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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

596Mission Log:2010/01/18(月) 22:02:51 ID:q4xvWIEE0

 追記:各種レポートを総合しての作戦立案

 四チームを編成し、爆弾運搬班、中枢部制圧班、通信設備確保班、破壊工作班に分ける。
 侵入は別々の場所から同時に行い、突入前に首輪を解除するものとする。
 メンバーは後で決める。ただし各チームの戦力がなるべく均等になるように配慮はする。
 作戦実行はサリンジャーの指定した時間の一時間前。こちらから先手を仕掛ける。
 後手に回ると圧倒的な戦力差で叩き潰されてしまうからだ。とにかく速戦即決しかない。

 最後に一つ。
 生きて、このミッションを完遂させましょう。


【時間:3日目午前07時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

→B-10

597終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:15:25 ID:AA.5FDBE0
 
「護られて、助けられて、生き延びさせられて」
「生まれさせられて、罪を負わされて」
「そこに幸福は、あったのかな」



「ねえ―――教えてよ、水瀬名雪」




***

598終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:15:50 ID:AA.5FDBE0
 
 
そこには花が、咲いている。
白い、白い花。
咲き乱れて、散ることもなく、ただ燦然とその純白を、緋色の月の下に晒している。

ざあ、と風が吹いた。
白い花の海は静かに、大きく波打ち、しかし花弁の一枚も舞い上がらせることなく、
やがて純白の海原は、久遠の時を越えてそうしてきたように、再び凪ぐ。


それが、世界の最果てだった。


純白を覆うのは、漆黒の夜空。
星一つない闇の中、見開かれた瞳のような赤い月だけが、咲き乱れる花々を見下ろしている。
ぼってりと、うすら赤い月光に照らされてなお白い花の海の只中に、二つの影が立っていた。
影の片方が、口を開く。

「ねえ―――教えてよ、水瀬名雪」

白に近い銀色の髪と、琥珀色の瞳。
少年といえる年頃の、それは人影だった。

「―――」

水瀬名雪と呼ばれた影は、答えない。
少年の真正面、ほんの数歩の距離を置いて立ちながら、目を細め、静かに息を吐く。

「私だけ……か」
「誰も辿り着けない、はずだったんだけどね」

肩をすくめる少年を、名雪は見つめている。

599終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:16:26 ID:AA.5FDBE0
「神様はいつだって余計なことばかりしてくれる。気まぐれで、身勝手で。
 実際僕らのことなんか本当のところはどうでもいいと思ってるんじゃないかな」
「お前は……そうか」

首を振って苦笑を浮かべた少年の言葉には答えず、細めた目の奥に奇妙な光を宿らせた名雪が、
口の中だけで呟く。

「お前が、そうなのか。これまでも、ずっと」
「……? ああ、なるほど」

一瞬だけ怪訝な顔をした少年が、すぐに何かに納得したように頷く。

「僕の影とは何度も会っているんだよね。お久しぶり、そしてはじめまして。
 その節はお互い……ええと、殺し合ったり助け合ったり、したのかな?」
「……」
「そう、影。僕はここから、」

と、純白の花畑と赤い月の夜空を見渡して、

「……ここから出られないからね。たくさんの影が、世界中の色んな時間の色んな場所に散らばってる。
 もちろん、キミたちをこの戦いに招くのも、それを見届け、推進するのも大事な役目だよ。
 僕は彼らではないから、実際に何をしてるのかはよく分からないこともあるんだけどね」

一息に告げて、少年は悪びれずに笑う。

「まあ、大体の役目は僕たちの思い描く未来を造るためのお仕事、ってやつかな。
 他にも、その時々で細々したこともお願いするけど―――」
「終わるのか」

長広舌を、遮って。
少年の言葉を聞くや聞かずや、ただじっとその琥珀色の瞳を見つめていた名雪が、
おもむろに口を開いていた。

600終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:16:53 ID:AA.5FDBE0
「世界は、また終わるのか」
「……」

その言葉に、今度は少年が黙り込む。
僅かに見上げた瞳が、緋の月光を受けてゆらりとその色を変える。

「この戦いは……そういうものだろう。終わり、続く世界の、ここが中心か。
 終わらせるのがお前の企みか。或いは終わり、終わる果てに何かを見出すか」

刹那の沈黙。
表情を消した少年が、小さな称賛と驚愕とを含んだ声を漏らすと同時、浮かべたのは、笑みだった。

「……へえ」

苦笑でも、嘲笑でもない。
純粋に興味深げな、まるで難問に挑む学究の徒のような笑み。

「さすがに、優勝者は違うね。積み重ねた時間は、キミたちをそこまで真実へと近づけたのか。
 亀の甲より、というやつかな」

冗談めかした少年の視線を受けても、名雪は微動だにしない。
ただ静かに、池の底に沈む藻が、水面から届く光を見上げながら佇むように、少年を見据えている。

「正解。その通りだよ。この戦いを経て、世界は終わる。この戦いが、終わりの始まり。
 あとは転がり落ちて、終わっていく。止めようもなく、救いようもなく。キミの知っているようにね。
 ……うん、そのはずだった」
「はず、だった?」

思わせぶりな少年の言葉に、名雪が眉根を寄せる。
そんな名雪の様子に肩をすくめ、ひとつ天を仰いでから少年が、ぴ、と名雪を指さす。

601終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:17:42 ID:AA.5FDBE0
「だってキミたち、生きてるじゃない」
「……」
「こんなにたくさんの大きな可能性が残ったら、世界はまだ終わらない。終われない。
 キミたちという可能性はきっと、どうにかして延命させてしまうんだ。
 本当は不治の病で手の施しようもない、この世界をね」

大きく、少年が首を振る。
気負う子供の、走って転ぶのを見るように。

「終われない世界はだから、だらだら、だらだら……ゆっくり衰えながら、死んでいくしかない。
 時間がかかるよ。ロクでもない時代が、ずっと続く。誰も幸せになれない世界だ」

深い溜息を、ひとつ。

「僕たちはそれを知ってる。どうしようもない世界が、どうしようもないまま続く時代の惨さを知ってる。
 どうやったって救えないことを、どう頑張ったって変えられないことを、嫌っていうほど、知ってるんだよ。
 だから、終わらせてきたんだ。もう一度初めから、今度は上手くいくように願って。
 誰も幸せになれない時間なら、誰も望まない未来なら、そんなものはだって、いらないじゃないか。
 僕たちが渡す引導で、世界は苦しまずに、終わっていけたんだ。これまでずっと、そうしてきた。
 今度だって、そうなるはずだった……キミたちが必要以上に頑張ったりしなければ、ね」

顔を上げ、少年の視線は眼前、名雪を射貫く。

「キミたちは生き残り、せっかく集めた呪を解き放ち、挙句に神様まで殺してしまった。
 もう世界は簡単には終われない。苦しみながら死んでいくより他にない。
 そうして終われば、もう次も、ない」

託宣のように、告げる。

602終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:18:16 ID:AA.5FDBE0
「もう、世界は繰り返さない。終わるんだ。苦しみ抜いて。誰も幸せになれないまま。
 キミたちがやってのけたのは、そういうことだよ。ひどい話だね」

言われた名雪はしかし、少年を真っ直ぐに見据えたまま揺らがない。
風に靡く少年の銀髪が琥珀色の瞳を二度、三度と隠し、四度覗いた頃、影の囁くように、口を開く。

「私たちが死ねば世界は終わる」

どろどろと、粘つくような声で。

「成程、下らない―――ならどうして、お前が直接殺さない」

吐き棄てるような言葉が、少年の足元に絡みつく。

「どこにでも、いくらでもいるのだろう、お前たちは。
 機会など狙うまでもない。生まれてすぐに殺してしまえばいい。
 そもそも生まれてこないようにするのだって簡単だろう。
 お前たちが本当に、最初から、存在しているのなら。
 ここまで大袈裟に、大掛かりに私たちを招いたところで、暇潰し以上の意味はないだろうに。
 それほどの力を持ちながらお前は、お前たちは何故、世界を裏側からしか、動かさない」

独り言じみた囁きは、それでも問いのかたちを成して、少年へと向けられていた。
ゆらゆらと、煙草の煙のように大気を満たして穢す名雪の問いを、少年は一息に吸い込んで、
舌と肺とで味わうようにほんの僅かに息を止め、それからゆっくりと吐き出す。

「……たとえば、この馬鹿馬鹿しい催しが行われなかったら、どうなると思う?」
「……」

少年の口から漏れる吐息は、答えを成さない答えを伴っていた。
じっと次の言葉を待つ名雪に苦笑して、少年が続ける。

「簡単さ。世界は滅びない」

603終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:18:56 ID:AA.5FDBE0
手の平を上に、小さく肩をすくめておどけてみせる少年の、透き通る瞳はしかし、
一欠片の愉悦も含んではいない。
そこにある色は、詠嘆や諦観や、或いは絶望と呼ばれるそれに、よく似ていた。

「今回と同じだよ。この戦いで生き残るただ一人が出なければ、世界は続くんだ。
 病んだまま、弱ったまま、生き続けさせられる」

丁度キミみたいにね、と薄暗い笑みを浮かべる少年に、名雪は沈黙と無表情を以て返答する。
小さく鼻を鳴らして少年が言葉を接いだ。

「この戦いの勝者にはね、世界の行く末を変えるだけの力が備わってるんだ。
 だってそうだろう、世界で一番大きな可能性たちの、その頂点なんだから」

一番大きな、と告げるとき、少年の手が宙に大きな円を描いていた。
翳るままの表情と、大きな身振り。
噛み合わぬそれを、少年はまるで初めから決められた動作ででもあるかのように、こなしていく。

「一番を決めて、それ以外の全部が消えて、だから世界は細く細く、尖っていく。
 そうしていつか、世界の可能性の全部を乗せたキミの重みを支えきれずに、折れるのさ」

細い棒を手折るような仕草で薄く、暗く笑って、ひらひらと軽く手を振る。

「それで、終わり。やり直し。たったひとりだけが残って、もう一度初めから、ね。
 それだけさ。それだけが、僕たちが長い時間をかけてようやく見つけた、たったひとつのやり方。
 世界を苦しめずに、どうしようもない時代を生きて苦しむ人間を出さずに、今を終わらせる方法なんだ」

言い放って、名雪を見据え、頷く。

604終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:19:20 ID:AA.5FDBE0
「うん、そうさ。その通り。
 キミの覚えている、あの最初の世界―――あの滅亡は、キミがいたから引き起こされたんだ。
 たったひとり生き残った、生き残らされたキミの持つ可能性に耐えきれずに」

名雪は、沈黙を保っている。
僅かな間を置いて、少年が薄昏い笑みを、静かに深める。

「嘆く必要なんてないさ。キミは世界を救ったんだ。あれ以上にひどくなる前に。
 それは、在り続けたいと願っただろうさ。世界も、そこに生きる命もね。それが本能だ。
 だけど、駄目なんだ。病んだまま在り続ければ、苦しむのは彼らなんだから。
 苦しんで、苦しんで、やがては在ることを、在り続けたことを、これまでに在ったことを悔み出す。
 幸せであったはずの時間も、健やかで、穏やかで、輝いていたはずの時間も、忘れてしまったみたいに。
 それは、とても不幸なことさ。とても、悲しいことさ。だから、そうなる前に終わらせなくちゃいけない。
 そうしてまた初めから、幸せな時間をやり直すんだ。ずっと、ずっとそうしてきたように」

細く、息を吐く。
視線を上げて夜空を見上げ、それから足元にどこまでも拡がる白い花の海を見下ろして、
再び名雪を見つめる。

「それを悪と、断じるかい。それを愚かと、笑うかい。水瀬名雪は、繰り返す者は、僕を」

そうして言葉を切り、少年は口を閉ざす。
沈黙が、降りた。
名雪は、動かない。
緋色の月光と、純白の海原と、琥珀色の視線に包まれて、名雪は立っている。
立って、ただ真っ直ぐに見つめる少年の瞳を見返して、水瀬名雪はそこに在った。

605終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:20:02 ID:AA.5FDBE0
「―――」

沈黙が凝集する。
月光が結晶する。
純白が昇華し久遠を封じたような琥珀がその内圧に耐えかねて微かに揺れた、その刹那。
ただ一言。

「―――どうして」

ただ一言が、放たれていた。
遥かな星霜を経て老いさらばえた少女の口から紡ぎだされたそれは、あらゆる色を閉じ込めたような、黒。
黒の一色を以てのみ表せる、一粒の言の葉。
それは追及であり疑念であり、詰問であり呵責であり、問責であり審問であり査問であり、
或いは面詰であり非難であり、指弾であり弾劾であり、嘲罵であり軽侮であり侮蔑であり、
懐疑であり猜疑であり疑義でありそのすべてでもあり、そして既に、問いですらなかった。

「……、」

反射的に何かを、どこか常には見せぬ奥深くから湧き上がった何かを言い返そうとでもしたように
口を開きかけた少年が、しかし僅かに首を振り、代わりに重く澱んだ息を吐いた。

「どうして? どうしてだって?
 ……決まってる、生まれるためさ、僕が、僕たちが」

告げた言葉に、揺らぎはなく。
しかし、そこには込められた力もまた、ない。

「幸せな世界に、病み衰えない世界に生まれて、幸せになりたいんだ、僕は。僕らは。
 それだけを願ってる。願ってきた」

ひどく掠れた、声。
とうの昔に住む者を失った廃屋の、荒れ果てた一室に忘れ去られた壁紙が、時を経て黄ばんでいくような。
触れれば脆く崩れそうなほどに乾ききった、それは声音だった。
どこか遠くを見ていた琥珀色の瞳が、

「だけど」

すう、と翳る。

「それも、もう終わりだ」

午睡の安らぎを、黄昏の朱が染めるように。
夜を告げる色が、その瞳を満たしていく。

606終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:21:37 ID:AA.5FDBE0
「足元を見てごらん。キミの周りを見てごらん」

そこには花が咲いている。
風に揺れ、しかし散ることもなく咲く、純白の花。
儚げで可憐な、白い、白い花。

「病んだ世界は、それでも望むんだ。在り続けることを。
 いつか、老いの辛さも、病みの苦しみもなくなって、ただ穏やかに在れると、信じているから。
 だから、終わる世界は夢をみる」

花は、一面に咲き誇っている。
緋色の月の下、どこまでも、どこまでも。

「終わらずに在り続ける、ただそれだけを祈るような、夢」

降り積もる雪のように。
或いは、万物に等しく眠りをもたらす、冬の灰のように。

「夢をみながら、キミたちの重みに耐えきれずに、世界は終わっていく。
 だからそれは、種を残すんだ。夢をみる種を」

白く、白く、ただ白く、大地は覆われている。

「終わりたくはなかったと、永劫を在り続けたかったと叫ぶ、純白の花を咲かせる種さ」

月下、咲くのは。

「そう、」

白い、白い花。

「この花の一輪、一輪が嘆きなのさ。終わる世界の悲しみだ。終わった世界の苦しみだ。
 その結晶が、この花だ。この地に咲く、僕の力の源だ」

さわ、と。
風に揺れて泣く、純白の群体が。
水瀬名雪を、囲んでいる。

607終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:16 ID:AA.5FDBE0
「キミの殺した、これが世界の詠嘆さ。受け止めてみせてよ、可能性」

さわ、さわ、さわ、と。
白の海原が泣く。
嘆きの音が、夜空を包んで揺り動かす。

「贖いを求める声を」

さわ、さわ、さわさわさわと。
花が、泣く。
泣いている、はずだった。
それは、ただの一輪であれば、微風に揺れる可憐な花でしかない。
ただ静かに、密やかに、散ることもなく赤い月を見上げるだけの花。
しかし、風に啜り泣く白い花は幾千幾万、否、幾億を超えて、見渡す限りを埋め尽くすように、
大地を純白に染め上げている。
無限をすら思わせる嘆きの重奏は、互いに重なり合い、混ざり合ってぐねぐねと捻じ曲がり、
次第に別の貌を見せていく。

「救いを求める祈りを」

さわ、さら、さわ、ざわ、ざら。さら、さわ、ざら、さら、ざら、ざらざらざら。
ざら、ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。
既に風は、やんでいる。
それでも音が、止まらない。
彼方に吹く風に揺れているのか。
或いは、嘆きの音のそのものが、隣り合う花々を揺り動かしているものか。
いずれ、音は、聲は、止まらない。
純白の水面を覆う嘆きは、今やどこか、嘲うような聲にも似て、緋色の月光をひりひりと焦がしていた。

608終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:34 ID:AA.5FDBE0
「安らぎを求める、切なる願いを」

月光を捻じ曲げて、花々は泣いている。
大気を磨り減らして、花々は嘲っている。
歪む。音に満ちて、夜空が歪む。
歪む。歪に満ちて、大地が歪む。
嘲う。嘆く。花が嘲う。花が嘆く。
嘲う。嘲う。嘲う。嘲う。嘲う。
歪みが歪みを生み出して、歪みに生み出された歪みが歪みを歪めていく。

「これが―――終わる世界さ」

純白の海原が荒れ狂う。
大気を歪める音は散らぬ花弁を波濤と変え、波濤は刃となり槍となり、宙を吹雪くように舞う。
漆黒の夜空が融け落ちる。
月光を歪める音は星ひとつない空を押し潰し、引き伸ばして隙間を作り、隙間から漏れた光で星を造った。
宙を舞う槍が空を刺し、吹雪く刃が天を突く。
突かれた星が魂消たように走り出し、天球を駆けて隣の星を衝き動かす。
隣の星がそのまた隣にぶつかって、星の散乱は瞬く間に夜空の全部に拡がっていく。
漆黒の空は幾つもの刃と槍とで切り裂かれ、その度に生まれたばかりの星々が犇めき合って、
そうしてその中心に、月が口を開けていた。
赤い月は、穴だった。
真黒い玉突台に空いた、大きな赤い、暗い穴。
夜空の真ん中で、蠢き犇めく星々が押し出されてくるのを、じっと口を開けて待っている、
そのうすら赤いぼんやりとした月に、次から次へと光の粒が飛び込んでいく。
星を呑んで、光を喰って、月が大きくなっていく。
血を啜る蛭の、醜く肥え太って赤く膨れるように。
赤い月が、星を啜って、夜空を齧って、膨れ上がっていく。
ぼってりと、赤く、紅く、緋く、真円を描いて、月が、空を覆っていく。

「―――」

ざらざらと音が満ちる。満ちる音が空を歪める。
歪んだ空に浮かぶ月が、ぎょろりと目を向いた。
もう、夜空は見えない。赤い、紅い、瞳だけが、
じい、と見つめている。音が、嘆き、嘲う音が、
海原と瞳と、白と赤を、歪め、撓め、拡散する。
瞳はいまや、牙だった。顎の開き、閉じる如く。
瞬きが、大地を喰らう。純白を一息に呑み込み、
月の瞳の顎に呑まれて、音が、嘲い、嘆く聲が、

―――消えた。


***

609終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:59 ID:AA.5FDBE0
***


月と、花と、音と、空と瞳との只中で、水瀬名雪は目を閉じていた。
恐怖の故にではない。
無論、諦観の故でにも、まして絶望の故にでも、なかった。
それは、確信の故にである。
そしてまた同時に、それはある種の恐怖と、諦観と、絶望を伴う確信でもあった。
無限に近い詠嘆の嵐の中で、名雪は己が確信の否定されるのを希求し、またそれが叶わないことを理解していた。

救われるだろう、と。
そう思う。
無限に近い有限の嘆きは、救われてしまうだろう。
それが、救われぬものという存在の、定義だ。

ただ一言を、告げさえすれば。
否、口にする必要すら、なかった。
ただ願えば。祈れば。求めれば、それは叶うのだ。

そうして、気づく。
救われぬと。
報われぬと嘆きながら、生き続けてきたのは。
水瀬名雪が、それを願わなかったからだ。
願えば、叶っただろう。
祈れば、救われただろう。
求めれば、報われただろう。

それをしなかったのは、何故だろう、と。
問いかけても、自身の内から返る答えの、あるはずもない。

きっとそれは、意地とか矜持とか、そういう風に呼ばれるものだ。
これほどに摩耗し、鈍化し、錆びついてなお、水瀬名雪の中に屹立し続けた、ただ一本の細い柱。
この世の果ての只中の、その一番の奥底でなお、水瀬名雪を阻むもの。

610終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:23:22 ID:AA.5FDBE0
だけど、と。
音の消えた世界の中で、名雪はほんの僅か、笑う。
それは、古びた鍵を手に、自らの足枷を眺める年老いた女の、力ない笑みだ。
己が手で己自身を律する恐怖と、昨日と違う明日が訪れることへの怯懦と、
幾枚かの小銭だけを蓄えた壺と、虫の涌いた埃だらけの布団を置いた寝台と、
晴れ渡った青い空の広がる小窓の向こうとを順に見つめて、なおじっと動かない奴隷の、
逡巡と悔悟と、追憶と追想と夢想とが入り交じった、笑みだ。

―――ああ、ああ。
もう、意地を張るのも、疲れた。

力なく笑んだまま、希望ではなく摩耗から、幻想ではなく鈍化から、
水瀬名雪は、己が心の中にある、細い柱を、そっと押す。
鍵穴に差し込まれた真鍮の、拍子抜けするほどあっさりとした小さな音を立てるように、
柱が、崩れた。

611終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:23:42 ID:AA.5FDBE0
「救われなかった世界と、人はいう」

それは、ただ、眠っていた。
眠っていただけだった。

「違う」

それは、消えない。
それは、滅びることもない。

「それは、その力を持つ者の前にあって、名を変える」

誰に知られることもなく。
誰に惜しまれることもなく。

「救われるべき、世界と」

ただそれが、求められるそのときを、待っている。
その名を呼ばれる、その時を。

「簡単なんだ、そんなことは」

その名を呼ばれるとき、錆は剥がれていく。
その力を求められるとき、煌きは、蘇る。

「私の好きな人なら」

それは、黴の生えた襤褸を纏った、みすぼらしい老人だ。
或いは、取り立てて見るべきところのない、凡庸な青年だ。
また或いは、教養もなく毎日の労働に追われる、無力な女でもあった。

しかしそれは、それを求める者の目には、ただ貴く、雄々しく、誇らしく映るのだ。

それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も美しく刃を捌く剣の遣い手であれた。
それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も速く空を翔ける天馬の騎手であれた。
それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も高らかに正義を謳い上げる、最後の砦であれたのだ。

だから、告げる。
ただ一言、その名を。

「―――たすけて、祐一」

称してそれを、救世主という。



***

612終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:24:01 ID:AA.5FDBE0
***



そして彼は、蘇る。



***

613終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:24:26 ID:AA.5FDBE0
***


白銀の鎧があった。
量販店の棚に山と積まれた、安っぽいフリースのジャケットがあった。

悠久を凍りつかせたような、紫水晶と同じ色の瞳があった。
悪戯っぽい、どこか幼さの抜けぬ黒い目がぼんやりと開かれている。

冬の空の月光を紡いだような銀色の髪が風に靡いていた。
教師の目に止まらぬ程度にほんの僅かに脱色された濃茶色の、無造作な髪だ。

その背には翼が生えている。
三対六枚、磨きあげられた鏡のような銀の翼は、誰にも見えない。

美しい、それは少年だった。
青年へと移り変わる時期の奇妙な歪さを湛えた、道行く者の誰ひとりとして振り向かぬ、そんな少年だ。

それは、救済のためのシステムだ。
それは、ただそこにあるだけのものだ。

それは、相沢祐一という。
それを、相沢祐一という。

そして彼の前に、月も星も、夜空の隙間も純白の嘲う海原も、
何もかもが、沈黙した。

614終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:25:10 ID:AA.5FDBE0
相沢祐一は、大地を呑み込んだ月の瞳と、呑み込まれた花々の咲き乱れる大地とを無視して、
ただひとり、そこに立っている。

立っているから、そこには大地があった。
大地があるから、それは月に呑み込まれてはいなかった。
大地を呑み込んでいない月は、ただ天空の彼方に赤く浮かんでいる。
天空に浮かぶだけの月は、だから瞳などではなく。
そこはただ、月下の花畑でしか、ない。

何もかもが、かくあれかしと定められたままにそこにあり、故にそこには三つの影が、
緋色の月光に照らされて、立っている。

ざあ、と。
風に揺れる花々を見渡して、

「……、道化め」

と、琥珀色の瞳の少年が、吐き棄てる。
相沢祐一は黙して立ち、答えない。
水瀬名雪もまた、口を開こうとはしなかった。
ただ僅かに微笑を浮かべながら、祐一を見つめている。
優しげで、切なげで、悲しげで、誇らしげな、それは微笑だった。

「……錆び付いた剣。ノイズ混じりのロジック。
 そんなものが今更出てきて、何になるというんだい」

名雪の表情に、僅かに眉根を寄せながら少年が言う。
興を削がれたとでも言いたげな声音。

615終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:25:42 ID:AA.5FDBE0
「水瀬名雪。ねえ、今やキミは世界で一番の可能性のひとつなんだ。
 もうこんな時代遅れの張りぼてより、よほど大きな存在なんだよ。
 知っているだろう? これはもう、自分が何であるのかも分かっていない。
 自分の姿も保てない。自我だって、あるかどうかも分からない」

横目で相沢祐一を睨みながら、少年が続ける。

「これはただのシステムさ。もう駄目になったシステムでもある。
 一度限りの緊急避難くらいには使えるかも知れないけどね。それだけさ」

ぼんやりと輝き、ぼんやりとその輪郭を薄れさせ、ぼんやりと美しく、ぼんやりと凡庸に、
ただ立ち尽くしているような相沢祐一を、ひどくつまらないものを見たとでもいうように
小さく首を振り、溜息をついてから、少年は告げる。

「消えろ。お前なんか―――必要ない」

それは、崩壊の合言葉だった。
かつて完全であったもの、かつて瑕疵なく在ったものを容易く滅ぼす、ただの一言。
請願に呼応し救済を希求する、その存在意義が故の陥穽。
純粋な否定は、転移する癌細胞のように、相沢祐一を規定する要素を侵食し、破壊する。
果たして、少年の言葉が響くと同時。

「―――」

立ち尽くしていた相沢祐一の、時が止まる。
風に靡いていた銀色の、或いは濃茶色の髪までが、精緻な彫像の細工であるかのように凍り付いていた。
言霊が染み入るように、相沢祐一から色が失せていく。
紫水晶の、或いは飾らぬ黒い瞳が、白銀の鎧が、或いはありふれた上着が、誰にも見えない、
或いは誰の目にも鮮やかな三対六枚の翼が。
まるで世界から祐一を包む空間だけが彩度を失ったように、そのすべてが、薄暗い灰色へと変じていく。
ゆらり、と揺れたのは相沢祐一の身体だ。
否、祐一自身は未だ指の一本、髪の一筋すら動かしてはいない。
揺れたのは、その輪郭だった。
水に落とした飴玉の、ゆらゆらと溶けてその形を失っていくように。
相沢祐一の全身が、大気との境界線を揺るがせていた。
薄れ、揺らぎ、透き通り、混じり合い、融け合って、相沢祐一という存在の輪郭そのものが、
緋色の月光に満たされた大気の中に流れ込んでいく。
喪失と崩壊とが、止まらない。
それは紛れもなく相沢祐一がこれまでに何度も辿ってきた、消滅へと至る過程だった。

616終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:26:24 ID:AA.5FDBE0
「……さあ、邪魔者は消えるよ。続きと行こうか、水瀬名雪」
「……」

向き直った少年の、視線の先。
水瀬名雪はしかし、少年を見やりすらしない。

「……、何がおかしい?」

眉根を寄せたのは少年だった。
微動だにせず相沢祐一を見つめる、水瀬名雪の表情。
ただじっと視線を向けたその顔には、微笑だけが浮かんでいる。
相沢祐一の顕現したときと、まるで変わらない微笑。
滅びゆく姿を見つめる笑みでは、なかった。
つられるように祐一へと視線を戻した少年の表情が、険しくなる。

「……!? どういう……」
「無駄だよ」

水瀬名雪の、静かな言葉。
二対の視線の前で、相沢祐一に、変化が現れていた。
崩れゆく灰色であったはずの、その身体。
薄れかけた色彩が、夜の明けるように鮮やかに、彩りを取り戻そうとしていた。
色の戻るのと、歩調を合わせるように。
全身の崩壊もまた、止まっていた。
ゆっくりと、引いた波が寄せるように、輪郭がその境界線を取り戻していく。

「無駄なんだ」

白く長い指先の、吹き抜ける風の愛撫を受けるままに立つ相沢祐一を見つめながら、名雪が言う。
その眼前、銀色の翼が、夜空を裂くように蘇っていく。

617終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:27:15 ID:AA.5FDBE0
「祐一は、消えない。そんな言葉なんかに、負けたりしない」
「……っ!」
「だって、ここには」

気色ばむ少年を無視するように、名雪が両手を広げて周囲を見渡す。
そこには、

「祐一を必要としている世界が、こんなにも、あるんだから」

白い、白い花々が、咲き乱れている。
ざあざあと泣く、純白の海原が、相沢祐一を押し包むように、拡がっている。

「―――」

すう、と。
深紫色の瞳を虚空に向けたまま、花々のざわめきに身を任せるように立ち尽くしていた祐一が、
音もなく唐突に、その場に跪いた。
片膝をつき、屈み込んでその指を伸ばした先に、一輪の花がある。

「……つまらないことを」

呟いた少年に、笑みはない。
その瞳には蔑みと嘲りとが、ありありと暗い炎を燃やしている。

「言ったろう、その花の一輪が、終わった世界の結晶だって。
 周りを見なよ。それが幾千、幾万……どれだけあると思ってる?
 無限の世界、その命すべての嘆き、哀しみ、苦しさ、寂しさ―――。
 そんなものに、勝てるはずがない」

吐き棄てられた少年の言葉にも、名雪は錆び付いた微笑を崩さず、ただ一言を返す。

「勝つんじゃない。救うんだ」

618終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:27:40 ID:AA.5FDBE0
その声が静かな風に融けるのを、合図にしたように。
相沢祐一が、白い花に、触れる。
手折るでもなく、千切るでもなく。
微かに揺れる純白の花を、愛撫するように。
甘やかに、その手で包む。

「私は知ってる」

水瀬名雪の見つめる、その眼前。
まるで祐一の手に、その身を委ねるように。
白い花が、薄緑色の細い茎ごと、抜ける。

「本当の愛を、そんな風に呼ばれるものを見せてくれる、世界でたったひとりの人」

ずるりと抜けた薄緑色の茎には、奇妙なことに、根がなかった。
引き抜かれた大地に、根の残っているでもない。
まるで切花が一輪、大地に挿されていたように、その白い花は咲いていたのだった。

「幾千の嘆きも、幾億の悲しみも、たとえばそれが、無限にあったとして」

ぽたり、と。
垂れ落ちるものがあった。
地に埋もれていた細い茎の、切り取られたような断面。
そこから、ぽたり、ぽたり、ばたばた、と。
次第に勢いを増しながら垂れ落ちるのは、赤い、赤い汁だった。
黒みがかった赤褐色は不透明で、粘ついていて、どろり、ばたばたと。
まるで鮮血のように、止め処なく、流れていく。

「そんなものは、関係ない。関係ないんだ」

619終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:02 ID:AA.5FDBE0
その手から溢れ、腕に伝って白銀の鎧を染める深紅の液体を、ほんの一瞬見やって、
相沢祐一が、その白い花に、顔を寄せる。
捧げ持った花を、そっと抱きしめるように、いとおしむように。
純白の花弁に、唇を重ねた。

「祐一は、救うんだ。全部を」

赤く、紅く、血のような汁が垂れ落ちて、祐一の胸を、脚を、その身体を汚していく。
それにも構わず、相沢祐一は白い花弁へと口づけたまま、じっと花を抱きしめている。
ばたばたと、はたはたと。
流れ落ちる真っ赤な汁に、混じるように。
はたはたと、はらはらと。
一枚の花弁が、舞い落ちた。
それを、追うように。
花が、散る。
散って、舞い、緋色の月光に手を振るように、消えていく。

「―――」

祐一の唇に触れていた、最後の一枚が散るのと同時。
血のような汁も、止まる。
ただ細い葉と小さな萼だけを残した、薄緑色の茎を、祐一がそっと大地に置く。
置いて立ち上がった、その全身は深紅に染まっている。
返り血を浴びたように、或いは深い傷を負ったように、鮮血のような紅に染まって、
祐一がほんの一歩、足を踏み出す。
そこには、次の一輪が、待っていた。

620終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:29 ID:AA.5FDBE0
「そんな……」

少年の戸惑ったような呟きは、相沢祐一を止められない。
ゆっくりと膝を折った祐一が、純白の一輪を手にとって、抱きしめる。
やさしい愛撫とやわらかい口づけと、流れ出す血を浴びてなお翳りなく、嘆く世界を抱く姿と。
寸分の違いもなく繰り返される光景の最後に、白い花が、風に舞う。

「散っていくぞ、花が。救われていくぞ、世界が」

水瀬名雪の、謳うような声が響く。
そこに、流れる時はない。
緋色の月光に照らされた純白の花畑を、歩み、跪き、穢れに染まる救世の徒の前に、
時の流れの如きは、その意味を失う。
幾百の嘆きがただの一瞬に散り、たったひとつの純白の詠嘆は永劫を以て空に舞う。
幾千と、幾万と、ただのひとつと刹那と久遠とが、相沢祐一の歩みの前に凝集していた。

「やめろ……無理だ、無理なんだから……」

白い、白い花が舞う。
怯えたように手を伸ばす少年に背を向けるように、相沢祐一の行く先で、花が泣き、世界が嘆き、救われる。
救われて、いく。
純白の海原に舞う、白い花弁は波濤だった。
波濤は泡沫のように空へ舞い上がり、漆黒の夜空を、緋色の月光を、白く、白く侵していく。
可憐な白が、空と大気とを焦がし、その有り様を、塗り替えていく。


***

621終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:58 ID:AA.5FDBE0
 
「やめて……やめてよ……」

息の詰まるような白に包まれて、少年の声は力ない。
花の海原は、既に見えない。
舞い上がり、雨のように、風のように大気を押し包む純白は、果て無く続くはずの花畑の、
その果てまでが散る如く、闇を染め上げていた。
夜はもう、終わろうとしていた。
終わる夜に浮かぶ月は、夕暮れの公園に取り残された子供のように物悲しく、痛ましい。

「待ってよ……こんなのは、違うだろう……?」

ふるふると首を振って、白い闇の中、少年が両手を広げる。
眼前に立つ水瀬名雪に向かって、震える声を張り上げる。

「これは、最後の戦いなんだ……僕の、僕たちの、最後の戦いなんだから……!
 こんな風に、こんな、こんなの……だめだよ、ちゃんと、ちゃんとやらなきゃ……」

言葉にならず、それでも絞り出された声に、水瀬名雪がほんの一瞬、目を向ける。

「……、」

何かを言おうとして口を開きかけ、しかし、すぐに視線を少年から外す。
見やった先、水瀬名雪に向けて歩む、姿があった。
それきり名雪が、少年を見ることは、なかった。

「これで終わりなんだ! これが最後なんだ!」

叫ぶような声も、届かない。

「もっと、もっと遊ぼうよ! ずっと、ずっと!」

伸ばす手に、差し伸べられる指はなく。
水瀬名雪はただ一人、相沢祐一だけを、見つめていた。

「待って……待って!」

月が、赤い月が、夜を吸い上げるような純白に覆われて、欠けていく。
緋色の月光も、救われた世界の欠片に掻き消されて、少年には、届かない。


***

622終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:29:34 ID:AA.5FDBE0
 
「―――」

三歩の距離が、二歩になり。
二歩の距離が、一歩を埋めて。
そうして二人が、向かい合う。

大地に咲く花は既になく。
嘆く世界の、終わった世界のすべては、救われていた。

それで終わりなのだと、水瀬名雪は理解していた。
救世という、その一点だけが相沢祐一という概念だと、ならばそれが終わった今、
相沢祐一は存在を赦されないのだと、正しく認識していた。

だから、気付かなかった。
相沢祐一が眼前に立つのは、別れを告げに来たのだと、そう考えていた。
諦念と摩耗とが、水瀬名雪にそれを許容させていた。
それは何度も繰り返した絶望で、或いは幾度も乗り越えた終焉で、それだけでしかないと、
ただ、もう次がないと、それだけのことでしか、なかった。

だから、気付けなかった。
相沢祐一が、その手を伸ばすまで。
伸ばされたその手が、自らの胸に、そっと触れるまで。
そこに咲く、小さな白い花を、やわらかく撫でるまで。
そうして、その胸に咲いた花ごと、水瀬名雪を抱きしめるまで。

623終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:29:49 ID:AA.5FDBE0
「そう、か―――」

驚きはなく。
戸惑いもなく。
ただ、安らぎと、喜びだけが、あった。

「終わるんだね―――ようやく。
 好きな人の手で、私は、終われるんだね」

消えていく。
吐息を感じるような距離の向こうで、紫水晶の色が消えていく。
冬の月のような銀色も、輝く鎧も、煌く翼も消えていく。

そこにある。
凡庸で、悪戯っぽい黒い瞳が、そこにある。
ほんの少しだけ色を抜いた無造作な髪と、飾り気のない安っぽい服と、そうして、それから。
そこには、温もりが、あった。

「ありがとう―――祐一」

最後には、口づけを。
終わらない世界の、繰り返す時間の終わりには、ただ、愛しさだけが、あった。

小さな、白い花が。
音もなく、散る。




******

624終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:30:36 ID:AA.5FDBE0
 
 
 
咲く花は、既にない。
白く舞う花々は空に融け、漆黒を取り戻した夜が寒々と闇を湛えている。
どこまでも広がる茫漠たる大地が支えるのは、たったひとつの影だった。

「……どうして」

影が、呟く。
誰にも届かない呟きは、やがて地に落ち、染みていく。
吹く風に揺れる白の海原はなく。
嘆く声も、聞こえない。

音のない荒野で、少年が聞くのは、だから、声だ。
耳朶を震わせる音ではない。
かつて聞き、そしていつまでも少年の奥底の伽藍洞の中を響き続ける、消えない声だ。
永遠と久遠とを共に在り、これから迎える最後の時を、長い長い煉獄を、手を携えて見届けるはずだった、
幾つもの声だった。


―――余は、翼がほしい! この空を越えて、どこまでも飛べる翼が!

 ―――来てみれば、わかる……ってさ。

―――手をのばせ、こんちくしょー!

 ―――あたしの本当の名前を呼んで。そうしたら―――

―――ねえ、わたしたちは、きっと、ずっと、もっと、もっと―――


声はもう、内側にしか響かない。
去った者と、振り向かぬ者と、応えぬ者と。
繋ごうと伸ばした手の、届くところには誰もいない。

625終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:31:02 ID:AA.5FDBE0
「待ってよ」

力なく見上げて呟く声は、虚しく空に消えていく。

「そんなの、ないよ」

見上げた夜空には、星のひとつもない。
ただ取り残されたように、細い、細い、糸のように痩せ細った赤い月が、
ぼんやりと、浮かんでいる。

「僕を、置いていかないでよ……」

終わる世界の嘆きを統べた、無限の力も。
永劫を超えて辿り着いたはずの、最後の好敵手も。
誰も、いない。
何も、ない。
だから、

「―――ようやく、見つけた」

何もかもを失くした少年が、
夜明けの稜線に沈む月のように、ぼんやりと振り返って、その琥珀色の瞳に映った、
二つの影に向けて浮かべたのは。
縋るでも、疎むでもない。
薄く、薄く、ただ一欠片の失意だけを、滲ませた。
色のない、笑みだった。

626終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:31:20 ID:AA.5FDBE0

【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】


少年
 【状態:―――】


天沢郁未
 【状態:―――】

鹿沼葉子
 【状態:―――】


相沢祐一
水瀬名雪
 【状態:消滅】

→693 924 1068 1103 1106 1110 1113 1115 ルートD-5

627/死:2010/02/06(土) 04:26:54 ID:D/ovS9dk0
 
******




血。
血だ。
生温くて、どろどろとして、ひどくいやな臭いのする、それは血だ。

止め処なく溢れ出すそれを見て、思う。
これは、僕の身体の中に、流れていたものじゃない。
だってそれはきっと、もっと綺麗なものであるはずだった。
それは命を支えてくれるものだ。
それは僕を満たしているものだ。
それがこんなに、いやなものであるはずが、なかった。

だから、それはきっと、汚れてしまったのだと思う。
僕の中に何かとても厭らしい、不潔なものが入り込んで、僕を濁らせている。

いま流れているのは、だからそういうものだ。
僕の中の汚いものが、だくだくと、だくだくと流れ出している。
痛みはない。うるさい声も、もう聞こえない。

ぼんやりとした眠気の中で、汚れてしまって、濁ってしまって、いやな臭いのするようになった
気持ちの悪い血がだくだくと、だくだくと広がっていくのを、僕は、ただじっと見つめている。




******

628/死:2010/02/06(土) 04:27:16 ID:D/ovS9dk0
 
 
 
「……ああ、天沢郁未か」

それは呟くような声だ。
目の前に立つ人影に向けているようで、しかしその実はどこにも向けていないような、
独り言じみた呟きが、少年の口からは漏れている。

「突然で、それからとても残念な話なんだけど」

掠れた声は、星のない夜空に吸い込まれるように消えていく。
暗く、重く垂れ込める空は波立つこともなく、ただ乾いて剥がれる薄皮のような声を受け止めている。

「キミが捜してるのは、僕じゃないよ」

笑みの形に歪んだ口元に、表情はない。
感情も、情念も、そこにはない。
色と温度のすべてをどこかに置き忘れてきたような顔で、少年がぼそぼそと続ける。

「彼はもう、どこにもいない」

漏れ出す言葉はだから、真実の色にも、虚構の色にも染まってはいない。
淡々と、録音された音声を繰り返す壊れた機械のような声には、ただそれだけの意味しかない。

「知ってるだろう、あの夜に死んだんだ」

あらゆる装飾を廃して意味だけを固めたような、それは言葉だった。
路傍の石の如く無価値で、牢獄の鉄格子ほどに無遠慮で、死に至る老人のように無彩色な、言葉。

629/死:2010/02/06(土) 04:27:37 ID:D/ovS9dk0
「……ああ、そうだ。何なら代わりを造ってあげようか」

触れれば砕けて粉になる、木乃伊の浮かべるのと同じ形の笑みを口元に貼りつけて、
少年が小さく頷く。

「そうだ、それがいい。キミがずっと捜していた、彼だよ」

いい考えだと呟いて、答えのないまま頷いて、不毛の大地に目を落とす。
どこまでも拡がる赤茶けた土の上には、枯れ果てた草の細い茎が無数に横たわっている。

「似たようなものなんかじゃない」

ほんの僅かに踏み出した、その足の下で枯れ草が折れて乾いた音をたてる。
かさかさと耳障りな、少年の声音と同じ音。

「寸分違わず同じものを、キミにあげよう」

枯死の音を口から漏らしながら、少年は薄く力ない視線を、眼前の影に向ける。
向けて、すぐに目を逸らした。

「だからもう、帰ってくれ」

視線を合わせぬまま、深々と息をついて、少年はようやくにそれだけを、呟く。

「疲れてるんだ」

呟いて、首を振る。

「僕をひとりにしてくれ」

俯いたまま、何度も、何度も。

「僕はもう、ここでずっと、」
「―――知ってたよ、そんなのは」

どこまでも沈み込んでいきそうな少年の言葉を遮ったのは、真っ直ぐに斬り込むような、声音だった。
天沢郁未が、口を開いていた。

630/死:2010/02/06(土) 04:27:59 ID:D/ovS9dk0
「あいつは死んだ」

微かに射す緋色の月光の中、その姿は乾いた血糊に抱かれて、どこまでも暗い。
傍らに立つ鹿沼葉子もそれは変わらず、しかし共通するのは、その瞳であった。
星もなく、浮かぶ月も細く弱々しい夜空の下、二対の瞳は闇を蹂躙して輝いている。

「死んだんだ。誰が何を言ったって、私だけは疑えない。疑っちゃいけない」

纏った襤褸も、露出した肌も赤黒く染め上げて、しかし凛と背を伸ばし、
郁未は微塵の揺らぎもなく死を口にする。

「それを、私は感じたんだから。感じられたんだから」

言って、笑む。
愉ではなく、悦でもなく。
哀を割り砕いて充足と宿望とで月光に溶いたような、笑み。
何かを求める笑みではない。
何かを味わう笑みでもない。
ただ、終わった時間を、流れ去った何かを懐かしく思い出す、そんな笑みだ。

「だから分かるよ。あんたがあいつじゃないってことくらい」

静かに、風が吹き抜ける。
空に流すように、郁未が笑みを収めた。
収めてしかし、瞳はぎらぎらと輝きながら少年へと向けられている。

「だけど、来たんだ。だから、来たんだ」

左手には長刀を、右の手は拳を握り込んで。
少年を射竦めるように見据えながら、郁未が言い放つ。

「夜をぶっ飛ばしに」

631/死:2010/02/06(土) 04:28:22 ID:D/ovS9dk0
幽かな月光を反射して光った長刀の刃が、ぐるりと回る。
緋色の弧が、大地を向いて止まった。

「私と、あいつと、私たちにとっては、もう終わった夜に」

振り向かず掲げた柄に、かつりと硬い音。
傍ら、金色の髪が靡く。
鹿沼葉子の持つ鉈が、郁未の長刀に小さく打ち合されていた。

「そんなものに、まだしがみついてるヤツがいるんなら、私が、私たちが、
 教えてやらなきゃいけないから―――」

もう一度、小さな音。
郁未からも、得物を打ち合わせて。
視線は少年に向けたまま、しかし呼吸は寸分違わぬ確信をもって、手にした刃を、振り下ろす。

「だから、来たんだ」

一対の刃が、大地を突き穿ち。
風が、声を運ぶ。

「もう一度、ここへ」

突き刺さった長刀から手を離し、郁未が深く息を吐く。
ほんの半歩踏み出して、残りの距離は十歩分。
手を伸ばしても、まだ届かない。
届かなくても、刃を離したその手には、差し伸べるだけの、空きがある。
だから更に一歩を進んで、

「―――!」

しかし踏み込んだのと同じだけ、僅かに一歩を後ずさった少年の、琥珀色の瞳がほんの一瞬、
郁未を見返して、再び弱々しく逸らされるのに、足を止めた。
溜息を一つ。
沈黙は二呼吸分。
それから大きく息を吸って、何かを言おうと見上げた空に、薄ぼんやりと細く赤い月が浮かんでいた。

632/死:2010/02/06(土) 04:28:49 ID:D/ovS9dk0
「……ああ、何だ、そっか」

それを見て、拍子抜けしたように郁未が呟く。
溜めていた言葉は、どこかに置き忘れたようだった。

「あのときの、あれも」

細い、細い、赤い月の欠片。
一つの物語が終わった夜の、その最後に見た、真実。
真実というネームプレートを下げた大根役者が、夜空にぽつりと浮いていた。

「結局、あんただったんだね」
「……それは、そうさ」

呆れたように視線を下げた郁未の眼前、少年が頷きもせずに答えていた。
力なく赤茶けた地面を見下ろしながら、ひどくつまらなそうにぼそぼそと声を漏らす少年の、
銀色の髪の先が風に揺れて薄い月光を掻き毟る。

「ただの人間が、僕をどうにかできると思ったのかい」
「まあ、頑張れば」
「……」

事もなげに言ってのける郁未に、少年が絶句する。

「……そもそも僕は、僕たちじゃない」

降りた沈黙を埋めるように言葉を継いだ少年の声音には、僅かに呆れたような響きがある。
水底に沈む船から漏れた泡沫のように儚く幽かな、それはしかし、少年が郁未たちと向きあってから
初めて見せた、感情と呼ばれるものに近い何かの萌芽でもあった。

「僕は、僕さ。ずっとここにいる僕だけさ。捕まる『種族』なんて、どこにもいやしないんだ。
 いるとしたらそれは、僕が望んで提供した人形だよ」

言葉が、言葉を引きずり出す。
そして心もまた発した言葉に手を引かれるように、琥珀色の瞳に、ほんの少しづつ光が宿っていく。

「世界は人の塊だ。人を動かせば世界は変わる。そういう意味で教団は有用だった。
 君たちという可能性を生み出したんだ。そこにいるだけで世界を変える、大きな物語を」

少年の瞳が、天沢郁未と鹿沼葉子を、映す。
映し、怯んで、しかしついに逸らすことなく、二対の視線を、見返した。

633/死:2010/02/06(土) 04:29:13 ID:D/ovS9dk0
「キミたちの力……不可視の力とキミたちの呼ぶそれは、元々は僕の力だ。
 教団はそれをキミたちに……正確には人間に、広めるために存在したんだよ」
「……だけど、FARGOはもうない」

向けられた少年の瞳をじっと見据えながら教団の名を口にする、郁未の声に揺らぎはない。
憎悪も嫌悪もなく、無感動に無感傷に、それを告げる。

「ええ。教団は私たちが壊滅させました。あなたから頂いた、この不可視の力で。
 存命の関係者は、最早片手で数えられる程度のはずです」

淡々と言葉を継いだ鹿沼葉子の声音にも、押し殺した感情は存在しない。
それが回顧をもってのみ語られる、過去の事実でしかないというように。

「力を寄越して研究させて、力でそれを潰させて。全部があんたの差金なら、与えて、奪って……。
 何がしたかったのさ、一体」

溜息混じりに首を振る郁未に、少年の表情が曇る。
答えを求める問いではなかった。
それでも、少年は口を開く。

「それは……汐から、聞いてるだろう」
「あんたからは聞いてない。それを聞いてるとは、私は言わない」

絞り出されたような少年の言葉を、郁未が言下に否定する。
強い視線と、声だった。

634/死:2010/02/06(土) 04:29:45 ID:D/ovS9dk0
「……」
「……」
「……希望を」

沈黙に押し負けたのは、少年だった。

「希望を、求めていた」

声は、掠れている。
しかしそこに、虚飾はない。
虚栄も虚構も削ぎ落とされた、それは少年という存在の結晶した、言葉であるようだった。

「僕は、生まれたかった。幸せになりたかった」

なりたかったと、口にする。
終わってしまった夢のように。

「それだけさ。それだけなんだよ」

言い放って、郁未の目を見た少年が、表情を変える。
浮かべたのは、嘲笑だった。
郁未たちに向けられたものではない。
ただ自らを蔑み蝕むような、嘲笑。

「……で、そんな僕に何を教えてくれるんだい、天沢郁未、鹿沼葉子」

嘲う少年が、両手を広げる。
その手の先では、空と大地とが、少年を包んでいる。

「生まれることすらできなかった僕に」

少年を囲む大地に、咲く花はない。
散らばった枯れ草と赤茶けた土だけがどこまでも続いている。

「求めて、終に与えられなかった僕に」

少年を見下ろす夜空に、光る星はない。
病に冒されたように痩せ細った赤い三日月だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

「キミたちは、何を教えてくれるっていうんだい」

少年の広げた手に、触れる指はない。
そこには誰も、いなかった。
だから、天沢郁未は、一歩を踏み出して、口を開く。

「そんな、御大層なことじゃあないけどね。
 気づかない方がどうかしてるって、その程度のこと」

635/死:2010/02/06(土) 04:30:03 ID:D/ovS9dk0
少年は、下がらない。
下がらない少年に、更に一歩を近づいて、その目を真っ直ぐに見返して、言う。

「―――夜はもう、明けてるんだ」

残りの距離は、八歩分。
遠い、遠い、八歩。
しかし、ただの、八歩だ。

「私は誰だ? 私たちは誰だ? 天沢郁未だ。鹿沼葉子だ」

踏み出せば、七歩。

「それで、あんたは誰なの?」

六歩が、五歩に。

「名前もまだない。私はあんたをなんて呼べばいいのかだって分からない!」

四歩は、三歩になる。

「―――こっち、来なよ」

ほんの三歩の向こう側へ、手を伸ばす。
それが、最後の一歩分。
残りの二歩を、その向こう側に、託して。
天沢郁未が、足を止める。

「……」

差し伸べられた手を、少年はじっと見詰めていた。
ただ一歩を踏み出して、手を伸ばせば、残りの距離は、零になる。
零の向こうに、目を凝らすように、耳を澄ますように。
少年はその手を、じっと、じっと見詰めている。

「―――」

何度目かの風が、吹き抜けた。
風に背を押されるように、少年が顔を上げる。
天沢郁未を見て、その傍らの鹿沼葉子に目をやって、もう一度天沢郁未へと目を戻して、

「―――、」

そうして口を開こうとした、その瞬間。

聲が、響いた。


***

636/死:2010/02/06(土) 04:30:29 ID:D/ovS9dk0
***



『―――道は一筋にあらず』



***

637/死:2010/02/06(土) 04:31:03 ID:D/ovS9dk0
***


それは、聲だ。
姿なく、風も震わせず、しかし響き渡る、聲だった。

『青の最果てに佇む者、来し方より行く末を定める者、ただ一人、道を選ぶ者―――』

歳の頃は、少女。
しかし声音は冬の雨のように重く、冷たい。

『あなたは問い、私は答え、それでもなお、迷うなら―――』

あなた、と響いたその聲の指すのが少年であると、その場の誰もが理解していた。
指差すように、睨みつけるように、声音は響いていた。
故に、天沢郁未と鹿沼葉子は動けない。
今このとき、己は傍観者に過ぎぬと、理解していた。

『この世の価値を、命の価値を、分からぬままに惑うなら―――』

忍び寄るように。囁くように。断罪のように。神託のように。
聲が、ぐるぐると少年を取り巻いては、夜に染み入るように消えていく。

『ならば今一度、答えましょう―――』

風に融けた聲が、大気に混じってその密度を濃密にしていく。
聲が、肌にぬるりと感じられるほどに凝集した聲が、風と、夜とを練り固めて。

『示しましょう―――言葉ではなく、かたちを』

そこに、赤い光を灯す。

『―――最後の、道を』

638/死:2010/02/06(土) 04:31:31 ID:D/ovS9dk0
いまや弱々しい、緋色の月光ではない。
そこにあるのは、真紅だ。
赤という言葉の意味を形而上から引きずり出したような、真紅。
そうして浮かぶ、真紅の光の中心に、何かがあった。
震えるように、微かに痙攣する何か。
拳ほどの大きさの、ぬらぬらと蠢く肉のような質感。
それは、心臓である。
あらゆる血管と臓腑とから切り離されてなお脈を打つ、人間の心臓に他ならなかった。

「何さ、道って……。問いって……」

赤い光の中に浮かぶ心臓を見つめながら、少年がようやくに声を絞り出す。
戸惑ったような呟きだった。

「僕は……僕は、そんなこと、知らない」
『いいえ』

否定は、即座。

『いいえ、いいえ。あれはあなた。あなたの声。あなたの問い』
「そんな……」

なおも何かを言い募ろうとする少年の弁明を断ち切るように、朗々と聲が響く。
聲に震えるように、浮かぶ心臓がひくり、ひくりと蠢いた。

『あなたは確かに問うたのです。あの地の底の、神座で。赤と青との、戦の果てに』
「……」

釈明を蹂躙し、降りた沈黙の中に姿なき聲だけが谺する。

639/死:2010/02/06(土) 04:32:00 ID:D/ovS9dk0
『巡り廻る、答えの一つがその手なら―――』

とくり、と。
赤光に浮かぶ心臓が、その鼓動を大きくする。

『この世の在り様の罪咎を、肯んずるのがその手なら。赤は否やを示しましょう』

そしてまた、赤光自体も次第にその輝きを増しているように、見えた。
心臓が脈を打つたび、送り出されるべき血の代わりに、光が満たされていくようでもあった。

『続き、続く世界を、認めないと。不完全に、不手際に、片手落ちに続く世界は、幕を下ろすべきであると。
 ここが世界の最果てならば。否を以て、その選択に介入すると』

心臓が、脈を打つ。鼓動が、次第に早くなる。
光が、その密度を増していく。聲が、その圧力を増していく。

『肯んじ得ぬすべてを、終わらせる道を―――青の最果てに、示しましょう』

謳い上げるような聲と、鼓動を打つ心臓と、輝きを増す赤光と。
赤の響きが、朽ち果てた大地と夜空を、支配していく。

『ここは最果て。世界の極北。これはあなたの物語。あなたが消えれば、世界も消える』

囁くように、叫ぶように、夜空と大気とに練り込まれた聲が、ただ一人へと向けられる。
銀色の髪が、赤光に照り映えて煌めいた。

『これが最後の選択肢』

琥珀色の瞳が、どくりどくりと脈打つ肉塊に捉えられて、離れない。

『選びなさい、物語の行く末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何も得られずに終わろうとしていた少年に、

『あなたの描いてきた、世界という物語の結末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何かを得たいと望んだ少年に、

『苦界へと続く、その手を取るのか』

聲が、刃を突きつける。
それは、選択という刃だ。
未知という鋼を決断という焔で鍛えた、己が手を裂く、抜き身の刃だ。
どくり、と刃が脈を打つ。

640/死:2010/02/06(土) 04:32:22 ID:D/ovS9dk0
『或いは』

その聲を、合図にしたように。
赤光が、どろりと垂れ落ちた。
濃密な光が、ついには飽和の限界を超えて質量を得たかのように、糸を引きながら流れ出す。
流れる光の中に揺蕩っていた脈打つ肉は、しかし地に落ちることもなく、そこに浮いていた。
赤光がすっかり落ちきって、宙に残るものはもはや輝くこともない、てらてらとした粘膜の塊だった。
寒空の下に露出した、桃色と乳白色と淡黄色との混じり合った塊が、身震いするようにふるふると揺れた、
次の瞬間。
地に垂れ落ちて溜まっていた、赤光であったものが、唐突に爆ぜた。
蕾の弾けて咲くように、朽ちた大地に真紅の大輪が花開く。
月下、大地に咲く真紅と、その真上に浮かぶ桃色の心臓。
やがて実となり種を成す、それは花弁と雌蕊のようにも、見えた。

と。
ぐじゅり、と濡れた音がした。
爆ぜて散った、赤光であったものから、何かが芽を出す音だった。
ぐずぐずと、ずるずると、どろどろと伸びるそれは細い、今にも千切れそうな桃色の、肉じみた気味の悪い芽だ。
ひとつひとつが頼りなげにふるふると蠢く肉の欠片が、そこかしこに散った赤光の欠片から一斉に芽吹いていた。
肉の芽は刹那の間に肉腫となり、赤光であったものを吸い上げながら伸びていく。
ほんの数瞬の後、それは既に芽と呼べるものではなくなっていた。
桃色の茎。否、根もなく葉もなく、ふるふると揺らぎ蠢くそれは、糸である。
数千、数万を超す桃色の肉糸が、ぐずぐずと伸びていく。
無数の肉糸は伸びる内に互いに撚り合わされ、次第に太く変じながら、宙の一点を目指していくようだった。
その先に浮かぶのは、どくり、どくりと、今やはっきりと鼓動を打つ心臓である。
煉獄の亡者の蜘蛛の糸に縋り、争って手を伸ばすように、肉糸が心臓へと迫り、伸びて、
そしてとうとう桃色の糸が、その最初の一片が、心臓に触れる。
触れて、融け合った。
融けた糸が、ずるりと心臓に巻き上げられて、太い動脈に変わっていく。
次の一片は、別の血管に変わった。
変わってできた動脈に、新たな糸が融け合って、その経路を分岐させていく。
幾十の糸が、瞬く間に複雑な血管を形成し。
幾百の糸が、それを包む神経細胞と膜と脂肪とを作り上げ。
幾千、幾万の糸が、骨格を、その中に生み出していく。
筋繊維が、腱が、関節が、無数の糸によって縒り上げられ、一つのかたちを成していく。
皮が張り、指が分かれ、爪が生え、白い歯が、真っ直ぐな鼻梁が、歪んだ耳朶が、腕が、脚が、
人が、造り上げられていく。

『或いは―――』

最後の糸が、ずるりと巻き上げられて、眼窩に収まっていく。
星空を織り込んだような長い黒髪を、白くたおやかな手が、煩わしげにかき上げる。
そこに、黒い瞳があった。
ぎらぎらと輝く、瞳だった。
瞳は、笑んでいる。
牙を剥くように、笑んでいる。

『もう一つの物語に―――呑まれるのか』

美しい、それは女のかたちをしていた。
美しく、猛々しく、そしてどこまでも、どこまでも、昏い。
女の名を、来栖川綾香といった。




******

641/死:2010/02/06(土) 04:32:49 ID:D/ovS9dk0
******

 
 
 
傷。
傷だ。
閉じているべきものが割れ裂けて、そこから血が流れている。
だからそれは、傷口だ。

傷の中にはきっと、膿と汚れと、もう感じない痛みだけが、ある。
流れ出すのは、濁った血だ。
僕の身体がいやがって、膿と汚れに抗って、押し流そうと垂らす血だ。

早く、早く出てこいと願う。
気持ちの悪いものは、いやな臭いのするものは、この身体の外に出ていってしまえと思う。
その、一方で。

出てくるな、出てくるなと祈る、僕がいた。
おぞましいものが、吐き気をもよおすようなものが顔を覗かせたら、僕は耐えられない。
そんなものがこの身体の中にあったことに、そんなものにこの身体を穢されたことに、きっと耐えられない。
これから先のずっと、そんなものが汚した血が流れ続ける苦痛に、そんなものが身体のどこかに
ぶつぶつとした卵を産み付けているかもしれないという恐怖に、僕はきっと耐えられない。

だから僕は、希う。
傷口も、汚れた血も、膿にまみれたいやなものも、全部、全部なかったことになればいいのに、と。
そんなものは初めからなくって、僕は汚れてなんかいなくって。そんな夢を、希う。
だけど、それは叶わない。

僕にはわかる。
わかってしまう。
この傷口の奥には、それが確かにいるのだと。

それは僕の身体を蝕んで、僕の肉と心とを貪って、ぶくぶくと肥えた、怪物だ。
生まれてくる。
それはもうすぐ、生まれてくる。

どろりと汚れた、黒っぽい血と。
ぐずぐずといやな臭いのする、薄い黄色の粘つく膿と。
そういうものと混じり合って。

こんな、おぞましい傷口の中から生まれてくるものは、きっと、




******

642/死:2010/02/06(土) 04:33:08 ID:D/ovS9dk0
 
 
 
女の笑みに、囚われて。
ぐらり、と少年が揺れる。

「僕は……」

流れる脂汗と、蒼白な顔色。
どくり、どくりと響く音に掻き消されるような呟き。

「僕は―――」

振り返れば、そこには瞳。
手を差し伸べる、真っ直ぐな瞳。

「―――、」

どくり、どくりと世界が揺れる。
脈打つ鼓動の音が。
星のない夜空を圧し潰すように。
どくり、どくりと、響いている。

643/死:2010/02/06(土) 04:33:31 ID:D/ovS9dk0
 
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】

少年
 【状態:最終話へ】

天沢郁未
 【状態:最終話へ】

鹿沼葉子
 【状態:最終話へ】

里村茜
 【状態:―――】

来栖川綾香
 【状態:―――】



【時間:2日目 午後6時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:最終話へ】


→999 1096 1113 1116 1122 ルートD-5

644インターセプト:2010/02/08(月) 23:21:38 ID:UUiEoiqU0
「っ!」
「なっ?!」

一触即発に見えた場の雰囲気を拡散したのは、突如躍り出た乱入物だった。
霧島聖に対して狙いを定めていた少年も、これには後退を余儀なくされる。
その聖はと言うと、かけられた一ノ瀬ことみの声ですかさずしゃがみこみ、宙を舞うそれ等の行く末を息を飲みながら見守っていた。
はんなりとした放物線を描く小瓶、舞っている数は計三つ。
小瓶の先、ともる炎の色はオレンジがかった赤いものである。
布だろうか。火の元となっているそれは、よくみればしっとりと塗れていた。
そんな小瓶を待ち受けているのは、保健室の固い地面。

危ない。気づき、一つの舌打ちと共に膝のバネを使って立ち上がる聖の目の前、小瓶は容赦なく砕け散った。
ガラスの割れる旋律が連続して聖達の耳に入ると同時、揺れる炎はたちまち周囲へと広がっていく。

(随分と危ないことを、してくれたものだな……っ!)

燃え上がる炎が広い範囲を陣取るのに、時間はそうかからないだろう。
古い建物であるこの鎌石村小学校、木造ではないが周囲を舞う大量の埃がここにきて最大の火付け役になっていた。
炎の規模は、ますます膨らんでいくに違いない。
まだ調べきっていない場所からおかしな薬品が出てきたら、厄介なことになる。
必要なのは、早めの脱出だ。
そのためにも聖達はまず、対峙しているこの少年を何とかしなければいけない。

(……! そうだ、あれなら)

素早く周囲を見渡した聖が目に付けたのは、先ほどまで相沢祐一が眠っていたベッドだった。
ベッドを仕切るためにかかっているカーテンには、小さな炎の花が虫食いの様になって咲いている。
その光景から一つの閃きを得た聖は、瞬間、そこに向かって一気に駆け出していた。
立てられた派手な地鳴り、聖の奇行に少年もすぐ気づく。
手にしていた機関銃の先端を、少年は躊躇することなく聖へと向け、その引き金に指をかけた。

645インターセプト:2010/02/08(月) 23:21:57 ID:UUiEoiqU0
「駄目。撃たせない」

すかさずスカートのポケットに手を突っ込んだことみが、新たな武器をその手にする。
瓶を放った後隅の方へ逃げていたことみが取り出したのは、少年も一度痛手を負っている、暗殺用十徳ナイフである。
いくらか練習でもしていたのだろう、ことみはそこそこ慣れた手つきで備え付けられている吹き矢の吸い口に唇を寄せると、間髪なくセットされていた矢を少年に向け打ち込んだ。

「おっと!」

鋭い棘は、構えていたMG3を今正に発砲しようとしていた少年へと、真っ直ぐに向かって飛んでいく。
しかし軌道が読みやすかったからか、少年が矢を避けるのは容易いことだった。

「ことみちゃん、君の相手は次だから。少しだけ我慢してて、ねっ!」
「きゃっ」

スナイパーの如く少年を遠方から狙っていたことみの真横、走る銃弾は牽制か。
敢えて致命傷を避けているかのような動き、少年は小さな悲鳴を上げ逃げ惑うことみを楽しそうに見つめている。
そんな二人を尻目に、聖はと言うとさっさと目的の場所へと辿り着いていた。
聖からすれば、ことみが少年の気を引き付けてくれたおかげで事がスムーズに行ったことになるだろう。

(すまないことみ君、もう少しだけ耐えてくれ……っ)

心の中でことみに対する謝罪を繰り返しながら、聖は少年の気がこちらに向かないうちにと行動を起こす。
ベアークローで布地を裂かないようにと、聖は気をつけながら炎のともるカーテンを掴んだ。
足に踏ん張りをかけながら聖が全身の力でそれを引っ張ると、カーテン地が固定されている鉄のバーがミシミシと上下に揺れる。
バーの上部、何箇所にも渡りしっかりと括られているカーテンがこれで外れる気配はない。
それならばと。
今度は敢えて突き刺すように手を突っ込み、聖は装着したベアークローでしっかりとした布地を引き裂いていく。
聖は瞬く間に、無残な姿と化したカーテンを自身の手に堕とした。

646インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:17 ID:UUiEoiqU0
一箇所にまとめられたことで、炎の移りは今まで以上の速度を持って進行する。
小さな花は、やがて大きな松明のように変化していくだろう。
形が崩れないようにと、聖はまだ火のついていない残っている布地を一箇所に集め、幾重ものしっかりとした固結びを作った。
こうしてできた塊は、まるでブーケのようにも見える。
炎のともる、真っ赤な花束。狙っていた物の完成に、聖の顔にも笑みが浮かぶ。

「せんせっ、駄目っ」

聖が冷水を浴びせられることになるのは、その直後だった。
か細いのは相変わらずなものの、ことみの声には今まで以上の焦りが含まれていただろう。
はっとなる。聖の脳裏に走る予感が、警告音を打ち鳴らした。
すぐ様泳がせた聖の視線、膝をつき、身を乗り出すようにしたことみの形相が一瞬移りこむ。
その先、視線の終末点に彼はいた。
ことみを相手にしていたはずの少年と目が合い、聖はしばしの間彼と静かに見つめ合った。

燃えるカーテンの熱の影響ではない汗が、聖の額をしとどに塗らす。
少年の口元は、緩んでいた。
今ならはっきりと伝わる、その邪悪さ。

息が詰まる。
取れない身動き。
ちりちり、ちりちり。
手にしていた布地部分までついに炎が侵食してきたが、聖は固まったままだった。

少年の手にある、凶器。
矛先は聖へと、再び向けられている。
その姿勢は、既に固定された後だった。
少年がトリガーを引けば、機関銃にセットされた銃弾がたちまち聖を蜂の巣にするだろう。

「それじゃ、さようなら。君は本当につまらなかったよ」

647インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:35 ID:UUiEoiqU0
最期の言葉、間に合わなかったということ。
その非情さに、聖は強く唇をかみ締める。
諦めることなんてできない。
できっこなかった。
聖は強く、少年を見据える。
強く強く。視線で殺せるくらい、じっと少年を刺し続ける。

少年という一つの点に注がれる、二つの線。
聖の眼差しともう一つ、それはことみが送るもの。
少年の追随で、彼女の足元には焦げた穴が複数ある。
そこでぺたんと、ことみは尻餅をついていた。
腰が抜けてしまったのか、彼女の下半身はぴくりとも動かない。
静止したままことみは頭をフルに回転させ、自分の持ち物の中で何かこの場を打開できるものがないか、必死になって考える。

先ほどことみが即興で作成した火炎弾の複製は、材料の関係でもうできない。
床に転がっていた空き瓶も、相沢祐一の手当てで使用したこともありただでさえ残り少なかった消毒用のアルコールも、ことみは全て使い切ってしまっていた。
持ち込んでいた100円ライターは残っているが、それだけでは無用の長物である。

ぎゅっと。掴んだままの十徳ナイフを、ことみはしっかり握りしめた
これでどう応戦できるか。
考える。
考える前に行動を、とも思うが、ことみの足は彼女の言うことを聞こうとしない。

言葉が出ない。
ことみの頭が、真っ白に、なる。

648インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:51 ID:UUiEoiqU0
直後、数発鳴った銃声音。
驚きと恐怖でびくっと身構えたことみは、聞きたくないと言った風に頭を抱え込むとそのまま小さく丸くなった。
ふるふると震えることみの様子は、まるで小動物である。
今のことみに、果敢な聖をサポートしていた影はない。
切れかけた緊張の糸が、ことみを絶望の淵に追い込んでいく。

「がっ!」

低い低い呻き声。
襲われた痛みに対するものだろう。
断続的に漏れる洗い息は、ことみの元までしっかり届いている。
その痛ましいこと。
ぎゅっと目を瞑り、ことみは自身を殻の中へと逃がそうとする。
その間も、騒音はずっと続いていた。
駆ける音、逃げる足音。

「このっ!!」

銃声、銃声。
今頭を上げれば、自分にも空洞が作られるのだろうか。
自身が作り上げた想像に身を震わせることみ、しかし彼女の耳はその違和感をしっかりと捕らえていた。

(……?)

恐れる心が一端引く、それはことみの頭がしっかりと働いている証拠になるだろう。
ことみは気づく。
冷静になったところで、ことみの解答はすぐに用意された。

……発砲音は、今も尚ことみの背後から発せられている。

649インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:13 ID:UUiEoiqU0
ことみは少年と距離を取り、広瀬真希や遠野美凪が逃走に用いた校庭に続く窓付近に位置していた。
そんなことみの後ろに、このタイミングで少年が回り込むことは現実的に考え不可能だ。

「立ちなさい! そのまま窓から逃げていいからっ!!」

誰かの叫び声、それと同時に保健室の床ががなりを立てる。
人の気配に顔を上げようとすることみだが、その前に自身の頭を抱えていた腕を強い力で引っ張り上げられた。
丸く固まっていたことみの戒めが解かれる。
開かれたことみの視界、眩しさを感じる中映りこんできたのは、鮮やかに揺れる真っ赤な炎だった。
燃える保健室とは、また別の紅。

「つつ……さすがに腕が痛いわね」

苦言を漏らしながらも、手にする拳銃を下ろそうとは決してしない。
そうしてまた駆け出した少女、向坂環。
もう一つの『赤』が、いつの間にかそこに存在していた。





開け放たれた保健室の窓にかかる白いカーテン、その隙間から見えたもの。
聖やことみが追い詰められていた様は、遠目にいた環にも容易く伝わっていた。
まだ炎が移っていない分、部屋の中とのコントラストは環からすると不気味としか表現できないだろう。

何とか保健室の窓際まで辿り付いた所で、環は迷うことなく引き金に手をかける。
しっかりと足場を固めるが、彼女も拳銃を撃つのは初めての行為だ。
せめて威嚇の意味にでもなってくれればと、環は足を止めている少年を狙い二発の銃弾を撃ち放った。

650インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:28 ID:UUiEoiqU0
「っ!」

反動で震える体を耐えさせながら、環はそれでも見据えた視線の先で自分の功績を確かに知る。
明後日の方向に跳んでいったと思いきや、銃弾の内一発は見事少年に被弾していた。

(初めてにしては、中々のものじゃないっ!)

ボタボタと垂れていく血が、保健室の地面を違う紅に染める。
出血は、少年の肩口からだった。
掠めるといったレベル、骨までは達していないであろうが肉を抉り取られたという痛みに少年の眉は不快気に寄せられている。
これには、さすがの少年も予想をつけられなかったのだろう。

滴る血をそのままにしながら、少年はすぐ様その場を離れようとする。
保健室の中を駆け、的にならないようにする少年の身から零れていく体液を追うように、環の銃弾は開け放たれた保健室の窓から飛ばされてくる。
だが環の射撃の腕は決して、精巧なものではない。
虚をつかれた初動以外、少年が銃弾に触れることももうないだろう。

それでも環が少年のテンポを崩すことには、成功したのだ。
これで少年の目は、再び聖から外れることになる。

聖は諦めていなかった。
全く諦めていなかった。
この瞬間まで、ずっと待っていた。
少年に隙が生まれるこの時を、聖はずっと待ち続けていた。

時間にして、一分にも満たないこのどんでん。
今も尚ちりちりと自身の両手を焼き続けている布束を、聖は形を崩さないようそっと持ち上げた。
そのまま、ゆっくりと振りかぶる。

651インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:51 ID:UUiEoiqU0
「……っ」

燃え盛る炎のブーケの熱による発汗、目の痛みが細くする視界。
耐えながら聖は、煙や墨でむせないようにとひっそりと呼吸を止める。
集中。狙いを定めたところで。
目標が足を止めようとするその瞬間、決して逃すことはなく。
聖は渾身の力で、その炎の塊を少年に向け投球した。

「あまり僕を、舐めないでくれるかな」

少年の声。そこに危機感は含まれていない。
環との応戦で疎かになっていたとも思われる少年のチェックだが、決してそんなことはないとでも言いたいのか。
迫り来る聖の炎に対しても、少年は冷静だった。

「ふっ!」

少年は炎の塊を体で受ける前に、自らの手で叩き落とした。
高速の手套は、常人で追うことができないレベルの速さを持つ。
炎の触れた場所に火が当たるが、少年がダメージを受けた様子はない。
絶望の色。ことみの表情。
苛立ちの音。環の舌打ち。
しかし聖は微笑んだ。にやりと意地悪気に口元を歪ませた。
むしろ聖の狙いは、その後だった。

「?! ごほっ、がっ、はぁ……っ」

強い力で地面に叩きつけられたカーテンの中、充満していた細かな煤はこの衝動で一気に撒き散らされることとなる。
もくもくと上がる黒い煙の中、少年は視界を覆うレベルの塵に包まれた。

652インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:14 ID:UUiEoiqU0
「ごっ、ごほ、ごほっ!! ごはぁっ、が、がはっ!!!」

少年の堰は止まらない。
地に落ちた塵も踊り続ける、膝をついた少年の堰がかかっているのだろう。
時間がかかったからこその、絶大な効果がそこにある。
舞い上がる煤は、そのまま聖にとって勝利の紙ふぶきとなった。


          ※     ※     ※


火は、校舎の一部にも引火していた。
このままだと、老朽化した校舎を丸ごと飲み込む可能性も高いだろう。
保健室も薬品は多いが、もしあるとすれば理科関係の教室の方が幾分も危なかった。
この場から、急速に離れなければいけない。
遊具も何もない広いだけの校庭に佇みながら、聖は背後の保健室をそっと振り返った。

「せんせ……」

呼ばれる声で視線を戻そうとした聖の胸に、ボンボンのついた愛らしい二つ結びを揺らしながらことみが飛び込む。
ここに来るまで聖が何度も聞くことになった、ことみが呼ぶ聖自身への呼称。
その言葉に含まれた安心が、聖の心を軽くする。

「よく頑張ったな、ことみ君」

ふるふる。二つ結びが左右に揺れる。
ことみは顔を上げることなく、ぎゅっと白衣を握り締めながら聖にしがみついていた。
押し付けられたぬくもりの小ささに、聖は今は亡き妹の姿を連想させた。
この命を守れてよかったという実感が、聖の内にもじわじわと流れていく。

653インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:31 ID:UUiEoiqU0
「さっさとここから離れましょう。あの男が追いついてくるかもしれないわ」
「そうだな。……君も、助かった。君がいなかったら私は生き延びていられなかったと思う。礼を言おう」

名も知らぬ猫目の少女から飛ばされた愛らしいウインク、茶目っ気溢れる環の動作に聖もようやく肩の荷が降りた気持ちになった。

「先生! ことみっ!!」

遠くから、これもまた聖にとって慣れ親しんだ少女達の声が響く。
目をやれば、必死の形相でこちらに向かってくる少女の姿がすぐさま聖の視界に入った。
走り寄って来るのは広瀬真希、それに遠野美凪といった先に聖が逃がした少女達、その後ろからは遅れながらも相沢祐一がついて来ている。
先頭を駆ける真希はそのまま真っ直ぐ聖へと駆け寄ると、ことみと同じようにしかと彼女にしがみついた。
タックルのような勢いに押されながらも、聖は倒れないようにとしっかり足を踏ん張る。
ここに来てまで疲れた体を酷使しなければいけないことに、聖は思わず苦笑いを漏らした。

「先生……先生……っ」

聖の様子に気づかないのか、真希が半分泣いてでもいるようなか弱いうめき声を零す。
恐らくこの小ささでは、聖本人や、真希の隣でまだ聖に引っ付いているだろうことみにしか聞こえていないだろう。

「……馬鹿。この期に及んで、戻ってくる奴があるか」
「だ、だって! だってだってだってっ!!!!」

呆れたような聖の言葉に、がばっと真希が顔を上げる。
そこで崩れそうになっていた真希の表情は、ぽかんと、呆けたものになった。

「大馬鹿者」

頭に置かれた聖の手の温度、そのまま優しく撫でられ真希は思わず押し黙る。
聖の手つきには、柔らかさが満ちていた。
聖の手は、火傷で爛れ痛々しいことになっている。
しかし聖はそれをあくまで真希に感じさせないよう、気づかせないよう。
細心の注意を払い、真希の髪を撫でていた。

654インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:55 ID:UUiEoiqU0
「先生……」
「すまないな。心配をかけた」

真希の気持ちが、聖は素直に嬉しかった。
頼って貰え、その期待を反することなく終えられたことが聖は本当に嬉しく思えた。
見回せば、誰も欠けることなく今またこうして集まることができているという、その事実。
皆聖よりも年下の、幼い少年少女達。
愛くるしい聖の亡き妹と、同じ年代の少年少女達。

聖にとって、守れたというその事実こそが大切なものだった。
一番だった。

全てが微笑ましく、聖はまた苦笑いを浮かべる。
歪ませた頬には、聖にとってありったけの充足感が満ちていた。
守れなかった亡き妹、守ることができた可愛らしい仲間達。

瞳を瞑る。
聖の瞼の裏で、霧島佳乃も微笑んでいた。
聖と一緒に、微笑んでいた。





―― その時がなった発砲音を、誰が予測できただろうか。
 




放たれた機械音は断続的で、仕込まれた弾が尽きるまで終わることはなかった。
聖の白衣が塗れる。白い衣の背面が、真っ赤に染まる。

655インターセプト:2010/02/08(月) 23:25:13 ID:UUiEoiqU0
飛び散った赤は、ことみの顔面にも飛沫となって降りかかる。
聖の体を貫通した弾で怪我を負う寸前、ことみは再び強い力で腕を引かれていた。
先程と同じようにことみの手を引いた環は、そのまま小さなことみの体を抱え込むと転がるようにしてその場から距離を取る。

「真希さんっ」

駄々漏れになる体液は、ことみだけでなく真希のオフホワイトのセーターをも染めてくる。
固まる真希の体に自身を当て、美凪は彼女の体勢を崩した。
聖にしがみついていた真希の体は剥がれ、自然と地に伏せる形になる。

ことみと真希という二人の支えを失い、聖はそのまま長い黒髪を宙に舞わせながら、前のめりに崩れていく。
溢れた少女の聖の血液が、地面にどくどくと流れていく。
それが砂地に染みていく様は、まるで地が聖の生気を吸い取っていくようにも見えた。

「……っ」

何かを耐える息遣いが耳に入り、真希はまだぴくぴくと細かく震えている聖から美凪へと目線を移した。
真希の代わりというわけではないが、流れ弾の被害は美凪に向かっていったことになる。
弾は、美凪の柔らかな右頬を掠っていた。
一筋の傷は美凪の頬に、新たな血を流させる。
真希は見つめる。そんな赤い光景を、無言で見つめる。見つめるだけ。
香る生臭さに、真希の臭覚は既にいかれていた。
それと同時に麻痺する思考回路、銃声が止んでいたことが真希の命を救っていただろう。
今の真希には逃げる気力等、全くの皆無であったのだから。

「だから言ったじゃないか。舐めないでくれって、さ」

地面を弾むMG3のがちゃんという立てられた音に、面々は静かに息を呑む。
元々全身黒ずくめだった彼の相貌は、煤の汚れでさらに隙間ない闇をそこに表現していた。

656インターセプト3:2010/02/08(月) 23:26:54 ID:UUiEoiqU0
「お、前は……」

美凪に駆け寄ろうとしていた、祐一の足が止まる。
彼の正面に佇む男の手には、新たな拳銃が握られていた。
何処かに隠してでもいたのか、先程までは持っていなかったはなかったはずの屈強な盾を手に、男は再び彼等の前へと立ち塞がる。

「死ねばいいよ、全員」

少年の目は、笑っていなかった。




【時間:2日目午前8時05分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ(吹き矢使用済み)、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:環に抱きかかえられている】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:死亡】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(15/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、予備弾丸12発】
【状況:ことみ、環、祐一、真希、美凪と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:15)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:ことみを抱えている】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:呆然・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:呆然】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:呆然、右頬出血】

(関連・1095)(B−4ルート)

MG3(残り0発)は校庭に放置



タイトルですが「インターセプト3」でお願いします。
失礼しました・・・。

657エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:36:08 ID:xs23czu20
 タイムリミットの前の暇潰しも、いよいよ佳境に入っていた。

 単純に追うだけでは猪は捕まらないと判断したデイビッド・サリンジャーは、
 複数のフロアに予めアハトノイン達を置いておくことで包囲するように猪を追い詰め、
 そして今や猪は中層付近の一フロアで右往左往しているだけだ。

 手こずらせてくれた、とサリンジャーは感想を結ぶ。外からは虫一匹入れないはずの鉄壁の要塞も、
 中はまだ未完成なのだという事実を思い知らされた。改善の余地はまだまだあるということか。
 そういう視点で見ればこの謎の侵入者の存在も決して悪いことではない。
 とはいえ、篁総帥は何を考えて動物を支給品にしようと考えたのか。
 かつての主の理解の範疇を超えた奇行に辟易しつつ、サリンジャーは今後の予定を組み立てることに集中することにした。

 お遊びはここまでだ。正午まで一時間と少し。そろそろ戦闘用アハトノイン達をスタンバイさせておく必要がある。

 唯一負傷していた02も修理が完了し、問題なく戦える状態だ。サリンジャーは下層部の士官室……
 今はアハトノインのために割り当てた部屋へのモニターを眺める。

 彫像のようにじっとして動かぬアハトノイン達の数は五体。
 そのうち、護衛用としてサリンジャーの近くに控えている01を除いているので、
 ここで稼動している戦闘用は実際には六体いることになる。少ない数かもしれなかったが、元々人間以上の実力を持つ上、
 装備も万全、耐久力は比較にもならず、加えて戦闘用データを02から全員にフィードバックしているので、
 もう不覚はないと考えても良かった。たかだか十五人でしかない生き残りを殲滅することなど容易いことだ。

 この分だと『鎧』を持ち出す必要もなさそうだと断じたサリンジャーは、次に参加者達の情勢を観察する。
 数時間前まで一箇所に集まっていた参加者達は、現在バラバラに散開し、島のあちこちに分かれている。
 おそらく戦力を分散させようという試みなのだろう。降伏する意思も殺し合い従おうという意思もないらしい。
 全く反応がないのもそれはそれでつまらないものだったが、目論見どおりではあるから気にすることもなかった。
 集団戦のデータが取れないのは困り物だったが、データが取れるだけでも良しとしなければならない。
 何しろこれから本格的にアハトノイン達の生産に入らなければならないからだ。
 この島から宣戦布告をするために、世界の覇者たるための下積みももう彼女らの生産を残すのみだ。

658エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:00 ID:xs23czu20
 既にサリンジャーの手元には最強の盾も矛も要塞もある。
 どんな軍隊でさえ一蹴し、どんな兵器でさえ無効化してしまう、篁の技術を結集した発明の数々だ。
 サリンジャーは早く使いたくて仕方がなかった。これらの兵器にはサリンジャーが関わっていないものも多数ある。
 自分の論理を否定した者達が一体どんなに唖然とした顔になるかと思うとサリンジャーの愉悦は収まらなかった。

 まず手始めにタンカーの一隻でも沈めてやるか。それとも直接アメリカでも攻撃するか。
 全てが自分の掌の中という気分は悪いものではなかった。
 あるかも分からない世界を侵略するという計画よりもよほど面白いというのに。

「まあ、総帥も勝ち続けてきた人間でしたからね……私のような、負けしか知らなかった人間の気持ちなんて分からない」

 どんなに優秀でも、所詮はプログラマー。所詮は土台作りの役目しか担えない男。
 篁の傘下に入ってからも常々言われ続けた罵詈雑言に、サリンジャーはひたすら耐えてきた。
 いつか必ず足元に這い蹲らせてやる。それだけを考え、謙り、時には媚びさえして、頭を下げたくもない人間に頭を下げてきた。
 戦うことしか知らない猿頭の醍醐にも、金持ちというだけで踏ん反り返る大企業の重役達にも。

「そいつらに核の一発でも撃ちこんでみるのも面白いかもしれませんねぇ……」

 流石にこれは冗談だったが、それだけのことを易々と行えるだけの力が、サリンジャーの手の内にあった。
 野望を実現出来る。その前に、目の前の塵をさっさと払ってしまう必要があった。

 リサ=ヴィクセン。一応同僚ではあったが、職場の違いからか、それとも彼女が新参であったからか殆ど会話を交わしたこともない。
 だが彼女の所属についてはサリンジャーも聞き及んでいる。『ID13』。アメリカ軍の誇る特殊部隊、そのエース。
 彼女が参加した作戦は十割成功しているらしい。何の経緯があって篁に仕えていたかは分からなかったが、
 彼女の仕事ぶりを聞き、サリンジャーは密かに感心していたものだった。

 冷静沈着な判断と、時には味方でさえ欺く用意周到な作戦。そして、誰も寄せ付けぬ鋭い雰囲気。
 地獄の雌狐の名に相応しく、一人でかなりの数の任務を成功させている事実は、サリンジャーにさえ良い印象を抱かせたのだった。
 あれも始末しなければならないと思うと少々勿体無い気分になったが、仕方がない。
 敵であるからには速やかに排除する必要があった。ナイフの刃先を突きつけられているというのは体に悪い。
 アハトノインとどちらが上か、ということにも興味があったので、是が非でも彼女とは一戦を交えて貰わねばならなかった。
 もっとも、勝つのは自分の兵士だろうが――

659エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:18 ID:xs23czu20
 そこまでサリンジャーが思惟を巡らせた、その時だった。

「な……!?」

 サリンジャーが驚きの声を上げる。思わず立ち上がった拍子に椅子が倒れ、机の上のコーヒーカップが倒れた。
 呆気に取られるサリンジャーの視線の向こうでは、参加者の現在位置を示す光点がてんでバラバラなところに現れては消え、
 信号のような不自然な明滅を繰り返していたのだ。
 いやそれどころか、現在の生存者数、死亡者数すらも滅茶苦茶な値を示し、生存判定もおかしなことになっていた。
 不調、そんなものではない。慌てて近くにいる作業用アハトノインの肩を掴み、「何が起こった!」と怒鳴る。

「何者かに参加者管理用のコンピュータを荒らされている模様です」
「なに……?」

 ハッキング。即座にその一語が持ち上がり、横からパソコンの画面を覗き見る。
 ザ・サードマン。その文字がディスプレイ上にでかでかと浮かび上がり、
 悪魔をモデルにしたようなキャラが奇声を上げながら暴れまわっている。
 いかにも古臭い手段に呆然とする一方で、どこから侵入されたという疑問が浮かぶ。

 セキュリティに穴があるわけがない。そもそも接続できるような環境があるわけがない。
 内部の裏切り? いや物理的に裏切れるはずがないのだ。何故なら、ここにいる人間は自分ひとりしかいないのだから。
 従順なロボットが裏切れるわけがない。だが事実としてハッキングはされている。しかも趣味の悪い悪戯プログラムつきで。

「プログラマーの心当たりはある……あのガキか……だが、どうやって……!」

 歯軋りするサリンジャーの耳に、今度は甲高い警告音が響き渡った。
 侵入者の存在を知らせる、警告アラームだった。

660エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:38 ID:xs23czu20
『報告。報告。ゲート2、10、3より侵入者の模様です。数は不明』

「馬鹿な、どういうことだ!」

 監視モニターに振り返ってみたが、そこには何も映っていない。
 まさかと思う間に「監視プログラムもやられた模様です」という無遠慮な声が聞こえた。
 アハトノインの無機質な声に苛立ちを覚える一方、まずはシステムを復旧させ、
 迎撃に当たらせるべきだと指揮官の頭で考えたサリンジャーは、戦闘用アハトノインの待機している部屋にマイクで通達する。

「出撃だ! 侵入者の迎撃に当たれ! 私とアハトノイン以外皆殺しにして構わん!」

 命令を受けたアハトノイン達が一斉に立ち上がり駆け出してゆくのを目の端で捉えながら、
 続けてパソコンの前で固まっているアハトノイン達に「システムの復旧だっ! 急げノロマ共!」と怒声を飛ばす。

「ゲート2、10、3……?」

 あまりにも急すぎる事態の変転に頭が混乱しながらも、サリンジャーは分析を続ける。
 一斉に侵入されたと見て間違いない。しかも、こちらのセキュリティを何らかの手段を用いて破った上でだ。
 雌狐め。主犯の存在を即座に思い浮かべたサリンジャーは力任せにデスクを叩き付けた。

 しかもゲート2、3、10といえば参加者達が向かった方向と一致する。つまり、あの分散は最初から計算ずくというわけだ。
 こちらが準備を整えている間に奇襲を仕掛けてきたのだ。有り得ないという感想が浮かんだが、現実を否定していても仕方がない。
 戦闘用アハトノインが会敵するまでは少し時間がかかる。高天原の内部深くに潜り込まれてしまうのは恐らく確定だろう。
 要塞内部には精密機器も多いために下手に銃火器が使えない。――しかも、それはこちらの論理であり、
 破壊者たる向こう側にはそんなものは関係ない。島ごと沈められる危険性は皆無とはいえ、これでは……

「……しまった!」

661エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:56 ID:xs23czu20
 サリンジャーはもう誰もいなくなったアハトノインの待機室に目を回す。
 高天原を傷つけないために、銃火器の使用を禁じる命令を出したままにしておいたことを忘れていた。
 白兵戦しか挑めない状況と、好き放題撃てる相手の状況とでは、いくらアハトノインでも分が悪すぎる。
 命令の変更を伝えようと、サリンジャーはマイクの送信ボタンに手を掛けた。

「駄目です。通信も不可能な状況です。現在復旧していますが、まだ時間が」
「それじゃ遅いんだよ、この役立たずがっ!」

 割って入った声にカッとなったサリンジャーは思わずアハトノインの顔を殴りつけたが、
 アハトノインは何事もなかったかのようにムクリと起き上がり、また淡々と作業を始めた。
 何とも言えぬ不快な気分になったサリンジャーは、壁を思い切り蹴りつけた。

 世界への宣戦布告を日単位で変更される羽目になった、サリンジャーの憤りの表れだった。
 銃撃が許されているのは、上部のエレベーターからだ。
 せめてそこまで辿り着いてくれるように、サリンジャーは爪を噛んで祈るしかなかった。

「……この私が、神頼みとはね」

     *     *     *

「上手くはいったみたいだな。さぁて、この首輪ともようやくお別れってわけだ。アディオスアミーゴ」
「ぴこぴこ」

 ポテトの相も変わらず喜色の悪い踊りを横目にしつつ、俺はゆめみが首輪を外してくれるのを待った。
 藤田、姫百合の二人はどことなく緊張した面持ちで俺を見守っている。
 まあ、失敗したら爆発するかもしれないってんだからそりゃそうだわな。
 仮に失敗したとしても、このHDDの中にあるワームが敵方のコンピュータを引っ掻き回している頃合いだろうから、
 しばらくは爆破させられる心配もないんだが。

662エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:13 ID:xs23czu20
 全く大したプログラムだ。プログラミングの知識は聞きかじった程度でしかないんだが、こんなに自己増殖が早いとは。
 しかもそれを一日も経たずに組み上げたってんだからこいつの姉……だったか妹だったかは凄いもんだ。
 ま、和田って奴の情報がなければこうも簡単に侵入することも出来なかったんだがな。
 多分結構前のデータのはずなのに、更新してなかったのが間抜けもいいところだ。

 和田の言う通りアクセスしただけでするすると入れたんだからな。敵も想定外だったのか、見くびっていたのか。
 あんな高慢ちきな放送するような敵さんだ。きっと油断してたに違いない。ざまあみろ。
 そうこうしてる間に首輪は外れたらしく、見ていた二人も首輪を外し始める。

「ぴこ」

 首輪をくわえたポテトが俺にほれ、と差し出す。
 これのせいで散々苦労させられたし、酷い目にも遭った。
 郁乃が死ぬこともなかっただろうし、沢渡が死ぬこともなかっただろう。
 クソッタレめ。俺は乱暴に首輪を受け取ると、思いっきり窓の外へと投げ捨てた。
 思ったより軽かった首輪は軽い放物線を描いて消えていった。
 本当なら海でも投げ捨てたかったが、この際文句は言わん。

「こっちも終わったぜ」
「準備オーケイや」

 やる気まんまんらしく、装備まできっちり整えた二人が威勢のいい声をかけてくる。
 というより、俺達が一番最後だから早く合流したくて仕方がないのだろう。
 他のメンバーは既に侵入を果たしているはずだ。当然首輪も外して。ドンパチやっているかもしれない。
 破壊工作班、と銘打たれた俺達は専ら重装備で固め、しんがりとしての役目も引き受けることになった。

 ちなみに他の三つのチームはそれぞれ爆弾設置、中枢部制圧、通信施設の確保という役割を任されている。
 とは言ってもあくまで『指針』であるだけで、あくまで脱出が第一らしいが。
 またワームを送り込む過程でどうしてもネットに繋がなければならないため、ここに残っていたというわけだ。
 主な役割は敵方の兵器類の破壊。とはいってもこの装備では破壊できるかどうかも怪しいと俺は睨んでいるので、
 実際のところは小火器類を壊すくらいのものだろう。

663エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:32 ID:xs23czu20
「まあ慌てるな。慌てる古事記は読者が少ないって言うぞ」
「……おっさん、わざと言ってねえか?」

 おっさん言うな。折原のことを思い出して、少し言葉が詰まってしまった。
 タイミングを逃してしまったのでこれ以上ボケることは出来ないと思った俺は何事もなかったかのように話を進める。

「2、3、10の入り口から侵入できるみたいだが……どこを選ぶ?」

 ちなみに、ここから侵入できると教えてくれたのも和田の情報である。まさしく救いの神ってわけだ。
 入り口は十箇所あるとのことだったが、学校の位置関係上から最も近いこの三ルートが選ばれた。

「決まってるやろ。一番近い10や」
「ほう、その理由は」
「なんでって……そりゃ、その方が早く追いつけるから」
「悪くない答えだ。及第点だな」
「じゃ、じゃあおじさんの意見はなんやの」

 ふふん、と俺は鼻を鳴らす。まーた始まったか、とポテトが溜息をつき、ゆめみがクスッと笑ったのが目に付いたが、
 最後なんだ。大いに笑って見逃してくれ。こうやって大人面してられるのも最後なんだからな。大事なことなので二回言ったぞ。

「武器庫のIDカードには10って書いてあったそうだ。つまり、武器庫が近いってことだ」
「……なるほど。武器庫に近い分、破壊工作もしやすいってことか」
「ザッツライトだ藤田」
「なんや、結局10番ってことやん」
「……まあそうなんだが」
「意見は一致しているようですし、良いことだと思います」

 流石ゆめみ。きっちりフォローしてくれるぜ。
 ロボットにフォローされるのも悲しい話だが、この島では一番古い付き合いになってしまった間柄だからな。
 それなりの信頼ができてるってもんだ。

664エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:51 ID:xs23czu20
「ぴこー」

 はいはい。お前が一番の相棒ですよっと。だから服の裾引っ張んじゃねえよ。ラーメンみたいに伸びるだろうが。
 そう、郁乃も、沢渡も、ささらも七海も折原もいなくなってしまい、寺から一緒にいたメンバーも俺達二人だけだ。
 だから、ってわけじゃない。あいつらが死んだから俺は生きなきゃならないってのはこれっぽっちも思ってやしない。

 ただ――思ったのさ。好き勝手できる程度の人間にはなってやるかってな。
 生きていた頃のあいつらの期待に少しだけ応えるくらいはしてやろうって決めたんだ。
 下らないって昔なら思っただろうな。でも今は違う。違ったって、いい。そうだろ?

「行くか」
「はい」
「ああ」
「うん」
「ぴこ」

 悪くないって、本気で思えているなら。

「さぁて、恨みはらさでおくべきか。思いっきり暴れてやる!」

     *     *     *

 ごうんごうん、と低く唸る音と薄暗い廊下、そして網の目のように四方に広がるパイプは、
 古河渚に気味の悪い生物の内部に潜り込んでいる様を連想させた。
 自身を縛っていた首輪は既になく、ここまで誰にも遭遇することなく駆け抜けてくることができた。
 順調といえば順調、だが順調に行き過ぎていることがかえって渚に不安を抱かせる。
 静かなのだ。誰かが追ってくる気配も、待ち構えている気配もない。
 それは渚の前方に控えているルーシー・マリア・ミソラも那須宗一も感じているようだった。

665エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:08 ID:xs23czu20
「誰もいないな……」
「いいことじゃないか。リサも言ってたろ、戦わないに越したことはないって」

 ルーシーの呟きに軽い調子で答えた宗一も、警戒の度合いは強めている。
 廊下の曲がり角に差し掛かると、まず宗一が先んじて進み、
 覗き込んで安全を確認した後に自分達を進ませるという有様だ。
 渚でさえ嫌な感じがするくらいなのだから、宗一はもっと強く感じているのだろう、
 と様子を窺っている宗一の姿を見ながら思う。

 自然とグロック19を持つ手に力が入った。戦わないに越したことはない。確かにそうだ。
 しかし建物の内部に強引に侵入している以上、迎撃の手がないはずがない。
 異物が入れば、自己防衛機能で一斉に排除しにかかる。ここを人体の構造に例えればあって当然だ。
 だからこそ、いつ何が起こっても対応できるように宗一は身構えている。油断は即、死に繋がる。

「よしいいぞ、行こう」

 行けると判断した宗一が手招きしてくる。ルーシーがまず進み、宗一の背後についたところで渚も動き出した。
 三人で行動するときの基本陣形とも言うべきものだった。前衛を宗一が、中座をルーシーが、そして最後尾に渚が位置する。
 単純に戦闘力の順で並べたものだが、一番強い人間に先を任せるという発想だから悪くない。
 宗一の動作も指示も堂に入ったもので、流石にエージェントの貫禄を漂わせている。
 緊張の中にも、宗一がいれば大丈夫だと思えるのは、恋人だから……だけというわけではない、と渚は思いたかった。

「しかし、だ」

 進みながら、ルーシーが珍しく自分から雑談の口を開いてきた。

「戦うのが人間相手じゃなくて良かったというべきなのかな。ロボットなら、まだ大丈夫だ」
「……わたしもです。壊すのはちょっとかわいそうだなって思いましたけど、それでも、もう人が人を殺すのは」

 見たくないものだ。言う前に、ルーシーは頷いてくれた。
 無論人間相手でも、銃を向けなければならない時があることを渚は知っている。
 人が殺せたって何もいいことはない。そうであるからこそ、そうさせないために、
 力の使い方を知って考えるのが自分達の役目だ。

666エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:25 ID:xs23czu20
 天沢郁未に銃口を向けたとき、渚には本気で撃てる気持ちがあった。
 力の倫理を鎮めるための力。血塗られた道であっても、その先が善いものになると信じられるから向けられる力。
 最終的に郁未が理解していたかどうかは分からない。だが渚は、確かな声を聞いた。

 やってみろ。出来なきゃ殺すわよ。

 どこか乱暴で突き放すようで、それでも優しさを隠そうともしない声は本心からのものなのだと、
 渚は何の疑いもなく信じることができた。

「できるなら、あのサリンジャーって奴はふん縛って連行してやりたいぜ。
 でも、ま、それは後でもいい。今必要なのはここから逃げ出すことだ」
「ああ、そうだな……裁くのは、私達じゃない」

 自分達を殺し合いに巻き込み、大切な人を幾度となく奪ってきた張本人。
 ここにいる誰もが、少なからぬ恨みを抱いているはずだった。
 渚でさえ、どうしてこんなことをしたのか問い質したかった。
 けれども誠実な答えが返ってくるはずのないことは想像に難くない。
 手前勝手な言葉しか期待できないことは、幾度となく繰り返されてきた放送の中身からも分かる。
 だから謝罪など求めない。代わりに自分は関わらない。しかるべき措置さえ受ければ渚にはそれでよかった。
 考えるべきことはいかに復讐するかではなく、どんな未来を生きるかということだったから……

「にしても随分長い廊下だぜ。ホントにここ建物なのかよ?」
「隊長がそれでどうする」
「俺はセイギブラックだ」
「レッドはいないぞ。ちなみに私はブルーだ」
「わたしは……ホ、ホワイトで」

667エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:42 ID:xs23czu20
 ばっ、とルーシーと宗一が振り向いた。敵かと思って渚もグロックを構えて振り向いてみたが誰もいない。
 なぜ二人が凄まじい勢いでこちらに向き直ったのか分からず、「どうしたんですか」と尋ねてみると、
 二人は大真面目な調子で言った。

「「いや、まさかノってくると思わなかった」」
「わ、わたしだって冗談くらい分かりますっ!」
「いや、いや。俺は嬉しいぞ。ユーモアのある彼女で俺は幸せだ」

 宗一はなぜか感動に咽び泣いている。宗一の影響が少しはあるのは否定しなかったが……
 そしてさりげなく惚気たことにルーシーがふっと溜息をついていた。

「起きたとたん膝枕だったな……一体何があったのかと」
「俺の彼女は気前がいいんだ。やさしくしてくれたぞ」
「誤解を招くような言い方しないでくださいっ!」

 顔を真っ赤にして否定するが、宗一とルーシーはゲラゲラ笑ったままだった。
 敵地の真ん中でこんなことをしていていいはずがないのだが、
 宗一が率先してからかってくるものだからどうしようもない。

「やれやれ。ご馳走様」
「どういたしまして。なんならまた食べる?」
「しばらくいい。お腹一杯だ」
「そりゃ残念だ」
「……宗一さん」

 流石に気分のいいものではなく、少し低い声で言ってみると、またぎょっとした調子で振り向かれた。
 敵……ではなさそうだった。

668エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:59 ID:xs23czu20
「い、いや、ごめん、からかい過ぎた。……怒った?」
「……少し」
「悪かった。この通り」
「もういいです。帰ったら、で」

 手を合わせる宗一をこれ以上引っ張りまわす気もなかったので、最低限の言葉で応じてみせると、
 聡い宗一は意図に気付いてくれたらしく、「ごめんな」ともう一度言ってまた前衛に戻っていった。
 ふぅ、と苦笑をひとつ吐き出した渚は、こういうことをすぐ悟ってくれるような人だから好きにもなったのだろう、と思った。

「……お腹一杯だと言ったんだがな」

 ぼそりと呟いたルーシーもまた聡かった。

     *     *     *

 目の前にあったのは、巨大な空洞だった。
 どこまで続いているのかと思わせる程の、底無しの暗闇。
 時折ひゅうひゅうと吹く風の音は、化物の唸り声のようにさえ感じられる。
 誰一人として戻れない地獄へと通ずる穴……そんな感想を、芳野祐介は抱いた。

「これがコンソール……かな? ねー誰か英語読める?」

 暗闇を眺めていた芳野の横では、朝霧麻亜子が伊吹風子と共に何かを弄繰り回している。
 はいはい、と藤林杏が離れ、二人の元へと駆け寄る。

 あいつらは確か藤林より年上じゃなかったのかと思わないでもなかったが、
 年齢と学力が比例するわけでもないと思いなおし、芳野は再び暗闇へと目を戻した。
 長い間事故により眠っていた風子はともかく、麻亜子はただ単に勉強していないだけなのだろう。
 もっともそれは自分についても同様だったのでそれをとやかく言う資格はないし、言う気もなかった。

669エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:40:15 ID:xs23czu20
「そういや、歌作ってた時も英語が正しいかなんて全然考えてなかったな」

 己の気分のまま、情動のままに作っていた英語が正しいわけがなく、今にして思えば恥ずかしいものだと芳野は思ったが、
 それでも売れていたのは内容が正しいかどうかなんて関係なく、それ以上に人を惹きつけるなにかがあったのだろう。
 もうそれは分からなくなってしまったし、持ち合わせているはずもなかったが……
 けれども、代わりに手に入れたものだってある。
 自覚しているのならよしということにしておこう、と結論した芳野は暗闇から目を放し、顔を上げた。

「エレベーターのコンソールみたいね……これが上昇で、これが下降かな?」
「でもエレベーターなんてどこにあるんですか?」
「はっはっは。洞察が足りんぞチビ助よ。見よ、あの大穴を」
「チビ助言わないで下さい。で、あれがどうしたんです?」
「あれがエレベーターさね」
「……バカですか? あ、バカにしか見えないエレベーターなんですね。分かります」
「おいチビ助さらりとひどくディスったな! だーかーら貴様はバカチンなのだっ!」
「あんな大きなエレベーターあるわけないじゃないですか! 風子にだって分かりますっ」
「ドアホー! だったらあんな大きな穴は何のためにあるんだよ!」
「アホアホ言わないで下さい! アホが移りますっ」
「はいはいはい、喧嘩はそこまでよ」

 敵地だというのに奇声を張り上げて唸っている二人を杏が頭を掴んで押し留める。
 全く誰が年上なのだか分からなかった。
 とはいえ、納得させられるだけの言葉を杏も持ち合わせていないらしく、苦笑顔で助けを求めてくる。
 芳野はやれやれと首を振って、「搬送エレベータだ」と二人に言った。

「巨大な物資を運ぶために空洞状の構造にしたエレベータだよ。恐らく、今は下に止めてあるんだろう」
「そうなんですか?」
「あのー、なんであっちの言葉は信用するのかしら」
「あんたは普段から胡散臭いのよ」
「う、胡散臭い!?」

670エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:42:29 ID:xs23czu20
 大仰な動作で麻亜子が驚く。自覚していなかったらしい。
 あれだけ奇天烈な言動を繰り返しているのに……
 こいつは分からん、と芳野は内心で溜息をついた。

「……とにかく、まずはこのエレベータを持ってくるぞ。上昇させてくれ」
「了解しましたっ。ポチッとです」

 風子が言うやいなや、空洞の底の方から低く唸る音が聞こえてきた。エレベータが上昇を始めたらしかった。
 まず、上がってくるまでにそれなりの時間を要することになる。それまでは待機だが、警戒はしておく必要はあった。
 コンソール前でたむろしている三人に近づきつつ、「お前ら、油断するんじゃないぞ」と声を飛ばす。

「どこから敵が来るか分からないんだからな」
「でもさ、ここまで一本道だった気がするんだけど」
「……まあ、それはそうなんだが」

 麻亜子の意外と冷静な突っ込みに、芳野は声を詰まらせた。
 ただのアホではないのが麻亜子なのだ。

「今アホとか思ったっしょ」
「いや」

 時々勘も鋭いから困ったものだった。

「へんっ、どーせあちきは期末試験の追試の追試の追試もダメだったからお情けで単位を貰うようなダメ女さ」
「それはダメとしか言いようがないような……」
「そこは慰めてよ!? それが人情だろそーだろー!?」
「アホです」
「がーっ! チビ助だけにゃ言われたくねー!」

671エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:42:48 ID:xs23czu20
 もう止める気力も起きなかった。好きにしてくれ、とさえ思う。
 本当に前に一度交戦した人物なのかとさえ疑いたくなってきた。
 そうこうしているうちにエレベータが上がってきて、広場とさえ見紛うほどの広い空間が目の前に出てきた。
 これだけ大きいとなると、相当数の荷物を運べる。ざっと見た限りでは縦横それぞれ20mはあるだろうか。

「……何を運ぶのかしら」

 あまりにも巨大すぎる床に、杏がそう言うのも当然というものだった。
 仕事柄搬送用エレベータを見ることも多かった芳野も、これだけ巨大なものは見たこともない。

「重機か何かでも運ぶんじゃない? ここ滅茶苦茶広そうだし」
「ここからさらに下に行くんですよね……地下何階まであるんでしょう?」

 それぞれが好き勝手なことを言っていたが、巨大なエレベータに対する畏怖らしきものが感じられるのは気のせいではないだろう。
 これだけのものを建造できる敵に対しての戦慄が混じっているといってもいい。
 自分達が喧嘩を売ろうとしている相手は、それだけのものなのだ。

「行くぞ」

 尻込みしていても始まらないと思い、簡潔に一言だけ告げて進む。
 もう既に、ここは敵の胃袋の中なのだ。
 芳野に続いて麻亜子がエレベータの床を踏み、その後に風子と杏が続いた。
 エレベータの端に小さい箱型の制御装置があり、それを使って下降・上昇させるようだった。
 下降ボタンしか明るくなっていないことから、降りることしかできないのだろう。

 ボタンを押すとガクンと一瞬揺れた後、エレベータが下がってゆくのが分かった。
 それまでいた通路がどんどん視線の上へと上がってゆく。
 またしばらくは待機の時間と見てよさそうだった。

「爆弾はちゃんとあるな」
「ええ、ここにありますよ」

672エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:05 ID:xs23czu20
 流石に置き忘れてくるほどの馬鹿はここにはいない。
 杏の隣にはかなりの範囲を吹き飛ばせるらしい爆弾が台車の上に積まれている。
 ニトログリセリンとは違い、微細な刺激で爆発するほどのものではないが、それでもデリケートな代物であるのには変わりない。

「落とすなよ」
「分かってますって」

 念を押した芳野に、杏は自信たっぷりに答えた。
 なんだかんだ言いながら、逐一爆弾の様子を見てくれていたのは杏だった。
 意外と目配りが利いて、細かいところまで見てくれている。優秀な人材だ。
 本人は色々と自信がなさげだが、この目の速さは評価に値するものがある。
 寧ろ杏がいてくれるからこそ、芳野は安心して前を向いていられると言ってもよかった。
 その意味ではこの人事は上手いものだと芳野はリサ=ヴィクセンに感謝する。

「そういえば杏さん、怪我は大丈夫なんですか?」
「まだ痛いんなら代わったげるよ」
「あ、うん。もう大丈夫。何とかなると思う」

 ……目配りが利くのは、杏だけではなかった。
 一見喧しいだけのように見えて、実は色々な方向でバランスは取れているのかもしれない。
 全く大したものだと芳野はリサの手腕に驚嘆するほかなかった。

 そう、話をしているときでも全員がほぼ中央に集まり、襲撃にも備えていることがメンバーの優秀さの証拠だ。
 いや優秀でない人物などあの十五人の中にはいないのだろう。
 全員が修羅場を乗り越え、何かを背負い、悩んで、苦しんで、それでも前を向こうと決意した人ばかりだ。
 最終的な目的は違う部分もあるのだろうが、それでも『誰も死なせたくない』という部分では同じなのかもしれなかった。

「にしても、長いよね、このエレベーター」
「ゆっくりしてるだけなのかもしれないがな」

673エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:24 ID:xs23czu20
 壁面を見る限りでは、エレベータの移動速度は極めて遅い。
 一刻も早く進んで、敵の指令中枢部を叩かなければならない。
 いざというときの爆弾もあるにはあるが、基本的に破壊力が強すぎて滅多なところで使えるものではない。
 最低でも、このエレベータから降りたところで、というのが条件だろう。
 爆破するポイントとしては、敵の戦力が集まっているところが望ましいのだが……

 そんな都合のいい場所があるのだろうかと芳野が考えていると、不意に袖を引っ張られる。
 なんだと思って見てみると、眉根を険にした風子が上を指差している。

「何かいるような気がします」
「何か……?」

 目を凝らしてみるが、上も薄暗くて判然としない。
 さりとて気のせいではないのかと無碍にするのも躊躇われ、じっと覗き込んでみる。

「っ!」

 確かに見えた。壁際の『何か』が動いた。
 反射的に爆弾の乗った台車を蹴り飛ばし、「散れっ!」と叫ぶ。
 爆弾が爆発するかもしれないという考えは、直後、台車のあった地点が火花を散らしたことによって即座に吹き飛んだ。
 後一歩遅ければ誘爆して骨ごと残さず炭になっていた。ゾッとした気持ちを感じる一方で、最初に対応したのは麻亜子だった。

 素早くイングラムを取り出した彼女は上方に向かってフルオートで射撃する。
 だがその行動すら遅かったらしい。既に中空を舞っていた敵はこのエレベータに向かって飛び降りていた。
 ドスン、という人間の体躯には見合わない音と共に着地した敵は――プラチナブロンドを纏った、漆黒の修道女だった。
 芳野は知っている。彼女が誰であるのかを。
 ゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げた彼女の瞳は、あの時と寸分も違わない無機質な工学樹脂の色だった。

「あなたを、赦しましょう」

 美しい女性の声で言い、女が、『アハトノイン』がP−90の銃口を持ち上げた。

674エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:45 ID:xs23czu20
     *     *     *

「コンテナだらけなの」

 規則正しく詰まれたコンテナの群れを見ながら、ウォプタルに乗った一ノ瀬ことみが感心したように息を吐いた。
 このコンテナの中にあるのは恐らく武器弾薬か、はたまた生活必需品の数々か。
 或いは殺し合いの運営に必要なものなのかもしれない。
 回収出来そうもない以上、詮索しても無意味だと考えたリサ=ヴィクセンは、「先を急ぎましょう」と伝えて前に進む。

 自分達は先鋒の役割を務めている。装備は他のメンバーに比べれば多少軽装だけれども、それなりのものを与えられている。
 リサ自身はM4カービンにベレッタM92、それとトンファーを持っている。
 怪我の影響がまだ残っていることみはウォプタルに乗せて移動させることにした。
 装備品はウォプタルにつけているため、苦にはなっていないはずである。

 この正体不明の動物は荷物の運搬も行えるほど力があるらしく、平気そうな顔をしてのしのしと歩いている。
 篁の研究所で生み出された新種の動物なのだろうか。
 どんなことでもやってのける篁財閥のことだ、それくらいはあってもおかしくはなかった。

「にしても、ただっ広いところだな……一体ここで何しようってんだ、あいつらは」

 呆れたようにきょろきょろと周りを見回しながら歩いているのは国崎往人だった。
 怪我の度合い、筋骨隆々とした外見から自分のチームに選抜している。実際、そこそこ重量のあるはずのP−90、
 SPAS12、コルトガバメントカスタム、ツェリスカ、サバイバルナイフなどを持ち歩いているにも関わらず飄々としている。
 本人に言わせれば「荷物持ちは慣れた」とのことらしい。
 中々頼もしい人材だと思いつつ「殺し合いの運営でしょう?」と返答してみる。

「んなもん、ちょっとした機械とかを使うにしてもここまで広くはないだろ」
「……まるで、要塞」

675エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:05 ID:xs23czu20
 往人の後を引き取って続けたのは川澄舞だった。
 往人の同行者、ということで相性を考慮してメンバーに入れた。本人曰く「一応戦える」とのことらしい。
 実際どれだけの実力があるのかはいまいち不明瞭だったが、日本刀を携えて歩き回る様はどこか堂に入っていて、
 決して素人などではないことをリサに感じさせた。
 近接武器だけに拠っているのが少し不安と言えば不安だったが、舞自身が銃を持つのを嫌ったので彼女の好きにさせることにした。
 無理に苦手な武器を持たせたところで意味はないと考えたからだった。

 適材適所。銃器に関しては、少なくとも自分というプロフェッショナルがいるのだからいくらでもフォローは行える。
 とはいえ、限りはある。弾薬もそれほど豊富にあるわけではないのだ。
 それゆえ、なるべくならば戦闘に入りたくないというのが全員共通の見解だった。

「要塞、ね。確かにそうかもしれない」
「と、いいますと?」

 ことみが合いの手を打ってくれる。

「この島、実は人工島なのよ」
「初耳だぞ」
「……」

 舞は薄々感づいていたらしい。不自然極まりない部分はいくらでもあった。
 和田の情報、自身の情報、それらから推理したことをリサは続ける。

「地図に載っていない島。色々と詰め込まれたコンテナの数々。
 正体不明の敵ロボット。ここが軍事要塞だとしても何もおかしくはないわ」
「ロボット、ってのは高槻が言ってたあれか。あれは敵の尖兵だと?」
「そうね。あれがここを守る用心棒ってことになる」
「……じゃあ、なんで私達は殺し合いをさせられていたの?」
「さあね……でも、一番最後の放送で主催の意図が変わったのは明らかだった。殺し合いをしろ、が参加者を全滅させる、だもの」
「殺し合いはただの余興だった。そんな可能性もあるの」
「ふざけた話だな……」
「はっきりしていることが一つあるわ。何にしても、ここの連中は命を重んじるような人間じゃない」

676エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:21 ID:xs23czu20
 それは全員が感じていたようで、怒りを孕んだ気配が滲み出るのが伝わった。
 理不尽を受け止めはしても、決して許したわけではない。リサとて同じことだった。

「……でも、まずはここから生きて出ること。それが、一番だと思う」

 抑える風ではなく、今できる最善のこととしてその言葉を口にした舞に、全員が無言で頷いた。
 生きることを何よりも優先しなければならないのが今の自分達であったし、そう望んだのも自分達だ。
 殺し合いの中でも様々な人と出会い、言葉を交わし、新しいなにかを見つけた者もいれば、失った者もいる。
 今まであったもの全てを砕かれてしまった者もいる。

 だが、それでもバラバラになった欠片を拾い集め、また自分の足で歩くことを決めたのが自分達なのだろう。
 要は自分のことを優先しているだけなのでもあるが……それで、良かった。
 言い訳して、間違った行為を続けるよりは。

「ま、その話はこれくらいにして、だ。このコンテナの山はどこまで続くんだ」

 これ以上結論の見えきった話を続けるのは無意味だと思ったのか、往人が別の話題を振ってくる。

「とりあえず、真っ直ぐには進んでいるけど」
「適当なのか」

 その通りだった。が、地図も何もないのだから仕方がない。
 壁沿いにでも行けばよかったかと今さらながらに思ったが、そこまで悠長にしている暇もない。

「でも、出口みたいなのはある」

677エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:36 ID:xs23czu20
 出し抜けに舞が言い、びっ、と前方を指差した。
 よく見れば緑色の光点があり、扉らしき枠も見える。
 自動開閉式の扉に間違いなかった。

「……まずはあそこね」
「上手く誤魔化したなの」

 余計な一言を挟んだことみを小突いてやろうとしたところで、緑色の光点が唐突に赤色へと変わる。
 誰かが来る。それは勘ではなく確信だった。
 咄嗟にことみのウォプタルを引いて隠れ、往人と舞にも隠れるよう合図を出す。
 嫌なタイミングで鉢合わせたものだ、と内心で舌打ちする。

 不幸中の幸いといえるのが、ここはコンテナだらけで隠れる分には困らないというところくらいだ。
 往人と舞は自分達とは対岸の方のコンテナに隠れており、下手に合流しようとすれば見つかる。
 刹那のことだったとはいえ、離れてしまったのは失策だったか。
 どうするかと考えていると、人のものにしてはやたらと重厚な、地面を踏み潰すような足音が迫ってくる。

 哨戒、とは考えられなかった。明らかに質量を帯びた、
 規則正しくありながら無遠慮に音を立ててくる足音は人間のものとは思いがたい。
 だとするなら、こちら側に来ている敵は『ロボット』以外に考えられない。
 高槻の言う通りならばとんでもないスペックを誇る。何せレポートによれば銃弾が効かないらしいのだ。
 なるべくならばやり過ごしたいところではあったが、リサは探知能力の存在も懸念していた。
 赤外線探知、聴音センサー。人間の存在を探れる技術など溢れかえっている。
 既にこちらが潜んでいる場所を知られている可能性もある。だとするならば、仕掛けるしかない。
 至近距離からライフル弾をありったけ叩き込んでやれば倒せないことはないはずだ。

 M4を持ち上げる仕草をすると、往人と舞もリサの意図を理解したらしく、コクリと頷いた。
 戦闘はなるべく避けたいと言った矢先にこの有様だ。
 どうにもこうにも、エージェントというものはトラブルに巻き込まれやすい性質であるらしい。
 だが、それでもいいとあっけらかんとした気持ちでいる自分の存在もあって――

678エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:52 ID:xs23czu20
 きっとそれは、どこかの音楽プロデューサーのせいだったり、どこかの少女のせいだったり、
 どこかの同業者のせいだったりするのかもしれなかった。
 ミッションは迅速に、華麗に。そして、楽しんで……

 地面を蹴り、コンテナから飛び出したリサの動きはまさに他の追随を許さぬほどに早かった。
 M4をしっかりと構えていたリサには、自身が空中に浮いていることなど関係がなかった。
 視界に入った黒衣の影に向けて、頭部をポイントし、引き金を引く。
 正確に放たれたM4の三点バーストが、綺麗な三角形状に頭部を撃ち貫き、ぐらりと影を揺れさせた。
 そのまま前転して往人たちのいるコンテナへと転がり込む。それに合わせるかのように、二つの風が頭上を通り過ぎた。
 連続した銃声。続いて聞こえる、舞の裂帛の気合。
 何が起こったのかは見るまでもなかった。

「……すごい」

 時間にしてみれば、僅か10秒もない出来事だった。呆然と言ったことみに「プロだもの」と言ってのけ、
 ニヤリと笑ってみせると、ことみはやれやれという風に首を振った。
 さて敵はどうなっているのか、と思ったリサは倒れた敵を見下ろしている往人と舞の背中に近づく。

「どう?」
「人間じゃないな」
「でも、血のようなのが出てるのは、少し不気味」

 覗きこんだ先では、仰向けに倒れ、頭部の半分を破壊された女が……いや、ロボットがいた。
 銃撃のせいか、プラチナブロンドの長髪は千々に千切れ飛び、
 舞が切断したのか、P−90を持っていた右手が切り飛ばされ、握ったままに近くに落ちている。
 半壊した頭部からは血の色をした冷却液がじわじわと広がっており、一見すれば血溜まりに浮く死体の様相を呈していた。

679エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:09 ID:xs23czu20
 これが『アハトノイン』……人の形をした殺戮ロボット。
 顔が半壊しているにも関わらず、無表情を貫いたままのアハトノインに対してリサが思ったのは、純粋な嫌悪感だった。
 命令のままに人を殺し、意義も正義もなく命を奪う最悪の道具。
 人型にしているのも悪趣味としか思えず、リサは思わず「最悪の趣味ね」と毒づいてしまっていた。
 こんなものを作り、データを取るためだけに何百人もの生き血が啜られてきた。
 どろりとした冷却液も犠牲者の血のようにしか思えず、リサは大きく溜息を漏らす。

「しかし、助かった。あんたが正確に狙撃してくれたからこっちもやりやすかった」
「どうも。そっちこそいい腕前ね。エージェントにでもなってみない?」
「学校に行っていない俺でもなれるのなら」
「……Sorry.今の話は忘れて」
「おい」
「フフ、冗談よ。でも、エージェントはやらない方がいいわ。本当に、色々と厳しいから」

 ちらりと舞の方を見やると、往人は「……なら、忠告に従っておく」と分かったのか分からなかったのか、
 ぶすっとした声で応じた。男女の関係を気にして口出しするようになったのは、自分も既に経験しているからなのだろうか。
 そのような視野でものを見ることができるようになった自分が嬉しくもあり、少しだけ悲しくもなった。

「年かしらね……」
「あ?」
「いいえ、何でも。それよりカタはついたんだし、先を急ぎましょう」

 まだアハトノインを見下ろしている舞に、気持ちを切り替えるつもりで言ってみたのだが、舞は微動だにしなかった。
 それどころか、彼女は再び刀に手をかけている。

「川澄さん?」
「……まだ、こいつは死んでない」

 死んでいない? 頭部が半壊したはずなのに、何故そう言うのかと問おうとした寸前、「来る」と舞が刀を構えた。
 言い切ったと同時、舞が振り下ろした刀が――受け止められた。
 アハトノインが差し込んだ、グルカ刀によって。

680エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:26 ID:xs23czu20
「なに!?」

 思いも寄らない事態に動転した往人が慌ててガバメントカスタムを構えるが、
 アハトノインは既に舞の刀を打ち払い、大きく跳躍していた。
 そのままコンテナに飛び乗ったアハトノインに「どういうことだ!」と往人が叫ぶ。

「……そういうこと」
「おいこりゃどういうカラクリなんだ、リサさんよ」
「人間とは違うってことよ。頭を破壊したからといって、そこに動力源やコンピュータがあるわけじゃない」
「……ああ、なるほどな……つくづく厄介なロボットだ」

 コンテナの上からこちらを片目で睥睨するアハトノインは、さながら墓地から蘇った『生ける屍』のようであり、
 決して自分達を見逃さない亡者のようでもあった。
 銃器はない。が、どこを撃てば即死するのかも分からない。
 どうすると逡巡しかけたとき、「先に行って」という舞の声が割って入った。

「このくらいなら私と往人でもなんとかなる。そっちはそっちのやることを」
「ダメよ。まずこいつを倒すところから……」
「時間がどれだけかかるか、分からない」

 言い切った舞には、こちらには時間がないとも言う響きがあった。
 ここで時間を消費している暇はないという風に視線を寄越した舞に、リサは反論の口を持てなかった。

「……リサさん。そうしたほうがいいと思うの」
「ことみ……」
「どうせなら正直になるの。私を守ってまで戦う自信はない。そうでしょ?」
「……」

 肯定も否定もせず、舞はアハトノインに向き直った。
 往人は既に舞と一緒に戦う気なのか、慎重にガバメントカスタムの銃口を向けている。
 もうこの二人を動かす言葉はないと結論したリサは、大きく溜息をついて二人に言った。

681エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:42 ID:xs23czu20
「絶対倒すのよ」
「当たり前だ」
「すぐに追いつく」

 短い言葉。だがそこには、絶対にやってみせるという決意があった。
 出口までは訳20m前後。突っ切れば、数秒で辿り着ける範囲だ。

「GO!」

 いけると判断したリサの行動は迅速だった。前に飛び出したリサに続いてことみのウォプタルも疾駆する。
 アハトノインの首が動き、こちらへと向きを変えてきたが、その体がぐらりと揺れる。
 ガバメントカスタムを連射すると共に「相手を間違えてるぞ、ウスノロ」という挑発的な往人の声が聞こえる。
 アハトノインの攻撃対象が変わったのがはっきりと分かった。コンテナを蹴る音が聞こえ、続いて甲高い刃物の打ち合う音が聞こえた。

「往人に手は出させない」
「……あ、なたを、赦し、ま」

 雑音を纏ったアハトノインの声は、元の容姿からは想像もできないほど醜いものだった。

「リサさん!」

 アハトノインに気を取られていると、既に扉の向こう側に移動していたことみがこちらに呼びかけるのが見えた。
 これで、間違ってはいないか。英二と別れたときの光景がリサの脳裏を掠めたが、
 だからこそ信じなければいけないと自分に言い聞かせた。

 英二も、栞も、自分の勝利を信じてやるだけのことをやった。分かれたせいで死んだわけではなく、信念に従って最後まで戦った。
 だから迷ってはいけない。立ち尽くしてはいけない。今できる、最善のことを。
 リサは走った。扉が閉まる。閉ざされた部屋からは銃声と刀の打ち合う音が聞こえてくる。

 それは、彼らが生きている音だった。

682エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:56 ID:xs23czu20
【時間:3日目午前11時50分ごろ】
【場所:『高天原』】

【所持品一覧】
1:宗一、渚、るーこ
装備:ウージー、グロック19、クルツ、サブマシンガンカートリッジ×7、38口径弾×21、M10、バタフライナイフ、サバイバルナイフ、暗殺用十徳ナイフ、携帯電話、ワルサーP5(2/8)、日本刀、釘打ち機

2:高槻、ゆめみ、浩之、瑠璃
装備:M1076、ガバメント、コルトパイソン、マグナムの弾×13、500マグナム、.500マグナム弾×2、M79、火炎弾×9、炸裂弾×2、ベネリM3、忍者刀、忍者セット、おたま、防弾チョッキ、IDカード、武器庫の鍵、スイッチ、ライター×2、防弾アーマー

3:芳野、杏、麻亜子、風子
装備:デザートイーグル50AE、デザートイーグル44マグナム、ニューナンブ、イングラム、ウージー、89式、SMGⅡ、サブマシンガンカートリッジ×7、89式マガジン×2、S&W M29 5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、日本刀、ボウガン、注射器×3(黄)、宝石、三角帽子

4:リサ、ことみ、舞、往人
装備:M4、P−90、SPAS12、レミントンM870、レミントン(M700)、ガバメントカスタム、ベレッタM92、ツェリスカ、ツェリスカ弾×4、M4マガジン×4、ショットシェル弾×10、38口径ホローポイント弾×11、38口径弾×10、M1076弾×9、7.62mmライフル弾(レミントンM700)×5、日本刀、サバイバルナイフ、ツールセット、誘導装置、投げナイフ(残:4本)、トンファー、ロープ

683エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:46:09 ID:xs23czu20
那須宗一
【状態:怪我は回復】
【目的:渚を何が何でも守る】 

解き放たれた男・高槻
【状況:主催者を直々にブッ潰す】

芳野祐介
【状態:健康】
【目的:思うように生きてみる】

一ノ瀬ことみ
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

リサ=ヴィクセン
【状態:どこまでも進み、どこまでも戦う】

川澄舞
【状態:往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】

朝霧麻亜子
【状態:ダイ・ジョーブ】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:スペツナズナイフの柄】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で舞を笑わせてあげたいと考えている】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている】

古河渚
【状態:健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく】

ルーシー・マリア・ミソラ
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:まーりゃんはよく分からん】

ほしのゆめみ
【状態:パートナーの高槻に従って行動】

藤林杏
【状態:絶対生きて帰る】

姫百合瑠璃
【状態:死ぬまで生きる。浩之と絶対に離れない】

藤田浩之
【状態:歩けるだけ歩いてゆこう。自分を取り戻した】

684エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:46:32 ID:xs23czu20
→B-10

685エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:07:54 ID:3kpzQWQU0
 そこは、世界にただひとつ残された、最後の楽園だった。

 照明にしては明るすぎるくらいの光が照りつけ、等間隔に敷き詰められた石床は綺麗に磨かれ、素晴らしくつるつるしている。
 一方石床以外の足場は雑草ともつかぬ植物が生い茂っており、石柱にも巻き付いてそこだけが年月を経たような有様になっていた。

 目を移してみれば、畑のようなものまであり、色とりどりの花が空間を着飾っている。
 ちょろちょろと聞こえる小さな音は水音だろう。上手く風景に紛れているのか、ぱっと見ではどこにあるのか分からない。
 部屋の中央には一対の机と椅子が用意されており、それも綺麗に磨かれた大理石のものだった。
 ただ――空の色だけは単調な青一色であり、ここが偽物の楽園でしかないことを強く示していた。

「驚いたな、こんなところがあるなんて」

 構えていた銃を下ろし、ルーシー・マリア・ミソラは呆然と呟いた。
 いや、正しくは呆れていた。こんな時代錯誤も甚だしい施設を構えている主催者の神経が改めて分からなかった。
 単に庭園というのならば分からなくはない。城にそのようなものを配置するのは理解できる。

 しかしそれは住人が人間であるならばの話だ。ここには花の美しさを楽しみ、愛でる住人などいない。
 いるのは機械だけだ。ただ命令のままに動く機械の兵隊だけ。
 逆に皮肉っているとさえ取れた。自分達ばかりではなく、この世界そのものを嘲笑っているような、そんな感覚だった。

「懐古趣味もいいところだぜ。空中庭園のつもりかよ」

 同じものを那須宗一も感じ取ったのか、棘を隠しもしない口調で言う。
 周囲を絶え間なく見回しているのは、恐らくは何か仕掛けがないかどうか探っているのだろう。
 それほど、この空間は胡散臭い。

「でも、綺麗なところですよね」

686エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:16 ID:3kpzQWQU0
 フォローなのか素なのか、どちらともつかない調子で古河渚が言った。
 確かに、見た目には美しい。日常にどこかのビルの中で見れば、素直に賞賛の言葉を出していただろう。
 結局のところ、こんな場所にあるから反感を持つだけなのかもしれない。
 やれやれと心の奥底に根付いた毒を手で払い、ルーシーは「行こう」と歩き出した。

「取り合えず道沿いに行けば別のところに行けると思う」
「だな。ったく、どこまで広いんだかここは……」

 宗一は相変わらず周囲に目を配っている。
 妙に気がかりに思ったルーシーは「嫌な予感でもするのか」とカマをかけてみる。

「始めに言っておくが、俺の勘の的中率は高いぞ」
「それは信用できそうだな。で」
「来るかも」

 簡潔な一言だったが、だからこそ、という気になった。
 渚と頷きあい、前方に注意を向ける。
 テーブルセットを越え、今はほぼ部屋の中央にいる。
 幸いにして通路自体は一方通行であるため、囲まれる可能性は低いのが救いだった。

「あ、そうだ言い忘れてたわ」
「なんだ」

 言っちゃっていいのかな、と前置きしてから宗一は苦笑する。

「早く言え」
「いやーその、実はさ」

 ばしゃ、と背後から一際大きな水音が立った。
 魚が跳ねた? そんなもの、ここにいるはずがない。
 ここは命の途絶えた死の楽園だ。
 ならば、そこに潜んでいるのは――物言わぬ守衛だ。

687エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:35 ID:3kpzQWQU0
「口にした途端に起こるんだ。『悪い予感』」

 振り向くと、そこでは宗一と、水に濡れた『アハトノイン』が刃を交えていた。
 水中から奇襲された? 一瞬でその結論を下すと、ルーシーは宗一の肩越しにクルツを撃ち放った。
 水中から飛び出したまま宙に浮いていたアハトノインは銃弾をもろに受け、再び水中へと落ちる。
 サバイバルナイフを逆手に構えた宗一が「ということだ」と締めるのを「なら言うな!」とルーシーも怒声を飛ばす。

「いや忘れてたんだ。悪い悪い。まあタイミングは計れたってことで」
「あ、あの、今ので……」
「いや、多分ピンピンしてる。手ごたえがない」

 人を少なからず撃ち、少なからず殺しているからこそ、ルーシーはアハトノインが動いていることを瞬時に悟った。
 この庭園には見えにくい水路が至るところにあるようで、アハトノインはそこを伝って移動してきたのだろう。
 機械であるから、水中での窒息もない。いつどのタイミングで攻めてきたものか分かったものではない。

「走り抜けた方が良さそうかもな」

 宗一の提案に、渚とルーシーも頷いた。わざわざ相手に合わせる意味もない。
 問題は振り切ることが出来るかということだが、はっきり言って自信がない。
 それでもやるしかない。踏み止まっている暇は、なかった。

「走れ!」

 宗一の声に合わせて全員が走り出す。庭園を抜けるまでは距離にして50mもなかったが、
 目の前の敵はそう易々と通してくれる相手ではなかった。
 先ほどよりも大きな水音と飛沫が跳ね上がり、大きく跳躍したアハトノインが頭上を通過する。
 力任せの先回りもできるらしい。水滴を垂らしながら降り立つ黒衣の修道女に向け、再度クルツを発砲する。
 しかしアハトノインは着地の硬直などまるで無視して横に飛び、ルーシーの弾幕を掻い潜ってくる。
 こちらを見定める、薄銅色の工学樹脂の瞳。狙いを定めた殺戮機械は、まずルーシーを屠るつもりのようだった。

688エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:57 ID:3kpzQWQU0
 上等だ。心中で啖呵を切り、グルカ刀を抜いていたアハトノインに休むことなく弾を撃ち続ける。
 数発当たる。だが少しばかり身じろぎしただけで、アハトノインは止まらない。
 どっちだろうがお構いなしか。流石に回避に移るべきと判断し、一旦発砲を止めた瞬間……アハトノインが小さく屈んだ。
 ルーシーがそれを認識した時には、凄まじい速さで前に飛び出していた。

「速……!」

 斬られる。間に合わないと思ったが、「でえぇぇい!」という場違いな気合と足がアハトノインの斬撃を中断させた。
 宗一だった。周りからの攻撃に対して無防備になるのを狙っていたらしい。
 蹴り倒した勢いに任せ、続けてグロック19の引き金が引かれた。
 至近距離から発砲されては流石にダメージが通ったのか、アハトノインの腕がビクンと跳ねる。
 全弾撃ちつくしたのを確認して、宗一がアハトノインから離れる。普通の人間なら既に死んでいるが、
 アハトノインは平然と起き上がったばかりか、起き上がった勢いに任せ、宗一を射程圏内に捉えていた。

「いっ!?」
「那須!」

 辛うじてアハトノインの攻撃から救われたルーシーに援護の暇はない。
 だが、戦える者はもう一人いる。
 宗一の足元から火線が走り、アハトノインの右半身に着弾する。
 むき出しの足を銃弾から守るものはなく、穴の開いた足から血のようなものを噴出させ、修道女がぐらりと傾き、転倒する。

「よし、ナイスアシスト!」
「……分かってて慌ててましたよね?」

 立ち上がった射撃手の渚が立ち上がり、確信する口調で言った。

「なんで渚にはバレるかね」
「だいたい分かります」
「浮気できないな……っと!」

689エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:09:17 ID:3kpzQWQU0
 ベルトに差していたウージーを取り出すと、まだ起き上がろうとしていたアハトノインに追撃する。
 全弾着弾はしたが、それでもトドメを刺すに至らないらしく、宙返りをしながら後退する。
 体の至るところに穴が開き、顔面のいくらかが抉れて金属フレームが露になり、元は美麗だった足も赤い液体が漏れ、
 ドロドロと地面に滴らせながらも、それでも平然としている。

「不死身かよ……」
「こっちを殺すまで死ななさそうだ」
「ロボットじゃなくて……ファンタジーの化物みたい、です」

 渚でさえこのような表現をしていることに、ルーシーは少なからぬ驚愕を覚えた。
 それほどの殺意と、執念と、おぞましい何かを宿している。
 アハトノインは殺し合いを強要させて恥じない連中の意志そのものと言っていい、傲慢と暴力の象徴だった。

 度重なる銃撃の影響か、ボロボロになっていたフードが落ち、貌が露になる。
 細やかな金糸の髪が揺れ、ざわざわと波立った。濡れているからなのか、それは余計に美しく妖艶に思えた。
 旅人をその歌声で水底に沈める魔女、ローレライ……ルーシーが抱いたのはそんな感想だった。
 いや、歌声ではない。呪詛だ。何千の血を吸いながら当然としか断じない者が放つ、呪いの言葉だ。
 殺せ。或いは、食え。いやどんな言葉でもいい。とにかく、それはルーシーにとってはおぞましく、地下道に籠もった饐えた臭気だった。

「次で決着をつけるぞ」

 だからルーシーは自然と口に出していた。もうこれ以上、見ていたくなかった。
 見ていると湧き上がる感慨は怒りや憤懣ではなく、ただ哀れだと思う気持ちだったから……

 石畳を踏み潰し、アハトノインが疾駆する。相変わらずの前進突撃。だが、その突撃は何者にも止められない。
 ならば受ける必要はない。手持ちの武器でトドメを刺すには……
 ルーシーは腰につけている、確実にアハトノインを倒せるであろう武器に触れる。
 これならばあの怪物も打ち崩せる。問題は、確実に弱点に当てることだった。

690エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:09:40 ID:3kpzQWQU0
 頭を撃ち抜こうが止まらないロボットだが、決して不死ではない。機械である以上必ずカラクリがある。
 大体の予想はついている。後は、己の勘を信じて行動できるかだった。

 いけるさ。どこの誰ともつかない声がそう言い、そうだなとルーシーも応えた。
 自分にはこれまでに培ってきたものがある。新しく知ったことがある。思い出したこともある。
 人の心を慮れるやさしさも、身を預けていられる心地良さも持っている。
 そのために犠牲にしてしまったものもある。自分が許せなくなるくらいの後悔だって、した。

 ここで自分がやったこと。ここで生き抜こうとした人たちのこと。
 所詮それはどんな歴史にも残らない、たかが一つの惑星の、屑鉄に沸いた錆のようなものでしかないのだろう。

 しかしたとえそうであったとしても、私は……

 M10を発砲する渚を援護にして、宗一がウージーを持って突進する。
 アハトノインはしゃがみ、長い足を突き出すような足払いを繰り出す。挙動は異常に素早い。だが相手が悪かった。
 世界一のエージェント、ナスティボーイに生半可な格闘は通用しない。
 逆に足を狩った宗一はバランスを崩したアハトノインの顔面目掛けて追撃の前蹴りを見舞う。
 ところがアハトノインは有り得ない速度で上体を反らし、器用に全身をバネにして宗一の蹴りを受け止めた。

 ちっ、と舌打ちしながら宗一がナイフで挑みかかる。
 既に体勢を立て直していたアハトノインはグルカ刀で難なく受け止め、返す刀で宗一の側面、脇腹を狙う。
 バックステップしても避けられない。ならばと宗一は無理矢理前転して刀を空かす。
 そこに付け入らせないのが世界一たる所以だった。

 腕の力だけで体を持ち上げ、脚を振り上げ、踵落としのような一撃を与える。
 アハトノインが崩れる、かと思えばしぶとかった。
 ガシャ、という音がしたかと同時、アハトノインの左手に小型のナイフが収まっていた。仕込みナイフだ。
 マジかよ、と宗一が呻く。しかし言葉とは裏腹に行動は冷静で、
 体勢を崩しつつも近距離では役に立たないウージーを放り捨て、腰に差していた十徳ナイフを引き抜く。

691エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:01 ID:3kpzQWQU0
 アハトノインの振り下ろしたグルカ刀と小型ナイフに、宗一のサバイバルナイフと十徳ナイフが鍔迫り合う。
 宗一でなければ串刺しにされていただろう。だがこのままでは宗一が不利になる一方だ。
 どうするとルーシーは一瞬逡巡した。まだ機会ではない。飛び込むにはもうちょっとだけ早すぎる。

 だが、仲間の命が――

 ――いや、そうじゃない。信じろ。

 踏み出しそうになる足を押し留める。
 信じる力。人と人が生み出す、奇妙な、それでいて何物にも負けない力。
 それは、かつて故郷で教えられた言葉だった。
 皮肉だとは思わない。何故なら、自分と美凪がそうであったように。
 〝あらゆる物理法則を越えて、『みんな』はひとつ〟なのだから。

 押し込もうとしていたアハトノインの、華奢ながら頑強な体が白煙を噴き出す。
 アハトノインが振り向く。その先では、宗一が投げ捨てたウージーを腰だめに構えた渚の姿があった。
 渚に矛先を変えようとするが、その体が動くことはなかった。
 宗一が釘打ち機を足元に打ち込み、動かないようにしていたからだった。
 今のアハトノインは動けない。望んで止まなかった、チャンスの到来だ。

「ナイスキャッチ」
「実は、野球は得意なんです」

 ニヤと笑い合った二人には恋人という間柄を越えた、もっと深い繋がりがあるように思えた。
 誰もがそうなのかもしれない。誰もが既に、見つけ出しているものなのだろう。
 そこには自由に入ってゆくことが出来る。望みさえすれば。

 だから、私も……もっと大きなひとつになる。
 裂帛の気合と共に、ルーシーが突き出した日本刀が、深々とアハトノインの胸部を貫いた。

692エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:22 ID:3kpzQWQU0
「……!」

 声にならない声を上げ、全ての繋がりを断ち切ろうとする存在が、ただ壊すだけの存在がルーシーを睨む。
 焦点も定まっていないカメラアイは、既にロボットとしての機能を失っていることを証明していた。

「失せろ」

 抑揚のない声で言い、刀を更に深く押し込むと、アハトノインは呆気なく崩れ落ちた。
 指一本さえも動かす気配はなく、完全に機能停止したことを確認して、ルーシーは長い溜息をついた。

「まだ終わってないぞ」

 倒した安心感からか、座り込んでいたルーシーに宗一が手を差し伸べる。
 後何体いるかは分からないが、まだ戦いは終わっていない。これからだ。
 やれやれ、最後まで戦い抜くというのは疲れるな、なぎー?
 苦笑して、宗一の手を取る。強い力で引っ張られるのを感じ、全身から抜けていた力が戻ってくるのも感じた。
 尻についた埃を払いつつ、ルーシーは「にしても、見事だったぞあの連携は」とまずは二人を褒める。

「だろ? これが」
「みんなの力です」
「……そこは愛の力って言おうぜ」
「恥ずかしいじゃないですか……」

 その後小声で「それに、ムードがないです」と付け足した渚に、くくっとルーシーは笑った。
 どうやらこういう部分での女の扱い方には慣れてないようだと思い、首を傾げる宗一に「もっと勉強するんだな」と言っておいた。
 納得のいっていない風に眉根を寄せた宗一だったが、まあいいかと思ったのか「それよりも」と話題を変える。

「野球が得意ってマジか」
「お父さんが得意でした」
「……なるほど、血筋ってか」

693エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:46 ID:3kpzQWQU0
 宗一は軽く笑っただけだったが、ルーシーにはどうにも不思議でならなかった。
 思い返してみれば、あそこまで鮮やかに宗一に合わせられるというのも凄い話なのだ。
 世界一は伊達ではない。プロに合わせるには、プロの技量が必要だ。
 息は合っているのは疑いようのない事実なのだが、それだけではないように思えた。

「それに、なんだか今はとっても調子がいいんです。すごく体が軽くて」
「ほー……やっぱりこれは」

 愛の力、か。終わりのなかった殺し合いに終止符が打てると思えば、それくらいの力が発揮できるものなのかもしれない。
 まだまだこの地球には不思議なことが一杯だ、と感慨を結びつつ、さもありなんという風に頷いておいた。

「……」
「……」
「まあいいさ。後に聞くよ」
「そうしてください」

 にっこりと笑った渚に、やれやれと肩を竦ませつつ宗一が歩き出した。
 その背を追う渚は、見事に無茶苦茶少年の手綱を取っている。
 本当に大したものだ、とルーシーは感心する。初めて会ったときは、今にも崩れ落ちそうなほど儚い印象があったのに。
 前に、前に進むたびに彼女は本当の意味で強くなっている。控えめだけれど、しっかりと他者を支えていける人間になった。
 やはり渚のようにはなれそうにもない。あれは規格外だということを今さらのように理解し、ルーシーは諦めの息を吐き出した。
 だが羨望や嫉妬はなかった。なら自分は別の強さを身につけていけばいい。人を思いやれる程度には優しくなれればいい。

「そう、なれているかな」

 銀の十字架に手を触れる。無言で応えてくれるそれもまた、優しかった。
 二人の背中を追おうと、ルーシーも走り出す。二つ分の足音を伴って。

694エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:11:09 ID:3kpzQWQU0
 二つ?

 幻聴ではなかった。
 確かに音は、そこにあった。
 振り向く。後ろの世界では、有り得ないことが起こっていた。
 串刺しにされ、完全に機能を停止したはずのアハトノインが、グルカ刀を持って突進してきていた。

 何が起こっているのか分からなかったルーシーが現実を認識したのは、
 肉に刃物が突き刺さる、気持ちの悪い音を聞いたときだった。

「っ……かはっ」

 異物が体にめり込む感覚。ひたすら違和感を覚えたのは最初だけで、そこから先は苦痛の地獄だった。
 想像を絶する痛みが体中を駆け巡り、命を支える柱が崩れてゆく実感があった。
 痛いとは、こういうことなのか? 春原が、澪が、美凪が味わった感触がこれだというのか。
 声を出そうという発想さえなかった。そんなことさえ考えられないくらい、全身が死に支配されている。

 アハトノインの、相変わらず焦点の定まらない瞳を見る。
 無表情のまま、グリグリと刀を押し付けてくる彼女からは悪意さえ感じ取れる。
 てらてらと輝く金属骨格の光は、全てを無駄だと言い切るような怜悧さがあった。
 冗談じゃない。ルーシーはその一語だけを心に思い、残った力の全てを使って、アハトノインの胸部に突き刺さる刀を掴んだ。

「まだまだだっ!」

 絶叫と共に渾身の力で刀を振り上げる。その拍子にぶちぶちと自らの肉が切れ、
 どろりとした感触が己の内奥から喉元に逆流してくるが、ルーシーの行動を妨げるほどのものではなかった。
 無理矢理切り上げられ、アハトノインの体が肩口からほぼ真っ二つに裂け、か、と口が大きく開かれた。
 苦悶の表情のつもりなのだろうか。なら楽にしてやると、ルーシーはワルサーを切り裂いた部分に突っ込み、
 引き金を引いた。内側からでは強固な装甲も防弾コートも役には立たず、
 アハトノインは動力源ごと機能停止に追い込まれることになった。

695エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:11:29 ID:3kpzQWQU0
 冷却液を飛散させながら天を仰ぎ、倒れた修道女は今度こそ完全に死んだ。
 その様子を見届けてから、ルーシーもガクリと膝を折った。

「るーちゃんっ!」

 悲鳴に近い渚の声が聞こえ、緩慢な調子で振り返ると、渚は今にも泣き出しそうな表情でルーシーの肩を掴んだ。
 ああ、痛い。そう言って笑ってみせると、渚はビクリと震え、手を離す。
 途方に暮れたような渚の顔が痛々しく、死ぬのかとぼんやり思ったが、全くそんな感じはしなかった。

 むしろ心地良い。ここまでやりきったという思いがそう感じさせるのか、
 それともこれが死を迎える感覚なのかと考えたが、どちらとも判然とせず、
 背後で立ち尽くしている宗一に視線で問いかけてみた。
 だが宗一も答えることはなく、ゆっくりと首を振った。やはり、自分で考えろということらしい。
 そうして少し考えてみた結果、ちょっとした大怪我なのだろう、と思うことにした。

「……ちょっとやられただけだ。少し休めば、また良くなる」
「ちょっとって……!」

 どうなっているかは自分でもよく分からなかったが、恐らくは血まみれなのだろう。
 今も出血しているのかもしれない。それでも死ぬとは思えず、ルーシーはまた笑ってみた。
 やせ我慢などではなく、本当に気分が良かったからなのだが、渚はそうは思ってくれなかったらしい。
 ごめんなさい、と繰り返す渚に、ルーシーは「だったら」と返した。

「医者になって、渚が治してくれ。ふふ、傷痕も残らないくらいのやつで頼む」

 ここに来るまでに交わした雑談の中で、渚は医者になりたいと言っていた。
 なんだか彼女らしいとも思えたし、患者にも優しい先生になるだろうとも予想できた。
 対して自分は、取り合えずウェイトレスになって働くくらいのことしか思いつかず、口を濁していた。
 それも自分と渚の違いなのだろう。だから今は、世界一のウェイトレスになってやろうと、そう決める。


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