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鬼和尚に聞いてみるスレ【1】
992
:
避難民のマジレスさん
:2013/10/14(月) 13:15:44 ID:XpOqqj3k0
自分も的外れな非難をしていた。それはよろしくない。申し訳ないことをしました。
それと、元々注が2つあるはずなのですが、それを無視するのはやめましょう。
十牛図を語るということは、全く関係ないあなたの自我に対する理論を表現する場所ではなく、
あくまでもともとのこの方便に沿って、あなたらしく解説することなのですから。
一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。
二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。
この時点では自我なんて知らないし、興味もないでしょう。
ただ表層の思考を鎮めることで今まで押さえつけていて見えなかったものが見えてきます。
三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。
ここも、まだ自我がどうか、ということに主題はありません。
表層の思考が静まって一瞬でも覚醒すれば、、覚醒についての話です。
覚醒は自我を見る最低条件であり、十分条件ではありません。
五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。
注で、手綱と鞭は必要だ、というように、ここで自我であり、自我が左右する自らの生命エネルギーを
覚醒という手綱と鞭で統率する局面に入ります。
六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
私はこれについては良くわかりませんが、矛盾し葛藤する自我の混乱目覚めによって治まり、
自己矛盾や外界との対立なくゆったりと人生を歩んでゆくさまを描いているように見えます。
ずいぶんとシンプルな自我が覚醒と共に振ったりとした生活を営んで我が家へ帰っている。
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