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鬼和尚に聞いてみるスレ【1】
905
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/03(木) 09:06:48 ID:WL2yRwjAO
対象を見ているもの(自我)は解釈しているものといっていいですかね
それは思考と記憶と言えると思いますが
思考はさておき記憶は膨大です
未来に生じる記憶もあります
これらを厭離すると言うのはかなり膨大な作業になりませんか
906
:
・:.,;*(ΦwΦ;)Ψ
:2013/10/03(木) 19:24:16 ID:Bwz0R3.60
瓦を磨いて鏡となす (かわらをみがいてかがみとなす)
『伝燈録』に記された 唐代の僧、南嶽懐譲(なんがくえじょう)と弟子の修行僧、馬祖道一(ばそどういつ)の問答。
昔々、熱心に坐禅する馬祖道一を見て、南嶽和尚が問いました。
南嶽和尚「ふむ、坐禅に熱心なようじゃの」
馬祖道一「はい」
南嶽和尚「何の為に坐禅してるんじゃ?」
馬祖道一「仏になる為です」
南嶽は、おもむろに落ちていた瓦のかけらを拾います。
馬祖道一「…?」
南嶽和尚は、何を思ったのか、いきなり砥石でせっせと瓦を磨き始めます。
ひたすら瓦を磨いている南嶽和尚。
馬祖道一が哀れみを感じ、近所のお医者様に連れて行こうか迷ったのかは定かではありません。
馬祖道一「え〜っと…南嶽和尚、何してるんですか?」
南嶽和尚「鏡をつくるんじゃ」
馬祖道一「ハァ?和尚、瓦をいくら磨いても鏡になるわけないじゃありませんか?」
南嶽和尚「では、おまえさんは坐禅をして仏になれるのかね?」
馬祖道一「………」 』
> 素質がなきゃ駄目ってか
本来、 あなたもわたしも 皆も 誰でも、 ほとけ。 その ほとけ様が ほとけに成ろうと坐禅する茶番。この事を叱咤する。
決してなじったり、揶揄してのものでは無い。云わば、老婆親切すぎる。老婆禅か。
さとりを外に求めるな、内に求めるな。すでに 坐禅しているおまえが ほとけである。法、ダルマ、真理さとり、である。と言う。
鏡とは。 瓦とは何か。 道(い)え! 道(い)え!
907
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/03(木) 20:08:26 ID:WL2yRwjAO
今は会社に居るときですら、心の中の鬼和尚に話かけて、アドバイスをもらったりしている私ですが、この鬼和尚は単なる幻覚ですか?
それともテレパシーとかで繋がってますか?
908
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/03(木) 20:24:16 ID:WL2yRwjAO
「過去を引きずらない方法」を教えてください。
909
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/03(木) 20:35:30 ID:kaXJvxhM0
>>900
悟りを目指す者には観念を捨てることを教えるのじゃ。
特に悟りを目指さず観念の世で安楽に生きたい者に善事をすすめるのじゃ。
人の志す所によって教えも違うのじゃ。
>>901
真理ではないのじゃ。
観念を払うために観念を教えているようなものじゃ。
盲人が盲人を率いているようなものじゃ。
>>902
>>903
人と付き合いたいと言う思いに、おぬしの孤独から逃れたいと言う思いがあるのじゃろう。
行けば孤独は薄くなるが、嫌なものもみなくてはならない。
その葛藤はおぬしの心の中にのみあるものじゃ。
それを観察すると良いのじゃ。
何度も観察すれば気づきが起こり、自然にするべきことが出来るようになるじゃろう。
>>904
あるじゃろう。
それでも他人の助けにはなるのであるからのう。
見返りを期待しなければ功徳が多いとか言われるがのう。
行う事が大事なのじゃ。
>>905
解釈しているものは自我ではなく認識なのじゃ。
その過程が観察できれば、一度でも同一化が滅するのじゃ。
自我もまた解釈され、見られているものと気付けば厭離されるのじゃ。
>>907
最初は幻想であるが、瞑想が深くなれば智慧の起こるきっかけになるものじゃ。
誰にも智慧はあるが自我によって歪んでいるのじゃ。
忘我になってイメージを起こせば智慧の発露にもなるじゃろう。
しかしそれもまた捨て去られるべきものなのじゃ。
910
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/03(木) 20:48:42 ID:kaXJvxhM0
>>908
過去の事を思い出すたびに何か別のイメージを思い描くのじゃ。
大金を稼いで女子にもてもてとかのう。
何度もすると本当になるかも知れんのじゃ。
911
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/03(木) 23:06:19 ID:jlIpQ.bc0
悟りの修行をすれば歌は上手くなりやすいですか?
912
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/03(木) 23:55:08 ID:k8hVDWuY0
>>909
>>900
について。
必ずしも悟りをめざさなくてもよい、ということでしょうか。
>>901
について。
ありがとうございました。
>>902
>>903
について。
「犀の角のように独り歩むこと」の実践が、職場の飲み会に関しては、どうすることなのだろうか、と考えています。
それとも関係ないのでしょうか。
観察を続けます。
913
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/04(金) 08:55:27 ID:WL2yRwjAO
今朝瞑想をしていてイメージ上の何か(何だったか忘れたが)が何であるかを解釈する過程が見えました。
夢を見ていたのかもしれませんが、ちょっとした体験でした。
解釈することから世界が発生していると言う印象がありました
こう言う瞑想を何度か繰り返すことで
目の前にある解釈された世界に対する執着が薄れてくるのだろうか
914
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/04(金) 09:04:21 ID:WL2yRwjAO
これは理屈だけど
世界が生み出される過程を何度も観察していれば
生み出された世界に対する執着が薄れて来ても不思議ではないよな。
奇術の種が解ったようなものと言うか
夢の中を生きている自覚が生じると思う。
915
:
素人A
:2013/10/04(金) 11:26:15 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さん我々凡人は無理に真理はわからない方が良いの鴨.現実が幻実だと
思うといい加減になりさあとつても一安心し楽してサボり真面目な努力も無く
遊んでしまう。やつぱり我々には現実感が無ければがんばらない。それは志の
低いから?如何したら志が高くなるのか解らない。この世の矛盾を仕様が無い
と見逃すし直視したらホンとは辛い事ばかりあるし.でも見ても自分は苦しむ
しまあ色々と難しい事は逃げるのが人間か?正解が無い世界だとか書き込みも
纏まらないので放り出すし
916
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/04(金) 19:32:59 ID:DgJcAPNs0
>>914
ここはお前の日記帳じゃないんだ、チラシの裏にでも書いてろ、な?
917
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/04(金) 20:07:22 ID:kaXJvxhM0
>>911
歌の練習をすれば歌は上手くなるじゃろう。
悟りの修行をすれば集中とか観察で助けにはなるじゃろう。
しかし、歌の練習をせずに修行していたら歌は下手になるじゃろう。
代わりにはならないのじゃ。
>>912
悟りを求めるか求めないかは自らの意志で決める事なのじゃ。
例え仏陀が千人いても一人の悟る気が無い者を悟らせることは出来ないのじゃ。
そしてまた無理に他人を悟らせるべきでも無いのじゃ。
全ての者は自らの自由な意志で悟りを目指すべきなのじゃ。
悟りを目指さない者にも福楽への道を示すのが仏陀の慈悲なのじゃ。
悟りを得るのならば飲み会は勿論酒を飲む事さえ禁じられるものじゃ。
瞑想を楽しむ事が出来れば一人も楽しいのじゃ。
>>913
>>914
そうじゃ、世界は一人一人の頭の中で解釈されて出来ているものじゃ。
それ故に現世は夢と教えられるのじゃ。
正しい気付きなのじゃ。
>>915
現実は幻想と言えるがやはり老病死の苦は依然として感じられるじゃろう。
いくら現実は夢幻と言っても風邪を引いただけでも苦しいじゃろう。
老死が迫れば更に苦が多いじゃろう。
そのような苦の全てを滅するために精進しなければいかんのじゃ。
918
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/04(金) 20:42:35 ID:k8hVDWuY0
>>917
わかりました。
ありがとうございました。
919
:
911
:2013/10/04(金) 21:31:13 ID:jlIpQ.bc0
>>917
ありがとうございます。
悟りの修行をし集中力や観察力を身に付ければ、歌の上達に関しても役に立つかもしれないということですね。
歌と修行を両方やっていこうと思います。
920
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/05(土) 00:05:38 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん
現世は夢であっても、体はここにあります。
覚めてしまえば体を養うためだけに動くようなものでしょうか。
体は様々な形で縁を結びます。
食べるものや着る物との縁、それを得るための縁など、どのような結果も受け入れるから影響されないのと同じといえるのでしょうか。
結果に囚われなければ苦しみも苦ではなくなる、ということでしょうか。
921
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/05(土) 00:34:22 ID:rjrCqQY20
× 苦しみも苦ではなくなる
○ 苦しむことも苦ではなくなる、でした。
922
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/05(土) 00:42:12 ID:rjrCqQY20
だからといって無用な苦しみを受け入れる必要はないとは思いますが…。
923
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/05(土) 20:34:42 ID:kaXJvxhM0
>>918
どういたしまして、またおいでなさい。
>>919
そうじゃ、実践が全てじゃ。
またおいでなさい。
>>920
そうじゃ、心に何か囚われや執着があれば苦になるのじゃ。
囚われなければ現世の何物も苦にはならないのじゃ。
肉体に囚われれば肉体的な痛みや空腹が苦になり、感情に囚われれば怒りや悲しみが苦になるものじゃ。
それらの囚われや執着が無ければ苦もまた起こらないのじゃ。
924
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/05(土) 21:09:33 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん
いつも心に染み入る言葉を頂いてありがとうございます。
まだまだ修行が足りませんが、己の本心をじっくりと見据えながら進んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
925
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/05(土) 22:32:36 ID:k8hVDWuY0
普段の自分の思考を例えると、激しく燃え上がるキャンプファイヤーのようなものです。
しかし、少し集中すると、思考が急激に小さくなり、ろうそくの炎のようにチラチラと揺れ、風前の灯火のように見えることがあります。
926
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 07:40:31 ID:rjrCqQY20
瞑想しているときは、時が止まったかのように安らかですが、直ぐに現世に引き戻されてしまいます。
覚めていない者は一日中集中しないとすぐに思考の大海原に投げ出されてしまいます…。
927
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 09:29:15 ID:WL2yRwjAO
現世は夢だとしても悪夢だと苦痛だな
四十歳までに悟りを開いて入滅しようと思う。
現世に生きるのは苦し過ぎる。
928
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 09:33:42 ID:ky5RygE.0
善いことをしようと思っても能力が無いと裏目に出てしまったりする
福楽の道も楽には通れない。
929
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 09:38:48 ID:WL2yRwjAO
現世は夢と達観していた織田信長も裏切られて死ぬ前は、最悪!と思ったのだろうか
武田信玄に追い詰められた時もイライラしまくっていただろう。
いくら夢だとしても嫌な夢は嫌なんよな
死ぬか悟るかしか解放は無いのかもしれないな
もっとも死ぬくらいなら人に何を言われようが引き込もって悟るわ
930
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 10:58:50 ID:rjrCqQY20
己の本心に沿って進む、それぞれがそれぞれに
たとえ悟り人といえども、それぞれに…、でしょうか。
931
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 14:30:58 ID:zaNLDGCc0
質問が2つあります
1
我を絶ち、囚われや執着を滅したなら、なぜ生きているのですか?
生への執着を断った後も生きているのは矛盾だと思います。
わざわざ自殺することもない、それも執着じゃ、とおっしゃるかもしれませんが、
本当に執着を断ったのなら、どっちでもいいはずだから、半々くらいにはなる
はずじゃないですかね。どうして悟った後に自殺する人がほとんどいないのでしょう。
2
鬼和尚はしきりに数息観を薦めているようですが、なぜ経典には数息観がないのですか?
大乗経典は知りませんが、少なくとも原始経典には見当たりませんね。
ブッダは呼吸の回数なんぞを数えろなどと言っていませんが、なぜ鬼和尚は数息観を薦めているのですか?
呼吸の回数なんか数えても何の意味もないと思います。意味があるなら、ブッダも勧めたはずでしょう。
932
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 14:48:44 ID:rv7HtzzQ0
>>923
それに直面するのが仏教の入り口だが、普通の人はその混沌に直面できないので、
完全に世間での役割と同化したり、鬼和尚のように完全に宗教的観念、知識と同化したりして、徹底的に逃避する。
この混沌から全き逃避した人格の殻がこの世界の人間の姿だ。
それを理解すればこの世の人々の迷走にも理解が生まれる。
そういった人格の殻はただ破ればいいというものではない。
準備が出来てないうちに破ると、このややこしい世間での生活はほとんど不可能になる。
933
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 16:29:31 ID:rv7HtzzQ0
思考は、同じ夢を見続けていたいと願うが、思考は執着であるがゆえに、外界に反応する。
外界は生と死、昼と夜、誕生と消滅、それを繰り返す。ひとところに留まらない。
それゆえに、外界への欲望は、外界が変化するゆえに、必ず外界への恐怖に変わる。
欲望,快楽と恐怖苦痛は全く同じものかもしれない。
全く同じものが外界に対して異なる反応をしているのかもしれない。
空想も、その大元は外界への執着からくる。
空想というのは肉体や世間の執着を組み替えて独自の時間軸で投影するものに過ぎない。
外界が変化すれば思考はそれに反応して空想どころではなくなる。
934
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 17:28:01 ID:WL2yRwjAO
さすがに今日は死ぬかと思った。
しかし鬼和尚のアドバイスを支えに何とか乗りきった。
ありがとうございました。
ひとまず世間的にもそこそこ成功し、なおかつ悟りも深めていくと言う中道の道を行こうと思います。
本当にありがとうございます。
935
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 17:34:14 ID:WL2yRwjAO
しかし、死ぬかと思うまで追い詰められている自己とは一体何なのか
何故、それに自我を投射してしまうのか
それはある時点では望ましい自我に思われたのだが
今の時点では苦しか生まない。
しかし新しい自我が生じないうちは古い自我にすがるしかないので苦しかったのだが
勿論、新しい自我も固着すれば現実とずれてきて苦が生じるが
その都度その都度、新しい自我を作る戦略を取るべきなのか
それとも徹頭徹尾無我に徹するべきなのでしょうか
936
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 17:38:09 ID:WL2yRwjAO
その都度その都度、場に応じた自我を選択できるとしたら、特定の自我への執着がない、無我だからこそ出来るとも言える。
つまり悟りを深めて行くことと世渡りは必ずしも矛盾しないのではないかなと言う気もする。
937
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 19:48:36 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚は入滅したくなることはありますか?
ちなみに入滅(自殺ではない)は悪いことではないですよね?
938
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/06(日) 20:14:43 ID:kaXJvxhM0
>>924
どういたしまして、またおいでなさい。
>>931
例えば世の中には電車が好きで執着し何度も乗ったりする者も居る。
その者がもはや電車に執着しないからと言って二度と電車に乗らないわけではない。
目的があり、目的地に行くためには執着が無くとも電車に乗るじゃろう。
同じように悟った者も慈悲の故に悟った後に執着が無くともこの世に居続けるのじゃ。
衆生を教え導くと言う目的のために、肉体と言う乗り物に乗り続けるのじゃ。
② おぬしも修行しているならば座る時は畳や絨毯の上に座り、座布団などを用いる事もあるじゃろう。
お釈迦様は畳や絨毯を使えとも使うなとも言っておらんが、岩や土の上に座るより便利であるから使うじゃろう。
そのように残っている経典には数息観は記されていないが、初心者には便利であるから使うのじゃ。
呼吸を意識し集中する技はヨーガには数息観や呼吸の音に集中する法として残されておる。
呼吸への集中を教えるならば、本来はそこから教えるべきであるが、初期経典には残されておらん故に補うのじゃ。
元々ヨーガの技は初期経典にも多く記されておるが、文章が何やら壊れているから、広く学びヨーガの法からも教えを推測しなければならんのじゃ。
お釈迦様の語った事だけが正しいとか、残った経典に載っている事だけが正しいと思うのが囚われなのじゃ。
939
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 20:19:02 ID:WL2yRwjAO
今日は凄く絶望して苦しんだ後、発展がありました。
一部にしろ自我が死んだから苦しかったのでしょうか
出来ればこのような苦しみは二度と味わいたくないところですが
苦しまず悟れる方法はあるのでしょうか
940
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/06(日) 20:39:54 ID:kaXJvxhM0
>>934
良かったのじゃ。
>>935
無我になったら良かろう。
無になれば苦も無いのじゃ。
仕事も上手く行くじゃろう。
>>937
目覚めた者は常に入滅の誘惑と戦っているのじゃ。
お釈迦様も言っているのじゃ。
寂滅以楽なのじゃ。
行き先がわかっているなら悪ではないのじゃ。
941
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 22:16:02 ID:zaNLDGCc0
>>938
> その者がもはや電車に執着しないからと言って二度と電車に乗らないわけではない。
いや必要無ければ二度と乗らない人もいるでしょう。
> 同じように悟った者も慈悲の故に悟った後に執着が無くともこの世に居続けるのじゃ。
そういう人もいるでしょう。しかし同じくらいは生きるのを止める人がいないとおかしいですね。
悟った人のほぼ全員が何だかんだ言い訳しながら生き続けてるなら、「口で偉そうな
こと言ってても結局死にたくないんだなw」と思われて当然でしょうねw
> ② おぬしも修行しているならば座る時は畳や絨毯の上に座り、座布団などを用いる事もあるじゃろう。
座布団なんか使いません。絨毯や座布団に座って修行とは片腹痛い。板の間に直に座ります。
> そのように残っている経典には数息観は記されていないが、初心者には便利であるから使うのじゃ。
意味不明。私の問は、「初心者には便利」ならばなぜ数息観が経典に記されていないかということです。
経典には初心者向けの教えも在家向けの教えもたくさんありますよ。
数息観が記されてない理由は、「お釈迦様は数息観を説かなかったから」「数息観は役に立たないから」
ですよ。呼吸の数なんか数えて役に立つはずがありません。
> 呼吸を意識し集中する技はヨーガには数息観や呼吸の音に集中する法として残されておる。
ヨーガの話なんか聞いてませんが。まあヨーガでも、数を数えるのに集中すると呼吸への集中には
なりませんが。別の集中です。
> 呼吸への集中を教えるならば、本来はそこから教えるべきであるが、初期経典には残されておらん故に補うのじゃ。
> 元々ヨーガの技は初期経典にも多く記されておるが、文章が何やら壊れているから、広く学びヨーガの法からも教えを推測しなければならんのじゃ。
なるほど。あなたはインド哲学の方から入っちゃったんですね。それで混乱し、支離滅裂なことを説いてるわけだ。
確かに当時のインドでは常識のベースとしてそういうものもありましたが、お釈迦様の教えとは関係ありませんよ。
「20世紀までの日本ではスポーツ選手の基礎訓練でうさぎ跳びをしていたので、うさぎ跳びは正しい訓練法だ」
と主張するのと同様な過ちです。
> お釈迦様の語った事だけが正しいとか、残った経典に載っている事だけが正しいと思うのが囚われなのじゃ。
お釈迦様が語った事かどうかも大事なことですよ。お釈迦様の教えと違うなら違うでも結構ですが、「私の悟りはお釈迦様の悟りとは違います」
と明言しないと、人は混乱するでしょう。鬼和尚が説いている悟りはお釈迦様の悟りのことだと誤解している人が
多いようですし、私もそう誤解していましたから。
しかしそもそも「お釈迦様が語った事かどうか」以前に、うさぎ跳びのように間違った修行法に囚われること自体が
大間違いですが。
数息観は導入に過ぎないのじゃ、止観などに移行していくのじゃ、と言い訳されるかも
しれませんが、うさぎ跳びと同様、百害あって一利なしの導入です。
942
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 23:27:38 ID:WL2yRwjAO
腹式呼吸をすると脳が活性化するらしいよ
943
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/06(日) 23:46:34 ID:zaNLDGCc0
しません
肺呼吸でも一緒
日本はなぜか肺呼吸を敵視してる奴が多いよな
ヨガや気功の丹田呼吸の悪影響だろうけど
944
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 00:30:30 ID:WL2yRwjAO
広島大学の研究によると
意識的腹式呼吸によって血圧の低下、ストレスホルモンの減少、脳波の安定など有意な効果が見られたと言う論文があるよ
論文からの引用
今回、高齢者を対象として、通常の呼吸と意識的腹式
呼吸条件間の比較を行った。意識的腹式呼吸を行なうこ
とで、交感神経系が優位であるといわれている高齢者で
も、自律神経反応に影響を与え、副交感神経系優位な状
態に導けること、ストレスホルモンの分泌は抑制される
ことが認められた。
945
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 00:40:43 ID:zaNLDGCc0
>>944
意識的胸式呼吸との対比研究はしたのかね。
意識的に穏やかな呼吸をしてリラックスすれば「血圧の低下、ストレスホルモンの減少、
脳波の安定など有意な効果」が現れるのは当たり前。
意識的胸式呼吸では効果が薄いってことを証明しない限り、「腹式呼吸」が特に優れてるって
証明にならないじゃん。
このように、この手の研究はバイアスが掛かってて役に立たないことが多い。
946
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 05:54:47 ID:WL2yRwjAO
ああ意識的腹式呼吸がリラックス効果その他に置いて優れているようだよ
つかなんで君そんな偉そうなの?w
スレ主旨に反するから腹式呼吸の話しはこれで終わりにするが
数息観でもしてリラックスすることをおすすめする
947
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 09:26:55 ID:zaNLDGCc0
>>946
> ああ意識的腹式呼吸がリラックス効果その他に置いて優れているようだよ
その根拠は何かね?
パニック障害や鬱病の人が腹式呼吸をして悪化したって話はたくさん聞くがね。
スポーツ選手や歌手はよく腹式呼吸をするが、リラックスではなく逆に気を昂らせる
ためにやるもんだ。
> つかなんで君そんな偉そうなの?w
偉そうに見えるのなら、それは君の我が君に見せている幻想だ。我を滅せよ。
> 数息観でもしてリラックスすることをおすすめする
数息観なんて止めて、素直に、呼吸と身体、感受、心、法を観察することをおすすめする
948
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 09:38:40 ID:tVAlKvko0
本スレで随息観連呼してた奴だろうけど、スレチだ
949
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 18:19:45 ID:WL2yRwjAO
上の論文は腹式呼吸の問題点を検証した論文だよ
老人の場合身体活動が活発化し過ぎて問題があるかと思われたが意識的腹式呼吸で血圧も下がりストレスホルモンも下がったと言う話だ。
ま、スレ違いなのでこの話しはこれで本当に終わり。
別に深呼吸でもいいのだろう
鬼和尚もそんなにこだわっている訳ではないようだしね
950
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 18:32:42 ID:WL2yRwjAO
今日は仕事を頑張ろうと意気込んだがやや空回りだったな。
上司や同僚に認められたいと言う意識が仕事の邪魔になる
いい人になろうと言う意識が苦しみを生む。
鬼和尚に質問
自我のパターンとは内面に無数にあると思うのですが
無数の自我を一つ一つ意識して消していく事が修行でしょうか
一つ一つ消していくといつしか消す自我が無くなった時、無我に至るの?
あと悟りを得る為の観察力ってかなり超人的なレベルが必要なのだろうか
951
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 19:26:08 ID:LC3de7YgO
ここ数日スランプです。30分づつ3回ほど座ってますが、集中できません。今まで、日々なにがしかの進歩が感じられていたのが、後退してしまっています。コツをつかんだと思ったのは勘違いだったようです。
こまりました( ´△`)
952
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 19:42:32 ID:RqjHb0Jg0
よく黒歴史を思い出して、うわああああっとなります
鬼さんが悟る前は恥ずかしい過去を思い出して悶絶したことはありませんか?
恥というのは人間を一番弱らせると感じるのですが
恥が全くなくなったら、妙なことをして周りに恥ずかしい思いをさせるのではないかと思い、どう折り合いをつけていいかわかりません
私は無人島に行ったら雄たけび上げながら走り回ると思います
osyoさんなどはとてもお行儀が良くていらっしゃいますが、これは恥の感情があるのではなくて
他人をびっくりさせないようにしているんでしょうか
むしろ悟った人ほど観念がないのでもっと奇抜な行動をしててもいいような気がするのです
鬼さんは地球で一人になったら裸で踊ったりしますか?
953
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/07(月) 20:01:38 ID:kaXJvxhM0
>>939
おぬしが十分に学び修行していたら、苦しまずに悟れるかも知れん。
観念が己であると思えば苦しんだりするが、それが己ではないと知っていれば苦も無いのじゃ。
花が開くように悟りに導かれるじゃろう。
>>941
おぬしが言う通り必要が無ければ乗らないじゃろう。
必要があれば乗るじゃろう。
お釈迦様の名が世間に広く伝わり2500年も保っているのも人に教えを説いたからじゃ。
悟ってからそのまま入滅していたら、王子に生まれながら出家して修行中に死んだおかしな者がいたと10年位噂になるだけで終っていたじゃろう。
悟ってそのまま死んだ者も多くいるであろうがその名は伝わらないのじゃ。
お釈迦様は板の間に座れと経に残しておるのかのう。
そのような事を言わず、経にも残っていないのならばおぬしは何故板の間に座るのじ'ゃ?
それが記されていないのは役に立たず、説かなかったからかのう。
もしかするとそれはうさぎ跳びのようなものであり、間違った修行法で囚われること自体が大間違いなのかもしれん。
おぬしがちゃんと初期経典を読んでいるならばヨーガと同様の色彩の瞑想法とか、脱身についても書かれているのを見出す事が出来る。
元々ヨーガは宗派を問わず修行者達に取り入れられていた修行の法であり、当然お釈迦様も説いておるのじゃ。
呼吸についても呼吸に集中しながら、観察をする法を説かれているが、その前段階として呼吸に集中する法が無ければおかしいのじゃ。
もし何も知らずに経のとおりに行なえば混乱するばかりじゃ。
2500年前に口伝になり、更に複数の言語で翻訳されて意味が判らなくなった経を尊ぶより、今伝わる生きた法を学ぶが良いのじゃ。
わしはお釈迦様と全く同じ真の悟りを得ている故に、お釈迦様が何を言いたかったのか、何が伝わり何が失われたのか理解できるから、経にかかれていなくとも補う事ができるのじゃ。
賢い者だけがその真意を知り、実際に苦を滅し、福楽と共に生き、進歩する事が出来るのじゃ。
954
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/07(月) 20:20:55 ID:kaXJvxhM0
>>950
自我には無数のパターンがあるがその一つのパターンの投射が観察できれば、全ての自我は滅するのじゃ。
それが実は自己ではなく、主体でもなく、観念であると気付くのであるからのう。
例えば子供は舞台や映画などを本当の事だと信じていたりする。
しかし、一つの舞台や映画の舞台裏を知り、それが真実ではないと知れば、全ての舞台や映画も創作であると知る。
そのようにただ一つのパターンの自我の投射でも観察されたならば、全ての自我のパターンが自己ではなく、主体でもなく、観念である事に気づくのじゃ。
言葉にするとこのような事になるが、それが観察されれば自動的に全ては起こり、言葉になるものも無くなるのじゃ。
本当は人が通常持っている観察力でも可能なのじゃ。
しかし、自分が消えるような感覚が起こったり、主体がなくなる混乱が広がるような恐れを感じて人は観察を止めてしまうのじゃ。
恐れを乗り越えていくにはそれだけの強い集中力と観察力が必要なのじゃ。
>>951
そのような時には姿勢を観察してみるのじゃ。
背中や首が曲がっていないかとか、肩に力が入っていないかとか点検するのじゃ。
骨盤から背中をとおり頭の天辺までが真っ直ぐな棒のように垂直になり、肩の力が抜けていれば自然にサマーディにも入れるのじゃ。
初心に返り姿勢を正すのが大事なのじゃ。
955
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/07(月) 20:29:04 ID:kaXJvxhM0
>>952
そのような恥の認識も教育によって条件付けされたものなのじゃ。
そうであるから人により、文化によってかなり違っていたりするのじゃ。
悟った者はもはや何も思わないのじゃ。
犬とか猿が裸でうろついて平気なように、人の条件付けによる恥辱観は創られたものでしかないからのう。
悟った者は本当は動かない方が安楽なのじゃ。
グルジェフの動画もyoutubeにあったが、一度座ると石のように動かないのじゃ。
心が完全に寂滅しているからのう。
956
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 21:30:42 ID:LC3de7YgO
>>954
ありがとうございます。
鬼和尚の仰る通り、「骨盤から背中をとおり頭の天辺までが真っ直ぐな棒のように垂直になり、肩の力が抜け」るようにするコツをつかめていたように錯覚していたのです。それができている間は日々進歩を実感できていました。今も同じことを丁寧にしてるはずなのですが、身体か心かどちらかが微妙にずれてる感じです。何でこんな簡単なことができなくなっちゃうのか・・・くやしいですO(≧▽≦)O
957
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/07(月) 22:03:28 ID:zaNLDGCc0
>
>>941
> 悟ってそのまま死んだ者も多くいるであろうがその名は伝わらないのじゃ。
だから何だと言うのだ。
> お釈迦様は板の間に座れと経に残しておるのかのう。
> そのような事を言わず、経にも残っていないのならばおぬしは何故板の間に座るのじ'ゃ?
どこに座ろうと私の勝手だからだ。
> おぬしがちゃんと初期経典を読んでいるならばヨーガと同様の色彩の瞑想法とか、脱身についても書かれているのを見出す事が出来る。
それはあなたが本質を理解しておらず、ヨーガと混同しているだけだ。
> 元々ヨーガは宗派を問わず修行者達に取り入れられていた修行の法であり、当然お釈迦様も説いておるのじゃ。
何が当然だ。
役に立たないからお釈迦様は採用しなかったのだ。
> 呼吸についても呼吸に集中しながら、観察をする法を説かれているが、その前段階として呼吸に集中する法が無ければおかしいのじゃ。
おかしくない。おかしいと思うのは、あなたがヨーガに囚われているからだ。
> もし何も知らずに経のとおりに行なえば混乱するばかりじゃ。
いや全く混乱しない。
あなたは混乱したのだろうが、ヨーガに囚われていればそりゃ混乱するのも無理はない。
しかし一般の日本人はあなたと違ってヨーガに囚われていないので、素直に経典を読めばよいのだ。
自分が混乱したからといって、他人も混乱するものと思い込んではいけない。
> 2500年前に口伝になり、更に複数の言語で翻訳されて意味が判らなくなった経を尊ぶより、今伝わる生きた法を学ぶが良いのじゃ。
あなたはヨーガやヴェーダなどの間違った前提や思い込みによって目が曇っているから意味が判らないのだ。
オウム真理教と同じ過ちを繰り返しているのだ。
先入観のない子供のような目で読めば、仏法や修行法は誰にでも分かる簡単な話なのだ。表現も、子供にも
分かる簡易な表現しか使われていないからな。
> わしはお釈迦様と全く同じ真の悟りを得ている故に、お釈迦様が何を言いたかったのか、何が伝わり何が失われたのか理解できるから、経にかかれていなくとも補う事ができるのじゃ。
全くあべこべだ。これであなたがデタラメ詐欺師だとはっきりした。あなたはたった今偽物だと自白し、自滅したんだ。
なぜなら、「お釈迦様が何を言いたかったのか」が分かって初めて、「お釈迦様と全く同じ真の悟り」かどうかが
判明すかるからだ。然るに、あなたのロジックはあべこべだ。論理も因果も分からない阿呆だ。
数息観など捨てて、修行をやり直しなさい。
958
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 00:42:56 ID:k8hVDWuY0
鬼和尚
もしも悟ったならば、その後どうなるのかわからない、という恐さがあります。
死に対する恐れよりも、悟ることに対する恐れの方が大きいような気がします。
死は誰にでも訪れますが、悟りは誰にでも訪れるわけではないようですし。
仮に今晩悟ったならば、明日から仕事はどうしたらいいのだろうか、という疑問があります。
悟ってしまったら、現世つまり衆生の世界に二度と戻っては来られないのではないか、という恐れがあります。
959
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 07:03:50 ID:WL2yRwjAO
意志は自我に属しますか?
それとも真我(鬼和尚が言う純粋な意識)に属しますか?
或は、真我は意志も超えた存在ですか?
或は意志こそが真我ですか?
960
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 07:07:18 ID:WL2yRwjAO
>>958
わかる
もし悟って明日会社に行かなかったら同僚に白い目でみられるやろなと言う不安が悟りを妨害する
961
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 17:03:31 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚の目から見て我が国の仏像で悟りの境地を優れて表現していると思われるものはありますか?
962
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/08(火) 21:37:05 ID:kaXJvxhM0
>>956
そのような時こそ初心に還るのじゃ。
今までの経験とかを忘れ、全く何も知らない所から始めるような気持ちで座るのじゃ。
全て捨てても今までの経験は生きるじゃろう。
階段を上がるには下の段を捨てて上に行かねばならん。
そのように今までの経験を捨てて進歩していくのじゃ。
>>957
おぬしは自分の聞いたことを忘れているようじゃのう。
おぬしが悟ってそのまま死んだ者がいないのかと聞いたから、いてもその名は伝わらないと書いたのじゃ。
他人がオウム真理教と同じ過ちを繰り返しているように見えたり、デタラメ詐欺師だとはっきりしたと思い、たった今偽物だと自白し、自滅したように思えるのならば、もしかするとおぬし自身がそうであるからかもしれん。
おぬしは仏法や修行法は誰にでも分かる簡単な話であり表現も、子供にも分かる簡易な表現しか使われていないと思うならば、試しに経典の中からその子供にも判る修行法をちゃんと書いてみると良い。
もしそれが本当に子供にも判るようなものでなかったら、誰が詐欺師で自滅したのかおぬしにもはっきりわかるかもしれん。
適当に誤魔化してその子供にもわかる修行法というものを書かなかったら、その時も誰が詐欺師で偽者と自白し自滅したのかはっきりわかるかもしれん。
>>958
そのような恐れを払拭するために目覚めた者はいるのじゃ。
悟っても酢屋の作業員になった禅坊主もいるのじゃ。
インドには煙草屋の親父をしながら弟子を教えていた目覚めた者もいたという。
講演をしたり宗教を創った者も居る。
皆、自らの意志により自分に最適な悟後の道を歩んだのじゃ。
わしも運送をしているのじゃ。
>>959
自我は観念であるから意志をもたないのじゃ。
普通の人が持つ意志は条件付けによるものなのじゃ。
意志は智慧に属するものじゃ。
仮設された世界で智慧によって正しい道を行こうとする時、意志が起こるのじゃ。
真の意識は意志選択をしないのじゃ。
もはやそれを起こす世界が無いからのう。
>>961
無いのじゃ。
瞑想をしている仏像もあるが未だ肩に力が入り、自我が脱落していないのじゃ。
もっと肩の力を抜くのじゃ。
963
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 23:07:36 ID:k8hVDWuY0
>>962
>>958
ですが、ありがとうございます。
もう一つお聞きします。
悟ったら結婚はどうでもよくなるでしょうか。
あるいは、自らの意志や慈悲などによって結婚できるでしょうか。
(相手や周りの人の問題は別として)
964
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/08(火) 23:33:52 ID:LC3de7YgO
>>962
ありがとうございます。
毎回より一層瞑想が深まるようにと、なにがしかの進歩を期待し過ぎてるのがよくないのかもしれないなと思いました。5分座ってるだけでイライラしていた初心の頃を思い出して続けて参ります。
965
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/09(水) 03:04:34 ID:WL2yRwjAO
我、一人で家にいる
ゆえに、我あり
と言うのがアイデンティティーの基盤になっている場合、自由を得るには、自我の発生過程をとりあえず観察するに限るのでしょうか
966
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/09(水) 07:13:59 ID:WL2yRwjAO
思考が絶えずどうでも良いことを考えたり空想したりしています
日常生活をしなくてはならないのに不安が不安を呼び何故か太平洋戦争の事を考えたりとか
逆に瞑想に執着してしまい、外的な出来事を避けて通るようになったりとか
思考や感情が真の意味で自己保存の為に自然に動き出せば良いのですが、
マイナスな事を考えがちです
不安ばかり感じても仕方がないので前向きに冷静に対処するしかないのですが
臆病な自分が嫌になります
何らかの原因があって臆病な自我が生じている過程を観察する事が出来ればとは思うのですが‥
967
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/09(水) 07:19:17 ID:WL2yRwjAO
修行や鬼和尚さんとの会話への執着もあると思います。
その事で救われて来ましたが、修行や鬼和尚さんへの依存が悟りを遠ざけている面もあるかと思う。
何かに依存が無いと怖いのですが
自灯明で少し頑張ってみたいと思います。
968
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/09(水) 11:50:17 ID:DgJcAPNs0
* + 巛 ヽ
〒 ! + 。 + 。 * 。
+ 。 | |
* + / / イヤッッホォォォオオォオウ!
∧_∧ / /
(´∀` / / + 。 + 。 * 。
,- f
/ ュヘ | * + 。 + 。 +
〈_} ) |
/ ! + 。 + + *
./ ,ヘ |
ガタン ||| j / | | |||
――――――――――――
969
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/09(水) 20:13:11 ID:kaXJvxhM0
>>963
出来るじゃろう。
世の人々が思い描いているような幻想的な意味は無いが、相手への慈悲として行うことができるじゃろう。
既に世にいて話すことさえも仮設された幻想に付き合っている事であるからのう。
更に幻想と知りながら世間のしきたりに従う事も出来るのじゃ。
>>964
良いことじゃ。実践していくものだけが進んで行くのじゃ。
またおいでなさい。
>>965
そうじゃ。
既にそれが自己同一化の基盤であるとわかっているならば、それを感じた時に起こる自我を観察すれば良いのじゃ。
一度それが観られたならば、自我ノ幻想は一瞬にして消え去るのじゃ。
>>966
マイナスな事を考えてしまうならば、その都度良いことを考えると良かろう。
大金を稼いで女子にももてもてとかのイメージを描くのじゃ。
もしかすると本当になるかもしれんからのう。
不安も観察できれば消えていくものじゃ。
そうすれば今まで悩んでいた事も実は悩む意味さえなかったのだと知れるのじゃ。
>>967
そうじゃ、自分を自分の主として行ったらよいのじゃ。
不安が無くなれ依存もなくなるじゃろう。
不安が無ければ依存も無く苦の連鎖が滅していくのじゃ。
970
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/09(水) 23:49:18 ID:eFPJm.9.0
>>969
>>963
です。
わかりました。ありがとうございました。
971
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/10(木) 18:57:51 ID:WL2yRwjAO
ありがとうございます
ただプラスにしろイメージを育てつつ、一方でイメージへの執着を消す修行をするのは矛盾しないでしょうか
執着しなきゃいいんでしょうか
あと無意識にマイナスのイメージが沸く源泉みたいなものがあるらしく
この源泉を堀つくし清めないといくらプラスイメージを注いで焼け石に水なようです
いわゆるアーラヤ識とか言われる意識なのかもしれないですが
このマイナスイメージの源泉を枯らすのも
やはり数息観をして心を落ち着かせて自然に沸き上がるイメージを観察する方法が良いんでしょうか?
972
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/10(木) 20:47:47 ID:kaXJvxhM0
>>970
どういたしまして、またおいでなさい。
>>971
イメージを作り、その執着を消すのも心を制御するためなのじゃ。
苦や囚われが心にあれば心を制する修行は困難になるからのう。
そのためにイメージを作ったり、執着を消したりするのじゃ。
その源泉を知りたいならば、更に集中力や観察力を増して、原因を探ると良かろう。
それはどこから来るのかとか、どのようにして起こるのかとか、詳しく心の中を探求していくのじゃ。
そして原因が判れば滅する事も出来るのじゃ。
973
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/11(金) 00:03:22 ID:/QWxgJ4.0
鬼和尚さん質問です。インドにはヨガとかアーユルヴェーダとか身体や精神のことについてよくできた考えかたがあるのに何故治安が悪いのでしょう?
974
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/11(金) 16:54:21 ID:Hq8d/KIg0
鬼和尚による十牛図の解説を聞きたいです。
975
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/11(金) 20:26:11 ID:kaXJvxhM0
>>973
治安が悪いからそのような法が生まれたのかも知れん。
人間は必死になると智慧が出るものじゃ。
昔から明日をも知れぬ地域ならば、人々は必死になって生きるための智慧や、死を超える法を見出したのじゃろう。
976
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/11(金) 21:08:13 ID:kaXJvxhM0
>>974
十牛図は元は道教の修行の為のものであったという。
元々道教の聖なる数字である九図であったというが、禅の者がとりいれて一図を足し、十牛図にしたという。
最後に入れられた入?垂手図では悟りを得た後、人々に教えを説く事が現されておる。
それこそお釈迦様から連なる仏教徒の姿なのじゃ。
一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。
二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。
三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。
五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。
六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
七.忘牛存人 牛は消えたが人はある。自我は観察による気づきにより完全に滅したのじゃ。
しかし、未だそれを認識しているものがある。
その認識さえも滅しなければ真の悟りではないのじゃ。
八.人牛倶忘 人も牛も無くなった。無我を認識するものも無くなれば真の悟りなのじゃ。
無認識にまで至って真の悟りなのじゃ。
そこには言葉でも図でも表されるものが無いのじゃ。
九.返本還源 全部元に還った。偽りの認識が滅してしまえば、世界の真の姿が見えるのじゃ。
赤子の頃に見た輝く喜びの世界に回帰するのじゃ。
十. 入?垂手 現世に戻り教えを説くのじゃ。大乗仏教では修行に入る時に悟りを得たならば後進の者に教えを説く事を誓うのじゃ。
真の悟りを得たならば誓いを果たすのじゃ。
それすらも肉体が滅するまで続く修行なのじゃ。
977
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/11(金) 23:11:51 ID:Hq8d/KIg0
>>976
解説ありがとうございます!
〜質問〜
意識を認識している主体に焦点を合わせ続けることで悟ることはできますか?
978
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/11(金) 23:23:28 ID:TzFrlspg0
>>975
なるほどたしかにそうかもしれません。自分も苦しみを感じずにいたら悟りとかに興味を持たなかったとおもいます。
ありがとうございますm(_ _)m
979
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/12(土) 20:49:12 ID:kaXJvxhM0
>>977
それが本当に一瞬でも観られたならば、無我になるじゃろう。
そこから更に認識をも滅しなければ真の悟りは得られないのじゃ。
主体を超え、認識をも超えた所に真の悟りはあるのじゃ。
>>978
どういたしまして、またおいでなさい。
980
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 09:13:15 ID:Hq8d/KIg0
無念無想と無我は違うものでしょうか?
981
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 10:49:01 ID:v1eziRvQ0
鬼和尚は何かを基準に生きていますか?またそれは何ですか?
982
:
偽和尚
◆qH7QdQmFhM
:2013/10/13(日) 16:24:08 ID:cud.kRqg0
そろそろ次スレ作った方が良いかなと思ってよく見てみたら既にあった。
鬼和尚に聞いてみるスレ part2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1381183929/
こちらが1000ぐらいまで行ったら次スレ使ってください。
(この板の設定では2000まで可能にしてあるので1000超えても書けますが、
専ブラで未対応のやつがあるようなので)。
983
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/13(日) 20:20:58 ID:kaXJvxhM0
>>980
違うのじゃ。
想念とは思考や感情なのじゃ。
それが無くなっても刺激とその反応はあるものじゃ。
そしてそれに投射される自我もまたあるのじゃ。
自我が無くなれば無我なのじゃ。
>>981
慈悲によっていきているのじゃ。
慈悲とは自他を一つに感じ、その利益を求める心なのじゃ。
自他が一つならば自分の利も他人に対する利となるのじゃ。
>>982
ご苦労さんじゃ。
984
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 22:53:52 ID:3xWCGOt20
もしも仏陀が子を育てたならば、その子は無明とならず、初めから覚者として育つでしょうか。
985
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 23:38:36 ID:XpOqqj3k0
>>957
> わしはお釈迦様と全く同じ真の悟りを得ている故に、お釈迦様が何を言いたかったのか、何が伝わり何が失われたのか理解できるから、経にかかれていなくとも補う事ができるのじゃ。
別に、これは単に非常に未成熟な自我の発露、それだけでしょう。
祖師は同じような意味のことを言うことはありますよ。
私は悟ったから過去の悟った人の言うことがわかるって。
でも、言い方が全然違うんですね。
その後さきは同時ですよ、というか、悟りの方が先に来るでしょう。
悟りが先にあってこそ過去の言葉も悟りから認知できますから。
986
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 23:42:52 ID:XpOqqj3k0
≫完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
インスタントインチキ悟りここに極まれりですね。
確かに、そういう認識じゃないと自分を悟ったと思い込めないですものね。
といっても、鬼さんが3番目なんて大変なところに言ってるわけもないですが。
4番目に行く人は少なく、4番目で終わる人は多く、5番目が特に長い。
OSHOの10牛図を読めば多角的、実際的アプローチで現代人にも分かりやすく説明してあります。
987
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/13(日) 23:54:56 ID:XpOqqj3k0
わからんでもない。
あまりに自分自身の事実を受け入れられない時、人は自分のアイデンティティーを作ろうと必死になる。
弱い人間、無意識な人間は、圧倒的なその逃避のための欲求で自らを偽りきる。
これはそう珍しいことではない。
こうも自信満々なんだから何かあるはずだ、と思うでしょう。
そうでもない。
現実から逃げる、という理由がある時人は何処までもやってのける。
そうせずにはいられないのだ。
自分もここまで露骨でないにしろ良く逃げるから、それを自覚し始めたから、わかる。
988
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 00:23:22 ID:XpOqqj3k0
道の人は自らの苦しみと向き合う。
自らの弱さと愚かさと向き合う。
悟った人はそれと向き合った上でその不在を見出したと言います。
だから悟った人は人の苦しみ、弱さに踏み込んで詳しい解説ができますし、
他者のそれに共感することもできます。
彼らは悟りのことは知りません。
悟りは不可知ですから。
ですが、彼らは苦しみについてよく知っている。
道の人も苦しみについて知っています。
自己のそれに向かい合うからこそ、他者のそれをことさらに反しようとはしません。
慈悲の始まりです。
逆に、自らのそれと向かい合えず、理性で原因を突き止めようとし、解決しようとする。そして抑圧する人は多いです。
すると他者に自分の欲望を投影してそれを攻撃したり、諭したりすることになります。
苦しみを知らない、その詳細を語れない。
人の数だけある苦しみの共感が薄く、自説を空気読まず押し付ける。
これが本物とニセモノの違いです。
989
:
龍華
:2013/10/14(月) 01:45:24 ID:kl1CR23s0
タオイストが目指してした仙人とか超人とは悟った人の事だったのですか
十牛図こんなシンプルで解り易いのに
どうしてワザワザ難解な表現するんですか昔の人
危険な秘密でも隠されているのかな
990
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 12:53:48 ID:XpOqqj3k0
十牛図の牛が自我だという話、そう大きく外れてはいないが、牛は自我ではない。
自我というのは過去の経験、認識のパターンが生き続け、それの繰り返しを求め続ける機構。
しかもそれが相矛盾して集合している。
牛が自我だと567枚目がおかしなことになります。
牛は意識と自我の状態から導かれるその人の生命エネルギーの状態ではないでしょうか。
OSHOも十牛図でそう述べていますが、私の実感でもあります。
人は考えることはできますが、その通り動けません。
何故かというと、人は条件づけられた思考、感情といった方がわかりやすいかもしれません、の影響下にあり、
それそのものと言えるからです。
思考、感情という主体がいくら考えても、その中からでられませんし、考えの上でそこから出て何らかの経験をしても、
それはもう一つの無意識的な思考や感情が増えるということを意味し、自我の自己矛盾を強化してしまいます。
自らが条件づけられた思考、感情そのものであり、認識者である主体と認識の対象、、この構造そのものが思考であり感情であるという
理解が至難なのです。
ひとは思考を鎮める、思考を見ると言われても、自分自身が思考であることは見れず、その条件づけられた思考である自分が考えることを見たり
格闘したりしてしまう。
いや、私たちが様々なものに反応するとき、考えてやってるわけではない。考えることは、無意識の思考と感情の後にくる副次的なもので重要性を持たない。
思考、感情の反応は何時も非言語的だ。
そして、覚めていたら無意識は存在せず、覚めてなければそこに無意識がある。
ただ覚めること、初めから覚めていることが開放であり、無意識に対する観察というのは無意識の条件付から脱出できない。
991
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 12:55:35 ID:XpOqqj3k0
≫想起される自我
それは古来から自我といわれているものが想起してる自我というイメージにすぎません。
一人遊びですよ。それは。
あなたは自分が自我だと思ってるものを見てるのであり、自我を見ているのではありません。
992
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 13:15:44 ID:XpOqqj3k0
自分も的外れな非難をしていた。それはよろしくない。申し訳ないことをしました。
それと、元々注が2つあるはずなのですが、それを無視するのはやめましょう。
十牛図を語るということは、全く関係ないあなたの自我に対する理論を表現する場所ではなく、
あくまでもともとのこの方便に沿って、あなたらしく解説することなのですから。
一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。
二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。
この時点では自我なんて知らないし、興味もないでしょう。
ただ表層の思考を鎮めることで今まで押さえつけていて見えなかったものが見えてきます。
三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。
ここも、まだ自我がどうか、ということに主題はありません。
表層の思考が静まって一瞬でも覚醒すれば、、覚醒についての話です。
覚醒は自我を見る最低条件であり、十分条件ではありません。
五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。
注で、手綱と鞭は必要だ、というように、ここで自我であり、自我が左右する自らの生命エネルギーを
覚醒という手綱と鞭で統率する局面に入ります。
六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
私はこれについては良くわかりませんが、矛盾し葛藤する自我の混乱目覚めによって治まり、
自己矛盾や外界との対立なくゆったりと人生を歩んでゆくさまを描いているように見えます。
ずいぶんとシンプルな自我が覚醒と共に振ったりとした生活を営んで我が家へ帰っている。
993
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 13:20:53 ID:XpOqqj3k0
≫自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
その通りのことが起きればそうかもしれませんね。
ただ、9割9分、当の観念である自我が自我という観念を作って、作った後でそれを消して、自己同一化が無くなったと自己催眠してというパターンだろう。
こういった類の気づき、というのは覚醒し続けることであって、一時の気づきは意味を持たない。
それに、人は自我を知らない。
自我が自我ではないものを自我だと思い、それと戦ってときには勝ったりするもの。
自我とは観念であり、というが、その自我とは何か。
人によって自我で意味する対象は異なる。
994
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 13:44:13 ID:XpOqqj3k0
5図 牧牛
注1
鞭と手綱は必要だ (鞭は覚醒、手綱は統制だとOSHOはいう。覚醒あってこその統制だと)
さもないと彼はどこかの泥んこ道へそれかねない
よく手なづけられれば
彼も自然におとなしくなる
そうなれば、つながれなくとも彼は主人に従う
注2
一つの思いが起こるとまた別な思いが続く。
最初の思いが悟りから湧きいづる時、引き続く思いのすべては真実だ。
迷いを通して人は何もかも不真実にしてしまう。
迷いは客観性によって引き起こされるものではない。
それは主観性の結果だ。
花輪を引き締めて疑いのひとつも許すまい。
990で私が述べたことと、奇しくも非常に似ている。
最初が誤りだと、何を言っても誤りになる。それがどんな先人の言葉でも関係ない。
私はそれを自分のこととして実感しつつある。
完全になげだすところまではいかないのだけれど。
995
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 19:15:11 ID:Hq8d/KIg0
鬼和尚に質問しようと思っていたことがあるのですが、
数息観をしていると、その考えていた質問が別にどうでもいいように思えました。
これも数息観の効果でしょうか?
996
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 20:07:31 ID:WL2yRwjAO
仕事の悩みはやはり仕事をすることで解決するしかなく
仕事の悩みを瞑想で解決するのはやっぱ邪道っすよね
数息観をすると凄く冷静な人になるんだが
リストラされても冷静に受け止めるだけでリストラされそうと言う事実は余り解決しないと言う事になりそう
997
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/14(月) 20:33:38 ID:kaXJvxhM0
>>984
ならないじゃろう。
子供は小さい頃から言葉を覚えるからのう。
過去の薫習により、記憶による認識の発達は免れないのじゃ。
修行する事を教えれば悟りに近くはなるであろうがのう。
>>989
そうじゃ、それが真の目的なのじゃ。
不死の境地は悟りを得る以外にありえないのじゃ。
自分で考えさせるために難解にしてあるのじゃろう。
修行者は皆自分で牛とは何か探求しなければならんからのう。
>>995
そうかもしれん。
どうでも良い事だったのかもしれん。
998
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 21:26:19 ID:3xWCGOt20
>>997
>>984
です。
ありがとうございました。
999
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/15(火) 00:28:57 ID:3xWCGOt20
悟ると、上下左右の感覚や、重力の感覚はどうなるのでしょうか。
それらの感覚はなくなるのでしょうか。
1000
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2013/10/15(火) 20:30:11 ID:kaXJvxhM0
>>998
どういたしまして、またおいでなさい。
>>999
無いのじゃ。
しかしあえて感じることも出来るのじゃ。
感じないことも出来るのじゃ。
この世の全ては仮設された幻想のものであるからのう。
1001
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/15(火) 22:53:53 ID:3xWCGOt20
>>1000
ありがとうございました。
1002
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/15(火) 23:54:18 ID:XpOqqj3k0
牛とは何か
人は決まった人生観や性格や価値観で自身を押さえつけて生きている。
それに対して牛というのはその人自身の欲望であり、感情であり、笑であり、知性であり、誇りであり、
その人のすべてであり生命エネルギーそのものと言える。
そしてあくまでそれは覚醒と共にあってこそ治まるものであり、覚醒が不在なら暴走してしまう。
暴走してしまうからこそ人は社会的人格や価値観でそれを抑圧している。
牛、それは自覚されないエゴだったり、その人の本性だったり、真実と偽りの混じったその人のすべてだ。
1003
:
・:.,;*(ΦwΦ;)Ψ
:2013/10/16(水) 18:13:31 ID:Bwz0R3.60
おれ、屋根見てくるわ。
∧,,∧ ∧,,∧ オレ 舟を
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) オレは用水路見てくる。
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u' 俺は裏山を・・。
オレ、田んぼ見てくる。
死をも乗り越えて 向こうの岸へと渡って逝く 者たちよ
幸いあれー ヽ(^。^)ノアレェー!
/ / / / / / /
/ / / / / /
,.、 ,.、 / /
/ / ∠二二、ヽ / /
/ / / ((´・ω・`) lヽ,,lヽ ネエ あなたぁ お願いだから見回りに行くのは
/ ~~:~~~ ( ) / 掛け捨ての生命保険に入ったあとからにしてぇ
/ / ノ : _,,.と.、 i
/ / (,,..,)二i_, しーJ /
1004
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/16(水) 19:23:00 ID:3qg6l7MU0
鬼和尚、慈悲の瞑想以外に心の領域を広げる手段はあるのですか?
それと苦行には具体的にどのような利益があるのですか?
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