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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

86避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 16:49:17 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚は焼身自殺もやらないだけで全然苦にならないし楽しいくらいだみたいなお話でしたが、
痛みをコントロール出来るのでしょうか?
以前、苦は厭離出来るが、痛み自体はあるのじゃみたいな話しもありましたが、火に包まれたら相当痛いと思うので、ある程度、痛みも消す事が出来ないとやってられないと思うのですが
どうなのでしょうか?

87鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/18(月) 21:15:37 ID:1mQKjCa60
>>84 観察すると良かろう。
 さらに希望する記憶が焼けたとイメージすると良かろう。
 焼けたと思うじゃろう。

>>85 お釈迦様の教えなのじゃ。
 経を読めば全て書いて居るのじゃ。
 
>>86 痛みをコントロールするのは簡単なのじゃ。
 おぬしも例えば右手が傷ついたならば、反対の左手に集中したりしてみるのじゃ。
 痛みが遠ざかるじゃろう。
 更に強く集中するならば痛みもなくなるのじゃ。
 ヨーガでもやっているのじゃ。

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90避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 23:34:41 ID:Q4ca3lsg0
鬼和尚さん、こんにちは。
久しぶりにまた質問させてください。

最近、国際ニュースなどで戦争や内戦などの話を聞くと、とてもうんざりして重い気持ちになってしまいます。
この重い気持ちというのも、苦なのでしょうか?
もし苦であるのならば、お釈迦様の教えで、それがあった場合と、なかった場合の心の変化を観察するという方法で、この苦を滅することができるようになるのでしょうか?
でも、何度もやってみましたが、なかなか苦は消えません。

自分がその苦を観察しても、戦争の原因は消えないし、戦争がなくならないという気持ちがあるからだと思います。
それでも、この方法をさらに繰り返すことで重い気持ちを消すことができるようになると考えていいのでしょうか?
それとも、もっと別の方法や考え方がありますか?

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92避難民のマジレスさん:2014/08/19(火) 10:24:10 ID:LC3de7YgO
>>82
鬼和尚、ありがとうございます。さて、(´・(エ)・`)?
無我を知るとは、自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・と言う理解でよいのでしょうか?
悟るとそれらの簡単にはに了解できないことが実感できるのでしょうか?ん?実感ではなく、そうであるということに気づくとでもいうのでしょうか?
あるいは修行が成就したさいに全く違う悟り方をすることもあり得るのでしょうか?
善悪をとりあえず分別するのは、修行を支障なく進めるための便宜に過ぎないのでしょうか?
悪よりも善を求めるのでべきであるということは、便宜以外に導かれないのでしょうか?
ひたすら個人が苦から免れ救われるための技法を説いたのがブッタであり、そもそも幻想である外界のことには関わらないのをよしとするのでしょうか?

93鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/19(火) 21:32:36 ID:T.czC.tY0
>>90 おぬしが苦であると思えば苦なのじゃ。

 そのような外の現象などが原因ではないのじゃ。
 原因は常におぬしの心の中にあるのじゃ。
 そのように感じる原因をおぬしの心の中に探すのじゃ。
 昔戦争で悲惨な話を聞かされたからかも知れん。
 そのような原因を心の中に探すのじゃ。

>>92 無我は知るものではなく体感するものなのじゃ。
 悟りに入る以前でも無我は感じられるのじゃ。
 おぬしも寝ている時や起きて直ぐの時には無我なのじゃ。
 それを良く観察してみるのじゃ。
 
 善悪は人々を教化するためでもあるのじゃ。
 実際に悪事をしていれば身は滅び、善事をしていれば栄えるのじゃ。
 この世の全ては心によって作られているのであるからのう。
 他人を害すれば己が滅び、他人を喜ばせれば自分がさかえるのじゃ。
 外界も自らの心の表れなのじゃ。
 己の心を整えれば世界も整うのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2014/08/19(火) 23:25:51 ID:nLaH1F/E0
仏道のみで大成しない場合、他の宗教とセットでやる方がいいのでしょうか?
また、その時はどの宗教とセットでやるのがオススメでしょうか。その場合にはその理由も知りたいです

この質問の回答を鵜呑みにするつもりはありませんが、一理あることを仰ることの多い鬼和尚ですので、一応と思いまして

95避難民のマジレスさん:2014/08/20(水) 13:01:18 ID:bPo10ZV60
>>93
鬼和尚さん、ありがとうございます。
鬼和尚さんに質問して、答えていただいたおかげで、少しずつ自分の心がわかってきました。

自分の心を観察してみた結果、なぜ戦争などの報道で不快になってしまうかというと、そうなることが、自分を防衛するために必要だと無意識に思っているからのようです。
戦争の話を聞いても心が平気になってしまったら、戦争から自分を防衛したり、戦争を防いだりできなくなってしまう気がしているのです。
それがわかって、ニュースを聞いても心が動揺しないでいられるような気がしてきました。
ありがとうございます。

ただ、戦争など遠くの話なら、冷静になることが逆に自分の身を守ることになると何となくわかるのですが、それがさらに身近なことになると、そう考えられない場合があります。

たとえば、自分が本屋の店員だとして、不審な客を見ても平気な顔をしていたら、本を万引きされてしまうのではないか、と考えてしまうような場合です。
不審な客を見たら不快になることが、自分の身を守ることになるように思ってしまいます。
こういう場合はどう考えたら良いでしょうか?

同じように駅のホームで人にぶつかられた時など、すぐにイライラしてしまいます。
そういうのも結局は自分の身を守りたいからだと思います。
自分の身を守りつつ、苦をなくしたり、不動心を身につけるには、どうしたら良いのでしょうか?
鬼和尚さんはどう考えたら良いと思われますか?

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97避難民のマジレスさん:2014/08/20(水) 15:53:24 ID:LC3de7YgO
>>93
鬼和尚、ありがとうございます。
私はいろいろ混同しておりまして、無我とは、意識と無意識のはざま、意識の空白地帯みたいなものでありますか?
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
とは、悟りの境地の説明でありましょうか?
全ては、心が作り出したものと言う思想は潔く、清々しく感じます。全責任は自分にあり、得たいもの全ては既にここにありということでありましょうか?これが悟りの境地でありましょうか?
チョピッとづつしか進みませんが、目標達成に向け邁進しますヽ(・(∀)・)ノ

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99鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/20(水) 22:28:15 ID:SWqJzPrs0
>>94 オショーとか、クリシュナムルティなどを参考にすると良かろう。
 マハリシも良いのじゃ。
 人類に普遍的な悟りという現象を知る事が出来るじゃろう。

>>95 考えるのではなく観察してみるのじゃ。
 身辺を警戒するのも不快にならずにできることがわかるじゃろう。
 不快に成るのは自分のイメージを守るためである事も多いのじゃ。
 自分のイメージが盗みや人にぶつかられた事で損なわれたりするのが原因かも知れん。
 それを自分の心の中に観察してみるのじゃ。
 
 何のイメージも無ければ身を守りながら、苦を滅し、不動心もみにつけられるじゃろう。

>>97 悟りの境地は言葉によって現されるものではないのじゃ。
 言葉にすれば全ては嘘になるじゃろう。
 忘我によるサマーディも悟りと勘違いする事もあるじゃろう。
 いかなる言葉もイメージも表現できない境地が悟りの境地なのじゃ。
 自ら実践して知る以外に無いのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 00:39:57 ID:zBaYOPCo0
>>99
鬼和尚さん、ありがとうございます。
不快にならずに身を守ることができるというのは、何となくわかってきた気がします。

でも、鬼和尚さんの言われた、自己イメージについて、よくわからなくなってしまいました。
不快になるときは自己イメージを守ろうとしているのではないか、ということなのですが、これは観察せずとも、まさにその通りなのです。
自分を守りたいという場合の自分には、自己イメージも含まれているのです。
というのも、私は、その人の自己イメージは大切にしてあげるべきだという価値観を持っているからです。

たとえば、小さな女の子が、自分は可愛くて誰からも大切にされる存在なんだ、と思っていたら、そのイメージを大切にするように教えたいし、そのイメージを壊そうとする人がいたら、その人から身を守りなさいと教えると思うのです。
同じように、自分の自己イメージを守ることは大切だと思っているのです。

でも、こういう考え方は間違っているのでしょうか?
自己イメージがない人生というのは、具体的にはどういうものなのでしょうか?
どんなときに、どう振る舞っているのでしょうか?

101避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 01:51:55 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚は睡眠時毎回意識がありますか?
それとも意識が消える事がありますか?
意識がありながら熟睡できますか?

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103避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 03:38:19 ID:ccOlWqU60
鬼和尚さま
身体や心の反応の話が上であがっていますが、
悟っている人(完全に厭離できてる人)の場合、例えば急にワッと声などかけられて驚かされた場合、
どうなるのでしょうか?
あるいは手に触れたヤカンが熱かった場合、熱ッと一瞬の反応、驚きはあるのでしょうか。

驚く
驚く反応を示すがそれを厭離して観てる
驚かない
それ以外

心の反応はないとしても身体の反応はあるのでしょうか。
驚くというような反射に近い反応は、人間の原始的な反応のようにも思いましたが、
一切に執着なく、驚く必要もないなら、反応もせず驚かないのかもなあと思いました。
そうなると、悟ると何も反応しなくなる(反応が自在になる)のでしょうか。
観察によって心や身体が自分でないとわかっていくとどの様になるのか、
お聞きしたいです。

104避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 03:54:07 ID:LC3de7YgO
>>99
鬼和尚、ありがとうございます。
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
>この世の全ては心によって作り出されている
とは、唯心論の説明でありますか(´・(エ)・`)?
さて、これからすわります。

105避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 10:11:08 ID:LC3de7YgO
>>104
訂正; 唯心論 → 唯識論 の説明ですか?

106避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 11:57:41 ID:nLaH1F/E0
>>99
94ですが、ありがとうございます
クリシュナムルティの言葉に耳をかたむけてみました
彼の言葉は文学的でとても含蓄がありますね。参考になります。ありがとうございます

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109避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 16:37:51 ID:zXulYfnQ0
鬼和尚、
自分が自分であると認識しているときにある感覚と、自分の名前などを思い浮かべた時に生ずる自分のイメージは、私の観察では同一のものには観えません。
前者はイメージというよりは、体に生じる感覚に近いものであり、後者は、感覚というよりは映像を伴った雰囲気といった感じです。

それらは別々のものなのでしょうか?
それとも、観察が不十分なために違うように感じられるだけでしょうか?
あるいは、そもそも観察対象が間違っているのでしょうか?

110避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 18:22:27 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚
鬼和尚の昔の書き込みで読んだんですけど
集中力をつければ本当に
・自他の前世が見える!
・幽体離脱できる!
・宇宙人と話ができる!
といったことが可能になるのでしょうか??

111避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 18:28:18 ID:jfWCoXjM0
それと何で集中力をつけたら
上記のことができるようになるのかも
教えてくれませんか??

よろしくお願いします。

112避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 19:35:24 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚の世間での武勇伝(逸話)を聞きたい。
どうやって、頓智で切り抜けたとか。こうやって調停したとか。
世間で悟った人の智慧がどのように発揮されているのかをお教えください。

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114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/21(木) 22:16:14 ID:7.u595ig0
>>100 考えに間違いも正解も無いのじゃ。
 ただ囚われれば苦になるだけなのじゃ。

 自己イメージが無いことが本来の状態なのじゃ。
 自己イメージを己そのものと思っている事が謬見なのじゃ。
 自己イメージが無ければ正しい認識があり、智慧が起こり、臨機応変に振舞えるのじゃ。

 直ぐにその境地を目指さなくとも、瞑想をして目指すと良いのじゃ。

>>101 意識は常に在るのじゃ。
 肉体が熟睡していても意識は在るのじゃ。
 本当は誰にでも在るのじゃ。

>>103 驚かないのじゃ。
 その場に応じた適切な行動を取るじゃろう。
 肉体が自然に反応するのじゃ。

>>104>>105 それは実感であり、論ではないじゃろう。
 思想も思考も無いのであるからのう。
 言葉も無ければ説くことも無いのじゃ。
 ただ実践在るのみなのじゃ。

>>109 それで良いのじゃ。
 同一と思っている自我が別々に投射されている事がわかったのじゃ。
 例えば人は意志によってダイエットしようとするが、直ぐに感情や感覚で多く食べたりする。
 そのような投射する対象によって分裂的な性質があるものじゃ。
 投射するという仕組みは変わらないが、対象によって性質が変化するのじゃ。

 そのように別々のものとして感じるものが本当に主体であり、己であると言えるのであろうか?
 それを良く観察してみるのじゃ。

>>110>>111 出来るじゃろう。
 常識や恐れによって見ようとしなかった事が見られるようになるからなのじゃ。
 不安や恐怖や条件付けによっておさえられていた本来の能力が、集中によって発揮できるのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>112 ある日 道を歩いていたのじゃ。
 横で何か音がしたと思ったら体が勝手に後ろに動いたのじゃ。
 そこに車がやってきたのじゃ。
 わしの体と5センチも離れていないところでとまったのじゃ。
 そのままでいたら轢かれるところだったのじゃ。
 体が危険に勝手に反応したのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 22:53:49 ID:LC3de7YgO
>>114
鬼和尚、ありがとうございます。
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
>この世の全ては心によって作り出されている
とは、言葉で表現できない悟りの境地をあえて表現した「実感」でしょうか(´・(エ)・`)?

116避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 23:14:44 ID:cUE805gA0
和尚、こんにちは。
心の自動反応についてご教示ください。

たとえば道を歩いている時に綺麗な女の人とすれ違って、
①うほ、いい女。
と思ったとします。しかしすぐに、
②おっと、いかんいかん。違うことに集中して考えないようにしなければ。
と思い直したとします。

①の場合は女の人を認識して過去の記憶から自動的にデータを拾い上げてきた思考だと思います。
しかし②の場合はどのような回路を辿ってきた思考なのでしょうか。

女の人を見て「いい女だ」と思った。
その思ったことに対して、「いかんいかん」という記憶データにリンクしたのでしょうか?
もしそうなら、「いかん」という自制もまた記憶の参照ということになります。

であるなら、「いかん」と思うのと「もっとお近づきになりたい」と思う分岐点は何が決めているのでしょうか?
蓄積した記憶データの容量によって決まるのかなと思ったのですが、どうもそれが決め手ではないような気がします。
和尚はどのようにお考えでしょうか。

117避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 01:43:07 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚ありがとうございます。
体の自動反応によって車に轢かれずに済んだのですね。
では心の自動反応のエピソードは無いでしょうか?
ちなみに自動反応は記憶の条件反射の場合も多く、現実に則さないネガティブな結果になる場合も多いですよね。
悟りを開いた人は記憶に依存していないので
心の自動反応もその瞬間に応じた適切なものになるのでしょうか
具体的なエピソードがあったら教えてください。

118避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 07:15:06 ID:JJovXCcM0
鬼和尚
行動をしているとき、「誰が行為しているのか」と問う。
(たとえば食事しているときなら)
歯が私か?胃袋が私か?体が私か?・・あるいは思考作用が私か?
気力や生命力が私か? 身体の動きに気づいている私が居る、思考に気づいている私が居る。
生命力に気づいている私が居る・・このように一つ一つ、「私ならざるもの」を確認し、
概念ではない意識を探っていますが、どうしてそれは、確信を持って見つからないのでしょうか?
それに気が付いたときは、気が付いたとわかるものでしょうか?
探している自分が、「それ」なのであるから、探すこと自体が矛盾ともいえますが。

119避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 07:22:08 ID:GkGPK7uM0
探っている意識を見ている意識があることを意識していますが
かといって、悟りを開いたという感じはしません。
これが悟りならば、そんなに大した話でもないような気もします。
いまだ概念を意識と見違えているのでしょうか?

120避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 12:31:09 ID:Ixi5VWxw0
>>114 ありがとうございます。
自我は、これまでの経験によって記憶された言葉とイメージに過ぎないので、投射する対象が変われば想起されるイメージも変わるということでしょうか?
ということは、逆に対象が同一なら、想起されるイメージも同じとなり、それが、いつもと同じ自分という認識を生じさせるということですか?

それでふと思ったのですが、観想や、自分に向かって言葉を使う事などによって、自分が実際には対象となる行動や認知を行っていなくとも、その対象に投射されるはずの自我イメージを想起・認識することはできるのでしょうか?
例えば、実際に頭を掻いている時に、「頭を掻いている自分」という自我イメージが投射されるとすると、言葉で「私は頭を掻いている」などと思うことで、頭を掻いていなくとも、その同一の自我イメージを想起し、それが認識されるというように。

自分の観察では、体の感覚でやろうとするとできるように思うのですが、思考でやろうとすると、混乱してしまいます。

121避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 13:06:54 ID:gEQ1ylXs0
>>114
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自己イメージについて観察してみましたが、たしかに、自己イメージに囚われることによって、苦が生じていることは多い気がします。
自己イメージは、自分が成長するのには必要だと思うのですが、それに捕らわれてしまうと、不動心は得られないと思いました。

とくに、他人からこう思われたい、という欲求が生まれる時がいちばん苦が生じていると思いました。
ただ、あまりに一瞬の内に生じている欲求なので、どうしたらいいのかわかりません。

鬼和尚さんは瞑想をすると良いとのことですが、どうしたら、この欲求と、それと同時に生じている自己イメージとをなくせるのでしょうか?
心をさらに観察して、欲求の生じる原因を探っていけば徐々に欲求が起こらなくなっていくのでしょうか?

122避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 13:45:41 ID:nLaH1F/E0
クリシュナムルティは霊媒体質で、彼の教えと彼自身の言動が一致しない場合があると聞きました
これが本当ならクリシュナムルティは憑依してきた霊的な何かの言葉をそのまま言って、更にクリシュナムルティ本人はその言葉に従わないことがあったということになります
この場合、彼の言葉は信用できないと思うのですが、どうでしょうか?

123避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 14:15:19 ID:nLaH1F/E0
それと、クリシュナムルティの話題とは別にもう一つ

私は周りとの関係性によって作られていった人格なのだと「観察」を通して気づきました
そして、その人格は私にとっては無理があるもので、とても苦痛でした

周りとの関係性が続く限り、私はその人格でいることを強いられます
その反動でいまは「本来の自己(ありのままの自分)」に回帰しようとしています
ありのままに戻るということは自らにある美も醜も受け入れて理解していくことかと思っています

そしてここからが本題でありまして
その過程、ありのままに戻るという変化を望んだ時、変化しようとするわけですが
その変化の機会はいつも理不尽さを伴って訪れるのです
その結果、変化はきちんと完了します
そしてそのたびに心に傷を負っていくのです
むしろ、その暴力的なまでの理不尽さがあったからこそ望む方向に変化できたのかもしれないとは思いますが

これは傷つかなければありのままの自分には回帰できないということなのでしょうか?
それとも、まだ理想的な自分になろうという慾を心のどこかで棄てきれていないということなのでしょうか?
痛みがなければ人は変化しないというのは真理かもしれませんが、ありのままの自分に回帰するような時にもあり得るものなのでしょうか?

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125避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 18:07:27 ID:bGlIZLtM0
体感的に、「体は私ではない、心は私ではない、思考は私ではない・・・それらを見ている意識がある」と言う瞑想をしていくと
割と、スムーズに仕事などが出来るような気もします。
プラセボかもしれませんが。

まだ、《意識》を捕らえられないで居ますが、方向としては間違っていないでしょうか?

126そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/22(金) 19:02:32 ID:6u8D78pg0
鬼和尚
記憶が厭離されたかもしれません。
目を閉じて、その瞬間を見ていました。
不思議な感覚でした。

127鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/22(金) 21:56:27 ID:nzrQJU8U0
>>106 どういたしまして、またおいでなさい。

>>115 それもまた気づきと言えるじゃろう。
 しかしそれにも囚われずに進むのじゃ。
 囚われれば記憶になり、障害になり、苦にもなるのじゃ。
 一切を捨ててさらに進むのじゃ。

>>116 それは自分をみはり、律しようとする心の働きじゃろう。
 常に心掛けていればそのように適時に起こる働きなのじゃ。
 普段は意識しないだけで、常に働いている心がけなのじゃ。

>>117 それもまた心によって感知して肉体を動かした反応なのじゃ。
 全ては心によって動くのであるからのう。

 前に書いたのが記憶に因らない適切な行動と言えるのじゃ。
 もし車の音などを聞いて横に逃げれば良いと記憶に因って動いていたならば、轢かれていたかも知れんからのう。
 
>>118 未だそれを観るのに不安や恐れがあるからじゃろう。
 自分に見せないようにしている心の働きも観察して観るのじゃ。

  例えば手を見れば手を見たと判るように、気付きは明白に判るのじゃ。
  判らないと言う事はありえないのじゃ。
 文字通り気付く事であるからのう。

>>119 悟りは自分だと思っているものが観念であり、己ではないと気付く事から始まるのじゃ。
 そして認識をも滅して大悟徹底するのじゃ。
 意識を観ているだけならば、止の行に止まっているだけなのじゃ。
 むしろ観察によって悟りは開かれるのじゃ。
 その意識から自我が記憶から思い出され、起こるのを観察してみるのじゃ。
 上手く行けば観照が起こり、自我は厭離されるじゃろう。

128避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:07:45 ID:fYj0mFGQ0
> 意識を観ているだけならば、止の行に止まっているだけなのじゃ。
> むしろ観察によって悟りは開かれるのじゃ。

これがよくわからない。
自我を滅するのは、目的ではなく「意識」に帰する為の手段なのでは?
永遠の意識の実在を知ることが悟りではないのですか?

129避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:21:59 ID:fYj0mFGQ0
要するに、静的な理解ではなく、動的な理解が必要と言うことでしょうか?

ただ、意識から自我が生まれるということを観察で見切ったとしても
意識の永遠性とは関係がないと思うのですがいかがでしょうか?
自我が意識から生まれるとしても、永遠性とは関係が無い。
意識が恒常的であると言う為には、何を持ってそれを知るのですか?
意識よりも長生きして観察しなくては、意識が永遠かどうかわからないが
すると矛盾が生じる。論理的に考えると、永遠の意識を証明するのは無理です。

130鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/22(金) 22:33:04 ID:nzrQJU8U0
>>120 そうじゃ、そのような作用もあるのじゃ。
 人はいつもの環境から、いつもの自分と言う感覚を起こすものじゃ。
 環境が変わるとイメージも変わり、人が変わったという印象になるのじゃ。
 観察してみるのじゃ。

 そのような事もやれば出来るじゃろう。
 いろいろ試してみるのじゃ。

>>121 まずは原因を探すのじゃ。
 そして原因から欲求が起こり、原因が無ければ欲求も起こらないと観察するのじゃ。
 そうすれば欲求も消えるじゃろう。

>>122 そのような事は無いじゃのじゃ。
 クリシュナムルティは確かに悟っているのじゃ。
 あくりょうとか無いのじゃ。
 安心して読むが良いのじゃ。

>>123 そのように感じるのはおぬし自身に変わることに対する恐れや抵抗があるからじゃろう。
 恐れや抵抗が傷つくように導くのじゃ。
 全てはおぬしの心が作り出しているのであるからのう。
 理想の自分を目指して良いのじゃ。
 そして心の中に抵抗が無いか探してみるのじゃ。
 分裂した心が作り出す状況を観察によって滅するのじゃ。

131避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:35:02 ID:fYj0mFGQ0
https://www.youtube.com/watch?v=oGOAFWZGwm4

鬼和尚。↑この動画の赤いシャツを着た男性は悟ったのでしょうか?

132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/22(金) 22:41:28 ID:nzrQJU8U0
>>125 そのような瞑想を習慣的にしていてはいかんのじゃ。
 常に新しく今ここに起こる自分を捕らえるのじゃ。
 仕事のためだけにやるのならば良いがのう。
 悟りを目指すには自分を追及しなくてはいかんのじゃ。

>>126 それも気付きといえるじゃろう。
 記憶もまた己ではないからのう。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:52:43 ID:fYj0mFGQ0
>>125 そのような瞑想を習慣的にしていてはいかんのじゃ。

体は私ではない、心は私ではないと一つ一つ確かめていく方法は、よくないということでしょうか?

134避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:56:47 ID:fYj0mFGQ0
> 悟りを目指すには自分を追及しなくてはいかんのじゃ。

「習慣的に」或いは「概念的に」なっているということでしょうか?

いまここの自分を追及していくと、キーボードを打っている指先は自分ではない、
何を書こうかと考えている思考も自分ではない・・このように見ていくことは「自分を追及していること」とは違うのでしょうか?

135避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 23:03:00 ID:LC3de7YgO
>>127
鬼和尚、ありがとうございます。
そうでありますね。海を見たことのない私はにいくら言葉で説明されても決して正しく理解できない。野を超え山越え海に辿り着き、飛び込んで全身で感じとるしかないのでありましょうヽ(・(∀)・)ノ
今朝やってみたのは、気に集中し、その集中していることを意識したら、意識したことに気づき・・・と、どんどん意識をラップでくるんでゆくみたいなことを、あ〜ぁ…と思うまでやってみる。それを何度かやってみる。 あまり効率良くないみたいです。
呼吸は過剰に意識を向けると、乱れますが、気は意識を向けても向けなくてもそこにあるものと感じられるので、集中対象として適しておりますね。

137避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 01:33:28 ID:G.k9jJCg0
>>130
鬼和尚さん、ありがとうございます。>>121です。
ようやく、観察の仕方が本当にわかってきました。
不動心を身につけたり、苦をなくす道が見えてきました。
何度も質問に答えてくださり、ありがとうございました。

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139そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/23(土) 10:57:06 ID:6u8D78pg0
>>132
ありがとうございました。

140避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 12:19:36 ID:nLaH1F/E0
>>130
>>122-123です。返答ありがとうございます

“Lives in the Shadow With J. Krishnamurti”by Radha Rajagopal Slossという本にクリシュナムルティの不倫や浮気話など書かれてあったというので、色々思うところありましたが、あまりこだわらないでおくとします
よしんばクリシュナムルティの身体に何かが降りてきていたとしても、それは悪霊ではなくて、マイトレーヤのはずでしょうから。盲目は好きませんので、しっかり吟味して認識のバランスをとっていこうと思います

そして、理想の自分を目指して良い、ですか……
クリシュナムルティは「あるがままのもの」を説いていたそうですが……彼自身が彼自身の発した言葉に対してきちんと疑問を持って探求するようにと勧めていますので、やはり鵜呑みにするのも違うのでしょうか
変化への恐れや抵抗がもとになって変化に痛みが伴ってしまう、というお話は腑に落ちました。一理あります

141避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 13:05:48 ID:cUE805gA0
>>127
ご返答ありがとうございます。

>普段は意識しないだけで、常に働いている心がけ

なるほど、バックグラウンドで動いているプログラムのようなものですね。
欲が薄くなるにつれ、そちらの方のCPU使用率が上がるような感じでしょうか。
なんとなく腑に落ちました。
ありがとうございました。

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144偽和尚★:2014/08/23(土) 18:04:07 ID:???0
>>41 でお願いをしましたが相変わらずこのスレに無関係な邪魔な書き込みがされていますので
そろそろ削除をしようかと思います。尚、削除される書き込みはこの板のローカルルールの通り、
こちらの独断で勝手に決めます。間違いで関係する書き込みも削除してしまう可能性もあるため
このスレの内容を保存しておきたい方は自分で日々バックアップを取ってください。

削除の実行はなるべく今から24時間以内は行わないようにしますが、約束はしません。
気が変わったらすぐやります。

また、削除を何度しても相変わらず同様な無関係な書き込みが行われた場合は規制を行います。
その際 IP アドレスやプロバイダなどは晒すかも知れません。

145避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 19:29:38 ID:WjNAd/8g0
>>130
どうやら本当に、自我は記憶の想起に過ぎないのではないかと思ってきています。
実際に自分で観察して確かめたいです。
さらにいろいろ試して精進します。
お答えくださり、ありがとうございました。

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147避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 20:44:24 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚説法集をいずれ紙の書籍としても入手できるように、電子書籍版をbccksにアップロードしました。
http://bccks.jp/bcck/126651/info

前回鬼和尚のブログを電子書籍化しましたので、今回はブログと重複する説法を除き、したらばでの説法を加えました。
校正が済んだら、紙の書籍も発行する予定です。一週間後くらいを予定しています。

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151鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/23(土) 22:03:21 ID:SWqJzPrs0
>>128>>129 何かを知ったり、一時的に体感する事が悟りではないのじゃ。
 本来の状態にたどり着く変化を起こすのが悟りなのじゃ。
 それには自我を滅する過程が欠かせないのじゃ。
 
 その意識を一時的に感じたり、知ったりする事はサマーディによる忘我でも起こるのじゃ。
 しかしサマーディが終ると元の自我が戻ってしまうじゃろう。
 自我を滅するのも手段であるが、それを通らずには悟りへは至れないのじゃ。
 
 意識から自我は生まれないのじゃ。
 ただの観念が己であり、主体であると誤って見られているだけなのじゃ。
 歪んだ眼鏡を通してみれば世界も歪んで見られるように、観念を己であり、主体であると認識していれば全ては誤ってみる事しか出来ないのじゃ。

 時間もまた観念に過ぎないと知れば、永遠に気付くのじゃ。 
 全ては時間が無く変化も固有の特徴もなく、同じ平等の本質を持ち永遠であると言えるのじゃ。
 言葉通りではないがのう。
 自我の謬見を去ればそれが常に如実に感じられるのじゃ。
 それが自我を滅し認識をも滅して至る真の悟りなのじゃ。

>>131 悟っていないのじゃ。
 知識はあるようであるがのう。
 気付きがあったようじゃ。

>>133>>134 それが習慣となり、慣例としてやっていてはいかんのじゃ。
 特に仕事などで効率を求めれば、仕事の為に習慣化が進んでしまうじゃろう。
 手は自分ではないと思い、本当に厭離が起きれば手は止まるじゃろう。
 それが起きないように効率化の習慣が出来てしまえば、方法が逆に罠になるのじゃ。
 習慣ではなく、注意深い観察によって刹那の今ここにある心の働きを観るべきなのじゃ。

>>135 そうじゃ、言葉に囚われず、自らの観察を深くするのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

152避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 22:16:53 ID:NpBkhqbI0
>ただの観念が己であり、主体であると誤って見られているだけなのじゃ。

誰が誤ってみているのでしょうか?
意識ではないですか? 意識以外のものでなければなんでしょうか
観念が観念を誤ってみているのですか?観念ごときに惑わされる意識とはなんでしょうか?

153鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/23(土) 22:22:43 ID:SWqJzPrs0
>>137 良かったのじゃ。
 実践が全てじゃ。
 またおいでなさい。

>>139 どういたしまして、またおいでなさい。

>>140 そうじゃ、それも参考にして自分の道を行くが良いのじゃ。
 それが結局は近道であり、唯一無二の道であるのじゃ。

>>141 そのようなものじゃ。良く観察すれば気付くじゃろう。
 またおいでなさい。

>>145 どういたしまして、またおいでなさい。

154鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/23(土) 22:24:05 ID:SWqJzPrs0
>>144 ご苦労さんじゃ。正に明王の如しじゃ。

>>147 ご苦労さんじゃ。正に菩薩の行いじゃ。

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156避難民のマジレスさん:2014/08/23(土) 23:30:45 ID:LC3de7YgO
>>151
鬼和尚、ありがとうございます。
集中力もイマイチ一進一退なのでありますが、観察も始めています。
どっちか一方にしないと何をやってるのか分からなくなるとのことでありますので、陽気を感じなから、ぼぉ〜っと雑念がわくのを待ち、時に雑念に巻き込まれながらできるだけ早く気付き、その瞬間をとらえることに挑戦してみました。・・・うまく行きませんヽ(;(へ);)ノ

シナリを作り、「自分の死について」とか「卑しさについて」とかテーマを決めシナリオの大枠を決めてその事を思い起こし、観察した方が良いのでしょうか?
その事により、自我の究極の恐怖や苦を見つめ直した上で、それも「止」の行で「夢」のように感じた「雑念」と同じようなものだと実感する方が良いのでしょうか?

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162そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/24(日) 10:55:12 ID:6u8D78pg0
鬼和尚
朝、目が覚めて、記憶を思い出すまで、しばらく間がありました。
その間、目に入った形が記憶と照合され、
イメージが浮かぶというプロセスが行われていることがわかりました。
例えば、自分の腕の体毛を見て、そこに虫がいると思いました。
そのようなプロセスが瞬間的に連続して絶え間なく行われているとわかりました。

記憶が徐々に思い出されて、昨日との連続性が回復され、それに基づいて、
今日は何をするつもりだった、何をしなければならない、
あれをしよう、これをしよう、などと思考が始まります。

記憶がなければ、あるいは、記憶があってもそれに基づかなければ、
思考や行為が起きないとわかりました。

しかし、常時記憶に基づかなければ、
どうなるのだろうか、どうすればいいのだろうか、
という不安もあります。

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169偽和尚★:2014/08/24(日) 18:09:17 ID:???0
さて削除ですが、主に下記IDの書き込みを削除しました。
関係すると思われるやり取りも全て削除しています。

k7IS4AHUO
yq6FSZJc0
Bwz0R3.60

一応バックアップは取ってありますので別の所で晒すことは可能です。
(jbbsはそのまま元の書き込みの所で復活させることは出来ないようです)。

170避難民のマジレスさん:2014/08/24(日) 20:20:38 ID:NpBkhqbI0
自己とは何ぞや

171鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/24(日) 22:06:35 ID:Zsm1YEFY0
>>152 そのような主体は誰もいないのじゃ。
 意識は主体ではないのじゃ。
 意識以外にも無いのじゃ。
 観念が観念を観る事も無いのじゃ。
 観念に惑わされる意識も無いのじゃ。
 そのように何かが在ればそこに主体があると思うことが謬見なのじゃ。

>>156 毎日続ければ観察も上手くなるのじゃ。
 苦を滅するのと同じように、何かを感知すれば縁によって自我が起こる事を観察するのじゃ。
 気が下からわいてくるのと同じように、雑念や自我も記憶から沸き起こるのを観察するのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>162 そうじゃ、良い観察なのじゃ。
 全ての認識は記憶から思い出されてくるものなのじゃ。
 記憶が基盤となっているのじゃ。
 しかしそれは世界の真の姿を見る障害にも成っているのじゃ。
 記憶による認識がなくなる事は、実は本来の世界の姿を観られるようになる事なのじゃ。
 例えば目を閉じて歩いていた者が、目を開いて歩くようなものじゃ。
 本当は目を閉じて歩いていく事のほうがはるかに危険なのじゃ。
 しかし慣れれば目を開けるのが恐くなるようなものなのじゃ。
 それを留意して迷わず進むのじゃ。

>>169 ご苦労さんなのじゃ。正に金剛力士のようじゃ。

>>170 無じゃ。

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173そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/25(月) 00:47:14 ID:6u8D78pg0
>>171
たしかに、記憶に基づいて何かを考えたり行動したりすることは、
本来しなくてもいいことを、
わざわざ労力を使ってやっているという感覚はありました。

ありがとうございました。

174避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 05:42:39 ID:LC3de7YgO
>>171
鬼和尚、ありがとうございます。
記憶に起因して生じた雑念がそれに意識を向けるだけでたちどころに消えて行くところはつぶさに見ることができ、実感できます。
その雑念を見ている主体が自我であり、自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
ただ、雑念が消えた後も、それを観ている自我はあり、だから自我が意識されていない状況から自我が起こる瞬間をとらえなければいけないのでしょうが・・・
自我はあるといえば、常にあるし、かといって、常に意識的にある訳でもなく… 。
朝起きる瞬間の観察を今度こそやってみよう!と今晩から寝る前に念じて寝みよう。
さてと、これからすわります(・(エ)・)/

管理人様、ありがとうございます。

175避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 14:03:36 ID:cUE805gA0
和尚、こんにちは。
今日は「とある状態」について質問させてください。

たまに瞑想を終えて眠りに入りかけたとき、
ズンっと体に衝撃が走り全身をエネルギーのようなものが流れている感覚になることがあります。
そんな気がするとかいうレベルではなく、あきらかにそうなっていると認識できるレベルです。

どうやらウトウトしかけた時に見る夢の内容が、
何か1つのことに集中していたり、思考を放棄したりする内容だった時に生じるようなのですが、
これもひとつの禅定状態のようなものでしょうか。

176避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 17:07:53 ID:niio03gY0
(感受性←投射)=自己認識
ただ投射を捉えるには、かなりの集中というのか。
たぶん刹那の一瞬なんでしょうね。

こんな見解ですがいかがですか?

177避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 17:10:14 ID:niio03gY0
感受性→感受でした。失礼。

178避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 20:19:35 ID:XSjclD920
主体が無いといいますが、鬼和尚は、人間の意志は何よりも強いのじゃとかいいますよね。
意志を起こすというのは主体の存在を前提としていませんか?
主体が無いのであれば、その都度その都度偶然の振る舞い以外、何も出来ないじゃないですか?

179避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 20:21:54 ID:XSjclD920
主体が無いのであれば、悟りを開こうと思うこと自体、自分の意志では自由に起こせないですよね?

180避難民のマジレスさん:2014/08/25(月) 21:31:44 ID:XSjclD920
人は如何に生きるべきですか

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/25(月) 21:53:02 ID:9No4kDr60
>>173 どういたしまして、またおいでなさい。

>>174 それは主体でも自我でもないのじゃ。
 そのように感じる認識なのじゃ。
 それは観念がもたらしているものである事を観察するのじゃ。
 なかなか難しい事ではあるがのう。
 自分が自分であると感じたり、認識するのはどのような感覚や状態であるか、追及してみるのじゃ。
 それが自分を追及する事なのじゃ。

>>175 気が丹田に入ったようじゃ。
 気功では気沈丹田といったりするのじゃ。
 いずれその気は上昇するじゃろう。
  
>>176 見解はそれでも良いのじゃ。
 実践が重要なのじゃ。
 
>>178>>179 主体の存在を前提としてはしていないのじゃ。
 主体が無く強い意志だけが起こる事もあるのじゃ。
 老病死の苦を先見して悟りを目指すのも、快を求め不快を避ける本能の働きといえるのじゃ。
 主体があると思い、主体が全てをコントロールしているという観念があればそのように思うのじゃ。

>>180 自分が思う通りに生きるが良いのじゃ。
 自由なのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2014/08/26(火) 00:15:33 ID:LC3de7YgO
>>181
鬼和尚、ありがとうございます。
>>174
>雑念を見ている主体が自我であり、
と書きましたし、悟りは勿論、無我もサマディも実感できてない現状では、それが主体であり自我であると感じているのでありますが、それは違うと実感するための修行の過程で、その文章の後段、
>自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
と言う部分をお尋ねしたかったのです。
自我が生じるところは未だ見極めることができませんが、雑念が夢のように消える詳細の実感を以て自我が消えて行く際の実感と理解してよいのでしょうか、と言うことをおだずねしたかったのです。>>181
>自分が自分であると感じた・・どのような感覚や状態であるか、追及

につきましては、ちょうど今夜、瞑想中に、自分が自分であると感じる雑念におそわれました。
それは現状困っている事柄がストレートに沸き上がり、頭部に血流が急上昇するのがわかりました。
自分が自分である感じるのが、そのような場面であるというのは、あぁ〜あって感じではありますがヽ(*・(ェ)・*)ノ

183避難民のマジレスさん:2014/08/26(火) 09:51:26 ID:cUE805gA0
>>181
やはり気ですか。
一時期ですが仙道を試していたことがあるので、
これを回せば小周天になるのかなとも思っておりました。
なんにせよ座ったままで出来るようになりたいものです。

ありがとうございました。

184避難民のマジレスさん:2014/08/26(火) 10:44:27 ID:16CwqxRQ0
>>181
しかし、「意志を奮い起こすのじゃ」とは、奮い起こす主体が無ければ、奮い起こせないのでは?
或いは、主体が意志を奮い起こしているのではなく、縁によって意志が生じると見るべきですか?
逆に言うと、偽主体(妄想の私)がいくら、意志を奮い起こそうとしても、機縁が熟さなければ、意志も生じないということでしょうか?
ちなみに、「鬼和尚」と言うキャラも、仮に作り上げた、偽主体ですよね。
お互いに主体があるというフィクションによって、このようにお互いに会話をしている。
フィクションとはいえ、一応、会話は成立していますよね。
すると、主体が無いとも言えない気もします。主体は後天的に作り上げたものだとしても、それなりに用を満たしています。
わけがわからなくなりますね。

185避難民のマジレスさん:2014/08/26(火) 11:13:54 ID:hSogUR/U0
結婚して、在家生活を送ることになっても悟りは開けますか?


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