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(続) 大石寺の歴史

1管理者:2002/03/08(金) 16:40

ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi2.htm


『大石寺の歴史について』スレッドが 300レスを越えましたので、こちらに続編を作成しました。よろしく御願い致します。

2問答迷人:2002/03/15(金) 10:03

お伺いします。何方かお答え戴けると幸いです。平成版御書1883頁の『日興跡条々事』の冒頭の一節、

『 一、本門寺建立の時、新田�Q阿闍梨(にいだきょうあじゃり)日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌(りょうしょう)すべし。』

これは、如何なる意味なのでしょうか。『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ、そんな事を日興上人が本当に仰るだろうか』と疑問を呈する向きがあります。よろしくお願い致します。

3いちりん:2002/03/15(金) 11:20
ちと関連文献を調べてみました。

「有師談諸聞書」富要集2巻 139 頁あたり。


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一、日蓮聖人も武家に奏したまふ日興も只武家に訟へたまふ、爰に日目上人元めて国王に奏したまふ、

去る間だ日興上人大石寺の御置文に云く天下崇敬の時は日目を座主として日本乃至一閻浮提の山寺半分は日目之を配領すべし、其の余分自余の大衆是れを配領すべしと云へり、

日興の遺跡は新田の宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人たれば大石寺の別当と定む、

異本に云く寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひと遊ばし置きたまひ畢りぬ、末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す事を人知らずして、上代に流布あらばこそ左様にも有らめ末代に天下御信用あらば座主誰にてか有らんずらんと、

此の自讃により洛陽辺土の弘通者達日々夜々に弘通責伏有り、但し智慧の弘通なれば迹門なり迹門の時は高租日蓮聖人の御本懐に非らず必ず元三より歎已上、

日目独り出世の本意にまかせて愚者の責伏・患者の上の弘通なり、当時教義時国相応の本門なり、只偏に兵者のみ乱を待つて運を開く道理に任せて爾なりと已上。

---------------------------------------

「天下崇敬の時は日目を座主として」
「末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す」
などという表現は、日目さんは、広宣流布のときに出現するという考えがあるんでしょうかね。

4独歩:2002/03/15(金) 11:31

問答名人さん:

> …半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。…残る所の半分『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ

これは以前にも問題したことがありますが、原則的には封建制に基づく取り決めであろうかと思うのです。つまり、天皇と武家が国家を二分して領していることから、来るのではないでしょうか。この点については霑師の説に私は賛成です。

目師は公卿の出身ですから、そちらのほうを、のこる大衆分は武家とその管領地ということでしょうか。

しかし、このようなことを本当に興氏が考えていたかとなると、どうにも納得できないところは、たしかにあります。

5いちりん:2002/03/15(金) 11:41

そもそも、日興さんの次は、日目さんとすんなり決定されていたのでしょうか?
いろいろもめたりは、しなかつたのですか?
日目さんの次は、いろいろもめましたよね。

6独歩:2002/03/15(金) 11:44

いちりんさん:

> 日目さんは、広宣流布のときに出現する…

この伝説は保田妙本寺・我師の申状見聞に見られますね。

此の申状奏せずして終に臨終す此の土の受生雖も無しと所用今一度人間に生れ此の状を奏可しす、若し此の状奏間の人於て未来に有ら之れ者日目か再来と知る可し

石山も、この一文をもって、一閻浮提御座主目師説を立てるわけです。しかし、石山の言い分は完全な切り文解釈ですよ。なぜならば、上の文章は

然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し…爰に日要奏す争か之れを疑ふ可けん乎

と続いているのです。つまり、妙本寺・要師こそ、目師の再来であると言うのが、この文章の意味するとことです。

まあ、石山の言うところは、一種のパクリであると私は考えているんです。あるいは我師がパクったのかも知れませんが。

いずれにしても、臨終に立ち会った郷師が「伝えた」というのしょうが、実際にそんな遺言があったのかどうか、どうなのでしょうか。

7問答迷人:2002/04/11(木) 08:21

立宗宣言について

日蓮正宗では、三月二十八日に立宗法要を実施とし、四月二十八日にも、もう一度法要を実施するそうです。このことに関連して、日道上人の御伝土代の記述について皆さんの御意見をお伺いしたいと存じます。

御伝土代 『八十八代一院の御宇・建長五年みつのとのうし三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にして浄円房並に大衆等少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ぬ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ひ畢、』(富士宗学要集第五巻1頁)

と、立宗宣言が三月二十八日に行われたと書かれています。所が、真蹟御書を拝しますと、以下の通りです。

清澄寺大衆中 『建長五年四月二十八日、安房国(あわのくに)東条郷(とうじょうのごう)清澄寺(せいちょうじ)道善(どうぜん)の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。』(平成版御書946頁)

聖人御難事 『去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御(み)くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。』(同1396頁)

この違いは、どう考えれば良いのでしょうか。単なる、日道上人の記憶まちがいの様に思えるのですが、如何でしょう。御存知の方、御教示をお願い致します。

8川蝉:2002/04/11(木) 11:40
問答迷人さん今日は。

開宗の月について。

「本門宗要抄」にも、三月二十八日とあるそうですね。
ただし、「本門宗要抄」は真蹟無く、興門の日代師は「聖作に非らず。偽書なり」(日蓮宗宗学全集第二巻・229頁)と評しています。
日道師の「御伝土代」(宗学全集第二巻237頁)の他には、日進師(身延三世、宗祖にも直接師事)の「日蓮聖人御弘通次第」(宗全第一巻・339頁)にも「三月二十八日」となっています。

宮崎英修師が「日蓮とその弟子」に、三月としているのは、真蹟遺文に四月二十八日とあるからには、訛伝・写誤と見るべきであろうと指摘しています。
昔は四の字を二
      二
と縦に並べる場合があるそうで、この二を縦にならべて書かれたものを三と写誤や読み間違いしたものであろうと推測されているわけです。
(四の字を表すに他に、二を横に二つ並べたものと、もう一つありますが、キーボードで打てません)

現存の日道師の「御伝土代」と日進師の「日蓮聖人御弘通次第」が間違いなく正本であるなら、専門家にもう一度、読みを確かめて欲しいものですね。

9五月雨:2002/04/11(木) 16:17
はじめまして。とりあえず法華講員をしている者です。皆さんに教えて頂きたい事があります。開宣大法要が二度も行われるそうです。つまり、立宗の日が二回あるという事ですよね。どんな解釈をしたとしても、今から一宗を立ち上げますという事を
何ゆえに大聖人様は、二度も宣言されたと言うのでしょう。どう考えても理解不能です。皆さんは、どのように納得されているのでしょうか。教学力の無いバカな私に、分かり易くご教示お願いします。

10川蝉:2002/04/11(木) 16:51
2 問答迷人 さんへ。

文字通り読めば、
日本国を始め世界中が同帰した時には、日目が戒壇のある本門寺の座主になって、日本と世界中の寺の半分を管理しなさい。あとの半分の寺院は、その他の人が責任を持ち管理するようにしなさい。
と云う意味ですね。

「分配の取り決めの様だ」と、感じる人は、意地悪く読み過ぎではないかなと思います。

元徳二年は、日目師は72歳、興師は86歳ぐらいですね。
両師の入滅は1,3年後だそうですね。
すでに相当老年であった日目師の生存中に、日本をはじめ世界の国々が妙法に帰依する高い可能性があると、興師が考えていたことになるが、そんな誇大妄想的な事など興師が考える筈はない。
で、この文章は興師のものとは思えない。

第一条は理想実現の時を仮定して云ったものであると弁明しても、日目師生存中には現実的に実現不可能な事などを譲り状に記する必要などまったく無いはず。

「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」
とあるが、実際は四十五年間である。

譲り状であるのに、「十一月十日」とあるだけで年が記されていない。本文が何時書かれても例えば二三年後にでも、年月日と署名印が記された時点で、正式な文書としての価値が生じるものである。
元徳二年説、元徳四年三月説(要法寺日辰師の祖師伝には、書写したとき「元徳四年三月 日興在判」と有ったとしている)

このように、譲り状であるのに、年月日がしっかり記されてない。
等とうの理由から、信憑性はきわめて疑わしいと云う見解が出されてします。

12問答迷人:2002/04/11(木) 17:37

川蝉さん

私も、日興上人の御真筆とは思えないのです。ご指摘の通り、内容が変ですし、そんな遺言をされたとは思えない。恐らく、後世の作。両山問答における北山の言に従えば、日有上人が作ったとか、そんなところではないかと思っています。ありがとう御座いました。(御真筆とされている、なお、條々事を以下のアドレスにupして有ります。)

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_28.htm

13独歩:2002/04/11(木) 17:46

問答名人さん:
川蝉さん:
五月雨さん(はじめまして):

3月28日・4月28日ということについて、顕師は「第7回慶祝記念局委員会で、以下のような発言をしているようですね。


現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。…

さらにこのことは、大聖人様が御入滅あそばされる直前に池上において『立正安国論』を御講義あそばされた時の解釈内容を、日興上人が『安国論問答』としてお書きになっておりまして、これは御真筆として残っておりますが、実はこの中に宗旨建立のことが3月28日とあるのです(歴代法主全書1巻10頁)。…

『安国論問答』という文書が日興上人の御真筆として残っておりますが、そのなかに日興上人の御正筆として、宗旨建立の日が建長5年3月28日ということがあるのであります(歴代法主全書1−10ページ)。そのほかに、いわゆる門下全体で最も古い史伝書と考えられる日道上人の『御伝土代』においても3月28日となっております(歴代法主全書1−53ページ)。

この趣旨については31世日因上人の『三四会合抄(さんしえごうしょう)』という抄がありまして、この抄のなかに宗旨建立が2回にわたって行われた意味と、さらに教義的に色々な面から広く述べられておる次第であります。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/paper.html

14独歩:2002/04/11(木) 18:46

―13のつづき―


御義口伝「建長五年三月廿八日に始めて唱ヘ出だす処の題目を指して…」
大白牛車書「日蓮は建長五年三月二十八日、初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝…」
清澄寺大衆中「建長五年太歳癸丑四月二十八日に、房国東条郷清澄寺…」

で、たしかに石山版では、「原文のとおり」ということのようです。

しかしながら、真蹟である『清澄寺大衆中』は4月28日になっています。
また、その他、真蹟では、『聖人御難事』も4月、『諌暁八幡抄』も4月となっているのは、いかがなものでしょうか。

それにしても、またもや、編集の段階で“変更”、まったく重要な点で、創価学会に係る資料は恣意的な改竄が多く、それが常識として定着するという恐ろしい事態が各所で見られることに改めて憤慨を禁じ得ません。

15モモ:2002/04/11(木) 21:16
3月に立宗法要を行うのは日顕上人の思い付きで、今回御虫払いを無くしたのは
けしからん、という意見があります。
私は今のところ意見はありません。

16川蝉:2002/04/12(金) 09:19
13 独歩 さんへ。

顕師が

「現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。」
と説法しているとの事ですが、大石寺56世日応師校閲の佐藤慈豊師編纂「日蓮大聖人御書新集」では、『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっています。
創価学会『御書全集』以前に、すでに『御義口伝』『大白牛車書』とも四月とされていたようですね。
「『清澄寺大衆中』も4月に変更(趣旨)」
と語っているのは、説法とは云え、顕師はちょと荒っぽいですね。
日蓮宗の「霊艮閣版」も『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっていますので、『大白牛車書』は、録外版も四月であるようです。

昭和定本の『御義口伝』は、清水梁山師校訂平楽寺版を元にしたようです。下段に諸本対校が注記されていますが、『御義口伝』は大阪妙徳寺本、元亀本(堀日享師蔵)、京都要法寺版、金沢妙覚寺本と対校されています。
下段注記によると、妙徳寺本のみ三月となっているようです。

日興上人の『安国論問答』と日道上人の『御伝土代』とも、正本が有るとすると、編纂者の読み違いでないならば、なぜ宗祖真蹟と違う3月と記されているのか謎が残りますね。

17独歩:2002/04/12(金) 10:40

16 川蝉さん:

丁重な解説有り難うございます。

いずれにしても3月28日説、興師門下の言うところということになるのでしょうか。
安国論問答が本当に真筆であるとすれば、それなりに何らかの根拠はあったのであろうと思います。少なくとも『聖人御難事』は興師布教の熱原のことを記す書で、この記述を興師が知らなかったとは思えない節があります。また『諌暁八幡抄』も石山に伝わる真蹟なのであって、これを道師が閲していないなどということがあるのだろうかという疑問も残ります。

31代因師『三四会合抄』に何が記されているのやら、興味が惹かれるところです。

18顕正居士:2002/04/12(金) 13:43


本朝の太陽太陰暦は持統帝6年の元嘉暦以後、8回改められ、明治5年太政官布告
により太陽暦が施行、明治31年勅令により置閏法が制定され今日に至る。

釈尊の降誕、出家、成道、入滅。いづれも第2の月の満月の日と伝承し、之に基いて
各の法会の日にちを決めたというが異な話である。暦の換算をいかに行おうが、どれ
も同じ日になるはずでないか。

「釈尊は、二月八日の明星の出ずる時、霍燃と大悟したまう」
-堅樹日寛・開目抄愚記
http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/kaimokusyougukige.html
二月八日は「仏祖統紀」の説であるが、今日、何宗も成道会は十二月八日である。

19五月雨:2002/04/12(金) 21:40
沢山のご教示を有難うございました。皆様方の教学力の深さ、鋭さには驚くばかりです。教学が苦手な私には、皆様方のお話に付いていくのは中々大変です。
大白法の猊下の甚深の御説法を読みましたが、始めに結論有りきの、理由はこじつけの様に感じました。七百五十年にわたり、立宗の日は四月二十八日だったのが、
急に三月二十八日もその意義があると言い出すなんて、どういう事なのかと不審に思うのです。
時の猊下だったら、何を言い出してもいいのでしょうか゛。日興遺誡置文の「時の貫主といへども・・・」の御文を思い出します。こうして教義は曲がっていくのでしょうか。
顕正居士さまの様に、暦の換算ではどれも同じ日になるはずとの解釈は、簡単で良いなと思います。もう少し詳しく教えて頂ければ幸いです。


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