したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

1659よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/05(日) 21:07:51 ID:Q7tU0DIQ0
世界遺産へ3月にも保全骨格案
01月05日 06時02分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140105/4119421.html 

大阪の百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録を目指し、大阪府と堺市など地元の3市は、ことし3月にも、古墳群周辺の景観や環境の保全計画の骨格をとりまとめる方針です。
大阪の百舌鳥・古市古墳群は平成27年度のユネスコ世界文化遺産の登録を目指していましたが、去年8月に、古墳群周辺の景観や環境の保全計画の整備が不十分なことなどから、推薦が見送られました。
これを受けて、大阪府と堺市など地元の3市は平成29年度の世界文化遺産登録を目指すため、ことし3月にも、保全計画の骨格をとりまとめる方針です。
骨格には、保全する範囲や、建築物を新築したり、建て直したりする場合の高さやデザインの規制などを盛り込みたい考えです。
ただ、内容によっては、地元の住民や事業者から反発が出ることも予想されることから、府や堺市などでは、事前の調整もきめ細かく進める方針です。

1660よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/05(日) 21:30:08 ID:Q7tU0DIQ0
知恵の輪くぐり合格祈願 四天王寺で元三大師法要
2014年1月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140104/20140104036.html

 元三(がんざん)大師合格祈願法要が3日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で営まれた。受験生やその家族らが知恵の輪をくぐり、燃え上がる護摩木の炎に合格への思いを込めた。

 同法要は、985(寛和元)年1月3日の命日にちなんで「元三大師」と尊称される第18代展台座主の良源に由来する。学業成就や合格祈願であつく信仰され、大師に祈れば知恵を授かると伝わる。

 大師を祭る境内・元三大師堂では、瀧藤尊淳執事長による護摩祈祷(きとう)がなされた。参詣者は、堂前に設置された知恵の輪にくぐって入堂し、僧侶から錫杖(しゃくじょう)の加持を授かりながら手を合わせた。

 高校受験を来月に控える同市大正区の田中佑樹君(15)は「追い込みの今の時期に力をつけ、志望校に挑みたい」と話していた。

 同法要は、各月の3日午前10時から行われる。問い合わせは電話06(6771)0066、同寺へ。

1661よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/06(月) 22:00:15 ID:b20cjSvg0
国宝や重文 間近で拝観 四天王寺で「新春名宝展」
2014年1月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140106/20140106013.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)宝物館で年頭恒例の「新春名宝展」が開かれている。同寺所蔵品の中でも国宝や重要文化財、重要美術品など数多くの寺宝を展示中。初詣に訪れた家族連れなど多くの参詣者が貴重な品々を見学している。2月2日まで。

 館内には法華経信仰美術の代表作「扇面法華経冊子」(国宝、平安後期)のうち「歌枕梶の葉図」「千物図」を公開。15日以降は複製と入れ替えられることから、歴史愛好家らが下絵に経文を記す繊細な技法に見入っていた。

 このほか高さ約12センチの白檀材の箱仏「千手観音・二天箱仏」(重要文化財、平安後期)や、平安期の子どもや女性が身につけていたお守り「懸守(かけまもり)」のうち「桜折枝文(さくらおりえだもん)」「桜透丸文(さくらすかしまるもん)」(ともに国宝)なども並び注目を集めている。

 兵庫県伊丹市から訪れた女性(55)は「歴史的に貴重な品々を間近で拝観することができた。初めて四天王寺を訪れたが境内も見どころが多い」と興味深そうに話していた。

 拝観料500円(高校・大学生300円、中学生以下無料)。開館時間午前8時半〜午後4時。問い合わせは電話06(6771)0066、同寺へ。

1662よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/08(水) 23:22:01 ID:b9vR9XzA0
邪気はらう神馬 住吉大社白馬神事
2014年1月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140108/20140108032.html

 大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で7日、年頭の伝統行事「白馬(あおうま)神事」が執り行われた。今年はうま年とあって例年よりも多くの人々が参拝する中、同大社の神馬(しんめ)「白雪」号が駆け巡る姿を一目見ようと境内は朝から多くの参拝者でにぎわった。

同神事は宮中行事「白馬の節会(せちえ)」に由来。新春に白馬を見ると邪気をはらい、無病息災で新年を過ごせるという縁起にちなんでいる。現在の神馬は2009年、北海道函館市生まれ。11年5月9日、先代白雪の引退に伴い、大阪の燃料卸商業関係者らでつくる「神馬講」によって奉納された。

 この日は正装姿の神馬が第一本宮をはじめ各本宮をゆっくりと巡拝したほか、さっそうと早駆けなどを行った。神事の後、参拝者は縁起にあやかって目の前をゆっくりと歩く神馬の体に手を伸ばし触っていた。

 家族でたてがみに触ることができたという小林節子さん(79)=滋賀県彦根市=は「新年早々縁起がいい。よい一年となるようお祈りした」と笑みを浮かべていた。

 境内の授与所ではえとにちなみ、子ども無事成長を祈願する馬形の「竹駒守(まもり)」も並び、買い求める人々の姿が見られた。

1663よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/09(木) 00:31:09 ID:b9vR9XzA0
「十日戎」前に福娘来社 大阪
2014.1.7 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140107/osk14010702060003-n1.htm

 商売繁盛を祈願する「十日戎」(9〜11日)を前に、大阪市浪速区の今宮戎神社の福娘14人が6日、PRのために同区の産経新聞大阪本社を訪れ、「打ちましょ」と声をそろえて手拍子を打つ「上方締(じ)め」を華やかに披露した。

 福娘たちは金色の烏帽子(えぼし)、白の千早(ちはや)姿で今年の干支(えと)の「午」が描かれた絵画を寄贈した。

 十日戎では、9日からの3日間、参拝者に福笹(ふくざさ)などの縁起物を授ける。

.

1665よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/14(火) 21:54:51 ID:8ptyHEPg0
えびす様が出迎え 大阪天満宮の蛭子門で像除幕
2014年1月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140110/20140110032.html

 大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)の「天満天神えびす祭」が9日、宵えびすで初日を迎え、境内は「商売繁盛」の掛け声が飛び交うなど、正月三が日から続く華やいだムードに包まれた。

 この日は宵えびすに合わせ、境内南西にある「蛭子(えびす)門」横に石造りのえびす像がお目見えした。蛭子門はかつて門の付近にあった境内社「蛭子社」に由来。蛭子社は境内北西に移されたが現在も門の名称が残っている。

 早朝、本殿に祭られている蛭子命(ひるこのみこと)を蛭子社へ移す「遷幸の儀」が執り行われ、同祭の世話人を務める氏子衆が参列。お払いを受けた後、寺井宮司と共に像の除幕を行った。

 石像は守口市長の西端勝樹氏が寄贈した。台座を含む高さが約1・8メートル。タイとさかずきを抱えるにこやかな表情で多くの参拝者を迎えている。

 門前で「えびすや呉服店」を営む辻博志さん(62)は「いっそうにぎやかになって商売繁盛となれば」と笑顔でえびす像を見守っていた。

1666よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/14(火) 22:22:01 ID:8ptyHEPg0
孝謙天皇「東南新宮」か 難波宮跡で「土壇」見つかる
2014年1月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140110/20140110034.html

 大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所は9日、大阪市中央区の史跡難波宮跡から後期難波宮(726〜784年)のものとみられる土で盛った建物の土台「土壇」跡が見つかったと発表した。天皇の即位など重要な儀式を行う大極殿の東側に位置し、構造などから天皇の住まいや重要な役所の一部である可能性があるという。

 現地の発掘調査は1954年にも実施されたが、当時見つかった遺構の評価は定まっていなかった。その後、現地に建てられた市営住宅が老朽化で解体されたことを受け、2013年11月からあらためて発掘調査に当たっていた。

 見つかった土壇は盛土などによって、周囲より15センチほど高くなっており、長さは東西に約16メートルに及ぶ。宮殿などで使われる重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)などが出土し、後期難波宮の遺構と考えられる。ひさしなどを備えた大規模な回廊構造をもっていたとされ、高い格式を示す要素になるとみられる。

 こうした点などから、この区画が天皇に関係するものとすれば、後期難波宮の中でも比較的新しい時期に造営され、続日本紀で756年に孝謙天皇が行幸したと記載されている宮室「東南新宮」と考えることもでき、重要な役所が置かれていた可能性もある。

 同研究所難波宮調査事務所の高橋工所長は「60年前の発掘では性格が分からなかったものがある程度推測でき、難波宮の東側の区画が、かなり格式の高いということが分かってきた」と話している。

 市教委と同研究所は11日午後1時〜同3時に現地説明会を開く。市営地下鉄谷町四丁目駅10号出口から東へ約300メートルの発掘現場で、調査結果の解説や出土遺物の展示が行われる。

 問い合わせは電話06(6943)6836、同研究所難波宮調査事務所へ。

1667よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/14(火) 22:25:26 ID:8ptyHEPg0
難波宮跡で「土壇」出土 格式高い「東南新宮」の可能性も
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140110-OYT8T00082.htm
 
 大阪文化財研究所などは9日、難波宮(なにわのみや)跡(大阪市中央区)の発掘調査で、後期難波宮(726〜784年)にあった区画で瓦ぶきの回廊とみられる施設の土台となる「土壇(どだん)」が出土した、と発表した。周辺で瓦も見つかっており、同研究所では「区画内は、天皇の住まいや重要な役所だった可能性がある」と分析している。

 見つかった土壇は区画の南面にあり、南北の幅約2メートル、東西の長さ約16メートル、高さ最大約15センチ。同研究所は過去の調査から南北の幅は約7メートルで、区画の規模については東西約85メートル、南北約120メートルと推定する。昨年1月に調査結果が発表された「土壇」の続きとみられる。

 区画内からは過去に石敷きの土壇が出土しており、後期難波宮ではこれまで、国家の重要儀式が行われた大極殿や天皇の居住する内裏だけで見つかっていることから、同研究所は「格式が高い」と推測。続日本紀に孝謙天皇が756年に訪れたと記されている「東南新宮(とうなんしんきゅう)」の可能性もある、としている。

 土壇の南側では、溝(幅約80センチ、長さ約16メートル、深さ約80センチ)も見つかり、同研究所は雨水を流すための道路の側溝とみている。

 現地説明会は11日午後1〜3時。小雨決行。問い合わせは同研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)へ。

(2014年1月10日 読売新聞)

1668よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/14(火) 22:28:45 ID:8ptyHEPg0
ペットと一緒に 少彦名神社健康合同祈祷
2014年1月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140112/20140112027.html

 “薬の神様”を祭る大阪市中央区道修町の少彦名神社(別所俊顕宮司)で11日、ペットと飼い主へ健康祈願の祈祷(きとう)が行われ、参拝者は愛犬とともに無病息災を祈った。

 今や家族の一員で、掛け替えのないパートナーであるペット。医薬・健康の神を祭る同神社では、ペット同伴での参拝を希望する問い合わせが以前から多く寄せられ、ことし初めて「ペットと一緒に初詣」として合同祈祷を行った。

 午前11時からの祈祷には、4組の参拝者が愛犬を伴い参加。別所宮司のおはらいをペットたちも神妙な面持ちで受けた後、飼い主が玉串を奉納した。

 阿倍野区の生地義明さん(65)と由紀子さん(62)夫妻は、雄のトイプードル、ビンちゃん(12歳)とともに参拝。トイプードルは平均寿命が14歳と言われ、「子どものような存在。1日でも長く生きてほしい」といとおしそうに話していた。

 同神社の祭神は、日本の医薬の神「少彦名命」と、中国古代の医療、農業の神「神農氏」。神社がある道修町は江戸時代から薬の仲買人が集まった「薬の町」として知られる。

1669よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/14(火) 22:30:42 ID:8ptyHEPg0
福求めて活気 貝塚・脇浜戎大社
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140111-OYT8T00113.htm

 「本えびす」の10日、貝塚市の脇浜戎大社で戎大祭が行われた。

 泉州最古の戎神社とされる同大社は「脇浜のえべっさん」として親しまれており、福ザサなどを買い求める参拝者でにぎわった。午後からは、積み上げた護摩木を燃やして無病息災などを願う「柴灯(さいとう)大護摩供」があり、山伏姿の修験者がお経を唱え、護摩札を炎の中に投じていた。残り火の上をはだしで歩いて無病息災を願う「火渡り行」では、参拝者が手を合わせて炭火の上を通り抜けていた。

(2014年1月11日 読売新聞)

1670よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/15(水) 00:00:06 ID:Ujb1.1.A0
好景気期待 さい銭奮発 今宮戎、勘定始まる
2014年1月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140113/20140113028.html

 商売繁盛を願う新春の祭礼「十日戎(えびす)」(9〜11日)で集まったさい銭の勘定が12日、大阪市浪速区の今宮戎神社(津江明宏宮司)で始まった。紙幣や硬貨に交じって、「29451(福よ来い)」などの額面の小切手や外国紙幣が見られた。同神社によると、3日間の参拝者数は昨年より約4万9千人少ない約90万人だったが、景気回復への期待でさい銭を奮発する人が多く、総額は例年並みの4600万円となる見込み。

 拝殿でおはらいを受けた池田泉州銀行の行員たちが大量の紙幣や硬貨を机に広げ、手際よく仕分けた。さい銭の中には、豪ドル、ウォンなどの外国紙幣や伊藤博文の旧百円札があり、小切手では「1129(いい福)」などユニークな語呂合わせの額面が見られた。

 同神社によると、今年は福ササに付ける縁起物を多く購入する人や熱心に参拝する人の姿が目立ち、担当者は「景気上昇に対する期待の表れでは」と話していた。

 さい銭の集計作業は今月末まで行われる。

1671よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/15(水) 00:05:31 ID:Ujb1.1.A0
厳か宮大工「手斧始め式」 四天王寺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140112-OYT8T00050.htm

 聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪市天王寺区)で、宮大工の仕事始めの儀式「手斧(ちょんな)始め式」が11日、関係者ら約30人が参列して営まれた。

 儀式を担う同寺正大工(しょうだいく)(宮大工の棟梁(とうりょう))は代々、社寺専門の建設会社・金剛組(同市天王寺区)を創業した金剛家当主が務めてきた。昨秋、先代が死去し、当主不在となったため、同社相談役の植松襄一さん(71)が正大工の代務者となり、儀式を執り行った。

 ろうそくに照らされたほの暗い金堂内で、古式ゆかしい装束を身に着けた植松さんが大工道具の手斧で柱材を削り出す作業を模し、祝詞を奏上して、1年の工事の安全を願った。植松さんは「宮大工の一番大事な儀式。1400年続く伝統を担うことができ、安堵(あんど)した」と話していた。

(2014年1月12日 読売新聞)

1672よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/15(水) 22:56:24 ID:7U7ycjoo0
和泉 太古の宝里帰り
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140115-OYT8T00121.htm

.◇弥生文化博物館 黄金塚古墳出土品を展示

 和泉市上代町の国史跡・和泉黄金塚(こがねづか)古墳から出土し、現在は東京国立博物館の所蔵となっている銅鏡や装身具約30点が、同市池上町の府立弥生文化博物館で展示されている。3月2日まで。

 同館が企画した「和泉黄金塚古墳と『卑弥呼の鏡』」。1950、51年の発掘調査で見つかった神像や龍、虎など神獣の模様を施した銅鏡5枚と、装飾品に使われ、断面が六角形の「水晶製大型切子(きりこ)玉」(長さ7センチ)、邪馬台国の女王・卑弥呼が中国の魏に使いを送ったとされる「景初三年(239年)」の銘が入った銅鏡のレプリカなどが並ぶ。市教委の2002年以降の調査で出土した円筒や傘をかたどった埴輪(はにわ)も紹介している。

 同古墳は古墳時代前期末(4世紀後半)に築造されたとみられる前方後円墳で墳丘の長さは94メートル。地方の豪族が葬られたとみられている。08年3月に国史跡に指定された。

 塚本浩司・同館総括学芸員は「この機会に地元で見つかった貴重な出土品を見てほしい」と話している。

 月曜休館。入館料は一般400円、65歳以上と高校・大学生は300円。問い合わせは同館(0725・46・2162)へ。

(2014年1月15日 読売新聞)

1673よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/15(水) 23:02:37 ID:7U7ycjoo0
勇猛果敢に体ぶつけ合う 四天王寺で「どやどや」
2014年1月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140115/20140115021.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で14日、年頭恒例の「どやどや」が盛大に執り行われた。紅白の鉢巻きとふんどし姿の男子中高生をはじめ約1270人が参加。多くの参詣者が見守る中、境内・六時堂でまかれるお札をつかみ取ろうと勇猛果敢に体をぶつけ合った。

 元日からこの日まで2週間にわたり、六時堂で新年の天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する「修正会(しゅしょうえ)法要」の結願(けちがん)日に執り行われる伝統行事。

 好天に恵まれたこの日の境内では四天王寺羽曳丘中学・高校、清風中学・高校、清風南海高校の生徒が紅白軍に分かれて参加した。両軍の生徒は「わっしょい」の掛け声とともに六時堂に突入。全身に冷水を浴びせられながら、法要中に祈祷(きとう)された魔よけのお札「牛王宝印の護符」に高く手を伸ばしてもみ合った。運よくお札を手にした生徒は寒さも忘れ「取った」「やった」と歓声をとどろかせた。このほか行事の冒頭では元気な園児の列が入堂し境内をなごませた。

1674よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/15(水) 23:04:46 ID:7U7ycjoo0
住吉大社で「とんど」
01月15日 14時39分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140115/4473951.html

正月のしめ縄や去年1年間、身につけていたお守りなどを焼き納めて、無病息災を願う「とんど」が大阪の住吉大社で行われました。「とんど」は、住吉大社が毎年この日に行っているもので、煙を浴びると、今年1年間、無病息災で過ごすことが出来ると言われています。
15日は近くに住む人たちが、朝から、しめ縄や、おふだ、それに去年1年間、身につけていたお守りなどを次々と持ち込みました。持ち込まれたものは、境内の一角に積み上げられ、「とんど」の場所を清めるお祓いなどが行われたあと、火がつけられました。
訪れた人たちは、燃え上がる火に静かに手を合わせて、家族の無事などを祈っていました。
阿倍野区に住む女性は、「しめ縄や正月に使ったお箸などを持ってきました。ことし1年間、家族みんなが健康で過ごせたらいいと思います」と話していました。

1677よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/19(日) 11:48:26 ID:v7LnV76k0
上る炎に安泰願う 府内各地で「左義長神事」
2014年1月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140116/20140116026.html

 しめ縄など正月の縁起物を火にくべ入れて1年の無病息災、家内安全を祈願する伝統行事「左義長(さぎちょう)神事(とんど)」が15日、大阪府内各地の神社で執り行われた。「正月の事じまい」とも言われ、訪れた参拝者は火に向かい手を合わせていた。

 大阪市天王寺区の生國魂神社(中山幸彦宮司)では、早朝の火入れ式で、神職によって本殿から御神火が運ばれ、境内の一角に積まれた縁起物に移されると高く燃え上がった。境内には、朝から破魔矢などを持った地域住民ら参拝者が多く訪れ、時折ポンポンと音を立てて燃える火を見守っていた。

 また、たき火の火種を使って作った小豆粥(かゆ)が振る舞われ、参拝者は冷えた体を温めていた。同市北区の女性(62)は「病気にならないように」と願っていた。

 「左義長」は、旧正月15日の前後に行われている神事で平安時代から行われているとされている。

1678よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/23(木) 22:38:51 ID:xFc7yW6c0
解体中本殿から墨書 大山咋神社
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140119-OYT8T01051.htm

 ◆江戸前期建立記す、「地域の誇り」一転保存へ

 藤井寺市北東部・船橋町の地域の氏神「大山咋(おおやまぐい)神社」で、本殿の解体工事中、江戸時代前期にあたる「寛文八年(1668年)」の墨書が発見された。氏子ら住民は新築するとしていた当初予定を変更し、本殿を修理して保存することを決めた。市によると、墨書で年代が判明した江戸前期の神社建築は市内唯一で、文化財としての価値もあるという。(岡田英也)

 同神社は江戸時代初期、近江国(滋賀県)の日吉大社から分霊を受け、祭ったとの伝承があり、近くを流れる大和川や石川の水害に遭わず、豊作となるよう、地域住民が祈願してきた。

 本殿は高さ3・65メートル、間口1・2メートル、奥行き1・9メートルで、「一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)」と呼ばれる形式。長年の風雨で木材が腐食し、昨年7月から社寺建築を手がける「松原工務店」(堺市南区)が工事を開始した。

 本殿の解体中、上部の桁材から墨書が見つかった。年号は創建の伝承とほぼ一致し、建築様式も江戸前〜中期の特徴という。

 この新発見に、住民らは「地域の歴史を伝える文化財として保存するべきだ」と申し合わせ、工事を新築から修理に変更した。ヒノキの古材の35%を再利用し、彩色調査で朱色の塗料も確認されたことから、当時の外観を再現。本殿の修理費約1300万円を住民の寄付でまかない、昨年12月15日に落成式を営んだ。

 船橋町地区長の田中慶治さん(72)は「地元で誰も知らない古い年号が確認され、驚いた。地域の誇りとして大切に守っていきたい」と喜んでいる。

 大山咋神社は近鉄南大阪線・土師(はじ)ノ里駅の北東約1キロにあり、土、日曜は拝殿から参拝できる。

(2014年1月20日 読売新聞)

1679よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/23(木) 22:51:31 ID:xFc7yW6c0
難波の綱引「ヨーイヨイ」 難波八阪神社で「神事」 
2014年1月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140120/20140120017.html

 大阪市指定無形民俗文化財の「綱引(つなひき)神事」が19日、同市浪速区の難波八阪神社(粟辻勲宮司)で執り行われた。氏子衆が八岐大蛇(やまたのおろち)に見立てた大綱を引き合って開運祈願するとともに都心に根付いた伝統の継承に努めた。

 同神事は八岐大蛇退治で知られる同神社の祭神・スサノオノミコトの遺徳をたたえ、地域繁栄を祈願する年頭行事。江戸期に刊行された観光案内書「摂津名所図(ず)会(え)」にも紹介されており、2001年度に市指定として最初の無形民俗文化となった。

 文化財保持者である同神事保存会(竹立威三雄会長)の氏子らが早朝の境内に参集。約100人が奉仕し、1本の細縄をより合わせて全長約22メートル、太さ約30センチのオロチの大綱を完成させた。この後奉仕者が二手に分かれて大綱を抱え、豪快に綱引きを開始。図会に描かれている様子を今に伝えた。

 会長の竹立さん(83)は「例年よりも太い縄を使ったことでかつてない力強い綱が完成した。これからも地域の方々の協力を得ながら伝統を後世に伝えていきたい」と笑顔で語った。この日は神社周辺で大綱の巡行も繰り広げられた。

1681よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/27(月) 21:52:46 ID:vo9MF1UU0
文楽 観客下回り補助金減へ
01月27日 18時04分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140127/4591381.html 

伝統芸能、文楽への補助金について大阪市は今年度の観客数がおよそ10万1000人で、満額の 2900万円を支給する条件を下回ったことから730万円余り減額する方針です。
文楽への補助金について大阪市は今年度から三味線などの購入費に充てる1000万円とは別に人件費などの補助に充てる2900万円を観客数に応じて支給することにしていて満額の支給には年間 10万5000人以上の観客数を条件にしています。
こうした中、今年度最後の文楽の公演「初春公演」がきのうまで行われ国立文楽劇場によりますと期間中の観客数はこれまでで最も多いおよそ2万6000人でしたが今年度の観客数はあわせて10万1200人でした。
このため大阪市は満額を支給する条件を4000人近く下回ったことから今年度の補助金を減額する方針で、きょう大阪府と共同で設けている文化事業を検証するための有識者会議で報告しました。
この中で大阪市は10万5000人を下回った人数1人につき  1930円ずつ減額する仕組みになっているとして今年度は730万円余りを減額したおよそ   2100万円を支給する見込みだと報告しました。
そのうえで会議では「文楽は『大阪の宝』であり宝を磨き継承することは国、大阪府、大阪市共通の責任であり文楽協会も振興の拡大に努めている」として補助金の支給を続けることが適当だという認識で一致しました。
大阪市の橋下市長は記者団に対し「観客数が10万人を超えるの
はかなり高いハードルだったと思うが技芸員も文楽協会もよく頑張ってくれたしやればできることが実証された。ただ残念だが補助金は当初決めたとおり減額になる。技芸員や文楽協会には今回、成功を導いたプロセスをもう一度、検証して目標達成に何が必要なのかを検証してもらいたい」と述べました。そのうえで来年度も観客数に応じて補助金を支給する仕組みを続ける考えを示しました。
文楽を運営する「文楽協会」の三田進一「決まりなので仕方が無い。協会の退職者を補充しないなど支出をおさえてきたので今回はしのげると思う。しかし来年度も同じ仕組みを適用されるのは厳しい。大阪市には上方の伝統芸能・文楽を守るという意識を持ってほしい」と訴えました。
一方で三田事務局長は今年度の観客数が10万人を超えたことについて「文楽を守ろうと多くの人が訪れてくれた結果であり、感謝している」と話しました。
また大阪市の橋下市長が国立文楽劇場が公演の演目を決めていることなど今の仕組みが問題だとして技芸員と文楽協会は仕組みを変えるよう働きかけるべきだという考えを示したことについて「劇場のメニューはあくまで劇場が決めるべきで我々が口を出す話ではない」と話しました。
.

1682よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/27(月) 22:25:50 ID:vo9MF1UU0
文楽人形遣い、初の4代目が誕生 岩田悠甫さん「芸を継承していきたい」
2014.1.27 00:15
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140127/wlf14012700190000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140127/wlf14012700190000-n2.htm

 長い歴史を誇る文楽に初めて人形遣いの4代目が誕生した。古典芸能では珍しく家柄や門閥に関係ない実力主義の世界だが、曽祖父から続く文楽人形遣いの家に生まれた高校3年、岩田悠甫(ゆうすけ)さん(17)が昨秋、父、吉田一輔(いちすけ)さん(44)の師匠である吉田簑助さん(80)に入門。補助金削減問題など厳しい話題の続く文楽界の未来を明るく照らしそうだ。

 岩田家は代々、文楽人形遣いを輩出してきた。曽祖父・桐竹亀松さん、祖父・桐竹一暢(いっちょう)さんは女方の人形遣いとして活躍。一輔さんも「咲くやこの花賞」(平成21年度)を受賞するなど次代を担う人形遣いとして期待されている。

 悠甫さんにとって、文楽人形は身近で、義太夫節は子守唄代わりだったが、7歳のときに一暢さんが亡くなり、祖父の生の舞台もほとんど覚えていない。「でも父の舞台はよく見ていました。その姿はすごく格好良く、僕も将来やってみたいと思っていました」

 野球少年だったが、ひじを故障。プロ野球選手の夢を断念したとき、人形遣いへの夢が再び浮上。だが、一輔さんは「やめとけ」。人形遣いの修業は「足(遣い)十年、左(遣い)十年」といわれるように長く厳しい。さらに文楽界を揺るがす補助金問題もあり、一輔さんは「文楽がどうなるかわからない。息子を入れていいものか悩んだ」。

 江戸期以来、350年続く文楽。入門するには師匠に直接願い出て研究生になる方法と、国立劇場が行っている研修生制度がある。二世や三世もいるが、“御曹司”が代々名跡を襲名する歌舞伎などとは違い、一般家庭から入ってきた技芸員と同じ待遇。特別待遇がなく、経済的な厳しさがあることも文楽を代々継承していく家が少ない一因である。

 の文楽界では三味線の鶴澤藤蔵さんが4代目だが、父で人間国宝の竹本源大夫さんは太夫、祖父は三味線、曽祖父は太夫と、太夫、三味線を交互に輩出したかたちだ。

 現在、悠甫さんは見習いの研究生。授業のある日は放課後、休日は朝9時半に楽屋入りし、師匠や兄弟子の鏡台を磨き、楽屋の掃除。着物を畳んだり小道具を運んだり、空いた時間は舞台袖から舞台を見る。

 芸名はまだないが、高校卒業後の3月から人形遣いの卵として本格的修業が始まる。「不安はありますが文楽の芸を継承していきたい」と目を輝かせている。

1683よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/29(水) 22:55:44 ID:hdbLGMLE0
石垣発掘、チョコでPR…「なにわの夢募金」応援
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140129-OYO1T00251.htm?from=newslist

 大阪城(大阪市中央区)の地下に眠る豊臣秀吉時代の石垣を発掘、公開する資金を募る「太閤(たいこう)なにわの夢募金」で、大阪市は28日、「募金応援事業」の第1号として、吉本興業の関連会社「KO・KO・MOよしもと」の菓子「太閤石垣クランチ」を選んだと発表した。

 石垣の石をイメージしたホワイトチョコレート菓子で、14個入り560円(税別)。パッケージには、石垣公開プロジェクトの概要や募金ホームページのアドレス(http://www.toyotomi‐ishigaki.com/)も記している。31日から、なんばグランド花月(大阪市中央区)2階の「よしもと おみやげもん横丁」で販売する。

 太閤なにわの夢募金は、市と読売新聞大阪本社が共同で実施。現在、大坂夏の陣(1615年)で落城した豊臣時代の石垣の発掘を進めており、集まった募金は2015年完成を目指す公開施設の整備に充てる。

 応援事業は、募金協力への機運を高めようと、商店街や企業を対象に募集。募金の問い合わせは大阪市・大阪城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)。

(2014年1月29日 読売新聞)

1684よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/29(水) 23:13:03 ID:hdbLGMLE0
歌舞伎の人間国宝、坂田藤十郎さんが曽根崎心中「お初」から“引退” 通算1300回の当たり役、今年4月歌舞伎座で 
2014.1.28 13:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140128/wlf14012813140015-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140128/wlf14012813140015-n2.htm

 歌舞伎の人間国宝で第20回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)受賞者の坂田藤十郎さん(82)が、代名詞ともいえる上方歌舞伎「曽根崎心中」のヒロインお初を、4月の東京・歌舞伎座の公演で“引退”する。昭和28年から60年余りにわたり、ほぼ一人で演じてきた当たり役は、演じ納めとなる4月26日の千秋楽で通算1351回。惜しまれながら歌舞伎座新築開場1周年の晴れ舞台で区切りを打つことになった。(亀岡典子)

 お初と徳兵衛の悲恋を描いた「曽根崎心中」は近松門左衛門の心中物の代表作だが、江戸時代以来、長く上演が途絶えてきた。だが、昭和28年8月、東京・新橋演舞場で宇野信夫さんの脚本、藤十郎さん(当時、二代目中村扇雀)のお初、藤十郎さんの父の二代目中村鴈治郎さんの徳兵衛で、歌舞伎で復活初演。社会的現象となるほど人気を集め、“扇雀ブーム”を巻き起こした。

 藤十郎さんは「お初に出会ったことで私の人生は変わった。運命ですね」と振り返る。以来、藤十郎さん以外にお初を演じたのは、次男の三代目中村扇雀さん(53)と孫の中村壱太郎(かずたろう)さん(23)だけ。平成17年11月の四代目坂田藤十郎襲名の際にもお初を勤めたほか、イギリス、ロシア、アメリカなどでも上演された。

 「演じるたびにお初の人生を生きてきた。4月は初演のときのような気持ちで、お初さんに感謝しながら演じたい」と話す藤十郎さん。初日を迎えるまでに、「お初天神」として知られる大阪・キタの露天(つゆのてん)神社にあるお初像に、報告に行く予定だという。

 日本文学研究者で米コロンビア大名誉教授、ドナルド・キーン氏の話「初めて藤十郎さんの『曽根崎心中』を見たのは、昭和28年12月の京都・南座。私が日本に留学した年でした。歌舞伎の女形の中でもこの世のものでないような美しさで、自分の目を信じられないほどでした。その後、『曽根崎心中』は文楽でも復活上演され、現在の日本の伝統芸能に大きな影響を与えたと思います」

1685<削除>:<削除>
<削除>

1686<削除>:<削除>
<削除>

1687<削除>:<削除>
<削除>

1688よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/02(日) 16:30:11 ID:PCWuEzFY0
「お多福のくぐり門」お目見え 市軸稲荷神社
2014年2月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140201/20140201052.html

 2月3日の節分を前に、お多福大神などを祭る市軸稲荷(いなり)神社(大阪府豊中市刀根山2丁目、寸田敦男宮司)に1月29日、その下をくぐると願い事がかなうとされる「お多福のくぐり門」がお目見えした。参拝者は福を授かるようにとお多福像を参拝した後、お多福のふくよかな笑顔をかたどった門をくぐっていた。くぐり門は3日まで。

 同神社では、ご神体であるお多福像にちなんで1955年ごろから毎年、節分の時期に鳥居の前にお多福の門を設置している。門は、高さ約3メートル、幅約2メートルの板に、お多福のふくよかな笑顔が描かれている。口の部分に約1・2メートル四方の観音開きの扉が設けられており、その左右に大根が15本ずつ束ねてつるされている。

 訪れた人は、この扉をくぐって境内に入り、短冊に名前や年齢などを書いてかんざしに結ぶ。そのかんざしを頭に挿して願いを思い浮かべ「頭いた」と3回唱えながら、お多福像を参拝。帰る時に門をくぐって外へ出て、大根にかんざしを挿して奉納する。

 子どもと一緒に訪れていた中村小弓さん(39)は「毎年恒例になっているので、ことしも節分の時期が来たと感じる。ことしは主人が前厄なので、あまり悪いことが起きないようにとお願いした」と話していた。

1689よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/03(月) 22:15:07 ID:HJeo./X60
杏さん財前さんが豆まき
02月03日 14時26分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140203/4715881.html 

節分のきょうNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」のヒロインを演じる杏さんらが寝屋川市の成田山不動尊で豆まきをしました。寝屋川市の成田山不動尊に設けられた舞台にはNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」でヒロインの西門め以子役を演じる杏さんや、母親役の財前直見さん、長女役の松浦雅さんらが登場しました。
杏さんたちは縦・横およそ1メートル50センチ、高さが80センチもある特大の升から両手で豆をすくい舞台の上からまいていました。
境内にまつられている不動明王の前では鬼も改心するということから「鬼は外」ではなく「福は内、福は内」と声をかけ境内を埋め尽くした人たちは福をつかみとろうと紙袋などを広げて懸命に豆を集めていました。
豆まきを終えた杏さんは「いろんな人に福を分けられるような自分でありたいです。ドラマの撮影も失速することなく駆け抜けて全力でがんばりたい」と話していました。
また財前直見さんは「3世代そろって豆まきができておめでたいことだと思いました」と話していました。
..

1690よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/04(火) 05:27:28 ID:KQ3kBsB20
「お化け」キタを練り歩き お水汲み祭り
2014.2.3 21:07
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140203/waf14020321100040-n1.htm

 大阪・キタの歓楽街北新地や堂島薬師堂で、節分の3日、早春の風物詩「節分お水汲み祭り」があり、飲食店従業員らが「お化け」と呼ばれる仮装をして街を練り歩いた。

 堂島薬師堂では、商売繁盛や1年の厄払いを願って、奈良・薬師寺で祈願を受けた「お香水」をくむ参拝客が相次いだ。

 北新地には節分の夜に鬼をやり過ごすために女性たちが仮装する花街の風習が伝わる。活性化に向け、祭りが平成16年に現在の形になって11回目。

1691よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/04(火) 22:16:53 ID:NnhhKoe20
文楽人形遣いの吉田玉女さん、来春に二代吉田玉男を襲名
2014.2.4 17:13
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140204/wlf14020417160013-n1.htm

 人形浄瑠璃文楽の人形遣い、吉田玉女(たまめ)さん(60)が来年4月、師匠で人間国宝だった吉田玉男さんの名跡を継ぎ、二代吉田玉男を襲名することが決まった。4日、文楽協会などが発表した。

 「吉田玉男」の名跡が復活するのは平成18年9月に玉男さんが亡くなって以来、9年ぶりとなる。襲名披露公演は来年4月に国立文楽劇場(大阪)で、同5月には国立劇場小劇場(東京)で行われる。演目は未定。

 初代玉男さんは知的で品格の高い芸で、戦後を代表する立役(男役)の人形遣いとして活躍。「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の大星由良助(おおぼしゆらのすけ)、「曽根崎心中」の徳兵衛など、時代物から世話物まで幅広い役どころを勤めた。昭和52年に人間国宝に認定されたほか、平成12年には文化功労者に。その後も87歳で亡くなるまで舞台に立ち続け、多くのファンを魅了した。

 玉女さんは、昭和43年に入門した玉男さんの一番弟子。立役を中心に修業を積み、若いころから次代のホープとして注目されてきた。近年は由良助をはじめ、師匠の当たり役を次々と継承。特に骨太の時代物の主役の武将などを得意とし、存在感を見せている。平成24年、伝統文化ポーラ賞優秀賞を受賞。

 玉女さんは「偉大な師匠の名跡を継がせていただくことに、とまどいもありますが、師匠に少しでも近づけるよう頑張っていきたい。厳しい話題の多い文楽ですが、襲名を通して盛り上げていければと思っています」と抱負を語った。

1692よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/05(水) 23:14:19 ID:I6iCzs6o0
「ニサンザイ古墳」の後円部直径 10メートル超の“拡大”…全長300メートル超の可能性も
2014.2.5 22:52
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140205/wlf14020522540026-n1.htm

 宮内庁が陵墓参考地として管理する国内8番目の大きさの前方後円墳「ニサンザイ古墳」(5世紀後半、堺市北区)の後円部の直径が、これまでの測量値より10メートル以上大きい約170メートルになることが分かり5日、堺市文化財課が発表した。今後の調査によっては全長も測量値の290メートルを超え、300メートル以上の結果が得られる可能性もあるという。

 調査では、墳丘の中心線から90度の位置にある後円部北側の周濠を発掘。周濠内の墳丘の端が確認され、直径を推定した。ニサンザイ古墳の後円部直径は、大正15年の測量で156メートルとされていた。

 また、墳丘の斜面には、約20〜30センチ大の葺(ふ)き石がまばらな状態で見つかった。市文化財課は「畿内の大型古墳では葺き石は6世紀ごろの築造になるとまばらになっており、『簡素化』が5世紀後半まで遡(さかのぼ)ることが伺える」としている。

1693よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/10(月) 00:39:50 ID:UhtU84TQ0
ニサンザイ古墳 後円部直径170メートルと確認
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140206-OYT8T00034.htm

.◇堺市、「定説」より14メートル大きく

 堺市の前方後円墳・ニサンザイ古墳(5世紀後半)について市は5日、後円部が直径約170メートルだったと発表した。濠(ほり)の水を抜いて行った調査で、長らく信じられてきた規模より、約14メートル長いことがわかったという。

 世界文化遺産の登録を目指している「百舌鳥(もず)・古市古墳群」に含まれる古墳。皇族が埋葬されている可能性があるとされる。市が昨年12月から後円部北側で濠の水を抜き、ヘドロを取り除いたところ、従来の規模を上回る墳丘の裾部分が確認された。

 これまで後円部の直径は、当時の宮内省が1926年に行った測量で、約156メートルとされていた。

 同古墳については2012年11月、国内8番目の約290メートルとされてきた全長が、300メートル以上とみられることがわかっている。

 今回の調査では、墳丘の葺石(ふきいし)がまばらに敷かれていることも確認。市は「古墳築造のピークが過ぎ、葺石の敷き方が簡素化されたのではないか」とみている。

 後円部の正確な直径が判明したことについて、奈良県立橿原考古学研究所の宮川?(すすむ)・共同研究員は「古墳の正確な大きさがわかることで、当時の周辺王族との力関係をみる参考となる」と話す。

(2014年2月6日 読売新聞)

1694よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/11(火) 21:08:02 ID:I87QlkLc0
城東区の若宮八幡大神宮 75年ぶりに遷宮
2014年2月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140209/20140209025.html

 同宮は1939(昭和14)年に建てられ、周辺住民に親しまれながら地域を守り続けてきた。しかし老朽化に伴い雨漏りや白アリにむしばまれるなど、社殿の痛みがひどくなり、榊原宮司(50)が2008年4月から常駐して以降は修理の必要性に迫られていた。「いつかはやらなければいけない」と、時期をうかがいながら準備を進めていた。

 本格始動は昨年1月。準備委員会を発足させ、「少しずつ修理して10年後にまた修理というのではなく、やるからには思い切ってやりたい」という思いを氏子総代らと共有。約6千万円を投じて銅板の屋根をふき替えるなど「御社殿大修理」にこぎ着けた。

 遷座祭当日は榊原宮司がご神体を抱き、白い幕で囲って仮住まいとなる参集殿の床の間にしつらえた神座に遷す。2時間ほどの儀式となる予定で、榊原宮司も「宮司としても一生に一度あるかないかのご奉仕」と緊張を隠さない。同宮にとっても歴史の一ページとなる儀式で、「神様と息が合わないとできない」と一世一代の儀式に臨む。

 現在の屋根の銅板は青緑色のさびで覆われるなど歴史を誇り、貫禄を醸している。文献などが残っていないため、今の屋根の銅板に当時奉納した人の名前が刻まれているかは不明だが、今回、銅板は一口3千円から奉納可能で、名前を書いた銅板が御社殿の礎となり、歴史に名を刻むことができる。完成は9〜10月の秋口を見込む。

 「遷宮は地元の人たちにも関わってもらい、さらに地域に根差していきたい」と榊原宮司。地域のパワースポットとして「もっと親しんでもらえたら」と話していた。

 昨年は伊勢神宮(三重県)や出雲大社(島根県)でご神体を遷(うつ)す「式年遷宮」が執り行われ、パワースポットとして広い世代で脚光を浴びたが、大阪市城東区蒲生4丁目にある「若宮八幡大神宮」(榊原孝和宮司)でも、75年ぶりに遷宮が行われることになった。社殿の大修理に伴いご神体を移動させる儀式「仮殿遷座祭」が9日午後6時から執り行われる。

1697よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/16(日) 10:48:04 ID:o9q/qwS20
堺環濠都市遺跡で17世紀の羽子板など出土
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140214-OYT8T01637.htm

◇「豊かな暮らしうかがえる」

 堺市の堺環濠(かんごう)都市遺跡(堺区櫛屋町)で、安土桃山時代〜江戸初期(16世紀末〜17世紀初頭)とみられる羽子板(長さ39センチ)や下駄(げた)(同21・2センチ)などの遊具や生活用品が出土し、市が14日、発表した。発掘場所は当時の堺の東側に当たる町外れだが、瀬戸(愛知県)や唐津(佐賀県)で生産されたとみられる陶磁器片も見つかっており、市文化財課は「当時、堺で暮らした人々の豊かな生活ぶりがうかがえる」としている。

 市立殿馬場中学校の校舎改築工事に伴い、昨年12月から約800平方メートルを調査。溝(長さ10メートル、幅0・6〜1・2メートル、深さ0・3メートル)などから、羽子板のほか、水指や茶わん、箸、漆器片、陶磁器片などが見つかった。羽子板は同遺跡では2例目で、片面に朱色の顔料を塗ったような跡があった。いずれも、使用後に廃棄したと考えられる。

 堺環濠都市は、堺旧市街地に広がる中世後期の湾岸都市。貿易港として繁栄したが、大坂夏の陣(1615年)の戦火で壊滅、江戸時代に再建された。今回の出土品は壊滅前のものとみられる。市は発掘調査の工期に余裕がなく、現地説明会は行わないとしている。

(2014年2月15日 読売新聞)

1698よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/18(火) 22:22:29 ID:CzPdrf8A0
5世紀の甲冑ずらり…大阪大が「倭の五王」展
2014.2.18 16:52
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140218/wlf14021816520023-n1.htm

 5世紀の甲冑がずらり−。大阪府豊中市の大阪大総合学術博物館待兼山修学館で、保存修復処理が終わった野中古墳(大阪府藤井寺市)の鉄製甲冑などを展示する「野中古墳と『倭の五王』の時代」が開催されている。3月22日までの午前10時半〜午後5時。無料。日・祝日は休館。

 野中古墳は、世界遺産登録を目指す古市古墳群のほぼ中央にある5世紀の中型方墳で、1辺37メートル。昭和39年に大阪大が発掘、大量の鉄製品など出土し中国の歴史書に記された「倭の五王」が活躍した5世紀を代表する史料として評価されている。

 11セット見つかった甲冑のうち、三つは襟がつき、全国的にも珍しいタイプ。

 発掘後に甲冑は薬品が塗られて、光沢が出るなどの弊害があったが、今回の保存処理で出土当時の姿がよみがえった。

1699よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/23(日) 03:26:40 ID:bRoCc6rs0
金堂 南北11.84メートル、東西13.52メートル
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140218-OYT8T01514.htm

. ◇高宮廃寺跡 基壇を確認

 寝屋川市高宮の高宮廃寺跡(7世紀後半、国史跡)で金堂の「基壇」の一部と柱の礎石跡が出土し、市教委が18日、発表した。1979年に同廃寺の伽藍(がらん)の位置などを確認して以来、35年ぶりの発掘調査で、これまで不明だった金堂の正確な規模が確認された。

 今回の発掘調査は、同廃寺跡を整備、活用することを目的に、今年度から16年度までの予定で実施する。

 今回、新たに出土したのは金堂北東角の基壇と西側の柱の礎石跡。基壇はこれまで南西、南東角でも確認されており、今回の発見で大きさが南北11・84メートル、東西13・52メートルと確定した。礎石跡は建物西側の2か所で確認された。

 現地説明会は23日午後1時半から。問い合わせは市文化スポーツ振興課(072・824・1181)へ。

(2014年2月19日 読売新聞)

1700よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/23(日) 15:42:47 ID:dAQqKbvo0
地下ホールに豊臣期の石垣…大阪城16年公開へ
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140222-OYO1T00255.htm?from=newslist

 豊臣秀吉時代の大坂城の石垣を公開する事業で、大阪市は21日、現大阪城(大阪市中央区)の本丸内に整備する公開施設の概要を発表した。大坂夏の陣から400年となる2015年に着工、16年の完成を目指す。事業費の一部には、市と読売新聞大阪本社が共同で進めている「太閤(たいこう)なにわの夢募金」を充てる

 豊臣期の石垣は本丸の地下に埋もれており、現在発掘調査が進んでいる。

 施設は地上、地下の2層。石垣を展示する地下階のホールでは豊臣期の地層(深さ7メートル)から高さ6メートルの石垣を間近で見上げ、触ることもできる。石垣に連なる形で豊臣期の天守閣のイメージ映像も投影し、壮大なスケールをよみがえらせる。

 一方、出入り口のある地上階のガイダンスルームでは、豊臣、徳川両時代の大坂城の模型やパネルのほか、太閤なにわの夢募金の100万円以上の寄付者の記念芳名板、10万円以上の氏名板などを展示する。

 豊臣期の初代大坂城は夏の陣(1615年)で落城。徳川幕府がその上に2代目大坂城を再建し、現在の石垣はこの時に築いた。

 一方、地中に埋もれた豊臣期の石垣は、自然石を加工せずに積み上げる「野面積(のづらづ)み」と呼ばれる工法で築かれており、これまで、公開施設の場所を含め、数か所で見つかっている。

 太閤なにわの夢募金の目標額は5億円で、1月末現在で約2300件、計約7600万円が寄せられている。個人の場合は「ふるさと納税」の対象となり、所得税、住民税の控除を受けられる。また1万円以上の寄付者には造幣局製造の記念メダル「太閤通宝」の贈呈もある。

 大阪市の担当者は「多くの方の支援を得て、秀吉と大坂城の激動の歴史物語を肌で感じてもらえる施設にしたい」としている。問い合わせは、大阪市・大阪城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)。

(2014年2月22日 読売新聞)

1702よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/24(月) 23:15:19 ID:u7lBKGbE0
前期難波宮の造営は7世紀前半、「年輪セルロース酸素同位体比法」で確定 日本書記と一致 地球研・文化財センター公表
2014.2.24 21:26
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140224/wlf14022421280022-n1.htm


 前期難波宮跡(大阪市中央区)から出土した柱2本の伐採時期が7世紀前半だったことが、新たに開発された年輪セルロース酸素同位体比の年代測定法よって分かり24日、大阪府文化財センターが公表した。日本書紀に記された難波宮の造営時期とほぼ一致した。この測定法による世界初の実証例で、歴史資料の年代決定に大きな進展をもたらす可能性がある。

 前期難波宮は、大化改新につながる「乙巳(いっし)の変」(645年)を機に飛鳥から遷都し、652年に完成した。柱は平成16年、大阪府警本部の新築の際に出土した。直径約30センチのコウヤマキで、宮域の北限を東西に延びる塀を支えていた。

 年代を確定できる遺物が乏しく、同センターは当初、気候によって変動する年輪幅から木材の伐採年代を求める「年輪年代法」の適用を目指した。紫香楽宮(しがらきのみや)(滋賀県甲賀市)や池上曽根(いけがみそね)遺跡(大阪府和泉市)の造営年代を確定させた手法だが、測定可能な樹種がスギやヒノキなどに限られ、一定の樹齢以下のコウヤマキでは困難だった。

 ところが近年、総合地球環境学研究所(京都市北区)の中塚武教授が、木材の主要成分であるセルロースに含まれる3種類の酸素の「同位体比」値を年輪ごとに測定できる年輪判定法を開発。2本の柱で試みたところ、最も外側に残る年輪はそれぞれ583年、612年と確定した。

 伐採年が分かる樹皮部分は残っていなかったが、612年の方は年輪の形状から樹皮近くまで残っていると判断、2本とも612年から間もない時期に伐採されたとみられるという。

 同センターの江浦洋事務局次長は「前期難波宮の造営の時期を決める科学的データを得られた意義は大きい。応用範囲も広く、古代史の謎が解き明かされる夢がある」と話している。

難波宮

 大阪・上町台地上に造営された古代の都宮。「乙巳の変」(645年)後の難波長柄豊碕宮(なおがらとよさきのみや)を前期難波宮といい、のち天武天皇も副都とした。これに対し、聖武天皇が神亀3(726)年に造り始めたのが、後期難波宮。2つの宮跡は重なり、考古学者の山根徳太郎氏によって遺構が確認された。近くからは西暦648年をあらわず「戊申(ぼしん)年」銘の木簡も出土している。

年輪セルロース酸素同位体比法

 酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。

1703よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/24(月) 23:34:07 ID:u7lBKGbE0
扇子手に軽やか 大阪天満宮にすずめ踊り奉納
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140224-OYT8T00011.htm

 約400年前に堺の石工たちが始めたと伝わる「すずめ踊り」が23日、大阪市北区の大阪天満宮で奉納された。参拝客が集まる本殿前で、法被姿で扇子を手にした踊り手や太鼓、笛など「堺すずめ踊り連盟」(堺市堺区)の会員約40人が、扇子を広げて跳びはねる軽やかな踊りを披露した。

 1603年、青葉城(仙台市)の築城を祝う宴席で、石垣工事に従事した堺の石工たちが、藩主の伊達政宗に即興で披露したのが起源とされる。跳ね踊る姿がすずめに似ており、仙台の伝統芸能として引き継がれてきた。

 同連盟は約10年前に堺で踊りを復活させ、本場の「仙台・青葉まつり」で披露。天神祭の船渡御を迎える船に飾られる「お迎え人形」の中に「すずめ踊り」がある縁で、同天満宮でも2年前から奉納している。

 同連盟の松村進一会長(31)は「東日本大震災の復興を願い、様々な行事で踊っていきたい」と話した。

(2014年2月24日 読売新聞)

1707よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/07(金) 21:17:27 ID:hhmlCOPQ0
太閤の石垣、ファン熱視線…大阪城で公開始まる
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140307-OYO1T00742.htm

 国の特別史跡・大阪城(大阪市中央区)の地下から発掘された豊臣期大坂城の石垣の一般公開が7日始まり、多くの歴史ファンでにぎわった。9日まで。

 石垣は1984年の水道管の取り換え工事に伴って発見。調査後いったん埋め戻されたが、2016年に公開施設をつくるため、30年ぶりに発掘された。

 この日は、午前10時の公開開始と同時に約60人が集まり、その後も大勢の人たちが訪れた。大阪文化財研究所の担当者から「野面積(のづらづ)み」という技法が用いられていることなどについて説明を受けた後、熱心に見入り、写真を撮っていた。

 大阪市住之江区の会社員鎌田英雄さん(57)は「大坂夏の陣の頃と同じ風景を目の当たりにして感動した。公開施設の完成が楽しみ」と話していた。

           ◇

 読売新聞大阪本社は公開施設の資金を募る「太閤(たいこう)なにわの夢募金」を、市と共同で実施している。問い合わせは大阪市・大阪城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)へ。

(2014年3月7日 読売新聞)

1708よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/09(日) 13:29:05 ID:IrwYCgVQ0
金熊寺で梅林見ごろ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140309-OYT8T00074.htm

 白梅を中心に約2000本が植えられ「大阪みどりの百選」に選ばれている泉南市の金熊寺(きんゆうじ)梅林で、梅が見頃を迎えた。訪れた人は、山あいを埋め尽くす白や桃色の花が風に揺れている間を散策したり、写真撮影をしたりと楽しんでいる。

 約270年前から栽培される白梅を中心に、段々畑に連なるように植えられている梅林。周辺住民が組合を作り遊歩道を整備したり、交配をして種類を増やしたりして、管理している。

 今年は冬の冷え込みが厳しく平年より1週間程度開花が遅れたが、金熊寺梅林組合の福本寛組合長(79)によると9日頃に満開になるといい、「満開後も1週間は楽しめる。ぜひ、足を運んで」と話している。問い合わせなどは市産業観光課(072・483・8191)へ。

(2014年3月9日 読売新聞)

1709よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/09(日) 16:49:56 ID:6nt42Sw60
秘仏も開帳、地域と信仰再生へ 「十六羅漢祭」のにぎわい取り戻せ 大阪・貝塚
2014.3.8 15:25
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140308/wlf14030812480018-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140308/wlf14030812480018-n2.htm

 白鳳時代(645〜710年)の開基とされる吉祥園寺(きっしょうえんじ)(真言宗御室派)がある大阪府貝塚市王子地区の住民が、寺に伝わる秘仏「十六羅漢(らかん)画像」を開帳する春祭り「十六羅漢祭」のにぎわいを取り戻そうと、初めての“例大祭”を今月16日に開催することになった。住民の高齢化などで担い手が減少するのに伴って年々規模を縮小せざるを得なかったが、「このままでは廃れてしまう」と、地域と寺が協力して立ち上がった。

 矢野寛耕住職(56)によると、十六羅漢画像は吉祥園寺に伝わる掛け軸の秘仏で、室町中期の画僧・兆殿司(ちょう・でんす)の筆とされる。大和絵系と呼ばれる技法で描かれており、現存する羅漢図では国内で2番目に古いうえ、16幅がそろっているのは全国的にも珍しく、市の文化財にも指定されている。

 地元の口伝などでは、秘仏を開帳する羅漢祭の始まりは1500年代後半の安土桃山時代。その後、五穀豊穣(ほうじょう)を祈念する祭りになったが、江戸末期に中止したところその年泉州地域に疫病がはやり大飢饉(ききん)が起こったことから翌年復活。以降は無病息災なども祈願して実施されてきた。

 地元住民によると「戦前までは泉州一円から人が集まり、縁日の店もずらりと並ぶ盛大さで、『春の羅漢さん、秋のだんじり』と言われた」という。

 吉祥園寺は長らく無住寺だったため、地元住民が「十六羅漢講」という団体をつくって寺を支えてきたが、近年は若者の地元離れなどもあって担い手が減少。ここ十数年は、一部の住民が参加して法要を営む程度になっていた。

 今年は、もともと人気の高い恒例行事だった福引を復活。特別祈?(厄よけ、交通安全など)や願い事などを書いたのぼり奉納なども実施する。さらに地元のイベントともリンクし、貝塚市のゆるキャラ「つげさん」も参加し、グッズの販売をするなどお年寄りから子供までが楽しめる祭りにするという。

 矢野住職は「数百年も続いた行事を途絶えさせるわけにはいかないという地域の熱い思いが伝わってきました。これから手を取り合って、十六羅漢祭を盛り上げていきたい」と話している。問い合わせは吉祥園寺((電)072・423・1654)。

(藤浦淳)

      ◇

十六羅漢 仏教用語で聖者を意味する阿羅漢(あらかん、羅漢)のうち、仏法を守り、衆生(しゅじょう)を正しく導くことを誓った釈迦の16人の弟子(カナカバッサ、スピンダなど)をさす。仏像や石仏、絵画などとして全国各地に存在し、信仰を集めたり観光名所となったりしている。

1710よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/13(木) 22:04:14 ID:dy5AzadQ0
大阪の模擬原爆被害知って
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140311-OYT8T00046.htm

◇大空襲「語る会」久保さん 証言集を復刊

 1945年の広島・長崎への原爆投下直前、米軍が「訓練」として投下した模擬原爆で被害を受けた大阪市東住吉区田辺の住民たちの証言集が、戦争体験者の手で復刊された。初版は約20年前に出版されたが、その後、散逸して1冊しか残っておらず、失われつつある模擬原爆の記憶を後世に伝えたいと再編集した。(南部さやか)

 復刊したのは、「大阪大空襲の体験を語る会」代表の久保三也子さん(84)(大阪市福島区)で、自らも45年3月の大阪大空襲を経験している。

 模擬原爆は、B29爆撃機が投下後の衝撃に巻き込まれずに飛行するための訓練用として、実物と同じ重さ(5トン)で製造、火薬が詰め込まれた。45年7〜8月には全国約30都市の工場などを標的に、計50発が使用され、東住吉区田辺では7月26日午前9時26分、投下された。

 大阪市が戦後作成した資料によると、この時の爆撃の被害は死者7人、重軽傷者73人、被災家屋486戸にのぼったという。

 模擬原爆の存在は、91年に「春日井の戦争を記録する会」(愛知県)が、国立国会図書館(東京都)で米軍の資料を調査して明らかになった。当時、久保さんら、語る会のメンバー5人も田辺地区で体験者を捜し求め、2年がかりで23人分(男性15人、女性8人)の証言を集めて、93年に1000部を出版した。

 〈なんの予告もなく、ザーという落下音とともにすさまじい地響きがして、家の窓ガラスが音を立てて粉々に割れた〉〈直爆した料亭は跡形もなく、付近の家もつぶれ、大きな穴があいていた〉〈真黒な砂煙で夜のように暗くなった〉

 〈あちこちで、血で黒く染まった人が歩いていた〉〈人々が「新型爆弾や」と騒いでいた〉。体験者の証言はいずれも悲惨な状況を生々しく語っていた。

 しかし、その初版も、持っていた人が亡くなって廃棄されたり、散逸したりし、久保さんの手元にも1冊しか残っていない。証言した人の多くも亡くなり、調査をしたメンバーも久保さん以外は他界している。

 久保さんが復刊を思い立ったのは、「模擬原爆を知りたい」という研究者や教育関係者らが最近増えたことがきっかけだ。残った1冊をもとに今回、全国各地で50発を投下した米軍の訓練記録の一覧を追加して再編集し、300部(A5判、35ページ)を出版した。

 久保さんは「証言者が高齢化で少なくなる中、改めて模擬原爆の事実を知ってほしい」と話し、今後、ピースおおさか(大阪国際平和センター)などに寄贈する予定。一部は、希望者にも提供するという。

 模擬原爆を確認した「春日井の戦争を記録する会」のメンバーで元中学教諭の金子力さん(63)は「模擬原爆の被害があったことは、広くは知られていない。正確な投下場所や被害人数も分からない点があり、実際に見た住民の証言は非常に貴重だ」と話している。

(2014年3月11日 読売新聞)

1711よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/13(木) 22:33:24 ID:dy5AzadQ0
大阪大空襲から69年 当時の生徒ら出席し“幻の卒業式”
2014.3.13 21:46
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140313/wlf14031321510041-n1.htm

 大阪大空襲から69年となる13日、大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)で、当時の国民学校の生徒を対象とした“幻の卒業式”が行われた。第1回大空襲は昭和20年3月13日深夜から14日未明にかけて。14日は同市内の多くの国民学校で卒業式が予定されていたが、空襲直後で開催できなかった。

 この日は、当時の国民学校の生徒で卒業式を迎えるはずだった3人が出席。同館の岡田重信館長が、当時の国民服姿で卒業証書を手渡した。

 桜川国民学校(浪速区)に在籍していた大阪府岸和田市の田中(旧姓・川本)芳子さん(81)は、証書を受け取り「当時のことを思い出しました」と感極まった様子。空襲時は近所の子供たちと学校に逃げ込んで難を逃れたという。「学校を休んだことがなく皆勤賞だったので、卒業式が迎えられなかったことが心残りだった。ほっとした」と話してた。

1712よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/14(金) 19:27:17 ID:vLSSQSuA0
常光寺本堂など 市文化財に指定 八尾市教委 大阪
2014.3.13 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140313/osk14031302020003-n1.htm

 八尾市教育委員会は、常光寺(同市本町)の「本堂・阿弥陀堂・行者堂」と、薗光寺(おんこうじ)(同市水越)所有の「木造 阿弥陀如来立像」を市文化財に指定した。

 常光寺は、府内でも珍しい臨済宗南禅寺派の寺院。また河内音頭発祥の地とされ、流し節正調河内音頭が披露される地蔵盆踊りや大般若絵(だいはんにゃえ)、狂言「八尾」でも知られる。

 薗光寺の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代に多く制作された「三尺阿弥陀像」。西方極楽浄土から迎えに来るときの印を結び、右足をわずかに前に踏み出し、やや前傾して蓮花座上に立っているのが特徴だ。

.

1713よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/16(日) 17:08:00 ID:yTpqvOJs0
生駒山に春の訪れ 東大阪で戸開式
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140316-OYT8T00030.htm

 修験道場として知られる東大阪市東豊浦町の髪切山(ごぎりさん)慈光寺(槙尾実英住職)で15日、生駒山に春の到来を告げる儀式「戸開(とあけ)式」が行われ、約100人が山の安全や無病息災を祈った。

 同寺は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、約1300年前に開いたとされる。役行者が生駒山中で悪行を繰り返していた鬼を捕らえて髪を切り、改心させて家来にしたという言い伝えから「髪切」の名がついたという。

 槙尾住職から役行者をまつるお堂の鍵を受け取った鍵役が、鬼にふんした山伏らと石段を上って扉を開け、柴灯(さいとう)護摩も行われた。

 同市立花町、主婦森本美砂子さん(69)は「ウグイスの鳴き声が聞こえ、春の足音を感じた。健康に過ごせるように祈りました」と話していた。

(2014年3月16日 読売新聞)

1714よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/16(日) 17:50:21 ID:yTpqvOJs0
礼儀正しく「仕舞」体験 豊中不動尊能舞台で「こども教室」 大阪
2014.3.16 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140316/osk14031602020000-n1.htm

 子供たちに伝統芸能・能楽の「仕舞」体験を通して、日本文化のすばらしさを感じてもらう「能楽・仕舞(しまい)こども教室」が15日、豊中市緑丘の豊中不動尊能舞台で開かれた。

 文化庁の「文化遺産を活かした地域活性化事業」の一環として、豊中こども能楽塾(山本博通代表=観世流シテ方)が開催した。

 仕舞は、能の演目の一部を面、衣装をつけず紋付袴(はかま)や着物で舞う。伴奏は地謡(じうたい)のみで、簡略化された能のエッセンスを楽しめる。

 教室には小学生ら29人が参加し、今年1月から8回にわたり、仕舞の基本的な舞い方や謡いの発声方法を、能楽師らの指導で稽古してきた。

 最終回のこの日は、稽古の成果を披露する発表会形式で行われた。

 着物に着替えた子供たちは、神妙な表情で能舞台に立ち、ひとり約1分間、春の到来や長寿を祝う「老松(おいまつ)」などを元気な謡いとともに熱演した。

 保護者らは「伝統文化に触れ、正座ができるようになるなど礼儀正しくなった」と喜んでいた。

.

1715よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/19(水) 05:42:34 ID:xlhhN.wA0
「郷墓」の変遷明らかに 八尾・神宮寺墓地
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140318-OYT8T00051.htm

◇市教委が報告書、中・近世の石造物多数

八尾市の神宮寺墓地(来迎=らいごう=寺共同墓地)にある石仏や石塔などの石造物を市教委が調査し、報告書にまとめた。同墓地の中央部は複数の旧村(江戸時代の村、現在の大字)の人々が葬られた「郷墓(ごうばか)(惣墓=そうばか=)」で、鎌倉時代前期の五輪塔を始め、中世から近世の石造物が数多く残されていた。府内で郷墓の全体的な調査が行われるのは初めてで、市教委は「墓地も貴重な歴史遺産だと明らかになった」としている。

 同墓地は、奈良時代の高僧・行基が造ったとされる共同墓地「河内七墓」の一つで、八尾、柏原両市にまたがる。今回、古い石造物が多く残る八尾市側について、2010年度から3年計画で調査した。結果、石塔などの総数は約5500基で、明治時代以前のものは約1700基と判明。約150基に造立された年号が刻まれ、鎌倉時代前期〜江戸時代の石塔類の構成や時期的な変遷が明らかになった。

 市教委文化財課は「身近な文化財である石塔や石仏が、地域の信仰や歴史の解明に役立つことを知ってほしい」とし、河内七墓のうち市内にある垣内(かいち)、神立(こうだち)、植松の3か所についても今後、調査、報告する。

 白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「近年の生活様式の変化によって、中近世以来の姿をとどめる墓地は大きく変貌しつつあり、記録化が急がれる。非常に重要な取り組みだ」と評価している。

 報告書はA4判、158ページ。800円(税込み)。問い合わせは同課(072・924・8555)へ。

(2014年3月18日 読売新聞)

1716よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/21(金) 05:28:38 ID:s.Xz6LEo0
重文に府内5点 文化審議会答申
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140320-OYT8T00043.htm

◇取水施設「木樋」など、登録文化財は4か所

  国の文化審議会が文部科学相に行った答申で、現存する日本最古の人工ため池「狭山池」(大阪狭山市)から出土した取水施設「木樋(もくひ)」など府内の5点が重要文化財に選ばれた。

 狭山池は7世紀前半の築造とされ、これまで飛鳥時代の木製の通水路(全長約70メートル)などが見つかっている。中世に池を改修した僧・重源(ちょうげん)が作った石碑や、江戸時代の取水施設も同時に選ばれた。「日本の高度な土木技術が確認できる希少な資料」と評価された。

 ほかに、桃山時代の絵師・狩野永徳の弟・宗秀(そうしゅう)の代表作「紙本金地著色四季花鳥図(しほんきんじちゃくしょくしきかちょうず)」、7世紀末に中国で刊行された伝奇小説の現存最古の写本「遊仙窟(ゆうせんくつ) 残巻(ざんかん)」、安土桃山時代の医学書「啓迪集(けいてきしゅう) 自筆本」、鎌倉時代の追善供養の実態がうかがえる「後伏見院庁諷誦文(ごふしみいんのちょうふじゅもん)」の4点が選ばれた。

 また、外国人建築家が和の様式を採り入れて建設した「カトリック豊中教会」(豊中市)などの建造物4か所、25件は登録有形文化財に選ばれた。府内の重要文化財(美術工芸品)は571件、登録有形文化財(建造物)は215か所、583件となる予定。

(2014年3月20日 読売新聞)

1717よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 06:32:57 ID:J/y31gqo0
戦国武将の書状など84点  大阪城で企画展
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140322-OYT8T00009.htm

 豊臣秀吉の生きた安土桃山時代から豊臣家が滅びた大坂の陣までの古文書を集めた企画展「乱世からの手紙」が21日、大阪城天守閣(大阪市中央区)で始まった。戦国武将の書状や誓約書など、同天守閣が収蔵品などからえりすぐった84点を展示している。5月6日まで。

 上杉謙信は、永禄10年(1567年)に美濃国(現・岐阜県)を平定した織田信長に送った書状で「比類なき活躍、めでたい」とたたえている。後に敵対関係となるが、勢力を伸ばし始めた信長と良好な関係を築こうとした謙信側の思惑が読み取れる。

 また、秀吉が晩年の文禄2年(93年)に授かった我が子・秀頼の乳飲み子の頃に書いた私信には「先日は見送ってくれて満足」などとつづられ、幼子への愛情が伝わってくる。

 寝屋川市の会社員山内康さん(33)は「武将の心の内や当時の様子が想像できて楽しい」と話し、展示品に見入っていた。

 無休。入館料は一般600円、中学生以下無料。



 大阪城天守閣は桜の季節や大型連休など春の行楽シーズンに合わせ、開館時間(通常は午前9時〜午後5時)を延長する。

 4月6日までは2時間延長して午後7時まで、同26日〜5月6日は1時間延長して午後6時まで。問い合わせは同天守閣(06・6941・3044)へ。

(2014年3月22日 読売新聞)

1718よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:05:11 ID:l/NPVHr60
大阪の町名は「まち」読みが多い? 地名守った商人魂
2014/3/23 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD11024_S4A310C1AA1P00/

大阪に転勤して間もない頃、タクシーで「『あわじちょう』まで」と言うと、運転手は一瞬どこだか分からない様子。しばらくして「ああ、『あわじまち』ですね。お客さん、どこから来たんですか」。運転手いわく「大阪では『ちょう』ではなく『まち』と言うので、よそから来た人はすぐに分かります」とのこと。本当だろうか。

  大阪市営地下鉄・御堂筋線の淀屋橋駅あたりから南下すると「伏見町」「道修町」「平野町」……と「まち」と読む町名が並ぶ。「淡路町」は同じ漢字の町名が東京都千代田区にもあるが、こちらは「あわじちょう」。「安土町」は滋賀県近江八幡市では「あづちちょう」と読む。大阪以外の地域では「ちょう」と読むことが多いようだ。

 もちろん、大阪市内でも「宗右衛門町」のように「ちょう」と読む町名はある。大阪市の地図を調べてみると、市内に「町」の字が付く町名は約150あり、半数が「まち」読み。しかし中央区に限ると、45のうち35が「まち」と読むことが分かった。市の中心部に集中しているため、「大阪は『まち』が多い」という印象を与えているようだ。

 東京都内では原則、大手町など武家屋敷のあったところは「まち」、鍛冶町など町人が住んでいた地域は「ちょう」と区別されているという。では大阪はどうなのか。

 「大阪『地理・地名・地図』の謎」などの著書があるノンフィクション作家の谷川彰秀さんに聞くと、「大阪天満宮や四天王寺の周辺などに『まち』が多く見られるので、寺町が由来ではないか」という。確かに寺社の周辺に「まち」は多いが、「ちょう」も存在する。中央区は特段、寺社が多いわけでもなく、この説では説明しきれない。

1719よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:06:26 ID:l/NPVHr60
>>1718

http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD11024_S4A310C1AA1P00/?df=2

 次に大阪歴史博物館の学芸員、八木滋さんを訪ねた。現在の中央区のあたりは、大阪城が築城されたのち、主に江戸時代に入ってから発展した。八木さんは「江戸時代から大阪は商人の町。武士はほとんど住んでおらず、身分や職業による区別はなかった」と話す。「ただ、江戸時代にはすでに『まち』と読む慣習が根付いていた」と言って、古い文献を見せてくれた。

 1842年(天保13年)刊行の「大坂町鑑」。当時の大阪の町名約600について、「まち」と読む町名には「町」の字、「ちょう」と読む町名は「丁」と分けて記載している。当時の人々がどのように「町」を読んでいたのかが分かる。「ざっと数えたところ、3分の2程度が『まち』だった」と八木さん。「理由はよく分からないが、古い町名がそのまま残っているところが多いことが、中央区に『まち』が多い一因ではないか」と指摘する。

 1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、全国的に古い町名を整理して新しい町名に変える動きがあった。住所を頼りに訪問先を探し当てたり郵便物を配達したりしやすくするためだ。大阪市中央区の南船場や難波などはいくつかの町が統合されてできた新しい町名だ。

 ところが中央区のなかでも、長堀通以北の旧東区と呼ばれる地域は、江戸時代からの町名がそのままというところが多い。薬問屋が集まる道修町や繊維問屋が集まった安土町、本町などは江戸時代、商いのまちとして栄えた。

 中央区道修町が本社のボンドケミカル商事の小西哲夫社長は、明治初期にこの地で創業したコニシの創業家。当時の事情について聞くと「この辺りには、江戸時代から続く料亭や商家が多く、地元への愛着が強い。古い町名を残すために団結した」と話してくれた。町内会長のような立場の人が中心になって、行政などへ働き掛けたのだという。

 道修町には今でも製薬会社の本社が立ち並び、「薬のまち」の面影を残す。船場大阪を語る会の三島佑一会長は「道修町は町内会で神社を造ってしまうほど、結束が強い」と話す。薬の神様をまつる少彦名神社は道修町に店を構えた薬問屋が造ったもので、毎年11月22〜23日に開く祭りには、製薬会社など約350社が加入する薬祖講が運営。祭りの日には各社からのボランティアが集まり、見物客が道路を埋め尽くすほどだ。

 最近は新しいマンションやオフィスビルが増え、古くからの住人や商店は減ってきた。町名の由来を知る人も少なくなったが、歴史のある古い町名には先人の思いが詰まっている。

(大阪経済部 小国由美子)

1720よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 16:29:35 ID:l/NPVHr60
澪標 ―みおつくし―

「生國魂造」二つの特徴

生國魂神社権禰宜 中村 文隆
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/140225/20140225033.html

 前稿では大阪の始まりの地が大阪湾に浮かぶ「難波埼(なにわのみさき)−現・上町台地−」であり、その三方を海で囲まれた北端の地の占有者が日本国の実質的な統治者であることを見てまいりました。これは大坂城築城より今日に至る400年だけを指すのではなく、神話と歴史の接点となった神武東征の物語から連綿と続く2700年間のことを指します。

 では、秀吉の築城に際し、同地を離れた生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)はその後どうなったのでしょうか。

 実は秀吉・秀頼父子は後の上町台地と呼ばれるようになった難波埼の中央部、現在の上本町界隈(かいわい)に約2万5千坪の代替地を寄進し、全国に8万社ある神社の中で唯一の建築様式である「生國魂造(いくたまづくり)」と呼ばれる社殿を普請しています。この無双の生國魂造には日本の歴史を反映した二つの特徴があります。

 まず一つ目は20メートルを超える巨大な本殿であるという点です。出雲大社など、神話の時代から大きな社殿を建てることを社是としてきた神社を除き、一般的に神社建築は大きな社殿を建てる必要がありません。ちなみに仏教は建築の技法や道具、職人、果てはそれらを包括する建築という概念そのものを伴って日本に伝来したため、寺院を建立すること自体に布教の側面があり、大きければ大きほど、立派であればあるほど信仰の大きさが見て取れます。

 一方、仏教伝来前、原初の神社大半は、神の社(もり)という字が示す通り、神や祖霊の鎮まる森や山などの場所や空間を指しました。ところが、文明の進展に比例し人間の感受性が鈍り、その場所の象徴が、老木や巨石からより人間の視覚に訴えやすい社殿という人工物に変遷します。しかし、人間側が社殿を通じてその空間に神を認識できれば事足りるので、殊更大きな社殿を構える必要性はありません。

 生國魂造の二つ目の特徴は、大神様のお鎮まりになる本殿と幣物などを献じる幣殿の二つの社殿が一つの大屋根で葺(ふ)き下ろされ、その上に三つの破風(はふう)が据え付けられている複雑な桃山時代の様式を今に伝えている点です。勘の良い方は既にお気づきのことと存じますが、大坂城築城とそれに伴う生國魂神社の遷座の経緯から勘案しますと、この複雑な建築様式の社殿は、先に見た特徴である巨大さと併せ、次期に継承された徳川期大坂城も含めて兄弟関係にあるといえます。

 長らく続いた戦国の動乱が収斂(しゅうれん)へ向かう過程で集約された力は、最終局面で大きなうねりとなって前例のない二つの巨大建築をここ大阪に生み出しました。天下統一の物的証拠が今もなお街の中央部に並び立ち、そこに多くの人が訪れるのも大阪が持つ根源的な街の魅力でしょう。

 徳川方が政権を継承して以降は戦のない天下太平の江戸時代が続き、安定した営みに立脚した町衆が力をつけ始めます。特に物流の中心となり、天下の台所と呼ばれた大坂の発展は目覚ましく、そこに暮らす町衆から次々と新しい文化が生まれます。その最大の集積地がいくたまさんで、近松門左衛門や井原西鶴、上方落語の始祖・米澤彦八などをはじめとした多種多様な人材が活躍し、上方芸能・上方文化が花咲く場所となりました。

 その後、明治維新を経て日本の中心的神社として再認識され官幣大社に列格しますが、以降も度重なる災害や戦火に見舞われます。

 しかしその都度、大阪市民の皆さんと共に困難を乗り越え、街と共に歩んで現在に至り、今も生國魂祭(いくたままつり)の渡御列(とぎょれつ)復興などの課題に取り組んでいます。

 大阪繁栄の象徴がいくたまさんのご社頭の賑(にぎ)わいであるならば、逆説的ではありますが、これからもその賑わいを絶やすことなく祈り続けてまいりたいと存じます。

 以上、昨年より貴重な紙面をお預かりし、いくたまさんという定点を通じて大阪から日本を俯瞰(ふかん)してまいりました。紙幅の都合上、やむなく割愛した部分もございますので、この続きは境内でお待ちしております。

 (なかむら・ふみたか 大阪市天王寺区)


2014年2月25日

1721よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/23(日) 21:21:38 ID:6iplpaSg0
<上宮天満宮>サル、猫に癒やされる
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/feature/osaka1391186241539_02/news/20140315-OYT8T00066.htm

 車道をまたぐ大鳥居をくぐり、丁字路の突き当たりの階段を上がると、目の前に開けた境内で、猫が大あくびをしていた。

 JR高槻駅から北約500メートルにある鎮守の森に囲まれた「上宮天満宮」。境内に居着いた野良猫の保護のため、作業小屋などに5か所の「居場所」を設け、昨年4月には猫を含めたペットの健康や長寿、死んだ後の鎮魂を祈る「守護天神」も完成した。

 本能寺の変(1582年)で織田信長を討った明智光秀を、豊臣秀吉は山崎の戦いで破った。その記念として、本陣を置いていたこの天満宮の社殿を美しく改修した。秀吉が現代の天満宮ののどかな様子を見れば、思わず目を細めるのではないだろうか。

 あまり知られてはいないが、秀吉は猫好きだった。

 秀吉の重臣・浅野長政が文禄2年(1593年)、同僚に宛てた書状に、秀吉がかわいがっていた猫がいなくなり、見つけるよう命じられたとつづられている。「見つかるまで、虎毛の猫1匹を借用したい」と書かれた文面から、長政が必死だった様子がうかがえる。

 今も昔も、猫が好きな人は多いのだろう。その気持ちを知りたいと、阪急高槻市駅の近くにある猫カフェ「ねこの部屋 あまえんぼう」を訪ねた。上宮天満宮の境内と同じく、店内にはのんびりとくつろぐ猫が15匹いた。

 店員の中田愛里さん(25)は「犬猿の仲と言われるから、サルと呼ばれた秀吉さんも、犬ではなく猫をかわいがったのではないでしょうか」と笑った。

 長政が猫捜しに追われていた頃、秀吉は朝鮮に兵を出し、国内では関白職を譲った養子の秀次と不和になるなど、心がざわめく日々だった。権力者の孤独を、猫が癒やした。(上野将平)

 ◆上宮天満宮 平安時代の創建。学問の神様、菅原道真をまつる全国の天神社のうち、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)に次いで、2番目に古いとされる。豊臣秀吉は1582年の山崎の戦いで、上宮天満宮の参道に本陣を置いた。近年では、1996年に本殿が火災で焼失した後、2002年に竹で再建された。JR高槻駅から北に徒歩10分。(電)072・682・0025

 大阪市と読売新聞大阪本社は、大阪城の地下に眠る秀吉時代の石垣を発掘、公開する事業の資金を募るため、「太閤なにわの夢募金」に共同で取り組んでいます。1万円以上の寄付をした方に造幣局製造の「太閤通宝」を贈呈するなどの特典があるほか、寄付額に応じて所得税、住民税が控除される優遇措置もあります。

 寄付はゆうちょ銀行、郵便局での振り込みか、公式ホームページ(http://www.toyotomi‐ishigaki.com/)からのクレジットカードによる申し込みになります。

 問い合わせは、大阪市・城魅力担当(06・6469・5164)、読売新聞大阪本社事業本部(06・6366・1867)へ。

 この募金の応援企画として、毎月第1、3水曜日夕刊で、現代に息づく秀吉の夢や功績を取り上げる「なにわの夢」を掲載しています。

(2014年3月15日 読売新聞)

1722よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 02:02:12 ID:Fw9nCOM20
春場所“成就”に感謝 住吉大社で土俵まつり
2014年3月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140324/20140324040.html

 大相撲春場所が千秋楽を迎えた23日、立浪部屋の宿舎となっていた大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で、土俵祭が執り行われた。参列した力士たちは相撲の守護神、住吉大神に、1カ月にわたった稽古の安全と修行成就を感謝した。

 境内の土俵で、神様を天に送る儀式「昇神之儀」を行い、力士15人が「エイエイオー」と声を上げながら、神様の象徴である御幣(ごへい)を抱いた神職を胴上げした。儀式を見守っていた約40人の地元住民からは拍手が起こった。

 このほか、参列者による神酒の乾杯や大阪締めが行われた。儀式の中で神職は「また明年会えることを待ち望み、たくさん白星をあげることを祈っている」と力士たちに声を掛けた。

 同大社は相撲と縁が深く、「横綱」の称号の起源の地と伝わる。同部屋の合宿は2007年の三月場所から受け入れている。神様を招く儀式「降神之儀」は2月20日に執り行われた。

1723よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 02:06:49 ID:Fw9nCOM20
1500年前の古墳 映像に
03月24日 19時20分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140324/3133681.html 

堺市は、世界文化遺産への登録を目指す地元の古墳群について理解を深めてもらおうと市の博物館に、古墳が作られた当時の様子を再現し、大型スクリーンの映像で紹介するミニシアターを設置しました。
「百舌鳥古墳群ガイダンスコーナー」と呼ばれるこのミニシアターは堺市博物館に作られ、あすのオープンを前に報道関係者に公開されました。
シアターは、30の座席を備え前方に縦2メートル40センチ横4メートル30センチの大型スクリーンが設置されています。
堺市が、大阪府などと世界文化遺産への登録を目指している「百舌鳥・古市古墳群」のうち、堺市内に点在する「百舌鳥古墳群」を12分間のビデオで紹介しています。
ビデオではこれまでの発掘調査などを元に再現されたおよそ1500年前の当時の古墳の様子などがコンピューターグラフィックスで紹介されています。
堺市世界文化遺産推進室の大村慶次長は「現在の古墳は森のように見えますが、作られた当時は、土の上に石を置いた構造物だったと見られています。多くの人たち見てもらい、百舌鳥古墳群について関心を高めてほしいです」と話していました。

1724よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/25(火) 20:01:52 ID:LpBpZQOM0
山本能楽堂 改修完了へ 4月、一般向け内覧会
2014年3月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140325/20140325036.html

 2011年から実施してきた山本能楽堂(大阪市中央区)の改修が3月末で完了する見込みとなり、公益財団法人山本能楽堂の山本章弘代表理事は24日、同能楽堂を一般にお披露目する内覧会「花と芸能−春爛漫」を4月25〜27日の3日間開催すると発表した。

 同能楽堂は、1927年に設立され、大阪大空襲で焼失、50年に再建。2011年に始まった文化庁の「重要文化財建造物等公開活用事業」に初採択され、観光振興・地域活性化の拠点として、登録有形文化財建造物を効果的に公開活用するための整備に対し補助を受けた。補助金、自己資金、寄付が3分の1ずつで、総事業費は約2億円。

 安井建築設計事務所や、中之島を拠点に世界で活躍するデザイン事務所「graf」の服部滋樹さんが協力し、1670万色の色彩を表現できるLED照明や床暖房、資料室などを備えて生まれ変わった。

 内覧会では、能楽堂全体の空間を楽しんでもらおうと、東京五輪招致委員会などを担当したフラワーデザイナーの藤吉恒雄さんが、1〜3階を花で飾るほか、貴重な能の装束、当時の設計図面、てんぐが謡曲を楽しんでいる様子を描いた富岡鉄斎の掛け軸などを公開。文楽や落語、講談、舞踊、西洋音楽など、同能楽堂にゆかりのあるさまざまな演者が駆け付け、お祝いとして各種芸能を披露する。

 山本さんは「能を見るだけの場所でなく、この建物が何かの表現の場であり、社交の場になれば。ここをランドマークとして、海外旅行客を呼んだり、学校教育に生かしたりして、恥じない活動をしたい」と力をこめる。

 内覧会は25日午前11時〜午後8時(26日午後6時、27日午後4時半まで)、入場料2千円。問い合わせは同能楽堂、電話06(6943)9454。

1725よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/26(水) 22:30:05 ID:g4RgbTlo0
空から見る仁徳陵
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140325-OYT8T00043.htm

 ◇堺市博物館にミニシアター

 堺市博物館(堺区)に、墳墓として世界最大級の仁徳天皇陵古墳などで構成する「百舌鳥(もず)古墳群」の上空を飛ぶ疑似体験などが楽しめるミニシアターが整備され、24日、報道陣に公開された。コンピューターグラフィックス(CG)技術を応用し、20キロ上空から撮影した古墳群の眺めなどが楽しめる。

 市が博物館内に、同古墳群のガイダンス(案内)コーナーを新設。ミニシアターは約200インチ(縦2・4メートル、横4・3メートル)のスクリーンを備え、宅地開発などで消失した11基を含む55基や、古墳の壕(ほり)から墳丘を望む映像なども投影する。

 5世紀半ばに延べ680万人が作業したと試算される仁徳天皇陵古墳の築造当時を想像し、埴輪(はにわ)や土器で装飾されていた映像や、大阪平野の風景も再現した。上映時間は約12分。総事業費約7000万円。

 市は「古墳群の価値を理解してもらい、世界文化遺産登録に向けた機運を高めたい」としている。

 入場無料で、利用は午前10時〜午後4時半。問い合わせは市博物館(072・245・6201)へ。

(2014年3月25日 読売新聞)

1726よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/27(木) 20:41:13 ID:QjVGHqTs0
今城塚古墳築造の労力数値化 論文が懸賞最優秀に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20140327-OYT8T00029.htm

◇延べ53万人動員、工期7年

  継体天皇の墓とされる今城塚古墳(6世紀、高槻市)について、築造の労力を数値化した論文が、同市の古代史をテーマにした懸賞論文の最優秀賞に輝いた。論文では、元ゼネコンの土木技術者が、現場監督の立場になって計算。使った土の量や当時の周辺人口などから、現在の市人口の1・5倍に当たる延べ53万人が動員され、約7年かけて完成させたとしている。(上野将平)

 東京都練馬区在住の高津和夫さん(84)の論文(A4判、16ページ)で、懸賞論文「いましろ賞」の応募作。

 論文では、主な作業を掘削や運搬、盛り土とし、当時の墳丘の高さや面積などから計17万5000立方メートルの土が使われたと計算。自身の経験から、1人が1日に掘ることのできる量を1・5立方メートルとし、運搬や盛り土も含めた作業には、延べ48万2380人が必要だったと推測している。

 さらに石棺や埴輪の製造・運搬にも、延べ4万4280人が関わったとした。

 1日の動員数は、周辺の水田面積や季節を考慮。農繁期は180人、農閑期は370人と時期による労働者の増減も計算し、工期は約7年と結論づけた。

 高津さんはゼネコン時代の大部分を現場で過ごし、現場監督も経験。ブルドーザーなどの重機が少なかった1960年頃まで、スコップなどを使った人力の作業を経験したという。

 1959年から6年間の大阪勤務で、仁徳天皇陵(堺市)をはじめとする百舌鳥(もず)・古市古墳群を見て、駆り出された民衆の気持ちになって研究を開始。退職後、奈良大の聴講生となり、報告書の書き方などを学んだ。

 今回の論文について、高津さんは「動員数は多いように思えるが、仁徳陵などの工事と比べると、余裕を持って築造したようだ。国力に見合った判断で、現場監督の立場としても感心させられた」と話す。今後は、土を採った場所や、水田面積などの詳細な計算を続けるとしており、市立今城塚古代歴史館の森田克行館長(63)は、「築造の様子や規模が目に浮かぶ論文だ。さらに研究を進める手助けをしたい」と話している。

(2014年3月27日 読売新聞)

1727よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/27(木) 20:46:55 ID:QjVGHqTs0
国立文楽劇場30周年で集い
03月27日 19時36分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140327/5969581.html

大阪の国立文楽劇場が来月、開館から30年になるのを記念する集いが行われ今年5月の公演を最後に引退する文楽の語り手で人間国宝の竹本住大夫さんらが演目を披露しました。
大阪・中央区にある国立文楽劇場は文楽を上演するための劇場として造られ、来月、昭和59年4月の開館から30年を迎えます。
きょうは劇場で記念の集いが行われ招待客などおよそ700人が集まりました。
劇場を運営する日本芸術文化振興会の茂木七左衛門理事長は「伝統芸能の文楽を継承するためには若い世代を中心に観客を呼び込むことが必要だ」と述べました。
続いて地元の企業などから寄贈された新しい3つのどんちょうが披露されました。
このあと今年5月の東京公演を最後に引退する文楽の語り手の第一人者で人間国宝の竹本住大夫さんらが正月などに上演される演目 「寿式三番叟」を披露し集まった人たちが熱心に見入っていました。
..

1728よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/28(金) 20:39:20 ID:9J8UFdxE0
30周年、国立文楽劇場で開場記念のつどい
2014.3.27 21:31
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140327/wlf14032721360018-n1.htm

 大阪の人形浄瑠璃文楽の本拠地、国立文楽劇場(大阪市中央区)が今月、開場30周年を迎え、「記念のつどい」が27日午後、同劇場で開かれた。4月の文楽公演が大阪での引退公演となる人間国宝、竹本住大夫さんらの出演で、おめでたい「寿(ことぶき)式(しき)三(さん)番(ば)叟(そう)」が披露されると、招待された関係者やファンら約700人から大きな拍手がわき起こった。

 国立文楽劇場は昭和59年3月に開場。文楽をはじめ、日本舞踊、歌舞伎、邦楽、演芸など上方芸能の継承、発展の本拠地として親しまれてきた。

 この日行われた「記念のつどい」では、独立行政法人日本芸術文化振興会の茂木七左衛門理事長が「文楽は大阪の地に発祥し、大阪の風土とともに発展した世界に誇る伝統芸能。国立文楽劇場には文楽を後世に伝えていくという重大な使命がある」とあいさつ。

 青柳正規文化庁長官も「東京オリンピックが開かれる2020年には上方芸能の拠点としてさらに発展することを祈念している」と祝辞を述べた。

 新しい緞帳が披露され、同劇場の三十年間の歴史を懐かしい映像で上映。

 最後に住大夫さんをはじめ、人形遣いの吉田和生さんらの出演で「寿式三番叟」が上演、荘重な語りやリズミカルな人形の動きに場内は見入っていた。

1729よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/03/29(土) 22:11:21 ID:UUK3FAMg0
「学童集団疎開」から70年 関連書籍2冊発刊
2014年3月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140329/20140329033.html

 太平洋戦争末期の1944年6月に閣議決定された「学童疎開促進要綱」に基づき着手された学童集団疎開から今年で70年−。四半世紀以上にわたり毎年夏に戦争体験集「孫たちへの証言」の発刊を手掛けている新風書房(大阪市天王寺区、福山琢磨代表)が「記憶を風化させてはならない」と学童疎開をテーマにした書籍2冊を刊行した。いずれも体験者の貴重な証言や資料を紹介し、子どもたちに暗い影を落とした疎開の実態に焦点を当てている。

 大阪の歴史や文化、産業など毎号特色ある特集を組む同社の「大阪春秋」(本体千円)は「国民学校と学童集団疎開」を特集した。

 元天理大学人間学部教授の赤塚康雄氏、国民学校と学童疎開を考える会理事長の奥村誠一氏ら体験者による座談会をはじめ、大阪市内各区別の他府県への疎開地と疎開児童数の推移、関連年表といった詳細な資料を紹介。疎開先の火災で児童16人が犠牲となった南恩加島国民学校(大阪市大正区)の児童を悼む「16地蔵」の由来や、疎開中に空襲などで家族と死別した戦争孤児が歩んだ過酷な戦後についても触れている。

 もう一つの「学童疎開」(本体1200円)は「孫たち−」第7集以降の中から疎開関連の証言を抜粋、補筆し、多くの写真やカラーの体験画も盛り込んでいる。

 福山代表(79)は「大阪府内郊外への学童疎開があったことや、各家庭に児童一人当たり月10円の費用が必要だったことなど、知られていない点も多い。幼い児童まで戦争の黒い渦に巻き込んだ史実をしっかりと検証する必要がある」と、2冊の編集に込めた思いを話している。

 問い合わせは電話06(6768)4600、新風書房へ。

1730よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/05(土) 22:44:08 ID:UvJUOOwM0
竹本住大夫さん 引退公演
04月05日 21時26分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140405/5631031.html 

人形浄瑠璃「文楽」の語り手の第一人者として長年活躍し、来月引退する人間国宝の竹本住大夫さんの地元・大阪での最後の公演が始まりました。
大阪市生まれで89歳の竹本住大夫さんは文楽の語り手「太夫(たゆう)」の第一人者として長年活躍し、平成元年には人間国宝に認定されましたが、体調などを理由に来月東京で行われる公演を最後に引退します。
大阪市の国立文楽劇場では地元・大阪での引退前最後の公演が5日から始まりました。
演目は、平安時代に都から九州の太宰府に左遷された菅原道真と周りの人々の人間模様を描いた「菅原伝授手習鑑」です。
竹本住大夫さんは、道真の家来の切腹の場面を描いた「桜丸切腹の段」で出演し、情感豊かに語る姿に観客から大きな拍手が送られました。
竹本住大夫さんの大阪での公演は今月27日まで行われ、引退公演となる東京での公演は来月10日から26日まで行われることになっています。
.

1731よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/05(土) 22:50:04 ID:UvJUOOwM0
区と市立工芸高が連携 「あべの歴史マップ」作成
2014年4月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140405/20140405038.html

 大阪市阿倍野区は同区に親しみと関心を持ってもらおうと、近くの大阪市立工芸高校と連携して「あべの歴史マップ」を作成、区民や観光客への活用を呼び掛けている。

 ビジュアルデザイン科3年の生徒10人が昨年7月から11月まで選択授業で取り組んだ。マップに使う資料や写真は同区が提供し、生徒に自由に製作してもらった。提出された10点のマップのうち、同区が審査して、平岡風花さん(当時3年)の作品を採用することにした。

 平岡さんの作品は、阿倍野区の地図を中心に置いて、名所旧跡に番号を付けて、写真と解説を周辺に配置。分かりやすく見やすいことが評価された。弥生時代に始まったとされる「あべの」の由来や、市の指定有形文化財に登録されている同校、安倍晴明神社や桃ケ池公園などを掲載している。

 マップは、同区の広報紙「広報あべの」の1月号に見開き(タブロイド判、縦約20センチ、横約40センチ)で入れ込み、4万6500部発行。新聞折り込みや配布希望のあった人、駅や図書館、区役所の情報コーナーなどに配布した。ホームページでも閲覧でき、今月上旬には英語、韓国語、中国語のマップもできる。

 同区役所企画調整課では「同区の南側にはたくさんの歴史がある。市民や外国の人にも活用してもらい、興味を持ってもらいたい」と話していた。

1732よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/06(日) 12:28:36 ID:cShBI6To0
甘茶掛け 息災願う 北御堂「花まつり」
2014年4月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140406/20140406019.html

 仏教の始祖であるお釈迦(しゃか)様の生誕を祝う「花まつり」の催しが5日、大阪市中央区の本願寺津村別院(北御堂)であり、信徒をはじめ友人、家族連れらが無病息災を願って厳かに両手を合わせた。

 お釈迦様が誕生の際に甘露の雨が降り、その露を産湯にしたという伝説に基づく習俗。逸話にならい、参列者は本堂に設けられた立像にひしゃくですくった甘茶を掛け、静かに手を合わせた。

 子どもたちによる献灯、献花もあり、菅義成輪番は講話で「人生を少しでも温かく、強く、心を豊かに生きていきましょう」と問い掛けた。

 “おつとめ”の後にはお菓子が配られ、子どもたちも笑顔。親子3代で訪れた角谷久代さん(71)=同市東成区=は「孫たちも楽しかったと喜んでくれている」とにこやかに話した。

1733よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/09(水) 21:00:13 ID:xhr83Z9Y0
「真田丸」再現の軍資金募る…模型作製へ
2014年04月09日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140409-OYO1T50025.html

 大坂の陣(1614〜15年)から400年の節目に合わせ、豊臣方の武将・真田幸村が現在の大阪市天王寺区に築いた大坂城の出城「真田丸」を模型でよみがえらせるプロジェクトが同区で進んでいる。全国の幸村ファンに寄付を呼びかけ、集まった金額が多ければ多いほど、模型のサイズを大きく、より精巧にできるという趣向だ。

 真田丸は幸村が大坂冬の陣(1614年)で大坂城の南側に構えた戦闘拠点。銃撃隊を率いる幸村の巧みな采配で徳川方の猛攻撃を防いだと伝わる。現在、跡地とみられる地域は、真田山公園になっている。

 区内にはほかにも、徳川家康が本陣を置いた茶臼山や、幸村が討ち死にしたという安居神社も残る。

 真田丸の模型作りは、大坂冬・夏の陣から400年を迎えるのを盛り上げようと、同区が計画。製作費を全額、寄付金でまかなうため、真田家の家紋にちなんだ基金「六文銭ファンド」を市が設立し、全国に善意を募ることにした。

 寄付は個人住民税や所得税が軽減される「ふるさと納税制度」を適用。六文銭をデザインしたグッズがもらえるなど特典があり、6000円以上の寄付者は模型に氏名も刻まれる。

 お金が集まるほど、模型のグレードもどんどん上がる仕組みだ。例えば、100万円あれば、発泡スチロールで縦横1メートルの模型。1000万円だと、縦横1・8メートルで、精巧な真田丸の櫓(やぐら)や幟(のぼり)、甲冑(かっちゅう)姿の武者を並べることができるという。

 寄付は3月末現在で32万円余り。8月末まで募る予定で、水谷翔太区長(29)は「皆さんの協力で、立派な真田丸を再現したい」と呼びかけている。

 模型は専門家の考証を経て再現。来年5月を目標に完成させ、同11月まで区内で開催されている「天王寺 真田幸村博」で目玉として展示される。問い合わせは同区企画総務課(06・6774・9938)。

真田幸村 1567〜1615年。信濃国・上田城主の真田昌幸の次男。1600年の関ヶ原の戦いでは敗れた西軍につき、戦後、和歌山・九度山にちっ居したが、豊臣秀頼の招きで大坂の陣に参戦。冬の陣は真田丸で奮戦し、夏の陣では徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込んだという。「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれ、現代も根強い人気を持つ。家紋は「六文銭」。


2014年04月09日

1734よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/10(木) 19:42:28 ID:udf0wvv20
>沖縄戦などで亡くなった3万5000人余りの大阪の関係者
  
 こんなにも多数の方々が沖縄で亡くなっていたとは・・・
 
沖縄で大阪の戦没者を追悼
04月10日 18時40分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140410/3474441.html 

太平洋戦争末期の沖縄戦などで命を落とした大阪の関係者を慰霊する50回目の追悼式が大阪府の松井知事と大阪市の橋下市長も出席して沖縄で開かれました。
沖縄戦などで亡くなった3万  5000人余りの大阪の関係者を慰霊するため大阪府と大阪市などは昭和40年に沖縄県糸満市の平和祈念公園に「なにわの塔」を建立し、毎年、追悼式を開いています。
今年で50回目となる追悼式には遺族およそ50人の他、大阪府の松井知事と大阪市の橋下市長も出席しました。
式では松井知事と橋下市長が追悼の意を表し、このうち橋下市長は「戦争の悲惨さと、そこから学んだ教訓を語り継ぎ世界の恒久平和の実現のため全力を尽くすことが私たちの責務だ」と述べました。
続いて出席者全員が塔の正面に設けられた献花台に花を手向け戦没者を悼みました。
松井知事は記者団に対し「今は当たり前のように平和を享受しているが戦争で亡くなられた方々の思いをしっかり受けとめ、次の世代に平和な日本を引き継がなければならない」と述べました。
橋下市長は「自分の子どもが戦争で命を落としたと考えると耐えられない。遺族の方々は僕の想像を超える悲しみをずっと抱き続けている。戦争は2度と繰り返してはならない」と述べました。

1735よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/10(木) 20:49:59 ID:udf0wvv20
江戸期おみくじ文化財に
2014年04月09日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140409-OYTNT50135.html

 ◇大吉「誰もがあなたを尊敬」

 島本町の勝幡寺(しょうばんじ)(山崎)所蔵の江戸時代中期のおみくじの版木や木箱などが、同町の有形民俗文化財に指定された。大吉の版木には「誰もがあなたを尊敬するでしょう」という意味の言葉などが刻まれている。町は今秋にも一般公開する。

 おみくじは木箱から、番号が書かれた竹棒を引き、棒の番号に応じて「大吉」「凶」などが刷られた紙の「みくじ箋(せん)」を受ける方式。版木(縦20センチ、横80センチ)9枚や竹棒99本、棒を入れる木箱、みくじ箋を入れるタンスでなる「勝幡寺 元三(がんざん)大師みくじ版木関係資料 一式」として指定された。

 大吉の版木には、購入者が尊敬の対象になるという意味の「衆人皆仰望」の文言などが並び、木箱には、比叡山中興の祖で、おみくじを考案したとされる良源(912〜85)を表す「元三大師」の文字も。

 現存するのは江戸時代後期のおみくじが多いが、彫りが深く施された版木の特徴から、同時代中期と特定された。町教委は「一式が残っていることが価値を高めている」としている。

 問い合わせは町教委生涯学習課(075・962・6316)へ。

2014年04月09日

1736よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/13(日) 16:27:52 ID:O0PdIz3Y0
【河内幻視行】
徳川政権を創り、滅ぼした「京街道」の“諸行無常の響きあり”
2014.4.13 12:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n1.htm

 坂道を登ったところに、道幅の狭い道が場違いのような感じで、ゆるやかに曲がりながら延びていた。本町橋と書かれた橋があった。橋といっても陸橋で、左手には京阪守口市駅の高架ホームがほぼ正面に見えた。

 橋のそばにある高層マンションの手前に、「文禄堤」と書かれた案内板があった。豊臣秀吉が文禄5(1596)年、毛利輝元ら3大名に命じ、淀川沿いに築かせた堤防上の道、とあった。

 道は京と大坂を最短で結び、京に向かうときは京街道、大坂に向かうときは大坂街道と呼ばれた。付近は、江戸から大坂にいたる東海道57次の57次目で、守口宿があった。

 中2階の古い民家や寺院もあった。古街道のおもかげも、かすかに残っている。

 橋の右手の眼下には、広い道が延び、ビルや商店街が続いている。現在は淀川まで1キロほど離れているが、当時はここまで流れが迫っていた。国道1号沿いにある守口市役所を中心とする官庁街は、すべて川底か河川敷であった。

 京街道の終点は、伏見である。なぜ伏見か。秀吉がここに伏見城を築いたからである。

 伏見城は天正19(1591)年、甥の秀次に関白の地位を譲ったあと、「隠居城」として建設がはじまった。

 天才的な土木技師でもあった秀吉は隠居城であっても、ハンパな城造りでは納得しなかった。本格的な「都城」にするために、京街道のほか、宇治川沿いには奈良方面からの大和街道に植島堤を造らせた。

 大ざっぱな地理教示をすれば、ふたつの街道は逆「V」字形の先端で、伏見城下にある南北の京町通りに合流する。この通りを中心とした城下町に人々が集散し、日本一のにぎやかな繁華街にするのがネライであった。

 ふたつの街道の整備は、だが秀吉にとっては、アダとなった。大坂を攻めるさい、かっこうの進撃コースにもなるからだ。

 街道が造られてから、わずか20年後の元和元(1615)年4月、大坂夏の陣が起き、豊臣家は滅亡した。京の二条城で開かれた軍議で、徳川家康は逆「V」字形の地図を眺めながら、ニンマリと笑った。「この、ふたつの街道を利用するのじゃ」と、配下に命じたはずである。

 2代将軍秀忠が率いる12万の兵は京街道、松平忠輝率いる約3万5千は大和街道と二手にわけ、道明寺(藤井寺市)付近で合流する作戦を立てた。すでに濠(ほり)を埋め立てられてしまった大坂城は、南方面からの攻撃には弱かったからである。

 真田幸村などの活躍はあったが、大坂城は家康のネライ通りに落城した。「V」字形の街道が、「VICTORY・ROAD」となったのである。

 だが約12万もの大軍が進んだ京街道のほうは、難渋したはずである。堤の上の街道だから、道幅が狭すぎた。明治前期の史料でも「京街道 守口町ヨリ仁和寺村ヲ経テ枚方村ニ向フ 道幅二米五十ヨリ二米八十」と記載されている。

1737よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/13(日) 16:30:11 ID:O0PdIz3Y0
>>1736

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041312000003-n3.htm

 おそらくヨコ2列程度でしか進めなかった。先頭集団が守口宿あたりに達したとき、シンガリの軍はまだ京を出発できなかった。

 この狭さが二百数十年後、こんどは徳川方の命取りとなった。鳥羽伏見の戦いである。

 15代将軍、慶喜が率いる大坂城の幕府軍が京の薩長軍討伐のために、城から出兵したのは、慶応4(1868)年正月2日から3日にかけてであった。

 総勢1万5千、対する薩長軍は5千。数で見るかぎり、幕府軍が圧倒的に有利であった。だが大和街道や西国、高野両街道のコースもあったのに、京街道から伏見、鳥羽両街道になだれこむという、愚直としかいいようがない作戦を立てた。

 京街道は、さすがに家康の時代より道幅が広くなったものの、ヨコ4列程度しか通れなかった。タテに長い兵を、アリのように進めるだけであった。信じられないことに、先頭の兵たちの銃には、弾がこめられていなかった。

 鳥羽、伏見両街道での戦いは、もちろん惨敗であった。わずか3日後の6日には、こんどは京街道だけでなく、大和、高野街道などを、ちりぢりになった敗残兵の列が続いた。

 それでも幕府軍は、守口宿で歩兵一大隊の防御陣地を築く方針だった。だが午後8時ころ、大坂城から「すべて城に引きあげよ」という慶喜の伝令がとどいた。だれもが難攻不落の大坂城での籠城戦を展開すると思いこんだ。

 だがその日の深夜、慶喜はひそかに城から逃げ出した。幕府軍の総崩れがはじまった。

 −−京街道から坂をおりると、ふつうの区画の住宅やビルが建ちならんでいた。幕府軍がこのあたりに最後の防御陣地を構築し、慶喜が徹底抗戦にのぞんだら、まだ勝利の「V」の可能性は残っていた。

1738よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 04:57:16 ID:hg3U0WwM0
家康を殺しかけた銃も展示…大坂の陣は「科学力の闘い」
2014.4.13 21:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n2.htm

 豊臣家と徳川家が争った大坂の陣の勃発から今秋で400年を迎える。人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士としても知られる沢田平さんは、鉄砲研究家として盛り上げに一役買おうと、豊臣方の名将・真田幸村に関するコレクションの展示を準備中だ。

(聞き手 川西健士郎)


 −−今年が大坂の陣から400年にあたるのに合わせ、自宅横の資料室で真田幸村に関する資料の展示を準備されていますね

 沢田 幸村公の研究を続けてきたものですから、今月から2年間、オープンするつもりで準備しています。私ひとりでやっている資料室ですので、事前予約制になりますが、展示品を説明させてもらい、手にとって見てもらいたいと思っています。興味のある方は電話いただければ、対応いたします。

 −−どのような品を見ることができるのでしょう

 沢田 まず、茶臼山(大阪市天王寺区)で、幸村が家康公の面前までいって発射しようとした鉄砲、馬上宿許(しゅくしゃ)筒です。馬の動揺のために幸村が取り落として敵の手にわたってしまったものです。マシンガンのルーツともいえる連発銃です。もしこのとき、この鉄砲が火を噴いていたら、家康公の命はそこで終わったわけですから、その後時代はどうなったか。江戸時代はなかったことになるかもしれませんね。

 −−馬上筒はどうやって手に入れたのですか

 沢田 紀州徳川家に伝わり、家臣の砲術家・勝野家に預けられ、勝野流秘銃として明治まで紀州藩に温存されてきたものです。戦後、進駐軍の武器狩りによって米国に流出していたのを発見しました。

 戦利品として持ち帰った進駐軍の兵隊さんが80歳を超える老齢になり、5〜6年にわたる交渉の末に譲ってもらえることになりました。幸村の出身地の長野県では何度か紹介したもので、大阪での展示は初めてです。

1739よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 04:59:32 ID:hg3U0WwM0
>>1738

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140413/wlf14041321000010-n4.htm

 −−そうした遺品から見えてくる幸村の実像とは

 沢田 幸村は日本一(ひのもといち)の強士(つわもの)と称賛されますが、単なる勇猛な武将ではありません。甲冑から推定する体の大きさも、ごく普通です。幸村の遺品には、忍術を思わせるものも数多くあります。幸村に仕えた「真田十勇士」の猿飛佐助や霧隠才蔵は架空ともいわれますが、幸村の元に忍術つかいがいたことは間違いありません。

 幸村は関ケ原の合戦後、大坂の陣までの14年間、高野山の麓の九度山に蟄居(ちっきょ)していました。馬上宿許筒はこのとき開発されたと考えていますが、同時に真田紐(ひも)という丈夫で美しい紐をつくり、全国各地に販売したことが知られています。

 幸村は身内に財政支援を求める文書が残っていて、金に困っていたといわれます。ところがどっこい、それは生活の実態を隠した表向きの顔であって、実際は優れた経済人であり、各地で真田紐や薬を売って情報を集めていたのです。

 −−徳川軍の遺品はありますか

 沢田 大坂の陣で徳川軍が使ったと考えられる全長2メートルの大鉄砲2丁を展示します。国内に大鉄砲はこの2丁を含む4丁しかありません。国友と堺でつくられたもので、関ケ原の合戦の前に砲術の第一人者、稲富祐直(いなどめすけなお)に家康が作らせたものです。

 大坂冬の陣では幸村の砦(とりで)が徳川軍の侵入を完全に防いで、大坂城は難攻不落を誇っていました。しかし、徳川軍は城の外から天守閣に砲撃を加え、淀君らを驚かせて講和に持ち込み、大坂城は堀を埋められてしまいます。大鉄砲は、徳川軍がこのとき使ったものと考えてよいと思います。

 −−鉄砲の性能が大坂の陣の勝敗に大きく影響しているのですね

 沢田 大坂の陣は、科学の力のぶつかり合いでした。幸村は世界最先端の連発銃をもっていましたが、大坂城に届く鉄砲を長年にわたって開発してきた家康の執念が勝ったといえましょう。どうですか、科学の重要性を分かっていただけたでしょうか。

【プロフィル】沢田平(さわだ・たいら) 昭和10(1935)年、大阪市生まれ。近畿大学法科、関西医療学園を経て、大阪市東成区で沢田整骨院の院長を務める。堺鉄砲研究会を主宰し、古式砲術と古式銃の研究に取り組む。和時計やエレキテルなど江戸時代の科学技術の研究家としても知られる。主な著書に「日本の古銃」「和時計」など。78歳。

1740よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 20:47:57 ID:Kr2ABlFE0
■百舌鳥・古市古墳群 世界遺産目指し…周辺の高さを制限
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000004437.shtml

 堺市の「仁徳天皇陵」を含む百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録を目指し、大阪府と周辺自治体は景観を守るため、建築物の高さ制限などの案をまとめました。

 堺、羽曳野、藤井寺の3市にまたがる百舌鳥・古市古墳群には、「仁徳天皇陵」など61基の墓が集中し、大阪府などは世界遺産登録を目指しています。

 「建築物の高さ、形態意匠、屋外広告物を対象に規制。古墳との調和した景観を目指す」(事務局)

 選考のポイントには、周辺環境の整備も含まれています。

 大阪府などは14日の会議で、古墳の近辺で15メートル以下の高さ制限を設けるほか、屋外広告や派手な色の外壁を禁止する案をまとめました。

 今後、議会などにはかった上で、2017年の世界遺産登録を目指すということです。 (04/14 18:07)


百舌鳥・古市 周辺で高さ規制
04月14日 18時42分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140414/3650301.html 

大阪の百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産への登録をめざして大阪府や堺市など関係する自治体は課題となっている周辺の景観保全の対策として新たな建築物の高さなどを規制する方針を決めました。
百舌鳥・古市古墳群について大阪府や地元の堺市などはユネスコの世界文化遺産への登録をめざしていましたが古墳群周辺の環境や景観を保全する対策が不十分だなどとして去年8月に推薦が見送られました。
これを受けて関係する自治体などが会議を開き、条例で周辺の建物の高さなどを規制する方針を決めました。
具体的には古墳からの距離が  100メートル前後の範囲では新たな建物の高さを15メートル以下とし外壁も目立ちにくい色に規制する他、広告物の掲示を原則禁止するとしています。
またその外側の一定の範囲では建物の高さを45メートル以下とするとしています。
関係する自治体では今後、条例の制定を目指して説明会を開くなどして地元の住民に理解を求めていくことにしています。

1741よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/14(月) 21:13:30 ID:Kr2ABlFE0
「大阪根付き『鴈治郎はん』と呼ばれる役者に」中村翫雀さん、四代目襲名へ意気込み
2014.4.14 12:58
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140414/wlf14041412580010-n1.htm

 上方歌舞伎の大名跡「中村鴈治郎(がんじろう)」を来年1月、10年ぶりに四代目として襲名する歌舞伎俳優、中村翫雀(かんじゃく)さん(55)が14日、東京都内で記者会見し、「鴈治郎は憧れの名前。どうしても継ぎたかった」と話した。

 「今年中に大阪へ住民票を移す予定。大阪に根付き『鴈治郎はん』と呼ばれるような役者になりたい」と抱負を語った翫雀さん。襲名披露興行は来年1、2月の大阪松竹座からスタート。引き続き4月に東京・歌舞伎座、6月に福岡・博多座、12月の京都・南座などで行われる。

 中村鴈治郎の初代は翫雀さんの曽祖父が名乗り、上方歌舞伎の大スターに。以降、祖父で人間国宝の二代目の後は父の人間国宝、坂田藤十郎さん(82)が平成17年の藤十郎襲名まで三代目を名乗っていた。

1742よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/18(金) 04:48:52 ID:9PbiG0ZQ0
四天王寺絵堂を特別御開扉 聖徳太子の偉業眼前に
2014年4月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140417/20140417018.html

 聖徳太子の遺業を受け継ごう−。太子創建の和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区、奥田聖應管長)で16日、境内・絵堂の特別御開扉が始まった。8年後の2022年に迎える「聖徳太子御遠忌(おんき)1400年」に向けた取り組み。太子一生の事跡を描いた壁画が奉納されている堂内では、僧侶による解説「絵解き」も行われ、多くの参詣者が太子の偉大な足跡に見入っている。

 「遠忌」は仏教の宗派の開祖などの年忌法要を意味し、約50年間隔で建物の修繕や記念事業といった数々の取り組みがある。1922年の御遠忌1300年記念事業では、四天王寺四箇院の一つで、仏教修行や人間教育の場「敬田(きょうでん)院」を受け継ぎ、四天王寺高校・中学校の前身である「天王寺高等女学校」の創立をはじめ大きな動きがあった。

 御遠忌1400年に向けても各種事業の計画が進み、今回の特別御開扉はその第一歩として企画された。

 絵堂は79年再建で、堂内には画家の故・杉本健吉氏が6年がかりで手掛けた7面からなる「聖徳太子絵伝」が掲げられている。これまで僧侶による絵解きは法要出席者など一部の関係者には行われていたが、一般参詣者対象としては今回が初の試み。

 この日最初の絵解きには約50人が来堂。皇位継承をめぐり崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)らと排仏派の物部守屋(もののべのもりや)らが対立した際、太子が崇仏派のために仏法守護神「四天王」に戦勝を祈願した姿について、僧侶は「後の四天王寺建立につながる重要な場面」と説明し、人々が興味深く耳を傾けていた。

 池田市から家族で訪れた男性(76)は「拝観と解説で深く太子について知ることができた」と満足そう。同寺参詣部の山岡武明さんは「1400年の節目に向けて歴史的な資料の数々を通じて、人々の心の中に聖徳太子が復活することを願いたい」と話している。

 開扉は30日までで、時間は午前8時半〜午後4時半。絵解きは午後1時、同3時の2回行われる。入堂無料。

1743よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/18(金) 20:50:21 ID:tRdXJz4g0
大阪ロマン紀行

 大阪のDNAを感じさせる場所や企業、人を、独自の嗅覚を持つコラムニストの岡力氏が、関西に点在するオカルトスポットを、妖怪講座が人気の亀井澄夫・妖怪研究所所長が、代わる代わる紹介していきます。二人の案内人がお薦めする“ディープ大阪”を存分にお楽しみください。

今も地元に愛される若き武人

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2014年4月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/140418/20140418051.html

八尾市幸町 木村重成の墓

 今年と来年は大坂の陣から400年ということで、各地で記念のイベントが開かれている。大阪人にとって祝うべき出来事ではないと思うが、当時の武将の中に、その生きざま、戦場での散り際の見事さが、凄(すさ)まじく、あっぱれで、今も人々の胸を熱くし、感じ得る人物がいる。

 その中の筆頭が、今なお愛され続けている武人、木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)である。

 1614(慶長19)年の大坂冬の陣が木村重成の初陣で、当時、20歳そこそこの年齢であった。ということは、夏の陣と合わせて、生涯に2度しか参戦しなかったのである。冬の陣で佐竹義宣(さたけよしのぶ)の軍を蹴散らし、大勝利を収める。その噂(うわさ)は重成の槍(やり)の威力とともに、敵味方の双方に驚異的武将として瞬く間に伝わっていった。

 翌15(慶長20)年、大坂夏の陣の出陣に際し、死しても見苦しくないよう、体を清め、髪を洗い、髪と甲冑(かっちゅう)に香を焚(た)き込めた。これが後に、徳川家康が重成の首を手にしたとき、頭髪の香と兜(かぶと)が脱げないように緒の端を切り落としているのに気付き、二度と兜を自ら脱ぐことはないという、討ち死にの覚悟の清さに感嘆したと言われている。

 冬の陣で重成は山口重信と一騎打ちに臨む。重信は重成の妹婿にあたる(諸説あり)。この勝負を名勝負とすることが、せめてもの妹婿への情けと思い、得意の槍を手放して組み合った。激闘の末、重信を破った重成だが、井伊家の庵原朝昌(いはらあさまさ)の槍にあっさり刺されて討ち死にする。重成が槍を手にして戦っていたなら、このような死に方はしなかったものを、という思いから、八尾市幸町にある彼の墓は別称「無念塚」と呼ばれている。

 現地に行ってみると、のどかな公園の入り口に大きな石柱が2本あり「木村重成公」「噫忠勇武烈(ああちゅうゆうぶれつ)」と彫られている。墓所も公園の中で広い敷地をしめており、その立派さに重成の人気の高さがうかがえる。

 この公園は「木村公園」と呼ばれているようで、近くの三つの橋も「木村橋」「東木村橋」「西木村橋」という名で、「このへんに住む木村さんは、自分の橋や公園みたいでいいなあ」なんて思いつつ、近くのお寺「蓮城寺(れんじょうじ)」に行ってみると、5月に「木村重成公四百年御遠忌追善法要(ごおんきついぜんほうよう)」が行われるとのこと。本当に地元で今も愛されている武将なのだ。「若江岩田」駅まで歩く途中「若江木村通」の交差点まであった。

 大阪に移住を考えている木村さんが、もし、いたなら、この木村重成の墓周辺をお勧めしたい。実際に木村さんの「マイタウン」になること請け合いである。

1744よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/20(日) 05:20:20 ID:3apyuSJc0
今城塚古墳の埴輪、クリーンアップ 高槻でイベント 大阪
2014.4.20 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140420/osk14042002000003-n1.htm

 高槻市郡家新町の史跡公園「いましろ 大王(だいおう)の杜(もり)」にある今城塚古墳で19日、埴輪(はにわ)のクリーンアップ作戦が行われた。

 6世紀前半に築造された同古墳は、淀川流域最大の前方後円墳。継体(けいたい)天皇(聖徳太子の曾祖父)の真の陵墓とされており、10年間にわたる発掘作業で出土した「埴輪祭祀(さいし)場」(650平方メートル)には、約200体の埴輪が復元・配置され、古代王権の儀礼様式を今に伝えている。

 クリーンアップ作戦は、史跡公園内にある市立今城塚古代歴史館の主催。ゴールデンウイークを前に公園をきれいにし、観光客に気持ちよく散策してもらうのが狙いで、市内の小学生軟式野球チーム「リトルジャイアンツ」のメンバーや家族連れら約120人が参加した。

 参加者たちは、古墳北側にある埴輪祭祀場に入り、水でぬらしたタワシを手に、武人や巫女(みこ)、動物、家などさまざまな形をした埴輪を次々に磨き、周辺の雑草を抜いた。約1時間の作業で埴輪はすっかりきれいになった。参加した子供たちは「すごい古墳が高槻にあるんだ」と誇らしそうだった。

.

1745よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 18:55:20 ID:0nbYKVAc0
活気伝わる道頓堀 芝居小屋資料130点展示
2014年4月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140420/20140420025.html

 開削から来年で400年を迎える道頓堀をテーマにした企画展「再現!道頓堀の芝居小屋」が19日、大阪市北区天神橋6丁目の市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」で始まった。芝居小屋の建絵図など貴重な資料130点を展示。多くの来館者が「道頓堀五座」に代表される大阪文化の発信地の歴史の一幕に見入っている。5月25日まで。

 同館と関西大学都市遺産研究センターが主催。会場には舞台背景やポスター制作で活躍した芝居画家山田伸吉による作品の数々や、大阪出身の劇場大工中村儀右衛門が手掛けた浪花座、角座といった劇場の建絵図など同センター所蔵の資料がずらり。来館者は「当時の活気が伝わってくる」「いい時代だった」とつぶやきながら往時に思いをはせていた。

 このほか明治中期に描かれながら不採用となった洋風の浪花座の建絵図や、これを基に精巧に復元された縮尺模型もお目見え。セレモニーでは浪花座での上演という想定で能勢人形浄瑠璃鹿角座による三番叟(さんばそう)も披露され、開幕を盛り上げた。

 同大学文学部の長谷洋一教授は「大きな節目を前にさまざまな切り口から道頓堀の良さを再認識していただきたい」と話していた。午前10時〜午後5時。

1746よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 19:27:15 ID:0nbYKVAc0
飛び出し注意、縁もPR 四天王寺に聖徳太子看板
2014年4月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140420/20140420022.html

 聖徳太子が「飛び出し坊や」に−。聖徳太子が摂政皇太子として最初に建立したことで知られる大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)でこのほど、太子をデザインした飛び出し注意看板が完成した。笏(しゃく)を手に、にっこりと駆け出すユーモラスなポーズ。本来の注意喚起はもちろんのこと、天王寺が聖徳太子のまちであることを発信する役目も担っている。遺業がしっかりと受け継がれている寺、まちだけに太子看板の“降臨”は話題となりそうだ。

 境内では半年ほど前から北西の「中之門」などに太子を描いた立て看板を設置。車での参詣者に一時停止や徐行といった安全運転を促している。同寺参詣部の山岡武明さんは「『四天王寺=聖徳太子』ということを皆さんに知ってもらいたい」と看板のデザインを手掛けた。約40年前に誕生し、元祖とされる看板「飛び出し坊や」が静かなブームを呼んでいることにも着目。発祥の地である滋賀県へ赴き、さまざまな関連グッズまで売られている状況なども視察した。

 「立てる場所によって左右の向きの看板が必要であることや、歩行者に危険がないように縁は必ず丸みをもたせるなど、意外と気付かない点も多く試行錯誤の連続だった」と振り返る。

 看板自体の大きさは全長約80センチ、幅約40センチで支柱は高さの調節も可能。所有者や団体名を記す空欄もある。素材にプラスチックをアルミで挟んだ複合板を使って軽量に仕上げた。現在6基が完成しており、まずは境内で設置場所を調整中という。

 看板には本来の交通安全以外の役目もある。同寺では8年後に聖徳太子の年忌法要「御遠忌(おんき)1400年」が控えており、太子を祭る「聖霊(しょうりょう)院」(太子殿)周辺や、戦後から復興してない箇所の改修など一大事業の計画が着々と進んでいる。今回の看板制作もその一環という位置付けだ。

 山岡さんは「現在、天王寺のまちを歩いても聖徳太子の姿はないが、看板がまちの方々に立つことで、より多くの人に聖徳太子とのゆかりを認識もらいたい」と力説。境内以外の設置については「地域や団体などと相談し、申し出があれば既存の古い看板と交換してもらいたい」と広がりに大きな期待を寄せる。設置場所は同寺のホームページで順次紹介していく予定。

1747よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/21(月) 19:56:48 ID:0nbYKVAc0
「公園100選」木々伐採も
2014年04月19日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140419-OYTNT50068.html

 ◇枚方・百済寺跡再整備 根が遺構一部破損

 枚方市が今年度計画する国特別史跡・百済寺跡(8世紀中頃)の再整備を巡り、市教委が難問に直面している。約1700本ある木々のうち、遺構に影響のあるものを伐採しなければならないためだ。市民からは「慣れ親しんだ景観が変わる」と、反発する声が出ている。(編集委員・関口和哉)

 1967年に史跡公園第1号として整備された際、府教委がアラカシ2200本などを植栽した。その後、市がマツやサクラなどを植えており、寺跡には現在、計約1760本が茂っている。

 市は73年、同寺跡を「百済寺跡の松風」として「枚方八景」に指定。2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれており、市民らの憩いの場になっている。

 ところが、今年度からの再整備を前にした市教委の調査で、西塔跡に生えた直径約1メートルのクス2本の根が、塔の土台(基壇)を壊していることが判明。講堂跡にも、マツ2本が直径約50センチに育ち、遺構に悪影響を及ぼしていた。寺跡の下層には、寺院造営以前の遺構も存在し、根で破壊される懸念が出ているという。

 市教委文化財課は「整備当初は、樹木が遺跡に悪影響を与える認識が薄かった。保存に影響する樹木は伐採するしかない」として処分する樹木の選定を進める。文化庁記念物課は「遺跡の重要性を考慮すれば、やむを得ない」としている。

 現在の計画では多くの人が花見に訪れるサクラは残す方針だが、その他の多くの木々は処分される見込み。新緑の季節を前に地元の主婦(70)は「住宅街の中にある貴重な緑地で、長年親しんできた。一本の木も切ってほしくない」と反発している。

 椎名慎太郎・山梨学院大名誉教授(文化財保護法)の話「地域住民の協力なしに遺跡の保護・活用はできない。行政は情報公開を進めるとともに幅広く意見を聞き、伐採するなら必要性を丁寧に説明すべきだ」

<百済寺跡> 渡来系氏族の百済王(くだらのこにきし)氏が創建したとされる寺跡。国庫補助事業で整備された。当時の調査で、東西両塔や金堂など主要伽藍(がらん)を確認。2005年度からの調査では、寺域が約140メートル四方と判明した。

2014年04月19日

1748よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/22(火) 22:39:10 ID:XxvIsJGY0
命日に聖徳太子しのぶ聖霊会
04月22日 17時14分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140422/3895791.html

聖徳太子ゆかりの大阪の四天王寺で聖徳太子をしのぶ大規模な法要「聖霊会」が行われました。
大阪・天王寺区の四天王寺では聖徳太子の命日とされる4月22日に聖徳太子をしのんで毎年「聖霊会」を行っています。
午後0時半から始まった法要では、まず僧侶や寺の関係者らおよそ 100人が列を作り笛や太鼓を吹き鳴らしながら境内を練り歩きました。
このあと境内にある池の上につくられた石舞台で舞楽が奉納されました。
この舞楽はおよそ1400年の歴史を引き継ぐとされ国の重要無形民俗文化財に指定されています。
このうち「振鉾」と呼ばれる最初に行われる舞は舞台を清め法要の無事を祈るもので赤と緑の衣装をきた人たちがほこを大きく回したり左右に振ったりしながら優雅な舞を披露しました。
境内には全国各地から多くの人が訪れ華やかな舞を見つめていました。
群馬から訪れた男性は「初めて見ましたが、とてもすばらしいです。
時間の流れがゆっくり感じました」と話していました。
.

1749よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/23(水) 23:06:39 ID:dXS2xURE0
華麗歴史絵巻 四天王寺「聖霊会舞楽大法要」
2014年4月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140423/20140423031.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で22日、開祖・聖徳太子の命日にちなんだ「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」(重要無形民俗文化財)が執り行われた。太子の御霊を慰める法要と舞楽が厳修され、みやびやかな音色が響く中、多くの参詣者が歴史絵巻を思わせる光景にじっくりと見入った。

  同法要は約1400年の歴史を誇り、同寺の数ある年中行事のうち重要かつ最大規模として知られる。境内の石舞台では衆僧による声明(しょうみょう)に続き、天王寺楽所雅亮会(がくそがりょうかい)(小野功龍理事長)の舞人、楽人が勇壮華麗な舞楽の数々を奉納。朝鮮半島伝来とされ、太子の目覚めを慰める供養舞と伝わる5人舞「蘇利古(そりこ)」や、鳥の羽根を背にした童子による華やかな童舞「迦陵頻(かりょうびん)」などが次々と繰り広げられた。古式ゆかしい装束と所作、舞台の四方に立つ曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の装飾などが相まって人々を終始魅了した。

1750<削除>:<削除>
<削除>

1751よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/25(金) 21:35:43 ID:Z6okUgAc0
古都・大阪と最先端大都市・大阪の融合の象徴とも言えるニュースです。


■山本能楽堂 改修完了 「メインは最新型LED」
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000004526.shtml

 大阪で最も古く、国の登録有形文化財にも指定されている「山本能楽堂」で、ほぼ3年間にわたった改修工事が完了し、関係者に公開されました。

 「メインは最新型のLED照明にしたこと」(能楽師 山本章弘さん)

 舞台には1,670万色を表現できるLED照明を設け、夕日や月の光などで効果的な演出ができるようにしました。

 能楽以外でも様々な芸能に活用できるということです。

 1927年に建てられた、「山本能楽堂」は、戦争で焼失したあと再建。

 今回の工事は、総事業費2億円で耐震性も強化されました。

 稽古場や資料室も一新され、上方芸能を世界に向けて発信できる拠点にしたいということです。 (04/24 18:06)

1752よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/26(土) 05:02:31 ID:l4D2tR7I0
大坂冬の陣400周年 「赤い通天閣」で真田幸村博をPR
2014.4.25 23:21
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140425/wlf14042523210032-n1.htm

 大坂冬の陣400周年記念イベントの一環で、大阪のシンボル・通天閣が25日、一日限定で真田幸村の甲冑と同じ赤色にライトアップされた。

 幸村は大阪市天王寺区に激戦地となった砦「真田丸」を築いた。同区などは、これにちなみ5月4日に天王寺公園で「天王寺 真田幸村博」を開催する。

 通天閣には、甲冑姿の市民約10人が集まり、点灯式を開催。新世界も練り歩き「400年ぶりに東京に倍返しを」と“燃える大坂”をPRした。

1753よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/26(土) 21:47:39 ID:RWsJT6G.0
藤十郎さん「曽根崎心中」お初を演じ納め 1351回目、異例のカーテンコール
2014.4.26 21:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140426/wlf14042621090033-n1.htm

 歌舞伎の人間国宝で高松宮殿下記念世界文化賞受賞者の坂田藤十郎さん(82)が26日、代名詞ともいえる「曽根崎心中」のヒロインお初を演じ納めた。60年以上にわたり演じ続けた当たり役は、この日で実に1351回目。客席を埋めた観客は、最後となるお初に名残を惜しんだ。

 藤十郎さんは今月、東京・歌舞伎座の「鳳凰(ほうおう)祭四月大歌舞伎」に出演。千秋楽のこの日、藤十郎さんのお初を惜しむ拍手は鳴りやまず、歌舞伎では異例のカーテンコールも行われた。 終演後、藤十郎さんは「明日からお初に会えないかと思うと寂しい。カーテンコールがとてもうれしかった」と話していた。

 お初と徳兵衛の悲恋を描いた「曽根崎心中」は近松門左衛門の代表作。長く上演が途絶えていたが、藤十郎さんは昭和28年の復活上演以来、ほぼ一人で演じてきた。

1754よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/27(日) 22:04:18 ID:lztlrN2g0
四天王寺で「大古本祭り」
04月27日 12時27分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140427/3958071.html 

関西の古書店が一堂に会する、恒例の「大古本祭り」が、大阪の四天王寺で開かれています。
ことしの「大古本祭り」には、大阪や兵庫、京都などから29の古書店が参加し、およそ40万点の古本や版画などが展示・販売されています。大阪の四天王寺の境内にはテントが並び、訪れた人たちが、専門書や児童書などを手にとって、品定めしていました。
大阪・八尾市の古書店のテントでは、明治34年に現在の早稲田大学の学生が書いたとされる絵入りの日記が展示され、創設者の大隈重信との会話や、大隈の自宅が焼けたときの様子などが書かれています。主催した「関西古書研究会」の菅哲夫会長は、「掘り出し物との出会いを楽しんでほしい」と話していました。
「大古本祭り」は、大阪の四天王寺で、今月30日まで開かれています。

1755よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/04/27(日) 22:13:44 ID:lztlrN2g0
「大阪で生まれ育った文楽お引き立てを」…人間国宝「竹本住大夫さん」引退公演が「千秋楽」迎える
2014.4.27 21:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140427/wlf14042721090024-n1.htm

 人形浄瑠璃文楽の人間国宝、竹本住大夫さん(89)の大阪での引退公演が27日、大阪市中央区の国立文楽劇場で千秋楽を迎え、住大夫さんは「菅原伝授手習鑑・桜丸切腹の段」を渾(こん)身(しん)の力を込めて語り、本拠地・大阪の舞台に別れを告げた。

 この日、最後の舞台に詰めかけた満員の観客は、住大夫さんの滋味にじむ語りに名残を惜しみ、拍手はしばらく鳴り止まなかった。

 語り終わった後、本舞台に登場した住大夫さんは「みなさまの支えと励ましで今日まで来られて幸せでした。私が去りました後も、大阪で生まれ育った文楽に叱咤激励とお引き立てをよろしくお願いいたします」とあいさつ。人形遣いの人間国宝、吉田簑助さん(80)が遣う桜丸の人形から花束を受け取った。

 今月は初日から大入り満員が続き、千秋楽までに2万9973人を動員。昭和59年の同劇場開場以来、2部制公演としては歴代最高の入場者数を記録した。

1756よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 05:49:54 ID:OZANmrVw0
大阪ロマン紀行

 大阪のDNAを感じさせる場所や企業、人を、独自の嗅覚を持つコラムニストの岡力氏が、関西に点在するオカルトスポットを、妖怪講座が人気の亀井澄夫・妖怪研究所所長が、代わる代わる紹介していきます。二人の案内人がお薦めする“ディープ大阪”を存分にお楽しみください。

命かけた仇討ちの連鎖

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2014年5月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/140502/20140502042.html

高槻市芥川町 芥川仇討ちの辻
 
 本日は、芥川仇(あくたがわあだ)討ちの一席を申し上げる。石見(いわみ)の国、吉永(島根県大田市)に早川八之丞、大崎長三郎という若侍がいた。二人は何かにつけ張り合うライバル同士。この日も城主の小姓をめぐって言い争いとなり、果たし合いまで行うこととなった。通常は立会人が必要であるが、二人だけで決着をつけることにし、斬り合いの末、長三郎は殺された。

 いかに武士の意地とはいえ、事の重大さに気づいた八之丞が、自室で切腹しようとしたところ、異変に気づいた父親、四郎兵衛が思いとどまらせ、八之丞に城下を去らせた。

 武士の社会で果たし合いは珍しくもないが、城主の側近である松下源左衛門の妻が、殺された長三郎の姉であり、彼女がこのことを城主に直接訴えた。そうなると城主も八之丞を逃がした四郎兵衛の責任を追及せざるを得ず、四郎兵衛に切腹を命じた。

 後日、八之丞の耳に父の悲報が届く。長三郎の姉が自分の立場を利用したことを怨(うら)み、八之丞は松下源左衛門をねらうようになる。しかし、なかなか好機が訪れず、10年の月日が流れてしまった。ようやく源左衛門が主命で江戸にいることをつきとめ、夜陰に乗じて寝所に押し入り「妻が勝手にしたこと」と言う言葉も耳に入らず、源左衛門を切り刻んだ。

 そうなると今度は源左衛門の息子たちが黙っていない。長男、三郎平(異説として助三郎とも言う)と次男の忠三郎、それに2人の従者がついて八之丞の後を追った。八之丞はすでに世を捨て、虚無僧(こむそう)姿で旅に出ているという。雲をつかむような話を追い続け、ついに1671(寛文11)年9月8日、芥川の宿にいるという情報をつかみ、長男と従者1人は、たまたまその日はいなかったが、好機を逃してはならないと、次男、忠三郎と従者の2人だけで、出立した八之丞の後をつけ、ついに討ち果たした。

 討たれた八之丞の懐には「自分は2人も殺した者で、討たれて当然。討った者に咎(とが)はない」という内容の書状があった。この事件は当時、本にも書かれ、美談として語られた(これらの話は弟と兄の役割や名前が違っていたり、内容の違う話がいくつか伝わっている)。

 このように、仇討ちは生涯をかけた大事業なのである。人によっては、それで一生を費やす者もいる。人を殺すということを考えぬく者もいるだろうし、だからこそ、仇討ちの重要性を感じるのだが、この芥川の仇討ちは「あっぱれ」と、手放しで喜べないものがどうしても残る。仇討ちが行われた辻(つじ)には、美談として書かれた案内板と小さな地蔵を祀(まつ)った祠(ほこら)があった。そうこうするうちに、雨が降ってきた。傘を忘れたので雨の中、辻に立ちすくみながら、殺し合いの連鎖について、濡れ鼠(ねずみ)になって、いっとき考え込んでしまった。

1757よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 06:16:46 ID:OZANmrVw0
中之島に蔵の跡 大名のものか
05月02日 19時02分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20140502/4128381.html 

大阪の中心部の中之島で江戸時代の大名などが使ったとみられる蔵の跡が見つかりました。蔵屋敷が並ぶ当時の姿を知る手がかりになると注目されています。
大阪文化財研究所などが大阪・中之島のマンションの建設予定地で発掘調査をしたところ幅およそ8メートル、奥行き35メートルほどの蔵の跡が4棟分見つかりました。
出土品などから18世紀後半の江戸時代に建てられたとみられ石を積んだ基礎の内側に礎石が規則正しく並べられていることから板張りの床があったと推測されています。
当時、中之島には参勤交代で江戸に向かう西国の大名が滞在したり特産品を保管したりする蔵屋敷が120ほど建ち並んでいたということです。
見つかった蔵は当時の絵図などから今の秋田県に拠点を置く生駒氏が使ったあと佐賀県にあった鹿島藩の鍋島氏が利用したとみられています。
大阪文化財研究所の市川創学芸員は「石高が多い藩の蔵屋敷は見つかっているが規模の小さい藩の蔵が見つかったのは初めてだ。大阪の経済を支えた中之島の当時の姿を知る手がかりになる」と話しています。
この発掘調査については今月10日に現地で説明会が行われます。


小藩ながら立派な蔵 中之島西部で跡確認
2014年05月03日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140502-OYTNT50542.html

 大阪市教委などは2日、同市北区中之島で江戸時代の土蔵跡が見つかったと発表した。中之島には当時、各藩の蔵屋敷が並んでいたとされ、今回の土蔵は、文献史料などから、比較的小さな藩が所有していた可能性が高いが、大きさは雄藩の蔵に劣っていないという。市教委は「小さな藩でも立派な蔵を使っていたことがわかる」としている。

 調査は今年1月から中之島の西部約2100平方メートルで実施し、土蔵4棟の基礎にあたる石積みなどが見つかった。いずれも幅約8メートルで、このうち2棟は、長さ約35メートルあることが確認でき、過去に近くで発掘された広島藩などの蔵跡に引けを取らない大きさだという。

 蔵の間には通路があり、当時、近くの堂島川から荷揚げされた特産物を運ぶのに使われていたとみられる。一方、他の藩のような、藩主が泊まったとされる屋敷跡は発見されなかった。

 市教委は、当時の地図などと位置を照らし合わせ、矢島藩(秋田県)、鹿島藩(佐賀県)が順に使用していた可能性があるとしている。石積みは1960年代まで、民間企業の倉庫の基礎に使われていたという。

 市教委などは10日午後1時から、現地説明会を開く。問い合わせは中之島蔵屋敷跡発掘現場事務所(090・2386・7682)へ。

2014年05月03日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

1758よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/05/03(土) 06:21:48 ID:OZANmrVw0
「大坂の陣」盛り上げへ 道明寺合戦まつりPR
2014年4月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140430/20140430025.html

 5月3日に開催される「道明寺合戦まつり」(藤井寺市)と4日の「天王寺 真田幸村博プレイベント」(天王寺公園)など、大坂の陣400年にちなんだイベントのPRが29日、大阪市阿倍野区のあべのキューズモールであった。「真田の赤備え」を身にまとった天王寺区の水谷翔太区長と、道明寺の地元商店主らでつくる「道明寺甲冑(かっちゅう)隊」のメンバーが、親子連れなど多くの買い物客らに来場を呼び掛けた。

 会場に登場した水谷区長は多彩なプログラムを紹介し「連日楽しんでもらい、ゴールデンウイークを『大坂の陣』一色で盛り上げてほしい」とPR。成功を祈願して勝ちどきを上げた。後藤又兵衛に扮(ふん)した同合戦まつり実行委員長の森田剛浩さん(52)は、「老若男女に楽しんでもらえるプログラムを予定。まつりを契機に道明寺のまちに親しんでもらえれば」と期待を込めた。

 3日は石川河川敷で午前10時の出陣太鼓に続き、再現パフォーマンスや武術演武などを実施。午後からは合戦再現などが繰り広げられる。道明寺天満宮会場(午後3時〜同8時)では灯ろうづくりワークショップや旭堂南陵さんの講談(同5時)、ライトアップ(同6時)などが予定されている。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板