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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

*web誌友会についての話題は、このスレッドでお願いします。

 このスレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会のために作成したスレッドです。

 上記に関連する話題なら、狭く解釈しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。


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*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。
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*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、
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 たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様に
 お願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
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このサイトについて

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管理人からのお願い

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*教団援護派、本流復活派、中間派、分裂肯定派など、どなたも歓迎します。また、相手の存在そのものを否定するような内容
 の反論はしないで下さい。
*議論が感情的になった場合は、管理人がストップをかけます。その時は、協力をお願いします。
*その他、ご不明の点は、管理人である「トキ」まだお尋ね下さい。

 原則として、身元がわかるような内容の自己紹介は避けたほうが無難です。

身元をかくすため、多少の作為(年齢を少しごまかす、住まいを変える)は、悪意がない限り、問題とはしません。

どの立場でも、(教団援護派、学ぶ会など)歓迎しますから、それは明らかにしても大丈夫です。

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それ以外で、問題となりうる投稿は、原則として、相談の上で、削除します。

 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

5614a hope:2015/07/12(日) 11:20:47 ID:cEpBaIdo

島津さま

web誌友会の司会ありがとうございます。
わたしは、戦争のお話にはどう反応していいのかわからないのですが、
しっかり拝見させていただきお勉強させていただいてますよ。

ところで、今日は榎本恵吾先生の帰幽された日なのですね。

大熊先生がブログで恵吾先生の素晴らしいご文章を紹介されています。

「訊け」さまへのエールとともにですよ!!

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

5615島津綾久:2015/07/12(日) 17:26:48 ID:???
>>5614

キャー、私、大熊先生から褒められちゃった。「あのブログを呼び捨てブログの言う方があるが」とのくだり、あの辺が大熊先生は流石だと思います。信徒ではナイ、しかも、シューキョー大嫌いな私なんですが、そんな私すらもメロメロにしてしまう偉大な人物・・・・・・それが、雅春先生です。「谷口雅春に訊け」ですが、偉大な人物を顕彰する意味を込めているのであり、その辺を大熊先生は、理解下さったておられるのであり、嬉しいですね。

5616a hope:2015/07/20(月) 16:39:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p106 



わたしはこの霊媒の言ったとおりの善人であったのである。

貧乏になる稽古ばかりしていて、自分が貧乏しているから人をたすける力もなし、自分も苦しみ、養父母をも苦しめ、妻をも子をも苦しめたのであった。

自分こそこれ善中の悪であったのである。

わたしは現在のような奉仕生活――誰かが経済的に犠牲になったり、そのために家庭が不和になったりするような奉仕生活がまちがいであるということに気ついた。

後年わたしが発行した『生長の家』という雑誌が中心になって一つの信仰団体が組織されるようになったとき、他の宗教団体のように信者の労力を奉仕と称して無償では使わず、信者の財産を献金と称して資本主義の最高形態たる株式会社組織ににし、献金を聖典出版費に対する出資として取り扱い、出費に対しては半期ごとに配当を支払い、献労者を社員とし、各支部の献労者に聖典頒布の手数料を支払うことにしたのは、在来の宗教に見るような本部が信者から奉仕や献金を受けとることをあたりまえのことのように思うまちがいをなくすためであった。

そして狂信者が財産を本山へ献金したり、無料で働いたりするがために狂信者の家庭の内部に反対が起こって、宗教がかえって家庭に風波(ふうは)を起こすことがある弊害を防がんがためであつたのである。

これらは皆わたしの生活体験から在来の宗教に見出される欠点を修正したものである。

宗教が株式会社だと言えば、ただそれだけで本山の営利を目的とした不純な作為があるように考える人があるかもしれないが、「生長の家」を仮に宗教と認めても、「生長の家」そのものが株式会社なのではないのである。

「生長の家」はわたしの創(はじ)めた教えであって無形の道なのである。

その無形の教えを文字に顕わした聖典を出版販売する会社が株式会社なのである。

それは仏教は宗教であって決して株式会社ではないが、大蔵経の出版は株式会社なのがたくさんあるようなものである。

しかも生長の家ではその出版会社の株主は信者自身であって、信者の献金は増殖されてかえって信者に還る組織になっているから、信者はその宗教によることによって本山から財産を搾られることなく、かえってその宗教によることによって聖典頒布の収入を受けるのである。

むろん、わたしも損をしない、わたしは聖典の著者として印税を受ける。

これはわたしの精神労働に対する報酬であって、信者から受ける献金ではない。(もっとも現在はわたしの印税全部が社会事業団へ寄付されている)

生長の家の主張する生活は誰かが犠牲になって、損をして、他を生かす生活ではない。

誰も損をせぬ、誰も犠牲にならぬ、共存共栄の生活こそ正しい生活なのである。

聖典の筆者も、頒布者も利益し、それを購読する読者も決して損をせずわずかの書籍代を支払うだけで毎月支払う数十円、数百円の医薬費治療費が不要になった実例数を知らないのである。

ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。

5617a hope:2015/07/20(月) 16:41:47 ID:cEpBaIdo

>>5616 a hope 所感)

<<しかも生長の家ではその出版会社の株主は信者自身であって、信者の献金は増殖されてかえって信者に還る組織になっているから、信者はその宗教によることによって本山から財産を搾られることなく、かえってその宗教によることによって聖典頒布の収入を受けるのである。>>


昔の「生長の家」の信者は、聖典頒布の収入を受けていたのですね!
聖典の著作権を巡って裁判している現在の「生長の家」とはずいぶんと様子が違いますね💦

雅春先生は、

<<生長の家の主張する生活は誰かが犠牲になって、損をして、他を生かす生活ではない。
誰も損をせぬ、誰も犠牲にならぬ、共存共栄の生活こそ正しい生活なのである。>>
<<ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。>>

と断言されています。


現「生長の家」総裁雅宣先生、そして本部職員のみなさまには、信徒に経済的な負担がかからないような本来の「生長の家」らしい運営を心がけて欲しいですね。

5618神の子さん:2015/07/20(月) 17:32:19 ID:kEnG6jMo
<<ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。>>
と断言されています。

現「生長の家」総裁雅宣先生、そして本部職員のみなさまには、信徒に経済的な負担がかからないような本来の「生長の家」らしい運営を心がけて欲しいですね。
*****************************************************************************************************************************************************
その舌の乾かぬうちに、教団が大きくなると懐が大変になりました、『聖使命会』の制度を造りました、どうぞ愛行してください、と云う事で今のような

聖使命なんて関係ない人の分まで受け付けて、欲かき信徒の欲望を利用して教化部長さん職員の給料がアップしたのです。その恩恵に与かっているのでしょう、

トキさんトンチンカンさんなどは。現実と会わない文章は変えておくべきですね、こんなところが聖典?株主になるだけの資本金のある人の話を一般信徒の話に
しないでください。

あなたのように一切負担しない人は言う必要ないですよ、気持ちよく出している人も幾らでもいるのですから。

5619トキ:2015/07/21(火) 12:32:04 ID:4UjCzrVw
>>5618

神の子さん 様

 聖使命会員制度は、人類光明化運動のパテントは職人に譲られた、ということで以前にも書いたことがあります。

 私が聞いている範囲では、谷口雅春先生が組織指導をされていた時代は、信徒に負担をかけたくない、という
ことで、献金なども最低限にされていたみたいです。特に初期は、教団の財政的な基本があまりできておらず、
かなり財政状況も苦しかったみたいです。そのため、職員の待遇はよくなかったとも聞いています。以前、書いた
栗原先生の件も、古い講師に尋ねると、経済的な背景があったみたいです。

 信徒数が増加して、今までのやり方では通用しない、ということで、聖使命会員制度ができたのはご存知の
とおりです。その後、谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員
を増やす弊害が生まれた次第です。

 問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあった
と感じております。

5620トキさんへ:2015/07/21(火) 17:45:43 ID:kEnG6jMo
谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。
問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあったと感じております。
***********************************************************************************************************************
【谷口雅春先生が組織指導を外れられた】というのは昭和何年の事であり、どのような組織改編がなされ、組織を動かす第一人者は誰になったのですか?
【組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。】これは何年ごろからの話ですか?

返事をもらってから感想を書きたいと思います

5621神の子さん:2015/07/21(火) 18:41:20 ID:kEnG6jMo
日本中のすべての人に伝道し此の教えを実行てもらいたい、との希望を持っていた雅春先生が

【ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。】と云いながら
【信徒数が増加して、今までのやり方では通用しない、ということで、聖使命会員制度ができた】

と云う事はたかだか100万(全国大会に出るような少々熱のある会員で言えば4,5万)そこいらの会員で組織が動かなくなることを見越せなかったということになりませんか?
その結果、本からのみの原理主義者のようなa hopeさんのような方が【と断言されています。】との感想を述べるのでしょう。

そんな未来を見通す力のない方が大東亜戦争を聖戦と云い応援したが、東京大空襲により東京が焼け野原になる事も見通せず10万人もの犠牲種が出て、戦災孤児が多く出た
ことへの懺悔から、神の国寮の運営をはじめ運営主体の生長の家社会事業団に恒久的財源として生命の実相の著作権を譲ったものでしょう。

それをまた戦いの道を歩もうとはさてさて

5622トキ:2015/07/22(水) 15:36:18 ID:ToK4dAe2
 ロシアの作家が、「直線を引くのは、2つの点があれば十分だ」という言葉を書いています。
では、2つの点を示しましょう。

 戦前、谷口雅春先生が直接、ご指導をされていた時代、組織はお金はあまりなかった(職員
さんが内職をしていたとも聞いています)が、組織内の空気は生き生きしており、自由で闊達
な雰囲気に満ちていたと言います。これは戦前の事情を経験された複数の信徒さんの証言で
一致しております。

 私が生長の家高校生連盟で活動をしていた頃は、そういう雰囲気は薄らいでいました。
当初は、そうは言っても、まだ谷口雅春先生の直弟子の方々がご存命でしたから、宗教
的な雰囲気は強かったですが、そういう方々が他界されるにつれ、官僚的、形式的な
雰囲気が強まっていました。

 これらは、ある日、突然、そうなったのではなくて、組織の肥大化にともない、徐々に
そうなったと理解するのが普通でしょう。

 なお、お願いですが、常連投稿者様は、HNのご使用をお願いします。

5623誰か教えて:2015/07/22(水) 18:07:10 ID:kEnG6jMo
谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。
問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあったと感じております。

とのあなたの意見に対し

【谷口雅春先生が組織指導を外れられた】というのは昭和何年の事であり、どのような組織改編がなされ、組織を動かす第一人者は誰になったのですか?
【組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。】これは何年ごろからの話ですか?

とお聞きしたのですが

戦前、谷口雅春先生が直接、ご指導をされていた時代、組織はお金はあまりなかった・・・・・
これらは、ある日、突然、そうなったのではなくて、組織の肥大化にともない、徐々にそうなったと理解するのが普通でしょう。

が答えですか、戦前の話でなく聖使命会員制度の関係の話をしていることへのあなたの意見なんです。あなたの意見を読むと私には質問したような疑問が出た
のです。53年に九州に行かれる前に組織指導を外れられたというからそれはいつの事か、と聞いたのです。先生は聖使命会員の数又誌友の数(一括購入されている
発行部数)でもって生長の家の教勢を判断されていたと思われるのですが。【組織の肥大化にともない、徐々にそうなったと理解するのが普通】とのことですが
それが雅春先生が総裁の実務を取っていた昭和50年以前なのか以後の清超先生の時かは大事な観点だと思います。

「しかし、「ご利益を得るために献金する」というのでは、本当の愛の行いではありません。生長の家では、聖使命会員の方々を「聖使命菩薩」と呼びたたえていま
す。聖使命菩薩とは「自分が救われるより先に、他の人々を救ってあげたい」という愛他に励む尊い生き方を実践する方々のことです。こうした清い心の方々が
聖使命会員なのです。」と今でも意義について説かれています。
そして「聖使命会に入会されるときには、あなたご自身で氏名を書かれた「誠魂録」を提出して頂きます。」これらに反し身内知り合いはたまた生まれる前の赤子
まで会員として扱うことはいつごろから始まったのでしょうか?私は雅春先生の時代にすでに始まっていたと考えます。

あなたの言う直弟子の方々が組織の中心者であった時代にすでに始まっていたと思いますがいかがですか?これは雅春先生を聖人君子として扱うのか組織運営に
於いては宗教的真理のようにはいかなかったかということが問題になります。総裁の名代として強化部長はいるものと思うのですが、神誌一冊2円のバックに目の
眩んだ人もいたでしょうかと。50年に30歳の人で今70歳ですね。本流の指導者、教団に残りながらもぐずぐすいぅ人たちは清超先生の代に組織を動かしていた人で
しょう。

トキさんのように雅春先生の代にさえ組織運営に問題があったということてせすと、勿論清超先生の目を盗んで組織を動かしていた人間もいたと云う事になります。
私にはそんな方々が本流復活を言うのが解せないです。あなた方が求めるものはいつの時代のものですか?と聞きたいですね。

そんなことに関係して組織指導引退は何時かと聞いているのです。

5624トキ:2015/07/22(水) 19:37:30 ID:O8a8dKlY
 上の曳馬野さんの質問は、「組織」板で書きましたので、よろしくお願いします。

 お金の問題は難しいです。運動をする以上はお金は必要です。ただ、それが信徒
の浄財である、という意識がないと、費用の濫費に走る危険性もあります。ただ、
他人事ではなく、自分もそうならないとは限らない、ということを考えるのも
大事です。自らを省みることも大事です。

5625誰か教えて:2015/07/22(水) 20:42:24 ID:kEnG6jMo
>>5618 の私の文はその前のa hopeさんの投稿が一面観の意見と思えたことに対するものです。
誰の文章かが問題でなく内容が問題です。教団批判を事実に合わない聖典理解からのものと感じたから、反論したものです。
昔の高校生夏季錬成には日教組さながらの意見を言う生徒がいたものです。それに対しても話し合いがされたのです。
青年誌友会であってもいろんな意見がありました。講習会、講演会で拍手する人がいますが私は不思議なんですよ。
そうそうそうなんだよね、って感じで賛意を表現する、総裁の講師の話に自分が評価を与えるなんて馬鹿も休み休みにしてくれと云いたい。
私の意見が変であれば反論すればよいのであって、誌友会の目的は仲間のダベリングの場ではないでしょう。
トキさんが雅春先生の時代は素晴らしかったが組織を退いてから変になった式の論を展開するから、それに対しての意見を書いたのです。
トキさんは何時先生が組織から退いたかは論議する必要が無いという、であるならば雅春先生の時代は良かったが以後変になったというようなことは
言わなければよいのです。私には雅春先生の時代から清超先生の代に渡り、組織に係った人間が本流復活なりトキさんように組織にいるなりして、
あの時は良かったというその事が不思議なんです。あなた方が動かしていた組織でしょうに。
それが本当に真理に適った運動で素晴らしいものであったのならば、なぜ清超先生は雅宣総裁を副総裁にしたのでしょうか?
皆さん雅宣総裁がおかしいという人間だけですよね、こういった掲示板で生長の家の恥さらしをしている人は。
組織で好き勝手できた時代が懐かしいと云う事ですか?本流復活とは。またトキさんの願う生長の家の在り方とは。

これは質問ではありません、a hope さんと同じで言いたいことを書いているだけです。

5626誰か教えて:2015/07/22(水) 21:32:35 ID:kEnG6jMo

自然界との調和を言うと、自然界は現象ですよねと云ってa hopeさんは総裁を批判するけれども、こと人間だけは今生きている自分を中心に考えてものを言う。
波と水は一体です、水を離れた波なんてないし風が吹くという因縁があれば水は波立つのです。

絶対界と云う大実在があればこその万物の存在があるのです。万物の調和の中には自然界もあるのは当然です。その自然界を人間(体験上の想いの塊であって真の
人間ではない)の欲望のままにする、それへの警鐘なんです。その運動がなぜ変なのですか?万教帰一が当たり前であるように、万法は一つに帰一するのです。
絶対なるものに。

その世界に入ることが神想観の目的ではないですか?神想観する人間が自然界は現象でしょうということが解らない。
人間同士の調和はもちろんですが自然との調和も同じく必要なことです。

5627a hope:2015/07/23(木) 09:05:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p128 後から5行目〜

ホルムズの思考に従えば神はいっさいの「造り主」であるが、神は決して勝手気儘にわれらに不幸を造っているのではないのである。

われらの思考するところにものを病気であろうと、貧乏であろうと、逆境であろうと、順境であろうと、幸福であろうと、われらの思考を鋳型として無差別平等に神はわれらに造り与えてくれるというのである。

そこに人間の自由と、神の当体の無相にして応現の自在なることが確保されているのであった。

それは仏教的思想に癒合したキリスト教思想であって、キリスト教的「造り主」をありとしながら仏教の「無明縁起」と一致しているのであった。

「造り主」の思想と、「無明縁起」は一致し難いものとして、ひとたび造り主を否定してしまったわたしは、ここに再び創造主を発見したのであった。

5628a hope:2015/07/23(木) 09:07:00 ID:cEpBaIdo

>>5627 a hope 所感)

<<それは仏教的思想に癒合したキリスト教思想であって、キリスト教的「造り主」をありとしながら仏教の「無明縁起」と一致しているのであった。>>

雅春先生は、ホルムズの著書『心の創造活動の法則』に出会う事で、それまで感じていたキリスト教と仏教の教えの矛盾を解消されます。

『「真の悟り」とは命がけで真剣に求める者だけが得られるもの』なのかもしれませんね。

5629a hope:2015/07/27(月) 00:01:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p129 5行目〜

しかし、わたしがいったん創造主を否定し去った後にホルムズの哲学がこうていしてくれたこの神なるものは、まだ現在の生長の家が説いているような実相の神ではなかった。
それは現象界を造り出してくれるところの現象界の創造者であった。

5630a hope:2015/07/27(月) 00:03:02 ID:cEpBaIdo

>>5629 a hope所感)

時々、生長の家の信徒の方々が「教義」について議論されているとき、
『あなたは現象と実相をまぜこぜにしている』みたいなことを言って相手に反論される方がいます。

ここで紹介されているホルムズの思考する「神」は現象世界を創造する神だそうです。

「実相世界」を信じる生長の家の信徒であっても、このホルムズのように『現象界をも「神」が創造しているのだ』と考えてしまうと、
「実相」と「現象」がごちゃ混ぜになってしまうのだと思います。

「現象はない」のですから、「神」が現象界を創造するわけがありませんよね。

5631神の子さん:2015/07/29(水) 06:51:53 ID:kEnG6jMo
【「現象はない」のですから、「神」が現象界を創造するわけがありませんよね。】に関して


私たちの住む世界は常に一つであります。現実は一つしかなく、二つ同時にあるということはありません。二つあるのは現実を離れて空想している時であります。・・・・

現実は常に一つであるということは、右と左と同時に進むことはできない、右でなければ左であり、左でなければ右であります。

その一つだけの現実を絶対というのであります。その一つを最も善であると観る生活が極楽なのであります。  藤原先生


というのが生長の家のようですが、現象と実相と云う観念の世界に生きているのではありませんか?

司会者が現実対応に忙しそうですので一言申し上げます。

5632a hope:2015/07/29(水) 09:55:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第20巻 p132〜



万事は好都合にいったが、家族の健康だけは移転以来、かえって悪くなった。

恵美子が麻疹をする、麻疹が内攻して肺炎になったと宣告される、わたしの健康も悪くなって死ぬような予感がする、折ふし、保険会社勧誘員が来たので保険に加入しようと思うと、審査医が来て診察して見た結果不健康だからだめだと言う。

妻も瀕死の大腸カタルを患う。

どうしてこんな不健康が続くのか自分でも判断がつかなかった。


わたしは毎日、わたしの家庭に不幸や病気が絶えない理由について思索を続けていた。

三界は唯心の所現である。

そのことまではわかっていたから、家族たちの病気が心のあらわれであるということは明かであった。

しかし心をいかにすれば自由になしうるかがまだわからなかったのである。

心配すればその心配が形にあらわれて病気になる、それは解る。

しかし、家族が病気になっているのを心配しないでいることはむずかしいのである。

腹を立てればその乱れたる精神波動が形の世界にあらわれて自分の身体(からだ)が虚弱となり、家族に病気が起こる、それは解る。

しかし、会社などにつとめて、上役から無理な命令を圧倒的に受けたとき、それに対して憤りの念を起こさないことはむずかしいのである。

心が一切現象の源であると知るとき、その心が思うように支配されたならばなんでもないが、その心が思うように支配されない時には、心そのものがかえって恐怖の原因となるのである。

悪を思うまいと思えば思うほどかえって悪を思い、心配すまいと思えば思うほど心配し、怒るまいと思えば思うほど腹立たしくなってくる心はこれはいかにしたらよいであろうか。

心が悍馬(かんば)よりも扱いにくいものであるならば、その心の扱い方によって人が幸福にも不幸にもなるものとするならば、悍馬を乗りこなすのはよほどの名人でなければならないから、人生を幸福に無病に乗りこなす人も、また数少ないと言わなければならないのである。

わたしはそのころはまだ心の悍馬を乗りこなす名人ではなかった。

子供が重病だといって会社へ電話がかかると顔色が真っ青になって、会社を早引きしての帰るさ、電車の中でブルブルと戦(ふる)えている方の人であった。


心と仏と衆生とこの三つが無差別(むしゃべつ)であって、一心転じて仏ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなるならば、結局仏とは常住のものでなくて一つの捉えどころのない現象だと言わなければならないのである。

常住のものではない捉えどころのないところの、仏かと捉えてみれば鬼になったり地獄であったりするような心が神であるならば、わたしたちは何に頼っていいのかがわからないのであった。

ホルムズの説くように、神は当体は無相であって、われわれの念に従って仏とも現われ、鬼とも現われ、応現自在のもので、本来常住の相(すがた)がなんにもないならばこれもまた頼りにならないものではないだろうか。

わたしは思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地には達しなかった。

(つづく)

5633a hope:2015/07/29(水) 09:57:04 ID:cEpBaIdo

>>5632 a hope所感)

この時点で、雅春先生は、「生長の家の教え」でいう横の真理(心の法則)、仏教でいう「三界唯心所現」はお悟りになっておられますが、
その「心」を制御するすべが見つからず苦しまれています。

そして、この後、いよいよ雅春先生が「唯神実相」を大悟されますが、本当にここのところのご文章は圧巻です。

つづけて謹写していきます。

5634トキ:2015/07/29(水) 22:23:36 ID:Ezw2G2vY
>>5632

 少し余談ですが。

 谷口雅春先生が、外資系の会社にご在籍中、生命保険の加入を断られた
事について、藤原敏之先生が、「それは、そうでしょうなあ。」と冗談を
言われていたのを聞いた事があります。ちなみに、藤原先生は、日本生命
の管理職を定年までされていた方です。それぐらい、当時の谷口雅春先生
のお身体は弱かったのでしょう。

5635a hope:2015/07/31(金) 21:44:16 ID:cEpBaIdo

(>>5632 つづき)

「生命の實相」第20巻 p134 6行目〜


ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。

わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。

と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

「物質はない!」とその声は言った。

で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。

と、突然その大濤のような声が答えた。

「無よりいっさいを生ず。
一切現象は念の所現もして本来無。
本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。
有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。
有に執せざれれば自由自在だ。
供給無限、五つのパンを五千人にわかつてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。
現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。
かしこに転現するとみゆれどもかしこに無し。
ここに転現すると見ゆれどもここに無し。
知れ、一切現象無し。
なんじの肉体も無し。」

では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。

今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。

ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。

「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。

「無のスガタが実相であるか。皆空が実相であるか。」とわたしは尋ねた。

「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である!」

「空と無は異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。
空と無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた『五蘊は無いではない』と引っかかるのだ。
『五蘊は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」

「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。

「実相とは神である。あるものはただ神のみである。
神の心の顕現のみである。これが実相だ」

ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。

「心も無いのが本当ではないか。」

「無い心は受想行識の心だけだ。
そういう意味でなら仏もない、衆生もない。
心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。
衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさい抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」

「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。
イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!
今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。
今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」


わたしの眼の前に輝く日の出のような光が燦爛と満ち漲った。
何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。
しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。
わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

5636a hope:2015/07/31(金) 21:49:37 ID:cEpBaIdo
>>5635 つづき)

それ以来、心、仏、衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにはハッキリわかった。

迷う心も無いから、悟って仏になる心もない。

迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのがまちがいであったのである。

ただの初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。

その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。

浄飯王の王宮を出て、伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏になったという現象の釈迦牟尼仏は本来無かったのである。

『法華経』の中で、釈迦自身が、

「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫である」と言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。

その久遠の仏が今ここに生きているのだ!十字架上に磔けられて、「神よ、神よ、なんぞ我を捨て給うや」と哀号したイエスは本来無かったのだ。

永遠の神性――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。

自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。

そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。

ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始から仏であった自分であったのだ。

わたしはその心境を次のように歌った――

――――――――――
ある日、わたしは心の窓を開いて、

大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

ああ!声のない奏楽、声を超えた合唱

けれどもわたしはその声を聞いていた。

宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。

わたしの 魂 は虚空に透き通って真理そのものと一つになった。

なんと美しい旋律だろう。

「これが真理そのものか!」とわたしは恍然として嘆声を漏らした時、

「お前は実在そのものだ!」

わたしはこう言って天使たちがわたしを讃える声を聞いた。
――――――――――


わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。

三界唯心の所現である、この心も、また現ずるところの現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。

それ以来、わたしの見る景色が変貌した。

すべての存在が物質でない、何か後光のような燿光(ようこう)を発するエーテルの波のような存在に見えるのだった。

わたしは朝湯がことに好きであったが、秋の遅い太陽は、わたしが朝湯をあがっての帰り道、向こうの樹間(このま)からさしのぼることが多かった。

――――――――――
早晨(そうしん)

日光が樹間からさしのぼる、

生命そのもののような光だ。

うれしい!

自分が一個の生命であることが

うれしい!
――――――――

というような心境であった。

わたしの住む世界が、景色が変貌した。

5637a hope:2015/07/31(金) 21:59:11 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

毎日暑いですね💦

でも、この異常な暑さも現象にすぎません。

神想観をして、聖典を拝読すれば、実相世界の素晴らしさに心が震えて、
わたしは、今、ここに生きていられること、家族と一緒にいられること、
大好きな仕事ができること・・・すべてのことに感謝の気持ちでいっぱいになります。

「生長の家」の教えに出会えて本当によかった!


ところで、今日で7月が終わりなんですが、今回の第35回web誌友会の司会は「島津」さまにお願いしています。

島津さま、どうしましょうか?

20巻のお勉強を終了してもいいでしょうか?

5639a hope:2015/08/02(日) 22:50:07 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 

期間   8月2日〜8月31日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

8月に入りましたので第36回 web誌友会を開会させていただきます。

もうすぐお盆ですね。
今月は、先祖供養のためにもこの第21巻の『甘露の法雨』講義を心をこめて学ばせていただきたいと思います。

それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。

5640a hope:2015/08/02(日) 22:51:11 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5641a hope:2015/08/02(日) 22:52:16 ID:cEpBaIdo

はしがき


『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。

後より見るとこの聖経は期せずして、『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。

それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次世界大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功をたてたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら無事だった実例のごときは数限りもないのである。

この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病気悩苦をさるばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、神仏礼拝の際にその祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。

しかし読んで意味が分からないようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿においてその大要を講義したものを次に掲げることにした。

主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。

『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、この講義を読むだけで生命の実相の大要が摑めることと思う。

第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧としたのである。

昭和三十九年一月十日

著者しるす

5642a hope:2015/08/02(日) 22:53:28 ID:cEpBaIdo

【神示】


「神の子」なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。

現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは「神の子」なる人間の実相(因子〈たね〉)が現象世界に投映する時、時間的空間的に展開するのに、おのずから一定の順序を追うて展開して行くようにだいたい定められているのを言う。

それはたとえば朝顔の種子(たね)の中にはすでに「花」の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象世界に「花」となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遇い、芽を出し、蔓を生じ、ついには花を開くというように、だいたい一定の順序を追うて展開するがごときである。

かくのごとく、神の子なる実相人間も、その投影を現象界に完成するにはだいたい一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遇うがごとく、あるいは幸福に恵まれ、あるいは虐運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。

しかし、その投影が完成するには、その投影は「念波の集積」で成り立っているのであるし、人間は心の自由をもち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷いによって念波を汚すこともできるのであるから、現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることもできるのである。

霊魂進化の過程を短縮するのは念の浄化による。

念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉われざることが第二である。

物質欲に捉われざるためには「物質本来無し」の真理を悟るのが第一である。

「物質本来無し」の真理を悟る程度に達せざる者には、物質の快に捉われさるための修行としてみずから進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めてかえって苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われさるに到るかの二途しかない。

前者はみずから進んで嘗(な)める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。

その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起こる擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。

苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのもこのいろいろの理由によるのである。

(昭和八年九月十五日神示)

5643トキ:2015/08/03(月) 14:53:26 ID:QRDw9Vfo
 暑いですが、元気で誌友会に参加したいです。
皆様もぜひ、ご一緒に真理を勉強しましょう。

5644a hope:2015/08/07(金) 23:49:12 ID:cEpBaIdo

トキさま、みなさまこんばんは

暑さのせいもありますが、子供たちが夏休みに入って生活や仕事が忙しくなったということもあり、
一日が終わるころにはぐったりとしてしまい、聖典を勉強する余裕がありませんでした(;´∀`)

ですが、大好きな聖典ですからお勉強を止めるつもりはありません。
マイペースでこのweb誌友会も続けていかせていただきますね。


ところで、第一章の初めは、聖経「甘露の法雨」の「神」の項目の解説です。

仏教やキリスト教の考え方を例えにあげて、
万教帰一的に「生長の家」が「神」をとられていることが説明されています。

久しぶりに聖典を拝読しましたが、やっぱり「生長の家」の教えは素晴らしい・・・(*´▽`*)

5645フニュ(´・ω・`):2015/08/09(日) 13:15:32 ID:wLZgPbag
>>雅宣先生は、頭では「生長の家」の真理はかなり理解されているのではないかと思います。

>>ですが、肝腎な「唯神実相」をお悟りになっていないので「現象なし」が徹底されていないのです。


総裁だけではないですよね。これがぁ、これがいっちゃん難しいのですね。

頭では理解できるんですね。雅春先生はわかりやすく書いてくださってますから。実相独在。

良いことがあったり、また人に親切にされたりしたら、勝手嬉しい感情が湧いてくるのと同じで

嫌な出来事や(病気とか、その他いろいろ)があったら勝手に苦しい感情がでてくるし。

実相独在を頭での理解だけだったら、その時の感情の制御は難しいです。うまくいえません。

5646a hope:2015/08/09(日) 19:29:30 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p39 4行目〜

この現象界にいるように見えているのは、実は実相浄土にいながら現象界を念の作用にて仮作※1しているのである。

ここに即身成仏※2がある。

だからわれわれは南無阿弥陀仏と称えたとき、すでに成仏している自分を見出すのです。

その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。

そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。

そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。

これですでに実相では成仏している自分が、現世または霊界において極楽浄土を展開したりしなかったりする原理や、本来去来することなく、来生し往生するように現れる理由もおわかりになったでありましょう。

法顕(ほっけん)という人の訳の『無量寿荘厳経』にはこう書いてあります。

「かの仏如来は来って来る所なく去って去る所なし生なく滅なく過現未来にあらず」これは阿弥陀如来ですが、それと同じくわれわれも「来って来る所なく去って去る所なし過去・現在・未来にあらず」過去現在未来を打ち貫いて、そうして今、このまますでに自分が仏であるということを自覚せしめるのがこの生長の家であります。

(頭注より)
※1・・・本来無いのに仮に作り成す。
※2・・・その身そのまま仏となる。

5647a hope:2015/08/09(日) 19:33:39 ID:cEpBaIdo

>>5646 a hope所感)

<<その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。
そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。>>

これは>>5645のフニュ(´・ω・`)さま(るん吉さま?)の

>>実相独在を頭での理解だけだったら、その時の感情の制御は難しいです。

というご発言にも通じることだと思いますが、
ようするに、頭で実相世界のことや「現象なし」をわかっていても、実相をまことに悟らなければ現世には天国は出現しないというわけですね。


そして、

<<そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。>>

その肉体が死するときに、実相を悟っていれば、霊界においても極楽浄土は出現するし、悟っていなければ現世と同じような悩みや苦しみが続くというわけですね。


フニュさまがおっしゃる通り、「実相をまことに悟る」てそう簡単なことではないとわたしも思います(;´∀`)

でも、わたしたち「生長の家」の信徒には聖典「生命の實相」という道しるべがあるのですから、本当に幸せだと思います。

わたしは一生「生命の實相」を拝読しつづけ、実相悟ってから極楽成仏したいです。

だって、死んで霊界に行った後も煩悩に苦しみ続けるなんてまっぴらですからね(-_-;)

これからも聖典のお勉強、がんばろうっと・・・!(^^)!

5648フニュ(´・ω・`):2015/08/09(日) 22:09:08 ID:wLZgPbag
a hopeさま。
レスありがとうございます。 いつもご苦労様です。

えっと、はい、るん吉です。(#^.^#)バレテ 嬉し、恥ずかし・・

実相を悟れたら良いけど、その「実相を如実に悟る。要するに絶対境地?」に中々到達出来ない仕組みにでもなってるのか?

と思わせられる位、本当の己を悟るのはあまりにも難しすぎやしませんか?←これ本音。

しかし、こう考えたり、悩んでる我も無いのですよね。・・・頭では解る・・

生命の実相、読も!(*´ω`*)

5649a hope:2015/08/13(木) 09:59:06 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p43 9行目〜

「霊」とここにあるのは「霊魂」のことであります。

霊魂という場合は普遍的霊ということではなく、なんらかの体を備えた個別霊のことであります。

仏教は「無我」の教えでありますから、「霊魂」というものを第一義締としては認めないのであります。

生長の家でも、先刻説明したように、第一義締としては迷う「我」も極楽へ行く「我」もないというのでありますけれども、現世、霊界等のスクリーンに投影された念像が、ちょうど活動写真の銀幕(スクリーン)上に躍(おど)っている人物のように、個別の姿をあらわして見えるのが、現世の銀幕(スクリーン)においては肉体であり、霊界の銀幕(スクリーン)においては霊体であります。

この霊体を現している仮我を、霊魂というのであります。

霊魂という実体が実在するのではない、その正体は念の波によって、そこに実在するかのごとくあらわれている活動写真のごとき映像であります。

5650a hope:2015/08/13(木) 10:00:33 ID:cEpBaIdo

>>5649 a hope所感)

『生長の家の教えは「物質なし」の「唯神実相」なのに、なぜ、本来無い「霊魂(個別霊)」を供養するのか?』

それは聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」の信徒になった後、
「生長の家」が先祖供養を大切にしているという事実を知ったときに感じた疑問でした。

おそらく、雅宣先生も同じようなお考えをお持ちなのではないかと感じています。


霊界は現象界と同様、本来無い世界だけれども、肉体をもって生きているわたしたちには「現象界」はどうしても存在しているように感じてしまうように、
霊体となった霊魂にも「霊界」は存在しているように感じているのだと思います。

ですから、現象界で生きている間は、両親や兄弟、友人等の現象の姿を「神の子」として感謝してお祈りさせていただくのと同じように、
ご先祖ざまや生前ご縁があって亡くなった方々の霊魂に対しても感謝し供養するのは当たり前の事なんだと、今は思えるようになりました。

5651a hope:2015/08/14(金) 09:19:17 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p47 1行目〜
 
霊魂が病気をしたり、霊体が病気をしたりするのは変なことのように考えられますが、霊魂が病念を持つようになるのは、肉体的顕現から、霊体的顕現に移る場合、活動写真に喩えると、一つの銀幕(スクリーン)への映写を終わって、他の銀幕への映写に移る場合、
映写と映写との間に何も映らない「間」が生ずる。

この「間」がすなわち個性意識の中断であります。

活動写真に「間」があり、個性意識の中断がありましても、その人の業(映画において、印象の蓄積たるフィルムの絵)に変化のない限りは、再び意識が回復し、再び映画が始まりますと、その霊魂の意識には(界を変えての映画には)同様の病念が浮かぶのであります。

この病念が客観化して、霊魂自身には病気になっているかのような状態を呈する。

われわれから考えますと、もう霊魂になったらば肉体は無いのであるから、病気に罹りようがないと思えるのであります。

われわれから見たならば、体の無い霊魂が体の病気に罹っている。

胃病も心臓も皆焼いて灰にしてしまったのに、その霊魂が胃病にかかっているという実に滑稽なのでありますが、当事者たる霊魂にとっては、決して滑稽ではない、実に病気ありとして痛ましくも悩み苦しんでいるのであります。

といってわれわれも病気になって苦しんでいる霊魂を「体もないのに、自分の念の投影で病気になっている。滑稽だなア」などと言って笑うことはできないのであります。

「体もないのに病気になっている」というのは必ずしも、霊魂ばかりではないのであります。

われわれ自身も、本来こんな不完全な肉体は無いのに、念の投影(かげ)として現象界に肉体というような時間空間に制約された不自由な体を映し出して、それを実に有りと思い自分自身の病念によって、病気としている人がたくさんあるからであります。

こういう人が『生命の實相』を読んで本来肉体なし、病気なしと悟って病気が消えると、その人の病気が治るのであります。

これは皆さますでに信徒たちが体験せるとおりであります。

5652a hope:2015/08/14(金) 09:20:17 ID:cEpBaIdo

>>5651 a hope所感)

ここにはとても大切なことが書かれていると感じています。

要するに「肉体の死は苦しみの解決にはつながらない」という訳ですね。

自殺する人は、現象の苦しみから逃れようと自らの命を絶つのだと思いますが、
亡くなる前に「肉体なし」「現象なし」を悟っていなければ、例え肉体を滅ぼしたとしても、
霊界において「霊体(霊魂)」として苦しみ続けることになるのですね。

ここに「生長の家」の「肉体なし」「病気なし」「迷いなし」「死なし」等の真理の伝道の重要性が明らかになってきます。

終戦記念日を目前にして、わたしは今、戦死された英霊たちの霊魂に思いを馳せています。

当時「生長の家の教え」に触れることで、この真理を悟って戦死された英霊は多いのではないかと感じています。

「生長の家」の教えに触れた者の使命とは、この『「肉体無し」「唯神實相」の真理の伝道』以外わたしには考えられません。

5653a hope:2015/08/16(日) 09:08:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p50 後から6行目〜

だから、病み悩んでいる者には、生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということを知らせてやったならば病が消えてしまう。

罪に悩んでいる者には、神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ないという真理を知らしてやったならば、その罪と、罪より生ずる苦悩苦患(くのうくげん)が消えてしまう。

こうして一切苦患の源となるべき顛倒妄想を摧破(さいは)するために生長の家は出現したのです。

この真理の宣伝(のべつた)えられるや、天界のもろもろの神が和共(あいとも)に讃嘆して、「善いかな!善いかな!」と讃嘆の声を雨降らしつつ相共に人類光明化のために協力してくれるのであります。

それですから、生長の家では最近古今未曾有のことが起こりつつある。

それは、聖典を読むだけで神懸りになり、その神懸りになった人がちょっと『生命の實相』の受け売りをすれば病気が治るというふうな奇跡が続出する。

これ天界の諸神の共同活動によるものであります。

天界の諸神というのは霊界の上層にいる神格を得た諸霊のことであります。

こうして天界の諸霊の協同活動と人間界のわれらの協同活動とによって『生命の實相』の真理が宣布せられるにしたがい、この世の一切の迷い障りが消滅してしまう。

そうして、この惑障(わくしょう)の消滅とともに、惑障の現われであった地上一切の不幸苦悩は消尽して、このまま、この世が光明の常楽世界となるのであります。

5654a hope:2015/08/16(日) 09:09:26 ID:cEpBaIdo

>>5653 a hope所感)

『生命の實相』の真理は、「現象界」だけではなく「霊界」や「神界」に到るまで鳴り響くのですね!

<<生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということ>> 【唯神実相】
<<神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ない>>【人類無罪】

というように、その真理は本当に単純なのに、わたしたちはそれをなかなか悟れない(体得できない)・・・(-_-;)

悟れば、此の世が光明の常楽世界になるというのに・・・。

だからこそわたしたちには、聖典『生命の實相』を毎日拝読して、その真理を伝道して行く使命があるのですね!

5655a hope:2015/08/23(日) 22:59:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p59 2行目〜

生長の家の人類光明化運動には人間だけが参加しているのだと思うとまちがいでありまして、霊界における高級スピリットが参加していて、霊界からこの光明化運動を護念しているのであります。

そして一信徒が生長の家の真理を説くと、説く人もハッキリ分かっていないし、説かれる人もそれほどハッキリわかっていないのに、難病がパッと治ってしまうような実例がある。

これは、霊界からスピリットが強烈な光明思念を送って迷いの思念を破壊してしまうのであります。

5656a hope:2015/08/23(日) 23:01:17 ID:cEpBaIdo

>>5655 a hope所感)

唯物思想に感化されてしまった人たちには、この霊界とかスピリットとかいう存在を認めるのは難しいかもしれませんね。

わたしは「生長の家」の教えに触れる前からその類の本(精神世界関係)はかなり読んでいたので、
この現世の人間とスピリットとが影響し合っているという関係はすぐに理解できました。

真理を大悟された谷口雅春先生やその愛弟子さんたちがこの現象界に沢山ご存命だったころは、
「生長の家」教団自体が光明思念で満たされていたでしょうから、霊界のスピリットたちもその光明思念に共振し、
「生長の家」の光明化運動を護念してくださっていたのでしょうね。

ですから、たとえ真理を悟っていない信徒であっても、その「おかげ」を受けて、
聖典を拝読したり聖経を読誦するだけで簡単に病気が治ってしまったりするような、奇跡を起こすことができたのだと思います。

5657トキ:2015/08/24(月) 22:15:05 ID:jDE0Dx5.
>>5656

 これはその通りだと思います。

私の縁者の「一白鳩会員」が谷口雅春先生ご先導の神想観に参加したときに、
ものすごいパワーを感じたと言います。奇跡も続出したみたいです。

5658a hope:2015/08/27(木) 09:53:34 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p60 8行目〜

念の世界に、本来無い世界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、混乱状態を起こし、それがまたこの現象界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、御蘭状態を起こし、それがまたこの現象界に現われでようとした場合に、「かわいそうに」とそこに実相の世界から光明の念が及ぼされてくる、その光明の念が応現して観世音菩薩となり、阿弥陀如来となるのであります。

これは、化身または応化身の神であります。

そして宇宙に遍満する神というのは、実相とか、法身の神とか大本体の神とか言うのであり、この応化身の救済の活動に、霊界の高級霊が参加して活動するのは地上では悟りに近い現世の人々が参加して活動するのも同じであります。

この大本体の神が第一義の神であり、応化神が第二義の神である、これらは霊魂ではないから霊媒には憑(かか)らない。

霊界の高級霊というのは第三義の神と称するのがそれで、その眷族(けんぞく)あたりが、時には「大本体の神」の御名(みな)を僭称(せんしょう)して霊媒にかかってくることがあります。

仏典に「衆生仏を億念すれば、仏、衆生を憶念す」という 語がありますが、神は宇宙に遍満し給うのでありますから、憶念しても、しなくてもすでに満ちてい給うものでありますが、生が迷って、救いを求める気持ちになる。

換言すれば仏または、神を憶念した時に、阿弥陀仏となり、観世音菩薩となって、機に応じて現われ給うので、迷いは無明であり、暗(やみ)である。

暗は本来虚でありますから、そこに光が射せば暗は自然に消滅してしまう。

それが実相の神が、地上に応現し給うと、地上の迷いが自然に消滅してしまうということになるのであります。

5659a hope:2015/08/27(木) 09:55:08 ID:brQxC10.

(a hopeまとめ)

○第一義の神・・・宇宙に遍満する神・実相・法身の神・大本体の神・(光明の念)

○第二義の神・・・第一義の神の「応化神(応化身)」・観世音菩薩・阿弥陀如来 
        ※霊魂・で・は・な・い・から霊媒には憑(かか)らない

○第三義の神・・・霊界の高級霊 (スピリット)

○悟りに近い現世の人びと・・・高徳な僧や宗教の開祖とその直弟子たち・慈善活動家等・現世の高級霊【a hopeの個人的解釈】


○人類光明化運動・・・第二義の神「応化神」の救済活動に、霊界の高級霊(スピリット)や悟りに近い人びとが協力し合って行う運動【a hopeの個人的解釈】

5660a hope:2015/08/27(木) 09:57:54 ID:cEpBaIdo

>>5658 >>5659 a hope所感)

昔から、神さまのことを考えだすと、果てしなくひろがっていく宇宙の神秘を感じるのと同じような気持ちになりましたが、
実際、第一義の神は宇宙に遍満する実相ですから、それは当たり前のことだったのですね。

人間知では考えても考えてもわからない宇宙の果てのような存在が「実相・神」・・・

だから、「神さま」は慈悲深い「応化身」となってわたしたちの前に姿を顕(応現)し「迷っている」わたしたちを救済してくだる・・・

そしてその活動に霊界や地上(現世)で参加しているのが、スピリットや悟りに近い人々・・・

なんか、わたしはだんだんわかってきましたよ。

『縁あって「生長の家の教え」に触れた人々はみな「高級霊」である』どこかでと聞いたことがあります。

そういう意味だったのですね!

5661a hope:2015/08/31(月) 10:46:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p72 5行目〜

しかし、現実をこの現象界を軽んじることが、「無」を悟るということにはならないのでありまして、生長の家では現象界を軽んじようとは決して言っていない。

ただこの現象界を映し出しているところの、その源(みなもと)の世界を把握して、活動写真を映すフィルムをつかんで、この肉眼に見える世界は、その影にすぎないのだということが分かれば分かるほど、すべての現われが実相を映し出し自由自在に、意のごとくになるというのであります。


(a hope所感)

この第二章の前半は「甘露の法雨」の『物質』の項目の解説ですが、
ここには、われわれが「物質無し」「現象無し」をまことに悟れば、妄念、迷いが払しょくされて念のフィルムが無色透明になり、
現象界に映し出される映像が実相一元の完全円満で光明そのものの姿になるという仕組みが詳しく解説されています。

それはとてつもない悟りの境地だと思いますが、それが生長の家を信仰しているわたしたちが目指すべき『実相独在』『唯神実相』の悟りなのですね!

聖典「生命の實相」は学べば学ぶほどそのレベルの高さを実感できます。

ほんとにすごい聖典ですね!!

5662a hope:2015/08/31(月) 10:48:11 ID:cEpBaIdo

ところで、今日は8月31日、今月の最終日です。
本当なら、9月からは第37回web誌友会を開会して「生命の實相」第22巻に移りたいのですが、
まだ、第21巻のお勉強が終わっていなので、勝手ですがこのまま第36回web誌友会を継続させていただきたいです。

トキさま、みなさまいつも勝手を言って申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

5663a hope:2015/08/31(月) 10:48:55 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5664a hope:2015/09/05(土) 23:21:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p79 後から6行目〜


・・・われわれの本質は久遠の実在なのだ。

宇宙に充ち満つる大生命と同体の我こそ自分である。

(自己を指して)大生命ここにありと自覚する。

(また、聴衆をさして)皆様自身のうちに大生命ここに在りと自覚する。

自分が実在であり、大生命であると自覚することが必要なのであります。

自分は宇宙に充つる真理と同じものだ。

自分の実質は久遠の仏と同じものだ。

永遠の真理と一つのものだと悟ることが肝心なのです。

それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。

われは真理と一つのものである。

実在と一つのものである。

神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。

生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。

仏教、キリスト教で言っているのと同じ真理を、抽象的に説かないで、「実在のみある」という立場から、真理を実生活と遊離しないで、生きた人間の中に持ってきて、我すなわち真理である。

大生命である。

と、真理と吾とをぴったり一つに重ねてしまって、吾すなわち真理なりとの大自覚に入らせる。

ここに生長の家が在来の宗教の真理と同じ真理を説きながら、生活上に、治病上に実際の力ができてくるゆえんがあります。

5665a hope:2015/09/05(土) 23:25:51 ID:cEpBaIdo

>>5664 a hope所感)

<<それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。
われは真理と一つのものである。実在と一つのものである。
神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。
生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。>>


仏教にしてもキリスト教にしても、真理を大悟した釈迦やキリストがこの世に存在していた頃は生きた宗教で、
実際に多くの人を救っていたでしょうし、様々な奇跡も起きていたのだと思います。

ですが釈迦やキリストが現象世界を去った後に、どちらの宗教でも偶像崇拝のようなことが起こったり、
<<自分が実在であり、大生命である>>という大切な真理がないがしろにされたりして、
形式ばかりを重視する「救済力のない宗教」になっていってしまったのだと思います。


わたしは、現在の「生長の家」にも、同じようなことが起きている気がしています。

5666a hope:2015/09/07(月) 08:16:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p82 6行目〜

・・・けれどもその仏教の説き方にいろいろの段階がある。
声聞遠覚(しょうもんえんかく)などという下段、中段にある人に説く説き方を聞いていますと、「この人間は生まれた以上死ななければならない」などとこんな説き方になるのです。

生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。

5667a hope:2015/09/07(月) 08:18:28 ID:cEpBaIdo

>>5666 a hope所感)

わたしは物心ついてきた5歳の時に大好きだった祖父を亡くしてから、
その後何十年間も「この人間は生まれた以上死ななければならない」と信じて生きて来ました。

でも、実際はそうではないのですよね。

それにしても、

<<生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。>>

『悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)

5668トキ:2015/09/07(月) 18:09:19 ID:jVJQMSko
>>5667

 それは、衝撃的でしたね。

これは私見ですが、宗教の教えは、釈尊の時代から、相手を見て法を説く、つまり対機説法という
技法を使います。その場で一番最適な表現と内容で相手を説得します。だから、後から見ると、
必ずしも他の場面では適当とは言えないものもあります。

 例えば、お母さんが子供に「一生懸命勉強しないと、立派な大人になれないよ」というと、
「東大を出ても警察に捕まっている人はいます」と反論する人がいます。しかし、お母さんから
見ると、子供が大人になったときに困らないように、勉強を鼓舞するのが目的で、客観的に、
あるいは学術的に、初等教育の成績と将来の人生との関連を述べるのが意図ではないみたいな
ものです。

 と、まあ、個人的には、こう考えております。

5669フニュ(´・ω・`)るん吉:2015/09/08(火) 00:56:49 ID:???
>>悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)


生長の家は、要するに「悟り」やもんねぇ。神の子の真理を絶対境地で体験して悟らにゃ、本物の我は出てこない?ですよね?

自我のまま、現象の我のまま?ですよね。「我即神」の絶対境地になってないんやもの。 

例えば、生命の実相を読んで「実相独在の真理」があまりに有難くて、読んだ後は有難い、明るい心持ちになって

その結果、心の法則によって現象界に良いことが起こる。(それは嬉しい事だけど)しかしその時の心は

依然として、自我の心ですよね?新生したわけでは無いですよ・・・ね。

ところで、二代目の清超せんせいは、ご自分が神の子ということを如実に実感されてたんでしょうか?

どう思います?

5670a hope:2015/09/08(火) 09:51:53 ID:cEpBaIdo

>>5668 トキさま >>5669 るん吉さま

コメントをありがとうございます。

わたしは、『生長の家の教えの神髄』=『谷口雅春先生の「実相独在・唯神実相」お悟り』だと思っていますが、
そのお悟りの境地はわたしたち凡人には一生かかっても実感できないような最高レベルのお悟りだと思うのです。

それでも谷口雅春先生は、その御慈悲心から「生命の實相」やその他の聖典の中でそのお悟りをあらゆる方便(対機説法)を駆使して、
わたしたちにもわかり易いように何度も何度も表現を変えて伝えて下さっていますよね?

ですからわたしたちは、聖典を繰り返し拝読していれば、頭ではその理屈はかなり理解できてくると思いますが、
実際には、そのお悟りの境地を100パーセントそのまま感受することはとても難しいことだと感じています。

このお悟りを感受するのには、文章の内容を頭で理解するのは勿論ですが、
その文章から発している波動に自分の波動を共振させることが重要なのではないかと感じています。

谷口雅春先生の波動は最高レベルの波動ですから、自分自身もよい波動を発していないと、
お互いの波動を共振させることはむずかしいと思います。

実際、わたしも心が乱れている時は、「生命の實相」をいくら拝読しても感動しませんし、魂も震えません。

そのような時は、常に三正行を怠らず波動を調えることの大切さを実感します。


谷口清超先生は、谷口雅春先生から正式に法燈継承をされた「生長の家」の法燈等継承者ですから、
かなりのレベルのお悟りをされていたのではないかと思われますが、
それでも、谷口雅春先生のお悟りには及ばなかったのではないかと拝察しています。
( a hopeごときが、大変生意気な発言をして申し訳ありませんm(__)m)

5671a hope:2015/09/12(土) 09:08:08 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p84 

「生長の家」では人間は仏であると始めから直截(ちょくせつ)に断定する。

迷いなんてものは本来無いものだ。

迷えば衆生になり、悟れば仏になるなんて人間の本体はそんなフラフラのものではない。

そんなフラフラな「心」は本来無い心である。

迷いなんて無い、始めからわれわれは仏なのだと断然と迷いを断ち裁(き)ってしまって、断然と「我は仏なり」と肯定してしまうからこそ実際に宗教が生き、実人生を動かす力が出てくるのであります。


不生不滅などというどちらつかずのフラフラの言葉で、われわれの生命を形容したのでは力がでてこない。

われわれは生きとおしの生命であって滅びはない。

消ゆることもない。

迷いを一刀両断に斬り捨てて「生」のみを断然高く掲げ、本来「生」であって、無限の昔から、無限の未来へ生きとおす無限の生命こそ吾であり、無限の生命、すなわち仏であると断言してしまって、そこでわれわれ本来仏であり、無限の生命、すなわち仏であると断定してしまって、そこでわれわれ本来仏であればこそ、滅びもなければ、迷いも無い、そしてこれのみが事実である、これのみが実在である、その他のものはすべて無い、とすべて無いものを斬ってしまって(自己を指差して)「ここに仏あり」と思う。

そうすれば自分のうちに無限の力の宿ることを自覚することもできるのです。

迷いは無い。

ここに仏が坐っている。

今は迷っていて一生懸命念仏して仏になれるというような、そんなフラフラした影みたいな人間ではないのだ。

そんなものは初めから無いものなのだ。

われこそ仏である。

本来無限の仏力が宿っている、これをまず肯定せよと「生長の家」では言うのであります。

心、仏、衆生、三無差別としての仏は本来ない、そういう仏も衆生も心も斬り捨ててしまったとき、なお残る実在――久遠よりの仏のみがあり、それが本当の自分なのであります。

5672a hope:2015/09/12(土) 09:09:49 ID:cEpBaIdo

>>5671 a hope所感)

>>5641で謹写したはしがきにも

<<主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。>>

とありましたが、この第21巻の「甘露の法雨」講義は、谷口雅春先生のお話になられたままの語調がそのままご文章になっているようです。

たとえば、違う誰かが「われこそは仏である。」と発言したら、まわりで聞いている人はどんな風に感じるでしょうか?

気が違ったか、もしくは傲慢極まりないと感じるかもしれません。

まったく同じ真理の言葉を伝道するにしても、その真理を本当に悟っている人が話すのと、そうでない人が話すのでは、
影響力に雲泥の差が出て来てしまうのだと思うのです。

わたしたちは「仏の子」であり「神の子」だというのは確かな真理だけれども、
その真理を伝道するにはまずは自分がそのことを自覚し(悟り)その波動を発することが重要だと感じています。


偽我の自分を「仏の子」「神の子」だと勘違いしてしまうと、それは増上慢になってしまいますものね。

わたしはこの『「唯神実相」を悟る』というありがたい課題に、これからも謙虚に取り組んでいきたいです。

5673a hope:2015/09/13(日) 09:25:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p89  2行目〜


先日読売新聞に武本喜代蔵さんという大阪天満教師が書いておられるのをちょっと見たのでありますが、この武本という方はキリスト教の牧師さんで信仰によって病気を直された経験があるらしい。

名前も、わたしは十数年も前から聞いて知っているのですが、その方がこういうことを書いておられたのであります。

「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」

こんなことを書いておられたのですが、わたしはこれを見て、この偉い牧師さんも本当のことが分かっていないな、と思ったのでありました。

この牧師さんには、われわれの外界に起ることは自分たちの内界の投影であって、外界も心の現われであるということが分からないで、肉体という一定の殻の内側だけが自分の心に左右されるもので、肉体という外殻の外側はもう自分の外だと考えていられるから、こういうことが書かれるのであります。

この方には三界は蜃気楼のごとく唯心の所現であるということが解らない。

自分というものは小さな肉体である。

脳髄に心というものが宿っていて、その心の宗教的感情はわずか五尺何寸、十四貫何匁のこの小さな肉体だけを支配しているとこう考えているのです。
(つづく)

5674a hope:2015/09/13(日) 09:26:58 ID:cEpBaIdo

>>5673 a hope所感)

<<「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」>>

「生長の家」を信仰されているみなさんは、この武本喜代蔵さんの考え方を間違いだと思われましたか?

つまりは、『ガンなどの内臓疾患や精神病などの身体の内部の病気は信仰によって治すことはできるが、
事故等で外界からダメージを受けた外傷は信仰によっては治らない』、という意味だとわたしは解釈しました。

わたしは、すでに「生長の家の教え」を5年以上学んでいますが、いまだにこの武本さんの考え方は間違いであるといいきることはできません。

ですが、谷口雅春先生は「甘露の法雨」講義で、この武本さんは『本当のことが分かっていない』とおっしゃっています。

では、『本当のこと』とはいったいどういうことなのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

5675a hope:2015/09/13(日) 10:44:30 ID:cEpBaIdo

>>5673 つづき)

ところが、この空間は自分という一点の中心から周囲にレンズを向けたように、念波の広がりによって成り立っているのであって、自分がその空間の中心である。

自分が宇宙の中心である。

いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。

そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。

無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。

有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

と同時にわれわれは実相においては一つの大生命と、まったく一つのものであるというのであります。

楕円形の中央の一直線上にある無数の中心が一つでもかけたらその楕円形は成り立たない。

皆それぞれの中心の一つ一つがなくならない中心であるのと同じように、われわれ各自は皆宇宙の中心であって各自は宇宙を双肩に担っているのであります。

そして宇宙の生命と一つになってこの宇宙を動かしているところの存在なのです。

5676a hope:2015/09/13(日) 10:45:39 ID:cEpBaIdo

>>5675 a hope 所感)

「自分が宇宙の中心であったら、他の人はどうなるんだろう?」という疑問がここで一気に解消されますね!

現象は影である。

影の中(仮相)ではいろいろな不都合や差別なんかが起こって見えていても、
実在界(実相)では、わたしたちおのおのが中心で自由自在に宇宙を動かしているのですね!

すごいですね!(◎_◎;)!

5677a hope:2015/09/15(火) 10:58:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p101 後から5行目〜


この因縁というものは、人間だけにあるのではありません。

因縁は全宇宙にあるのです。

宇宙の因縁循環して、いろいろの現象を起こしているのであります。

星雲状態も、燃ゆる灼熱の天体が冷めて月になるのも、宇宙の業の流転であります。

宇宙の業が循環流転していろいろの姿を現している。

この世は宇宙の業が流転して、因縁因果の姿を現じているものでありますから、『法華経』にかかれているごとく「劫(こう)尽きて末世が来てこの世が滅尽(めつじん)してしまう」というようなこともおこりうるのであります。

宇宙の業が流転して一太陽系統世界が生成し、やがてさらに流転して滅びてしまう。

その一期間を「劫(こう)」というのであります。

この一期間の週期が終わってこの世が滅尽してしまうようなことが起こっても「実相の浄土」は因縁によって現じている世界ではないから、決して滅びることはありえないのであります。   

(中略)

「実相」の世界は完全円満であっても、現実界ではわれわれは地震にも逢わなければならないと考える人がありますが、広範な大地震というような事件は宇宙の業によって起こりますから、一人の人間の悟りが大地震そのものを無くしてしまうことはできない。

しかしわれわれが本当に実相を知って因縁を超越した時には、地震はありながらも自分が地震に傷つかないような状態になるのです。

生長の家の信徒が自動車に轢かれても、微傷だも負わないというのはすでに因縁を超越した証拠であります。

現象世界の重力の法則によれば自動車に轢かれたらつぶれてしまうか、負傷するのがあたりまえのことでありましょう。

その重力の法則が因縁の法則であります。

その因縁をまったく超越した時には、自動車に轢かれても傷つかない。

憂苦満つる娑婆世界にいながらも、寂光土にいるような状態が現われ出てくるのであります。

なぜならわが環境はわが心の影、三界は唯心の所現であるからであります。

(第二章 終り)

5678a hope:2015/09/15(火) 10:59:58 ID:cEpBaIdo

>>5677 a hope所感)

各地で頻繁に起こっている地震、 火山活動の活発化、 豪雨による水害・・・・
最近の日本列島はどうも落ち着きません。

果たしてそのすべての原因は、わたしたち『人間の業』の自壊なのでしょうか?

もしそれが宇宙の業の流転の一端であるのならば、わたしたちがどんなに自分たちの犯した罪を反省し、
現象問題に対応してもその自然災害を食い止めることはむずかしいのではないでしょうか?

実際、先日起きた栃木の水害でも、自然環境を守るためのソーラーパネル建設が堤防決壊の原因なのではないかという問題もあがっていますよね・

生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

そしてそれが本来の「人類光明化運動」だと思いますし、わたしはその方法しか人類救済はありえないと感じています。

5679トキ:2015/09/15(火) 18:38:42 ID:FzzGVrCQ
>>5678

 地球の歴史を省みると、いわゆる「大量絶滅期」という時代があって、例えば大きな隕石が
地球に落ちて、生命体の大部分が死滅した時代もあったそうです。当然、その時代は人間は
存在しなかったのですから、『人間の業』というのも変ですね。

 確かにスピリチュアルな観点からは、人間の意識もある程度は地球に影響を与えるそうです
が、それを極端に誇張するのは逆に危険な気もします。

>>まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

全く同意いたします。

5680a hope:2015/09/16(水) 00:46:18 ID:cEpBaIdo

>>5679 トキさま

わたしの意見にご同意くださりありがとうございます。

わたしは聖典「生命の實相」を拝読していると、気持ちが明るくなり生きる力がみなぎってきます。

この掲示板でその大好きな「生命の實相」のお勉強ができるのも、管理人のトキさまのおかげですから、
トキさまにはいつも心より感謝しています。


ところで、明日から1週間くらいになると思いますが、事情があって自宅のパソコンが使えなくなります。

ですから、しばらくこのweb誌友会の書き込みをお休みさせていただきますね。


わたしはお休みしますが、今月は先月に引き続き、第21巻を学んでいますのでみなさまどうぞご自由にご参加くださいね。

5681トキ:2015/09/17(木) 19:32:50 ID:A5YPtPrA
>>5680

a hope様

 ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。

ゆっくりと英気を養ってください。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5682「訊」:2015/09/17(木) 19:37:34 ID:???
>>a hopeさん

 突然ですが最近、再度ハマっております。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65720842.html
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65721221.html

 この方、雅春先生の実相一元に達しておられますよ。DVDが英語版しかナイのが残念なんですが、かなりイイです。ご紹介しておきます。

5683純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:47:56 ID:DD4jWV6M
部室板がかまびすしいのでこちらに再掲いたします。

復興Gさんのイデア論

うかつなことは申せませぬが、復興Gさんへの疑問を述べさせていただきます。

復興Gさんは徹底したイデア論者のようです。神は無駄なものを与えたまわない。原子力エネルギーは神によって与えられたものだ。これがイデア論に特有の物言いであるのは何度も述べたとおりです。

地球の資源は神からあたえられたものだ。家畜となった生き物は神からあたえられたものだ。復興Gさんの物言いがこれとまったく異ならないのは誰がみてもあきらかでしょう。

原子力を必要としているのは人類だけです。人類以外に原子力を必要とする生き物はおそらくおりません。そんな人類がいったいどれだけの生き物を絶滅に追い込んだのでしょう。神が無駄なものを与えたまわないのであれば、絶滅に追い込まれた生き物は人類を必要としていたとでもいうのでしょうか。それとも、無駄なものは与えたまわないとは、人類のことだけをいっているのでしょうか。復興Gさんにはこのような疑問をどうしてももってしまいます。

5684純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:49:19 ID:DD4jWV6M
復興Gさんの物言いひとつとっても生長の家がイデア論であるのはあきらかでしょう。生長の家はイデア論なのですよ。

環境問題をつくりだしたのはイデア論です。生長の家をつくったのもイデア論です。総裁のなかでこのふたつながっているのですよ。

復興Gさんはけっきょくイデア論で総裁を批判している。総裁が否定しているであろう当のもの(イデア論)をもちいて総裁を批判しているのですよ。このことに復興Gさんはまったく気づいておりません。

復興Gさんの批判のごく一部しか読んでおりませんが、それでも以上のことがわかった気がしております。

5685純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:53:22 ID:DD4jWV6M
イデア論で総裁を批判することの愚かしさにまったく気づくことなく、復興Gさんは一冊の本を著したのでしょうか。

5686純粋教理批判:2015/09/19(土) 11:50:16 ID:DD4jWV6M
生長の家の歴史は浅く人類的評価はまったく定まっておりません。人類全体の問題を考えるにあたって評価の定まっていない教えをもちだして持論の正当性を訴えるのは適切ではないでしょう。このようなことをされても反論することができません。

原子力がよいとおもうのであれば原子力エネルギーの優越性を訴えればよいだけの話です。教えをもちだして信徒の気をひこうとしているとしかおもえません。

5687純粋教理批判:2015/09/19(土) 12:34:35 ID:DD4jWV6M
重要なことを書きましょう。

復興Gさんがたとえ原子力エネルギーの自然エネルギーにたいする優越性だけで総裁と議論したとしても、その議論の中にはイデア論がひそんでいるのですよ。

人類は自己の欲望を肥大化させエゴむきだしでみずからの繁栄を追求してきましたよね。この追求に少なからず貢献したのがイデア論です。みずからの言葉をもって真理となす。これがイデア論ですから人類にとってこれほど都合のよいものはありません。

人類が原子力を必要とするようになったのはイデア論を都合よく利用して欲望を肥大化させたからです。イデア論と「原子力エネルギーを必要とする人類」は密につながっている。復興Gさんが原子力の必要性を説くとき、その言説の背後にはイデア論が間違いなくひそんでいます。

5689トキ:2015/09/19(土) 15:42:16 ID:YIc16UiA
純粋教理批判 様

 もし、ご希望なら、別の板、例えば、現在あまり使われていない「信仰・体験」板を提供するか、もしくは別に
純粋教理批判 様専用の「トーキングスティック」板を作りましょうか?

 ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

 よろしくご検討ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5690神の子さん:2015/09/19(土) 17:01:23 ID:DRZ7EDG2

<<ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

トンチンカンに本流対策室でなら何を書いてもかまわないと云ったのに、本流対策室はそっちのけで、アジ演説の出来るとこへは何処でも出て来る

そを放って置くから差し障りが出るのだよ。うのはなさんを一つの版に閉じ込めるのなら、トンチンカンにも同じ処置をしたらいかが。

5691トキ:2015/09/19(土) 17:29:14 ID:YIc16UiA
>>5690

 コメント、ありがとうございます。

 確かにトンチンカン様に自由な投稿を認めていますが、同時に、純粋教理批判 様
にも自由な投稿を認めています。

 誌友会の場合、最初からテーマが決まっており、それにそった投稿が前提になって
おります。純粋教理批判 様の投稿は歓迎しますが、この場所以外の場所の提案をさせ
ていただいた次第です。

 ご気分を害された点はお詫びしますが、ご理解のほど、お願いいたします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5692トキ:2015/09/19(土) 17:54:24 ID:YIc16UiA
 すみません、追伸です。

 純粋教理批判様の投稿を妨害する意図は全然ありません。
その点は申し上げます。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5693純粋教理批判:2015/09/20(日) 09:14:11 ID:DD4jWV6M
トキさま

誌友会で総裁を「虚説」と批判するのは許される。その理由をお聞かせください。

こちらの板で総裁を「虚説」と批判するのはよいがそれへの応答は許されない。こういうことなのでしょうか。

一信徒と復興Gさんによる「虚説」発言への応答はここが主戦場であったはずです。復興Gさんがこちらで、「生命の経済学」という実体のない空言をもちだして総裁の環境運動を批判したのは事実でしょう。それにたいする応答がこちらの趣旨にふさわしくないというのはどういう意味でしょう。

5695トキ:2015/09/20(日) 11:09:20 ID:ati5bUBw
>>5693

純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。平素は弊掲示板をご利用下さり、深く
感謝申し上げます。

 純粋教理批判 様が、a hope 様への反論と書かれていたら、これは私も歓迎を
したと思います。ただ、部室からの横滑りの趣旨を書かれていたので、関係がないか
と理解をしておりました。

 総裁を支持する意見も反対する意見も歓迎をしております。
確かに、復興g様がこちらに投稿をされていた時期は、この場所が「主戦場」で
した。

 が、web誌友会は、主催者が変更し現在、テキストとテーマが決まっており、その内容
で進めることになっております。

 もちろん、純粋教理批判 様も他の投稿者様の投稿も大歓迎いたしますが、
この誌友会の板以外の場所でお願いをさせていただきた、という意味で、
決して純粋教理批判 様の投稿自体を否定したり、反対する意図はありません。

 おそらく当方の書いた表現に行き届かない点があり、誤解を生じさせた点
があったと思います。その点はお詫びします。

 ただ、場所については、趣旨と違いのではないか、という考えをもっています。
 
 もちろん、他の板のご利用にあたって、ご希望があれば、最大限の対応をさせて
いただきます。例えば、純粋教理批判 様専用のトーキングスティック板を設ける事
も可能です。ご検討のほど、お願い申し上げます。

 a hope様も現在、お留守ですから、a hope様のご意見も聞きたいですが、おそらく
は同じ意見になるのではないか、と考えております。

 せっかくのご投稿に注文をつけてしまい、ご気分を害された点は重ねてお詫び
します。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5696a hope:2015/09/20(日) 11:37:02 ID:H4pfxWHA

みなさま、こんにちは。

パソコンが使えないので、スマホからの投稿です。

トキさまのおっしゃるとおり、このweb誌友会板では現在生命の実相 第21巻の『甘露の法雨』講義を学んでいます。

テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。

ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます。

パソコンが使えるようにならないとお返事できませんが…

よろしくお願いいたしますm(__)m

5697純粋教理批判:2015/09/20(日) 11:38:29 ID:DD4jWV6M
>>5678

>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

これがホープさんの環境運動にたいする考え方であるようです。教えはイデア論だとわたしは思いますが、ホープさんはイデア論を人類に伝道することでイデア論がつくりだした環境問題は消えると、このようにいっているとわたしにはおもわれます。

環境問題を解決するには、「地球の資源は神が与えたもうたものだ」とするイデア論から人類が脱却するよりほかはない。このことをわたしはいっているのですが、ホープさんはどうも逆の方向を向いているようです。

生長の家では「神は無駄なものはあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説くようですが、こうした教えで「神は無駄なものを人類にあたえたまわない。地球の資源は神が人類にあたえたもうたものだ」と主張する人々を教えみちびけるおもえるのはなぜなのでしょうか。

5698a hope:2015/09/20(日) 11:38:39 ID:H4pfxWHA

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5699神の子さん:2015/09/20(日) 11:57:37 ID:.f2R09mc
>>管理人も気がつかないまま、おかしな運営をしている、

テーマ?書いてる一人の人の解釈次第じゃないですかそんなの。この板だけは独善会の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。
一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、
テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?
ただの疑問ですので。

5700トキ:2015/09/20(日) 12:03:56 ID:ati5bUBw
>>5699

 ご意見、ありがとうございました。

 ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。
「生命の實相」第21巻 経典篇がテーマです。一緒に勉強をしましょう。

 お待ちしております。

5701純粋教理批判:2015/09/20(日) 12:19:33 ID:DD4jWV6M
>ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。

わたしは参加しておりますよ。みなさまのご意見をお待ちしております。

5702曳馬野:2015/09/20(日) 17:53:53 ID:JPiKJZkg

>>5699 お元気ですね相変わらず、非難中傷がとかなんとかあったようですが。

この板だけは≪≪独善会≫≫の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、

テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?・・・・おもろい

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。それでは、神様ただ今より眠らせていただきます。6月13日3:30am谷口雅春先生 最後のお言葉――

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。この言葉は自分の事ばかりでなくすべての人を見る時にもその通りでないのですか?

雅宣総裁は罪を犯しているという人の意見を聞きたいものだ。あなた方の心は病あり、罪在り、ではないかと、罪の観念に満たされていないかと。自分の心以外のものは見ることができないと云われる生長の家。「心の影と云うのは現象の事です。影を見て、引っかかったら信仰は落第です。」と云った講師がいた。

試しに妻に訊いてみた、雅春先生の最後の言葉は何かと、ちゃんと答えれたね。教団で生きているが。此の根本真理に照らして『吾恥ずかしいところ一点もなし』という人間に出遭いたいものだ。

5703純粋教理批判:2015/09/20(日) 21:53:58 ID:DD4jWV6M
>>5675

>自分が宇宙の中心である。
いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

わたしは自分が宇宙の中心であるというよりも自分が宇宙をつくりだしているとおもいます。いっさいを周囲の空間にあらわしているのではなく、周囲の空間をつくりだしているものこそが自分であると考えます。

宇宙はホログラム映像です。ホログラムをつくりだしているのは自分です。空間をつくりだしているのも自分です。70億の人類が70億のホログラム宇宙をつくりだしている。この「自分」をわたしはドリーミングボディと呼んでいますが、仏教的にはひとりひとりが大日如来ということになるでしょう。

>それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。
そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。
無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

ひとりひとりがひとつの宇宙をつくっているわけですから宇宙の中心はひとつです。中心が無数にあるのではなく宇宙が無数(70億)にあると考えるべきかと存じます。

>みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。
有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

楕円の中心は・・・。

>無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

実相の宇宙においては、人間は宇宙大の大きさに広がっているのではないでしょうか。「おのおのが中心」ではなく「おのおのが全体」なのではないでしょうか。

雅春先生の教えを正しいものとして物事をつきつめていくとかならず矛盾につきあたります。宇宙には中心が無数にあるとする考え方では、ホログラム宇宙のなかにホログラム人間が無数に存在することになり、ホログラム人間がホログラム宇宙をみている、つまりは映像が映像をみているといった事態をどうしてもまねいてしまいます。

5704トキ:2015/09/20(日) 22:20:16 ID:LtlCeku.
>>5703

 純粋教理批判様のご意見は、たぶん、宇宙論で言う「多元的宇宙論」という発想を
パラレルにしたものかと思います。そういう可能性があること自体は肯定も否定もし
ません。でも、多元的宇宙論にしろ、ホログラフにしろ、人間の三次元的な発想でい
けば矛盾はあるかもしれませんが、4次元以上の発想でいけば、矛盾がないわけでは
ないと思います。(まあ、そこまで行くと、ぶっ飛んだ世界になりますが。)

 多元的宇宙論にしても、生長の家で言う「現象」ですから、その限りではあくまで
も「現象」の世界になります。映像が映像を見ている、という例えも、あくまでも
三次元的な制限の上での例えですから、申し訳ありませんが、私は少し違うと思って
います。

 よく現象というと、映画のマトリックスに出てくる妄想のような、頭脳を制御された
幻のような印象がありますが、実際には、それ自体もないと想像をしています。

 おそらく、現在の人間の置かれた状態は、そういう多元的な世界観でいけば、まだ
初歩の段階でしょう。しかし、そういう初歩の段階をクリアーすることが私たちの
義務ではないかと考えています。

 エコロジストが、Think globally, act locally と言っていますが、実相のあるべき姿
を追求するのが一つの義務としたら、置かれたその場で精一杯生きるのがもう一つ
の義務だと思います。

 小さな、些細なことが大事なのは、そういうことだと思いますね。

5705純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:13:52 ID:DD4jWV6M
「多元的宇宙」がマルチバースをいっておられるのであれば、わたしがいっていることとは無関係です。それとも量子力学の多世界解釈をいっておられるのでしょうか。もしそうであればこれもちがいます。多元的宇宙とはなにをいっておられるのでしょうか。パラメーターの数をいっておられるのでしょうか。

わたしはDブレーンについて語っております。もちろん専門的な知識があるわけではありませんが、理論物理学者のマルダセナによればDブレーンにおける、おそらくはひもどうしの相互作用によってホログラム映像がつくられる可能性があるということです。

ホログラム映像がつくられるとして問題は誰がそれをみているのかということです。ホログラム映像は人間の映像をつくりだすはずですが、こうした映像人間がホログラムをみている可能性はないということです。ではいったい誰がみているのか、トキさんはいかがお考えになられますでしょうか。

もちろんホロクラム映像はドリーミングボディ(大日如来)がつくりだす夢のようなものであるはずなので、トキさんがいっておられるように実体はもちろんないものと考えます。

いずれにしても問題は、誰が何をどうやってみているのかということです。理学部出身のトキさんにはぜひともこのあたりの見解をお聞かせねがいたいものです。雅春先生の御文章ではこのあたりがまったく語られておりませんので、できれば雅春先生の御文章にもとづいた見解をおねがいいたします。

5706トキ:2015/09/20(日) 23:27:48 ID:Uri1CqDQ
>>5703

 追伸です。

 難しい論考ですが、宇宙の中心が自分である、というのは、おそらく認識の場では
そうなんだと思います。多元的な宇宙観というか、宇宙のあり方については、まだ確定的
な定説は存在しません。しかし、仮にそれを前提にして考えます。そこで、多元的な宇宙
をマルチバースと呼ぶ事にすると、マルチバースが存在するような空間が存在するとし、
そういう場所がある以上は、そこに中心はあり得ます。それは、おそらくは宇宙意思とも
言うべき存在でしょうが、宇宙意思と密接に繋がっている以上は、確かに、それをもって
宇宙の中心と考える事は可能だと思います。

 しかし、それをもって、宇宙全体と考えるのが適当か、どうかは私は違うような印象は
あります。もちろん、それは否定するまではいきません。考えようによっては、宇宙の
中心でもあり、宇宙全体とも考える事も可能だと思います。

 要は、人間が三次元というレベルで宇宙を表現する以上は限界があり、それはそれで
仕方がないです。その上で宇宙を表現しようとすると、やはり齟齬は生じるのかもしれ
ませんね。

 ただ、それをもって、宇宙の中心である、ということを否定するまでにはいかないと
思っています。

5707純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:34:11 ID:DD4jWV6M
雅春先生の御文章は最初のほうだけを読むと現象宇宙について語っておられるようですが、最後のところではいきなり実相宇宙の話になっております。いったいどの宇宙の話をなさっておられるのでしょうか。

また「映像が映像をみている」は三次元に限定されるとのことですが、これを多次元に拡大した場合にはどのような考え方がふさわしいとおもわれるのでしょうか。後学のためにもぜひともご教示ねがいたいところです。

それとマルチバースではなく今あるこの宇宙、ユニバースに限定して話をすすめていただければとおもいます。

5708トキ:2015/09/20(日) 23:38:54 ID:v4x/1O0A
>>5705

 先の投稿は、5704の投稿を拝見しないままだったので、失礼をしました。
純粋教理批判様の言われている事がまだ理解をしていませんので、的外れな点はお許し下さい。

 イメージとしては、私は、スパコンの中の世界が近いのではないか、と想像しています。
スパコンで、生命体の生理作用をシュミレートしたり、気候変動のシュミレートをしたりします。
外部に見せる時にはモニターには映し出しますが、部内で情報を処理する場合では、そういう事
は一切しません。精密講習会で、谷口雅春先生は、実相世界とは具体的な世界だ、と言われてい
ましたが、スパコンの中の情報に近いものが、実相世界のようなものではないか、と想像をして
います。

 谷口雅春先生がそれについて語られているか、という点は私は知らないのですが、おそらく
ご存知であっても、それほど語られていなかったという予感はあります。

 明日は早いので、今日は寝てしまいますが、難しい問題なので、少し思案します。
ご投稿に深く感謝申し上げます。

5709純粋教理批判:2015/09/21(月) 08:12:23 ID:DD4jWV6M
わたしの記憶では、マルチバースはインフレーション理論でもあったはずですが、この理論は旧ソビエトの科学者が考えていたもので、したがって西側に知られたのは冷戦終結後ですから、雅春先生がマルチバースについて語っておられる可能性はないとおもわれます。

話をユニバースに限定いたしますが、わたしが問題にしておりますのは、ユニバースのホログラムはひとつなのか複数なのかということです。雅春先生はひとつであると考えておられるようです。

ひとつとすると、人類はホログラム宇宙(ユニバース)にあらわれたホログラム映像ということになってしまいます。それぞれの人がホログラム映像ということになります。雅春先生はホログラムとしてあらわれた映像人間を宇宙の中心といっておられることになります。

ここで問題が生じます。このホログラム映像をみているのは誰かという問題です。この考え方ですと、それぞれの映像人間がホログラムをみていることになります。ホログラムとしてあらわれた映像人間がホログラム宇宙をみていることになります。これがわたしのいう「映像が映像をみている」状態です。

映像が映像をみる。これはありえない。それぞれが宇宙の中心とされる雅春先生は「映像が映像をみている」といっておられることになります。

5710純粋教理批判:2015/09/21(月) 09:36:09 ID:DD4jWV6M
わたしは宇宙はひとつでもホログラムは複数であると考えます。70億の人類がいれば70億のホログラム宇宙があると考えます。ここが雅春先生とのちがいです。

ホログラムをつくりだしているのは人間です。人間が大日如来です。

5711トキ:2015/09/21(月) 10:40:56 ID:1YpTHrO6
>>5710

 お返事が遅れてすみません。

 今、思い出したのですが、10年以上前、新聞に変わった死亡広告を出した人がいました。

 趣旨は、確か、

 「自分は無宗教であす。だから葬式はしない。と、同時に、今、見えている世界は自分が存在する
限りは見えているが、自分が死んだら消滅するのではないか、という疑問をいだいている。それを検証
したいので、自分が死んだら、自分がこういう事を考えていた、という広告を新聞に出すようにと、私
の家族に遺言として残した。」

というものだったと記憶しています。

 どうやら複数の新聞に掲載されたみたいで、中外日報が後日、記事にしていたのも読みました。
宗教という観点から、参考になる内容だったのでしょう。

 私がそれを読んだ、という事は、ホログラムの世界が単一である、という証明にはならないが、一つ
の資料にはなるかもしれません。(笑) どなたか、お時間のある人は中外日報や他の新聞社に尋ねて
みてください。

 上の話は、ホログラムが複数あるという考えは、昔からあった、ということでしょう。
でも、その証明は容易ではない、ということも示すものだと思います。

 それはともかく、天使の言葉の中には、「百万の鏡をおけば 一個も百万の姿をあらわす」という
言葉があります。谷口雅春先生が、ホログラムが一つなのが70億なのか、という点については、おそら
くは、その中間のような理論をお考えではなかったのではないか、と勝手に想像をしています。「一即多」
ということがそれではないかと考えています。

5712純粋教理批判:2015/09/21(月) 11:06:46 ID:DD4jWV6M
誤解があるようです。70億の人類が70億の宇宙をつくっているとすれば、個人がつくりだしているホログラムはそのうちのひとつにすぎません。これが消滅したところでほかの人たちがつくりだしているホログラムが消えるわけではありません。

5713純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:09:18 ID:DD4jWV6M
宇宙がただひとつのホログラムでできているとすれば、あるひとりの超越者によってそのホログラムはつくられたことになります。人間もまた超越者によってつくられたホログラムのひとつということになります。

超越者によってつくられた映像に人間の意識がやどった、それが宇宙の中心としての人間である、とするのが雅春先生のお考えのようにおもわれますが、このようなモデルで映像に意識がやどる仕組みが説明できるでしょうか。人間の持つ多様な要素が説明できるでしょうか。人間関係がなぜ生じるのか、その仕組みを説明できるでしょうか。

たとえば脳には複雑な機能がありますが、それらの機能がいかにして映像に組み込まれたのかの仕組みがこうしたモデルでは説明できないでしょう。ただひとつの可能性は、超越者ではなく人間が共同でひとつのホログラムをつくりあげた、とする可能性であるとおもわれますが、これでは肝心の映像が個人を離れたところにつくられてしまい、人間は離れた場所からそれをみているだけ、ということになりはしないでしょうか。

ホログラム宇宙は人間のなかにつくられなければならない。人間は宇宙の中心でなく宇宙の作り手である。ホログラム宇宙は人間のなかにある。これがわたしの考えです。


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