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鬼和尚に聞いてみるスレ part2
395
:
避難民のマジレスさん
:2013/12/11(水) 02:16:26 ID:58kVA0Ys0
鬼和尚さま
揚げ足を取るようですみません。
自我が無くなった時、その状態を見る認識が未だ存在していた故に、それが未だ小悟と呼ばれる段階と気付いたのじゃ。
そしてその認識さえも滅した時、もはや行く者は無く、行ける境地も無い無上にして究極の境地であると気付いたのじゃ。
とあったので、気付くものはあったということだと考えました。
気づくものは自我ではないというのは分かるような気はして、
というのも坐禅をしていていい集中ができている時は、
ただ起きているものを観ている状態になれることもあり、
現象(音とか、心の動き、とか呼吸に伴う身体の感覚とか)は
自我への結びつきの前に存在するものだとわかる気がするからです。
しかし、認識そのものを滅してしまうと、起こっている現象を位置付けることができず、
何も分からない状態になってしまわないか、と思いました。
認識を滅した後も、その状態に「気づい」て戻ってこようと思えば思えるようにしているものが何であるのかが気になりました。
鬼和尚の仰る「認識」の意味を分かっていないためかとも思います。
一般に、何者かがなにかを「認識」するというばあいには、情報の流れのいろんなレベルを区別していないと思います。
例えば目から入った情報が、感覚され、感情や名称、意味に加工され、
さらにそこからの連想といったふうに派生して行くどのレベルを指しているか明確にしていないように思います。
認識の成立する過程の最初を滅した、ということだったら、
感覚情報を受け取るという働きを厭離したということになりそうな気がしたのですが、
そんな事をしたら言葉通り植物人間になってしまいそうな気がします。
認識の成り立ちが観察され、それによって認識そのものも「起こるもの」として、
他の現象と同じように見えるようになった、というような感じでしょうか?
言葉で説明し難いことであるかもしれないですが、お願いします。
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