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鬼和尚に聞いてみるスレ【1】
990
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 12:53:48 ID:XpOqqj3k0
十牛図の牛が自我だという話、そう大きく外れてはいないが、牛は自我ではない。
自我というのは過去の経験、認識のパターンが生き続け、それの繰り返しを求め続ける機構。
しかもそれが相矛盾して集合している。
牛が自我だと567枚目がおかしなことになります。
牛は意識と自我の状態から導かれるその人の生命エネルギーの状態ではないでしょうか。
OSHOも十牛図でそう述べていますが、私の実感でもあります。
人は考えることはできますが、その通り動けません。
何故かというと、人は条件づけられた思考、感情といった方がわかりやすいかもしれません、の影響下にあり、
それそのものと言えるからです。
思考、感情という主体がいくら考えても、その中からでられませんし、考えの上でそこから出て何らかの経験をしても、
それはもう一つの無意識的な思考や感情が増えるということを意味し、自我の自己矛盾を強化してしまいます。
自らが条件づけられた思考、感情そのものであり、認識者である主体と認識の対象、、この構造そのものが思考であり感情であるという
理解が至難なのです。
ひとは思考を鎮める、思考を見ると言われても、自分自身が思考であることは見れず、その条件づけられた思考である自分が考えることを見たり
格闘したりしてしまう。
いや、私たちが様々なものに反応するとき、考えてやってるわけではない。考えることは、無意識の思考と感情の後にくる副次的なもので重要性を持たない。
思考、感情の反応は何時も非言語的だ。
そして、覚めていたら無意識は存在せず、覚めてなければそこに無意識がある。
ただ覚めること、初めから覚めていることが開放であり、無意識に対する観察というのは無意識の条件付から脱出できない。
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