来初。視点を変え「瓦」「土器」「文字」など15テーマから出土品などを展示する。

 同館学芸員の李陽浩さん(45)は「大阪にとどまらず世界に誇る宝。まだまだ分かっていないこともあり、これを機会に多くの人に関心を持ってもらいたい」と話す。

1785よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/07(土) 04:58:24 ID:EbLrca160
21日から大阪歴博で難波宮の特別展
2014.6.7 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140607/osk14060702020003-n1.htm

 「難波宮(なにわのみや)」の発掘調査開始から今年で60年を迎えたのを記念し、大阪市中央区の大阪歴史博物館で21日から、特別展「大阪遺産 難波宮−遺跡を読み解くキーワード」が開かれる。同宮の宮殿などに使われたとみられる屋根飾りの瓦である鴟尾(しび)の破片や古代の日本語表記がうかがえる木簡などを展示する。8月18日まで。

 同館によると、難波宮は、7世紀に造営されたが、686年の火事によって焼失。東大寺建立を唱えた聖武天皇により8世紀に、平城京の副都として再建されたとされるが、いまなお謎が多いという。

 昭和28年に住宅建設工事中に、大型の屋根飾りの瓦である「鴟尾」の破片(縦49・6センチ、横38・7センチ)が発見され、60年前の29年から第1次発掘調査が行われた。鴟尾は古代宮殿・寺院などの建物に用いられたとされ、復元図と並べて展示する。

 また「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と、漢字1字を1音にあてた「万葉仮名」で記された木簡「万葉仮名文木簡」や、出土遺物、当時の記録、歴史博物館所蔵の資料など約450点を展示する。

 企画広報課の李陽浩さんは「ビジネス街の地下に眠る古代の都の風景を思い浮かべながら、歴史ロマンを楽しんでもらえたら」と話している。大人600円、高校・大学生400円。問い合わせは大阪歴史博物館(電)06・6946・5728。

                   ◇ 

 関連企画として、29日に大阪歴史博物館の栄原永遠男館長による講演会「聖武天皇と難波宮」、7月25日と8月1日には「初期の発掘地点を巡るツアー」なども開催される。

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1786よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/09(月) 19:57:10 ID:giSrOsU.0
第3次大阪大空襲69年 3千の魂に祈り
2014年6月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140608/20140608087.html

 あの大惨事を後世へ−。太平洋戦争末期の1945年6月に米軍が実施した「第3次大阪大空襲」から69年を迎えた7日、猛烈な銃爆撃によって甚大な被害を受けた大阪市北東部など各地で犠牲となった人々を悼む慰霊の行事が執り行われた。爆撃機と護衛戦闘機の計500機が白昼飛来。爆弾と焼夷(しょうい)弾投下、機銃掃射を繰り広げ、約6万戸が被災、約3千人が犠牲となったとされる。参列者は69年前の惨状を風化させまいと、市民を巻き込む戦争の悲惨さや平和の尊さをあらためて訴えた。


 犠牲者千数百人の遺体が火葬された大阪市旭区生江の城北公園北側の淀川堤防に立つ「千人つか」では、千人塚慰霊法要協賛会(東浦栄一会長)による慰霊法要が行われた。

 同所は当時、地域住民の避難所になっていたが、米軍機は逃げてきた人々を低空から銃撃。同年に計8回あった大阪大空襲の中でも最も悲惨を極め、遺体は三日三晩かけて荼毘(だび)に付されたとされている。

 「千人つか」は、東浦会長の父が庭の石で作り、終戦の翌年から同所で法要を続けている。

 「戦争は昔の話ではあるが、遺族の方は昨日のことのように感じていらっしゃる」と東浦会長。しかし、時とともに経験者の高齢化は進み、当時、学徒動員中で多くの女子生徒が犠牲になった愛媛県の松山城北女子高校の関係者は、昨年に続いて参列することがかなわなかった。

 4年前から法要後に慰霊の能を上演しているNPO法人フェリスモンテ(旭区)の山王丸由紀子理事長(67)は「私も戦争を知らない世代だが、この平和を私たちが守っていかないといけないとあらためて心に誓いました」と話していた。

犠牲者千数百人の遺体が火葬された大阪市旭区生江の城北公園北側の淀川堤防に立つ「千人つか」では、千人塚慰霊法要協賛会(東浦栄一会長)による慰霊法要が行われた。

 同所は当時、地域住民の避難所になっていたが、米軍機は逃げてきた人々を低空から銃撃。同年に計8回あった大阪大空襲の中でも最も悲惨を極め、遺体は三日三晩かけて荼毘(だび)に付されたとされている。

 「千人つか」は、東浦会長の父が庭の石で作り、終戦の翌年から同所で法要を続けている。

 「戦争は昔の話ではあるが、遺族の方は昨日のことのように感じていらっしゃる」と東浦会長。しかし、時とともに経験者の高齢化は進み、当時、学徒動員中で多くの女子生徒が犠牲になった愛媛県の松山城北女子高校の関係者は、昨年に続いて参列することがかなわなかった。

 4年前から法要後に慰霊の能を上演しているNPO法人フェリスモンテ(旭区)の山王丸由紀子理事長(67)は「私も戦争を知らない世代だが、この平和を私たちが守っていかないといけないとあらためて心に誓いました」と話していた。

1787よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/10(火) 22:28:32 ID:hjB8oJNo0
夏の天神祭を盛り上げる「ギャルみこし」 メンバー募集で本社来訪
2014.6.10 20:40
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140610/wlf14061020400020-n1.htm

 大阪の夏の風物詩、大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭を盛り上げる「ギャルみこし」のメンバー募集をPRしようと、昨夏の経験者で今年も参加する4人が10日、ねじり鉢巻きと法被姿で、大阪市浪速区の産経新聞大阪本社を訪れ、「女性だけで担ぐみこしの醍(だい)醐(ご)味(み)をぜひ味わって」と呼びかけた。

 ミス天神橋の石川亜矢子さん(28)▽準ミス天神橋の岩谷薫さん(30)と谷口萌さん(22)▽御羽車娘の池上なつ美さん(31)−で、いずれも昨夏の担ぎ手の中から選ばれた。

 今年の天神祭は7月24、25の両日開催するが、ギャルみこしは同月23日、大阪天満宮近くの天神橋筋商店街周辺の約4キロで繰り広げられる。募集するのは15〜30歳の元気で健康な女性80人。オーディションで、重さ約70キロの天(てん)秤(びん)棒を担ぎ「みこしを担ぎたい!」という熱い思いを全身でアピールしてもらうという。

 30日までに「天神祭ギャルみこし」のホームページ(http://galmikoshi.com/)から申し込む。

1788よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/12(木) 05:06:42 ID:u28V9daM0
「大坂の陣400年」イベント概要明らかに 大阪城公園にテーマパークなど登場
2014.6.11 21:13
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140611/wlf14061121130017-n1.htm

 大阪の歴史や文化を発信するイベント「大坂の陣400年天下一祭(さい)」の概要が11日、明らかになった。慶長19(1614)年冬から翌年夏にかけて豊臣方と徳川方が激突した合戦にちなみ、今年は「大坂冬の陣」として10〜12月、大阪城公園に戦国時代のテーマパークなどが登場。来年も「大坂夏の陣」を開き、戦国ロマンで観光客へのPRを図る。

 400年の節目に大阪の活性化を図ろうと、大阪府と大阪市、鉄道会社、経済団体などでつくる実行委員会が企画。大阪の歴史や文化を楽しみながら学べる−をコンセプトにしており、冬の陣では大阪城の3D映像を鑑賞したり、甲冑などを試着したりできるテーマパークが大阪城公園内に出現する。

 公園内に設けられるドーム(直径36メートル)では内壁のスクリーンに合戦のイメージ映像が映され、入場者を臨場感が包み込む。このほか、通常は立ち入れない重要文化財の大阪城の櫓や蔵も特別公開される。夏の陣は来年4月〜9月の予定で、内容は検討中という。

 この日、市役所での会合を報道陣に公開し、概要を明らかにした。天下一祭をPRする俳優やタレントでつくる武将隊「大坂RONIN5」もお披露目され、真田幸村や長宗我部盛親らにふんしたメンバーは刀ややりを振りながら勇ましく名乗りを上げていた。

1789よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/12(木) 23:36:32 ID:wSwbKWzE0
武将隊を披露 大坂の陣400年プロジェクト実行委
2014年6月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140612/20140612037.html

 「大坂の陣400年天下一祭」を大阪市中央区の大阪城公園などで開催する大阪市、大阪府、民間事業者などで構成する「大坂の陣400年プロジェクト実行委員会」の第2回会合が11日、大阪市役所で開かれ、イベントをPRする武将隊「大坂RONIN5」がお披露目された。

武将隊は、大坂の陣で豊臣方の主力として奮戦した真田幸村らに扮(ふん)した5人組。赤や黄色など色鮮やかな衣装をまとい、刀などを手に勇ましいポーズを決めた。

 大坂冬の陣イベントは10〜12月に開催。期間中は西の丸庭園に直径36メートルの「ドーム」が出現し、大阪城の築城から大坂の陣までを紹介する映像などを上映。大阪城天守閣前の本丸広場では特設ステージが設けられ、武将隊のショーなどが予定されている。

 同実行委員会の橋爪紳也委員長は会合で「大坂の陣400年を一つの契機として、官民挙げて大阪を世界にアピールする2014、15年にしていきたい」と呼び掛けた。

1790よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/13(金) 05:09:28 ID:5yGSD5QQ0
東大阪の「ものづくり力」知って 上田合金が銅鐸復元 全市立中に寄贈
2014.6.12 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140612/osk14061202000001-n1.htm

 東大阪市高井田中の鋳造会社「上田合金」が市内の遺跡で発見された破片から銅鐸26個を復元し、全市立中学校26校に寄贈することになった。上田富雄社長(78)が、子供たちに東大阪のものづくりの力を知ってもらおうと発案。今後、市が作成した銅鐸の関連資料などと合わせて各校に贈る。

 同市弥生町の鬼虎川(きとらがわ)遺跡から約35年前に銅鐸鋳型の破片などが出土しており、それらをもとに製作した。

 銅鐸は、約2千年前の弥生時代中期に使われていたとされる。復元された26個の銅鐸は、銅、スズ、鉛の合金を使用しており、高さ約31センチ、厚さ約3ミリで重さは約3・7キロ。各校には銅鐸のほか、復元工程や鬼虎川遺跡の様子を解説したデータ資料も贈るという。

 市役所で野田義和市長が上田社長に感謝状を贈呈。上田社長は「技術的には現代よりも2千年前のほうがすごいと感じます。子供たちには古代の職人やものづくりの原点を理解してもらえれば」と話した。

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1791よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/13(金) 22:27:21 ID:9lE7gTbQ0
愛染まつりをPR
06月12日 19時15分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140612/5133621.html

大阪に夏の訪れを告げる「愛染まつり」が今月30日から始まるのを前に、浴衣姿の「愛染娘」たちが、NHK大阪放送局を訪れ、祭りをPRしました。
「愛染まつり」は、大阪・天王寺区にある「愛染堂勝鬘院」の、約1400年の歴史がある夏祭りで、初日には愛染娘を乗せたかごが谷町筋を練り歩く「宝恵かごパレード」が行われます。12日は、ことしの祭りに参加する、華やかな浴衣姿の「愛染娘」など4人がNHK大阪放送局を訪れ祭りをPRしました。
愛染娘たちは、「あいぜんさんじゃ−!ほーえーかーご!」と威勢の良い声を上げ、祭りの成功を願い「大阪締め」を披露しました。
愛染娘の1人で、20歳の大学生の弘中沙也加さんは、「愛染娘全員が笑顔で祭りを盛り上げるので、多くの人に来てほしいです」と話していました。愛染まつりは、今月30日から3日間行われます。
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1792よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/13(金) 22:33:59 ID:9lE7gTbQ0
「天神祭月間」七夕に開幕へ 天神祭
2014年6月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140613/20140613022.html

 大阪市北区の大阪天満宮は12日、日本三大祭りの一つ天神祭の幕開けを7月7日の七夕に位置付け、本宮の同25日までを「天神祭月間」と打ち出す方針を示した。現状は宵宮の同24日が天神祭の始まりとして浸透しているが、期間を拡大することで地域のにぎわづくりに一層つなげていく。

大阪天満宮は現在、七夕に天満天神七夕祭の神事を執り行っているが、室町時代には七夕に天神祭が執り行われた記録が残っていることを踏まえ「プロローグの日」にする方針を決めた。

 7〜25日は、大阪天満宮近隣の川に発光ダイオード(LED)電球を流して天の川に見立てるなど多彩なイベントがすでにある。こうした取り組みを一体的に捉えて天神祭月間を通し、お祭りムードを高めて25日のピークにつなげる。

 天神祭月間の設置をめぐっては、天神祭渡御行事保存協賛会が大阪市北区の天満宮会館で12日開いた委員総会で示した。総会では、「天満の名水」を復活させる計画についてペットボトルに入れて商品化し、売り上げを天神祭の運営費に充てて「祭りの礎」にする意向も明らかにした。

 寺井種伯宮司は「祭りの広がりにつなげていければ」と話している。

1793よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/13(金) 22:39:53 ID:9lE7gTbQ0
澪標 ―みおつくし―

受け継がれた祭りで人の繋がり
とくいさとしイラストレーター、絵画教室講師
2014年6月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/140613/20140613033.html

4年ほど前から写真を趣味にし、生き生きとした子どもたちの笑顔を撮りたく近畿地方を中心にお祭りへ出掛けるようになりました。大阪ですと生國魂神社の「いくたま夏祭」や住吉大社の「御田植神事(おたうえしんじ)」には毎年足を運ばせていただいておりますし、御田植神事では見る側から、現在は「供奴(ともやっこ)」として参加する側にまわっております。毎年見に行っていたら「やる?」と声を掛けられました。「御田植神事」はちょうど明日14日に開催されます(午後1時より本殿祭の儀)。ぜひお越しください。

 祭りに行くと、地元の方々からすれば僕は完璧なよそ者なわけですが、どこのお祭りに行っても快く迎えてくださいます。大体は「まぁ飲んでけ」とビールを渡され、地元の方といっしょに顔を赤く染めるわけですが、その心地よさを除いても祭りって本当にいいなと思います。

 普段子どもたちが大声ではしゃぐと「静かにっ!」と顔を真っ赤にして怒る大人が、祭りの日は別の理由から顔を真っ赤にして、子どもたちに「元気がないぞ!」と率先してバカみたいにはしゃぎます。子どもからすれば理不尽な話ですが、子どもたちもこの日はどうやら騒いでもいいらしい! と元気よく大人たちの期待に応えてくれるわけです。

 和歌山に行った時の話ですが「孫が初めて天狗(てんぐ)の役目をする」とうれしそうに語ってくれた方もおられました。お孫さんは大勢の地域の人が見守る中、見事大役をやってのけ、たくさんの拍手を受けておりました。帰りの電車の中で「あの天狗はよかった」と乗り合わせた地域の方の会話が聞こえてきて、祭りが地域の人たちにとって大切であること、子どもが地域のみなさんに育てられていることを感じました。

 祭りに行くとそういった地域の人たちの繋(つな)がりや、長年変わらずお祭りを継承されてきた歴史が感じられるところが好きです。祭りを通じて地域の人同士が繋がりを深め、子どもは大人からたくさんのことを学び地域の一員として育っていくのでしょうね。

 ただ、山間の小さな神社へ行った時には、小学生が巫女(みこ)として舞いを奉納するのですが、受け継ぐ子どもがおらず、あと2年間しか今の形で祭りを催行することができないという話も聞きました。

 地域のあり方や、人と人との繋がり方、いろいろな変化が祭りにも表れているのだと思います。それでもやはり地域に根付いた歴史を持ち、地域の人たちの繋がりで受け継がれてきたお祭りは大切であると思います。祭りに参加する子どもたちの笑顔はとても生き生きとしております。

 (とくいさとし 堺市美原区)

1794よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/15(日) 21:17:08 ID:bjKJVt6s0
古式ゆかしく豊作祈願 住吉大社・御田植神事
2014年6月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140615/20140615032.html

 大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で14日、伝統行事「御田植(おたうえ)神事」(重要無形民俗文化財)が盛大に執り行われた。梅雨を思わせない快晴の下、多くの奉仕者が古式ゆかしい装束姿で参集。踊りや舞といった華やかな芸能を奉納し、秋の豊作を祈願した。

同神事は神功皇后が御田を造らせ、長門国(山口県)から植女(うえめ)を呼び寄せたのが起源とされる。

 この日は、神前に田植を奉告する本殿祭に続き、境内南側に広がる御田(おんだ)で御田式を斎行。中央の舞台では、同大社の神楽女(かぐらめ)が八乙女(やおとめ)として奉仕し、「田舞(たまい)(八乙女舞)」を舞う中、植女から青々とした苗を受け取った替植女(かえうえめ)らが、すげがさ、赤たすき姿で手際よく苗を植え付けていった。

 このほか舞台と御田の周辺では、「神田代舞(みとしろまい)」や「風流武者行事」「住吉踊(おどり)」などが順次奉納され、国内外の参拝者の注目を集めた。

 高井宮司は「ことしの秋の豊作と、すべての産業が発展するようにお祈りしたい」とあいさつした。

1795よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/16(月) 05:03:26 ID:nR0.Fl2A0
大坂の陣400年記念連続講座 市立中央図書館で来月
2014.6.16 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140616/osk14061602040002-n1.htm

 「大坂冬の陣」から今年で400年の節目を迎えることにちなみ、「大坂の陣」をテーマにした連続講座「乱世の大坂−よみがえる大地の記憶−」が7月5日から26日にかけ4回にわたり、大阪市西区の市立中央図書館で開かれる。

 内容は、作家の有栖川有栖さんによる「上町台地と大阪の文学」(7月5日)▽市史料調査会調査員の生駒孝臣さんによる「大坂城前史−忘れられた中世の大阪−」(12日)▽講談師の旭堂南陵さんによる「難波戦記−大阪が育んだ真田幸村−」(19日)▽大阪城天守閣館長の北川央さんによる「大坂城主 豊臣秀頼の実像」(26日)。

 入場無料。いずれも午後2時〜4時で、定員は当日先着各300人。ただし第1回のみ、往復はがきまたはインターネットで申し込む(6月18日必着)。

 また関連企画として同館3階では、大坂の陣に関する資料展示や、参戦した武将たちを取り上げた図書展示も行う。問い合わせは市立中央図書館(電)06・6539・3302。

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1796よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/18(水) 04:38:05 ID:J2qhbfHo0
大坂冬の陣400年 10月から「天下一祭」
2014年06月17日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140617-OYTNT50040.html?from=yartcl_blist

<3D画像で合戦再現 PRグループも発足>

 「大坂冬の陣」から今年で400年となるのに合わせ、大阪の歴史や文化を国内外にPRする「大坂の陣400年天下一祭」が10月1日〜12月31日、大阪市中央区の大阪城公園で開かれる。伝統芸能の公演やコンサートなどに加え、最新の映像技術で再現したかっちゅう姿の豊臣秀吉に出会える特設ミュージアムも登場する。

 府や大阪市、民間事業者でつくる実行委員会が主催。事業費約8億8000万円のうち、府と市は計約7800万円を負担する。

 本丸に設けるステージでは、能勢町の人形浄瑠璃や八尾市の河内音頭などを地元グループが上演する。天守閣の入場者には、専用のタブレット端末を有料で貸し出し、展望台から見た街並みに大坂の陣での各軍勢の配置を映し出したり、参戦した武将を紹介したりするサービスを行う。

 ミュージアムは本丸の北側にある極楽橋前に建て、3D画像やホログラム投影技術などで、豊臣秀吉のほか、当時の合戦の様子を再現。隣接の特設ホールに武将や忍者の貸衣装コーナーも設ける。西の丸庭園ではジャズコンサートや文楽の公演などが行われる。

 国の重要文化財に指定され、普段は入場できない櫓(やぐら)の一部も期間中に数回、特別公開。石垣をよじ登って侵入してくる敵の頭上に石を落とす仕掛けなどが見学できる。

 真田幸村ら豊臣方の武将にふんした劇団俳優やタレントで結成した5人グループ「大坂RONIN5」が今後、関西各地で天下一祭をPR。大阪観光局と連携し、海外の旅行会社にも売り込み、外国人観光客の一層の誘致を図るという。

 来年春から夏には「夏の陣」から400年に合わせたイベントも開催予定で、実行委広報事務局は「時代が移り変わる歴史的な舞台となった大阪城にもっと観光客を呼び込みたい」としている。

2014年06月17日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1797よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/18(水) 04:40:00 ID:J2qhbfHo0
名水再掘 大阪天満宮、プロジェクト結実
2014年6月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140617/20140617026.html

 天神さんに名水が復活−。大阪市北区の大阪天満宮で、かつて出ていた地下の井戸水が天神祭前をめどに復活する。大阪天満宮の禰宜(ねぎ)、岸本政夫さんは「真の意味での水都大阪復活の一つのきっかけになれば」と話している。

■藩主が飲用

 江戸時代、天満宮境内の「天神水」は、「大坂4カ所の清水」の一つとして名水にたたえられた。中之島にあった延岡藩(大分県)の蔵屋敷では、参勤交代で藩主が滞在する際、天神水を取り寄せて藩主の飲食に用いていた。

 明治ごろまでは一帯に130軒以上も造り酒屋があったといい、おいしい水として親しまれていた逸話は枚挙にいとまがない。しかし近年は、地下鉄や地域の開発などで水脈が寸断され、井戸水は枯れてしまっていた。

■五知の水

 復活のきっかけとなったのは、天神橋筋商店連合会の土居年樹会長と、天神橋筋商店街にリサーチアトリエを構える関西大学の楠見晴重学長の出会いだ。

 楠見学長は地質学の専門家で「再び天満の地で名水を」という両者の思いからプロジェクトが動きだした。

 天満宮に呼び掛けたところ「境内にあった『五知の水』と呼ばれる井戸の付近を掘ってみては」と協力を得た。地下70メートルまで掘り下げ「きわめて良質な清水」が出た。

 「鉄分が多く濁りはあるが、水質検査で有害物質は検出されなかった。ろ過して、お参りに来た皆さんにもいずれ名水を楽しんでもらえるようになれば」(岸本さん)

■ガラスの里

 加えて、ガラス工業発祥の地としても知られる同エリア。名水により親しんでもらえるよう、取水口には「ガラスの祠(ほこら)」が建てられる。リサイクルしたガラスで行う工芸「ガラスおこし」など、ガラスを使ったさまざまなアートの可能性を広げるアーティストで、大阪工業大学客員教授の岡本覚さんがデザインを買って出た。

 岡本さんは「ガラス発祥の地にふさわしく、現代のあらゆるガラス素材を駆使して祠を表現する。翡翠(ひすい)のように輝く屋根や、宙に浮いたような感覚を出したい」

 現在、祠建立に向け、1口5万円もしくは10万円の寄付を、天満宮も井戸復興奉賛金を1口1万円で受け付け中。

 岸本さんは「以前は素晴らしい水が出る場所だったと知ってもらい、誇りを持てる歴史があったこと、まだ大阪も捨てたものやないと感じてもらえたら」と話している。

 【メモ】ガラスの祠寄付の問い合わせは岡本さん(okamoto@bedeverre.com)、井戸復興寄付は大阪天満宮授与所へ。

1798よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/19(木) 22:56:19 ID:QAqFInms0
そうなんや 大阪24区

東成区 深江の菅細工   
2014年6月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/sounanya/140616/20140616039.html

技術伝承支える保存会

東成区深江地区に約2千年前から伝わるとされる菅(すげ)細工。天皇が即位される時の大嘗祭(だいじょうさい)や、伊勢神宮(三重県)で20年に1度行われる式年遷宮の儀式で使用される菅笠を代々、献納している。地元の伝統技術を継承していこうと現在、9人のメンバーで活動するのが、深江菅細工保存会だ。

 同地区は古代から良質の菅草が自生し、菅笠作りが行われていた。江戸時代には「伊勢参り」の流行とともに必需品として深江で菅笠を買い求める旅人が増え、名産品となった。しかし戦後は都市化で宅地開発が進み、菅草を育てる菅田が姿を消した。

 伝統技術が存亡の危機を迎える中、保存会は1988年に発足。地元で菅細工教室を開くなど、活動を展開。99年には「深江の菅細工」は、大阪市の無形文化財に指定された。

 2007年には保存会が協力し、深江菅田保存会が結成され、地元の南深江公園の一角に菅田が復元された。10年には地区内に深江郷土資料館がオープン。館内には式年遷宮で献納される同じサイズの菅笠(直径170センチ)が展示され、伝統の技術を伝える。

 保存会の最年長メンバー、長尾桂子さん(81)は、「次のそしてまたその次の式年遷宮と、深江の菅細工を絶やすことなく、後継者を育てていきたい」と力を込めた。(藤林敏治)

1799よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/06/19(木) 23:08:52 ID:QAqFInms0
社会人向けの文楽教室
06月19日 07時58分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140619/5217711.html

大阪の伝統芸能、人形浄瑠璃「文楽」を広く知ってもらおうと、18日夜、大阪の国立文楽劇場で、社会人向けの文楽教室が開かれました。
これは、国立文楽劇場が開いたもので、会社帰りの人たちも訪れやすい午後6時半から文楽を上演し、約700人が訪れました。
文楽は、せりふやあらすじを話す語り手の太夫と、音楽を演奏する三味線、そして1つの人形を3人で操る人形遣いという、3種類の技芸員が演じますが、まずそれぞれの役割が説明されました。
続いて、「卅三間堂棟由来」という演目が上演されました。この話には、ひと組の夫婦と子どもらが登場しますが、妻が柳の木の精という設定で、法皇の病をなおすため柳の木を使って三十三間堂をたてることになります。


おので木を切ろうとすると、妻は苦しみだしますが、死ぬ前に夫に自分が柳の精であることを告白する様子や、切り倒された柳の木を母と慕う子どもの様子を太夫が、文楽ならではの独特の節回しで表現していました。
会社員の男性は、「はじめての文楽鑑賞だったが、解説もありよくわかった。会社帰りにこれたので、また見に来たい」と話していました。
..


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