したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚に聞いてみるスレ part4

186176:2014/08/26(火) 16:49:26 ID:f8bjIOUs0
そうですね。ごちゃごちゃ言わないで、実践あるのみですね。
ありがとうございます。

187鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/26(火) 22:11:53 ID:ijI0BR7s0
>>182 自我を克明に観察できればそのような瞬間も捉えられるじゃろう。
 しかしその前に主体という感覚はどのようなものが把握しなければならんじゃろう。
 それがわからなければ自我の状態を知ることも出来ないからのう。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>183 どういたしまして、またおいでなさい。

>>184 そうじゃ、主体は無いのじゃ。
 今も現に主体無く縁によって意志も起こっているのじゃ。
 観念である主体が意志を起こせる筈も無いのじゃ。
 観念を持つ者には観念を持っているふりではなさなければいかんのじゃ。

>>185 意欲があれば出来るじゃろう。
 全てはやる気次第なのじゃ。
 鬼のように精進するのみじゃ。

>>186 どういたしまして、またおいでなさい。

188避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 00:59:24 ID:WL2yRwjAO
観念である主体に意志を奮い起こせる力は無いのにも関わらず、偽主体である「鬼和尚」が、意志を奮い起こすのじゃと、観念に過ぎないはずの他主体に呼び掛けているのは矛盾に当たらないでしょうか?

189避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 02:35:23 ID:WL2yRwjAO
ヒンズー教のグル(マハリシやプンジャジ含む)などがよく「一切を放棄(サレンダー)せよ」「全てを神に捧げ、汝が行為者と言う幻想を捨てよ」
「エゴを捨てて、重荷は神に背負ってもらえ」と言うようなことを言いますが、
それは鬼和尚の観点からしても正しいのですか?
悟ってない時点でそれはどのように達成されますか?

190避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 07:56:42 ID:LC3de7YgO
>>187
鬼和尚、ありがとうございます。
意識を向けるだけで、記憶の断片である雑念が夢の中での出来事のように瞬く間に消え去ることを以て、
>自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
とお尋ねしたのですが、
その事は、格別自我を克明に観察しなくても誰でも簡単にできることではないのでしょうか?

7月以降は、「気」を意念や呼吸にのせて動かすのをやめ、丹田に放置していたのですが、昨夜初めて、会陰の辺りを起点に緩やかな=震えが起こりしばらく続く中、陽気が喉の辺りまで上昇しました。
観察するのと同様の効果を、「気」の行に期待しても良いのでしょうか?

191避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 18:18:29 ID:WL2yRwjAO
主体が無ければ、罪や責任も無いのではないですか?

192避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 19:48:21 ID:NpBkhqbI0
悟った人は、個我を滅して真我の世界に溶け込むのじゃとかいいますが
それって、ターミネーターが溶岩流の中に溶けていくのと、何が違うの?

193避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 20:51:32 ID:Ki831iAY0
鬼和尚さん、苦を滅することについて質問なのですが、嫌な記憶という苦はどうすれば良いのですか?
嫌な記憶は、思い出さなければ苦ではないのですが、でもやはり、思い出さないようにすることが大事なのではなく、
思い出しても苦ではないようにすることが大事なのでしょうか?
とすると、嫌な記憶をすべて思い出していき、そこから生じる苦を一つ一つ滅して行く必要があるのですか?

194鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/27(水) 22:04:37 ID:84D95kMs0
>>188 少しも矛盾していないのじゃ。
 おぬし自身に主体があらゆることを行うという観念があるとそう思えるのじゃ。
 論理より感情で思える事のほうがより強く抵抗になるものじゃ。
 そのようなことがないか自らの心を観察してみるのじゃ。

>>189 自我を滅する法の一つとして正しいと言えるじゃろう。
 しかし強い信仰心が無ければ難しいのじゃ。
 
 自らの一切を捨てて、帰依すれば無我になるじゃろう。
 さらに神のイメージをも捨てれば、無為に至るじゃろう。
 時間は掛かるがそれから認識をも滅すれば真の悟りに至るじゃろう。

>>190 自我はそれほど簡単には観られないのじゃ。
 実際に多くの修行者が無我にも達しないで死ぬからのう。
 
 何でも試して見たら良いのじゃ。
 下腹の圧力が足りないようじゃ。
 強い腹式呼吸などもやって見るのじゃ。

>>191 縁に因って起こるのじゃ。
 それが縁起なのじゃ。
 
>>192 真我は修行のための観念に過ぎないのじゃ。
 ターミネーターは映画なのじゃ。

>>193 そうじゃ、思い出しても苦ではなくなれば良いのじゃ。
 今の生活や修行に支障が出るような苦だけを滅するがよいのじゃ。
 そして苦の根本原因である己という観念を滅するが良いのじゃ。

195避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 22:43:01 ID:LC3de7YgO
>>194
ありがとうございます。
>自我はそれほど簡単には観られない

やっぱり私は全然理解できていないようです。

私は、朝目覚めて意識が生じる瞬間のような、自我が生じる瞬間をとらえることは難しくても、自我そなものとは普通に当たり前に自分と感じている意識のことかと思っていました。
それで、現状自我と思っている自分の記憶の断片である雑念の消滅する実感が、自我の消滅の様子ににたものかな?と思ったのですが…
無我を実感するために、自我の生じるところをとらえてやろうしてきましたが、そもそも、自我とは現状私が普通の意識ととらえているものとは異なり、自我そのものが、
>それほど簡単には観られない
ものだとすれば、
自我とは、いったい何のことなのでしょうか?

196避難民のマジレスさん:2014/08/27(水) 23:17:07 ID:nm8il/2Q0
>>194
鬼和尚さん、ありがとうございます。
嫌な記憶をすべて解決しなくても良いということで、安心しました。
では、苦をすべて滅しようとするのでなく、苦を感じていないときは、自分の心を観察することにします。
ありがとうございました。

197避難民のマジレスさん:2014/08/28(木) 12:41:04 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちは(・(ェ)・)ノ
自我とはいったい何のことを言ってるのでしょう?
とお尋ねしても、自我とは観念に過ぎないものであり、本来ないものであり、無我だと言うことなのでしょうが、ここでお尋ねしたいのは、現状私が自我だと感じている普通の意識のこと以外に、簡単に観ることができない「自我」があるのであれば、「無我」を実感するための方法として、「自我」の現れる瞬間をとらえようする以前に、そもそも何をとらえればいいのかもわかないことになります。
自我が生じる瞬間をとらえることができれば、無我を実感できる。眠りから目覚める際の状態も無我であるとのご説明から、本来観念に過ぎない自我とは、私の普通の意識を指しているものと思っていたのですが、全く理解できていないのでしょうか?
私が自我と考えるもの=記憶に基づく観念=普通の意識がとらえるもの=意識そのもの・・・ではないのでしょうか?
昨日とほとんど同じ質問ですが、自我とは何のことかとお尋ねしたので、観念であり、無我であるとのお答えをいただくような気がしたので、重ねて質問いたしました。

198避難民のマジレスさん:2014/08/28(木) 12:52:27 ID:LC3de7YgO
(・(∀)・)ゞ 書きおわって、思ったのですが、阿頼耶識のことを仰ってるのでしょうか?
意識を見ている意識みたいな!
それならいつでも観ているような気もしますし、これまた全然わかってないのかもしれません。

瞑想中に窓から吹き込んだ風を受けて、その風と一体のように感じたり、ちょっぴっと長めに座って脳内に快感が走ったりしたときに、阿頼耶識っぽい感じのものがそれを観ているような気がします。

199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/28(木) 22:23:02 ID:zKpD9Gyo0
>>195>>197>>198 自我とは記憶に因っているが、記憶そのものは自我ではないのじゃ。
 例えばあるものは「自分が自分の事を一番知っている」と言う。
 別の者は「自分の事は自分が一番わからない」と言う。

 日常の意識でも自分が自分であると言う感覚やイメージは常にあるじゃろう。
 それは常に感覚や思考などの身心の刺激に対して投射される言葉とイメージの観念にしか過ぎないのじゃ。
 それ故に在る者はイメージの自分を常に見て、自分が自分の事を一番知っていると言う。
 しかし実際には他人の知る性質とは違う故に、他人から指摘されて自分の事を一番判らないと思ったりもするのじゃ。

 自分というものの中には自我の言葉とイメージと、投射される対象と、実際の身心の性質があるのじゃ。
 言葉やイメージが自分と思えば、それが自我だと思う。
 或いは対象が自我と思う。
 それらは観察している事にはならないのじゃ。

 自我が対象に投射されて主体であり、己であると認識される仕組みを全体として観察しなければならんのじゃ。
 何が自分の主体であり、己そのものであると感じるのか追及するのが、最初の観察となるじゃろう。
 それを目指して精進するのじゃ。

>>196 どういたしまして、またおいでなさい。

200避難民のマジレスさん:2014/08/28(木) 23:45:32 ID:LC3de7YgO
>>199
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

例えば、常に正しいことを選択することは可能であると言う観念(=対象)があり、
それを投射して、
自分は正しいことを選択し、話すことができる。自分は正しいという自己イメージをもつ。 だけど、 が正しいのかもわからずにいるのが、本当の自分である。

↑こんな構造でしょうか?

>『自我』が『対象』に『投射されて主体であり、己であると認識される仕組み』を全体として観察しなければならん

影絵のように、光源の前に『対象』があり、それを後ろから『自我』が見てその影が自分であると思ってしまうような構造でしょうか?が

201避難民のマジレスさん:2014/08/29(金) 12:54:11 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚、
最近、主体の感覚の起こりを観たいという思いが強く、瞑想中にその思いに囚われて、深く入れないことが多いです。
この思いは苦滅の法によって厭離してしまっても大丈夫でしょうか?
悟りに向かう力が弱まるのではないかと不安なのですが。

202避難民のマジレスさん:2014/08/29(金) 13:30:49 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちは(・(エ)・)ノ
今朝早速やってみました。
集中対象である陽気にぺたぁっとまずは日常の意識を貼り付け、雑念がわくのを日常の意識でじっと待ち、雑念が現れたらパコォ〜んとサーチライトを当て、その雑念を観ている日常の意識をアラヤシキらしきもので確認する・・・・
・・・と、自我の全体構造をとらえることにチャレンジしてみました。
けど、しかし、サーチライトを当てるのも日常の意識であり、後ろで観ている意識も、アラヤシキではなく、日常の意識のような気がします。
やろうとすることの方向性としては、これでよいのでしょうか?

203鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/29(金) 22:15:00 ID:a0P1k/460
>>200 本当の自分というものは無いのじゃ。
 未だ主体があるという意識に囚われているのじゃ。
 囚われがあるまま観照を起こすには、ただひたすら観察するしかないのじゃ。

 そう考えることもできるのじゃ。
 しかし実践に結びつかなければ無意味なのじゃ。

>>201 そのまま続けたらよいのじゃ。
 その意欲が不可能を可能にしてくれるかも知れんのじゃ。
 むしろ瞑想に入るという意識を消すのじゃ。
 一切の意思和放棄したところに瞑想はあるのじゃ。

>>202 何か特別な事をすれば、それをしている者が主体であるという意識が起こるのじゃ。
 しない事をするのが難しいのであるから、ひたすら観察に徹するしかないのじゃ。

204避難民のマジレスさん:2014/08/30(土) 00:01:58 ID:LC3de7YgO
>>203
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

右往左往しておりますが、観察します。
幸いなことに、特別な訓練を要せず私は自分の気を感じることができますので、それを観察します。
「気の行」は自我を強める訓練になる一方で、脳内物質に影響を与え、ぱーになることができるらしく実感できますので、そちらの方向を追求するのが私には向いてるのかなと思いました。

205避難民のマジレスさん:2014/08/30(土) 11:11:33 ID:cUE805gA0
和尚、こんにちは。
前回、気が丹田に入ったと教えられた者です。

夢うつつではあったものの、その夢の中で極度に集中したり思考を放棄したときに、
気がどんっと入ってきたわけですが、この状態と仏教でいう初禅とは同じ境地なのでしょうか。

というのは、私の瞑想目的は仏教的な禅定を得ることでしたので、
なぜか仙道的な気という結果になって???な気分であったりします。

小周天=初禅、大周天=三禅あたり、という感じで捉えていても問題はないでしょうか。

206避難民のマジレスさん:2014/08/30(土) 19:48:05 ID:LC3de7YgO
>>203
鬼和尚、こんばんは(・(∀)・)

>>200 で「本当の自分」 と書いたのは、>>199
> 自分というものの中には自我の言葉とイメージと、投射される対象と、実際の身心の性質がある

というご説明の 「実際の身心の性質がある」、の部分を自分の言葉に置き換えたつもりだったのですが、
>>200 の 「本当の自分」 を「実際の心身の性質」に置き換えた場合、>>200 の理解でよいのでしょうか?
「投射される対象」についての私の理解が間違っているような気がするのですが、対象とは何のことを仰っているのでしょうか?
そもそも、何が何に投射されるのでしょうか?

207鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/30(土) 22:08:05 ID:15P7fxes0
>>204 そうじゃ、やってみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>205 そのようなものじゃ。
 大周天などは識無辺定ぐらいといってもよいじゃろう。
 外の気と繋がるのであるからのう。
 
>>206 実際の身心の性質などは認識外のものなのじゃ。
 投射される対象とは身心が受ける刺激なのじゃ。
 言葉やイメージが身心の受ける刺激に投射されるのじゃ。
 それが認識と自我の仕組みなのじゃ。

208避難民のマジレスさん:2014/08/30(土) 23:18:18 ID:LC3de7YgO
>>207
鬼和尚、ありがとうございます。
>投射される対象とは身心が受ける刺激
 言葉やイメージが身心の受ける刺激に投射される
 それが認識と自我の仕組み
→ 言葉やイメージ= 例えば、楽しいことを思い出す。
と それが「投射」されて、
身心の受ける刺激 = 幸せな気分になり、自分は幸せだと自我意識をもつ。

こんな理解でよいのでしょうか(´・(エ)・`)

209避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 10:13:47 ID:LC3de7YgO
ヽ(・(∀)・)ノこんにちは。

昔、ボケのことを英語では天使の贈り物っていうと聞いたことあるんですが、ガラ携検索サイトで調べても出てきませんでした。

しかし、自他の別なく、善悪の別なく、生死の別も時間もない・・・って、まさにボケ=天使の贈り物 =「悟り」・・・でありますね。
長寿、ボケも楽しみにできます!
違う点は、鬼和尚のように、慈悲の力でこの世に戻り、言葉を操り教えを説くことができる点くらいでしょうか。

210避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 10:46:39 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん

私たちはそれぞれの言語体系の違いによっても、心身が受ける認識に違いが出ますが
たとえば犬や鶏の鳴き声や、くしゃみなどの音に対しても耳の機能に違いがないのに言葉に表せば違いが生まれる。
全ての事柄を自分独自のフィルターを通して眺め、それによって行動を決めている。

>実際心身の性質などは認識外のものなのじゃ

私たちが認識していることがらは、本当に実体のない頼りにならないものなのですね。
それでもそれを共通認識としているこの世界では、それは無視しては生きられない。
さらに実践を続けます…。

211避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 11:10:40 ID:cUE805gA0
和尚、ありがとうございました。

>大周天などは識無辺定ぐらいといってもよい

なるほど、やはりそのあたりになるのですか。
長年にわたり気になっていたことなので、お答えを頂けたことに嬉しく思います。
今後も精進いたします。

212避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 14:04:33 ID:rjrCqQY20
>それでもそれを共通認識としているこの世界では、それは無視しては生きられない。
何故なら全ては相互依存で繋がっているから…?

213避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 20:00:26 ID:.6QtQAl60
鬼和尚は、死んだら故人に会えるという話をしてたと思うのですが、死んだら肉体と共に
生前の人格や記憶も消滅するともおっしゃっていたと思いますが、その辺はどうなっているのでしょうか?

214避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 20:34:08 ID:CLEJYxo.0
そもそも、死んだら記憶や自我は消滅するというのに、何故、鬼和尚は
前世を思い出せるのでしょうか?

215鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/31(日) 22:09:33 ID:N/iGqZ2o0
>>208 そのようなものじゃ。
 観察によってそれを確かめるのじゃ。
 精進あるのみじゃ。

>>209 そうかもしれん。
 まだぼけていないからわからんがのう。
 わっはっはっは。

>>210 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>211 どういたしまして、またおいでなさい。

>>212>>213 見る者が在れば他己も存在すると見えるのじゃ。
 相互に依存して存在する故にのう。
 見る者が対象を存在させるのじゃ。
 
>>214 記憶は在るじゃろう。
 
 記憶があれば記憶に因ってある自我もあると思えるのじゃ。
 思い出してみるのじゃ。

216避難民のマジレスさん:2014/08/31(日) 23:07:14 ID:LC3de7YgO
>>215
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
やっと当たりました。

痛みの厭離とは、集中力を高めることによる脳内物質の分泌による麻酔効果みたいなものと考えてもよいのでしょうか?
禅病とかクンダリニ-症候群と言われるものは、熱によるシナプスの断絶みたいなものでしょうか?
それを、うまくコントロールできると、サマディーに達するのでしょうか?
あっ、言うまでもありませんが、鬼和尚のことをボケてるなんて思ったことないであります(`・(ェ)・´)/

ただ、ボケることは恐れる必要なく、悟りみたいなものかなと思ったのです。

217素人A:2014/09/01(月) 10:35:59 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さん 死んでも生我校を卒業した暗いで?卒業できなく留年の転生もあるか
中学高も有る業業いや高校を卒業するのも大変なのかまあ何だ観だの遊び好きなので
中々小学校も卒業は難しいのか?大学の先も学びの道は永遠に続くのですか
少し修行すれば小さく身でも大きく生きて入るでもまだ中位鴨

218避難民のマジレスさん:2014/09/01(月) 12:52:50 ID:YXJjgr6A0
>>203 ありがとうございます。
自我の起こりを観たいという意欲は厭離せずに日常を過ごし、
深い瞑想に入るという囚われを消すとともに、一切の意志を放棄することで瞑想をあらしめるということでしょうか?

ところで、鬼和尚は好きな時に仮の自我を想起したり、消したりできるのでしょうか?

219素人A:2014/09/01(月) 12:55:34 ID:gOqWUDAs0
大は小を兼ねると言うし輪から内は輪から外から観れば解らないのも
無理も内鴨でも正解の中を或る苦の野鴨鳴。大目に観ればまあ善いか?

220避難民のマジレスさん:2014/09/01(月) 20:09:42 ID:xqk39LY60
鬼和尚さん、呼吸について教えてください。
数息観をするときなど、瞑想するときの呼吸の仕方なのですが、一息ごとにわざと腹をへこませないと、深く息を吐けません。
腹式呼吸にはなっていると思いますが、自然な呼吸かと言われると疑問です。少し腹筋も使います。
でも、何も意識しないと、息をゆっくり吐けず、直ぐにまた息を吸うような呼吸になります。
普段はこういう呼吸をしているのだと思います。
寝ている姿勢か、猫背の姿勢なら、自然に深く息を吐けるのですが、背筋を伸ばして座る姿勢だと、自然にゆっくり息を吐こうとしても息が足りなくなります。
どうしたらいいでしょうか?
一息ごとにわざと腹をへこませる方法で呼吸をしていても良いですか?

221避難民のマジレスさん:2014/09/01(月) 20:36:56 ID:NpBkhqbI0
ケツの筋肉を引き締めると生命力が増すというのは本当ですか?

222鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/01(月) 22:06:43 ID:jefw1uJ60
>>216 そうではないじゃろう。
 意識を遠ざける事によって感覚そのものの認識が薄れるのじゃ。
 試してみるのじゃ。

 熱病なのじゃ。
 頭に熱がこもって寝られなくなったりするのじゃ。
 
 頭の中央に入れば快が生じるのじゃ。

>>217 今の世で悟れなければ叉生まれるじゃろう。
 ひたすら修行あるのみじゃ。

>>218 そのようなものじゃ。
 意欲があれば進めるのじゃ。
 進む事が出来なくなったら捨てればよいのじゃ。
 そこに悟道は訪れるじゃろう。

 何時でも起こし、消せるのじゃ。
 観念でしかないからのう。

>>220 それで良いのじゃ。
 いずれその呼吸に慣れるじゃろう。
 そうすれば落ち着くじゃろう。
 自分が出来るやり方で良いのじゃ。

>>221 そうかもしれん。
 ヨーガにも在るのじゃ。
 試してみるのじゃ。

223避難民のマジレスさん:2014/09/01(月) 23:01:13 ID:LC3de7YgO
>>222
鬼和尚、ありがとうございます。
今の足の痺れは、感覚があっても、苦にならない=認識が薄れてる感じで、鬼和尚の仰る通りなのですが、以前2週間ほど、抜歯時の麻酔を打った時のように、ほぼなんの感覚もなくなる不思議な経験をしたので、お尋ねしました。

必ずしも強い集中を要せずに陽気を感じるようになり、クヲダリニ症候群予防のため、「気」の行に取り組み、わりと短期間に「気」を巡らすこともできるようになりました。その過程で後頭部までは陽気のまま上がっても、どうやら頭部には簡単には入らないらしいと実感しています。
上がった気を降ろすことも、なんとなくできますし、そろそろ熱病を怖れず、中央部を目指してみようと、昨日一昨日はかなり長時間、といっても30分〜50分を6〜8回やってみました。
丹田の陽気は強くなり、瞑想中以外にも残ったままなのですが、一度だけ経験した、会陰の辺りを中心とした揺れは再現しませんでした。
また、気の行を始めたばかりの頃に陽気ではなく、頭頂部から身体を貫くように気の柱を感じ、それがまさに「快」であり、安心感を感じました。それも再現しません。
インターバルをおきながら、短時間を繰り返すより、できるだけ長時間一気に座るようにした方がよいのでしょうか(´・(ェ)・`)?

224避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 00:49:50 ID:unbTbnlg0
>>222
鬼和尚さん、ありがとうございます。
この呼吸で数息観を続けます。
ところで、瞑想するとき以外にも、このような呼吸をしていたら、身体に良いということはありますか?
じつは、少し免疫力不足でなる病気というか症状が、なかなか治らなくて困っていて、少しでも免疫力をつけたいのです。

225避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 07:30:13 ID:WL2yRwjAO
休みの日になれば修行が出来ると思うが、そうでもない。
もはや平日に悟るしかない。
と言うか、時間的な意味では何年も修行している訳で、苦が少なくなり楽になった面はあるが
悟りには到達していない
不安や心配が弱まったとしても消えることもない
前世が見えることもなく
遊戯三昧と言う心境にもならない。

226避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 09:15:27 ID:B063L1XQ0
>>222
意欲は、悟りへと進むためにあるということで、進めなくなったら捨てることにします。

(仮の)自我を何時でも起こし、消せるとは、まさに自由自在ですね。
自我を観察していると、自我により、行動や思考などの妨げが多いことに気づきます。
早く自由になりたいです。つとめ励みます。
ご回答下さり、ありがとうございました。

227避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 19:34:14 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚。この先に進めません。ヒントをください。

228避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 21:02:22 ID:cUE805gA0
和尚、こんにちは。

例えば人を見て、「あ、なんかこの人嫌いかも」と思ったとします。
その時、なぜ嫌いなのか原因を探していく方がいいのか、
それとも嫌いだと思っていることに気づいて思考を流した方がいいのか、
真理に近づくとしたらどちらが良いのでしょうか。

もし気づいて流した方がいい場合、嫌いだと思う原因が解明される時は来るのでしょうか。

229鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/02(火) 22:46:29 ID:x60nw14o0
>>223 普通は長くやった方が良いがのう。
 しかしおぬしが短時間で何度もするほうが良いと感じるならば、その方が良いのじゃ。
 自分にあったやり方が一番なのじゃ。

>>224 そうじゃ、体にも良いじゃろう。
 長い息は長生きにも通じると言うのじゃ。
 気功やヨーガなども実践して見たら良いのじゃ。

>>225 焦らずに瞑想を楽しむのじゃ。
 すでに苦を滅したならば世間の人には楽しめない境地に居るのであるからのう。
 
>>226 どういたしまして、またおいでなさい。

230鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/02(火) 22:53:27 ID:x60nw14o0
>>227 先ずは瞑想を深めるが良いのじゃ。
 できる事が多くなり、安らぎも味わえるのじゃ。
 無理に進もうとするより瞑想を楽しむのじゃ。
 気がつけば進んでいたりするじゃろう。

>>228 それは原因を探したほうが良かろう。
 自分の心を深く知る事が出来るのじゃ。
 流していたらいつまでも知ることは出来ないじゃろう。
 偶然にわかる事もあるかも知れんがのう。
 それでは死ぬまでわからん事もあるじゃろう。
 自ら原因を探すが良いのじゃ。

231避難民のマジレスさん:2014/09/02(火) 23:44:42 ID:nm8il/2Q0
>>229
鬼和尚さん、ありがとうございます。
やはり、この呼吸は身体に良いのですね。
ヨガなども自分にできそうなものがあれば、生活に取り入れてみます。
ありがとうございました。

232避難民のマジレスさん:2014/09/03(水) 00:21:11 ID:LC3de7YgO
>>229
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
自分にあったやり方で続けます。
今夜は45分座り、かなり深まりました。思考のない状態を観察しているのではなく、その状態と一瞬一体になったような感じでした。次の瞬間、観察している意識が戻り、暗闇で目を瞑っていますが、暗闇の場面が変わったような視覚もありました。
陽気は今夜は丹田でおとなしくしていました。
瞑想を楽しみにます。

233素人A:2014/09/03(水) 09:26:27 ID:gOqWUDAs0
鬼おしょうさんありがとう。何かこの頃テレビで観察?していた事が現実と
ごちゃごちゃになり夢に出てくる。降らないとテレビ等見ない鬼和尚さんや
ぽ師匠の様に悟りの人から見たらくだらないドラマやニュース興味本位の
芸術性ゼロの人気取りの世界だしでもまあ良い私には勉強になる観察で
きつとブラフマンが芸術を理解しない人だつたら大変不幸鴨。興味本位の
不幸ドラマや殺人ドラマや災害シーンを興味本位で観て良いのか?これは
大丈夫ではなくドラマの世界の中で泣いているの矛盾もありででも面白い
でドラマの中は本当でないからまあ良いかで罪に問われなければ少しくらい
まあ良いかで質問もまとまらない。正解など誰も知らない世界なのか
きつと興味本位で流される私は不味いのかでも本当の事を知ると苦しい世界鴨
知らぬが仏それで良い鴨?果てなく?で矛と盾で位置が正しい友癒えず

234避難民のマジレスさん:2014/09/03(水) 10:14:59 ID:cUE805gA0
和尚、いつもありがとうございます。
ご返答をいただき二つの疑問が浮かびました。

①原因を探すことについてですが、瞑想時においても原因を解明するようにした方が良いのでしょうか。
例えば瞑想していて「知り合いの顔」が浮かんだとします。そして「なんか嫌な感じだ」という思考が走ったとします。
この時も嫌な感じの原因を探った方がよいのでしょうか。
それとも瞑想の時は「知り合いの顔」も「嫌な感じ」もただの思考のひとつとして、淡々と見続けておいた方がよいのでしょうか。

②原因を探し自分の心を深く知る(平常時の場合)ことについてですが、これは思考で行うということでしょうか。
例えば「この人が嫌い」と思ったとします。その原因が、その人が高圧的な態度だったからだとします。
ではなぜ高圧的な態度だと嫌いなのか。その原因が、子供の頃に高圧的な人にひどく怒られたからだとします。
それでなぜ嫌いになるのかと言えば、突き詰めれば自分という存在を軽く見られたというエゴに突き当たるのですが、
思考でわかる範囲はここまでになります。
そんな感じなのですが、これでよろしいのでしょうか。

235避難民のマジレスさん:2014/09/03(水) 12:37:06 ID:pEe1v5Oo0
鬼和尚は悟りを得る直前に、一回にどれくらいの時間坐っていたのですか?
また、一日何回くらい坐っていたのでしょうか?

236避難民のマジレスさん:2014/09/03(水) 17:45:47 ID:8G0JVMZg0
鬼さまはミーンミーンと聞いて
蝉と判断されますか?

237鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/03(水) 21:58:15 ID:AlxQ/MYQ0
>>231 そうじゃ、続けたらよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>232 どういたしまして、またおいでなさい。

>>233 テレビのみ過ぎのようじゃ。
 一日1時間とか決めると良かろう。
 
>>234 集中している時は流したら良いのじゃ。
 観察している時に出たら観察してみるのじゃ。
 初志貫徹なのじゃ。

 そのようなやり方で良いのじゃ。
 間違っている時は感情や肉体に違和感が起こるじゃろう。
 それを鋭敏に感知するのじゃ。

238鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/03(水) 21:59:45 ID:AlxQ/MYQ0
>>235 特に決めてなかったのじゃ。
 未だなれていなかったのじゃ。
 一日一回20分ぐらいかも知れん。

>>236 ミーンという音と判断するのじゃ。

239避難民のマジレスさん:2014/09/03(水) 23:23:03 ID:T1UTbVsI0
>>237
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

ところで、鬼和尚の瞑想時間は1日1回20分とは・・・聞けてよかったです。
瞑想の「快」に溺れず、短時間で集中を高め、質を高める。俗世間に身をおいても悟りはひらける! ということをでありますね!!

鬼和尚から当意即妙のお返事がいただけるのは、悟ってるからと思いますが、博学なのは当然読書によるものでありましょう。、時間配分として瞑想と読書どちらに時間を多くしましたか?

240避難民のマジレスさん:2014/09/04(木) 10:31:40 ID:cUE805gA0
和尚、毎々の助言に感謝します。
とても助かっております。

>初志貫徹なのじゃ
ときおり何がなんだかわからなくなってしまうことがあるので、
最初の志を忘れないようにしたいと思います。

>間違っている時は感情や肉体に違和感が起こる
それは気づきませんでした。今度からより注視して観察してみます。

241避難民のマジレスさん:2014/09/04(木) 12:56:28 ID:zz3du5Nk0
>>238 ありがとうございます。
やはり悟りを得たいという意志に勝るものはないということでしょうか。

自分という感覚を観察しているのですが、興味深いことがわかりました。
ある場所を訪問するために向かっていたときに、その場所にいる自分が想起され、その場所での自分という感覚が生じました。
それで、実際にその場所を訪れると、同様な感覚が生じました。
その後試しに、自分をある場面に置いたと想像してみると、それに対応する自分という感覚が生じます。
そして、その場面が無いと想像してみると、対応する自分という感覚が消えます。

これらは正しい観察でしょうか? それとも観念の遊戯になっているでしょうか?

また、このように想像(観想(?))によって想起される自我イメージと、実際の場面で生じる自我イメージというのは同じものなのでしょうか?

もう一点、自我の観照が起こるためには、これらの心で起こる現象が一部始終、はっきりと観られる必要があるということでしょうか?

242避難民のマジレスさん:2014/09/04(木) 22:18:03 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
今朝、ちょびちょび変わった瞑想体験がありました。
集中が高まってきて、周囲の生活音や鳥や虫の鳴き声、陽気を含めた皮膚感覚等が碁盤の目にきっちり収まるように、ただそこにあるだけで、個々を観察している意識が非常に弱く…と言うか感じられず、かと言って不思議感もなく、それが当たり前のような感じでした。
今から思うと不思議です。

243鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/04(木) 22:35:17 ID:PV8Zr5VA0
>>239 読書の方が多いのじゃ。
 何時間も本を読むのじゃ。
 7:3位かのう。

>>240 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>241 そうじゃ、意志が一番重要なのじゃ。
 
 良い観察なのじゃ。
 その通り人間は環境に自分を投射しているのじゃ。
 その環境はイメージする事でも変えられるのじゃ。
 そのように場をイメージする瞑想が経にもあり、ヨーガにも場の瞑想があるのじゃ。
 
 自我の厭離を起こすには、そのように観られたものが自分ではなく、自分のものでもないと気付く事が大事なのじゃ。
 ほんの少し観ただけでそのように気付く者も居り、全部観ても気付かない者もいるかもしれん。
 さまざまな習慣や執着や恐れが障害になるものじゃ。
 さらによく本心を観察してみるのじゃ。

>>242 そのような不思議な事も修行中には多々起こるじゃろう。
 それらにも囚われずに進むのじゃ。

244避難民のマジレスさん:2014/09/05(金) 12:59:25 ID:wH0JIS760
>>243 ありがとうございます。
確かに鬼和尚の仰るとおり、自我を無くすことに対する障害があるのではないかと思います。
自我を観るのに、腰が引けていて遠巻きに眺めるという状況のように思えます。
悟りを得たい気持ちは確かにあるのですが、恐れる気持ちと逃避もあるようです。
勇気をもってさらに本心を観察して、恐れを厭離します。

あるいは、恐れが残っている場合でも、瞑想を深める時のように、「一時的に自我を手放すだけだから」
と自己暗示をかけるのも有効でしょうか? それとも、この段階では正面から立ち向かったほうが良いでしょうか?

また、習慣や執着や恐れが障害になるということでしたが、
ここでの習慣とはどのようなものでしょうか? 逃避の習慣ですか?
少し詳しく教えてください。

245避難民のマジレスさん:2014/09/05(金) 14:13:30 ID:LC3de7YgO
>>243
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ
きっと、鬼和尚は名前の通り、鬼気迫る集中力なのでありましょう!
鬼和尚と親しくネットでやり取りさせていただき、瞑想の「快」を知りえただけでも私にとっては僥幸とも言うべきことであります。
例え話しで恐縮でありますが、突然の冤罪で死刑を宣告され確定し、法務大臣の気分一つでいつ執行されるかわからない状態に悟った人があると仮定した場合、自他も生死も善悪もない悟り人は、自死を選択するものでありましょうか?

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/05(金) 22:07:06 ID:5/fnDsIg0
>>244 そうじゃ、よく観察してみるのじゃ。

 それも有効じゃろう。
 なんでも試してみるのじゃ。
 努力は無駄にならないのじゃ。

 習慣とは心の習俗なのじゃ。
 何をしても自我で行っていると思うのが習慣の一つなのじゃ。
 逃避も習慣になるじゃろう。
 認識でさえ習慣で行っているものじゃ。
 そのような無意識で行っている習慣が一番障害になるものじゃ。
 自分が何をやっているか気付いていないのであるからのう。

 習慣を厭離するために観察が必要であるともいえるのじゃ。
 自分が無意識に行っている習慣がどのようなものか、気付くだけで厭離は起こるのじゃ。

>>245 何かする事が在ればそれをするじゃろう。
 もはやするべき事は無いと知れば自ら死ぬかも知れん。
 その状況に応じて対処するじゃろう。

247避難民のマジレスさん:2014/09/05(金) 22:31:39 ID:LC3de7YgO
>>246
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ。
そうですよね。
生死の別がない以上、それが当然の結論でありましょう。
ということは、修行の結果悟り、格別やるべきことがなく、自殺する人もいるのでしょう。
そうならないためには、鬼和尚のように本をたくさん読み、悟りの道案内ができるように頑張らなくてはいけないですね。
岩波文庫とかだけじゃダメですか?

248避難民のマジレスさん:2014/09/05(金) 23:40:52 ID:TuXp/BD20
鬼和尚、初めまして。
つい最近和尚のことを知り勉強させて頂いてます。
いくつかお聞きしたいことが。

和尚は不運は現世での行いがほとんどの原因だというようなことをブログで
書いてらっしゃったと思いますがここ最近多い幼児虐待などはどうなるのでしょうか?
まだこの世に生を受けて間もない人が心が痛む用なことになるのはこれは前世での行いの
反映なのでしょうか?

もう一つ風俗に関してなのですが。。
風俗に行って性欲を解消することはどうでしょうか?
私はどうしても後ろめたいというか罪悪感がありますが性欲がどうしても
捨てきれずあいにくきちんとお付き合いしている人もおりませんので
たまにお世話になるのです。
誰も傷つけてはいないとは思ってますが後ろめたい気持ちがある以上は私にとっては
よくないことなのでしょうか?または気にし過ぎなのでしょうか?

249避難民のマジレスさん:2014/09/06(土) 13:20:33 ID:cVn6W8No0
>>246 ありがとうございます。
自我を観察するために、なんでも試してみようと思います。
それで、しばらく続く「気分」というものも、自我の投射に過ぎないのではないかということに気づきました。
例えば嫌な気分というのも、嫌なことが起きた自分というイメージが投射されているだけであり、集中の瞑想でそのような気分自体を弱めることもできるし、苦滅で消すこともできると判りましたが、これは正しい観察でしょうか?

とすると、一般の人が行う気分転換の実態は、場所や見方を変えることで、投射されている自我イメージを変えるということになるのでしょうか?

250鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/06(土) 21:11:16 ID:JfE67j4w0
>>247 岩波文庫でも良いのじゃ。
 何もしないよりましなのじゃ。
 多くの事を知るより一つの事を深く知ったほうが良いのじゃ。

>>248 そうかもしれん。
 そのような親を選んで生まれる性質を持っていたのじゃろう。
 哀れなことじゃ。

 
 暴走して犯罪に走るよりはましなのじゃ。
 コントロールしていれば犯罪には走らないじゃろう。
 性欲は本来子孫繁栄のためであるから、子作りも目指すのじゃ。

251鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/06(土) 21:14:49 ID:JfE67j4w0
>>249 それで良いのじゃ。
 自分でそのように出来るならば起きていることなのじゃ。

 そうじゃ、それが気分転換なのじゃ。
 別の場に行くと人が変わるのじゃ。
 戻ってくれば元の人間に成るのじゃ。
 人が場に囚われるのはそれが原因なのじゃ。
 常住不変の自己というものを求めるのじゃ。

252避難民のマジレスさん:2014/09/07(日) 00:06:24 ID:VqFCgU3w0
>>250
ありがとうございます。
性欲はたしかに子作りのためですよね。
正しい使い方を選ぶよう努力いたします。

悟るともう肉体を必要しなくなるということですが我々人というものは
肉体を持った生命体としてはこの宇宙で最高なのでしょうか?

私はこの宇宙にはもっと素晴らしい生命体がいるものと考えておりました。
精神肉体文明共に我々よりもっと上レベルの生命です。
しかし我々は悟れば生まれ変わりの宿命から外れてもいいということは
悟ることなく生まれ変わって行いと認識の結果いかんで他の星の生命に
輪廻転生するということは無いのでしょうか?
つまりそもそも宇宙には我々しかいないのでしょうか?

地球までやってこられる知的生命がいると仮定したら脳も我々より高度に進化した
ものでしょうからこの宇宙の認識ももちろん我々とは違うと思うのですがもし彼らが
いるとしたら我々よりももっと悟りに近い存在にいるということでしょうか?

そもそも生命が進化する目的ってなんなのでしょうか?
より悟りに近づくための肉体を持つ、ということでしょうか?
それとも進化なんて元々無いのでしょうか?

253避難民のマジレスさん:2014/09/07(日) 12:25:51 ID:LC3de7YgO
>>250
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
中村さんの岩波文庫や、鬼和尚のブログを再々読し、関心あるテーマごとにインターネットで検索してその他のサイトなど読んでみます。
やっぱり、行の進捗を早めるには気合いを入れて集中力を高めるしかないですかね!?

254避難民のマジレスさん:2014/09/07(日) 14:11:38 ID:0Sk4wvvs0
>>251
苦滅が身につくことにより、これまで人生の真理として思い込んでいたこと、例えば人生には苦も楽もあるとか、限られた生を楽しむとかが、単なる観念であり、それは真理でもないし従わなければならないものでもないということが判ってきました。

ただ、あまりにも世の常識と違うために、果たして本当に自分が正しい気づきを得ているのかが疑わしく思えることもあります。
このこと自体が世の常識に囚われているということですね。

とにかく、自我を滅し、記憶に依存した認識を滅し、智慧を得て、本当のところはどうなのかを確認したいと思います。

お答えくださり、ありがとうございました。

255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/07(日) 22:08:57 ID:JfE67j4w0
>>252 上も居ると言えば居るのじゃ。
 それが悟りに近いわけでもないのじゃ。

 苦が無ければ悟りに志す事も無いからのう。
 
 変化があるだけなのじゃ。
 肉体的には退化したとも言えるのじゃ。
 
>>253 そうじゃ、日々の修行によって集中力を高めるのじゃ。
 その先に全てがあるのじゃ。
 出来なかった事も出来るようになるのじゃ。

>>254 そうじゃ、常識とは死に対抗するなんの手段も無い知識だけなのじゃ。
 棄てて良いものじゃ。
 更に進むのじゃ。

256避難民のマジレスさん:2014/09/07(日) 23:31:57 ID:VqFCgU3w0
>>255
お答えいただきありがとうございます。
>>居るといえば居る
私には理解不足でよく呑み込めませんでした。
認識が現実を作る ということなのですかね。

でもいかに技術や精神や医学が発達しても肉体はやはり寿命の長短はあれ
無くなっていくものですよね。
居る、という認識においては肉体がある知的生命はやはりどの星にいても
苦からは逃れられないと私は思いました。
どこに生まれようと悟らない限りは繰り返す、と。
生まれて死ぬという認識のあるうちは苦からは逃げられませんね。

生命は進化するものと捉えず単に変化していくだけということですね。
生命だけではなくすべてのものがそうでしょうが。

私の個人的な好奇心にお答えいただき感謝します。

257避難民のマジレスさん:2014/09/07(日) 23:38:12 ID:WL2yRwjAO
ドラゴンボールのフリーザとお釈迦様はどっちが凄いかと言う問いでもあるよな

フリーザが惑星ごとお釈迦様を吹っ飛ばそうとしたとする。
お釈迦様はどうなされるだろう。
人は皆滅ぶのじゃお主も例外ではないとかフリーザに諭すかもしれない
フリーザは死を恐れているし、自分より強い宇宙人が現れることを常に警戒している。
お釈迦様は腕力はチャオズ以下だが、フリーザの心理的弱点は克服している。

258避難民のマジレスさん:2014/09/08(月) 00:45:47 ID:LC3de7YgO
>>255
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
より一層集中力をめちゃめちゃ高めるべく頑張ります。

他の質問者に対するお答え、
>常識とは死に対抗するなんの手段も無い知識だけなのじゃ。
 棄てて良いものじゃ。
 更に進むのじゃ。
を読んでて思いました。
鬼和尚は常日頃、悟りは言葉で説明できることではなく、自らの瞑想実践で実感するしかないと仰り、又、全ては幻想であり、森羅万象は心の作り出したものであるという趣旨のことを仰ってます。
と言うことは、全ては幻想という世界観は必ずしも悟りの様子や真理を語ったものではなく、又、全ては幻想という世界観のもとでは、その世界観自体が幻想でありますから、この世界観を敢えて仰ると言うことは、この非常識な世界観が真実のものであるかどうかを、常識に囚われず自らの集中力で心を観察し、確かめてみろと、行の指針と言うか、記憶や観念に囚われずに研ぎ澄ました観察力で自らの実感するしかないのだと言うことを仰ってるのかな…と思いました。
それで、おりにつけ、「ワシの言うことも疑うのじゃ」と仰るのかな…と思いました。

こんな理解でも良いのでしょうか?

259避難民のマジレスさん:2014/09/08(月) 12:55:00 ID:E6b4s/gc0
>>255
勇気を出して、悟りを得る障害になる全てを棄てていきます。
棄てるのにはたいてい恐怖や不安が伴いますが、棄てた後には、自由と安心が増えるのが感じられます。
モラルや好ましいとされる観念を棄てても、意志により、社会の枠組みの中で正しいとされる行動を選択できることも判りました。
あとは、本当に自分という認識は言葉とイメージに過ぎないのか、また、本当に死を超えられるのか、確かめたいです。更に進みます。
背中を押してくださり、ありがとうございました。

260鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/08(月) 21:43:40 ID:6fpGPo6k0
>>256 そうじゃ、天の者さえ老病死は免れないのじゃ。
 またおいでなさい。

>>258 そのような理解でも良いのじゃ。
 全ての教えは道標なのじゃ。
 悟りに行く者だけに役立つものじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>259 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

261避難民のマジレスさん:2014/09/08(月) 23:18:32 ID:LC3de7YgO
>>260
鬼和尚、ありがとうございます!
ヽ(・(∀)・)ノ うぅぅ! ファイトがわくであります! 気をにらみつけてやるであります!!

262避難民のマジレスさん:2014/09/09(火) 18:53:13 ID:jfWCoXjM0
自我の意識が強くなかなか変性意識に入ることができません。
数息観のほかに何か良い方法があれば教えてくださいm(_ _)m

263鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/09(火) 22:04:59 ID:JDJBht.w0
>>261 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>262 心臓の動きを感じるのじゃ。
 音を聞こうとしても良いのじゃ。
 鼓動と一つになるのじゃ。
 全身が心臓に成ったような感じになるまでやってみるのじゃ。

264避難民のマジレスさん:2014/09/09(火) 23:02:11 ID:LC3de7YgO
>>263
ヽ(・(∀)・)ノ鬼和尚、ありがとうございます。
思ったのですが、集中力をバカみたいに高めようとすると、自我が強まるんじゃなくて、引っ込んじゃうのでしょうか?
そのためにはバカにならなきゃダメですね! 私は中途半端なバカなので、本物を目指します!
ヽ(;(∀);)ノありがとうございます。

265避難民のマジレスさん:2014/09/10(水) 10:06:13 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん

私は個体への執着を断ち切りたいのです。
しかし何故私たちは、安楽な境地を離れてこのような無明を体験するに至ったのでしょうか。
元々がそれであるのに、わざわざ人間界(分離の世界)に留まって仏(目覚めた者)を目指す。
それ以前とそれ以後には何の意味も違いもないのでしょうか。
本来はそれ以前も以後も過去も未来も妄想ではあるのでしょうが…。

266避難民のマジレスさん:2014/09/10(水) 16:27:35 ID:rjrCqQY20
そしてもう一つ、マハラジは「私たちは生きている。何故なら感覚的存在を切望しているからだ」と言っていました。
つまりそれは、個体を持つものの特性のことなのでしょうか、欲望とも言い換えることが出来るのでしょうか。

267避難民のマジレスさん:2014/09/10(水) 20:54:40 ID:jfWCoXjM0
>>263
ありがとうございます。

今日心臓の動きを感じる瞑想をしてみました。
そこで気づいたのですが
呼吸を見ながら同時に心臓を感じると、雑念がさっぱり沸かなくなります。
このやり方は邪道でしょうか?
呼吸なら呼吸に、心臓なら心臓に集中できたほうが良いですか?

268鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/10(水) 22:42:39 ID:Fep2We9g0
>>264 そうじゃ、基本が大事じゃ。
 またおいでなさい。

>>265 今この時にもおぬしの心の奥には永遠の意識があるのじゃ。
 無明すらもあると思っているだけなのじゃ。
 個体があるという観念そのものをよく観察してみるのじゃ。
 そうすればその観念もまた錯覚であり、あるはずのないものわかるじゃろう。
 無いものがあると思い、無いものに執着していたと気付けば個体という観念も離れるのじゃ。

>>266 そのようなものじや。
 感覚に執着してよくもあるのじゃ。

>>267 おぬしのやり良いようにやって良いのじゃ。
 何でも試してみるのじゃ。
 その努力は無に成らないのじゃ。
 実践あるのみじゃ。

269避難民のマジレスさん:2014/09/11(木) 03:16:14 ID:rjrCqQY20
>>268
鬼和尚さん

いつもしつこく同じような質問を繰り返している己が愚かに思えました。
心の奥にある永遠の意識…、それは私の喉元で見張っている何かよりは遥かに自由な意識に違いないと思います。
実践して明らかにするしかないはずの意識でした。
ありがとうございました。

270避難民のマジレスさん:2014/09/11(木) 12:35:33 ID:1/XG4j0Q0
鬼和尚、
以前、
> 何かをしようとすると自分がしようとしていると認識が起こるのを意識しながら生活するのじゃ。
とお教え下さったのですが、この認識が起こるタイミングを教えてください。
現状の観察では、思考や感情など、心の機能を認識した瞬間には自我は投射されていないようなのですが、気づくと既に自分がしているという認識がされているという状況です。

どうやら、心の機能の認識のすぐ後に自分がしようとしているという認識が起こるようなのですが、他のタイミングということもありますか? どのタイミングに特に気をつけて観察したら良いかが知りたいです。

あと、投射されている自我が正しく観られているかどうかが判らなくなる時があります。苦滅の場合は身体に反応があったり、苦が滅したりするので分かり易いのですが、自我がおぼろげにしか観えていない段階で、自分自身という認識が観念の遊戯ではなく、実際に観られているかどうかを確認する方法がありましたら、お教え下さい。

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/11(木) 21:52:17 ID:iYaVxBMw0
>>269 どういたしまして、またおいでなさい。

>>270 認識が起こる瞬間は何かを知覚してから0.5秒であるというのじゃ。
 実際、相当に素早いものじゃ。
 かなりの集中力がないと捉えられないのじゃ。
 気がつくといつの間にか自我がある居るというのはその瞬間を捉えられなかったからなのじゃ。
 集中によって忘我の状態から、何かの刺激で瞬時に起こる自分を観る例が多いのじゃ。
 一休が座禅中に烏の声を聞いて悟ったとか、道元がセミの声で悟ったというのがそれなのじゃ。

 本当にその瞬間が観られたならば観照が起こり、無我になるじゃろう。
 それは見紛う事はない体験なのじゃ。
 安らぎと喜びが起こり、全てと繋がる意識が体感出来るじゃろう。
 いつも通りならば観ていないのじゃ。
 それを知って励むのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2014/09/12(金) 16:06:22 ID:Ixi5VWxw0
>>271
どうやら自我が起こった瞬間ではなく、その記憶を観ているようです。
自我が起こる瞬間を本当に観られたら、観照が起こるということで判るのですね。
その瞬間が訪れるように、つとめ励み続けます。
ありがとうございました。

273避難民のマジレスさん:2014/09/12(金) 20:54:23 ID:NpBkhqbI0
 本当にその瞬間が観られたならば観照が起こり、無我になるじゃろう。
 それは見紛う事はない体験なのじゃ。

そんなもんみただけで無我になるの?
でも無我は悟りじゃないんでしょ?

274鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/12(金) 21:02:54 ID:ZOGvatIo0
>>272 そうじゃ、精進あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>273 そうじゃ、それを観られるという事で自我は観る主体ではなく、観られる客体であったと気付くからなのじゃ。
 自分と思い、己と認識していた主体が、実は客体であったと気づくのが観照なのじゃ。

 無我は未だ真の悟りではないのじゃ。
 禅で言う小悟じゃな。
 しかし無我にまでなれば認識を厭離させる事も容易なのじゃ。

275避難民のマジレスさん:2014/09/13(土) 12:59:49 ID:QMm34KcU0
子供は親を選んで生まれて来ると言われることがありますが、鬼和尚さんは
どう思われますか? もし、子供が親を選んで生まれて来るのなら、「子供は
みんな同じだから」 と考えて安易な気持ちで里子をもらったりすることは親と
子の双方にとって良くない場合もあるということになりますよね。(希望した
親と全く異なる性格の人にもらわれたりすると、子供の方も当惑することに
なりますよね。)

276鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/13(土) 21:21:59 ID:DZh8Vp6I0
>>275 親というより環境なのじゃ。
 その場の気に引き寄せられるのじゃ。
 他人に貰われるような状況も選んだといえるのじゃ。

277素人A:2014/09/14(日) 10:25:44 ID:gOqWUDAs0
鬼さん是から環境が電子頭脳の勝れたロボットや器械がどんどん人間を追い詰める世
が来る予感がするのですが?今楽に使用しているのでもう止められない将来はそれでは
子●と思うけど何事も依存は活けないわかっている鬼さんみたいにクールな考えかたも
必要なのかも?暑いひとだけでも寒い人だけでも苦しい世だし丁度よい中暗いの眼
が見えるのも必要なのかも。でもロボットの法がクールな眼でみれたら赦すしかないのか?
ロボットにも仏性はあるのでしょうか お前の友にせよ もしかしたら宇宙人は皆宇宙ロボット鴨
人間も動物もロボットといえばロボットだし先はまあ良い化でもため息は出るけど

278そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/09/14(日) 11:23:03 ID:zQgoPU5M0
鬼和尚
瞑想中のことですが、
雑念や、自分の身体の感覚(例えば、組んだ足が圧迫されていること)や、
家の外から聞こえてくる物音など、
それらは、特に違いがないように見えました。
普段は、それらを分別する主体があるから、違いを認識しているのだと分かりました。

279避難民のマジレスさん:2014/09/14(日) 20:59:55 ID:QMm34KcU0
>>276
最近子供への虐待がニュースになることが多いですが、それでは、
虐待される子供はそのような荒んだ家庭に引き寄せられたということ
ですか? わざわざそんな冷たい雰囲気の環境に惹かれる魂もある
ということですか?

280鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/09/14(日) 22:17:17 ID:kPW7FUFM0
>>278 そうじゃ、それも気づきと言えるじゃろう。
 実践する者だけが進んでいくのじゃ。
 またおいでなさい。

>>279 そうじゃ、争いを好む者は争いの在る気に惹かれるものじゃ。
 実際に生きている間もわざわざ争いを捜し歩くものじゃ。
 よく観察してみると良いのじゃ。

281避難民のマジレスさん:2014/09/14(日) 23:03:00 ID:/Tir5mUE0
鬼和尚
私が赤色と思っている色は他の人にとっても私が感じる同じ赤色として見えていますか

282避難民のマジレスさん:2014/09/15(月) 10:37:38 ID:OuKSagMI0
>>280
虐待を受ける子供は争いを好む性格だから虐待されると言ってるの?

283避難民のマジレスさん:2014/09/15(月) 10:39:52 ID:c6qjso4w0
> >>279 そうじゃ、争いを好む者は争いの在る気に惹かれるものじゃ。

これは、虐待を受けた子供、かつて虐待を受けて今も苦しんでいる人たちに対して
あまりにも酷い。

284避難民のマジレスさん:2014/09/15(月) 10:47:12 ID:rjrCqQY20
乗り越えてみれば、その子供の親も哀れだと思えます。
きっと同じように育てられたのだと…。

285避難民のマジレスさん:2014/09/15(月) 13:06:49 ID:RjOp9EHo0
横からすいません。和尚の言葉ではないのではないので、気に入らなければスルーしてください。
そして以下は体験ではなく思考的見解です。

虐待に対して和尚の言っている言葉は、そういった表面的なものではないと思います。
この世を転生する理由は、それに気づいていないからです。
それは生命に気づかせるために様々なことをぶつけてきます。
虐待を受けるのはその生命がその虐待の中で何かを気づく必要があるからです。

こういとスピ色強すぎじゃねって思うかもしれませんが、
身近なことを例にして単純に考えてみてください。
何かに怒ったとして、それに気づけなければまた同じことで怒ることになるのです。
何かを妬んでいたとして、それに気づかなければまた同じことで妬むことになるのです。
なんでもそうです。気づかないと繰り返すのです。

虐待を受ける場に生が与えられたということは、そこで何かを気づく必要があるからです。
気づことができず、虐待を受けたことに執着を持ったまま逝けばまた繰り返してしまうのです。
争いに執着を持ったまま逝けば、その争いの中で気づかない限りまた争いを捜し歩くのです。

以上、断定調で書いていますがあくまで推測です。
しかし私は、そういう深いところの話をされている内容だと解釈しています。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板