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国際関係・安全保障論

1■とはずがたり:2003/01/22(水) 12:15
経済畑出身の私の鬼門,外交・安全保障を考える。
適宜,憲法談義・世界経済等もこちらで。

2■とはずがたり(1/4):2003/01/22(水) 12:58
http://www.n-kan.jp/kouyaku/gendai9.html
『救国的自立外交私案』−タブーなき外交論 衆議院議員 菅直人

<なぜ日本外交は貧困なのか>
戦後の日本の外交は、冷戦構造の中で、一貫して基軸である日米両国の良好な関係を維持することを最優先課題としてきた。
長い目で見た国益や、宗教や言語も違う近隣諸国との間に敵対関係を作らないための外交戦略といった観点は希薄だった。まして、地球温暖化対策など各国がそれぞれの国益を抑えてでも、共同行動をとらなければいけない課題について、より高い次元の外交戦略を構築し、世界に対してリーダーシップを発揮することは、日本は最も不得手にしてきたといえる。
それに加えて日本外交の貧困を深めてきたのが、官僚による外交の事実上の独占である。憲法第七十三条は、外交関係の処理や条約の締結を「内閣の事務」と定めている。内閣はあくまで閣僚の合議体のはずだが、これが内閣法などの規定でいつのまにか「外交は外務省の外交官の専権事項」であるかのごとく扱われてきた。各国駐在の大使は天皇陛下の認証官で、米国で行なわれるように議会の公聴会で赴任前に人事の適正をチェックされることもない。外国に出れば、外交機密費などは使い放題。外交機密という高い壁を作って、外交交渉の過程はおろか、合意事項でさえも機微に触れるものは「密約」として、国民の目に晒されないようにしてきた。

<「密約外交」の清算>
 外交の観点から見ると、日本は世界の中でかなり特異な歴史を持った国である。
日本は地政学的に大陸からかなり離れた島国であり、太平洋戦争までは蒙古襲来などを除いて大陸の異民族の国々と戦争をせずにすんだために、本格的な外交を経験せずにきた。しかも日本における戦争は、主に同一民族の中の内戦であり、カルタゴとローマの戦いのようにその支配地の住民全員の生死をかけた戦いでもなかった。日本外交に戦略性が不足している背景には、こうした日本という国の特異な生い立ちにも原因があるように思う。
 それでも列強のアジア侵略に対抗しようとした明治維新から太平洋戦争の敗戦までの間は、日本が自ら外交戦略を考え自立的外交を展開した時期であった。開国、明治の中央集権政府の樹立、不平等条約の改正、日英同盟、日露戦争と米国の仲介による終結など明治・大正の時期の日本外交は、戦略性と国際性を持った見事なものであった。しかし昭和期に入り「神国日本」というスローガンの下、国中に偏狭な国粋主義がはびこるに連れて日本外交も失敗の道を歩み、ついには太平洋戦争での無条件降伏という悲劇的な形で自立外交の幕は閉じてしまった。
国民は自らが選択したという確かな感覚を今なお持ち得ないでいる。国民の理解が得にくいといった理由で重要な合意事項を「密約」として国民に隠してきた“つけ”が今、日本外交の弱さとして表れているのだ。 日本外交を国民主権の国にふさわしい自主的自立的なものにしていくには、その前提として、何よりまず過去の「密約外交」を精算する必要がある。そのうえで、国民に政策選択をゆだねる代わりに、その結果のリスクや覚悟を求める姿勢がなくてはならない。

<寄港は非核三原則の対象外に>
もし日本が、核兵器を装備していないことを確認できなければ米戦艦の寄港を拒否するとなれば、日米安保は機能を失ってしまう。 しかし同時に「密約」をそのままにして、事実と異なる嘘の答弁を国会で繰り返すことの弊害はより大きいと考えるべきだ。過度の秘密主義によって日本外交が国民から遊離していたのでは、外交に関する国民の責任感や覚悟も育たない。外交の主役は官僚でも政治家でもなく、国民一人一人だ。この国のあり方について、国民に共通の覚悟がなければ、国の防衛も外交交渉も脆弱にならざるを得ない。 日米間には核の持ち込み以外にも様々な外交上の密約があるといわれる。民主党が政権を獲得すれば、外交機密費にメスを入れるだけでなく、戦後の外交機密文書の機密指定を全面的に見直し、少なくとも半年後までには一九六〇年の安保改定や一九七一年の沖縄返還に伴う全ての合意事項に関する文書を公開したい。

3■とはずがたり(2/4):2003/01/22(水) 13:00
<「見事に死ぬ」覚悟はあるか>
戦後の国内での外交・安全保障の議論は、一方で平和憲法に基づく「平和主義」の理想論と、他方で日米同盟を基軸とする現実論に両極化し、かみ合わない議論が繰り返されてきた。しかし考えてみると平和主義憲法も、日米安保条約も、元々は米国が日本に持ち込んだものだ。 米国は、占領下の一九五〇年に勃発した朝鮮戦争の激化にともない、日本を中立的な非武装国家でなく、米国の同盟国として自衛のための軍隊を持たせるという方針に転換した。それ以来米国は、①日本の自衛力の強化、②ただし核武装は認めない、③在日米軍基地のできる限りの自由な使用、④米国の海外での軍事行動に対する協力、を一貫して日本に要求し続けている。これに対して歴代政府は平和憲法の制約を理由に抵抗しつつも、その都度解釈を拡大して米国の要求をなし崩し的に容認してきたのがこの半世紀であった。

 日本国憲法第二章には「戦争の放棄」の柱書きのもと、第九条のみが規定されている。マッカーサー占領軍司令官が原案を作ったとされる平和憲法は、広島・長崎の被爆を含む悲惨な戦争体験を踏まえて国民の間に短時間に広く深く浸透し、長年左翼陣営の政策の柱となってきた。戦争のない世界は、人類始まって以来の理想である。しかし同時に、そのことがいかに困難かも歴史は教えている。 かつて日本社会党は戦後長い間、「非武装・中立」政策を唱えた。これは世界の全ての国が武器を捨てれば戦争がなくなり、軍事同盟も必要ないという理想に根ざしている。この理想は崇高で、それ自体に反対する人はいない。しかし本当に「非武装」の理想を日本が単独で実現させようとするなら、他国が攻めてきた時には「日本人全員が見事に死んでみせる」という国民全体の覚悟が必要だ。そこまでの覚悟を持てるだろうか。

 個人がそれぞれの立場で理想のために命を捨てる覚悟を持つのは尊いことだが、多くの国民にそうした覚悟を強いることが政治の責任として許されるのかは、また別問題だ。現実を無視した空想的な平和論で国民を過大な危険にさらすわけにはいかない。憲法九条は、固有の自衛権までは否定していない。いざという時に慌てるぐらいなら、あらかじめ最低限の備えをしておくのは当然のことだ。

<独自の偵察衛星を持つべき>
特に航空機を使った自爆テロが現実化した今日、海岸沿いの原子力発電所に対する警戒は欠かせない。少なくとも航空機が通過できない間隔で周囲を鉄塔で取り囲むといった最低限の対策は、早急に講じるべきだろう。 テロやゲリラなどの小規模な通常兵器による侵略に対しては、基本的には自衛隊が独力で対処できるはずだ。情報の点では偵察衛星を持たない日本としては、現時点では米軍の協力は欠かせないが、将来は独自の偵察衛星を持つべきだろう。現在自衛隊は二十四万人の隊員を擁し、毎年五兆円程度の予算を持っている。その範囲内でテロやゲリラに対する対応能力を高める組織改革を行えば、在日米軍に頼らなくても十分対応できる。核兵器の脅威に対しては、わが国は核兵器を保有しないという国際公約を守る代わりに、日米安保条約に基づく米国の核抑止力に期待するという方針を変えるべきではない。

<日米安保条約の位置付け>
 冷戦終結後、米国は世界戦略の見直しを始め、「平和の配当」を求める米国民の声に応えて、米国内やヨーロッパの基地と兵力は大幅に削減された。しかしアジアでは、フィリピンのスービック基地の撤収はあったものの、全体として十万人の米軍の前方展開兵力は維持された。これはアジアが二十一世紀の米国の世界戦略上極めて重要な地域であることに加え、「思いやり予算」などの日本の協力によって基地経費が米本土よりも少なくてすむという理由も明らかに影響している。

 私も何度か折に触れて、沖縄の基地の削減について国防省や国務省のスタッフと話したが、そのたびに必ず「最終的に決めるのは日本です」という言葉が返ってくる。しかし同時に「もし日本がどこかの国から攻められたときに、一緒に戦ってくれる国が米国以外にありますか」という言葉も出る。日本が本気で基地の撤去を要求すれば米国は最終的には受け入れるだろう。しかし、全面的な基地の撤去要求には、日米安保条約の空洞化を覚悟しなくてはならない。

4■とはずがたり(3/4):2003/01/22(水) 13:01
 私は米国に対する基地提供や維持経費支援は、日本の防衛のためというよりもアジア太平洋地域の安全保障に対する我が国の貢献と捉えるべきだと考えている。つまり、日本は自国の防衛は原則的に自衛隊を中心に自力で行うが、アジア太平洋地域の国際的安全保障に資する米軍の活動についても、必要な協力はするという姿勢だ。その上で沖縄に集中した米軍基地の大幅削減を日米安保を空洞化させないで実現することが国民的課題だと考えている。

そのために、民主党中心の政権では、沖縄の基地の相当部分を占める海兵隊の沖縄からの撤退を真剣に検討するよう米国にはっきり求めていく。沖縄の海兵隊基地の大半は新兵の訓練基地として使用されており、移転してもアジアの軍事バランスには影響しないはずだ。同時に、基地利用に伴うルールを定めた地位協定を不平等条約と言われないような適切なものに改定する交渉にも速やかに着手する。

<中国は台湾の国連加盟容認を>
 中国は外交大国である。大国としての威厳を保ちつつ、その一方でしたたかな現実外交を展開する。中国と付き合うと、ややもすればその大人風の雰囲気に飲み込まれそうになる。しかし日本は民主主義国としての誇りを持って、中国と堂々と向かい合って付き合っていけばよい。

 しかし、日本政府が付け焼刃的に繰り返している農産物など個別品目でのセーフガードの発動などは、誉められた政策ではない。マクロ面で国際経済の自動調整を促すためには、現在ドルに連動(ペッグ)している中国の人民元の切り上げを求め、将来的には変動相場制に移行させることが望ましい。

 安全保障面では、中国と台湾の関係を無視しては考えられない。中国政府は、台湾は中国の不可分な一部とする「一つの中国」を主張し、わが国もそれを尊重する立場をとっている。米国は中国の国連参加(台湾の追放)を認める一方で、台湾に対する防衛義務を定めた台湾関係法という国内法を持っている。もし中国が武力で台湾を「開放」しようとすれば、米国は日本を基地とする第七艦隊を中心に台湾支援に向かうことは過去の例からも間違いない。 今日、台湾から大陸への投資など中国と台湾の経済関係は深まり、台湾自身の防衛力も高いことから、中国政府が武力による台湾開放を試みる可能性は少ない。しかし、中国政府は台湾が独立しようとした場合は、武力侵攻の可能性を否定していない。いかなる場合も武力による開放は賛成できないという日本政府の立場は当然である。

 しかし、実際に武力衝突が起きた時の日本の立場は極めて難しい。中国の国内問題とする立場を取るのか、それとも台湾を防衛するための米軍の行動を支援するため、「周辺事態法」に基づいて自衛隊を派遣するのか。私は、在日米軍の活動には制約を加えないが、こと中台問題に関しては自衛隊の関与は避けるべきだと考えている。
 日本はむしろ中台問題を外交的に解決する枠組みを構築するために、アジアの隣国として外交的リーダーシップを発揮するべきだ。私は「台湾の国連加盟を中国が容認すべき」という意見を述べた。それも、この問題を単に中国と台湾の国内問題、あるいは米国と中国の二国間問題とするのではなく、国連加盟国同士の問題として国連の場で平和的解決を目指すべきと考えるからである。国連の加盟単位は、国だけではなく、「地域」という概念もある。さらに知恵を搾れば、中国と台湾の双方の面子が立つ道が開けるだろう。

<国連平和協力部隊の設立>
 国連は、冷戦終結により新しい役割を期待される時代を迎えている。わが国は、従来から「国連中心主義」をうたってきたが、必ずしも国連に対する影響力が大きいとはいえない。

 わが国外交の悲願といわれて久しい安保理常任理事国入りはいまだ調整がついていない。しかし、常任理事国となった場合には国連主導の軍事行動にどのように対応するかが、今以上に大きな課題となる。

 私は、国際警察機能としての国連軍やそれに準じる多国籍軍の活動は、日本国憲法が禁じている「国権の発動たる戦争」にはあたらないので、原理的には日本人が参加することは憲法には抵触しないと考えている。国際警察活動は、ちょうど国内の警察が刑法など法律に反する行動を取った人間に対して取締りを加えるのと同様に、国際ルールに反する行動を取った国に対し、国連が中心になって制裁を加える「普遍的安全保障(国際的安全保障)」だからである。

5■とはずがたり(4/4):2003/01/22(水) 13:01
 しかし、日本政府の指揮下にある自衛隊が国連の軍事行動に直接参加することは国権の発動と混同を招きやすい。したがって、北欧四国の国連待機軍などのように、自衛隊とは別に国連の指揮の下でPKO活動などにあたる特別の組織として「国連平和協力部隊(仮称)」を設けることを提案したい。現在の自衛隊は輸送能力や語学研修などの面で、基本的に海外での活動を予定していない。新設する国連平和協力部隊は、海外での活動を前提にした装備や訓練が必要だ。この場合、武器使用などどこまでの戦闘行為が認められるかという問題が残るが、少なくともPKO活動を進めるうえで合理的に必要な範囲については認められるべきだと考える。

<小泉外交一年三ヵ月の卑屈>

<自主外交論に潜む危険な兆候>
 長年にわたり外務省中心に国民をごまかしながらの外交・安保議論を続けてきた反省から、米国や中国に対してもはっきり物を言える自主的外交を求める気運が、近年高まっている。自主外交という言葉は簡単であるが、それにはそれを裏打ちするだけの責任と覚悟が必要だ。

排外的主張こそが自主的外交と勘違いした過激な傾向も強まっている。経済や社会全体の閉塞感が強まる中から、一つ間違うとヨーロッパのネオナチズムとも共通する危険な兆候さえ生まれてきている。何も自国の歴史を自虐的に見る必要もないが、昭和初頭のようにそれまでの国際協調を捨て「神の国日本」といった教条的で独善的な日本に戻してはならない。

<日本外交のお手本はある>
日本外交が軍事的な面での貢献が少ないからと言って、何も卑下する必要はない。日本ほど二十一世紀の世界をあるべき方向にリードできる可能性を持った国は少ないのだから。

 例えば日本が燃料電池のような石油に代わる再生可能なクリーン・エネルギーの開発に成功すれば、それは宇宙船地球号への人類最大の貢献となる。エイズや貧困を克服するためのシステム作りにも、日本は貢献できる。アフガニスタンで井戸を掘りつづけているペシャワ−ル会の中村医師の働き、緒方貞子さんの国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)での働きこそ、日本外交の手本にすべきものなのだ。

 NGOの代表をトップに据えるぐらいでなければ、「援助庁」など作ったところで日本外交は前進しない。NGOや国連と手を携えて、地に足のついた国際貢献の努力を積み重ねていくことこそが、長い目で見た日本外交の国際的な評価を高め、我が国の国益につながるのである。


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