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鬼和尚に聞いてみるスレ part2
398
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/11(水) 20:39:01 ID:Bwz0R3.60
軽自動車税、1万800円に増税 自公合意、新車対象に】
自民、公明両党は11日、軽自動車を持つ人が毎年自治体に納める「軽自動車税」について、2015年4月以降に買う新車(自家用四輪)を対象に、現行の1・5倍となる1万800円に増税することで合意した。
今の保有車は年7200円で据え置く。
同じ軽自動車税がかかっている原付きバイク(50cc以下)は、今の1千円から2千円に、250ccを超える小型二輪車は4千円から6千円に上がる。
農家などが使う営業用軽トラックは3千円から3800円になる。
2016年度からは、新車登録から13年以上を過ぎた車に20%高い税金がかかる仕組みも取り入れる。
自家用四輪なら1万2900円になる。
古い車から燃費の良いエコカーへの買い替えを促すねらいだ。
軽自動車税は、普通車の最も低い自動車税額(千cc以下で2万9500円)の4分の1以下と安く、普通車との格差是正が長年の懸案になっていた。
399
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/11(水) 20:43:59 ID:kaXJvxhM0
>>393
わしの言う観察は科学者が行う観察と基本的に同じなのじゃ。
対象を何か新しい発見や他にはない特徴がないかと、注意深く見つめるだけなのじゃ。
ただ学者の観察は対象の特徴等を記録して知識にするためであるが、修行の観察は対象が己ではなく、己のものでもないという厭離の感覚を引き起こすためなのじゃ。
そこの所が違うのじゃ。
それ故に何か発見があっても知識として記録しなくて良いのじゃ。
目の前に手があればそれを初めて見つけたかのように見つめ、特徴や新しい発見を探すのじゃ。
全身を見たら感覚や心の働きを観察するようにするのじゃ。
心という捉え所のないものを観察するのは難しくなるが、迷ったら基本に戻って観察をやり直すと良いのじゃ。
>>394
どういたしまして、またおいでなさい。
400
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/11(水) 21:26:53 ID:kaXJvxhM0
>>395
もはや気づく事も気づくものも無いのが、あったのじゃ。
行為も行為の対象も行為者もいないのであるからのう。
ただ人の使う言葉の慣習によって気付いたとか、言うのじゃ。
認識の全ての段階を厭離しても廃人にはならないのじゃ。
なぜならばそれは習慣によるものであるからのう。
タバコを止めても廃人にならないように、記憶による分別の認識を厭離しても本来の認識に戻るだけなのじゃ。
話を判り易くするために人の認識を阿頼耶識とするのじゃ。
阿頼耶識は記憶に依存した認識であり、記憶によって外部からの刺激を分類し、記憶内容からの言葉とイメージを投射して物事を認識しているのじゃ。
それが厭離されれば本来の認識が戻り悟りに至るのじゃ。
401
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/11(水) 21:33:39 ID:kaXJvxhM0
>>396
そうかもしれん。
自分がいつか必ず死ぬとわかっていても何も出来ないのが幼稚園じゃな。
死を超える悟りへの道があるとしって修行に励んで小学生じゃな。
修行して苦を滅し、修行の道に間違い無いと確信を抱けば中学生じゃな。
自我を滅して高校生になり、真の悟りに至って大学生じゃ。
悟っても衆生を導くための勉強は一生続くのじゃ。
涅槃に入って卒業なのじゃ。
>>397
懺悔したからなのじゃ。
懺悔告白して二度としないと誓えば許され、罰も軽くなるものじゃ。
肉体を更に観察して肉体そのものを厭離してみるのじゃ。
肉体が己ではなく、己のものでもないと気付いたならば肉体の欲求にも囚われ無くなるのじゃ。
402
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/11(水) 21:45:35 ID:XpOqqj3k0
>>392
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
その通り。
私の述べたことはOSHO,グルジェフに通ずることです。
貴方は私から勧めを聞き、教訓をうけるべきだったのですね。
そうすれば、過去の人の言葉を理解もせずに垂れ流すのではなく、知恵が身につく可能性もあります。
私はあなたの言ってることにきちんと返してますが、あなたは私の言うことに返してません。
あなたが一番やってないこと。
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
403
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/11(水) 23:42:01 ID:sp.LjxiQ0
鬼和尚
仕事中の私はたいてい自分の仕事を黙々とこなし、職場の周りの人があれやこれやと話しをしているのが耳に入ってくると(仕事の話しもありますし、雑談もあります)、話の内容や話し方などに対してあれやこれやと思ったり考えたりします。
そこで、普段の仕事中でも瞑想中のように雑念が少ない状態で過ごせるか試してみました。
結果としては、瞑想中とはほど遠い状態でしたが、それでも一つ気付いたことがありました。
それは、あれやこれやと思ったり考えたりしている自分は、自我が自我たらんとして、まるで餌を求めるように他人の話に反応し、それをむさぼり食って思い考えをめぐらし、自らを肥え太らせ、自らの存在を健在にしようとしているのだろう、ということです。
そのような自我の働きはおそらく習慣的に行われていることなのでしょう。
私が生きてきた何十年もの間、継続して行われてきたことなのでしょう。
その行為が当たり前になりすぎて、それが有為として行われていることがわからなくなっていたのでしょう。
404
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/12(木) 00:04:38 ID:sp.LjxiQ0
>>403
念のため補足ですが
>他人の話に反応し、
と言うのは、あくまで心の中で反応するということです。
405
:
龍華
:2013/12/12(木) 00:12:04 ID:kl1CR23s0
スッタニパータなどによると聖人への悪意や害する事は(凡人に対するそれと違い)
大変な苦や地獄を受けるとあるので鬼和尚のお答とは矛盾しませんか?
他には公案などで師や修行者が殴り合ったり斬ったりするお話が多々あるのですが、
凡人同士が行なった暴力とは違った結果が発生したりしないのでしょうか?
インドで体が自然発火する赤ちゃんが生まれたとニュースでありましたが
彼は特殊な苦を受けるような行為を他生でしたのでしょうか?
鬼和尚は彼が過去に何者で何したか等の情報を知ったりできますか?
406
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/12(木) 12:34:38 ID:Zcl18UUU0
鬼和尚が悟りを得てから働けるようになるまでのプロセスと、
おおよそかかった時間をお教えいただけますでしょうか?
認識の転換の後で、おそらく仮の自我を作り出す必要があるのではないかと
思われるのですが、どのような感じなのかなと思いまして。
407
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/12(木) 20:18:37 ID:kaXJvxhM0
>>402
箴言
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
>>403
そうじゃ、外からの刺激は記憶の種子となるのじゃ。
本来必要ではない情報も自らを投射する手段になるからのう。
それに気づいた事は良いことじゃ。
更に進むのじゃ。
>>405
そのような言葉は後の世に付け加えたものが多いのじゃ。
自分達が迫害されないように付け足したのじゃ。
相手が聖人かどうかなどは一般の者が見分けられるはずは無いからのう。
修行者同士が行うのは指導という事でよいとされているが、今ではいかん事じゃ。
本来は戒によって禁止されているものじゃ。
その赤子も他人を焼いたりしたのかも知れん。
結果を見れば原因が判るものじゃ。
>>406
一年ぐらい掛かったようじゃ。
記憶からの認識をつくり、言語機能を快復して、仮の自我を創り上げたのじゃ。
元の自我の残っていた反応の回路を基にしたのじゃ。
元の性格が少々残っているのじゃ。
408
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/12(木) 21:15:37 ID:sp.LjxiQ0
>>407
ありがとうございました。
409
:
龍華
:2013/12/13(金) 02:29:32 ID:kl1CR23s0
>そのような言葉は後の世に付け加えたものが多いのじゃ。
鬼和尚がスッタニパータを勧め、釈尊が何々と述べたと書いてあったので
重要な物だと思っていたら嘘・改変もあるという。私には虚と事実の区別は知らない。
スッタニパータに与えていた価値又はウエイト又は重要視みたいな物が
頭の中で粉コナに霧散するのを感じた。これが空なのかな。
災いや苦を受けている人のそれが因果応報なのか、新しい犠牲者なのかどう判りますか?
鬼和尚の時々云われる、相手に対し「憐れだと思え」「憐れむとよい」という言葉の「憐れ」とはどういう事ですか?
カワイソウって事でしょうか?
悪党に向ける「憐れ」と、苦の犠牲者に対する「憐れ」とは同じものですか?
それをすると相手にとって利や損などの効果でもあるのでしょうか?
410
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/13(金) 04:56:39 ID:6NaQvIas0
鬼和尚さん。たとえば顔に痣があったり皮膚病を患っていることに悩んでいて、その苦しみを消したければ、
「痣や皮膚病が無かったとしたら自分の心はどのような反応をするのか」を観察するという方法を採れば良いのでしょうか?
411
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/13(金) 12:53:35 ID:Elpwrbn.0
>>407
>>406
です。ありがとうございます。まるで再び誕生したかのようですね。
特に悟りを得た直後のあたりで、何ができて、何ができなかったかを、
もう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
この質問の意図は2つあります。1つは、悟りを得た直後の認知や行動は
悟り以前と比較して、どのように変わっているのかということ。
2つめは、悟りを得たあと、肉体がこの世界にとどまるために、
他の人の助けが必要かどうかということ。この2つが知りたいです。
例えば、阿頼耶識を厭離し、本来の認識が戻った直後は、言葉もイメージも無い
とのことですが、その時に鬼和尚が使えた心の機能には、何があったのでしょうか?
今鬼和尚が肉体を持っているということは、食事はできたはずですよね。
認識が記憶によらなければ、何が食べ物かも、分からないのではないかと思いまして。
また、慈悲への執着とか、意志もありましたか?
412
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/13(金) 20:32:48 ID:kaXJvxhM0
>>409
経を全て信じるならばむしろ経など読まないほうが良いとも言うのじゃ。
経から読み取るべき事は善事をして自らの心を清める事だけなのじゃ。
経を参考に自らの心を観る事が一番大事なのじゃ。
例えば病気ならば幾ら治療しても治らない病気が因果なのじゃ。
普通は治療すれば直ぐに治るような病でも、治らずに何度もなったりするのじゃ。
医薬の聞かない病が因果から来る病なのじゃ。
かわいそうという事なのじゃ。
同じようなものじゃ。
哀れむだけでは何も効果はないのじゃ。
何か施したら少しは効果があるじゃろう。
>>410
そうじゃ、そのように観察してみると良かろう。
大抵はその病よりも、心が病に囚われる事で苦しんでいたりするものじゃ。
体が病にかかるのは仕方がないが、心は苦を滅して楽になると良いのじゃ。
413
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/13(金) 20:39:52 ID:kaXJvxhM0
>>411
特に言葉と言葉が表すもの、対象との結びつきが失われるのじゃ。
全ての言葉に意味はなく、叉全ての意味を含んでいるような気がするのじゃ。
しかし、わしは大乗の誓願を行っていた故に、衆生を導くためにこの世に戻ってきたのじゃ。
他人の助けは意味がないのじゃ。
言葉が無意味であるからのう。
機能は逆に増えたのじゃ。
智慧が身についたからのう。
肉体の制御は習慣によって出来るのじゃ。
執着はないのじゃ。
意志はあったのじゃ。
誓願を捨てる事も出来たが、果たす事を選んだのじゃ。
414
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/13(金) 21:52:11 ID:RqjHb0Jg0
大衆を助けるために戻ってきたってすごいですね
仮の自我を取り戻すというのがよくわからない感覚なのですが仮でも苦は感じますか
1年かかったと聞きましたが、赤信号で止まるなどの行為ができないと生きるのが難しくありませんか
信号を信号と認識して赤で止まるという知識が必要だと思いますが
タバコ屋や酢屋をしてる人も鬼和尚さんみたいに戻ってきた人なんでしょうか
415
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 01:46:07 ID:XpOqqj3k0
>>407
私はやっています。
イエスやOSHOやグルジェフから。
ああ他は彼らに反することを言っていて何の反省もないです。
私はしているのにあなたが全くしていないことが心配です。
416
:
龍華
:2013/12/14(土) 02:22:49 ID:kl1CR23s0
>>412
経を参考に善事に勤めます。摩擦や抵抗の中に観るべき私がたくさん有る様です。
ありがとうございました。
417
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 04:36:15 ID:6NaQvIas0
鬼和尚さん、空の法に関して質問です。たとえば嫌いな人がいて、そのことで苦しんでいるとします。その苦を滅するために、
「嫌いな人も空であり、嫌うという思いも空であり、その人が言った言葉も空であり、その人がした行為も空であり、それらを受け取る自分も空である…」
のように、その出来事に関連して心に浮かんでくるものを空と観想していくという方法をとるのは正しいやり方でしょうか?
418
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 10:46:11 ID:rjrCqQY20
>>412
鬼和尚さん
肉体は長持ちしても高々百年足らずしか持ちません。
日本は世界に名だたる長寿国になりましたが、その長寿者もやがては細胞が癌化していくものだという説がありますし
そうでなくとも、肉体はやがて衰えて老衰して終える。
だとするなら、病気を殊更因果に結びつけることは、新たな因果を生んで苦しむことになりはしないでしょうか…。
419
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 11:39:48 ID:rjrCqQY20
すみません。
>>410
への回答で納得しました。
420
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 19:50:51 ID:6NaQvIas0
グルジェフの瞑想法で「この世を夢とみなしなさい」というのがあるとOSHOの本で読んだ記憶があります。
この瞑想法は空の法と似ていると思うのですが、この瞑想法について鬼和尚さんの意見を聞きたいです。
421
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/14(土) 19:58:26 ID:Dp/qMVVc0
>>413
ありがとうございます。
とりあえず、他人の助けには意味はないが、肉体の制御は
習慣によってできるということで、安心しました。
また、悟りの前に悟り後のことを、強い意志で決めておくことも
大切だと分かりました。
悟りを得た後の状態というのは、止の瞑想で無念無想になった状態が、
常に続いているという感じでしょうか?
とすると、イメージや言葉の操作以外は、悟りの後でもできそうに
思うのですが、そのような理解で大丈夫でしょうか?
もう一点、お聞きしたいことがございます。
記憶を介さない状態の認識から、記憶を介した認識を作り上げるのは、
例えばリンゴを認識した時に、意志の力により記憶のリンゴを想起して、
両者を結びつけるといった訓練をするのでしょうか?
422
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/14(土) 20:08:06 ID:kaXJvxhM0
>>414
苦は感じようと想えば感じられるのじゃ。
意味はないがのう。
習慣による行為は簡単に出来るのじゃ。
肉体の記憶は在るからのう。
戻ってきたのじゃろう。
>>415
箴言
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
>>416
どういたしまして、またおいでなさい。
423
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/14(土) 20:10:01 ID:kaXJvxhM0
>>417
そうじゃ、それで良いのじゃ。
心に浮かぶ全てを空であり、実在せず、夢幻のようなものと観想するのじゃ。
そうすれば執着や囚われが無くなるのじゃ。
>>418
>>419
良かったのう。
またおいでなさい。
424
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/15(日) 00:39:27 ID:hUDzEkKo0
鬼和尚
坐っておりました。
断片的な記憶の再生もありましたし、窓の外から聞こえてくる音もありましたが、気にせずスルーしていました。
すると、次のような、これまでにない感じになりました。
意識や感覚といったいわゆる精神と、肉体という物質的なものの間に、境界線というものがあったとするならば、
あるいは、
精神と肉体が別々のものであったとするならば、
その境界が極めて不明瞭になり、とろけてしまうような、溶け合ってしまうような感じになりました。
眠るときの睡眠に入る一歩手前のようでもありました。
外部からの刺激によって生ずる快楽とは異なる種類の心地よさもありました。
425
:
473
:2013/12/15(日) 01:11:14 ID:XpOqqj3k0
>>422
わたしはOSHOやイエスやグルジェフの教訓を受け、知恵を得たのかもしれません。
彼らと同じことを言う私の言葉を聞こうともしないあなたが本当に心配です。
あなたは決して自分がしないことだけを人に言いますね。
そうや手貴方は言葉に逃げ込んで自分の無知と無理解から逃避する。
意味も解ってない言葉を自分のペースで垂れ流すことしかできない。
私があなたにした指摘はOSHOやグルジェフがした指摘そのものです。
だからあなたは反論ができない。見て見ぬ振りすることしかできない。
自分の間違いを認めればそれで済むのに。
そして、自分が輪廻そのものの審議を体感しておらず、迷信としての知識しかないということも認めればそれで済むのに。
あなたは輪廻を自分自身で語れない、悟ってないことを自身で暴露してしまってますからね。
その事実から逃れるべく必死で私を否定しようとしてる。
そんな記号の並列でしかない言葉にしがみついて。
426
:
473
:2013/12/15(日) 01:23:33 ID:XpOqqj3k0
かくいう私も言葉を愛しすぎてるかもしれない。
要は精神的に平均的な大人にも全く達していない幼児である存在が、
自分が普段使ってる言葉を全く違う意味で使ってることが気に入らないということかもしれない。
言葉なんて音の羅列に過ぎない。
悟りという言葉に何の意味も無い。
発言者が何者かによってそれにこめられる意味は決まる。
どんな意味を込めるかは発言者の自由だ。
発言者が何者か破綻後ではなく文章全体の文脈に出る。
もし、悟りと無明に込める意味を逆にしても、悟った人(この場合無明な人)の文脈は悟りのものになる。
言葉や表面的なロジックには何の意味も無いのだが、、、どうもそれに愛着があるようだ。
言葉やロジックにどんな意味を込めるかはその人の自由、、いや、その人の不自由なのだが、、、
理解してない人がその言葉を使うべきではないと私は思ってしまう。
もちろんその人が成長したいなら理解してない言葉は使うべきではない。
が、ごくわずかな道の人を除いては、わからない言葉を使って自分を安心させ納得させるために宗教と関わってるだけなのだ。
427
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 01:24:07 ID:XpOqqj3k0
発言者が何者かは単語ではなく文章全体の文脈に出る
428
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 01:29:24 ID:Z/k1vghg0
なんで迦葉は花を見て笑ったの?
429
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 03:23:05 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、私は以下のように考えますが、これでよいでしょうか。
真偽を確かめることができない説や懐疑論等をとなえる者を外道として退け、苦を滅する実践こそ大切である(* ̄O ̄)ノ
確かに輪廻があることを前提に取り組んだ方が、切実な苦に悩みそこから脱したいと実践に取り組む者が、その目的を達することができず安易に死を選択することを避けさせることができるかもだけど、そんなことは修行の実践にとって重大事ではない(* ̄O ̄)ノ
430
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 14:13:09 ID:XpOqqj3k0
あなtが苦しみを消そうとしていますね。
あなたが即苦しみの原因ですから、それでは抑圧にしかなりませんよ。
431
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 14:17:52 ID:XpOqqj3k0
>>429
信じようとするから懐疑の問題が出てくるのであって、
「知らない」という事実に留まるなら
何も信じることは無いし、なにも疑うことはありません。
知らないことについては知らないだけです。
疑いようがありません。
あくまで信じたとき、迷信してるときだけ、それを疑うことができます。
だから、疑うことは迷信のレベルから出ることなので信じること寄りは宗教的なのです。
信じることをやめたとき疑うことも消えます。
知らないという事実に留まります。
何でも疑いなさい、私の言ってることが正しいと解っていても疑いなさい====グルジェフ
疑いということは人類最大の祝福である====OSHO
432
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 14:19:42 ID:XpOqqj3k0
疑うということは人類最大の祝福である====OSHO
OSHOは疑いを捨てることを言いましたが、信じることはもっと捨てるように言いました。
この2つは同時におちると言いました。
信じてるよりは疑ってる方がましです。
疑いが落ちる時信じることも落ち、無知に安住します。これを信と表現していました
433
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/15(日) 20:17:52 ID:kaXJvxhM0
>>424
感覚が乖離されてきたのじゃな。
肉体の囚われから離れていくじゃろう。
快も生じてきているのじゃ。
そのまま進むと良いのじゃ。
>>425
箴言
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
>>428
何か可笑しかったのじゃろう。
特に意味はないのじゃ。
あえていえば人は華の様であるとかわかったのじゃろう。
>>429
そうじゃ、全ての教えは実践のためのものなのじゃ。
実践のない知識は無意味なのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
434
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 20:43:14 ID:byGhGyc60
鬼和尚
>>420
と
>>421
にも、ご回答いただけますでしょうか。
435
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/15(日) 21:09:42 ID:kaXJvxhM0
>>434
見逃していたのじゃ。
すまんのう。
>>420
そうじゃ、やはり空と同じものと言えるのじゃ。
金剛経にもこの世を夢幻と見るようにと教えられているのじゃ。
グルジェフは博識であるから知っていたのかも知れんのじゃ。
>>421
そうじゃ、出来れば皆悟りを得たら戻ってきて教えを説くという誓願をして置くと良いのじゃ。
それが修行を進める力にもなるのじゃ。
そのような理解で良いのじゃ。
意志を起こさなければずっと無念無想でいられるのじゃ。
そのような訓練はしなくとも、以前の自分の認識を呼び起こせば使えるのじゃ。
記憶に依存した認識もやはり習慣によって身についているのであるからのう。
一つ一つの物を言葉と結び付けていては、もう一度赤子の頃からの教育をやり直さなくては成らないから大変なのじゃ。
436
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/15(日) 21:52:53 ID:XpOqqj3k0
>>435
グルジェフやOSHOの実践的な話にはまるでついてこれないようですね。
自分のペースで言葉を垂れ流してばかり。
悟り、、、か。
言葉に過ぎない。
人の数だけ悟りという言葉に込める意味は異なる。
悟りという言葉を鬼和尚は独り占めしたがる。
所詮言葉だ。
好きに使うがいい。
437
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/15(日) 22:45:46 ID:hUDzEkKo0
>>433
ありがとうございました。
438
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/16(月) 00:04:58 ID:LC3de7YgO
>>433
ありがとうございますm(__)m
精進します。
439
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/16(月) 00:08:55 ID:hUDzEkKo0
鬼和尚
先ほど坐っておりました。
自分の肉体と呼吸は、この地上にいる間だけ、たまたま、肉体として形作られ、それを維持するしくみの一つとして呼吸が行われているに過ぎない、刹那的なもののように感じられました。
坐ったまま、まるで眠りに入ったかのような静寂がありました。
家の近くに鉄道の駅があり、踏切もあるので、瞑想中に電車のゴーという音と遮断機のカンカンカン…という音が聞こえます。
それで、いつもはわずかにうるさいという思いが生ずるのですが、今日は何かを思うということはありませんでした。
音が聞こえても、静寂でした。
440
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/16(月) 08:02:53 ID:TWsIZlsE0
鬼和尚さん
心を制御するということと、何にも心を捕らわれないようにすることは、同じことですか?
441
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/16(月) 12:45:51 ID:jfWCoXjM0
座れ座れって言うけど座って何するの?
442
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/16(月) 13:06:07 ID:fgD13pAM0
>>435
>>421
です。
悟りを得た直後にどのようになるのか分からず、恐怖が
あったのですが、幾分かイメージが掴めました。
悟り後をイメージしてみても、肩に力が入らなく
なっています。
誓願を胸に、実践に励みます。
ありがとうございました。
443
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/16(月) 21:05:23 ID:kaXJvxhM0
>>436
箴言
「勧めを聞き、教訓をうけよ、
そうすれば、ついには知恵ある者となる。
>>437
どういたしまして、またおいでなさい。
>>438
そうじゃ、実践あるのみじゃ。
またおいでなさい。
>>440
違うのじゃ。
その二つは互いに補い合う性質のものなのじゃ。
心を制御すれば心が囚われないようにすることもできるのじゃ。
心が囚われなければ心を制御する事も容易いのじゃ。
例えば人の心は車に荷物を一杯積んでいるようなものじゃ。
そのままではまとも走る事も中々難しいのじゃ。
操縦が巧みならば荷物を振り落とし、軽くする事も出来るのじゃ。
軽くなれば操縦もし易くなるのじゃ。
荷物とは囚われであり、ハンドルを握って車を操縦する事が制御なのじゃ。
様々な囚われによって制御し難い心も、修行によって心を制して囚われを払えるのじゃ。
そうすれば制御もし易いのじゃ。
444
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/16(月) 21:10:29 ID:kaXJvxhM0
>>441
瞑想をするのじゃ。
数息観などをするとよかろう。
成功者の多くは瞑想の習慣があると言う。
世間で成功するにも有利なのじゃ。
やってみたらよいのじゃ。
>>442
そうじゃ、実践してみるのじゃ。
またおいでなさい。
445
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/16(月) 21:38:05 ID:hUDzEkKo0
鬼和尚
>>439
もお願いします。
446
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/16(月) 22:05:53 ID:ncKanP4g0
静寂とか色々書いてる割には鬼に対する依存心が強すぎだな。
447
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/17(火) 13:15:50 ID:9sUr3kKo0
>>443
鬼和尚さんありがとうございます。
何にも捕らわれないようにすれば、心を制御できる気がしたのですが、その二つには違いがあるのですね。
心を制御できるようになりたいのですが、数息観以外にも何か方法はありますか?
鬼和尚さんは、数息観で集中力がついてから観察をすると良いとおっしゃっていますが、
どのくらい集中力がついたかは、どうやって測ることができますか?
また、どのくらい集中力がつけば、観察に適する程になったと言えますか?
448
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/17(火) 19:38:58 ID:wPQXVTUw0
言葉やイメージを用いない観察について質問です。
苦しみがあって、目を閉じてその苦しみを観察しようとしてみても苦しみはどこにもなく、体の感覚しか観察できません。
言葉とイメージを使った観察でしたら記憶を辿ったり連想したりして苦しみの原因を探っていけるのですが…
やり方に問題があるのでしょうか?
449
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/17(火) 20:20:58 ID:kaXJvxhM0
>>445
見逃していたのじゃ。すまんのう。
>>439
感覚が乖離されたようじゃ。
外からの刺激に自動的に反応する事がなくなったのじゃ。
その静寂も更に深くなっていくじゃろう。
更に進むのじゃ。
>>447
自分の心を観察し、囚われを少なくすると良かろう。
囚われがあれば心は勝手に反応して制御が難しいのじゃ。
観察して囚われを無くすのじゃ。
時間を量ればよいのじゃ。
10分ぐらい一つの事をやれれば十分なのじゃ。
伝統的な教えでも第2禅までいければ観察して良いと言うのじゃ。
観察による心の反応は直ぐに現れる故に、10分ぐらいで十分なのじゃ。
450
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/17(火) 20:27:34 ID:kaXJvxhM0
>>448
それで良いのじゃ。
苦もまた肉体の反応として観察できるものであるからのう。
苦があれば腹が痛くなったり喉が詰まるような感じがしたりとさまざまな反応があるものじゃ。
それが観察できれば苦は観察できているのじゃ。
原因を探すのは言葉とイメージを使ってよいのじゃ。
言葉とイメージによる何らかの観念として囚われているのであるからのう。
451
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/17(火) 21:14:56 ID:hUDzEkKo0
>>449
ありがとうございました。
452
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/18(水) 15:19:58 ID:sXV.DIYU0
>>449
鬼和尚さんありがとうございます。
何に心が捕らわれてしまうかについて、その時どきで観察してみます。
それから、集中力は10分でいいということで意外にできそうなので安心しました。
今は5分くらいしか続きませんが、がんばってみます。
集中の次の、観察のやり方について質問なのですが、座りながら10分間集中して数を数えられるようになったら、次は同じように目を閉じて座って、自分の心を観察すればいいということでしょうか?
でも、そうやってただ座っているだけでは、心もぼーっとしているだけなので掴み所がない気がするのですが、何か観察のためのちがうやり方があるのでしょうか?
453
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/18(水) 16:36:53 ID:JXKkxHbE0
全てを空とか夢幻と観想することで、どうして(どのようなメカニズムで)悟りが得られるのですか?
454
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/18(水) 17:48:26 ID:gOqWUDAs0
鬼さん人間は自分の体に密着して生活している殻だ。少しは余裕を持つて
身体から離れて観る事も必要なのですか。そうすれば少しは情けない
自分も見つめられる鴨。でも自分を攻めない性格の人なら安心鴨責める人は
如何なんだろう?私は責めない性格なのでそれは良くわからないし関係無いし
責めないで温かく見守れば良い鴨
455
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/18(水) 20:27:04 ID:kaXJvxhM0
>>451
どういたしまして、またおいでなさい。
>>452
心に苦があるならばそれを観察すると良かろう。
原因を探し、原因から苦が起こることを観察するのじゃ。
そして原因がなければ苦も起きない事を観察するのじゃ。
そうすれば苦は消え、心の観察も上手くなってくるじゃろう。
>>453
簡単に言えば観念への囚われから解放されるからなのじゃ。
人は自分と言う観念から自分のもの、他人のもの、自他のものではないものとか、様々に観念を抱えているものじゃ。
その観念がある限り、己への囚われがあり、苦があり、悟る事は出来ないのじゃ。
それを我見とか有身見とか言ったりするのじゃ。
一切を空と見なせば我もなくなり、無我になり、無我を見る認識も去って真の悟りが得られるのじゃ。
>>454
そうじゃ、自分を客観的に観る事も必要なのじゃ。
否定も肯定もせずに観られれば大きな進歩があるじゃろう。
それこそが真の観察なのじゃ。
456
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/18(水) 23:44:45 ID:hUDzEkKo0
鬼和尚
坐っている間、爽快感を感じるようになりました。
脳内麻薬が出ているのかもしれません。
また、どうやらしばしの間何もしてなかったらしい、と気付きます。
457
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/19(木) 03:46:26 ID:pwM0EAio0
>>455
幻想と見做す、というのは方法かもしれませんが、本当に幻想だった、と目覚めないと
自我からは解放されないので思い込みになりますよね。
自我に同化して自我がゆるせないものがあったとき、自分も他人も世界も幻想なんだ、
と見做そうとして板挟みになり心身ともに追い詰められました。
実際には幻想だと見做せていないからです。むしろ自我は絶対に幻想だと見做せないし
許せない、これを最後まであらわにしたことで、シフトがあったように感じました。
チャクラとかクンダリニーとか幻想だとか言いますが、実際に霊的状況が移行していく過程
を経なければ、幻想だという境地になれないのも事実です。はじめから目覚めている人以外は。
458
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/19(木) 03:48:21 ID:pwM0EAio0
他の方の質問に横入りしてしまいました。
459
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/19(木) 07:10:21 ID:JXKkxHbE0
457さんの発言について鬼和尚さんに質問です。
”めげずに何度も空と観想することで効果が表れる”という趣旨のことを
鬼和尚さんのブログで読んだ気がしますが、実際はどうなんでしょう?
自我が空を観想しても観念の遊戯で終わってしまうのでしょうか?
460
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/19(木) 12:09:46 ID:7rD9T5220
鬼和尚、
実在と観念について、少し詳しくお教えください。
何か言葉で説明された時に、その言葉の指すものが、
実在なのか観念なのかを判断したいというのが、質問の意図です。
例えばリンゴは実在、社会は観念というように、言葉の
指す先のものが、五感によって認識できるものが実在であり、
言葉とイメージによって作り出されたものが観念であると
私は理解しています。
とすると法は、人が実践すべき方法と、正しく実践できた
場合に認識可能な結果が組になっているものと理解しているのですが、
これは、実在と観念のどちらでしょうか?
あるいは別のものでしょうか?
461
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/19(木) 12:41:52 ID:q6nZMvw60
>>455
鬼和尚さん何度も質問に答えてくださってありがとうございます。
また質問させてください。すみません。
まだ観察のやり方が曖昧にしかわからないので教えてください。
観察する場合も、数息観をする時のように、毎日10分くらい時間をとって、目を閉じて座って、苦を観察すれば良いですか?
そのとき苦を感じていない場合は、何を手がかりにしたらいいでしょうか?
それから、昨日、苦を観察してみたのですが、体が苦しいことを見るだけで精一杯で、その原因がなかったことを想像するのはとてもできませんでした。
想像しようとしても、原因がなかった場合の心の状態をうまく実感できません。
どうしたら良いと思われますか?
462
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/19(木) 20:22:52 ID:kaXJvxhM0
>>456
快が生じてきたようじゃ。
瞑想の味わいを楽しんだら良いのじゃ。
世間を越えた喜びが感じられるじゃろう。
>>457
幻想の思い込みで良いのじゃ。
それは観念を破壊する観念なのじゃ。
真摯に行えば結果は出るものじゃ。
途中で恐れを生じて逃避すると却って苦しいのじゃ。
自我を放棄するまで行うが良いのじゃ。
>>459
何度も行えば確実に効果は出るのじゃ。
むしろ途中で自分がなくなるとか、それで狂気に陥るとか思って止めてしまう者が多いのじゃ。
効果がなかったとか言うのは大抵はそのような逃避が原因なのじゃ。
本当に効果を知りたければ自ら試してみる以外にないのじゃ。
463
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/19(木) 20:40:16 ID:kaXJvxhM0
>>460
法とその結果は別といえるのじゃ。
法とは観念を破壊するための観念なのじゃ。
それ故に筏の喩えには法もまた彼岸に達すれば捨て去られるべきものとして説かれるのじゃ。
法によって得た苦の滅や彼岸は感じられるものであるから実在といえるのじゃ。
>>461
修行として時間を取ってやるのも良いのじゃ。
日常でも常に観察しても良いのじゃ。
苦を感じていなければその時感じていることを観察すれば良いのじゃ。
瞑想によって起こる快などを観察するのも伝統的な観察法として在るのじゃ。
観察を続けていれば苦は減っていくのじゃ。
苦を詳細に観察するだけでも半分はなくなっているのじゃ。
やがて原因が無い事もよく観察出来るように成るじゃろう。
全ての法は修行者が何度も繰り返し、自分だけのやり方を編み出していく事で身に付いて行くものじゃ。
464
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/19(木) 20:40:42 ID:hUDzEkKo0
>>462
ありがとうございました。
465
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/20(金) 12:50:46 ID:TgfwljSE0
>>463
鬼和尚さん長々とありがとうございました。
観察の方法などについて、今までわからなかったことがいろいろとわかりました。
早速実践していこうと思います。
まだ数息観をやっているところなのですが、道筋が見えてきたのでやる気が出てきました。
ありがとうございました。
466
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/20(金) 13:07:58 ID:Elpwrbn.0
>>463
ありがとうございます。
法は観念、法を実践して得られる結果は実在ということですね。
自我と認識を滅するということは、イメージと言葉と、記憶に
依存した認識を捨てるということで、それゆえ、法も神も、鬼和尚も
家族も友人も捨てることになるという理解でよろしいでしょうか?
とすると、悟りを得た後に記憶に依存した認識を創り上げる
ことで、もし必要があれば、捨てたものを再び拾うことも
できるように思いますが、この理解は正しいですか?
もっとも、後で拾えるということが囚われになって悟りを得られなければ
本末転倒ですが。
467
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/20(金) 20:08:54 ID:kaXJvxhM0
>>464
どういたしまして、またおいでなさい。
>>465
良かったのじゃ。
またおいでなさい。
>>466
そうじゃ、全て捨てるのじゃ。
法をも捨てるべきものであるから、法以外の全ても捨て去られるべきものなのじゃ。
拾う事は出来るじゃろう。
しかし恐らく大抵の目覚めたものと同じように拾おうと思う事もないじゃろう。
全てが幻想である性質に気付いてしまうからのう。
468
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/21(土) 09:20:04 ID:4Pp0TD2o0
>>467
ありがとうございます。
自我を消す恐怖はまだありますが、悟りを得る楽しみは増しました。
止観で悟りを得る場合に、最後に捨てるべきものが法だと理解したのですが、
それで、二つお聞きしたいことがあります。
法は、いつ捨てるのでしょうか? 自我が厭離された後、阿頼耶識を厭離する前ですか?
法を含むすべてを捨てた後で、悟りを得るのに向かう力は何でしょうか? 習慣ですか?
469
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/21(土) 20:52:40 ID:kaXJvxhM0
>>468
最後なのじゃ。
阿頼耶識をも法によって厭離した後、法をも捨てるのじゃ。
そこにはもはや法を行うものも法も無いのであるがのう。
法を捨てればもはやそこが悟りの境地なのじゃ。
無為に座っていれば自然に智慧や不死の境地が開かれるのじゃ。
それ以上に行く所はなく、行く者もなく、行くという事もないから力もないのじゃ。
無上にして究極の悟りがそこにはあるのじゃ。
470
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/21(土) 22:44:04 ID:7rD9T5220
>>469
ありがとうございます。
法を捨てるのは本当に最後なのですね。
阿頼耶識を厭離すれば、法は自然に捨てられるのでしょうか?
もう一つお聞きしたいことがございます。
今日、自分にとっては大きめの苦を一つ滅することができたのですが、
苦が大きいほど、それを滅する時にかかるストレスも大きい
ように思いました。まず、自我の逃避により他人に投影していた苦しみに
向き合うのにストレスがかかりました。さらに、執着ありの観想は
その執着から起こる苦しみに同化しやすく、執着なしの観想が難しかったため、
それらを何度も繰り返す羽目になりました。
厭離ができて心が平安になっても、ストレスによる胃の痛みは
うっすらと残っています。
そこで、苦滅の法の実践は、「今日はちょっと外出するのが面倒だ」
のような、軽めの苦から始めるのが楽な上に、効果も簡単に確認できて
良いのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか?
471
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/22(日) 19:20:05 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚
「別に死んでも良い」と口ずさむと、死の恐怖が薄れ、逃避行動もかなり弱まります。
死んでも全然いいんだと思うと、何かやり遂げねばという強迫観念がなくなります。
言語を使用して言語の束縛を断ち切る格好になりますが、この方法(あるいは方向)で究極の悟りまで到達できますか?
ある意味では「死んでも良い」という観念の作用が残り続けているとも言えなくもないですが。
472
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/22(日) 19:54:12 ID:NpBkhqbI0
「死んでも良い」と唱えると、ものすごい安心感に包まれます。
消滅の肯定により一切の執着が消えるからかもしれません。
古事記の時代から、国家は物語として死の恐怖を植え付けることで、国家の構成員を支配してきたともいえるわけですが
「死んでも良い」だと、古事記以来の日本の集合的無意識をも解体してしまう訳です。
死の恐怖からあらゆる差別や逃避行動が生まれてきたとすると、死を肯定的にとらえるならば、それらは消えてしまうことになりますし、
死を肯定することによってあらゆる恐怖心が和らぐ事か観察できます。
我が国の武士も「死ぬことと見つけたり」などと言っていますが、死を肯定すると、なぜか恐怖心が和らいで、戦場の駆け引きなども、かえってうまくいくということを
経験的に知っていたのかもしれないと思います。もっとも、後代に入ると「葉隠れ武士道」なども単なる観念による支配のテキストに変貌している訳ですが
真意は、もっと素朴に、あれ?死を肯定すると悲惨な戦場でも意外に楽に生きれるぞという経験則から生まれた発見だったのかもしれないと思います。
473
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/22(日) 20:00:20 ID:kaXJvxhM0
>>470
自然といえば自然なのじゃ。
一応法がもはや不要であると知るべきであるがのう。
為すべき何ものもない知ればもはや法も行う事は出来ないのじゃ。
そうじゃ、最初は小さな苦から消すのが良かろう。
しかし、人によっては早く滅しなければ命に関わるような苦や、一刻も早く滅したいという苦もあるからそれも考えなければ行かんのじゃ。
474
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/23(月) 19:59:36 ID:7rD9T5220
>>473
ありがとうございます。
鬼和尚は、2chで教えはじめてから数年経っていると
思いますが、衆生を理解しするのに特に難しいのはどのような
ところでしょうか? もし差し支えなければ、お教えください。
475
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/23(月) 20:42:16 ID:kaXJvxhM0
>>471
>>472
昨日は見逃していたのじゃ。すまんのう。
そのように言えば死に対する過剰な恐怖は緩和されるじゃろう。
元々死という観念はあまりに大きく恐怖を掻きたてるものであるから、そのようにして恐怖を緩和するのも良いじゃろう。
しかし、それも観念を作る故に悟りへは行けないのじゃ。
ただ死の恐怖を緩和するだけなのじゃ。
止観の瞑想を真摯に行えば悟りも近付いてくるのじゃ。
>>474
心を理解する事じゃ。
既に一切の苦が無い目覚めた者には人の心は理解し難いのじゃ。
お釈迦様も衆生の教化には苦労していたのじゃ。
衆生の心は目覚めた者にも不可思議と言えるのじゃ。
476
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/24(火) 00:06:53 ID:hUDzEkKo0
鬼和尚
瞑想中に、おそらくこうだろう、と気付いたことがあります。
一つは、爽快感に浸りながらも時々ブラックアウト、つまり意識を失ってしまいそうになることがあるのですが、それに対する怖れがあったということです。
二度と戻ってこれないかもしれない、という怖れです。
それに気付いた瞬間から、気のせいかもしれませんし、言葉でうまく表現できないのですが、瞑想中の感覚がこれまでとは異なるもの(どちらかというと好ましいもの)になった気がしました。
怖れはなくなったかもしれません。
もう一つは、断片的な記憶の再生が何度も繰り返して行われるのは、そこに「我」というものを投射しようとしているからではないか、ということです。
瞑想中は外部からの刺激が極端に少なくなりますので、記憶を再生することによって、投射する対象を作り上げようとしているように見えました。
私が普段音楽を聴いたり、ネットで動画を見たりすることも、これと同じことのように思えます。
477
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/24(火) 01:18:40 ID:XpOqqj3k0
鬼和尚が「自我」と言ってるのは、一般的に宗教でいう自我が「これが自我だ」と思う対象であり、思考であるに過ぎない。
自我が「これが自我」だと思ったものが消えれば、「自我が消えた、悟った」と感じるが、それを感じてるのが自我だ。
鬼和尚はまだ自我を知らない。
彼は自我が作ったものが現れ、そして消えるということに翻弄されてるに過ぎない。
宗教的な修行をきちっとすれば何らかの体験は起きる。
が、いかなる体験も自我が引き起こすものに過ぎない。
彼の共感の薄さ、怒り、負けず嫌いの幼児性。何一つ変わってない、もしくは平凡以下の人間のものだ。
そういう人間でも修行すれば、宗教的体験だけはできる。
これだから体験は危険だ。
>>455
何らかの原因を観察するのじゃ、というが、原因などない。
怒りは怒ってることそのものだ。そのものに覚め、脱出するだけのこと。
怒りは対象ではなく、主体である自分自身。ただ覚めることで脱出する他ない。
もし、それに原因があるとすれば、その怒り(自分)が何か理由をでっち上げて、これが怒りの理由だったのだと納得しているに過ぎない。
その納得するのはだれか、怒り(自分)である。
怒りを理解して超越する体験ができる。
が、怒りは何も変わってない。
その人の人格も生活も何も変わらない。同じ反応が続く。
鬼和尚のやってることは、自我が問題や、悟りなどの体験を作って、そしてそれを捨てたり、
無、空の観念でそれを抑圧することである。
悟りの観念を作ってから、自我の観念を作ってから、それがなくなったという体験(観念つくり)をする。
>>462
≫それは観念を破壊する観念なのじゃ。
それは観念の上書きであり、自我が余計強まる。
自我という幻想を破壊した自我の誕生です。
>>457
自我が幻想だ、というのは一つの可能性であり挑戦なのだと思います。
自我、、今の自分にとっての主客の関係が幻想だという先人がいて、そしてそれをあなた自身で見出しなさいという。
ただ覚めていなさいと彼らは言います。
自我が幻想だということは、まさに私が幻想だということです。
自我が幻想だというのは、私が自我だと思うものを幻想だとみなすことではなく、私が幻想であるということです。
祖師たちは、私が幻想であると、あなたが幻想であると言ってるのではないでしょうか。
その時、私に何ができるでしょう。
何もできないのだと思います。
何もできない絶対の無力を理解して明け渡すのだと、そういってるように思いませんか?
478
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/24(火) 08:30:45 ID:ncKanP4g0
妄想で他人に絡んで、自分の指摘が間違っているという事実が分かった後にも
つまらない質問だとか国語がおかしいとか、さんざん他人のせいにした人が
もう何を言っても滑稽なだけ。
いい加減その事に気づきなさいよ。
479
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/24(火) 12:23:14 ID:pEe1v5Oo0
>>475
ありがとうございます。
悟りを得ていなくとも、人の心を理解するのは難しいと
感じていますが、悟りを得ると、さらに難しくなるという
ことなのでしょうか。それは、仮設した自我で感じる苦は
意味がないと分かってしまっているからですか?
もう一つ、集中の瞑想でお聞きしたいことがあります。
瞑想中に自我が消えかける状態を何回か経験しているのですが、
その先に進めるのにアドバイスがありましたら、お教えください。
以前、自我を行くままにすれば良いと教わったのですが、
それが難しいです。自我が行くままにすることを意識しないように、
呼吸に注意を向け、その注意の意志力を、集中と意識が保てるギリギリ
まで下げていきます。しかし、自我の感覚の薄れに応じて、注意へ
の意志力をコントロールしようとするときに、コントロールする
意志に自我が投射してしまうようで、そこで覚醒度(?)が上がって
しまいます。
自我が消える恐れに関しては、肩の力が抜けていることからも、
最近はだいぶ少なくなっているようです。意識を保ったまま
寝るような感じに近いのかなと思っています。
480
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/24(火) 20:12:21 ID:kaXJvxhM0
>>476
気付きによって恐れがなくなったのじゃな。
良い事じゃ。
そうじゃ、感覚の刺激は自我の栄養なのじゃ。
それが在る限り、自我は投射され、認識されるのじゃ。
瞑想が深くなれば、やがて内外の刺激が認識されなくなり、無念無想の状態になるのじゃ。
その時、自我も忘れる瞬間がやってくるのじゃ。
>>479
そうじゃ、自分の観念で自分を縛って苦しんでいると見えるからのう。
自らを観念に因って縛らなければ苦も無いのじゃ。
そのまま進めたらよいのじゃ。
いつかその全てを観ている意識に気付くじゃろう。
行うものと行いの対象を両方とも観ている微妙な意識があるのじゃ。
それに気づけば無我でも意識はあることを知るのじゃ。
481
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/24(火) 21:59:18 ID:hUDzEkKo0
>>480
ありがとうございました。
482
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/25(水) 12:28:14 ID:YWqLYYqo0
>>480
>>479
その後試しに集中の瞑想中、心のコントロールをやめてみたのですが、
意識が混濁して、夢を見ている状態になってしまいました。
サマーディまではもうしばらくかかるようです。
方向性は間違っていないようなので、このまま止の行に励みます。
ありがとうございました。
483
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/25(水) 12:44:29 ID:YWqLYYqo0
鬼和尚、厭離についてお聞きしたいことがあります。
もし厭離に成功したならば、その対象の苦は
二度と再び生じないのでしょうか?
先日瞑想中に、ある苦を厭離したのですが、今日は別の刺激により、
同じ苦がわずかに生じるのを観察しました。
これが、苦滅が不十分であったためなのか、習慣により
苦が復活することがあるのか、それとも別の理由なのか
を知りたいです。
484
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/25(水) 18:50:59 ID:PuQP.nxc0
http://www.youtube.com/watch?v=iuCClgCRJek
↑はパパジの動画です。
ここでパパジの言っているマインドの観察は
鬼和尚の提唱している観察と同じものですか?
485
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/25(水) 19:05:22 ID:PuQP.nxc0
それと、この動画で言われていることをしたら悟りは得られますか??
486
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/25(水) 20:17:24 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚が人生相談板に来なくなったのは何か理由がありますか?
487
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/25(水) 20:41:38 ID:kaXJvxhM0
>>481
どういたしまして、またおいでなさい。
>>482
そうじゃ、日々精進すれば行き難き境地にも行けるようになるのじゃ。
そのまま真っ直ぐに進むのじゃ。
>>483
苦を完全に厭離すれば二度と生じないのじゃ。
もし起きたとすれば、未だ観察による厭離が完全ではなかったか、或いは複数の原因があったからかもしれん。
心にその苦に対する逃避があり、観ないように避けていたとしたら観察が不完全になることも在るのじゃ。
その場合は逃避が生じているという事も合わせて観察しなければいかんのじゃ。
苦の原因が複数であることも自らの心を観察し追求してみれば判るのじゃ。
例えば愛する者と別れる愛別離苦でも、喪失感や孤独感によるものと、自分のプライドが傷ついたからという原因があったりするじゃろう。
そのように複数の原因があるならばその原因も観察すべきなのじゃ。
488
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/25(水) 20:45:52 ID:kaXJvxhM0
>>484
そうじゃ、同じなのじゃ。
観察によって自我は厭離されるのじゃ。
パパジも観察を教えているのじゃな。
>>485
本当に自我が観察されたならば悟りは得られるじゃろう。
しかし無我だけでは未だ小悟なのじゃ。
更に認識をも厭離すれば真の悟りなのじゃ。
無我にまで行けば容易なのじゃ。
489
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/26(木) 09:52:40 ID:pwM0EAio0
>>477
そうですね、何もできない絶対の無力を理解して明け渡すところまで行くのに、自我がもがき抵抗する
ので凄く苦しいのですが、それが自我を明るみに出すこと=自我の死の過程として感じられるのでしょうか。
自我側からするとですが。
490
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/26(木) 10:28:23 ID:PuQP.nxc0
>>488
・鬼和尚は前にパパジは大悟、ガンガジは小悟と評してましたが、
パパジのいう悟りは無我のことを指してるので完全ではないってことですか?大悟した人も間違えるのでしょうか?
・パパジはガンガジを悟ったと認めて「教えを広めなさい」といったそうですが、大悟した人が小悟の人を認めることもあるのでしょうか?
・ガンガジやエックハルト・トールも「静寂があなただ」って言うけど、その教えじゃ無我までしかいけないですよね?
・常時無我の状態にあれば、悟りの何合目くらいまで到達したことになりますか?
・無我の段階で止まってる人が無認識までいくには、認識を観察して厭離できればいいんですよね?
鬼和尚も「無我まで行けば容易なのじゃ」って言うけど、何で無我の段階で止まってるんでしょう?
ほんとうに容易なことなら、もっと大悟の人がいっぱい出てきてもよさそうな気がするんですが。
491
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/26(木) 12:49:27 ID:wH0JIS760
>>487
ありがとうございます。
>>482
真っ直ぐに進もうとしたところ、早速、魔境と思われるものが現れました。
瞑想中に脇腹に少し、痛みの感覚が観察されました。ずっと観察していると、
その痛みは胸、肩と移動を続け、最後にはほぼ消えました。
また、寝ながら数息観を行なっていたところ、明晰夢と思われる現象を体験しました。
視覚と聴覚は現実のまま、あるいはそれよりもリアルな感覚でしたが、手の触覚は感じられませんでした。
夢の中では自由に動くことができ、また、望みのものを出現させることができました。
これらは瞑想が深まってきたことによる幻覚で、今後は雑念と同様にスルーしようと思うのですが、
ひとつ気になることがあります。
それは、痛みの感覚に関して、幻覚と本当の体調不良をどのように見分けたら良いのかということです。
とりあえず、瞑想後に痛みが観察されないので、今のところ「まあいいか」と考えていますが、
このような感じで良いでしょうか?
492
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/26(木) 16:31:54 ID:JaPsh.Zo0
>>487
>>483
確認してみました。
苦の第一原因である対象への執着は既に厭離されており、観想により
苦は生じませんでした。
そして鬼和尚が書かれていたとおり、もう一つ苦の原因がありました。
それは、記憶への執着でした。苦を含む経験だったにも関わらず、
その経験の記憶が自我を作り上げているということで、
苦の原因として見つかるのを避けていたようです。
それにしても、特に自我と深く関わる苦滅はストレスがかかります。
苦を滅した後の静かで安らいだ感覚を思い出しつつ、
一歩一歩進もうと思います。
ありがとうございました。
493
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/26(木) 16:40:25 ID:/knVzz8A0
「厭離」って何と読むのですか?
494
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/26(木) 19:55:20 ID:kaXJvxhM0
>>486
来ているのじゃ。
相談がないと書かないのじゃ。
>>490
知らないのかも知れん。
小悟、大悟とは禅の区分であるからのう。
そこまで研究が進んだ体系がないと判らんのかも知れん。
お釈迦様も間違えたのじゃ。悟後の修行が少なければ知らない事もあるじゃろう。
サマーディにまで到達したのならば、それを人に広める意味はあるじゃろう。
今は多くの者が悟りもサマーディも知らないのであるからのう。
何かをあなたとか自分とか名付けてしまうのならば、修行中に見た幻想を静寂や自分と思って途中で止めてしまうかもしれん。
一切が無としてのみ現される境地にまで行かなければいかんのじゃ。
八合目位じゃろう。
そうじゃ、認識をも厭離するのじゃ。
知らないからじゃろう。
禅の師匠のように教えてくれる者がいれば判るがのう。
495
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/12/26(木) 20:06:31 ID:kaXJvxhM0
>>491
それで良いのじゃ。
更に体が消えたような感覚が起こるとか、いろいろ奇妙な感じが起こるがみんなスルーしてよいのじゃ。
本当に体に痛みがあるならば、その原因となる疾患が消えなければ無くならないじゃろう。
直ぐに消えるならば幻想なのじゃ。
>>492
良かったのじゃ。
またおいでなさい。
>>493
えんりとか、おんりと読むのじゃ。
どっちでも良いのじゃ。両方ともちゃんと変換されるのじゃ。
厭い離れる事なのじゃ。
496
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2013/12/26(木) 22:40:50 ID:iWSGFj9s0
鬼和尚
普段リラックスしている時があります。
しかしその状態は、自我が無いからリラックスしているというわけではなくて、リラックスしている状態を自我が作り出し、リラックスしているという自覚をわざわざ自分に持たせているのであろう、と見えました。
何かによってリラックスした状態が破られると、そのことに対する怒りや憤慨などが沸くのは、自我が生きているからでしょう。
瞑想による静寂と似ているようでありながら、実は全く性質の異なるものであるように見えます。
497
:
素人A
:2013/12/27(金) 07:19:08 ID:gOqWUDAs0
鬼さん何で難で何で。神というか真実を知る宇宙人が夢中になっている物理学者
たちに自慢げに真実の物理公式を教えないのだろうか?損な公式なんて物理学者
は人に教えて貰ったら発見にならないし将棋でこっそりコンピューターの考えた
手を指してそれが自分の手と言えるのか?解らない事はわが手で解ってから感動
も有る師.教えてもらつてもわが未知とは言えないし手結局何もわからないまま
この世海栗有る苦のも正解いや世界なのですか。
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