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創作メモ

1管理人:2012/03/08(木) 21:43:03
管理人の備忘用。

2管理人:2012/03/08(木) 22:22:31
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2048/1074525089/180
の続きをここでやります。

〜これまでのあらすじ〜
①管理人は古代史をネタに物語を作ろうと考えていた。
  物語の舞台は4〜5Cの予定であった。なぜなら、4Cは空白の世紀と呼ばれており、
 (266?年:台与の遣晋使から、413?年:倭王讃の朝貢まで、外国の記事に出てこない)
  管理人が勝手な想像を遊ばせるのには都合が良さそうと考えたからである。
②記紀の系譜を素直に信用するとなると、4〜5Cは15代16代の方の時代っぽい。
  考古学的にも誉田山が5C初頭、大仙が5C半ばらしいので、無理はなさそう。
③ところが、色々調べてみると、②の前提が間違いであるような気がしてきた。
  そもそも誉田山や大仙の被葬者が誰なのか分からん。(15代16代の方と記紀には書いてあるが)
④上述の「間違いであるような気がしてきた」理由は以下の点。
 ・16代と17-19代は親子であるはずだが、一緒に出てくる話がない。
 (17-21代の方々はいわゆる五王と考えられるので、この辺が5Cなのはほぼほぼ確定)
 ・10代あたりから16代あたりまでの記載がやたら詳しいので(13代除く)、一連の流れにあると推定。
 ・11代12代の宮は纏向であり、3C初頭から半ばの方々と考えられる。
 ・中身のない13代を無視すれば、12代の遠征と14代の客死は北九州で繋がっている。
⑤ってことは、15代の方は遅くとも3C後半になり、16代の方は4C前半になる。

3管理人:2012/03/08(木) 23:02:05
そもそも>>2の仮説に至るまで、管理人はどんな物語を作ろうとしていたのか?
それは以下のとおりである。

・主人公は15代16代の方々。
・5Cには百済と新羅を勢力下に置いているが、後に百済と親密、新羅と敵対するのは歴史の示す通り。
・その原因として、新羅と国内の反日マスコミが結託し、
 和−百ラインの切り崩しにかかるというクソみたいな寓話をむりやり設定。
・その対立を主軸に据えつつ、15代16代の記紀のエピソードを交えて、面白おかしく書くという寸法。

ところが>>2で書いたように、15代16代が3-4Cの方々ということになってしまったら、
せっかく書き進めていた上記のクソつまらん話に無理が生じてくるのである。
3-4Cには百済も新羅もまだ存在すらしていないではないか。これは駄目だ。
マスコミとか出てくる時点で時代背景もへったくれもないという
意見もあるかもしれないが、そういう細かい点にはこだわりたいのである。

というわけで、あえなくボツとなった。

4管理人:2012/03/09(金) 00:12:35
で、「あえなくボツとなった」で済めばいいのだが、そう簡単には済まない。
なぜなら、>>2の仮説は突っ込みどころ満載であり、15代16代の時世についても通説とは異なるからである。
ではなぜ、15代16代は4-5Cであることが通説となりえたのか?
それは以下のとおりである。

①記紀に三国史記からの引用記事(百済・新羅の朝貢)があり、
  それが15代16代の御世の出来事とされている。
 (直前の神功による三韓征伐から考えても、それは無理のない設定と思われる)
②16代は17-19代の父親である。
③誉田山も大仙も5Cである。
④他にもいろいろある。

②と③については>>2に書いたとおりである。問題は①である。
管理人は①について、記紀を編纂した不比等や武智麻呂あたりが
「百済史記における倭への朝貢がどの王の時代なのかは分からんが、
 有名どころの15代16代あたりにしておこうぜ!」ってな感じで取り決めたのではなかろうか。
或いは逆に、
「17-19代の親が誰なのか伝わっていないが、有名どころの16代ってことにしておこうぜ!」
ってな具合に系譜を策定したのではなかろうか。

5管理人:2012/03/09(金) 00:38:31
……とまあ、そんな風に考えたのである。
しかしこれは随分といい加減な推測でもある。
ただ、推測自体はいい加減であるが、可能性としては五分五分くらいじゃないだろうか。
そこで>>4の「④他にもいろいろある」について考えたい。

>>3で示したような物語を作るとすれば、15代16代の他にも描くべき人物がいる。
妥当なところでは、15代の母である神功皇后、16代の兄弟である大山守と宇治、
16代の嫁である磐之媛、そして重臣の武内宿禰。このへんは外せないだろう。

一番問題なのは、この武内宿禰である。
>>2において16代までは一連の流れを感じると書いたのは、この人物がずっといるからなのである。
そしてこの人物と15代16代が同時代人であるからこそ、
15代16代は3-4Cの方々だ、と、管理人は主張したいのである。

6管理人:2012/03/10(土) 01:04:16
「創作メモ」ではなく、単なる趣味的な古代史研究になりつつあるが、まあいい。

〜前回までのあらすじ〜 >>2-5
なんやかんやを調べているうちに、応神・仁徳の治世は通説より
百年くらい昔なのではないか、などと主張し始めた管理人。
その根拠として応神以前の流れと仁徳代までの流れに一連の繋がりがあることを
指摘し(武内宿禰の存在など)、仁徳代とそれ以降には同時代的な繋がりが見えず、
応神・仁徳代における記紀の対外記事は後代の予想に基づく
適当な繰り上げ挿入なのではないか?と推測したのであった。

今回は>>2の④に書いた、「10代あたりから16代あたりまでの記載が
やたら詳しいので(13代除く)、一連の流れにあると推定」という箇所について、
もうちょいツッコミを入れていきたいと思う。
実はこれ、単なる管理人の個人的な感覚からそのように推定しただけであり、
記紀の記述を真に受けた場合、ちっとも一連の流れにあるとは捉えにくいのである。
ではなぜ管理人の個人的な感覚はそのような結論に至ってしまったのであろうか。

7管理人:2012/03/10(土) 01:42:08
10代・崇神帝から、16代・仁徳帝までの系譜(記紀より)

①崇神(10):初めて国を治めた人だよ的な記載がある。
  勢力圏が畿内から一気に広がった? 都は磯城。
②垂仁(11):①の息子。都は磯城の一角である纏向。
③景行(12):②の息子。都は纏向。熊襲征伐のため九州へ長期遠征している。
④日本武尊:②の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):②の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。
⑥仲哀(14):④の息子。⑦の旦那。出てきたと思ったらすぐ死んだ。都は筑紫の香椎。
⑦神功:⑥の嫁。三韓征伐の後、筑紫で⑧を出産。畿内へ帰る際、
  ⑥の別腹の息子どもを倒している。本居宣長が出てくるまでは卑弥呼と考えられていた。
⑧応神(15):⑥と⑦の息子。都は軽島豊明宮(橿原市内?)。
⑨仁徳(16):⑧の息子。都は難波高津宮。
武内宿禰:上記③〜⑨に登場。特に⑦・⑧と深い繋がりが見える。

ここで注目すべきは、①〜③が纏向王朝のボスっぽいこと、④・⑤が作り話っぽいこと、
③と⑥・⑦が場所的に繋がっていること、⑧以降、纏向に住むのをやめたこと。
そのへんが気になりますな。

8管理人:2012/03/10(土) 02:14:57
>>7の時期を考えてみる。

①〜③は纏向遺跡の時期。纏向遺跡は3C初めに突然現れたらしく、
前方後円墳の始まりである箸墓(270頃)が最後のアレっぽい。ってことは200〜270頃の都か?

巻向と言えば、思い出すのはミカン狩りである。幼稚園時代の遠足の話である。
何でそんなもんを覚えているのかというと、
1.桜井線に乗って行ったと思われるが、マキムクという駅名が幼心に印象深かったという点。
2.ミカンの樹にでかい蛇が巻き付いており、おったまげた記憶があること。
  また、その様子がマキムクっぽかったと思った記憶があるという点。

随分昔の話だよなあ。そして>>7の記載が間違っておるではないか。
正しくは
④日本武尊:③の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):③の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。

④の熊襲征伐は③の分身なんじゃなかろうか。
古事記には④しかないが、書記には③も④も両方載っていて、なんか怪しい。

9管理人:2012/03/10(土) 02:29:37
>>7-8から単純に考えると、①〜③は3C前半と思われる。
そして、③の後半・⑥・⑦の前半は、3C中頃の九州の話。
⑦の後半〜⑧は3C後半の畿内の話で、⑨は4C前半だろうか?
⑨と履中(17)の間には忘れられた王が何人かいて、
応神・仁徳の事績の一部は(外交記事など)、本来そのへんの方々のものなのだと思われる。
神功の三韓征伐についても、忘れ去られた人々の時代ではなかろうか?
ちなみに百済史記の倭への朝貢が397?年、高句麗・広開土王碑における「新羅・百済は
もともと高句麗の属国だが、倭に属した」の記事は391?年。新羅史記の記載は全くアテにならん。

そうなってくると、次に問題になるのは魏志や晋書と記紀の絡みである。
また今度。

10管理人:2012/03/10(土) 14:06:53
〜前回までのあらすじ〜
創作メモのはずが古代史研究になってきつつあるが、
十年以上前に命名したサイト名に関係しなくもないトピックなので、
まあええかと思いつつ、今回は下記2点について話を進めたいのであった。

1.3Cに相当すると思われる記紀の該当部分の整理。前回間違えたから再掲。>>11
2.その「記紀の該当部分」が>>6で述べたように、一連の流れにあると捉えにくい原因。
3.記紀と魏書及び晋書との絡み。

余談だが、歴史教育における古代史の材料が考古学に偏りすぎているのが
管理人にとっては不満なのである。いわゆる狭義の史学的な箇所といえば、
奴国の王、卑弥呼、倭の五王などに限られ、これらは全て海外の記事である。
国産の史書に依拠するのは6Cくらいからで(継体、磐井の乱あたり)、
もうちょっと記紀をやってもいいんじゃないかとおもう。
結局、無意識裡には皇国史観と戦後民主主義史観の「あれかこれか」でしか語ることができないから、
こんな実りのない捉え方になっとるんだろうなあ、と思われる。

11管理人:2012/03/10(土) 14:13:12
10代崇神から、16代仁徳までの系譜(記紀より)

①崇神(10):初めて国を治めた人だよ的な記載がある。
  勢力圏が畿内から一気に広がった? 都は磯城。
②垂仁(11):①の息子。都は磯城の一角である纏向。
③景行(12):②の息子。都は纏向。熊襲征伐のため九州へ長期遠征している。
④日本武尊:③の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):③の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。
⑥仲哀(14):④の息子。⑦の旦那。出てきたと思ったらすぐ死んだ。都は筑紫の香椎。
⑦神功:⑥の嫁。三韓征伐の後、筑紫で⑧を出産。畿内へ帰る際、
  ⑥の別腹の息子どもを倒している。本居宣長が出てくるまでは卑弥呼と考えられていた?
⑧応神(15):⑥と⑦の息子。都は軽島豊明宮(橿原市内?)。
⑨仁徳(16):⑧の息子。都は難波高津宮。
武内宿禰:上記③〜⑨に登場。特に⑦・⑧と深い繋がりが見える。

前回間違えたので再掲。
この部分が管理人の言っている2C末から4C初頭の一連の流れだと思う。
ただ、ここには「一連の流れ」をぶった切っている箇所が存在する。
それがA.④ヤマトタケル、B.⑤成務、C.⑦神功の三韓征伐である。

12管理人:2012/03/10(土) 14:36:49
>>11における「C.⑦神功の三韓征伐」については>>9でもちょっと触れたから、手短に。
Cが3Cだと仮定すると、単純に時代が合わない。(百済も新羅も成立していない)
おそらくこれは後代の似たような事績を神功代の出来事にしただけなのではないかと思われる。
仮に「神功は3C」という前提が間違っていたとしても、三韓征伐の記事自体が胡散臭いので
(筑紫から出征、新羅叩きのめす、三韓を服属させる、冬の玄界灘を戻ってくる、
 応神出産、この流れを2〜3か月で済ませてしまっている)、やはりぶった切りを意図した記事では、と愚考する。

次にB.⑤成務について。これもいろいろ怪しい。
まず、記事に中身がない。加えて、③景行・⑥仲哀が九州で繋がっているにもかかわらず、
なぜか⑤成務は唐突にも滋賀に宮を構えている。したがって、これもぶった切りを意図した挿入と見る。

少し話は逸れるが、滋賀が出てくるところを考えると、
1.景行(12)- 成務(13)- 神功・応神(15)
2.天智(38)- 弘文(39)- 天武(40)・持統(41)
この流れが少し似ているような気がするのだが、どうだろうか。
つまり、天武のような劇的な政権交代を、神功もやったという予想。

13管理人:2012/03/10(土) 15:13:36
>>11におけるぶった切り記事のうち、BとCは>>12でやったので、最後にA.ヤマトタケルについて。
これについては、管理人も通説を支持する。以上!

というわけで、ABCのぶった切り箇所3点を除くと以下のような一連の流れが出来上がる。
<3C前半>
①崇神→②垂仁→③景行前半 ここまで纏向を拠点とした王権拡大期。
<3C中頃>
③景行後半→⑥仲哀→⑦神功前半 ここまで北九州を拠点とした遠征。
⑦神功中盤 神功東征に伴う仲哀の遺子との戦い? 天武のような王権乗っ取り?
<3C後半〜>
⑦神功後半→⑧応神→⑨仁徳 纏向王朝の終焉? これより安定期? 加えて空白期。

最後に、外国における3Cの倭関連記事について。<要出典!>だらけのwikiより。
<魏志>
238年:卑弥呼の遣魏使。240年:魏使派遣、倭王位の仮授。243年:女王の遣魏使。245年:遣魏使の難升米に軍旗下賜?
247年:この頃卑弥呼死去、内乱状態。遣魏使によるクナ国との戦いの報告。魏使張政派遣、檄文をもって台与を諭したとの記事?
?年:卑弥呼死後、男王が立ったが国内治まらず、台与が王に立てられ国が治まったとの記事。
<魏志および晋書>
266年:女王(台与?)の遣魏使、張政帰国?

14管理人:2012/03/10(土) 22:05:58
古代史おもしろすぎやろ。

〜前回までのあらすじ〜
>>11>>13

>>13で「記紀と考古学に基づいた一連の流れ」と「魏志・晋書」を並べて書いたわけだが、
まあ、察しのいい人には何が言いたいのか分かると思われる。今回は避けて通れぬ邪馬台国について。

まず、場所。
正直な話、何で畿内説と九州説で未だに決着がついていないのか、管理人にはさっぱり分からない。
魏志の記述を読む限り、どこでどう転べば畿内なるのか全く理解できないのである。
「南は東!」とか、ふざけた理屈だと思う。三十くらいの国名が出てくるが、みんな九州っぽいのに、
何で邪馬台国だけ畿内になるんだ? だとしたらもっとそれっぽい記述をするだろうが。
奈良出身の管理人がお国自慢的根性を捨ててまでそう言っているんだから、九州で間違いない。
そもそも「女王国から東の海の向こうには、同様の倭人の国が複数ある」と書いてあるではないか。
もし奈良出身で畿内説を推す歴史学者がいたとしたら、
お前には海のない県で生まれ育った誇りはないのか? と言ってやりたいところである。

15管理人:2012/03/10(土) 22:38:50
場所の次は人物比定。例によって、<要出典!>だらけのwikiから色んな説を取り上げてみる。

卑弥呼(170頃?〜247頃?)←意外に長生きだと思わんか?
wikiには7説ありました。
・神功皇后説 書記でもちょろっと触れている。江戸時代までは一般的な説であったらしい。
・熊襲の女酋説 本居宣長とかが言ってる。
 実は管理人も7割くらい支持。ただ「熊襲の女酋」という言い方は、本質的でないと思う。
・ミカヨリヒメ説 筑後風土記逸文に出てくる人らしい。よく知らん。
・倭姫命説 垂仁の嫁らしい。ってことは畿内説。
・倭迹迹日百襲媛命説 ヤマトトトヒモモソヒメという発音するだけで舌噛みそうな名前の主。
 近年の卑弥呼候補最有力らしい。理由は記紀に箸墓の被葬者とされているから。
 5代孝霊の娘で、崇神代の巫女。女王ってのとはちょっと違うような気もするが。
・ウナビヒメ説 これもよく知らん。ヒメノミコトとも呼ばれ、その音訳とする説があるとか。
・アマテラス説 これは分かりやすい。管理人も4割くらい支持。

「熊襲の女酋」という言い方は国学者の立場から発せられたものであって、本質的には
「九州の数十か国を邪馬台国が代表していて、そこの女王」という感じだと思う。だとすれば十割支持。
ちなみにアマテラス説を4割支持する理由は、卑弥呼とは「日の巫女」であり、
太陽神信仰とはまさに当時の北九州における信仰が起源だと思うからである。

16管理人:2012/03/10(土) 23:06:23
台与(235頃?〜没年不詳)←266年に遣晋使を出していると思われるので、没年はそれ以降か?
wikiには4説ありました。
・豊鍬入姫命説 崇神の娘。アマテラスを祀った初代斎宮らしく、>>15のヤマトトトヒモモソヒメ説と繋がっている。
・アマテラスその後に、説 岩戸隠れ前のアマテラスが卑弥呼、以後が台与とする説。
・万幡豊秋津師比売説 神話パートの登場人物。話すと長くなるので話さないが、ある程度反映されていると思う。
・天豊姫命説 >>15のウナビヒメと繋がっているらしい。

意外な感じがする。神功説もあるにはあるんだろうが、有力ではないということか?
そもそも卑弥呼はよく語られるのに、台与はいまひとつ話題に上らないのは何故なんだろう?

>>13を見たら予想できると思うが、管理人は神功説である。
台与は13歳で女王になったと魏志に記載がある。卑弥呼=神功とすると、言っちゃ悪いが、ばばあ過ぎる。
時代的に、台与=神功と見る方が、収まりがいいんじゃなかろうか。
卑弥呼の死後に国が乱れたというのは、九州陣営と纏向陣営との戦いであり、
仲哀の死によって神功の治世となるのは、これすなわち台与が女王となったってことではないのか?

>>13の<3C中頃>を書き換えると以下の通り。
⑦台与 台与陣営東征に伴う纏向王家残党との戦い? 天武のような王権乗っ取り?

17管理人:2012/03/10(土) 23:42:49
話が当初の目的である応神・仁徳からどんどん離れておる。今後、近づけていきます。
でももう少し、神功皇后について。

14代仲哀の嫁である。この仲哀という王、名前のとおり哀しいお方である。
出てきたと思ったら、いきなり死ぬのである。その死に方が凄まじい。
1.仲哀・神功・武内宿禰の3人で、神寄せの儀式。神が神功に憑き、神功(神)が仲哀に新羅を攻めろと言う。
2.仲哀が神の言葉を疑う。神功(神)は仲哀に「ならば死ねえ!」と言う。
3.死ぬ。
物騒な話である。ともあれ、これは尋常ではない記事と思われる。
この時、神功は仲哀の子を身ごもっており(応神)、上述の神が「天下を治めるのは腹の中の子だ」と言っている。

⑥仲哀が③景行と同一人なのか、景行が遠征に連れてきた世継ぎなのかは分からんが
(世継ぎを戦場へ連れてくるか? 前者っぽいが不明)、書記において景行は九州を制圧しているのである。
魏書の「卑弥呼の死後、男王が立った」というのも、景行or仲哀のことだろう。
>>16から神功は九州陣営の次期女王候補だったと思われるが、戦いに負けたから手をつけられたと推測される。
したがって、神功の腹にいるのは仲哀の子、または、周囲には仲哀の子と思われている子、だったと思われる。

ところが征服者は死んだ。(暗殺にしか見えないが。)負けても勝つ方法がある訳だ。
また今度。

18管理人:2012/03/11(日) 20:29:16
〜前回までのあらすじ〜>>14-17
1.東の方から敵が攻めてきた。
2.数年に及ぶ戦争の末、負けた。←このへんも書記に詳しく書かれていて面白い。
3.しかしその後、色々あって征服者が死んだので、とりあえず当初の予定通り神功が女王となった。

ここからが問題なんですよ。このあとどうなるかというと、
新羅遠征→応神出産(筑紫・宇美)→移動(穴門・豊浦)→この頃、仲哀の子であるカゴサカ王・オシクマ王の挙兵
→摂津でカゴサカ王死亡(イノシシに食い殺されたとか)→オシクマ王が待ち構えているので、応神を武内宿禰に預ける
→難波で進めず(敗戦?)→オシクマ王は宇治へ戻り立て直し→神功は日高へ(御坊らへん?)
→武内宿禰とタケフルクマが山城でオシクマ王と対決→武内側の勝利・オシクマ王は瀬田で死亡
ってな具合である。

何だかよく分からん。色々と疑問点があるので以下に列挙すると、
1.>>16のとおり、神功が九州陣営の女王だとしたら、なぜ敵地へ向かうのか?
  征服の好機と捉えたとしても、戦争後間もなく、疲弊しているはずである。
2.動機だけでなく、東征の過程も曖昧である。景行の九州遠征があんなに克明に描かれていたのに、
  神功東征は何だかぼやけている。行程もいまひとつ不明。
3.武内宿禰は何者か?

ひとつひとつ考えてみる作業。


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