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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

2■とはずがたり:2003/01/21(火) 17:18
大上段に構えたがやっぱり公家の系図から入る。

江戸初期の公家の拡大は旧家の復活という形を取った?
鎌倉時代までは普通に朝堂の権力を一手に握った者の子孫が一家を立て繁栄していった。
藤原鎌足→北家・南家・式家・京家
藤原道長→摂家・堀河家(持明院・中御門)・御子左家(冷泉)
藤原師実→花山院家(花山院(中山)・大炊御門・難波(飛鳥井))
土御門通親→堀川・久我・土御門・中院
西園寺公経→四辻・一条(清水谷)・洞院(小倉・正親町)
一手に握らないまでも分流している例は多い。
甘露寺為房→葉室(八条・粟田口・堀河・岩倉)・中山・冷泉・四條・五條) 等
しかし,幕府によって厳しく制限されていた江戸期には一家を建つと云うことは容易ではなかったように思う。
◆:新家設立 ◇:他家相続
●:旧家復興 ○:一族内相続
▲:養子相続

従って余りor全然関係のない旧家再興という形を取ることが多かったようである。

閑院家庶流
●◇阿野家(観修寺流)から…阿野・清水谷(やがて他家から相続)・姉小路(風早,▲大宮,山本)

観修寺家
●▲○庶流の観修寺家から…甘露寺・坊城・万里小路・芝山・穂波・葉室・堤
観修寺家の嫡流甘露寺家をさしおいて事実上の嫡流となったようである。
○清閑寺…中御門資胤男共房から。共房は実は摂関家の隠し子との噂(池上・梅小路分立)

●◇四条家@善勝寺
上冷泉家(為益)から…四条(櫛笥(園池・八条))
広橋家(兼勝ら)から…鷲尾・油小路・西大路
修理大夫六条顕季直流の血統は事実上絶え,上冷泉家と日野流広橋家の草刈り場になっていた印象

◆◇水無瀬家
三条西家から(転法輪三条と水無瀬家は姻戚関係)…▲水無瀬・町尻・桜井・山井・●七条

◆◇藤原南家:●高倉→属閑院家藪(中園・高丘)…四辻家から

◆◇桓武平家:●西洞院家→飛鳥井家から(西洞院・平松・長谷・交野・石井)

3■とはずがたり:2003/01/21(火) 17:31
=水無瀬家=
水無瀬家は珍しい非道長系(道隆が祖)であるが,転法輪三条から養子を迎えるまではいきも絶え絶えで
左中将従四位下 具景
左少将     重親
と絶家寸前の雰囲気。
具景の女が転法輪三条公冬の室に入り実量を産み,この関係からか公冬息の季兼(母は不詳。具景女ではないのか?)を猶子として重親の嗣とした。
以後
参議従二位   季兼
参議従二位   英兼(母は父転法輪三条公冬母水無瀬具景の男実量の女)
と続くが,英兼に嗣無く三条西家から
権中納言正二位 兼成
が入る。水無瀬家に適当な嗣が居なかったこともあろうが,三条流と深いつながりを示唆する様である。

4西洞院家門流:2003/03/17(月) 14:33
飛鳥井家からからという表現は時慶卿を念頭にいれているのでしょうし、史実として
門流諸家の祖ですから間違いではないのですが、子孫は他の家の方々はどうか知りま
せんが、皆高棟王流の公家平家の子孫と思っているのではないかな?
現在、西洞院家の子孫の方のみは時慶卿の直系ですが、平松家は絶家。他の家々も何
回か養子が入っていますが、長谷家は衣紋の高倉家から信篤(西洞院範篤の女が高倉
家に嫁しているので信篤には西洞院家の血が入っている)が、石井家には油小路家か
ら、交野家は大名家の内藤家からそれぞれ養子が入りその子孫が現在の当主になっ
ています。血で辿ってゆくと何がなんだかわからないくらい混乱するのが蜘蛛の巣
のような公家の系図ですから、血よりは家という観点から考えてもいいのではない
かなと傍流の子孫の一人としては思います。
 ちなみに石井家の分家の梶野及び小松の旧男爵家(奈良華族)も入れた方が正確
を期すうえではいいかと思います。

5勧修寺家:2003/03/17(月) 14:46
打ち間違えかと思いますが「観修寺」ではなく「勧修寺」かと思います。

6■とはずがたり:2003/03/17(月) 14:59
詳細な指摘感謝です。>>4
かつ恥ずかしい誤りに穴があったら入りたいです>勧修寺

財政的窮乏で権力者の息子達が各自家を建てられなくなったのが主因だとは思いますが,特に江戸期以降は「血筋」ではなく「家」になってきて家単位で論じるのが適当のようですね。個人的にはそれをふまえて「血」も重視しつつ何とか統一的に図示できないかと思っているのですが。

江戸期に於いて朝廷に於いて権力をもった者の子息が鎌倉期のように新家を立てられないから養子という形で他家へ入るケースも有ったような感じがします。これと「家」の維持の為に養子を引っ張ってくるときにどの様な基準が有ったのか,という辺りにも興味がありますね。

門外漢ですので知識が足りずなかなか纏まらないわけですが。

7新家設立:2003/03/17(月) 15:24
江戸時代に公家が新家を立てるのは至難だったように思います。帝の許しを初めと
して、門流の摂関家に事前にお伺いをたてなければいけないのは勿論のこと、幕府、
京都所司代との調整(事実上は許可に近い)をしなければ許されなかったようです
から大変であったと思います。
養子になる場合、本人の能力容姿などの他に、家柄が問題視されるのは当然ですが、
家格が下の例えば名家、諸太夫家から羽林家くらいはよくありますが、その上の大
臣家、清華家に養子に入る例は記憶している限りでは江戸期にはなかったと思いま
す。厳格といっていいほどに家格重視、前例重視の時代であったかと思います。

8■とはずがたり:2003/03/17(月) 19:04
後水尾院政期あたりは割とあったような印象ですがその後は余程のことがない限りといった感じですね>新家設立

五摂家は皇子が臣籍降下している例がありますね。江戸初期には摂家への皇女の降嫁も目立つ気がします。

9新家設立:2003/03/18(火) 11:11
江戸初期には院が同時に何人か存在していた時期もあり、そうなれば当然そこに
伺候する殿上人も必要になることから、新家設立の必要もあったかと思います。
例えば、西洞院家の分家の長谷家や交野家は後水尾上皇の院参衆としての殿上人
であったもので、院没後はこれら諸家の殿上人は宮中に召し返されたものです。
もっともそれを可能にする財政的基盤は朝廷にはありませんから幕府の意向次第
ということになるわけですが、ちょうど和子入内から明正即位前後までの時期は
朝廷との関係を円滑にしておく必要があったことから、幕府も上皇には修学院離
宮を公家衆には新家設立という形でのサービスをしたのかもしれません。

10■とはずがたり:2003/03/18(火) 12:17
Yahoo掲示板は無知な私には知らぬ事ばかりで勉強になります。
徳川家が外戚になろうとかなり露骨な圧力もかけてたようですので,まさに飴と鞭といった所でしょうか?
一代限りで絶家した新家も多かったのはこの院との関係でしょうか。

11新家設立:2003/03/18(火) 13:53
そうしたことも関係していたのではないかと推測されますが、資料もないので何
とも申し上げられません。

12■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:05
中絶相続に関しては日野家支流の広橋家から魚名流四条家の庶家,西大路,油小路,鷲尾各家に入っているのも不思議な感じがします。

13日野家、四条家:2003/03/18(火) 14:24
その辺りの事情については、「日本中世家族の研究」(平山敏治著)の中で
詳細を尽くした研究がされていますので参考にされるといいかと思います。
現在は絶版になっているのが惜しまれますが比較的大きな図書館ならば置いて
あるかと思います。

14■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:27
平山先生の本は読みました。(昨日催促があって返却したばかり)

日野家にも絶家はあったのに何故四条家を再興したかは不明と書いてあった気がします。

絶版は本当に惜しいです。

15■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:33
ときに西洞院家ご出身のようですが,一族の間でなにか今でも結束というか同族としてのつきあいのようなものはあるのでしょうか?

秋田市長の佐竹さんは大名の子孫の様ですが正月に旧家臣団が集まったりするようです。

24■とはずがたり@申し訳ない:2003/03/18(火) 15:37
>>16-22は削除しました。

25ありがとう:2003/03/18(火) 15:46
削除してくださりありがとうございます。
これからは調子に乗って書き込みなどしないよう自重します。

26■とはずがたり:2003/03/18(火) 15:50
こちらに現代の人と歴史上の人物と同列に扱ってしまう軽率さがあったようです。

27じゃみじゃみ:2003/05/13(火) 23:54
>>2 おじゃまします。話がそれるので申し訳ありません。
親鸞の父は日野有範でその17代前は藤原鎌足だと、親鸞の孫の覚如が『御伝鈔』に書いているのですが、
日野家と藤原鎌足とは関係ないのでしょうか?門徒は毎年報恩講という法要でこの事実を聞かされているのであります。

28■とはずがたり:2003/05/13(火) 23:59
日野家は藤原北家の出ですから当然鎌足の後裔にあたるはずです。
鎌足―不比等―(北家)房前―真盾―内麿―真夏(日野祖)です。
因みに初代蔵人頭として薬子の変で活躍し,北家の隆盛の礎を築いたのが真夏の弟の冬嗣です

29■とはずがたり:2003/05/14(水) 00:24
調べてみました。

①鎌足【藤原朝臣賜下】―②不比等―③(北家)房前―④真盾―⑤内麿―⑥真夏(日野祖)―⑦浜雄―⑧家宗 参議 日野法界寺開祖―⑨弘蔭―⑩繁時―⑪輔道―⑫有国―⑬資業【号日野】―⑭実綱―⑮有信―⑯有範―⑰範宴(親鸞)

17代のようですね。公式にはこの系図です。しかし歴史上の系図が必ずしも全面的に正しいとは限りませんが。

30じゃみじゃみ:2003/05/14(水) 09:20
>>28-29ありがとうございました。すっきりしました。
『御伝鈔』には、
「それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠 鎌子内大臣の玄孫、近衛大将右大臣 贈左大臣 従一位内麿公 後長岡の大臣と号
 し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり」
と、冒頭に記されてあり、聞かされる方はお経かと勘違いしそうであります。

31■とはずがたり:2003/05/14(水) 11:28
『御伝鈔』。。ぐぐって見るとこれ↓ですね。
http://www2.ocn.ne.jp/~hongaku/godensiyou.htm

これは足羽山小松本覚寺という寺のHPの一部の様ですが,足羽と云えば越前ではないですかね?ご存じ?

32じゃみじゃみ:2003/05/14(水) 22:51
>>31 小松の本覚寺は知らないのですが、福井の永平寺町にも本覚寺があります。
   この二つのお寺はもともと一つのお寺で、福井にあったそうです。
   一向一揆の時期に小松に移り、東西本願寺の分裂にともない二つに分かれ、そのひとつが永平寺町にうつたとか。
   現に小松の方は東で、永平寺のほうは西に属しています。
   足羽山という山号は、福井に本拠を構えていたときの名残ではないかと思われます。

33■とはずがたり:2003/06/17(火) 09:48
近現代だけどいいか。

http://news.lycos.co.jp/topics/society/fire.html?d=16yomiuri20030616i515&cat=35

熊本城で西南戦争時のけん銃出土、鎮台執務室跡? (読売新聞)
2003年6月16日(月)23時55分

 熊本市教委は16日、発掘中の熊本城の本丸御殿跡から、西南戦争(1877年)時のものとみられるけん銃が出土した、と発表した。当時、けん銃は軍の幹部らしか持てず、市教委は「熊本鎮台の執務室があった場所かも知れない」と今後の発掘に期待している。

 けん銃は今年2月、本丸御殿跡の南西の小広間跡に隣接する排水溝(深さ約2メートル)の焼けた地層の中から見つかった。全長27・4センチ、重さ714グラムで、弾倉には銃弾1発があった。

 市教委によると、当時、熊本城には明治政府の熊本鎮台司令長官・谷干城(たてき)らが立てこもっていた。だが、本丸御殿は西南戦争が起きる直前に原因不明の出火で全焼、谷らが指揮を執った場所も不明のままだった。

34荷主研究者:2003/11/02(日) 01:49
同じく近現代である。

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20031018/lcl_____fki_____002.shtml
2003.10.18 中日新聞 福井
三国港突堤を重文指定答申 国の文化審、「明治の3大築港」と評価

 国の文化審議会で十七日、県内から重要文化財に指定の答申があった「三国港(旧阪井港)突堤」は、明治時代に国の近代化政策の一環として建設された。熊本県の三角港、宮城県の野蒜(のびる)港とともに「明治の三大築港」とされている。

 工事着工は明治十一(一八七八)年。三国港は九頭竜川が上流から運ぶ土砂が港に積もり、大型船の入港が難しくなることが悩みだった。この問題を解決しようと、地元の豪商が建設を呼び掛け、国の事業として計画が実現した。

 工事にあたったのは内務省(当時)が雇ったオランダ人技師エッセルとデレーケ。作業中も激しい波が押し寄せ工事は難航したが、地元豪商の拠出金を含む総工費約三十万円と、人員延べ約六万人を動員し着工から四年後にはほぼ完成した。

 その後も戦前までに四期にわたる補修工事が行われ、一九七〇(昭和四十五)年には四百十一メートルの堤も新たに増築された。木の枝など自然素材を利用した「粗朶沈床(そだちんしょう)」を基礎にした構造は、現代でもその価値を失っていない。

 今回の指定で県内の重要有形文化財は九十四件となり、建造物としては二十一件目になる。 (上田 洪基)

35とはずがたり:2003/11/02(日) 06:57
野蒜は地震で失敗した事で有名で,東北人は野蒜一体が神戸や横浜の如く発展する筈だったのが此処で挫折したと悔やしい思いをしているそうだが,三大築港の後二つが三角と三国じゃあ発展の可能性もたかがしれてたのでは無いかい?

36とはずがたり:2003/11/22(土) 12:21
1613年支倉常長,イスパニア派遣
1616年ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限る
1633年奉書船以外の海外渡航を禁止
1635年日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止。

帰国した時期は不明だけど,渡航・参拝したのは鎖国令よりも前やね。
それにしてもこの時鎖国しなかったら日本はどうなって居たか?

http://www.asahi.com/national/update/1122/006.html
江戸初期の武士、アンコールワットに落書き 子孫が対面

 江戸初期の寛永9(1632)年、肥前・松浦藩士の森本右近太夫がカンボジアのアンコールワット寺院に参拝し、落書きを残した。右近太夫から数えて15代目で岡山県津山市、津山科学教育博物館長の森本信一さん(63)と妻の栄子さん(59)が21日、371年前のその落書きと対面した。

 「父母の菩提(ぼだい)のため」、「数千里の海上を渡り」などと墨字で参拝の動機が書かれ、寺に「仏像4体を奉納した」とある。夫妻を案内した石沢良昭上智大教授によると、落書きはポル・ポト時代にペンキで塗りつぶされたが、近年、ペンキが退色し、再び判読できるようになった。

 落書きを食い入るように見た信一さんは、「400年近く前に先祖が命がけで海を渡ってここに来ていたかと思うと感無量で、じーんとしました」と語った。

 アンコールワットは19世紀、フランスのアンリ・ムオが「発見した」と西洋に紹介された。右近太夫は、それより200年以上前に参拝していた。しかし、幕府の鎖国令で海外渡航が厳禁され、参拝の事実は近親者以外には極秘にした模様だ。

 信一さんは、「この訪問で右近太夫がより身近になった。その秘められた歴史を調べたい」と語った。 (11/22 09:57)


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