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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
1
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n
#last
>>863
〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。
2
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/19(水) 12:33:36 ID:jfWCoXjM0
>>1
スレ立てありがとうございます!
それでは引き続き、ラマナ・マハルシとの対話を掲載していきたいと思います。
鬼和尚、いつもありがとうございます(-人ー)
3
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/19(水) 12:42:48 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話42
1935年3月24日
マダナパリのダンカン・グリーンリース氏が次のような質問を紙に書いて渡した。
「人はときおり、中心がいわゆる自分の外側にあり、しかもそれがいっさいを含む生き生きとした意識の閃光を見ます。
哲学的な概念にとらわれることなく、この稀有な閃光を獲得し、維持し、拡大していくにはどうすればいいのでしょうか、バガヴァーン、どうか助言をお与えください。
このような体験を得るには、隠遁して霊的修練(アビャーサ)に打ち込むことが必要なのでしょうか?」
マハルシ
あなたは「外側」と言いますが、誰にとって外側と内側があるのでしょうか?
主体と客体があるかぎり、外側と内側は存在します。
もう一度言いますが、それらは誰にとって存在するのでしょうか?
調べてみれば、それらはただ主体の中に融け去ることがわかるでしょう。
その主体とは誰なのでしょうか、それを見極めなさい。
この探究が、主体を超えた純粋な意識へとあなたを導くでしょう。
あなたは「いわゆる自分」と言います。
いわゆる自分とは心のことです。
その心は限定されています。
しかし純枠な意識は限定の彼方にあり、それは「私」の源へと探究することによって到達されるのです。
あなたは「獲得する」と言います。
真我は常に存在しています。
あなたはただ真我を覆い隠すヴェールを剥ぎ取るだけなのです。
あなたは「維持する」と言います。
ひとたび真我を実現すれば、それはいつでも「今ここ」に在るとわかり、二度と失われることは
ありません。
あなたは「拡大する」と言います。
真我が拡大することはありません。
それは縮小することも拡大することなく、常に在るのです。
あなたは「隠遁する」と言います。
真我の内にとどまることは独り在ることです。
なぜなら、真我にとって異郷的なものは何もないからです。
隠遁とは一つの場所や状態から別の場所や状態へと退くことに違いありません。
一つの場所であれ別の場所であれ、真我の中にしか存在しないのです。
すべてが真我なのですから、ある場所から退くことなどできませんし、ありえないのです。
霊的修練(アビャーサ)とは真我を探究することです。
4
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/19(水) 23:14:02 ID:1d4drIFg0
>>1
ごくろうさんなのじゃ。
瞑想とか信仰で特別な体験をすると、人はそれに囚われてしまうことがあるのじゃ。
そしてそれに執着してしまうのじゃ。
それは仏教では魔と呼ぶのじゃ。
その囚われは金や権力に囚われるのと全く同じなのじゃ。
全ての体験を捨てて真摯に心の中を追求することが修行なのじゃ。
5
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 13:28:31 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話43
1935年3月28日
ヴェロールの地方自治体の長官であるS・ランガナータン氏とS・V・ラーマムールティ氏、プドゥコッタ州のラーガヴィア氏らがアーシュラマムを訪問した。
ランガナータン氏が質問した。
「どうすれば心を制御できるでしょうか。どうぞお教えください」
マハルシ
二つの方法があります。
一つは「心とは何か」を観ることです。
そうすれば心は静まります。
もう一つは注意を何かに集中させることです。
こうしても心は静まります。
質間者はさらに説明を求めて質問を繰り返した。
与えられた答えは前より少し言葉が加えられた程度だった。
だが質間者は満足できなかった。
ラーガヴィア氏が尋ねた。
質問者
世俗の人間である私たちはさまざまな嘆きや悲しみを持ち、どうやってそれを克服すればいいのかわかりません。
神にも祈るのですが、いまだに満たされません。
どうすればよいのでしょうか?
マハルシ
神を信頼しなさい。
質問者
私たちは明け渡すのですが、それでも救われません。
マハルシ
もし明け渡したのなら、神の御心にしたがい、あなたの気に入らないことが起こったとしても不平不満なく受け入れなければなりません。
今、一見そう起こっているように見えることも、後にまったく違った結果となるかもしれないのです。
不幸はしばしば人々を神への信仰へと導くものです。
質問者
そうは言われても、私たちは世俗の人間です。
妻や子があり、子供や友人や親戚がいます。
彼らの存在を無視して、自らの内に何がしかの人格を保つこともなく、自分自身を神の意志にゆだねることはできまません。
マハルシ
つまり、あなたは神に明け渡してはいなかったということです。
あなたは神だけを信じなければならないのです。
ラーマムールティ氏が尋ねた。
質問者
私はポール・ブラントン氏の『秘められたインド』を読み、最後の章に深い感銘を受けました。
その中で彼は「考えることなしに意識的であることは可能である」と述べています。
私は身体を忘れた状態でも考えることができるのは知っています。
しかし心なしに考えることができるのでしょうか?
想念を超えた意識を得ることは可能なのでしょうか?
マハルシ
可能です。
目覚め、夢見、眠りの状態に共通する一つの意識が存在しています。
眠りの中に「私」は存在しません。
「私」という想念は目覚めとともに立ち現れ、それから世界が姿を現すのです。
ではこの「私」は眠りの間どこにあったのでしょうか?
それはそこにあったのでしょうか、なかったのでしょうか?
そこにあったに違いありません。
しかしあなたが今、感じているようにではありませんでした。
今はただの「私」という想念ですが、眠りの中の「私」は、真の「私」なのです。
それは(目覚め、夢見、眠りの状態を通して)常に存在しています。
それが意識です。
もしそれを知れば、あなたはそれが想念を超えたものであることを知るでしょう。
6
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 13:30:32 ID:jfWCoXjM0
質問者
心なしに考えることは可能でしょうか?
マハルシ
想念は他の活動のように、至高の意識を妨げることはないのです。
質問者
他の人の心を読み取ることは可能でしょうか?
師はいつものように、「他の人のことを気にかけるよりも自分の真我を見いだしなさい」と言った。
マハルシ
あなたの真我以外のどこに他者が存在すると言うのですか?
ラーガヴィア氏が尋ねた。
質問者
どうすれば高次の(霊的)経験と低次の(世俗的)経験を結びつけることができるでしょう?
マハルシ
ただ一つの経験だけがあるのです。
世俗の経験とは、偽りの「私」の上に構築されたものに他なりません。
世界で最も成功した人に、「あなたは自分の真我を知っていますか?」と尋ねてごらんなさい。
彼は「知らない」と言うでしょう。
真我を知らずして、何を知ることができると言うのでしょう?
あらゆる世俗的な知識は、そのような薄っぺらな土台の上に築かれているのです。
ラーマムールティ氏が尋ねた。
質問者
どうすれば真の「私」と偽りの「私」を区別できるでしょう?
マハルシ
自分自身に気づいていない人がいるでしょうか?
誰もが知っていながら、誰も知らないのが真我なのです。
奇妙な矛盾です。
しばらくして、師は言葉を加えた。
マハルシ
心が存在するかどうかと探究すれば、心は存在しないということがわかるでしょう。
それが心を制御する方法です。
しかし心が存在すると見なしたうえで、それを制御しようとすれば、心が心を制御することになってしまいます。
それはちょうど泥棒が警官を装って泥棒を捕まえようとするようなものです。
心はそのような方法にばかり固執しておいて、巧みに逃れるのです。
7
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 18:58:09 ID:LC3de7YgO
>>6
> 心なしに考えることは可能でしょうか?
マハルシ
想念は他の活動のように、至高の意識を妨げることはないのです。
←この心とは、記憶あるいは観念に置き換えて理解すれば良いのでしょうか?
で、至高の意識が、記憶や観念抜きで、考えることができると言う意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
8
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 21:14:22 ID:LC3de7YgO
>>7
考えるということ自体が記憶、観念を組み立てることでありましょうから、それは変でありますね。
ここでの心の意味は何でありましょうか? もしかして、主体の意味でありましょうか?
心=主体が記憶、観念にもとづき想念を持つ=考えることは、至高の意識=アートマンが、主体なくありのままをとらえることを妨げないと言うことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
9
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/20(木) 22:43:00 ID:1d4drIFg0
↑ 質問した者は意訳すれば「マインドなしで正しい判断をしたりすることは可能か」ということを聞いたのじゃな。
マハリシは「マインドがあろうとなかろうと至高の意識は正しく作用する」と答えたのじゃな。
本当は心の働きには思考も含まれているから矛盾しているのじゃ。
質問した者は思考や感情などのマインドの働きが無くても大丈夫なのかと、自我を無くす恐れを表したのじゃ。
マハリシは至高の意識こそ観念にも妨げられず正しくあるものであると表明したのじゃ。
10
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/21(金) 01:16:46 ID:LC3de7YgO
>>9
鬼和尚、ありがとうであります。
なるへそ。
修行者である質問者の聞きたいことを想像してみれば、読み取れるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
11
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/21(金) 12:38:22 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話44
1935年4月3日
エンジニアのエーカナー夕・ラーオ氏がシュリー・バガヴァーンに尋ねた。
「探究(ヴィチャーラ)には『独り在ること』が必要でしょうか?」
マハルシ
独り在ることは、どこにいてもあります。
人は常に独り在るのです。
大切なのはそれを内面に見いだすことであって、外側に探し求めることではありません。
質問者
世俗の生活が心を乱すのです。
マハルシ
乱されるのを許してはいけません。
誰にとって心の乱れが起こるのか、それを見いだしなさい。
少し修練すれば、心は乱されなくなるでしょう。
質問者
試みることさえ不可能です。
マハルシ
試してみることです。
そうすれば難しくはないことがわかるでしょう。
質問者
内面を探究しても答えは得られません。
マハルシ
探究者自身が答えであり、それ以外の答えなどないのです。
新しく現れるものは真実ではありません。
常に存在するもの、それが真実なのです。
12
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/21(金) 22:46:03 ID:1d4drIFg0
>>10
そうじゃ、正しい質問を見極めれば既に正しい答えは出ているのじゃ。
探求者こそ探求されるものであり、探求すべきものなのじゃ。
自らを探求する以外に道は無いのじゃ。
自我を観察する事が即ち道になるのじゃ。
自分を通り過ぎて悟りにいたるのじゃ。
13
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/22(土) 13:02:35 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話45
1935年4月6日
質問者
真我実現の道は困難です。
世間のことなら容易にわかりますが、この道はそうはいきません。
マハルシ
そうです。
心は常に自己の内面の知識を後回しにして、外側の知識を求めるのです。
質問者
シュリー・バガヴァーンとともに一日を過ごすのは素晴らしいことです。
二日ならさらによく、三日、それ以上ならもっとよいでしょう。
もしずっとここにとどまるなら、 世俗の仕事をどうすればいいでしょう?
マハルシ
ここにいることも他の場所にいることも同じであり、同じ効果をもたらすことが理解されなければなりません。
14
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/22(土) 23:22:56 ID:1d4drIFg0
他の場所よりもよい場所があると思うならば、それは囚われているのじゃ。
目覚めた者のいる場所を一つの遊戯としているだけなのじゃ。
どこにいようと自らの心を観ることはできるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
15
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/23(日) 13:11:43 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話46
1935年4月12日
マラヤラム語版の『ウパデーシャ・サーラム』(教えの精髄)の詠唱を聞いた後で、ナゲールコイルのラー
マチャンドラ・アイヤール氏が、極めて朴訥な調子で心の集中と制御について尋ねた。
マハルシ
心とは真我と身体の同一化にすぎません。
それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生み出し、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。
しかし、これらはすべて偽りです。
真我だけが唯一の実在なのです。
偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。
実在が今ここに存在しないということではないのです。
それは常に存在し、永遠に変わりません。
それはまた誰もが体験していることです。
なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。
「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。
偽りの自我は対象と関わっています。
この自我自身もその対象なのです。
対象であるなら、それは偽りだということです。
主体だけが実在だからです。
対象、つまり身体とあなた自身を混同してはいけません。
これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するあなたに不幸が現れ出すのです。
あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。
ただ偽りを払い去りなさい。
そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。
聖典は「真我はニティヤ・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことに
ついて語っています。
もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?
誰にとっての無知だと言うのでしょうか?
これは矛盾しています。
しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。
「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも……」。
このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。
シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。
後にクリシュナは、「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。
それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。
真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。
それはシンプルな存在なのです。
在りなさい──そうすれば無知は終焉するでしょう。
誰にとっての無知なのか、それを探究しなさい。
眠りから目覚めるとき、自我が立ち現れます。
深い眠りの中で、あなたは「私は眠っている。今目覚めようとしている。私はずっと眠っていた」などとは言いません。
しかし、それでもあなたはそこに存在しています。
目を覚まして初めて、あなたは「私は眠っていた」と言います。
つまり、あなたの目覚めはその中に眠りを含んでいるのです。
あなたの純粋な「存在」を認識しなさい。
身体との混同を取り除きなさい。
身体は想念の産物なのです。
想念はその戯れを続けるでしょう。
しかしあなたは影響されないままに在るでしょう。
眠りの中で、あなたは身体に関わらずにいました。
ですから、いつもそのように在ることはできるのです。
エーカナータ・ラーオ氏
仕事で収入を得なければならない世俗の人々に、どうして身体の活動に影響されないまま在ることができると言うのでしょう?
マハルシ
行為が束縛となることはありません。
束縛とは偽りの概念にすぎないからです。
「私は行為者だ」という想念を棄て去って、あなたの干渉なしに、身体と感覚にその役割を果たさせなさい。
*「私が存在しなかったことは一度もない…『バガヴァッド・ギーター』2-12
私が存在しなかったことは一度もない。
あなたも、ここにいる王たちも。
われわれが未来に存在しなくなることもない。
*「人々は私を身体と同一視するが…『バガヴァッド・ギーター』4-6
私は不生、不滅、不変の身体を持つすべての生きとし生けるものの主であるが、潜在的な力によって、この世に原初の姿を現す。
16
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/23(日) 23:08:06 ID:1d4drIFg0
世間の仕事によって人々は縛り付けられているという。
しかし、それも偽りの観念遊戯に過ぎないものじゃ。
誰も死を逃れられない世の中で、死を超えるより大事な仕事などはないのじゃ。
余裕のあるうちに実践あるのみなのじゃ。
17
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/24(月) 13:16:39 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話47
1935年4月20日
ケーララ州からの訪問者が、世界の悲惨な状況に対する懸念を伝え、「真我探究」はそのような苦しみに満ちた環境の中では利己的に見えると訴えた。
彼の解決法は非利己的な仕事にあるようだ。
マハルシ
海は波に気づいていません。
同様に、真我はその自我に気づいていないのです。
(記録者ノート:この言葉は「自我の源の探究」こそが解決法であることを明らかにしている)
18
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/24(月) 23:37:47 ID:1d4drIFg0
自我による行いや苦悩全ては幻想に過ぎないものじゃ。
世界が悲惨に見えるならばそれは見る者の心が悲惨であるからなのじゃ。
自らの心が作り出した世界しか人は見えないのじゃ。
本来世界も無いから、アートマンは世界を知らないのじゃ。
19
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/25(火) 00:31:08 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話48
質問者
あなたはバガヴァーンです。
ですから、私がいつ真我の知識(ジニャーナ)を違成するのか知っているはずです。
教えてください。
私はいつ真我実現した人(ジニャーニ) になるのでしょうか?
マハルシ
もし私がバガヴァーンならば、真我の他には何も存在せず、それゆえ、ジニャーニもアジニャーニ
もいません。
もしそうでなければ、私はあなたと変わらず、あなたが知ることを知っているだけです。
どちらにしても、私はあなたの質問に答えられません。
20
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/25(火) 00:34:20 ID:jfWCoXjM0
>>19
×違成
〇達成
21
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/25(火) 22:37:35 ID:1d4drIFg0
既に誰もがアートマンを実現しているのじゃ。
それを忘れているだけなのじゃ。
時間の無いアートマンにとって全ては今なのじゃ。
今ここにアートマンは実現しているのじゃ。
22
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/26(水) 13:20:13 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話49
1935年4月24日
数人が師に質問した。
それらの質問は最終的に「いかに努力しても『私』は認識不可能だ」という一点に帰着した。
師はいつものように答えた。
マハルシ
「私」は認識不可能だと言うのは誰でしょうか?
そこには無知な「私」ととらえがたい「私」が存在するのでしょうか?
同じ人の中に二人の「私」が存在していると言うのですか?
自分自身に尋ねてみなさい。
「私」は認識不可能だと言うのは心なのです。
その心はどこから現れるのでしょうか?
心を知りなさい。
そうすれば、あなたはそれが作り話であることを知るでしょう。
ジャナカ王は
「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。
即刻死刑に処してくれよう!
これで私は幸せになるだろう」と言いました。
同じことが他の人にも言えるのです。
質問者
どうやって「私」を知るのでしょうか?
マハルシ
「私ー私」は常に存在しています。
それを知るということはありません。
それは新たに獲得されるような知識ではないのです。
新しく、今ここにないものは、はかないものでしかありません。
「私」はいつも存在しています。
その知識を妨げているのは無知です。
無知を取り除けば、知識は輝き出すでしょう。
実際のところ、無知も、知識でさえも真我にとっては役に立たないものです。
それは刈り取られるべき雑草でしかありません。
それゆえ、真我は知識と無知を超えていると言われるのです。
それは「あるがままに在る」。
ただそれだけです。
質問者
どんなに頑張ってみても、進歩しているようには見えません。
マハルシ
進歩とは新たに獲得されるものについて語られることです。
一方、ここで大切なのは無知を取り払うことであって、知識を得ることではありません。
真我探究にどんな進歩を期待できると言うのでしょう?
質問者
どうすれば無知が取り払えるでしょうか?
マハルシ
ティルヴァンナーマライでベッドに横になりながら、他の街にいる夢を見ていると想像してごらんなさい。
その街の光景は、あなたにとっては現実ですが、実際のあなたの身体は部屋の中のベッドの上にあります。
その街があなたの部屋の中に入って来たのでしょうか?
それとも、身体をここに残したまま、他の場所に行くことができたのでしょうか?
どちらも不可能です。
ですから、あなたがここにいることも、他の街を見ることも、ともに現実ではありません。
それらは心にとって現実に見えるだけなのです。
夢の「私」はやがて消え去り、それから目を覚ました別の「私」が夢について語ります。
この「私」は夢の中には存在していませんでした。
どちらの「私」も現実ではありません。
心の根底には絶えず存在している何かがあり、数知れない光景を生み出しています。
「私」は想念とともに生じ、想念が消えると「私」も消滅します。
多くの「私」があらゆる瞬間に生まれては死んでいくのです。
真の問題は存続する心です。
それがジャナカ王の言う泥棒のことです。
彼を見つけ出しなさい。
そうすれば、あなたは幸せになるでしょう。
23
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/26(水) 22:44:30 ID:1d4drIFg0
私という観念も他の観念と同じく起こっては消えていくものじゃ。
朝の自分と昼の自分、夜の自分は違う想念なのじゃ。
そうであるから朝にダイエットしようと思っても夜には大食いしてしまうということもおこるのじゃ。
自分も刹那に生じては消える観念に過ぎないのじゃ。
それを観るのじゃ。
24
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/26(水) 23:32:20 ID:LC3de7YgO
>>22
の対話録と
>>23
の鬼和尚の解説は、何度も読み返してみるであります。
ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
25
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/27(木) 12:41:24 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話50
シュリー・バガヴァーンは『プラブッダ・バーラタ』からカビールの言葉を読みあげた。
「水滴が海に溶け入ることは誰もが知っている。
だが、海が水滴に溶け入ることは誰も知らない」
これが至高の帰依(パラー・バクティ) です。
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