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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

154避難民のマジレスさん:2021/01/31(日) 20:48:36 ID:Dp/qMVVc0
このような意識した生活と行動を通して、瞑想は生の各活動に浸透していく。その内なる流れは、夜も昼も私たちに寄り添う。それは私たちを落ち着かせてくれる。瞑想は私たちの行動を浄化し、私たちを徳のある人間にしてくれる。目を覚まし、物理的にせよ精神的せよ、全ての行動を意識している人は、他の人に間違ったことができないことを覚えておきなさい。悪行は、妄想の状態で、無意識のうちにのみ犯すことができる。それらは、覚醒して意識した状態では、とても簡単に避けることができる。

私は瞑想の集大成である 「偉大な死」を、サマーディと呼ぶ、そして実際のところ、それはまさにそれだ。普通の死を経て、あなたは死ぬだろう - しかし、あなたは生まれ変わるだろう。なぜならば、その死であなたの自己がなくなることはないからだ。自己は新たに生まれ変わり、また別の死を通過するのだ。普通の死は本当の死ではない。なぜならば、普通の死の後には生まれ変わり、また死が続くからだ。そして、このサイクルはサマーディまで続き、大いなる死が来て、誕生と死のサイクルから解放されるまで続く。

サマーディとは大いなる死のことであり、サマーディの中では「私」が消滅し、それに伴って誕生と死のサイクルも消滅する。そうして残るのが生だ。サマーディの大いなる死を経て、人は誕生も死もない不滅の生に到達する。不死には始まりも終わりもない。私たちがモクシャ、解放、涅槃、ブラフマンと呼ぶこの大いなる死こそが、それなのだ。

私はまた、ディヤーナ、瞑想を活動としてではなく、休息としてみなすようにと頼む。「無活動 」とは、まさにこのことを意味する。それは完全な休息であり、すべての行為を完全に停止することだ。そして、すべての行為が無に還元され、心の脈動が静止したとき、その安らかな状態では、世界のすべての宗教が一緒になっても教えられない何かが現れ始める。行為がないときにのみ、無行為であること、つまりすべての行為の中心であり生命であることを見ることができる。そのときにのみ、行為者を見ることができる。

サラハパーダは、「心よ、行って休め - どこか太陽と月が届かない所、空気さえも敢えて入らぬ所で 」と述べている。そのような場所はあなたの中にあり、他の誰も入ることはできない。それがアートマン、あなたの魂だ。

延髄の上あたりに感じられる、観る意識と同調しても、自我がその観る意識に投射されており、全てであることを感じることはできていません。同調が不十分なのでしょうか?

155鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/31(日) 23:48:52 ID:1d4drIFg0
オショーは偉大な死をサマーディと呼ぶのじゃ。
それは肉体の活動をも超越しているからなのじゃ。
意識はその時、肉体の外にも感じられるじゃろう。
肉体のどこかで止まっているならば、それはまだ恐れや常識、観念の範囲から抜け出して居ないのじゃ。
意識が肉体の外にも感じられることはヨーガでは脱身といい、仏教でも意生身とか識無辺定というのじゃ。
全てである意識の片鱗を味わっているだけなのじゃ。

肉体の活動を全て休息させてそこに至るのじゃ。
思考する脳が止まっていることさえ感じられるのじゃ。
意識は思考ではないからなのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2021/02/01(月) 20:34:45 ID:Dp/qMVVc0
一方、あなたの身体は、他者が接触できるところまで伸びている。世界があなたの中に入ることができる限界は、あなたの身体の境界だ。世界はそこに入ることができる、なぜならばそれは輪廻の世界の一部だからだ。感覚は世界が入る扉だ。心は、このようにあなたの中に入ってきた印象の寄せ集めなのだ。

肉体を超え、心や感覚を超えたものが魂であり、アートマンだ。その魂を得ない限り、生は無意味だ。なぜならば、それを知り、それを達成しなければ、すべての知識や成果は無価値だからだ。

私は、輪廻と涅槃、世界と解放を二つの異なるものとはみなしていない。それらの間に存在する区別は、その性質とは何の関係もない。それは客観的な区別ではない。区別はそれらの間にあるのではなく、それらを見るあなたの見方にあるのだ。輪廻と涅槃は二つの異なる存在ではない。輪廻と涅槃は、一つの現実を見るあなたの二つの見方だ。現実はただ一つだが、その見方は二つだ。知の観点から見ると、それは一つのものに見え、無知の観点から見ると別のものに見える。無知では輪廻として見えるものが、知では涅槃になる。この世では無知であるものが、神の中では知となる。したがって、問題は、外部の世界ではなく、内部の世界をどのように変えるかということだ。あなたが変われば、他のすべてが変わる。あなたは輪廻であり、涅槃でもあるのだ。

真理はどんな代償を払っても手に入れることはできない。それは何かと引き換えに他人から得ることはできない。それは自己啓発の賜物だ。

大きな心配事や痛みなどがある時には、それがない時よりも体験上、厭離が難しいのですが、これはその大きさにより観察が疎かになるからなのでしょうか?

157鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/01(月) 23:34:44 ID:1d4drIFg0
苦が大きかったりすると逃避したり、それが起こす感情に巻き込まれたりするからなのじゃ。
止による集中力が十分でないと、そのようなこともおこるのじゃ。
心が止まらず動いてしまうのじゃ。
その感情と同一化したり、逆に逃避する動きに同一化してしまうのじゃ。
強く集中して肉体をも客観的に観られるようになれば、それも回避できるのじゃ。

158鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/01(月) 23:41:04 ID:1d4drIFg0
オショーは輪廻と涅槃は一つであると言うのじゃ。
それは人の見方による区別でしかないからなのじゃ。
全ての世界は一つであるからなのじゃ。
それは自らの進歩に拠ってのみ気付く事が出来るのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2021/02/02(火) 21:04:58 ID:Dp/qMVVc0
ビンビサーラ皇帝はかつてマハヴィーラのもとに行き、「私は真理を得たい。私は自分が持っているものは何でも喜んで与えるが、人のすべての悲しみを取り除く真理を持たなければならない。」と言った。マハヴィーラは、支配者が世界を征服したのと同じ方法で真実を征服したいと思っていること、さらには真実を買いたいと思っていることを見た。それで、マハヴィーラはエゴが話されたことを理解して、ビンビサーラに言った、 「閣下、最初にあなたの帝国の市民である、プンヤ・シュラヴァクのところに行き、彼から瞑想の果実を手に入れてください。それは解放と真理へのあなたの旅をより簡単にするでしょう。」

ビンビサーラはプンヤ・シュラヴァクのところに行って言った、「私はお願いしに来た。あなたの瞑想の果実を買いたいのだ。幾らでも支払おう。」

皇帝の要求を聞いて、プンヤ・シュラヴァクは答えた。「閣下、瞑想は静けさを意味します。それは心を誘惑や憎しみから解放し、自分自身の中で安定した状態を保つことを意味します。これが、どのようにして、ある人から別の人に与えられるのでしょうか? あなたはそれを買いたいと思っていますが、それは不可能です。自分で手に入れなければなりません。」

他に方法はない。真理は買うことができない。贈り物としても、物乞いによっても得ることはできない。そして、攻撃によって征服することはできない。真理を攻撃することは、それを達成する方法ではない。暴力は自我の表現であり、自我があるところに真理は存在できない。真理を達成するためには、自分自身をゼロにしなければならない。真理は空虚、空の扉を通って来る。それは自我の攻撃ではなく、感受性と空の受容を通してやって来るのだ。真理を攻撃してはならない - それが入ってくるために自分自身を開いて準備しなさい。

少し油断すると、すぐに自我によって振りまわされてしまいます。忍耐強く観察に励みます。

160鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/02(火) 22:35:09 ID:1d4drIFg0
悟りはどれほど金を積んでも得られないのじゃ。
権力に拠っても得られず、他人から強奪することも出来ないのじゃ。
それは自ら実践することでのみやってくるものじゃ。
ただひたすらに実践し、己の心を開いて待つのみなのじゃ。

161避難民のマジレスさん:2021/02/03(水) 20:55:28 ID:Dp/qMVVc0
慧能は、真理に到達する方法があると言った:無修行による修行。修行に力を使うのを避けるため、無修行を条件としている。これは無行為であり、無修行だ。それは達成ではなく、空になることだが、それが真理を達成する道だ。あなたが自分を空にする分だけ、あなたは達成する。

雨水はどこへ行くのだろうか? それは丘の上にとどまるのではなく、空っぽの溝に流れていく。真理の性質は水の性質に似ている。もしあなたが真理を達成したいなら、自分自身を完全に空にしなさい。空になるとすぐに、真理はその空の場所をそれ自体で満たすだろう。

真理はあなたの中にある。それは私の中にある。探すために他のどこかに行く必要はない。水のために井戸を掘るように、それを自分の中から掘り出さなければならない。魂の井戸を掘らなければならない。そして瞑想は、その井戸を掘るための鋤なのだ。瞑想の鋤を使って、私たちの本質を覆っている外界の土を掘り出さなければならない - そうすれば、私たちが求めているものは近くにある。それは求道者自身の中に隠されているのだ。

第7章はここまでです。もし何かございましたら、ご指摘ください。
掘っても掘っても自分が出てきますが、励み続けます。

162鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/03(水) 21:19:48 ID:1d4drIFg0
慧能の法は法ではなく、むしろ法をも放棄した法といえるじゃろう。
何もしないことで悟りを迎え入れるのじゃ。
それは無為の法なのじゃ。
自ら無になって無我になるのじゃ。


特にないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。

163避難民のマジレスさん:2021/02/04(木) 21:08:04 ID:Dp/qMVVc0
第8章 4日目の朝 1964年6月7日 午前

あなた方に会うことができて本当に嬉しい!あなたの真理を知りたいというあこがれの深さ、渇きの深さを感じる。私はあなたの目にそれを見て、あなたが呼吸するたびにそれを感じる。そして、あなたの胸が真理の達成を求めて高鳴っているように、私の胸もまた高鳴っている。私はあなたの知への渇きに深く感動している。こんなに嬉しいことはない! それはとても美しい!この世には真理を知りたいという願いほど甘美で美しいものはない。

この喜びの瞬間に...何と言おうか? 私の言葉を待つあなたの探求のこの瞬間に、何を言おうか?このような瞬間にこそ、私たちは、言葉がいかに取るに足らないものであり、無意味で無力なものであるかに気づくのだ。特に言う価値のあることが何もないときには、言葉はそれを伝えることができるが、何か深いことを言うべきときには、言葉は惨めなほど不十分だ。真理の実現、至福の経験、そして美の洞察は、地上の形に帰することができないほどに繊細で霊妙なので、これは当然のことだ。そして、それらに形を与えようとするとすぐに、それらの経験は死んで無意味となり、生きている経験は生きたまま私たちの手の中に入ってくるのではなく、その死体となって現れる。霊は取り残され、言葉が言及するものは何であれ、もはや真理ではない。

では、私は何を言えばいいのだろうか。何も言わない方が良かったのだろうか、何も聞かない方が良かったのだろうか。私たちが静かに穏やかに、言葉もなく黙ったままでいられたら、どんなにすばらしかっただろうか。あなたは目を覚まして、その沈黙の中にある何か、本当にある何かを見ることができたかもしれない。その場合、私は話さずに済んだし、あなたは聞かずに済んだが、それでも真理は伝わっただろう。なぜならば、永遠の真理はすべての人の中にあるのだから。あなたが探し求めている音楽は、すべての瞬間にあなたの存在の奥底で響いている、そして真理を求めている瞬間は、たとえそれが沈黙であっても、祈りへと変わっていく。神を渇望することも、静かに待つことも、どちらも祈りなのだ。

私の経験では、渇望と同時には自然な観察ができません。渇望により、修行の動機を得て、修行の実践により、観察に熟達していくというような過程で良いのでしょうか?

164鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/04(木) 23:14:28 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
渇望は最後に捨てれば善いのじゃ。
そうすれば全ての重荷を下ろした安らぎがあるじゃろう。
もはやなすべきことも無い安らぎなのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

165鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/04(木) 23:26:03 ID:1d4drIFg0
オショーは言葉として教えを説くことに限界があるというのじゃ。
沈黙こそが最大最高の教えなのじゃ。
師と共に沈黙を味わうことができる者には速やかに悟りに導けるのじゃ。
それがまだ出来ない者のために言葉としての法も説かなければならないのじゃ。

166避難民のマジレスさん:2021/02/05(金) 20:52:28 ID:Dp/qMVVc0
人が求めているものは、自分自身の中にある。あなた方がここに集まってきて、私に問いかけ知るためのものは、常にあなた方の中にある。あなたはそれを失ったことはない。また、決してそれを失うことはできない。それはあなたの存在であり、あなたの本質だ。それは、決して失われることのない唯一の宝だ、なぜならばあなた自身がその宝だからだ。しかし私たちは皆、それを探している。失われることのない、まさにそのものを探しているのだ。なんという矛盾なのだろうか!

私は素晴らしい説法を覚えているが、それがいつ、誰によってなされたのかは覚えていない。

ある晩、お寺でとても大きな集会が行われることになっていたので、多くの僧侶が集まっていた。長い待ち時間の後、話者が到着した。彼が話をするために立ち上がると、聴衆の誰かが質問をした、「真理とは何ですか?」と。 警戒と期待の沈黙が部屋を満たした。話者が答えを知っていることが知られていたので、言葉の一つ一つが重要であると考えられていた。しかし、あなたは彼が何を言ったかわかるだろうか? 彼は非常に大きな声で言った、「おお、僧侶たちよ!」 静寂がこの二つの言葉で響きわたり、すべての目が彼を見ていた。全員が沈黙し、注意していた。 しかし、話者はそれ以上話すことはなかった。彼は説法を終えたのだ。

あなたは彼が言ったことを理解しただろうか? 彼は何かを言ったのか? 私からしてみれば、彼はすべてを言っていた。話す価値のあるものは何でも、彼の二つの言葉で足りていた。私も同じことを言いたい。私も同じことを語る。それは言葉では伝えられない何かを語るに値する、唯一のものなのだ。

では、彼は何を言ったのだろうか。彼は、「外のどこにも真理を求めてはいけない。誰にも聞いてはいけない。それが全く存在するならば、それはあなたの中に存在する。」と言った。だから、彼は真理について尋ねられたとき、それについて全く何も言わなかった。彼は単に会衆に呼びかけた。あなたが眠りから誰かを目覚めさせるように、彼は会衆に呼びかけた。これが真理についての質問への唯一の答えなのだ。

寝ていても、死んでいても、この中に変わらずにあるもの。それに気づけるように、心を静めて観察を続けます。

167鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/05(金) 23:51:14 ID:1d4drIFg0
悟った者が言葉として言えるのは、ただ悟りが人の中にあるということだけなのじゃ。
真理は言葉では表せないのじゃ。
表そうとすれば沈黙になるのじゃ。
言葉ではなく体現するしかないのじゃ。
真理そのものの姿を自らあらわして見せるのみなのじゃ。

168避難民のマジレスさん:2021/02/06(土) 20:54:14 ID:Dp/qMVVc0
目覚めることは、真理を達成することだ。他の方法はない。あなたは眠っているので、側に立っているものを見ることができない、あなたが本当は何であるかを見ることができない。そして、夢の中であなたは、広く遠くさまよう。あなたの中、探求者の中にすでにある何かを求めて。あなたは麝香を求めてさまよう麝香鹿のようなものだ。

しかし、あなたがどんなに頑張って自分の中にあるものを見つけようとしても、それを見つけることはできない。それは探して得ることはできない。外のものは探して得ることができるが、人はこのような探求で自分自身を達成することはできない。真理は探し求めることによってではなく、目を覚ますことによって発見されるのだ。そして、それが話者が会衆に呼びかけて、それ以上話さなかった理由だ。そして、この同じ理由で、マハヴィーラ、ブッダ、クリシュナ、キリストは皆、あなたに呼びかけている。それは話しているのではなく、呼びかけているのだ。これは説教ではなく、話しかけ、呼びかけだ。

私も話すつもりはなく、呼びかけるつもりだ。聞こえるだろうか? 睡眠を邪魔して夢を壊すのを許してくれるだろうか? あなたの夢は甘く満足のいくものかもしれない。しかし、甘くて満足している夢は有害なのだ、なぜならば、その夢はあなたを目覚めさせず、睡眠中毒をさらに酷くするからだ。

私が目覚めた結果として経験している喜びを、あなたにも目撃してもらいたいのだ。それで、私はあなたに呼びかけることにした。話すつもりはない、ただ呼びかけるだけだ。もし私の呼びかけがあなたの眠りを妨げ、夢の霧を消してしまったら、許して欲しい。私は無力だ。あなたの夢を打ち砕かなければ、真理について何も語ることはできない。私たちは眠りに包まれている。この眠りが続く限り、私たちの行動は何の役にも立たない。あなたが眠っている限り、あなたが知っていることは何でも、夢に過ぎない。

夢から覚めるよう、気をつけて観察します。

169鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/07(日) 00:06:43 ID:1d4drIFg0
オショーは自分を探求する者を麝香を求めるジャコウジカのようだというのじゃ。
なかなか上手いことを言うのじゃ。
正に悟りを求める者は、悟りを求めている自分そのものを見つけなければならないのじゃ。
探し当てるべき者は自分なのじゃ。
それを教えるためには言葉による話ではなく、呼びかけが必要だというのじゃ。
探す物は探している者の中にあると悟りを得たものは呼びかけるのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2021/02/07(日) 20:59:51 ID:Dp/qMVVc0
まずはこの眠りから覚めることだ。他のことは後からやってくる。その前には何もしてはならない。この眠りの中での思考や行動を全く重要視しないように。ただ夢の中の出来事としてそれらを見なさい。あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。あなたの知識、行動、すべてが偽りに縛られている。そして、あなたの信条も、信仰も、信念も、すべて盲目になるだろう。あなたがどのような道をたどっても、それは真理につながることはない。しかし、現時点では道を歩くことに疑問はない。あなたは眠りながら道を歩いているのだろうか? それは歩いているという夢でしかないのだ。

自己の無知とは、私があなたに話している眠りのことだ。そこから目覚める必要がある。この眠りから覚めるためには、今のままのあなたと、この目覚めの間に立ちはだかる要因を理解することも必要だ。宗教を知る前に、まず宗教が何ではないのかを知り、自分が宗教として何にしがみついているのかを理解しなければならない。この宗教はあなたを覚醒させるどころか、睡眠薬のようなものである可能性が高いのだ。

カール・マルクスは、宗教をアヘンを含む麻薬であり、あなたを眠らせるためのものだと言った。宗教は断じてアヘンではないが、一般的に宗教と勘違いされているものはアヘンだ。マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは間違っていたし、あなたもまた、間違っている。あなたがしたことは、アヘンを宗教と勘違いしたことだ。それゆえに、どちらが宗教で、どちらがアヘンなのかを知ることが不可欠だ。

まず、宗教とは何でないかを考えてから、宗教とは何かを体験してみよう。無宗教について考えるだけで、宗教が何でないかを知ることができるが、宗教について考えるだけでは十分ではない。宗教を達成するためには、サーダナ、修行を経験しなければならない。

最近新しい気づきが減っていることに気づきました。初心にかえって観察します。

171鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/07(日) 23:53:19 ID:1d4drIFg0
オショーは「あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。」というのじゃ。
自分の心を知らなければ、善事でさえ悪事であることさえあるのじゃ。
それは善事でも実は悪しき動機からしているのかもしれんからなのじゃ。
例えば人に金を与えるのは実は人を何でも言いなりになる奴隷にしようとしているのかもしれんからのう。
自分を知り、目覚めなければ何も出来ずどこにも行けないのじゃ。

172避難民のマジレスさん:2021/02/08(月) 21:18:11 ID:Dp/qMVVc0
まず最初に、一つのことを言っておきたい。もしあなたが本当に宗教や宗教的な生活の中である程度のレベルに到達したいと思うならば、どんな信念や考えも当然のこととして受け止めないことから始めなければならない。真理を知りたいのであれば、それに関するどんな先入観にとらわれてもいけない。あなたは、完全な冷静さと空虚さの中で、どんな教義にもとらわれずに、真理に近づかなければならない。先入観や偏見は、あなたの視覚をぼんやりと歪める。その時、あなたが知るのは真理ではなく、あなた自身の思考の投影だ。そうすれば、真理はあなたの中に降りてこない。それどころか、あなたは自分自身を真理に押し付ける。

真理についての理論や特定の見解を持たないこと。自分自身で判断しなさい。そうして初めて、何が真理であるかがわかる。そうでなければ、心の網から抜け出すことはできない。あなたが知るのは知ではなく、想像になる。

人間の想像というものは際限のない力を持っており、この想像があなたと真理との間の壁となっている。もし、神と真理と魂について事前に心が決まっていれば、心はその決めたことに固執し、あなたが本当に何かを知っていたと信じるように導くだろう。しかし、実際のところ、あなたは何も知らず、想像の領域をさまよっているのだ。これは真理の洞察ではなく、夢なのだ。

あなたは、心が夢を見るための果てしない能力を持っていることをよく知っている。私たちの欲望は、全く存在しないものを私たちに見せる。それは蜃気楼を作り出し、そうすると、本当にあるものは隠され、そうでないものが明らかになる。

しかし、あなたは夢を見ることは眠りの中にしか起こらないと言うだろう。確かに夢は眠りの中で起こるが、眠りは誘発されることもあるし、ある意味では起きている間に眠っていることもある。あなたは白昼夢を見ないだろうか?

気をつけて観察していると、自分のイメージに関する否定的なことと、それを嫌悪する感情に気づきました。いつの間にか、観ないようになっていました。毎日できるだけ全てを観察するようにしていたのですが、知らないうちに避けていたようです。恐ろしいことです。

173鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/08(月) 22:01:14 ID:1d4drIFg0
悟りへの道に最初に必要なのはどんな先入観にも囚われてはいかんということだというのじゃ。
先入観があればそれに応じた幻想を自ら作り出ししまうからなのじゃ。
例えば白ひげの神がいると思っていれば、それを瞑想中に見たりするじゃろう。
自分が作り出した幻想とはわからずに囚われてしまうじゃろう。
難しいことではあるが何の先入観もなしで観察を始めるのじゃ。

174避難民のマジレスさん:2021/02/09(火) 20:43:32 ID:Dp/qMVVc0
それで、もし人が神についての特定の観念を持ち続けていて、目が覚めていても眠っていても、そのイメージで自分自身を満たしているならば、ほとんど間違いなくそのイメージを投影して、それの直覚を得ることになる。それは強化された白昼夢だ。実際には目の前には何もないが、目の後ろで養われ、育まれてきたものが目の前に現れる。これは投影であり、このようにして夢は見られる。

そして、先入観に基づく真理の洞察も同様に可能となる。キリストの帰依者はキリストのビジョンを見、クリシュナの信奉者はクリシュナを見、他の誰かの弟子は他の誰かを見る。これは決して神や真理の洞察や実現ではない。二つの真理、二つの神が存在することはあり得ないので、これは自分の想像の投影だ。真理は一つであり、実現は一つであり、真理を知ろうとする者は、自分の無数の観念や想像を手放さなければならない。私は、ある特定の観念のために他の観念を手放せと言っているのではなく、すべての観念を手放せと言っているのだ。これらの観念こそが多くの信条や教義を生み出し、そのために無数の信条が存在しているが、宗教は存在しない。

真理を知るためには、それに関するすべての理論を捨てなければならない。すべての偏見や部分性を超えた、完全無垢で独立した状態にある者だけが真理を知ることができる。観念も概念も期待もないところにこそ、真理が実現できるのだ。本当のところ、真理を実現するための努力とは、真理を実現するための努力ではなく、夢を見ている状態から脱却するための努力なのだ。

真理の実現とは何だろうか。それは、簡単に言えば、幻覚からの自由だ。この自由こそが真理の実現なのだ。私たちは夢の中で失われているので、常に存在しているものは、その継続的な存在にもかかわらず、不在であるように見える。

幻覚からの自由に、強いあこがれを感じています。しかし、それは期待もないところにあるので、一つ一つ自分の観念を厭離していきます。

175鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/09(火) 23:38:52 ID:1d4drIFg0
幻覚からの自由、その自由こそが真理の実現とオショーは言うのじゃ。
それは人に教えられ、自らも信じている観念の夢から覚めることなのじゃ。
修業に入るのに観念を信じる者にはその観念が見えてしまうじゃろう。
全ての偏見や先入観を捨ててこそ真理を知り、実現できるのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2021/02/10(水) 20:58:47 ID:Dp/qMVVc0
真理が存在するのは、真理が常に存在しているからだ。それはどこからももたらされる必要はない。それは常に存在している。しかし、私たちは存在していない。私たちは夢の荒野で迷子になっているのだ。いや、真理を自分自身に持ってこなければならないのではなく、真理に自分自身を持ってこなければならない。それは、神についての夢や幻を見ることによってではなく、すべての夢や幻を取り除き、目覚めることで可能だ。

それゆえに、私は真理には想像は必要なく、実現が必要だと言う。すべての想像から解放された心の実現とは、真理の状態にある心の実現だ。私たちは、心が分かれているとき、二元性の状態にあるときに世界を見る。心が分かれていない存在、単一性であるとき、私たちは真理を見る。

すべての観念や信念は思い込みであり、真理への入り口ではない。それらは障害物であり、どこにも導びかない。それどころか、あなたの道を塞いでしまう。真理の道は、それらを通るのではなく、それらを超えた先にあるのだ。

どうか、いかなる考えや概念を採用したり、真理についての信条や信念を身につけたりしないでもらいたい。なぜならば、あなたが身につけた信念は経験となるからだ。そして、その経験は現実ではなく、精神、想像上のものだ。その経験は霊的なものではない。無知のうちに形成された真理に関する信念はすべて偽りだ。真理とは何か、それがどのようなものであるかについて考えてはならない。そのような考えはすべて盲目だ。それは盲人が光を想像しようとしているようなものだ。かわいそうに! 光が何であるかをどのように想像することができるのか!視力がなければ、その人は光について何も想像することができない。何を考えても根本的に間違っているだろう。光はおろか、暗闇を正確に想像することさえできない。暗闇を見るにも目が必要だ。

何度も何度も観察を忘れますが、気づいたときには忍耐強く観察に戻ります。

177鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/10(水) 21:57:55 ID:1d4drIFg0
全ての観念や信念は思い込みであるとオショーは言うのじゃ。
それは真理の入り口ではなく障害物だともいうのじゃ。
ただ悟りへと導く観念のみが法として実践されるべきなのじゃ。
そうでなければ全ての観念は捨てるべきなのじゃ。
法さえも最後には捨てるべきなのじゃ。

178避難民のマジレスさん:2021/02/11(木) 20:56:52 ID:Dp/qMVVc0
視力のない人はその時何ができるのだろうか? 私はその人に言いたい、「光のことは考えないで、目を治療しなさい」と。 考えることではなく、治療をすることが助けになるのだ。しかし、私は何を見るだろうか? その人が説教されているのを見て、光の哲学を説明されているのを見る。しかし、誰も目の治療には関心がない。

そして、より驚くべきことは、光を主題として説教している人たちは、自分自身が光を見たことがないということだ!その人たちも光については知っているが、光を知らないのだ。私がこう言うのは、もしその人たちが光を知っていたならば、説教の無益さに気づき、失明の治療に関心と同情を集中させただろうからだ。視力が治れば、光は自動的に経験される。視覚に必要なものは常に存在している。視覚があるならば、光がある。

「視覚」と「光」は、全く異なる方向に導く言葉だ。光を考えることは哲学につながる。それは、考えることだけに向かう方向性だ。それは経験にはつながらず、単なる思考にすぎない。たくさんの歩みがあるが、目的地にたどり着くことはない。結論はたくさんあるが、私たちの問題を解決できるものはない。これは当然のことだ。水についての最も完璧な考えでも、喉の渇きを少しも癒すことはできない。喉の渇きを癒す方法は全く異なる。

道、修行はものの考え方ではなく、視覚の治療だ。私は光について考えることが哲学であると言ったが、今、視覚によって洞察することが宗教であると言いたい。考えることで知的な結論に達することができるが、一方で修行は霊的な洞察、霊的な経験を与えてくれる。前者は水について考えるようなもので、後者は喉の渇きを癒すようなものだ。前者は問題であり、後者は解決策だ。

自我が自由を妨げているので厭離したいという思いと、自我を失くしたくないという思いの、両方で引っ張られている感覚です。そのような思いと感覚も気をつけて観察します。

179鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/11(木) 22:00:46 ID:1d4drIFg0
盲人に光の説明をしても無意味だとオショーはいうのじゃ。
光に導く治療が必要なのじゃ。
考えることは光に導かないのじゃ。
視覚を取り戻させることが光に導く事なのじゃ。

180避難民のマジレスさん:2021/02/12(金) 20:51:25 ID:Dp/qMVVc0
私は皆にこの質問をする。「あなたは光を知りたいのか、それとも光について知りたいのか?」と、そしてあなたは-あなたは真理を知りたいのか、それとも真理について知りたいのか? 水について知りたいのか、それとも渇きを癒やしたいのか? これらの質問に対する答えによって、あなたが知に渇いているのか、それともただ情報を集めたいだけなのかが決まる。

そして、これらは正反対の方向であることを忘れてはならない。一つは自我の根本的な消滅につながり、もう一つは自我の絶頂につながる。一方では無邪気になり、他方では複雑になる。知は自我を破壊する一方で、情報は自我を強め、さらに膨らませる。すべての収集、すべての獲得は自我を満たし、このような理由から、自我は常により多くのものを求める。

思考もまた、かなり微妙なものではあるが、獲得だ。思考もまた自我を養う。あなたが学者の間で見かける偽善は、自然発生的でも偶然でもなく、思考の自然な結果なのだ。

思考は後天的なものだ。それらは外界から押し寄せてくるものであり、内に生まれたものではない。それらは魂のものではないが、魂の壁であり、ある意味では罪なのだ。外界からは光に関する情報を盲人に与えることができるが、光の感覚は、内から盲人の中に生み出されなければならない。獲得とエネルギーの違いは、情報と知の違いだ。獲得は外に由来し、エネルギーは内に由来する。

しかし、獲得はエネルギーの錯覚を与える。この錯覚はかなり強く、自我を養う。エゴイズムはエネルギーではなく、エネルギーの錯覚だ。真実のほんの小さな閃きがそれを破壊し、蒸発させることができるので、エゴイズムは実際には非エネルギーだ。このような理由から、自分の真のエネルギーは全くエゴイズムが無いのだ。

私も思考によって自我が養われるのを感じる事があります。気をつけて観察していると、時に、思考によって何かを得たその瞬間に、自分のイメージが自分の身体を超えて拡がるのが分かります。油断せずに精進します。

181鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/12(金) 23:39:25 ID:1d4drIFg0
思考も自我を養うとオショーは言うのじゃ。
思考している自分が常に起こるからなのじゃ。
自我が起これば自我を守る働きも生じるのじゃ。
そのために攻撃や偽善が起こるのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2021/02/13(土) 21:06:03 ID:Dp/qMVVc0
学習と智慧の区別を理解してもらえただろうか。それを理解することは必要不可欠だ。誤った知は、無知よりも自己実現の道でさらに大きな障害となる。誤った知とは、あなたが本当には知らないときに 「私は知っている 」という印象だ。このような誤った印象は、学習や学校教育による他者の考えから簡単に成長し得る。その誤った印象は、聖典の知識、言葉の知識からも生じる。そして、このような言葉の知識のために、人は自分が真理を悟ったと思っているようだ。

言葉は記憶の一部となる。言葉は質問の形になり、それぞれの質問には自動的に答えが返ってくる。人の区別の感覚は、借用された考えの中で失われ、支配される。そして人が自分の中から答えを探す前に、借用された言葉と考えの厚い層により、既成の答えが飛び出してくる。このようにして、私たちは問題を解決することができず、その答えを奪われている。もし問題が自分のものならば、それは自分の答えだけが必要とされる。借り物や中古の答えは何の役にも立たない。

人は生を借りることも、問題の答えを借りることもできない。問題の答えは外から来るものではない。それは問題の中に内在しているのだ。答えは問題の中から発展する。もし問題が内にあるならば、真理は外にはありえない。そして、真理はそれゆえに学ぶことができない。それはむき出しにされなければならない。あなたはそれを発見しなければならない。真理は訓練によってではなく、実現によってのみ知ることができる。そしてこれが、聖典を学んだ者と、魂を実現した者との根本的な違いだ。この世界では、聖典に精通していれば十分だが、霊の領域ではそうではない。聖典に精通している範囲にいるならば、それは出発点よりもはるかに劣っている。

思考している自分が常に起こるから、思考も自我を養うのでしたら、思考の他にも感情や感覚、意志など、自我が投射されるものは全て自我を養うと言えるのでしょうか?

183鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/13(土) 22:26:45 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て自我を養っているのじゃ。
 それらが起こる度に自我も想起されるのじゃ。
 そして自分があるという確固とした認識をもってしまうのじゃ。
 全てを捨てて進むのじゃ。

184鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/13(土) 22:29:15 ID:1d4drIFg0
知識は人に誤まった達成感を与えてしまうのじゃ。
例えば水泳の知識があれば自分は泳げると想ってしまうようなものじゃ。
知識と実際の体験は全く違うものじゃ。
知識を信奉して実践をおろそかにしてしまえば、初心の者よりも後退してしまったことになるのじゃ。

185避難民のマジレスさん:2021/02/14(日) 21:07:32 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、あなたではないもの、世界について、物質の世界についての情報しか持つことができない。あなたでないものについては、あなたは知を持つことができない。外側に関係するものは何でも、外側からしか知ることができない。あなたはそれに非常に近いかもしれないが、それはまだ遠くにあるだろう。私たちとの距離がどんなに小さくても、それがなくなることはない。それは常にあるのだ。だから、私たちは自分以外のものには親しむことができるだけで、それの知を持つことはできない。私たちは何かについて知ることはできるが、その何か自体を知ることはできない。

距離を完全に無くすことが、すべての知の前提条件だ。そうして初めて、自分の内なる存在に入ることができるのだ。しかし、距離のあるものは、決して距離のあるもの以外の何物でもあり得ない。現実に距離がないならば、その場合にのみ、そうでないことはあり得る。距離は、それが幻想である場合にのみ無くすことができる。それが現実であるならば、その排除は不可能だ。

私から離れていない存在はひとつ、ただひとつある。この存在が私から離れていることは不可能だ。私がその存在だ。そう、それは私自身なのだ。その存在だけで、本当の知が可能なのだ。この存在からの距離は幻想に過ぎない、なぜならばどうやって自分自身からの距離があり得るのだろうか。私だけが自己の中心であり、ここに私の内側の入り口、私の内側の住まい、そして完璧さの玉座がある。このことだけを知ることができる。

もう一つの事実を思い出してほしい。私たちは世界を知ることはできない。世界と交わり、情報を集めることができるだけだ。しかし、自己については、唯一の知が可能だ。だから、自己についての情報は無いし、アートマンについての情報も無い - 魂の知のみが可能だ。だからこそ、物体の場合は、物質的なものの場合は、私たち以外のものの場合は、経典や聖典の専門家であれば十分だが、自己の場合はそれだけでは十分ではないのだ。

わかるようでわからない話でした。特に三番目の段落の「私」が、自我の意味で使われているのか、記憶では認識できない存在の意味で使われているのか、よく分かりません。ただ、自分の内側に注意が向くのを感じました。

186鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/14(日) 23:19:58 ID:1d4drIFg0
それは自我なのじゃ。
自我とも存在は離れていないのじゃ。

187鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/14(日) 23:22:10 ID:1d4drIFg0
外側の世界について知ることは出来ないというのじゃ。
ただ情報を持つことができるだけなのじゃ。
自己についてのみ知ることが出来るというのじゃ。
それは存在と自己が同一であるからなのじゃ。
そこに距離の無い知である、気づきが起こる可能性があるのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2021/02/15(月) 20:50:17 ID:Dp/qMVVc0
科学は聖典であるが、宗教はそうではない。科学は対象物に関する情報であり、宗教は自己の知だ。科学は聖典、経典だ。宗教は修行、実現への道だ。

私は説教をしているのではない。そのアプローチは全く実りのないものだ。必要なのは説教ではなく、治療だ。私は真理に関連する教義を解説するつもりはない。それは全く役に立たない。だが、価値があるのは、真理を見ることができる方法だ。この方法は病気の治療法として機能し、それゆえに目は開く。そうすれば、光について考える必要はない。あなたはすぐにそれを見る。視力がないときは考えなければならないが、視力があれば考えることは問題外となる。失明しているときは、考えることが目の働きをしているが、視力が回復するとすぐに、考えることは不要になる。

私が見るに、思考は知ではなく無知の証だ。知とは、思考がない状態のことだ。それは思考ではなく、洞察なのだ。そして、この洞察は、真理に関するいかなる教義によっても不可能だ。教義は単に物事を知的な獲得に還元し、それらは記憶の一部になる。教義は決して知の一部になることはできない。

教義は教えることはできても、人の本当の人格を変えることはできない。衣服のように、外側のレベルでは変化をもたらすが、内側の存在は以前のままだ。精神は教義に影響されず、そしてベール、カバーが新しい形と新しい色をしている。あなたがこのようであれば、智慧はあなたの上に降りることはできない。それどころか、偽善の溝に落ちてしまう。

自分という感覚を観ようとしていて、かえって自我に囚われていることに気づきました。対象を決めずに観察に励みます。

189鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/15(月) 21:49:32 ID:1d4drIFg0
オショーは思考や知識は知ではないとさえ言うのじゃ。
それは記憶に過ぎないからなのじゃ。
記憶は過去と同じことを繰り返すのみであるから変容をもたらさないのじゃ。
洞察することこそ知であり、変容をもたらすものなのじゃ。

190避難民のマジレスさん:2021/02/16(火) 20:47:35 ID:Dp/qMVVc0
人の存在と、知識の間には大きな溝がある。人は一つのものであり、その人が知っていることは全く別のものだ。人格は二つに分かれている。その人の内なる存在と外なる殻の間には葛藤と二元性がある。そして、その自然な結果が偽善なのだ。そのような人は、自分の中に実際には存在しない誰かとして自分自身を見せ始め、存在する人を隠し始める。この行為は無宗教だ。他人の生を台無しにするだけでなく、自分の生も台無しにしてしまう。これは自己欺瞞だが、それは宗教的だとして通用する。

教理や教義の知的な教えは、これだけしかできない:外側の包みを変えること。しかし、精神的な革命のためには、それ以外の取り組み方が必要だ。その取り組みは、教義ではなく、自己実現の道を歩くこと、修行であるべきだ。それは説教の取り組み方ではなく、治療の取り組み方だ。真理について考えるのではなく、真理に目を開くことだ。

宗教とは、目を開く方法だ。目が開かれれば、神の視覚は簡単に実現する。しかし、教義はあなたの目を開かないだろう。それどころか、それに惑わされている人たちは、自分の目が閉じていることを忘れ、論じる真理は、自分の目で見たのではなく、他人の目で見たものであることを忘れてしまう。他者によって見られる真理は、他者によって食べられる食事のようなものだ。それは他の誰の何の役にも立たない。

真理の実現は、完全に私的で個人的なものであり、決して譲渡可能なものではない。それは受け取ることも与えることもできない。それは自分自身で得なければならない。それは盗まれたり、施しで受け入れられたりすることはできない。それは財産の一部ではなく、自分自身そのものだ。真理は財産ではなく、自分自身そのものであり、それゆえに譲渡することはできない。これまでのところ、誰もそれを誰かに与えたことはない。また、未来の誰もがそれを誰かに与えることはできないだろう。なぜならば、与えられた瞬間、それは真理であることをやめて、物になるからだ。物は与えることも、奪うこともできる。真理は、自分自身の中で、自分自身によって達成されなければならない。それは主観的だ。実際には、それは本当は達成されるものではない - 人はそれにならなければならない。それはあなた自身あること、あなた自身の実存なのだ。

特に何も思い浮かびません。ただ観察します。

191鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/16(火) 23:06:30 ID:1d4drIFg0
知識は自他の人生を台無しにしてしまうとまでオショーは言うのじゃ。
実際に多くの知識を集めても、自分について知らなかったばかりに破滅する者は多いのじゃ。
不要な知識に囚われて自己の探求を怠れば、破滅が待っているのじゃ。
自らの実践によって自己の探求をすることができるのは自分だけなのじゃ。

192避難民のマジレスさん:2021/02/17(水) 21:09:20 ID:Dp/qMVVc0
では、真理を学ぶという問題はどこから来るのだろうか? それは発見されなければならない。学ぶことは、自己の上に層を形成するだけだ。すべての外部の教えは、真理を覆うだけだ。外から来るものは全て、覆うことしかできない。覆うことは、外からできるただ一つのことだ。そして、思考の衣はますます自己を覆い続ける。これらの衣を脱ぎ捨て、裸になりなさい。これらの衣服をすべて捨てなさい。自己を知るためには、学ぶのではなく、学びを放棄しなければならない。すべての外部の客が去ったとき、あなたは客ではなく、主人であるものを知ることになる。

真理は教えることができないが、真理を知る方法は教えることができる。今日では、この方法を語る人はいない。真理についての多くの話があるが、真理を実現する方法についての話はない。これほど大きな間違いはない。肉体にしがみつき、生を見失っているのだ。その結果、無数の宗教(religions)が存在するが、大文字Rの(世界に一つしかない)宗教は存在しない。

宗教という名の下に仮装している多数の宗派は、全く宗教ではない。宗教は一つしかない。それを説明する形容詞はない。それは何の修飾語もない。ダルマはダルマを意味し、宗教は宗教を意味する。私の言葉では「このダルマ」「あのダルマ」とは言えない。「これ」と「あれ」があるところには宗教はない。

これらの宗派は真理についての多くの教義や理論のために生まれてきたし、人々が理論や教義を要求する限り存在し続けるだろう。教義は言葉で構成されており、宗派はまさにその言葉を中心に形成されている。言葉は恨みや狭量な憎しみを助長し、争いの原因となる。これらの言葉は人と人を分断する。そしてなんと不思議なことだろうか! 人々は、人と人を分断する言葉そのものが、人と神を結びつけると信じているのだ! 人と人を分断するものは、人を神、真理、また自己と結びつけることはできない。

「学びを放棄しなければならない」という部分で心に抵抗を感じました。もう悟りを得る方法は分かっているのだから、悟りを得るためにはこれ以上外から学ぶ必要はないはずです。それでも外からの言葉を求めるのは、勇気を得るためと思いつつ、逃避もあるのでしょう。また、自我を養っている面もあると気づきました。オショーが述べて、鬼和尚が解説してくださっている側から自我を養っているとは、恐ろしいことです。
さらに自己観察に励みます。

193鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/18(木) 00:24:41 ID:1d4drIFg0
世間に言う学びとは知識を多く記憶していくことなのじや。
記憶する知識が多くなるほど自分について知る機会は減ってしまうじゃろう。
知識や教義を増やす宗教は悟りに導く宗教ではないのじゃ。
言葉や知識を捨てて自分を明らかにすることこそ悟りに導く実践なのじゃ。

194避難民のマジレスさん:2021/02/18(木) 21:20:51 ID:Dp/qMVVc0
このような宗教の宗派への分裂は、様々な教義、言葉、信念、意見にまで及んでいる。これらはすべて無知に基づくものであり、知に基づくものではない。真理に宗派は無い。すべての宗派は教義から発展する。人は真理を知るとすぐに宗派から解放され、その瞬間に宗教に入る。宗教とは、ヒンドゥー教でもジャイナ教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもなく、ただの宗教であり、それは修飾されていない、光以外の何物でもなく、意識以外の何物でもない。宗教とは、真に自己の実現なのだ。

宗派は宗教ではない。組織は宗教と何の関係があるのだろうか? すべての組織は政治的または社会的なものであり、すべて世俗的なものだ。組織はお互いへの恐れに基づいており、恐れがあるところには憎しみがある。組織は、真実からではなく、安全のために存在している。国であれ、社会であれ、宗派であれ、すべてのものは恐怖から生まれ、恐怖から生まれたものによる満足は、他者に恐怖を引き起こすことにある。

すべての宗派はまさにこれに似ている。それらは誰かを宗教的にする意図はなく、自分たちの数を増やしたいのだ。数は力であり、安全性の保証だ。それらは自己防衛であり、攻撃する能力でもある。宗派はずっとこのようなものだった。今もそうだし、これからも同じだ。それらは人間と宗教を一つにしたのではなく、宗教から引き離したのだ。

ダルマ、宗教は社会現象ではなく、純粋に、そして単純に、最も個人的な変容だ。それは他者とは何の関わりもなく、自分自身だけに関わる。他の人と何をするかではなく、自分自身と何をするかに関わる。ダルマは、完全な孤立と孤独の中で、自分自身とどのように振る舞うかに関わるのだ。

普段落ち着いている時には、自我の感覚が弱まることを観察することもあります。ところが大きな痛みや心理的なショックを受けると、そこに強く自我が投射され、巻き込まれて、一旦無理やり他の場所に集中しないとうまく観察ができなくなります。引き続き観察に励みます。

195鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/19(金) 00:15:58 ID:1d4drIFg0
派閥や組織は常に腐敗するものじゃ。
お釈迦様のサンガでさえ分裂したりしたのじゃ。
悟りとは関係ないものじゃ。
ただひたすらに自己の内面を追求した者だけが悟りを得るのじゃ。

196避難民のマジレスさん:2021/02/19(金) 20:44:46 ID:Dp/qMVVc0
完全に独りある中で、あなたは何なのだろうか? それが知らなければならないことだ。あなたとは何か。あなたの存在を知ることだけが、宗教に導く。誰かを宗教に導く方法は他には無い。どんなお寺も、どんなモスクも、どんな教会も、私を自分のいる場所に連れて行ってはくれない。そこに行くために外の階段を登る必要はない。すべての寺院は外にある。すべての寺院は輪廻の一部であり、世界の一部であり、その扉を通って自己に到達することはできない。外の世界での旅は、真理への巡礼、聖なる場所への巡礼にはならない。その場所は内にあり、そこでは宗教の経験があり、人生の神秘、喜び、美しさが見つかる。これらがなければ、すべてのものは悲惨なものであり、すべてのものは役に立たず、無意味なものだ。

自己を知るためには、外ではなく内に入らなければならない。しかし、すべての人間の感覚は、外に連れて行く。すべての感覚は外に向かっていく。目は外を見、手は外向きに広がり、足は外向きに動き、心さえも外の現象を反映し、反響させる。そして、そのために人は偶像、神の像を建立し、真理のための神殿を作った。それは、その目が神を見ることができ、その足が真理への巡礼をすることができるようにするためだ。 私たちはこの自己欺瞞を自分たちで作り出してしまった。この毒を自分の手で飲んでしまった。そして今、私たちは自分の生を浪費し、この毒と自己欺瞞によってもたらされた昏睡の中で過ごしている。

自分の感覚の都合に合わせて、私たちは宗教を自分の外にあるものとして視覚化し、そのために自分の視界を外に向けてきた。しかし、ダルマを知るためには、宗教を知るためには舞台裏に行かなければならない。世界に対するあなたの知識と意識は、感覚を媒介にしてもたらされる。同じ道筋で自己を知ることはできない。知る者を知ることはできない。他の人や物を知るように、知自身を知ることはできない。見る力である見者は、普通の物体のように見ることはできない。知は、物体に移すことも、劣化させることもできない。そして、すべての問題の理由は、この単純な事実が理解されていないことだ。人々は、神が外的なものであるかのように、神を探し求める。これは何と愚かなことだろうか! 神は探されるべきものではなく、求める者自身の中に隠されているのだ。

瞑想が深まり、意識を保ったまま落ちていく感じになると、それを引き止める力が生じます。これが自我の厭離を妨げているものなので、気をつけて観察して正体を見極めたいです。

197鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 00:10:47 ID:1d4drIFg0
自分とはなにであるか知ることだけが真の宗教たどオショーは言うのじゃ。
それがなければどんな寺や神殿も無意味というのじゃ。
自分を知るためには注意を内側に向けなければ成らんのじゃ。
神でさえ求める者の中に隠されているというのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2021/02/20(土) 20:35:00 ID:Dp/qMVVc0
真理はあなたの中にある。それは私の中にある。それは明日あなたの中にあるのではなく、今ここで、この瞬間に、あなたの中にあるのだ。私はある。私の存在自体が私の真理だ。私が見たものは真理ではないかもしれないし、それはすべて夢かもしれない。私も夢を見ていて、その間に見ているものは真実のように見える。あなたは私にとって夢なのかもしれない。私が夢の中にいて、あなたはここにまったくいないのかもしれない。しかし、見者は偽りではありえない。見者は夢の中にいることができない、なぜならばもし、いたとしたら、それが夢であることがわからないからだ。夢は夢を見ることがでない。真理でないものは真理でないものを知ることができない。夢を見るためには、自分自身が夢ではない者が必要だ。真理でないものを見るためにさえも、真の見者が必要だ。したがって私は、私が真理であると言う。真理は私の存在だ。私はそれを求めてどこかに行く必要はない。

自分の中から真理を掘り出すだけでいい。井戸を掘るのと同じように、真理を掘り出さなければならない。水の泉を覆う石や土の層が常にいくつかあるが、それらの層を取り除くとすぐに泉は解放される。同じように、あなたの自己も他のもの、非自己に属するものの層によって圧迫されている。あなたはこれらの層を突破するだけで、数え切れないほどの過去世を通して探し求めてきたものが達成される。

これまでのところ、あなたは真理に到達することができなかったが、それは、あなたが遠く離れたところでそれを探していたからだ、実際のところ、それはいつもとても近くにいる。本当に探しているのはそれ自身なのだ。あなたの魂の井戸を掘り出さなければならない。瞑想はそのための手段だ。瞑想の鋤を使って、自己の上に積み重なった土の層、他者性の層を取り除かなければならない。それが唯一の救済策であり、唯一の治療法だ。これが私が話したいことだ。

静まった心を観察します。

199鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
真理とは今ここに自分の中にあるものだとオショーは言うのじゃ。
それは一度も自分から離れたことは無いのじゃ。
それが見出せなかったのはどこか外にあると思って知識を求めていたからなのじゃ。
井戸を掘るように自分ではない知識をどこまでも掘り下げて観ていくことでそれは現われるのじゃ。

200避難民のマジレスさん:2021/02/21(日) 21:11:44 ID:Dp/qMVVc0
まず第一に、あなた自身の存在、あなたの本質を覆い隠しているものが何であるかを知る必要がある。あなた自身からあなたを隠しているものは何だろうか? 見えないだろうか? 覆い隠しているものが見えないだろうか? 中に入ってみると、何が見つかるだろうか?

ヒュームは言った 「中に入っても、思考以外のものは見つからない」と。 ヒュームはどんな魂も見つけられなかったし、あなたもこのようにして自分の魂を見つけることはできない。ヒュームは覆っている層だけを見て戻ってきたのであって、ただ殻のところまで行って戻ってきたのだ。あなたが中に何があるのかを見るのは、殻を破った時だけだ。これは、湖に行って苔と葉で覆われた湖面を見て、湖は全くないと言って戻ってくる人のようなものだ。一般的には、このようなことが起こる。私たちは毎日中に入り、思考の覆いを見て戻ってくる。思考は常に自己を取り囲み、あなたは思考以外は何も知らない。思考はあなたの世界であり、思考だけで生きている者は世俗的な人間だ。思考を超えた何かを知ることは、宗教的になることの始まりだ。思考のない状態を知ること、思考の先にあるものを知ることは、宗教の領域に入ることだ。

もしかしたら、あなたの思考はこの世のことではなく、魂のこと、神のことを考えているのかもしれないし、自分が宗教的であるという幻想を抱いているのかもしれない。私はあなたのこの幻想を打ち砕きたい。すべての思考は覆い、外殻だ。それらはすべて欲望、情熱であり、外に向けられた外面的なものだからだ。自己についての思考はありえない。知はあるが、自己についての思考はない。思考は覆い、殻だ。

今日は自我の拡大を感じて、その心地良さを感じています。観察はするのですが、本心から厭離しようと思っていないのか、変化がみられません。偽物の殻に騙されていますね。粘り強く観察します。

201鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 00:04:24 ID:1d4drIFg0
本質を覆い隠しているものを知ることが修業には必要だとオショーは説くのじゃ。
それは思考に囚われているものには思考じゃろう。
金とか、名声とか、権力に囚われている者にはそれらが覆いじゃろう。
外面的なものに囚われていれば、自分を知るための道に入ることは出来ないのじゃ。

202避難民のマジレスさん:2021/02/22(月) 20:22:02 ID:Dp/qMVVc0
無思考は覆いを取り除く。無思考は瞑想だ。思考がないとき、私たちは思考によって隠されたものを知るようになる。雲がなければ青い空が見えてくる。友よ、あなたの中にも空がある。思考の雲を取り除いて、それが見えるように、それが知られるようにしなさい。これは可能だ。心が静止していて思考がないとき、静寂の中で、その深い無思考の中で、思考の完全な不在の中で、真理が見られる。

これを実現するためにはどうすればいいのだろうか? 非常に簡単なことをしなければならないが、あなたは非常に複雑になっているので、それが非常に難しいことに気づくだろう。生まれたばかりの赤ちゃんに可能なことが、あなたには不可能だ。子供はただ見ているだけで、何も考えない。ただ見ているだけだ。そして、ただ見ていることは素晴らしいことだ。これが秘密であり、真理の門を開ける鍵なのだ。

私はあなたを見ている。私はただあなたを見ているだけだ。あなたは私についてきてくれるだろうか? 私はただあなたを見ているだけで、何も考えていない。そして、空前の静けさ、生きた沈黙が私の上に降りてきて、すべてが見え、すべてが聞こえてくるが、内なるものは何も乱されていない。内側には何の反応もなく、思考もない。あるのはダルシャンだけであり、見ることだけだ。

思考以外にも、感情や記憶したイメージが覆いなのですね。オショーは、すべてが見え、聞こえてくると述べていますが、このことは、感覚は覆いではないということでしょうか?

203鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 23:11:19 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、感覚は本来ありのままに感じることの出来る器官なのじゃ。
日常では思考や分別に影響されるから覆いになってしまうのじゃ。
思考や分別がなければそれに影響されることもないのじゃ。
全てがありのままに感得できるのじゃ。
それによって観察も可能になるのじゃ。

204避難民のマジレスさん:2021/02/23(火) 22:11:49 ID:Dp/qMVVc0
正しく気づいていることが瞑想の方法だ。あなたは見なければならない、ただ、外に何があるか、内に何があるかを。外には物があり、内には思考がある。あなたは何の目的もなくそれらを見なければならない。何の目的もなく、ただ見ているだけだ。あなたは目撃者、無関係の目撃者であり、ただ見ているだけだ。この観察、この注意深さは、徐々にあなたを平和に導く、空虚に、空に、無思考に。試してみればあなたは知るだろう。思考が消えていくと、意識が目覚め、浮かび上がってくる。ただふと止まりなさい、しばらくの間 - いつでも、どこででも。ただ見て、聞いて、世界と自分自身の目撃者でありなさい。考えてはならない。ただ目撃者になって、何が起こるかを見なさい。そして、この見ることが広がるようにさせなさい、あなたの肉体的、精神的活動のすべてに浸透するようにさせなさい。それが常にあなたと一緒にいるようにさせなさい。もし見ていることが在れば、あなたの自我はなくなり、あなたは本当の自分に気づくだろう。「私」は死に、自己が達成される。

この見ることの修行の中で、自分の精神状態の観察の中で、容易な変容、容易な切り替わりが、目撃されているものと目撃者であるものの間で起こる。あなたが自分の思考を観察していると、観察する者が垣間見えてくる。そしてある日、見者がそのすべての威厳と栄光の中に顕れ、すべてのあなたの貧困と惨めさは終わりとなる。

これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。見ることを修行していくうちに、見ている状態にさらに移行していくと、その状態がより安定してきて、常に存在し始める。徐々にそれは、起きているときも眠っているときも、常にあなたと一緒にいるようになる。それは睡眠中にも存在し始める。そうなったとき、それが眠りの中にも存在し始めたとき、あなたはそれが心の奥深くに入り込み、その根を遠く広大に広げていることを確信することができる。今日、あなたは起きている時でさえ眠っている。明日、あなたは眠っている時でさえ、起きている。

観察が失われる状況がわかってきています。例えば他者と会話したり、強く興味を惹かれることに出会ったり、深く眠ったりする場合です。特にそのような状況では気をつけて観察を保つようにしたいと思います。ただ深い眠りでは、今のところできそうな感じはありません。

205鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/23(火) 23:11:01 ID:1d4drIFg0
オショーは観察の瞑想を説いたのじゃ。
心を鎮めて心をありのままに観れば悟りも自ずからやってくるのじゃ。
初めはなかなかうまくいかず、難しいかもしれんが慣れれば全ての目撃者になるのじゃ。
そして夢の中でも観察していることがわかるのじゃ。
無意識の観察が出来るようになるのじゃ。
それができれば自我を観ることも可能になるのじゃ。

206避難民のマジレスさん:2021/02/24(水) 20:47:48 ID:Dp/qMVVc0
この見ることは、私たちを夢からも眠りからも目覚めさせることで思考を消していく。思考や夢から解放された心の中で、波は消えていく。心は、波がないときに海が穏やかであるように、家に吹き込む風がないときにランプの炎がちらつかないのと同じように、揺れもなく、波のない、穏やかな状態になる。自己であり、私であり、真理である神が知られるのは、そのような状態の中でだ。そうして、神の宮殿への門が開く。

この門、この入り口は、経典の中にあるのではなく、言葉の中にあるのでもなく、自己の中にあるのだ。だからこそ、私は他の場所を掘るのではなく、自分自身の中を掘れと言う。他のどこにも行ってはならない。自分自身の中に入りなさい。私は入る方法を説明してきた。

あなたの静けさと目の輝きから、あなたが私が言わなければならなかったことを理解しているとわかった。しかし、この理解だけでは十分ではない。真実の生の基礎となるのは、理解ではなく、霊的な経験だけなのだ。私が示した方向に少し歩いてみなさい。その方向に少しだけ進んで、そして見なさい。あなたが真理に向かって移動するとき、それに近づくとき、その引っ張りの影響を受けるので、あなたが少しだけ歩いたとしても、長い道のりを行っているだろう - そしてその後、あなたは全く歩かない、ただただ引き寄せられていく。

そして最後に、歩き続ける人はいつか目的地に到達することを覚えておきなさい。神の方向へのどんな一歩も無駄ではない。私はこの真理の証人だ。あなたにもこの真理を一瞬でも実現して欲しい!それであなたも真理の証人になれる。それはあなたのすぐそばにある。太陽はすでに昇っている。あなたはただ目を開けてそれを見る必要があるだけだ。

目を開けて欲しい。私の呼びかけを聞いて、目を開けてくれるだろうか? 決めるのはあなた、あなただけだ。開けるか開けないか?

目を開けます。目を開けたいです。
これで8章は終わりです。もしおかしな訳などがございましたら、お願いします。

207鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 00:00:51 ID:1d4drIFg0
前日の>>204「これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。」
というところが少しおかしいのう。
 下から五行目なのじゃ。

 あとはよいようじゃ。

208鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 00:04:31 ID:1d4drIFg0
心を止めることと、心を観ることは上手くできれば速やかに進歩することができるのじゃ。
心を鎮めることで観察が良く出来るようになり、観察が出来ることで心の静けさも増していくのじゃ。
そして自分も容易に見られるようになるのじゃ。
たとえそれで少し迷い道に入ったとしてもその経験は無駄ではないのじゃ。
思考の悟りに至れば迷い道さえも最も近い道だったとわかるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

209避難民のマジレスさん:2021/02/25(木) 21:05:03 ID:Dp/qMVVc0
第9章 最後の夜 1964年6月7日午後
[第一の質問は失われています。]
実際に気づく前に真理を知ることはできない。そして、真理について何かを知ることは、真理を知ることとは全く異なる。あなたが真理について知っていることが何であれ、それは真理ではないに違いない。なぜならば、個人的な経験がなければ、単に理解することができないからだ。それは、話し手の視点からではなく、聞き手の視点から見た場合、真理ではない。

私が真理について何かを言ったら、あなたは私が言ったのと同じようにそれを理解してくれるだろうか? それは不可能だ。なぜなら、全く同じように何かを理解するためには、あなたは私と同じで、同じ状況にいなければならないからだ。私が言ったことがあなたに届く時には、それは真理ではなくなる。これは、私が言葉を話すことしかできず、その解釈はあなたから来なければならないからだ。意味はあなたから来るので、あなたと異なるものではない。言葉は私のものであり、意味と解釈はあなたのものだ。

その意味や解釈は、あなたが現在いる以上のものではあり得ないし、あなたの現在の経験を超えたものでもあり得ない。あなたはギータを読むときにクリシュナを読んでいると思っているだろうか? もしそうなら、あなたは大きく間違っている。そうでなければ、どうしてこんなにも多くの解釈や解説があるのだろうか。すべてのシャスターラや経典の中に、私たちは自分のイメージを見ているのだ。

>>207 の該当部分は、 This is not a sadhana one can practice only once in a while and still attain liberation.
です。「これは、たまにしか実践できなくとも解脱を得られるような修行ではない」ではいかがでしょうか。

毎日観察を続けていても、欲に流されたり、観察が失われているのを忘れたりして、本当に進んでいるのかと思う時もあります。精進あるのみですね。

210鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 23:08:12 ID:1d4drIFg0
「これはたまにしかできなかったら、解放を得られる修業とはならない」というほうがよいじゃろう。
そうすればあとの「これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。」という文とつながるのじゃ。

211鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 23:10:11 ID:1d4drIFg0
誰でも自分のイメージの世界に生きている故に、聖人や聖典の言葉を鵜呑みにしても、真実とはならないのじや。
自ら経験したことしか人は言葉に出来ないのじゃ。
無理にしようとすれば嘘になるのじゃ。
真理は自ら実践して気付くしかないのじゃ。

212避難民のマジレスさん:2021/02/26(金) 21:27:41 ID:Dp/qMVVc0
真理を知る前に知ることができるのは言葉だけだ、真理ではない。それらの言葉は、他の人や聖なる書物、神の化身やティールタンカラ、悟りを開いた人たちからのものだろうが、その意味と解釈はあなたのものになる。あなたの「私」はそれらの中にあるだろう。多くのいわゆる宗教の間にこれほどまでに多くの対立や相違があるのは、このためではないだろうか? ブッダとキリストの間には、何か対立や敵対が存在しうるのだろうか? 解釈の違い、対立、敵対はあなたと私の間にあり、私たちはそれをすべて彼らの名の下に貫いているだけなのだ。

宗教は真理を知る者から生まれ、宗派はただ聞いて信じるだけの者によって組織されている。そして、それゆえに多数の宗派が存在する。真理を知るという経験は唯一無二であり、その経験はすべての人にとって同一だ。しかし、信仰の場合はそうではない。知は一つであり、唯一無二のものだが、信仰は信じる人の数と同じくらい多いのだ。

「宗教(Religion)」はダルシャンの結果であり、真理の洞察の結果であるが、宗教(religions)は真理を見ないことの結果だ。「宗教」は知る者によって設立されるが、宗教は知らない者によって組織される。そして、彼らが善意の努力をしても、宗教は無宗教になってしまうのだ。人間は、その全歴史を通して、この呪いの犠牲者であり、この言葉の矛盾の犠牲者であり続けてきた。

>>210 ありがとうございます。そのように修正します。
話しながらの観察に少し慣れてきました。複雑な会話はまだできませんが、よく知っている人との簡単な会話は観察できるようになってきました。この文をタイプしながらも観察できていますが、さらに観察の時間を増やせるよう精進します。

213鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/26(金) 23:47:06 ID:1d4drIFg0
↑よいことじゃ。
どんどん実践すれば上達していくのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。

214鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/26(金) 23:50:25 ID:1d4drIFg0
言葉は常に受け取る者によって解釈が違ってしまうとオショーは言うのじゃ。
解釈の違いに拠って宗派が生まれ、闘争も起きてしまうのじゃ。
実際に同じ教祖の宗教でも派閥が多く生まれ、闘争も起きているのじゃ。
宗教が教祖によって正しく説かれても、言葉に拠って真理を知らない者たちが派閥を作り、争いを始めてしまうのじゃ。

215避難民のマジレスさん:2021/02/27(土) 20:42:30 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:私たちは真理についての概念を形成せずに、真理について考えることができるのではないでしょうか?
私はあなたに考えなさいとは全く言っていない。思考は、あなたが知っていることを超えて行くことはできないし、もしあなたが真理を知らないとしたら、いったいどのように、それについて考えることができるだろうか? 思考は常にあなたの経験の境界内にとどまる。それは知っていることについて、くよくよ考えるだけだ。思考は決して創造的ではなく、それは単に反復的だ。未知のものは、思考によって知ることはできない。未知のものを知りたければ、知っていることから抜け出さなければならない。未知の世界に入るためには、既知の世界から出なければならない。

したがって、真理についての概念を全く形成しない方がよい。その概念は全く真理ではなく、生きた意味を持たない無生命の言葉になってしまう。その言葉は伝統によって尊敬され、何千人もの人々によって崇められ、シャスターラによって支持されているかもしれないが、あなたにとっては全く価値のない言葉になるだろう。その言葉の狭く限られた枠組みを通して真理の壊れたイメージを見ることは一つのことであり、枠組みが崩れた時に空の全体の広がりを見ることとは全く別のことなのだ。

空は何にも囲まれていない。また、真理は何にも包まれていない。すべての枠組みは人工的に作られたものであり、すべての概念は人工的に作られたものだ。もしあなたが真理を知りたければ、あなたの枠組みから抜け出しなさい。言葉や思考、いわゆる知識を忘れて、既知のものから離れなさい、未知のものが入って来られるように、そして、すべての人工的な概念を手放しなさい。そうすれば、あなたは誰の創造物でもない、すべての創造の基礎そのものを知ることになるだろう。

自我がだいぶ観えているのに無我にならないのは、まだ執着を残しているからです。恐れ、怒りなど心に引っかかる時には、特にしっかりと観察しようと思います。

216鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 23:24:50 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
常に困難な時にこそしっかり実践するのじゃ。
そうすれば悟りも自ずからやってくんるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

217鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 23:27:35 ID:1d4drIFg0
真理についていかなる概念も形成しない方が善いとオショーは言うのじゃ。
そして考えることもしないほうがよいというのじゃ。
真理について全く知らない者が真理について考えることなどできはしないからなのじゃ。
真理について知らないのに真理について考えるのは、ただ単に自分に嘘をついている事になるのじゃ。
言葉も思考も捨ててただ真理に没入することができるだけなのじゃ。

218避難民のマジレスさん:2021/02/28(日) 21:01:05 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問: シャスターラの助けなしで、どのようにして私たちは真理を知ることができるのでしょうか? それを通してのみ、真理を知ることができるのではありませんか?

あなたは、もしすべての聖典、すべてのシャスターラが破壊されたならば、真理もまたそれらと一緒に破壊されるだろうと言いたいのだろうか? 真理がシャスターラに依存しているのか、それともシャスターラが真理に依存しているのか? 友よ、真理はシャスターラによって達成されたことはない。それどころか、シャスターラは、真理が実現した後に得られ、明らかにされた。価値があるのはシャスターラではなく、真理だ。根本的なものは真理であって、シャスターラではないのだ。そして、もし真理がシャスターラを通して達成できたならば、それは非常に安い真理となるだろう。あなたは自分自身を変えることなく、それを達成することができるのだから。

しかし、シャスターラはあなたの記憶を埋めることができるだけで、自己の知を与えることはできない。そして、真理の道筋では、訓練された記憶は全く助けにならない。真理のためには、自己変革の代償を払わなければならない。シャスターラはあなたを専門家や学者にすることはできるが、知を与えることはできない。シャスターラはより多くのシャスターラを生み出すことができる。これは自然なことだ。物質は物質を生み出すことができるだけだ。しかし、どのようにして知はそこから生まれるのだろうか? 知は意識の一形態だ。無意識の物質からは生まれない。シャスターラには生命がなく、意識がない。ゆえにこれは真理のためのものではない。シャスターラは無意識で生命のない記憶を豊かにするだけだ。意識的な知は、それらを通して達成することはできないが、自分自身の中に入ることによってのみ達成することができる。

あなたは、いったいどうやって真理がシャスターラの助けなしで知ることができるかと尋ねている。これに対して私は、あなたがシャスターラに自分自身を閉じ込める限り、いったいどうやって真理を知ることができるのかと尋ねよう。真理は他の誰かから、シャスターラから、あるいはグルから得ることができるというのは間違った考えだ、なぜならば、あなた自身の中への探究をできなくするからだ。この考えは大きな障害だ。これもまた、輪廻の中、世界の中での探求だ。シャスターラもまた世界の一部であることを心に留めておきなさい。外にあるものは何でも世界だ。真理は内側、自己の中にあり、外側にはない。自己は本当のシャスターラだ。それはまた、唯一の真のグルでもある。自己に入ることによって、真理は達成される。

自己が真のグルだというのはラマナマハルシも述べていましたが、どのように修行に役立てられるのでしょうか。少し詳しくお教えください。

219鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/28(日) 22:16:28 ID:1d4drIFg0
自己の真のグルは悟りへの願望が生みだすものじゃ。
悟りへの願望が強いほど、正確に悟りへの道に導いてくれるのじゃ。
悟りへの願望が弱ければ、その導きも弱くなってしまうのじゃ。
誰でも永遠の安らぎには憧れるが、欲に囚われていては真のグルもどうしようもないのじゃ。
全ての欲を捨てて悟りへの願望を強く保てば、心の奥から自然に行く道が示されるのじゃ。
それが真のグルなのじゃ。

220鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/28(日) 22:31:30 ID:1d4drIFg0
強い願望に拠ってそのように心にあるグルが確立したならば、例えば日々の修業に怠け心が生じたならば、それを咎めることもあるのじゃ。
誰でも日々の修業は辛いから、怠けたくなるものじゃ。
特に体の怪我とか心に苦があったり、日常にトラブルがあった時等は怠ける口実が出来たせいで休みたくなるものじゃ。
そのとき休もうとしたら心に咎めが生じて、やはり実践しようとする気持ちになるじゃろう。

座っていても金とか異性のことばかり考えていたとしたら、その時も心に咎めが生じてちゃんと修業しなくてはという気持ちになるのじゃ。
それが自分の心にある真のグルの働きなのじゃ。

外のグルにはそのような内心の小さな働きまではわからないからのう。
自分の心にあるグルであるからそのように心の中の小さな働きまで確かに知って、導くことが出来るのじゃ。
これもまた一例に過ぎないのじゃ。
まだ多くの働きがあるが、実践によって確かめるのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2021/03/01(月) 21:09:59 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:知性が真理ではないと主張することは真ではないのですか?

知性とは考えることだ。知性とは知ではない。考えることは暗闇の中で手探りすることであり、知ることではない。真理は思考することはできない - それは見られて、実現される。それは知性によって実現されるのではなく、知性が静かで空っぽになったときに実現されるのだ。内なる知のこの状態が直観だ。直観は思考ではなく、洞察だ。真理を見たいと思っている人にとって、直観は、盲人にとっての視力の獲得のようなものだ。考えることによっては、誰もどこにもたどり着けない。それは終わりのないの手探りだ。盲目の人は何年も手探りをするかもしれないが、光を得ることができるだろうか? 手探りと光の間に関係がないように、思考と真理の間には何の関係もない。それらは全く異なる次元のものだ。

自己の真のグルについてお教えくださり、ありがとうございます。非常に忙しく、眠くて疲れていても坐ろうとする気が起こるなど、心当たりがあります。また、ふと強く無常を感じて、何もかも全く意味がないように思えることがありますが、それも真のグルの導きのひとつなのでしょうか?

222鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/01(月) 23:03:15 ID:1d4drIFg0
↑そう言えるじゃろう。
 この世の全てのものごとは泡のようにはかなく、消え去る性質のものじゃ。
 囚われれば時間を失い、苦になるばかりなのじゃ。

 この世で唯一意味があるのは、有限な肉体で無限の存在に至る事だけなのじゃ。
  それを教えてくれる心の働きは内なるグルの導きと言えるのじゃ。

223鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/01(月) 23:23:14 ID:1d4drIFg0
知性が真理ではないという主張もまた真理についての考えなのじゃ。
それが真であることはないのじゃ。
知性もまた観念の枠から逃れられないものじゃ。
真の知は気づきであり、洞察によるものじゃ。
思考を介さずありのままの今ここにあるものごとを見抜く働きなのじゃ。

224避難民のマジレスさん:2021/03/02(火) 20:49:21 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問:あなたは、クリシュナのビジョンやキリストのビジョンを霊的な経験だとは見なさないのですか?

そうだ、それは霊的な経験ではない。どのビジョンも霊的な経験ではない、なぜならば、その水準でのすべての経験は心理的だからだ。他の誰かのビジョンや実現がある限り、それは自己の実現ではありえない。そのような経験であっても、あなたはまだ自分自身の外にいて、自分自身に入ってきていない。自分の中に入ってくるということは、外の経験がないときに起こるのだ。意識が何の対象にも関係していないとき、それは自然に自己に落ち着く。対象のない意識だけが自己に落ち着くことができる。

自己の外では、私は物質の世界と心の世界という二つの世界に囲まれている。これらはどちらも私の外にある。物質が外にあるだけでなく、心も外にある。心は身体の内側にあるので、内側にあるような錯覚を起こすが、心は内側にはない。自己は内側にあり、心の背後にあり、心を超えたところにあるのだ。

私たちは物理的な経験を霊的な経験と間違うことはないが、私たちの心理的な経験は霊的であるかのような錯覚を作り出す。なぜならば、私たちが見ている心のイメージは、私たちが知っている世界のものとは異なり、目を閉じた後にもそれを見るからだ。しかし、私たちは心理的な経験の中で、夢を霊的経験とは考えない。夢もまた目を閉じている時にのみ現れ、目覚めて外の世界との接触すると終わるにもかかわらず。

現実的で霊的であるかのような錯覚を引き起こす、特定の心理的経験がある。それは、心理的な投影だ。心は、目を開いた後でも、目を閉じて見ている夢を見ることができる程度に自分自身に催眠術をかける能力を持っている。それは一種の覚醒した眠りの中で起こる。こうして、私たちは見たいように神を見るのだ - クリシュナやキリストを。そのようなビジョンは、ただの心理的な投影だ。そこでは私たちは実際にあるものではなく、誰であれ見たいと願うものを見る。これらの経験は霊的なものでも神的なものでもない。それらは単に心理的な経験であり、自己催眠によって引き起こされる。

上で、「心理的(psychological)」、「心の(mental)」と訳したものは、「精神的」、「精神の」とも訳すことができます。肉体的-精神的-霊的 という分類はより明確かもしれませんが、最後は分類も捨てるとすれば、そこにこだわらなくとも良いようにも思います。いかがでしょうか?

225鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/02(火) 21:36:32 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
ここでは心理と霊的なものとの二つの分類であるからのう。
拘らなくて善いのじゃ。

226鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/02(火) 21:41:05 ID:1d4drIFg0
瞑想中にいろいろな映像を見るのはよくあることじゃ。
お釈迦様も悟りを得る前に見たというのじゃ。
それらは自らの心理的な原因から見るものであり、悟りとは何の関係も無いものじゃ。
全ての映像もなく、感じられるものも無く、感じる自分も無くなれば悟りに近いのじゃ。
何かが感じられるのならばまだ悟りには程遠いと覚えておくのじゃ。

227避難民のマジレスさん:2021/03/03(水) 21:17:18 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問:では、神はどのようにして見られるのでしょうか?
ここでは、「見られる」という言葉は誤解を招く。それは、見られるべき人がいると思わせ、「神」という言葉自体が人、人格の錯覚を生み出す。人格神は存在しない。神性はあり、力はある。人格は存在しないが、力はある。神はエネルギーの無限の海、意識の無限の海だ。それはあらゆる形で自らを顕現する。創造者として、神は分離されていない、神自身が創造だ。それ自身が創造的な現実だ。神自身が生だ。

自我に囲まれていると、自分は他と異なり、生から切り離されているような錯覚に陥る。これがあなたの隔たりであり、神からの分離だ。そして実際、事実として、隔たりも分離も不可能だ - まさに「私」という錯覚が隔たりなのだ。この分離は、無知のためだ。実際には、無知こそが分離だ。ゆえに、本当は分離は全くない。

自我の解消によって実現される無限の、境界のない、創造的な生命力が神だ。「私」の死後、自我が消滅した後に経験するものは、神の真の視覚だ。では、そこでは何が見えるのだろうか?どこにも「私」は見えず、どこにも「あれ」や「他のもの」は見えない。海の波の中にあるものは私の中にあり、新春の花の中にあるものは私の中にあり、秋の落ち葉の中にあるものは私の中にある。私が宇宙の存在から切り離されているところはどこにもない。私はその中にいる。これが神の真の視覚だ。ある見者は、「Tattvamasi svetaketu - 汝はそれである」と言った。あなたがこれを感じ、体験した日、あなたは神を悟ったのだ。これに満たないもの、あるいはこれとは異なるものは、すべて想像だ。

自分を神と同一視しないとしたら、神のビジョンとは何だろうか? 雨粒にとって、海のビジョンとは何だろうか? 雨粒は自己のアイデンティティを失い、海そのものになるだけだ。雨粒が雨粒である限り、海は雨粒とは別のものであり、海からは遠く離れているが、一旦雨粒がそのアイデンティティ、実体を失うと、海と一体となる。本当は、雨滴は海になってしまったのだ。
あなたは神を求めているのかね? 神性の達成を求めなさい。この探求の道は、雨粒が海を求めるのと同じなのだ。

文を読んだときに解放感がありました。日頃自我の牢獄を実感しています。観察に励みます。

228鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/03(水) 21:49:00 ID:1d4drIFg0
神を見る者にはまだ主体と客体があり、分裂が在るのじゃ。
オショーの言う神とは全てであり、何一つ分裂していない全体なのじゃ。
そこに見られる神は居らず、見る者もいないのじゃ。
ただ雨粒が海と一つになるように、神と一つになる達成だけが在るのじゃ。

229避難民のマジレスさん:2021/03/04(木) 21:20:46 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:私は神の信仰を持っていますが、あなたは信仰が有害であると言います。私は信仰を放棄すべきでしょうか?

あなたの質問への答えは、質問自体の中に発見されるべきではないだろうか? 願いによって持ったり手放したりできる信仰に何の価値があるのか? それは明らかに全く価値のない盲目の心的な概念に過ぎない。それは盲目の信仰であり、あなたは人生において盲目でなければないほど良いのだ。

私はあなたに信じて欲しいと頼んでいるのではなく、知って欲しいと頼んでいるのだ。知を得て、実現によって到達した心の状態だけが価値を持つ。あなたが望むならば、それを正しい信念と呼ぶこともできるが、それは信念ではなく、知だ。いくつかの漠然とした真実を信じてはならない。真理を探しなさい。それを求めなさい。しかし、どんな信念や概念にもしがみついてはならない。これは心の弱さの表れだ。それは無気力であり、注意の欠如だ。それは、自己を見るという務めから免れるための有害な方法なのだ。

盲信とは、修行からの逃避であり、自己実現のための努力からの逃避だ。それはある意味では自殺に他ならない、なぜならば一度この地下溝に落ちてしまうと、真理の頂点に登ることができなくなるからだ。これらの道は、二つの反対方向にあなたを導く。一つは、あなたが陥る溝であり、もう一つは、あなたが登らなければならない高遠な山頂だ。

質問が浮かぶと智慧が答えることがあるのですが、それには自己の真のグルとして完全に従って大丈夫でしょうか?

230鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/04(木) 23:10:16 ID:1d4drIFg0
↑いかんのじゃ。
それは自分の願望から出たものであることもあるからなのじゃ。
なんでも実践して自らの体験から真実を見出さなくてはいかんのじゃ。
現実のグルでもその言葉を鵜呑みにせず真実を自ら見出すべきなのじゃ。
それがオショーも説いていることなのじゃ。

231避難民のマジレスさん:2021/03/05(金) 20:39:25 ID:Dp/qMVVc0
信仰とは簡単なものだ、なぜならば人は何もする必要がないからだ。その意味では、知はそう簡単ではない。知とは生の完全な変容だ。信仰は外側の衣服であり、知は内側の革命だ。単純な信仰は、あなたの魂が努力している贖罪の頂点に到達できるようにするよりもむしろ、あなたを盲目的な信仰の眠りに簡単に戻しうる。「宗教(Religion)」は信仰ではないが、残念ながら宗教(religion)は信仰だ。私にとって「宗教」とは何かというと、世界の宗教の概念とは一致しない。その点では、カール・マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは正しかったが、本当の宗教についてそう言うのは大きく間違っている!

あなたは、シャスターラへの信仰、神の言葉への信仰、教師への信仰を持つように言われてきた。私は全くそうは言わない。私が言いたいのは、自分自身を信じなさいと言うことだ。自分自身を知ることによってのみ、シャスターラが何を言ったか、神が何を言ったかを知ることができる。 自分自身を信じていない者にとって、他の信仰に従うことは無駄なことだ。あなたは誰か他の人の足で立つことができるだろうか? ブッダは、「自分自身を灯明にしなさい。自分自身を避難所としなさい。自分自身の避難所以外に適切な避難所はない。」と言った。 私も同じ事を言う。

ある夜、あるサドゥーが客人だった別のサドゥーに別れを告げようとしたとき、別のサドゥーが「夜はとても暗い。どうやって行けばいいのでしょうか?」と言った。 主人はランプを灯して、それを客人に渡した。しかし、客が階段を降りようとしたとき、主人はランプを吹き消した。場所は再び暗闇に包まれた。すると主人は言った、「私のランプはあなたの道を照らすことはできません。そのためには、あなた自身のランプを持っている必要があります。」 客人はサドゥーのアドバイスを理解した。この理解はその人自身の人生の道を照らすランプとなり、二度と消されることはなかった。

智慧に関しても、鵜呑みにしてはいけないのですね。自分の願望から出たものと、そうでは無いものを、実践して体験する以外に見分ける方法はないのでしょうか。また、智慧に関してもうひとつ質問がございます。私の経験ですと、自分自身の変容が伴う場合と、ただ知識のみが得られる場合があります。鬼和尚が実践して確かめよと述べられたのは、後者に関してでしょうか?

232鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/05(金) 22:48:46 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、自ら実践して見分ける以外にないのじゃ。
 経典でさえもそのようにするべきなのじゃ。

 後者になるじゃろう。
 変容が起きたのならばもはや正しいことは確かめられたのであるからのう。
 知識でしかないものが正しのかどうか、自ら確かめるのじゃ。

233避難民のマジレスさん:2021/03/06(土) 20:55:48 ID:Dp/qMVVc0
修行は単なる生活の一部ではなく、立っている時、座っている時、話している時、笑っている時など、生活全体に浸透していなければならない。修行は常に在らねばならず、そうすることで初めて自然発生的なものとなるのだ。宗教とは、特定の行為や礼拝、祈りからなるものではない。それは、生のすべてが礼拝と祈りになるような生き方だ。それは儀式ではなく、生き方なのだ。この宗教では、宗教的であるのは自分の行為ではなく、宗教的であるのは個人だ。どんな行動も宗教的ではなく、生が宗教的なのだ。

自我や「私」の束縛から自由になることによってのみ、意識は個人を超越し、全体と一体となることができる。土瓶が海から水を離すように、自我の土瓶は真理から個人を遠ざけている。

この自我、この「私」とは何か? あなたは自分の中でそれを探したことがあるだろうか? あなたが探したことがないので、それは存在しているに過ぎない。私自身がそれを見つけようとしたとき、それが存在しなかったことがわかった。静かな瞬間に自分自身の中に深く入り、見なさい。あなたはどこにも「私」を見つけることはできない。「私」は存在しない。それは、私たちがその社会的有用性のために存在をもたらしてきた単なる幻想だ。あなたが名前を持つのと同じように、あなたは自我も持つ。両方とも実用性があり、実用的な観点からは価値があるが、それらは実在しない。あなたの中にあるものには、名前も自我もない。

常に観察を保つというのはなかなか難しいのですが、少しずつ増えてきているように思います。さらに励みます。

234鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 00:08:34 ID:1d4drIFg0
私とは何か探したことが無い者にそれは存在しているというのじゃ。
探していないから私があると漠然と認識しているのじゃ。
詳細に探してみればそれがないとわかるのじゃ。
人間本来無名無色なのじゃ。

235避難民のマジレスさん:2021/03/07(日) 21:06:42 ID:Dp/qMVVc0
涅槃に入ることも、モクシャに入ることも、解放に入ることも、魂に入ることも、アートマンに入ることもない。あなたが去ったことのない場所にどうやって入ることができるのだろうか? そして何が起こるのだろう? 先ほど言ったように、涅槃に入るということはないが、何が起こるかというと、今までいた世界が夢のように溶けて、自分自身の中に自分自身がいることに気づくのだ。このように、その体験は「入る」ということでは全くなく、夢の中でしていた旅が突然終わり、ベッドの上にいる自分を発見するようなものだ。あなたはどこにも行っていないので、戻ることに関する質問はない。何も失っていないので、何かを達成するという話は無意味だ。あなたは夢を見ているだけだ。あなたの旅と探索は夢の中にある。あなたはどこかに行ったり、何かを見つける必要はない。しなければならないことは、目覚めることだけだ。

真理の実現は、常に完璧であり、常に完全だ。そして、その経験、その達成は、徐々にではない。それは進化ではなく、革命だ。夢から覚める人は、徐々に少しずつ覚めるだろうか? 夢があるか、夢がないかのどちらかだ。中間段階はない。そう、修行は長い時間がかかるかもしれないが、真理の実現は、稲妻の閃きのように行われる - 瞬間に、そのすべての全体で。

実現はそのように起こるために、時間がかからない。なぜならば、時間をかけて起こるものは何でも、常に漸進的で、進行的だからだ。修行はある時間を占め、その時間の間で起こるが、実現には全く時間がかからない。それは時間を超えている。

時間を超えた、今、ここにある真理に気付けるよう、今日また新たに観察します。

236鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 22:52:16 ID:1d4drIFg0
涅槃や解脱やアートマンなどの言葉はもはや観念になってしまったのじゃ。
それらに囚われれば逆に障害にもなるのじゃ。
ただ目覚めることが在るだけとオショーは言うのじゃ。
それは一瞬で起こるものじゃ。
自己の存在が幻想であると気付くことで瞬時に起こるのじゃ。

237避難民のマジレスさん:2021/03/08(月) 20:49:23 ID:Dp/qMVVc0
真理の実現のためには、善と放棄の修行だけでは不十分だ。それは部分的な修行だ。真理の実現のためには、善と悪、愛と憎しみ、輪廻とモクシャ、世界と解放の両方の上に昇ることが不可欠だ。その状態は、私たちの言葉では、ヴェータラガタと呼ばれ、執着と隔絶の両方を超えた状態だ。ヴェータラガ・チャイターニャ(無欲の意識)とは、愛も憎しみもなく、善も悪もなく、ただ純粋なチャイターニャ、純粋な意識、自己の中での不動性だけが存在する状態のことだ。真理の実現はこの状態でのみ起こる。

あなたは無頓着で注意深い心を養わなければならない。夜も昼もあなたの生全体に織り込まれている、まさに呼吸のように、自分自身にその心の状態を織り込まなければならない。俳優が役を演じるとき、自分が演技をしていることをよく認識しているのと同じように、 あなたは、行為中に行為しないことを実践し、すべての活動で無頓着かつ注意深くなければならない。俳優は役に夢中になり、その中で意識を失うことはない。演技をしていても、切り離されたままでいる。あなたもそのようになり、そのようなままでなければならない。

人が活動に従事している間、注意深く見ていれば、無頓着のままでいることは難しいことではない。それは観察の自然な結果だ。私は道を歩いている。もし歩くという行為を完全に観察するならば、私は歩いていると同時に、歩いていないことを感じるだろう。歩くという行為は物理的な水準では行われているが、意識のレベルでは歩きは無い。食事をしていても、他のことをしていても、同じように感じるだろう。あなたの中には、ただ見る者である一点が存在するだろう。それは行為者でも、享楽者でもないだろう。この見ることの経験が深まれば深まるほど、幸福や悲しみの感情は徐々に解消されていき、絶対的で純粋な意識であるアートマン、あなたの自己を実現するだろう。

自分の中で同時に複数起こることに気づけていれば、観察ができていると思っていました。しかし、静かにしている時は、何か行為している時よりも微細な観察ができていることに気づきました。逆に言えば、行為中の観察は不十分だったということです。精進します。

238鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
↑善い気付きなのじゃ。
そのようにしてどんどん進むと善いのじゃ。
精進あるのみなのじや。

239鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:58:46 ID:1d4drIFg0
真理の実現には善と放棄だけではいかんというのじゃ。
注意深い観察が必要なのじゃ。
自分が観察されなければ自我はなくならないのじゃ。
日々観察し続けることで感情さえも要らないものと気づき、アートマンにも達するのじゃ。

240避難民のマジレスさん:2021/03/09(火) 21:05:28 ID:Dp/qMVVc0
心とは何だろうか? 心とは、感覚によって知覚されたものの収集者であり、また収集物でもある。心を自己と見なす人は誰でも、使用人を主人と勘違いしている。そして、もし本当の自己を実現したいならば、あなたが知っているものをあきらめなければならないし、知る者に従わなければならないだろう。心はあなたが知っているものに過ぎず、自己はあなたがすべてを知っていることを意味する。

見者、知る者とは自己のことだ。この自己は、生と死とは異なり、マーヤーとモクシャとも異なり、幻想と解放とも異なる。それはただ見者であり、光の、闇の、世界の、涅槃の、すべてのものの見者だ。自己はすべての二元性を超えている。

人はこの見者を知るとすぐに、蓮のようになる - それが生まれた泥から離れ、生きている水から切り離される。そのような人は、喜びの中にも痛みの中にも、名誉の中にも屈辱の中にも - ただの目者であるため - 生のすべての状況で穏やかであり、落ち着いている。どんなことでも、起こることは、起こる。しかし、それはその人に起こるのではなく、その目の前で起こる。その人は目撃する。その人はちょうど鏡のようになる。鏡は何千ものイメージを映し出すが、痕跡は残らない。

以前は縁起を観察するように意識していたのですが、いつの間にか最近はただ観察するようになっていました。縁起に注意するようにした方が良いでしょうか? それとも、新たな発見があるうちは、今のままで良いですか?

241鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:55:35 ID:1d4drIFg0
↑縁起が観えるならば観ると善いのじゃ。
そうでなければ観ないでよいのじゃ。
いずれはそれも自然に観えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。

242鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:58:28 ID:1d4drIFg0
心とは主人ではなく、使用人であるというのじゃ。
それは主体ではなく、認識されたものなのじゃ。
全てのものを見るのが自己であると言うのじゃ。
ただ見るだけであり何も知識とはしないのじゃ。

243避難民のマジレスさん:2021/03/10(水) 20:30:50 ID:Dp/qMVVc0
年老いたサドゥーが若い仲間と一緒に川の岸辺に来た。若者は「どうやってこの川を渡りましょうか」と尋ねた。老人は「足が濡れないように」と答えた。若者は老人の言葉を聞いて、雷の閃光のように、何かが非常にはっきりと、明らかになった。川は来て、去っていたが、神秘的な格言は彼の心に深く浸透していた。それが人生の指針となった。足が濡れないように川を渡ることを学んだのだ。

あなたはこの若者のようにならなければならない - 食べていてもなお、食べていない人のように、群衆の中にいてもひとりでいる人のように、眠っていても起きている人のように - というのも、そのような人だけがこの世での解放を得て、すべての石の中に神を見出すからだ。

誰かが、「心は世界を含むべきではなく、世界は心を占めるべきではない」と言った。これは従うべき教義だ。そして、もしこの格言の前半が完全なものであれば、後半は自動的に従う。前半は原因であり、後半はその効果だ。しかし、後半から始める人は誤りを犯す。したがって、私は格言のこれだけを言う:心に世界を含ませてはならない。これに続くものは格言ではなく、結果だ。心が世界を含まなければ、世界は決して心を占領することはない。心に含まれていないものは、決してそれを占有することはできない。

この格言は、記憶をすべきでないということなのでしょうか?

244鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/10(水) 22:00:16 ID:1d4drIFg0
↑それが出来れば一番善いのじゃ。
しかし、記憶に依存している者にはできないじゃろう。
全ての世界の知識は幻想の観念であると、心得ておく位が出来ることじゃろう。
そのように実践するとよいのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2021/03/11(木) 21:13:32 ID:Dp/qMVVc0
サマーディでは、既知のものに対象がないので、サマーディの状態を知と呼ぶことはできない。それは確かに普通の意味での知ではないが、同時にそれは無知でもない。そこには知るべきものは何もない。それは、知と無知の両方とも異なる。対象が全く存在しないから、対象を知ることも知らないこともないのだ。そこにあるのは主観だけだ。そこにあるのは知る者だけだ。どんな対象についての知もなく、純粋な知、つまり中身が空な意識があるだけだ。

ある人がサドゥーに「瞑想とは何ですか?」と尋ねたことがある。サドゥーは、「近いものの中にいることが、ディアーナ、瞑想だ」と答えた。

何があなたに近いだろう? 自分自身を除いて、すべてのものは自分から離れていないだろうか?あなただけがあなたの自己の近くにいる。しかし、あなたは永遠に自分自身を離れ、常に自分自身から遠く離れている。あなたはいつもどこか周囲にいる。自己の中にいて、周囲にいないことが瞑想だ。あなたがどこにもいなくて、あなたの心もどこにもないとき、そのときでさえもあなたはどこかにいる。そのどこかが瞑想だ。

私がどこにもいないとき、私は自分自身の中にいる。それは周囲にいることではなく、離れていることでもない。それは内向きであり、親密だ。そこにいることによってのみ、人は真理に目覚めることができる。あなたは周囲にいることによってすべてを失っているが、それはすべてあなたの自己の中にいることによって取り戻すことができる。

忘我の体験では、自分という主体や感覚がないとき、どこにも自分はなく、ただ何も無いという観ることがあるだけでした。ですので、「あなたがどこにもいなくて、…、そのときでさえもあなたはどこかにいる。」という状況が腑に落ちない感じです。元が主語を必要とする英語の言い回しだからでしょうか。今日のオショーのことばを、少し詳しく教えてください。

246鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/11(木) 22:01:43 ID:1d4drIFg0
自分という観念も、感覚も無く、心の働きさえも感じられない時、そこにも確かに意識は在るのじゃ。
それらを認識している意識が在るからそれもわかるのじゃ。

自分が全ての認識の主体であると思っていると、自分が無いと何もないと想うのじゃ。
自分さえも実は認識の主体ではなく、ただ観念として認識されたものとして知れば、自分の無い意識も感得できるのじゃ。
何か存在するものがあると言えるのは、その意識だけなのじゃ。
全てを捨ててその意識に回帰すればそれが瞑想なのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2021/03/12(金) 21:02:49 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに世界を捨てなさいと頼むのではなく、自分を変えなさいと頼む。世界を否定してもあなたは変わらないが、あなたが変われば世界はあなたにとって存在しなくなる。真の宗教とは、世界を否定するものではなく、自己変革するものだ。世界のことを考えるのではなく、世界に対する自分の見方を考えなさい。それを変えなければならない。それが原因で、世界があり、束縛がある。見方が変われば、創造物全体が変わる。輪廻にも世界にも落ち度はない。誤りはあなたとあなたの見方にある。

ヨーガは生の変容、自己変革の科学だ。自分自身を分析することで、物理学は原子と原子のエネルギーに到達するが、ヨーガは霊と霊的なエネルギーに到達する。前者では物質に隠された神秘が発見され、後者では自己に隠された世界が明らかにされる。

しかし、この宇宙には自己よりも重要なものはないので、ヨーガは科学よりも重要だ。人間は物質についてはよく知っていても、自己については何も知らないので、バランスを崩している。人は海の計り知れない深さに飛び込み、驚くほどの高さまで飛ぶ方法を学んだが、自己の中に隠退する方法を忘れてしまったのだ。これは自殺的な状態だ。これはまさに私たちの不幸だ。ヨーガはこのバランスを回復させることができるからこそ、ヨーガを教えることが必要なのだ。

停滞感があるのは、正しい観察ができていないということなのでしょうか? 初心にかえり、姿勢から見直してみます。

248鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:32:35 ID:1d4drIFg0
停滞していると感じる時は最も進歩しているものじゃ。
自分が進んでいるから気付かないのじゃ。
周りを観察してみて以前とは感じ方が違うことを知ると善いのじゃ。
あるいは日記をつけて時々読み返すと善いのじゃ。

249鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:35:44 ID:1d4drIFg0
世界を否定しても自分は変らないが、自分が変れば世界は存在しなくなるとオショーは言うのじゃ。
世界とは自分が観念に拠って作り出したものであるからのう。
自分が変れば以前の世界と想っていたものがなくなるのじゃ。
世界にも全てのものごとにも何も間違いはなく、自分の観念に誤りが在るのじゃ。
それが苦の原因なのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2021/03/13(土) 20:57:58 ID:Dp/qMVVc0
ヨーガを通してのみ、真の意味での新しい人間の誕生が起こり、その時に初めて新しい人間性の基礎が築かれる。科学は物質を征服し、今、人間は自分自身を征服しなければならない。物質を征服したことで、人間は今、自分自身を知り、征服することが必須となった。さもなければ物質の無限の力、原子力を支配することが、自らの破滅を招くことになる、なぜならば、無知な者の手にある力は常に致命的だからだ。

もし科学が無知な者の手に落ちれば、科学と無知の組み合わせは破壊的なものになるに違いない。しかし、もし科学が知を持つ者の手にあれば、世界を天国に変える前例のない創造的なエネルギーの誕生につながるだろう。

それゆえに、私はあなたに、未来と人間の運命は今、ヨーガの手の中にあると言う。ヨーガは未来の科学であり、それは人間の科学だからだ。

第9章はこれで終わりです。残り1章です。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
昨日、夢の中でも観察による気づきが起こったように思うのですが、そのようなこともあり得るのでしょうか?

251鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/13(土) 21:53:39 ID:1d4drIFg0
↑特におかしなところは無いのじゃ。
 
 そのようなこともあるのじゃ。
 潜在意識で観察と気づきが行われているのじゃ。
 そこまで進歩すれば観照も近いといえるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

252避難民のマジレスさん:2021/03/14(日) 22:02:01 ID:Dp/qMVVc0
第10章 別れの言葉 1964年6月8日午前

たった一瞬の決意、サンカルパ、完全な決意だけで十分であり、それなしの人生は無意味だ。重要なのは時間ではなく、決意であることを覚えておきなさい。世界における成果は時間の領域で達成され、真理の成果は決意の領域で達成される。サンカルパ、決意は、あなたの修行の中に生きていなければならない。

さて、今日は何を話そうか? 今夜、私たちは別れることになるが、あなたたちの心はその見通しで、すでに重くなっているのが私には見える。この孤独な場所に皆で集まってから、たった5日しか経っていない。誰が旅立つことを考えただろう?

しかし、忘れてはならないのは、別れは共になることに内在しているということだ。それらは同じコインの表裏だ。一見違うように見えても、いつも一緒なのだ。それらは別々に、また別の機会に現れるので、私たちはそれらがつながっていないという誤った信念に騙されている。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、出会いとはそれ自体が別れであり、幸せとは悲しみでもあり、誕生とは死でさえあることがわかる。実際には、来ることと行くことの間にはほとんど違いはない - むしろ、全く違いはない。それは人生においても同じだ。行く過程が始まったときには、あなたはほとんど来ていない、そして、私たちの心に留まっているように見えるものは、単に去るための準備に過ぎないのだ。

はじめの文、「たった一瞬の決意、完全な決意だけで十分」を少し詳しくお教えください。完全な決意というのはわかるように思いますが、たった一瞬の決意(one and only one moment of determination) をどのように実践したら良いかわかりません。

253鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/14(日) 23:08:51 ID:1d4drIFg0
↑ それは悟りの寸前に成される決意なのじゃ。
 真摯に修業を続けていれば、やが自分が消える瞬間が訪れるじゃろう。
 その時、自分がなくなってもよいから悟りを得たいと強い決意をすれば観照が起こるのじゃ。
 その一瞬だけで決意は十分なのじゃ。
 後は無我になり、認識も容易に滅することが出来るのじゃ。
 時間ではなく、その決意こそが大事なのじゃ。

 長年修業しているのに悟りが来ないと言うものは、恐らく何度か自分が消える瞬間を体験しているが、恐れからその決断ができなかったものなのじゃ。
 そうであるから一瞬の決意が大事なのじや。


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