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V@akyapad@iya読解メモ

1近藤 貴夫:2003/01/07(火) 19:14
このスレッドは、バルトリハリのヴァーキヤパディーヤに
関するものです。主な参考書は、赤松明彦訳注『古典
インドの言語哲学 1・2』東洋文庫・です。

2近藤 貴夫:2003/03/28(金) 22:47
第一章 ブラフマン

インド思想において、その起源が理解困難で複雑な意味合いを
持つ重要概念は少なくありません。アートマン(<我>)と
対比されるブラフマン(<梵>)もその一つです。
語形から見ると、動詞語根"B$RH"(-"B$R\MH"-"BARH")<膨らむ・
拡大する>に行為者的中性名詞などを作る接尾辞"-man"(印欧
祖語での"-men")が加わったものではありますが、その原義と
意味展開には謎があるようです。

詩節1『はじまりももたず終りももたない[永遠なものである]
ブラフマンは、コトバそれ自体であり、不滅の字音(アクシャラ)
である。そこから現象世界の形成(プラクリヤー)があるそれ
(ブラフマン)は、意味=対象=事物(アルタ)として、[この
世界に]別の姿をとって現れてくる。』

3近藤 貴夫:2003/03/28(金) 23:03
『はじまりももたず終りももたない("an@adinidhana")』
とは漢訳では『無始無終』と訳される句で、永遠であること。
ブラフマンは時間を超越した存在なのです。
『コトバそれ自体("%sabdatattvam")』とはつまり言語の
実相、言語が言語であるための本質的あり様、ということ。
つまりブラフマンは言語原理だということです。

4近藤 貴夫:2003/03/28(金) 23:55
まず、世界(=全宇宙)は無始無終である、というのは、
縁起・無常を説く仏教でさえ認められていることです。
縁起の流れの全体が理由もなく始まったり終わったりする
ことは、縁起の概念そのものに反するからです。

コトバそれ自体がやはり無始無終である、というのは、
コトバについて少し考察してみないと分かりにくいところ
です。言語とは、現象である音声や書字によって、現象も
それ以外も含む諸々の事象を表す営みですが、その中間の
<記号−意味>という構造が曲者で、これが現象ではない
のです。
言われた音声が消え去り、書かれた文字がかすれて消え、
それらの表す事態が因果の流れにうつろい動いても、この
<記号−意味>は不変でありうるのです。

5近藤 貴夫:2003/03/29(土) 00:04
そして、コトバが世界を支え、形成・展開するという
ときのコトバとは、自然科学の法則などのことを念頭に
置けば納得できます。法則的に形成・展開していると
いうことは、即ち総体的にコトバ(方程式もコトバである)
に則って展開しているということであり、言語記述可能な
言語原理的世界であるということになるのです。

ちなみに、ここでは関係のないことですが、アートマンと
いうのは『認識原理』であり、やはり時空・現象界を超越
しています。

6近藤 貴夫:2003/03/29(土) 00:19
『不滅の字音(アクシャラ"ak#sara")』という語は、
一語で、「不滅の」という意味と「言語上の記号(即ち
音素・単語・句・テキスト)」という意味とを兼ねて
いるのです。そしてそのまま<ブラフマン=アートマン
=神>でもあります。
このキーワードにおいて、神はロゴスそのものであり、
それ以外にないことがはっきりと表されています。

7近藤 貴夫:2003/03/29(土) 11:10
アルタ"artha"という語は、<意味内容(内包)><指示対象(外延)>
<希求対象(利益・意義・目的)>の各意味を含む、意味の広い語で、
言葉の示す<意味>がこれらのどの範囲であるのかインド思想上の
議論の対象になってきました。

8無名子:2003/04/03(木) 11:21
『ブラフマンは、[次のようなものであると]主張される。(1)その本質が、
[われわれ人間の]あらゆる想像を超えたものである。』

ブラフマンは現象や観念ではなく、従って認識対象ではありえません。
現象や観念ならば、それは上記<アルタ>であり、形成されたものであり、
【別な姿をとって現れた】ものなのです。そして、それら形而下のものと、
ブラフマンとの関係が問題になります。

9近藤 貴夫:2003/04/03(木) 11:37
『(2)別異と同一を完全に超越していることによって、ありとあらゆる
力能(シャクティ)をそなえたものである。』

別異と同一とは、ブラフマンと個々の現象・事物との関係を指しています。
そして、仮に個物同士や属性の値同士ならば別異やら同一を語れますが、
ブラフマンと諸現象は、別異か同一かというような言語表現では全く言い
当てることのできない関係にあるということです。
ブラフマンは森羅万象すべてに関わる理ですから、森羅万象すべてを規定
する力能(シャクティ)をそなえたものです。

10近藤 貴夫:2003/04/03(木) 11:49
『(3)知と非知という二つの区分をその姿としてもちながらも、しかも
無区分のものである。』

ここで「知と非知」と訳されている句は、漢訳仏典では多く「明と無明」と
訳されるところのもので、煩悩にまみれた我々の世界を仮現させるのが
非知であり、それを滅して一者としてのブラフマンに還らせるのが知で
あります。そしてその両方が、ブラフマンの不可分の両側面だということ
です。

11近藤 貴夫:2003/04/03(木) 15:38
『(4)[この世の人々は、様々に分割された]個別的時間区分の経験を
何度も繰り返すことと、[様々な場所を占めて空間的に存在する]
個別的物体について何度も繰り返し学習することによって、[自分
たちの様々な活動を成り立たせている]。そのような活動に付随して
生起してくる種々の功徳(ダルマ)・罪過(アダルマ)をそなえたもの
[としてブラフマンは語られるの]ではあるが、[実際には]
どの様な状態においても、はじまりにも終りにも依拠することが
ないものである。』

(4)は長くて、まだこの後にも説明が続きます。

個別的時間区分とは、秒・分・時・日・週・月・年などによって
区切られる個々の特定の時のこと、個別的物体とは、あの机とか
この壷とかいう個々の特定の物体のことと解します。現象は、
このように時間的・空間的個別性をもって立ち現れてきます。
ダルマ(dharmaH)という語は非常に複雑な派生義を持つ語ですが、
ここではその否定語のアダルマと対置して用いられているゆえに、
<道義・徳・善>の意味にとられております。漢訳では<法>・
<非法>と訳されることが多いでしょう。
善悪の行為やその影響も、現象に付随するものとして、時空的個別性の
中で生じ、はじまりも終りもある。そしてそれはブラフマン(理法)を
基盤とするものとして語られる。しかし、ブラフマン自体は時空を超越して
いるとされます。

12近藤 貴夫:2003/04/03(木) 15:50
訂正:上記 <善悪の行為>→<行為の善悪>

『なぜなら一者でありながら、結果でありまた原因でもあり、多様に
区別されるものであり、また区別されることのないものでもある
ブラフマンについて、[様々な言説がなされているが]、それらの
いずれの言説にも、[ブラフマンの限定的特徴として]それ以前のない
運動開始点(はじまり)や、それ以後のない運動終了点(終り)が
数え上げられることはないからである。また、[ブラフマンは]
様々の形態をとって[現象世界として]現れてくるものであるが、
それらの各部分のどこにも、上方にも下方にもまた水平方向にも、
[ブラフマンの]限界は認められない。』

<宇宙の無限性>は古代インドにおいて公理に近いものです。
時間的側面について言えば、大地や太陽が生じて消えることがあっても、
それは全宇宙の創始や終末ではないのです。その点が、一回限りの世界の
創造を説く旧約聖書とは異なります。人々が住む惑星を持つ小世界が、
この宇宙には無数にあって、それぞれ生成・発展・衰退・消滅を繰り返して
いるものの、それらの宇宙の総体は決してはじまりも終りも持ちません。

13近藤 貴夫:2003/04/03(木) 16:01
こうしたブラフマンに相当する仏教用語は、法界(dharma-dhaatuH)
でしょう。仏教は現象の背後に形而上学的な基体を措定することを嫌い、
語ろうとしないことが、ヒンドゥーに比べての特徴とされますが、
ヒンドゥーに近い概念を言い出す諸派は多く、そうした名分から
仏教と非仏教を分けることを非現実的にしています。
私はこのスレッドで、この後、コトバや理法の非現象性の一端を明らかにし、
ブラフマンという概念が、現代の目から見ても、決して荒唐無稽な
オカルトではないことを述べていこうと思っています。

14近藤 貴夫:2003/04/03(木) 16:16
話が前後しますが、ここで論者は、仏教においてもブラフマンの無始無終が
否定されていないことを示唆しています。
諸行無常と説いて、個々の事物がうつろい変わるものだと言っても、その
うつろい変わる縁起の世界全体が終わる(全く何も結果も生まなくなる)
とか、いつか始まった(何の原因もなしに)とか、或は因果を支配する
理法自体が突然変化するいうことは、仏教は想定していないのです。
事実、唯識仏教においては、アーラヤ識縁起の流れが無始無終だと説かれ、
仏身に関しては、法身の無始無終が大乗仏教の通説であるのみならず、
報身や応身の無始無終も説かれるようになりました。

15近藤 貴夫:2003/04/03(木) 16:41
『しかし、諸々の変様物(個物)は、多様な姿をもつとたとえ認められる
にしても、[一個の]根源的原理(プラクリティ)[であるブラフマン]と
結びついて存在しているから、言葉が[ブラフマンにとって、それ自身の
一部として]受け入れられるべきものであることによって、そして同時に、
言葉が[ブラフマンを]受け入れるものであることによって、それ
(ブラフマン)が、「コトバそれ自体(言葉の本体)」と言われるので
ある。』

ここに、ブラフマンが<理法・ロゴス>であることが一層明らかに
表明されます。ブラフマンとは根源的原理−−全ての分野を余すことなく
支配する理法なのです。
言葉は、正しく語ることによって、ブラフマンによってその一部(正しい
事実描写や定理等)として受け入れられるものであり、我々は言葉に
よってのみブラフマンの一部を理解し、客観的なものとして意思疎通する
ことができます。

16近藤 貴夫:2003/04/03(木) 17:07
『なぜなら[ブラフマンの現象的な現れである]存続・運動開始
(はじまり、創世)・運動終了(終り、帰滅)という区分は、言葉に
よって[こそ]作り出されるのであるから。そしてそれ(ブラフマン)は、
諸字音の発効原因であるから、[転義的に]「[ブラフマンは]、不滅の
字音である」と[詩節1に]言われる。人間ひとりひとりの心[の中]に
奥深く入り込まされている[諸字音]が、他者を理解させるための
顕現体[つまり具体的な音声を伴った言葉]として[外部世界へと]
流出するのである。』

前段で言われているのは、理法の永遠なる内部構造=コトバが、
あらゆる現象を規定しているということです。
中段で言う諸字音とは、つまり各言語で有意味な<音素>のことであって、
それらが言葉として意味を持って使われうるのは、世界がブラフマン的
(=ロゴス的)であるからなのです。
後段には、私的言語(個人の内的言語)と、その表出である疎通言語
(言語使用)との関係が指摘されます。両者のうちで前者の方がより
根源的で重要だというのが、論者バルトリハリの考え方で、後で大いに
論じられますから、ここでは措いておきましょう。


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