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国際関係・安全保障論

3■とはずがたり(2/4):2003/01/22(水) 13:00
<「見事に死ぬ」覚悟はあるか>
戦後の国内での外交・安全保障の議論は、一方で平和憲法に基づく「平和主義」の理想論と、他方で日米同盟を基軸とする現実論に両極化し、かみ合わない議論が繰り返されてきた。しかし考えてみると平和主義憲法も、日米安保条約も、元々は米国が日本に持ち込んだものだ。 米国は、占領下の一九五〇年に勃発した朝鮮戦争の激化にともない、日本を中立的な非武装国家でなく、米国の同盟国として自衛のための軍隊を持たせるという方針に転換した。それ以来米国は、①日本の自衛力の強化、②ただし核武装は認めない、③在日米軍基地のできる限りの自由な使用、④米国の海外での軍事行動に対する協力、を一貫して日本に要求し続けている。これに対して歴代政府は平和憲法の制約を理由に抵抗しつつも、その都度解釈を拡大して米国の要求をなし崩し的に容認してきたのがこの半世紀であった。

 日本国憲法第二章には「戦争の放棄」の柱書きのもと、第九条のみが規定されている。マッカーサー占領軍司令官が原案を作ったとされる平和憲法は、広島・長崎の被爆を含む悲惨な戦争体験を踏まえて国民の間に短時間に広く深く浸透し、長年左翼陣営の政策の柱となってきた。戦争のない世界は、人類始まって以来の理想である。しかし同時に、そのことがいかに困難かも歴史は教えている。 かつて日本社会党は戦後長い間、「非武装・中立」政策を唱えた。これは世界の全ての国が武器を捨てれば戦争がなくなり、軍事同盟も必要ないという理想に根ざしている。この理想は崇高で、それ自体に反対する人はいない。しかし本当に「非武装」の理想を日本が単独で実現させようとするなら、他国が攻めてきた時には「日本人全員が見事に死んでみせる」という国民全体の覚悟が必要だ。そこまでの覚悟を持てるだろうか。

 個人がそれぞれの立場で理想のために命を捨てる覚悟を持つのは尊いことだが、多くの国民にそうした覚悟を強いることが政治の責任として許されるのかは、また別問題だ。現実を無視した空想的な平和論で国民を過大な危険にさらすわけにはいかない。憲法九条は、固有の自衛権までは否定していない。いざという時に慌てるぐらいなら、あらかじめ最低限の備えをしておくのは当然のことだ。

<独自の偵察衛星を持つべき>
特に航空機を使った自爆テロが現実化した今日、海岸沿いの原子力発電所に対する警戒は欠かせない。少なくとも航空機が通過できない間隔で周囲を鉄塔で取り囲むといった最低限の対策は、早急に講じるべきだろう。 テロやゲリラなどの小規模な通常兵器による侵略に対しては、基本的には自衛隊が独力で対処できるはずだ。情報の点では偵察衛星を持たない日本としては、現時点では米軍の協力は欠かせないが、将来は独自の偵察衛星を持つべきだろう。現在自衛隊は二十四万人の隊員を擁し、毎年五兆円程度の予算を持っている。その範囲内でテロやゲリラに対する対応能力を高める組織改革を行えば、在日米軍に頼らなくても十分対応できる。核兵器の脅威に対しては、わが国は核兵器を保有しないという国際公約を守る代わりに、日米安保条約に基づく米国の核抑止力に期待するという方針を変えるべきではない。

<日米安保条約の位置付け>
 冷戦終結後、米国は世界戦略の見直しを始め、「平和の配当」を求める米国民の声に応えて、米国内やヨーロッパの基地と兵力は大幅に削減された。しかしアジアでは、フィリピンのスービック基地の撤収はあったものの、全体として十万人の米軍の前方展開兵力は維持された。これはアジアが二十一世紀の米国の世界戦略上極めて重要な地域であることに加え、「思いやり予算」などの日本の協力によって基地経費が米本土よりも少なくてすむという理由も明らかに影響している。

 私も何度か折に触れて、沖縄の基地の削減について国防省や国務省のスタッフと話したが、そのたびに必ず「最終的に決めるのは日本です」という言葉が返ってくる。しかし同時に「もし日本がどこかの国から攻められたときに、一緒に戦ってくれる国が米国以外にありますか」という言葉も出る。日本が本気で基地の撤去を要求すれば米国は最終的には受け入れるだろう。しかし、全面的な基地の撤去要求には、日米安保条約の空洞化を覚悟しなくてはならない。


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