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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

1172よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 06:40:27 ID:seBLmPhg0
敵を集め一網打尽 岸和田城の「犬走り」解説 大阪
2013.2.10 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130210/osk13021002070001-n1.htm

 岸和田市にある「岸和田城」の石垣を調べている市と市教委は9日、市民説明会を開き、担当職員らが本丸の東と南西側に位置する「犬走り」と呼ばれる石垣の段差について「敵を集めて攻撃するためとおもわれる」などと解説した。

 市では、1月下旬から今月にかけて岸和田城の内堀の水を抜き、石垣の老朽化などについて調査を進めている。犬走りについては、これまでも存在は確認されていたが、今回水を抜いたことで、その全容が姿を現し、特徴的な段差がみられるようになったとして、特別に説明会を開催したという。

 担当職員らによると、通常の城の石垣の場合、敵の足場となるような段差は設置されないことが多いとする一方、岸和田城にみられる長さ約200メートルにわたる犬走りについては「上陸した敵を1カ所にまとめて迎え撃つ利点があるとされ、他県の城(彦根城、今治城など)でも確認されている」などと説明した。

 このほか、石垣に残されている刻印などについても詳しく紹介。参加した市民らは、興味深そうに聞き入っていた。

1173よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 18:58:05 ID:/YnYSKGM0
履中天皇陵(上) 被葬者は幻の天皇!? 築造順位“真逆”の謎 
2013.2.11 13:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021113000012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021113000012-n2.htm

 第15代・応神天皇、16代・仁徳天皇、17代・履中天皇−。4世紀末から5世紀にかけて絶大な権力で国内を統治し、「倭の五王」ともされる3天皇は、それぞれ国内ベスト3の巨大前方後円墳に葬られたという。

 最大の仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486メートル)と2位の応神天皇陵(大阪府羽曳野市、同425メートル)は被葬者に矛盾はないとされるが、3位の履中天皇陵(堺市西区、同365メートル)については、研究者の多くが疑問を抱く。

 履中天皇陵の築造時期が、3天皇の即位順と全く一致しないからだ。3天皇陵の築造順位は、墳丘出土の埴輪(はにわ)などから、(1)履中天皇陵(2)応神天皇陵(3)仁徳天皇陵−と判明。第17代で最も新しいはずの履中天皇陵が考古学的には最も古いという“真逆”の結果になった。「履中天皇陵をそのまま履中天皇の墓とするのは難しい」と堺市世界文化遺産推進室の白神典之主幹。

 それでは、履中天皇陵はいったい誰の墓なのか。応神天皇より前となると、14代・仲哀(ちゅうあい)天皇になるが、同天皇は河内に葬られたと日本書紀は記し、宮内庁が指定する仲哀天皇陵(大阪府藤井寺市、同242メートル)もある。

 「日本書紀があくまで正しいとすれば、履中天皇陵に該当する天皇がいなくなる」と白神氏。日本書紀に記されていない“幻の天皇”が葬られたのだろうか。

 さらに、履中天皇自身の古墳も「所在不明」となる。仁徳天皇陵より新しい古墳は、約2キロ東の土師ニサンザイ古墳(堺市北区、同300メートル)があるが、反正天皇の墓ともいわれる。

 全長が365メートルというのもあやしいという。墳丘の周濠(しゅうごう)は満々と水をたたえているが、宮内庁が作成した古墳の測量図をよく見ると、墳丘1段目がほとんど水面に隠れている。白神氏は「水面下の分も合わせると全長は400メートル近くになるのでは」という。知られているようで意外と謎めいた巨大古墳である。

1174よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 19:14:42 ID:/YnYSKGM0
履中天皇陵(下) 盗掘被害に室戸台風…御難続きも地域見守り 
2013.2.11 15:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021115000016-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021115000016-n2.htm

 「履中天皇陵、大学生らが盗掘」。昭和61年12月、新聞でショッキングな窃盗事件が報道された。天皇陵の幅約30メートルの周濠(しゅうごう)をゴムボートで渡り、墳丘に埋まっていた埴輪(はにわ)などを盗んだとして逮捕された。

 学生らは歴史に興味があったというが、このときの盗掘品が昨年秋、大阪府立近つ飛鳥博物館(河南町)で、宮内庁が調査した他の天皇陵などの埴輪とともに公開された。履中天皇陵で盗掘された埴輪のうち、矢を入れる容器を模した靭(ゆき)形埴輪は、全体を復元すると高さ1・5メートル近くになり、被葬者の権力の大きさをうかがわせた。

 同天皇陵は、盗掘だけでなく、台風など御難続きだった。明治31年には、被葬者を納めた石室のある墳丘後円部が直径6メートル、深さ2メートルにわたって大規模に陥没。昭和9年9月には、死者・行方不明者約3千人をだした室戸台風で墳丘の木々がなぎ倒された。

 堺市史によると、倒木は松や杉など約900本。なかでも、墳丘にそびえ、古くから大阪湾を航行する船に針路を指し示していた名松「傘の松」が折れたという。「市民の痛惜のまととなった」。市史は無念の思いをこう表現した。

 それでも地元の人たちは「御陵さん」と親しみをもって見守り続ける。かつては周濠の水が農業用水として人々の生活を支え、現在はボランティアで清掃活動などが行われている。

 都市部にある履中天皇陵はフェンスで囲まれているが、住宅がすぐそばまでせまり、裏庭が天皇陵というぜいたくな家も多い。フェンスに洗濯物を干すおおらかな光景もみられ、数十年前までは周濠から金魚の水をとるなど子供たちのひそかな遊び場だったことも。

 堺市世界文化遺産推進室の白神典之主幹は「周辺開発の恐れもあるが、地域に根ざした御陵だからこそ大切に守られてきた」と話す。

1175よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 09:57:09 ID:QVpRrk3c0
大阪ロマン紀行

芸の神様になった芝右衛門狸

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2013年2月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/130215/20130215053.html

生國魂神社(天王寺区生玉町)

 日本の三大狸(タヌキ)といえば、佐渡の団三郎狸、香川屋島の禿(はげ)狸、淡路洲本の芝右衛門狸である。

 この芝右衛門狸は無類の芝居好き。江戸時代の初め頃、淡路から芝居でにぎわう道頓堀へとやってきた。芝居小屋の「中座」へ通うようになったが、係の者が毎日の売上金に木の葉が交じっているのを不審に思い、犬を入り口に置いてみた。いつものように芝右衛門が小屋へやって来ると、狸の苦手な犬がいる。なんとか通り過ぎようとしたが、隙をついて芝右衛門に犬がガブリ。狸の正体を現して、さんざん追い回され、ついには殴り殺された。

 この話は淡路島にも届き、最近、芝右衛門の腹鼓が聞こえないのはそのためかと、仲の良かった人々は芝右衛門の死を悼んだ。それから奇怪なことに、中座の興行成績がガタリと落ちた。これは狸の祟(たた)りに違いないと、初代の片岡仁左衛門が中座の奈落に芝右衛門狸を八兵衛大明神として祀(まつ)ったところ、客がまた来るようになった。以来、八兵衛大明神の祠(ほこら)は芸道の神様として、役者たちがお参りするようになったのである。

 さて、ここからが本題。平成11年の中座閉館にともない、大阪最古の神社である生國魂神社と淡路洲本八幡神社に八兵衛大明神の分霊が遷(うつ)されることになった。平成11年11月1日に八兵衛大明神遷座合祀祭(せんざごうしさい)が行われ、生國魂神社の摂社(せっしゃ)である源九郎稲荷(いなり)神社に合祀された。

 源九郎稲荷とは奈良県吉野の源九郎稲荷の分祠(ぶんし)であるから、狐(キツネ)と狸が祀られていることになる。では、どうして分霊したのかと言うと、350年以上も続いた芸道の神、八兵衛大明神はすでに大阪の文化としてしっかり根付いていたからである。

 大阪の芸の神はやはり、大阪に鎮座するのがよかろうと私も思う。この芝右衛門狸の伝説を知っている人は、芝右衛門としてお参りすると思うが、大阪では八兵衛大明神の名前が一般的だろう。

 また、文楽の物故者を祭神として祀る浄瑠璃神社や、生國魂神社で4千句を矢数俳諧(やかずはいかい)した井原西鶴の像や、彦八まつりで有名な上方落語の祖、米沢彦八の顕彰碑など、大阪の文化を境内のあちこちに見ることができる。

 生國魂神社は、何度も焼失や損壊の憂き目に遭っているが、その都度、民間人が私財を投じて再建してきた。空襲で焼けたときなどは、日本人の団結の力を最も恐れるGHQを尻目に、大阪人は力を合わせて、自分の家より先に大阪文化の象徴、生國魂神社を再建してしまった。

 だから小さく見えても、文化の継承を守るという意味で、八兵衛大明神をそのまま還(かえ)さず生國魂神社に分霊したことは、いかにも大阪らしいと思えるのだ。

1176よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 10:13:53 ID:QVpRrk3c0
天満天神梅酒大会、開催迫る−大阪天満宮で奉告祭
http://umeda.keizai.biz/headline/1521/

 2月16日〜24日に開催される「第7回天満天神梅酒大会」を目前に控えた15日、会場となる大阪天満宮(大阪市北区天神橋2)で同大会の成功を祈願する開催奉告祭が執り行われた。

 梅に縁のある菅原道真を祭る大阪天満宮で、地域活性化と梅酒市場の拡大を目指して開かれる同イベント。全国の蔵元から自慢の梅酒が集められ、一般参加者の投票と専門有識者のブラインドテイスティングにより、優勝銘柄に「天下御免」の称号を授与する。運営は大学生らボランティアスタッフが行い、今年は160人のボランティアスタッフが参加。

 大会の認知度は年々上がり、昨年は2〜3時間の入場待ちができる日もあったが、今年は大阪天満宮の協力で会場を拡大したり日時指定のファストパスを発行したりするなど、混雑緩和の対策にも取り組む。大会期間中は周辺の飲食店にも人が流れるなど、地域活性の効果も見せている。

 今年は梅酒308銘柄、リキュール165銘柄が出品。参加者は700円のチケット購入で制限時間内は自由に試飲でき、1人5銘柄に投票できる。女性や主婦など普段お酒にあまり接しない人や、飲食店経営で仕入れの参考にする人、商品企画の参考にする蔵元の人など、「それぞれの立場で楽しんでいるよう」と実行委員長の上田久雄さん。会場では試飲のほか販売も行い、天神橋筋商店街の店主らが街路樹として植えた梅の実で作った「天満梅酒」も会場限定で販売する。

 今年の梅酒やリキュールは「90ミリリットルの小瓶の商品やゼリー状のもの、炭酸が入ったものなどバラエティー豊か。特産果汁を使ったものなど、それぞれの地域や蔵元の特徴が出ている」と上田さん。多彩な商品の背景には「若い世代のアルコール離れ」があるといい、「アルコールを飲むきっかけとなるような商品作りがされているのでは」と話す。期間中1万5000人の来場を見込む。

 開催時間は10時〜16時。今月24日まで。結果発表と授賞式は3月9日に行われる。

1177よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 20:14:22 ID:5CkDbxVc0
造幣局が生んだ? 大阪の一大ガラス産地
2013/2/16 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06006_X00C13A2AA2P00/

大阪天満宮(大阪市北区)に詣でた際、門前に「大阪ガラス発祥之地」という碑があるのに気づいた。確か天満かいわいにはガラス関連企業が幾つかあるが、大阪にガラスとそれほど深い関わりがあったのだろうか。街の歴史をひもといた。


天神橋筋商店連合会会長の土居年樹さん(75)に聞いた。今はマンションなどが立ち並ぶが「この辺りには戦前、数え切れないほどガラス関連工場があり、前を通ると炉の熱気を感じたものです」と話してくれた。

 「かいわいは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地。工房は江戸時代からあったそうですが、産業として本格的に発展したのは明治以降です」と土居さん。旭硝子の社史を調べると、ルーツは1906年、初代社長が天満付近に設立した合資会社。「当時の最新式ガラス工場」だったという。アサヒグループホールディングスも、山本為三郎・初代社長がかつて、天満周辺のガラス瓶メーカー社長を務めていた。自著に「瓶の製造が縁でサイダーに関係し、ビールに関係することになった」とある。

 大阪市の資料では、第1次世界大戦で欧州向けにガラス製品の輸出が急増。終戦後の1919年、大阪府には全国のガラス関連工場の約7割に当たる882工場が集積していた。

 ガラス産業が発展した背景について、ガラスアーティストで大阪工業大客員教授の岡本覚さん(57)が説明してくれた。「ガラスの量産には、原料のケイ砂や燃料の石炭を運ぶ交通網が欠かせません。水利が発達していた大阪は、ガラス産業が育つ要素がそろっていたのです」

1178よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 20:16:27 ID:5CkDbxVc0
>>1177

http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06006_X00C13A2AA2P00/?df=2

 しかし天満で近代ガラス産業が芽吹く契機は何だったのか。大阪市史料調査会を訪ねた。「明治維新直後、様々な官営工場が大阪城周辺に建設されました。中でもガラス産業は、造幣局の存在が大きかったといえます」。調査員の古川武志さん(41)が答えてくれた。

 造幣局は明治維新から間もない1871年、大阪・天満の大川(旧淀川)沿いに設立された。「造幣局は当時、国内最新鋭の総合工場。金属精錬に必要な硫酸や燃料に使う石炭ガスなどを自前で製造してたんですよ」と古川さん。その一つがガラスの原材料となるソーダ灰(炭酸ナトリウム)で「明治政府の殖産興業政策で、余剰生産分は民間に安く供給されたのです」。

 造幣局は幕末期の混乱した幣制を立て直す国の一大プロジェクトの結晶だった。幕末期に英国に密航留学し近代技術を学んだ長州藩(山口県)出身の5人の志士のうち、井上馨や伊藤博文ら4人が造幣局長を歴任。設立に関わったメンバーには五代友厚、寺島宗則、大隈重信など、そうそうたる名前が並ぶ。

 そもそもなぜ、造幣局が大阪に設置されたのか。広報室によると、「維新に貢献した大阪の町衆に配慮した」「大久保利通が唱えた大阪遷都論が影響した」「東京の治安への懸念」「大阪が経済の中心地だったため」など諸説あるが、「はっきりした理由は分からない」そうだ。

 第2次大戦後は市街の発展とともに、公害問題から郊外に移転したり、後継者難などで廃業する企業が相次ぎ、大阪のガラス産業は急速に衰退した。

 そんな中で1970年、逆に同市中央区から天満に本社を移したのが象印マホービンだ。同社まほうびん記念館の山口己年男館長(60)は、「理由は定かではないですが、天満がガラス発祥の地ということが当時の経営陣の念頭にあったのかもしれません」と想像を巡らせる。

 造幣局がなければ、街は現在の姿とは違う発展をしていただろう。大阪と造幣局に不思議なご縁(円)があったということか。

(大阪社会部 榎本行浩)

1179よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/17(日) 05:34:07 ID:1SeL2I/A0
吹田の旧家で「ひな祭り」 大阪
2013.2.17 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130217/osk13021702060000-n1.htm

 吹田市の吹田文化創造交流館(旧西尾家住宅)で16日、「ひな祭り」が始まった。豪華に飾られたひな人形の数々に、来場者らもうっとりと見入っていた。3月3日まで。

 西尾家は江戸時代、吹田村で上皇の所領地である仙洞御料方の庄屋を務めた旧家。広い敷地に玄関棟や居住棟、茶室、離れ、米蔵など江戸後期から大正にかけての和風住宅建築群が残っており、ひな祭りはその屋敷で伝統文化に親しんでもらう催し。

 主屋(しゅおく)の座敷に、男びな、女びなや三人官女らが京都の御所を模した御殿に座る豪華な「御殿飾り雛(ひな)」や段飾り、立ち雛などが飾られ、訪れた家族連れがボランティアの説明を聞きながら、興味深そうにひな人形をのぞきこんでいた。最終日の3日は、こども着物着付けや折り紙教室などの「ひな祭りイベント」が行われる。

1180名無しさん:2013/02/17(日) 15:29:10 ID:7qUqXZ120
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130217/20130217029.html
音楽に合わせ梅満開 大阪天満宮「水墨画奉納式」
2013年2月17日
 てんま天神梅まつりが開かれている大阪市北区の大阪天満宮で16日、水墨画奉納式が開かれた。小雪がちらつく境内で多くの参拝者らが足を止め、梅の木を主題にしたライブペインティングと、大正琴や朝鮮半島の民族楽器による生演奏の競演に見入っていた。

 梅を描いたのは水墨画家の李鴻儒(リコウジュ)さん。毎年梅まつり期間中に琴伝流大正琴の前垣友紀さんらとともに境内の特設ステージでパフォーマンスを披露している。

 10回目となる今年は、前垣さんらが「交響曲第9番」や「美しく青きドナウ」などのクラシックに日本の「赤とんぼ」や韓国の「アリラン」を交えた国籍にとらわれないプログラムを用意。李さんは巧みに筆を走らせ、約20分で縦約1・8メートル×横3・6メートルに梅の花が満開の水墨画をかき上げた。

 李さんは「雪も降り、まさに寒梅となった。今年もいい一年になりそうだ。おおきに」と笑顔。前垣さんは「さまざまな文化のコラボレーションということで、世界が平和と愛であふれることを願い演奏した」と話していた。

 水墨画は、李さんが明日まで境内で制作を続け、横10メートルの大作にして大阪天満宮に奉納する予定。

1181よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/18(月) 22:17:46 ID:aFTlbeEo0
「言葉難しいけど面白い」 子どもたちが能と狂言
2013年2月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130218/20130218023.html

 子どもたちに日本の伝統芸能である能と狂言に親しんでもらうイベント「こどもとたのしむ能狂言」が17日開催され、能が大阪能楽会館(大阪市北区中崎西)、狂言が大槻能楽堂(同中央区上町)で行われた。それぞれ舞台を鑑賞した後、能面体験やお囃子(はやし)ワークショップに参加し、日ごろ接する機会の少ない伝統芸能に触れていた。

 狂言が行われた大槻能楽堂は子ども約160人とその保護者らでにぎわった。参加者らは「仏師」と「附子」を鑑賞。「仏師」の田舎者と仏師と偽った詐欺師が仏像をめぐってやりとりする場面では、子どもたちも大きな笑い声を上げて楽しんでいた。

 お囃子ワークショップは笛、太鼓、小鼓、大鼓をそれぞれの指導者の下で挑戦していた。

 祖母の園田瑞穂さん(71)に「一度、体験してみれば」と誘われて参加した純平君(12)は「日本の昔の言葉で難しかったが、面白かった」と話していた。

1182よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/19(火) 22:24:46 ID:AbyIS1/g0
全国の梅酒が大集合=大阪〔地域〕 .
http://jp.wsj.com/article/JJ11194491127056024402517174038083411837867.html

 大阪市北区の大阪天満宮で、梅酒の日本一を決める「天満天神梅酒大会」が開催中だ。今年で7回目で、酒造メーカーは過去最多の227社が参加。梅酒部門に308銘柄、ユズやシークワーサーなどの果実酒を含むリキュール部門に165銘柄出品している。

 来場者が試飲し、各部門でおいしいと思う5銘柄を投票。上位10銘柄は、ソムリエや酒販店店主ら約20人が行う最終審査に進み、3月9日に各部門の日本一が発表される。

 大会実行委員で同志社大4回生の大江雄仁さん(22)は「日本各地の梅酒を知ってもらい、梅酒文化を発展させると共に、地域活性化を図りたい」と話す。

 大会は24日まで。入場料は700円で、制限時間内に好きなだけ試飲できる。

1183よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/20(水) 19:12:30 ID:4587/SvM0
浪華紙魚百景 

大商大商業史博だより

油方御改革ニ付御触書之写
2013年2月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130220/20130220037.html

将軍家御膝元の灯油供給

 昨年の夏は原発稼働が問題となり、計画停電が取り沙汰された。実際に関西で停電はなかったものの、電力危機に肝を冷やした方々も多かったことと思う。

 片や電気がなかった江戸時代、人々は灯明で明かりをとった。その灯明の油は菜種や綿実を原料とした。特に、幕府が置かれた大都市江戸では、都市の繁栄とともに夜間の生活に灯油は必需品となった。

 明治初年代の商業者に対して大阪商法会議所が行った聞き取り調査の記録には、「燈油(とうゆ)の如(ごと)き、江戸の需要欠乏するや、江戸商賈(しょうこ)は憤然として曰(いわ)く、将軍家の膝下(しっか)をして暗黒にするを欲するや」云々(うんぬん)という記述がある。これは、将軍を頂点とした武家社会においては、そのお膝元である江戸の灯火需要が最優先されるべきものであったことを物語っている。

 そこで、幕府は商品流通の中心都市であった大阪の油商人に特権的地位を与え、大阪の油市場から江戸への「下り油」の安定供給に心を砕いた。これによって江戸への灯油供給は「下り油」に依存することになる。

 特に「下り油」の生産管理が政治的に強化されたのは明和年間(1764〜72年)で、幕府は油生産機能を大阪に一極集中させようとしたが、灘目などでの絞油業の台頭を看過しえず、結局これらを容認し政治支配の中に組み入れることによって、末端商品である搾油レベルでの大阪への廻着総量の増加を図る。

 しかし一方で、地方の無許可での絞油業者の出現が、大阪への菜種や綿実集荷減少の原因となる。さらに、大阪周辺の菜種や木綿の生産農民からは、大阪の問屋の集荷独占による製油原料の買いたたきと販売独占による油小売価格の高騰に対する反対運動が起こる。

 行きつ戻りつしながら、幕府は次第に市場開放を行う方向で政策転換をしてゆく。そして、その行政改革の終着点が天保3(1832)年に出されたこの御触書であった。この改革では、大阪の内本町橋詰町に統一的な油寄所を設置した。また、江戸にも霊岸島に新たに取引のための油寄所を設置して、「下り油」のみならず、この時期台頭してきた関東周辺での製油の集荷も行った。

 しかし、江戸への灯油供給は依然として「下り油」への依存が見られ、先述の明治初年代の聞き取り調査の記述は、「町奉行は之を審査して大坂町奉行に移牒(いちょう)し、速やかに貨物の輸送あらんことを告ぐ。依(よっ)て大坂油商は之を決して猶豫(ゆうよ)するを得ず、百方周旋して積み送る事なり」と続けている。

 (大阪商業大学商業史博物館学芸員 池田治司)

1184よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/21(木) 22:08:27 ID:oh/YA7BM0
被葬者の棺を運んだ橋? 墳丘周濠から柱穴 堺・ニサンザイ古墳
2013.2.21 17:22
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130221/wlf13022117330018-n1.htm

 17代・履中(りちゅう)天皇や18代・反正(はんぜい)天皇の墓ともいわれる国内8番目の大きさの前方後円墳、堺市北区のニサンザイ古墳(全長約300メートル、5世紀後半)で、後円部東側の周濠(しゅうごう)から、橋脚か舞台の跡ともみられる多数の柱穴が見つかり、21日、市文化財課が発表した。

 周濠からこうした施設が見つかるのは全国で初めて。柱穴は、墳丘から周濠を渡るように長さ34メートル分が確認され、被葬者の遺体を運ぶための特別な橋か、葬送儀礼の舞台との見方も浮上し、天皇陵クラスの古墳祭祀(さいし)を考えるうえで貴重な資料になりそうだ。

 調査は、墳丘を囲む周濠のうち墳丘の中心線と一致する後円部東側で行われた。墳丘に接する部分で、幅12メートル、長さ4メートルの範囲に約20本分の柱穴が整然と並んでいるのが見つかり、舞台のような構造になっていた。さらに、舞台の中央部分から周濠をまたぐように、幅2メートル、長さ30メートルにわたって柱穴が橋のように並んでいるのが確認された。

 墳丘に接する部分だけ大きな舞台のようになっていたともみられるが、調査範囲が限られていることから、幅12メートルの大規模な橋だった可能性もあるという。市文化財課は「こうした構造物は前例がなく、将来的に全体像が解明できれば」としている。

1185よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/23(土) 07:06:46 ID:avopk44Q0
窯跡に大量の須恵器 豊中・桜井谷
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130223-OYT8T00095.htm

 古墳〜奈良時代(5世紀後半〜8世紀前半)の須恵器の生産地とされる豊中市の桜井谷窯跡群で、大量の須恵器が詰まった窯跡が見つかり、市教委が22日、発表した。窯跡は天井部が破損、何らかの理由で加熱中に崩れ、そのまま放置されたとみられる。専門家らは「壊れた窯を使い捨てできるほど周囲に多くの窯があったといえる。当時の一帯の生産規模を裏付ける」としている。

 調査は、昨年7月から同市宮山町の約1000平方メートルで実施。その結果、傾斜地で全長約10メートル、幅1〜2メートル、高さ1・4〜1・6メートルのトンネル状の窯跡が見つかった。中からは杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)と呼ばれる丸い器(直径12〜16センチ)など、須恵器約120点が発見された。

 窯跡には、壁面や天井の破損を補修する粘土を塗りつけた指の跡などがあったが、天井が崩壊する大きな不具合があったため、この窯で焼くのをあきらめ、中の須恵器も取り出さずに放置したとみられるという。

 大阪大の福永伸哉教授(考古学)は「破損した窯の放置から一帯の窯業の規模の大きさが推測できる。継体天皇が国家的な生産地として育て、王権の基盤を充実させるのに使った場所だったのでは」と話している。

 現地説明会は3月2、3両日の午前10時〜午後3時。問い合わせは、平日に市教委地域教育振興室(06・6858・2581)へ。

(2013年2月23日 読売新聞)

1186よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/24(日) 16:54:00 ID:FYGl./F60
燃える炎 息災祈る 四天王寺「初庚申」
2013年2月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130224/20130224029.html

 えとの組み合わせで、約2カ月ごとに巡る庚申(かのえさる)の日にちなんだ信仰行事「庚申(こうしん)まいり」のうち、ことし最初の「初庚申」が23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)庚申堂で執り行われた。建設中の日本一の超高層ビル「あべのハルカス」を望む境内では、初庚申恒例の柴灯(さいとう)大護摩供も盛大に行われ、朝から無病息災などを祈願する参詣者らであふれた。

 同寺庚申堂は日本の庚申信仰発祥の地として知られ、本尊として除災無病の霊験を持つ「青面(しょうめん)金剛童子」が祭られている。

 護摩供では同寺僧侶のほか奈良県大峯山の修験行者らが奉仕した。丸木を組んだ大きな護摩壇の周囲には結界が設けられ、法弓や法剣といった清めの前作法に続いて点火。「病気平癒」「厄除開運」など、さまざまな願いが記された護摩木が高く燃え上がると、参詣者らは一様に手を合わせて所願成就を祈っていた。

1187よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/24(日) 19:18:48 ID:FYGl./F60
槍で突き倒し討ち取った…幸村の最期「新説」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130223-OYO1T00612.htm?from=newslist

 大坂夏の陣(1615年)で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。同家の家臣と槍(やり)で戦って討ち取られたと記されており、戦わずして自ら首を差し出したとの定説を真っ向から否定する「新説」だ。幸村の最期は他にも諸説があり、専門家は「400年たっても、謎が解けないのがいかにも幸村らしい」と関心を寄せる。

 覚書は大坂の陣に徳川方として参戦したのちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。

 文面では、幸村を討ち取った人物としてよく知られるのちの福井藩士、西尾仁左衛門が登場する。

 〈西尾が馬で敵中に入り、少し高い所に上がった時に「よき敵」と遭遇。互いに馬から下りて槍で戦い、突き倒し、討ち取った〉と記述。さらに〈夕方に(幸村の顔を知る)越前松平家の家臣、花形市左衛門兄弟が陣中見舞いに来て、討ち取った首が幸村のものとわかった〉とつづっている。

 当時は一騎打ちで名乗り合うことが多かったとされるが、身分が違う場合や相手が複数の場合は名乗らないこともあったという。

 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、西尾仁左衛門に自ら首を差し出したとする逸話が最も知られており、徳川幕府の史料にも残る。

 大坂の陣に詳しい大阪城天守閣の北川央(ひろし)・研究主幹は「福井藩として、正々堂々と戦って討った首だと主張したかったのだろう。幸村には影武者がおり、大坂の陣では首が三つ見つかったとされる。さらに異説が出る可能性もあり、真相は今も謎だ」と話している。

 真田幸村 1567〜1615年。大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫り、家康を窮地に追い込んだとされ、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。家紋は「六文銭」。幸村を題材にした物語は多く、大正期には忍者・猿飛佐助ら「真田十勇士」を従え、家康に挑んだとする少年向けの読み物が人気を博した。池波正太郎の歴史小説「真田太平記」は今も読み継がれるロングセラー。

(2013年2月23日 読売新聞)

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1189よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/25(月) 23:47:51 ID:JSyEk74o0
ひな人形ずらり 古民家彩る
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130225-OYT8T00060.htm

. 泉佐野市の市指定文化財「旧新川家住宅」(同市本町)で、「古民家のひな祭り」が開かれ、市民らから寄贈されたひな人形が展示されている=写真=。3月3日まで(月曜休館)の午前10時〜午後4時。無料。

 「季節の風物詩を楽しんでもらおう」と、NPO法人泉州佐野にぎわい本舗などが企画。今年は、市指定文化財「旧向井家住宅」(同市土丸)でも展示している(3月10日まで、月曜休館)。

 旧新川家住宅の会場には、江戸末期以降のひな人形約20組を展示。同NPOは「趣のある建物にずらりと並んだひな人形は圧巻。ぜひ見に来て」と呼びかけている。問い合わせは、同住宅(072・469・5673)。

(2013年2月25日 読売新聞)

1190よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/27(水) 20:24:10 ID:3ByVhhd.0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

浪速詰方日記
2013年2月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130227/20130227041.html

蔵屋敷が信仰の対象

 今回は第61回の続きとして、もう少し『浪速詰方日記』を紹介しよう。茶屋通いだけを取り上げられては、執筆者の大岡克俊も浮かばれまいから。

 江戸時代によらず、寺社参詣は楽しい遊山の一つである。大岡も大阪天満宮で流鏑馬(やぶさめ)を見たり、蔵屋敷出入りの商人たちを招いて船で天神祭の神幸を見物したり、御霊社の人形芝居を見物したりしている。

 そんな中、滞坂中必ず2、3度参詣するのが、「高松屋敷金毘羅(こんぴら)宮」だ。これは大阪の高松藩の蔵屋敷内に勧請されている金毘羅宮のことで、縁日は9、10日だが、参詣人は日ごろから絶えなかったという。

 『町史ことひら』第2巻によると、大阪蔵屋敷の金毘羅権現については、宝暦2(1753)年の記録があり、明和4(1767)年の記録には、もともとは「お蔵屋敷鎮守」のため建立されたものだが、参詣人は増え、そのうち百度参りなどをする者などで、「場所柄ゆへ以来外に障る」ようになり、ほこらは取り払われたとある。が、また天明6(1786)年に再建された。江戸上屋敷にも同様の御札守所があった。蔵屋敷自体が信仰や遊山の対象でもあったわけだ。

 福岡から大阪まで、大岡は下関を通って船で瀬戸内海をやってくる。その途上でいつも本宮の金毘羅さんへ参詣している。

 特に2度目の来阪、嘉永3(1850)年のときには、多度津で、風雨が激しくなり、港に繋留(けいりゅう)できなくなった。風のために船が石垣に押しつけられ、船頭や多度津の人々大勢で、石垣と船の間に大丸太を数本差し入れ、船を引っ張ってやっとのことで山の陰に繋留することができた。

 大岡は、これも兼ねてから象頭山に参詣しているおかげで、今回何事もなかったのは、「誠ニ神力之冥助いつれも有か(が)たく奉仰事」と書き記している。

 福岡から大阪に米を運ぶ場合でも難船はつきもので、航行の無事を祈れば、自然に信仰は篤(あつ)くなる。高松藩以外にも、丸亀藩にも金毘羅宮があり、広島藩蔵屋敷には厳島神社、宇和島藩蔵屋敷には和霊神社、大岡自身の福岡藩の蔵屋敷内にも大宰府天神があった。久留米藩蔵屋敷には水天宮があったが、その様子は「久留米藩大阪蔵屋敷絵図」(大阪歴史博物館寄託。現在同館で展示中)に見ることができる。

 ちなみに、高松藩蔵屋敷は現在のリーガロイヤルホテルあたりに、福岡藩のは阪神高速中之島入口辺にあった。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

1191よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/28(木) 06:27:48 ID:.8rveRDw0
住大夫さん「みんなの気持ちで修復」 文楽の祖 竹本義太夫の供養塔 修復抜魂式 大阪・四天王寺 
2013.2.27 21:35
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130227/ent13022721370013-n1.htm

 文楽の語り芸「義太夫節」の元祖、竹本義太夫(1651〜1714年)らの供養塔と墓石の修復のための抜魂(ばっこん)式が27日、大阪市天王寺区の四天王寺で文楽の技芸員らが参列して行われた。

 今年、300回忌を迎える竹本義太夫は江戸時代、道頓堀に芝居小屋「竹本座」を創設、近松門左衛門と組んで「曽根崎心中」など多くの名作を送り出した。同寺には、没後まもなく建立された供養塔や、二代目を襲名した竹本播磨少掾(はりまのしょうじょう)の腹帯(はらおび)を納めた石塔などがあるが、劣化が激しく破損や倒壊の危機にさらされていた。

 今年1月、事態を憂慮した技芸員らが「先人の墓石が自分たちの代で壊れてしまっては申し訳ない」と、修復資金のための追善公演を企画、国立文楽劇場(大阪市中央区)でも募金活動を行っていた。

 この日、抜魂式に集まったのは人間国宝の竹本住大夫さん(88)ら技芸員約30人。神妙に供養塔に手を合わせた住大夫さんは「義太夫さんは文楽の祖。みんなの気持ちで修復できるのはありがたいこと。これを機にもっと勉強して文楽を発展させていきたい」と話した。

 7月中旬に修復を終え、8月に開眼式を行う予定。

1192よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/28(木) 20:06:10 ID:YYuOOeJ20
香り、色よく 大阪天満宮「大盆梅展」
2013年2月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130228/20130228025.html

 大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で恒例の大盆梅展が開かれ、樹齢100年を超える古木など紅白の大作約40点が大勢の来場者の目を楽しませている。3月10日まで。

 同宮の祭神・菅原道真公が梅をめでたことにちなんで開催されており、今年で10回を迎えた。境内の参集殿では奈良県桜井市の園芸業者「大香園」が作り上げた多彩な盆梅の数々を公開中。人の背丈よりも高い「玉垣」(樹齢約150年)のほか、天草野梅(同200年)や青軸野梅(同100年)などが咲きそろい、芳しい香りを漂わせながら趣ある会場を色よく飾っている。

 また今回は10回記念として、平安中期に天神信仰が起こった当初は松が天神の象徴であったことから、樹齢約100〜250年のクロマツの盆栽も併せて展示。カメラを手に訪れた人々が梅と松のコントラストを堪能していた。午前9時半〜午後4時半(入場は同4時)。

1193よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/02(土) 06:44:20 ID:7CrNPO5k0
大阪大空襲で中止 不戦誓う68年後の卒業式  
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130302-OYT8T00070.htm
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 1945年3月の第1次大阪大空襲で、国民学校の卒業式を迎えることができなかった人たちに卒業証書を贈る「幻の卒業式」が3日、大阪市中央区の「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)で開かれる。「生きて証書を受け取れることに平和の大切さをかみしめている」。参加する戦争体験者2人に、思いを聞いた。(増田尚浩)

 

 第1次大阪大空襲は、1945年3月13日深夜から14日未明にかけてあり、B29爆撃機274機が大阪市中心部に大量の焼夷(しょうい)弾を投下。約4000人が亡くなり、同市内だけで約13万6000戸が焼失した。同センターによると、14日は同市内の国民学校259校が卒業式を予定していたが、多くが中止になったという。

 幻の卒業式は、同センターが2011年に始めて3回目。これまでに計33人が参加した。

 今年は5人が参加を予定。同市天王寺区の生魂国民学校(現・生魂小学校)6年生だった植本浩子さん(80)=奈良県王寺町=もその一人だ。

 式前日の13日、植本さんは同区内の自宅で空襲警報が鳴り響くのを聞いた。激しい爆音に、至る所から上がる火の手。炎が夜空を照らす中、家族5人で知人宅に避難したが、後で見に行った自宅は、焼けて跡形もなくなっていた。

 14日の式は中止され、植本さんもその後は家族と一緒に柏原市内に移ったため、同級生たちとは離ればなれに。植本さんは「空襲で多くの人が命を落とした。こうして『卒業式』を迎えられるのは、本当にありがたい」と涙を浮かべ、「孫たちには、こんな思いはさせたくない。二度と戦争はしてはいけない」と語る。

 山田英雄さん(78)=大阪市都島区=は、68年前の卒業式に出る予定だった2歳上の姉、照子さんの代わりにと、出席を決めた。

 当時、山田さんは島根県に疎開中。堀江国民学校(現・堀江小学校)6年生だった照子さんは、卒業式に出席するため疎開先から同市西区の自宅に帰っていたが、照子さんらきょうだいと両親の家族9人が空襲の犠牲になった。

 山田さんが家族の死を知ったのは、その2か月後。自宅の焼け跡を訪れ、親族から告げられた。「俺だけ残して9人が逝ってしまったのが寂しくて。頭の中が真っ白になり、泣き続けた」

 照子さんは手をつないで遊びに連れて行ってくれるなど、弟思いの優しい姉だった。山田さんは「卒業式を楽しみにしていたはず。いつかあの世で会った時に、卒業証書を渡してあげたい」と話す。

 3日は午後1時30分から。空襲被害の記録写真を使った講演も行われる。問い合わせは同センター(06・6947・7208)。

(2013年3月2日 読売新聞)

1194よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 05:30:58 ID:W5qWiync0
大阪ロマン紀行

地元に愛される狸坂の古狸
今回の案内人 亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)
2013年3月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/130301/20130301063.html

狸坂大明神(中央区神崎町南大江公園内)

 町の公園内に、無人だがきちんと掃除されていて、誰かが日々手入れしている神社や祠(ほこら)が、大阪にはけっこうある。そんな神社のひとつが、中央区の南大江公園内の狸坂大明神(たぬきざかだいみょうじん)である。

 狸坂というのは、南大江公園の南の道をまっすぐ堺筋に下りている坂道のことだが、昔は少し南にあったらしい。狸坂大明神も区画整理のため現在の公園内に移転した。

 このへんは昔から紙屋が多く、火事を最も恐れ、実際に火事が多発したこともあり、昭和41(1966)年ごろから狸坂大明神で火災封じを祈願するようになった。

 祀(まつ)られている狸がどのような狸なのか興味深いが、これといった資料がない。ただ、江戸時代初期にすぐ近くの粉川町(こかわちょう)に住んでいた、古林正温(ふるばやししょうおん)という名医の逸話にこんなのがある。

 ある日の深夜。古林正温を訪ねて奇妙な童子がやってきた。橋の上で魚をひろい食いしたら腹が痛くなった。先生、どうか助けてください、でも、お金がないのです、と涙ながらに訴えるのだ。

 正温は日頃から、金のない人からは診察の料金をいただかないでも診るという医者だったので、診察して薬を渡すと、童子は喜んで帰っていった。

 数日して、毛だらけの大男がやってきて、先生のおかげで治りました。このご恩は一生忘れませんと言って、お礼に不思議な踊りを踊って消えたという。この童子が実は狸だったのだ。これが、ひょっとしたら狸坂にいた古狸なのかもしれない。

 また、南大江公園は、それ自体、朝日神宮社という神社があった場所で、明治40(07)年に此花区に移った。公園の規模からいって、けっこう大きな神社だったのだろう。

 神社というのは、そもそも宗教というより土地の人々の拠(よ)り所(どころ)としての役割が強い。それが無人でも土地の人々が愛し、お世話するという伝統につながっている。狸坂大明神も毎年、5月28日に地元の住民たちで火除(よ)け祭を行い、子供たちにはお菓子も配られる。

 日本は神主よりも神社の数の方が圧倒的に多い。それは村や地域が育んできた協同体のシンボルでもある。このように公園の一角に神社があり、木々がこんもりあると公園全体の空気がすがすがしく感じる。それこそ場と心の浄化装置である。

 狸坂大明神からは公園全体が見渡せる。狸坂の狸は今も、公園で遊ぶ子供たちを見守って、ニコニコしているにちがいない。

1195よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 05:40:52 ID:W5qWiync0
竹内街道1400年 役割変われど往来途切れず
2013.3.2 15:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n2.htm

 飛鳥時代の大和(奈良)と河内(大阪)を結んだ日本最古の官道「大道(おおじ)」が整備されて、今年で1400年を迎える。国境の竹内峠を越えることから竹内(たけのうち)街道と呼ばれ、初期の「外交の道」から経済、信仰、観光の道へと役割を変化させた。その道筋には、いまも古今の旅人の歴史が詰まっている。(川西健士郎)

 日本書紀をひもとくと、推古天皇21(613)年に、「難波より京に至る大道を置く」という記述がある。海上交通の起点だった難波の港(大阪市)と飛鳥(奈良県明日香村)を結ぶいわば最初の「国道」だ。

 沿道の大阪府太子町には、聖徳太子や推古天皇が眠る「王陵の谷」や、西域のシルクロードを連想させる奈良時代の石窟寺院跡などの遺跡が残る。遣隋使や外国の使節は、巨大古墳や美しい寺院を眺めながら都に向かったのだろう。

 考古学者の水野正好さん(78)は「国家が管理する倉や馬舎が一定間隔にあった。渡来人や軍隊、聖徳太子も通った広く、きらびやかな道だったことでしょう」と想像する。

 中世になると、聖徳太子が発見を予言した「予言石」が叡福(えいふく)寺境内の聖徳太子廟で発見されたことをきっかけに、太子信仰の巡礼者が大勢訪れる。自治都市として栄えた堺と大和を結ぶ経済の道としてもにぎわった。江戸時代には、西国三十三カ所巡りやお伊勢参りの旅人も盛んに往来するようになった。

 このころ旅人を奪い合う争いがあったことが、近年の研究で明らかになった。

 当時、竹内峠の東西の村に、旅人が一夜を明かす旅籠(はたご)街があった。ところが西側の山田村(現・太子町)が、竹内街道から分岐し、観光名所の当麻(たいま)寺につながる「岩屋道」を整備した。「できるだけ山田村に一泊してもらい、翌日に当麻寺観光を楽しんでもらう旅行ツアーを開発したという感じでしょう」と、太子町立竹内街道歴史資料館の鍋島隆宏学芸員(43)は解説する。

 この“ツアー”が当たり当麻寺に人が流れたため、東側の竹内村の旅籠から客足が遠のいたとして、竹内村が奉行所に窮状を訴えた訴状が、旧山田村から見つかった。奉行所は、岩屋道との分岐点に置かれていた旅人を当麻寺へ誘導する石の道標(みちしるべ)を撤去するよう裁定を下した。

 その道標は分岐点より手前の山田村に移されたが、かわりに「(当麻寺へは)是ヨリ十三丁程東」の文字が新たに刻まれた。「井関の道標」として資料館の近くに立っており、全国的にも例のない“予告する道標”として、ユニークな歴史を伝えている。

 1400年を記念し、沿道12市町村では3〜11月にさまざまなイベントが企画されている。鍋島さんは「歴史の深みを肌で感じられるのが竹内街道の魅力。知恵と工夫で村おこしをしてきた先人を見習い、観光を盛り上げたい」と話している。

1196よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 22:25:30 ID:ckeyGACg0
伊能忠敬らも宿泊、「郡山宿本陣」が特別公開 茨木で10日まで
2013.3.3 14:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130303/wlf13030314120024-n1.htm

 江戸時代、日本地図を作った伊能忠敬(ただたか)や「忠臣蔵」で知られる赤穂(兵庫県)藩主、浅野内匠頭(たくみのかみ)ら歴史上の人物も宿泊した茨木市宿川原町の国史跡「郡山宿本陣」で2日、春の特別公開が始まった。

 同本陣は江戸時代、参勤交代などで西国街道を通る大名らが利用した宿舎で、母屋、門、米蔵、納屋、茶室などが残る。大きなツバキの木があることから別名「椿の本陣」と呼ばれる。

 宿帳が保存され、伊能忠敬らのほか、長州(山口県)の高杉晋作が組織した奇兵隊幹部の宿泊などが記録されている。

 この日は、17代目当主、梶(かじ)洸(たけし)さん(90)らが講演、訪れた人たちは全国に残る本陣の実態などを熱心に聞いていた。

 10日まで。無料。問い合わせは、同本陣((電)072・643・4622)。

1197よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 22:30:28 ID:ckeyGACg0
兼好の碑 生かせ 関連遺構集まる寺に移転へ
2013年3月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130303/20130303020.html

 大阪市阿倍野区の聖天山公園内に鎌倉〜南北朝時代の歌人、吉田兼好(1283〜1350)がこの地で隠居生活を送っていたことを顕彰する碑がある。1983年に設置されたその碑石が、隣接する海照山正圓寺(同区)の境内へ移されることになった。境内には、当時の生活で用いたとされる「藁(わら)打ち石」など兼好にちなんだ遺構や碑が複数点集合しており、辻見覚彦住職(45)は「地域の財産が新たに加わり、ようやく一つの形になった」と喜んでいる。

 随筆「徒然草」の作者として知られる兼好だが、阿倍野で隠せいしていたことは知られていない。この地で庵(いおり)を結んだのは、南北朝の争乱の中、大阪で討ち死にしたとされる北畠顕家(1318〜1338)を慰霊するためであったという説があり、下男・命婦丸(みょうふまる)の郷里であったことにも起因しているという。

 クスノキの大木の下でひっそりとたたずむ碑石には、元東大寺管長、清水公照氏の書による「徒然草」の序文などが刻まれており、傍らにはこの地を訪れた松尾芭蕉の門人、服部嵐雪による句碑も残る。しかし、人目に触れることなく、表示もないなど地域資源として生かし切れていなかったことが懸念の一つだった。

 辻見住職によると、同寺は飛鳥時代に起源を持つ阿部寺(廃寺)の塔頭(たっちゅう)であったとも伝えられ、現在の形になったのは江戸中期の元禄年間とされる。1950年の文化財保護法の施行以前から歴史的遺構が散在しており、集積は「歴史をいびつにしてはいけない」という先代の懸案でもあったという。

 同公園があり、碑石の設置者でもある丸山連合振興町会では、理事会で移設に満場一致の賛同を得た。周辺には丸山古墳や松虫塚があり、近代では文豪・織田作之助のゆかりの地としても知られ、同町会の衣斐雅一会長(56)は「丸山って古いんやな、と感じてほしい」と地域活性化に期待している。

 4月7日には、移設を記念して式典を実施する。大阪府立大学の西田正宏地域連携研究機構教授(学芸史)による講演も行われる。

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1209よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 19:40:58 ID:DylJri4M0
江戸時代の“起こし絵図”展
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130311/3058711.html?t=1362997251093

茶室などの建物の構造を紙を張り合わせて実物そっくりに再現した、「起こし絵図」と呼ばれる江戸時代の立体的な図面の展示会が大阪市内で開かれています。
起こし絵図は台紙に平面図を描き、その上に内部の様子を描いた厚手の紙を張り合わせて模型のように立体的に組み立てることができるものです。
大阪・北区の大阪くらしの今昔館では江戸時代に大工頭を務めた中井家に伝わる起こし絵図など、国の重要文化財を中心に約100点が展示されています。
このうち茶の湯を大成した千利休が建てたと伝えられる京都・東山の高台寺の傘亭と呼ばれる茶室の起こし絵図は土間から一段高くなった床の立体的な構造や、かまどの配置、部屋の上に張り渡された自然の姿に近い木材の様子などが詳細に記されています。
また、京都の大徳寺にあった茶室の起こし絵図は実物が東京に移築されたあと、関東大震災で焼失したため、現存しない建物の構造を知る上で貴重な資料となっています。
こうした起こし絵図は江戸時代に大名や著名な寺の僧侶などの求めに応じて作られ、今回のようにまとまった形で展示されるのは珍しいということです。
この起こし絵図の展示は来月7日まで、大阪くらしの今昔館で行われています。

03月11日 12時25分

1210よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 20:56:20 ID:DylJri4M0
七代目文都襲名公演前に 天満宮で成功祈る
2013年3月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130309/20130309029.html

 月亭八方さんの二番弟子で、古典だけでなく創作落語にも取り組む落語家、月亭八天さんが「八天改メ七代目月亭文都襲名披露公演」(19日、なんばグランド花月)を前に8日、大阪市北区の大阪天満宮で同公演の成功を祈願し、飛躍を誓った。

 113年ぶりの復活となる大名跡の襲名を控え、八方さんをはじめ遊方さん、八光さんら一門で成功を祈願。八天さんは「八天の天は天満宮の天。文都の襲名にあたり、八天の名前を奉納、お返しするような気持ちで参拝した。当分は八天を永久欠番にし、文都を継がせて頂きたい」とあいさつした。

 「あと10年早かったら自分が襲名したかったという師匠の気持ちを1年かけて受け継いだ」と、師匠と行動を共にしてきた1年を回顧。八方さんは「公演では力いっぱい頑張ってもらいたい。大名跡だが、あまり名前の大きさを意識せず、今まで通り、老若男女に親しまれる落語家になってほしい」とエールを送った。

1211よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 21:11:40 ID:DylJri4M0
しらうめの庭が優勝 天満天神梅酒大会表彰式
2013年3月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130310/20130310044.html

 日本一の梅酒を決める品評会「第7回天満天神梅酒大会2013」(同実行委員会主催)の表彰式が9日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれ、梅酒部門では白糸酒造(福岡県)の「しらうめの庭」が優勝した。

 同大会は梅酒文化を振興しようと実施。梅酒部門とリキュール部門の2部門を設け、各部門で優勝と知事賞、大阪市長賞を決める。

 2月に開かれた大会には全国から酒造会社が集まり、梅酒308銘柄、リキュール165銘柄を出品。審査は、来場者らの投票約5万1千票を踏まえ、上位の銘柄をソムリエら審査員が評価した。

 「しらうめの庭」は、大吟醸に南高梅を漬け込んで醸造。シニアソムリエの古川豊明審査委員長は「日本酒の香りが深く印象に残り、味わいはすっきり。新しい日本の梅酒を感じさせる」と講評し、同社の田中信彦社長(59)は「今後も精進していきたい」と喜んでいた。

 また、リキュール部門では小林酒造(栃木)の「鳳凰美田完熟もも」が優勝。日本酒を使っている点を踏まえ、小林正樹専務(43)は「リキュール愛好家に日本酒も味ってもらえるようになれば」と思いを語っていた。

 他の受賞銘柄は次の通り。

 【梅酒】知事賞=篠崎(福岡)「馬路村のゆず、はじめました。ゆず梅酒」▽市長賞=明利酒類(茨城)「梅香 百年梅酒プレミアム」

 【リキュール】知事賞=北島酒造(滋賀)「塩ゆず」▽市長賞=稲田本店(鳥取)「二十世紀梨のお酒」

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1219名無しさん:2013/03/12(火) 19:20:30 ID:K7PqwZMI0
産経新聞本日掲載「司馬作品で読む日本史」
 徳川政権は政治を江戸へ持って行ったが、経済だけは大坂に残した。大坂が流通の全国的中心であるということを奪えば徳川の天下は大混乱を起こし、経済の面で崩壊することを恐れたからであり、豊臣家の経済構造はそこまで成長していた。
言い換えれば徳川時代を通じ、政治は徳川方式であったが、経済は豊臣方式のままであり、これは幕府の瓦解まで続く。大阪人がいまだに千成瓢箪を尊崇するのはそういうことにある。
 (前略)銀本位の通貨を取ったのは(確率はしなかったが)豊臣政権であり、徳川時代に入っても大阪はそれを改めず、ついに徳川時代を通じて大阪圏は銀本位体制であった。江戸は金本位である。このため徳川期の通貨は金銀の二本立てと言う奇妙な形となった。
 
 ついでながら銀の尊貴さは金に接近していた。日本だけがそうであった。幕末、大坂が受けた大打撃はこのことにあっただろう。安政条約によって国際的な金銀の率が入ってきて、外国商人は金貨を欲し、銀貨を欲せず、さらには日本独自の銀の価値を当然ながら認めなかった。
銀をふんだんに保有してた大坂経済がにわかに衰亡するに至るのはまずこれが第一波であった。豊臣政権がのこした最後のものがほろびたのはこれがためであり、いわば開国は大坂にとって第2の夏の陣であったと言っていい。
=全集32『歴史を紀行する』(文芸春秋)

因循姑息でいると来るTPPに対処できないってか?

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1223名無しさん:2013/03/14(木) 18:21:51 ID:pSZno9go0
井山裕太本因坊、初の棋聖を獲得…史上初の六冠
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130314-OYT1T00947.htm?from=top

 囲碁の第37期棋聖戦七番勝負(読売新聞社主催)、張栩棋聖(33)と挑戦者、井山裕太本因坊(23)の第6局は13日、静岡県伊豆市の「玉樟園新井」で2日目が行われ、井山本因坊が先番中押し勝ちし、シリーズ4勝2敗で初の棋聖を獲得。

 天元、王座、碁聖、十段と合わせて、七大タイトルのうち六つを占め、史上初の六冠となった。最年少での七大タイトル制覇も達成した。
(2013年3月14日17時14分 読売新聞)

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1231よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/17(日) 14:04:51 ID:nvfKujBc0
重文住宅所蔵の人形 初公開 吹田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130317-OYT8T00091.htm

 吹田市内本町の重要文化財「旧西尾家住宅」に所蔵されている人形などを初めて公開する特別展「西尾家に伝わった人形たち」が16日、同住宅で始まった。4月7日まで。無料。

 明治時代に建てられた同住宅は2009年、国の重要文化財の指定を受けた。敷地内の蔵に納められていた人形などは非公開だったが、市立博物館の学芸員らが制作年代などを特定し、公開に踏み切った。明治中期から昭和初期にかけて作られた京都市の名高い人形師、四世大木平蔵が作ったひな人形や五月人形のほか、太刀などの器物計約50点が紹介されている。

 江戸時代に貝合わせの遊び道具として使われた2枚貝約50組も展示。貝の内側に金箔(きんぱく)や絵の具で平安時代の貴族の暮らしぶりが色鮮やかに描かれており、訪れた人々は顔を近づけるなどして、見入っていた。同市佐竹台、主婦湯川照子さん(65)は「貝の中の絵がすごくきれい。華やかな時代の様子が伝わる」と話していた。

(2013年3月17日 読売新聞)

1232よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/17(日) 14:13:07 ID:nvfKujBc0
特別展:「天下の城下町 大坂と江戸」 二つの城下町、対比させながら−−大阪歴博
毎日新聞 2013年03月14日 大阪夕刊
http://mainichi.jp/feature/news/20130314ddf012040009000c.html

 特別展「天下の城下町 大坂と江戸」が、大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前4)で開かれている。絵画や古文書、考古資料など約400点を通し、二つの城下町を対比させる試み。

 天下人による本格的な城下町は豊臣秀吉が造った大坂が最初で、徳川家康が征夷大将軍に就いた後は江戸へと移る。だが、大坂城は徳川幕府によって再興され、大坂の町は「天下の台所」として発展する……。そうした流れがつかめる。

 大坂は町人の町。徳川政権下の大坂城の普請でも、町人が諸大名を支えたことを記す古文書類も並ぶ。諸藩が米や特産物を売るために設けた邸宅・倉庫が蔵屋敷。発掘調査で出土したミニチュア土製品(像)の数々(江戸後期)も紹介している。布袋やサルなど多様。用途はよく分からないが、流通基地の意外な一面を浮かび上がらせる。

 25日まで(火曜休館)。同館(06・6946・5728)。【渡辺亮一】

1233よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/17(日) 14:24:50 ID:nvfKujBc0
「文楽 劇場に来て」百貨店でPR…大阪
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130317-OYO1T00220.htm?from=main3

 人形浄瑠璃文楽の演者らが16日、大阪市北区の阪急百貨店梅田本店で、大阪・国立文楽劇場の4月公演(6〜29日)をPRするミニ出張公演を行った。

 ホールなどを備えた〈劇場型百貨店〉をうたう同店が、文楽協会側に呼びかけて実現した。人形遣いの桐竹勘十郎さんら15人が、9階祝祭広場で名作「義経千本桜」の一場面を上演。店内を巡ってチラシも配り、同劇場への来場を呼びかけた。

 同劇場の入場者数に連動して、協会への補助金を増減する大阪市の新制度は、4月公演分からが対象となる。この日は2公演を延べ約1000人が観劇した。

(2013年3月17日 読売新聞)

1234よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/18(月) 20:51:00 ID:e99SF7m.0
境内に文化の薫り再び 御霊神社、多彩な催し好評
2013年3月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130318/20130318028.html

 “ごりょうさん”の呼び名で親しまれ、かつて境内に文楽の劇場が開かれたことで知られる大阪市中央区淡路町4丁目の御霊(ごりょう)神社(園文夫宮司)。都心に広がる緑豊かな境内は日ごろから参拝者が絶えないが、近年では各種催しの会場としての利用が相次ぎ好評を得ている。文化の中心地としてとりわけにぎわった、かつての境内の風景を現代に再現しようと神職らが活用法に知恵を絞る。

 人形浄瑠璃の劇場「御霊文楽座」は1884(明治17)年に開設。1926(大正15)年の火災で焼失するまでの約40年間にわたり近世文楽の全盛期を彩った名所だ。跡地には神社創建1100年記念事業の一環として98年に儀式殿(約200人収容)が建った。「ゆかりの地で、にぎわいの歴史を受け継いで地域活性化に役立てたい」という園宮司の思いから、神事や結婚式と重ならない日に無料で貸し出している。

 これまでに能や雅楽、日本舞踊、落語、文楽といった格調高い伝統芸能が多数公演されており、場所柄「縁起がいい」「運がついた」と出演者にも好評。口コミで利用の申し出が増え、今後も多くの催しが予定されている。東日本大震災から2年目となった11日にはライア(竪(たて)琴)の歌姫として知られるマリアスさんらが境内を訪れ「水の神 瀬織津姫に捧ぐ平和への祈りの響きと舞」を奉納した。

 園宮司は「もともと神社は人々のよりどころだった。疎遠になった人と人を結びつけるのも神社の務め」と尽力し、総合的な地域のにぎわい再興に期待を寄せる。

 5月24日には境内でハイクオリティーな手作り雑貨のブースが多数並ぶ市場「グランデマルクト」の開催も予定されている。

 問い合わせは電話06(6231)5041、同神社へ。

1235よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/18(月) 22:50:11 ID:e99SF7m.0
五穀豊穣、産業繁栄 住吉大社「神米」お供え
2013年3月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130318/20130318031.html

 大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で17日、五穀豊穣(ほうじょう)と産業の繁栄を祈る「祈年祭」が執り行われ、参列者が玉串をささげるなどした。

 「としごいのみまもり」とも言われ、重要な大祭の一つ。境内にある御田で前年に収穫した神米の種をお供えし、1年間の豊穣を祈願する。この種は御田植神事の苗になる。

 真弓宮司が祝詞の奏上を行った後、御田講の山本英夫さん(86)らが代表して玉串を奉納。巫女(みこ)による神楽(神降・熊野舞)がささげられ、参列者とともに、居合わせた参拝者も興味深そうに見入っていた。

 山本さんは「きょうは暖かくいい天気でよかった。(御田は)今はレンゲがきれいに咲いている」と、6月の御田植神事を楽しみにしている様子だった。

1236名無しさん:2013/03/19(火) 02:01:47 ID:g4vavN2Q0
「泉布観」3年ぶり一般公開 ふるさと納税活用
2013年3月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130317/20130317030.html

 大阪市は、国重要文化財(重文)の洋風建造物「泉布観(せんぷかん)」(北区天満橋1丁目)の補修工事を終え、29〜31日の3日間、3年ぶりに一般公開する。4月12日からは同エリアの旧桜宮公会堂が結婚式場やレストランとして利用開始。泉布観の南側には「桜の通り抜け」でおなじみの造幣局もあり、春本番を前に、関係者は大阪の新しいにぎわいスポットとして期待を寄せている。
国重要文化財に指定されている泉布観(大阪市提供)

 泉布観は、造幣局の応接所として1871(明治4)年に建築。れんが造りでベランダを建物全体にめぐらすなど、幕末から明治期の日本の洋風建築の特色を色濃く残し、1956(昭和31)年に国重文に指定された。

 施設の老朽化に伴う工事のため、一般公開は2010年3月で一時中断。工事費の1億500万円はふるさと納税を活用した寄付によって全額賄い、屋根瓦や外観塗装、外観補修やライトアップ設備を整えた。

 旧桜宮公会堂は市民の寄付などにより明治天皇記念館として1935(昭和10)年に建築。正面玄関部分が国重文に指定されており、市立図書館やギャラリーとして活用されてきた。

 リニューアル後はブライダル業者のノバレーゼが管理。1階にレストラン、2階に式場を配し、レストラン部分は結婚式がない平日は一般も利用可能になるという。

 橋下徹市長は「多くの方々から多額の寄付を頂き本当にありがたい。水都大阪の象徴的な拠点になると思う」と話していた。

 泉布観の一般公開は午前10時〜午後5時(入館は午後4時半まで)。観覧無料

1237よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/19(火) 05:35:13 ID:G/zsG6zE0
箕面を訪れた有名人 足跡紹介する企画展 市立郷土資料館 大阪
2013.3.19 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130319/osk13031902000000-n1.htm

 箕面市を訪れた有名人の足跡を書物などの資料とともに紹介する企画展「大阪の奥座敷みのお〜訪れた有名人たち〜」が、同市箕面の市立郷土資料館で開かれている。5月13日まで。

 会場では、明治時代の首相、桂太郎が訪れた際に書いた掛け軸や、かつて箕面公園内にあり作家の夏目漱石も訪れた保養施設「朝日閣」の看板など約30点を展示。少年時代に箕面山に昆虫採集に訪れていた漫画家の手塚治虫ゆかりの資料なども展示されている。同館は「箕面は古くからの観光地。展示を見て魅力を再発見してほしい」としている。

 開館は午前10時〜午後5時。木曜休館。入場無料。問い合わせは同館((電)072・723・2235)。

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1239よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/20(水) 20:51:12 ID:Fp/3mRvc0
江戸時代のペーパークラフト 「茶室起こし絵図展」
2013年3月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130319/20130319054.html

 「重要文化財 中井家伝来 茶室起こし絵図展〜江戸時代のペーパークラフト〜」が大阪市北区天神橋6丁目の大阪くらしの今昔館で始まっている。茶室の起こし絵図を通じて茶の湯の文化の変遷がたどれる。4月7日まで。

 起こし絵図は、実測して作った平面図の上に厚手の紙を張り合わせて作った寺社や茶室などの立体模型。観賞用として、大名や天台座主といった僧侶らの依頼で作られていたと考えられている。

 中井家は、大坂城の建築などに携わった江戸時代の大工頭。小堀遠州や古田織部など茶人からの書簡や茶伝書から、茶人と交流を深めていたことが分かる。

 会場では、重文「大工頭中井家関係資料」に含まれる約20点の起こし絵図と80点の関係資料を展示し、茶湯の文化の変遷をわび茶の祖村田珠光の時代から起こし絵図とともに紹介している。実際の寸法で再現したセットもあり、天井や屋根の仕様、間取りなど起こし絵図に詳しく記されたメモが観察できる。

 茶室のなかには、災害などにより焼失したものや現存していても改修、改築により姿を変えたものもあり、担当学芸員は起こし絵図の資料的価値について「オリジナルの姿が知れる貴重な資料」と説明している。

1240よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/20(水) 21:07:44 ID:Fp/3mRvc0
“新”寺院を提言 光聖寺住職の秋田光哉さん
2013年3月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130320/20130320036.html

 光聖寺(天王寺区生玉寺町2)の住職で蓮美幼児学園(同)の園長、秋田光哉さん(52)が新書判「社会事業による寺院の再生−MBA僧侶の挑戦」を出版した。「宗教儀式だけが僧侶の仕事ではない」と言う秋田さんが、自身が経営する蓮美幼児学園での経験を基に、新たな寺院の社会事業のシミュレーションを提言している。

 秋田さんは1988年、檀(だん)信徒も少ない、尼僧が守っていた光聖寺に縁あって入り、94年に住職に就任。「社会貢献できる寺院にしたい」との熱い思いから、「蓮美幼児学園」を設立。現在は関西や東京で乳幼児教室や東京都認証保育所を運営。2005年には光聖寺が母体となり、認可保育所を大阪と東京で運営している。乳幼児教育施設は“関西のカリスマ保育園”として知られ、乳幼児を預ける保護者から信頼を寄せられている。

 本書は宗教法人の社会事業のあり方をより深めたいと、秋田さんが07年4月に立命館大大学院経営管理研究科に入学し、経営修士(MBA)を取得した修士論文を書籍化した。

 書籍では檀家の減少、信心の低下、葬儀や墓地の多様化、寺院経営の困難さを著した第一章「寺院を取り巻く現状」から「宗教法人(寺院)の会計と優遇税制」「大阪・生玉 光聖寺の再興計画」「社会事業への目覚め」「寺院の社会事業のケーススタディ」「新たな寺院の社会事業のシミュレーション」−の六章で構成。自ら社会事業で寺院再生を実践した事例を紹介し、いかに社会と結びつき、就労支援、福祉葬儀、福祉墓地、子育て支援、地域社会へのサービスなど社会貢献ができるのか、その事業が自主自立の精神で継続できるかを綴(つづ)っている。

 秋田さんは「経済的に自立し頑張ってやろうと、今日まで歩んできた。広く公益となるであろうさまざまな社会事業も、宗教法人の取り組むべきことがらだと強く思っている」と話している。

 発行は中外日報社、新書判208ページ、945円(税込み)。

1241よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/20(水) 21:13:02 ID:Fp/3mRvc0
浪華紙魚百景 

大商大商業史博だより

満津里俄貮篇
2013年3月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130320/20130320046.html

歌舞伎を題材の「にわか」

 先日から4月の文楽の公演ポスターを最寄りの駅や大阪の地下鉄の駅中で見掛ける。夜の部は『心中天網島』の通しが楽しみだが、昼の演目のうちの一つに歌舞伎の演目としても人気の『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』が入っている。

 乳母・政岡がわが子を犠牲に若君を毒殺から救う「御殿の場」は、彼女の息子千松が殺される衝撃的な場面はもちろん、政岡が若君と息子に食べさせる「まま」を御殿で自ら、しかも茶の湯の作法で料理する場面は、「腹が減ってもひもじうない」という千松のセリフとともに見せ場の一つ。こういう動作をしっとり見せるところに文楽や歌舞伎の良さがあり、それが緊迫した場面を盛り上げる。

 文楽公演に合わせて、今回は第20回で紹介した江戸時代のコントの一種「俄(にわか)」を集めた『満津里俄(まつりにわか)』から「政岡」を題材にした「習うに慣れ」を紹介しよう。

 「習うに慣れ」は、もちろん「習うより慣れ」が正しい。「あらたまって習うより、自然になれる方が効果がある。学んで覚えられないこともなれれば自然に知ることができる」と日本国語大辞典にある。「習うに慣れ」とは、逆に「自然に知るより習いなさい」ということになろうか。

 こちらの政岡は、鶴千代(文楽では鶴喜代)を守るため御殿でご飯を炊きながらぼやくのだ。給金は安いし、第一、1人や2人の場合は茶道具でお米を炊けても、大勢の場合は「政岡のままにあわん」。ここに「マサカのマにあわん」とルビが振られており、これがオチで、「まさかの間に合わない」と、損益が釣り合わない意味の「間尺に合わない」の両方が掛けられている。

 たくさんのご飯を普通に炊くのでは政岡の「まま」に合わないが、題の「習うに慣れ」とどうつながるねん。間尺に合わん。なるようになれ、だ。

 そういえば、以前に坂田藤十郎の政岡を見たのだが、その日は用事で開演時間に遅れてしまった。劇場に入った途端、内掛けの褄(つま)を両手でしっかり持ってすっくと立った赤い着物の藤十郎ににらみつけられた。そんな私には、烈女の政岡より、給金が安いとぼやくこちらの政岡の方がしっくりくる。

 とはいえ、今年の文楽公演も千客万来でありますよう。いやさかいやさか。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

1242よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/24(日) 20:07:16 ID:zrcSVFCI0
鋳物の歴史学ぼう あす、堺で映画など上映
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130323-OYT8T00170.htm

 堺市美原区の市立みはら歴史博物館で24日午後1時から、鋳物の歴史を学ぶイベント「鋳界(ちゅうかい)まんだら」が開かれる。参加無料。

 同区は、平安時代末期から室町時代に全国に鋳造技術を広めたとされる河内鋳物師(かわちいもじ)ゆかりの地。同区の広国神社に合祀(ごうし)されている鋳物師の氏神・鍋宮大明神の奉賛会学術部と、地域の歴史を研究する美原若松会が主催する。

 鋳造業の歴史と魅力、現状に迫ったドキュメンタリー映画「時を鋳込(いこ)む」(広島県鋳物工業協同組合製作、2011年)と、東大阪市の鋳物工場が登場するTVドキュメンタリー作品を上映する。

 同奉賛会と美原若松会の会長を務める光田榮宏(よしひろ)さん(84)(美原区大保)は「美原区と鋳物の関係を学び、故郷の魅力を再発見するきっかけにしてほしい」と話している。

 定員100人。問い合わせは光田さん(072・361・1350)へ。

(2013年3月23日 読売新聞)

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1244よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/26(火) 05:45:19 ID:i6mE1PjA0
明治の気風 香る天井画 30日、枚方で一般公開
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130325-OYT8T00080.htm

 明治から昭和にかけて府民らに親しまれた文化・娯楽施設「府立大阪博物場」(大阪市中央区)の中央館を飾った巨大天井画が30日、移設先の関西医科大教養部大講堂(枚方市)で一般公開される。巨大な龍と鳳凰(ほうおう)が鮮やかな色彩で描かれており、当時の大阪の活気を伝えている。(梶多恵子)

 府立大阪博物場に詳しい橋爪節也・大阪大教授(日本美術史)や関西医科大などによると、同博物場は1884年に開設され、中央館はその中心に、88年に建設された。大阪で最初の本格的な美術館で、府内初の洋画展が開かれた。

 天井画は中央館の象徴として飾られた。縦約15メートル、横約6メートルの巨大な楕円(だえん)形で、雄たけびを発する龍と、悠然と舞う2羽の鳳凰が描かれている。周りの壁面には、天馬や花鳥、十二支などの絵画22枚(各約3メートル四方)が配置された。日本画家、上田耕冲(こうちゅう)(1819〜1911年)を中心に、当時大阪で活躍していた画家らが、法隆寺の献納品や正倉院の宝物の図柄などを参考に完成させた。

 中央館では様々な展覧会が催され、多くの人でにぎわったが、建物の老朽化で1937年に取り壊された。その際、府などの計らいで、関西医科大教養部の前身・大阪女子高等医学専門学校(枚方市)が天井画と22枚の絵を譲り受け、天井画は大講堂に設置された。

 昭和戦争の混乱で美術史研究家の間で忘れ去られたが、97年に枚方市で開催された市制50周年記念の企画展をきっかけに、再評価されるようになったという。橋爪教授は「荘厳な天井画を見ていると、産業化に向かって勢いづく明治時代の大阪の意気込みを感じる。文化財としてはもちろん、歴史的資料としても価値がある」と話している。

          ◇

 天井画の一般公開は30日午前10時から正午まで。橋爪教授が説明する。無料。事前申し込みが必要。希望者は、枚方市生涯学習課(050・7102・3206)へ。

 ◆府立大阪博物場 勧業を目的に、大阪市中央区本町橋の初代府庁(幕末の西町奉行所、約9600平方メートル)を改修して1875年に設けられた博物場が前身で、84年に開設された。博物館や美術館のほか、大阪市天王寺動物園の前身となる動物檻(かん)など、様々な施設が整備された。

(2013年3月25日 読売新聞)

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1259よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/29(金) 21:05:27 ID:d6.0Cf520
文楽人形もお祝い 竹本座跡に案内パネル
2013年3月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130328/20130328027.html

 江戸時代に隆盛を極めた大阪・道頓堀の人形浄瑠璃劇場「竹本座」の跡地に27日、同座の由来などを紹介したパネルが設置された。除幕式には文楽座の吉田和生さん、桐竹勘十郎さんが人形と共に参加し、山村流家元の山村若さん、OSK日本歌劇団トップスターの桜花昇ぼるさんらと共に史跡観光スポットの誕生を祝った。

 同座は竹本義太夫が1684年に創設。座付き作家に近松門左衛門を迎え、1767年まで人形浄瑠璃の拠点として親しまれていた。来月20日に道頓堀ゼロゲートとして新たに誕生するビルの建て替え工事に伴い、上方文化再生実行委員会(今井徹会長)がこれまでポツンと建っていた竹本座跡の碑とともに2枚のパネルを設置して史跡観光スポットとして整備した。

 除幕は「伽羅先代萩」の政岡と「心中天網島」の小春の人形を遣って行われ、集まった観光客らの記念撮影に応じた。今井会長は「パネルをお披露目でき文化再生の第一歩になった。これからもミナミの人間が誇れる街にしていきたい」と話していた。

1260名無しさん:2013/03/30(土) 05:22:20 ID:J4nD8NLc0
本当は国立文楽劇場は道頓堀に移した方が
いいと思うんだけどな。

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1264よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/31(日) 20:21:26 ID:Dk7uSl/A0
最古の国道1400年で活性化 近鉄に記念列車
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20130330-OYT8T01619.htm

◆沿道12自治体が宣言

 日本最古の国道とされる「竹内街道・横大路」が整備されて1400年を迎えたのを記念し、沿線の県と大阪府の12自治体で作る実行委員会は30日、明日香村の近鉄飛鳥駅前で、街道のPRなどを推進するプロジェクトの共同宣言をした。

 竹内街道・横大路は、「日本書紀」に613年、推古天皇が整備したと記される「大道」のルートと重なり、節目の年に向け、沿線自治体が昨年2月、実行委を設置。この日、大阪府太子町の「たいしくん」らご当地キャラクター10体が同乗した記念列車が、近鉄大阪阿部野橋駅を出発し、到着した飛鳥駅前で、実行委副会長の山下和弥・葛城市長が「『古代の道からまちづくり』を共通理念として、ともに地域の活性化を推進する」と共同宣言した。

 その後、乗客ら約150人が、同村の石舞台古墳や高松塚古墳など約4キロを歩いて巡った。

 今後、沿線各地で様々な行事を行うといい、実行委会長の浅野克己・太子町長は「沿線地域の魅力を再発掘し、地域活性化につなげたい」と話した。

(2013年3月31日 読売新聞)

1265よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/31(日) 20:27:35 ID:Dk7uSl/A0
【昭和おおさか写真館】
大事件見守った“東洋一の警察署” 「曽根崎警察署」
2013.3.31 15:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130331/wlf13033115010023-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130331/wlf13033115010023-n2.htm

 曽根崎警察署の3代目庁舎で勤務した経験がある現役警察官はいない。

 そこで、昭和51年3月〜53年3月、直轄警ら隊隊長として曽根崎署で勤務した元大阪府警総務部長の高橋強さん(65)に話を聞いた。高橋さんは53年3月に発行した開設100周年記念誌「治安を守る 風雪100年の歩み 曽根崎警察署」の編集委員の一人だった。

 45年4月に警察官になった高橋さんによると、「かすかに覚えている」という3代目の思い出は取り壊し直前の姿だったという。

 記念誌によると、曽根崎署は明治10年10月、人員38人(平成24年現在約370人)で開設された。3代目庁舎が完成したのは昭和4年5月で、鉄筋コンクリート5階建て(高さ19・08メートル)の「スクラッチクリンカータイル張り」。斬新な外観と構造は当時としては珍しく、“東洋一の警察”といわれ、見物人が後を絶たなかったという。

 その3代目も37年ごろから、地盤沈下や地下街建設の影響で庁舎全体が北西に1・5度も傾いた。その後、業務に支障が出るとして建て替えが決まった。仮庁舎への移転は45年10月で、48年5月に今の4代目が完成した。

 4〜45年という3代目庁舎の時期には、曽根崎署管内でさまざまな出来事があった。陸軍と警察の対立から発生した8年の「ゴーストップ事件」や45年の「天六ガス爆発」。中でも大きな出来事の一つだったと高橋さんがあげるのが36年10月21日発生の「池永巡査殉職事件」だった。

 〈夜、パチンコ店から「指名手配犯(殺人未遂)の男が店に来ている」と連絡を受け、派出所の池永利春巡査が出動。御堂筋で男と格闘となり、刃渡り26センチの短刀で胸と腹に重傷を負った。池永巡査はそれでも逃げる男を追跡したが、待ち伏せの男に体当たりで左胸を刺された。池永巡査は拳銃を1発発射して気力をふりしぼり男の体に組み付いたが、左胸の致命傷のためその場に崩れ落ちた〉

 この事件には後日談があると高橋さんはいう。

 「当時、池永巡査には2人の子供がいた。ともに男の子だった。そして、その後、2人とも府警の警察官になった。1人はまだ現役の警察官。さらに、お孫さんも府警の女性刑事として頑張っている」

 悲しい事件に隠された、心を熱くしてくれる話だ。(野瀬吉信)

1266よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/31(日) 20:30:55 ID:Dk7uSl/A0
【昭和おおさか写真館】
こども汽車、ゴーカートが走る 浜寺公園の「交通遊園」 
2013.3.31 19:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130331/wlf13033119000027-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130331/wlf13033119000027-n2.htm

 子供たちが待ち構えるホームに「祝開通」のヘッドマークを付け、モールで飾った車両が入ってきている。笑顔で手を振る子供たちから、ワクワクする気持ちが伝わってくるようだ。

 堺、高石両市に広がる浜寺公園の一角に昭和40年、子供が交通ルールなどを学ぶ施設「交通遊園」がオープンした。オープンの少し後、ディーゼルカーが牽引(けんいん)するこども汽車「もず号」が交通遊園の目玉として走り始めた。

 「人口40万人程度の都市をモデルに、約2万平方メートルに理想的な都市づくりをした」「交通とはどんなものであるかをみて、遊びながら交通道徳を身につけるようにした」

 交通遊園について、当時のパンフレットにはこう記されている。敷地を市街地と郊外に分け、高層ビルや工場などの模型を配置、ゴーカートの高速道路を走らせミニチュア都市とした。街路には信号や踏切が設置され、交通体験ができた。

 東京ではオリンピックが開催され、大阪では万博が控えていた。高度成長期のただ中で、郊外も開発が進み、車の需要も急増した。交通死亡事故が多発していたことが開設の背景にあったという。

 もず号は、アイボリーと明るい赤色のツートンカラーの3両編成。新幹線のような流線形のデザインで、子供たちの人気を集めた。

 交通遊園を運営する大阪府公園協会の左官宣郎・交通遊園園長(48)は「線路もホームも本物に似せ、子供向けのサイズで作られていた。自分たちが主役の汽車の存在は、子供たちにとってうれしかったのではないか」と話す。

 左官さんも幼いころのもず号を覚えている。「身近だった南海電車の角張った車両に比べてスマートで格好良く見えた。万博で見たモノレールに似てると感じました」

 もず号は昭和57年、老朽化で引退する。後継には明治時代の機関車をモデルにした「浪花号」が登場した。現在も園内を走り、浜寺公園のシンボルになっている。公園協会ではミニチュアを作って商品化する計画も進めているという。

 せっかくなので乗ってみた。休日の車内は家族連れでいっぱいだった。最近は子供のころに乗った30、40代が自分の子供を連れて遊びにきているという。世代を超えて思い出を共有できる場所だと思った。(中井美樹)

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1268よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/04/03(水) 00:21:14 ID:ntwc9MT20
大阪勧進相撲発祥の地・南堀江で「ふれあい相撲」−ちゃんこ鍋も
http://namba.keizai.biz/headline/2502/

 大阪・南堀江公園(大阪市西区南堀江2)のグラウンドで3月31日、「高台ふれあい相撲」が行われた。

 イベントが行われた高台(たかきや)地区は、大阪勧進相撲の発祥の地といわれ、地元関係者らが約340年ぶりに土俵に上がる力士の勇姿を復活させようと企画した。

 グラウンドには、簡易土俵が設置され、地元の日吉小学校4〜6年生の児童が参加しトーナメントによる取り組みや、二子山部屋の元力士が所属する間口相撲クラブによる模範相撲や技の実演、ユーモアを交えて行われるパフォーマンス「初っ切り」などが行われた。会場では高台特製ちゃんこ鍋(100円)も振る舞われた。

 相撲大会の参加者らは「力士の筋肉がすごかった」「迫力があった」「また参加したい」などと感想を話す。高台ふれあい相撲実行委員会の堂前裕一さんは「伝統を伝えて、街の活性化につなげたい。今後も恒例化していきたい」と話す。

1269よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/04/07(日) 07:44:37 ID:tEjgI0g60
竹本義太夫300回忌追善公演 墓石、供養塔など修復資金募る 大阪
2013.4.6 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130406/osk13040602020002-n1.htm

 義太夫節の創始者で竹本座の創立者、竹本義太夫の300回忌を追善する勧進特別公演が5日、大阪市中央区日本橋の国立文楽劇場で行われた。同市天王寺区にある義太夫の墓石や供養塔の修復資金を募る目的で開催され、会場では、技芸員らが募金を呼びかけ、人形と記念写真が撮影できるコーナーが人気を呼んだ。

1270よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/04/07(日) 07:50:25 ID:tEjgI0g60
昭和初期 躍動する「なにわ」 大阪城天守閣で行事・祭礼の古写真展
2013.4.5 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130405/osk13040502010000-n1.htm

 昭和初期に大阪で撮影された古写真を集めた「古写真にみる なにわの行事・祭礼」が大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。祭りや行事などの写真が展示されており、学芸員の宮本裕次さんは「約80年前の躍動する人々の姿を楽しんでいただければ」と話している。5月6日まで。

 古写真は、上方文化研究者の故・南木芳太郎さんが、明治から昭和にかけて急速に変わる町や人々の姿を撮影したり記録として収集したりしたもの。今回は約900点の写真コレクションの中から、約100点を展示している。

 大阪市住吉区の住吉大社「御田植神事」や、天王寺区の愛染堂勝鬘(しょうまん)院「愛染祭」、大東市の慈眼寺(野崎観音)「野崎まいり」など。昭和5〜10年頃の大阪を代表する祭りや行事を通じて、当時の町の様子や人々の姿が写真に生き生きと収められている。

 かつて大阪市北区にあった運河「天満堀川」でぎっしりと人を乗せた船がひしめき合う天神祭の一コマや、農作業の休暇に普段酷使している牛を花などで飾り、自由にさせてねぎらう「牛の藪入り」など珍しい情景に、訪れた人たちは興味深そうに見入っていた。

 宮本さんは「昔を懐かしむだけでなく、当時と現代との違いや共通点、人々の気持ちの高ぶりなどを感じてほしい」と話している。

 問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。

1271よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/04/07(日) 21:00:47 ID:o08IYbWo0
閻魔地蔵など19件、文化財に 大阪市教委が指定
http://www.asahi.com/area/osaka/articles/OSK201304060130.html

 【尾崎文康】大阪市教委は5日、市内を流れる川の清らかさを伝えた石碑「青湾(せいわん)碑」(都島区)や、地元住民から長年奉られている「閻魔(えんま)地蔵」(住吉区)など19件を新たに市文化財に指定した。

 市教委によると、大川沿いの毛馬桜之宮公園内にある「青湾碑」は、この地域のきれいな水をたたえて約150年前に建立された碑で、当時は地元の水で大規模な煎茶会も開かれていたという。また「閻魔地蔵」は約500年前に作られたとみられ、閻魔の姿をしているのに地蔵として熱心に信仰されてきた「全国的にも極めて珍しい」(担当者)石仏という。

 市指定文化財は「大阪の歴史や文化を理解するうえで欠かせない文化財」との趣旨で1999年度に始まり、今回の指定で計192件となった。


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