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日興上人の身延離山について
1
:
空き缶
:2003/11/29(土) 01:14
日興上人身延離山というと、大石寺系は必ず「波木井謗法説」を出してきます。しかし、日興上人の真筆が現存する「本尊分与帳」(北山本門寺蔵)では
「一、甲斐國南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」
とあります。
「甲斐國南部六郎入道」とは、波木井実長日円を指すと考えるのが通説です。そして日興上人は、この「甲斐國南部六郎入道」を高弟の日目上人等と同様に「日興第一弟子也」と申されているのです。
この本尊分与帳では、弟子としての道をまっとうできなかった者には、「背きおわんぬ」等と付け加えられています。そして、この本尊分与帳は波木井実長の死後に書かれたものであるため、「甲斐國南部六郎入道」が、通説通り波木井実長日円であるならば、波木井実長は最後まで「日興上人の弟子の道」を全うされたことになります。
ROCKさん、皆さん、ご助言をお願いします。
18
:
空き缶
:2003/12/11(木) 18:17
野菊さん、私も田中智学先生の「本尊造立私議」を購入しました。ギリギリ間に合ったみたいで、私が購入した後「品切れ」になっていました。
これから勉強させていただきます。
19
:
ROCK
:2003/12/11(木) 18:34
[某掲示板を見て思ったこと]
《興門には宗祖御影を本尊ととらえ、保田妙本寺は宗祖御影を本尊視している》とのことであるが、
これは上代興門教学としては正しくないのではないだろうか。なぜなら、「富士一跡門徒存知事」に、
────────────────────────────────────────
一、 聖人影像の事 (以下略)
一、 本尊の事 (以下略)
(「富士一跡門徒存知事」『日蓮宗宗学全書』② 121、123頁 1983年)
────────────────────────────────────────
と記されているように、本尊と宗祖御影は別な存在であったようであるし、堀師も、
────────────────────────────────────────
御開山当時の御影に対する崇重の念は、記念のためであることが存知抄の御文のとおりであること
は明々たるが、いずれの時代からか本尊御影が一対みたいのようになった。それは富士の各方面で
あったとみえて、八品の開祖日隆は、東国の富士門流では御影を本尊としておると、批判の筆を残し
ておる。
(『富士日興上人詳伝』 390頁 1963年)
────────────────────────────────────────
とのべ、《宗祖御影=本尊》思想は後代の邪義としており、保田は《宗祖御影=本尊》思想を改める
べきではなかろうか。
20
:
空き缶
:2003/12/11(木) 19:09
ROCKさん、お久しぶりです。
御影は「万年救護本尊」とともに保田の重宝なので、チョッと無理なのではと思われます。
ただ、現在は御影を安置している堂は「御堂」と称しています。以前は「御本尊堂」でした。
大石寺も昔は御影堂が本堂と呼ばれていましたと思いますが、富士方では実際のところ御影信仰があったのではないでしょうか?
御堂−本御影堂−本堂−御本尊堂−御影堂など、御影安置の場所の呼称にも色々あるようです。
ROCKさん、「門徒存知事」はどうなんでしょう?大石寺の論師達は「日澄師草案の興尊加筆」といっていましたが、他の興尊真筆遺文との矛盾点が多くいまいち信頼を置きかねています。
興尊と御影信仰を論じる時、御影信仰派の持出す文証はご存知の通り興尊の御消息遺文です。
しかし私は、興尊は御影を「生身の日蓮聖人」のように思い接しておられたのであって、信仰の対象(御本尊)にしていたかについては疑問ももっています。
そもそも御影は「末代未見の者」の為に、日法師が彫刻されたのが始まりと伝わりますが、池上の本門寺などでは御影に対する考え方はどうなんでしょう?
ご存知でしたら御教示ください。
21
:
愚鈍凡夫
:2003/12/11(木) 20:51
横レス失礼します。
空き缶さん、「園城寺申状」の検証に進展があったら是非、教えて下さいね。
蓮祖生御影の件ですが、どうやら歴史上最古のものは池上本門寺蔵の「木造日蓮聖人坐像」のようです。
1282(弘安5)年10月13日に池上の地で日蓮聖人が入滅されて、7回忌の1288(正応1)年に造立された生御影で、その像底墨書銘によれば、六老僧の日朗師が大別当となり、また檀越の池上宗仲が大施主、日浄師・日持師が願主となって造立したと伝えられているそうです。
伝承ではなく、証拠が残っている最古の生御影と言えるでしょうか。
また本像は、胎内に日蓮聖人の遺骨を納め、左手に経巻を、右手には払子をもたれており、この払子には、日蓮が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。
また、この他に池上の祖師・身延の祖師とともに、一木三体の祖師像と伝えられる神奈川県鎌倉比企谷妙本寺蔵の日蓮聖人坐像も、像底や胎内に墨書による記年が存在しないものの、その製作技法などから鎌倉末期を下らないと推定され、また千葉県小湊誕生寺蔵の日蓮聖人坐像も、胎内文書等に1363(正平18/貞治2)年8月29日の記年が認められ、祖滅80年頃の造立であることが明らかなものもあるそうです。
このようなことから推察すれば、日蓮聖人滅後の早い時期に、祖師信仰が確立しつつあったと言えるでしょうか。
ご参考までに。
22
:
愚鈍凡夫
:2003/12/11(木) 20:57
訂正
誤→日蓮が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。
正→日蓮聖人が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。
当掲示板の禁止事項に触れてしまいました。管理人さんご免なさい。
悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!
23
:
空き缶
:2003/12/11(木) 21:29
愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。
スミマセン!!脱線ばかりしていて、肝心の研鑚をサボっています。
明年こそは、この足で歩いて、この目で観て、何かしらの答えをつかみたいと思います。
御影ですが、保田妙本寺の御僧侶(鎌倉住職ではありません)は、妙本寺の御影だけが宗祖御在世中に彫刻されたものであり、あとは皆滅後のものといわれていました。
それ以外私に、妙本寺の御影を語る材料はありません。
実際にお色直しがされているため、とても700年以上前のものにはみえませんが・・・
それから「等身の正御影」といわれますが、等身よりは小さいのではないかと思ったりします。それとも日蓮聖人は小柄な方だったのでしょうか。
24
:
空き缶
:2003/12/11(木) 23:55
法華堂について
以前HPからコピーした「法華堂綱領」がありましたので、参考までに貼りつけます。
法華堂綱領
1.宗祖日蓮聖人の創唱された南無妙法蓮華経の信仰は、無仏の時代である末法においては「法」を本尊とするの意であり、宗祖の弘通も、ただ「法」の流布になる。
2.南無妙法蓮華経の信仰においては「法」と「仏」は根本的に相容れないものであり、本仏思想、及び、本仏思想的要素のあるものは、すべてこれを排除しなければならない。
3.「仏」を捨てて「法」を取るということは、成道は「行」にあるのではなく、また「学」にあるのでもない。「信」の中にあるということ。即ち末法の成道は、衆生が「法」を「信」の一字をもって受持したその中にあるということである。
4.「法」とは、超越的・絶対的な実体としての「法」をいうのではない。「法」とは、一切のものは差別相はあるものの、本質的に平等であるという諸法実相の理をいい、具体的には十界互具ということ、即ち仏と衆生は本質的に平等であり、自己以外に仏は存在しないという意である。
5.この信仰は世間即仏法を基本とする。即ち仏法は世間法を離れて存在するものではなく、世間法の究極こそが仏法なのである。
(補足)
·「戒壇本尊」とは、究極的には板曼荼羅を指すのではなく、衆生一人一人の成道をいうのである。
·血脈・法水とは、正しい信心の継承のことであり「法」が断絶しないことが真実の血脈義である。
·勤行は理行であるから、今後は是れを簡素化し、朝は初座と二座、夕は二座のみにする。
右の条目をもって、法華堂の綱領とし、信仰と布教の根本理念とする。
以 上
25
:
川蝉
:2003/12/12(金) 11:53
法華堂の綱領について。
法華堂の考えの基本となっている
「末法は無仏の時代」
と云う前提は成り立たないでしょうね。
寿量品に三世益物の教導が示されていますように、末法も久遠釈尊の教導活動の対象ですね。と云うことは、末法といえども無仏の時代ではないと云うことでね。
寿量品では久遠釈尊は常住不滅の仏であることを教示し
自我偈にも
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」
とあります。
「末法は無仏である」と云う主張は、「常に此に住して法を説く」との教説と相反するものですね。
日蓮聖人も
「仏の入滅は既に二千余年を経たり、然りと雖も法華経を信ずる者には、仏の音声を留めて時時尅尅念念に、我れ死せざる由を聞かしむ。」(守護国家論・学会版55頁・昭定111頁)
「仏も又かくの如く多宝仏と申す仏は此経にあひ給はざれば御入滅此経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏、十方の諸仏も亦復かくの如し」(弘安三年十月・上野殿母御前御返事・学会版1572頁・昭定1816頁)
「日蓮流罪に当れば教主釈尊は衣を以て之を覆ひたまはんか。」
(文永九年五月・真言諸宗違目・学会版141頁・昭定641頁)
「霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈、日月、四天等冥に加し、顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(撰時抄・学会版292頁・昭定1061頁)
「末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人あて流罪死罪に及ばん。然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほう(覆)べきぞ」(諸法実相抄・学会版1359頁・昭定726頁)
等と教示されているように、久遠釈尊は現に在して護っていてくれると実感されています。
「末法は無仏である」と云う主張は、日蓮聖人の上記の教示と相反するものですね。
釈尊が入滅してから弥勒菩薩が出現するまでの間を無仏の期間とする思想があり、地蔵菩薩などもこの思想に基づいて生じたとされています。このような末法観は法華経の末法観ではありませんね。
26
:
空き缶
:2003/12/12(金) 17:58
川蝉さん、こんばんわ。
ばっさりと破折されてしまいましたね。
日蓮正宗系では、日蓮本仏論を否定しただけでもかなりの決断であったと思いますが。
興風談所の池田令道師は二箇相承を偽書としたことで、日蓮正宗系では稀有な方であると思います。
久保川師に関しては、私は一つも関連資料を持っていないのですが、通称「戒壇本尊」を否定して「日蓮真宗」を立ち上げたことは聞き及んでいます。
いずれにしましても、正信会関係の方たちです。私は現在の石山よりも教学的には優れた方たちではないかと思ったり致します。
私が法華堂の思想に着目したのは、関師が興風談所の初代所長であることと、妙本寺日我師のいいたかったことは、現在の法華堂の思想なのではないか(我師は日蓮本仏論者ではなかったのではないか)との思いからです。
しかし、現状では法華堂を深く知るための資料は、あまりにも少なすぎます。
大石寺系の論師にいわせれば、妙本寺の日要師と日我師は、日蓮本仏論者であるといいます。しかし、私はこの点に疑問があり関師の諸説と出会い、興味を抱いたのです。
とりとめもない書き込みですが。
27
:
ROCK
:2003/12/12(金) 20:53
空き缶さん、こんばんは。
>保田の重宝なので、チョッと無理なのではと思われます。
私は保田のことはそれほど知らないのですが、本堂に安置されている本尊は
何でしょうか。私はその本尊を中心にやっていけばよいと思いますし、御影
を本尊視する必要は特にないと思います。
>「門徒存知事」はどうなんでしょう?
私自身、納得のいく答えを見つけ出せないでいます。確かに日興上人の思想と
認めがたい点があることも事実ですが、それを以って「富士一跡門徒存知事」を
全否定するつもりはないのです。仮令「富士一跡門徒存知事」が後代の日興門下
による著述であったとしても、その内容すべてを否定できないでしょう。日興上
人の他の著述と校合し、とるべき所はとり、否定すべきところは否定すべき、と
いうのが現時における私のスタンスです。
28
:
空き缶
:2003/12/12(金) 23:59
ROCKさん、こんばんわ。お忙しい中、御返事ありがとうございます。
妙本寺は「御堂」と「客殿」がありますが、どちらを本堂と称するかはその時々によって変わっていたようです。
客殿の御本尊は、私の記憶では興尊書写本尊を板に彫刻したものです。しかし、人によっては「あれは郷師書写本尊の板本尊だ」という人もいます。
私はそれを聞いたとき、自分は郷師と興尊の御本尊の違いもわからないのかと、情けなくなった記憶があります。
私は日曜日の正午からの、御影の御開扉を中心に御参りしていました。客殿にはあまり足をむけませんでした。
普通は御影の背面に曼荼羅本尊が懸けられていると思いますが、妙本寺の御堂は、御影のみです。御影に向かって方便品(諸法実相まで)と寿量品を読み、お題目を唱えます。
その後、約15分から30分ぐらいの住職の話があり、御閉扉します。御閉扉後はすぐ鍵を閉め厳重に扱います。
それに対し、客殿はほとんど御開扉しっぱなしで、客殿内に誰もいなくても開けっ放しの時さえあります。
これを考えると、やはり御影の方を重宝しているように思えます。
29
:
直人
:2004/01/10(土) 00:11
[「日興上人御遺跡事」と弘安五年御下文(「日興跡條條事」)]
私はさきに(
>>8
)「「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書(中略)
「日興上人御遺跡事」も疑っています」と述べた。しかし、「日興上人御遺跡事」は
真筆とすることはできるかもしれない。私の考えは次のごとくである。
「日興上人大石寺御置文」には「日興跡條條事」の第一条にあたる文が見られる
が、第二条にあたる文は見られなく、第三条にあたる文は「異本に云く」として見ら
れるのである。この「日興上人大石寺御置文」が引用されたのは日有文書である
から、宗祖滅後200年代にはまだ「日興跡條條事」は成立していなかったようである。
「日興跡條條事」は宗祖滅後279年にいたって「祖師伝」に引用されたわけである
から、「日興跡條條事」の成立時期は宗祖滅後200年代以降、宗祖滅後279年ま
での間となる。
「弘安二年の大御本尊並御下文」(『日蓮正宗聖典』38年版)については日行師
以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅を以って「弘安二年の大御本尊」と
し、「日興跡條條事」の第二条が偽作されたものであろう。その際に偽作者が「日
興上人御遺跡事」の「日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状」という文によって
「弘安二年の大御本尊並御下文」としたものかもしれない。
しかして、富士正統思想と御下文が何時しか一対になり「朕、他日法華を持たば必
ず富士山麓に求めん」という誤伝が生じたものではなかろうか。
上代において御下文はあったかもしれないが、真実、「朕、他日法華を持たば必ず
富士山麓に求めん」と記されていたとは考えられない。それは弘安五年の時点では
富士に日蓮宗寺院は存在していなかったからである。
30
:
空き缶
:2004/01/10(土) 00:28
直人さん、こんばんわ。いつも大変勉強になります。
継命新聞社版「日目上人」によりますと、「日興上人御遺蹟事」の筆跡は「日善師」ではないかとの事です。
正本は現在二本伝わっており、「日善・日仙・日目」の花押を押した三師がそれぞれ一本ずつ所持したものが、一本は紛失し現在二本が残っているのではないかとしていました。
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