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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

1129よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/04(金) 13:19:05 ID:7qS510ug0
合格祈願 思い込め 四天王寺・元三大師法要
2013年1月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130104/20130104029.html

 「元三(がんざん)大師合格祈願法要」が3日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で営まれた。訪れた受験生やその家族らが、燃え上がる護摩木の炎に合格への思いを込めた。

 第18代天台座主の良源は、985(寛和元)年1月3日が命日のため、元三大師と尊称される。学業成就や合格祈願であつく信仰され、大師に祈れば知恵を授かるとされている。

 大師を祭る元三大師堂では、奥田管長による護摩祈祷(きとう)がなされた。参詣者は、堂前に設けられた知恵の輪をくぐって入堂し、僧侶から錫杖(しゃくじょう)の加持を授かりながら手を合わせた。

 堂前の2本の柱を回る「お百度廻り」で熱心に心願成就を祈る人たちの姿も見られた。

 高校受験を来月に控える和泉市の加藤樹君(15)は「法要の雰囲気に緊張した。勉強を頑張りたい」と気を引き締めた。

 同法要は、各月の3日午前10時から行われる。問い合わせは電話06(6771)0066、同寺へ。

1130よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/04(金) 13:27:45 ID:7qS510ug0
きょう「福の餅神事」 新春の住吉大社で縁起よく 大阪
2013.1.4 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130104/osk13010402010001-n1.htm

■7日には「白馬神事」

 毎年大勢の初詣客が訪れる住吉大社(大阪市住吉区)で4日午後1時から、餅まきなどが行われる「踏歌(とうか)神事」(福の餅神事)が営まれる。

 五穀豊穣(ほうじょう)を願って神前に福の餅をささげるなどしたあと、最後に福の餅が参拝客らにまかれる行事。福の餅を授かると幸運が訪れるとされており、大勢の参拝客らでにぎわうという。

 このほか、7日午前11時から、白馬が境内などを駆け巡る「白馬(あおうま)神事」。正月に白馬を見ると、無病息災でその一年を過ごすことができるとされ、縁起の良いものとして知られている。

※詳しい説明

新春に大地を鎮め 五穀豊穣を祈願
大阪市住吉区・住吉大社
2013年1月4日
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2427

 国屈指の初詣スポットとして知られる住吉大社。お参りの人々で賑わう新年の1月4日、神職や神楽女(かぐらめ)による古式ゆかしい「踏歌神事(とうかしんじ)」が斎行される。これは春の始めに大地を踏んで土地の精霊を鎮め、除厄と招福を祈願する儀式とされており、毎年約10万人の参拝客が訪れる。

 住吉大社禰宜(ねぎ)の富澤昇さんによると、

 「“踏歌”は、古くは“アラレバシリ”と読み、中国の唐から伝わった宮廷行事として『日本書紀』にも記されています。踏歌神事は、元来日本にあった農耕の予祝行事が踏歌によって潤色されたものと考えられており、平安時代には“踏歌節会(せちえ)” と称して盛んに催されていました」

 その後、宮廷行事としての踏歌節会は平安中期に廃絶、神社において神事として継承されてきた。現在でも残るのは熱田神宮と住吉大社だけといわれ、貴重な行事となっている。

 当日は午後1時より第一本宮において神事が始まる。斎主の祝詞(のりと)奏上に続き、烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着用した所役(しょやく)2名が、それぞれ梅の楉(すばえ)(小枝)、小餅の入った袋を持って向かい合い、梅の楉の所役が「ふくろもちー」と呼び掛けると、袋持の所役が「おーともよー」と応え、各3歩ずつ進む。これを3度繰り返し、両所役が行き違って位置を変える。袋持が神前で袋の中の小餅を取り出し、「ひ・ふ・み・よ・ご・と」と数えて、「万歳楽(まんざいらく)」と3度唱え、拝礼して退く。

 引き続き神楽女による白拍子舞と熊野舞の奉納があり、神事の終わりには4つの本宮において餅まきが実施される。この餅は紅白の“福の餅”で2500個、餅米にして4斗分(約60キロ)を用意するそうだ。

 「1年の幸福を祈り“福の餅”を授かるのも楽しいですが、踏歌神事の所作の中に、中国の唐の文化と平安の宮廷文化が現代に継承されていることを思い、悠久の歴史を感じてみるのも面白いのではないでしょうか」

 いにしえの宮廷文化に思いを巡らすのもお正月ならではの風流だ。

踏歌神事
<開催日>2013年1月4日
<会場>大阪市住吉区・住吉大社(南海本線住吉大社駅下車)
<問>☎06(6672)0753
http://www.sumiyoshitaisha.net/

1131よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/04(金) 23:54:25 ID:keqaW2ro0
大阪・住吉大社で「踏歌神事」
2013.1.4 21:32
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130104/wlf13010421350019-n1.htm

 大阪市住吉区の住吉大社で4日、五穀豊穣(ほうじょう)などを祈願する踏歌(とうか)神事が営まれ、「福の餅まき」では、1年の福を授かろうと約3千人の参拝客でにぎわった。

 踏歌神事は、日本書紀にも記されている行事。神前に福の餅をささげるなどした後、境内で神職約10人が、かけ声をかけながら約2千400個(計60キロ)の紅白の餅をまくと、参拝客らは「こっちにちょうだい」と手を伸ばしていた。

 堺市の会社員、北田真由子さん(27)は「今年も幸せに過ごせたら」と話していた。

1132よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/04(金) 23:58:34 ID:keqaW2ro0
4月に竹本義太夫300回忌追善公演、収益で供養塔修復へ
2013.1.4 20:50 [文楽]
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130104/wlf13010420520018-n1.htm

 人形浄瑠璃文楽の語り芸「義太夫節」の祖、竹本義太夫(1651〜1714年)の300回忌を追善する特別公演が4月5日、大阪・国立文楽劇場で開催される。文楽の技芸員全員が企画した珍しい自主公演で、収益金は四天王寺(大阪市天王寺区)にある竹本義太夫の供養塔の修復にあてる。

 竹本義太夫は江戸時代、大坂・道頓堀に人形浄瑠璃の芝居小屋「竹本座」を創設。近松門左衛門と組んで「曽根崎心中」をはじめ多くの名作を送り出した。

 現在、四天王寺には、義太夫ら人形浄瑠璃の歴代名人の供養塔が多くあるが、いずれも損傷が激しく修復が急務という。

 追善演目は、近松作の「用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」。豊竹呂勢大夫さん(47)は「今年は自分たちの源流ともいえる義太夫師の節目の年。公演を成功させ、供養塔や墓石の修復管理も行いたい」と話している。

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1134よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/05(土) 21:04:44 ID:dEE7udmk0
文楽運営補助 26年度で終了 大阪市検討 PRで収益化促す
2013.1.5 14:54
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130105/waf13010515020019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130105/waf13010515020019-n2.htm

 大阪市が財団法人・文楽協会の運営資金を支援する目的で支給している補助金を平成26年度で打ち切る方向で検討していることが5日、分かった。27年度以降は、協会が国立文楽劇場(同市中央区)の主催事業のPRに参画し、その対価として公演収入の一部を受け取り運営資金に充てることを想定。だが、実現には劇場を運営する独立行政法人「日本芸術文化振興会」と協会との協力が必要で、曲折も予想される。

 橋下徹市長が示す、補助金の支給目的を運営資金の支援から、個別の事業(公演)ごとの支援へと切り替える方針に沿った計画。来年度の当初予算編成に際し担当部局が提示する。

 25〜26年度の補助金支給額の算定は従来の定額方式ではなく、劇場の年間有料入場者数に連動させて増減させる予定。9万人以下ならゼロ、10万5千人以上で満額の2900万円を年度末に後払いする方式を検討中で、協会に対し、劇場主催の大阪公演や文楽鑑賞教室をPRするよう促している。

 一方で、PRの謝礼として劇場が公演収入の一部を協会に支払う仕組みの構築を働きかけ、26年度を最後に、運営資金の支援を目的とした支給は打ち切る方針。

 市の想定では、協会は27年度以降、個別の公演ごとに、市と大阪府が今年4月に設置する有識者による芸術評価機関「アーツカウンシル」へ事業計画を提案し補助金の獲得をめざす。

 大阪公演と文楽鑑賞教室の昨年度の有料入場者数は9万1420人。過去10年間で最も多かったのは16年度の10万6687人。

 市の担当者は「国立文楽劇場の興行収入を文楽協会に分配できるような仕組みづくりを両者に働きかけ、文楽の振興を図りたい」と話している。

1135よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/05(土) 21:09:53 ID:dEE7udmk0
文楽協会への補助 27年度以降、公演ごと支援
2013.1.5 15:03
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130105/waf13010515120020-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130105/waf13010515120020-n2.htm

 昨年、橋下徹大阪市長の補助金凍結宣言に揺れた文楽協会。公開面談を経て今年度分3900万円の支給が決まったが、市は26年度を最後に運営支援を終える方向で、協会は27年度以降は公演ごとの補助金の獲得を目指すことになる。

 協会が国立文楽劇場の事業をPRし、対価として公演収入の一部を受け取るという市の想定について、協会の三田進一事務局長は「実現には劇場側との契約が必要だが応じてくれるかどうか。補助金が打ち切られるだけの結果を招く可能性もある」と慨嘆した。

 劇場の桜井弘支配人も「劇場は協会とは別の団体で市の意図が分からない」と困惑の表情を浮かべた。

 協会にとっては、来年度の劇場主催の大阪公演と文楽鑑賞教室の有料入場者数に連動して市の補助金支給額が増減する方式も悩みの種だ。

 今年度は過去10年間の最多水準の10万5千人に迫る勢いで好調だが、補助金凍結宣言で注目された影響が大きいとみられ、来年度の見通しは「明るくない」(桜井支配人)という。

 9万人以下なら来年度の補助金はゼロになる見込みで、三田事務局長は「大変厳しい。存立の危機だ」と焦燥感を募らせている。

1136よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/06(日) 00:32:57 ID:dEE7udmk0
※記事より一部抜粋

巡って楽しい七福神ランキング 1位は「大阪」
2012/12/30 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO50072900X21C12A2000000/
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO50072900X21C12A2000000/?df=2

家内安全や健康長寿、商売繁盛など1年の福運を願う七福神巡り。専門家にお勧めを聞いたところ、東西の歴史ある七福神巡りが挙がった。


1位 大阪七福神(大阪) 420ポイント
 大阪を代表する繁華街、ミナミを散策しながら大阪の魅力を味わう。毎年1月10日の今宮戎(えびす)神社の十日戎(写真)が有名だ。「関西の多くの人が御利益が大きいと信じている七福神」(高木桂蔵さん)、「商売繁盛のえびす神や大黒天、弁財天の人気が高い」(久慈力さん)、「今宮戎神社は今や福娘のイベントで有名」(三条杜夫さん)
 えびす/今宮戎神社、大黒天/大国主神社、毘沙門天/大乗坊(電)06・6643・4078、弁財天/法案寺、福禄寿/長久寺、寿老人/三光神社、布袋尊/四天王寺布袋堂。南海本線の今宮戎駅などを起点に徒歩3〜4時間

巳年、弁財天にぎわいそう

 七福神は鎌倉時代、漁労や商売の守り神である日本古来のえびす神の信仰に、インドから中国を経て伝わった大黒天や弁財天の信仰が加わった。室町時代に毘沙門天、福禄寿、布袋尊、寿老神が加わり、成立したといわれる。

 東日本大震災の被災地では奥州仙台七福神(仙台市)、いわき七福神(福島県いわき市)が挙がり「復興支援で巡拝したい」という選者もいた。1カ所で七福神すべてにお参りできるところもある。例えば大師寺(滋賀県彦根市)の彦根一箇所七福神。境内には石像の七福神が横一列に並ぶ。

 2013年は巳(み)年。蛇は古代インドで弁財天の使いといわれ、弁天様が守護する年となることから、天河大弁財天社(奈良県天川村)や宮島の大願寺(広島県廿日市市)など、有名な弁財天の人気が高まりそうだ。

  ◇  ◇  ◇  

表の見方 数字は選者の評価を点数化したもの。下段に七福神をまつる社寺と事務局を務める社寺または業者の連絡先、最寄り駅、所要時間などを記載した。

調査の方法 七福神巡りに詳しい東西の専門家に、歴史の古い七福神から新設の七福神まで、楽しみながら巡れる七福神を選んでもらい、おすすめの度合いで順位をつけた。選者は次の通り(敬称略、五十音順)

 板倉あつし(旅行ライター)▽岩井宏實(民俗学者)▽加藤健司(鶴岡八幡宮教学研究所所長)▽木原秀和(日本旅行経営管理部広報室)▽久慈力(ノンフィクション作家)▽小島一博(木耳社編集部)▽三条杜夫(フリーアナウンサー、放送作家、活性化講師)▽高木桂蔵(静岡県立大学名誉教授)▽月岡祐紀子(瞽女歌三味線演奏家)▽内藤勝俊(旅行愛好家)▽春野草結(巡礼ライター)

1137よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/09(水) 05:24:20 ID:TZ62Pqcc0
来てね「十日戎」 福娘らPR
http://www.asahi.com/area/osaka/articles/MTW1301082800001.html

 9日から始まる「十日戎(えびす)」をPRしようと、今宮戎神社(大阪市浪速区)の福娘らが7日、大阪市北区中之島2丁目の朝日新聞大阪本社を訪れた。

 訪れたのは、昨年12月に選ばれた第61代福娘50人のうち13人で、「なでしこ色」というピンクの着物に白の千早を羽織り、金の烏帽子(えぼし)をかぶったそろいの衣装で、「打ちましょ」と「上方締め」を披露した。福娘は9〜11日の十日戎の期間中、参拝客らに縁起物を授ける。10日の本戎にある「宝恵駕(ほえかご)行列」にも参加する。かごは貴乃花親方や市川猿之助さん、中車さんらを乗せて練り歩く。

 福娘のひとり、大阪樟蔭女子大3年の中川瑞さん(21)は「福娘に選ばれて、とても幸せです。みなさまに笑顔で帰っていただけるよう、ご奉仕いたします」と話した。問い合わせは今宮戎神社(06・6643・0150)。

     ◇

 大阪市福島区の野田恵美須神社の福娘らも7日、十日戎のPRに本社を訪れた。恵美須神社の福娘は、区花の「のだふじ」にちなみ、藤の花をあしらったかんざしをつけ、十日戎では14人の福娘が参拝客を迎える。大阪音大1年の山崎さやかさん(19)は「下町らしい十日戎にも、ぜひいらして下さい」。境内では、「鯛鉾(たいほこ)」や「地車」を特別展示する。問い合わせは野田恵美須神社(06・6441・7084)。

1138よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/09(水) 21:10:32 ID:76u4H/wk0
えべっさんに景気回復を祈願 今宮戎の「十日戎」始まる
2013.1.9 20:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130109/wlf13010920090013-n1.htm

 商売繁盛の神様として知られる大阪市浪速区の今宮戎神社の「十日戎」が9日、宵戎で幕を開けた。同神社には朝から大勢の参拝客が詰めかけ、「えべっさん」に景気回復を祈願していた。

 境内では「商売繁盛で笹持ってこい」の景気のいいお囃子(はやし)が響く中、米俵や大判を模した縁起物が飛ぶように売れ、授与所の福娘が参拝客の持つ福笹に次々と結びつけていた。

 大阪市天王寺区の喫茶店経営、福田幸司さん(46)は「不況の影響で年々お客が減っているので、何とか今年は盛り返せるようお願いしました」と話していた。十日戎は11日の「残り福」

1139よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/10(木) 20:18:14 ID:isHK5GsU0
十日戎で宝恵駕籠行列
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130110/4578861.html?t=1357813378125

商売繁盛を願う大阪の今宮戎神社の十日戎は本えびすの10日、芸妓さんらが豪華なかごに乗って神社にお参りに向かう、「宝恵駕籠行列」が行われました。
大阪・浪速区にある今宮戎神社の宝恵駕籠行列は江戸時代に料亭の旦那衆や芸妓さんたちが十日戎にあわせて豪華なかごに乗って神社にお参りしたのが始まりとされる恒例の行事です。
今年は芸妓さんとともに、去年、師匠の名跡を襲名した落語家の桂文枝さんやNHKの朝の連続テレビ小説、「純と愛」でヒロインを演じる夏菜さんも紅白のかごに乗り込み、神社まで約2時間かけてミナミの街を練り歩きました。
担ぎ手は「ほえかご、ほえかご」と威勢のよいかけ声を上げながら進み、夏菜さんたちは沿道に詰めかけた大勢の見物客に手を振って応えていました。
夏菜さんは「子供からお年寄りまで沿道の多くの人たちに『純ちゃん』と声を掛けられてうれしかったです。東京とは違う大阪ならではの活気が感じられてよかったです」と話していました。
また、今宮戎神社の境内も参拝に訪れた大勢の人たちでごった返し、福笹と呼ばれる竹の枝に、それぞれ縁起物のお札などを飾りつけて持ち帰っていました。

01月10日 15時18分

1140よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/11(金) 06:37:31 ID:isHK5GsU0
にぎやかに入場者歓迎 文楽劇場前で「錣」演奏
2013年1月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130110/20130110040.html

 大阪市中央区日本橋1丁目の国立文楽劇場は、上方演芸特選会初日の9日、「錣(しころ)」と呼ばれる大阪独自のお囃子(はやし)で入場者を出迎えた。

 劇場玄関前で、上方落語協会寄席囃子連中の5人が、ことし一年がいい年になるようにと願いを込め、太鼓や三味線、双盤を打ち鳴らして景気付けた。

 演奏の合間には、公演でトリを務める漫才師の羽田たか志さんが、ことしのえと「巳(み)」にちなんで「ことしも劇場に足を運んでいただき、長蛇の列をなしてください」と駄じゃれ交じりにあいさつし、集まった人らとともに大阪締めを行った。

 この日、入場客らにぜんざいが振る舞われ、知人と訪れた住吉区の遠藤俊子さん(75)は「演奏を聴いて、ぜんざいを食べ、公演で笑わせていただくなんて、正月からいいことばかり」と笑顔で話した。

1141よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/11(金) 21:10:12 ID:kwq6piN.0
河口慧海の直筆文書見つかる 大阪
1月11日 4時42分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130111/k10014729581000.html

堺市で生まれ育ち、明治時代、仏教の経典を求めて、日本人として初めてチベットに渡った僧侶・河口慧海の直筆の日記帳などが大阪府内で見つかりました。

堺市文化財課によりますと、河口慧海は、1866年、今の堺市堺区に生まれ、明治時代に仏教の経典を手に入れようと、ヒマラヤを越えて、当時厳しい鎖国政策をとっていたチベットに日本人として初めて入りました。
この慧海の活動を支えた親友で堺市の実業家、肥下徳十郎の子孫の家から、慧海が肥下氏に宛てた直筆の手紙やインドで撮影されたとみられる慧海の写真、それに当時の日記帳などが見つかりました。
このうち日記帳は、チベットに向かう際に肥下氏に送った遺書などを入れた箱の鍵を隠すため、後半部分から、縦7センチ、横5点7センチにわたってくり抜かれています。
また、肥下氏の死にあたって送った弔文には、「唯一無二の親友」、「父母だけでなく姉弟の世話もしてくれた」などと、感謝の気持ちがつづられています。
慧海の研究を進める高野山大学の奥山直司教授は、「肥下徳十郎が慧海の活動を物心ともに支え、非常に重要な人物だったことが分かる貴重な資料だ」と話しています。
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1142よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/11(金) 21:49:49 ID:kwq6piN.0
「福餅」に行列 浜村さんら2000個配る
2013年1月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130111/20130111032.html

 菅原道真公の足の痛みを治したとのいい伝えから「足の神様」として知られる大阪府豊中市の服部天神宮(加藤芳哉宮司)では10日、豊中えびす祭本戎が行われた。

 “えべっさんが誕生日のダブル淳ちゃん”としてすっかりおなじみになった毎日放送パーソナリティー・浜村淳さんとフリーアナウンサー・梅田淳さんコンビをはじめ、日本サッカー協会・釜本邦茂顧問や“ミスタートラ”ことパーソナリティー・唐渡吉則さんら約20人が『福男』となり、約30分掛け用意された紅白の福餅2千個を手渡しで配った。

 冬空ながら風がほとんどなかったこの日は、宝恵かごに乗り込んだ宝塚歌劇団研究科1年の暁千星(ちせい)さんと遥羽(はるは)ららさんを先頭に、浅利敬一郎同市長や地元選出の国、府、市の議会議員らが参道を掛け声とともに練り歩きながら宮入り。

 十日戎の餅まきは関西各地にあるが、子供連れ女性や年配者らに配慮し、ゆっくり安全にと手渡しするのが特徴。午前中から約300人が行列をつくって待ち受け、餅を受け取る際も握手や写真撮影などを一緒に行うなど和気あいあい。

 浜村さんは「もう20年くらいになりますかね、タカラジェンヌとも毎年ご一緒しますが、これに参加されたお嬢さんがスターになって下さると、ホントに“えべっさんの福”を感じうれしくなります」と、終始笑顔で参拝客と応対していた。

1143よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/12(土) 21:39:35 ID:AM4CXlks0
ハンカチに合格願い、家原寺 大阪・堺市
(大阪府)
http://news24.jp/nnn/news8896157.html

大阪・堺市の家原寺では多くの受験生が訪れ、合格祈願の白いハンカチを本堂に貼り付け、一面が真っ白になっている。「智恵の文殊さん」として知られる堺市西区の家原寺は毎年この時期、受験生が白いハンカチに合格祈願を書き込み本堂に貼り付けていく。以前は受験生がチョークで直接本堂に書いていたため、「落書き寺」とも呼ばれていたが、30年前からハンカチに書いてもらうようになった。受験生らは志望校などを書き込んで、柱や壁にハンカチを留め合格を祈願していた。

1144よっさん ◆UAHWXqKr/M:2013/01/14(月) 19:27:36 ID:CLMkl4Ho0
歴史ロマン道案内 百舌鳥・古市古墳群ウォーキングマップ
2013年1月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130114/20130114024.html

 世界文化遺産登録の早期実現を目指している百舌鳥・古市古墳群を紹介する「百舌鳥・古市古墳群ウォーキング・マップ−歩いて知る いにしえのロマン・謎・神秘−」が昨年12月に完成し、府外からも問い合わせが寄せられるなど話題となっている。

 古墳群を訪れたことのない人たちにその魅力を知ってもらい、興味を持ってもらおうと、大阪府と堺市、羽曳野市、藤井寺市で構成する、百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議が作成した。

 マップは持ち運びに便利なポケットサイズで、百舌鳥古墳群と古市古墳群を裏表に掲載、地図とさまざまな周辺情報を収録。堺、羽曳野、藤井寺各市の市役所や観光案内所、図書館などに設置されている。

 所要時間と目的別に「健脚向け(3時間)」「クイック(1・5時間)」、写真を撮りながらビューポイントを巡る「撮っておき!(3時間)」の3種類のウオーキングコースを設定。またマップ内に記す「ビューポイント」から撮った四季折々の写真、古墳関連展示施設や古墳めぐりに便利なレンタサイクルの情報なども掲載している。

 同推進会議では現在、マップを活用して巡り撮影した古墳の写真コンテストを開催、作品を募集している。応募は、2Lサイズの作品の裏に必要事項を記入した応募票を貼り付け郵送する。送付先は〒540−0012、大阪市中央区谷町1の6の4、オフィスオルタナティブ内古墳写真コンテスト受付係。締め切りは2月18日(消印有効)。

 百舌鳥古墳群は堺市内にある約100基の古墳群で、世界最大級の墳墓、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など4世紀後半から5世紀後半に造られた40基以上が現存する。古市古墳群は羽曳野、藤井寺の両市を中心に4世紀末から6世紀前半までに造られた123基の古墳群で、古墳総面積世界一の誉田御廟山古墳(伝応神陵)など87基が現存している。

 世界遺産登録に向けては、2006年4月設置の堺市歴史文化都市有識者会議で課題検討が開始された。10年11月に世界遺産暫定一覧表に記載されたことを受け、翌11年5月には4自治体が連携して推進本部会議を設置。最速で15年の世界遺産登録を目指して情報発信や機運醸成を図るとともに、ユネスコに提出する推薦書(案)の作成を進めている。

1145よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/14(月) 20:46:40 ID:CLMkl4Ho0
戦国武将と出会う上町台地周遊マップ 人気で増刷
2013年1月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130114/20130114029.html

 大阪市天王寺区役所が昨年作成した「戦国武将と出会う上町台地周遊マップ」が人気を集め、このほど1万部が増刷された。

 マップは近年の“歴女”にみられる歴史ブームを背景に、「戦国武将と出会う」をコンセプトに、天王寺区に限定せず、大阪城がある中央区、東成区にまたがり神社仏閣や史跡など約100カ所を掲載している。地図上に真田幸村、豊臣秀吉(秀頼)らの家紋をそれぞれの関係箇所に記したほか、表紙に真田幸村ら戦国武将のイラストを描いたのも、「女の子でも手に取りやすい」と人気の要因だ。

 昨年4月に1万部発行し、区役所や大阪市のサービスカウンターに設置したところ最初の1カ月で4千部がなくなり、10月には底をついた。増刷分では新たに大阪城の総囲いをラインで明記し、より時空を超えた歴史探訪が楽しめそう。

 2年後の2015年には「大坂の陣」から400年を迎える。同区担当者は「マップの人気を弾みにしたい」と地域発掘イベントに力を注ぎたい考え。

1146よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/14(月) 20:48:21 ID:CLMkl4Ho0
天下泰平や除魔招福を祈願 住吉大社「お弓神事」
2013年1月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130114/20130114027.html

 一年の天下泰平や除魔招福を祈願し、神前にささげられた矢で的を射る毎年恒例の「御結鎮(みけち)神事」が13日、大阪市住吉区の住吉大社で行われ、大阪府弓道連盟(中野英夫会長)の有志9人が、厳かな雰囲気の中、弓を引き、矢を放った。

 同神事は別名「お弓神事」とも呼ばれている同大社の伝統行事。年の初めに、農事に災いをもたらす悪霊を退散させることを目的に、1680年ごろ始まったと言われている。

 「射手(いて)」と呼ばれる参加者は、境内に設けられた会場に烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)の正装で登場。35メートル先に設置された的に向け、無病息災などの願いを込め、神妙な面持ちで矢を放った。見事に的を射ると、カメラを構えた参拝客などから歓声や拍手がわいた。

 京田辺市から来た夫婦は「約20年前まですぐ近所に住んでいたが、こういった行事があることを知らなかったので見に来てみた。厳かで迫力があった」と話していた。

1147よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/15(火) 05:29:32 ID:VDBDVOfw0
上がる火柱に無病息災祈願 豊中「大阪とんど祭」
2013.1.15 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130115/osk13011502000000-n1.htm

 新年の無病息災を祈る「大阪とんど祭」が14日夜、「千里の天神さん」で知られる豊中市の上新田天神社で行われた。

 家内安全や火伏せなどを祈る神事が本殿で行われた後、松明(たいまつ)奉仕員に選ばれた氏子4人が神火を神主から受けた。

 4人は高さ9メートル以上の巨大な円錐(えんすい)形の「とんど櫓(やぐら)」の前で伊勢音頭を歌いながらそれぞれに点火。次第に燃え上がり、とんど櫓全体が大きな火柱に包まれた。

 青竹がはじけ、納められた書き初め、旧年のお札やしめ縄などの正月飾りも焼かれ、とんど櫓を見上げながら市民らが手を合わせていた。

1148よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/15(火) 05:31:11 ID:VDBDVOfw0
「福」呼ぶ小切手も 今宮戎神社でさい銭勘定
2013年1月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130113/20130113020.html

 大阪市浪速区の今宮戎神社(津江明宏宮司)で12日、新春の祭礼「十日えびす」(9〜11日)で集まったさい銭の勘定が始まった。今月末まで集計作業が行われ、総額は例年並みの約4600万円となる見込み。

 大にぎわいの十日えびすから一夜明けた境内では、神前に勘定開始を告げる「賽物勘定始奉告祭」を斎行。拝殿に参集した池田泉州銀行の行員約10人が神職からお払いを受けた後、無数の紙幣や硬貨を机に広げ、慣れた手つきで仕分け作業に取り組んだ。

 さい銭の中には板垣退助の肖像が描かれた100円札や、米ドル、ユーロ、人民元といった外国紙幣も見られ、小切手では「4129(よい福)」「2951(福来い)」などユニークな語呂合わせの額面が目を引いた。

 ことしの3日間の参拝者数は昨年より約1万1千人多い94万9千人を数えた。同神社では「期間中が平日だったため、勤め帰りにお参りされた方など人出が順調に推移した。福ザサに取り付けられる縁起物の数も増えており、景気回復の期待の高まりが表れたのでは」と話していた。

1149よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/15(火) 23:55:44 ID:ue09MpLA0
ふんどし一丁、護符手に紅潮 四天王寺で「どやどや」
2013年1月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130115/20130115019.html

 ふんどしと鉢巻き姿の男たちが魔よけの護符を奪い合う伝統行事「どやどや」が14日、和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)の六時堂で執り行われた。吹きすさぶ寒空の下、力水を浴び全身から湯気を立ち上らせた中高生ら約780人は宙に舞う数少ない護符を奪おうと必死に手を伸ばしていた。

 天下泰平と五穀豊穣(ほうじょう)を祈願するために元日から14日間行われている修正会(しゅしょうえ)の結願日の祭り。六時堂に「どやどや」と群衆することからその名が付いたとされている。

 気温6度という寒空の下、参拝者やアマチュアカメラマンらが多数見守る中、近くの幼稚園児らのほか、四天王寺羽曳野中学・高校、清風中学・高校、清風南海高校が紅白に分かれ、「わっしょい」との掛け声とともに境内を練り歩き入場すると、天井からひらひらと舞い落ちてくる護符を奪おうと必死の形相で体のぶつけ合いを展開。熱気で湯気が立ち上る中、護符を手にした生徒らは「取った取った」「うおー」など気勢を上げていた。

1150よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/16(水) 18:39:55 ID:vw8hEvIE0
正月締めくくる 生國魂神社で「左義長神事」
2013年1月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130116/20130116025.html

 正月行事を締めくくる火祭り「とんど」が15日、大阪各地の神社などで執り行われ、大勢の参拝者が松飾りやしめ縄を手に境内へ足を運んだ。

 このうち大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(中山幸彦宮司)では伝統行事の「左義長(さぎちょう)神事」を斎行。早朝の火入れ式では神職によって本殿から御神火が運ばれ、境内の一画に積まれた縁起物に移されると高く燃え上がった。見守る参拝者は火にあたりながら手を合わせていた。

 地元で生まれ育った玉谷静枝さん(94)は、持参したしめ縄を火の中に投じて、「幼いころから“いくたまさん”に参拝しており、これでようやく正月が終わったという気持ち。澄んだ一年になってほしい」と笑顔で話していた。

 この日の境内は参拝者が途切れることなく訪れ、中には厄よけとして灰を持ち帰る人の姿も見られた。

1151よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/17(木) 23:04:57 ID:4oETnL8A0
大数珠に願い 大阪・大念佛寺「百万遍会」
2013年1月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130117/20130117023.html

 大阪市平野区の融通念佛宗総本山大念佛寺(倍巌良舜法主)で16日、伝統行事「百万遍会(え)」が盛大に行われ、大勢の参詣者が巨大な数珠を繰りながら厄よけなど所願成就を祈願した。

 1人の念仏の功徳が千人、万人と融通し壮大な功徳を生むという教えを表す行事。“億百万遍会”とも呼ばれ、1、5、9月の16日に行われている。

 本殿(登録有形文化財)内では、ケヤキの玉(直径約7センチ)5400個をつなげた大数珠が上部からゆっくりと床に下され、四隅に数珠用の滑車を設置。四辺に連座した参詣者が念仏を唱(とな)えながら一様に玉を繰っていった。

 同寺・畳講の講元を務める坂上治作さん(81)は「毎回参加しているが、年の最初の百万遍会は格別な思い」と、はつらつと話していた。参詣者は数珠繰りの後、倍巌法主から身体堅固の祈とうを受け、お札を授かった。

1152よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/18(金) 05:55:35 ID:4oETnL8A0
回廊の土台? 難波宮跡で出土 
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130117-OYT8T00092.htm

 大阪文化財研究所などは16日、2009年度から行っている難波宮(なにわのみや)跡(大阪市中央区)の発掘調査で、後期難波宮(726〜784年)の区画施設の土台にあたる「土壇」が出土したと発表した。

 区画施設は敷地を囲んで内外を仕切るもので、出土した土壇は区画の南面にあたり、南北の幅8・9メートル、東西の長さ3・1メートル、高さ0・3メートル。これまでの調査から、東西方向へ約85メートル続いていたとみられる。周辺から多数の瓦も見つかった。

 規模が大きく、瓦も発掘されたことから、同研究所では、この区画施設が格式の高い瓦ぶきの回廊だったとみている。続日本紀に孝謙天皇が756年に訪れたと記されている「東南新宮(とうなんしんきゅう)」か、そのほかの重要な役所の一部だった可能性があるとしている。

 2009〜11年度の調査では、今回の土壇の南側にある別区画で建物の土台や瓦が見つかり、土台の規模が東西約19・5メートル、南北約14メートルと判明。今回の発見と合わせて、格式の高い大規模な建築物がある区画が二つあったことになる。

 現地説明会は20日午後1時半〜3時半に行われる。問い合わせは同研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)へ。

(2013年1月17日 読売新聞)

1153よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/18(金) 20:39:13 ID:1GuGn1xk0
3月に月亭文都襲名披露
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130118/4835531.html?t=1358509014125

上方落語の大名跡、「月亭文都」を月亭一門の月亭八天さんが113年ぶりに襲名することになり3月に襲名披露公演が行われることになりました。
「月亭文都」は、上方落語の大名跡で「浪花三友派」として活躍した初代・文都が明治33年に亡くなって以降、空席のままとなっていました。
今回、113年ぶりに「月亭文都」を襲名することになった月亭八天さんは、きょう大阪・中央区で会見し、「初代の月亭文都は、バイタリティーや意気込みがすごかったと思う。モチベーションを高め、平成の『浪花三友派』を実現していきたい」と意気込みを語りました。
月亭八天さんは大阪市出身の52歳、月亭八方さんの弟子で、古典落語だけでなく、創作落語にも挑戦し、活躍の場を広げています。月亭八天さんの「月亭文都」襲名披露の公演は、3月19日に大阪で、3月30日に東京で行われるということです。

01月18日 19時14分

1154よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/19(土) 22:26:47 ID:0bGMUZfk0
三好の居城研究を紹介 「大阪春秋」新年号発刊
2013年1月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130119/20130119039.html

 大阪の歴史と文化産業を発信する雑誌「大阪春秋」新年号(通巻149号)=写真=がこのほど新風書房(大阪市天王寺区)から発刊された。今号の特集は「飯盛山城と戦国おおさか」。生駒山地の北端に位置し、織田信長よりも以前に近畿を支配した三好長慶が居城とした飯盛山城の研究成果をはじめ、城を生かしたまちづくりへの取り組みなどを紹介している。

 「城郭史の舞台 おおさか」では、高槻市立しろあと歴史館の中西裕樹氏が千早城、飯盛城、大坂城など大阪の城郭の変遷について図解と写真を交えて紹介。このほか▽飯盛山城とまちづくり▽飯盛山城の構造と歴史的位置▽天上の飯盛山城〜視界270度の世界▽探訪飯盛山城跡−など。

 巻頭対談は橋爪紳也氏(大阪府立大教授)と中立公平氏(演出家、俳優、ミュージシャン)。付録は「芥川山城跡縄張り図」「飯盛山城跡縄張り図」「烏帽子形城跡縄張り図」。定価1050円。問い合わせは06(6768)4600、新風書房へ。

1155よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/20(日) 22:21:54 ID:OhiyoPF.0
着物扮装で厄落とせ 節分当日に浪速お化髪会
2013年1月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130120/20130120022.html

 扮装(ふんそう)して厄を落とす節分の日の風習「お化髪(ばけ)」を楽しむ「浪速お化髪会」(同会主催、樋口陽子代表)が2月3日、大阪市天王寺区で行われる。着物をそれぞれ自由に着こなして練り歩き、生國魂神社で厄よけの祈祷(きとう)を行う。樋口代表は「5回目のことしは初めて節分当日に開催できる。多くの人と大阪の街から元気いっぱいに厄を追い払いたい」と張り切っている。

 お化髪は、節分の日に普段と異なる服装で参拝すれば鬼を追い払えるとする風習で、江戸時代末期から盛んに行われていたという。現在は京都・祇園や大阪・北新地などで継承されており、樋口代表は北新地のホステスらが節分の日に花魁(おいらん)や舞妓(まいこ)姿で練り歩いているのを見てその風習を知ったという。

 「『もう振り袖は着られない』とタンスの奥にしまわれているような着物がたくさんある。たとえば母や祖母世代がまたそういった着物をまとえる日を作れば、こんなに楽しいことはない」と同会を企画。ドレスコードは「着物」だが、細かな着物のルールは取っ払い、それぞれが自由に“仮装”を楽しんでもらおうと参加者を募った。

 2009年の第1回には20〜60代の男女18人が集まり、日本髪や白塗りなどを施してきれいに“化けて”パーティーを開いた。第2回は参加者が約70人に増え、華やかな着物を着る喜びを感じたり、しまいこんだ着物にもう一度袖を通す機会としたり、どうやって皆をびっくりさせようかと試行錯誤したりと皆それぞれに楽しんだ。

 第3回には初めて生國魂神社までの練り歩きと厄よけ祈祷が実現。60代の女性が「バカ殿様」に扮するなど、少々奇抜な人も交じった行列だが、「厄よけという意味を持つことで、皆真剣にふざける。真剣にふざければ、面白いことも完成度が高くて美しい。アート作品のよう」と樋口代表。

 ことしも、行列と祈祷、そして趣向を凝らしたパーティーを予定している。「イベントを続けてこられたのは、着物の魅力のおかげ。お化髪の風習、そして着物がもっと身近な存在になっていくよう発信役となれれば」と話している。

 老若男女誰でも参加可。参加費8500円(行列のみ参加は2千円)。申し込みは1月末日まで。受け付けメールアドレスは次の通り。naniwaobake@gmail.com

1156よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/25(金) 22:05:42 ID:nfuMXIhg0
罪滅ぼしと招福祈願 大阪天満宮で「うそ替え神事」
2013年1月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130125/20130125027.html

 菅原道真を祭る大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)で24日、恒例の「うそ替え神事」が盛大に執り行われた。平素のうそを清めようと大勢の参拝者がお守り入りの封筒を交換し合った。

 “正直の神”としても知られる道真公の愛鳥「鷽(うそ)」に託して罪滅ぼしと招福を祈願する神事。参拝者のほかに神職やみこも参加し「うそを真(まこと)に替えましょう」と唱えながら、目の前の人と代わる代わる封筒を交換した。10分以上も続けられ、参拝者は最後に手元に来た封を開け、うそ鳥が描かれたお守りを大事そうに持ち帰った。一部のお守りの裏には木や土製、金、銀色のうそ鳥が授与される印があり、見事金のうそ鳥を受け取った原園真弓さん(53)=兵庫県西宮市=は「初めて参加したのに金が巡ってきて驚いた。とてもうれしい」と笑顔を浮かべていた。

 同神事は25日も午後1時から行われるほか、境内では「初天神梅花祭」に併せて、福玉まき(午前11時、午後4時)などの行事が催される。

1157よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/26(土) 20:36:41 ID:OzPOk.TY0
末期がんの笑福亭松喬さん、住吉大社で落語奉納 「誰かが受け継いでくれたらうれしい」
2013.1.26 20:05
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130126/wlf13012620060028-n1.htm

 末期の肝臓がんを宣告されながら芸能活動を続ける上方落語の笑福亭松喬(しょきょう)さん(61)が26日、大阪市住吉区の住吉大社で、落語「住吉詣(まい)り」を奉納し、初披露した。

 堅物の若だんなが参詣中にほうき売りの娘に恋をする「住吉詣り」は、久しく途絶えていた古典の大作「箒屋(ほうきや)娘」を上方落語協会会長の桂文枝さん(69)が練り直した作品。文枝さんが昨年秋、闘病中も積極的に落語会を開く松喬さんへ“激励”の意味を込めて演じることを勧めた。

 神殿で玉ぐしをささげた後、約170人の前で披露した松喬さんは「お客さんの反応もよく、すばらしい作品になった。さらに練って、誰かが受け継いでくれたらうれしい」と話していた。

1158よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/26(土) 20:39:18 ID:OzPOk.TY0
「続日本紀」記載の東南新宮か 難波宮跡で現地説明会
2013年1月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130126/20130126047.html

 大阪市教育委員会と大阪文化財研究所・大阪歴史博物館は20日、昨年11月初旬から実施してきた中央区法円坂の難波宮跡での発掘調査の成果を広く市民に公開するため現地説明会を開いた。参加者は瓦や礎石を伴う40メートルにわたって連続する土壇に熱心に見入っていた。

 今回の発掘調査地は後期難波宮の大極殿東方。難波宮の発掘調査が開始されて間もないころに見つかった東西に長く延びる土壇と瓦の堆積の続きが発見され、その概要が明らかになった。

 土壇は赤褐色の地山土を積み上げたもので、東西方向に延びている。土壇の北端部には礎石とみられる花こう岩が据えられ、北・南端部は丸みをおびた傾斜面となっていてその傾斜部から外側では瓦の破片が密集して出土した。

 調査結果から複廊や築地などで囲まれた格式の高い大規模な区画が二つあり、いずれも後期難波宮の中でも新しい時期に造営されたといえるという。また、格式の高い施設であることから、「続日本紀」に記載のある「東南新宮」にあたる可能性も考えられている。

 説明会では調査成果の解説がなされ、出土遺物の展示も行われた。担当者は「熱心な方たちが多数参加してくれた。これを機会に難波宮ファンが増えてくれれば。今後も調査を進めて明らかにしていきたい」と話していた。

1159よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/28(月) 21:04:29 ID:KJIEjllY0
大阪の文楽補助金、「満額条件」に足りなかった
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130128-OYT1T00672.htm?from=ylist

  大阪・国立文楽劇場は28日、今年度の文楽公演入場者数の集計結果を発表した。

 前年度比13・5%増の10万3793人で、大阪市が来年度以降の補助金の指標に掲げる「10万5000人」には届かず、ハードルの高さを浮き彫りにした。

 同劇場が制作・開催した計4回の本公演と鑑賞教室の入場者の総計。10万人を超えたのは開場25周年の記念公演が開かれた2009年度以来3年ぶりで、歴代11位となる。

 橋下徹市長が文楽協会への補助金凍結を表明した6月以降、夏休み公演、11月公演、初春公演で好成績だったものの、4月公演、鑑賞教室で前年度を下回ったことが影響した。

 市は、協会の運営補助金2900万円について、同劇場の観客数に連動するインセンティブ(意欲刺激)方式の導入を決めており、年間10万5000人以上で満額、動員が減るごとに減額され、9万人以下なら支給されない。反映されるのは来年度の入場者数から。

(2013年1月28日13時46分 読売新聞)

1160よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/01/30(水) 18:41:25 ID:xolkK5jY0
歴史都市・大阪らしい話題です。


大阪 発掘調査の出土品を展示
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130130/5139841.html?t=1359538734171

大阪府内の遺跡から発掘調査で見つかった出土品などを一堂に集めた展示会が、大阪・河南町で開かれています。
この展示会は大阪の歴史についてもっと知ってもらおうと、河南町の近つ飛鳥博物館が開いているもので、府内の41の遺跡から見つかった土器や写真パネルなど計380点が展示されています。
このうち大阪・北区の佐賀藩の蔵屋敷の跡から見つかった鍋島焼の皿や杯は江戸時代に藩主が大阪に立ち寄った際に使ったものとみられています。
また、東大阪市にある室町時代の集落の遺跡から見つかった1万5千枚を超える銅銭は現在の価値にすると約150万円で当時の人が貯蓄のために地面に埋めていたとみられるということです。
博物館の飯田浩光学芸員は「発掘調査によって、土の中から様々な物が見つかっています。実物をみることで、大阪の魅力を再発見してほしい」と話していました。
この展示会は3月24日まで開かれています。

01月30日 12時23分

1161よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/03(日) 06:38:54 ID:OVnbLZn.0
旧家の誇り、かなわぬ恋 歌人 石上露子 大阪・富田林の旧杉山家住宅
2013.2.2 14:40
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130202/wlf13020214400016-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130202/wlf13020214400016-n2.htm

 朝方の大雨が、道に沿って連なる民家の白壁を洗っていった。

 江戸や明治の古い町並みが残る大阪府富田林市の寺内町(じないまち)。4層の屋根がひときわ立派な旧杉山家住宅は、当時の面影をそのまま映す美しい日本家屋である。

 清楚な美貌とあふれる才気で流麗な歌を詠み、「白菊の君」と謳われた明星派の女流歌人、石上露子(いそのかみ・つゆこ)(本名、杉山タカ)は明治15(1882)年この家に生まれ、昭和34(1959)年この家で亡くなった。

 富田林きっての旧家の跡取りに生まれ、家を継ぐため愛する人との結婚をあきらめた露子は、かなわぬ恋の思いを歌に詠み続けた。その生きざまは同時代に生きた与謝野晶子の奔放さと対比される。

 〈君ならぬ車つれなう門すぎてこの日も暮れぬ南河内に〉

 愛する人の訪れを富田林のわが家で終日待ち続け、むなしく日が暮れていったと嘆く露子の切ない恋心が綴られている。

 いまも残る若き日の写真。きゃしゃな着物姿だが、じっとこちらを見つめる黒い瞳には強い意志の力が感じられる。

               □

  その美しい歌人の名は久しく忘れ去られていた。

 明治後期、『明星』誌上に哀愁漂う短歌を発表し、明治41年、忽然と姿を消した石上露子。再び文壇に登場したのは昭和6年だった。彼女の身に一体何があったのか。

 南河内の大地主の跡取り娘として生まれ育った露子。何不自由のない暮らし、才能にも美貌にも恵まれながら彼女の歌には悲しみが溢れている。

 最大の原因は初恋の人、長田正平との恋の破綻。露子は杉山家の長女、正平も長田家の長男。当時、旧家の相続人同士の結婚は非常に困難な時代であった。

 明治40年、露子は意に染まぬ結婚をする。彼女が筆を折ったのはその翌年。夫が露子の文筆活動を望まなかったという。

1162よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/03(日) 06:41:01 ID:OVnbLZn.0
>>1161

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130202/wlf13020214400016-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130202/wlf13020214400016-n4.htm

 近鉄富田林駅から南に徒歩約10分。現代の町並みが突然、明治時代にタイムスリップしたように変貌した。

 瓦屋根の日本家屋が連なる情緒ある町並。民家には明かりとりの「虫籠(むしこ)窓」など江戸や明治の暮らしの痕跡が見える。戦国時代に誕生した寺内町である。

 旧杉山家住宅として、現在一般にも公開されている杉山家は、寺内町設立にも関わった名家。露子が生まれた頃は造り酒屋で、家屋の後ろには酒蔵がずらりと建ち並んでいたという。

 近代文学が専門の元四天王寺大学教授、宮本正章さん(75)は「露子は当時、神山薫という進歩的な家庭教師の引率で東北や東京に旅行もしている。旧家の誇りと近代的自我の両方を持ち合わせていた人だったのではないか」。

 正平とは、東京旅行の際、神山の紹介で知り合った。正平も明治33年には杉山家を訪問している。

 しかし結局、露子は家のため、別の男性と結婚する。その苦悩は絶唱となって歌に昇華された。

 〈黒髪の千すぢのみだれ風さかひあゝ焦熱の火中をぞ行く〉 

 露子の生き方は、意志を貫き、与謝野鉄幹との恋に走った同時代の歌人、与謝野晶子とは対照的だ。

 宮本さんはいう。「露子は開明的な思想もあったが実践に移せなかった。そこが、堺という開かれた町の商家に生まれ育った晶子との違いではないか」

 旧杉山家住宅には露子が愛したアールヌーボー様式の螺旋階段が残されている。西洋式な小さな飴色の階段は純和風家屋にあって奇妙な調和を保っていた。

 それは、旧家の誇りと自分を解放する恋のはざまで苦悩しながら生きた露子の思いの結晶にも見えた。

(文・亀岡典子、写真・岡本義彦)

      ◇

【旧杉山家住宅】 大阪府富田林市の寺内町にある旧家。寺内町とは真宗の寺院を中心に堀などで防御した町をいい、富田林の寺内町は16世紀中頃に誕生した。旧杉山家は、土間部分が17世紀中頃に建てられ、その後、座敷や2階を増築、延享4(1747)年頃にはほぼ現在の姿となった。女流歌人、石上露子の生家として知られ、蔵には遺品が展示されている。昭和58年に重要文化財に指定。

1163よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/04(月) 19:53:06 ID:tGVu5w2k0
宙乗りで鬼は外! 大阪松竹座で片岡愛之助さん
2013年2月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130204/20130204018.html

  大阪市中央区道頓堀の大阪松竹座で3日午後、「二月花形歌舞伎」で昼夜別演目に主演して奮闘中の片岡愛之助さんが「鬼は外!」と、恒例の豆まき行事を行った。昼の部「新八犬伝」終演後では一人四役に挑んでいる愛之助さんと中村壱太郎さんら「八犬士」の面々が、場内のお客さんに袋入りの豆を手渡すなどスキンシップを図った。

 宙乗りで豆をまき観客をびっくりさせた片岡愛之助=3日午後、大阪市中央区

 夜の部では「GOEMON 石川五右衛門」上演中に、五右衛門の愛之助さんが宙乗りになって豆をまく一幕があって、「松嶋屋!」と観客席を沸かせた。同公演は片岡秀太郎さん、中村翫雀さんも参加し上方歌舞伎の若手俳優と競演しパワーあふれるにぎやかな舞台を繰り広げている。26日まで。

1164よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/05(火) 05:46:30 ID:tGVu5w2k0
利休の“料理”味わう 大阪城特別講座第1弾
2013.2.5 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130205/osk13020502060001-n1.htm

 産経新聞グループの愛読者組織「ウェーブ産経」が主催する「大阪城特別講座〜歴史を味わう〜」の第1弾「秀吉と利休」が4日、大阪市天王寺区のシェラトン都ホテル大阪で開かれた。大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんが豊臣秀吉と千利休の関係を解説。利休が秀吉を接待した献立などをアレンジした「秀吉おもてなし料理」を味わった。

 会員80人が参加。北川さんは「秀吉懇意の利休が頭角を現すと、秀吉の弟の秀長と並ぶ豊臣政権の両輪的存在となった」と指摘。2人の決裂については「黄金茶室は2人でつくったもの。価値観の対立ではないと思う」と、派手な秀吉と美意識で対立したとの説を疑問視し、秀長死後に若手側近が利休の追い落としを図ったとの説を紹介した。

 料理は、同ホテルの日本料理店「うえまち」の茅ケ迫(かやがさこ)正治料理長が「利休百会記」などを基に接待料理を現代風に仕立てた。参加した会員らは古風さが漂う味わいに浸っていた。

1165よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/05(火) 05:48:59 ID:tGVu5w2k0
福つかめ 岸和田・高見観音節分祭 大阪
2013.2.4 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130204/osk13020402020001-n1.htm

 岸和田市五軒屋町の高見観音(観蔵院)で3日、恒例の節分祭が営まれた。豆やもちがまかれたほか、縁起物のヒイラギの販売などがあり、大勢の参拝者でにぎわった。

 高見観音は、岸和田城の鬼門守護寺院として建てられ、節分に合わせた祭事が毎年行われている。

 境内では、訪れた家族連れらが昨年買ったヒイラギの枝木を返納。無病息災や家内安全などを祈って参拝し、新しいヒイラギを買い求めるなどしていた。参拝後には、「七福湯」と呼ばれるあめ湯のふるまいを受け、味わったり、水筒に入れてもらって持ち帰ったりしていた。一方、豆まき、もちまきも人気で、大勢の参拝者たちが「福」をつかもうと手を伸ばしていた。

1166よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/06(水) 22:02:59 ID:.Vn42cj60
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

浪速詰方日記
2013年2月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130206/20130206037.html

大阪赴任で連日接待

 バブル景気のころのサラリーマンの接待もこんな感じだったのだろうか。

 天保11(1840)年、福岡藩蔵元奉行兼勘定奉行として大阪に赴任した不惑の大岡克俊は、3月17日の到着以来、ひと月で19回の宴席をこなした。

 「酒は飲め飲め」の黒田武士でも、さすがに4月18日の日記には「少々不快につき今日より薬用いたす」と記した。

 大阪の蔵屋敷を管理する商人などに誘われ、曽根崎の茶屋「河佐(かわさ)」には12回(別に同僚と4回)、他に天満天神、住吉宮、鴻池別荘、桜ノ宮や心斎橋見物、難波新地の曲馬、能興行などの遊山に出かけている。

 これでは疲れないほうがどうかしている。彼の「浪速詰方日記」を読むと、蔵屋敷の役人の「苦労」が見えてくる。

 大岡は4度大阪に来て、3度分の「詰方日記」を残した。天保11年は初めての大阪滞在だから、最初の1カ月はあいさつ回りや顔合わせの意味で付き合いも多かろうが、結局在阪400余日中73回も前述の茶屋に行っている。

 福岡藩は享保(1716〜36年)の大飢饉(ききん)などで財政は悪化する一方で、天保年間には、担保も不足し返済も滞った。天保4(1833)年には藩主斉清(なりきよ)が藩政改革を開始し、大量の藩札を発行、家臣や領民に貸し付けてその返済分を借銀返済に充てようとした。

 また、大阪の借銀の返済を一方的に凍結し、生蝋(きろう)や石炭などの専売制を強化して収入を拡大しようとした。

 ところが、藩札の発行高は天保5年だけでも銀3万8457貫余りで、その価値は発行後3カ月余りで半分以下に下落。斉清後の藩主長溥(ながひろ)が、大阪の鴻池ら蔵元に謝罪した。

 こんな状況では福岡藩蔵屋敷が蔵元や銀主を接待するのが当然だと思うが、逆に商人のほうが大阪見物に連れて行き、茶屋で接待をしているのだ。

 それでも、4度目、文久元(1861)年の在阪の際には、手土産に特産物の鶏卵を贈ったり、蔵屋敷内の歳暮の集まりは中止にし、蔵元との付き合いもうなぎ会を催したり謡の御稽古会に出席するなど、落ち着いたものになった。生蝋の専売に力を入れ、それを扱う商人との付き合いが増えた。大岡も60歳。河佐へは、10月の着任後12月に出かけ、そのあと10回行き、6月6日の離阪前日が最後になった。

 (大阪商業大学商業史博物館専門学芸員・岡村良子)

1167よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/09(土) 07:07:33 ID:0H/azHCA0
感謝込め針供養 大阪天満宮
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130209-OYT8T00095.htm

 大阪天満宮(大阪市北区)内の吉備社で8日、「針供養」が行われ、晴れ着姿の女性ら約1500人が、裁縫の上達を願った。

 中国から裁縫技術を持ち帰ったとされる吉備真備をまつる吉備社で大正時代から続く行事。大阪和服裁縫協同組合(浪速区)などが主催し、和裁所で働いたり、裁縫を学んだりしている女性たちが、曲がったり折れたりした針を、社の前に設けられた軟らかいコンニャクに1本ずつ刺して供養していた。

 孫に振り袖や訪問着などを贈るために和裁の稽古をしているという吹田市の主婦、奥田京子さん(69)は「この1年で何十本もの針を折ってしまった。頑張ってくれた針には感謝の気持ちでいっぱい」と話していた。

(2013年2月9日 読売新聞)

1168よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/09(土) 07:08:12 ID:0H/azHCA0
巨大屋敷の堀?出土 楠葉中之芝遺跡
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130208-OYT8T00125.htm

 枚方市楠葉中之芝の楠葉中之芝遺跡から、鎌倉時代前半(13世紀前半)の屋敷の堀とみられる溝が出土し、市教委が発表した。摂関家として君臨した藤原氏の所領「楠葉御牧(みまき)」があったとされる場所で、市教委は「藤原氏に通じる有力者の屋敷の可能性もある。当時の集落の様子を知るうえで、重要な手がかり」としている。

 市教委は昨年11月から、土地区画整理事業に伴って発掘調査を実施。出土した溝は、幅約2・3〜3・1メートル、深さ約1メートル。東西約14メートル、南北約11・2メートルのL字形で、市内でこれまでみつかった屋敷の堀跡では、最大の規模になる。

 溝に囲まれた場所からは、大型の井戸(直径約4・6メートル)も出土。溝の中から、土器の「土師器(はじき)」の皿や、「瓦器(がき)」の器、木製の箸などの生活用品が大量に発掘されており、堀に囲まれた巨大な屋敷があったと推定される。

 遺跡の周辺は、良質な土器の生産拠点としても有名で、近くに流れる淀川は、重要な輸送ルートだったことから、市教委は「有力者は、水運や手工業生産の利権を手にしたのではないか」とみている。

 現地説明会は、9日午後1時30分、同2時15分、同3時の計3回。小雨決行で、駐車場はない。問い合わせは市教委文化財課(050・7105・8058)へ。

(2013年2月8日 読売新聞)

1169よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/10(日) 18:43:25 ID:0Qq6rt0c0
早春告げる盆梅展 大阪天満宮
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130210-OYT8T00094.htm

◇華やか香り うっとり

 学問の神様・菅原道真をまつる大阪天満宮(大阪市北区)で大盆梅展が開かれ、梅の盆栽が訪れる人を楽しませている=写真=。3月10日まで。

 天満宮によると、左遷された菅原道真が都を去る際、「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠むなど、梅との関わりは深い。

 会場の参集殿には、淡いピンクや白い花びらの約60鉢が展示され、甘い香りが漂う。樹齢約200年の梅や、梅と松を背景に配した天神像の掛け軸などもある。天満宮の担当者は「まだ冬の寒さが厳しいが、一足早い春の気分を味わって」と話している。

 中学生以上500円、小学生300円。問い合わせは、大阪天満宮社務所(06・6353・0025)。

◇新名物いかが 「梅亀天神餅」

 盆梅展の期間中、大阪天満宮境内では土産物店などの屋台が立ち、昨年11月に天満宮にちなんで発売された和菓子「梅亀天神餅」=写真=も並ぶ。

 梅亀天神餅は、外食チェーン会社「フジオフードシステム」(大阪市北区)が運営する「梅亀庵」(同区天神橋2)で製造販売。国産のもち米に境内の梅にあやかってシソを入れて作った餅に、北海道産の小豆を練り上げたこしあんを、亀の甲羅に見立てて載せている。

 社長の藤尾政弘さん(57)は天神橋筋商店街の食堂を営む親の元で生まれ育った。昨春、「天満宮の名物を作り、地元に恩返ししたい」と天満宮に打診したところ、了解が得られた。1月12日に天満宮に奉納された。

 天満宮の寺井種治権宮司(49)は「参拝客のお土産として定着すれば」と期待し、藤尾さんは「末永く愛されるお菓子になるように育てていきたい」と話す。2個入り210円から販売。問い合わせは梅亀庵(06・6882・0871)。

(2013年2月10日 読売新聞)

1170よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/10(日) 18:46:35 ID:0Qq6rt0c0
文楽の魅力体験 来月開催へ
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130210/5343821.html?t=1360489529250

大阪発祥の伝統芸能「文楽」の魅力を知ってもらうことで、観客の増加につなげようと、運営団体の文楽協会は、人形の操作などを直接体験してもらう催しを来月、開くことにしています。
大阪の国立文楽劇場で行われた文楽の公演の観客数は、今年度、約10万4000人で、3年ぶりに10万人を超え、運営団体の文楽協会は、演じ手の技芸員とともに観客をさらに増やすための取り組みを検討しています。
この一環として、文楽協会は、大阪府などの協力を得て、来月10日と12日の2日間国立文楽劇場で、「文楽」の魅力を幅広く知ってもらう催しを開くことになりました。
催しでは、文楽の人形の操作を体験してもらうほか、語り手の「太夫」や「三味線」、それに「人形遣い」の3つの役割の解説や文楽のミニ公演などが行われることになっています。
文楽協会では「参加費は無料なので、文楽をよく知らない人にも気軽に参加してもらいたい。こうした取り組みを続けて少しでも観客を増やしていきたい」と話しています。
申し込みの期限は、今月22日で、往復はがきや府のホームページから申し込むことができるということです。

02月10日 07時04分

1171よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/10(日) 19:59:53 ID:0Qq6rt0c0
四天王寺 フリマでにぎわう 「わっか市」
2013年2月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130210/20130210026.html

 手作り雑貨などを集めた「わっか市(いち)」(同実行委員会主催)が、大阪市天王寺区四天王寺1丁目の和宗総本山四天王寺境内の西重門前広場で、毎月第1日曜日に開かれている。手作り雑貨や無農薬・無添加食品など安全な食品を求める家族連れや友達同士、カップルらに人気を呼んでいる。

 この市は東京や関西でフリーマーケットを開いている中川誼美さん(吉水経営)や雑貨店「キャラメル・ママ」(八尾市)経営、森川弘子さんらが中心になって昨年4月から毎月開催している。

 和宗総本山の「和」、人の「輪」、食べ物の「輪」など全ての「わ」をイメージして「わっか市」と命名された。

 3日に開かれた市では、衣料・服飾雑貨をはじめ古道具、革のかばん、陶芸品、無農薬野菜、手作りにこだわったキムチ、ソーセージ、ジャム、パンなどを販売する約70ブースが出展された。参拝客を含め多くの人たちが訪れ思い思いの商品を手に取り、店主らと会話を楽しみながら購入する光景が見られた。

 市ではパントマイムショー「『ウッチー&ぴんきー』のいっぷくしあたー」(ちんどん通信社所属)や絵本の読み聞かせ会(クレヨンの会主宰)など、楽しいイベントも行われた。

 実行委員長の中川さんは「四天王寺さんが協力的で感謝している。こだわりの店がいっぱいで店主とのおしゃべりも楽しんでいただきたい」と話し、キャラメル・ママ代表の森川さんは「こだわりのお店のオーナーさんには出展していただきたい」と呼び掛けていた。

 次回開催は3月3日。午前9時〜午後3時。

1172よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 06:40:27 ID:seBLmPhg0
敵を集め一網打尽 岸和田城の「犬走り」解説 大阪
2013.2.10 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130210/osk13021002070001-n1.htm

 岸和田市にある「岸和田城」の石垣を調べている市と市教委は9日、市民説明会を開き、担当職員らが本丸の東と南西側に位置する「犬走り」と呼ばれる石垣の段差について「敵を集めて攻撃するためとおもわれる」などと解説した。

 市では、1月下旬から今月にかけて岸和田城の内堀の水を抜き、石垣の老朽化などについて調査を進めている。犬走りについては、これまでも存在は確認されていたが、今回水を抜いたことで、その全容が姿を現し、特徴的な段差がみられるようになったとして、特別に説明会を開催したという。

 担当職員らによると、通常の城の石垣の場合、敵の足場となるような段差は設置されないことが多いとする一方、岸和田城にみられる長さ約200メートルにわたる犬走りについては「上陸した敵を1カ所にまとめて迎え撃つ利点があるとされ、他県の城(彦根城、今治城など)でも確認されている」などと説明した。

 このほか、石垣に残されている刻印などについても詳しく紹介。参加した市民らは、興味深そうに聞き入っていた。

1173よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 18:58:05 ID:/YnYSKGM0
履中天皇陵(上) 被葬者は幻の天皇!? 築造順位“真逆”の謎 
2013.2.11 13:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021113000012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021113000012-n2.htm

 第15代・応神天皇、16代・仁徳天皇、17代・履中天皇−。4世紀末から5世紀にかけて絶大な権力で国内を統治し、「倭の五王」ともされる3天皇は、それぞれ国内ベスト3の巨大前方後円墳に葬られたという。

 最大の仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486メートル)と2位の応神天皇陵(大阪府羽曳野市、同425メートル)は被葬者に矛盾はないとされるが、3位の履中天皇陵(堺市西区、同365メートル)については、研究者の多くが疑問を抱く。

 履中天皇陵の築造時期が、3天皇の即位順と全く一致しないからだ。3天皇陵の築造順位は、墳丘出土の埴輪(はにわ)などから、(1)履中天皇陵(2)応神天皇陵(3)仁徳天皇陵−と判明。第17代で最も新しいはずの履中天皇陵が考古学的には最も古いという“真逆”の結果になった。「履中天皇陵をそのまま履中天皇の墓とするのは難しい」と堺市世界文化遺産推進室の白神典之主幹。

 それでは、履中天皇陵はいったい誰の墓なのか。応神天皇より前となると、14代・仲哀(ちゅうあい)天皇になるが、同天皇は河内に葬られたと日本書紀は記し、宮内庁が指定する仲哀天皇陵(大阪府藤井寺市、同242メートル)もある。

 「日本書紀があくまで正しいとすれば、履中天皇陵に該当する天皇がいなくなる」と白神氏。日本書紀に記されていない“幻の天皇”が葬られたのだろうか。

 さらに、履中天皇自身の古墳も「所在不明」となる。仁徳天皇陵より新しい古墳は、約2キロ東の土師ニサンザイ古墳(堺市北区、同300メートル)があるが、反正天皇の墓ともいわれる。

 全長が365メートルというのもあやしいという。墳丘の周濠(しゅうごう)は満々と水をたたえているが、宮内庁が作成した古墳の測量図をよく見ると、墳丘1段目がほとんど水面に隠れている。白神氏は「水面下の分も合わせると全長は400メートル近くになるのでは」という。知られているようで意外と謎めいた巨大古墳である。

1174よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/11(月) 19:14:42 ID:/YnYSKGM0
履中天皇陵(下) 盗掘被害に室戸台風…御難続きも地域見守り 
2013.2.11 15:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021115000016-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130211/wlf13021115000016-n2.htm

 「履中天皇陵、大学生らが盗掘」。昭和61年12月、新聞でショッキングな窃盗事件が報道された。天皇陵の幅約30メートルの周濠(しゅうごう)をゴムボートで渡り、墳丘に埋まっていた埴輪(はにわ)などを盗んだとして逮捕された。

 学生らは歴史に興味があったというが、このときの盗掘品が昨年秋、大阪府立近つ飛鳥博物館(河南町)で、宮内庁が調査した他の天皇陵などの埴輪とともに公開された。履中天皇陵で盗掘された埴輪のうち、矢を入れる容器を模した靭(ゆき)形埴輪は、全体を復元すると高さ1・5メートル近くになり、被葬者の権力の大きさをうかがわせた。

 同天皇陵は、盗掘だけでなく、台風など御難続きだった。明治31年には、被葬者を納めた石室のある墳丘後円部が直径6メートル、深さ2メートルにわたって大規模に陥没。昭和9年9月には、死者・行方不明者約3千人をだした室戸台風で墳丘の木々がなぎ倒された。

 堺市史によると、倒木は松や杉など約900本。なかでも、墳丘にそびえ、古くから大阪湾を航行する船に針路を指し示していた名松「傘の松」が折れたという。「市民の痛惜のまととなった」。市史は無念の思いをこう表現した。

 それでも地元の人たちは「御陵さん」と親しみをもって見守り続ける。かつては周濠の水が農業用水として人々の生活を支え、現在はボランティアで清掃活動などが行われている。

 都市部にある履中天皇陵はフェンスで囲まれているが、住宅がすぐそばまでせまり、裏庭が天皇陵というぜいたくな家も多い。フェンスに洗濯物を干すおおらかな光景もみられ、数十年前までは周濠から金魚の水をとるなど子供たちのひそかな遊び場だったことも。

 堺市世界文化遺産推進室の白神典之主幹は「周辺開発の恐れもあるが、地域に根ざした御陵だからこそ大切に守られてきた」と話す。

1175よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 09:57:09 ID:QVpRrk3c0
大阪ロマン紀行

芸の神様になった芝右衛門狸

今回の案内人 亀井 澄夫(日本妖怪研究所所長)
2013年2月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/130215/20130215053.html

生國魂神社(天王寺区生玉町)

 日本の三大狸(タヌキ)といえば、佐渡の団三郎狸、香川屋島の禿(はげ)狸、淡路洲本の芝右衛門狸である。

 この芝右衛門狸は無類の芝居好き。江戸時代の初め頃、淡路から芝居でにぎわう道頓堀へとやってきた。芝居小屋の「中座」へ通うようになったが、係の者が毎日の売上金に木の葉が交じっているのを不審に思い、犬を入り口に置いてみた。いつものように芝右衛門が小屋へやって来ると、狸の苦手な犬がいる。なんとか通り過ぎようとしたが、隙をついて芝右衛門に犬がガブリ。狸の正体を現して、さんざん追い回され、ついには殴り殺された。

 この話は淡路島にも届き、最近、芝右衛門の腹鼓が聞こえないのはそのためかと、仲の良かった人々は芝右衛門の死を悼んだ。それから奇怪なことに、中座の興行成績がガタリと落ちた。これは狸の祟(たた)りに違いないと、初代の片岡仁左衛門が中座の奈落に芝右衛門狸を八兵衛大明神として祀(まつ)ったところ、客がまた来るようになった。以来、八兵衛大明神の祠(ほこら)は芸道の神様として、役者たちがお参りするようになったのである。

 さて、ここからが本題。平成11年の中座閉館にともない、大阪最古の神社である生國魂神社と淡路洲本八幡神社に八兵衛大明神の分霊が遷(うつ)されることになった。平成11年11月1日に八兵衛大明神遷座合祀祭(せんざごうしさい)が行われ、生國魂神社の摂社(せっしゃ)である源九郎稲荷(いなり)神社に合祀された。

 源九郎稲荷とは奈良県吉野の源九郎稲荷の分祠(ぶんし)であるから、狐(キツネ)と狸が祀られていることになる。では、どうして分霊したのかと言うと、350年以上も続いた芸道の神、八兵衛大明神はすでに大阪の文化としてしっかり根付いていたからである。

 大阪の芸の神はやはり、大阪に鎮座するのがよかろうと私も思う。この芝右衛門狸の伝説を知っている人は、芝右衛門としてお参りすると思うが、大阪では八兵衛大明神の名前が一般的だろう。

 また、文楽の物故者を祭神として祀る浄瑠璃神社や、生國魂神社で4千句を矢数俳諧(やかずはいかい)した井原西鶴の像や、彦八まつりで有名な上方落語の祖、米沢彦八の顕彰碑など、大阪の文化を境内のあちこちに見ることができる。

 生國魂神社は、何度も焼失や損壊の憂き目に遭っているが、その都度、民間人が私財を投じて再建してきた。空襲で焼けたときなどは、日本人の団結の力を最も恐れるGHQを尻目に、大阪人は力を合わせて、自分の家より先に大阪文化の象徴、生國魂神社を再建してしまった。

 だから小さく見えても、文化の継承を守るという意味で、八兵衛大明神をそのまま還(かえ)さず生國魂神社に分霊したことは、いかにも大阪らしいと思えるのだ。

1176よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 10:13:53 ID:QVpRrk3c0
天満天神梅酒大会、開催迫る−大阪天満宮で奉告祭
http://umeda.keizai.biz/headline/1521/

 2月16日〜24日に開催される「第7回天満天神梅酒大会」を目前に控えた15日、会場となる大阪天満宮(大阪市北区天神橋2)で同大会の成功を祈願する開催奉告祭が執り行われた。

 梅に縁のある菅原道真を祭る大阪天満宮で、地域活性化と梅酒市場の拡大を目指して開かれる同イベント。全国の蔵元から自慢の梅酒が集められ、一般参加者の投票と専門有識者のブラインドテイスティングにより、優勝銘柄に「天下御免」の称号を授与する。運営は大学生らボランティアスタッフが行い、今年は160人のボランティアスタッフが参加。

 大会の認知度は年々上がり、昨年は2〜3時間の入場待ちができる日もあったが、今年は大阪天満宮の協力で会場を拡大したり日時指定のファストパスを発行したりするなど、混雑緩和の対策にも取り組む。大会期間中は周辺の飲食店にも人が流れるなど、地域活性の効果も見せている。

 今年は梅酒308銘柄、リキュール165銘柄が出品。参加者は700円のチケット購入で制限時間内は自由に試飲でき、1人5銘柄に投票できる。女性や主婦など普段お酒にあまり接しない人や、飲食店経営で仕入れの参考にする人、商品企画の参考にする蔵元の人など、「それぞれの立場で楽しんでいるよう」と実行委員長の上田久雄さん。会場では試飲のほか販売も行い、天神橋筋商店街の店主らが街路樹として植えた梅の実で作った「天満梅酒」も会場限定で販売する。

 今年の梅酒やリキュールは「90ミリリットルの小瓶の商品やゼリー状のもの、炭酸が入ったものなどバラエティー豊か。特産果汁を使ったものなど、それぞれの地域や蔵元の特徴が出ている」と上田さん。多彩な商品の背景には「若い世代のアルコール離れ」があるといい、「アルコールを飲むきっかけとなるような商品作りがされているのでは」と話す。期間中1万5000人の来場を見込む。

 開催時間は10時〜16時。今月24日まで。結果発表と授賞式は3月9日に行われる。

1177よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 20:14:22 ID:5CkDbxVc0
造幣局が生んだ? 大阪の一大ガラス産地
2013/2/16 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06006_X00C13A2AA2P00/

大阪天満宮(大阪市北区)に詣でた際、門前に「大阪ガラス発祥之地」という碑があるのに気づいた。確か天満かいわいにはガラス関連企業が幾つかあるが、大阪にガラスとそれほど深い関わりがあったのだろうか。街の歴史をひもといた。


天神橋筋商店連合会会長の土居年樹さん(75)に聞いた。今はマンションなどが立ち並ぶが「この辺りには戦前、数え切れないほどガラス関連工場があり、前を通ると炉の熱気を感じたものです」と話してくれた。

 「かいわいは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地。工房は江戸時代からあったそうですが、産業として本格的に発展したのは明治以降です」と土居さん。旭硝子の社史を調べると、ルーツは1906年、初代社長が天満付近に設立した合資会社。「当時の最新式ガラス工場」だったという。アサヒグループホールディングスも、山本為三郎・初代社長がかつて、天満周辺のガラス瓶メーカー社長を務めていた。自著に「瓶の製造が縁でサイダーに関係し、ビールに関係することになった」とある。

 大阪市の資料では、第1次世界大戦で欧州向けにガラス製品の輸出が急増。終戦後の1919年、大阪府には全国のガラス関連工場の約7割に当たる882工場が集積していた。

 ガラス産業が発展した背景について、ガラスアーティストで大阪工業大客員教授の岡本覚さん(57)が説明してくれた。「ガラスの量産には、原料のケイ砂や燃料の石炭を運ぶ交通網が欠かせません。水利が発達していた大阪は、ガラス産業が育つ要素がそろっていたのです」

1178よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/16(土) 20:16:27 ID:5CkDbxVc0
>>1177

http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06006_X00C13A2AA2P00/?df=2

 しかし天満で近代ガラス産業が芽吹く契機は何だったのか。大阪市史料調査会を訪ねた。「明治維新直後、様々な官営工場が大阪城周辺に建設されました。中でもガラス産業は、造幣局の存在が大きかったといえます」。調査員の古川武志さん(41)が答えてくれた。

 造幣局は明治維新から間もない1871年、大阪・天満の大川(旧淀川)沿いに設立された。「造幣局は当時、国内最新鋭の総合工場。金属精錬に必要な硫酸や燃料に使う石炭ガスなどを自前で製造してたんですよ」と古川さん。その一つがガラスの原材料となるソーダ灰(炭酸ナトリウム)で「明治政府の殖産興業政策で、余剰生産分は民間に安く供給されたのです」。

 造幣局は幕末期の混乱した幣制を立て直す国の一大プロジェクトの結晶だった。幕末期に英国に密航留学し近代技術を学んだ長州藩(山口県)出身の5人の志士のうち、井上馨や伊藤博文ら4人が造幣局長を歴任。設立に関わったメンバーには五代友厚、寺島宗則、大隈重信など、そうそうたる名前が並ぶ。

 そもそもなぜ、造幣局が大阪に設置されたのか。広報室によると、「維新に貢献した大阪の町衆に配慮した」「大久保利通が唱えた大阪遷都論が影響した」「東京の治安への懸念」「大阪が経済の中心地だったため」など諸説あるが、「はっきりした理由は分からない」そうだ。

 第2次大戦後は市街の発展とともに、公害問題から郊外に移転したり、後継者難などで廃業する企業が相次ぎ、大阪のガラス産業は急速に衰退した。

 そんな中で1970年、逆に同市中央区から天満に本社を移したのが象印マホービンだ。同社まほうびん記念館の山口己年男館長(60)は、「理由は定かではないですが、天満がガラス発祥の地ということが当時の経営陣の念頭にあったのかもしれません」と想像を巡らせる。

 造幣局がなければ、街は現在の姿とは違う発展をしていただろう。大阪と造幣局に不思議なご縁(円)があったということか。

(大阪社会部 榎本行浩)

1179よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/17(日) 05:34:07 ID:1SeL2I/A0
吹田の旧家で「ひな祭り」 大阪
2013.2.17 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130217/osk13021702060000-n1.htm

 吹田市の吹田文化創造交流館(旧西尾家住宅)で16日、「ひな祭り」が始まった。豪華に飾られたひな人形の数々に、来場者らもうっとりと見入っていた。3月3日まで。

 西尾家は江戸時代、吹田村で上皇の所領地である仙洞御料方の庄屋を務めた旧家。広い敷地に玄関棟や居住棟、茶室、離れ、米蔵など江戸後期から大正にかけての和風住宅建築群が残っており、ひな祭りはその屋敷で伝統文化に親しんでもらう催し。

 主屋(しゅおく)の座敷に、男びな、女びなや三人官女らが京都の御所を模した御殿に座る豪華な「御殿飾り雛(ひな)」や段飾り、立ち雛などが飾られ、訪れた家族連れがボランティアの説明を聞きながら、興味深そうにひな人形をのぞきこんでいた。最終日の3日は、こども着物着付けや折り紙教室などの「ひな祭りイベント」が行われる。

1180名無しさん:2013/02/17(日) 15:29:10 ID:7qUqXZ120
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130217/20130217029.html
音楽に合わせ梅満開 大阪天満宮「水墨画奉納式」
2013年2月17日
 てんま天神梅まつりが開かれている大阪市北区の大阪天満宮で16日、水墨画奉納式が開かれた。小雪がちらつく境内で多くの参拝者らが足を止め、梅の木を主題にしたライブペインティングと、大正琴や朝鮮半島の民族楽器による生演奏の競演に見入っていた。

 梅を描いたのは水墨画家の李鴻儒(リコウジュ)さん。毎年梅まつり期間中に琴伝流大正琴の前垣友紀さんらとともに境内の特設ステージでパフォーマンスを披露している。

 10回目となる今年は、前垣さんらが「交響曲第9番」や「美しく青きドナウ」などのクラシックに日本の「赤とんぼ」や韓国の「アリラン」を交えた国籍にとらわれないプログラムを用意。李さんは巧みに筆を走らせ、約20分で縦約1・8メートル×横3・6メートルに梅の花が満開の水墨画をかき上げた。

 李さんは「雪も降り、まさに寒梅となった。今年もいい一年になりそうだ。おおきに」と笑顔。前垣さんは「さまざまな文化のコラボレーションということで、世界が平和と愛であふれることを願い演奏した」と話していた。

 水墨画は、李さんが明日まで境内で制作を続け、横10メートルの大作にして大阪天満宮に奉納する予定。

1181よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/18(月) 22:17:46 ID:aFTlbeEo0
「言葉難しいけど面白い」 子どもたちが能と狂言
2013年2月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130218/20130218023.html

 子どもたちに日本の伝統芸能である能と狂言に親しんでもらうイベント「こどもとたのしむ能狂言」が17日開催され、能が大阪能楽会館(大阪市北区中崎西)、狂言が大槻能楽堂(同中央区上町)で行われた。それぞれ舞台を鑑賞した後、能面体験やお囃子(はやし)ワークショップに参加し、日ごろ接する機会の少ない伝統芸能に触れていた。

 狂言が行われた大槻能楽堂は子ども約160人とその保護者らでにぎわった。参加者らは「仏師」と「附子」を鑑賞。「仏師」の田舎者と仏師と偽った詐欺師が仏像をめぐってやりとりする場面では、子どもたちも大きな笑い声を上げて楽しんでいた。

 お囃子ワークショップは笛、太鼓、小鼓、大鼓をそれぞれの指導者の下で挑戦していた。

 祖母の園田瑞穂さん(71)に「一度、体験してみれば」と誘われて参加した純平君(12)は「日本の昔の言葉で難しかったが、面白かった」と話していた。

1182よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/19(火) 22:24:46 ID:AbyIS1/g0
全国の梅酒が大集合=大阪〔地域〕 .
http://jp.wsj.com/article/JJ11194491127056024402517174038083411837867.html

 大阪市北区の大阪天満宮で、梅酒の日本一を決める「天満天神梅酒大会」が開催中だ。今年で7回目で、酒造メーカーは過去最多の227社が参加。梅酒部門に308銘柄、ユズやシークワーサーなどの果実酒を含むリキュール部門に165銘柄出品している。

 来場者が試飲し、各部門でおいしいと思う5銘柄を投票。上位10銘柄は、ソムリエや酒販店店主ら約20人が行う最終審査に進み、3月9日に各部門の日本一が発表される。

 大会実行委員で同志社大4回生の大江雄仁さん(22)は「日本各地の梅酒を知ってもらい、梅酒文化を発展させると共に、地域活性化を図りたい」と話す。

 大会は24日まで。入場料は700円で、制限時間内に好きなだけ試飲できる。

1183よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/20(水) 19:12:30 ID:4587/SvM0
浪華紙魚百景 

大商大商業史博だより

油方御改革ニ付御触書之写
2013年2月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130220/20130220037.html

将軍家御膝元の灯油供給

 昨年の夏は原発稼働が問題となり、計画停電が取り沙汰された。実際に関西で停電はなかったものの、電力危機に肝を冷やした方々も多かったことと思う。

 片や電気がなかった江戸時代、人々は灯明で明かりをとった。その灯明の油は菜種や綿実を原料とした。特に、幕府が置かれた大都市江戸では、都市の繁栄とともに夜間の生活に灯油は必需品となった。

 明治初年代の商業者に対して大阪商法会議所が行った聞き取り調査の記録には、「燈油(とうゆ)の如(ごと)き、江戸の需要欠乏するや、江戸商賈(しょうこ)は憤然として曰(いわ)く、将軍家の膝下(しっか)をして暗黒にするを欲するや」云々(うんぬん)という記述がある。これは、将軍を頂点とした武家社会においては、そのお膝元である江戸の灯火需要が最優先されるべきものであったことを物語っている。

 そこで、幕府は商品流通の中心都市であった大阪の油商人に特権的地位を与え、大阪の油市場から江戸への「下り油」の安定供給に心を砕いた。これによって江戸への灯油供給は「下り油」に依存することになる。

 特に「下り油」の生産管理が政治的に強化されたのは明和年間(1764〜72年)で、幕府は油生産機能を大阪に一極集中させようとしたが、灘目などでの絞油業の台頭を看過しえず、結局これらを容認し政治支配の中に組み入れることによって、末端商品である搾油レベルでの大阪への廻着総量の増加を図る。

 しかし一方で、地方の無許可での絞油業者の出現が、大阪への菜種や綿実集荷減少の原因となる。さらに、大阪周辺の菜種や木綿の生産農民からは、大阪の問屋の集荷独占による製油原料の買いたたきと販売独占による油小売価格の高騰に対する反対運動が起こる。

 行きつ戻りつしながら、幕府は次第に市場開放を行う方向で政策転換をしてゆく。そして、その行政改革の終着点が天保3(1832)年に出されたこの御触書であった。この改革では、大阪の内本町橋詰町に統一的な油寄所を設置した。また、江戸にも霊岸島に新たに取引のための油寄所を設置して、「下り油」のみならず、この時期台頭してきた関東周辺での製油の集荷も行った。

 しかし、江戸への灯油供給は依然として「下り油」への依存が見られ、先述の明治初年代の聞き取り調査の記述は、「町奉行は之を審査して大坂町奉行に移牒(いちょう)し、速やかに貨物の輸送あらんことを告ぐ。依(よっ)て大坂油商は之を決して猶豫(ゆうよ)するを得ず、百方周旋して積み送る事なり」と続けている。

 (大阪商業大学商業史博物館学芸員 池田治司)

1184よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/21(木) 22:08:27 ID:oh/YA7BM0
被葬者の棺を運んだ橋? 墳丘周濠から柱穴 堺・ニサンザイ古墳
2013.2.21 17:22
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130221/wlf13022117330018-n1.htm

 17代・履中(りちゅう)天皇や18代・反正(はんぜい)天皇の墓ともいわれる国内8番目の大きさの前方後円墳、堺市北区のニサンザイ古墳(全長約300メートル、5世紀後半)で、後円部東側の周濠(しゅうごう)から、橋脚か舞台の跡ともみられる多数の柱穴が見つかり、21日、市文化財課が発表した。

 周濠からこうした施設が見つかるのは全国で初めて。柱穴は、墳丘から周濠を渡るように長さ34メートル分が確認され、被葬者の遺体を運ぶための特別な橋か、葬送儀礼の舞台との見方も浮上し、天皇陵クラスの古墳祭祀(さいし)を考えるうえで貴重な資料になりそうだ。

 調査は、墳丘を囲む周濠のうち墳丘の中心線と一致する後円部東側で行われた。墳丘に接する部分で、幅12メートル、長さ4メートルの範囲に約20本分の柱穴が整然と並んでいるのが見つかり、舞台のような構造になっていた。さらに、舞台の中央部分から周濠をまたぐように、幅2メートル、長さ30メートルにわたって柱穴が橋のように並んでいるのが確認された。

 墳丘に接する部分だけ大きな舞台のようになっていたともみられるが、調査範囲が限られていることから、幅12メートルの大規模な橋だった可能性もあるという。市文化財課は「こうした構造物は前例がなく、将来的に全体像が解明できれば」としている。

1185よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/23(土) 07:06:46 ID:avopk44Q0
窯跡に大量の須恵器 豊中・桜井谷
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130223-OYT8T00095.htm

 古墳〜奈良時代(5世紀後半〜8世紀前半)の須恵器の生産地とされる豊中市の桜井谷窯跡群で、大量の須恵器が詰まった窯跡が見つかり、市教委が22日、発表した。窯跡は天井部が破損、何らかの理由で加熱中に崩れ、そのまま放置されたとみられる。専門家らは「壊れた窯を使い捨てできるほど周囲に多くの窯があったといえる。当時の一帯の生産規模を裏付ける」としている。

 調査は、昨年7月から同市宮山町の約1000平方メートルで実施。その結果、傾斜地で全長約10メートル、幅1〜2メートル、高さ1・4〜1・6メートルのトンネル状の窯跡が見つかった。中からは杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)と呼ばれる丸い器(直径12〜16センチ)など、須恵器約120点が発見された。

 窯跡には、壁面や天井の破損を補修する粘土を塗りつけた指の跡などがあったが、天井が崩壊する大きな不具合があったため、この窯で焼くのをあきらめ、中の須恵器も取り出さずに放置したとみられるという。

 大阪大の福永伸哉教授(考古学)は「破損した窯の放置から一帯の窯業の規模の大きさが推測できる。継体天皇が国家的な生産地として育て、王権の基盤を充実させるのに使った場所だったのでは」と話している。

 現地説明会は3月2、3両日の午前10時〜午後3時。問い合わせは、平日に市教委地域教育振興室(06・6858・2581)へ。

(2013年2月23日 読売新聞)

1186よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/24(日) 16:54:00 ID:FYGl./F60
燃える炎 息災祈る 四天王寺「初庚申」
2013年2月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130224/20130224029.html

 えとの組み合わせで、約2カ月ごとに巡る庚申(かのえさる)の日にちなんだ信仰行事「庚申(こうしん)まいり」のうち、ことし最初の「初庚申」が23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)庚申堂で執り行われた。建設中の日本一の超高層ビル「あべのハルカス」を望む境内では、初庚申恒例の柴灯(さいとう)大護摩供も盛大に行われ、朝から無病息災などを祈願する参詣者らであふれた。

 同寺庚申堂は日本の庚申信仰発祥の地として知られ、本尊として除災無病の霊験を持つ「青面(しょうめん)金剛童子」が祭られている。

 護摩供では同寺僧侶のほか奈良県大峯山の修験行者らが奉仕した。丸木を組んだ大きな護摩壇の周囲には結界が設けられ、法弓や法剣といった清めの前作法に続いて点火。「病気平癒」「厄除開運」など、さまざまな願いが記された護摩木が高く燃え上がると、参詣者らは一様に手を合わせて所願成就を祈っていた。

1187よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/24(日) 19:18:48 ID:FYGl./F60
槍で突き倒し討ち取った…幸村の最期「新説」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130223-OYO1T00612.htm?from=newslist

 大坂夏の陣(1615年)で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。同家の家臣と槍(やり)で戦って討ち取られたと記されており、戦わずして自ら首を差し出したとの定説を真っ向から否定する「新説」だ。幸村の最期は他にも諸説があり、専門家は「400年たっても、謎が解けないのがいかにも幸村らしい」と関心を寄せる。

 覚書は大坂の陣に徳川方として参戦したのちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。

 文面では、幸村を討ち取った人物としてよく知られるのちの福井藩士、西尾仁左衛門が登場する。

 〈西尾が馬で敵中に入り、少し高い所に上がった時に「よき敵」と遭遇。互いに馬から下りて槍で戦い、突き倒し、討ち取った〉と記述。さらに〈夕方に(幸村の顔を知る)越前松平家の家臣、花形市左衛門兄弟が陣中見舞いに来て、討ち取った首が幸村のものとわかった〉とつづっている。

 当時は一騎打ちで名乗り合うことが多かったとされるが、身分が違う場合や相手が複数の場合は名乗らないこともあったという。

 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、西尾仁左衛門に自ら首を差し出したとする逸話が最も知られており、徳川幕府の史料にも残る。

 大坂の陣に詳しい大阪城天守閣の北川央(ひろし)・研究主幹は「福井藩として、正々堂々と戦って討った首だと主張したかったのだろう。幸村には影武者がおり、大坂の陣では首が三つ見つかったとされる。さらに異説が出る可能性もあり、真相は今も謎だ」と話している。

 真田幸村 1567〜1615年。大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫り、家康を窮地に追い込んだとされ、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。家紋は「六文銭」。幸村を題材にした物語は多く、大正期には忍者・猿飛佐助ら「真田十勇士」を従え、家康に挑んだとする少年向けの読み物が人気を博した。池波正太郎の歴史小説「真田太平記」は今も読み継がれるロングセラー。

(2013年2月23日 読売新聞)

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1189よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/25(月) 23:47:51 ID:JSyEk74o0
ひな人形ずらり 古民家彩る
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130225-OYT8T00060.htm

. 泉佐野市の市指定文化財「旧新川家住宅」(同市本町)で、「古民家のひな祭り」が開かれ、市民らから寄贈されたひな人形が展示されている=写真=。3月3日まで(月曜休館)の午前10時〜午後4時。無料。

 「季節の風物詩を楽しんでもらおう」と、NPO法人泉州佐野にぎわい本舗などが企画。今年は、市指定文化財「旧向井家住宅」(同市土丸)でも展示している(3月10日まで、月曜休館)。

 旧新川家住宅の会場には、江戸末期以降のひな人形約20組を展示。同NPOは「趣のある建物にずらりと並んだひな人形は圧巻。ぜひ見に来て」と呼びかけている。問い合わせは、同住宅(072・469・5673)。

(2013年2月25日 読売新聞)

1190よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/27(水) 20:24:10 ID:3ByVhhd.0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

浪速詰方日記
2013年2月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130227/20130227041.html

蔵屋敷が信仰の対象

 今回は第61回の続きとして、もう少し『浪速詰方日記』を紹介しよう。茶屋通いだけを取り上げられては、執筆者の大岡克俊も浮かばれまいから。

 江戸時代によらず、寺社参詣は楽しい遊山の一つである。大岡も大阪天満宮で流鏑馬(やぶさめ)を見たり、蔵屋敷出入りの商人たちを招いて船で天神祭の神幸を見物したり、御霊社の人形芝居を見物したりしている。

 そんな中、滞坂中必ず2、3度参詣するのが、「高松屋敷金毘羅(こんぴら)宮」だ。これは大阪の高松藩の蔵屋敷内に勧請されている金毘羅宮のことで、縁日は9、10日だが、参詣人は日ごろから絶えなかったという。

 『町史ことひら』第2巻によると、大阪蔵屋敷の金毘羅権現については、宝暦2(1753)年の記録があり、明和4(1767)年の記録には、もともとは「お蔵屋敷鎮守」のため建立されたものだが、参詣人は増え、そのうち百度参りなどをする者などで、「場所柄ゆへ以来外に障る」ようになり、ほこらは取り払われたとある。が、また天明6(1786)年に再建された。江戸上屋敷にも同様の御札守所があった。蔵屋敷自体が信仰や遊山の対象でもあったわけだ。

 福岡から大阪まで、大岡は下関を通って船で瀬戸内海をやってくる。その途上でいつも本宮の金毘羅さんへ参詣している。

 特に2度目の来阪、嘉永3(1850)年のときには、多度津で、風雨が激しくなり、港に繋留(けいりゅう)できなくなった。風のために船が石垣に押しつけられ、船頭や多度津の人々大勢で、石垣と船の間に大丸太を数本差し入れ、船を引っ張ってやっとのことで山の陰に繋留することができた。

 大岡は、これも兼ねてから象頭山に参詣しているおかげで、今回何事もなかったのは、「誠ニ神力之冥助いつれも有か(が)たく奉仰事」と書き記している。

 福岡から大阪に米を運ぶ場合でも難船はつきもので、航行の無事を祈れば、自然に信仰は篤(あつ)くなる。高松藩以外にも、丸亀藩にも金毘羅宮があり、広島藩蔵屋敷には厳島神社、宇和島藩蔵屋敷には和霊神社、大岡自身の福岡藩の蔵屋敷内にも大宰府天神があった。久留米藩蔵屋敷には水天宮があったが、その様子は「久留米藩大阪蔵屋敷絵図」(大阪歴史博物館寄託。現在同館で展示中)に見ることができる。

 ちなみに、高松藩蔵屋敷は現在のリーガロイヤルホテルあたりに、福岡藩のは阪神高速中之島入口辺にあった。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

1191よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/28(木) 06:27:48 ID:.8rveRDw0
住大夫さん「みんなの気持ちで修復」 文楽の祖 竹本義太夫の供養塔 修復抜魂式 大阪・四天王寺 
2013.2.27 21:35
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130227/ent13022721370013-n1.htm

 文楽の語り芸「義太夫節」の元祖、竹本義太夫(1651〜1714年)らの供養塔と墓石の修復のための抜魂(ばっこん)式が27日、大阪市天王寺区の四天王寺で文楽の技芸員らが参列して行われた。

 今年、300回忌を迎える竹本義太夫は江戸時代、道頓堀に芝居小屋「竹本座」を創設、近松門左衛門と組んで「曽根崎心中」など多くの名作を送り出した。同寺には、没後まもなく建立された供養塔や、二代目を襲名した竹本播磨少掾(はりまのしょうじょう)の腹帯(はらおび)を納めた石塔などがあるが、劣化が激しく破損や倒壊の危機にさらされていた。

 今年1月、事態を憂慮した技芸員らが「先人の墓石が自分たちの代で壊れてしまっては申し訳ない」と、修復資金のための追善公演を企画、国立文楽劇場(大阪市中央区)でも募金活動を行っていた。

 この日、抜魂式に集まったのは人間国宝の竹本住大夫さん(88)ら技芸員約30人。神妙に供養塔に手を合わせた住大夫さんは「義太夫さんは文楽の祖。みんなの気持ちで修復できるのはありがたいこと。これを機にもっと勉強して文楽を発展させていきたい」と話した。

 7月中旬に修復を終え、8月に開眼式を行う予定。

1192よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/02/28(木) 20:06:10 ID:YYuOOeJ20
香り、色よく 大阪天満宮「大盆梅展」
2013年2月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130228/20130228025.html

 大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で恒例の大盆梅展が開かれ、樹齢100年を超える古木など紅白の大作約40点が大勢の来場者の目を楽しませている。3月10日まで。

 同宮の祭神・菅原道真公が梅をめでたことにちなんで開催されており、今年で10回を迎えた。境内の参集殿では奈良県桜井市の園芸業者「大香園」が作り上げた多彩な盆梅の数々を公開中。人の背丈よりも高い「玉垣」(樹齢約150年)のほか、天草野梅(同200年)や青軸野梅(同100年)などが咲きそろい、芳しい香りを漂わせながら趣ある会場を色よく飾っている。

 また今回は10回記念として、平安中期に天神信仰が起こった当初は松が天神の象徴であったことから、樹齢約100〜250年のクロマツの盆栽も併せて展示。カメラを手に訪れた人々が梅と松のコントラストを堪能していた。午前9時半〜午後4時半(入場は同4時)。

1193よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/02(土) 06:44:20 ID:7CrNPO5k0
大阪大空襲で中止 不戦誓う68年後の卒業式  
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130302-OYT8T00070.htm
.
 1945年3月の第1次大阪大空襲で、国民学校の卒業式を迎えることができなかった人たちに卒業証書を贈る「幻の卒業式」が3日、大阪市中央区の「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)で開かれる。「生きて証書を受け取れることに平和の大切さをかみしめている」。参加する戦争体験者2人に、思いを聞いた。(増田尚浩)

 

 第1次大阪大空襲は、1945年3月13日深夜から14日未明にかけてあり、B29爆撃機274機が大阪市中心部に大量の焼夷(しょうい)弾を投下。約4000人が亡くなり、同市内だけで約13万6000戸が焼失した。同センターによると、14日は同市内の国民学校259校が卒業式を予定していたが、多くが中止になったという。

 幻の卒業式は、同センターが2011年に始めて3回目。これまでに計33人が参加した。

 今年は5人が参加を予定。同市天王寺区の生魂国民学校(現・生魂小学校)6年生だった植本浩子さん(80)=奈良県王寺町=もその一人だ。

 式前日の13日、植本さんは同区内の自宅で空襲警報が鳴り響くのを聞いた。激しい爆音に、至る所から上がる火の手。炎が夜空を照らす中、家族5人で知人宅に避難したが、後で見に行った自宅は、焼けて跡形もなくなっていた。

 14日の式は中止され、植本さんもその後は家族と一緒に柏原市内に移ったため、同級生たちとは離ればなれに。植本さんは「空襲で多くの人が命を落とした。こうして『卒業式』を迎えられるのは、本当にありがたい」と涙を浮かべ、「孫たちには、こんな思いはさせたくない。二度と戦争はしてはいけない」と語る。

 山田英雄さん(78)=大阪市都島区=は、68年前の卒業式に出る予定だった2歳上の姉、照子さんの代わりにと、出席を決めた。

 当時、山田さんは島根県に疎開中。堀江国民学校(現・堀江小学校)6年生だった照子さんは、卒業式に出席するため疎開先から同市西区の自宅に帰っていたが、照子さんらきょうだいと両親の家族9人が空襲の犠牲になった。

 山田さんが家族の死を知ったのは、その2か月後。自宅の焼け跡を訪れ、親族から告げられた。「俺だけ残して9人が逝ってしまったのが寂しくて。頭の中が真っ白になり、泣き続けた」

 照子さんは手をつないで遊びに連れて行ってくれるなど、弟思いの優しい姉だった。山田さんは「卒業式を楽しみにしていたはず。いつかあの世で会った時に、卒業証書を渡してあげたい」と話す。

 3日は午後1時30分から。空襲被害の記録写真を使った講演も行われる。問い合わせは同センター(06・6947・7208)。

(2013年3月2日 読売新聞)

1194よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 05:30:58 ID:W5qWiync0
大阪ロマン紀行

地元に愛される狸坂の古狸
今回の案内人 亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)
2013年3月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/130301/20130301063.html

狸坂大明神(中央区神崎町南大江公園内)

 町の公園内に、無人だがきちんと掃除されていて、誰かが日々手入れしている神社や祠(ほこら)が、大阪にはけっこうある。そんな神社のひとつが、中央区の南大江公園内の狸坂大明神(たぬきざかだいみょうじん)である。

 狸坂というのは、南大江公園の南の道をまっすぐ堺筋に下りている坂道のことだが、昔は少し南にあったらしい。狸坂大明神も区画整理のため現在の公園内に移転した。

 このへんは昔から紙屋が多く、火事を最も恐れ、実際に火事が多発したこともあり、昭和41(1966)年ごろから狸坂大明神で火災封じを祈願するようになった。

 祀(まつ)られている狸がどのような狸なのか興味深いが、これといった資料がない。ただ、江戸時代初期にすぐ近くの粉川町(こかわちょう)に住んでいた、古林正温(ふるばやししょうおん)という名医の逸話にこんなのがある。

 ある日の深夜。古林正温を訪ねて奇妙な童子がやってきた。橋の上で魚をひろい食いしたら腹が痛くなった。先生、どうか助けてください、でも、お金がないのです、と涙ながらに訴えるのだ。

 正温は日頃から、金のない人からは診察の料金をいただかないでも診るという医者だったので、診察して薬を渡すと、童子は喜んで帰っていった。

 数日して、毛だらけの大男がやってきて、先生のおかげで治りました。このご恩は一生忘れませんと言って、お礼に不思議な踊りを踊って消えたという。この童子が実は狸だったのだ。これが、ひょっとしたら狸坂にいた古狸なのかもしれない。

 また、南大江公園は、それ自体、朝日神宮社という神社があった場所で、明治40(07)年に此花区に移った。公園の規模からいって、けっこう大きな神社だったのだろう。

 神社というのは、そもそも宗教というより土地の人々の拠(よ)り所(どころ)としての役割が強い。それが無人でも土地の人々が愛し、お世話するという伝統につながっている。狸坂大明神も毎年、5月28日に地元の住民たちで火除(よ)け祭を行い、子供たちにはお菓子も配られる。

 日本は神主よりも神社の数の方が圧倒的に多い。それは村や地域が育んできた協同体のシンボルでもある。このように公園の一角に神社があり、木々がこんもりあると公園全体の空気がすがすがしく感じる。それこそ場と心の浄化装置である。

 狸坂大明神からは公園全体が見渡せる。狸坂の狸は今も、公園で遊ぶ子供たちを見守って、ニコニコしているにちがいない。

1195よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 05:40:52 ID:W5qWiync0
竹内街道1400年 役割変われど往来途切れず
2013.3.2 15:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n2.htm

 飛鳥時代の大和(奈良)と河内(大阪)を結んだ日本最古の官道「大道(おおじ)」が整備されて、今年で1400年を迎える。国境の竹内峠を越えることから竹内(たけのうち)街道と呼ばれ、初期の「外交の道」から経済、信仰、観光の道へと役割を変化させた。その道筋には、いまも古今の旅人の歴史が詰まっている。(川西健士郎)

 日本書紀をひもとくと、推古天皇21(613)年に、「難波より京に至る大道を置く」という記述がある。海上交通の起点だった難波の港(大阪市)と飛鳥(奈良県明日香村)を結ぶいわば最初の「国道」だ。

 沿道の大阪府太子町には、聖徳太子や推古天皇が眠る「王陵の谷」や、西域のシルクロードを連想させる奈良時代の石窟寺院跡などの遺跡が残る。遣隋使や外国の使節は、巨大古墳や美しい寺院を眺めながら都に向かったのだろう。

 考古学者の水野正好さん(78)は「国家が管理する倉や馬舎が一定間隔にあった。渡来人や軍隊、聖徳太子も通った広く、きらびやかな道だったことでしょう」と想像する。

 中世になると、聖徳太子が発見を予言した「予言石」が叡福(えいふく)寺境内の聖徳太子廟で発見されたことをきっかけに、太子信仰の巡礼者が大勢訪れる。自治都市として栄えた堺と大和を結ぶ経済の道としてもにぎわった。江戸時代には、西国三十三カ所巡りやお伊勢参りの旅人も盛んに往来するようになった。

 このころ旅人を奪い合う争いがあったことが、近年の研究で明らかになった。

 当時、竹内峠の東西の村に、旅人が一夜を明かす旅籠(はたご)街があった。ところが西側の山田村(現・太子町)が、竹内街道から分岐し、観光名所の当麻(たいま)寺につながる「岩屋道」を整備した。「できるだけ山田村に一泊してもらい、翌日に当麻寺観光を楽しんでもらう旅行ツアーを開発したという感じでしょう」と、太子町立竹内街道歴史資料館の鍋島隆宏学芸員(43)は解説する。

 この“ツアー”が当たり当麻寺に人が流れたため、東側の竹内村の旅籠から客足が遠のいたとして、竹内村が奉行所に窮状を訴えた訴状が、旧山田村から見つかった。奉行所は、岩屋道との分岐点に置かれていた旅人を当麻寺へ誘導する石の道標(みちしるべ)を撤去するよう裁定を下した。

 その道標は分岐点より手前の山田村に移されたが、かわりに「(当麻寺へは)是ヨリ十三丁程東」の文字が新たに刻まれた。「井関の道標」として資料館の近くに立っており、全国的にも例のない“予告する道標”として、ユニークな歴史を伝えている。

 1400年を記念し、沿道12市町村では3〜11月にさまざまなイベントが企画されている。鍋島さんは「歴史の深みを肌で感じられるのが竹内街道の魅力。知恵と工夫で村おこしをしてきた先人を見習い、観光を盛り上げたい」と話している。

1196よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 22:25:30 ID:ckeyGACg0
伊能忠敬らも宿泊、「郡山宿本陣」が特別公開 茨木で10日まで
2013.3.3 14:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130303/wlf13030314120024-n1.htm

 江戸時代、日本地図を作った伊能忠敬(ただたか)や「忠臣蔵」で知られる赤穂(兵庫県)藩主、浅野内匠頭(たくみのかみ)ら歴史上の人物も宿泊した茨木市宿川原町の国史跡「郡山宿本陣」で2日、春の特別公開が始まった。

 同本陣は江戸時代、参勤交代などで西国街道を通る大名らが利用した宿舎で、母屋、門、米蔵、納屋、茶室などが残る。大きなツバキの木があることから別名「椿の本陣」と呼ばれる。

 宿帳が保存され、伊能忠敬らのほか、長州(山口県)の高杉晋作が組織した奇兵隊幹部の宿泊などが記録されている。

 この日は、17代目当主、梶(かじ)洸(たけし)さん(90)らが講演、訪れた人たちは全国に残る本陣の実態などを熱心に聞いていた。

 10日まで。無料。問い合わせは、同本陣((電)072・643・4622)。

1197よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 22:30:28 ID:ckeyGACg0
兼好の碑 生かせ 関連遺構集まる寺に移転へ
2013年3月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130303/20130303020.html

 大阪市阿倍野区の聖天山公園内に鎌倉〜南北朝時代の歌人、吉田兼好(1283〜1350)がこの地で隠居生活を送っていたことを顕彰する碑がある。1983年に設置されたその碑石が、隣接する海照山正圓寺(同区)の境内へ移されることになった。境内には、当時の生活で用いたとされる「藁(わら)打ち石」など兼好にちなんだ遺構や碑が複数点集合しており、辻見覚彦住職(45)は「地域の財産が新たに加わり、ようやく一つの形になった」と喜んでいる。

 随筆「徒然草」の作者として知られる兼好だが、阿倍野で隠せいしていたことは知られていない。この地で庵(いおり)を結んだのは、南北朝の争乱の中、大阪で討ち死にしたとされる北畠顕家(1318〜1338)を慰霊するためであったという説があり、下男・命婦丸(みょうふまる)の郷里であったことにも起因しているという。

 クスノキの大木の下でひっそりとたたずむ碑石には、元東大寺管長、清水公照氏の書による「徒然草」の序文などが刻まれており、傍らにはこの地を訪れた松尾芭蕉の門人、服部嵐雪による句碑も残る。しかし、人目に触れることなく、表示もないなど地域資源として生かし切れていなかったことが懸念の一つだった。

 辻見住職によると、同寺は飛鳥時代に起源を持つ阿部寺(廃寺)の塔頭(たっちゅう)であったとも伝えられ、現在の形になったのは江戸中期の元禄年間とされる。1950年の文化財保護法の施行以前から歴史的遺構が散在しており、集積は「歴史をいびつにしてはいけない」という先代の懸案でもあったという。

 同公園があり、碑石の設置者でもある丸山連合振興町会では、理事会で移設に満場一致の賛同を得た。周辺には丸山古墳や松虫塚があり、近代では文豪・織田作之助のゆかりの地としても知られ、同町会の衣斐雅一会長(56)は「丸山って古いんやな、と感じてほしい」と地域活性化に期待している。

 4月7日には、移設を記念して式典を実施する。大阪府立大学の西田正宏地域連携研究機構教授(学芸史)による講演も行われる。

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1209よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 19:40:58 ID:DylJri4M0
江戸時代の“起こし絵図”展
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130311/3058711.html?t=1362997251093

茶室などの建物の構造を紙を張り合わせて実物そっくりに再現した、「起こし絵図」と呼ばれる江戸時代の立体的な図面の展示会が大阪市内で開かれています。
起こし絵図は台紙に平面図を描き、その上に内部の様子を描いた厚手の紙を張り合わせて模型のように立体的に組み立てることができるものです。
大阪・北区の大阪くらしの今昔館では江戸時代に大工頭を務めた中井家に伝わる起こし絵図など、国の重要文化財を中心に約100点が展示されています。
このうち茶の湯を大成した千利休が建てたと伝えられる京都・東山の高台寺の傘亭と呼ばれる茶室の起こし絵図は土間から一段高くなった床の立体的な構造や、かまどの配置、部屋の上に張り渡された自然の姿に近い木材の様子などが詳細に記されています。
また、京都の大徳寺にあった茶室の起こし絵図は実物が東京に移築されたあと、関東大震災で焼失したため、現存しない建物の構造を知る上で貴重な資料となっています。
こうした起こし絵図は江戸時代に大名や著名な寺の僧侶などの求めに応じて作られ、今回のようにまとまった形で展示されるのは珍しいということです。
この起こし絵図の展示は来月7日まで、大阪くらしの今昔館で行われています。

03月11日 12時25分

1210よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 20:56:20 ID:DylJri4M0
七代目文都襲名公演前に 天満宮で成功祈る
2013年3月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130309/20130309029.html

 月亭八方さんの二番弟子で、古典だけでなく創作落語にも取り組む落語家、月亭八天さんが「八天改メ七代目月亭文都襲名披露公演」(19日、なんばグランド花月)を前に8日、大阪市北区の大阪天満宮で同公演の成功を祈願し、飛躍を誓った。

 113年ぶりの復活となる大名跡の襲名を控え、八方さんをはじめ遊方さん、八光さんら一門で成功を祈願。八天さんは「八天の天は天満宮の天。文都の襲名にあたり、八天の名前を奉納、お返しするような気持ちで参拝した。当分は八天を永久欠番にし、文都を継がせて頂きたい」とあいさつした。

 「あと10年早かったら自分が襲名したかったという師匠の気持ちを1年かけて受け継いだ」と、師匠と行動を共にしてきた1年を回顧。八方さんは「公演では力いっぱい頑張ってもらいたい。大名跡だが、あまり名前の大きさを意識せず、今まで通り、老若男女に親しまれる落語家になってほしい」とエールを送った。

1211よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/11(月) 21:11:40 ID:DylJri4M0
しらうめの庭が優勝 天満天神梅酒大会表彰式
2013年3月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130310/20130310044.html

 日本一の梅酒を決める品評会「第7回天満天神梅酒大会2013」(同実行委員会主催)の表彰式が9日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれ、梅酒部門では白糸酒造(福岡県)の「しらうめの庭」が優勝した。

 同大会は梅酒文化を振興しようと実施。梅酒部門とリキュール部門の2部門を設け、各部門で優勝と知事賞、大阪市長賞を決める。

 2月に開かれた大会には全国から酒造会社が集まり、梅酒308銘柄、リキュール165銘柄を出品。審査は、来場者らの投票約5万1千票を踏まえ、上位の銘柄をソムリエら審査員が評価した。

 「しらうめの庭」は、大吟醸に南高梅を漬け込んで醸造。シニアソムリエの古川豊明審査委員長は「日本酒の香りが深く印象に残り、味わいはすっきり。新しい日本の梅酒を感じさせる」と講評し、同社の田中信彦社長(59)は「今後も精進していきたい」と喜んでいた。

 また、リキュール部門では小林酒造(栃木)の「鳳凰美田完熟もも」が優勝。日本酒を使っている点を踏まえ、小林正樹専務(43)は「リキュール愛好家に日本酒も味ってもらえるようになれば」と思いを語っていた。

 他の受賞銘柄は次の通り。

 【梅酒】知事賞=篠崎(福岡)「馬路村のゆず、はじめました。ゆず梅酒」▽市長賞=明利酒類(茨城)「梅香 百年梅酒プレミアム」

 【リキュール】知事賞=北島酒造(滋賀)「塩ゆず」▽市長賞=稲田本店(鳥取)「二十世紀梨のお酒」

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1219名無しさん:2013/03/12(火) 19:20:30 ID:K7PqwZMI0
産経新聞本日掲載「司馬作品で読む日本史」
 徳川政権は政治を江戸へ持って行ったが、経済だけは大坂に残した。大坂が流通の全国的中心であるということを奪えば徳川の天下は大混乱を起こし、経済の面で崩壊することを恐れたからであり、豊臣家の経済構造はそこまで成長していた。
言い換えれば徳川時代を通じ、政治は徳川方式であったが、経済は豊臣方式のままであり、これは幕府の瓦解まで続く。大阪人がいまだに千成瓢箪を尊崇するのはそういうことにある。
 (前略)銀本位の通貨を取ったのは(確率はしなかったが)豊臣政権であり、徳川時代に入っても大阪はそれを改めず、ついに徳川時代を通じて大阪圏は銀本位体制であった。江戸は金本位である。このため徳川期の通貨は金銀の二本立てと言う奇妙な形となった。
 
 ついでながら銀の尊貴さは金に接近していた。日本だけがそうであった。幕末、大坂が受けた大打撃はこのことにあっただろう。安政条約によって国際的な金銀の率が入ってきて、外国商人は金貨を欲し、銀貨を欲せず、さらには日本独自の銀の価値を当然ながら認めなかった。
銀をふんだんに保有してた大坂経済がにわかに衰亡するに至るのはまずこれが第一波であった。豊臣政権がのこした最後のものがほろびたのはこれがためであり、いわば開国は大坂にとって第2の夏の陣であったと言っていい。
=全集32『歴史を紀行する』(文芸春秋)

因循姑息でいると来るTPPに対処できないってか?

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1223名無しさん:2013/03/14(木) 18:21:51 ID:pSZno9go0
井山裕太本因坊、初の棋聖を獲得…史上初の六冠
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130314-OYT1T00947.htm?from=top

 囲碁の第37期棋聖戦七番勝負(読売新聞社主催)、張栩棋聖(33)と挑戦者、井山裕太本因坊(23)の第6局は13日、静岡県伊豆市の「玉樟園新井」で2日目が行われ、井山本因坊が先番中押し勝ちし、シリーズ4勝2敗で初の棋聖を獲得。

 天元、王座、碁聖、十段と合わせて、七大タイトルのうち六つを占め、史上初の六冠となった。最年少での七大タイトル制覇も達成した。
(2013年3月14日17時14分 読売新聞)

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