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教 学

1匿 名:2008/06/16(月) 23:15:24
>大日経は、どこの誰が書いたんですか?

真言宗の祖師としては不空が有名。
彼は量質 共に中国訳経史上一時期を画するものを訳出したとして高く評価され、四大翻訳家の一人に数えられている。
またもう一人注目しなければならないのは恵果である。
恵果は不空が七十歳で寂した時まだ二十九歳であり、含光・慧朗・覚超・慧超・元皎等に比べると最年少であり、
不空の晩年における最も優れた弟子であった。

しかしながら密教の源流は未だ詳細は分らず、かろうじて訳者が記されるのみ。
翻訳家の中には、五世紀初頭の優れた翻訳者であり偉大な呪術者である鳩摩羅什・曇無讖なども含まれており、
密教の中国への定着を確固たるものにした。
呪術者が仏典を訳するのは奇妙であり、それがほぼ意訳であることも、恣意を感じずにはおれない。
中国の密教の高僧らは、
密教は、仏教というよりもインド土着信仰に近いという事実は知らなかったようだ。

2匿 名:2008/06/16(月) 23:33:26
>呪術者が仏典を訳するのは奇妙であり、それがほぼ意訳であることも、恣意を感じずにはおれない。
それを抜きにしても、中国伝来以前に、インド内部ですでに仏教は密教へと変異していて、
それは仏教がインドで生残るためにはやむをえない「適応策」であり、
それをもってしても、密教がインドで滅亡してしまったのは皆さんも知るところ。

インド仏教発生→(社会適応のため変遷)→密教成立→(世界に伝播)
→中国伝来→(地理的、思想的条件により、意訳、改変)→日本伝来→(主に最澄が、大改変)

つまり、宗教における求心力は、より呪術的であるほど強いわけであり、
それは多くの客集めカルト宗教をみても判る。当時のインドでもそれは一般的だった。
それに対して釈迦は神秘的事柄(輪廻・霊言など)を排除したわけで、それははっきり革命的行為と言える。

仏典は、その多くが創作された物であり、釈尊直説のものは希少で、今現在でも探求は続いている。
六道(極楽―地獄)は仏教では一般論ととらえられているが、これも脆弱な説であり、
マトモな仏教者ならば「方便と限定してならばみとめている」ことだろう。

3匿 名:2009/01/10(土) 20:58:50
キリスト教の隣人愛とここの利他が似てるから、ここがキリスト教に接近するのですね。
ニーチェはキリスト教の隣人愛をルサンチマンだと言って否定してるね。
真如の教義も結局のところ19世紀にニーチェに論破されてるのと同じなんだが、苑側からは反論しないのか?
それともバカ相手に金を巻き上げてるから哲学的反論は無用なのか?

4匿 名:2009/01/10(土) 21:02:56
>キリスト教の隣人愛とここの利他が似てるから、ここがキリスト教に接近するのですね。

似てるのじゃなくて、真乗が作ったときにキリストの色々なところをパクッたからだろ。

一如の道で友一が生まれるあたり読んでみな マタイによる福音書のイエス生誕の雰囲気と何となく似ている。
それは抜苦代受に持ってゆく事を意識して、聖書を参考に書いたと思えるよ。
自分のとこのタヌキ夫婦の事実を捏造創作美化神話化しての、一如の道の記述だろ。
一如の道はもう真乗の脳内ごった煮ストーリーなんだけど、信者は事実と考えてるのな。

天理教とキリスト教と占い技法混ぜて上から真言宗振りかけた創価学会が真如苑なんだよ(w

5匿 名:2009/01/10(土) 21:04:22
キリスト教では人は原罪を背負って生きているわけだが、
仏教では原罪に相当するものが見当たらないので、
先祖の因縁を生まれながらに持っているということにしたわけですよ。 簡単なストーリーだなぁ(失笑)。

6匿 名:2009/01/14(水) 11:29:41
智流学院にいっている真如苑信者に「大般涅槃経は釈迦が自分で書いた最後の経典だ」
と言われ、勧誘されたが、真如苑ではこう教えているのだろうか。 学校の倫理授業では、仏典は釈迦の死後、弟子が書いたと習ったが。
この真如苑信者は低偏差値短大の出身で、仕事もできないので、本人の勉強不足かもしれんが、
真如苑自体が歴史的事実をねじ曲げるいい加減な団体なのかと思えてくる。

7匿 名:2009/01/14(水) 11:31:17
キリスト教においてもどの福音書を採用するかという問題があるな。 ダビンチコードではキリストの血脈が中心にされたが、
苑ではさすがに仏陀の血脈は持ち出せないので、法脈を採用したわけだ。実際は呆脈だろうけどw
グノーシス主義の香り
まで混ぜ込んだオカルト宗教だと思ういますね。 そのうち、釈迦が自分で書いた経典が苑の敷地内で見つかったりしてw

8匿 名:2009/02/05(木) 23:58:29
智流(学)院[ちりゅう(がく)いん]【真如苑内の私塾】週11回半日ぐらい伊藤家の成り立ちを主体に学び、
3年ほど学ぶと「権律師」という位の僧侶になれます。しかしそれは真如苑という新興宗教により与えられた僧侶資格で、
苑内のだけで通じる階級付けです。特典は「教」バッチを首からさげてるケサにつけられ、平信徒に尊敬され、偉ぶることもできます。
でもそれは、外の世界では決して言えません。言ったら・・「この人ちょっとオカシクない??」っていうことになり
その後の勧誘時には不利なので、他人には秘密の僧侶です。勧誘(時)後、「実は私は・・・」とこっそり話すときはあります。

実際、本物の僧侶でも、建築士とか税理士のような公的な資格とは全く違うもので
たとえば本物の伝統仏教の浄土宗や浄土真宗とかでも教団(私的組織)の示す条件に合致すれば僧侶となれます。
ただ、本物の伝統仏教の場合、階位により住職(一般人のイメージとしての本物のお坊さん)にもなれますが
真如苑の住職って言うのはないですね。まあ、こちらの場合は教団が作る宗教ごっこのアイテムと思うとわかりやすいです。
しかし、それを取るためには一定人数の勧誘ノルマが条件づけられており、一般人には、はた迷惑なだけの真如苑の僧侶です。

9匿 名:2009/02/09(月) 23:55:48
教団内で、「真如苑の教学」という本が頒布されたことがあるのですが、頒布当初、ものすごい列が出来たのを覚えています。
列に並んだ教徒さんは、一般教徒も含まれますが、お袈裟に教師のバッジを付けた人も多かったです。
智流学院といっても、原則3年で、週1の半日だけで、どれだけの「教学」が学べるのだろうか?と
思うところもありましたが、バッジを付けていても、「教学」に疎い教師の方々も大勢、おられるのでは?と思う瞬間でした・・・とにかく、教師になるには、「教学」に疎くてもいいから、「お救け人数」がものをいうように 私は感じていました(だから、被害が出るのだけど)。

>さわりだけを教えてあとは、とにかく内側での実践と盲信を勧めることで 進ませます。 たまに外側に出る場合は 勧誘作業に就かせます。
上記の点から、そうかも知れないなと思います。

10匿 名:2009/02/12(木) 00:26:15
漢検が文部科学省お墨付きで受験者を増やし、公益法人が巨額の富を得ていたようですね。
あれっ。「文部科学省お墨付き」?
どこかの宗教法人もそこの開いている学校を出ると「文部科学省お墨付き」の僧侶の資格が取れると嘘をついていませんでしたっけ?

11匿 名:2009/02/14(土) 03:24:33
お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。
釈迦も我々と同じ人間。そのことは歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひ伏し、
その言葉や行いの、なにからなにまで、全てを一切疑うことなく受け入れる、そう言う生き方は正しいとは思えないのだ。

この私の考えに、反発する人も多い。「宗教というのは、教祖様の言葉を理屈抜きに丸ごと信じるものだ。
それができないというのは、信仰がない証拠だ」、といった批判である。
もし仏教が、「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。
釈迦だって、時には間違うことがあったと考えている私は、けしからん不信心ものである。

しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」と言うが、
それは「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。
仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい

信仰とは、「絶対に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分の全てを投げ出し身を任せることである。
だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰がなにより大切な原動力となる。
一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこには信仰の対象というものがない。
すべてを任せればすくってくれる、そういう者はどこにもいないのである。

釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、
「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。
そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。
釈迦という人物を信仰して「助けて下さい」と祈るのではない。釈迦が説いたその道を「信頼して」、
自分で歩んでゆくのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。
道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。

花園大学教授 佐々木閑 日々是修行 より

12匿 名:2009/02/14(土) 23:59:02
朝夕のおつとめ、のなかに(確か後ろの方)あるお経のことです。
毎日読経する時に、途中の部分に病気の人の名前を入れて読めば、その人の病気が治る、と言われました。
特別接心のときその事を確認したら、
「一般信者はそこを声を出して読んではいけない。黙読をするように」とのこと。
教えてくれた人は、黙読ではなく、読経しているけれど、と尋ねたら「教師の人は声に出して構わない」そうです。

人の事を祈ってあげようとしていたのに一般と教師の違いなるものを思い知らされた。
念じる方法の違いなんかあるものですか。


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