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教 学
11
:
匿 名
:2009/02/14(土) 03:24:33
お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。
釈迦も我々と同じ人間。そのことは歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひ伏し、
その言葉や行いの、なにからなにまで、全てを一切疑うことなく受け入れる、そう言う生き方は正しいとは思えないのだ。
この私の考えに、反発する人も多い。「宗教というのは、教祖様の言葉を理屈抜きに丸ごと信じるものだ。
それができないというのは、信仰がない証拠だ」、といった批判である。
もし仏教が、「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。
釈迦だって、時には間違うことがあったと考えている私は、けしからん不信心ものである。
しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」と言うが、
それは「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。
仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい
信仰とは、「絶対に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分の全てを投げ出し身を任せることである。
だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰がなにより大切な原動力となる。
一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこには信仰の対象というものがない。
すべてを任せればすくってくれる、そういう者はどこにもいないのである。
釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、
「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。
そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。
釈迦という人物を信仰して「助けて下さい」と祈るのではない。釈迦が説いたその道を「信頼して」、
自分で歩んでゆくのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。
道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。
花園大学教授 佐々木閑 日々是修行 より
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