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神と科学は共存できるか
94
:
atheist
:2007/12/07(金) 15:24:45 ID:Dffm1ah2
93で引用した箇所だけだと、これがドーキンスの自嘲的な表現だということが分かりにくくて、誤解されそうな気がしてきたので、別の箇所も引用しておきます。
世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、
その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教のの名によっておこなわれる
悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っている----いや
むしろ、確信している。つまり、両親の信じる宗教を捨てたいという漠然とした願望を抱いて
いて、できればそうしたいと思っているが、離脱が現実的な選択肢であると気づいていない
だけの人々がいるはずだ。もしあなたがそういう人間の一人なら、本書はあなたにこそ
読まれるべきである。(p9)
96
:
名無しさん
:2007/12/09(日) 03:18:06 ID:E7qhD8do
なんだか知らないけど、当該の本も読んでないくせに孫引き、引用の
言葉尻をとらえて脳内敵認定&批判てダメじゃね?
97
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 03:58:19 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ
>その
>>54
の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。
・宗教(特に、ヘブライの一神教)という「ミーム」は自然科学という「ミーム」に敵対的であり、共存は不可能である、「侵略」というのは宗教と自然科学というミーム相互間が本質的に敵対的であるということであり、「殺す」とはミームの消滅をはかること(ヴィークルの消滅ではない)
ってところかにゃ。
宗教(特に、ヘブライの一神教)と科学の共存は不可であるというのがドーキンスの認識なのではにゃーのかね?
このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?
>>87
とかえらく非論理的にゃんぜ。ゲームに興味がなく、しかもゲーム特に有害であると考えてないのなら、ゲームを禁止しろとか言い出す必然性がにゃーだろが。もしゲームが有害であると信じるのであれば、ゲーム撲滅を願うのは当然ではにゃーかね。
ある特定の価値に対するニンゲンの態度はおおざっぱにいって3種類。すなわち、積極的肯定・消極的容認・否定、だにゃ。グールドの立場は消極的容認、ドーキンスの立場は否定であるという読みは間違っているかにゃ?
ある価値体系に対して、その有用性を認めず、有害性ばかりを言い募る言論をすることが、その価値に対する撲滅キャンペーンでなければなんだというのかにゃ?
98
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 03:59:36 ID:yb0RBWTc
>神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
>たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
>にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。
ここだけど、僕にはドーキンスが厨房にしか見えにゃーよ。人工世界論の富樫クンなみに馬鹿丸出しなのではにゃーのか?
ドーキンスの理屈で「ほとんど確実に存在しない」といっている神はどういう神なんだろね。
例えば、こんな神概念はどないだ?
ウィキ「否定神学」の項より引用
****************************
神はすべてを超え出ている。しかしそのような知識は神についての一面的な知識に過ぎず、否定神学によって否定される。たとえば、肯定神学は神を善を超えたものとして示す。否定神学においては、神は、善ではない。ただしそれは神が悪であるという意味ではなく、人間の思考しうるいかなる「善」をも超えているという意味である。人間や事物は神の善性に似ることができる。なぜなら善の源は神であるから。しかしそれは神が善性において人間と似ていることを意味しない。したがって、神は、人間が把握しうる限りでの善ではない。こうして一切の述語は否定される。否定神学の終局は、一切の形、音、概念、人間に把握されるすべてを捨てて、いわば概念の闇と沈黙において、すべてを超えた光のうちに、神と合一することにおかれる。
中略
ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。
こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立にも影響した。
またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられるそこにおいて、ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。
*******************************
こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?
ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?
だったら教えてくれよにゃ、いままでの発言を保留した上で、カネ出して「神は妄想である」を購入して検討するから。
「神の不在証明」とかいう理屈がありますよにゃ。神は完全であると仮定すると矛盾するから神は存在しないとかいうやつね。しかし、この否定神学における神概念であれば、この不在証明ではまったく歯が立たにゃーことはすぐにわかるだろ?
僕たちは線的な形式論理を日常的に用いているけど、そんなものは論理の中のひとつでしかにゃーだろ。
神秘主義的宗教においては、排中律すら通用しにゃーんだぜ。科学的な知見で存在を否定できうるはずもにゃーんだよ。
否定神学の神概念をここで出してきたのは、たまたま神学ドシロートの僕が哲学との絡みで少しは理解できるからだにゃ。でも、キリスト教の範囲だけでもいろいろな神概念があるんだにゃ。科学的知見で否定できるのは、聖書を逐語解釈したチンケな神くらいなものだろ?
富樫クンの人工世界論ってのは、本質的に無知で何もわかってにゃーくせに世界がわかったとか抜かすお笑い理屈だよにゃ。世界というものがどんなに複雑で記述し難いものかがわかってにゃーくせに、さも自分ではわかったように思うのは厨房でありトンデモだにゃ。
ドーキンスと富樫クンのどこが違うんだろね? 神概念というものがどんなに厄介なものかドーキンスにはわかっているのかにゃ? ボクシングを習い始めて1カ月の練習生をボコボコにして「ボクサーって弱いぜ」とかいっているチンピラ、人工世界論の富樫クン、ドーキンスは同じことをやっているのでなければいいけどにゃ。
99
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 04:00:53 ID:yb0RBWTc
他にもこんな話もあるにゃ
伊勢田哲治の「科学的実在論はどこへ向かうのか」
ttp://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/realism.html
科学・技術の枠内、あるいは常識的知見において電子の存在は自明であるとしても、科学哲学においては自明でもなんでもにゃーんだな。さっきの話は、ドーキンスの理屈は宗教的ロジックには通用しにゃーという話だったわけにゃんが、欧米世界における合理的思考のひとつの極みである科学哲学に対しても、ドーキンスの理屈って通用しにゃーんでにゃーのか? 電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?
正直なところ分析哲学系はまるでわかんにゃーので、科学哲学における議論を展開する能力が僕にはにゃーんだが、ドーキンスの理屈は科学哲学的にみてどの程度の水準なのか重大な疑義があるのではにゃーのだろうか?
つまり、神学や観念論哲学の知識があるニンゲンだけでなく、分析哲学や科学哲学系のニンゲンもドーキンスを嘲笑してなければいいね、と。
つまりさー、「ほとんど確実に神は存在しない」などとグールドがいわにゃーのは、グールドが科学主義的厨房ではにゃーからだよ。
でさー
こういう底の浅い厨房発言をするのが富樫クンだったら笑っていればいいわけ。ところがカリスマのドーキンス先生がおっしゃると、真に受けるお歴々がでてくるにゃんな。
僕自身は進化生物学をベースにした人間観を採用するがゆえに、「味方陣営のカリスマ」の科学主義的厨房発言を看過するわけにはいかにゃーんだよ。「利己的遺伝子」「ブラインド・ウォッチメイカー」のドーキンスに対する評価は高いつもりにゃんけどな。神を攻撃するドーキンスはただの厨房だにゃ。
で、その厨房としかいいようのにゃー幼稚な認識を振り回して、「敵陣営」の多様さや奥深さを無視して同一視して否定するってのはどういうことよ? 多様さを無視して同一視するのはファシストのお決まりの論法であり、ドーキンス自身もそういうのはダメだといってたんでにゃーのか? 厨房かつダブスタでファッショでは何の救いもにゃーだろ。百害あって一利もにゃーな。
事実、僕はいわゆる創造カガクの言説について、多少なりとも同情的になっちゃったにゃ。
こんなドーキンスみたいな厨房の宗教否定言説がまかり通るのなら、その対抗言説として創造カガクのようなものがあっても当然ではにゃーか。
100
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 04:01:49 ID:yb0RBWTc
さて、宗教と倫理のからみね
>宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。
はあ?
その理屈だと、カトリックのフェミもプロテスタントのフェミも無神論のフェミも区別をつける必要がなくなっちまうだろ? みんな同じだとでも思ってんの? カクレクマノミの通常の言動を知る身としては、信じられにゃーほど粗雑にゃんな。
ちょっと別の視点から見てみるにゃ。法と宗教の関係ね。
以下は「世界の法思想入門」千葉正士著 講談社学術文庫版 より「結論 諸法思想の比較的特徴」より引用
***********************************************
まず法と宗教との関係について、西欧法思想の特徴がいちじるしい。言うまでもなく、法と宗教の分離を憲法上の大原則としていることである。これは、近代国家法としては普遍的原則であることに疑いない。しかるに、他の法思想はむしろこれと異なる。ユダヤ・イスラム・ヒンドゥー・仏教の各法思想は、宗教と一体である。固有法思想も現在まで報告されているものは、祖神信仰・超自然力信仰・精霊信仰あるいは創造神信仰など何らかの宗教的信仰と結びついている。
中略
だが、西欧法思想も、法理論としては法と宗教を峻別するけれども、法文化としては、両者は、峻別されていないどころか、反対に不可分の関係にある。西欧文化は、諸民族の固有文化とキリスト教が同化した結果であり、西欧人の行動基準はキリスト教倫理か少なくともそれの支配する社会道徳である。
中略
法と宗教の分離という法理論上の原則は、法が自己完結の規範論理体系であるという観念上の要請を概念的に尊重するための文化的な形式だと言わねばならない。逆説的に言えば、法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。
P290〜292
***********************************************
法と宗教の分離なんて前提だと僕たちは思っているにゃんが、ぜんぜんそうでもにゃーんだよね。このあたりの記述を見ると、宗教が法に対して発言権を持つのは当然もいいところにゃんがな。法と宗教の形式的分離という、キリスト教に特有の法思想を前提にすることは、各文化における法思想に対する押し付けであるという意識は、法人類学においては共有されているもののようにゃんな。
法思想ですら宗教と不可分であるのに、倫理と宗教の分離なんざどこの厨房のタワゴトかと眩暈がするにゃんよ。
それにね
キリスト教の歴史というのは、政治・科学・法などとの分離の歴史であるといえますよにゃ。キリスト教の枠内において、宗教と倫理の分離という話が出てくるのも理解はできるにゃ。しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか? まさに、異文化否定のローラー作戦だにゃ。
ドーキンスは、自分でも知らずに他の文化圏をキリスト教化しようとしているオオタワケ。まさに厨房だにゃ。
101
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 04:04:56 ID:yb0RBWTc
>>96
まともな本相手であれば、おみゃーさんの言う通りにゃんがな。
厨房のタワゴトだと読まずにわかるのであれば、そんなものを読む必要なんてにゃーのだよ。
102
:
後悔と懺悔
:2007/12/09(日) 07:51:23 ID:FvvOuBrA
これだけ議論を重ね、コメントを何度も読み直し、それでもまだドーキンスのほうに強く説得力を感じるのは、私が「反宗教-原理主義者」だからなのでしょうか。
たとえ仮にドーキンスが「反宗教-原理主義者」だとしても、ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め、その答えを全人類に(他の「宗教」や無宗教者、これから生まれてくるすべての人たちを含めた全人類に)広く示す義務と責任がある──と思わずにはいられません。
たとえば、超自然的な神や教義の存在は重大なNOMA違反ではないのか。「宗教」は、自らの神や教義を支持する科学的事実があったときにもNOMA原理を遵守することはできるのか。そもそも厳密なNOMA原理の遵守など有り得るのか。(『神は妄想である』第2〜4章など)
たとえば、「宗教」は自らに批判が向けられることに対してどのような態度を奨励してきたのか・今後するのか。その態度の正当性をどう説明するのか。(『神は妄想である』第1〜2, 8章など)
たとえば、「宗教」は自らが犯してきた過ち・犯しうる過ちに対して、どこまで自覚し自省しうるのか。「宗教」は自らが犯しうる過ちに対する有効な「ブレーキ」なり「フェイルセーフ機構」を自らもちうるのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、これらの批判に真摯に向き合った「宗教」があるとして、自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。
「宗教」批判者の態度など、「宗教批判」そのものに対する皆さんの反論にはそれぞれ正当性があるのでしょう。説得力を感じるものも多いです。しかし、私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。
一方、ドーキンスは「宗教撲滅論者」「無宗教-原理主義者」かも知れません(私にはそう思えませんが)。しかし、そのような態度は別にして、ドーキンスが主張する「無宗教者」擁護の言説とその根拠には、とても強い説得力を感じます。
たとえば、他人の「宗教」を、他人の家族や食事の好み以上に尊重しなければならない理由はあるのか。その理由は本当に正当と言えるのか。(『神は妄想である』第1, 5〜7章など)
たとえば、無宗教者が自分の立場を(「宗教」に配慮・遠慮することなく)明言できるということは、社会にとって健全なことではないのか。自分の価値観や道徳観を表明するのに、また、新たな問題について倫理的な考察をするのに、まず「宗教」に配慮しなければならないという社会は、あまりに不健全ではないのか。(『神は妄想である』第1, 8章など)
たとえば、私たちが善良であることに「宗教」はどれほど寄与しているのか。現代ではむしろ「宗教」は人類の「道徳観念」の「進歩」に対する足枷となっているのではないか。(『神は妄想である』第5〜7章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。
ドーキンス(や私)が、「宗教」を有害なモノとみなすよう促しているのか、全否定しているのか、撲滅しようとしているのか、そういった議論はともかく、私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。
103
:
後悔と懺悔
:2007/12/09(日) 08:01:40 ID:FvvOuBrA
10日以上読み返し自分なりに咀嚼し検討したコメントに対してならば、私のような偏見に凝り固まった人間でも、多少とも何らかの示唆となりうるコメントができるのではないかと期待します。より最近のコメントについては、私がまだ十分に意を汲めていないと思われる点が多々あるので、もう少しじっくりと反芻してみます。
>>57
:AH1さん
>これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
>その壁は意外と薄いのではないか、と思います。
>>48
にも他にも随分と書いてきたと思うのですけど、私が興味深いのは、なぜ「“正しさ”を独占するモノ」を批判すべきだという思想が、「オレの言い分を理解できないヤツは撲滅したるんじゃー!」になりうる、その壁は意外と薄いのではないか──と思われるのだろう……ということです。
決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。
>>58
:リリスさん
>でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。
おっしゃることは正論だと思います。しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。的を射た喩えではないかも知れませんが、「穏健な行革肯定派」は「過激な行革肯定派」が弱者切り捨て政策を次々と断行することに対して責任はないのでしょうか。責任を追及するのは酷だとしても、何の負い目も感じないとすれば、やはり問題かと私は思います。
本音を言えば、
>>64
でリリスさんが述べているように、ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。
>>58
:リリスさん
>(前略)で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。
もちろんおっしゃる通りです。しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。こういった人間の問題に関して思索するときに、「宗教」という腫れ物に少なくないリソースを向けなければならないというのは(私にとっては)悲しいことです(たとえば、
>>6
の最初の2段落を参照。これは私があらゆる事柄のなかで最も声を大にして主張したい気持ち・感情の発露です)。
ドーキンスは次のように書いています。「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、(中略)内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカーチームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる(『神は妄想である』378頁)」
>>64
:リリスさん
>私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。
「正しさ」が静的に硬直したものでないことは、『神は妄想である』第5〜7章(とくに第7章)の主要なテーマです。人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。
そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。つまり、「動的に探求されてきた」動機は、「宗教」そのものにあるのではなく、たとえば「安息日に薪を拾ったからって処刑するのはやりすぎじゃないか」とか「処女でないという理由だけで婚約者に打ち殺されるなんてあんまりじゃないか」とかいったより素朴でより根元的な感情が動機になっていたのではないかということです。この考えでは、「宗教」そのものは「進歩」に対するブレーキとしてのみ働いているわけです。
104
:
地下に眠るM
:2007/12/09(日) 10:24:39 ID:yb0RBWTc
>自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。
20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?
ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。
チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。
105
:
後悔と懺悔
:2007/12/10(月) 00:56:07 ID:FvvOuBrA
かなりムカついたくらいで自分の決めた約束事をあっさり反故にするダブスタ野郎の言うことなんで、適当に無視するなり嘲るなりしてくれれば良いのですけど……。
>>104
:地下に眠るMさん
>20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?
知ってますよ。
>>4
で地下に眠るMさんご自身が再掲した私の(2007/11/08 20:08)のコメントの最後の一文は信じてもらえてなかったわけですね、残念です。ちなみに、「無宗教の名の元に」という主張にはとてつもなく強い違和感がありますが、地下に眠るMさんがそう主張し続けるなら、いずれ議論の俎上にのぼることになるでしょう。
>>104
:地下に眠るMさん
>ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。
>>91
を書いた直後に、なおそういうことを言われなくちゃいけないんですか。
>>5
で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論を読んで、なおそういうことを言われるわけですか。
もともと私の問題意識は、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである(マキアベリ)」にあり、「人が犯しうる過ち」についてであり、ヒトラーやスターリンやポルポトの虐殺のようなことがなぜ起こるのだろうといったことから始まり、より身近な「ニセ科学」問題を経て、理科教員時代に「オウム事件」の衝撃を受け、「宗教」に至っているわけで。私としては、すべては同じ問題意識上にあるんですが。
で、地下に眠るMさんは、私にどんな責任をとれとおっしゃるのでしょうか。
一応、私は微力ながら理科教員として、科学や科学史などの話題を取り上げながら、「人はどんな過ちを犯してきた・犯しうる存在なのか」「どんな自戒が必要なのか」といったことを子供たちや同僚に伝えてきたつもりですが、まだ不足ですか、そうですか。いや、不足なんじゃなくて、そもそもそんなのは責任の取り方として見当違いだとおっしゃりたいのですか。教えて下さい。
ドーキンスがスターリンやポルポトの虐殺にどんな責任をとっているのかは、『神は妄想である』第7章を読むか、彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。
>>104
:地下に眠るMさん
>チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。
そうしたいし、そうしているつもりなんですけど、自分の能力を超えることはなかなかできないんで、自分が知らないうちに失態を犯していたり陥穽にはまりこんでしまっていたりしていたときには、そう指摘していただけるのはとても有り難いです。ただ、今回はさすがに納得しかねました。10日以上推敲した結果がアレなわけで、そんな馬鹿で無知な人間にも、どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。
106
:
chochonmage
:2007/12/10(月) 01:46:43 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様
猫さんの「ダブスタ」は、後悔と懺悔さんの、
>「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
を受けてのことでしょう。
(無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
になるという事。)
それから、
>彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。
は、それを言っちゃあおしまい、ってやつみたいに思います。
ですが、私も猫さんに質問。
スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
とは考えられません。いかがでしょうか。
私の無知なのかも知れませんので、もし文献をご存知でしたらご紹介いただけたら幸いです。
107
:
カクレクマノミ
:2007/12/10(月) 02:08:07 ID:THRtI5kM
>このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?
「できたら撲滅したい」と、独裁者の言う「殺してしまえ」というのはずいぶんニュアンスの違う言葉だと思いますが。
まあ何にせよ、ドーキンスが宗教をできたらなくしてしまいたいと考えているのは間違いないと思います。たぶん、地下猫さんが安易な宗教否定を撲滅したがっているのと同じくらいに。
>こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?
ドーキンスは、自分が否定する「神」の定義をかなり絞っています。
ドーキンスが批判対象とする「神仮説」は、
「宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説」(邦訳p.52)
です。これ以外の神の定義が可能なことも、それらについては批判できていないことも、ドーキンスは認めています。
だいたい、無数の神の定義すべてを扱おうと思ったら、たぶん定義の列挙だけで「神は妄想である」よりも厚い本が必要でしょうね。
ドーキンスは、もちろんあらゆるパターンの宗教や神を批判できてなどいないし、それができているとは思ってもいないでしょう。
ドーキンスが直接に議論している宗教はごく一部であり、その他の宗教をどう判断するかは読者への宿題といった所でしょうね。
ドーキンスの批判点をすべてクリアした宗教があるとしたら、胸を張って出てくればいいし、ドーキンスもそれを批判はしないでしょう。
>電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?
地下猫さんの議論とは思えないほど甘いなあ。
科学哲学における反実在論に基づいても、神仮説が妥当でないという主張は可能です。
確かに反実在論を考慮すれば電子の実在は自明ではありませんが、「電子仮説」が妥当かどうかは判断できます。
ついでに言うと、科学者の中では素朴実在論の立場が多数派で、反実在論科学哲学者もいちいち科学者の実在論的言明の言葉尻を捉えて嘲笑するほど暇ではありません。
そんなことをしていたら、科学哲学者は素粒子物理学のジャーナルを1冊読み終わる頃には顔の筋肉を痛めてしまうことでしょうし、1年分読み終わる頃には寿命が近付いているでしょうね。
>しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか?
分離"しろ"なんてドーキンスは一言も書いていないし、僕も書いた覚えはありません。
書いてないことに文句を言われても困ります。
108
:
NAN
:2007/12/10(月) 02:24:19 ID:???
>>102
>>103
:後悔と懺悔さん
私もあなたの主張に批判的ではあるのだけれど、そのポイントは少し違う(あるいは単にちょっとソフト)ものです。議論自体については基本的に傍観していましたが、ここでちょっと気になる点を書いてみます。
>ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め〜
一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?そもそもすべての「比較」において、どこかに軸が必要になるのは当然なのですが、その軸が、果たして対立軸だったり集団を隔てる壁となり得るものなのか、さらには自分は「どちら側」にいてという前提に立っているのか、その前提は本当に確かなものなのか…それらについて私はとても懐疑的な気持ちでいます。
>私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。
その議論とはネットの議論ですか?ほとんどの場合、ネットで発言している宗教擁護者というのはどうにもならないガチガチのバカです。というかそもそもネット議論に参加している人口など、すべての宗教者のほんの一部でしかなく、さらに極端なニンゲンばかりである、と私は認識しています。これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。
>私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。
その点は私も大いに関心があるし、そういう議論を歓迎するでしょう。しかし、ドーキンスの著書をベースに議論を進めたところで、書評あるいは人物評(非常にローカルで問題とはまったく別次元である、ということ)から逃れることもできないでしょう。
で、せっかくなのでこの点について少し書くと、宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。ではどのような議論が考えられるのか?私はそれを「絶望の上に立った議論」と表現します。
先にも書いたジンルイの妄想とは、希望だとか理想だとかあるいは「期待」と言い換えることができるだろう、と思っています。相手に対する期待。それはつまり自己の投影であり社会と自分との同一化でもあります。自分は健全で犯罪者ではなく常識を持ち善意的な人間であるみたいな認識です(笑。同時にそれは相手もそういうニンゲンであることを期待している(前提にしている)ことを意味し、共通の文化基盤、共通の生活様式などを自分と同様に相手も保持していることを無意識に要請します。これは群れ生活を営んできたジンルイすべてが持つ広範囲で脆弱な特性でしょう。
さてこの「期待」がほとんどすべての社会生活者が持つ妄想であるのならば、ほとんどすべての社会生活者も、実は宗教者(とここで表現されている仮想集団)となにも変わらない、というのが私の認識です。そこで、少し考えていただきたいのですが、これ、実は巨大宗教のほとんどが持つ「他力本願」の思想とそう変わりがありません。つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。まぁ残念ですが、こんなカタチの「啓蒙」はまったく無意味だし、対立の溝を深めることにしかならないでしょうね。(対立の溝を深めたいならそれもOKなんですよ)
109
:
NAN
:2007/12/10(月) 02:24:51 ID:???
絶望とは、相手に期待しない、ということです。この「相手」とは個人や集団に限らず社会だったり因果律で云う結果だったりします。自己の投影を行わず、相手を想定さえせず…って姿勢を極限まで貫いていくと、物凄く宗教的なスタンスが生まれるように私は思います。まぁつまり、敵を撲滅したり殲滅したりっていう、「攻撃(他力本願)」を行う姿勢からはなにも生まれないので、自分以外という認識を捨てて、自分自身が敵そのものになるしかないんじゃないでしょうかね。いわゆるこれは…「出家」みたいなものですね。
>ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。
ね、他力本願ですね。宗教者と表現されている人となにも変わりません。念仏を唱えても極楽浄土には行けません。それと同じことです。もしもあなたがクリスチャンのなにかを変えたいのであれば、あなた自身がクリスチャンとして影響力のある存在になるしかないだろう、という意味でもあります。
ここからは私の意見を書きます。
なにがしかの信条、あるいは信仰などによってラベリングされる人々(集団)になにか問題であるのだとして、本当に問題となるのはその「ラベル」にあるのかどうか?そういうことに私は重きを置きます。あるいは、置きたいです。たとえば、大学卒業者に対して中卒者の犯罪率がもしも高いのだとしたら、問題があるのは「中卒者」という集団(サンプル)でしょうか。そうではないはずです。中卒者となるだけのなにがしかの理由や社会システム、そういった要因が必ずあるはずだ、と私は思います。さらにそれらは必ず個別の事象に行き着き、複雑でしょう。この複雑な問題を解決するのだとしたら、相当に慎重で、計画的で、あるいは自力本願的な言動…仮想敵に対する相当に正しい認識あるいは理解をもたないことには、どうにもならないだろうというのが私の意見です。しかし、不可能ではない。これもやはり、私の認識です。
病的な原理主義や妄信、教条的な思考、それらはいつでも誰でも発現し得るありふれた現象で、ボーダーレスに「ある」事象です。たとえば私は法を守らないこともできる…しかも法を守らないからといって必ず人殺しや泥棒になるわけではありません。ではなぜ、私は教条的に法を守ろうとするのだろう?それはニホンジンという集団幻想の中に私がいるからです。(かなりはみ出していますが)
社会は逆に、私(あなた)自身をも投影します。つまり社会(あるいはここで云う宗教者)がなにか「悪い(自身に対して害)」のであれば、それは私自身が認識する「倫理価値の軸」の投影でもある、ということです。
110
:
AH1
:2007/12/10(月) 12:37:17 ID:fKqeZx4M
>>決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。
これは半分は自戒を込めての事なのですが。
壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。押し返すのもやりすぎれば侵略、とはそういう意味です。
もう一つは、こうです。ここで恐らく、後悔と懺悔さんと私は『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という考えを共有しています。それを共有していない人間に対し、共有せよと迫る事は良いのか?ということです。
そりゃまあ、別に構わないとは思います。主張したければする自由があります。運動したければする自由もあります。ただ、ダブスタにならないためには、宗教の自由も布教の自由もあると言わざるをえない。すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(ex. 共産党の街頭演説を狙って軍歌を流した街宣車が来るようなもの)。
つまり、「譲らずに意見を言い合う」という理想論が「大声で喚いている馬鹿が二匹」に落ちぶれるのはとっても簡単じゃないかな、ということです。
さらに一つは、自戒を込めてですが、「宗教は現実世界について正しいことを言っていない、それは科学の役目である」という考えが、科学的には正しいのでしょうが、本当に正しいかと言えば絶対の自信はないということです。同様に『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という私の持っている「幻想」が本当に正しいかどうか、それにも絶対の自信はありません。
また、例えば中絶に反対だから医者を殺すとか、婚前交渉があったからと女性を焼き殺すといった例は私も否定すべきだと思いますが、これはいわば極端な例ですよね。原爆による被害の写真を見せながら「原子力は恐ろしい、科学は危険だ」と言っているような、ちょっと恣意的な気配を感じてしまうのです。
「科学で検証できそうな『現実世界』は全て科学のもの、宗教が口を挟むのは越権行為!」と主張するのは、科学主義としては痛快かもしれないんですが、そうすると宗教の出番って最終的にはほぼ無くなりますよね(なんせ人間がこの世に生きているんだから、この世に何のかかわりもない絵空事なんて宗教にもならない)。これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。
111
:
GB
:2007/12/10(月) 19:41:52 ID:Ni9i2QWM
以前頂いた、後悔と懺悔さんからのことば、
>人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる
(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ
思われる)」私には、ドーキンスはこう言っているように聞こえます。
私にも、そう言っているように聞こえます。さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
言っているように聞こえます。でも、
理性、倫理、道徳などという実に人間的な属性が、ヒトの生物学的な基盤の上に立つものであることは
当然だとしても、「倫理もミームで説明できるはず」で済ましてよいのかどうか。
その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。
ドーキンスが頭に置いていたのが一神教または組織宗教だけだったとしても、彼の論理の流れは
どうしたって「宗教一般」に関わるものであり、しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、
まるで、と言って良いほど答えていない、と思います。
(人間性の進歩というテーマについての「時代精神」の章でも同じ感想を持ちましたが、ここでは触れません)。
でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…
でも私には、そう映るんです。
112
:
地下に眠るM
:2007/12/14(金) 12:28:29 ID:cizMQ0FI
なかなか書くヒマがにゃーので、むかーし第一掲示板に書いたネタのコピペ
形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ
>
背理 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年01月05日23時40分
****************************************
三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************
科学的世界観をもつためには、心に棚をつくらなければならず
信仰においては背理に耐えられなければならにゃーのだね
<
113
:
atheist
:2007/12/15(土) 21:04:22 ID:MCLpIKSA
地下に眠るMさん(以下「Mさん」と略)へ
>形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ
これは、神の存在を肯定する側にも言えることですね。
そもそも論理によって神の存在を証明しようとすることがおかしいのです。宗教を否定する側が狙っていることは、論理による神の存在証明の弱点を突くことにあるのであって、神の非存在を証明することではありません。だからMさんの批判は宗教批判派への攻撃としては無効なのです。
スパゲッティー・モンスターの存在が否定できないように、なにかが存在しないことの証明は不可能なのです。Mさんはスパゲッティー・モンスターの存在を肯定するのですか?
>すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。
これって単なる開き直りじゃないですか。全然宗教の擁護になってませんよ。むしろ全否定じゃないですか。
114
:
atheist
:2007/12/15(土) 21:32:03 ID:nBjbGh2w
GBさんへ
>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と言っているように聞こえます。
確かに、現に存在する複数の倫理/道徳の体系を評価し、その中からひとつを選択するということは科学の問題ではありません。ですが、なぜ現に存在するような倫理・道徳が存在するか、ということなら科学である程度説明できると思いますよ。
>その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。
その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん
だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。
>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。
なぜ宗教が存在するかという問題(事実の問題)と、宗教が必要かという問題(価値の問題)は別のものです。宗教の問
題になると常にこの問題が混同され、「現に存在するのだから必要なのだ」と考えてしまうのが混乱の元なのです。
115
:
atheist
:2007/12/15(土) 21:49:06 ID:nBjbGh2w
MANさんへ
>宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解
、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。
>これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗
教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。
別に私は、宗教家対反宗教家だとか、ドーキンス派対アンチ・ドーキンス派だとかいう枠組みで戦おうなどとは思っていないのです。
宗教を否定することと宗教家を否定することは別のことです。ドーキンスは、宗教をウィルスのように考えている(つまりミームとして考えている)わけで、そのウィルスにどう対抗するべきかということを考えているのだと思います。ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません。問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。
116
:
GB
:2007/12/15(土) 22:40:59 ID:zXfK7pu6
とりあえず、グールドの言葉で。
「敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である──人類と同じぐらい古く、永続的に警戒することなしには
廃絶することができない伝統である。」
(『神と科学は共存できるか?』P158)
117
:
atheist
:2007/12/15(土) 23:14:12 ID:azIdXNDg
もうひとつ問題があるのを忘れていました。
それは、ウィルスに感染していない人の中にも、ウィルスに感染することに意味があると思っている人がいるということです。
GBさんへ
宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。
118
:
GB
:2007/12/15(土) 23:43:36 ID:zXfK7pu6
すべての人間は、それぞれのウィルスに感染してるんだと思いますよ。
119
:
NAN
:2007/12/16(日) 13:33:40 ID:???
>atheistさん
横レスですか?構いませんが、私はあなたの発言について対立軸や立場を指摘していません。ですからあなたの反論は検討違いです。また、あなたの発言は私的にノーマークでした。チェックすらしていないのでどんな主張をしている方なのかさっぱり分かりませんでした。
>問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。
そこで、逐語的にここだけ指摘します。
上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。
あなたが比喩として持ち出した「仮想ウィルス」はどんなウィルスですか?感染すれば必ず癌化したり致死的な症状をもたらす殺し屋ですか?それとも、遺伝子の「運び屋」みたいなものですか?ミームというガイネンを持ち出したからには後者を想定しますが、その割には「ミームを持つことに自覚のないことが問題だ」と結ぶあたり、ご自分でなにを主張しているのかさっぱり自覚していない風情に見えます。
あなたは宗教というミームを「殺し屋(ネガティブなもの)」と最初から固定して想定し、そのうえで文脈を組み立てた。ところがミーム(いや、ウィルスですら)はさまざまな性質を持つし、それぞれの環境に対して正方向にも負方向にも作用し得るものであるはずです。これらに「感染」している自覚を持っているほうが平常時には不思議だし、自ら感染したのであれば誇りを持っているであろうことは当然です。
別に私のHNを間違えてても構いませんが、反論らしきことを述べるならまともに推敲した文章でお願いします。
120
:
NAN
:2007/12/16(日) 13:56:11 ID:???
ついでにもうひとつ「横レス」しておきます。
>117:atheistさん
>宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。
あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。不寛容なニンゲンとなると、そこら中に見受けられます。たとえば私もそうです(笑。
>114 を見ると、
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩んだりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。
現にあなたも「宗教と云われるものは一切信じない」という枠組みの中に縛られ、教条的に発言しています。どうやら「ゲームは(自分には)必要ない」というミームにも感染しているようだし、その自覚もなく、感染しているこおに誇りすら感じる。まさにあなたの指摘に適合しますが、それは宗教の性質ではなく、ニンゲンの性質でしょう。
121
:
NAN
:2007/12/16(日) 15:50:30 ID:???
日曜日に時間が取れるのは珍しいんだけど、なぜか空き時間ができたのでもう少し書き込もう。
宗教に対して、私は以前から強い興味を持っている。しかし、どこか特定の宗教に入信したり、信仰を持っているわけではない。無論、よくある「ニホンの家系」に属するので、菩提寺というものはある。これは禅宗で、比較的古風な宗派だけれど、私が好きな原始仏教とはほど遠い。
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/
webには上記「佐倉哲エッセイ集」のように優れたソースもある。恐らく、この方も「入信はしていないが宗教の研究をライフワークにしている」のではないだろうか。宗教と対峙する姿勢にはさまざまなものがある。科学的仮説に対して批判を行ったり、反論を述べるにあたって、該当する仮説をきちんと理解していなければ、激しい見当違いになるのと同様、宗教についてなにか批判を行うのであれば、宗教に対しての一定の理解がなければ、同じく見当違いになるのは当然だ。ネットに多数存在するカルトバカ宗教のアホ信者を蹴飛ばすのは簡単だけれど、巨大宗教に対してこれを行うには相応の覚悟がいる。
しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。
「暴力」は問題視されて当然だ。しかしそれが果たして宗教と直接結びつくものなのかどうか?これは科学的創造論者が進化論をさっぱり理解していないのに批判することと対峙する「場面」とは根本的に異なる、と私は思っている。ニホンでも、オウムのテロ行為は記憶に新しいし、私個人も最近とあるカルトの勧誘を受け、薄気味悪い主張に辟易したことがある。しかし、これらは本当に「宗教」という枠組みの持つ性質なのだろうか?はっきりとは云えないのだけれど、私は「違う」と考えている。
あなたはあなたの出身地や出身校についてバカにされると、腹を立てないだろうか?あるいは、宴席で隣に座った誰かが同じバックボーンを持つと知ったとき、喜んだりしないだろうか。これらは平常なニンゲンが誰でも持つ情緒だろうと私は考える。親は自分の子供を思うように育てようと夢想する。言い換えればコントロールだ。度が過ぎると破滅が起きる。さまざまな宗教団体を舞台に起きる事件の数々も、実を云うとそれと同じシナリオで起きているのではないだろうか。義務教育を経て高校〜大学と進学し社会に出て就職する。これを教条的と云わずなんと云えば良いのだろう?毎日同じ時間に起床してどこかに通勤または通学し、だいたい同じ時間に帰宅したり飲みに出たりする。そういう「レール」に乗ることを是とする性質はとりたてて珍しいものでもなんでもない。あるレールを失ったり転落してしまった場合、代替となるレールが必要になるだけのことではないだろうか。そこに宗教の存在理由の「ひとつ」がある、と私は思う。
122
:
NAN
:2007/12/16(日) 15:51:05 ID:???
宗教の持つ根本的価値のひとつに「死後の救済」がある。これはすなわち、生の反映でもある。死後も今と変わらないか、それ以上の「生活」があるという教えだ。さらに突き詰めるとそれは、財産の保証もしくは利息の支払い契約でもある。この場合、支払われるものはなんだろうか?それは多分「命、または魂などと呼ばれるガイネン」で表される。つまり、生命が永遠に失われないという期待に対する答えが「救い」なのだろう、と私は考える。
生命は常に、いきなり失われる不安にさらされている。この掲示板を見る誰もが、数分後には後ろから自動車に轢き殺されたり、落雷に当たって命を落とすかも知れない。生きるという連続は所有を蓄積する連続でもある。金持ちがやたらとお布施を弾むのは、掛け金を多くすればそれだけ多くの見返りがあるだろうと期待する心情に他ならない。そしてそれは、実業家が事業に投資するのと原理的にはまったく同じ心境だろう。それらは常に、失われる不安を伴い、射幸心を煽る。射幸心の存在する場所には、大きなビジネスチャンスが必ずある。そう、宗教とは巨大なビジネスでもある。「あなたはなにも失わない」という保証、それが商品である。
宗教の問題とは、所属や帰属意識、喪失の不安、集団繁栄の欲求など、ニンゲンが持つ根源的な「共同体意識」に等しいか、相似していると私は考えている。めちゃめちゃな教義や馬鹿げた教条主義を蔑視するのであれば、あなた、あるいは私が日々精進している「馬鹿げた商材の販売」や「異常な派閥主義」とか「超非人道的な人道政策」など、合法的に正当化された行為だって、同じく蔑視の対象だろう。また、そういうものと自分は一線を引いているという自覚でさえ、それら蔑視されるべきものの対称軸にあるだけのことで、実は相似形なのだ、と私は思う。
最後にテーマに戻ろう。宗教と科学が共存できるか?ということを考える以前に、一般生活と科学は共存できるのだろうか?と私は考える。霊の存在、オーラがどうの、死後の世界、宇宙人、世界規模の陰謀、地球空洞説など…そういうものと科学は、果たして共存しているだろうか?私はむしろ、優れた宗教家は科学を伴侶にできるけれど、大半の生活者は科学と共存できないのではないか?と思っている。科学的検証や実証とは無縁に、テレビで見たから納豆を買う消費者は、それが妄信であることなど歯牙にも欠けず財布を開き、ブランドを信仰し、中身を知りもせずに高価なだけで低性能なメーカー製パソコンを使用する。自分の行動を懐疑しない人格とは、カルトそのものであろう。
123
:
地下に眠るM
:2007/12/16(日) 18:39:18 ID:Ja2I4.Nc
>atheistクン
>その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん
>だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。
チミは少し悩みなさい。
少なくとも、自分がぜんぜん読めてにゃーとか明後日の方を向いたことを言っているのではないかとかいう疑義を持つべきだにゃ。
字が読めるようになったらまた遊んであげるね。
他の返すべきレスは返しますにゃ。
なんか忙しくて余裕がにゃーのです。ごめんね>おおる
124
:
atheist
:2007/12/16(日) 22:12:02 ID:T4.UK3Ao
NANさんへ
全く申し訳ありません。ご指摘を読んだ時点でもしばらく何を言われているのか分からない位「MANさん」だと思い込んでいました。平謝りです。
>上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。
分かりくい文章で申し訳ありません。NANさんがおっしゃる通り、ウィルスにもタチの悪いものといいものがあるわけで、私が言いたかったのは、宗教はタチの悪いウィルスだということです。
>あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。
これには同意できません。これだと人間が不寛容になるのは不可避だということになってしまいます。不寛容に抗う「枠組み」も存在すると思います。
地下に眠るMさんへ
ドーモスミマセン。私は苦悩するだけの深みもない、浅薄でノーテンキな人間です。だけど、なんで悩まなくちゃいけないんですかね?苦悩しながら他人に害を与える人間とノーテンキで害のない人間となら、私は後者を選びますが。
私も、平日は忙しいので書き込めないと思います。っていうか、もうここには書き込まないほうがいいのかな?
125
:
atheist
:2007/12/16(日) 23:14:30 ID:rUnqyHU.
地下に眠るMさんへ
すみません。最後にもうひとつだけ。
私が文も読めない大馬鹿者だからだと思うのですが、今にいたるまでMさんの宗教に対する立ち位置が分かりません。
「否定神学」だの「啓蒙の弁証法」だのと難しいことを言われても、無知無教養の私には理解できませんので、選択式で
答えてはもらえませんか。そうすれば、私もスッキリした気持ちで退散できます。
1.宗教は絶対的な善である。
2.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見るといいところのほうが勝る。
3.宗教は絶対的な悪である。
4.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見ると悪いところのほうが勝る。
5.宗教は悪であるから絶滅すべきである。
6.宗教は悪であり、できればなくす方向にしたいが、無理に絶滅しようとすると悲惨なことになるので、慎重な対応が必
要である。
7.宗教が善であろうが悪であろうが、多様性をなくすことは問題なので、宗教を擁護する。
8.そもそも宗教をなくすことは不可能なので、善だの悪だの議論しても無意味である。
9.宗教は合理性を超えた深遠なものなので、善だの悪だのという議論からは超越している。
10.ドーキンスは厨房なので、ドーキンスの宗教批判はなにがなんでも否定する。
11.自分の知識をひけらかすのが大切なので、結論はどうでもいいい。
12.その他
複数回答可です。ちなみに私自身は、4と6です。
126
:
atheist
:2007/12/16(日) 23:20:42 ID:rUnqyHU.
行ズレ申し訳ない。
127
:
後悔と懺悔
:2007/12/17(月) 01:55:49 ID:FvvOuBrA
便宜上、各発言者のコメントに対する返信の形をとっていますが、そういう形を借りて、ここを見ているすべての方に対して主張ないし問題提起をしているつもりですので、そう受け取って頂ければ幸いです。私の発言に関しては横レスを歓迎します(というか、みんな最初からそうだと思っていたのですけど……)。
>>72
:chochonmageさん、
>>73
:次郎さん
ご指摘感謝します。狭く偏った体験・見聞をもとに問題を一般化して論じようとするときの典型的な陥穽ですね。私の
>>70
のコメントはしばらく検討保留にさせて下さい。
>>73
:次郎さん
>単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。
私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。
勝手な想像をすれば、キリスト教やイスラム教の世俗化(
>>103
の一番下のコメント参照)と似たようなことが仏教にも起こった(起こっている)と考えられますけど、そうだとすると、仏教では「原理主義者」とはどう折り合いをつけた(つけている)のでしょうか。
>>73
:次郎さん
>といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
>つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。
不十分なのだと私は思っています。というか、どんな人・社会でも「十分」ということはないでしょう。言論の自由を尊重する社会はその自由を守るためにトンデモな主張の存在に対するコストを支払わなければならないのと同様、反原理主義を掲げる社会はその中に原理主義者の存在を許してしまうことを覚悟しなければならないのは当然なわけで、もちろん最初からそのことを勘案した上で、それでも反原理主義を唱えているわけです。その点については、何度も弁明したと思います(直近では
>>66
と
>>67
の「フェイルセーフ機構」の話など)。
そして、何度も繰り返しているように、この点において、価値観・倫理観の進化は、現状では及第点であり信頼にたるものだと思いますし、そう主張する『神は妄想である』第5〜7章の議論には説得力を感じます。人間は本来的に「他者に対する価値観の強要」をしてしまう強い傾向を持った存在ですから、ドーキンスのような主張が絶えず出てくる(「他者に対する価値観の強要」の出現に対するコストの支払いがなされている)ということは、人間の本来的な傾向を暴力や洗脳で抑えつけてはいないし、野放しにもしていない健全な社会である──という見方さえできるかも知れません。
>>77
の次郎さんと
>>84
のGBさんの指摘については、強い違和感がありますが、感情的な印象論を述べてしまう前にもっと肯定的に検討する必要があると思うので、もうしばらく判断保留にさせて下さい。
ところで、議論の本筋とはまったく関係ないのですが……、
「否定神学」については、かつて少し勉強したことがあるのですけど、私にとってはとても難解で、かろうじて文意を汲めた僅かな部分から推察するに、否定神学とは「オレの考えた“神”表現が一番優れている」「ボクの表現で述べられた“神”が一番すごい“神”だ」とレトリックを競い合う品評会のようなもので(モーセス・マイモニデスの「“神は存在しているもの”と言わないで“神は存在していないものではない”と言えば誰にも論破されないんじゃね?」とか)、それでも、ディオニュシオスに始まりトマス・アクィナスを経てクザーヌスまで、どの「神」表現も、「(あらゆるすべての)第一原因(としての神)」をキーワードに、「被造物」「有限者」との対比が強調されていますから、これはまさにドーキンスが批判対象とした神定義(
>>107
:カクレクマノミさんのコメント参照)に抵触することは、まず間違いないと思います。
というか、『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、
>>112
で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(
>>98
)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。
もちろん、(特に否定神学については)私のいい加減な解釈を鵜呑みにされるととても困るので、詳しい方がいらっしゃれば、誤解のないように正していただけると助かります。
128
:
後悔と懺悔
:2007/12/17(月) 02:01:56 ID:FvvOuBrA
>>110
:AH1さん
>壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。
「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。
「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会は、持っていない人・社会に比べて、壁を超えてしまう可能性が小さいとは言えない」という主張ならば、まったく同意しかねます。
「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、
>>2
の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。
>>110
:AH1さん
>すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(後略)
もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう(よく分からないですが、地下に眠るMさんは特にそういう社会を恐れているように感じます。単なる私個人の印象ですけど)。
一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(各個人はさまざまな言説や事象に触れるたびに自分の立ち位置を揺さぶられるでしょうが)きっと全体としては偏差の大きいガウス分布のような形になるのでしょう。たぶん(望ましい社会ならば)極端にどちらかの端に分布が偏ることはないでしょうし、稀に(
>>7
で地下に眠るMさんが引用したように)プラトーンのような人間がまったく新たな視点・価値観を社会に投げかけるようなことがあったとしても、多くの人がそれに説得力を感じれば分布は大きく変化するでしょうが、それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。
で、改めて強調しておきたいのですが、私は(たぶんドーキンスも)、すべての人を数直線上の(誰かが「理想的」と考えるような)一点に集めるべきだと主張しているわけではない──ということを何度も何度も繰り返しています。むしろ、そうしたがる傾向(を助長するモノ)を強く非難しているわけです。どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。
余談ですけど、そのような社会では、当然、対立や衝突は起こるでしょう。日常茶飯事と言っていいかも知れません。でも、どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。あとは、
>>6
の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。
129
:
後悔と懺悔
:2007/12/17(月) 02:05:47 ID:FvvOuBrA
>>110
:AH1さん
>これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。
これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。
もしもドーキンスの言説に多くの人々が説得力を感じれば、結果的に「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅」するようなこともあるかも知れません(
>>3
で再掲されたコメント(2007/11/07 20:49)の最後の段落や、
>>49
のカクレクマノミさんへの返信を参照)。
でも、そうならなければ、ドーキンスも私も、自分の言説には十分な説得力がなかったと思うだけで、間違っても、ヒトラーやオウム真理教などがそうしてきたように腕力で分からせてやるなどとは微塵も考えていないし、これからも考えることはないというのは明らかでしょう(『神は妄想である』412頁などを参照)。
それなのに、「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅させようとしている」ような強迫観念を感じるのであれば、ドーキンスの主張にはとても強い説得力があり、それに対する「宗教」の反論にはその程度の説得力しかないと感じている──ということなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。
いずれにせよ、「“宗教”者が危機感を覚えるかも知れないから、“宗教”批判は差し控えたほうが良い」という見解はもっとも強く非難されるべきものだと、私は考えます。嫌悪感さえ覚えます。
「分煙主義者か煙草撲滅論者かに関わらず、煙草の害について述べると、愛煙家が“煙草を絶滅させるつもりか!”と感じて怒り出すといけないから、煙草の有害性を主張するのは控えるべきだ」という見解に、AH1さんは賛同されますか?
私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。
私は、誰であれ、宗教を非難しようとする際には(宗教に限りませんが)、煙草の有害性を指摘するときに煙草や喫煙者に対して通常配慮する以上の気兼ねを感じることがないような社会になって欲しいと願っているわけで(
>>102
など参照)、それはドーキンスも同じだと思っています(『神は妄想である』36頁、46-47頁など)。
>>84
でGBさんが「もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう」と書いています。私も自分の文化や無意識の領域を「非難」されれば感情的な反発が起こりますが、それを言動に移す前に「その非難は正当なものか」と考える理性を持ち合わせている(または「持ち合わせたいなぁ」)と思っています。GBさんは「だから、他人の文化、特に無意識の領域を批判すべきではない」という主張をしたいわけではないと思いますが、もしそういう考えを持った人がいるのならば、私はそれに断固として反論します(私は「反宗教-原理主義者」と言われるのは正直抵抗がありますが、この主張について「原理主義者」と言われるのは構いません)。
批判する側の礼儀の問題はたしかに存在し、それは別に論じる必要があるとても大きな問題です(今の日本ではこちらのほうが重大な問題かも知れません)。でも、これも何度も何度も書いているように(
>>102
とか)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。そして、その点において、私は(たぶんドーキンスも)十分に「宗教」に対して礼儀を尽くしているつもりです(この点について異論があるのは承知していますが、そういう人は、私が非難してきた点をどう言い換えればより礼儀にかなった穏当な非難になるのか、ぜひとも教えて頂きたいと思います)。
130
:
後悔と懺悔
:2007/12/17(月) 02:12:49 ID:FvvOuBrA
>>111
:GBさんへ。
まず、私が書いていない文章を、私が書いたかのように引用されるのは、あまり気分のいいものではありません。GBさんによる要約なのなら、そう分かるように書くのが礼儀ではないでしょうか。
実際に私が書いた文章は以下の通りです。
>>49
:後悔と懺悔
>(2)「重要な問い」への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ思われる)。この点については、『神は妄想である』第6〜7章で徹底的批判的に議論されている。
>>111
:GBさん
>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
>言っているように聞こえます。
絶対に勘違いしてはいけないのは(
>>5
で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論、および、このスレッドの最初のほうの「重要な問い」に関する議論の通り)、倫理や道徳の「正しさ」や「人が生きる価値や意味」といったことが「科学」で説明できるはずだ──とは誰も主張していないということです。そんな馬鹿なことは決して誰も(私が少しでもまともだと思う人間は誰一人)言っていません。ドーキンスも『神は妄想である』89頁でそう述べていますし『利己的な遺伝子』では繰り返しそのことを強調しています。
ただし、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といった話題が「科学」で説明できないと考える理由はないように(私には)思えます。そういうことを研究するのは、「我々が犯しうる過ち(
>>91
などを参照)」を知る上で大変有益なことだと考えます。私は詳しく知らなかったのですけど、進化心理学という学問分野もあるそうですね。
>>111
:GBさん
>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。
その点については、まさに『神は妄想である』第5〜6章などで直接的に徹底的批判的に議論されているように、私には思えるのですけど……。GBさんが
>>111
で述べている疑問はすべてそこで明確に取り上げられているように私には思えるので、いったい具体的にどの部分が不満で「しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、まるで、と言って良いほど答えていない、と思います」と言っているのか、私にはまったく分かりません(このスレッドでのGBさんのコメントを拝見する限り、GBさんは『神は妄想である』は既読のようですし……)。
そもそも、「文化」とか「宗教」とかを論じるには、(上にも書いたように)その前に「人間」そのものについての徹底的な洞察が必要なのではないでしょうか。
ちなみに、ある特定の「文化」が支配的なミームプールのなかで、どのような「宗教」ミームの生存価が高いか、また逆に、ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、どのような「文化」ミームの生存価が高いのか──といった話題は興味深いかも知れません(ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という「文化」ミームはどの程度の生存価をもちうるか──とか)。でも、誰でも(私でさえ)思い浮かぶようなテーマですので、きっともうすでに誰かが研究しているのでしょう。
>>111
:GBさん
>でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
>実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…
具体的に言ってもらわないと何が言いたいのか分かりません。たとえば仏教にしても守るべき教義なり価値観なりは持っているわけで、「戒や律はもっと緩和されてもいいのではないか」といった素朴な感情に対して、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」と言うことはそれほど荒唐無稽なことではないでしょう。でも、GBさんはそんなことを問題にしたいわけではないですよね。
131
:
後悔と懺悔
:2007/12/17(月) 02:22:05 ID:FvvOuBrA
自分は新参者ですし、感情的になりやすく偏見にとらわれやすい無知で浅はかな人間なので、論者としての信頼を得るのは簡単ではないだろうということは初めから理解しているつもりでした。だからこそ、ここでは、
>>18
で議論に臨む自らの態度を宣言し(すでに破ってますが……)、勧められた書籍はちゃんと購入して読み(
>>52
)、
>>91
では自分に対してどのような自戒を課しているのかを明言してきました。そして、「理性的たらんと欲するのであれば、「敵」に対するよりも「味方」「身内」に対してより批判の矢を向けるべき(
>>59
:地下に眠るMさん)」という態度で、皆さんのコメントをじっくりと時間をかけて検討し自分なりに咀嚼するよう努めてきたつもりです。
しかし、どうやらそれは私の自己満足以外のなにものでもなく、実際には口先だけでまったく実行できておらず、私は未だ多くの方々から信頼に値する論者として見られていない──と認めざるを得ません。
>>106
:chochonmageさん
>無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
あるに決まっています。『神は妄想である』第6, 10章は、その点についての弁明および擁護ですし、この議論の初期に、私が盛んに「人類は“宗教”なしで“重要な問い”にどう向き合えるのか」といった問題提起を繰り返していたのは、「無宗教」者としての最低限の責任だと思ったからです。すべての「無宗教」者がそういう責任を感じているとは言いませんけど、(ドーキンスや私を含めた)多くの人が、様々な場所・機会を利用して、「感じるべきだ」と主張しているのは認めてもらっても不当ではないと思うのですけど……(「“無宗教”者として」という看板では言っていないと思いますが)。
ところで、
>>102
に書いた他の「宗教」批判についても「無宗教」者は「ダブスタ」ではないか? と、皆さんがなぜ主張しないのか、私にはとても不思議です。
──それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、
>>105
の私の弁解は信用に値せず、私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。
>>108
:NANさん
>その議論とはネットの議論ですか?
私の一連のコメントは、どう考えても「極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価」している「浅はかに過ぎる」人間と疑われても仕方がない──ということなのでしょう(なお、正直に言えば、恥ずかしながら、私自身はネット上での「宗教」擁護者の議論にはほとんど接したことがありません)。そして、NANさんが述べられているような一連の主張についても、私はまったく思いを巡らせたことなどなく、素朴で幼稚な感情論を何ら思慮思索することなく無根拠のまま垂れ流していると判断されたのでしょう。もちろん否定はできません。
NANさんには、ぜひとも、そんな偏見に満ちた浅はかに過ぎる私に、「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします(NANさんは仏教思想に造詣が深いようですので、あらかじめ断っておきますが、私はこの点について鈴木大拙を全面的に否定するつもりはありませんし、仏教についてだけ問うているのでもありません)。
──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。
132
:
chochonmage
:2007/12/17(月) 08:18:29 ID:vUxNW.gI
後悔と懺悔様
>それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの
>「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、
>>105
の私の弁解は信用に値せず、
>私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という
>主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。
私は上記のように判断していません。少々無思慮に
>>106
の書き込みをしてしまったようです。
申し訳ありません。
>どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。
という後悔と懺悔さんの発言に対して単に猫さんのロジックについて私なりの理解を書き込みしてしまったということで、
少々脊髄反応的でした。重ねてごめんなさい。
ただ、後悔と懺悔さんの「“宗教”を擁護する人間」というくくりが私にはあまり適当でなく思えるということはありました。
言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。
それで、そのくくりの「甘さ」が猫さんに反論をポンと返されるような原因になったように思え(スターリンやポルポトの所業がドーキンスや後悔と懺悔さんに直接責任があろうわけはありません。)
というわけで、
>>106
の私の発言はどちらかというと後悔と懺悔さん側に立ったものであったつもりです。
最初から申し上げておりますが、私は全面的に同意かどうかは別として、後悔と懺悔さんと似たような場所に立っていると思います。(そちらからは迷惑だと言われるかもしれませんが。笑)
それから、私もまたこちらでは「新参者」ですし、こちらにいらっしゃる素晴らしき(恐るべき?)論者の皆さんのレベルにはとうてい及びません。
科学好きを自認しながらもニュートン力学でさえちゃんと理解できていないナサケ無い人間であります。(そういえば、後悔と懺悔さんは理科教員でいらしたそうで。機会があったらちょっと教えていただけませんか。)
後悔と懺悔さんは少なくとも私よりは優れた論者です。
>──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。
>これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。
などとあまり思う必要があるとは私には思えません。
133
:
AH1
:2007/12/18(火) 13:25:58 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
ちょっとまとまった時間がとれないので細切れで失礼します
>>128
>「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。
はい,こちらの意味です.ただし,「恐れがないわけではない」の部分を,私の方が強く言っているのではないかと推測します.
>「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、
>>2
の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。
あくまで自戒を込めて・・の話です.
ただ,もう一つ,後悔と懺悔さんが触れておられないように思われる問題を提起していて,それは
「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.
極端な例え話をしましょう.
「隣人愛」を掲げる思想Aと,掲げない思想Bが隣り合わせたとしましょう.BはAをぶん殴ります.では,AはBを隣人とみなして愛するべきか?それとも,「あいつらは隣人愛を理解しない奴らだから隣人とみなす必要はない」とするべきでしょうか.
前者は非常に苦労が多い・・・というかタカ派の侵入を許したハト派状態です.後者はタカ派の侵入を許しませんが,「お前らの隣人ってのは要するに内輪のことだけかい」という誹りを甘んじて受ける覚悟がいるでしょう.
もちろん,Bが好き放題に殴って回ることを許せと言っているわけではありませんよ.この議論に即して言うならば,宗教の無茶な要求に対して,相手が宗教だからと言って甘い顔をしろと言っているわけでは全くありません.第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.私もその姿勢には賛成です.
ただし,このサイトが創造科学とは対立しても創造論と対立しないのは(この事は何度も強調されています)「科学にわからない事はいっぱいあって,そのわからない事について科学は何かを保証することはできない」からでしょう.単に,「科学でわかる事について,科学的に妥当かどうかは言える」というだけです.基本的に,私の宗教に対するスタンスもそんな所です.また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.
つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.
もちろん,「お地蔵様の御利益でガンが治った!医者に行くよりお地蔵様を拝め!」と言い出せば「コラちょっと待てや」と言うでしょう.
134
:
AH1
:2007/12/18(火) 13:40:56 ID:fKqeZx4M
追記
『「恐れがないわけではない」の部分』に関して,「どこに漠然とした不安を感じるかというと,多分,この辺です.
>>2
>私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。
確かにそうかもしれない.宗教の種類・有無を問わず,親切や同情といった美徳はヒトに共通性が高いように思えます.
一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.
「宗教がなければ不道徳になる」などという主張は「アホか」の一言で済ませますし,「宗教がなければ道徳を失ってしまいそうだ」と言う人がいれば「しっかりせんかい」と言うでしょうけどね.
135
:
次郎
:2007/12/18(火) 13:41:23 ID:D2PZoWjk
ドーキンスが宗教にせよ科学にせよ人間理性にせよ、どの陣営に対しても正しさの独占を認めていないという事になると、当然ドーキンスは多様な価値(正しさ)が共存した社会というものを志向しているはずですよね。
で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。
「自分の価値観が一番だ」と思うのは自然ですし、他者に「自分の価値観が如何に正しいか」というのを説くのも、相手が聞きたくないと言わない限りは特に問題ないでしょう。
でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。
アマゾンの書評などを見ても、やはりドーキンスは宗教撲滅を啓蒙する書を書いたとしか私には思えません。
そしてやはり今回のドーキンスの行動(著作)は程度の差こそあれ、「今のメリケンの馬鹿クリ((C)地下猫氏)」の主張の裏返し、反動のように思えます。
136
:
PDX.
:2007/12/18(火) 15:34:20 ID:???
>アマゾンの書評など
実際に本を読んだ上で書いた人がどれくらいいるんだろう?とか思ったり。
137
:
次郎
:2007/12/18(火) 15:50:05 ID:D2PZoWjk
>>127
>私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。
詳しくはないのですが、日本の信仰の中心は現在でも祖先崇拝なんでしょう。神道は氏神(祖先神)が中心ですし、お寺に「先祖代々のお墓」がありますよね。
先祖代々の墓なんてえのは原始仏教から考えたら????が27億6千万個位付く代物ですし。
たぶん日本は外来宗教が入りにくいのじゃないでしょうか。お隣韓国でのクリスチャンの率(30%弱)を考えると、日本の1%という数字の異常さが際立ちます。
仏教だけは国策として導入された経緯があり、また江戸時代のキリシタン禁令の時に国民全員が所属寺を持つことが強制された(宗門人別制度)結果、檀家制度が生まれ、それが現在まで受け継がれているので広く普及しているように見えるだけに思えます(僧侶の実情は仏教というより祖先祭祀と特に葬儀を司る職業になっているように思います)。
そういった強制的な普及の結果、住民に受け容れられる形(祖先崇拝教への変化)に成らざるを得なかったのでしょう。平たく言えば檀家がお金出してくれないと干上がるから、檀家が望むような形に変化したという事でしょうかね。
琉球王朝ではこのような檀家制度はなかったため、現在も仏教信者数は他県と比べて少ないようです。
まあ、横にそれすぎなんでこの位にしておきます。
それと、
>>77
の指摘ですが、巨人ファンとアンチ巨人ファンの例で考えると言わんとしている事がわかりやすいかもしれません。
巨人ファンとアンチ巨人ファンは、巨人に興味があるという点で同類です。好きの反対は嫌いというのが普通なのですが、本当は好きの反対は興味がないなのではないでしょうか。アンチ巨人は巨人を口汚く罵りますが、巨人の興味がない人はそもそも巨人の事を語らないでしょう。
後悔と懺悔さんがアンチなのかどうかは本当は分からないのですが、感覚的にそうであるように感じました。あくまで感覚の話しなんで、その程度と思って下さい。
138
:
NAN
:2007/12/18(火) 18:17:12 ID:???
>>131
その他:後悔と懺悔さん
あなたに対して私が批判的である主旨とは、宗教者vs無宗教者のような「枠」に基づいた議論そのものがナンセンスではないのか?という”私の”主観(もしくは基本的な考え方とかライフスタイル)に基づいてのものです。これに対し、
>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。
と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
たとえば私は「創造論者」と「創造科学論者」はきちんと区別しなければならない、と考えています。ですのでこのサイトにおいても創造論者とおおまかにくくった批判に対しては「それは大雑把過ぎないか?」と時折クレームをつけます。それが「宗教者」となると、たとえ前書きや注釈、その他の章立ての中でいくら断りをいれたとしても「失礼で浅はかに過ぎる」と私には見えます。
#ちなみに信仰者である知人が自らの過ちや自戒について述べる機会に接したことなどいくらでもありますが、なにしろリアルな会話ですので記録やソースを提示することはできません。
#ネット上の知人にも、自らがクリスチャンだけど研究機関に於いて古生物学の学術研究に従事している者がいます。しかしここに彼を引き吊り出すことが得策であるとは思えません。
>>129
>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。
その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
私はあなたの発言に批判的であるけれど、あなたの発言を禁止しないし、できない。それはほかの誰も同じことで、ある主張に対して別の主張の存在は常に許されています。すでに実現されているものに対して「危惧」を感じ、より上位の影響力を望む行為は、なんらかの「強制力の発動を欲しているのではないのか?」と思われるに値する、と私は考えます。
もちろん私も、原理主義者によるテロや、カルトによるマインドコントロール、集金装置と化した布教や集会、利権構造や政治的圧力団体へと変容している宗教団体について「個別の批判、時には強制力」は、あって然るべきだ、と考えています。しかしそれが「宗教者への無差別な批判(たとえどこかで断りを入れていても)」となると、配慮に欠けるだろうと思うのです。
>)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。
これも同様です。私は宗教行為を個別に批判する際、まったく遠慮などしません。私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。私はこれまでも個別の信仰者に対し激しい批判や時には暴言さえ撒き散らしているけれど、相手の存在を否定したりはしていません。増してや「宗教」という大きなくくりで自分と他人を峻別したりしません。それで私は憎まれたり疎ましがられたりするだろうけれど、それも私が自由意思のもとに選んだ行動の結果であり、それを受け容れています。
まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。確かに宗教者そのものはいます。ほとんど大部分の日本人が法事に参加し、結婚式に出ています。もうそれだけでその人たちは「宗教者」なのではありませんか?違うというならそれも拒否すべきです。
あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。
139
:
NAN
:2007/12/18(火) 18:17:45 ID:???
さて、これはついでなのですが…
>>127
>仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。
どこの巨大宗教も同じでしょうが、「仏教」とくくってもあまりにバリエーションが多すぎてもはやなにが仏教なのかさっぱり分からないというのが現状ではないでしょうか。少なくとも私が仏教と「呼びたい」宗派は我が国に存在しないように思います。
#このコメントについて詳しく書くと物凄い長文になるので、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」などを参考にしてください。
とにもかくも、私は「宗教」が民間に伝承し広まりやがて国や地域そのものを覆うまでに繁栄していく過程における、無残な世俗化(スノビズムの過程)にこそ注目します。象徴や偶像を否定していたはずの経典から、まるっきりそれが抜け落ちてしまったかのようになにかを拝み、念仏を唱える。そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです。
要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。
140
:
NAN
:2007/12/18(火) 18:44:59 ID:???
ああ、そうか!とポンと手を打ちつつ…
#「分かったぞ!」とか「そうだったのか!」などと日常的に繰り返すヒトは心が病んでいたりあっちの世界にイっちゃっている可能性が高い。もちろん私もそうだ!
>>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。
「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w
私はどこの信者でもなく入信せず洗礼も受けず神を信じず来世もなく転生もないと考えているが、仏陀の思想や初期キリスト教には強い興味を覚え文献を漁り、時に僧侶や坊主と同席すれば宗教について長々と論じ、空(くう)や色について思いを馳せ、イン・ヤン模様や曼荼羅をデザインするのが好きで、気が向くと寺院や社殿で写真を撮りそれを3dsMAXでモデリングしたり禅宗用の長い数珠がファッションとしてステキなのではないか、とさえ考えている。
つまり私はどこから見ても「信者」ではないけれど「宗教者」ではあるのかも知れない、と思う。いや、時々自覚するのだけれど再び自覚させられてしまった。恐らく…多分、webに転がる真摯な宗教研究者たちのソースも後悔と懺悔さんが望む「批判に対する真摯な態度」ではないだろうか?
141
:
地下に眠るM
:2007/12/18(火) 23:47:31 ID:Ja2I4.Nc
>>127
>『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、
>>112
で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(
>>98
)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。
おっけー
それでは仕方にゃーのでカネを出して「神は妄想である」を手に入れ、目を通しますにゃ。
というわけで、今までの発言はいったん留保させていただきますにゃ。
図書館に みすず書房「社会生物学論争史-----誰もが真理を擁護していた----」上下2分冊があって、喜んで借りてきて読み始めたところなんだけどにゃ(すごくおもちろい)。
しかしまあ、自分の発言には拘束されざるをえにゃーので、届いたら優先してそっちを眺めるにゃ。
142
:
カクレクマノミ
:2007/12/18(火) 23:51:14 ID:THRtI5kM
少し援護射撃を。
NANさん
>と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
今回の文脈で、「宗教擁護者」なる語が定義できるかどうかは本質的な問題でしょうか?
ドーキンスは宗教に対して批判的に問題提起をしているのですから、それに対して答える人は必然的に、少なくともその点においては宗教擁護者と呼べるでしょう。
もちろん、その点については宗教を擁護するが他の点に関して批判するという態度もありうるので、NANさんの主張は一応妥当ではありますが、しかし瑣末な問題にしか見えません。
誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。
もちろんNANさんによる解答でもかまいませんし、WEB上に転がっているならそのうちいくつかを紹介してもらってかまわないでしょう。
143
:
地下に眠るM
:2007/12/19(水) 00:34:21 ID:Ja2I4.Nc
>>106
>スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
>無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
>「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
>様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
>私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
>とは考えられません。いかがでしょうか。
これは答えられるので答えておきますにゃ。
スターリン、ポルポトなどの無神論的全体主義が独裁体制をしいた場合、信仰者が優先的にぶち殺されていることはよく知られていますにゃ。
ウィキの「無神論」の記述から引用すると
*****************************
逆に無神論が政権を握った場合、キリスト教徒やイスラム教徒を初めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。マルクス・レーニン主義の狂信者は虐殺も含む手段で宗教を弾圧した。宗教を無教養で非合理的と決め付けた彼等は、その信者に対しても何ら価値を認めなかった。
中略
無神論者が政権を握り、無神論を公式のドグマとした場合、宗教を信じているものは極めて厳しい迫害を受けてきた。社会主義統治下での教会などは時に虐殺なども含んだ弾圧を受けたことが知られている。しかし無神論者の中にはリチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。
*****************************
ちょっと興奮した記述なので、いまいち信頼感がにゃーけどな。
ところで「リチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。」って出典が欲しいところだにゃ。
例えば日本史上でもっとも戦闘的な無神論者というと織田信長にゃんが、信長が宗教者ぶち殺しまくりであったことは歴史的事実だよにゃ。ロベスピエールの理性信仰というのも宗教弾圧だったしにゃー。
たいていの政治的言説というのは、統治の倫理的正当性というものを必要とするものですにゃ。倫理的な正しさを具備しにゃーものには統治ができにゃーからね。無宗教を看板にするものは、自らが無宗教・無神論であることをもって倫理的な正当性と見なすわけにゃんな。
「宗教はアヘンである」のであれば、アヘンを撲滅するのは政治倫理的に必要にゃんね。
キョーサン主義の政治倫理的自己規定というのは、自らは無神論であるがゆえにキリスト教道徳より優位であるというものなんだから、キョーサン主義のしでかしたことはすべからく無神論の名の下に行われたという論法は詭弁とはいえにゃーですよ。ちなみに、キリスト教徒は数百年間かけて数億ぶち殺しているといわれているけど、キョーサン主義も20世紀だけで億単位で虐殺しているという話もありますにゃ。まあ、このあたりの数字はいくらでも突っ込みようはあるけどね。
それと
>>125
あえていえば8と12。(11と答えればよかったかい?)
宗教はね、手強いんだにゃ。だから、科学主義をこそ警戒しなければならにゃー。
(だいたいね、社会生物学論争においては、僕はウィルソンやドーキンスに肩入れするにゃんぜ)
144
:
NAN
:2007/12/19(水) 11:55:57 ID:???
>>142
:カクレクマノミさん
>誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。
???
ドーキンスの批判に「見えない宗教擁護者」が真摯に答える要請はどのように生まれるのかな?もしかしたら、たとえば私がここで議論しているような「姿勢とかやり方」がそういうものなのではありませんか?とすでに書いていますよね。それで不満なのでしたら私は読みたくもない本を無理やり読まされ、それについての読書感想文をwebに掲載する義務があるということですが、その義務はどのように生じるのでしょう。当初から私はここが「書評スレ限定」であるなら辞退するけれど、あくまでここに書かれた内容について触発されるものがあったので書く、と宣言しています。
#ちなみに私も書店で該当の書籍をチェックしましたが、最初の数ページを読んだところで、所有している「悪魔に仕える牧師」などに見られる「いつものアレか」と思い、買いませんでした。しつこいな、と思ったからです。
もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?
以前から私は「既存のまともな宗教者による信仰の自由は守られるべきだ」と考えていますし、無思慮な「創造論者」というくくりにクレームをつけ続けています。つまり私は「気まぐれで宗教擁護者を気取っている」わけではなく、首尾一貫して宗教を擁護する主張も繰り返していますが、議論におけるルールや科学的方法論を尊重することも忘れたつもりはありません。また、行間に「言いようのない怒りや憤懣」を挟みながら主張するドーキンスによる宗教批判に比べて、冷静な態度で説得力を持つのはカール・セーガンであろう、とも考えています。
145
:
NAN
:2007/12/19(水) 11:56:56 ID:???
この「感想」の論拠は、たとえば「悪魔に仕える牧師」の3−5「立ち上がるべきとき」(p.273〜)より
---------------------
今こそ、知識人が、信仰をもつ人々に対して、立ち上がって「もう十分だ!」と叫ぶときだ。
---------------------
件の「9.1.1」について述べた序文であり、ドーキンスの怒りと憤りがよく伝わる名文です。一方で、狂信者によるテロを憎む心情に私は十分な理解と同調を持つことができますが、もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます。(私はこの事件についての陰謀説そのものは否定するけれど、米国による情報操作については確実にあったであろう、とも考えている)
またさらに、同書のp.261〜(偉大な収斂)からは
---------------------
そのあとで私は、時空の自発的な誕生を可能にした物理法則について尋ねた。「アーそれね」と、彼は微笑んで、「もう、科学の領域を超えてしまっているよ。ここは、われわれのよき友人である牧師たちに任せるしかないところだよ」と言った。しかし、なぜ牧師なのだ?なぜ庭師やシェフじゃいけないのだ。もちろん牧師たちは、シェフや庭師と違って、究極の問いについていくばくかの見識を持っていると主張する。しかし、彼らの主張を真面目に受け止めるべきどんな理由を私たちは与えられているというのだ?
---------------------
以後、アインシュタインやホーキングが持ち出す「神のレトリック」についての批判や、ドーキンスの主張の論理的正当性についてくどくどと続くのですが、他の章にある進化論のエッセイに比べて、これらの文章は、私をうんざりさせ、啓蒙主義に基づく正当性の押し付けにしか見えないものでした。たとえば、
---------------------
さて、天球のティーポットよりももっと確実に超越的存在が見つかるだろうという理由X,Y,Zがもし実際にあるとすれば、X,Y,Zは詳しく説明されるべきである。なぜなら、もしそれが本物であれば、その長所について評価を受けるべき適切な科学的論拠だからである。
---------------------(p.262)
にあるように、仮定につぐ仮定で問題を形式論理に置き換え、超越的存在(もしくは不可知であるもの)の想定さえ認めようとしない態度はどうだろう?と思います。いわゆるこれこそ「神の論理的証明と否定」というヤツではありませんか?こんなレトリック(いや、明らかに詭弁だと思う)が許されるならば、創造科学論者の正当性さえ私は再評価しなければならない、と思います。
146
:
NAN
:2007/12/19(水) 11:57:19 ID:???
ビッグバンについて、科学はドーキンスの友人である天文学者が云うほどには不可知であることを認めてはいないでしょう。コンマ数秒どころか限りなくゼロに近い領域に至る「宇宙開闢の瞬間」への科学的説明は私を心躍らせるものであるし、インフレーションがどのように置き、ゆらぎの存在がこれほど多様な宇宙の様相を作るに至る過程はまさに科学的です。その一方、われわれが「原理的に知ることが不可能である領域」を認めざるを得ないこともまた、自明であるはずです。これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地でいっている、ということ)
十分すぎるほどに私が能天気で楽観論者であるのなら、これらドーキンスの主張にもガンガン頷くでしょう。しかし現実はどうでしょうか。「宗教」という仮想敵国を想定するのは楽観論に過ぎる、と私はあらためて主張します。ジンルイがもしも宗教を持たなかったら、と想定することは可能だし、なるほどそうであるなら宗教問題に根ざす紛争も起きないでしょう。その代わり、非常に高い確率で別の思想的主義的「枠組み」によって起きる悲劇が必ず起きているだろう、とも云えます。これはおそらく生命の持つ本質的な「中と外、個体識別」という問題にまで還元できる、根源的な問題であると私は思っています。
一貫した私の疑義は「敵は本当に宗教なのか?」です。一部の宗教者がそうであることは間違いありませんが、そこ「だけ」をことさら主張することは、本当に大事な問題から目をそらし、スケープゴートを祭上げて満足している姿にしか私には見えません。なぜなら宗教を憎むことは非常に簡単であり、安易で、正当性を(ドーキンスがやるように)主張しやすいからです。先に述べたように、宗教を自由に批判することは、とっくにできています。必要があれば、私も遠慮なくやるでしょう。しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?ドーキンスの主張はそれらを混同しすぎているし、感情的で、安直な理想論に見えるのです。(長々と宗教を蔑視することの正当性を述べる書籍を読む気が起きない理由かな)
科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います。仮想敵国など想定する必要はありません。きちんとした検証や論拠の提示、第三者による主張の評価と批判の自由、それらを社会に定着させることこそが「見えない敵」を撃退する唯一の手段なのではないか?と私は思います。
147
:
AH1
:2007/12/19(水) 12:24:55 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>128
>>道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景(後略)
>もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう
「馬鹿」と書いたのは、「自分の主張だけが正しいと信じ、相手を封殺するためなら詭弁も恫喝も辞さない奴ら」という意味を込めています。ですから、存在しないことを望む、ではありませんが、望ましい状態とは思いません。
「相手が馬鹿なんだからこっちもやり返せ」という方法も、決して望ましいものとは思いません(実社会においてやらざるを得ない場合はあるでしょうが)。例えば対テロ、対ゲリラ戦を考えて下さい。やり放題のテロリストと、同じくやり放題の軍隊・・・例えばベルファスト・・・の光景が望ましいとは思いません。
私が理想とする「理性と自由意志を尊重する人」は、相手が原理主義バカであっても、自らが掲げる理性と自由意志の尊重を実践し、決して「科学原理主義バカ」にはならない人です。
>一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(後略)
はい、私はまさに対立が先鋭化し、その数直線の両端に分布が偏る場合を「馬鹿が二匹」としました。
>それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。
恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。
もちろん、ポアソン分布のような分布型を考えれば、両端の最先端な辺りはゴリゴリでゴチゴチになるのは仕方ない、それをいわばパイロットシップとして、多数は中庸なあたりに分布すればよい・・という考えはあり得ますが。
>どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。
もちろんです。批判すればよいと思います。私は「宗教に弱腰になれ」と言っているのではなく、「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています。
そして、「相手を批判する根拠」に関して、メタレベルで見た時に「自分が相手を批判する根拠もまた絶対のものではなく、大間違いかもしれない」という点を片時も忘れるわけにはいかないという事です。
>どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。
全く同意します。これはNANさんも書いておられる事だと思うのですが、結局、個々の事例について「それをやっちゃ良くない」と判断するしかないのではないでしょうか。科学主義に基づくものであれ**教に基づくものであれ、同じく批判されるべきことだと考えます。
>あとは、
>>6
の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。
これについても個々の事例およびその人の(社会の・時代の)価値観というものに大きく依存しますよね。ここでは一括りにすることは避けたいと思います。
148
:
NAN
:2007/12/19(水) 14:55:29 ID:???
瑣末な問題といえば最も瑣末な問題であると私が考える「ドーキンス評」を自発的にやっちまった反省として、このスレの「重要な問いかけ」に戻ろうと思います。なぜならいくら代弁しようとしてもドーキンスが本当はなにを考えているのかなど分からないし、翻訳の過程でさらに文章が曲解されている可能性もある。また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。
(1)宗教は道徳的価値観を独占的に扱えるのか?扱えるのであればその理由は?
道徳的価値観に限ったことではないけれど、倫理を判断するのは個人または個人の集合である社会であって、宗教は選択肢のひとつに過ぎない。また、もしもなにかが道徳的価値観を独占したりしようとしているのであれば、それは宗教というメタなガイネンではなく、個人または団体という特定の利権構造であろう。
で、この「ここでの議論」についてはなんだか水掛け論な雰囲気を読み取ります。宗教が道徳的価値観を独占しているとは思わないし、テーマそのものが「???」という雰囲気にさえ見える。
(2)ニンゲンは宗教なしに「重要な問い」に答えることはできないのか?
どこかの宗教に入信したりしなくても、そんなもん、いくらでもできるでしょ。当たり前じゃん。
しかし、仮に宗教者であろうと無宗教者であろうと、各地各文化における「宗教的な倫理価値の浸透」から逃れることもまた、恐らくはできないだろう。
しかしなぜこんな「当然のこと」が議論の対象となるのか?それはもちろんドーキンスが著書の中でそれを問題視しているからだろうけれど、宗教というメタなガイネンと宗教団体という特定利権を混同することは非常によろしくない、と私は思う。恐らく、議論上のすべての軋轢はこの混同によるものではないだろうか。そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、今は宗教よりも「情報」という単位でこれを行おうとしているものにこそキナ臭さが強い、と私は見ている。
(3)神は本当に必要なのか?
ぶっちゃけ「キリスト一神教」による神など、いらんでしょ。しかし、各人の心にあるだろう神は、必要でしょ。
そもそもこの議論をきちんとやるなら、ドーキンスの著書は捨てちまわないとできないだろう、というのが私の主張でもあるんだよね。だって、西洋的キリスト教的絶対論理というものから、私らニホンジンってのは基本的に縁遠いのだから。
まさに聖書ってのは武力行使に対しての正当性をくくりつけるために利用されてきた、権力者にとっての武器なのだから、有害であるのは歴史的事実なのです。しかし聖書に書かれていること、原点的な教えまでが有害なのだ、と論じ始めたらそれはキリスト教に対する迫害もしくは差別的見解になりますね。
149
:
NAN
:2007/12/19(水) 14:56:14 ID:???
(4)宗教は有害なものなのか?
イエス(笑。しかし、有益でもある。薬効と同じことではないのかな?
>>68
:後悔と懺悔さん
>私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。
すでに分かりきったことなのだけど、私は「宗教」というとき、キリスト教もしくはそれに付随する様々な宗派や思想を「ほんの一部」としか捉えない。一方、ドーキンス及び西洋諸国に住む人々、あるいは我が国に於いてもミッションスクールや教会に多大な影響力を受けている人たちと「宗教」というガイネンに大きな断絶が生まれることは自明なんだよね。その呪縛から逃れない限り、「神は妄想である」という書籍が大事なものに見えちまう妄想からも逃げられないんじゃないかなぁ。
#宗教批判することを躊躇してしまう性向を持つヒトにとって大事なものであるという意味。
ちょっと乱暴なまとめ方をすると、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。
#ローカル事象を一般化しているってことかな。
>>73
:次郎さん
>フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。
の指摘にあるように、仏教も神道も権力者の道具になった歴史を持つ。だけどそれさえも「宗教の性質」なのだ、ということにしてしまうと、問題の本質であるはずの「暴力や迫害との断絶」から離れた結論しか出てこないのではないか?というのが私の主張。それは権力者の性質であって利権の要求でもある。この意味において企業論理も国策もまったく同義のものではないか?と私は見ている。
(5)宗教はなくすべきものなのか?無宗教であることは奨励されるべきか?
各個の自由、としか云えない罠。
「宗教は害悪なのでなくすべき」という主張も「宗教は有益なので奨励すべき」という主張も「無宗教であることは中立なので奨励すべき」という主張も、どれもこれも「正しさの要請」であることに変わりがないでしょう。
あらためて書くけれど「宗教擁護者」というのは実態を持つ存在なのか?幻に過ぎないのではないか。なにか不安にとり憑かれた理性とやらが生み出した仮想の標的に過ぎないのではないか。私はそう思う。
個人的なことを敢えて書くと、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」をはじめとする私の周囲に点在する原始仏教に関する書籍とその内容は、私の倫理観の根底を成すものだし、これを捨て去ることが「良い=私にとって利益をもたらす」とは到底思えない。なぜならそれは私が同じように大事にしている科学的方法論とまったく矛盾することなく共存しているし、広義における信仰と云っても差し支えないだろう、とさえ思っている。だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する。
孤独に苦しむひとと向き合うとき、今まさに死と向き合い不安におののくひとと向き合うとき、確かに経典は必要ない。しかしそこで最大の苦慮の末に出てくるであろう言葉や行動に宗教的バックボーンや観念が皆無であることなどあるのだろうか?もしもそういうものは「宗教ではない」と述べるのであれば、それは詭弁だ。ありのままを受け容れることのできない不誠実な態度だ。そんな風に私は思っています。
150
:
AH1
:2007/12/19(水) 18:08:32 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>129
>これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。
うーん・・それはそうだと思うんですがね。
ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?
しつこく書きますが、科学的および合理的な判断をすべき場面はもちろん多々有ります。ただ、そうでない面について科学や合理性が万能であるかどうかは私には自信がなく、よって「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」とは言いにくいのですね。(たとえば道徳についても宗教抜きに代替可能であろう、と後悔と懺悔さんが述べておられます・・まあ、道徳的な部分は代替可能だろうとは思うんですがね。宗教によらず共通性が高い部分があるし)
そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
>私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。
くり返しますがその点について同意しています。「この社会において無法者を野放しにする事はできない」と最初の頃に書いています。
また「宗教は正しさを独占しがちである」という前提そのものにちょっとした異論がありますが、NANさんが書いておられる事とかぶるので、今はちょっと省きます。
151
:
AH1
:2007/12/19(水) 18:57:57 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん、
>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
について、こう言えばいいのかな。かなり失礼な書き方になるんですが・・
宗教を愛する人が、しかしその論理的帰結によって「・・・やはり宗教は存在できない」
と苦渋に満ちた判断するなら、私は危惧を感じません。
しかし、宗教の害を説く人が「いや、弾圧などする気はありません。価値の独占もしません」
と言いつつ、「でも宗教はなくなるかもね」と言ったら、
「・・・え?」
と思うんです。非常に失礼なことを書いているだろうと思うのですが、正直に言えばこういう『感覚』です。
152
:
atheist
:2007/12/19(水) 22:06:01 ID:PqsV.DF6
地下に眠るMさん、回答ありがとうございます。これで幾分スッキリしました。
なるほど、8と12ですか。7,8,9あたりだろうなと予想はしていたのですが。(10と11はもちろん冗談ですよ。)
時間がないので、この件に関する私の見解は、また後ほど。
153
:
chochonmage
:2007/12/20(木) 14:32:38 ID:vUxNW.gI
NAN様
はじめまして。chochonmageと申します。横レス失礼いたします。
こちらでのご活躍はよく存じ上げておりますし、NANさんの深い学識、ご理解にいつも感服させられるばかりです。
今回の幾つかの書き込みもとても深い内容で感銘を受けました。
特に「絶望」のくだりはなるほどなるほどと読ませていただき、私の自分なりの世界なり社会なりに対する理解を深める
のに大いに参考になりました。
また、本掲示板の皆様の意見を読むうち、細かいところで考えをまとめている間に自分がもともと何を言いたかったのか
よくわからなくなってしまっていたところがあるのですが(なんて頭悪いんでしょう)、NANさんの記述を拝読して私が本来言いたかったことがいくらかまとまってきました。感謝いたしますです。
その上で、少々意見を述べさせていただきたく思います。
>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、
同意いたします。結局私が言いたかったのもこれでありました。
>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、
>この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。
>また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、
>私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。
>だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。
私事で恐縮ですが、私は人生の半分近くを米国で暮らしています。そこで、「この日本において」とおっしゃるNANさんと
感覚の違いが当然生じるのですが、私にとってドーキンスの主張には現実的な実感があります。
「宗教者」「あるいは宗教の影響力」という存在も極めて身近なものです。
例えば、小学校三年になる息子が私の住所区域の公立小学校に通っているのですが、本年の9月11日に息子から
「God Bless America」、「My Father, God」なる文言を含む歌を歌わされたと聞かされ、大変にショックを受けました。
政教分離であるはずのこの国で(少なくとも建て前としては)公立校でかような歌をなんの説明もなしに判断力のいまだ養われてない子供に歌わせるとは何事じゃ!と早速担任の教師に文句をつけに行きました。
教師はそれらの歌はこの学校で開校以来歌われていること(実際には、米国のありとあらゆる公立校で歌われているようです。)、愛国心昂揚的かつ宗教的(はっきりとキリスト教的であること)を認めました。
私としては、人種の坩堝である米国で上記のような歌を選択するのは適当であるとは思えない旨主張し、担当教員は
私の意見にある程度同意しましたが、歌の変更は私が校長と掛け合うしかない、そして息子には2つの選択があると私に告げました。
その選択とは:
1.他の生徒と一緒に歌うが上記「宗教的」部分に関しては口をつぐんでいる。
2.歌うことを拒否し、歌が終了するまで学校の事務所で待機している。
まぁ、選択があるだけ某国のように国家を強制的に歌わされる状況よりましかと一瞬思いましたが、やはり私としては見過ごす
気持ちにはなれず、連れ合いとも相談のうえ校長に掛け合うつもりでいたのですが、何人かの米国人の友人たちの意見を求めたところ
「気持ちはわかるが絶対に学校は歌を変更しない。歌の選択はもっと上からの支持である。勝てない喧嘩はするな。
特にお前のような無神論者がどなりこむことによってお前の子供が不利益を蒙りかねない。」とのアドバイスを受け、泣く泣く交渉は取りやめました。
米国においては、「atheist」という言葉は大変にインパクトがあります。これは、ドーキンスも著書で指摘していることですが、
私の住んでいる地域ではまだしも、田舎に行けばほとんど人間扱いされないか、「まぁ可愛そうに」といった哀れみを受けるのが関の山かもしれません。
キリスト教に限らず「信仰を持っていない」と自ら述べる人間はかなり敵視され得ます。
「ヒューマニスト」という言葉でさえ、「神を第一義においていない」という意味合いがあるからあまり使うなとアドバイスされたこともあります。
てなわけで、もしNANさんが、日本以外も視野に入れた議論を今後なさってくれたら私としてはうれしく思います。
続きます。
154
:
chochonmage
:2007/12/20(木) 14:35:38 ID:vUxNW.gI
>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、
>その危惧を解消しておきたいわけです。(後悔と懺悔さんの発言)
>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり
>咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
されていないと思います。
悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。
こういう例もあります。ビデオをご参照ください。
The Price of Atheism
ttp://www.youtube.com/watch?v=sTRDRP2n4Sk
まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。
この状況は、日本における〇皇タブーに似ているのではないかと思います。建て前として批判可能かもしれませんが、
公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?実例としては、「噂の真相」右翼襲撃事件が記憶に新しいところです。
「ドーキンス評」が瑣末かとか、なぜ宗教のみがピックアップされるのかとかもっと書きたいことがあるのですが、
眠いので今日はこれでごめんくださいませ。
乱文失礼いたしました。
155
:
NAN
:2007/12/20(木) 18:20:44 ID:???
>>153
:chochonmageさん
初めまして、ご挨拶ありがとうございます。
ご指摘のとおり、私は西洋諸国、とりわけアメリカ国内の事情については少しも考慮していません。米国における宗教事情は、私が知る限りあまりに異常で、恐らくはこの日本と両極端の相似形になるのではないか?と考えるからです。件のドーキンスの本は、アメリカなど諸外国ではかなりのインパクトを持つであろうが、我が国においてはいささか見当はずれの書籍に見える(もしこの本がリチャード・ドーキンス以外の著者によるものであるなら、ここでこのような議論が起きたであろうか?という予見も含めて)現状についても指摘しておくべき、と考えていました。
恐らく、chochonmageさんが教えてくださったような事例が、かの国内では数多く、日常的に繰り返されているのでしょう。また「キリスト教」の影響も社会の隅々までに及び、特に言論・表現・研究分野で働く人々に対しては、時に深刻なストレスとなっているであろうことは想像に難くありません。(敢えて宗教とは書きません。それはキリスト教)
ドーキンスが犯した間違いは、なぜか「キリスト教の一部勢力もしくは特定できる教会に所属する会派の者たち」という標的の特定を行わず、あたかもすべての宗教が敵であるかのように問題を一般化してしまったことだ、と私は考えます。さらに「アメリカ社会のキリスト教問題における神は妄想である」くらいに事象を特定しておいてくれれば、私は興味深くその本を読んだ「かも」知れません。
さて、私も私事を書きます。
私が育った街には大きな寺社と神社があり、私はその神仏共同体が経営する幼稚園を卒園し、幼い頃から「オシャカサマ」とか「ナムカンゼーオンボサツ」みたいな言葉に触れていました。もしこのとき、私の両親がchochonmageさんのように政教分離に敏感で、子供の教育と宗教問題を厳密に捉えていたなら、そういう幼稚園に通わせることはなかったでしょう。
続いて、私は高校でとある私学に通いましたが、その学校は入学式を靖国神社で行うという素晴らしい(笑)校風を持つ学校でした。さらに私は専門学校にも通いましたが、この専門学校は母体が宗教法人であり、いわゆる神道系の新興宗教(それも”超”がつく拝金主義)に属する組織で、今ではさらに成長して某プロスポーツチームのオーナー企業と化していたり、我が地域では多大な影響力を誇る組織へと成長しています。我が国においても、かように宗教の影響はあるものです。しかし、少なくとも幼稚園以外でカリキュラムの中に宗教的な色合いが滲み出してくることはありませんでした。
我が国の国歌には誰もが知るように宗教的色合いがあります。恐らく、大半の国歌とはそういうものでしょう。私は国歌を拒否するほどに無宗教者であろう、と志したことがなく、君が代に対する嫌悪感もありません。育った街の神社も寺社も好きだし、靖国神社と政治家の問題に議論の必要はあるにしても、靖国神社そのものが「悪い」だとか「避けるべきもの」という感覚はありません。「和の思想」など持ち出すまでもなく、法事に出ては数珠を持ち、結婚式では「アーメン」と唱えている程度のことで不利益を蒙ったり表現活動における制限を受けたり迫害に合うという事態に(幸運にも?)遭遇しなかったので、場に合わせた態度でスルーしてきた、というのが正直なところです。
そんな私ですが、つい最近ひょんなことからとある宗教団体の勧誘を受けたことがあります。日蓮宗系のカルトでした。最初はそんな話に発展するとは分からず、真摯に(笑)話を聞いていたのですが、「実は…」と相手が本題に入ってからは「???」な雰囲気になり、最終的に「君とは二度と会わないし近寄らないように」と念を押すしかない状況へと発展してしまいました。ただし、それは私が無宗教者であろう、としたからではありません。むしろ、多少は宗教と経典を知る者として、あまりにも歪曲された教義や「予言」などが「許せない」と感じたからです。さらに「私はあなたをしあわせにしたい、と思っている」と云われたからには「自分をしあわせにできるのは自分の行いだけだ」と述べるしかありませんでした。
156
:
NAN
:2007/12/20(木) 18:21:14 ID:???
では、こうした事例は宗教による私への迫害でしょうか。そうとは思いません。カルト宗教が私に勧誘を仕掛けたことは迷惑な話でしたが、それは私が「彼」と人間関係を生じさせたがために起きた事例であり、もとはといえば私の不注意な人付き合いに端を発する、と考えます。つまり、私のせいです。なぜならカルト宗教はそういう勧誘をするものだ、と知っているのに、今から思えば明らかに勧誘を想起させる行動をとっていた彼の接近を許していたからです。この件について、私は該当する教団への批判をすぐに書き、某誌に掲載しました。しかし編集部の方針によって教団の固有名称を書くことはペケになり、私も合意したので「某カルト教団」と表現するにとどめました。
そこで、
>悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。
にお答えするなら、やはり問題は「個別事象」であり、一般化することは困難だ、と私は思います。その問題に苦難するひとは問題を少しでも一般化し、仲間を募り、共に戦おうみたいな意識を持つだろうと理解はできますが、それをやればやるほど事態は溝を深め、新たな迫害を生むだろう、と予想します。つまり「米国の田舎のキリスト教問題」なのです。(個別事象だから議論する必要はない、という意味ではありません。個別事象として議論すべき、ということです)
また、出版…つまり社会に対してある程度公的な影響力を持つ表現者が対象を批判する場合において、その対象がどの程度センシティブでネガティブなレスポンス(たとえば復讐行為)に及ぶだろうか?ということは、リスクとして計上し把握すべきであり、理想論や性善説に立った不用意な扇りを含むタイトル付けなどを「好ましい」と、私は思いません。それは「自由な宗教批判」ではなく、挑戦的で好戦的な宣戦布告と捉えられるだろうことが十分に予想できるからです。
>まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。
まさにテレビ報道です。スポンサーがあり、最初から制限された「シナリオどおり」の進行です。また、それらの話が「起こりえない」などと私は思いません。青臭い(ドーキンスのように)理想論を述べたり無駄な論理的正当化を行うよりも、対象の特徴性格長所短所を「科学的に」検討し効果的な戦略を練ったうえで成すべきことをするべき、と考えるのです。(一方で、青臭い理想論を知ることも悪いとは思いません)
>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?
なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。たいてい逆効果です。そういう不注意で無思慮な批判が制限されるのはむしろ当たり前であり、AH1さんが指摘するような「自戒のない」行為に妄信者がネガティブな反応を起こすだろうことは「予想できる」でしょう。自由を勘違いしてはいけません。相手が勝手な言動をしているからと云って、こっちも同じ手口でやり返すというのは対立構造を生むだけです。
#敢えて対立構造を生み、その上で治安的強制力を発動させるという戦略もありますが。
最後になりますが、この議論における最大のナンセンスは論理的正当性に結論を求めているところです。そもそも「情動分野」で起きる感情論や欲求行為に対して、論理をかざすなんて馬鹿げています。土俵が違う、ということです。「科学には答えられない重要な問いかけ」に対して、論理的に答えようなんて矛盾していませんか?宗教は必要ない、といくら論理的整合性を示したところでまったく無意味だろう、と私は思います。(その正当性とやらを見出したひとの心にはとっても有意義だろうが、現実には作用しないだろう、という意味)
157
:
GB
:2007/12/21(金) 19:52:30 ID:???
>>130
後悔と懺悔さん
まず、先日の引用部分にミスがあったこと、お詫びします。
文章をごにょごにょいじっているときに、間違えました。ごめんなさい。
(遅くなってますが、とりあえずの返信を…))
「宗教という形質のダーウィン主義的な生存価」についての説明は、それ自体興味深く面白いと思っています。宗教は、(二元論や目的論的な)人の生得的な性向の副産物なのでしょうし、それが集団の生存価を左右したり、また盲信が成員に隷属を強いたりしたことも多かっただろうとも思います。いま、「宗教」の大きな部分は、確かに「火に飛び込む蛾の天空航法の誤作動」を起こしているのでしょうね。でも、
宗教の根源(役割)の一つは、自分がなぜここで生きているのかという、ふつう答えようのない疑問に対する精一杯の解答でもあり、人類誕生の時代から現代まで、地球上のあらゆる場所でそれぞれの事情で紡がれてきたヒトの貴重な歴史だと思うのですね。
哲学や科学(理性)が、それまでの説明内容に修正を加えて人間観を変え、いま結果として宗教のカタチの多くが形骸化したとしても、ふつう答えようのない「意味」を求める人々の要求はたぶん変わらない。文化と一体化したコミュニティの価値観という形で大切にされていくのではないかと思うわけで、それはたとえば、われわれ日本人に伝統的な祖先崇拝という心性についても、同じことなのではないかと思うわけです。
そういう人の心に、「解答などない」とかんたんに言っちゃっていいんだろうか、というのが、私の気分なわけです。
158
:
AH1
:2007/12/21(金) 23:40:48 ID:fKqeZx4M
ちょっと仕切り直しというか。
「例えば『メリケンの馬鹿クリ(copryright 地下猫さん)』に文句を言うことを
控えるべきだ、などと考える人」
はこの掲示板にいるんでしょうか?
159
:
リリス
:2007/12/23(日) 16:18:36 ID:nrzx3pJo
こんにちは。
ドーキンスの「宗教」批判に対して私が感じている違和感は、NANさんが私などよりずっと丁寧に雄弁に書いておられるので、私が口を挟む余地などまったく無いようです(笑)。ですから、私自身のことを少し書いてみようと思います。
こちらの何人かの方はご存知の通り、私は無神論者であり進化論支持者であって、有神論者や創造科学論者からの批判に対しては好戦的に反応する方です。一方で私は仏教というものを敬愛しています。特定の宗教に入信する意志は無いので「仏教徒」とは名乗りませんが、書物等で接した仏教の教えは、私の倫理観や価値観の一部になっています。仏教において育まれてきた思想体系は、人類の資産だと思っていますし、キリスト教のように多くの人間によって担われてきた宗教にも、きっと尊重されるべき思想体系があるものと思います。私は一神教が好きではないのですが、だからと言って一神教が育んできた良い面を無視してしまわないよう自戒を努力しています。
つまり私は、無神論者であり反原理主義者であり「馬鹿クリ」大嫌い人間であり、かつ、安直な宗教批判に対しては宗教擁護の立場に立つわけです。(宗教を全面的に擁護できるかどうかは保留。これは余りに広範で奥の深い分野だと思うので。)また、思想体系として私は仏教に心を寄せていますが、それとは別に、人間精神への興味から世界各地の神話伝承にも関心を持っています。私から見れば、ドーキンスに賛同する方々は、「宗教」において「ヘブライの一神教」をクローズアップしすぎているのではないか、と感じられます。私自身は、このような一神教は宗教においてむしろ特殊な形態なのではないか、という印象を持っていますので。
たとえば私の手元にある「憎悪の宗教(定方晟著)」では、ヘブライ系一神教について「自分のまわりには敵がいるという意識を吹き込むことで一致している」と述べています。ニーチェもキリスト教の特徴の一つに「ルサンチマン」を挙げました。これらは「宗教」の特徴とは言えないでしょう。「一神教VS多神教(岸田秀著)」に至っては、「一神教は、ひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外ではないか」と述べ、「癌細胞のようなもの」という表現まで用いています。世界の神話に興味がある私には、この本の「旧約聖書は、多神教の世界に一神教が無理やり押し入る物語」「自生的な神(自然発生的な多神教の神々)を必死になって排除しよう、弾圧しようとする人工的な神の物語」という観点は面白いものでした。「宗教」と一括りに言ったところで、かつて一神教と対立したのは無神論ではなく土着の宗教でしたし、多神教や汎神論に(どちらかと言えば好意的な)関心を持つ私としては、「宗教」=「ヘブライの一神教」と見なす考え方にも反感を覚えるところです。
で、
後悔と懺悔さん
>しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
たとえば「キリスト教」という名のもとで行われていることに対しては、仏教徒が負うべき責任も、祖霊信仰家が負うべき責任も、無神論者が負うべき責任も、無宗教者が負うべき責任も、基本的に等価であろうと思います。仏教の主流は特定の対象(それが神であっても)に心を捉われることを否定しますから、キリスト教徒と仏教徒の心理的距離は、キリスト教徒とただの無宗教者の心理的距離よりも離れている可能性さえあります。そのことは考慮されているのでしょうか?
160
:
リリス
:2007/12/23(日) 16:41:35 ID:nrzx3pJo
後悔と懺悔さん
>しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。
>人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。
この点について、議論が尽くされていないと感じます。
後悔と懺悔さんやカクレクマノミさんは、倫理観・道徳観については
『宗教は実のところなんの機能も果たしていない』
『「宗教」自身の寄与はほとんどない』
とお考えであり、しかし“正しさ”を独占しようとする傾向については、
『宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり』
『「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです』
とお考えなのですよね。この不均衡はどのような理由によるものでしょうか。
私自身はNANさんのご意見に賛同します。
『正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。』
つまり、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向が宗教の周辺でよく見られるのは、宗教が「感情」や「人が生きる価値や意味」といった領域に関わるものであるからに過ぎず、宗教がそれらの傾向を助長するとは一概には言えないだろう、という考えです。(助長するケースが無い、という意味ではありません。)根拠は、宗教以外の枠組みの中にも容易に「正しさを独占しようとする性質あるいは傾向」を見出しうることです。
それに対して、「助長するものである」とする根拠はどのようなものでしょうか。勿論そのようなケースがある、というだけでは不十分です。私には、宗教全般を網羅するような考察が十分になされないままに、「宗教は人間が本来的に犯しうる過ちをこれ以上ないほど効果的に助長するモノである」と(教条主義的に)決め付けられているような気がしてなりません。
私は「宗教さん」からの批判的発言に対して、脊髄反射的に反論してしまう方なので、ヤフーでは口論に至ることがよくあります。その経験から、「宗教さん」と呼びたくなるような人たちは、逆説的ですが「宗教」に対して真摯でない、という印象を受けました。たとえば猫さんが否定神学で述べられたような「知解されざる神」の概念、人間は神の意図を知りえるのかといった問題や、神とははたして人間が「存在する/存在しない」といった言葉で認識できるような存在かといった問題は、「神」と真剣に向き合うならば不可避なものに思えます。しかし私が対論した(罵倒したとも言う)「宗教さん」達は、そのような事をまったく考えていないようでした。その経験も、私がドーキンスの「宗教」批判よりも、グールドの『敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である』に賛同する理由です。
161
:
リリス
:2007/12/23(日) 16:48:09 ID:nrzx3pJo
また、
>その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。
ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか。「宗教≒ヘブライ系の一神教」であるかのような社会状況に大きく影響を受けた、恣意的な見解ではないのでしょうか?
たしかに『仏教の思想1―知恵と慈悲―』には次のような文章があります。
『仏教はキリスト教が、そういわれるような意味で宗教ではありません。それを、宗教だというならば、極度に思想的な宗教であります。十九世紀のヨーロッパにおける仏教学者は、そこに、驚くべき宗教を見ました。いっさいの迷信から自由な、純粋倫理的な宗教。ヨーロッパの仏教学者は、仏教の中にキリスト教とまったく違った宗教を見て、驚いたのは、彼らがむしろキリスト教というものを基準にして、宗教を考えたゆえかもしれません。』
キリスト教やイスラム教と、仏教や儒教との違いに意識を向けたとき、なぜ「宗教」というものの幅広さに思いを馳せるのではなく、「そうしたものは宗教ではまったくなく」という方向に行ってしまうのでしょうか。ドーキンスの批判対象である「宗教」が、ごく狭い範囲の限られたものを指すのならば、それに「宗教」という呼称を用いることは不適切であり、批判されてしかるべきでしょう。その論法は、創造科学者たちが「進化」という言葉で大進化のみを表そうとするのに似てしまわないでしょうか?
NANさんが書いておられる『「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています』という視点が大切なのであり、ドーキンスが批判対象に対して『宗教』という呼称を用いるのは、この視点においてマイナスだと考えています。
162
:
地下に眠るM
:2007/12/23(日) 22:44:44 ID:J4MyD2WQ
社会生物学論争史1を読了。
「神は妄想である」は今日発送したというメールが届きましたにゃ。
予約してあったグールドの「神と科学は共存できるか」を昨日図書館で借りて参りましたにゃ。
正月はこのあたりをゆくーりと読むつもり。
で、社会生物学論争史1を読んで、なんとなく思ったことなんだけど
ドーキンスの基本モチーフのひとつに「ニンゲンは遺伝子支配に対抗できる」ちゅうのがありますよにゃ。
もしかしたら、ドーキンスの執拗な宗教批判のベースには、この「遺伝子支配への対抗」というものがあるのではにゃーかという気がしたのですにゃ。このモチーフが宗教批判の形をとった場合、非常に激烈なものになっていくのは理解できる。それは、単なる「外部」批判に留まることができにゃーものだからだ。
まあとにかく読んでみますにゃ。
(ほかに読みたい本も正月にはあったんだけどにゃー・・・・。自業自得にゃんが)
163
:
AH1
:2007/12/26(水) 12:34:06 ID:fKqeZx4M
すいません、ここだけレスさせてください。
>>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?
>なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。
強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。あくまで、ダークグリーンのいかつい車が大音量でドラ声を響かせながら、迷彩服のアンチャンを乗せて来るからではないですか?
つまり、「宗教だから遠慮する」のではなく、はっきりと暴力による威嚇があるから二の足を踏むのでしょう。
私はあんな連中は素朴な神道を汚しているとしか思えませんが、面と向かってそう言えば取り囲まれて殴られそうだから言ったことはありません。私がヘタレである事は確かだとしても、これは「宗教に遠慮している」ことになるでしょうか?
私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。
164
:
地下に眠るM
:2007/12/28(金) 23:42:17 ID:SQkurglE
「神は妄想である」を読み始めたとこ。
ここまでヒデエ本だとは予想してなかったにゃ。
明白な事実誤認(ことによると捏造)や決めつけを根拠にした厨房論法が目立つ。
これを書いたのは本当にあのドーキンスなの?
読まずに厨房呼ばわりしていたけど、思っていたよりよっぽどヒデエ。
数ページめくるごとに「馬鹿か、こいつ」と呟きながら読んでおりますにゃ。
うん。これがまかりとおるのなら、創造科学に同情しちゃうね。
165
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:21:15 ID:yW.XqGsE
>>132
:chochonmageさん
>言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。
もちろんそうです。誰もが一律に同じ責任を負えと言っているわけではありません。ただ、誰か直接の責任者を見つけてきてそれを追及し、自分は無関係(むしろ「悪」を追及している自分は「正義」の側の人間である)というのは違うのではないか──ということです。
オウム事件のとき、多くの教員は(特に理科教員は)自分の教え子にオウム信者がいたわけでもないのに「自分が教えてきたことはなんだったのだろう。自分は何をしなければならなかった・今後しなければならないのだろう、一体何ができるのだろう」と激しく自問しました。それは私には人として自然な感情に思えます。そういう感情が湧かない人を「間違っている」とは言いません。でも、事実の問題として、多くの教員はそういう気持ちを持ったのです。
私は、ではなぜ「宗教」はそういった気持ちから自由なのだろう──ということが不思議なのです。その気持ちが、
>>102
の4番目の「たとえば」には込められているわけです。
>>133
:AH1さん
>「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.
ですから、それは何度も何度も書いているように(
>>6
、
>>17
、
>>48
、
>>50
、
>>128
)、当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。
なんというか、AH1さんは人間というものに対してあまりに悲観的というか侮蔑的に過ぎる気がします。
>>130
に書いたように、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といったことは、実はさんざん研究・検討されてきているのです。分かってきたのは、人間の本性的・本能的な感情の傾向なんて、いつどこで生まれ育っても大して変わらない──ということです。
AH1さんは、「惚れた女なら相手の気持ちなんて考えずに力ずくでとことん犯して孕ませろ」という価値観をもった文化が醸成される可能性を本気で危惧しますか。逆に「たとえ理由なくぶん殴られても、殴った相手を決して責めてはならない」という価値観が支配的な文化が存在しうると考えますか。「異邦人の女ならいくら泣き叫ぼうが犯しても良い」という価値観と「相手が誰であれそこまで非人間的な扱いをすべきでない」という価値観の2つを提示された人間は、前者の価値観に好感を持ったり支持したりすることもあると主張しますか。
私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(
>>49
)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。
>>134
:AH1さん
>一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.
おそらく多くの人間はそう感じるんです。まさにここで皆さんが証明してくれているように、自分のモノとは違う「正しさ」を押しつけてくる(私のような)モノに対する嫌悪感は、人間の自然な感情だと思うんです。私の主張の正当性の根拠はまさにそこにあるわけです。
>>133
:AH1さん
>第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.
それは存じております。その点ではすでに合意できていると思っていましたが。ただし、何度も繰り返しているように、「宗教」に超自然的なコト・モノを信じさせる教義なり傾向なりがある限り、この点での批判は避けられないと思います。
166
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:24:45 ID:yW.XqGsE
>>133
:AH1さん
>また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.
そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。
>>147
:AH1さん
>恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。
AH1さんのこのコメントが誰に向けられているのか分かりませんが、私はここでずっとそのことだけを主張し続けているのであり、「宗教」はそれを妨げるものだと非難しているのです。
なお、AH1さんの
>>147
での他の論点については、まず、私の
>>127
の主張に対するAH1さんの見解をうかがった上で考えたいと思います。
>>150
:AH1さん
>ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?
それは非難されるべきことなのですか。
各々のカギ括弧内の内容は私の主張とは大きくかけ離れており、その点で異論はありますが、それはこの論点とは無関係だと思うので無視します。
さて、もし弾圧を行わずに宗教包囲網が作り上げられたのだとしたら、AH1さんはそれはなぜだと思われますか。洗脳ですか。たしかに、私は、
>>50
で「古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多い」と書きましたが……。
AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。
>>151
:AH1さん
>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
を覚えていらっしゃるでしょうか。もし私が、吉村医院の問題点を指摘して、それでも「一人ひとりの信者たちを弾圧するつもりはない」と本心で言ったとします。でも、「もしも私の主張が多くの人に共感され受け入れられるものだとしたら、吉村医院(や、そのような価値観)は次第に衰退し、消えていくかも知れない」と考えるとしたら、そう考えてしまう私に、AH1さんは不安を感じますか。
167
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:27:40 ID:yW.XqGsE
>>133
:AH1さん
>つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.
AH1さんがそう思うのは尊重します。でも私は「拝むだけでは願いはかなわないし奇蹟はおきないということは分かってるよね。自分にできることはすべてして、それでもまだ足りなくて不安で、だから拝んでるんだよね」と言ってあげられる人を否定すべきではないと思います。少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。
さらに言えば、そうやって正面から受験勉強に立ち向かわないで、祈りやおなじないに逃げた人たちのことを、これから受験を迎える生徒たちに批判的に話すようなことは実際にしてきました。批判というのは、直接批判対象となっている当人に向けてという気持ちも大事ですが、それ以上に、その批判対象と同じ陥穽にはまりうる潜在的可能性をもった人たちのためにすべきであると、私は思っています。
>>135
:次郎さん
>で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。
ドーキンスの主張が(そして私の主張も)そんな単純なものでないことは明らかです。たとえば、少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
ですが、もしも、吉村医院が妊婦を一切転送しないとすれば、グールドは吉村医院を批判できるのでしょうか。吉村医院を非難することも不快感を表明することも、その根拠をどこに見出すことができるのか、私には分かりません。
私は、吉村医院の当事者に向かって直接非難する(ような無駄な)ことはしませんが、吉村医院の価値観(正しさ)を批判の対象にすべきでないという見解には大いに疑問を持ちます。もちろん批判や議論の結果、私の価値観が共感を得られずに「吉村医院の価値観(正しさ)を受容する社会であるべし」という世論が形成されるかも知れません。それでも、互いにより望ましい価値観を模索したり、自分の望ましいと思う価値観が社会通念になるよう努力したりする余地は認められるべきだと思うのです。皆さんの見解の多くは、そのような行為を拒否・否定するもののように私には感じられるのです。
この件(吉村医院の件ではありません)について別の場所で自分の見解を述べたのもあるので参考までに(↓)。
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
このブログはコメントに直接リンクができないようなのですけど、コメント欄の「田部勝也」が私です。このエントリとコメント欄には(少なくとも私のコメントまでは)斜め読みでも必ず目を通していただけると幸いです。この論点における私の主張のポイントがあると思っています。
>>135
:次郎さん
>でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。
私はこの点について冷静で公正な判断を下す自信がないのでぜひ皆さんに聞いてみたいのですけど、
>>129
で問題提起したように、本当にドーキンスの非難は不当に「宗教」を腐したものなのでしょうか。私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。その非難や価値観が、多くの人・社会から共感を得られるか嫌悪されるかは、また別の話です。
もしも、この書におけるドーキンスの行為が「不当に他の価値観を腐し」たものだとするのならば、私にはどんな正当な批判活動もできそうにありません。
168
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:34:18 ID:yW.XqGsE
>>108
:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。
たとえば、上で書いたように、オウム事件は、通常、学校教員のせいだとはみなされていません。しかし、社会の構成員である以上、オウム事件を許した社会的土壌の形成には、どんなに小さくとも何らかの寄与はしているはずであり、多くの教員はその点を悩んだわけです。いわゆる「ニセ科学」の蔓延に警鐘を鳴らしている人たちの多くも、個々のニセ科学の直接の害悪を追及しているだけでなく、ニセ科学が「蔓延してしまう」ような社会的土壌が、ニセ科学の蔓延だけでなく、他の(一見すると無関係にも思えるようなものも含め)社会的害悪のはびこる温床になっているのではないか──ということに注目しているわけです。
私は、特定の「宗教」が直接的に社会の害悪となるケースをもって、それを「宗教」一般に拡大解釈しているわけではないことを強調したいと思います。そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。
その他、NANさんが
>>108
と
>>109
に書かれたことについては、すでに私なりの回答は十分していると思うので、1点だけ……。
>>108
:NANさん
>つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。
ここがそもそもの誤解だと思うのですけど、NANさんは、今現在の「無宗教者」と「宗教者」だけを考慮すれば済むような世界に住んでいるわけではないと思うのです。私は「宗教者をどうにかしたい」とはほとんど思いません(それはこれまでの私の発言から明らかだと思うのですけど)。「(まだ産まれてきていない人々も含めて)これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。
>>121
と
>>122
のNANさんのコメントについては、さんざん言い尽くされてきたことですが、よく肝に銘じておきたいと思います。
>>121
でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』は、すべてに目を通すのにはとても長い時間が必要になりそうですが、興味深く読ませていただいています。
>>138
:NANさん
>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
おっしゃる通りかも知れません。この点に関しては、私のコメントは撤回します。ただ、今私がしているこの議論において、私の論拠だけでなく、批判対象の対する感情的気遣いや批判対象を扼殺する危惧などの点から批判を受けていることについては、未だ納得しがたいものがあります。
>>138
:NANさん
>あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。
この点について反論はありません。個人的には宗教法人制度自体に疑問を感じています。そして、ここでの議論の論点とは離れますが、一般に国家に対する批判は、その政権を選んだ国民に対する批判と等価であるという指摘には全面的に同意します。
>>138
:NANさん
>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。
私は感じるのです。そのことに納得・共感していただけないのは仕方ありませんが、それは私の批判を非難する論拠にならないのは、NANさんも十分ご承知でしょう。
>>139
:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。
>>142
でカクレクマノミさんも指摘していますが、私の批判対象は「宗教擁護者」ではありません。「宗教」です。「宗教」自体が反論することは期待できないので、「宗教」の言い分を代弁する者として「宗教」擁護者と書きました。
>>108
でNANさんが「一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?」と書かれたので、以後その点に配慮して注意深く書き分けているつもりです。
169
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:45:27 ID:yW.XqGsE
訂正です。
上記
>>168
から2箇所あります。
>>108
:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。
は、実際には、
>>121
からの引用です。正しくは、
>>121
:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。
同じく、上記
>>168
からもう1点。
>>139
:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。
は、実際には、
>>138
からの引用です。正しくは、
>>138
:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。
以上、謝罪し訂正します。申し訳ありませんでした。
170
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:47:01 ID:yW.XqGsE
>>139
:NANさん
>要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。
私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。正直に言えば、先生に叱られた子供が「あの子もやってるし、あの子はもっと悪いのに、なんでボクだけ……」と拗ねるのと、どう違うのか説明して欲しいと思っています。私が「宗教」以外のものを批判していないと思っているわけではないでしょうし……。
>>145
の「(前略)もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます」などにも同様の疑問を多々感じます。
>>139
:NANさん
>もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。
そういう点はたしかにあるでしょう。しかし、私の批判している点は、もっと人間の本性的な感情や思考傾向に根ざした部分にあります。
>>91
や
>>105
は読んで頂いていると思いますが。
>>140
:NANさん
>「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w
NANさんたちがそういう自戒をしたのは、あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。
特に、NANさんは「そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです(
>>139
)」「だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する(
>>149
)」といった主張を繰り返しているので、私の
>>102
の疑問に関する答えとしては説得力を持ちえませんし、むしろ、「宗教」から自由な人のほうが、より人として自然な矜持なり美学なり理性なり感情なりに基づいた判断ができるように思う──という私の見解を補強する例にさえ感じられます。
>>144
:NANさん
>もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?
NANさんのご批判は論理的にもっともかと思いますが、一方、不安を感じる点に関して疑念を払拭してくれない(批判に答えてくれない)人たちと一緒の社会に暮らしていくのは、心情的に納得しかねるものがあります。
>>146
:NANさん
>(前略)これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。
まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。
171
:
後悔と懺悔
:2007/12/30(日) 22:55:22 ID:yW.XqGsE
>>146
:NANさん
>しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?
端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。
「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求める態度がどれほど危険かは、ここで私の間違いを指摘されている皆様には異論はないかと思います。それは、
>>5
で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論でほぼ尽くされていると私は考えています。
一方、私が
>>16
などで何度も指摘してきたように、「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。余談ですが、「ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか(
>>161
:リリスさん)」の答えははっきりしていて、「“重要な問い”への仏教や儒教の答え」について、その正当性を超自然的なモノ・人智を越えたモノに拠っていることを、ドーキンスは示せなかったからです。
「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のない社会、むしろそれが奨励される社会は、そうでない社会に比べて、一般にどういう傾向を有しうるでしょうか。どういうものが生じうる社会的土壌の形成に寄与するでしょうか。
私は、「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求めるような社会と同様の、「超自然的なモノ・人智を越えたモノ」を「科学」に置き換えただけで、まったく似た傾向を有するような社会になっていくのではないかと、何度も何度も指摘し続けてきたわけです。正しさの根拠が、超自然的なモノ・人智を越えたモノである以上、正しさと現実との齟齬(いくら祈っても願いが叶わないなど)が生じうるだけ、なお好ましくない社会と考えることもできるかも知れません。
NANさんは「科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います(
>>146
)」と述べてます。科学的方法論を浸透させる上で最大の障害は何でしょうか。私はもう20年近く「ニセ科学」について考えてきました(当時は「ニセ科学」なんて言葉はなかったですけど)。「ニセ科学」の蔓延が、科学的方法論を浸透させる上で障害となることには異論はないでしょう。では、「ニセ科学」の蔓延が、なぜ、どのようにして、科学的方法論を浸透させる上で障害となるのでしょうか。最近、poohさんのブログの『心に棲むもの』というエントリ(↓)
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-12-27-1
のコメント欄を読みました。偏見に凝り固まった私には、正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のないような社会における社会的心性の話としても読める気がしたのですけど、いかがでしょうか。
いずれにせよ、改めてここでの議論を何度か通読してみて、「宗教」一般についての私の主張は誰の共感も得られるようなものでなく、その論拠も多くの人にとってまったく説得力をもたないということは、さすがの私でも、かなりはっきりしました。
これまでの「宗教」一般についての私の主張は、すべて取り下げさせて頂きたく思います。もちろん、「宗教」一般についての私のあまりの無知と見解の底の浅さを深く自戒しなければならないという気持ちを強くしました。皆さんの議論や
>>121
でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』も含め、自分の認識を意識して修正していくよう努めていきたいと思います。
これまでの「宗教」一般についての私の主張はすべて取り下げますが、私がそれらについて書いてきたことへの批判や、そこから派生したより有意義で建設的な議論は、ぜひとも続けて頂きたく願っています。自分の認識の修正に役立てたいと思っていますし、私の何が間違っていたのか、本当はどのような議論が必要だったのかといったことが、今後閲覧する人たちに分かりやすいかたちで提示されることは意味のないことではないと考えますので(今回の一連の投稿はその材料となるべく、自分の無知と偏見──だけど自分自身で論破できない部分を特にさらけ出したつもりです)。
172
:
NAN
:2008/01/07(月) 11:25:49 ID:???
年をまたいでしまったし、書くべき文章が大量なので少し散文気味になることをご容赦。
>>166
>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。
どんな理由に基づく行為であれ、正当性や不当性を帯びたものであれ、批判するのも非難するのも自由ですよ。無論、まったく不当に復讐されることだってあるかも知れない。それがイヤだ、と(同じように)主張することはできるけれど、批判・非難される可能性を下げることは少しもできないだろうなぁ。
>>167
>私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。
もちろんそれは「正当な批判行為である」と私も思いますよ。ただし、「キリスト教に偏っていることはたしかですが」とご自分で書いておられるように、それだけで「宗教一般に対する批判」としては落第でしょう。
>>168
>そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。
仮にそうであるなら、後悔と懺悔さんの文章はあまりにまわりくどく、あなたが指摘する問題点に少しも届いていないように見えてしまいます。つまり私が述べたいことは、そんなことを議論するのであれば、そもそも「宗教一般」を批判対象にする必要性すらなく、主題とすべきはニンゲンが持つ「盲信性」に端を発し、原理主義や教条主義について批判し、その解明を行えば良いのではないでしょうか。
>>これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。
「社会的害悪」になりうる潜在的可能性をもったすべての人々をどうにかしたい、という主張でさえ、私は賛同しにくい人格なので、これが宗教者となると、まったく無理な世界ですね。(しかし、そういう論調を否定はしません)
>>私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。
説得力がないからです。十分な根拠を提示して「なるほど宗教一般にはそういう問題がある」という共通認識が得られるのなら、議論の方向は違うものになったでしょう。宗教批判者としてのドーキンスにさっぱり信用がなく、さらにその著作をベースにした二次議論であれば、さらにコンセンサスが得られなくなるのは当然のことでしょう。
私は「宗教批判をすべきではない」などとまったく思いません。後悔と懺悔さんの行う「宗教一般批判」が的外れである、と述べてきただけです。
>>あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。
どうとでも云える話でしたね。失礼しました。
ただし、私は「人としての矜持なり美学なり理性なり感情なり」を得るにあたり、多くの宗教的観念や思想に影響を受けています。答えは白と黒だけではないことを、最も重視すべきでしょうね。
173
:
NAN
:2008/01/07(月) 11:26:30 ID:???
>>まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。
ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」の中で「牧師の言い分を”真面目に”聞く必要がどこにあるのか?」と書いているのです。それに対して、なぜ”真面目に”聞くことさえNGなのだろう?と私は述べています。私はエロCGモデラーだったりベジェ絵描きだったりギャンブルチラシ屋だったりインチキコラムニストだったりする顔を持っていて、時に進化論支持者というプラカードを掲げてネット議論に参加したりします。私がどんな顔をしていようと、皆さん真面目に話しを聞いてくれます。少なくとも「牧師の話など聞けるか!」とはなりません。ドーキンスは似たような主張をしつこくくり返し、さっぱり共感の持てない私としては、該当するページの部分は常に飛ばし読みされることになりました。
>>端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。
ぜんぜん違いますよ。ドーキンスは「宇宙創成の物理的仕組み」について友人に説明を求めたのです。これは「たとえばなし」の一種ですから、ドーキンスの友人は天文学者のはずなのにさっぱり頼りにならなくて、質問を向けられたとたんに「牧師に尋ねたほうがいい、科学では到底答えられないから」と述べた、と「演出されている」のです。(さらにその友人の態度に立腹するドーキンスの様子はまったくバカっぽい)
宇宙創成の物理的仕組みを説明するにあたり、牧師だろうがシェフだろうがマクドナルドのカウンターの中でほとんど笑わないお姉さんだろうが、適切さにおいて差はないでしょう。でも同時に、牧師だって聖書だけを読んでいるのではないだろうし、シェフは包丁を研ぐばかりではなく、マクドナルドのお姉さんは大学に戻ると理論物理学を専攻しているかも知れない。いや、そんなものを専攻していてもいなくても、大人だったら「話くらい真面目に聞けよオラ!」と思われるのは当然でしょう。
>>「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。
それは宗教の「限られた一面」に過ぎません。もしもそれが「宗教一般の傾向」である、と本当に考えているのなら、そこからスタートする議論が破綻してしまうのは当然のことであろう、と私は予測します。
すでに後悔と懺悔さんは「一連の宗教批判」について、主張を取り下げておられるようですが、私としてはその「取り下げ」も少々釈然としません。なぜ長年お考えになってきたであろう議論を、これくらいの軋轢で取り下げてしまうのだろう?と私には思えるです。
以後、少し包括的に続けさせていただきます。
174
:
AH1
:2008/01/07(月) 15:01:13 ID:fKqeZx4M
>>165
,
>>166
,
>>167
後悔と懺悔さん
まず、ネットの存在しない所に引きこもっていましたので遅くなりました。
全部答えられるかどうかわからないですがやってみましょう。ただし、答えをまとめてしまうかもしれませんので御容赦ください。
>当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。
まあ、そうするしかないでしょうね。
>簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。
宗教対科学に限らず、常に、誰もがそう思っているだろうと思います。
>私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(
>>49
)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。
申し訳ないのですが、あなたが熱く語れば語るほど、「正しさを独占しようとする傾向はなんと普遍的なものか」としか思えません。
そして、前の投稿にも書いていますが、一体だれが、「メリケンの馬鹿クリ」のような存在に遠慮しろなどと主張しているのでしょうか?私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。
>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。
ならばなぜ掲示板にお書きになったのですか。あなたが意見を述べる自由があるのと同じく、私にも意見を述べる自由があるのではないですか。
>AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。
例えが違います。この例であれば、奴隷解放運動を行う人が「奴隷推進論者を奴隷にせよ」と言えばどうですか。
>少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。
地下猫氏の投稿を引用して、有害さの程度の問題であろう、と述べました。
175
:
AH1
:2008/01/07(月) 15:12:40 ID:fKqeZx4M
ちょいと訂正。
奴隷の例えも「有害さの程度」と考える方が実体に即してますかね。
有害さをどのように計るのか、も、これまた大騒ぎだと思うけれども。
そして、まとめ。後悔と懺悔さんの御意見に対する私の意見は以下のように集約されるでしょう。
「恐らく人間にとって有害であると思われるものを批判するのはもちろん自由である。
また教条主義・排他性などは人類の陥りがちな悪として常に自戒すべきである。
宗教は(その宗教にとって)正しき事を述べるものであるがゆえに、「信者にとってのみの正しさそのもの」
であり、その点で正しさを独占するものに他ならない。しかしながら、宗教のもつ有害性を、一部の極端な例だけによって一般化するのは問題がある。」
すなわち、「メリケンの馬鹿クリ」相手の局地戦闘ルールを一般化しすぎじゃないのか、
それってキリスト教が自らの神を唯一の神と信じ込むのと同様の違和感を感じるんだけど。
というようなことです。
176
:
NAN
:2008/01/08(火) 02:07:53 ID:???
後悔と懺悔さんの問題提起に対し、私がこのように反応している理由と動機について、少し書いておきたいと思います。(この掲示板に問題提起したのは地下猫氏なわけだが…)
宗教一般について包括的な批判を行うこと…実は私もそこに興味がないわけではありません。また、くり返し述べているように、「メリケンのバカクリ」に厳しい批判を行うのは当然だ、と思っているし、カルト宗教の嘘っぱちや底の浅さ、原理主義に基づく暴力を非難しないというのは、とても恥ずかしいことだ、と思います。それでは単に、私は後悔と懺悔さんの主張する「一部宗教に対する批判の一般化」について、そこだけを批判しているのでしょうか。一連の議論はそこに終始しますが、私の個人的な動機はもっと別の部分にあるようだ、と思えるのです。
>>102
において『様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか』と、後悔と懺悔さんは述べています。ここで云う宗教とは、かなり包括的なものであるように私は捉えます。また、先の投稿(
>>170
)で示されるような、これから宗教者となるかも知れないひとびとに対する危惧や警鐘そのものが無意味であるとは、当然、私も思いません。
それではなぜ、宗教「一般」に対する批判を私がなかなかできずにいるのだろうか?そう考えるとき、私は「その先にあるモノ」を想起せずにいられないのだろう、という推論に辿り着くのです。
私は(もちろん自分を含めて)ニンゲンに対してさほど期待をしていません。理性とやらの確かさも、信用に値しない脆いものだ、としか思っていません。それはたとえば「軍事的抑止力」などに代表される、独善的で威圧的な「正しさの押し付け」をもってしか、ひと時の平和さえ維持できないヒトの浅はかさに対して、とうの昔に絶望しきっているからなのだろう、と思っています。つまり、百歩譲ってドーキンスや後悔と懺悔さんの主張を認めたとき、それもまた「正しさの押し付け」として広まり、歪められ、必ず差別的なムーブメントに繋がるだろう、と予測しているからです。(実際、ドーキンスは『知識人』に対して決起を要請している。非知識人はどうなるのだろう?)
あるいはこんな予測も私はしています。仮に後悔と懺悔さんが述べるような「自戒」をひとびとが行い、実践していったのなら、なるほど現在はびこる宗教的問題は解決していくでしょう。しかしそれこそ仏陀やその他の開祖が試みた「救い」なのではないのか?それはつまり現代という世の中におけるとても宗教的な行為ではないのだろうか、仮にそうであるのならば、救いの「線引き」はどこでなされるのだろうか、どこかで線引きを行うような救いが、果たして私に許容できるだろうか?などと考え始めてしまい、やはり容認できないものに見えてしまうのです。
宗教に対してなにか積極的なアプローチを行うのだとしたら、もしそれが革新的で、強い説得力を持ち、本当に世界を変えるほど力のあるものであれば、それは必ず宗教的な色合いを帯びたものにならざるを得ないのではないか?私はそう思います。
177
:
chochonmage
:2008/01/14(月) 04:54:07 ID:vUxNW.gI
年末からドタバタと忙しく、すっかり間があいてしまいました。
レスをくださったNANさん、大変失礼いたしました。
何度か書き込もうとも思ったのですが、どうにもうまく考えがまとまらず苦しんでもおりました。
AH1様
横レスで失礼します。
>私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。
「おバカ撲滅主義」は私の
>>14
の書き込みから取られたものかと勝手に想像いたしますが、「おバカ撲滅主義(=科学万能主義)」と取られる可能性はあるなぁと思ってはいました。
が、
>>19
で書きましたように、私のいう「おバカなこと」とは「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」のことであり、
NANさんご指摘のような「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」にとって極めて便利な「ツールになりうるものの」ことを意味させたつもりでした。
そういった意味で、私はそういう「便利なツール」が無くなるといいな、もしくはたとえ無くならなかったとしても、「連中がツールをツールとして使っていやがるな」と、使われている人たちがちゃんと認識できるような
極力刷り込みされる機会が少ない社会がくればいいな(つまりツールとして無効になればいいな)、と、こちらでの各種ご意見を拝読した今でも思っています。
で、その便利なツールのひとつとしての宗教(ひとまとめにするなとか、ワケのわからない理屈とか考え方じゃないとか言われそうですが、ちょっとここでは勘弁)が、特に911以降は、連日新聞等で大きく報道されていることもあり、使われまくってるように私には思えるのです。
(あとは「愛国心」なる言葉とか。もちろん「連中」が使う意味でですが。)
といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。
レスが前後しますが:
>強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。
皇室の話は「宗教への遠慮」の例としてあげたのではありませんでした。NANさんのおっしゃっていた「宗教批判を躊躇わせない社会が実現している」
に対して米国の例をあげ、(NANさんは恐らく日本社会を想定してらっしゃったと思うのですが)米国の「信仰」(キリスト教に限りません)に対する空気
(タブー感とでもいいましょうか)が日本の皇室に対するそれに似ているなぁとあげたものですが、読み返して見るとちょっとポイントをはずしていたようです。
今思えば、NANさんの発言を「日本では何に対しても自由にモノが言える」と誤読していたようです。「対宗教」限定だったのですね。
>私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。
ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。
178
:
chochonmage
:2008/01/14(月) 04:58:17 ID:vUxNW.gI
そもそも宗教とは何者なのでしょう。「一般化」が難しく、無理があるのは承知で私の疑問を書いて見たく思います。
雑な議論かも知れませんが、お付き合いいただけたら幸いです。
以下はWikiの定義なのですが:
*********引用ここから*********
宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、
信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。
*********引用ここまで*********
まぁ、「一般的」にはこのあたりじゃないかと思うのです。仏教についてはお釈迦さんのオリジナルは「哲学」や「思想」(信仰を含まない)
に近いものだったように思われるのですが、お釈迦さんの死後、「解釈」とやらでヒンドゥー教の神様やら混ぜ込んじゃって以来、上記定義にあてはまる
「宗教」になっちゃったように思うのです。
>>NANさん、AH1さん
NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)
以下、文章にうまくまとめるのが私には難しいので箇条書きにさせていただきます。
1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。
2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。
3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。
以下猫さんご紹介の「自由神学」についてのWikiの記述です。
*********引用ここから*********
* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
この段階に達すると、聖書と基本信条に示される三位一体の神を信じる、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱する。異端神学というより、その宗教性そのものが根本から問われる。改革派の保守的神学者メイチェンは、自由主義神学(リベラリズム)はキリスト教では無いと断言した。
*********引用ここまで*********
4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。
5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。
6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)
続きます。
179
:
chochonmage
:2008/01/14(月) 04:59:53 ID:vUxNW.gI
続きです。
7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。
8.だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。
9.「イエス」は「神の子」だか「神そのもの」だかだそうだが、私には他の幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称「神その人」、「神の子」たちとの区別がつかない。有名かどうかの違いはあるけど。
10.「ギリシャ神話」、「日本神話」その他世界中に存在する厖大な数の「神話」と特に「アブラハムの宗教」の聖典の主な違いは登場する神なり神々なりがニンゲンにああせい、こうせい、あるいは、ああするな、こうするなと言うか言わないかの違いしかないのではないか。
11.結局宗教はニンゲンの作り上げたフィクションに分類されるものではないのか。
12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。
13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。
以上、バカがバカなりに真剣に考えたことです。どうか笑っておつきあいくださいませ。
180
:
NAN
:2008/01/14(月) 14:32:53 ID:???
>正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)
ん?感覚的に分かっていらっしゃるならそれで十分ではないですか?表の掲示板ではないですが、ヒトによる区分など恣意的なものに過ぎません。こうして区分を「きちんと」しようとすると、それが新たな逐語主義や原理を招いてしまいませんか?…と、一応「タテマエ」を述べておきますw
さて、ぶっちゃけお話しますと「バカ」の対義語が果たして(この場合)「お利口」なのか?ですね。結論を急がず、もう少し書きます。
>1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。
違います。別にどんな主義に見えようと、信仰(町内会の会合に出ることは”正しい”という信仰でももなんでも良い)を正当性の道具に使い他者を迫害したり威圧する傾向を持つ人格を指しています。
>2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。
どの原理を選ぶのか?という恣意性の問題です。他者に暴力を及ぼし支配し威圧することの正当性の根拠を原理に求める態度が「バカ」なのです。基本的には統率された集団行動(たとえば軍隊の規律)における盲目的な戒律を「まんべんなく平等に」誰彼構わず行使する人格ではないでしょうか。(つぅかそれは教条主義だな)
>3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。
何度も申し上げているように、信仰はこの際関係ありません。無論それは「私の主張の範囲において」という限定ですが。
たとえば親が子を「教育する」という場面においてでさえ、そこには盲目的な服従がたびたび求められます。このとき、服従の正当性を強化する目的でカミサマやゴセンゾサマや先代シャチョーやらが登場するのです。
>4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。
それはまったくの誤認ではないでしょうか。口伝を逐語解釈などしようがありませんし、民俗信仰の大半は経典さえありません。教義が存在しない信仰を逐語解釈しようがありませんね。
>5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。
布教(統治)の際に生じる「利権獲得」をスムーズに行うためのシステム作りです。たとえば著作権協会が行っているシステム、MLM(マルチレベルマーケティング=マルチ商法)もそうだろうし、映画のコマーシャルでよく見られる「総制作費○億!」みたいなのも「権威づけ」という意味からは同様のものです。「ナニカ」を得たり興じるために対価を支払え、というごく自然に見える行為にはすべて解釈があります。
>6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)
この辺は残念ながら破綻しているように見受けられます。それは4)の破綻を引きずっているからですが、結論先にありきで前段を組み立ててしまいませんでしたか?警察官や官吏の教条主義は一見社会秩序を維持するために必要なものに見えます。しかし指導者が侵略的独裁者だった場合はどうなるでしょう?
181
:
NAN
:2008/01/14(月) 14:33:24 ID:???
>7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。
ん?それも宗教の「有名ではあるけれどごく少ない例外」ですよ。しかもです、重要なのは彼らに根拠を与え正当性を冠したのは民衆である、という点です。民衆には「統治されたがる傾向もある」ということは、決して忘れてはいけません。もちろん、私たちにもそれはあるのです。
>8〜9. だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。
区別する必要、ないでしょw。だって彼らはみんな「ニンゲン」ですから。ニンゲンの口から出る言葉は人語に過ぎません。
>12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。
論理を重んじるあまり、枠にハマった結論を急ぎすぎてませんかねぇ。無論、論理とか辻褄は大事です。私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。
どんな批判対象であれ、あてずっぽうで的外れな批判が再批判されてしまうのは当然のことです。それは「宗教を批判するな」という強要ではありません。
>13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。
(少なくとも)私は「宗教を批判することはナンセンスである」とは云っていません。ドーキンスをはじめ、chochonmageさんのそれも(論理で片付く問題じゃないものに論理を根拠に批判することが)「的外れでナンセンスである」と述べているのです。
ちなみに宗教の根拠薄弱性を論理的に証明することも「極めて困難である」と私は思います。それはたとえばこの掲示板に集まる皆さんのように、論理的整合性を読み取ることができて、科学知識にさえ通じている「グループのさらに一部」にしか通用しないものでしょう。またそれは「知識人」という非常に醜く不恰好で独善的な「差別」を生むことにしかならないように私は思います。
なぜなら私自身が、とても醜く独善的で、狡猾でさえあり、差別を平気で行う人間だからです。このような傾向は程度の差こそあれ、必ず他の人格にも共通しているであろうし、本当の危機的状況が我が身に襲い掛かったとき、今こうして維持しているような平穏さを保つことができる自信などまったくありません。
先にも述べた気がしますが、いわゆる「宗教者(すでになにがしかの信仰を持つ信者や預言者や団体)」を個別に批判することは簡単です。説得力も容易く獲得できます。それでは、こういうケースをどう批判し、根拠の薄弱性を指摘しましょうか?以下、書きます。
182
:
NAN
:2008/01/14(月) 14:35:40 ID:???
『今まさに沈没しようとしている船があります。生存者は5人。全員がひどく衰弱し、怪我をし、動くのもやっとの状態です。ある者は精神的限界を超え、ある者は体力が尽きようとしています。しかし、なんとか誰かが水没したエンジンルームに入り込み、ポンプを作動させなければ船は速やかに沈没してしまいます。生存者の全員に、これといった信仰はありません。あるとしたら、家族を愛していたり、仕事を愛していたり、我が家に帰りたいという思いがあるだけです。そうこうしているうちに、一人が持病の発作を起こしました。発作に呼応して、もう一人がパニックを起こし、ひどく暴力的な傾向が見えてきました。このとき、生存者の中で最も社会的にはみ出しモノで、普段はギャンブルばかりしている不良中年が、本当は自らの借金を返すのが面倒になった、という理由でエンジンルームに入ることを決意します。不良中年は適当に機関をぶっ叩いただけでしたが、奇跡的にポンプは復活し船は水平を保つことができました。数時間後、やっと救助された生き残りは不良中年の死体を発見します。それぞれの我が家に生還することができた生存者たちは、互いが妙な絆で結ばれていることにその後気付きます。それは身を挺して自分たちを救ってくれた(かのように見えた)不良中年に対する感謝の念でした。彼らは不良中年がどんな人物だったか、機会があれば集まり話しました。どんなことを話していたとか、どんな顔だったとかそういう話です。中にはまったくの作り話もありましたが、全員がパニック状態だったので分かりませんでした。そのうち誰かが「彼はラベンダーの花が好きだと云っていた」と云い出しました。それはまったくの妄想でしたが、生存者たちはその話をとても気に入ってしまい、互いの貯金を出し合ってラベンダー畑を作ることになりました。そこには墓碑がありました。碑銘にはこう書かれていました。「自らを犠牲にして我らの命を救ったエンジン技術者に捧ぐ」それはもう、まったく事実と違っていたけれど生存者たちの間で不良中年は信仰と化していて、前科モノで無職で住所不定のギャンブラーが彼らを救ったという事実が受け容れ難かったのです。彼らは「救い主」をカリスマ化していました。また、そうしていくことが互いの親密度を深め、なにかとても善いことをしている気分になり、仕事や生活に張り合いが出て、それまでの毎日と今がまったく違う貴重で大事なものであると思えるようになったのです。やがて、生存者の一人で本当はとても暴力的な男が不良中年とラベンダー畑について「ノンフィクション小説」を書き、これがなぜかベストセラーになります。莫大な印税を得た暴力的な男は、この印税を生存者グループの共通資産とし、さらに腎臓病の持病を持つ生存者の医療費として一部を大学病院に寄付し、記念財団を設立します。ノンフィクション小説はほとんどがフィクションでしたが読者の感動を呼び、ファンとなった読者たちが生存者を訪れたり、激励をくれるようになりました。
183
:
NAN
:2008/01/14(月) 14:36:32 ID:???
そのうち読者たちの誰かがラベンダーを育てるようになり、それは徐々に広まっていきました。これに目をつけた広告代理店が暴力的で浮気ばかりしているけれど文章だけはまともに書ける生存者に話を持ちかけ、不良中年とラベンダーをモチーフにした映画の制作をはじめます。映画はもはやいいかげんな小説とさえかけ離れた、ほとんどアクションヒーローものといって差し支えないエンターテイメントでしたがウケました。暴力的な男はこの収入で不良中年が最後に住んでいたとされているボロアパートの土地を買い取り、そこに寺院めいたビルを建てました。すると、小説の読者や映画を見たファンがそこに集まるようになり、いつしか彼らはまるで教団信者のように振舞うようになり、献身的にラベンダーを育てては売り歩くようになりました。彼らは支配的だったり威圧的だったり独善的だったりしませんでした。単に誰かと損得なく働いたり、汗を流し苦楽を共にするという絆を求めていたのです。彼らは家庭内暴力に苦しめられたり、いじめっ子だったりいじめられっ子だったり、体に機能障害があったり、要するに社会から差別的な扱いを受けてきた経験を持っていました。彼らは生存者たちが最初に作ったラベンダー畑を聖地とし、そこで育った苗を丹念に増やしては各地にラベンダー畑を増やし、暴力的な映画作家の言葉を盲目的に信じ、絆を深めていく気分になり、なにか災害があると一目散にそこへ駆けつけボランティア活動に励んだりしました。しかし、彼らは本当は、暴力的な男が少しもノンフィクション小説を書いていないことや、映画や物語が作り話であることを知っていました。実はそんなこともどうでも良くて、彼らが欲しがっていたのは「そこにいる理由」だけだったのです。彼らは税金や保険料を払いましたが、家から離れ親がつけた名前を捨て、浮世離れした行動を繰り返しました。そのうち、家族の誰かが暴力的な映画作家やその他の生存者たちを非難したり、時には警察に被害届を出したりしましたが、信者たちは自発的に行動している成人ばかりだったので家族の訴えは通りませんでした。しかも彼らは他人に危害を及ぼしたり霊感商法的に搾取をしたり布教活動みたいなことも一切しませんでした。家族はそれぞれの理由で生存者たちとその取り巻きを憎みましたが、社会はラベンダー教を歓迎しました。なぜならマスコミと政府与党が彼らを好意的に扱い、利害の一致があったからです。暴力的な性格の映画作家はやがてタレント化し、朝のワイドショーでコメンテーターを務めたり、世相を討論する番組の論客としてテレビに露出することが増え、名前も法人も教義もない教団は社会現象にさえなっていったのです。』
184
:
NAN
:2008/01/14(月) 14:37:00 ID:???
さて、調子に乗って長い物語を作ってしまいましたが(笑)、こういう話は現実にあり得ることだし、存在しているだろうとさえ私は思います。
この物語に出てくる登場人物たちは、全員が嘘つきで全員が善意的で、全員が盲信を絆に生活を営んでいます。彼らを外部から論理的に批判することはいくらでも可能ですが、それは「宗教」が必要とされる根拠を補強したり逆に貶めたりする結果を生めるでしょうか。信仰は、機会さえあればどこからでも生まれ、どのようにも育ちます。信仰というのは、恐らくニンゲンが根源的に持っている不安や恐怖を緩和してくれるものなのではないか?というのが私の考えです。私が私の妻を特定して擁護することだって、実は信仰の一種ではないのか?これらをすべて「ひとまとめにして」宗教批判することなどできるでしょうか?少なくとも、私の能力ではできそうにありません。
情報伝達という視点から、chochonmageさんはじめここで宗教批判を試みた皆さんは、それがまるでマスコミによる情報捏造を暴露する週刊誌の記事(どっちにしてもマスコミ)であるかのように、論理的に教祖が嘘っぱちであることや教義の脆弱性を指摘しようとしているように見受けられますが、宗教を受け容れるヒトと云うのは、宗教を受け容れるだけの「とても強い理由」があるのだろう、と私は考えています。そしてまさに、この部分に対して、論理などまったく無効である、と私は思うのです。
百歩譲って、宗教と宗教を取り巻く社会に対して論理的な批判を試みるとするなら、アメクリのバカやカルトなテロリストを糾弾するのとはまったく異なる、相当に社会の深層をえぐった、ひいては自分自身がダブスタにならないよう物凄く配慮をした言説を説かなければならないでしょう。宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。そしてそれらは、私としてはあまり好きじゃない言葉ですが「格差」などにたとえば代表されるだろう、と考えています。ではこの格差を無くした均等な社会などというものを追い求めたら、ジンルイとやらは一体何をしてきたのだろう?そういうところに私ははまり込んでしまいます。
宗教は、ジンルイの抱える大きな矛盾である、と私も思います。であるなら…私はいっそ「ジンルイの性質そのものを批判する」ことにはいくらでも同意できるし、賛同できるんですがねぇw
185
:
AH1
:2008/01/15(火) 13:22:50 ID:fKqeZx4M
>chochonmageさん
>といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。
失礼しました、元の仰っていた意味とはずれてしまっていたようです。
ただ、私としては(今回のコンテクストの、またこのウェブサイトの中で)宗教と対比される事が多いがゆえに科学主義を付け足すようにあげさせて頂きました。
というのは、ちょっと飛躍や妄想が過ぎるかもしれませんが、「人間は理性によって世界を正しく認識できる筈であり、理性を通さない(=思考停止にいたる)いかなるものも価値が低い」という考えは、それ自体正しいかどうかは別として、強力な啓蒙主義であり且つ科学主義の一種であろうと考えるからです。
実際問題として「理性や善意や自由ってのは結構なもので、無視しちゃいけないよ」「現代社会においてまあ一番使えるツールの一つだろうね」という点はもちろん同意しますが。
>ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。
同意します。あれはムラ社会という秩序を保つための強制力ということでしょう。個人的な経験による部分もありますが、ムラ八分は大嫌いです。
>NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)
明確な定義はありません。しいて言えば、NANさんとほとんど同じになってしまいますが、
「お前バカじゃないのか」「そりゃいくらなんでもひどいだろ」という事をやっちゃうのが馬鹿**ですね。
「メリケンの馬鹿クリ」とは私の語感では、「アメリカの原理主義的キリスト教団体のように、自らの宗教を絶対の原理と信じて、他者にとっては不当な、あるいは横暴な、時に危険な行為を行う相手」をさします。
つまり、宗教とは非常に広い範囲を指すものとして使っているが、その中には明確に「馬鹿」「テロリスト」としか呼びようのない集団や行為も存在する、ということです。
186
:
e10go
:2008/01/15(火) 20:40:07 ID:5/V6R9W6
ドーキンスの宗教批判は全く知らないので、それについて論じる事はできませんが、宗教批判を論じるなら「イエスの方舟」事件を知っておいた方がいいと思います。
この事件の、マスコミや警察の対応と、その後の行動が、オウム真理教の事件に影響していると思いますから。
「イエスの方舟」事件は1970年代終り頃に発生しましたが、マスコミ(*)は「イエスの方舟」バッシングを行ない、教祖の千石氏を非難するキャンペーンを張りました。
この時の状況は、オウム真理教事件の批判並みに激しかったと思います。
しかし、実際は、事件性のないもので、信者の親族が誤解してマスコミに訴えたのがきっかけです。
マスコミ(*)が煽り立てる様な報道を行ない、そのマスコミ(*)に煽られて警察は犯罪者でない人を逮捕する寸前までいきました。
*、1社のマスコミが異なる対応をした。千石氏と信者を密かに匿い、そのため、匿った報道関係者が警察から逮捕されそうになった。(この当時、このマスコミによる千石氏の単独インタビューのスクープが衝撃的だった)
ttp://yabusaka.moo.jp/hakobune.htm
事実が世間に明るみに出て、マスコミと警察はその反省からそれ以後の一時期、新興宗教の扱いに及び腰になりました。
「イエスの方舟」と「松本サリン事件」以前のオウム真理教では、マスコミの対応は真逆のものでした。
それがオウム真理教の一連の事件発生に間接的に繋がったと思います。
「イエスの方舟」事件をリアルタイムで経験した人は、宗教批判にためらいを感じる人がいるのではないでしょうか。
しかし、オウム真理教事件の二の舞も困ります。
宗教批判を否定するつもりはありませんが、「イエスの方舟」事件を知っているだけに、間違ったあるいは行き過ぎた宗教批判をしないように心がけたいと思います。
流れを止めるような発言ですみません。
187
:
ちょちょんまげ
:2008/01/16(水) 16:35:27 ID:vUxNW.gI
皆さんこんばんは。ラッシャーきむ、じゃなくて旧chochonmageです。気分転換のためハンドル名をひらがなにしてみました。
気分転換ついでにNANさんのまねっこでお話を作ってみました。
「おとうさん、なにやってるんですか。なんかまた変な宗教にはまっちゃってるんですか。」
「変なとはなんじゃ。お前は人の信仰をバカにするのか。」
「いや、その、別に信仰をバカにするってわけじゃないんですけどね。なんか不穏な話を聞いたもんですから。」
「不穏な話なぞありはせんぞ。」
「不穏じゃないですか、充分。なんかお父さんのはまってる宗教の教祖に全財産投げ出すとか。」
「投げだすわけじゃない。寄付するだけだ。しかも条件付き。」
「大体なんなんですか、その宗教ってのは。なんかついこの前まで「たまごは一日、一個まで!!」とか分けわかんないこと言ってたけどその宗教ですか。」
「あれはもうやめじゃ。だいたい、最近教祖がすっかり顔を出さんしな。じゃが、今度のは本物じゃ。すごいぞ。」
「一体なんなんですか。」
「メリケンさんという神様じゃ。」
「メリケンさん?それって、大阪の通天閣にある?」
「それはビリケンさんじゃ。」
「で、そのメリケンさんってのはどんな神様なんですか。」
「全てナンバーワンで、全て正しく、一番強い神様なんじゃ。そして悪を見ればかならず介入して懲らしめてくれるという、実に頼りがいのある神様なのじゃが、一方、子供と犬は絶対に殺さんという慈悲深い神様でもあるんじゃ。」
「なんかハリウッド映画のヒーローみたいな神様だな。どんな教義なんすか、いったい。」
「わしも全貌を把握してるわけではないのじゃが、例えばぐろーばりずむとかじゃな。具体的には、非人間的なめーとる法を廃止して、より人間的なやーど・ぽんど法や温度は華氏に世界中をまとめよとかの
お告げが教祖に与えられたのじゃ。ふぃーとはだいたいの足の長さ、風邪引いて熱がでたら100度。どーじゃ、実に人間的じゃろ。」
「そんなことしたら、世界中大混乱ですよ。」
「神のお告げじゃぞ。お前は人の信仰にケチをつけるのか。」
「いや、だから別にケチつけてるわけじゃないんですけどね。そんでその教祖ってのはなにもんですか。」
「ジョージ・藪様というえらーいお方じゃ。」
「大体予想のついた名前だな。」
「藪様語録にこーいうのがある。『降参せよ。さもなくば我々がする!』 どーじゃ、イエス様の『右頬を打たれたら』にも匹敵する尊い教えじゃろうが。」
「なんか文法を間違えただけのような気もするけど。」
「お前は人の信仰にケチを」
「だから、つけませんってば。」
「こういうのもあるぞ。『私は人と魚が平和に共存できると信ずる。』 何という崇高なお言葉じゃ。」
「ん〜っ、なんかよくわかんないけど、崇高なんですかね。」
「崇高じゃ。」
188
:
ちょちょんまげ
:2008/01/16(水) 16:38:35 ID:vUxNW.gI
「ん、じゃぁ、まぁそれはいいとしてですね。その寄付するための条件ってのはなんなんですか。」
「奇跡を見せてくれるのが条件じゃ。わしも95にもなって世のためになることがしたいでな。真の奇跡を見せてくれるような教祖様には全財産寄付しても悔いは無い。」
「じゃぁ、この家とかもあげちゃうって話ですか。」
「わしの家じゃ。文句あるか」
「いやまぁ、それはそうなんですけどね。あのね、おとうさんは年のせいかちょっと正常な判断力を失ってるんですよ。でも家がなくなったらどうするんですか。」
「お前のところに転がり込む。心配するな」
「心配するなって、そんなムチャクチャな」
「ムチャクチャって、年老いた父親の面倒を子供が見るのは当たり前じゃろうが」
「いやまぁ、だから見ないて言ってるわけじゃないんですけど。」
「だからなんの心配もいらん」
「心配ですよ。で、奇跡ってどんなんですか。トリックかなんか見せられて納得させられちゃうだけじゃないんですか。」
「これはすごいぞ。聞いて腰を抜かすな。わしがこの皿を持って、教祖様の目の前で手を離す。するとなんと皿が見る見る下に落ちるんじゃという。そして落ちたら教祖様の奇跡成就じゃ。わしは財産を寄付するぞ。」
「わっ、腰がぬけた」
「抜けるじゃろ」
「抜けますよ、そりゃ。手を離したら落ちるのはあたりまえじゃないですか。奇跡でもなんでもないじゃないですよ。」
「なんでじゃ。奇跡じゃろうが」
「だって、あのですね。この世にはニュートンの法則ってのがあってですね、モノってのは引き合うんですよ。んで、地球ってのは皿に比べてすごいデッカイんで、皿が下に落っこちるです。っていうか、今ここにおとうさんと私が座ってるのだって、ニュートンさんが見つけた万有引力のおかげなんです。」
「で、その万有引力ってのは絶対なのか」
「ん〜、えーっと、あの、絶対じゃないんですけどね。いや、あの、わたしも最近聞きかじってやっとわかってきたんですけど、科学理論ってのは全て仮説で絶対って言っちゃいけないそうなんです。」
「教祖様は絶対落とすと言っておるぞ」
「いやだから、絶対じゃないんですけど、あの〜、なんちゅ〜か、あのつまりですね、絶対じゃないんですけど、ものすご〜く、高い確率なんですよ、モノが落ちるっていうのは。」
「ほれ見い。確率の話じゃろうが。」
「んっ〜とまぁ、そうなんですが、それでもですね、ほとんど絶対って言っていいぐらいなんですよ。」
「ほれ見い。ほとんどじゃろうが。教祖様は掛け値なしの100%だと言っておるぞ。ニュートンより確かじゃろが」
「だからぁ、そういう問題じゃないんですよね。皿ってのは落ちるもんなんです。万有引力があるんですから」
「科学主義」
「へ?」
「お前は科学主義者じゃ」
「いや、あの科学主義ってのはですね」
「お前は教祖様の奇跡に科学の狭い観点から文句をつけちょる。重大なNOMA違反じゃ。ふぉーくぼーるのNOMOじゃないぞ」
「NOMAって、なんでおとうさんがそんな余計なこと知ってるんですか。他のことじゃ半分ボケてるくせに」
で、これからどうなるんでせう。乞ご期待、って不評ならやめますけど。
189
:
地下に眠るM
:2008/01/17(木) 12:01:13 ID:cizMQ0FI
「神は妄想である」はとっくに読了していたけど、こっちに書く字間がとれなかったにゃ。
特に気になったところをつっこんでおきますにゃ。
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第1章
宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。この聖職者もおそらく、妖精の翼の正確な形と色について専門家を自称する「妖精学者」の意見に従ったことはないはずだ。P31
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まずアゴが外れたのがこの箇所。
妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか? 妖精のことについては、まともな者(つまり専門家に対する一定の敬意をもつという市民としての常識を備えた者)なら、妖精については妖精学者の意見に従うだろにゃ。僕はそうするぜ。
妖精に入れ込んじゃった人は、コナン・ドイルをはじめとして結構な数にのぼるらしいにゃ。日本では妖怪にあたるので、日本ならば水木しげる先生以下、妖精(妖怪)をまじめに研究している人はたーくさんいるにゃ。主に民俗学や人類学なんかでは、学会でとりあげられるネタでもあるにゃ。無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、妖精(妖怪)のことは妖精(妖怪)学者がよくわかっているというところは当然のことだにゃ。
ちゅうかさ、ドーキンスのこの論法は、すべての神話研究や民話研究についても「まっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と頭ごなしに否定する暴論であることは明らかなんでにゃーの? この論法は自然に実在するものや機構についてのガクモン以外のガクモンすべてを否定する論法なのではにゃーだろうか?
自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?
巻末のほうで、文化的産物に対する敬意は書かれているけれど、それがとってつけたもののように思われてならにゃー。
190
:
地下に眠るM
:2008/01/17(木) 12:01:49 ID:cizMQ0FI
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第2章
宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシア、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教及びそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。P52
(引用者注;以下の記述は聖人のうけもつ分野や天使の位階についての記述に続くもの)私がカトリックの神話学から受ける印象として、悪趣味な俗悪さというものが必ずどこかにともなうが、主として感じるのは、カトリックの人々がそうした細部をつくりあげる際のあっけらかんとした無頓着さである。まさに厚顔無恥なでっちあげ方なのだ。P57
(引用者注;教皇ヨハネ・パウロ2世が暗殺者に狙撃されて一命をとりとめたときに「聖母の手が弾をそらせてくださった」と教皇がいったことをひきあいにだして)なぜ聖母は、弾が彼にまったく当たらないようにしなかったのだろうという疑問をもたざるをえない。P57
ウェヌス(ヴィーナス)はアフロディーテのもう一つの名にすぎなかったのか。それとも別の愛の女神だったのか? 槌を持つトールはオーディンの顕現なのか。それとも別の神だったのか。誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。こちらを無視するのかという非難を浴びたくはないから、多神教に目を向けてきただけで、このことでもう何も言うつもりはない。以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。P58
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批判し、否定する対象について無知であることはしばしば問題が大きいということは、多くの人に賛同していただけるでしょうにゃ。先の投稿で、ドーキンスには人文科学を否定しているのではにゃーかと疑義を付したけれども、ドーキンスの人文科学(特に神話学)に対する無知とそこからくる侮蔑がよくわかるところを拾ってみましたにゃ。
まず、P52にある、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてのは、いつの時代の宗教史家がいったことなんだろ? 自然科学においても、ちょっと昔までは、白人が一番発達しているとかいう欧米白人中心主義が幅をきかせていたことはみにゃさまもご存知だろ? ドーキンスだって知らにゃーはずはにゃーだろう。宗教史などという分野が欧米白人中心主義から無縁でいられたはずもにゃーことも、誰だってわかるよね? 少なくとも20世紀中盤以降の宗教史において、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてものは相手にされてにゃーよ。
自分の批判する対象について100年前の欧米白人中心主義に汚染された知識をベースにする馬鹿がここにいるよ、と。
また、進化生物学の優れた啓蒙者であるドーキンスが、自分の専門分野でないとはいえ「発展過程」などという言葉を無思慮に使っていることには本当にがっかりしたにゃ。
教皇暗殺に関するところにゃんが、教皇にとっては、銃弾が当たり、そして助かったというところに深い意味を見いだしたのだということだろうにゃ。弾がまったく当たらなかったよりも、教皇にとっては意味があったということなんでにゃーのか? 体験とその解釈が、それぞれのニンゲンの内的な現実を形成しているということを理解しようともしていにゃーんだろう。
191
:
地下に眠るM
:2008/01/17(木) 12:02:15 ID:cizMQ0FI
つづき
天使の位階を「厚顔無恥なでっちあげ」ってのもおそれいるよにゃー。ここでは紹介する余裕もにゃーし、そもそも僕にまとめる力量もにゃーのだが、天使の位階というのは土俗の神を取り入れて混淆しながら必然的に形成されていったものだにゃ。ある体系の形成過程を知ることなく「でっちあげ」呼ばわりするなんざ、夏の火に飛び込む虫のように第一掲示板に飛び込んでくる進化論否定馬鹿と何が違うんだ?
そこに関連して、さらに、多神教の神々についての「誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。」という態度。
多神教における神々の混淆とか変化とか分離とかいうのは、僕の知る限りもっとも面白いトピックのひとつにゃんな。文献や考古学的資料から神々を同定したりしていくのは、もっとも知的でスリリングな分野の一つだと思うにゃんよ。本も何冊も出ているし、専門の研究者もいるにゃ。しかし、ドーキンスにとっては「誰が気にするものか」
ドーキンスは、例えばAという甲虫とBという甲虫の関係、生態学的にはこういう違いがあり、形態的にはこういう違いがあり、地理的にはこうで、ゲノムはこうで、とかいう比較について「誰が気にするものか」という態度をもつ者が進化論を否定するようなことをいったらどうするのだろう?
それともやはり、「想像上の産物」の研究などは学問と呼ぶに値しにゃーと思ってるんだろうかにゃ?
だとすると、美術や音楽、文学の研究も学問と呼ぶに値しにゃーことになるよにゃ。そして、もし美術や音楽の研究を学問とドーキンスが考えているのなら、単に自分の好みで学問と呼ぶべきものとそうでにゃーものとを区別しているだけだにゃ。
ドーキンスは、「想像上の産物」の研究すべてを侮蔑し否定する科学主義者であるか
あるいは
自分の好みの分野だけを学問とみなす何も考えてにゃーダブスタのウルトラ馬鹿のどっちかでにゃーのか?
さらに、だにゃ
「以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。」だと?
多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。
どこかの進化論否定馬鹿が、進化論をまるで知らにゃーくせに
「以降、簡潔のために、ダーウィン進化論であろうとラマルキズムだろうと重力進化論だろうとウィルス進化論だろうと今西進化論であろうと、あらゆる進化論を単純に「ダーウィニズム」と呼ぶことにする」といったらドーキンスはどうするんだろう?
以上、ドーキンスは少なくとも神話学系の知について、どうしようもにゃー無知とそれに基づくあからさまな侮蔑があることは明らかだと思われますにゃ。この事実だけで、この本はまじめに取り上げるに値しにゃーだろう。
しかし、もうちょっと続けますにゃ。ドーキンスの論理的な誤謬についても突っ込んでおきたいにゃ。
192
:
AH1
:2008/01/17(木) 12:36:55 ID:fKqeZx4M
>ちょちょんまげさん
はっはあ! なるほど、こりゃ困ったオヤジです。
公平に見て薮教祖は単なる詐欺師である可能性が非常に高い・・そうでなくても他人の金を巻き上げるのはマズイんじゃね?と言えそうですが、「本人が大喜びで喜捨したがっている場合」についてはどうすべきでしょうねえ。
第三者であれば、私としては「好きにしな」と言うところですが、父親にされちゃったのは痛い所ですね。
まあ科学的には今の所「それって奇跡だか神の力だかの証拠には全くなってねーじゃん」と言うしかなさそうです。もう一つは「神たるものが現世の財産なんぞほしがるなよ」という所ですが、これも「教団のために使うだけだ」「我々信徒は自発的に喜捨しているのだ」と言われると困るところです。
・・というような事を考えていて、
「薮が本当に神だとしても、神が人格高潔である必然性はない」という事を思い出しました(清貧を頭に置き過ぎてました)。
神の力を振るいつつ、信徒には現世利益を約束してシェアを拡大し、現世の富をガッポリ手に入れる存在・・・ 最悪かも。
193
:
地下に眠るM
:2008/01/17(木) 12:41:20 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
奇跡には希少性が必要条件ではにゃーだろうか?
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