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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
1
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n
#last
>>863
〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。
781
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/20(月) 23:48:23 ID:NWYNc3.c0
くまめも1
複雑な社会に生きる人間として、幸せに物理的に生きるには、健全で合理的で効果的な組織が要る。
区別があるから、無秩序がある。繁栄がありながらも、戦争、抗争、葛藤、残忍さがある。信念の組織もまた不統一と戦争を生み育てる。
組織と自由との間の関係は何か。組織を生から違ったものとして分離するとき、これ自体が、葛藤、抗争と無秩序。自由のなか生きること、この自由から、この自由のなか生を組織することは、可能か。
質問者 生の組織は、他の人たちがあなたのために作る。あなたは自由のなかからあなた自身で単純に組織できない。私たちは組織のなかに生まれるが、それは自由を制限する。私たちは屈従するか反逆するかどちらか。私たちはこの罠に捕らわれる。
私たちは、自分たちが社会を、この無秩序を、壁を造り出してきたことを、悟らない。私たちの一人一人が、そのすべてに応ずる責任がある。社会は、私たちなるもの。社会は私たちとは違わない。私たちが葛藤、抗争にあり、貪欲で、妬み、羨ましがり、恐れに満ちているのなら、そういう社会をもたらす。
(´・(ェ)・`)
782
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/21(火) 22:40:51 ID:1d4drIFg0
社会も人の心の反映であるから、貪欲や抗争を心に持つ者が社会を作れば貪欲や抗争ばかりの社会になるのじゃ。
それらの観念から逃れられない者には新しい社会などないのじゃ。
貪欲と抗争の行いを続けるばかりなのじゃ。
真の自由は一人一人の心の中にあるのじゃ。
それを心の中に探し出すのじゃ。
783
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:22:31 ID:01Pv3Jqk0
>>782
なんとかしようとするから、葛藤が生じる。
他があると思うから、軋轢が生じる。
無我、ないしは、真我以外は「無」が真理であれば、解決でありますね。
(´・(ェ)・`)b
784
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:26:11 ID:01Pv3Jqk0
変化の緊要
組織 2
質問者 個人と社会との間には違いがあります。私は菜食主義者です。社会は動物を屠殺します。私は戦争に行きたくありません。社会は力づくで私を行かせるでしょう。あなたは私に、この戦争は私のしわざであると語っているでしょうか。
K はい。それはあなたの責任能力です。あなたは、あなたの国、あなたの貪り、妬み、羨み、憎しみにより、それをもたらしたのです。あなたは、心にそれらのものを持つかぎり、どんな国、信条、民族にでも属するかぎり、戦争に応ずる責任能力があるのです。自分たちはこの社会を造り出してこなかったと言えるのは、これらものごとを免れ自由である人たちだけなのです。ゆえに、私たちの責任能力は、暴力と流血なしに、私たちが変化するべく見ること、他の人たちが変化するよう助けることなのです。
質問者 それは、組織的宗教という意味です。
K 明らかにそうではありません。組織的宗教は、信念と権威に基づいてあるのです。
質問者 自由と組織の間の関係に関する私たちの元来の疑問において、これで私たちはどこに至るのでしょうか。組織はいつも環境によって課されたり、相続されるのです。そして、自由はいつも内側からあるし、これら二つはぶつかり合うのです。
K あなたはどこから出発するのでしょうか。あなたは自由から出発しなければなりません。自由があるところに、愛があるのです。この自由と愛は、いつ協力すべきなのか、いつ協力すべきなのかを、あなたに示してくれるでしょう。これは選択の行為ではありません。なぜなら、選択は混乱の成果であるからです。愛と自由は智恵なのです。それで、私たちが関心を持つものは、組織と自由の間の区別ではありません。私たちがいったいこの世界に区別なく生きられるのかどうかです。自由と愛を拒否するのは区別です。組織ではありません。組織が区別するとき、それは戦争につながります。どんな形態でも信念は、どれほど高貴で効果的でも理想は、区別を生み育てるのです。組織的宗教は、国と権力集団と同じく、区別の原因です。それで、個人的でも集団的でも、区別するものごとに、人と人との間に区別をもたらすものごとに、関心を持ちなさい。家族、教会、国家は、こういう区別をもたらします。重要なものは、区別する思考の動きです。思考自体がいつも区別的であるので、観念や思想に基づく行為すべては区別です。思考は先入観、見解、判断を養成します。人間自身は、区別されるので、この区別のなかから自由を探し求めます。それを見つけることができないので、さまざまな諸区別を統合したいと願うのですが、もちろんこれは可能ではないのです。あなたは二つの先入観を統合できません。自由のなかこの世界に生きるとは、あらゆる形態の区別を慎み、愛をもって生きるという意味です。自由と愛があるときには、この智恵が、協力のなか行為するでしょうし、いつ協力すべきでをもまた知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
785
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:44:58 ID:01Pv3Jqk0
くまめも2
戦争はあなたの責任。あなたの国、貪り、妬み、羨み、憎しみにより、戦争をもたらした。心にそれらのものを持つかぎり、どんな国、信条、民族にでも属するかぎり、戦争に応ずる責任がある。ゆえに、私たちの責任は、暴力と流血なしに、私たちが変化するべく見ること、他の人たちが変化するよう助けること。
私たちが関心を持つのは、この世界に区別なく生きられるか。自由と愛を拒否するのは区別。組織ではない。組織が区別するとき、それは戦争につながる。
信念は、どれほど高貴で効果的でも理想は、区別を生み育てる。個人的でも集団的でも、区別するものごとに、関心を持て。重要なものは、区別する思考の動き→思考自体がいつも区別的→観念や思想に基づく行為すべては区別。思考は先入観、見解、判断を養成する。人間自身は、区別される→区別のなかから自由を探し求める→それを見つけることができない→諸区別を統合したいと願うが、これは不可能。自由のなかこの世界に生きるとは、あらゆる形態の区別を慎み、愛をもって生きるという意味。自由と愛があるときには、この智恵が、協力のなか行為するし、いつ協力すべきかをもまた知る。
(´・(ェ)・`)
786
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/22(水) 22:56:05 ID:1d4drIFg0
>>783
そうじゃ、全て一つならば無問題なのじゃ。
無為で生きれば何も葛藤は無いのじゃ。
787
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/22(水) 22:59:33 ID:1d4drIFg0
どれほど思考によって観念を弄り回しても自由は無いのじゃ。
思考はものごとを分類したり、統合したりするがそれもまた観念の内に留まるのみであるからなのじゃ。
観念は記憶に拠ってあるものであるから、何も新しいことは見出せないのじゃ。
自らの心を観ることによって自由も見出せるのじゃ。
788
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/22(水) 23:06:39 ID:8W/pu.9.0
変化の緊要
愛と性 1
質問者 私は既婚者であり、幾人もの子どもを持っています。私は楽しみの探求のなかかなり放埒な生を、しかしそうとうに文明的生をまた生きてきましたし、私は経済的にはそれを成功させました。しかしいま、私は中年であり、私の家族についてだけではなく、世界の進みゆく道についてもまた関心を感じているのです。私は残忍や暴力的感情にふけりませんし、私はいつも、許しと慈悲が生のなかで最も重要なことであると考慮してきました。これらなしでは、人間は人間以下になるのです。それで、私はよろしければ、あなたに、愛とは何なのかをお訊ねしたいように思うのです。そういうものが本当にあるのでしょうか。慈悲はそれの部分であるにちがいありませんが、しかし、私はいつも、愛は何かはるかに広大なものであると感じるのです。そして、もしも私たちがともにそれを探検できたなら、そのときおそらく私は私の生を、手遅れになるまえに、何かかいあるものにするでしょう。私は本当に、この一つのことを訊ねに来たのです - 愛とは何でしょうか。
K 私たちはこれに入りはじめるまえに、言葉はそのものではないし、叙述は叙述されるものではないことが、明確でなければなりません。なぜなら、どれほど微細で巧妙でも、どんな量でも説明は、心を愛の無量性へ開かないでしょうから。私たちは、単に言葉に張り付くだけではなく、これを理解しなければなりません。言葉は伝達に役立ちます。しかし、何か本当に非言語的であることについて話すなかで、私たちは互いに間に交感を確立し、そのため私のどちらもが心と頭の充足をもって同じことを同じときに感じ悟るように、しなければなりません。そうでなければ、私たちは言葉を弄んでいるでしょう。頭には触れられないこの本当にごく微妙なことに、接近できるのでしょうか。私たちはむしろためらって行かなければなりません。私たちはまず初めに、それが何でないのかは分かるでしょうか。そのときおそらく私たちは、それが何であるかが分かることができるかもしれません。否定をとおして私たちは、肯定的なものに出会うかもしれません。しかし、単に肯定的なものを追求することは、区別をもたらす想定と結論につながるのです。あなたは、愛とは何なのかを訊ねています。私たちは、それが何でないかを知るときにそれに出会うかもしれないと言っているのです。区別、分離をもたらすものは何でも、愛ではないのです。そこには葛藤、抗争、闘争、残忍があるからです。
質問者 あなたの言われる、闘争をもたらす区別、分離とは、どういう意味なのでしょうか。それはどういうことなのでしょうか。
K 思考はその本性において区別的なのです。楽しみを探し求め、それを保つのは、思考です。願望を養成するのは思考です。
質問者 願望にもう少し入ってもらえるでしょうか。
K 家を見ること、それはすてきだという感受があります。そのとき、それを持ちたい、それから楽しみを得たいという願望があります。そのとき、それを得ようとする努力があります。このすべてが中心を構成します。この中心が、区別の原因です。この中心は「私 'me' 」という感情ですが、これ(=「私 'me' 」という感情)が区別の原因です。なぜなら、この「私 'me' 」という感情が、分離の感情であるからです。人々はこれを自我、その他あらゆる種類の名で呼んできました - 「高い自己」という何かの観念とに対立する「低い自己」です。しかし、それを錯綜させることは要らないのです。それはとても単純です。中心は「私 'me' 」という感情であり、その諸活動においてそれ自体を孤立させるのですが、その中心があるところには、区別と抵抗があるのです。そして、このすべてが思考の過程です。それで、あなたが愛とは何なのかを訊ねるとき、それはこの中心からではないのです。愛は楽しみや苦しみではなく、憎しみやどんな形態の暴力でもないのです。
質問者 ゆえに、あなたの語られるこの愛には、願望はありえないのだから、セックスはありえないのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
789
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/22(水) 23:25:15 ID:8W/pu.9.0
くまめも1
言葉はそのものではない、叙述は叙述されるものではない。どれほど微細で巧妙でも、心を愛の無量性へ開かない。
それが何でないのかが分かれば、それが何であるかが分かるかもしれない。否定をとおして私たちは、肯定的なものに出会うかもしれない。しかし、単に肯定的なものを追求することは、区別をもたらす想定と結論につながる。区別、分離をもたらすものは愛ではない。そこには葛藤、抗争、闘争、残忍があるから。思考はその本性において区別的。楽しみを探し求め、それを保つのは、思考。願望を養成するのは思考。
家を見る→すてきだという感受→それを持ちたい、それから楽しみを得たいという願望→それを得ようとする努力
このすべてが中心を構成する。この中心が、区別の原因。中心は「私 'me' 」という感情(自我)であり、その諸活動においてそれ自体を孤立させるが、その中心があるところには、区別と抵抗がある。このすべてが思考の過程。
愛とは、この中心からではない。愛は楽しみや苦しみではなく、憎しみやどんな形態の暴力でもない。
質問者 この愛には、願望はありえないのだから、セックスはありえないのか。
(´・(ェ)・`)
790
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 00:22:38 ID:UNAlvYr.0
変化の緊要
愛と性 2
K どんな結論にも至らないでください。私たちは究明し、探検しているのです。どんな結論や想定も、それ以上の探究を妨げるのです。この疑問に答えるには。私たちはまた思考のエネルギーをも見つめなくてはなりません。私たちが言ったとおり、思考は、何か楽しめたことについて考え、イメージ、映像を養成することにより、楽しみを維持するのです。思考は楽しみを発生させるのす。性行為について考えることが、欲情になるのですが、これは性行為とは全然違っているのです。ほとんどの人々が関心を持っているものは、欲情の情熱です。セックスの前と後の渇望は、欲情です。
この渇望は思考です。思考は愛ではありません。
質問者 この思考の願望なしのセックスはありうるのでしょうか。
K あなたはあなた自身で見出さなくてはなりません。セックスは私たちの生にとてつもなく重要な役割を果たします。なぜなら、それはおそらく、私たちが手にするただ一つの深く直の経験であるからです。知的、情動的に私たちは順応し、模倣し、従い、服従します。性行為以外には、私たちの諸関係すべてに、苦しみと闘争があるのです。この行為は、こんなに違って美しく、私たちはそれの中毒になるので、今度はそれが束縛になるのです。束縛はその継続への要求です - 再び、区別的である中心の行為です。こんなに垣根に囲まれて - 知的に、家族のなか、共同体のなか、社会道徳をとおし、宗教的裁可をとおし - こんなに垣根に囲まれているので、そのため、自由と強烈さの残されているただ一つのこの関係だけがあるのです。ゆえに、私たちはそれにものすごい重要性を与えるのです。しかし、もしもずっとあたりに自由があったなら、そのときこれは、こういう渇望とこういう問題ではないでしょう。私たちは、それを十分に得られないから、または、それを得ることに罪悪を感じるから、または、それを得るなかで社会が定めた規則を破るから、それを問題にするのです。新しい社会にとってセックスは生の一部であるから新しい社会を放縦と呼ぶのは、古い社会です。心を模倣、権威、順応、宗教的規定の束縛から解き放ち自由にするなかで、セックスはふさわしいところを得るのです。しかし、それはすべてを併呑しないでしょう。ここから、自由は愛にとって本質的であることが分かるのです - 反逆の自由ではなく、好きなことをしたり、渇望におおやけまたは密やかに耽溺する自由ではないのです。むしろ、中心のこの構造と本性の全体を理解するなか、来る自由です。
質問者 では、自由は放縦ではないですね。
K はい。放縦は束縛です。愛は憎しみではなく、嫉妬でもなく、野心でもなく、失敗の恐怖をともなう競争の精神でもないのです。それは神の愛でもなく、人の愛でもないのです - これもまた区別です。愛は一人のでもなく大勢のでもないのです。愛があるとき、それは、対象をもってもたず、人格的でも非人格的でもあるのです。それは花の香りに似ています。一人も大勢もそれを嗅げるのです。大事なものは、香りです。それが誰に属しているかではないのです。
質問者 これらのどこに、許しは入ってくるのでしょうか。
K 愛があるとき、許しはありえません。許しは、あなたが怨恨を蓄積させた後にのみ、来るのです。許しは憤慨です。傷がないところに、癒しは要らないのです、憤慨と憎しみを生み育てるのは、不注意です。そしてあなたは、それらに気づき、そのとき許すのです。許しは区別を助長します。あなたは、自らが許していると意識するとき、罪を犯しているのです。あなたは、自らが寛容であると意識するとき、不寛容なのです。あなたは、自らが静寂であると意識するとき、静寂はないのです。あなたは、意図的に愛そうとしてみるとき、暴力的なのです。「私はある」「私はない」と言う観察者があるかぎり、愛はありえないのです。
質問者 愛のなか、恐れはどういうところを占めるのでしょうか。
K どうしてそういう質問ができるのでしょうか。一つがあるところに、もう一つはないのです。愛があるとき、あなたは、何であろうとできるのです。
(´・(ェ)・`)つ
791
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 00:23:56 ID:UNAlvYr.0
くまめも 2
セックスは生にとてつもなく重要な役割を果たす。なぜなら、それは、手にするただ一つの深く直の経験であるから。それの中毒になるので、今度はそれが束縛になる。
自由は放縦ではない。放縦は束縛。愛があるとき、それは、対象をもたず、人格的でも非人格的でもある。
それは花の香りに似ている。一人も大勢もそれを嗅げる。大事なものは、香り。それが誰に属しているかではない。
愛があるとき、許しはありえない。許しは、怨恨を蓄積させた後にのみ、来る。傷がないところに、癒しは要らないし、憤慨と憎しみを生み育てるのは、不注意。そして、それらに気づき、許す。許しは区別を助長する。自らが許していると意識するとき、罪を犯している。意図的に愛そうとする とき、暴力的。「私はある」「私はない」と言う観察者があるかぎり、愛はありえない。
一つがあるところに、もう一つはない。愛があるとき、あなたは、何であろうとできる。
(恐れはない)
(´・(ェ)・`)
792
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/24(金) 00:33:33 ID:1d4drIFg0
区別や分離をもたらす思考とは違う愛があるとクリシュナムルティは言うのじゃ。
区別や分離のあるところには葛藤、抗争、闘争、残忍があるからというのじゃ。
それは世間の愛とは根本的に違うものじゃ。
世間の愛とはそもそも分離や区別したもの同士が持つものであるからのう。
793
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 21:50:17 ID:oyERMyaM0
変化の緊要
知覚 1
質問者 あなたは、知覚に対してさまざまな言葉を使われます。あなたはときには「知覚」と(言われるし)、また「観察する」「見る」「理解する」「気づく」とも言われます。あなたはこれら言葉すべてを同じこと - 明らかに完全に全的に見ること - を意味するために使われるのだと、思うのです。何かを全的に見られるのでしょうか。私たちは物理的、技術的なことを話しているのではありません。心理的にあなたは何かを全的に知覚または理解できるのでしょうか。いつも何か隠蔽されるものがあり、そのため部分的にのみ見えるようにならないでしょうか。あなたがこの事態にかなり広汎に入ってくださったなら、たいへんありがたいのですが。これは、おそらく生のたいへん多くのものごとの手がかりであるかもしれないから、重要な疑問である、と私は感じるのです。もしも私は私自身を全的に理解できたなら、そのときおそらく私は、私の問題すべてを解決してしまい、幸せな超人であるでしょう。私はそれについて話すとき、小さな諸問題と苦悩をともなう私の小さな世界を乗り越える可能性に、かなり興奮を感じます。それで、あなたのいわれる知覚する、見るとはどういう意味なのでしょうか。自分自身を完全に見られるのでしょうか。
K 私たちはいつも部分的にものごとを見つめます。第一に私たちは不注意であるから、第二に私たちは見えるものについての先入観から、言語的心理的イメージから、ものごとを見つめるからなのです。それで、私たちは、けっして何も完全には見ないのです。自然を客観的に見ることさえも、まったく難儀です。私たちの心はさまよっていて興味がないから、どんなイメージもなく、どんな植物学的知識もなく花を見つめること - ただ観察すること - は、全く困難になるのです。そして、たとえ興味があるとしても、自分は本当にそれを見つめてきたという感じを観察者に与えるように思われる一定の評価、鑑賞と言語的叙述をもって、花を見つめるのです。意図的に見ることは、見ることではありません。それで、私たちはけっして本当に花を見つめないのです。私たちはイメージをとおしてそれを見つめるのです。おそらく、私たちが映画に行き、当分かき立てるがすぐに忘れるものを見るときのように、私たちに深く触れないものを見つめることは、そうとうに容易です。しかし、イメージは過去で、私たちの蓄積された経験と知識ですが、イメージなく私たちを観察することは、めったに起こらないのです。私たちは私たち自身についてイメージを持つのです。私たちは自らがああではなくこうあるべきだと思うのです。私たちは、私たち自身について以前の観念を築いてきたし、それをとおして私たち自身を見つめるのです。私たちは自らが高貴であるとか低俗であるとか思うし、現行に私たちなるものが見えると、私たちは憂鬱になるか、怯えるのかどちらかです。それで、私たちは私たち自身を見つめられません。そして、見るときには、部分的な観察です。そして、何でも部分的または不完全であるものは、理解をもたらさないのです。私たちが観察するもの・ことを免れ自由である可能性があるのは、私たちが全的に私たち自身を見つめられるときだけです。私たちの知覚は、ただ眼、感覚によってだけではなく、心によってもあるのです。そして明白に、心は重く条件づけられてあるのです。それで、知的な知覚は部分的な知覚だけなのです。それでも、知能で知覚することが私たちのほとんどを満足させるように思われるし、私たちは自らが理解すると思うのです。断片的な理解は、最も危険で破壊的なものなのです。そして、それがまさしく世界中で起きていることなのです。政治家、宗教家、実業家、技術者、そして芸術家さえも - 彼らのすべてが部分的にのみ見るのです。ゆえに、彼らは本当にとても破壊的な人々です。彼らは世界で大きな役割を果たすから、彼らの部分的な知覚が、受け入れられる規範になるし、人間はこれに捕らわれるのです。私たち一人一人が同時に、宗教家、政治家、実業家、芸術家、他の多くの断片的事物であるのです。私たち一人一人がまた、これら抗争しあう諸見解、諸判断すべての戦場でもあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
794
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 21:55:32 ID:oyERMyaM0
くまめも 1
何かを全的に「見る」「知覚」「観察する」「理解する」「気づく」ことは可能か。
いつも部分的にものごとを見つめる。第一に不注意であるから、第二に先入観から、言語的心理的イメージから見つめるから。それで、けっして何も完全には見ない。意図的に見ることは、見ることではない。イメージは過去で、私たちの蓄積された経験と知識。自らがああではなくこうあるべきだと思う。私たちは、自身について以前の観念を築いてきたし、それをとおして自身を見つめる。見るときには、部分的な観察。部分的であるものは、理解をもたらさない。知覚は、ただ眼、感覚によってだけではなく、心によってもある。そして、心は重く条件づけられてある。それで、知的な知覚は部分的な知覚だけ。断片的な理解は、最も危険で破壊的。政治家、宗教家、実業家、技術者、そして芸術家さえも、部分的にのみ見る。ゆえに、彼らは本当にとても破壊的な人々。彼らは世界で大きな役割を果たすから、彼らの部分的な知覚が、受け入れられる規範になるし、人間はこれに捕らわれる。私たち一人一人が同時に、宗教家、政治家、実業家、芸術家、他の多くの断片的事物である。私たち一人一人がまた、これら抗争しあう諸見解、諸判断すべての戦場でもある。
(´・(ェ)・`)
795
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/24(金) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
全体的に観ることが可能なのかと、よく言われるのじゃ。
仏教でも十二因縁が完全に観られるのは仏陀だけであるとかの迷信が伝わっているのじゃ。
それは悟りを得るための方法であり、悟っていない者でも可能であるからお釈迦様が説いたのじゃ。
それは衆生にも本来備わっている能力によるものであるから誰にでもできるのじゃ。
796
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 00:02:31 ID:oyERMyaM0
変化の緊要
知覚 2
質問者 これは明らかに見えます。もちろん、私は「見える」という言葉を知的に使っています。
K これが知的、言語的、情動的にではなく全的に見えるのなら、そのときあなたは、行為し、全く違った種類の生を生きるでしょう。あなたは危険な断崖絶壁が見えたり、危険な動物に向き合うとき、部分的な理解や部分的行為はないのです。完全な行為があるのです。
質問者 しかし、私たちは自分たちの生の瞬間ごとにはそういう危険、危機に向き合っていません。
K 私たちはすべてのときにそういう危険、危機に向き合っているのです。あなたはそれらが慣習になったのか、それらに無頓着のです。または、諸問題を解決するのを他の人たちに任せるのです。これら他の人たちも、同等に盲目的で偏っているのです。
質問者 しかし、私はどのようにすべてのときにこれらの危機に気づくことになるのでしょうか。そしてなぜ、あなたはすべてのときに危機があると言われるのでしょうか。
K 生の全体は各瞬間にあるのです。各瞬間が挑戦です。この挑戦に不適当に会うことが、生きることの危機なのです。私たちは、これらが危機であることを見たくないし、それらから逃避するため眼を閉じるのです。それで、私たちはもっと盲目になり、危機が増大するのです。
質問者 しかし、私はどのように全的に知覚することになるのでしょうか。私は、私が部分的にのみ見ることは理解しはじめ、また私自身と世界を完全な知覚で見つめることの重要性をも理解しはじめています。しかし、私には起きていることがこんなに多いので、そのため何を見つめるべきなのかを判断するのは困難であるほどです。私の心は、落ち着きのない猿たちでいっぱいの大きな檻に似ています。
K あなたは一つの動きを全的に見るなら、その全体性に他のあらゆる動きが収まるのです。もしあなたが一つの問題を完全に理解するなら、そのとき、あなたは人間の諸問題すべてを理解するのです。それらはすべて相互に関係しあってあるからです。それで疑問はこうです - 一つの問題を完全に理解し、または知覚し、または見て、そのためそれのまさに理解のなかで残りを理解してしまったようにできるでしょうか。この問題は、後や前に記憶や例としてではなく、起きている間に見られなければなりません。たとえば、いま私たちが怒りや恐怖に入ることは、何のためにもなりません。なすべきことは、それらが起きるとき観察することなのです。知覚は即時的なのです。あなたは何かを即時に理解するのか、全く(理解)しないのです。見える、聞こえる、理解するは即時的なのです。聞き入る、見つめるは持続を持つのです。
質問者 私の問題は続きます。それはつかのまの時間に存在します。あなたは、見えることは即時的で、ゆえに時間の外にある、と言われています。何が、嫉妬や他のどんな習慣、他のどんなに問題にも、持続を与えるのでしょうか。
K あなたが敏感さ、選択ない気づき、智恵をもってそれらを見つめたことがないから、それらは続くのではないでしょうか。あなたはそれらを部分的に見つめ、ゆえに継続するに任せてきたのです。そして付け加えて、それらを免れたいと思うことは、持続のもう一つの問題です。何かを取り扱えない無能力はそれを、持続ある問題にするし、それにいのちを与えるのです。
(´・(ェ)・`)つ
797
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 00:07:32 ID:oyERMyaM0
くまめも 2
私たちは自分たちの生の瞬間ごとに、危険に向き合っている。それらが慣習になり、それらに無頓着。諸問題を解決するのを他人に任せ、他の人たちも、盲目的で偏っている。
生の全体は各瞬間にある。各瞬間が挑戦。この挑戦に不適当に会うことが、生きることの危機。私たちは、これらが危機であることを見たくないし、それらから逃避するため眼を閉じる。それで、危機が増大する。
一つの動きを全的に見るなら、その全体性に他のあらゆる動きが収まる。もし一つの問題を完全に理解するなら、そのとき、人間の諸問題すべてを理解する。それらはすべて相互に関係しあってあるから。
怒りや恐怖に入ることは、何のためにもならない。なすべきことは、それらが起きるとき観察すること。知覚は即時的。何かを即時に理解するのか、全く理解しない。見える、聞こえる、理解するは即時的。聞き入る、見つめるは持続を持つ。何が、嫉妬や他の習慣に、持続を与えるのか。敏感さ、選択ない気づき、智恵をもってそれらを見つめたことがないから、それらは続く。あなたはそれらを部分的に見つめ、ゆえに継続するに任せてきた。それらを免れたいと思うことは、持続のもう一つの問題。何かを取り扱えない無能力はそれを、持続ある問題にするし、それにいのちを与える。
(´・(ェ)・`)
798
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/25(土) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの説くことは正にお釈迦様が十二因縁で説いたことと同じなのじゃ。
自分があるという観念から認識や分別や好悪が起こり、最後には苦につながるという全体を観ることが十二因縁の真髄なのじゃ。
ただ一つの苦でさえ、どこまでも観察していけば自分があるという無明に繋がるのじゃ。
心の働きの全体が観られた時に観照は起こるのじゃ。
799
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:16:27 ID:23aIiAeA0
>>798
うむ。
釈迦もマハルシもマハラジもKもOSHOも鬼和尚も、皆同じことを言ってるように思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ
800
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:18:03 ID:23aIiAeA0
変化の緊要
知覚 3
質問者 しかし、私はどのようにその全体を瞬時に見ることになるのでしょうか。私はどのように理解し、そのためそれがけっして戻ってこないようにするのでしょうか。
K あなたは「けっしてない」に、強調を置いているのでしょうか。それとも理解に置いているのでしょうか。もしあなたが「けっしてない」に強調を置くなら、これはあなたがそれから恒常的に逃避したいという意味です。これは、第二の問題の創造という意味です。それで、私たちにはただ一つの問題があるのです。それは、問題が完全に見え、そのためそれを免れ自由であるようになるすべです。知覚は、おしゃべりな心からではなく、静寂のなかからだけありうるのです。おしゃべりな心は、それを免れたい、減退させたい、それから逃避したい、それを抑圧したい、それの代用物を見つけたいと思うことなのかもしれません。しかし、見るのは静かな心だけなのです。
質問者 私はどのように静かな心を持つことになるのでしょうか。
K あなたは、静かな心だけに見えるという真理が見えないのです。静かな心の得方は、生じないのです。心は静かであるのでなければならないことは真理です。そして、これの真理を見ることで心はおしゃべりを免れ、自由になるのです。知覚は、智恵ですが、そのとき作動しているのです。あなたが見るために静寂でなければならないという想定(が作動しているの)ではありません。想定もまた作動しうるのですが、しかし、それは部分的、断片的な作動です。部分と全体との間には何も関係がないのです。部分は成長して全体にはなれません。ゆえに、見ることが最大の重要なのです。見ることは注意です。問題を生じさせるのは、不注意だけなのです。
質問者 私はどのようにすべてのときに注意できるのでしょうか。それは不可能です!
K 全くそのとおりです。それは不可能であるのです。しかし、あなたの不注意に気づくことは、最大の重要なのです。すべてのときに注意するすべではないのです。「私はどのようにすべてのときに注意できるのでしょうか」と質問をするのは、欲なのです。注意する実践に迷ってしまうのです。注意する実践は、不注意です。あなたは美しくなる実践、愛する実践はできません。憎しみが停止するとき、他の一つがあるのです。憎しみは、あなたが全注意をそれに与えるとき、それについて学び、(それについての)知識を蓄積しないときにだけ、停止しうるのです。単純素朴に始めなさい。
質問者 お話を聞いた後で実践できることが何もないのなら、あなたのお話は何になるのでしょうか。
K 聞くことが最大の重要なのです。あなたが後で実践することではないのです。聞こえるとは、瞬時的な行為です。実践は諸問題に持続を与えます。実践は全的な不注意です。けっして実践してはならないのです。あなたは誤りだけを実践できるのです。学びはいつも新たです。
(´・(ェ)・`)つ
801
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:35:50 ID:23aIiAeA0
くまめも13-3 知覚 3
問題が完全に見え、そのためそれを免れ自由になる。知覚は、おしゃべりな心からではなく、静寂のなかからだけありうる。おしゃべりな心は、それを免れたい、減退させたい、逃避したい、抑圧したい、代用物を見つけたいと思う。しかし、見るのは静かな心だけ。
静かな心の得方は、生じない。心は静かであることは真理。この真理を見ることで心はおしゃべりを免れ、自由になる。知覚は、智恵だが、そのとき作動している。見ることは注意、問題を生じさせるのは、不注意だけ。
すべてのときに注意するのは不可能。しかし、不注意に気づくことは、最大の重要。すべてのときに注意するすべではない。すべてのときに注意したいと言うのは、欲。注意する実践に迷ってしまう。注意する実践は、不注意。あなたは愛する実践はできない。憎しみが停止するとき、他の一つがある。憎しみは、あなたが全注意をそれに与えるとき、それについて学び、知識を蓄積しないときにだけ、停止しうる。単純素朴に始めろ。
質問者 実践できることが何もないのなら、話を聞いて何になるのか。
K 聞くことが最大の重要。後で実践することではない。聞こえるとは、瞬時的な行為。実践は諸問題に持続を与える。実践は全的な不注意。けっして実践してはならない.誤りだけを実践できる。学びはいつも新た。
(´・(ェ)・`)
802
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:37:14 ID:23aIiAeA0
Kは、「実践」という言葉を、後から何かをやることという意味で使ってるのであります
(´・(ェ)・`)つ
803
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 00:00:42 ID:1d4drIFg0
>>799
そうじゃ、皆同じことを説いているのじゃ。
ただひたすらに己の心を観るのじゃ。
804
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 00:00:54 ID:NkGXn8e20
変化の緊要
苦痛 1
質問者 私は一生涯たいへん多くの苦痛を受けてきたと思われます。物理的にではなく、死とさびしさと私の存在の全くの無益さをとおして、です。私には、大いに愛している息子がいました。彼は事故で死にました。私の妻は去っていきました。それはたいへん多くの苦しみの因となりました。私は、充分なお金と安定した仕事をもつ何千何万の他の中流階級の人たちに似ています。私は私の境遇に不平を言っているのではありません。悲しみはどういう意味なのか、それはいったいなぜ訪れるのかを理解したいのです。英知は悲しみをとおして訪れると言われてきましたが、私は全く正反対を見てきたのです。
K あなたは苦痛から何を学ばれたのかと思うのです。あなたはいったい何かを学んだのでしょうか。悲しみはあなたに何を教えてくれたのでしょうか。
質問者 それは確かに私に、けっして人々に執着しないこと、一定の苦々しさ、一定のよそよそしさ、私の感情にうつつを抜かさないをことを、教えてくれました。
K それで、あなたが言われるとおり、それはあなたに英知を教えなかったのです。反対に、それはあなたをもっとずるがしこくもっと鈍感にしたのです。悲しみは、明白な自己保存的反応以外に、いったい何かを教えてくれるのでしょうか。
質問者 私はいつも苦痛を私の生の一部として受け入れてきました。しかし、私はいまなぜか、それから自由であり、二度と執着の苦しみすべてを経ずに安っぽい苦々しさと無頓着のすべてから自由でありたいように感じるのです。私の生はこんなにむだで空っぽで、全く自閉的で無意味です。それは凡庸の生ですし、おそらくその凡庸さがすべてのなかで最大の悲しみです。
K 個人的悲しみと世界的悲しみがあるのです。無知の悲しみと時間の悲しみがあるのです。この無知は、自分自身を知ることの欠如です。時間の悲しみは、時間が癒し治し変化させられるという欺瞞です。ほとんどの人々はその欺瞞に捕らわれています。悲しみを崇拝するのか、説明してしまうのかのどちらかです。しかし、どちらの場合にも、それは継続するし、それが終わりになるのかを自分自身に訊ねることはけっしてないのです。
質問者 しかし、私はいま、それが終わりになるのか、そしてどのようになのかを訊ねているのです。私はどのようにしてそれを終わらせるのでしょうか。私は、それから逃げ去ること(が)、苦々しさと冷笑でもってそれに抵抗することが何にもならないことは、理解します。私はこんなに長く持ちはこんできた嘆きを終わらせるには、何をすべきなのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
805
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 00:03:42 ID:NkGXn8e20
くまめも14-1
苦痛、悲しみは何を教えたか。それはあなたに英知を教えなかった。反対に、それはもっとずるがしこく鈍感にした。
悲しみは、明白な自己保存的反応以外に、いったい何かを教えてくれるのか。
個人的悲しみと世界的悲しみがある。無知の悲しみと時間の悲しみがある。無知は、自分自身を知ることの欠如。時間の悲しみは、時間が癒し治し変化させられるという欺瞞。その欺瞞に捕らわれてる。悲しみを崇拝するのか、説明してしまうかのどちらか。しかし、どちらの場合にも、それは継続するし、それが終わりになるのかを自身に訊ねることはけっしてない。
(´・(ェ)・`)
806
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 00:12:43 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティは非常に注意深く言葉を選んで説いているのじゃ。
人が何かを実践するという想いを持ってしまえば、その時自我も起こってしまうのじゃ。
そうであるから全注意を与え、知識を蓄積せずに学ぶというのじゃ。
それが今ここで気付くことを与える最良の方法と知っているからなのじゃ。
しかし、聞く者にそれを受け容れる準備が整っていなければ難しいのじゃ。
807
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 01:11:26 ID:L9KjyRNc0
>>806
うむ。Kが一番厳しいであります。
本気で、追求すれば出来るのに、できないのは、本気でないからだ!
と、言われてるようであります。
(´・(ェ)・`)
808
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 23:05:26 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただ自分の欲とか苦悩を相談しに来た者には理解できないじゃろう。
逃避を続けることがそのような者達の希望であるからのう。
哀れな事じゃ。
809
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 23:17:07 ID:vJe4KXhY0
変化の緊要
苦痛 2
K 自己憐憫は悲しみの諸要素の一つです。もう一つの要素は、誰かに執着し、その人のあなたへの執着を助長、育成することです。悲しみは執着があなたを見捨てるときにあるだけではありません。その種子は、その執着のまさに始まりにあるのです。このすべてにおいてやっかいなのは、自分自身を知ることが全く欠如することなのです。自分自身を知ることが悲しみの終わることなのです。私たちは自分自身を善と悪、邪悪と高貴、清浄と不浄とに分割してきたから、自分自身を知るのを恐れています。善はいつも悪を判断しているし、これら諸断片は互いに戦争しているのです。この戦争が悲しみです。悲しみを終わらせるとは、所作の対極を考案しないで、所作を見ることです。というのは、両極は互いに収めあっているからです。この両極の回廊を歩むことが悲しみです。高いものと低いもの、高貴なものと低俗なもの、神と悪魔への生のこの断片化が、葛藤、抗争、苦しみを生み育てるのです。悲しみがあるとき、愛はないのです。愛と悲しみはともに生きられないのです。
質問者 ああ!しかし、愛は他の一人に悲しみを負わせうるのです。私は他の一人を愛しながらも、彼に悲しみをもたらすかもしれません。
K あなたが愛するなら、あなたがそれをもたらすのでしょうか。彼がもたらすのでしょうか。他の一人が助長あってまたは(助長)なしにあなたに執着していて、あなたが彼にそっぽを向いて、彼が苦痛を受けるのなら、彼の苦痛をもたらしたのはあなたでしょうか、彼でしょうか。
質問者 いわれるのは、たとえそれが私ゆえであるとしても、私は他の誰かの悲しみに応ずる責任能力はないという意味でしょうか。それでは、悲しみはいったいどのように終わるのでしょうか。
K 私たちが言ったとおり、悲しみが終わるのは、自分自身を完全に知るなかだけなのです。あなたは一瞥であなた自身を知るのでしょうか。それとも長い分析の後で知りたいと願うのでしょうか。分析をとおしてあなたはあなた自身を知りえないのです。あなたは蓄積なく、関係のなか、瞬間瞬間にあなた自身を知りうるだけなのです。これは、どんな選択もなく現行として起きていることに気づかなければならないという意味です。それは、対極、理想なく、自らがどうであったのかの知識なしに自分自身をあるままに見る、という意味です。あなたが憤慨や怨恨の眼であなた自身を見つめるなら、そのとき、あなたに見えるもの・ことは、過去に彩られるのです。あなた自身が見える(とき)すべてのときに過去を脱ぎ捨てることが、過去からの自由です。悲しみは、理解の光があるときにだけ、終わるのです。この光は、一つの経験や一つの閃きの理解では灯されません。この理解は、すべてのときそれ自体を照らしているのです。誰もあなたにそれを与えられません - どんな書物も仕掛けも教師も救世主も。あなた自身を理解することが、悲しみの終わることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
810
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 23:20:50 ID:vJe4KXhY0
くまめも 2
自分自身を知ることが悲しみの終わること。自分自身を善と悪とに分割するから、自分自身を知るのを恐れている。善はいつも悪を判断しているし、この断片は互いに戦争している。この戦争が悲しみ。悲しみを終わらせるとは、所作の対極を考えないで、所作を見ること。なぜなら、両極は互いに収めあってから。両極の回廊を歩むことが悲しみ。
生の断片化が、葛藤、抗争、苦しみを生み育てる。悲しみがあるとき、愛はない。愛と悲しみはともに生きられない。悲しみが終わるのは、自分自身を完全に知るなかだけ。分析をとおしてはあなた自身を知りえない。あなたは蓄積なく、関係のなか、瞬間瞬間にあなた自身を知りうるだけ。選択なく現行として起きていることに気づかなければならない。対極、理想なく、自分自身をあるままに見る。憤慨や怨恨の眼で自身を見つめるなら、そのとき、見えるもの・ことは、過去に彩られる。あなた自身が見えるすべてのときに過去を脱ぎ捨てることが、過去からの自由。
悲しみは、理解の光があるときにだけ、終わる。この光は、一つの経験や一つの閃きの理解では灯されない。この理解は、すべてのときそれ自体を照らしている。誰もあなたにそれを与えられない。あなた自身を理解することが、悲しみの終わること。
(´・(ェ)・`)
811
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/28(火) 23:52:05 ID:1d4drIFg0
自分自身を知ること、それこそが全ての仏陀達の教えの真髄なのじゃ。
自分に気付かないで悟りを得ることは在り得ないのじゃ。
善悪も好悪も清浄も不浄も無しに自分を観るのじゃ。
全ての苦から逃れる道はそこにしかないのじゃ。
812
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/28(火) 23:59:03 ID:8Fv5HEzU0
変化の緊要
心と頭 1
質問者 人間が自らの存在を異なった諸区画 - 知能と情動 - に分割してきたのは、なぜなのでしょうか。それぞれがもう一つに依らず独自に存在しているように思われます。生におけるこれら二つの駆り立てる力はしばしば矛盾しあっていて、そのため私たちの存在のまさに織地を引き裂くように思われるほどなのです。人間が全的存在として行為できるようにそれらをまとめることは、いつも生の主要な目的の一つでありました。そして、人間のなかのこれら二つのものに加えて、変化する環境たる第三のものがあるのです。それで、人間のなかのこれら二つの矛盾したものはさらにまた、人間自身の外側にあるように見える第三のものと対立しているのです。ここに問題があり、こんなに混乱させ、こんなに矛盾し、こんなに広大であり、そのため知能は、それらをまとめるために神と呼ばれる外側の機関を考案するほどです。そしてこれが、さらにいっそう事態全体を錯綜させるのです。生にはただ一つこの問題があるのです。
K あなたは、あなた自らの言葉に乗せられていくように思われます。これは本当にあなたにとって問題なのでしょうか。それともあなたは、よい議論をするために、それを考案しているのでしょうか。それが議論のためであるなら、そのときそれは本当の内容をもちません。しかし、それが本当の問題であるなら、そのとき私たちはそれに深く入れます。ここで私たちにはとても複雑な状況があるのです - 内がそれ自体を諸区画に分割し、さらにまたそれ自体をその環境から分離するのです。さらにまた、それは環境を - それを社会と呼ぶのですが - 諸階級、人種に、経済的、国家的、民族的、地理的諸集団に分離するのです。これが、世界で現行として起きていることであるように思われるし、私たちはそれを生きることと呼ぶのです。この問題を解決できないので、私たちは超越的存在を考案します。私たち自身と私たちの間に調和と束ねる性質をもたらしてくれるだろうと私たちが願うところの機関です。私たちが宗教と呼ぶこの束ねる性質は、今度はもう一つの分割の要因をもたらすのです。それで、疑問はこうなります - 諸分割がない生きることの完全な調和、知能と心がどちらも全的存在の表現である状態を、何がもたらすのでしょうか。その存在は断片ではないのです。
質問者 私はあなたに同意しますが、しかし、どのようにすればこれはもたらされるのでしょうか。これは、人間がいつもあこがれてきたし、諸宗教すべてと政治的、社会的ユートピアすべてをとおして探し求めてきたものなのです。
K あなたはどうすればを訊ねます。「どうすれば」は最大の誤りです。それが分離的要因なのです。あなたの「どうすれば」と私の「どうすれば」と他の誰かの「どうすれば」があるのです。それで、もしも私たちはけっしてその言葉を用いなかったなら、決定された成果を達成するための方法を探し求めているのではなくて、本当に探究しているでしょう。それで、あなたはこの方法や成果という観念をそっくり片づけられるでしょうか。あなたが成果を定義できるなら、あなたはすでにそれを知っているし、ゆえにそれは自由ではなく、条件づけられてあるのです。私たちが方法を片づけるのなら、そのとき私たちはどちらも、外側の機関を考案せずに調和的全体をもたらすことがいったい可能なのかを、探究する能力があるのです。というのは、外側の機関すべては、環境的であっても、超環境的であっても、ただ問題を増大させるからなのです。
まず初めに、それ自体を感情、知能、環境とに分割するのは、頭です。外側の機関を考案するのは、頭です。問題を創作するのは、頭です。
(´・(ェ)・`)つ
813
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 00:01:03 ID:8Fv5HEzU0
くまめも1
人間は自らを知能と情動に分割し、人間自身の外側にあるように見える、変化する環境たる第三のもと対立している。さらにまた、環境、社会を、諸階級、人種に、経済的、国家的、民族的、地理的諸集団に分離する。私たちはそれを生きることと呼ぶ。この問題を解決できないので、超越的存在を考案する。自身と私たちの間に調和と束ねる性質をもたらすと願うところの機関、宗教と呼ぶこの束ねる性質は、今度はもう一つの分割の要因をもたらす。諸分割がない生きることの完全な調和、知能と心がどちらも全的存在の表現である状態を、何がもたらすのか。
どうすればと訊ねるのは誤り。それが分離的要因。「どうすれば」という言葉を用いなかったなら、決定された成果を達成するための方法を探し求めているのではなくて、本当に探究している。成果を定義できるなら、すでにそれを知っているし、ゆえにそれは自由ではなく、条件づけられてある。方法を片づけるのなら、問題を増大させる外側の機関無しに調和的全体をもたらすことが可能なのかを、探究する能力がある。それ自体を感情、知能、環境とに分割するのは、外側の機関を考案するのは、問題を創作するのは、頭。
(´・(ェ)・`)
814
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/29(水) 22:59:46 ID:1d4drIFg0
ものごとをさまざまに定義し、分別することが問題を作り出すのじゃ。
それに対して何かをしようとすることが更に問題を多くするのじゃ。
山火事を消そうとして燃料になる木を燃やしたらますます火が燃え広がるようなものじゃ。
思考も分別もただ止めるだけで問題はなくなるのじゃ。
815
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 23:11:36 ID:P0G9aj8U0
変化の緊要
心と頭 2
質問者 この分割は頭のなかだけではありません。それは感情においてさらに強いのです。イスラム教徒とヒンドゥー教徒は自分自身を分離していると考えません。彼らは自分自身を分離していると感じるのです。そして、彼らを実際に分離させ、彼らをして互いに破壊させるのは、この感情です。
K そのとおり。思考と感情は一つです。それらは始まりから一つであったし、それがまさしく私たちの言っていることなのです。それで、私たちの問題は、異なった諸断片の統合ではなく、一つであるこの頭と心を理解することなのです。私たちの問題は、どのように諸階級を取り除くのかや、どのようにもっとよいユートピアを築くのか、もっとよい政治的指導者や新しい宗教的教師を生み育てるのかではないのです。私たちの問題は頭です。理論的にではなくこの点に来ること、現行としてそれをみることが、最高の形態の智恵なのです。というのは、そのときあなたはどの階級や宗教的集団にも属していないからです。そのときあなたはイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒ではないのです。それで、私たちはいまただ一つの主題があるのです - なぜ人間の頭は分割するのでしょうか。それは自らの諸機能を感情と思考に分割するだけではなく、それ自体を「あなた」から(異なる)「私」、「彼ら」から(異なる)「私たち」として分離するのです。頭と心は一つです。それを忘れないようにしましょう。私たちが「頭」という言葉を用いるとき、それを思い出してください。それで、私たちの問題はこうなのです - なぜ頭は分割するのでしょうか。
質問者 そうです。
K 頭は思考です。思考の活動すべては分離、断片化です。思考は、頭脳たる記憶の応答です。頭脳は危険を見るとき、応答しなければなりません。これは智恵なのです。しかし、この同じ頭脳はなぜか、分割の危険を見ないよう条件づけられてきたのです。その諸行為は所作を扱うとき、妥当で必要です。同等に、それは、分割と断片化が自らにとって危険であるという所作を見るとき、行為するでしょう。これは観念や思想や原理や概念ではありません - それらのすべては白痴的で分離的なのです。危険を見るには、頭脳はとても鋭敏で目覚めていなくてはなりません。それの一断片だけではなく、それのすべてが、です。
質問者 頭脳全体を目覚めさせておくことは、どうすれば可能なのでしょうか。
K 私たちが言ったとおり、「どうすれば」はなく、ただ危険を見ることだけがあるのです。それが論点のすべてです。見ることは宣伝や条件づけの成果ではありません。見ることは、頭脳全体でもってです。頭脳が完全に目覚めているとき、頭は静かになるのです。頭脳が完全に目覚めているとき、断片化はなく、分離はなく、二元性はないのです。この静けさの性質は、最高の重要なのです。あなたは、薬物やあらゆる種類の仕掛けで、頭を静かにできます。しかし、そういう欺瞞は、さまざまな他の形態の幻想と矛盾を生み育てるのです。この静けさは、けっして人格的、非人格的ではなく、けっしてあなたのや私のではない最高の形態の智恵なのです。無名であるので、それは全体的で、清浄無垢なのです。それは性質を持たないので、叙述を拒むのです。これが気づきです。これが注意です。これが愛です。これが最高のものなのです。頭脳は完全に目覚めていなければなりません。それですべてです。密林のなかの人は、生存するには恐ろしく目覚めていなければなりません。それと同じく、世界の密林のなかの人は、完全に生きるには、恐ろしく目覚めていなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
816
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 23:12:51 ID:P0G9aj8U0
くまめも 2
分割は頭のなかだけではなく、感情においてさらに強い。思考と感情は一つ。異なった諸断片の統合ではなく、一つであるこの頭と心を理解することが問題。理論的にではなく、現行としてそれをみることが、最高の智恵。なぜ頭は分割するのか。それは自らの諸機能を感情と思考に分割するだけではなく、それ自体をあなたから私、彼らから私たちとして分離する。頭は思考。思考の活動すべては分離、断片化。思考は、頭脳たる記憶の応答。頭脳は危険を見るとき、応答しなければならない。これは智恵。しかし、この同じ頭脳は分割の危険を見ないよう条件づけられてきた。その諸行為は所作を扱うとき、妥当で必要。同等に、それは、分割と断片化が自らにとって危険であるという所作を見るとき、行為する。これは観念や思想や原理や概念ではない。それらは白痴的で分離的。危険を見るには、頭脳は鋭敏で目覚めていなくてはならない。ただ危険を見ることだけがある。それが論点のすべて。宣伝や条件づけの成果ではなく、頭脳全体でもって見ること。頭脳が完全に目覚めているとき、頭は静かになる。頭脳が完全に目覚めているとき、断片化、分離、二元性はない。この静けさの性質は、最高の重要。この静けさは、人格的、非人格的ではなく、あなたのや私のではない最高の智恵。無名であるので、それは全体的で、清浄無垢。それは性質を持たないので、叙述を拒む。これが気づき、注意、愛、最高のもの。頭脳は完全に目覚めていなければならない。
(´・(ェ)・`)
817
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/30(木) 23:37:40 ID:1d4drIFg0
何かをすることではなくただ見ることだけが分離も断片化も無くせるのじゃ。
見るということはすることでもないからなのじゃ。
全てに集中して見るならば、することではなくなるのじゃ。
そうすれば主体が想起されないからなのじゃ。
818
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 01:21:19 ID:ul6tVrh20
化の緊要
美しさと芸術家 1
質問者 私は芸術家とは何だろうかと思うのです。ガンジスの岸では、暗く小さな部屋に一人の男が座って、絹と金のたいへん美しいサリーを織っています。パリでは、自分のアトリエでもう一人の男が、自分に名声をもたらしてくれるだろうと願う絵画を、描いています。どこかには、作家がいて、男と女の古い古い問題を述べる物語を、さかしく紡ぎ出しています。それから、自分の実験室には科学者がいるし、ロケットが月に行くように百万の部品を組み立てている技術者がいます。インドでは、音楽家が、自分の音楽の純化された美しさを忠実に伝えるために、たいへんなきびしさの生を生きています。主婦がいて食事を準備しているし、詩人は森を一人で歩いています。これらすべては彼らなりに芸術家ではないでしょうか。美しさは誰でもみんなの手にあるが、彼らはそれを知らないのだと私は感じます。美しい衣服や卓越した靴を作る男、テーブルに花を飾る女 - 彼らはみんな、美しさについて働くように思われます。靴職人や料理人ではなく、画家、彫刻家、作曲家、作家 - いわゆる創作芸術家が、この世界でこんなとてつもない重要性を持つのはなぜなのかと、私はしばしば思うのです。彼ら(靴職人や料理人)もまた創造的ではないでしょうか。美しいと人々が考える多様な表現すべてを考えるとき、真の芸術家は生においてどういうところを占めるのでしょうか。そして、真の芸術家とは誰なのでしょうか。美しさは生、いのちすべてのまさに本質であると言われます。向こうのあの建物は、とても美しいと考えられるのですが、あれもその本質の表現でしょうか。もしもあなたが美しさと芸術家というこの疑問全体に入ってくださるようなら、私は大いに感謝するでしょう。
K 確かに芸術家は、行為の技術に巧みである人でしょう。この行為は、生の外側ではなく、生にあるのです。ゆえに、巧みな技術で生きているなら、それで真に芸術家になるのです。この巧みな技術は、彼が楽器を塩蔵していたり、詩を書いていたり、絵画を描いているとき一日のわずかな時間の間、作動できるのです。または、いくつもの異なった媒体で働いたルネッサンスの偉人たちのように、彼がこういう多くの諸断片の巧みな技術があるのなら、もう少し多く作動できるのです。しかし、音楽や書いたり描いたりのわずかな時間は、無秩序と混乱にある彼の残りの生活と、矛盾するかもしれません。それで、そういう人はいったい芸術家なのでしょうか。芸術的技巧でヴァイオリンを弾き、自分の名声に眼を留めている人は、ヴァイオリンに興味があるのではありません。彼は有名になるため、それを利用しているだけですし、「私 'me' 」が音楽よりもはるかに重要です。名声に眼を留めている作家や画家についても、そうなのです。音楽家は、その「私 'me' 」を、自らが美しい音楽と考えるものと、同定します。宗教的な人は、その「私 'me' 」を、自らが崇高であると考えるものと、同定します。これらすべては、彼ら特定の小さな分野では巧みな技術があるのですが、残りの生の広野全体は無視されるのです。それで私たちは、書くこと、描くこと、科学技術においてだけではなく、行為(における巧みな技術)、生きることにおいて巧みな技術は何なのか(を見出し)、どのように巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるのかを、見出さなくてはなりません。巧みな技術と美しさは同じなのでしょうか。人間は、芸術家であってもなくても、巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるでしょうか。生きることは行為ですし、その行為が悲しみを生み育てるとき、それは巧みな技術をなくしてしまうのです。それで、人は悲しみなく、あつれきなく、嫉妬と欲なく、どんな種類の葛藤、抗争もなく生きられるでしょうか。主題は、誰が芸術家であり、誰が芸術家でないのかではなくて、人間は、あなたや他の人は、苦悶と歪曲なく生きられるのかです。もちろん、偉大な音楽、偉大な彫刻、偉大な詩歌や舞踊を見くびったり、せせら笑うことは、冒涜的なのです。それは、自分の生において巧みな技術がないことです。しかし、行為の巧みな技術である芸術的技巧と美しさは、一日のわずかな時間の間だけではなく、一日中作動すべきです。これが真の挑戦です。ピアノを美しく弾くだけではなくのです。あなたはそもそもそれに触れるのなら、美しく弾かなければなりませんが、それでは十分でないのです。それは、広大な平野の小さな一角を耕作するようなものなのです。私たちは広野全体に関心があるし、その広野が生なのです。私たちがいつもやることは、広野全体を放置し、諸断片、私たち自身のや他の人たちのに集中することなのです。芸術的技巧は、完全に目覚めることであり、ゆえに、生の全体で行為の巧みな技術を持つことなのです。
(´・(ェ)・`)つ
819
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 01:25:12 ID:ul6tVrh20
くまめも 1
芸術家は、行為の技術に巧みである人。この行為は、生の外側ではなく、生にある。ゆえに、巧みな技術で生きているなら、それで真に芸術家になる。この巧みな技術は、一日のわずかな時間の間、作動できる。しかし、そのわずかな時間は、無秩序と混乱にある残りの生活と、矛盾するかもしれない。
芸術的技巧をもって、自分の名声に眼を留めている人は、芸術に興味があるのではない。有名になるため、それを利用しているだけ。
音楽家は、「私 'me' 」を、自らが美しい音楽と考えるものと、同定する。特定の小さな分野では巧みな技術があるが、残りの生の広野全体は無視される。それで私たちは、技巧技術においてだけではなく、生きることにおいて巧みな技術は何かを見出し、どのように巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるのかを、見出さなくてはならない。生きることは行為だし、その行為が悲しみを生み育てるとき、それは巧みな技術をなくす。
人は悲しみ、あつれき、嫉妬、欲、葛藤、抗争なく生きられるか。
主題は、誰が芸術家であるかではなくて、人間は、苦悶と歪曲なく生きられるのか。行為の巧みな技術である芸術的技巧と美しさは、一日のわずかな時間の間だけではなく、一日中作動すべき。これが真の挑戦。芸術的技巧は、完全に目覚めることであり、ゆえに、生の全体で行為の巧みな技術を持つこと。
(´・(ェ)・`)
820
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/01(金) 22:59:08 ID:1d4drIFg0
芸術とは限られた分野での優れた技に過ぎないというのじゃ。
それに囚われれば全てを見ることが疎かになるのじゃ。
自分を見ることもなくなるのじゃ。
それは生きることにおいては進歩ではなく衰退なのじゃ。
自分自身を知ることでのみ生の全体を芸術にすることができるのじゃ。
821
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 23:30:38 ID:MutNoc3w0
変化の緊要
美しさと芸術家 2
質問者 工場の労働者やオフィスで雇用される人についてはどうでしょう。彼は芸術家でしょうか。彼の仕事は、行為の巧みな技術を排除するので、彼を殺し、そのため彼は他の何ごとにもまた巧みな技術を持たないようになるのではないでしょうか。彼はその仕事によって条件づけられないでしょうか。
K もちろん条件づけられます。しかし、彼は目覚めるのなら、その仕事を離れるか、またはそれが芸術的技巧になるように変容させるかのどちらかでしょう。重要なことは、仕事ではなくて、仕事に目覚めることなのです。重要なことは、仕事の条件づけではなく、目覚めることなのです。
質問者 どういう意味でしょう、目覚めるとは。
K あなたは、ただ環境により、挑戦により、何か災難や喜びによってのみ、目覚めるのでしょうか。それとも、何の因もなく目覚めている状態があるのでしょうか。あなたが出来事、因により目覚めるのなら、そのときあなたはそれに依存します。そして、あなたは何かに依存するなら、それが薬物でもセックスでも絵画でも音楽でも、あなたはあなた自身が眠りを就くに任せているのです。それで、どんな依存も、巧みな技術の終わり、芸術的技巧の終わりです。
質問者 この、因を持たない他の目覚めた状態は、何なのでしょうか。あなたは、因もなく効果もない状態について、話しておられます。何らかの因の結果ではない心の状態がありうるのでしょうか。私はそれが理解できません。なぜなら、私たちが考えるものごとすべてと私たちなるものごとすべては、因の結果であるからです。因果の終わりなき連鎖があるのです。
K 果が因になり、因がさらなる果を設けるなどするから、この因果の連鎖は終わりないのです。
質問者 それでは、この連鎖の外に、どういう行為があるのでしょうか。
K 私たちの知るすべては、因や動機ある行為、結果である行為ばかりです。行為すべては、関係のなかあるのです。関係が因に基づいてあるのなら、それはずるがしこい適応ですし、ゆえに必然的にもう一つの形態の鈍さにつながります。愛は、因なくあり、自由であるただ一つのものなのです。それは美しさです。巧みな技術です。芸術です。愛なしに芸術はないのです。芸術家が美しく演じているとき、「私 'me' 」はないのです。愛と美しさがあるのです。そして、これが芸術です。これが行為の巧みな技術です。行為の巧みな技術は「私 'me' 」の不在です。芸術は「私 'me' 」の不在です。しかし、あなたが生の広野全体を放置し、小さな一部にのみ集中するとき - そのとき「私 'me' 」がどれほど不在であろうとも - あなたはやはりへたにでたらめに生きているし、ゆえにあなたは生の、いのちの芸術家ではないのです。生きるなかの「私 'me' 」の不在は、愛と美しさです - これが独自の巧みな技術をもたらすのです。生、いのちの広野全体を巧みな技術で生きること - これが最も偉大な芸術です。
質問者 おお、神さま!私はどのようにしてそうするのでしょうか。私はそれが見えるし、心に感じるのですが、私はそれをどのように維持できるのでしょうか。
K それを維持する道はないし、それを養う道はないし、それの実践はないのです。ただそれが見えることがあるだけです。見えることが、巧みな技術すべてのなかで最も偉大なものなのです。
(´・(ェ)・`)つ
822
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 23:31:35 ID:MutNoc3w0
くまめも2
工場やオフィスでの仕事は、行為の巧みな技術を排除し、それによって条件づけられる。しかし、彼は目覚めるなら、その仕事を離れるか、またはそれが芸術的技巧になるように変容させる。重要なのは、仕事ではなく、仕事に目覚めること。
環境により、挑戦により、災難や喜びによってのみ、目覚めるのか。それとも、何の因もなく目覚めるのか。出来事、因により目覚めるのなら、そのときそれに依存する。何かに依存するなら、自身が眠りを就くに任せている。依存は、巧みな技術、芸術的技巧の終わり。因果の連鎖は終わらない。行為すべては、関係のなかにある。関係が因に基づいてあるのなら、それはずるがしこい適応。ゆえに必然的に別の形態の鈍さにつながる。
愛は、因なくあり、自由であるただ一つのもの。それは美しさ、巧みな技術、芸術。愛なしに芸術はない。芸術家が美しく演じているとき、「私 'me' 」はない。芸術、行為の巧みな技術は「私 'me' 」の不在。しかし、あなたが生の広野全体を放置し、小さな一部にのみ集中するとき−そのとき「私 'me' 」がどれほど不在であろうとも −あなたはやはりへたにでたらめに生きているし、ゆえにあなたは生の、いのちの芸術家ではない。生きるなかの「私 'me' 」の不在は、愛と美しさ。生の広野全体を巧みな技術で生きることが最も偉大な芸術。それを維持する道、養う道はないし、それの実践はない。ただそれが見えるだけ。見えることが、巧みな技術すべてのなかで最も偉大なもの。
(´・(ェ)・`)
823
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/02(土) 23:34:20 ID:1d4drIFg0
観念があれば全ての働きは因となり、果を起こすのじゃ。
それを止めようとすればそれがまた因となり、果を起こすことになるのじゃ。
それは何かを維持しようとしたり、実践することでは止められないのじゃ。
もはや観ることですらなく、見えることだけが道だというのじゃ。
見ることではまだ実践する者がある故に、更に進んで見られることだけがあるとクリシュナムルティは語るのじゃ。
824
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/03(日) 20:10:21 ID:Uw6IHqhg0
変化の緊要
依存 1
質問者 私は依存の本性を理解したいように思うのです。私は私自身が、こんな多くのものごとに - 女性に、さまざまな種類の慰みに、よいワインに、私の妻と子どもに、私の友だちに、人々が言うことに - 依存するのを、見てきました。幸いに私はもはや宗教的娯楽には依存しませんが、私は、私を刺激してくれる書物とよい会話に、依存します。私は、若者もまた依存的であることが、分かります。おそらく私ほどではないが、彼らには彼ら特定の形態の依存があるのです。私は東洋に行ったことがあり、彼らがどんなに導師と家族に依存するのかを見てきました。そこでは伝統が、もっと重要性を持っているし、ここヨーロッパ(で根づいている)よりも深く根づいているのです。もちろん、アメリカよりもはるかにそうなのです。しかし、私たちはみんな、物理的にだけではなくはるかに内的に、自分たちを支える何かに依存するように見えるのです。それで私は、本当に依存から自由であることがいったい可能なのかと思っているし、それから自由であるべきなのでしょうか。
K あなたは心理的、内的な執着に関心があるのだと思います。執着が多いほど、依存は大きいのです。執着は人物へだけではなく、観念(へ)とものごとへもあるのです。特定の環境へ、特定の国などへ執着するのです。そして、これから依存が発し、ゆえに抵抗(があるの)です。
質問者 なぜ抵抗なのしょう。
K 私の執着の対象は、私の領土、なわばりや私の性的領域です。これを私は保護するし、それに対する他からのどんな形態の侵犯にも抵抗します。私はまた、私が執着している人物の自由を制限し、私自身の自由を制限します。それで、執着は抵抗です。私は何かや誰かに執着します。その執着は所有欲です。所有欲は抵抗ですので、執着は抵抗です。
質問者 はい、それは分かります。
K 私の所有物へのどんな形態の侵犯も、法律的または心理的に、暴力につながります。それで執着は、暴力、抵抗、投獄です - 自分自身と執着の対象の投獄です。執着は、これは私のであり、あなたのではない。離れていなさい!という意味です。それで、この関係は他に対する抵抗です。世界全体が私のとあなたのとに分割されるのです。私の見解、私の判断、私の助言、私の神さま、私の国 - 無際限のそういう無意味です。抽象においてではなく私たちの日々の生活で現行として、このすべてが起きているのを見ると、私たちは、人々、ものごと、観念へのこの執着がなぜあるのかを、訊ねられるのです。なぜ依存するのでしょうか。有ることすべては関係です。そして、関係すべては、暴力、抵抗、領有(支配)をともなうこの依存にあるのです。私たちは世界全体をこれにしてきたのです。所有するところでは、領有(支配)しなければなりません。私たちは美しさに出会います。愛が発生します。即時にそれは執着になるし、このすべての悲惨が始まるし、愛は窓から出ていってしまったのです。そのとき私たちは、「私たちの大きな愛には何が起きたのだろうか」と訊ねるのです。これが現行として、私たちの日々の生活に起きていることなのです。そして、このすべてを見て、私たちはいま訊ねられるのです - 人はなぜ、愛らしいもの・ことに(執着する)だけではなく、あらゆる形態の幻想とこんなに多くの白痴的空想にもまた、間違いなく執着するのでしょうか。
自由は、無依存の状態ではありません。それは、どんな依存もない肯定的状態です。しかし、それは結果ではないし、因を持ちません。私たちが、人はなぜ依存するのか、悲惨すべてをともなう執着の罠に陥るのかの疑問に入るまえに、これはごく明確に理解されなければなりません。私たちは、執着するので、依存なき自立の状態を養成しようとします - これもまたもう一つの形態の抵抗です。
(´・(ェ)・`)つ
825
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/03(日) 21:15:48 ID:Uw6IHqhg0
くまめも1
執着が多いほど、依存は大きい。執着は人物、観念、特定の環境、国などへある。執着の対象を保護し、それに対する他からの侵犯にも抵抗する。執着している人物の自由を制限し、私自身の自由を制限する。
執着は所有欲。所有欲は抵抗なので、執着は抵抗。所有物へのどんな形態の侵犯も、法律的または心理的に、暴力につながる。それで執着は、暴力、抵抗、投獄。自分自身と執着の対象の投獄。
執着は、これは私のであり、あなたのではないという意味。この関係は他に対する抵抗。
世界全体が私のとあなたのとに分割される。
私の見解、私の判断、私の助言、私の神、私の国 - 無際限のそういう無意味。
有ることすべては関係。関係すべては、暴力、抵抗、支配をともなうこの依存にある。
美しさに出会う。愛が発生する。即時にそれは執着になり、このすべての悲惨が始まり、愛は窓から出ていった。人はなぜ、愛らしいもの・ことに執着するだけではなく、あらゆる形態の幻想とこんなに多くの白痴的空想にもまた、間違いなく執着するのか。
自由は、無依存の状態ではない。それは結果ではないし、因を持たない。執着するので、依存なき自立の状態を養成しようとする。これもまたもう一つの形態の抵抗。
(´・(ェ)・`)
826
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/03(日) 23:30:50 ID:1d4drIFg0
執着し、依存する状態があれば人はそれらを守ろうとして攻撃的に成るのじゃ。
それが戦争とか犯罪を産む原因ともなるのじゃ。
しかし、それでは執着や依存をしないようにすればよいと実践すれば、それがまた他の依存や執着を産むのじゃ。
依存する自分への明確な理解があれば、依存は何もせずに止むのじゃ。
827
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 00:29:30 ID:Uw6IHqhg0
>>826
うむ。
それが、自己を観察する目的であり、それが唯一の法なのでありますね。
(´・(ェ)・`)b
828
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 00:49:23 ID:Uw6IHqhg0
けど、それはむずかしいのである。
やっぱり、サマディまで頑張るしかないのでありますかね。
(´・(ェ)・`)
829
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/04(月) 23:18:45 ID:1d4drIFg0
>>827
>>828
そうじゃ、気づくことが悟りへの唯一の道なのじゃ。
ディヤーナでも観察すれば気づくことは可能になるのじゃ。
精進あるのみなのじや。
830
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 23:23:17 ID:vmrHMyY.0
変化の緊要
依存 2
質問者 それで、自由とは何なのでしょうか。あなたは、それは依存の否定や依存の終わることではないと言われます。あなたは、それは何かからの自由ではない。ただ自由のみ、と言われます。では、それは何なのでしょうか。それは抽象でしょうか、現実でしょうか。
K それは抽象ではありません。それは、いかなる形態の抵抗もない心の状態です。それは、ここそこで丸石に適応し、それら(丸石)をよけたり越えたりする川には似ていません。この自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけです。
質問者 しかし、執着の丸石はそこに、この生の川にあるのですや。丸石のないもう一つの川については語れないのです。
K 私たちは丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではありません。私たちはまず初めに自由について理解しなければなりません。それは、丸石のあるのと同じ川ではないのです。
質問者 私はまだ、丸石ある私の川を持っています。丸石なき何か他の知られざる川ではなく、それが、私が訊ねるために戻ってきたことなのです。それでは私には全く何のためにもなりません。
K 全くそのとおり。しかし、あなたは、あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければなりません。しかし、この比喩を使いまくってだめにしないようにしましょう。私たちは自由と執着をどちらも考慮しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
831
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 23:28:51 ID:vmrHMyY.0
くまめも2
自由とは、依存の否定や依存の終わることではない。何かからの自由ではない。では、自由とは何か。それは抽象ではない。それは、抵抗のない心の状態。それは、ここそこで丸石に適応し、それらをよけたり越えたりする川には似ていない。自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけ。丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではない。まず初めに自由について理解しなければならない。それは、丸石のあるのと同じ川ではない。
あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければならない。自由と執着をどちらも考慮しなければならない
(´・(ェ)・`)
832
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 20:19:45 ID:aiE4qJxY0
変化の緊要
依存 3
質問者 私の執着は自由と、または自由は私の執着と、何の関わりがあるのでしょうか。
K あなたの執着には、苦しみがあるのです。あなたはこの苦しみを免れたいので、もう一つの形態の抵抗である無執着を養成するのです。対極に、自由はありません。これら二つの対極は、同一的であり、相互に強めあうのです。あなたが関心のあることは、その悲惨なく執着の楽しみを得るすべです。それはできません。そういうわけで、自由は無執着にあるのではないのを理解することが、重要であるわけです。執着から逃げ去るなかにではなく、執着を理解する過程に、自由があるのです。それで私たちの疑問はこうです - なぜ人間は執着し、依存するのでしょうか。
何でもなく、自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願うのです。空っぽで貧しくつらく不充分で、興味や重要性を欠如するので、他をとおして豊かになりたいと願う望むのです。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願うのです。他の美しさをとおして美しさを取得したいと願うのです。家族をとおし、国家、民族をとおし、恋人をとおし、何か空想的信念をとおして、この砂漠を花で覆いたいと願うのです。そして、神は究極的な恋人です。それで、これらすべてのものごとを引っかけるのです。ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見えるのです。もちろん、それの不毛は増えても減ってもいないのです。それは前のとおりです。苦しみをともなう何かの形態の執着をとおして逃避し、それからその苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけなのです。しかし、自らは前のとおり、不毛で空っぽです。それで、執着をとおしたり無執着をとおして逃避しようとするかわりに、私たちはこの所作に、この深い内的な貧しさと不足、この鈍くうつろな孤立に気づけないでしょうか。これが、ただ一つ大事なことなのです。執着や無執着ではありません。あなたは、どんな非難や評価づけの感覚もなく、それを見つめられるでしょうか。そうするとき、あなたは、観察されるもの・ことを見つめる観察者として、それを見つめているのでしょうか。それとも、観察者なしに、でしょうか。
質問者 観察されるもの・こととは、どういう意味でしょうか。
K あなたは、好き嫌い、見解、判断という結論すべて(をもつ中心から)、この空しさから自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのでしょうか。あなたは、結論の眼でこの不毛を見つめているのでしょうか。それとも、完全に自由である眼で見つめているのでしょうか。あなたが完全に自由な眼でそれを見つめるとき、観察者はないのです。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるもの・ことは、あるのでしょうか。
質問者 あなたは、もし私が結論なく、観察者である中心なくあの樹を見つめるなら、あれも存在しないという意味で、言われるのでしょうか。
K もちろん樹は存在します。
質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのでしょうか。
K 樹は、中心により、「私 'me' 」の心により、造り出されないからです。しかし、その自己中心的活動すべてにおける「私 'me' 」の心が、この空しさ、この孤立を造り出してきたのです。そして、その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わるのです。それで、さびしさはないのです。そのとき、心は自由のなか作用します。執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 'me' 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かるのです。「私 'me' 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はないのです。
(´・(ェ)・`)つ
833
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 20:22:21 ID:aiE4qJxY0
くまめも3
なぜ執着し、依存するのか。自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願う。空っぽなので、他をとおして豊かになりたいと願う。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願う。他の美しさをとおして美しさを得たいと願う。家族、国家、空想的信念をとおして、砂漠を花で覆いたいと願う。それで、これらのものごとを引っかかる。
ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見える。
苦しみを伴う執着をとおして逃避し、その苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけ。逃避ではなく、深い内的な貧しさと不足、鈍くうつろな孤立に気づくことが、ただ一つ大事。
非難や評価づけの感覚なく、それを見つめるとき、観察されるものを見つめる観察者として、それを見つめているのか、観察者なしにか。好き嫌い、見解、判断という結論すべてをもつ中心から、この空しさ、不毛から自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのか。完全に自由な眼で見つめるとき、観察者はない。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるものは、ない。
質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのか。
K 樹は、中心により、「私 'me' 」の心により、造り出されないから。しかし、「私 'me' 」の心が、空しさ、孤立を造り出してきた。その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わる。それで、さびしさはない。そのとき、心は自由のなか作用する。
執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 'me' 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かる。「私 'me' 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はない。
(´・(ェ)・`)
834
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/05(火) 22:06:32 ID:1d4drIFg0
真の自由とは執着だけでなく、執着の根本原因である自己の観念も無いのじゃ。
自己観念が無いから執着もありようが無いのじゃ。
執着とは自己があるという観念から起こる孤独や不安からの逃避であるからのう。
自己が無ければ執着も根本から消えるのじゃ。
835
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 23:06:17 ID:eA0qYXDk0
変化の緊要
信念 1
質問者 私は、本当に神を信じる人々の一人です。インドでは私は、現代の偉大な聖者の一人に従いました。彼は神を信じているから、そこ(インド)で偉大な政治的変化をもたらしました。インドでは国全体が、神の鼓動にあわせて脈打つのです。私はあなたが神に反する話をされるのを聞いてきましたので、たぶんあなたは神を信じないのでしょう。しかし、あなたは宗教人であるし、ゆえにあなたには、ある種の至高なものの感情があるにちがいありません。私はインド中に行ったし、ヨーロッパの多くの地域を行き、修道院、教会、モスクを訪問しましたが、私はいたるところで、自らの生を形作ってくださるのが望まれる神への、このとても強く圧倒的な信を、見てきたのです。ここで、あなたは宗教人であるけれども、あなたは神を信じられないうえは、この疑問に関するあなたの立場は正確にはどうなのでしょうか。あなたはなぜ信じないのでしょうか。あなたは無神論者なのでしょうか。ご存じのとおり、ヒンドゥー教では、無神論者や有神論者でありながらも、平等にきちんとヒンドゥー教徒でいられるのです。もちろんキリスト教徒については違います。神を信じないのなら、キリスト教徒ではありえません。しかし、それは論点を外れています。論点は、私があなたに、あなたの立場を説明し、その妥当性を私に証明していただくようお願いに来たということです。人々はあなたに従うし、ゆえにあなたは応ずる責任があるし、ゆえに私はこのとおりあなたに挑戦しているのです。
(´・(ェ)・`)つ
836
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 00:34:29 ID:TOYCij1M0
鬼和尚、↓のスレが、まだ落ちてなかったので、
一休さんの詩を毎日一首づつ載せるであります。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
(´・(ェ)・`)つ
837
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 00:42:49 ID:TOYCij1M0
くまめも1
質問者 あなたはなぜ神を信じないのかという疑問に関するあなたの立場を説明し、その妥当性を証明していただきたい。
(´・(ェ)・`)
838
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/06(水) 23:07:53 ID:1d4drIFg0
観察者の無い観察こそがクリシュナムルティの説きたかった法なのじゃ。
観察者があれば自我もまだある観察なのじゃ。
それでは自我の観念から逃れられない観察なのじゃ。
自我の観念から自我は観られないのじゃ。
観察者の無い観察でこそ自我も観られるのじゃ。
839
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 23:45:46 ID:m4QWxTvg0
変化の緊要
信念 2
K まず最初にこの最後の点を明らかにしてしまいましょう。従う人はいないのです。そして私は、あなたや、私の話を聞く人々に応ずる責任能力はないのです。また私は、ヒンドゥー教徒や他の何でもないのです。というのは私は、宗教的、その他の、どの集団にも属していないからです。一人一人が自分自身にとって光でなければなりません。ゆえに、教師もなく、学徒もないのです。これは最初から、明らかに理解されなければなりません。そうでなければ、感化されるし、宣伝と説得の奴隷になるのです。ゆえに、何でもいま言われていることは、教義や信条や説得ではないのです。私たちは理解のなか、たがいに出会うのか、出会わないのかのどちらかです。ここで、あなたはたいへん強調的にあなたは神を信じていると言われましたし、たぶんあなたはその信念をとおして、神性とでも呼べるかもしれないものを経験したいのでしょう。信念には多くのものごとが関与しています。ニューヨークやエッフェル塔の存在のように、あなたは見たことがないかもしれないが、確証できる事実、所作への信念があるのです。それからあなたは、現行としてはそれを知らないけれども、あなたの妻が貞淑であると信じるかもしれません。彼女は思考が不貞であるかもしれませんが、それでもなおあなたは、現行には彼女が他の誰かと行ってしまうのを見ないから、彼女が貞淑であると信じるのです。彼女は日々の思考ではあなたを欺瞞するかもしれないし、あなたもまた確実に同じことをしてきたにちがいないのです。あなたは、輪廻転生といったものがあることには確実性がないけれども、そういうものを信じているでしょう。けれども、その信念はあなたの生に、何の妥当性をも持たないでしょう。キリスト教徒すべては、自分たちは愛さなければならないことを信じていますが、彼らは愛さないのです - 他のどの人すべてとも同じく、彼らは物理的、心理的に殺すことに努めるのです。神を信じなくても善良である人たちもいるのです。神を信じて、その信念のために殺す人たちもいるのです。自分たちは平和がほしいと要求するから、戦争の準備をする人たちなどです。それで、いったい何かを信じることがどうして要るのかを、自分自身に訊ねなくてはなりません - これは、生、いのちのとてつもない神秘を拒否しないのですが。しかし、信念と「有るもの」は別々のものなのです。信念は言葉、思考ですし、これは、あなたの名が現行にはあなたではないのと同じく、そのものではないのです。
経験をとおして、あなたはあなたの信念の真理に触れたい、それをあなた自身に立証したいと願うのですが、この信念はあなたの経験を条件づけるのです。それは、経験が信念を立証するにいたるということではなくて、むしろ、信念が経験を設けるということなのです。神へのあなたの信念は、あなたに、あなたが神と呼ぶものの経験を与えてくれるでしょう。あなたはいつも、他の何でもなくあなたが信じるもの・ことを、経験するでしょう。そして、これはあなたの経験を無効にするのです。キリスト教徒は聖母、天使、キリストを見るでしょうし、ヒンドゥー教徒は非常に多数の同様な神格を見るでしょう。イスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒、共産主義者は同じです。信念は、それ自体の仮想される立証を、条件づけるのです。重要なことは、あなたが何を信じるのかではなく、あなたはいったいなぜ信じるのかだけなのです。あなたはなぜ信じるのでしょうか。そして、あなたが何か一つを信じようと他の一つを信じようと、それで、現行として有るものに、どんな違いがあるのでしょうか。事実は、信や不信に感化されません。それで、なぜいったい何かを信じるのかを、訊ねなくてはなりません。信念の基礎は何なのでしょうか。それは恐怖でしょうか。生の不確実性でしょうか - 知られないもの・こと(の恐怖)、この常に変化する世界での安全の欠如の恐怖でしょうか。それは関係の不安全でしょうか。それとも、生の無量性に向き合い、それを理解しないので、自分自身を信念の庇護に閉じこめるのでしょうか。それで、お訊ねしてもよいのなら、もしもあなたが全く恐怖を持たなかったなら、あなたは信念を持つでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
840
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 23:52:20 ID:m4QWxTvg0
くまめも2
K 何かを信じることがどうして要るのか。
信念と「有るもの」は別々のもの。信念は言葉、思考。言葉、思考は、そのものではない。経験をとおして、信念の真理に触れたい、それを自身に立証したいと願うが、この信念はあなたの経験を条件づける。経験が信念を立証するにいたるのではなくて、むしろ、信念が経験を設ける。
神へのあなたの信念は、あなたに、あなたが神と呼ぶものの経験を与えてくれる。あなたはいつも、他の何でもなくあなたが信じるもの・ことを、経験する。そして、これはあなたの経験を無効にする。信念は、それ自体の仮想される立証を、条件づける
重要なことは、何を信じるのかではなく、なぜ信じるのか。そして、何を信じようと、現行として有るものに、どんな違いがあるのか。事実は、信や不信に感化されない。
それで、なぜ何かを信じるのかを、問う。信念の基礎は何か。恐怖か、生の不確実性か、知られないもの・ことの恐怖、常に変化する世界での安全の欠如の恐怖か。それは関係の不安全か、それとも、生の無量性に向き合い、それを理解しないので、自分自身を信念の庇護に閉じこめるのか。もしも全く恐怖を持たなかったなら、あなたは信念を持つか。
(´・(ェ)・`)
841
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/07(木) 23:21:05 ID:1d4drIFg0
人が神を信じるのは恐れからなのじゃ。
神を信じていれば死んだ時にひげのじじいが出てきて天国に連れて行ってくれるとかいうから信じるのじゃ。
幻想を期待しているだけなのじゃ。
そのために他の宗教の者を害したりさえもするのじゃ。
それでは迷いから迷いに陥るばかりなのじゃ。
人の心の中にこそ死を超える道は在るのじゃ。
842
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/07(木) 23:25:52 ID:tQXStZAQ0
変化の緊要
信念 3
質問者 私が恐れていることは全く定かではありませんが、私は神を愛しているし、私をして神を信じさせるのは、この愛です。
K あなたは、あなたが恐怖を欠如しているし、ゆえに愛が何なのかを知っている、という意味で言われるのでしょうか。
質問者 私は恐怖を愛に置き換えてしまったので、私には恐怖が存在しないし、ゆえに私の信念は恐怖に基づいていないのです。
K 恐怖を愛で代替できるのでしょうか。それは、恐れていて、ゆえに恐怖を、これまた信念の、愛という言葉で覆い隠す思考の行為ではないのでしょうか。あなたはその恐怖を言葉で覆い隠してしまったし、あなたは、恐怖を消散させたいと願って、その言葉にすがるのです。
質問者 あなたが言われていることは、私を大いに動揺させます。私はこれを続けたいのか全く定かではありません。なぜなら、私の信念と私の愛は、私を支え(てきて)、私がまともな生を送るのを助けてきたからです。私の信念へのこの疑問は、無秩序の感覚をもたらすし、それを、率直には、私は恐れています。
K それで、恐怖はあるのですし、それをあなたはあなた自身で発見しはじめているのです。これがあなたを動揺させるのです。信念は恐怖から来るし、最も破壊的なものなのです。恐怖と信念から自由であるのでなければなりません。信念は人々を分割し、頑なにし、互いに憎みあわせ、戦争を養成するのです。遠回しにいやいやながら、あなたは、恐怖は信念を設けることを、認めつつあるのです。恐怖の事実に向き合うには、信念からの自由が必要です。他のどの理念とも同じく信念は、「有るもの」からの逃避です。恐怖がないときに、心は全く違った次元にあるのです。そのときにだけ、あなたは、神があるのかないのかという疑問を、問えるのです。恐怖や信念で曇った心は、どんな種類の理解の能力も、真理は何なのかを悟る能力もないのです。そういう心は幻想のなか生きるし、明白に、至高なるものに出会えないのです。至高のものは、あなたや他の誰の信念、見解、結論とも、何の関わりもないのです。
あなたは知らないので、信じます。しかし、知ることは知らないことなのです。知ることは、時間の小さな分野のなかにあるし、「私は知っている」と言う心は、時間に縛られるので、有るものをとうてい理解できないのです。つまるところ、あなたが「私は私の妻と友だちを知っている」と言うとき、あなたはイメージや記憶だけを知っているし、これは過去なのです。ゆえに、あなたはけっして現行には誰をも、何をも知りえないのです。あなたは、生きているもの・ことを知りえません。ただ死んだもの・こと(を知りうる)だけです。あなたはこれが分かるとき、もはや、知るということにおいて関係を考えないでしょう。それで、けっして「神はない」とか「わたしは神を知っている」とか言えないのです。これらはどちらも冒涜です。有るものを理解するには、知られたもの・ことからだけではなく、知られたもの・ことの恐怖から、知られないもの・ことの恐怖からも、自由があるのでなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
843
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/07(木) 23:27:16 ID:tQXStZAQ0
くまめも3
恐怖を愛で代替しようとするのは、恐れを愛という言葉で覆い隠す思考の行為。信念は恐怖から来る、最も破壊的なもの。恐怖と信念から自由でなければならない。信念は人々を分割し、頑なにし、憎みあわせる。恐怖に向き合うには、信念からの自由が必要。信念は、「有るもの」からの逃避。恐怖がないときに、心は全く違った次元にある。そのときにだけ、神があるのかと問える。恐怖や信念で曇った心は、真理は何かを悟る能力はない。そういう心は幻想のなか生き、至高なるものに出会えない。至高のものは、信念、見解、結論と何の関わりもない。
知らないので、信じる。しかし、「私は知っている」と言う心は、時間に縛られるので、有るものを理解できない。「知っている」と言うとき、イメージや記憶だけを知っているし、これは過去。ゆえに、けっして現行には誰をも、何をも知りえない。生きているものを知りえない。ただ死んだもの・ことを知りうるだけ。これが分かるとき、知るということにおいて関係を考えない。それで、「神はない」とか「わたしは神を知っている」とか言えない。これらはどちらも冒涜。
有るものを理解するには、知られたもの・ことからだけではなく、知られたもの・ことの恐怖から、知られないもの・ことの恐怖からも、自由があるのでなければならない。
(´・(ェ)・`)
844
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/08(金) 23:25:05 ID:1d4drIFg0
人が何かを知るというのは観念として記憶しただけなのじゃ。
同じものを見た時に記憶から観念を引き出してそれを知っているというのじゃ。
それは実物ではなく観念を見ているだけなのじゃ。
観念の神を見ている者は神を知らず信じることもできないのじゃ。
それはただ恐れからの逃避として観念にしがみついているだけなのじゃ。
845
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:01:37 ID:rMVuTNcc0
変化の緊要
信念 4
質問者 あなたは、「有る」ものを理解することについて語りながらも、知ることの妥当性を拒否するのです。この理解は、知ることでないのなら、何なのでしょうか。
K 二つは全く違っているのです。知ることはいつも過去に関係してあるし、ゆえにそれはあなたを過去に縛るのです。知るのとは違って、理解は結論ではなく、蓄積ではないのです。あなたは聞いてきたなら、理解したのです。理解は注意です。あなたは完全に注意するとき、理解するのです。それで、恐怖を理解することは、恐怖の終わることなのです。ゆえに、あなたの信念はもはや支配的要因ではないのです。恐怖の理解が支配的なのです。恐怖がないとき、自由があるのです。何が真なのかが見られるのは、そのときだけなのです。「有る」ものが恐怖により歪曲されないとき、「有る」ものは真なのです。それはその言葉ではありません。あなたは真理を言葉で計量できません。愛は言葉ではなく、また信念でもなく、何かあなたが捕捉し「それは私のです」と言えるものでもないのです。愛と美しさなしには、神と呼ばれるものは、全く何でもないのです。
(´・(ェ)・`)つ
846
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:02:41 ID:rMVuTNcc0
>>844
超要約ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
847
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:03:25 ID:rMVuTNcc0
くまめも18-4
知ることはいつも過去に関係してあり、過去に縛る。理解は結論、蓄積ではない。理解は注意。完全に注意するとき、理解する。
恐怖を理解することは、恐怖の終わること。
ゆえに、信念はもはや支配的要因ではない。恐怖の理解が支配的。恐怖がないとき、自由がある。何が真なのかが見られるのは、そのときだけ。「有る」ものが恐怖により歪曲されないとき、「有る」ものは真。それはその言葉ではない。真理を言葉で計量できない。愛は言葉、信念ではなく、「それは私のです」と言えるものでもない。愛と美しさなしには、神と呼ばれるものは、全く何でもない。
※恐怖に付いての講話は、
>>629
〜
>>633
(´・(ェ)・`)b
848
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/09(土) 23:57:37 ID:1d4drIFg0
>>849
どういたしまして、またおいでなさい。
849
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/09(土) 23:59:38 ID:1d4drIFg0
理解とは気付くことなのじゃ。
それは記憶による知識とは違い、常に今ここにあるものごとに気付くことなのじゃ。
常に変化する心を観るには気付くことしかないのじゃ。
知識は過去を記録するものであるから、今ここにある心を観る役には立たないのじゃ。
850
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 00:09:06 ID:dcxeBd5E0
変化の緊要
夢 1
質問者 私は専門家によって、夢を見ることは昼間の思考と活動と同じぐらい生命に関わるし、もしも私が夢を見なかったなら、私の日々の生活を大きな緊張とストレスのもとに(あると)気づくだろう、と言われてきました。ここで私は彼らの仲間内の言葉ではなく、私自身の言葉を使っているのですが、彼らは、眠りの一定の期間にまぶたの動きが、さわやかにしてくれる夢を表示するし、これらは頭脳に一定の明晰さをもたらすと主張するのです。私は、あなたがよく語ってこられた心の静けさは、夢の諸様式がもたらす平衡よりももっと大きな調和を生活にもたらすのかもしれない、と思っています。私はまた、夢の言語はなぜ象徴の一つであるのかを、訊ねたいようにも思うのです。
K 言語自体が象徴ですし、私たちは諸象徴に慣れています。私たちは、樹の象徴であるイメージをとおして樹を見るし、私たちは隣人について持っているイメージをとおしてその人を見るのです。イメージ、見解、結論はすべて象徴ですが、それらをとおさず何かを直接的に見ることは、明らかに、人間には最も困難なことの一つです。それで、夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たすし、これには大きな欺瞞と危険があるのです。私たちは夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするけれども、その意味はいつも私たちに明らかであるのではないのです。私たちは、何かを見るとき、自発的にそれについて語るので、そのため言葉もまた象徴であることを認識しないほどなのです。このすべては、技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはめったにないことを、表示するでしょう。誰があなたを叩くとき、あなたに象徴は要りません。それは直接的伝達です。これはとても興味深い点なのです - 心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに自分自身に気づくのを、拒絶するのです。あなたは空は青いと言います。そのとき聞く人は、これを自分の青さの言及対象に応じて解読し、自分の暗号であなたに送信するのです。それで、私たちは諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部です。私たちは、象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がないのです。これの理由もまた全く明らかです。それは、防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部なのです。頭脳の活動には、暗号化された応答があるのです。そして、目覚めている時間に、私たちは直接的な応答や知覚の能力がないのだから、夢は自然と、象徴的であるにちがいないのです。
質問者 それではこれは頭脳の本来的機能であるように、私には見えるのです。
K 本来的とは、何か恒常で、必然的で、長続きするもの・こと、という意味です。確かにどんな心理的状態も、変化しうるのです。ただ、有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的なのです。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置です。これが、思考の過程全体です。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴です。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自分自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛するのです。悲惨と悲しみのすべてが、これから来るのです。
質問者 それでは、私はどのようにそれを避けるのでしょうか。
K どう避けるのかを訊ねるとき、あなたはやはり「私 'me' 」の象徴に取りすがっていますが、それは虚構です。あなたは、あなたの見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずるのです。
質問者 これを継続するために、また他の日に戻ってきてもいいでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
851
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 00:10:58 ID:dcxeBd5E0
くまめも1
言語、イメージ、見解、結論はすべて象徴。それらをとおさず直接的に見ることは、人間には困難。夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たす。これには大きな欺瞞と危険がある。夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするが、その意味は明らかでない。何かを見て、それについて語るが、言葉もまた象徴。技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはない。心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに気づくのを、拒絶する。諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部。象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がない。防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部。頭脳の活動には、暗号化された応答がある。目覚めている時間に、直接的な応答や知覚の能力がないから、夢は自然と、象徴的。
有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛する。悲惨と悲しみのすべてが、これから来る。
それをどう避けるのかを訊ねるとき、「私 'me' 」の象徴に取りすがっているが、それは虚構。あなたは、見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずる。
(´・(ェ)・`)
852
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/10(日) 22:45:44 ID:1d4drIFg0
質問にあわせて自分の観念を象徴と呼ぶのじゃ。
人は自分という象徴を守ろうとしてさまざまな観念を作り出し、それが苦になるのじゃ。
それも自分という象徴があるという孤独や不安からの逃避として起こるものじゃ。
それが無ければ恐れも孤独も逃避も苦も無いのじゃ。
853
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 23:18:29 ID:4/qOEk/o0
変化の緊要
夢 2
質問者 よくも戻ってこさせていただきました。私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。私たちは夢における象徴について話していました。あなたは、私たちが象徴によって生き、それらを私たちの満足に応じて解読することを、指し示されました。私たちは夢のなかだけではなく、日々の生活でもそうなのです。それは私たちのふつうの行動です。私たちの行為のほとんどは、私たちの持つ象徴やイメージの解釈に、基づいてあるのです。ふしぎにも、先日あなたとお話しした後、私の夢は奇妙な転換をしました。私はとても動揺する夢を見てきたのですが、それらの夢の解釈が、夢のなかで起きているままに、起こったのです。それは同時的過程でした。夢は夢見る者により解釈されつつありました。これは私には前に起きたことはないのです。
K 私たちの目覚めた時間には、観察されるもの・ことから異なった観察者、行為から分離した行為者が、いつもあるのです。同じように、夢から分離した夢見る者があるのです。彼は、それが自分自身から分離していて、ゆえに解釈が必要だと思うのです。しかし、夢は、夢見る者から分離しているのでしょうか。夢を解釈する必要があるのでしょうか。観察者は観察されるもの・ことであるとき、解釈し、判断し、評価づけるどんな必要があるのでしょうか。もしも観察者が観察されるもの・ことと異なっていたなら、この必要は存在するでしょう。これは理解することがとても重要です。私たちは観察されるもの・ことを観察者から分離してきたし、ここから解釈の問題だけではなく、葛藤、抗争と、それに関連する多くの問題もまた生じるのです。この分割は幻想です。諸集団、諸人種、諸民族、諸国家の間の分割は、虚構です。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在です。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起きるし、そのとき戦争と他の格闘すべてが存在するにいたるのです。
質問者 それでは、私は夢の内容をどのように理解するのでしょうか。それは意義を持つにちがいありません。私が、何か特定の出来事や人物の夢を見るのは、偶然なのでしょうか。
K 私たちは本当に、これを全く違ったように見つめるべきなのです。何か理解すべきもの・ことがあるのでしょうか。観察者が自らは観察されるもの・こととは異なると思うとき、彼自身の外側にあるもの・ことを理解しようとする試みがあるのです。同じ過程は彼のなかで続きます。自らの観察するもの・ことは彼自身であるのに、それを理解したいと願う観察者があるのです。しかし、観察者が観察されるもの・ことであるとき、理解するという問題はないのです。観察だけがあるのです。あなたは、夢には何か理解されるもの・ことがある、そうでなければ夢はないだろうと言われます。そして、夢は、何か未解決で理解すべきもの・ことのほのめかしであると、言われます。あなたは、「理解する」という言葉を使われますが、まさにその言葉こそに二元的過程があるのです。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきもの・ことがあると思うのですが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じなのです。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為です。
質問者 あなたは、夢は心の何かの表現であると言われるのでしょうか。
K 明白にそうです。
(´・(ェ)・`)つ
854
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 23:23:03 ID:4/qOEk/o0
くまめも2
目覚めた時間には、観察されるものと異なった観察者、行為から分離した行為者がある。同様に、夢から分離した夢見る者がある。彼は、それが自分自身から分離していて、解釈が必要だと思う。しかし、夢は、夢見る者から分離しているか。解釈する必要があるか。
観察者は観察されるものであるとき、解釈し、判断、評価づける必要があるのか。もしも観察者が観察されるものと異なっていたなら、この必要はある。この理解は重要。
観察されるものを観察者から分離してきた。ここから解釈、葛藤、抗争それに関連する多くの問題が生じる。この分割は幻想。
諸集団間の分割は、虚構。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起き、戦争、格闘すべてが生じる。
観察者が自らは観察されるものとは異なると思うとき、彼自身の外側にあるものを理解しようとする。しかし、観察者が観察されるものであるとき、理解するという問題はない。観察だけがある。「理解する」という言葉こそに二元的過程がある。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきものがあると思うが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じ。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為。夢は心の何かの表現である。
(´・(ェ)・`)
855
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/11(月) 22:31:26 ID:1d4drIFg0
観察する事は観察される対象と観察する者を生み出すのじゃ。
それ故に観察する者そのものを観察する事は難しいのじゃ。
観察することが分離を生み出すからのう。
観察する者が今ここで観察する自らを観た時、観照は起こるのじゃ。
856
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:29:50 ID:d76TxRxw0
変化の緊要
夢 3
質問者 私は、夢をあなたが叙述しておられるとおりに眺めることがどうして可能なのか、理解できません。それは、意義を持たないのなら、なぜ存在するのでしょうか。
K 「私 'I' 」は夢見る者です。夢見る者は、自らの考案または投影した夢の意義を分かりたいのです。それで、どちらも夢ですし、どちらも非真実です。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者に、観察者に、真実になったのです。夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、この分割から生じるのです。
質問者 私はますます混乱してきますので、私たちはそれを再び違ったように調べてみてもいいでしょうか。私は、夢は私の心の産物であり、それから分離していないことが分かります。しかし、夢は、探検されたことのない心の水準から来るように思われるのです。だから、夢は、何か心のなかの生きているもの・ことの暗示であるように、思われるのです。
K それは、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではないのです。あなたの心は人間の心です。あなたの意識は人間の全体です。しかし、あなたはそれをあなたの心と特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずるのです。目覚めた時間に、観察者は制限の表現ですが、彼なく観察しなさい。どんな分割も制限です。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」とに分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つのです - それらのなかは、夢と夢の解釈です。どの場合にも、あなたは、制限された仕方でのみ夢の意義や価値が分かるでしょう。なぜなら、観察者はいつも制限されているからです。夢見る者は、自分の制限を永続化します。ゆえに、夢はいつも、全体の(表現)ではなく、不完全なもの・ことの表現です。
質問者 月の構成を理解するために、月から破片が持ち帰られるのです。同じように、私たちは、私たちの夢から破片を持ち帰り、それらの表現するもの・ことを検討することにより、人間の思考を理解しようとするのです。
K 心の表現は心の断片です。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾するのです。一つの夢はもう一つの夢と、一つの行為はもう一つの行為と、一つの願望はもう一つの願望と矛盾するかもしれません。心はこの混乱に生きるのです。心の一部分は、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言うのです。それで、各部分が自分の観察者、自分の活動を持つのです。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとします。超観察者もまた心の断片です。夢を生み育てるのは、これら矛盾、これら分割です。
それで、本当の疑問は、特定の夢の解釈や理解ではないのです。それは、これら多くの諸断片が全体に収まるという知覚です。そのとき、あなたはあなた自身を、全体の断片としてではなく、全体として見るのです。
質問者 あなたは、一日の間に、自分の家庭生活や実業生活や生の他のどんな個別の面だけでもなく、生の動き全体に気づくべきである、と言われているのでしょうか。
K 意識は人間の全体であり、特定の人に属していないのです。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾、戦争という複雑な問題があるのです。目覚めた時間に(一人の)人間に生の全的動きの気づきがあるとき、いったい夢にどんな必要があるのでしょうか。この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにするのです。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がないのです。
質問者 確かにこれで、扉が開かれるし、それをとおして多くのものごとが見るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
857
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:41:36 ID:d76TxRxw0
くまめも3
夢見る者、夢、どちらも夢、どちらも非真実。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者、観察者に、真実になった。
夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、分割から生じる。
夢は、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではない。あなたの心、意識は人間の全体のそれ。それを特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずる。
目覚めた時間、観察者は制限の表現。彼なく観察しろ。どんな分割も制限。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」に分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つ。夢見る者は、自分の制限を永続化する。ゆえに、夢はいつも、全体のではなく、不完全なもの。
心の表現は心の断片。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾する。
一つの夢、行為、願望はもう一つのと矛盾する。心はこの混乱に生きる。心の一部分、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言う。それで、各部分が自分の観察者、活動を持つ。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとする。超観察者もまた心の断片。夢を生み育てるのは、この矛盾、分割。
夢は、多くの諸断片が全体に収まるという知覚。自身を、全体の断片としてではなく、全体として見る。
質問者 一日の間に、生の動き全体に気づくべきか。
K 意識は人間の全体であり、特定の人に属さない。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾という複雑な問題がある。
目覚めた時間に人間に生の全的動きの気づきがあるとき、この全的気づき、注意は、断片化と分割を終わりにする。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がない。
(´・(ェ)・`)
858
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:50:06 ID:d76TxRxw0
>>856
>意識は人間の全体であり、特定の人に属していない・・・この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにする。
うむ。それが、むずかしいのである。
結局、Kは、いつも、常に、注意してあれば、気づけると言うのでありましょう、
(´・(ェ)・`)っ
859
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/12(火) 22:14:09 ID:1d4drIFg0
↑それも難しい事じゃ。
悟りを得ていない者にはほとんど不可能なのじゃ。
結局悟った者が悟りを得る方法となってしまうのじゃ。
悟りを得ていない者はただひたすらに観察在るのみなのじゃ。
観察そのものになりきるまで実践すれば観察者無しに観察する事も出来るのじゃ。
860
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/13(水) 03:15:45 ID:eCJLneZg0
変化の緊要
伝統 1
質問者 本当に伝統から自由になれるのでしょうか。いったい何かから自由でありうるのでしょうか。それともこれは、それをよけてかわし、それとどんな関係をも持たないという事態でしょうか。あなたは過去とその条件づけについてたいへん多くを話されます - しかし、私は本当に、私の生のこの背景全体から自由になれるのでしょうか。それとも私は、背景から自由になるよりむしろ、単にそれをさまざまな外的要求と挑戦に応じて修正し、私自身をそれに適応させられるだけなのでしょうか。これは最も重要なものごとの一つであるように私には思われます。そして、私は自分が重荷を、過去の重さを運んでいるといつも感じるから、私はそれを理解したいように思うのです。私はそれを降ろし、二度とそれに戻ってこないで、それから歩み去りたいように思うのです。これは可能でしょうか。
K 伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味ではないでしょうか。過去は、自分特定のひとまとまりの相続(である)だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもあるのです。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を、持ち運びます。このすべて - 知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶこと - が、未来を形作る過去なのです。歴史すべてを教えることは、伝統の一形態ではないでしょうか。あなたは、このすべてから自由になれるのかを訊ねています。まず最初に、なぜ自由になりたいのでしょうか。なぜこの重荷を降ろしたいのでしょうか。なぜでしょう。
質問者 私はそれはそうとう単純であると思います。私は過去でありたくないのです - 私は私自身でありたいのです。私は、新しい人間になれるように、この伝統全体を浄化されたいのです。私たちのほとんどには、新しく生まれたいというこの感情がある、と私は思うのです。
K あなたは、(新しい者になることを)願うだけでは、または新しくなろうと格闘するだけでは、とうてい新しい者になれません。あなたは過去を理解するだけではなく、またあなたが誰であるかをも見出さなくてはなくてはなりません。あなたは過去ではないでしょうか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないでしょうか。
質問者 私の行為と思考はそうですが、私の存在はそうではありません。
K あなたは、行為と思考の二つを、存在から分離できるのでしょうか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないでしょうか。「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部です。
(´・(ェ)・`)つ
861
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/13(水) 03:16:27 ID:eCJLneZg0
くまめも20-1
伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味。過去は、自分特定のひとまとまりの相続だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもある。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を持ち運ぶ。知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶことが、未来を形作る過去。歴史すべてを教えることは伝統の一形態、これから自由になれるか。
新しい者になることを願い、格闘するだけでは、新しい者になれない。過去を理解するだけではなく、あなたが誰かをも見出さなくてはならない。あなたは過去ではないか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないか。
行為と思考の二つを、存在から分離できるか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないか。
「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部。
(´・(ェ)・`)
862
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/13(水) 22:46:32 ID:1d4drIFg0
過去から自由になりたいという願望ですら、過去からの観念なのじゃ。
それだけでは到底自由にはなれないのじゃ。
自分がなにものであるかを見出さなければならんのじゃ。
自分を過去からの観念ではなく、今ここで観ることにより理解して気付くのじゃ。
それが全ての賢者達の教えなのじゃ。
863
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 02:55:14 ID:6AQRseHA0
変化の緊要
伝統 2
質問者 あなたのいわれるのは、私が考えていないとき、過去が作動していないとき、私は滅却される。私は存在するのを停止する、という意味なのでしょうか。
K あまりに多くの質問をしないで、私たちが始めたところを考慮しましょう。過去 - 近来のだけではなく有史以前のもの、集合的なもの、人種的なもの、人間的なもの、動物的なもの - から、自由になれるでしょうか。あなたはそのすべてです。あなたはそれから分離してないのです。そしてあなたは、そのすべてを片づけ、新しく生まれられるのかを訊ねています。「あなた 'you' 」はそれであるのです。あなたが新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、あなたが想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影です。しかし、下ではあなたは過去なのです。それで、疑問はこうです - 過去は片づけられるのでしょうか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するのでしょうか。変化し、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去でしょうか。過去は原因ですし、現在は結果です。今日は昨日の結果ですが、明日の原因になるのです。この連鎖が思考の道なのです。というのは、思考は過去であるからです。あなたは、今日への昨日のこの動きを止められるのかを訊ねています。過去を検討するため、見つめられるでしょうか。それともそれは全く可能ではないのでしょうか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければなりません - しかし、そうではないのです。それでここに、もう一つの主題が生ずるのです。観察者自身が過去であるのなら、そのとき、過去はどのように、観察のため孤立させられるのでしょうか。
質問者 私は何かもの・ことを客観的に見つめられるし・・・
K しかし、あなたは観察者ですが、それ自体を見つめようとしている過去なのです。あなたは、あなたが長年にわたってあらゆる形態の関係において組み立ててイメージとして、あなた自身を客体化できるだけなのです。それで、あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去なのです。あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、あなた自身を見つめようとしています。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去であるのです。過去の行為が、過去の記憶を見つめているのです。ゆえに、過去からの救出は、けっしてないのです。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化するのです。これがまさに過去の行為ですし、これが伝統のまさに本質です。
(´・(ェ)・`)つ
864
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 13:09:17 ID:6KoK9UVM0
くまめも2
過去−有史以前の、集合的、人間的、動物的なもの−から、自由になれるか。 あなたは、分離してない。そのすべてを片づけ、新しく生まれられるか。新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影。それで、疑問は、過去は片づけられるか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するか。変化、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去か。過去は原因、現在は結果。今日は昨日の結果、明日の原因。この連鎖が思考の道。というのは、思考は過去であるから。
過去を検討するため、見つめられるか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければならないが、そうではない。
それでここに、もう一つの主題が生ずる。観察者自身が過去であるなら、過去はどのように、観察のため孤立させられるのか。あなたは観察者だが、それ自体を見つめようとしている過去。あなたが長年にわたってあらゆる関係において組み立てたイメージとして、自身を客体化できるだけ。あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去。
あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、自身を見つめようとしている。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去。過去の行為が、過去の記憶を見つめている。ゆえに、過去からの救出は、けっしてない。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化する。これがまさに過去の行為だし、これが伝統のまさに本質。
(´・(ェ)・`)
865
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/14(木) 22:27:28 ID:1d4drIFg0
自分を観る時に分別を働かせると過去の記憶から観ていることになるのじゃ。
過去の記憶からの価値観や条件付け等から見てしまうのじゃ。
それではやはり観念しか見えないのじゃ。
今ここに在るものとしてありのままに、己を起こす心の働きを感知するのじゃ。
866
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:36:55 ID:PWaryu2Q0
変化の緊要
伝統 3
質問者 それでは、どういう行為が可能なのでしょうか。私が過去であるのなら - 私はそうであることが分かるのですが、そのとき、私が過去を削りとるためするいかなることも、それに付け加えることなのです。それで、私はどうしようもないままなのです!私に何ができるのでしょうか。私は祈れません。なぜなら、神の考案もまた過去の行為であるからです。私は他の人を頼れません。他の人もまた私の絶望の創作であるからです。私はそのすべてから逃げ去れません。なぜなら、その終わりにもやはり私は、私の過去とともにいるのです。私は私自身を、過去のではない何かイメージと同定できません。なぜなら、そのイメージもまた私自身の投影であるからです。このすべてを見て、私は本当にどうしようもなく、絶望のなか残されているのです。
K なぜあなたは、それをどうしようもない、絶望と言うのでしょうか。あなたは、一定の結果を達成できないから、過去と見えるものを情動的心配に翻訳していないでしょうか。そうするなかであなたは再び、過去をして行為させていないのです。ここであなたは、伝統すべてをもつ過去のこのすべての動きを、それから自由になりたい、それを変化させたい、修正したい、それから逃げ去りたいと思わず、見つめられるでしょうか。どんな反応もなく単純にそれを観察できるでしょうか。
質問者 しかし、私たちがこの会話をとおして言ってきたとおり、私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるのでしょうか。私はまったくそれを見つめられないのです!
K あなた自身は過去ですし、思考の動きは過去ですが、あなたはあなた自身を思考のどんな動きもなく見つめられるでしょうか。あなたが、考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見られるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがあるのです。それは、静寂のなか、思考の音なく見ることです。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもないのです。
質問者 あなたは、評価づけや判断なく見るとき、過去は消えてしまったと言われているのでしょうか。しかし、そうなっていないのです - 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりあるのです。私はそれらを見つめるし、それらはやはりあるのです。過去が消えてしまったとどうして言えるのでしょうか。それは瞬間的に行為するのを止めたかもしれません・・・
K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元です。そして、何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消されるのです。なぜなら、心はいまや、過去が生成したエネルギーではない違った性質のエネルギーを持つからです。これが大事なことなのです - 過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと、です。過去を持ち運ぶことは、違った種類のエネルギーです。静寂は他の一つを拭い去るのです。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのです。それは、海に似ています。汚れた川を受容して、清浄なままなのです。これが大事なことなのです。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけなのです。静寂(があるの)か、過去の音があるのかのどちらかです。この静寂のなか音は停止するし、新しいものはこの静寂です。それは、あなたが新しくなるのではないのです。この静寂は無際限ですし、過去は制限されているのです。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去るのです。
(´・(ェ)・`)つ
867
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:38:53 ID:PWaryu2Q0
くまめも3
質問者 過去を削りとるためすることは、それに付け加えること。私自身を、過去のではないイメージと同定できない。なぜなら、それもまた私自身の投影であるから。
K 過去のすべての動きを、それから自由になりたい、変化させたい、修正したい、逃げ去りたいと思わず、見つめられるか。反応なく単純にそれを観察できるか。
質問者 私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるか。私はそれを観れない。
K あなた自身は過去、思考の動きは過去だが、あなた自身を思考の動きなく見つめられるか。考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見れるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがある。それは、静寂の中、思考の音なく見ること。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもない。
質問者 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりある。
過去が消えてしまったとどうして言えるか。
K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元。何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消される。心はいまや、過去が生成したのではない違った性質のエネルギーを持つ。過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つことが大事。静寂は過去を拭い去る。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのだ。それは、海に似ている。汚れた川を受容して、清浄なままなのだ。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけ。新しいものはこの静寂。あなたが新しくなるのではない。この静寂は無際限。過去は制限されている。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。
(´・(ェ)・`)
868
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:48:20 ID:PWaryu2Q0
>>862
うむ。
質問者も、繰り返しその難しさを訴えているのであるが、
Kの説くところは、
「過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと・・・過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。」
無思考の訓練は、瞑想で出来るでありますね。
(´・(ェ)・`)b
869
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/15(金) 22:50:39 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、結局は瞑想が必要なのじゃ。
悟っていない者には静寂に達することも無理であるからのう。
悟ってから静寂も感じるものじゃ。
過去から解放されるには悟ってから悟れというようなものじゃ。
870
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/15(金) 23:01:21 ID:1d4drIFg0
静寂は深い瞑想の中で我を忘れた時にも訪れるじゃろう。
忘我の境地はサマーディと呼ばれるのじゃ。
まだ悟りではないが自らの心を観るためには最も優れた境地なのじゃ。
サマーディの静寂の中で分別も過去もなく自らを観ることができるのじゃ。
871
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:23:05 ID:1jo0mRFQ0
変化の緊要
条件づけ 1
質問者 あなたは、条件づけについてたいへん多くを話されたし、この束縛から自由であるのでなければならない、そうでなければ、いつも投獄されたままであると言われました。この種の説はとても無法で、受け入れがたいと思われます!私たちのほとんどは、とても深く条件づけられているし、私たちはこの説を聞き、お手上げですし、そういう突拍子もない表現から逃げ去ります。しかし、私はお話を真剣に取ってきました - というのも、あなたは多かれ少なかれ、趣味としてではなく、深い真剣さをもって自らの生をこの種のことに捧げてこられたからです - ゆえに、私は、人間がどこまで自分自身を条件づけから解き放てるのかを見るため、それをあなたと議論したいように思うのです。それは本当に可能なのでしょうか。もし可能なら、どれはどういう意味なのでしょうか。私は、習慣、伝統(の世界)、こんなに多くの事態での正当的概念の受け入れの世界に生きてきましたが、可能なのでしょうか - 私が本当にこの深く根づいた条件づけを投げ捨てることは、可能なのでしょうか。正確には、条件づけとはどういう意味なのでしょうか。そして、条件づけからの自由とはどういう意味なのでしょうか。
K まず初めに第一の疑問を取りましょう。私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてあるのです - 私たちが生きる気候風土と食べる食物により、私たちが生きる文化により、私たちの社会的、宗教的、経済的環境の全体により、私たちの経験により、教育により、家族の圧力と感化によって。これらすべてが、私たちを条件づける要因です。知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの私たちの意識的、無意識的応答 - これらすべては、条件づけの行為です。言語は条件づけです。思考すべては、条件づけの行為、応答です。
私たちが条件づけられてあることを知って、私たちは、私たちをこの機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案するのです。私たちは私たち自身の外側または内側にその存在を措定します - アートマン、たましい、内なる神の王国として、後は神のみぞ知るです!それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、私たちは、これら信念に必死にすがるのです。それで、この世界で私たち自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思うのです。原罪というキリスト教の神話と輪廻という東洋の教義全体には、かなり曖昧ながら条件づけの要因が感じられてきたことが、分かるのです。もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかったでしょう。今日、心理学者もまたこの問題に取り組もうとするし、そうするなかで私たちをさらにいっそう条件づけるのです。
(´・(ェ)・`)つ
872
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:24:29 ID:1jo0mRFQ0
くまめも1
私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてある。気候風土、食物、文化、社会的、宗教的、経済的環境の全体、経験、教育、家族の圧力と感化によって。
知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの意識的、無意識的応答-これらすべては、条件づけの行為。言語、思考すべては、条件づけの行為、応答。私たちは、この機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案し、自身の外側または内側に、アートマン、たましい、内なる神の王国としてその存在を措定する。それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、これら信念に必死にすがる。それで、この世界で自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思う。原罪という神話と輪廻という教義全体には、曖昧ながら条件づけの要因が感じられる。
もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかった。
心理学者もまたこの問題に取り組むなかでさらにいっそう条件づける。
(´・(ェ)・`)
873
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:28:07 ID:1jo0mRFQ0
うむ。Kは、否定によってのみあらわされるアートマンをも、否定するのでありますね。
言葉で表現されることを一切見ない。一切の観念のない、無思考であること=静寂のみを追求せよと言うのでありますね。
(´・(ェ)・`)b
874
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/16(土) 23:00:28 ID:1d4drIFg0
アートマンの観念も創られた当初は有効な法であったが、長い間使われているうちに過去の条件付けになってしまったのじゃ。
人の間で伝播するうちにどうしてもいろいろな観念が付随してしまうからのう。
全ての観念を捨てるのがアートマンの法なのに、アートマンの観念を守ってしまうのじゃ。
本末転倒なのじゃ。
875
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:20:37 ID:5sl1fQqk0
変化の緊要
条件づけ 2
かくして、宗教的専門家は私たちを条件づけてきたし、社会秩序は私たちを条件づけてきたし、それの一部である家族は私たちを条件づけてきたのです。このすべてが、心の隠れた層とともに明らかなものを作り上げる過去なのです。ちなみに、いわゆる個人は全く存在しないことに注目するのは、興味深いのです。というのは、彼の心は、彼が他のあらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に、頼るからです。それで、共同体と個人の間の区別は、虚偽なのです。ただ条件づけのみがあるのです。この条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為です。
質問者 それでは、私はそのすべてから自由になるには、何をすべわきでしょうか。この機械的状態に生きることは、全く生きることではないし、それでもなお、行為すべて、意志すべて、判断すべてが条件づけられてあるのです - それで、明らかに、条件づけについて私のできる、条件づけられていないことは、何もないのです!私は手足を縛られているのです。
K 過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」、それ自体を発揮する「私 'me' 」です。そしていま、それは、自由になりたいとの要求においてそれ自体を発揮します。それで、条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考です。「私 'me' 」は過去のまさに本質です。「私 'me' 」は時間です。「私 'me' 」は悲しみです - 「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力するし、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘するのです。なるためのこの格闘が、混乱ともっと多くもっと良くへの欲があるところの時間です。「私 'me' 」が安全を探し求めるし、それが見つからないので、探求を天国に移転します。それ自体を失いたいと願うところの何かもっと大きなものに - それが国家でも、民族でも、理想でも、何か神でも - それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因です。
質問者 あなたは、私からあらゆるものごとを取ってしまいました。この「私 'me' 」なしに、私は何なのでしょうか。
K 「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていないし、それは、あなたが何でもないという意味です。
質問者 「私 'me' 」の努力なく、「私 'me' 」は終わりうるのでしょうか。
K 何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為です。
質問者 「私 'me' 」の行為はどのように止まるのでしょうか。
K あなたがこの全体、その事態全部を見てこそ、それは止まりうるのです。あなたが行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わることなのです。この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為するのです。
(´・(ェ)・`)つ
876
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:27:29 ID:5sl1fQqk0
くまめも2
①彼の心は、あらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に頼るから、いわゆる個人は全く存在しない。共同体と個人の間の区別は、虚偽。ただ条件づけのみがある。条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為。②過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」。条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考。③「私 'me' 」は、過去の本質、時間、悲しみ。④「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力し、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘する。なるためのこの格闘が、混乱と、もっと多く、もっと良くへの欲があるところの時間。
⑤「私 'me' 」が安全を探し求め、大きなものに−国家、理想、神−それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因。「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていない。⑤何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為。この事態全部を見てこそ、それは止まりうる。
行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わること。
この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為する。
(´・(ェ)・`)
877
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:31:37 ID:5sl1fQqk0
①〜⑤までを全部見るなら「私」は終わる、無我にに気づけるみたいな。
がんばるしかありますまい。
(´・(ェ)・`)b
878
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/17(日) 22:37:57 ID:1d4drIFg0
見ることこそ条件付けられていない行為とクリシュナムルティは言うのじゃ。
条件付けに対して行為できるものであると。
そうであるから条件付けから脱することができるのじゃ。
自分という条件付けによる観念からも脱却できるのじゃ。
879
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/17(日) 23:14:56 ID:4r7N8PaQ0
変化の緊要
条件づけ 3
質問者 あなたのいわれるのは、頭脳 - すなわち、無際限の条件づけをもつ広大な進化の結果 - は、自由になれるという意味でしょうか。
K 頭脳は時間の結果です。それは、物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられています。しかし、それが心理的にそれ自体を保護しようとするとき、「私 'me' 」が始まるし、私たちの悲惨すべてが始まるのです。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力であるのです。頭脳は、学びうるし、科学技術的に知識を取得できるのですが、それが心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張するのです。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすものなのです。
質問者 この頭脳は止まって、科学技術的に働かなくてはならないときにだけ、作動する - たとえば言語を学んだり、車を運転したり、家を建てたりのように、行為に知識が要求されるときだけ、作動することができるでしょうか。
K ここでの危険は、頭脳を心理的なものと科学技術的なものとに区別することです。これは再び、矛盾、条件づけ、理論になるのです。本当の疑問は、頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできるのかということです。それで、私たちは心理的なものや科学技術的なものに関心はないのです。私たちはただ訊ねるだけなのです - この心全体は完全に止まって、作用しなくてはならないときにだけそうできるのでしょうか。私たちは、それはできるし、これは冥想とは何なのかを理解することであると言うのです。
*
質問者 よろしければ、私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。あなたは、私が二つの疑問を訊ねたことを、憶えておられるかもしれません。私は、条件づけは何なのか、条件づけからの自由は何なのかを、訊ねました。あなたは、まず初めに第一の疑問を取ろうと言われました。私たちは第二の疑問に入る時間がありませんでした。ですから、私は今日、自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのかを、お訊ねしたいように思うのです。昨日あなたと話した後で、私には、私がどんなに深く強く条件づけているのかが、ごく明確になったし、私は条件づけのこの構造の隙間、開きが見ました - 少なくとも私は見えたと思うのです。私は事態をある友だちと話しあいましたが、一定の条件づけの実例を取るなかで、自らの行為がそれによりどんなに深く有毒な影響をされるのかが、私はごく明確に見えました。あなたが終わりに言われたとおり、冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすることなのです。どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのでしょうか。幻想は何なのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
880
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/17(日) 23:17:02 ID:4r7N8PaQ0
くまめも3
頭脳は物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられている。保護しようとするとき、「私 'me' 」が、私たちの悲惨すべてが始まる。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力。
頭脳は学びうるが、心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張する。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすもの。
頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできる。これは冥想とは何なのかを理解すること。
質問者 自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのか
冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすること。
どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのか。幻想は何なのか。
(´・(ェ)・`)
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