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お気に入りのローマ皇帝2

1カイザー:2004/04/18(日) 01:31
旧スレが1000を超えたんで新しくスレッドを立て直してみました。
ローマ皇帝となってますが、まあローマに関する話題なら何でもOK
です。
素人の雑談以上のことを求められても対応出来ないんで、はじめに
おことわりしておきます。

いるのかどうか分かりませんが、ROMしてたけど、途中から書き
込みにくいと思っておられるお客様がおられたら、これを機会にカ
キコして頂けると嬉しいです。

2マッティアス:2004/04/19(月) 23:13
すみません、昨日うっかり古いほうに書き込んじゃって。咄嗟に見つけられませんでした。

新スレということは、初心に還ってミーハー話をしまくってイイということですね?
ていうか、旧スレでも脱線するかバカ丸出しな発言しかしてなかったですけど。

いきなり、アホ発言していいですか?
ローマ兵の格好って、コギャル(もはや死語)顔負けのミニスカサンダルなんですけど、
あれってどう思います?密かにベテランとか嬉しくない気がするんですが。

3真奈美:2004/04/20(火) 07:17
かつて2ヶ月を過ごしたライン河畔の町で、そこの歴史などを記したパンフの
表紙に、ローマ兵の格好のコスプレが載ってました。
感想は、「寒そう!」でした。
初めてズボンをはいたローマ人はだれだ、いつだ?

4カイザー:2004/04/20(火) 23:51
おお、ちゃんとこっちのスレに移行して頂けてほっとしました。
もしかして、ここは放置プレイで、どんどん下の方に下がっていくんじゃない
かと(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル((((してました(笑)。

「ローマ人の物語」を積ん読にして昨日から読んでいる本に、3〜4世紀頃に
はローマ軍の兵士はズボンを履いていたという記述がありました。元々はアレ
マンニ族が履いていたんだそうですが、どこまで信憑性がある話かよく分から
ない・・・。
ズボンって、騎馬民族の発明品だったと記憶しているのですが、ゲルマン人と
騎馬民族って、フン族以前に接点なんてあったのでしょうか?

今の我々は、当たり前のようにズボンとか履いてますが、昔はズボンなんてな
かったんですよね。だから、スカート(っていうのかな?)を履いてても、女
装にはならないんでしょうね。
そういえば、スカート=女の子、ズボン=男の子という図式は、いつの時代か
ら成立したんでしょうね?

5マッティアス:2004/04/22(木) 15:37
ゲルマン人って騎馬民族ではないんでしたっけ?狩猟・略奪生活をする騎馬民族的な
イメージを勝手に持っていました(爆)。ガリア人も騎馬軍団に利用されたくらいだから、
乗馬をこととする民族だったはずですし。

ローマ軍も3〜4世紀になるとズボンを履いたんですか。それと関係があるのかは、
よくわからないのですが、その頃になると、気候も寒冷化してきたらしいので、ちょうど
良かったですね。

そういえば、スカート=女性で思い出しましたが、イスラム世界では女子も袋ズボンを
着用しますよね。あと、騎馬民族もよっぽど裕福なおうちでもない限り、女子もズボンを
履いているイメージなんですが。モンゴルとか。
近代になって、服飾が西欧文明化してからの風習ではなかろうかと思うのですが。
かなり適当なコト言ってます。

6カイザー:2004/04/24(土) 00:13
帝政期のゲルマン人は定住して狩猟だとか農耕だとかに勤しんでるんで、騎馬
民族とは言えないでしょうね。北欧とかに定住する前のご先祖さまはスキタイ
人とかの係累だった可能性はあるのでしょうけど。

私も服飾の歴史には全く詳しくないですからね〜。
貫頭衣とか着物だとか洋服がどういう事情で成立していって、現在のジーンズ
とか背広に変わっていったのかとか、ちゃんと調べたら面白そうではあります
ね。
昔、ドイツのローデンブルグの悪趣味な博物館で、中世の貞操体とか展示して
ましたが、中世の女の人は本当にあんなもんを日常的に使ってたのか激しく気
になります。どっから見ても、拷問アイテムにしか見えなかった・・・。

7真奈美:2004/04/24(土) 06:24
ローテンブルクの「中世犯罪博物館」ですね、けっこうポピュラー。日本語の説明もわりについてるとこ。
(「拷問」の博物館はほかでもあります。)
「貞操帯」、貞操以前に不潔なものだったと読んだことあります、そのほうが
なおおぞましい。

8カイザー:2004/04/24(土) 10:57
確かに貞操帯は、衛生面からして最悪でしょうね。どうやってトイレの後始末
とかするんだろうと、実物の前で私も考えてました。

西欧中世なんて、間違っても住みたくない時代の一つですよねー。あんまり、
歴史を知らない時には素朴にあこがれてましたが。ローマも日本の平安時代も
唐や宋なんかも程度の差はあれ似たようなもんなんでしょうけど、人権思想が
根付いた現在は本当に素晴らしいですよね。
江戸時代の蓑踊りとか、イヤすぎ。

9真奈美:2004/04/25(日) 06:21
「中世」という語の範囲、うんと広くとれば500〜1500年と書いてありますが、
一般には実にでたらめですよね。2chの某スレッドで、ある少女マンガの
シリーズの紹介で「中世のイギリス」なんて書いてあったのは実は世紀末で、
切り裂きジャックのモチーフなんかも出てくる話、むしろホームズあたりに近い
服装してるのに、どうしてあれが「中世」に見えるんだと思いました。
 雰囲気のある昔のはなんでも中世にしてしまうんですよね。上記ローテンブルクも
「中世の宝石箱」といわれてますが、厳密には中世よりはあとの時代のものらしいし。

10カイザー:2004/04/25(日) 10:24
私が高校生の時の世界史の授業では、ヨーロッパの中世の定義はオドアケルに
よる西ローマ帝国滅亡(476)〜メフメト2世によるコンスタンティノポリ
スの陥落(1453)ということになってました。

古代と中世の境界というのは曖昧ですよね。
それこそ、カールやオットー1世の戴冠あたりを中世のスタートにしたってい
いぐらい。まあ、無理矢理古代→中世→近代(近世)なんて分け方をするのが
無茶なんですよね。

ローデンブルグの城壁って、中世以降に作られたんですか?宗教改革移行も、
農民戦争だとか30年戦争だとか、イヤな戦争はいっぱいあったんで、城壁の
必要性は十分にあったでしょうね。
でも、貞操帯をルネサンス以降も常用してたとしたら、イヤだなー、別に中世
でも、古代でもイヤなんですが。

11マッティアス:2004/04/25(日) 20:28
貞操帯と妙な拷問器具とは、使用されていた時期がかぶってますよね?確か。
いつの時代に使われていてもイヤなんですが、発想的には宗教的・道義的に不寛容な
時代ですよね。ああいうものが多用されるのって。

時代区分て、地域によってわかれますよね。中東は古代文明→ペルシア→イスラム→
近現代というカンジで教科書もわかれていましたが。中国は大体、隋唐あたりから中世
の枠組みにされてるカンジですよね。
にしても、ヨーロッパ史は他の時代に比べて中世がいちばんアバウトで長い気がします。

12カイザー:2004/04/25(日) 22:17
別に、古代とか中世なんてのを無理矢理に定義する必要はないような気もしま
すね。別に中世は停滞の時代だった訳じゃないし、ルネサンス以降も『中世的』
な慣習はいっぱいあったわけですから。
この間読んでた本に、新教派がグレゴリ暦の採用を拒否して、新教・旧教が混
在してる都市では、同時にユリウス暦とグレゴリ暦が存在してたりとかもあっ
たというようなことが書いていました。
宗教改革による新教と旧教の併存ってのは、ドイツにとっては中央集権を阻害
する最大の要因だったんでしょうね。

フランス革命やロシア革命まで、「ローマ帝国」という古代の権威に頼ってい
たのがドイツやロシアという、かつての蛮族だったのが皮肉というか何という
か。
あんまりこういうことは言われませんが、ローマ教皇領(バチカン市国)が、
現在でも生き延びてる最後のローマの後継国家なんでしょうね。

13マッティアス:2004/05/02(日) 22:36
時代区分はたとえ大雑把でも、教科書だったり書店のコーナーだったりと、便宜上
あるととても楽なんですよね。実はそれだけなんじゃないかと思わなくもないです。

ローマ教皇領をローマの後継国家と考えるのは、ちょっと抵抗はありますけども。
そう言われてみればそうなのかも知れないですね。う〜ん…。なにげに遺蹟とか独り占め
してるみたいですし。
ドミティアヌスの建造物が、教皇の私有地にあるとかなんとかいうような、いい加減
記憶があるのですが。それはともあれ、結構ローマ帝国時代に違った目的で作られたもの
をキリスト教関連の建物に変えたりして、密かに受け継いでいますよね。ローマは。

14カイザー:2004/05/03(月) 09:19
ローマ教皇庁は、間違いなく帝政時代から存続するローマの行政機関で、現存
する唯一の組織ですからね。しかも、中世ではローマ皇帝を任命する権限まで
有していたりとかしますし。
少なくとも、ロシア人がローマ皇帝を名乗ることがOKなら、ローマ教皇領が
ローマ帝国の後継国家だと主張するのに何の問題もないでしょう。

ヴェネチアにも第4回十字軍の時にコンスタンティノポリスからゲットしてき
た遺物があるみたいですね。ラヴェンナにも、サン・ヴィターレ聖堂にユステ
ィニアヌスやテオドラのフレスコ画がありますし、何と言っても古代→中世に
かけてローマの西方領土の中心だった所ですからね。
いつか、またイタリア行って、こういう所を見物してみたいですねー。

15マッティアス:2004/05/08(土) 00:09
長い事放置プレイしてすみません(笑)。
中世においてコンスタンティノポリスは聖遺物という観点からすれば、台湾の故宮
博物館のようなものだったのではないでしょうか?ローマが紫禁城で。
十字軍はバシレイオスにもムスリム国家にもいい迷惑でしたよねo(`ω´*)o
でも実は、第4回以降の時代になると、十字軍に行く事の虚しさとか、実はその遠征
自体が聖地を汚す行為に他ならないのではないか?なんていうテーマの歌を吟遊詩人
が歌ったりしてるんですよね。第4回がトラウマだったのか、第3回でのリチャード・
サラディン協定によってキリスト教徒の聖地巡礼は安全が確保されたからなのか。
はたまた、第3回以降、十字軍国家の衰退があまりにも著しくてイヤになっちゃった
のかはわかりませんが。

脱線してすみません。
ローマ教皇庁が宗教機関というだけでなく、最高の世俗的権威だというのが、何と
言うか政教分離してない時代なんだな、てカンジですよね。
まあ、最高司令官の呼称が“皇帝(元首)”から“教皇”になったと考えれば、教皇領
はローマ帝国の後継国家と考えてもおかしくないかも知れませんね。
キリスト教が国教化したのだから、最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)が
教皇になったわけですもんね。
ロシアがローマ皇帝を名乗るのは、確かになんか違う。ハザールがユダヤ帝国という
のと同じくらい。

16カイザー:2004/05/08(土) 21:19
ロシア皇帝がローマ皇帝を名乗ってたのは、最期のローマ皇帝コンスタンティ
ヌス11世パレオロゴスの妹ゾエがモスクワ大公イヴァン3世の皇后であると
いうこじつけから、勝手に自称してるだけですからね。血縁も歴史的な繋がり
も皆無な、デタラメにも程がある話です。

カール1世のカロリング帝国やオットー1世の神聖ローマ帝国なら、ローマ教
皇による戴冠とか、コンスタンティノポリス政権の正式ではないにしろ不承不
承の黙認があったりと、それなりの手続きを踏んでるんですよね。
特にカール大帝の辿った、フランク王→ローマ皇帝のステップは、カール本人
はともかくローマ教皇レオ13世が、本気で新たなローマ皇帝を作り出そうと
したプロジェクトなんですよね。

こういう歴史的背景を考えると、ローマ教皇の権威が中世に渡って絶大であっ
たのは、当然といえば当然なんですよね。もちろん、民衆の素朴な信仰心とか、
教会による長年の愚民化政策とかも、あるんでしょうが。

17マッティアス:2004/05/09(日) 22:55
う〜ん…でも、イヴァン3世(←雷帝?その父くらい?)とゾエの息子は“ローマ皇帝”
を名乗るのはアリでしょう。百年戦争のときもカペー王朝の正統が途絶えた時に、
自分の母親がカペー家の出だったからという理由で、英国王がフランス王位の継承権
を主張したくらいだし。ゾエは息子を生んでないのでしょうか?

教会による愚民化政策はおそろしいですね。高度の文明を誇ったローマ帝国の生活or
文化水準に達するのを産業革命以降ですもん。ひいいいい。

18カイザー:2004/05/10(月) 23:00
100年戦争の頃のイングランド王は、フランスの有力諸侯ですからね。普通
にフランス王位を争うことが可能な立場ではないかと思います。

私も初期ロシア史がいまいち理解出来てないんで、おおざっぱな年表にしてみ
ました。

1243 バトゥ、キプチャク・ハン国を建設
1326 ロシア府主教座、ウラジミールからモスクワに映る
1328 イヴァン1世、モスクワ大公国を建設
1448 ロシア正教会、コンスタンティノポリス正教会より独立
1453 オスマン朝にコンスタンティノポリスが占領され、パレオロゴス朝が滅亡
1463 イヴァン3世、モスクワ大公に即位(〜1505)
1472 モスクワ大公イヴァン3世、パレオロゴス家のゾエ(ソフィア)と結婚
1477 イヴァン3世、ノブゴロドを占領
1480 イヴァン3世、キプチャク・ハン国の遠征軍を退ける(モスクワ大公国の独立)
1547 イヴァン4世、公式にツァーリの称号を採用
1581 イェルマークのシベリア征服

モスクワ=第3のローマというテーゼはイヴァン3世自身の考えではなく、エ
レアザル修道院とかいう所のフィロフェイという修道士がイヴァン3世、ワシ
ーリー2世らに宛てた書簡から見いだされるそうです。コンスタンティノポリ
スを初めとする他の正教会勢力が、全てトルコの手中に落ちるという危機的状
況からこのテーゼが受け入れられたようです。
ちなみに、雷帝はイヴァン4世ですね。イヴァン3世は、4世の祖父だったと
思うんですが、系図が手元にないんで確認出来ないです(汗)。
イヴァン3世やその他のリューリク朝の皇帝がゾエの血を引いているのかも、
手元に資料がないんでいまいち分からないです。

19マッティアス:2004/05/20(木) 00:18
私、一時期はイヴァン雷帝に興味もってたはずなんですが、記憶が見事なくらい消え
去っています。
年表ありがとうございます。
反論があるとすれば、百年戦争でイングランド王がフランス王位継承権を主張できた
のは、あくまで血縁関係があったからだと思いますよ。有力諸侯というだけでは、
多分王位を取る正統性が得られないと思うんですよね。
(例えば、ルイ14世が自分の孫だかひ孫を擁してスペイン継承戦争に乗り出したのも、
ハプスブルグ家との婚姻関係による血のつながりですから)
ロシアの場合は、コンスタンティノープルの皇帝の血縁であるゾエと血のつながりが
あったかは調べてみないとわかりませんが。皇后にした、ってだけでも義理の母子関係
が成立して、その流れと主張する事は、可能といえば可能なんだと思います。

20カイザー:2004/05/20(木) 22:45
もちろん、イングランド王エドワード3世がカペー家の血縁に連なるのは前提
条として理解していますよ。私が言いたかったのは、イングランド王には「カ
ペー朝の血筋」+「フランスの有力諸侯」という、フランス王位を主張する為
のダブルの条件があるということです。
それにプランタジネット朝とカペー朝の血縁関係の濃さとリューリク朝とパレ
オロゴス朝とのそれには、相当の差があると思います。エドワード3世の母親
イザベルがフィリップ4世の娘だというだけでなく、祖父エドワード1世の王
妃もカペー朝の出身です。エドワード3世はカペー家の一員だと、言えなくも
ない立場だからこそ、フランス王位を主張し、かつそれを受け入れた諸侯もい
たわけです。

もちろん、マッティアスさんが仰るようにゾエとイヴァン3世の婚姻だけでも
、ロシアがビザンツ帝国の相続権を主張するのは妥当というか、可能だという
のまでは否定しませんが。

イヴァン3世やイヴァン4世の比較としては、チンギス・ハンの子孫を自称し
モンゴル帝国の継承を目指したティムールあたりの方が、妥当であるような気
がしますね。

21マッティアス:2004/05/20(木) 23:16
ティムールについては、劉備並に強引だなあ、というイメージがあったんですが(汗)。
中央アジアの遊牧民とか中国とかって、わりに一旦国(王朝)が滅んでしまえば、実力
主義なイメージあるし、別に血縁なんて唱えなくてもなあ、という。

ロシアがビザンツの相続権を主張した背景には、何と言ってもほかに正教を国教とする
王朝がいなくなってしまっていたことが大きいとは思うんですけどね。
政教分離が完全ではない時代だと、教会(宗派)というものを中心に何とか国家の正当性
を持たせようとしそうですから。

プランタジネット朝は最初から、何か歪んだ王朝でしたよね。カペー朝の臣下と言い
つつ、領土は3倍以上で婚姻関係もある、というヤな家で。足利将軍と織田信長みたい
な関係ですかねえ。あるいは4代目以降の鎌倉将軍と執権みたいな。
フィリップ2世とジョン王の時代に、ようやく逆転あるいは同等くらいの力を持つの
ですが、フィリップ4世が王子を残さず死んじまいやがったのでねえ。

22カイザー:2004/05/23(日) 22:36
そういえば、いまいち分かってないのですが、ゾエは何でロシアに何かいたん
でしょうかね?
昔はコンスタンティノポリスが陥落する前から、イヴァン3世とゾエは結婚し
てるのかと思ってましたが、コンスタンティノポリスはおろかコムネノス朝の
生き残りのトレビゾンド帝国までトルコに滅ぼされた(1461)後の話なん
ですよね。

十字軍に夢中になったリチャード1世と、ヘンリー2世時代から続く、リチャ
ード、ジェフリ、ジョンといった王族同士の内乱があればこその、フィリップ
2世の巻き返しですね。
仮にプランタジネット朝がフランス全土を制圧したとしても、大陸派とイング
ランド派に分かれて、フランク帝国みたいに解体しちゃってた気がします。こ
んなこと言うと、ちょっとジャンヌ・ダルクが無駄死に思えてきます。
・・・・ファンの人、ごめんなさい。

23マッティアス:2004/05/24(月) 19:20
私もジャンヌ・ダルクは好きなんですが、別に意見に腹は立たないですよ。
プランタジネット家の本拠地は、どちらかというと大陸なんですよね。リチャード1世
なんかはイングランド滞在が在位中合計半年にも満たないし。ブリテン島自体が、ヘンリー
2世のときでしたっけ?プランタジネット朝が正式に領有したのって。意外と歴史が
浅いのですが、あのときはブリテン島の王室が途絶えて、多少なりとも血縁があった
プランタジネット家当主のヘンリー(アンリ)がイングランド王に名乗りを挙げたんだ
と記憶しています。←捻じ曲がってる可能性大ですが。

リチャードが十字軍に夢中になった挙句、他の領主の恨みを買って帰国途上で幽閉された
りしなければ、フィリップもあそこまで好き勝手できなかったでしょうね。ていうか、
実際には、リチャードが帰国してから連戦で、フィリップはかなり命からがら逃げて、
奪った領土のほとんどを奪い返されたんですよ。リチャードがうっかり流れ矢に当たって
くれなかったら、フランスはかなりやばかったですね。ジョンも大陸ではフィリップに
大負けしてますが、イングランド(ブリテン)本土では負けてないんですよね。実は。
イングランド王ジョンが窮地に立たされたのは、リチャードが戦と築城が大好きで、
あとは幽閉された際の多額の身代金とかで、財政が逼迫していた状況下で王位についた
からなんですよね。ジョンって可哀想。

24カイザー:2004/05/25(火) 01:36
よく知らなかったのですが、フィリップ2世ってジョンとの戦争でイングラン
ドに渡ったりしてたんですか?リチャードと結んでヘンリー2世と戦ったりと
かもしてた筈ですし、まるっきり戦争が出来ないなんてこともなかったんでし
ょうね。
そういえば、ジョン様には泣き虫ジョンという事実に裏打ちされた渾名があっ
たとかいう話を聞いた記憶が微かにあるんですが、本当なんでしょうか?

プランタジネット朝の出自はいまいち分かってないんですが、イングランド王
位を手中にしたのはヘンリー2世からになりますね。征服王ウィリアム1世の
曾孫にあたるそうですが、系図が分かんない(汗)。
ヘンリー2世までのプランタジネット(アンジュー)家は、それほどの領土は
なかったみたいです。ヘンリー2世一代で、イングランドと大陸の広大な領土
をゲットしたみたいです。

25マッティアス:2004/05/26(水) 23:54
ヘンリー2世の父、ジョフロア・ダンジューも美男子でそれなりにやり手だったような
気もします。ていうかフィリップ2世の父、ルイ7世がダメダメなんですが。
ルイ7世王妃→ヘンリー2世王妃となったアリエノール・ダキテーヌがものすごく大きな
領土の継承者で、だから彼女との結婚は大陸の領土拡大に影響を持っていて、不仲に
なっても幽閉したりするだけで、近親婚を理由とした離婚に踏み切れなかったんですね。
アリエノール自身も自分の領土や財産があるから、息子達(お気に入りはリチャード)
と組んで陰謀をめぐらしたりなんなりできたのですが。

フィリップ2世は王位についたとき15歳で、序盤は老獪なヘンリー2世に苦戦していた
のですが、息子達と父王がもめまくっていたおかげで、その間に政治的駆引きやら、
戦争の経験を積めたんですよね。
リチャードとフィリップよりもジョンとフィリップのほうが年齢は近いんですが。経験
の差が大きいんですよ。
ジョンに“泣き虫”なんてあだ名があったのは初耳ですが、あってもおかしくはなさそう。
末っ子だし美男子だしで、うまいこと父王の愛顧をこぎつけた辺り、絶対泣き落としとか
あった気がします。

26カイザー:2004/05/30(日) 10:08
確か、ヘンリー2世は大陸でリチャード・フィリップ2世連合軍との戦争中に
陣没しちゃったんですよね。この過程で、リチャードがフィリップに臣従とか
してたのが、ややこしい中世の英仏関係を象徴してますね。
ジョンなんかも、リチャードにちょっかいを出してる最中にフィリップ2世に
臣従してそうですね。いや、よく知らないですけど(汗)。

大陸との関係でゴチャゴチャしまくってたイングランド史は漠然と理解はして
いるのですが、近隣のウェールズだとかスコットランドだとかアイルランドの
歴史というのが、完全にちんぷんかんぷんです。
大王クヌートなんかは、スコットランドなんかも支配下においてたんでしょう
かね?

27マッティアス:2004/06/01(火) 22:15
私もピンポイントでしか記憶がないです。てか、本を読んでいない気がします(爆)。
リチャードに限らず、ヘンリー2世の王子達は父やら兄弟やらと対立する度に、仏王
と同盟を結ぼうとして、ルイ7世かフィリップ2世に臣従しているはずです。
しかしクヌートとかノルマンディー公ウィリアムとか、見事にわかりません(汗)。
いいのか、それで?

で、話を久方ぶりにローマに戻すと、スコットランドがローマの支配下にあったのって、
多分、ブリタニア総督アグリコラがイケイケGO!GO!作戦で頑張ってた頃くらい
ですよね?あれ?ハドリアヌスの頃まででしたっけ?
これまた記憶が曖昧でやばやばですが。この辺りに詳しいと、サトクリフのローマン・
ブリテン4部作が面白く読めるんでしょうね。

28カイザー:2004/06/05(土) 16:32
多分、ローマ史でブリタニアの最深部に侵攻したのは、アントニヌス・ピウス
の時代ではないかと思います。ブリタニア総督ロルカが築いたアントニヌスの
長城は、ハドリアヌスの長城よりさらに北に位置するんですよね。
もっとも、アントヌス・ピウスの時代の後半には、アントニヌスの長城もハド
リアヌスの長城も放棄されて、ブリタニア北部の直接統治は止めてしまったよ
うですが。

アフリコラの総督時代は、多分、ブリタニア南部の完全制覇までで、そこから
スコットランドやアイルランドに手を伸ばそうとして、ドミティアヌスにダメ
を出されたのだと思います。いや、ちゃんと知ってるわけではないですが。

29マッティアス:2004/06/06(日) 11:13
「アグリコラ」持ってるはずなのに(一応読んだし)、内容憶えてないんですよね(爆)。
ドミティアヌスの悪口というか、皇帝があんなヤツじゃなかったら我が舅どのは、
スコットランドはおろかアイルランドも完全制覇できたはずのなのに、嫉妬深いアホ
皇帝め〜o(`ω´*)o!!という、タキトゥスの悲憤(?)ばかりが印象に残ってます。
つってもスエビ−サルマタイ戦争やらダキア戦争やらを抱え込んでいて、結構手一杯
だったので、タキトゥスの非難は少し不当だと今では言われていますが。
だから、実際アグリコラに好き勝手やらせて戦争がうまくいったとしても、その後の
支配はピウス時代同様、長続きしなかったんじゃないかなあ、なんて思いますよね。
ハドリアヌスの長城辺りがまあ、一番現実的な防衛線だったのではないかと。

30カイザー:2004/06/06(日) 19:04
本気でトラヤヌス辺りがブリタニアの完全征服を考えてたら、それはそれで可
能だったろうとは思いますが、ゲルマニアとかアルメニア、パルティアといっ
た方面と比べたら、基本的にはどうでもいい地方というのが、帝政時代を通し
てのブリタニアに対するローマ帝国のスタンスなんでしょうね。
西ローマ帝国崩壊の過程で、一番初めにローマの支配権から離れたのがブリタ
ニアでしたからね。

それにしてもスコットランドって本当にイメージが沸かないです。
丘の上の王子様が、スコットランドの民族衣装を着て(←何故?)バグパイプ
を演奏してたのがキャンディの初恋というぐらいの知識しかありません(笑)。

31マッティアス:2004/06/06(日) 21:01
ブリタニアが真っ先に放棄されたのって、陸続きじゃないからですよね。ノルマン人
とかゲルマン人がヨーロッパを席巻した時代にも、ノルマン・コンクェストがわりに
遅かったし、なんかあんまりメリットのある島じゃなかったんだろうなあ。きっと。
ブリタニアといえば、カキが美味しいんだったか、いい真珠が採れるんだったか、そ
れくらいのイメージしかないですよ。(タキトゥス読んだ時のいい加減記憶では)
エジプトとか小アジアとか、環地中海の地域はいろいろあるし、東方属州と接してい
るパルティアとかは重要。商業的に豊かだし、文化レベルも高いから、政治的関心が
特に裕福な階級には高かった地域でしょうね。

トラヤヌスの頃は(確かドミティアヌス時代中頃〜マルクス・アウレリウス時代半ば)
北方の部族とは同盟関係がうまく機能していて、北西方面には攻め込んだりする謂れ
がなかったんですよね。そうなると、ダキアを征服したあとは、そのまま東へ進むし
かなかったというか、それが普通だったんだろうなというカンジで。

丘の上の王子様の話で、山科けいすけ「SAKAMOTO」の中で出てきた“えげれす”のイ
メージが(笑)。
「えげれすはヒゲ生やしたオヤジがスカートはいてラッパ吹いてるぜよ!」という。

32カイザー:2004/06/08(火) 00:57
5世紀早々にブリタニアがローマ帝国から失われたのは、海を挟んで遠かった
というのもあるでしょうが、ガリアやイスパニアといったブリタニアの近郊が
形式的にはともかく、実質的には西ゴート、ヴァンダル、スウェヴィといった
ゲルマン諸族の支配に帰していたというのが最大の原因でしょうね。
それと、テオドシウス1世の統一戦争の過程で、ブリタニアの守備軍が大陸に
移動してて、ホノリウス時代にも僭帝コンスタンティヌスが残った兵力も大陸
に連れて行ったというのが、トドメになっているわけです。

やはり、五賢帝時代というのはローマ優位の対外政策が機能してた最良の時代
ですよね。
普通に軍人皇帝時代以降の苦しさいっぱいの歴史を眺めてたら、南川先生とか
がブチブチ五賢帝時代も完璧じゃないみたいなケチをつけてるのに賛同する気
はなくなってしまいます。ローマの完璧な時代なんてどこにあったのか、教え
て欲しいですよ、本当に。
塩野さんは、カエサルの生きてる時代とか言いそうですが。(;´Д`)

33マッティアス:2004/06/08(火) 08:58
基本的に完璧な時代というのはないと思いますよ。比較的過ごし易かった時代、とか
あくまで“よりマシ”とかそういう風にしか評価できないと思います。
衰退期の良くない事っていうのは、全盛期に少しずつ始まっている弊害とか疲弊だし。
南川先生が五賢帝時代も完璧じゃない、と言ったり桑山先生が五賢帝はフラウィウス
朝の皇帝たちより名君だったというわけでもない、と言うのも故なきことではないで
すしね。まあ、皇帝一人が格別に優れていなくても、過ごし易い時代というのはあった
はずですし、より“完璧”に近い時代というのは、幸運にも外部的にも安定している
というだけではないかなあ、と思います。
でも、全ローマ皇帝で優れていた人ベストいくつ、とかやったら、トップは間違いなく
アウグストゥスだと思います。

34カイザー:2004/06/08(火) 22:46
能力だけなら私はコンスタンティヌス1世を推しますね。少なくとも、戦争に
勝つということの才能は№1だと思います。あと、野心の強さもかな。
もちろん、アウグストゥスはローマ史で3本の指に入る有能な皇帝だと思って
ますよ。
他に目立って有能な皇帝として、思い浮かぶのはディオクレティアヌスぐらい
かな?合格点を出すというレベルなら、まだまだいっぱいいますけどね。

強引過ぎる仮定ではありますが、トラヤヌスとかマルクス・アウレリウスが、
イスラムの包囲下で滅亡寸前だったコンスタンティノポリスで即位したレオ3
世の様な境遇にあっても、史実と同じように賢帝たり得たかどうかは分からな
いですよね。
何にもせずにあの世へ旅立ったディディウス・ユリアヌスなんかも、条件さえ
整ってれば立派な皇帝だった可能性もないことはないと。
こんなことは、言ってもしょうがないんですけどね。

35マッティアス:2004/06/08(火) 23:11
アウグストゥスの戦争指揮能力以外の能力は素晴らしいんですけどね。まあ、政治と
人材登用能力に優れていて、忍耐力と演技力がある辺りは☆5つ。
ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス1世も捨て難かったのですが、何となく。
ディディウス・ユリアヌスは…ピウスのような時代だったらホントにOKだったでしょ
うね。どういう状況下で皇帝になってしまうか、というのは大きいです。
ベスト3には入らないながらも、個人的に結構評価したいのは、ウェスパシアヌス。
いまの日本に欲しいタイプのトップです。少なくともカエサルより。
ティベリウスも忍耐力と愛想のよさがあれば、結構ランキング上ると思うんですよね。

しかし、及第点も与えられない皇帝ってなにげに多いですよね。昔ローマに興味なかっ
た頃は、一番ダメなのがネロだと信じていたんですが、甘かったです。
3世紀以降詳しくないのでいい加減なことしか言えませんが、エラガバルスとカリグラ
は少なくともネロよりずっといけない気がするんですけど。

36カイザー:2004/06/10(木) 23:41
私も完全に全ローマ皇帝を把握してる訳ではないのですが、能力がダメな皇帝
の筆頭はエラガバルスで決まりでしょうね。どこを取っても褒めることが一つ
もないという完璧ぶり。あらゆる皇帝達を大差で引き離してると言えるでしょ
う。
まあ、別に本人はとりたてて悪いことをしてたということもないんで、実害は
(ないという訳ではありませんが)大したことないんですけどね。

ウェスパシアヌスはローマ史に関心がない人は、間違いなく耳にすることのな
い皇帝でしょうが、ユリウス・クラウディウス朝と五賢帝を繋ぐ時代を築いた
見逃せない人物ですよね。
有能で実績も残して、安らかな死を迎えることが出来た皇帝って、それほどい
ないということを考えると、その全てを達成したウェスパシアヌスの知名度は
もうちょっと高くてもいいような気がします。ヴァレンティニアヌス1世とか
に比べたら、まだマシなんですが。
ネロの出し物を見物してる時に居眠りして失脚しかけたとかのギャグエピソー
ドを考えると、まあ、抜けてる所もあった人なんでしょうけどね。

37マッティアス:2004/06/11(金) 09:25
確実に自然死といえた最初の皇帝と言われてますよね。>ウェスパシアヌス
ネロの歌で居眠りもしたけど、抜け出して昼寝したり女買ったりしてた常習なので、
かなり神経太いですね。度胸アリというか。

エラガバルス、実害はない、のかなあ?イロキチガイで散財大王なアクエンアテンと
いうイメージです。美少年だからって何でも許されると思うな、っていう。
しかし、有能な皇帝よりはダメじゃん、って皇帝のほうが多い気がするんですが、私の
思い過ごしですか?まあ、圧倒的に多いのは及第点といまひとつ、という中の上〜下
クラスの皇帝なんでしょうが。

38カイザー:2004/06/11(金) 23:34
成り上がりの軍人皇帝の類は、皇帝として残した業績はともかく基本的には優
秀な人ばかりではないかと。じゃないと、出世なんて出来ないでしょう。
西欧世界みたいに血縁相続が全てな世界ではないだけに、ローマ皇帝達の能力
の水準は高いと思います。

本当のお馬鹿さんな皇帝って血縁で相続したのが多いですよね。カリグラ、ネ
ロ、コンモドゥス、カラカラ、エラガバルスといった暴君のメジャーどころは
みんな血縁相続で皇帝になった人物ばかりですからね。
流刑先から蛮族を引き連れて凱旋帰国を果たして復讐に燃えたユスティニアヌ
ス2世みたいな皇帝もいますね。この人の場合はメチャクチャ優秀でしょうけ
ど。

39マッティアス:2004/06/12(土) 10:26
軍人皇帝では、セウェルスとアウレリアヌスが好きなのですが、それはともかくとし
て、彼らは少なくとも軍事的才幹と近くに居た将兵の心をつかめるだけの魅力、など
を持ち合わせており、自分が成り代わった前皇帝への兵達の不満など、ある程度の
状況認識もある。優秀な人々であることは否定しません。3世紀以降の難しさって、
首都と現場が乖離しちゃってるところにあるのかも知れませんね。
血縁関係で皇帝となった人々におバカさんが多いのは、実際の所、血縁者である程度の
年齢の男子がいた場合、相続者としては彼が適任だと考える人が多かった、という事を
示唆しますよね。ローマは血縁よりも能力みたいに言われますけど、コンモドゥスを
皇帝とする事に違和感を持った人は即位当時いなかったわけで、基本的には近親者が
その跡目を継ぐのが、人々は一番安心するんだと思います。
血縁じゃなくて実力(もっと言ってしまえば、実行)によって皇帝になることが可能に
なったのは、3世紀の危機からですよね。マクシミヌスなんていう、議員どころか騎士
階級でさえない人が皇帝になってしまったことが契機で。

にしても、軍事的才幹と政治能力と人身掌握能力が全部そろうのは難しいですね。
塩野さん的にはカエサルならそろっているといいそうですが、この人は同僚たる議員
階級に嫌われてますからね。オリエント的な完全な独裁制が確立していない状況では、
これは致命的な欠陥と言えると思います。

40カイザー:2004/06/12(土) 16:48
ローマ以外では血縁者がいなくても無理矢理に遠縁を探し出してくるんですが、
別にローマはそうじゃないですからね。ただの人が本当に皇帝に成り上がれる
というのは、やはりローマ独特のシステムでしょう。
仮にローマが血縁をあくまで重視するシステムであれば、ネロが死んだ時に
ガルバが新皇帝となるのではなく、何としてでもユリウス朝の血縁を探して来
たことでしょう。血縁に拘った世界では、こういう時にこそ(例外もいっぱい
ありますが)無能な傀儡国王が誕生する訳です。
少なくともローマは王朝が滅んだ時に、傍系の実力があるかどうかも分からな
いでくの坊ではなく、その時の実力者が帝位をつかむことが出来るというシス
テムがあるからこそ、水準の高い皇帝が揃っているのではと思っています。

カエサルって、能力がどうとかはおいとくとしても、普通にイヤな奴だと思う
んですよね。人をバカにしてる人間は、誰からも好かれることはない。
ただ、こういうのはいいとか悪いとかいうことじゃなくて、カエサルの個性な
んでしょうが。事実に即したカエサルは、それはそれで魅力的な人物だとは言
えるでしょうけど、欠点も美点も併せて描かれたカエサル像というのはあんま
り見ないんですよね。
軍人皇帝時代にカエサルがいたって、意外と役に立たないような気もするんで
すけどね。カエサルの戦った戦争って、どれもこれも勝てて当たり前なのばか
りだというイメージが。
かなり偏見入ってる気もしますが。

41マッティアス:2004/06/12(土) 22:38
カエサルが勝って当たり前の戦争をしたということについては、おそらく塩野さん流
に言えば、しっかり現状を見据えるカエサルの冷徹さ、ということになるかと思いま
すが。多分、攻め込まれる戦争はあんまり得意ではなさそうですし、生きてパルティ
アに行っていたら、どうなっていたかはわかりませんよね。
カエサルって多分ナポレオンと似たタイプで、兵士の近くで指揮を執って初めて強い
カンジがするんですよね。だから、あんまり大軍同士の戦いになっていくつも軍が
分かれる戦いには向いていない気がします。まあ、アントニウスとか部下にも戦争は
うまい武将はそろっていたわけですが。ラビエヌスはパルティアに行っちゃいました
もんね。

欠点も美点も併せて描かれたカエサルといえば、パスカル・キニャールの『アルブキ
ウス』がなかなかそれっぽいです。わりにスエトニウスの印象に近いですが、自分の
世界観・自分イメージに囚われていた英雄としてのカエサルがイイカンジで。
オクタウィアヌスもイイカンジにまとめられていました。美男でちょっと下世話で。

42カイザー:2004/06/15(火) 00:54
まあ、確かに私もカエサルが勝てるような状況を構築した過程を、全否定はし
ないですけどね。三頭政治の一角を占めてガリア遠征の司令官になったことだ
けでも、並大抵のことではないんですからね。
でも、別段、有能とされる色んなローマ皇帝達の業績を凌駕するとかは、全く
感じないなあとも、同時に思ってしまうんですが。

悲惨な戦力で戦功を挙げまくったのは、ベリサリウスが筆頭でしょうね。
新兵を押しつけられて、ホスロー1世のペルシア軍や東ゴート王国に勝利し続
けたのは、マジで信じがたいです。
しかも、皇帝ユスティニアヌスが「調子にのんなよ」とかいったら、ナルセス
に新兵→熟練兵にレベルアップした配下の兵士を引き渡しちゃうんですからね。
カエサルだったらぶち切れて反乱してるの、間違いなしです。
多分、ベリサリウスの方がおかしいんですけど(笑)。

43マッティアス:2004/06/15(火) 23:38
ベリサリウスの方がおかしいとは思いますけど、アグリッパもアウグストゥスにそんな
ことを言われたら、ヤケになってティベリウスかマルケルスに軍団引き渡して、引き
こもり始めそうですよ。ちょっとマルケルスに嫌がらせされてレスボス行きしたくらい
ですから。

カエサルについては変革期の一端を担った英雄としては高く評価してます。(←本気)
でも、トップとしての努力というか、まあ皇帝というものが本当にただの議員には手の
届かない時代になる前だけで比較すれば、ドミティアヌスと同じ過ちをしている部分が
あるんですよね。共和政末期と言えば、ドミティアヌスよりも風あたりはキツかった
はずなのに。

44カイザー:2004/06/16(水) 00:44
ベリサリウスの凄いのは、ナルセスに直参の兵力を奪われた後に、まだブルガ
リアとかペルシアで戦功を挙げてるというのに集約されるでしょう。

ちょっとうろ覚えだったんで、ギボンをぱらぱらと見返してたんですが、

ペルシア→ニカの乱→アフリカ(ヴァンダル)→地中海(ヴァンダル、東ゴート)
→アフリカ(ムーア人)→イタリア(東ゴート)→ペルシア→イタリア(東ゴート)
→ドナウ(ブルガリア)

という感じで、全く休みなく戦場を駆けめぐってたのを再確認して驚いていま
す。
小規模な戦いは私も知らないですが、上記の戦場では全てローマを勝利に導い
ているというのは、ベリサリウスでなければなしえなかったことでしょう。

私もカエサルを評価してないなんて言わないですよ。例えば、マッティアスさ
んのお好きなドミティアヌスとカエサルを比べるなら、カエサルの方が歴史的
には重要な人物だと即答する程度には評価しています。
いや、別にケンカを売ってるんじゃないんですが(笑)。

45マッティアス:2004/06/16(水) 21:45
当然、ドミティアヌスよりはカエサルのほうが重要ですよ。そこを混同するほど溺愛
していないので(←かなりアヤシイ)。ただ、他の議員達に気を使わなきゃならないの
に、完全に見下していて嫌われちゃったという過ちが共通してますよね。
スッラとか第二次三頭政治のように、政敵37564(←頭ワルイ)のほうが、怯えられて
も憎まれないですよね。なんて言うか、そのほうが同格になりうる存在として恐れら
れてるんだなあ、つうカンジで。“恩赦”ってのは自分が圧倒的優位に立っているの
でなければ(特に精神的に)、絶対できない相談ですからね。もうちっとポンペイウス
側についた人物を罰した方が良かったんじゃないかな、とか。変に周囲の嫉妬を買う
ようなことを好んでやる傾向がカエサルにはあって、そこが寛大というよりは自己中
心的であり、ナルシスティックで同時代の同資格の議員階級の人々に嫌われたんだと
思ってます。
ドミティアヌスの場合は元首政が成り立ってからで、元首という立場だったんで、話
はまた違ってくるんですが。この人の場合は実力主義傾向が強くて、何でも自分でや
りたがりすぎるところが、家柄の良い年長者に嫌われたのだと思います。もうちょっと
なあなあができれば、あと10年くらい生きられたかも知れないのに(苦笑)。

ベリサリウスについてはよく知らないのですが、この人は政治的野心とかってなかった
んですか?それともそんなことに関わるヒマもないほど戦争ばっかり押し付けられて
いたんですか??
それにしても、マジで戦争上手なんですね。練兵技術も優れているっぽいし。すごいな。
諸葛亮の知能を持った趙雲?←どういうイメージなんだか(爆)。何にしても、カエサル
よりも軍事的能力においては上っぽいですよね、この人。

46カイザー:2004/06/20(日) 23:49
ベリサリウスには野心らしきものは、なかったんでしょうね。一介の兵卒から
ユスティニアヌスとテオドラに引き立てられたという恩義に忠実だったのでし
ょう。
それでも、ヴァンダル王国を滅ぼした時にカルタゴの玉座に座ったのをちくら
れたり、ラヴェンナを占領した時にコンスタンティノポリスの代官を追い返し
たりとか、中途半端にユスティニアヌス1世の猜疑心を刺激したりはしてまし
た。
失脚した時には、これまでベリサリウスを弁護していて妻アントニアの親友で
もあった皇后テオドラが死去していたため、ユスティニアヌス1世にいじめら
れて財産を没収されてしまうことになります。

カエサルだって、ユスティニアヌスみたいに、適当に気にくわない部下の2、
3人でも粛正しとけば良かったんでしょうね。
無実の罪とかじゃなく明らかに有罪な人間を罰するのは当然であって、何でも
かんでも無罪放免にしてちゃねえ。

47マッティアス:2004/06/21(月) 00:36
カエサルの場合、ルビコン越えを決意した時、元老院でカエサルの味方に立ったのは、
アントニウスとクリオくらいで、あとは保留(あるいは棄権)かカエサルを国家の敵と
見なすカンジだったんでしょう?(条件付ではあるけれども)
まあ、粛清するとなると元老院総入替えぐらいの勢いで粛清しなきゃならないから、
どこで線引きするかとか難しかったかも知れませんが、主だった人々だけでも罰したり
しとけば良かったんですよ。少人数を犠牲にする事で、許された人々も納得したのでは
ないかと思いますね。

ベリサリウスがユスティニアヌスの猜疑心を誘った行動は、野心的というよりは軽率
だったんですね。いっそ野心があれば、生き残れたかも知れないのに、もったいない。

48カイザー:2004/06/26(土) 23:32
カエサルに限らず武力で政権を奪取したらやりすぎなぐらい敵対者を粛正して、
自派だけで周りを固めるべきなんでしょうね。スラもそうですし、コンスタン
ティヌス1世なんかもリキニウスら競争者の一族は根絶やしにしてましたしね。

もちろん、それで必ず安定政権を築けるということもないんですが。
マウリキウスを惨殺して帝位に就いて暴政を布いたフォカスとか、ブルガリア
の支援で復位を果たして復讐の鬼となったユスティニアヌス2世なんかは、や
りすぎて逆に反乱を誘発して失敗に終わってますしね。

49マッティアス:2004/06/28(月) 23:33
一応カエサルも自派の勢力拡大のために議員席を増やしたり、ガリア人に市民権を
配りまくったりしてるんですけどね。圧倒的多数の反対派の議員達をそのまま、って
いうのは本当に彼らの力なり誇りなりを軽く見すぎですよね。
カエサルの寛大さを持ち上げる塩野さんですが、スラのことも結構気に入っていて
評価してるんですよね。多分、“王”にでもなる気でなければ、スラのやり方が一番
徹底していて、すごい。
粛清がすぎると逆に反乱を誘発し易い、というのも確かにありますね。加減は難しい。
カエサルの場合は、殺さないまでも所払いにするくらいのことは、何人かの議員に
対して行ってしかるべきだったと思います。

コンスタンティヌス大帝の場合、多分性格的に怖すぎるのと、キリスト教徒をのさば
らせた関係で、あんまり好きではないのですが。政治力とかはすごいんですよね。
基本的にはリアリストだし。最期の時に洗礼を望んだ、というのはエウセビウスの
作り話か、すべての罪を赦される洗礼を“最期”にすることで、その前はやりたい
放題に粛清とかしまくる、という計算だったのかなあ、なんて。

50カイザー:2004/07/04(日) 23:14
コンスタンティヌス1世はローマ史どころか世界史的にも超重要な人物だと思
うんですが、何故かメジャーになりきれてないんですよね。カエサルに注目す
るより、こっちだろうと思うんですが、手頃な資料とかも少ないんでしょうねー。

コンスタンティヌスに一族根絶やしにされたリキニウスも、ガレリウスやディ
オクレティアヌスといった前任者の一族を皆殺しにしてるんですよね。

ギボンのヘラクレイオス朝辺りの記述を読んでると、皇族の目を潰したとか舌
を切断したとかサラッと書いてあってギョッとします。とりあえず皇帝に即位
したら、理由がなくても兄弟の目を潰して後顧の憂いを断つことが必須だった
ようです。
まあ、トルコの軍勢を目の前にして、身内同士の内紛を繰り返していたパレオ
ロゴス朝もどうかとは思うのですが。

51マッティアス:2004/07/04(日) 23:58
内紛ていうか血族の争いって、ものすごい憎悪が働いているので、敵よりも憎いんですよ。
第1回十字軍の成功だってセルジュクの分家や本家の戦いとか、そっちにかまけていて、
あんまり本気でイスラム側が相手にしなかったからですもん。

コンスタンティヌスはローマに限らず、その後の西洋史の流れをも形づくってしまった
超重要人物ですよね。確かに。
とはいえ、ローマで一番史料が充実しているのって、共和政末期〜五賢帝の時代なん
ですよね?タキトゥスやスエトニウスほど使える歴史書もないらしいですし。
そうなると、重要なのにあんまり書けないから、注目されにくいんですよね。
コンスタンティヌス朝にもキリスト教の影響を受けない、同時代の歴史記述が現存すれば、
もうちょっとメジャーになれた気がします。

52カイザー:2004/07/11(日) 22:31
ヘラクレイオス朝も地中海世界の支配者がローマ→イスラムへの移行したとい
う凄まじく重要な時代だと思うのですが、死ぬほどマイナーですよね。
ローマ側の視点がそうなのは致し方ない気もしますが、ウマイヤ朝とかのイス
ラム側の情報だって日本じゃ全く知られてないんですよね。ローマ側が滅亡寸
前で、ロクな資料もない暗黒時代だというのは分かるんですが、イスラム教徒
ってあんまり年代記とかの資料を残したりしないもんなんですかね?

セルジュク朝って、マリク・シャーの時代が最盛期だと世界史の授業で習った
記憶はあるんですが、具体的な情報ってあんまり分かってないんですよね。
ルム・セルジュク朝ってイル・ハン国が成立した頃まで健在だったと思います
が、本家よりも長命だったんですか?

53マッティアス:2004/07/12(月) 22:29
ルーム・セルジュク朝は細々と12世紀末まで生延びていましたよ。ほぼオスマン朝が
小アジアに進出するのと入れ替わり。一応、オスマン朝の伝承によると、ルーム朝の
スルタンから権力を委譲されたということになっており、オスマン朝はセルジュク朝
の後継者なのだと主張していたわけですね。
ルーム朝は第1回と1001年(全滅)、第3回の十字軍とも関わっていた筈です。本家は
確かサラディンの頃にはまだあったと思うんですが、いつまであったのかよくわかって
ないです(爆)。

イスラムってそういえばあんまり年代記ってない気がしますよね。少なくとも、邦訳は
されてない。カザン・ハンがモンゴルの歴史残したくらいですよね。
イスラムは、でも結構すぐに分裂しちゃったりする国家が多くて、かなり地方分権な
印象があるので、統一的な記録ってオスマンとかペルシアとかしかなさそう。
旅行記とか医学書とか個人の伝記なんかはあるし、洋書に「十字軍のアラブ史家」とか
いう研究書があるくらいだから、普通に同時代の歴史書はあるはずなんですけどね。


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