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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

1sage:2014/08/05(火) 19:29:50 ID:QMklRI/Y0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1394101534/

641避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 15:54:08 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚、
止観を続けているのですが、たまに止観に疲れて行を休みたい日があります。
このような日には、止観を自分で決めた最低限にして、ダンマパダなどの経を少し読み、あとは欲に流される日を送ってしまったりします。

大抵次の日には、やる気が復活するのですが、心の汚れも増えているように思います。
このような行をしたくない日の、より良い過ごし方がありましたら、お教えください。

642避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 15:55:05 ID:Q7u.yQUU0
2chで勝つための戦法はありますか?

643避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 18:58:41 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は病気になっても西洋医学の治療は受けないのですか?
例えば、癌らしい病状になっても抗癌剤などは服用せずに、念力
などによって自力で治そうとするのですか?

644鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/18(火) 22:35:36 ID:NIt2rEm60
>>639 それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
 この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
 修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。

>>640 そうじゃ、何でも試してみるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 
>>641 近所の公園などに行って自然を観察してみると良いのじゃ。
 木や草の葉一枚でも観察力がついた目で見れば、記憶とは違っている事がわかるのじゃ。
 自然に親しめば健康にもなるのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>642 何も書かない事じゃ。
 いずれ消え去るのじゃ。
 2ちゃんも消えるじゃろう。
 心を鎮めていた者が勝ちなのじゃ。

>>648 受けないのじゃ。
 念力ではないのじゃ。
 西式健康法とかヨーガとか気功とか呼吸法とか天真療法とかいろいろともつとよい治療があるのじゃ。
 手術などをするとむしろ寿命が縮まるというのじゃ。自然な療法が良いのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 12:14:49 ID:dREx977M0
>>644

>>639 それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
 この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
 修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。

理解出来ました。ありがとうございます。

646避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 12:56:35 ID:Ixi5VWxw0
>>644
最近内側の観察ばかりしていて、気づきませんでした。
自然を観察してみました。美しくて驚きました。
また、欲に流されようとするのは、結局は逃避の表れであることにも気づけました。
ほぼいつでもあり、どこまでも広がっている自我に圧倒されかかっていたのですが、肩の力が抜けました。
今後も苦滅の意志を奮い起こせない時などに、さらに試してみます。
ありがとうございました。

647避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 18:56:34 ID:ZYMyGpV20
長くて気が引けますが、お時間のあるときにでも
信心銘の鬼和尚訳をお願いできませんか?

648鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/19(水) 21:42:56 ID:NIt2rEm60
>>645 どういたしまして、またおいでなさい。

>>646 善い事じゃ。
 一休み一休みしながら続ければよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>647 それも善い事じゃ。
 しかし本が無いのじゃ。
 信心銘が無料で公開されているサイトなどを探してみるのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 22:24:44 ID:/Tir5mUE0
瞑想を初めて4ヶ月ぐらいたつんだけど
最近なんだか視界がおかしいんだよね
透明なノイズみたいなのがサーサーしてる
点滅しているように見えたり、流れているように見えたりする
おかしなだけで不便とかではない。はっきり見えないし気のせいかね

650避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 22:50:00 ID:jfWCoXjM0
>>648
了解です。まずwikiからのコピペです。

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白 毫釐有差 天地懸隔

欲得現前 莫存順逆 違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜

圓同太虛 無欠無餘 良由取捨 所以不如 莫逐有緣 勿住空忍

一種平懷 泯然自盡 止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種

一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空 多言多慮 轉不相應

絕言絕慮 無處不通 歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空

前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見 二見不住 慎勿追尋

纔有是非 紛然失心 二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉 境由能境 能由境能

欲知兩段 元是一空 一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨

大道體𥶡 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲 執之失度 必入邪路

放之自然 體無去住 任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵 六塵不惡 還同正覺

智者無為 愚人自縛 法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯

迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌 夢幻空華 何勞把捉

得失是非 一時放卻 眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然 泯其所以 不可方比

止動無動 動止無止 兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則

契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直 一切不留 無可記憶

虛明自照 不勞心力 非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

宗非促延 一念萬年 無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界

極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有 若不如是 必不須守

一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心

言語道斷 非去來今

651善聖 ◆rgBot67fe.:2014/11/19(水) 22:57:10 ID:4hgKdDEo0
想起される言葉によって感情が誘導されるのを観察しました。

人は悪い言葉によって悪く、良い言葉によって良くなるのかも知れませんね。
日頃から言葉は慎まなければならないと思いました。

652避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 23:17:25 ID:jfWCoXjM0
>>648 読み下し文です。

01至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

至道(しどう)無難(ぶなん)、唯揀(ゆいけん)択嫌(けんじゃく)。但(た)だ憎愛(ぞうあい)莫(な)ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり 。


02毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

毫釐(ごうり)も差(しゃ)有(あ)れば、天地(てんち)懸(はる)かに隔(へだ)たる。現前(げんぜん)を得(え)んと欲(ほっ)せば、順逆(じゅんぎゃく)を存(ぞん)すること莫(なか)れ。


03違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

違順(いじゅん)相争(あいあらそ)う、是(これを)心病(しんびょう)と為(な)す。玄旨(げんし)を識(し)らぞれば、徒(いたず)らに念静(ねんじょう)に労(ろう)す。


04円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
 
円(まど)かなること大虚(たいきょ)に同(おな)じ、欠(か)くること無く余(あま)るこし無し。良(まこと)に取捨(しゅしゃ)に由(よ)る、所以(ゆえ)に不如(ふにょ)なり。


05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

有縁(うえん)を逐(お)うこと莫(なか)れ、空忍(くうにん)に住(じゅう)すること勿(なか)れ。一種平懐(いっしゅへいかい)なれば、泯然(みんねん)として自(おの)ずから尽(つ)く。


06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

動(どう)を止(や)めて止(し)に帰(き)すれば、止(し)更(さら)に弥(いよい)よ動す。唯(ただ)両辺(両辺)に滞(とどこお)らば、寧(なん)ぞ一種(いっしゅ)を知らんや。


07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

一種(いっしゅ)通ざれば、両処(りょうしょ)功(こう)を失(しっ)す。有(う)を遣(や)れば有を没(ぼっ)し、空(くう)に従えば空に背(そむ)く。


08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

多言多慮 (たごんたりょ)、転(うた)相応(そうおう)せず。絶言絶慮(ぜつごんぜつじょ)、処(ところとして)通ぜずということ無し。


09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空

根(こん)に帰(き)すれば旨(し)を得(え)、照(しょう)に随えば宗(しゅう)を失す。須臾(しゅゆ)も返照(へんしょう)すれば、前空(ぜんくう)に勝却(しょうきゃく)す。


10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見

前空(ぜんくう)の転変(てんぺん)は、皆(みな)妄見(もうけん)に由(よ)る。真(しん)を求むること用(もち)いざれ、唯須(ただすべか)らく見(けん)を息(や)むべし。


11二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

二見(にけん)に住(じゅう)せず、慎(つつし)んで追尋(ついじん)すること勿(なか)れ。纔(わず)かに是非(ぜひ)あれば、紛然(ふんねん)として心(しん)を失(しっ)す。


12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

二は一に由(よ)って有(あ)り、一も亦(また)守ること莫(なか)れ。一心(いっしん)生(しょう)ぜざれば、万法咎(とが)無し。


13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈

咎(とが)無ければ法(ほう)無し、生(しょう)ぜざれば心(しん)ならず。能(のう)は境(きょう)に随(したが)って滅し、境は能を逐(お)うて沈む。


14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

境は能に由って境たり、能は境に由って能たり。両段を知らんと欲せば、元(もと)是(これ)一空(いっくう)。


15一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

一空(いっくう)両(りょう)に同じ、斉(ひと)しく万象(ばんぞう)を含む。精粗(せいそ)を見ざれば、寧(いずくん)ぞ偏党(へんとう)有らんや。


16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

大道大寛(だいどうたいかん)なり、難無(なんな)く易(い)無し。小見(しょうけん)は狐疑(こぎ)す、転(うた)た急(きゅう)なれば転た遅(おそ)し。


17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

之を執(しゅう)すれば度(ど)を失(しっ)し、必ず邪路(じゃろ)に入る。之を放てば自然(じねん)にり、体(たい)、去住(きょじゅう)無し。


18任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

性(しょう)に任(にん)ずれは道(どう)に合(がっ)す、逍遥(しょうよう)として悩(のう)を絶(ぜっ)す。繋念(けねん)は真に乖(そむ)く、昏沈(こんちん)は不好(ふこう)なり。

653避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 23:19:33 ID:jfWCoXjM0
19好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

不好(ふこう)なれば神を労す、何ぞ疎親することを用ひん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。


20六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

六塵を悪(にく)まざれば、還って正覚に同じ。智者は無為なり、愚人は自縛す。


21法無異法 忘自愛著 将心用心 豈非大錯

法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈(あ)に大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。


22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、浪(みだ)りに自から斟酌す。


23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。


24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

眼(まなこ)若し睡らざれば、諸夢自から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。


25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。万法斉(ひと)しく観ずれば、帰復自然(じねん)なり。


26泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず。動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。


27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

両(ふた)つながら既に成らざれば、一 何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くぎょうくごく)、軌則(きそく)を存せず。


28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

心の平等に契(かな)えば、所作倶(とも)に息(や)む。狐疑(こぎ)尽(ことごと)く浄(つ)きて、正信(しょうしん)調直(ちょうじき)なり。


29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

一切留めず、記憶すべきなし。虚明(こみょう)自ら照らして、心力を労せず。非思量の処、識情測(はか)り難し。


30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要(ほつ)せば、唯だ不二(ふに)と言うのみ。


31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

不二なれば皆な同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆な此(こ)の宗に入る。


32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんまんねん)。在と不在と無く、十方も目前。


33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

極小は大に同じく、境界を忘絶(ぼうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。


34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

有は即ち是れ無、無は即ち是れ有。若し此(か)くの如くならずんば、必ず守ることを須いず。


35一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

一は即ち一切、一切は即ち一。但(た)だ能(よ)く是(か)くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。


36信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

信心不二、不二信心。言語(ごんご)の道断え、去来(こらい)今(こん)に非ず。

654避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 02:01:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
いつもは半身浴をしながら金剛般若経を読むのですが、今夜はなぜかふと宇宙が無限だとしたら…ってなことを考えてしまいました。
鬼和尚に、世界も時間も生も死もないと、悟ったら実感できると聞いても、悟るまではそれはあり、又、修行道半ばで人生の時間切れになる公算が高い。
だからこそ、輪廻があると信じないと、救いがない。
悟り得ず、世界も時間も生も死もある者にとって、永遠に今の「苦」が繰り返されるのではなく、いつかはそこから脱したいと願い続け、次の機会にこそはと希望をつなぐ。
宇宙が無限だとしたら、今の自分と同じような遺伝子で、同じような環境で、同じような経験をすることも無限に繰り返されてしまうだろう。
それは、今の宇宙が終わり、次の宇宙が始まっても、無限に繰り返されるのだろう。無限とはそういうことで、輪廻とはその事を言ってるのかな…と思いました。
本当はそれはない! と実感したいなと思いました。

655避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 10:09:54 ID:4ooIiclo0
その前に輪廻は有るっていう実感は有るの?

656避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 12:59:00 ID:e1IGwoi20
おにゃにゃちは おにゃにゃちは  おにゃにゃちは

信心銘 僧燦
http://procrustes18.blog.fc2.com/blog-entry-437.html

これ。
この通りだろ。すさまじい経文だ。

657避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 22:01:23 ID:xqCs/SS.0
確認や注目をする事が、出来事を作ると感じています。
今、今にあるとき、そのように何かを掴む事は無いように思いますが
和尚様は注意、注目、関心。これらの取り扱いはどうされていますか?

658鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649 気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
 わしは見えないのじゃ。
 朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
 観察してみると良いのじゃ。

>>650 ご苦労さんなのじゃ。

  01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。

 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。

 02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
 
 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。

 03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。

 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。

 04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。

 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

659鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:32:20 ID:vZYr84lw0
>>654 そうじゃ、無限に続く苦を抜け出すのじゃ。
 おぬしには出来るじゃろう。
 またおいでなさい。

>>656 おぬしもご苦労さんなのじゃ。

>>657 わしはもはや無為なのじゃ。
 そのような働きもあるじゃろう。
 しかしそうであっても何もせず、知らぬが如く流れるままにするのじゃ。
 囚われれば雑念になるのじゃ。
 囚われなければ行く雲の如く消えていく景色でしかないのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 22:32:54 ID:/Tir5mUE0
さんきゅーべりまっちょなのぢゃ
ありがとうございます

661避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 00:25:40 ID:LC3de7YgO
>>659
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
心強く思います。
がんばります。
もう既に、鬼和尚に教えていただいている方法の実践で今得ているものだけでも十分と思ったてしまいます。
サマディも無我も観照も、まだまだ遠い先でありましょうが、ご指導のお陰で着実に近づきつつあり、1ミリ近づくたびに、「苦」がボロボロと剥がれ落ちて行くような気がしています。 ありがとうございます。

662避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 09:16:50 ID:EunOHSdE0
>>658
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、信心銘の和尚訳とてもためになります。
ありがとうございます。

663そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 12:59:37 ID:M3BN5Lq60
鬼和尚
見性と観照は違うのでしょうか?

664避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 21:29:45 ID:jfWCoXjM0
>>658
解説ありがとうございます。感涙しました(T-T)
次回も楽しみにしてます。

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
 己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。

 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
 それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。

 むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


 06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。

 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
 
 それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
 父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
 

 07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。

 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。

 08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。

 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

666鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:34:37 ID:zYsaQfjM0
>>660 どういたしまして、またおいでなさい。

>>661 そうじゃ、どんどん実践して楽になると良いのじゃ。
 喜びを食む者となるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>662 良かったのじゃ。
 なかなかよいものじゃ。
 そうさんも喜んでいるじゃろう。

>>663 見性は自らの本性を見る事なのじゃ。
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言えるのじゃ。
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言えるのじゃ。

 観照は自我を観察して気付く事であり、それによって自我の厭離が起こるのじゃ。
 厭離が起これば自我は無くなり、無我になるのじゃ。
 そうなれば悟りの八合目であり、小悟といえるのじゃ。

>>664 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

667そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 23:39:34 ID:XD5os4.60
>>666
ありがとうございました。

668避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 01:49:16 ID:LC3de7YgO
>>666
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>見性は自らの本性を見る事
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言える
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言える

>>616 で経験したことが、これだったと言えるのでしょうか?
以前より少しずつ、他人を批判したり非難したりする気持ちは減ってきていましたか、おりにつけそのような気持ちが起こると、縁起の法で解消していましたが、>>616以来、そもそもそのような気持ち(批判したり非難したり怒ったり等)が起こらなくなっている気がします。
自分の本性を知ったことにより、批判したり非難したり怒ったりの気持ちが起こるとことは、他人の言動に、自分の本性を見いだし、いわば自分を非難・批判、怒ってるようなものだと見切れてしまったような感じです。

669避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 16:49:59 ID:2NhnKUvU0
鬼和尚、
自分の中にある執着を厭離して行きたいのですが、どうやら逃避があるようで、なかなか、執着がこれである、と見つかりません。
本心を追及するために、自分で「逃げない」と誓ってから瞑想に入るのですが、それでも何やら逃げているようです。
それらをしっかりと観るために、他に何かできることがありましたら、お教えください。

670避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 17:39:02 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
瞑想に修行感が全くありません。最初の頃は、毎日続けなければとか、少なくても30分以上は座らなければとか、集中を持続して雑念を少なくしなくてはとか、観察を緻密にしなければとか、修行感と言うほどではないまでも、何か頑張ってる感はあったのですが、今は座りたいから座ってるだけです。
最初は多少の努力を要した瞑想が座ると楽になるになり、それが更に、意識の変容と言うことではありませんが、物事の感じかたが自分なりに望ましい方向に変容しているようには実感してますが、サマディを経験できてる訳でもないのに瞑想中毒というか瞑想依存症のようになっています。
鬼和尚は1日20分ほどの瞑想を続けていたとのことでしたが、それは瞑想の安楽さに浸りすぎないように、わざとそのように規制されてたのでしょうか?

671そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/22(土) 19:03:36 ID:35GIq.IU0
鬼和尚
我々が何かを見たり聞いたりして、何かを思ったり考えたりするのは、機械的な反応でしかないのですね。
あらかじめプログラムされたものが、一定の入力に対しては常に一定の結果を出すように。
つまり、我々が自由だと思って為していることは、実はそうでもないのですね。

苦というものも、そのように機械的に起こっているに過ぎないのですね。
機械的な反応が起こらなければ苦も生じない。
苦という実体があるわけではない。
だから、どれだけお金がたくさんあっても苦がなくなるわけではないのですね。

672鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

 09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  
 
 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
 
 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。

 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。

 10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
 
 観念妄想が止まないのは皆妄見による。
 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。

 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。

 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。

 11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。

 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
 
 12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。

 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

673鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:49:12 ID:zYsaQfjM0
>>667 どういたしまして、またおいでなさい。

>>668 そうじゃ、自分の性を見たといえるじゃろう。
 さらに多くの性を見つづけていれば、たまねぎの皮のように何もかもが放着していくじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>669 逃避があれば観ようとして力めば力むほど、逃避の力も強くなるものじゃ。
 逃避も執着も分別しようとするのを止め、囚われる事から心を離すのじゃ。
 思考や言葉も離れた心に自然に答えは浮かんで来るのじゃ。
 それを待つのみなのじゃ。

>>670 そうじゃ、瞑想はこの世で最も安楽なのじゃ。
 お釈迦様でさえ楽しんでいたのじゃ。
 わしも言葉が忘れられるから短くしているのじゃ。
 修行者はむしろその楽しみを味わうが良いのじゃ。

>>671 そうじゃ、良い気付きなのじゃ。
 父母から始まり友人や社会からの条件付けによって人は動いているのじゃ。
 金が幾らあってもそこから起こる苦は逃れ様も無いのじゃ。
 それを知る事が出来ただけでも幸運なのじゃ。

674避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 23:33:05 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。
信心銘の意味について確認させてください。

>05 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり〜

この「本心を隠して」の解釈ですが、
例えば道を歩いている時、女の人が通り過ぎたとします(毎度同じ例えになりますが。
その時に心では「うほっいい女」と思ったとします。

本心を隠すというのは、この時「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのでしょうか。
また「いい女」と思ったということをしっかりと認識しつつ、
かつ、「そんな考えはやめないと」と自制する場合は本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

例えば車を運転していて前に割り込まれたとします。
その時に心では「あぶねえな、何だこいつは」と思ったとします。

この時、「別に怒ってねーし」と心を上書きするのが本心を隠していることで、
怒ったということを認識しつつ、「怒らないようにしないとな」と自制するのは本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

>06 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。

この「自らの根本を追及する」の解釈は、
前の質問で教えて頂いたように、
プチ無思考状態になったらさらに力を抜き、すべてを棄てて身を任せることと考えても問題ないでしょうか。


答え合わせして頂ければ幸いに思います。

675避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 00:54:29 ID:LC3de7YgO
>>673
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘の鬼和尚解説や>>656さんが添付してくれたサイトの訳などを指針にして精進します。

ん?楽しみつつも、何かがんばるぞ感はあるみたいです。
あれもこれも、すべて鬼和尚に出会えたればこそであります。
ありがとうございます。

676そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/23(日) 15:07:32 ID:3kxJAScI0
>>673
ありがとうございました。

677避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 18:52:41 ID:CCZQU40.0
鬼和尚さま、お忙しい中申し訳ありませんが
>>651の善聖さんへの返信もよろしくお願いします。

678避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 21:01:36 ID:7rD9T5220
>>673
確かに、力みがあったように思います。
悟りを得たいという欲があって、しかもそれには囚われないというのがなかなか難しいです。
囚われる事から心を離し、心に浮かぶものをそのまま観つづけたいと思います。
貴重な助言をくださり、ありがとうございました。
肩の力を抜いて精進します。

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
 今日も続くのじゃ。

  13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 
 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。

 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。

 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。

 14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。

 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。

 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
  

 15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。

 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。

 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
 
 16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。

 17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。

 修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

680鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 23:01:04 ID:72FX90sI0
>>674 そうじゃ、本心を隠すとは
 「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのじゃ。
 一度認めて自制すれば本心を隠した事にならないのじゃ。

 それと同じようなものと考えて良いのじゃ。
 上手くしようとすれば力んだりするのじゃ。
 むしろますます力を抜いてこそ上手く行くのじゃ。
 
>>675 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>676 どういたしまして、またおいでなさい。

>>677 すまんのう、見落としていたのじゃ。
 >>651 良い観察なのじゃ。
 正しい言葉によって正しい修行も気付きもあるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>678 そうじゃ、 力を抜く事がむしろ難しいのじゃ。
 進歩しようとすれば焦りが起こるからのう。
 そのような心さえも観察して進んでいくのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2014/11/24(月) 11:12:04 ID:EunOHSdE0
>>680
和尚、お返事ありがとうございました。
答えが明確になりすっきりしました。

よくよく考えると、修行をはじめてからの方が本心を隠していたように思いました。
おそらく「修行しているおれはそんなこと考える人間じゃない」とプレッシャーをかけていたのだと思います。
これからは素直に認めて、それでいて自制を働かせていきたいと思います。

信心銘は読めば読むほど気づかされるものがありますね。
知識では何とか理解できるものの実行が難しい。
しかし難しもなく易しくもないというのであれば、私の今の思考は偏っているのだろうと思ったりもします。

より精進いたします。

682鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。

 18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。

 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。

 19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
 本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。

 20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。

 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
 自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


 21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。

 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。

今日はここまでなのじゃ。

683鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:58:41 ID:72FX90sI0
>>681 そうじゃ、おぬしの相談も今の信心銘と被っているようじゃのう。
 シンクロニシティじゃな。
 吉兆として実践に励むのじゃ。

684避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 07:39:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、おはようございます。

もう一息で何かつかめそうな気がする…
けど、それは思い過ごしで、克服できていたはずの、迷路の中に戻ってしまう。
できてたことが、できなくなってしまう。
そうなると意識だけでなく、気にならなくなっていた足の痺れまでも瞑想の邪魔をしだす。
超、ガッカリして、イラダツ。イライラの克服くらいは前より少し簡単にできる。

今朝やってみたこと。
イラダツ自分という意識が、頑なにあり続ける。そのイラダツ自我を意識のエアポケットに浮かべ、放置する。イラダツ自我を眺める意識はイラダツていないらしい。
苛立ちとか焦燥とが、快不快とかから自由になるには、この自我を眺める意識(マナシキ)がいつも前面にでるように訓練すればよいのでしょうか?
マナシキというのは、感情とか観念とかの有無のみを認識する意識みたいなものなのでしょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ

685避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 19:52:06 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
何か物事に執着しているかどうか、自分で確認したいと思います。
物事に執着しているかどうかを確認するためのヒントがいくつかあるのではないかと思うのですが、それらをお教えください。

例えばもし何かに執着していたら、それを失うと観想すると苦が起きるとか、そのようなことです。

686そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:03:05 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
自分の腕や脚が、例えば箸や茶碗のような、ただの道具のように見えます。
自分の肉体ではあるけれども、そうではないようにも感じます。

687鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
 今日も続くのじゃ。

  22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 今日はここまでなのじゃ。

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:23:45 ID:72FX90sI0
>>684 そのような観察で良いのじゃ。
 それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれるのじゃ。
 さらにその原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離されるのじゃ。

 その意識を前面に立たせないでも良いのじゃ。
 瞑想中に使用するだけで良いのじゃ。
 
 そのようなものなのじゃ。
 分別を行う意識であるからのう。

>>685 それで良いのじゃ。
 何かに執着していれば、それを失う事を想うだけでも苦が起こるじゃろう。
 更には強く執着しているものや人は、もしも失ったらと考えることすらも拒否する心の働きがあるじゃろう。
 そのような心の働きを観察してみるのじゃ。

>>686 肉体の厭離が出来たようじゃ。
 肉体への執着から起こる不安や苦や恐れがなくなるじゃろう。
 その感覚が大事なのじゃ。
 さらに感覚や思考なども厭離していくのじゃ

689そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:59:17 ID:rzoJTJNQ0
>>688
ありがとうございました。

690避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 05:40:17 ID:LC3de7YgO
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
 
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
良かったとして、マナシキで、分別し客観的に自我を見つめることは、自我の生じる瞬間の観察ではなく、既に生じてる自我を単に客観視しているだけですが、この客観視できる状況を追求することによる、無我の体得は不可能でしょうか?

と言うのは、マナシキで自我を客観視できるのは、瞑想が深まりつつある時等に突然わき起こる雑念の観察の時に限られてる気がするのです。
思考実験的に、雑念=自我を爼上にのせ観察しても、通常の意識での観察と区別がつきません。

自我のマナシキによる客観視の常態化=無我の体得ということにはならないのでしょうか?

また、>そのような観察で良い
>それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれる
>その原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離される

これは、縁起の法であると思いますが、教えていただいたこの方法でいつも、原因から観察、順逆の観察、で解消してるのですが、なかなか根本から断たれるところまで到達しません。
確かにそのような克服すべき状態が起こると頻度は低くなって来ておりますが・・・そんな風に、徐々に進むものなのでしょうか?

691避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 13:07:22 ID:/1ub1Cio0
>>688
執着の確認について、ありがとうございます。
拒否や逃避も含め、心の働きを注意深く観察するのが大切なのですね。
修行の妨げになっていない執着は、さしあたり放っておいても良いのでしょうか?

ここまで書いて気づいたのですが、やはり分別に囚われていますね。
掴まずに、ただ観察することに励みます。
ありがとうございました。

692避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 21:02:34 ID:jfWCoXjM0
+   +
  ∧_∧  + キョウノセッポウ
 (0゚・∀・)   マダカナマナカナ
 (0゚∪ ∪ +
 と__)__) +

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 

今日はここまでなのじゃ。

694鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:51:07 ID:/HbFv/.o0
>>689 どういたしまして、またおいでなさい。

>>690 そのような理解で良いのじゃ。

 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難なのじゃ。
 例えば自分の目玉を見るのが困難なようなものじゃ。
 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
 それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する方が実際に悟った例が多いのじゃ。
 
 本当に自我の起こる原因を追求して行けば、それも可能なのじゃ。
 原因を探すのが難しいのでは在るがのう。
 それこそ自我の抵抗が激しいのじゃ。
 自分自身の存在を否定する事と捉えるからのう。
 その謬見と恐れを徐々に消していくしかないのじゃ。
 集中も観察もそのようにして続けるのじゃ。

>>691 そうじゃ、今修行の妨げにならないものならば放っておくが良いのじゃ。
 執着は次々に現れてきりが無いからのう。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>692 今来たのじゃ。
 明日もWKTKして待つのじゃ。

695避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 04:59:16 ID:LC3de7YgO
>>694
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

> 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難
> 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
> それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する
→マナシキ自体が謂わば冷静な自我みたいなものであり、冷静な自我で混乱した自我を観察しても、無我にはたどり着けないのですね。
 
> 原因を探すのが難しい
→目覚める時や、まずサマディを体験できるようになり、そこから日常の意識に戻る瞬間をとらえるとかがそれをとらえるチャンスなのですね。
>抵抗が激しい
>その謬見と恐れを徐々に消していくしかない
→はい、漫画のように、これ見よがしに、邪魔しに来ます。邪魔しているのは他ならぬわたし自身であり、わたしの弱点を誰よりも一番知ってるはずですから、邪魔するのがうまいはずであります。
一人で独学でやっていたら、迷い込みそうな迷路かたくさんあるのですね。
精進します。

696避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 15:10:27 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

>法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
>例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。

一度だけですが、プチ無思考状態で力を抜いて深く入ろうとしたときに、
深く入ろうと思っていることや、ここがそうかとか、この場所に居続けたらいいのかという思考があることに気づいたので、
それらもろとも頭から消し去ると禅定のようなものに入りかけたことがありました。

その時に何となく感覚というかコツのようなものがわかったのですが、
そのわかったことが新しい思考となってしまい、また「こうなる」とか「ああなる」と考えてしまうようになりました。
コツがかえって惑わせるのはスポーツにも似ているなと思った次第であります。

それで話は少しさかのぼるのですが、
>信心銘19 修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

これは煩悩に対して過度に禁欲しなくても、節度ある状態でいれば問題ないということなのでしょうか。
というのもいま性欲に対して禁欲中なのですが、一ヵ月ともなれば活力というか興味というか、
全体的に「なんとなくどうでもいいわー」な感じになっておりまして。
欲が薄くなっていくのはありがたいのですが、瞑想などの自己向上に対する気持ちまでもが薄くなってしまい、
もしかして自ら縛りつけてるのではなかろうかと思っているところであります。
このことについて、ご意見をお聞かせ願えないでしょうか。

697そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 19:32:28 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
今朝目が覚めた時、私は思考が始まる前に身体を動かし始めていました。
その後しばらく経ってから思考が起こり始めました。
この時私は思考が起こる様子を見ていました。
その直後に「今、私はこういう考えを起こしている」と観察を言葉に表しました。
すると、思考は自分が起こしていて、思考そのものは自分ではないように見えました。

このように対象として認識できるものがあるならば、実はそれは、私や私のものではなく、また、他者や他者のものでもないように感じます。

思考は幻のようであり、私が幻を創り出していて、幻とは気付かぬまま過ごしているようです。
まるで映画「マトリックス」の、マトリックスの世界が全てデータで出来ているにもかかわらず、そうとは気付かぬまま暮らしている人々のようです。

698避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 20:39:13 ID:7rD9T5220
>>694
確かに観れば観るほど、執着だらけです。
幸い修行には差し支えていないので、さしあたり放っておいて、
淡々と止観に励もうと思います。
ありがとうございました。

699鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。

 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:12:27 ID:/HbFv/.o0
>>695 そうじゃ、少しずつ進んでいくのじゃ。
 それが結局は近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>696 そうじゃ、禁欲にも囚われすぎては煩悩になり、修行の妨げになるのじゃ。
 節度を保つてコントロールするのが大事なのじゃ。
 抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。
 抑圧ばかりしてはそのようにやる気が無くなったり、別のところで爆発したりするのじゃ。
 自らの性を知ってそれに身を任せよと言うのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>697 それでよいのじゃ。
 思考とも厭離が始まったようじゃ。
 さらに進んでいくと良いのじゃ。

>>698 そうじゃ、囚われずに進んでいくのじゃ。
 またおいでなさい。

701そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 23:24:59 ID:rzoJTJNQ0
>>700
ありがとうございました。

702避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 09:00:49 ID:EunOHSdE0
>>700
和尚、お返事ありがとうございます。

>抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。

確かにそうだと思いました。
抑圧は言うなれば、自分のものではない体を自分の思う通りにしようという無知のあらわれかもしれませんね。
自分の物ではない以上、うまく機能するようにコントロールしてやるのが最善であることに気が付きました。
これからは節度を保ちながら操縦術を磨いていきたいと思います。

また信心銘の翻訳おつかれさまでした。
すべて保存させて頂きました。
この経は都度読み直し、また写経などにも活用していこうかと考えております。

ありがとうございました。

703避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 14:52:39 ID:LC3de7YgO
>>700
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

ちょぴっとづつ進むであります。

夏頃に集中的に取り組んだ「気」の行は、今は、意念や呼吸法で動かそうとするのはやめ、集中の対象として「温養」するにとどめています。
「気」の行は自我を強めるような気がしていたのですが、もう一度積極的に取り組んでみます。

目覚めの際の観察は、なかなかうまく行かず、たいてい観察を忘れてしまうか、目覚め直前に見ている夢の中での思考が、そのまま続いて目覚めるみたいな感じです。

今のところ、それでわかるのは、普段の雑念と夢の中の思考の性格は全く同一のものであるという、当たり前なことくらいです。

704避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 17:57:03 ID:IX7Ppgdw0
鬼和尚
現実だと信じている世界は、想像(空想)と同じものですか?

705避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?

706鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701 どういたしまして、またおいでなさい。

>>702 そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
 本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>703 そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>704 実際はその通りなのじゃ。
 しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
 神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。

>>705 信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
 初学者のためではないのじゃ。
 法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。

 そうさんは真に悟っていたのじゃ。
 本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
 言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
 善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
 真に生き仏なのじゃ。

707避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 13:24:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

そうさんは、鬼和尚の先輩みたいな人なのですね。

自他も生死も社会も善悪も時間さえも本当はなく、一切は幻想であるとすれば、自我が見ている幻想の世界を造り出しているものは、他ならぬ自我と言うことになり、これは、我は創造主なりと宣言しているようでありますが、これは世界の真相を表現したものではなく、修行者が既成観念を破壊し、思い込みを排して自らの心の深奥にせまり、言葉で表現できない、悟りへと導くための方便なのですね!


クリスマスでにぎわう街中で「神は死んだ!」と言うプラカードをもって行進する人たちの横を、「おればまだ、生きてるぞ!」と白髭の男が通りすぎる、というアメリカの漫画を思い出しました。

708避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:45:32 ID:jfWCoXjM0
>>706
講評ありがとうございます!

僧さんの返照は鬼和尚が説く観照と同じですか?

709避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:47:13 ID:jfWCoXjM0
それからまたお願いで恐縮ですが、
鬼和尚が好きなマハームドラーの歌の解説もしていただけたら嬉しいです_| ̄|○

710鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/29(土) 21:55:19 ID:/HbFv/.o0
>>707 そうじゃ、全て方便なのじゃ。
 よく現したのじゃ。

>>708 同じなのじゃ。
 禅も昔は観察する事をも説いていたのじゃ。
 後に文字通りに禅になったのじゃ。

>>709 それもどこかに無料で公開している原文が必要なのじゃ。
 大体そうさんと同じ事を説いているのであるがのう。

711避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:45:40 ID:jfWCoXjM0
>>710
古仏の残した言葉を鬼和尚の言葉で聞きたい!という欲が凄いですw
了解しました。また楽しみにしてます。
まず英語訳です。

Mahamudra is beyond all words and symbols,
But for you, Naropa, earnest and loyal, must this be said.

The Void needs no reliance; Mahamudra rests on naught.

Without making an effort, but remaining natural,
One can break the yoke thus gaining liberation.

If one looks for naught when staring into space;
If with the mind one then observes the mind;
One destroys distinctions and reaches Buddhahood.

The clouds that wander through the sky have no roots, no home,
Nor do the distinctive thoughts floating through the mind.
Once the Self-mind is seen, Discrimination stops.

In space, shapes and colors form
But neither by black nor white is space tinged.
From the Self-mind all things emerge;
The Mind by virtues and by vices is not stained.

The darkness of ages cannot shroud the glowing sun;
The long eons of Samsara ne'er can hide the Mind's brilliant light.

Though words are spoken to explain the Void, the Void as such can never be
expressed. Though we say "the Mind is a bright light," it is beyond all words and
symbols. Although the Mind is void in essence, all things it embraces and contains.

Do naught with the body but relax;
Shut firm the mouth and silent remain;
Empty your mind and think of naught.
Like a hollow bamboo rest at ease your body.
Giving not nor taking, put your mind at rest.
Mahamudra is like a mind that clings to naught.
Thus practicing, in time you will reach Buddhahood.

The practice of Mantra and Perfections, instructions in the Sutras and
Precepts, and teaching from the Schools and Scriptures will not bring
realization of the Innate Truth.
For if the mind when filled with some desire should seek a goal,
it only hides the Light.

One who keeps the Tantric Precepts yet discriminates, betrays the vows of
Awakening,

Cease all activity; abandon all desire; let thoughts rise and fall as they
will like the ocean waves.
One who never harms the Non-abiding nor the Principles of non-distinction,
upholds the Tantric Precepts.

712避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:47:40 ID:jfWCoXjM0
He who abandons craving and clings not to this or that,
Perceives the real meaning given in the Scriptures.

In Mahamudra all one's sins are burned; in Mahamudra one is released from
the prison of this world. This is the Dharma's supreme torch. Those who
disbelieve it are fools who ever wallow in misery and sorrow.

To strive for liberation one should rely on a Guru. When your mind receives
the Guru's blessing emancipation is at hand.
Alas, all things in this world are meaningless; they are but sorrow's seeds.
Small teachings lead to acts. One should only follow teachings that are great.

To transcend duality is the Kingly View; to conquer distractions is the
Royal Practice; the Path of No-practice is the Way of the Buddhas. 0ne who
treads that Path reaches Buddhahood.

Transient is this world; like phantoms and dreams,
Substance it has none. Grasp not the world nor your kin;
Cut the strings of lust and hatred; meditate in woods and mountains.
If without effort you remain loosely in the "natural state," soon Mahamudra
you will win and attain the Non-attainment.

Cut the root of the tree and the leaves will wither;
cut the root of your mind and Samsara falls.

The light of any lamp dispels in a moment the darkness of long eons;
The strong light of the mind in but a flash will burn the veil of ignorance.

Whoever clings to mind sees not the truth of what's beyond the mind.
Whoever strives to practice Dharma finds not the truth of Beyond-practice.
One should cut cleanly through the root of the mind and stare naked.
One should thus break away from all distinctions and remain at ease.

One should not give and take but remain natural, for Mahamudra is beyond all
acceptance and rejection.
Since the consciousness is not born, no one can obstruct it or soil it;
Staying in the "Unborn" realm all appearances will dissolve into the
ultimate Dharma.
All self-will and pride will vanish into naught.
The supreme Understanding transcends all this and that.
The supreme Action embraces great resourcefulness without attachment.
The supreme Accomplishment is to realize immanence without hope.

At first a yogi feels his mind is tumbling like a waterfall;
In mid-course, like the Ganges, it flows on slow and gentle;
In the end, it is a great vast ocean,
Where the lights of Child and Mother merge in one.

Jack Kornfieldさんの訳です。

713避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

714避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

715避難民のマジレスさん:2014/11/30(日) 08:39:19 ID:SO86/s7A0
鬼和尚は誰に教えているのですか?
教えを受けているのは自我ですか?無我ですか?無ですか?

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0
>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

>>715 おぬしに教えているのじゃ。
 おぬしは自我じゃろうか?
 それとも無我じゃろうか?
 それとも無じゃろうか?
 速やかに答えてみるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 11:21:13 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、
マハームドラーの和尚訳ありがとうございます。

今回の詩も非常に興味深いものがあります。
wktkしながら続きを待ちたいと思います。

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:33:23 ID:zljf.XjA0
>>717 そうじゃ、今日も続くのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚の説明を読むと、バカな龍明でもわかる気がして、できる気がするであります


721避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 15:09:01 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
昨夜と今朝、早速やってみたであります。
 
今まで、「集中」「観察」「縁起の法」等の訓練をし、その有効性を実感してきたので、「空とマハームドラーの観想」も自分なりに理解できました。
自分にとって、集中の行において難しいのは、集中しょうとする「意思」の存在で、その意思がなければ雑念にまみれ座って考えことをしてるだけになることです。
ある程度慣れて、無思考の状態、意識のエアポケットみたいなものを作れるようになり、そこに浮かび上がる雑念を客観視する意識のようなものを実感できても、それもまた、意識であり、自分の意思にもとづくものにかわりありません。
空の観想も、最初にそれを教えられたなら、何をどうやったら良いか解らなかったでしょうが、
いきなり「空」「無」「無思考」をイメージすることにより、集中の行に要する「意思」の存在がぐぅっっ後退するように感じられました。
しかし、その状態を長時間維持するのは集中同様難しく、じきに、空を観想している自分と言うイメージがわいてくる。
これは、自我が生じる瞬間をとらえて厭離する技として、私にもできるのではないかと思ってしまいました。

722避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 17:17:22 ID:jfWCoXjM0
>>718
解説ありがとうございます。いつも楽しみにしてます(・ω・`)

723そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/02(火) 18:58:23 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
教えてください。
覚醒したという方のブログがあり、そこに自我と真我とカルマについて次の記述があるのですが、これは正しいのでしょうか。

「自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。」


私の成り立ち(2) - 私を知る
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/d4c3c46981add517661cdcffc6ee0657/?st=1

724避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 20:09:35 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚さんも何か、悟りを表現した詩を書いてみてください。

725避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 21:26:40 ID:VDi3L7Co0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
空の法をしていたからでしょうか?
体の外の音が、自分にダイレクトに響いて
猫のくしゃみが自分の中に響いてビックリしたり、遠くのカラスの音も自分の中で鳴っている。
という感じになりました。
こういう話を聞いたことがありませんので、こういうものなのか確認したい思いが出ました。
何か間違っていますか?このまま続けていいですか?
アドバイスをお願いいたします。

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:32:11 ID:BPNow3.w0
>>720>>721 そうじゃ、何でも試して見たら良いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>722 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

>>724 趙州頭上無靴跡なのじゃ。

>>725 それでよいのじゃ。
 空間の意識と繋がったのじゃ。
 空間がおぬしの意識となったから体の中で聞こえたように思ったのじゃ。
 空無辺の始まりなのじゃ。
 瞑想の邪魔になるならば制感の行をすると良いのじゃ。

728そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/03(水) 07:42:34 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
>>723をお願いします。

729避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 11:30:48 ID:LC3de7YgO
>>727
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘とマハームドラの鬼和尚解説を通して今まで教えていただいたことの集大成を読めているようであります。

>>726
>分別(や認識、思考感情)なども本来は何の主体も無く自動的に起こるもの
→感覚や感情の自動性は理解できるし、思考も記憶の組合せと言う意味での自動性があるのかなと思いますが、記憶だけは個別のものという感じが拭えません。
しかし、その先の認識の自動性ということについては、なんとなくそんなものかもという気もするので、だとすれば、記憶も自動なのかな・・・と

記憶も認識も主体なく自動であるとすると、起こる事=認識や記憶の対象は自動ではないとしても、起こった事実に対する認識は主体がない以上一つの認識になるはず・・・うぅぅ

>分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いもの
 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われ
>一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
>認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れる
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすから
  
→重要なのはこの辺を実践により体得することなのですね。道は遠いですががんばります!

730避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 12:50:31 ID:nm8il/2Q0
鬼和尚さん、こんにちは。

最近、やっと数息観で集中力がついてきました。
息を数えながら意識を集中して、10分の間、気がそれても、すぐに元に戻れるようになりました。
それで、さらに進むには、どうしたら良いのかを教えてください。
気が逸れることもないほどに、10分間集中できるように、練習したほうがいいのか、
自分の心を観察する練習をはじめたほうがいいのか、どちらが良いでしょうか?

731素人A:2014/12/03(水) 14:35:46 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんひまで落ち着いた性格のひとは数息感で歩いたりパソコン見たり
テレビ見たり出来ると思うけど今の私はあれも是もしたいで少しも落ち着きが
ない困ったものだ色々な物を求めるの網止められない別に色々手足を出しても
大したものないと解っているけど人間だもので楽しい事を求める数数える暇は
無い事もないのだけど次々であせるばかり此処で書いている時は落ち着いているか
ぽ師匠も無事帰還したし少し数数えようコンビニざ前だ

732避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 17:09:50 ID:LC3de7YgO
一つの意識に全ては包含されるということが実感できることが悟り一側面なのでありましょうが、その世界は、自他も明暗も美醜も快不快も時間も世界という境界もない世界であり、安らぎのみあり、他に何もないとしたら、そこへ行きたいと思えるほどに強く「苦」を観想できるか、実感できる経験がまず必要なののかもしれないと思いました。
心の深奥を観察すれば、「苦」はいくらでも掘り起こせそうに思えますので、修行に取り組む強い動機を失わないためには、縁起の法等で簡単に楽にならず、「苦」を温存した方が良いのでしょうか?
(´・(エ)・`)ゞ

733725:2014/12/03(水) 20:55:39 ID:Pbg1oRkU0
>>727
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は私だったのですね!ウフフ
実を申しますとずっと遊んでおりましたところ、鬼和尚のおかげで尻に火が付いたのです。
本当に感謝いたします。ますます精進いたします。

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:59:52 ID:gKd/0M7o0
>>728 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>723 悟っていないのじゃ。
 言葉の意味もわかっていないようじゃ。
 真我などないのじゃ。

>>729 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>730 そのまま続けるのじゃ。
 やがて雑念がありながら集中できる状態になるじゃろう。

 そしてさらに続ければ雑念が自然に止まるまで流していけるようにもなるじゃろう。
 雑念や思考が止まり、それにもかかわらず意識はある状態に気付くじゃろう。
 それが無念無想の状態なのじゃ。

 思考や雑念に邪魔されず、観察する事が可能になるのじゃ。
 そこまで行ったら観察をするのが良いのじゃ。

>>731 パソコンのやりすぎだとクリック一つでいろいろできるから散漫になるの字や。
 一日1時間とか時間を決めてやると良かろう。

>>732 特に苦が無くとも、他の衆生を観察すればいかにひとは苦によって苛まれるかわかるじゃろう。
 それを観るが良いのじゃ。
 自分の苦は少ないほうが良いのじゃ。
 できることが多くなるからのう。
 自分の可能性を広げるのじゃ。

>>733 どういたしまして、またおいでなさい。

736そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/04(木) 07:37:05 ID:rzoJTJNQ0
>>735
ありがとうございました。

737避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

738避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 12:45:30 ID:xqk39LY60
>>735
鬼和尚さん、ありがとうございます。
では、次は、雑念があっても集中しているという感覚が掴めるまで
やってみようと思います。
鬼和尚さんのように教えてくださる人がいて、本当に良かったです。
ありがとうございます。

739鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。


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