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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

16雨とロボット:2009/06/01(月) 22:01:00 ID:1omQIvw60
「ところで芳野よ、俺達はどこに行ってるんだ。着いて来いって言ったが」
「……お前は藤林の存在を忘れたのか?」
「……」

 ばつが悪そうに顔を背ける高槻。正直な態度は褒めてやりたいが、杏がここにいれば殴られていることだろう。
 確かにこちらも何も説明はしていなかったが。
 まあこのことは報告するまい。貸しひとつだぞ。
 芳野の視線に舌打ちする高槻。不良少年のように所在無く頭を掻く姿に、ふと学生時代の自分の姿が重なった。
 何故そう見えたのか芳野自身にも分からない。ただ言えるのは、大人と子供の二面性を持っている男が高槻なのだということだ。

「藤林さんは大丈夫なんですか?」

 間を見計らったようにゆめみが尋ねる。その声にはどことなく不安さが混じっていた。
 置き去りにしてきたと言えなくもない状況に心配するのも無理からぬことだ。
 実際は自分が叱咤激励された挙句の行動なのに。自身の情けない事実に失笑して芳野は「大丈夫だよ」と返した。

「村で回収してきた物の番をしてもらってる」
「見つかったのか?」

 芳野は頷いた。一ノ瀬ことみが挙げた爆弾の材料の一つだ。正確にはロケット花火の信管が必要になるらしい。
 どの程度の量が必要なのか分からなかったのであるだけ持ってきた。足りないということはないだろう。
 学校に置いてきた硝酸アンモニウムと合わせてこれで二つ揃ったことになる。
 残すは灯油もしくは軽油ということらしいのだが、そちらはことみ達が回収する手はずだ。
 杏と合流したら相談の上、一度学校に戻った方がいいだろうと芳野は判断した。

「ここから何をするにも、まずは藤林と合流だ」
「ま、こっちにゃやることがなくなったがね」

 皮肉げに笑い、肩を竦める高槻。だがあっけらかんとした姿は負い目を持っているというよりは、
 ままならない自分をそういうものなのだと納得しているように見えた。

17雨とロボット:2009/06/01(月) 22:01:17 ID:1omQIvw60
 やはり若いころの自分と似ている、と芳野は思った。無鉄砲に行動を重ね壁にぶち当たり、尚もよじ登ろうとしている。
 考えなんて何もない。ただ自分が何者なのか知るために走り続けている。
 自分はそこから踏み外し、一度は涅槃を辿るような真似をしてしまったが。

「やることなんていくらでも増えるさ。これからな」

     *     *     *

 暗い森にひとり取り残された杏は、体育座りの格好をしながらじっと夜空を眺めていた。
 雨は止んでいる。時々葉っぱから雫が垂れ落ちる音が聞こえる以外、ここは静かなものだった。
 不思議と心細くはなかった。色彩を失い、黒が支配する場にいてさえ杏はじっと待ち続けられる気概があった。

 自分達には役割がある。芳野は戦う役割を、自分は待つという役割を持っている。
 機械の歯車に似ている。それぞれが仕事を果たすことが力を生み出す。
 芳野も自分もそれを分かっているように思える。だから、耐えられるのかもしれない。

 こんなことを考えられるのはやはり変わりつつあるお陰なのだろうか。木の幹に背中を寄せ、杏は深く溜息をついた。
 今はこんなにも自分が小さく頼りない存在のように思える。
 昔は、いやここに来るまでは世界は自分を中心に回っていて、独立している人間なのだと思っていた。
 人並み以上のことを大抵はこなせるし、人付き合いだって悪くない。
 そんな自分は人を引っ張っていけるとどこかで考えていた。

 しかしそんなもの、所詮は学生の中という狭いコミュニティでしか通用するものに過ぎなかった。
 ここでは引っ張るどころか、人の足を引っ張っている始末だ。
 不本意だとしても人を殺し、単独で妹を探し回っても見つけられず、大怪我をしてまた躓いた。

18雨とロボット:2009/06/01(月) 22:01:34 ID:1omQIvw60
 生きているのが奇跡に思え、同時に己の器がいかに小さいのかを知った。
 異常な状況だから、なんていうのは言い訳にもならない。本当に人間としての力があるのならこんなにヘマはしていない。
 高槻や芳野という大人達を見ていると、そう思う。勿論彼らも完璧な存在ではない。
 現に芳野に自分が喝を入れたくらいだ。しかしそれを抜きにしても彼らはやるべきことを既に見つけ出している。
 自分はなし崩し的についていっているだけだ。だからこそ、こんなにも小さいと分かってしまった。

 きっと自分が死んでもそんなに世界は、いやこの島の中でさえ変わりはしないのだろう。代替が利く歯車でしかない。
 しかし量産品の歯車でもやれることはある。決して無能ではないのだと杏は自分に言い聞かせる。
 でも、と杏はやはり思う。量産品でしかない己を必要としてくれる人が欲しい。代替品のままでいるのは怖かった。
 一番や絶対、でなくてもいい。それさえも望むのは度が過ぎるだろうか。
 それでも小さいまま、誰にも特別と思われることなく終わるのは嫌だった。芳野の言葉が思い出される。

『人は誰かの中に残りたい。どんなに小さくても、どんなにちっぽけな行為だとしても。誰かの何かになりたいんだ』

 その通りだ、と思い知らされる。一人でいること自体は怖くない。ひとりでいるのが、怖かった。
 妹の姿を脳裏に浮かばせる。自分も変質しているのなら、椋だってきっと変わっている。
 記憶の中にしかない頼りなげでおどおどしている妹は、きっとどこにもいない。
 大切な家族ではあっても、もう特別な誰かではないのかもしれない。

「朋也……」

 恋していた人の名前を、そしてもういなくなってしまったひとの名前を呼び起こす。
 もしここに彼がいて、もしも自分が告白して、受け入れてくれたらこんな思いをすることもなかっただろうか。
 考えて、だがそれはないと杏は失笑する。そもそもの前提として、自分が告白なんて出来るわけがなかった。

 自分はあまりに臆病過ぎる。

 さっきは芳野に対して啖呵を切ることだって出来たのに。
 一体全体どうしてあんな行為に走れたのかはなはだ不思議だった。
 少しは変わった結果なのかもしれない。土壇場になれば勇気を振り絞れる程度にはなれたのかもしれない。
 何にせよ言えるのは、既に故人となった朋也には、どうこうしても思いを伝える術はないということだ。

19雨とロボット:2009/06/01(月) 22:02:14 ID:1omQIvw60
 ……だから、今の自分を知るためには、もう少し人と付き合う必要がある。
 臆病なのかどうかはそれから判断してもよかった。
 誰かの特別になれるのかも。

 ふと芳野の姿が浮かび、「まさかね」と一人ごちる。何故芳野の姿を思い浮かべたのか自分にも分からない。
 ただ、芳野のあの姿。情けなかった姿を知っているのが自分だけだという事実はあった。
 まだまだ自分は自惚れているらしいということを思い、杏はもう一度溜息をついた。

 それから視線を上げると、タイミングのいいことに芳野たちが戻ってくる姿が見えた。その中には高槻とゆめみもいる。
 手を振って迎えると同時に、ゆめみは高槻の特別なのだろうか、ということが頭に浮かんだ。

     *     *     *

 拝啓皆様方、ご機嫌はいかがでしょうか。
 え? 拝啓おふくろ様じゃない? はあ、と仰られましても……
 すみません、どうにもわたしはこわれているものですから。

 あれから何回かエラーの原因を求めてはいるのですが、どうにも原因が分かりません。
 そもそも、エラーというのはプログラムが完全に正常ではないということの証明でしかないので、
 具体的にどこが悪いのか、ということは教えてくれません。
 自己診断は怪しそうな場所を検索するだけですからまるで見当違いの場所を探していることもあるのです。
 治そうと思えば、プログラマーの方にお見せしなければいけませんね。

 え? 誰に喋っているか、ですか? それは……多分、エラーに対して、ではないでしょうか。
 『独り言』という言葉には多少引っかかるのでしょうが、意味のない行為はわたしのプログラムからは排除されているはずです。
 ですからわたしが独り言を実行することはないはずなのですが……これも、エラーなのでしょうか。

 最近曖昧に答えを濁すことが多くなってきています。深刻な支障ではないから構わないと判断しているのでしょうか。
 分かりません。『正しい』でも『間違っている』でもなく、分からない。
 それ以上に『分からない』のはわたしがこの答えを、人に対して求めないことです。

20雨とロボット:2009/06/01(月) 22:02:31 ID:1omQIvw60
 わたしたちロボットは日々変わっていく言葉に対応するため、聞き慣れない言葉は人に聞くように設計されています。
 ですがわたしは尋ねません。だとするとわたしは答えを分かっているということになる。
 それでもプログラムは分からない、と言います。これはどういうことなのでしょうか?
 ……それに『分かっている』と判断した箇所はどこなのでしょうか?
 おそらく、それもわたしは分かっていて、ですが分からないのでしょう。こわれていますから。

 わたしは高槻さんの姿を見ます。表情を観察する頻度が上がったように思います。
 最近、癖を発見しました。高槻さんの感情は唇で判断出来ます。

 口の端を吊り上げるときは攻撃的な意思を見せます。
 つまらないと思ったときは口をへの字に曲げます。
 困ったときは下唇を上げて頬を掻きます。
 本当に可笑しいと思ったときは口を開けて笑います。
 苦笑いや失笑のときはその半分の大きさに口を開けます。
 悲しいときは唇が動きません。

 これらから高槻さんがどのように感じているか、おおよそ分かるようになりました。
 そしてそのデータはわたしのメモリにつぶさに記憶されています。
 ですからわたしは高槻さんの真似が出来ます。もちろん元来のデータもありますからそれと合わせた上で、となると、
 お客様の応対用の表情データと高槻さんの表情データがあることになります。

 案外わたしは出来る表情が多いみたいです。いくらか実践してみましたが、その度に人口筋肉のデータに記憶されるみたいでした。
 わたしは自らの機能のいくらも使っていないようです。人間の脳みたいですね。スペック上はこなせるのに使っていない。
 使われることのないままデータは奥底に仕舞われている。

 ……ああ、また、意味のない思考をしていますね。上の空という言葉に該当します。
 これは本来わたしたちが使うような言葉でもないのですが……

21雨とロボット:2009/06/01(月) 22:02:50 ID:1omQIvw60
 あ、大丈夫です。ちゃんと皆さんの言葉を記憶しています。聞き逃すことはありません。
 これでもわたしのイヤーレシーバーはそれなりに高感度なんです。
 お客様の不調を訴える声があって、聞き逃したら大変なことですから。
 今のところこれは正常に機能しているみたいです。風の音、雫の落ちる音、木の葉が揺れる音。全部聞き取れます。

 さて、このあたりでわたしたちの行動指針を確認してみましょうか。
 これからわたしたちは学校に戻るそうです。爆弾を作る材料が揃ったそうですから。
 その後に学校の電話で芳野さんの仲間に連絡を取るそうです。後の方針はそれからまた決めるそうです。
 したがってわたしと高槻さんは特にすることがないみたいですね。ですからこんな無駄な思考をしているのでしょうか。

 なるほど。ひとつ学習しました。わたしが無駄な思考をするときは暇なとき、みたいですね。
 学習するときはいつも小牧さんの顔を思い出します。
 一歩ずつ。歩いている小牧さんの姿が、わたしにこれでいいのだと納得させます。

 故人を思い出すときは悲しいときなのだ。そんな言葉もありましたが、それだけではないということも学習しています。
 きっと、わたしの表情もそれを学習している。
 ですから今のわたしは笑っているのでしょう。そしてこの笑みは楽しいことなのだとも、知っています。
 故人を思い出して、笑う。そうするわたしは、やはりおかしいみたいです。

 今のわたしは三人の後に続いて歩いています。
 ひょっとすると一人でいるときという場合が、独り言をする条件に含まれているのでしょうか。
 そう考えたとき、藤林さんが振り向きました。わたしに近づいてきます。正確にはウォプタルさんの足を遅くしたのですが。

「ねえゆめみさん、何だかさっきから高槻と芳野さん、度々張り合っているように見えるんだけど……」
「あ、それは多分ですね……」

 そこでわたしの無駄な思考は一時中断します。やはり、そうでした。
 独り言は一人のときで、尚且つ暇なときにのみされるみたいですね。
 わたしが、わたしを分かっていく。そんな感覚がありました。

 そしてもう一つ。
 わたしはこの状況を、楽しんでいるみたいです。
 何故なら……笑っていますから。

22雨とロボット:2009/06/01(月) 22:03:03 ID:1omQIvw60
【時間:2日目午後23時40分ごろ】
【場所:C-2】

もっと目を早くするべき高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、コルトガバメント(装弾数:7/7)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、P−90(50/50)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。一旦学校に戻る。船や飛行機などを探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(5/5、予備弾2発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾30/30)、予備マガジン×2、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:一旦学校に戻る。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。芳野に付き従って爆弾の材料及び友人達、椋を探す】

ウォプタル
【状態:杏が乗馬中】

ポテト
【状態:光二個、ウォプタルに乗馬中】

23スタートライン:2009/06/05(金) 00:19:41 ID:pcJ8X0Gk0
 家の縁側に座り込み、じっと世界を見つめ続けている人影があった。
 赤を基調とし、袖の白いパーカーにどこにでもありそうなジーンズ。

 自分でも地味だと感じ、似合わないとさえ思う。
 典型的な日本人の服装は西洋人的な特徴のある我が身には向いていないのだろう。
 小さな唇が笑みの形を作り、すらりと整った顔立ちが柔らかいものになる。
 自分が何者でもないという実感と、そして何にも縛り上げられていないことがただ可笑しくて笑った。

 今の私は誰でもないのだ。
 これまでの自分を全て捨て、一から道を選び取って進んでいかなければならない。
 ただ、それを不思議と苦痛には感じていない。
 今まで道が一つしかなかったのが、実はそうではなく、いくつもの分岐点があると気付けたからなのかもしれない。
 ここまで来るのに結構な時間がかかってしまったが。

 春原が人としてのありようを教えてくれて、美凪が自分にもそうすることが出来るということを教えてくれた。
 少なくともこの二人がいなければここまで『うー』らしくはなれなかっただろう。
 忘れてしまおうと決めた言葉をまだ覚えていることに我ながら呆れる。
 こんな短期間で忘れられるわけもないし、故郷は嫌いではなかったのも事実ではある。

 だがそれ以上に自分はこちら側に近づきすぎた。もう『うー』無しではいられないのも事実。
 『るー』の生き方はそれを許さないのだろう。だから元の名前を捨て、ルーシーという名を語るに至った。
 父母のことを思わないではなかった。自分を優秀だと信じ、送り出してくれたことも未だに思い出せる。
 それを忘れることはきっと悪いことなのだろうし、寂しいとルーシーは思う。

 けれども『るー』として生き、この土地を永久に離れなければならないことの方がよほど寂しい行為のように思えた。
 そう、だから自分は『るー』を捨て、『うー』を選ぶ道を進んだ。
 そのことを後悔してはいないし、いくらかの寂しさはあってもつらくはない。
 本当の勝利。生きる価値のある命。この言葉が勇気を与えてくれている。
 ただ勝つだけの勝ちには意味はないし、そうして生き長らえた命にも意味はない。
 そうだろう、なぎー?

24スタートライン:2009/06/05(金) 00:20:03 ID:pcJ8X0Gk0
 手を伸ばして十字架の感触を確かめる。元は制服のタイピンであり、量産品でしかないそれは格別な重みもない。
 だが確かに命の重みがここにはある。手触りに安心している我が身を確かめ、ルーシーは苦笑した。
 結局のところまだまだ子供なのかもしれない。春原が贈ってくれた服と、美凪の十字架。

 この二つに守られながら自分は生きている。けれどもそれでいいと納得する。
 ここで暮らしていくには、自分は何も知らなさ過ぎるのだから……
 借りはいずれ返せばいいと結論し、ルーシーは穏やかに息を吐き出した。

「さて、そろそろ行くか。渚が待ってる」

 腰を上げ、縁側から外へと踏み出す。まだ雨は降っているかと思ったが、いつの間にか止んでいた。
 空を見上げてみるがまだ雲に覆われているのか、月明かりも見えず黒々とした夜陰が広がっているばかりだ。
 故郷だった星と自分は隔絶されている。そうなのかもしれないと思い、ルーシーは笑った。

 次に見るときは、あの星も星座の一部に成り果てているだけなのだろう。
 それでいい。見えるということは、まだ未練を残しているということに他ならないのだから。
 目を地上に戻し、ルーシーは歩き始めた。
 他の何者でもない、自分だけの名前を背負って。

     *     *     *

 乱雑に並べられた武器や道具の数々をぼんやりと眺めながら、伊吹風子はこれまで交し合った言葉の中身を反芻していた。

 自分にもう少し正直になってもいいんじゃないか。
 弱いのかもしれない。だけど、無力じゃない。
 人はいくらだって強くなれるし、考えだって変えられる。

 優しすぎる言葉だ。少なくとも、今の情けない自分にとってみれば。
 それだけに心が痛くなるし、そう思ってもいいとどこかで受け入れている自分もいる。
 己にその言葉が向けられる価値なんてないのにと思う一方で、だが彼らの言葉もまた事実なのだと思ってもいる。

25スタートライン:2009/06/05(金) 00:20:19 ID:pcJ8X0Gk0
 救われてもいいのだろうか。

 そんな考えが頭を過ぎるたびに、由真や花梨、みちる、そして朋也の姿が思い出される。
 生きたかったはずなのに生きられなかった人達。守るために我が身を犠牲にしていった人達。
 それを思うと、ただ辛かった。どうしてその人達の代わりに自分が生きているのだろうとさえ思う。
 だからといって自分に死ぬことは許されない。既に生きることは責務となり、見殺しにしてきたことは自分の罪だ。
 贖うことこそが生きている意味であり、価値であり、それ以上のものは何もないはずだった。

 しかし新しく出会ったひとの言葉が風子の中身を揺さぶる。断じて変わらないはずの枷を壊そうとしている。
 それでいい、と思う心と、そんなことがあってはいけないと思う心。
 揺れ動いたまま、何も結論を見出せないでいる。そうしてずっと悩み続けていた。

 自分はどう生きたらいいのだろう。

 この質問は出せるわけもないし、出したところで答えてくれる人はいない。
 自分で考え、自分で選ばなければならない問題だった。今の風子にはあまりにも難しすぎる問題だ。
 これから逃げることもまた許されてはいないし、そうするのは最低の人間に他ならない。
 ただすぐに結論が出せるわけでもない。だからこそ彼らは自分に考える時間を与えてくれたのかもしれない。

 俯けていた頭を上げ、風子は短く息を吐き出した。やはり考えはまとまるべくもなかった。
 黙りこんで考え続けていても駄目なのだろう。
 少しでも体を動かせばまた何か思うこともあるかもと考えて、
 風子は散らばった武器道具の数々をリビングに集めて並べておくことにした。

 一度に運びきれる量でもなかったので数度に分けて運び出す。改めて見てみると随分強力そうなラインナップだった。
 風子と死闘を演じた男が持っていたマシンガンにグレネードランチャー、ショットガンに拳銃。
 ひょっとすると、一人で残らなければいけない我が身を案じて強力な武器を残しておいてくれたのかもしれないと風子は思ったが、
 流石にそれは自惚れすぎだと自嘲する。どうしてもまだ、それだけの価値がある人間だとは思えなかった。

26スタートライン:2009/06/05(金) 00:20:36 ID:pcJ8X0Gk0
 道具の中には鉄でできた扇やフライパン、トンカチやカッターナイフもあった。日曜大工でも出来そうだ。
 そんなことを考えつつ最後の道具を運び出す。すると今まで気付かなかったのだが、奇妙なものが混じっていることに気付いた。
 リモコンのような形状のものに、ひとつ大きなスイッチが付いている。あからさまに怪しい。
 何だろうと風子は思ったが、説明書はどこにもないし本体にも何も書かれていない。
 かといって押してみるだけの度胸はなく、風子は何となく煮え切らない気分を抱えてスイッチを置いた。

「……でも」

 気になる。置いてなお、視線はじっとスイッチへと注がれている。あからさまに押せと語っている。
 ならば押さない道理はない……が、何はともあれ危険を潜り抜けてきた風子の経験が押すなと警告してもいる。
 気になりすぎるので逆に考えてみる。あのスイッチは何だ?

 支給品なのは間違いない。問題はどういう場所で使うべきものなのかということだ。
 見間違いがなければだが、あのスイッチにはスイッチ以外何もない。赤外線や電波を送信するためのアンテナがない。
 いや、代わりにあるものがあった。裏側にスピーカーらしき穴があった。

 ……だとするとあそこからは音が出る仕組みになっているのではなかろうか。ならば押しても危険はなさそうだ。
 だが罠の可能性もある。スピーカーに偽装した送信装置ということもあり得る。
 だとするとやはり罠で、押した瞬間自爆したり、なんてことがあるかもしれない。
 やはり危険だ。いつの間にかスイッチを手に取っていた風子は慌ててスイッチを置く。

 どうやら生来の好奇心はここに至っても旺盛なのだと確認して、ふっと苦笑を浮かべる。
 何をやっているのだろう、と思う。遊んでいる暇も楽しむ資格も己には存在しないというのに。
 迷っている。頑として動じなかった心がこんなにもあっけなく揺れている。
 彼らの言葉が優しかったというだけではない。本当に自分の存在を願い、無言で手を差し出してくれていることが分かる。
 だからこそ不実に満ちた我が身を思い、踏み出していいのか悩むのだ。

27スタートライン:2009/06/05(金) 00:20:54 ID:pcJ8X0Gk0
 けれども、もし無力なのではなく、弱いだけなのだとしたら。
 変わっていこうという意思を持っているのだとしたら。
 踏み出さないことこそ、真に逃げているということではないのか。
 泣かず、逃げず、目を背けないと決意しながら、その実言い訳にして現実を見ようとしていないのではないか。
 どうせ自分に価値はないと、情けなく生きていることしか出来ないと分かった風になって。
 それこそ自分が最も嫌い、そうはなるまいと思ってきた人の姿ではないのか。
 最後の最後まで、走り続ける努力を怠っているのではないのか。
 たとえ判定がアウトになろうとも、次の塁を目指すという努力を。

「……岡崎さん」

 もし、まだ機会が残されているのだとしたら。
 選択の余地はまだあるのだとしたら。
 自分の、意思は――

 内奥に向けていた意識は、ガタッという玄関から聞こえてきた音によってかき消された。
 続いてガラガラと扉を開く音がする。風子はここで、鍵を閉め忘れていたということを思い出した。
 なんという失態だろうか。いくら動けなかったからといって今の今まで忘れていたなんて。

 後悔という名の苦渋が口の中に広がり、だがこうしている暇も惜しいと風子は咄嗟にショットガンを掴む。
 武器が近くにあったのがせめてもの救いだった。玄関とリビングに通じる扉に向けて風子は構える。
 往人たちだろう、とは思わない。そうであるならば声をかけてきているだろうし、
 何よりやかましいまーりゃんが黙っているはずはない。それに時間的にも早すぎる。
 ここからどんな選択をするにしろ、まだ死ぬわけにはいかない。

 しかし撃てるのか、と風子は思った。何回か発砲はしているがまだ人を殺したことはない。
 少なくとも、自ら攻撃を仕掛けたことはない。
 ホテルの中にいた連中の姿を思い出す。或いはそうであって欲しいと思っているのかもしれなかった。
 それならば、多少は恨みで紛らわせることが出来るのだから。

「誰か、いるのか」

28スタートライン:2009/06/05(金) 00:21:10 ID:pcJ8X0Gk0
 しかし幸か不幸か、突如発された声は聞き覚えのない女性のもので、風子の知った声ではなかった。
 またまた間の悪いことに、玄関に靴を置き忘れたことを風子は思い出した。
 どうにもこうにも、自分は間抜けというべき種類の人間なのかもしれないと嘆息する。

 だが、何故相手は声をかけているのだろう。普通建物を探るなら自分の存在を知らせるべきではないのは分かっているはずだ。
 ここに至って平和ボケしているなどというのは論外だ。自分でさえ、殺し合いの惨禍には巻き込まれている。
 ならば敵ということではない?

 希望的観測はいけないとこれまでの経験が語りながらも、正直なところ疑うことにも風子は疲れていた。
 どうせ侵入されていることには変わりないし、鉢合わせもするのだろう。だったら友好的に関わってみるほうがいい。
 自ら進んで疑ったり腹を探ったりするなんてことはしたくなかったから。

「どちら様ですか」

 一応ショットガンを下ろし、風子は声に応じた。
 息を呑む気配が伝わり、「本当に反応があった」とひとりごちていた。
 なんとなくだが間抜けさを指摘されたようで悔しさ半分情けなさ半分の風子だった。

「あぁ、済まない。入ってもいいか」
「……どうぞ」

 風子のぶすっとした不貞腐れた声に苦笑する声が返ってくる。本当に格好悪いと思う。
 強くなりたい、と思わないわけにはいかなかった。これが切欠というのもまた格好がつかない話だが。
 そうこう考えているうちに声の主がひょいっと姿を現した。
 その時風子が思ったのは、美人さんだ、という感想だった。

 すらりとした体躯に透き通るような肌の色。ところどころ泥や汚れが見えるものの、それがかえって肌の白さを浮き立たせている。
 西洋によく見られる高い鼻と、色素の抜けた赤みを帯びた瞳。
 そして日本人にはないブロンド風の髪の色が自分とは違う人種であることを際立たせていた。
 そう、まるで御伽噺に出てくるようなお姫様だ。大人だ、と風子は羨まずにはいられなかった。

29スタートライン:2009/06/05(金) 00:21:28 ID:pcJ8X0Gk0
 見た感じ自分とは胸の大きさもそんなに変わらないというのに……
 そこまで思って、いけないと思いなおした風子は若干の嫉妬を以って睨み上げた。
 ここは年上の風格を見せるべきときだ。たとえ童顔だろうと怯んではいけない。

「何の用ですかとっとと言いやがれふぁっきん!」
「……」
「はっ、つい必要以上に辛口になってしまいました。すみませんでした」
「私よりヘンな奴だな……」
「がーん! 変人に変人って言われました! 大ショックです!」
「まあ、私も似たようなものか」

 言った相手はふふ、と笑う。なんとなく上品で、綺麗な笑い方だった。羨ましい。
 なんとなく和やかな雰囲気になる。お互いにショットガンとマシンガンを持ってはいたが。

「ところで、なんでここに来たんですか」
「ん? ああ、足跡が見えてな」

 この家からは複数の足跡が続いていて、戸口も泥やら何やらで汚れていたのだという。
 そこで誰かがいるのかもしれないと思い、探りを入れてみたらしい。
 反応を返したのが風子というわけだ。

 なるほどと風子は思う。となると侵入された原因は寧ろ往人たちにあるのではないだろうか。
 そう考えると自分にさほどのミスはなかったのかもしれないし、
 あったとしても往人たちも同様のことをしていることになる。
 なんとなく気分が軽くなる。思っているほどには失態を犯しているというわけでもなさそうだった。
 ひょっとすると今までもそうだったのかと思うと、我知らず苦笑が漏れた。

「なんだ、バレバレだったんですね……」
「確証はなかったが。声を返してくれてホッとした。
 お前の声があったから無駄に探らずに済んだ。こう言うのも変な話だが、ありがとう」

30スタートライン:2009/06/05(金) 00:21:46 ID:pcJ8X0Gk0
 無駄に疑いたくなかったという旨の言葉が伝えられ、
 どうやら同じことを相手も思っていたようだという事実がさらに風子を楽にさせた。
 案外、自分たちは疑わずに生きていけるものなのかもしれない。そんな感想を抱いた。

「どういたしまして。ですが風子の名前は、伊吹風子です」
「風子? 渚の友達か?」
「渚さんを知ってるんですか!?」

 風子は身を乗り出していた。まさかこんなところで渚の知人と出会うとは思わなかったからだ。
 息のかかりそうな位置まで近づいてきた風子は「落ち着け」と肩を叩かれる。
 はっ、と我を取り戻した風子は頷いて深呼吸を繰り返した。
 リラックスリラックス。年上の風格年上の風格……

「渚とはついさっきも会っている。もっともすぐに分かれてしまったが」
「さっき会ってたんですかっ!?」
「……落ち着け」

 唇から1センチの距離まで近づいていた。
 どうどうと宥められ、そこで我を取り戻した風子は再び深呼吸を繰り返す。
 そこから先は説明が続いた。

 渚たちとの邂逅、些細なすれ違いから一時は別れてしまったこと、
 それが原因で友人を失ってしまったこと、そして仇である水瀬名雪を倒したこと、
 そして今、渚は仲間を助けるために行動を続けているということ。

 淡々と、しかし時折感情を滲ませながら語られた言葉に、風子はなんとなく親近感のようなものを覚えた。
 大切な友人たちを失ってなお生き続けることを課せられた彼女。
 助けられなかった不実を悔やみながらもどうすることも出来ない事実が苦痛となって苛む。
 風子と違うのは、そこからでもまた道を選び、少しでもまともになれるように努力していこうと決めているところだった。

31スタートライン:2009/06/05(金) 00:22:08 ID:pcJ8X0Gk0
 やはり逃げていたのだ、自分は。
 そう思うと情けなる一方、こうして歩んでいる仲間を見つけられたのもまたありがたかった。
 悩んでいたのは自分ひとりではない。

 いや、既にそんなことは分かりきっていたはずなのだ。
 見つめようとしなかっただけで、誰もがこの思いを抱えていることを知っていた。
 だからこそあんな言葉をかけてくれたというのに。

 結局のところ、自分はその域にすら達していなかった。
 恥ずかしいと身が縮こまる思いだったが、ようやくスタートラインに立てたのだという気持ちもまた、確かにあった。
 お姉さんになるにはまだまだ遠いと思いながら、どこかすっきりした胸の内を眺めて、風子は話を聞き終えた。

「そうですか……渚さんは、やっぱり強いですね」
「ああ。あいつは強い。羨ましくなるくらいに。でも、だからこそ、一緒にいたいと思える」

 こうして燻ってはいるがな、と薄く笑いを浮かべて肩を竦めた。
 彼女もまた、風子よりはほんの少し先に進んでいるだけにしか過ぎない。
 そういう意味で自分たちはまだまだ弱い。――でも、無力じゃない。変わっていけるのだ。

「しばらくここで休憩していけばいいと思います。じきに帰ってくると思いますから。……えっと」
「ルーシーだ。ルーシー・マリア・ミソラ」
「ルーシーさんの言っていた那須宗一さん、実は風子も会ってます。ついさっき、ここを出て行きましたから」

 そうなのか、とルーシーは目をしばたかせた。そして奇特な縁だな、と笑った。
 渚は人を惹き付ける力があるのかもしれない、と風子は思った。あの強さが人を惹き付け、結びつける。
 皆と進んでいくだけの力を与えてくれる。そう思えた。

「他にもたくさんの人がいます。……みんなヘンな人たちです」

 風子も笑った。
 それはスタートラインから一歩踏み出した、大人の道を歩みだした人間の笑みだった。

32スタートライン:2009/06/05(金) 00:22:18 ID:pcJ8X0Gk0
時間:2日目午後23時30分頃】
【場所:F−3・民家】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。民家に残る】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:たこ焼き友だちを探す。少々休憩を挟んだ後宗一たちと合流】 

【その他:民家には以下のものが置かれています。
イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】

33it's all we could do:2009/06/05(金) 00:39:32 ID:WQFzJPvQ0
 
つう、と頬を伝う涙の意味を、古河早苗は知っている。
知っていながら声は漏らさず、ただ静かに目を伏せて、流れる雫を拭った。
傍らに眠る愛娘の髪を、濡れた指先でそっと撫でる。
涙から滲む悲しさが、温もりに溶けていくように、感じられた。

「ん……」

薄く開いた古河渚の目に映る早苗は、だからいつも通りの微笑みを浮かべていられただろうか。
蒼穹を染めた赤光を、渚は知らない。


***

34it's all we could do:2009/06/05(金) 00:39:58 ID:WQFzJPvQ0
 
「おはようございます、お母さん……」
「おはよう、渚」

寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こした古河渚が、ぼんやりと辺りを見回す。
ゆっくりと右を見、左を見て、小さなあくびを一つ。
低速回転を続ける脳が、ここが自室ではないことを徐々に認識していく。
沖木島診療所に併設された居住空間、その小さなリビングと仕切り一枚で隔てられた部屋。
現状と記憶とがようやく一致して、渚の表情が曇る。
ほんの少し、肩を落とした。

「……わたし、また寝ちゃってたんですね」
「色々あったから、疲れていたんでしょう」
「そうでしょうか……。あれ、お母さん」

首を捻る渚が、不意に早苗へ呼びかけた。
毛布を畳みながら早苗が答える。

「何です?」
「なんだか、目が赤くありませんか?」
「……」

ぴくり、と。
畳んだ毛布の四隅を揃える手が、僅かに揺れた。
表情には微笑を貼り付かせたまま、早苗が口を開く。

「……これは」
「……?」
「……私も、少しうとうとしちゃいましたから。そのせいかも知れませんね」
「そうですか……お母さんもお寝坊さんです。……あ、いえ、違いますっ」

言ってから、わたわたと顔の前で渚が手を振ってみせる。

35it's all we could do:2009/06/05(金) 00:40:13 ID:WQFzJPvQ0
「お母さんはわたしなんかより、ずっと疲れているはずですっ!
 少しくらい眠たくても当たり前です! こ、今度はわたしがちゃんと起きていますので
 お母さんはベッドで休んでくださいっ」
「……ありがとう、渚。でも大丈夫ですよ」

容易く誤魔化されてくれるその純粋さと拙い気遣いとが微笑ましく、また哀しくて、
早苗の声が微かに喉に詰まり、掠れる。
たとえそれが単なる先送りであっても、いま伝えなくてもいい真実があると、思いたかった。

「さ、顔を洗っていらっしゃい。それから帰る支度を始めましょう」
「え……?」

きょとんとした顔。
畳み掛けるように続ける。

「渚が寝ている間にまた放送があったの。この島の、」

口をついて出そうになる、殺し合い、という単語を辛うじて止めた。
渚には、聞かせたくなかった。
誰に失笑されようと、そういうものから遠くあってほしかった。
慎重に言葉を選ぶ。

「……戦いは、もう終わったのですって。六時には帰りの船が出るそうです」
「そうなんですか……」
「だから、用意をしないとね」
「あ、お父さんはどうするんですか?」
「……」

何度目かの短い沈黙が降りた。
渚がその意味を推し量ることは、ない。

「やっぱり、ここで待っていた方がいいんでしょうか……?」
「……秋生さんなら、大丈夫ですよ」

結局、それだけを口にするのが精一杯だった。


***

36it's all we could do:2009/06/05(金) 00:41:05 ID:WQFzJPvQ0
 
洗顔を終え、少し饐えた臭いのするタオルで顔を拭きながら戻った渚が目にしたのは、
ダイニングテーブルの上に細々としたものを並べている母の姿である。

「……何してるんですか?」

見ればそこには大小のボウルや目の粗いザル、麺棒に秤、幾つかの匙と小皿。
小麦粉、砂糖、塩、色の濃い小さな瓶。
そしてそれらの中心には、どこから探してきたのか大きな木製のこね板。

「見ての通りですよ」
「でも、これって……」

小麦粉の袋と並べられた牛乳や卵の賞味期限を気にしながら、渚がテーブルの上を見回す。
さすがに物心ついたときから慣れ親しんだ光景である。
理解は早かった。

「パンの材料……でしょう?」
「そうですよ」

蛇口をひねり、計量カップに水を溜めながら早苗が振り向く。
その笑顔には一点の曇りもない。

「―――パンを、焼きましょう」

37it's all we could do:2009/06/05(金) 00:41:40 ID:WQFzJPvQ0
それは、古河渚がこの世に生を受けてからずっと見てきた、始まりの笑み。
どれほど古い記憶の中にもある、無尽蔵の温もりと優しさとをもたらす、笑顔だった。
それが当たり前に存在する幸せを目一杯に享受して、しかしそのくすぐったさを誤魔化すように、
渚が珍しく少しだけ悪戯っぽい表情を作る。

「……お母さんが?」
「ええ、何か?」

まるで通用しなかった。
理解されなかったわけではないのだろうと思う。
ただ、受け止められた。

「い、いえ……」

かなわないな、と思いながら言葉を濁す。
代わりに浮かんだ疑問を口にした。

「だけど、天沢さんたちや川澄さんはまだ……あ、もしかしてそれもわたしの眠ってる間に……?」
「違いますよ、渚」

やわらかく、それでもきっぱりと否定された。
どこか遠く、たとえば十年後や二十年後や、そういうものを見ているような表情で、早苗が続ける。

「私たちは何かを食べなければ、生きていけないから……だから、パンを焼くんです」

ひどく透き通った声音だった。
まるで今ではないいつか、ここではないどこかに向けて語りかけるような言葉。
文字通りの意味よりもずっと重い、今はまだ自分の知らない何かを含んでいるように、渚には思えた。
それが何かは分からない。
悲しいもののようにも、苦しいもののようにも、あるいは本当に愛おしいもののようにも、思えた。
そう思えて、だけど何だかは分からなくて、分からないから手を伸ばそうと、渚が口を開きかける。

「お母さ―――」

ばん、と。
テーブルの上の小さな瓶が倒れるような衝撃を伴って響いた、恐ろしいほどの音に言葉がかき消される。
飛び上がるように振り向いた、その先には扉がある。
白地の薄い扉の向こうには、沖木島診療所の診療室と、待合室。
音は、そちらの方から聞こえた。

38it's all we could do:2009/06/05(金) 00:42:04 ID:WQFzJPvQ0
「……」

誰かが、いる。
暴力的な手段で診療所に侵入した誰かが、扉の向こうにいる。
唾を飲み込もうとして、口の中が乾いているのに気付く。
起きてから水の一杯も飲んでいなかった。
貼りつくような喉の痛みが、奇妙な静けさと混ざり合って鼓動を速めていく。

「―――」

す、と。
音もなく歩を踏み出した母の背に、かける言葉も浮かばない。
一歩、二歩、三歩。
震えも怯えも、その背には感じ取れない。
表情は、見えなかった。
ドアノブに手を、掛ける。
ゆっくりと回し、流れるように戸を引いた、そこに音はなかった。

「……、」

扉の向こうには、暗がりが広がっている。
直射日光に弱い薬品類も置いてある場所だ。
日差しの少ない北向きの窓に、更にブラインドが閉められている。
暗く、どんよりと重いその空間に、

「―――おかえりなさい、舞さん」

白く輝く毛並みが、あった。



***

39it's all we could do:2009/06/05(金) 00:42:24 ID:WQFzJPvQ0
 
 
窓から射すやわらかい陽光が室内を満たしている。
音もなく、暖かく。

はらはらと、雪が舞う。
それは黒い雪だ。
夜空の剥がれて地に落ちるように、漆黒の断片が降り注ぐ。

川澄舞の左腕を覆っていた、それはかつて遥か天空の彼方より飛来した狩猟者の血を引く者たちの証。
鬼と呼ばれる者の、闇を封じた腕である。
罅割れ、欠け落ちていく黒い皮膚の下から本来の肌が顔を覗かせれば、病的なまでに白い腕には
静脈のように薄い青緑色の、しかし決して血管ではあり得ない何かの紋様が刻まれている。
薄い脂としなやか筋肉とを包むきめの細かい肌を侵すように拡がり、手の甲から手首、
肘の辺りに至るまでをぐるぐると幾重にも取り巻くように螺旋を描いたその紋様は、
どこか獲物を前にとぐろを巻く蛇を思わせる。

否、それは事実、蛇である。
刺青のように舞の腕を取り巻いていた紋様は、己を縛り付けていた黒の皮膚がすっかり剥がれ落ちた途端、
まるで生きているかのように、ずるりと動き出していた。
奇妙な青蛇の紋様が、ぞろぞろと気味の悪い音を立てながら舞の腕の中を這い回る。
ややあって、ちろちろと舌を出し入れするその頭が向かったのは腕の先、手指だった。
手首の盛り上がった骨を嬲るように舐め回し、白い手の甲に思うさま己を摺り付け、
掌をゆっくりと撫で上げて、青蛇が舞の指へと辿り着く。
長い、骨ばった指の一本一本を値踏みするように頭を突き入れ、爪の先までをぐずぐずと蹂躙しながら、
嘲笑うようにまた手の甲までを引き戻る。
それを幾度か繰り返し、五指の隅々までを己が慾のままに味わい尽くして、刺青の蛇が最後に
その行く先と定めたのは、人が生涯を縛る鎖を結びつける約定の指―――薬指であった。
産毛すら生えない指の背が、幽かに脂のついた白い腹が、爪の下の赤い肉が、青黒い蛇の紋様に埋め尽くされ、
その色を喪っていく。

40it's all we could do:2009/06/05(金) 00:42:43 ID:WQFzJPvQ0
ぷつりと、指の先に血の珠が浮く。
窓から射す陽光の下に晒して黒い、それは死んだ血の色だった。
つう、と浮いた珠から濡れた糸のように粘つく血が流れ落ちていく。
垂れ落ちて拡がる刹那、糸の先でちろりと舌を出すように、黒い血が僅かに跳ねた。
ずるり、ずるりと音を立てて、蛇の尾が舞の手指から消えていく。
やがて血が止まったときには、もうその手に青黒い紋様は、見えなかった。

その代わりとでもいうように、いつの間にか舞の手に握られていたのは小さな珠である。
子供の遊ぶ硝子玉のような、透き通った丸い珠。
掌中で弄ぶように転がしていた舞が、その珠を指先に摘み上げる。
珠は陽射しの中で黄金色にも、薄く白みがかっているようにも見えた。
ほんの僅かの間を置いて、珠にぴしりと罅が入る。
摘んだ指に力を入れるまでもなく、珠はその役割を自ら知っているように罅を広げていく。
繊細な焼菓子のように割れ砕ける瞬間、珠が立てたのは澄んだ音である。
混じりけのない、清新な高音。
感情も想念もない、純粋を集めて吹いたような音が消えていく。

その余韻を惜しむように、はらはらと舞うものがある。
色は純白。
風のない部屋の中、黒の雪と、青黒い血と、透き通った欠片の散らばった上を覆うように、
何もかもを真白く染めて、祝福は深々と降り積もる。


四つの至宝の織り成す、それは儀式である。


求め、奪い合い、ついに手にした者たちの、これが物語の終着点であった。
長い争いの中に願いがあり、祈りがあり、命があり、生と死とがあり、ならばそれは、叶えられる。
そうでなくてはならなかった。
それを許さぬものが世界であるならば、世界を赦さぬが物語である。
ならばその終幕へと至る道程の、目に見えず在り続ける最後の素因を、物語は請願する。


―――希望あれ、と。



***

41it's all we could do:2009/06/05(金) 00:43:17 ID:WQFzJPvQ0
 
 
ふつふつと、音がする。
コンロに掛けられたヤカンの湯が沸き立つ音だ。

「……あとは焼けるのを待つだけです」

小さなオーブンを見やった早苗が微笑むのへ、舞がこくりと頷く。

「た、食べられるんでしょうか、あれ……」
「……?」

どこか怯えたような娘の表情を不思議そうに見返す早苗。

「パンはいつも食べているでしょう?」
「そういうことではなく……」
「さ、お湯も沸いたみたいですし、お茶にしましょうか」

意に介した風もなく立ち上がり、コンロの火を細める早苗の後ろ姿に、
渚が二の句を継げずに口を閉ざす。

「渚、そこの戸棚からカップを―――」

言い掛けた途端だった。

「―――おい、誰かいるか!?」

響いたのは、男の大声である。
息せき切ったような切羽詰った声音が、診療所の方から聞こえていた。

「医者はいないか! 急患を連れてきた!」
「……あらあら」

火を止めた早苗が困ったように、しかし表情から微笑は消さずに診療所へと続く扉に向かう。

「今日は本当に、お客様がたくさんいらっしゃる日ですね。
 ……渚、お茶は少し多めに淹れておいて頂戴ね」

ドアノブに手を掛けて振り返った、その顔に緊張の色はない。
その空気に引きずられるようにティーセットの用意を始めながら、渚は突然の来訪者にも
椅子から立ち上がろうとすらしない舞の輝くような白い毛並みは犬系だろうか、
それとも猫系のそれだろうか、などとひどく場違いなことをぼんやりと考えている。
目が覚めてからこちら、驚愕と仰天とが重なりすぎて神経が麻痺しているのかもしれない。

「もう、どんなことがあっても驚かない気がします……」

呟いた渚は無論、この上まだ常識を塗り替えられる事態が壁一枚隔てた傍にまで迫っているなどと、
よもや想像だにしていない。

42it's all we could do:2009/06/05(金) 00:43:28 ID:WQFzJPvQ0
 
【時間:2日目 午後1時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ】


国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:健康・法力喪失】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:意識不明】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠・意識不明】

→1009 1071 ルートD-5

43明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:55:29 ID:TIXYJhVg0
「宗一さん、無茶のしすぎです。傷だらけじゃないですか」
「そういう渚こそ危ない真似しやがって。一歩間違えたらそっちが撃たれるところだったぞ」
「宗一さんが助けてくれました」
「そりゃそうだ。もし渚に何かあったら、俺は……」

 そこで那須宗一は言いよどんだ。宗一自身思ってもみなかった言葉がついて出たらしく、視線を虚空へと泳がせる。
 しらを切ればいいものを、あまりにも分かりやすい態度に古河渚でさえも言葉の続きが理解でき、
 顔に熱が昂じているのが自分でも理解出来た。そういえば、いつからお互いに名前で呼び合うようになったのだろう。
 いらぬことまで考えてしまうと思った渚は作業を再開した。包帯が丁寧に宗一に巻かれていく。

 ただ、どことなく気恥ずかしいものが残り視線を合わせ辛くなった。
 治療が終わったらどうしよう、と持て余した感情をどこに向けるか考えてみるも、
 他のメンバーは、というよりは国崎往人を中心として朝霧麻亜子と川澄舞が話し合っている。
 比較的怪我の少なかった麻亜子と往人が捜索を終え、舞に報告しているらしかった。

 自分のところにこないのは宗一の治療をしているからなのか、それともこの雰囲気を感じ取ったからなのか。
 どうもしばらくはここに釘付けらしいということを理解して、渚は悶々とした気分になる。

 よくよく考えてみれば自分たちはとんでもないことをしてきた気がする。
 後ろから抱きすくめられ、情けない姿を晒しあい、てのひらを乗せ合った。
 恋愛経験の少ない、というか全くなかった渚にはそれだけで赤面するには十分だった。
 そして同時に胸が高鳴る我が身に驚き、どういうことなのか理由を求めようとするが話せる相手などこの場にいるはずもなく。
 つまるところ自分で考えるしかないのだった。

 いや考えずとも分かる。宗一の態度は明らかだ。好意を抱いてくれていることは間違いない。
 急に気付いたというよりはここまで考える暇もなく、
 己自身のことを考える時間の方が多かったし奔走していたせいもあったからだというのが理由だ。

 いざ思い返してみれば思い当たることがぽんぽんと飛び出してくる。
 それだけ様々なことがあったということだ。自らの内実に、ルーシーたちとのすれ違い、そして天沢郁未。
 全てに決着がつき、ようやく自分のことを真に考えられるようになった。
 今までではなく、これからのことを。

44明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:56:05 ID:TIXYJhVg0
 その第一歩がこんな話でいいのかという思いにもなったが、それでいいのだとも思う。
 自分は若い。多分、この場の誰よりも子供で世間知らずだ。
 とはいえ気付いたところでいきなり何が出来るでもないし、こうしてギクシャクすることしか出来ていない。

 やはり子供だと思う。少なくとも父母のようになるにはまだまだ遠いのだとも感じる。
 こんな調子で大丈夫だろうか、と少し不安になったが、それでいいんじゃないという苦笑が瓦礫の上から投げかけられた。
 郁未の穏やかな顔がそこにあった。遺体は瓦礫の上に安置されている。
 穴を掘る道具がなかったためここに置いておくしかなかったのだ。

 申し訳ないという気持ちがあったが、そんな気遣いは無用だという郁未の意思のようにも見えた。
 最後まで、郁未は渚が嫌いだった。それでもこうして何を憎むこともない、穏やかな顔をしている。
 きっと嫌いでも認める部分はあったのかもしれないと解釈して、渚は郁未の無言を受け取った。
 じっくり整理していこう。多分、今のわたしにはそうするだけの時間はあると思うから。

「……終わりました。大丈夫ですか?」
「ああ、よし。悪くない」

 関節を動かし、体を捻りながら宗一は「ありがとな」と言った。
 いえ、と応じて次に渚は舞のところへと向かう。
 包帯を巻いたり消毒したりするのは実のところ慣れている。父親の秋生がよく怪我をこしらえて帰ってくることが多かったからだ。
 本人曰く、「全力で野球やってりゃこんなもんよ」と言って笑っていたのを思い出す。
 子供っぽいと思いながらも本当に楽しそうな表情だったのが、密かに羨ましかった。

「すみません、お待たせしました」

 こくりと頷いた舞の顔面は血だらけになっているように見えたが、本人は存外平気そうな顔をしている。
 よく観察してみると傷自体は浅く、激しく動いたせいで多少出血量が増えただけなのだと分かった。
 ましまじと見ていた渚に、察したのか舞が幾分得意そうに呟く。

45明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:56:26 ID:TIXYJhVg0
「受け身を取るのは、得意」
「そうなんですか?」
「慣れてる」

 武道か何かをやっているのだろうか。剣道着を着ているのから考えて、剣道部だろうか。
 渚自体は舞の戦う姿をそれほど見ていたわけではないので確証は持てなかった。
 だがぼんやりとした中にも鋭さが漂う視線と、引き締まった腕の筋肉を見ればそうなのだろうと思う部分はある。

 いずれ分かることだろう。今はそれより優先すべきことがあると思いを入れ替え、渚はタオルを取り出した。
 すみません、と前置きして額を優しく拭う。
 雨のせいか広範囲に散っていた血液は瞬く間にタオルに吸収され、赤の範囲を増していく。

「平気ですか?」
「うん」

 無表情は保たれたままだ。痛くはないのだろうと解釈して、消毒液とガーゼ、包帯を取り出す。

「ちょっと沁みるかもしれませんけど、我慢してくださいね」

 一言置き、消毒液を塗ったガーゼを丁寧に貼り付ける。それでも流石に痛みはあったか、若干片目が閉じられた。
 大丈夫、と即座に言ってきたのが気遣いのように思われ、渚は苦笑を浮かべた。
 この言葉だけで舞が優しい性格なのだと分かる。口数は少ないがそうなのだと理解できる。
 だからもっと知りたいという欲に駆られ、渚は自ずと言葉を口にしていた。

「あの、そういえばちゃんと自己紹介したわけじゃないですよね。改めて自己紹介させてもらってもいいですか?」

46明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:56:46 ID:TIXYJhVg0
 少し前ならこうして自ら積極的になることもなかった。
 己に自信と意味を持てず、坂の下で燻るばかりで知ることを恐れていた頃から思えば、随分進んだと我ながら思う。
 今は怖くない。知るために、好きになるために、坂の先にあるものが見える。歩いていける。
 それこそが『新しい終わり』なのだろう。そう納得して渚は口を開いた。

「古河渚です。実は演劇部の部長さんです。だんご大家族が好きです」
「川澄舞。部活動はしてない。牛丼は嫌いじゃない」

 包帯を巻かれながら、舞も答えてくれる。
 こういうことに慣れていないのか少々たどたどしいのが微笑ましかった。
 自分だってそうなのだが。遠野美凪と自己紹介したときの会話から引っ張ってきたのがその証拠だ。

 或いは美凪とのこの会話がなければそれさえも思い浮かばなかったのかもしれない。
 案外、自分はたくさんの経験をしてきたらしかった。そこには様々なひとの姿がある。
 犠牲の上に有るのではなく、支えられて生きている。
 そのことを実感しながら渚は会話を続ける。

「えっと、学生さんですよね。何年生ですか?」
「三年生」
「あ、わたしと同じです。……といっても、留年しちゃってますけど」
「そうなの? ……不良?」
「残念ですけどはずれです。体が弱くて、病気でたくさん休んじゃったんです」
「……」

 よしよし、というように舞の手が頭に置かれる。
 慰めてくれているのだろうが、年下に励まされていることで何とも複雑な気分になる。
 もちろん嬉しさは圧倒的な割合を占めていたのだが。

47明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:57:11 ID:TIXYJhVg0
「……済みません、あんまり年上っぽくないですよね」
「そうでもない。貴女は優しい。とても……包帯を巻くのも上手だし」
「あはは、包帯はあんまり関係ない気もしますけど……ありがとうございます」
「……渚、って呼んでもいい?」
「あ、はい。それはもちろんです。えっと、そっちは」
「舞、がいい」
「じゃあ、舞さん」
「うん、渚」

 お互いに名前を呼び合う。既に知っている名前であるはずなのに、新鮮な響きがある。
 同時になんとなく照れ臭くもなり、意味もなく笑ってしまう。舞も同じなのか、微かに表情が柔らかみを帯びた。
 と、そこに。

「おーおーどうしたのかねーそこの初々しい少女達よ。あたしを忘れるなんて寂しいなー泣いちゃうぞー?」

 包帯を巻き終えたのを見計らったかのように割り込んできた麻亜子がずいっと顔を出した。
 いかにも冷やかすような声色だった。振り向いてみればいしし、と意地悪な表情を浮かべている。

「あ、す、すみません。仲間はずれにするつもりはなかったんです」

 だが会話に入れていなかったのは事実であるし、申し訳ない気持ちになりながら渚は頭を下げる。

「あ、いや、マジに謝られても困るんだけどさ。うーん厳しい」
「あぅ……ごめんなさい」
「……真面目だねー」

 頭を掻きつつ、麻亜子は苦笑する。以前朋也から真面目すぎる、と言われたことを思い出した。
 性分であるためにこうしてしまうのは仕方がないのだが、折角の雰囲気を台無しにしてしまうわけにはいかない。
 渚は気を取り直してえへへ、と半ば誤魔化すように笑って、麻亜子にも紹介を持ちかけることにした。

48明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:57:28 ID:TIXYJhVg0
「じゃあ改めまして……古河渚です。よろしくお願いします」
「うむ苦しゅうない。余は永遠の十四歳にして稀代の美少女ロリのまーりゃんである」
「まーりゃんさん、ですか?」
「さん付けしなくたっていいんだけどなー。あたしはアイドルゆえにフランクでもおっけーなのさー」
「えっ!? アイドルなんですか!?」
「……まいまいー、この子ド真面目だぞ!」
「まーりゃんが悪いと思う」

 泣きつく麻亜子を一蹴して舞は「こういう人だから」と渚に言った。
 確かに中々変わった人だとは思うが、自分が真面目過ぎるのにも原因がある。
 フランクに、フランクに、と念じるように心中で繰り返して、最後にカツサンドと叫んで会話を再開する。

「えーっと、じゃあまーさん……っていうのは……」

 だが渚にはこれが精一杯だった。どうも呼び捨てにするのは気が引けて仕方がなかったのだ。
 最も変えなければいけないのはここではないのかと嘆息せざるを得なかった。
 だが麻亜子はそれでも嬉しそうに笑って「おっけーおっけー♪」と頷いてくれた。
 いい人だ、と渚は思った。少し変だが、舞同様やさしい人だという感想を抱く。
 自分もこれくらいフランクになれれば、という憧れのような気持ちを持って、渚も笑い返した。

「それじゃあチミにはこの三択を授けよう。
 ①、なぎなぎ
 ②、なーりゃん
 ③、渚ちん
 さぁどれだ!」
「……えっと、普通に名前じゃ」
「却下」

 即答だった。どうやら愛称で呼ぶことは確定事項らしかった。
 戸惑いを覚える一方、今まで愛称で呼ばれることはなかったので身体が芯から温かくなっていくのも感じる。
 きっと麻亜子にとってはこれが普通で、当たり前の事柄なのだろう。
 だからこそ、当たり前の中にいられる自分が、どうしようもなく嬉しかった。

49明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:57:45 ID:TIXYJhVg0
「ええと……それじゃ、さんばん、で」
「ファイナルアンサー?」
「ふぁ、ファイナルアンサー」
「……」
「……」

 じーっとこちらを見つめる麻亜子。数秒単位で表情を変えている。何故か変な顔だった。
 この流れで渚は思い出した。とあるクイズ番組の司会者のモノマネだった。
 多分それについて言及はしないほうがいいのだろうと考えながら、この時間に身を任せることにした。

「正解っ! 渚ちんにはプライスレス!」

 渚は舞の方を見る。舞は目を伏せ、ゆっくりと頭を振った。プライスレスの意味は分かりそうもなかった。

     *     *     *

 女の子は三人寄ればかしましい。いや麻亜子一人だけがかしましいと言うべきか。
 談笑している三人の姿を眺めながら、国崎往人は瓦礫の上に那須宗一と肩を並べて座っていた。
 どうも取り残された感が拭えない。ただ、これはこれでいいという思いはあったので不満もなかった。

 結局のところ、収穫らしい収穫はなかった。
 郁未を倒せたことで確実に殺人を行う者は減っただろうが、まだいなくなったとは限らない。
 生存者もゼロである以上合理的に考えてここからは一刻も早く立ち去り、伊吹風子に合流した方がいいのだが、
 実質的なリーダーである宗一はまだ荷物をまとめていてここから動く気はなさそうだった。

 ちなみに往人に手伝う気はない。疲れているし、宗一も手伝ってくれとは言わなかった。
 ただ手持ち無沙汰であることは確かだった。人形劇でもやってみようかと思ったが、
 相棒代わりだったパン人形は雨に濡れて昇天なさってしまったようだった。
 哀悼の意を数秒ほど捧げ、ドロドロのぐちゃぐちゃのパン人形は郁未の近くに置いておくことにした。
 こんななりでも何人かのひとを笑わせてきた代物だ。地獄での暇つぶしにはなるだろう。

50明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:58:01 ID:TIXYJhVg0
 不思議と郁未にそれほどの感情を抱いていない己を認識して、往人はもう一度郁未の遺体に目を向ける。
 あれほど憎しみで歪んでいたはずの郁未の顔は、内に溜め込んだ負の全てを出し切ったかのように穏やかだ。
 古河渚という人間にはそれほどの力があるのだろうか。

 遠慮がちに、しかし話の中心になって喋っている彼女は往人に神尾観鈴の姿を想起させた。
 観鈴もまた、いるだけで太陽を指してくれる向日葵のような人間だった。
 生い立ちや過去など関係なく、全てを受け入れる存在。往人はそう思った。

 全員が人殺しのはずなのにな。

 軽く笑う。人の死に関わっていない奴はここにはいない。
 皆が悲しいことや辛いこと、犯してはならないことをしてきたはずだった。
 だがそこから来る後ろめたさのようなものは何も感じない。

 人の死から目を背けているわけではない。責任を放棄しているわけでも、増してや忘れたわけでもない。
 しっかりと受け止め、それぞれが自分なりに考え、どうしたいかを決めて歩んでいる。
 自分達を見る連中の中にはこうしているのを許せないと思うのだっているだろう。
 思うのは勝手だ。だが許せるかどうかを決めるのは自分達でしかない。どうこうする権利だってありはしない。
 そういうことなのだろうと納得して、往人は持て余した頭を会話に使うことにした。

「よう、こうして男二人取り残されたわけだが」
「いいんじゃないの? 仲良きことは美しきかな」
「俺達も仲良くしてみるか」
「冗談。男の友情なんて暑苦しいぜ」
「同感だな。ということで、これからどうする。周辺も少し探してみたが遺留品は全部あの瓦礫の下らしい。
 那須が整理しているのが全部だな。つまり、もうここには何もない」
「まずは、麓まで戻る。伊吹もいるしな」

 往人は頷いた。問題はそこから先。舞が元いた集まりの生き残りである藤林椋の捜索をするという目的はあるが、
 それは最優先にするほどの問題でもないし、宗一にくっついていても為せる目的ではある。
 つまるところ往人達に当面することはないといってもよかった。

51明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:58:19 ID:TIXYJhVg0
「俺達は元々別れた仲間を戻すために来てたんだ。渚がいるってことは多分仲間は捕まったと思う。
 ここにいないのは多分怪我をしてるか、或いは……まあ、いずれは分かることだ。
 だから俺達は学校に戻る必要があるな。そこで待ち合わせがあるんだ。……大遅刻してるけど」

 ばつが悪そうに宗一は眉根を寄せる。怒らせると怖いタイプの人間と待ち合わせしているらしい。
 往人には関係なかったので、「大変だな」と言っておいてやる。

「ともかく、ま、そいつは頼りになる奴でね。
 それにいいものも手に入った。ノーパソだ。情報収集には使えるぜ。しかも二台」
「俺には使い方が分からんから、那須に任せる」
「今時パソコンが使えないと、色々と困るぜ?」
「生憎俺は肉体労働派なんだ」
「なるほど。体は大切にしろよ」

 軽口を受け流しつつ、宗一はこれから麓にある学校まで戻るということを頭に入れる。
 となればついていってもいいだろう。宗一が頼りにすると宣言した人間が来るということなら、
 もしかすると脱出の芽が見えるかもしれない。もう下手に動き回る必要性は薄れてきているのだ。

「そういや、お前世界一のエージェントだとかなんとか言ってなかったか」
「はて、どうだったかな」
「道理で銃に詳しかったわけだと思ったよ。なんで隠してた」
「カッコイイから」

 分かる、と思わず言いそうになってしまう。
 誤魔化しに乗ってどうすると自らを窘めるが、さりとて真意を聞き出すことは難しそうだった。
 ひょっとすると、本当に格好いいからという理由だけで隠しているのかもしれないが……
 いずれにしても言っても言わなくても、ここの関係が変わることはなさそうだった。

「よし、整理完了。ありがたく頂いてくぜ郁未さんよ」
「行くのか」
「あいつを怒らせたくないからな」

52明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:58:31 ID:TIXYJhVg0
 宗一が怒られる姿、というのはとても想像できるものではなかった。
 それはそれで面白そうだったので、密かに期待してみることにする。
 国崎往人は意外と野次馬根性なのだ。

 そんなことを考えているとは知らないであろう宗一は女性三人に向かって声を飛ばしていた。
 往人も立ち上がる。暇があれば人形でも探してみようか、と思った。
 とりあえず、人も増えて、見せるべき相手が多くなったのは確実なのだから。

53明日ハレの日、ケの昨日:2009/06/10(水) 02:58:48 ID:TIXYJhVg0
【時間:2日目午後23時00分頃】
【場所:E−4・ホテル跡】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、投げナイフ1本、鉈、H&K SMGⅡ(30/30)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(6/6)とその予備弾丸9発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る】 

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

→B-10

54it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:11:57 ID:AwGSRtsw0
 
「結論から言うと……もうすぐお産が始まります」

嵐の訪れはいつも唐突である。
神ならぬ人の身は自然の猛威を前に驚き、慌て、頭を低くして耐えるより他にない。
たとえそれが、うららかな光の射すリビングに突然巻き起こった小さな嵐であろうとも、何ら変わりなく。

「は?」

長岡志保は間抜けな声を上げ、

「お、お母さん……?」

古河渚は母の言動に戸惑い、

「……」

川澄舞は視線を動かすこともなく紅茶を啜り、

「……苦しい」

そして国崎往人は、己が首を締め上げる細い指の感触に眉を顰めていた。
奇妙に滑る汗が滲んで余計に不快感が増す。

「え? いや、ちょ……はああああ!?」
「落ち着け長岡、起き抜けにあまり騒ぐとまた倒れるぞ。それと俺の首を絞めるな」

隣に座る少女の、薄く肉のついた細腕をどうにか引き剥がそうと苦闘する国崎。
ただでさえ凶悪な目つきが更に険しくなるが、驚愕に揺れる少女は国崎など見てもいない。

「なな、何言ってんのよ志保ちゃんは落ち着いてるわよ変な冗談ばっかり言って早苗さんは!
 けどもしこれが変な夢だったら早く覚めてほしいじゃない!?」
「お前の悪夢は俺の首を絞めると覚めるのか!? いいから離せ!」

がくがくと首を揺らす手を強引に剥がし、汗ばむ肩を掴んで無理やり椅子に座らせる。

55it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:12:14 ID:AwGSRtsw0
「……ふう。目を覚ました途端にこれだ」

ごほん、と咳払いを一つ。
呼吸を整える。

「しかしまあ、なんだ。落ち着いた方がいいのは、あんたも……だな」

鋭い眼光が睨むように向けられた先には、台風の目。
自らの発言が巻き起こした嵐など知らぬげに微笑む、古河早苗がいた。
その泰然自若とした様子にやりにくさを感じながら、国崎が続ける。

「こいつは男だ。見れば分かるだろう」
「ええ、拝見させていただきました」

間髪いれずに答えが返ってくる。
いきなりの直球で核心を突いたつもりが、見事に打ち返されていた。

「なら分かるだろう!? 男がどうやって子供を孕むというんだ!」

もしかして眼前の女は少し頭の中身が残念なのかもしれないという懸念が、
国崎の口調をほんの少しだけ荒くする。
ちらりと横目で見たベッドの上には一人分の膨らみがある。
苦しげな表情で横たわる金髪の少年、春原陽平であった。
時折漏らす声は力なく、意識はいまだ戻らない。
薄いブランケットを掛けられた細身の身体には、一見して異常な点がある。
布団に隠された下腹部が、極端に肥大していた。
一抱えほどもありそうなその様は、まるで布団の下に何かを詰めているかのように見えるが、
無論一同が囲んでいるのはそのような悪い冗談の産物ではない。
確かに少年の下腹部自体が膨れ上がっているのだった。

「ええ、私もそうは思ったのですけど……」
「けど、何だ!?」

肥大に耐えきれぬ衣服は、既に早苗によって上下とも脱がされている。
生身を晒した肩と言わず胸と言わずだらだらと脂汗を掻き、苦悶を浮かべる少年の様子を見て
思わず浮かぶ連想を、国崎があえて断ち切る。

「ですが、子宮口もかなり開いているみたいですし……」
「……」
「……」
「……何だと?」

56it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:12:30 ID:AwGSRtsw0
一瞬降りた沈黙が、粘つくように国崎の喉に引っかかる。
振り払って、聞き返す。
たった今、眼前の女から出た言葉の意味を、咀嚼しかねていた。
否、決して咀嚼してはいけない単語を耳にしたような、そんな気がした。
もう一度尋ねればきっと、自分の聞き間違いだったと分かるだろう。
そんな、淡い期待があった。

「ですから子宮口が。破水する前に準備を始めないといけないかもしれません」
「いや、ちょっと待て」

淡い期待は木っ端微塵に打ち砕かれていた。
わたしキッチン見てきますねー、という渚の暢気な声が脳髄の奥で頭痛の種を芽吹かせ、
痛覚を刺激しだすのをこめかみを揉んで和らげながら、国崎が早苗の言葉を遮る。

「今、何と言った」
「……?」
「不思議そうな顔をするな!」
「破水する前に準備を……」
「その前だ!」

小首を傾げる早苗の表情に、ふつふつと沸き上がるこの感情は怒りだろうかと
自問しつつ国崎が噛みつく。

「えっと……子宮口もかなり開きかけています、でしょうか?」
「子宮口」
「ええ」
「……」
「……それが何か?」

沈黙が、降りた。

「……」
「……」
「があああああああ!」
「ひゃっ!? ちょっと何なのよ!?」

57it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:12:55 ID:AwGSRtsw0
急に大声を上げ、がりがりと頭を掻き毟りながら立ち上がった国崎に、
隣に座った志保がびくりと肩を震わせる。
がたりと揺れた拍子に零れた紅茶が、テーブルに拡がっていく。
無言を保っている白毛の少女、舞がぎろりと国崎を睨んだ。
気にした風もなく早苗に詰め寄る国崎。

「あんたは何を言ってるんだ!? いい大人が保健体育の授業からやり直すか!?
 子宮口!? そんなものが男にあるはずがないだろうが!」
「ご覧になりますか?」
「……は?」

あっけらかんと言い放たれ、国崎が言葉に詰まった。
思考に生まれた一瞬の空隙を突くように、早苗がちょいちょいと手招きしている。
導かれるようにふらふらとベッドに歩み寄ってしまう国崎。
微笑んだままの早苗が、テーブルからは見えないようにそっとブランケットをたくし上げた。
何一つ身につけていない少年の下半身が、国崎の眼前に晒される。

「……」
「触らないでくださいね」
「……」
「こうして……、ほら、ここから覗いてみると……きゃっ!?」

がばり、と国崎が顔を上げる。
そのまま手近な壁に駆け寄ると、ガンガンと額を打ちつけ始めた。

「う、うおおおおおおおおおお!!」
「な、何やってんのよあんた!? とうとう本格的におかしくなったの!?」
「そんなわけあるか! ……いや待てよ、そうなのかも知れん……。
 俺は頭がおかしくなってしまったのか……!?」
「はあ!? ちょっと、本当に大丈夫なのあんた?」
「……おい、お前」

ぎらり、と鋭い眼光が志保を射抜く。

「ふん、あたしはおい、とかお前、なんて名前じゃな……何すんのよ!?」
「いいからちょっと来い!」

腕を掴まれ、引きずられるようにして志保が連れて来られたのは少年の横たわるベッドである。

「ッ痛いわね!」
「……こいつにも、見せてやってくれないか」
「ちょっと! 人の話を聞きなさいよ!」

58it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:13:11 ID:AwGSRtsw0
振りほどいた腕をさすって志保が睨みつけるが、どんよりと暗い目をした国崎は意に介さない。
抗議を無視して尋ねるのへ、少し困ったような顔で早苗が答える。

「子供たちには少し刺激が強いかも知れませんが……」
「構わん。百聞は一見にしかず、だ」
「あんたねえ、いい加減に……!」

激昂しかけた志保に、国崎が少年を指さして言う。

「……いいから見てみろ」
「何よ、何なのよ……って、いやああああああああああああ!?」

視線を向けた志保の頬が紅潮するまで一秒もかからなかった。
頭から湯気を出しそうな勢いで赤らんだ顔を手で覆い、白い壁紙の貼られた天井を仰ぎ、
指の隙間からもう一度ちらりと少年の一部を見やって、大きく息を吸い込むと、

「こんの……ド変態ぃぃ!!」
「ぐぉッ!?」

鳩尾に、綺麗な一撃。
思わずくの字を描いた国崎の、下がった頬に更なる追撃が入る。
平手ではなく握った拳の打撃に表情を歪める国崎の襟首を、怒髪天を突く志保が掴んで引き寄せた。

「ちょっと! どうしてくれんの! 殴った手が痛いじゃない! 痛くないように殴られなさいよバカ!」
「か、勝手なことを言うな……! それより、見たか……!?」
「見たわよ! バッチリ見せられちゃったわよ! ナニ見せんのよこの痴漢! 変態! 変質者!
 乙女の純情を踏み躙った罪を今からたっぷり後悔させてあげるから死んで反省しなさい!」
「無茶苦茶言うな! 見せたいのはそっちじゃない、その下だ!」

息も絶え絶えに国崎の指さす先へ、つられた志保が視線を動かす。
そこにあるのは、たくし上げられた白いブランケットと、一糸纏わぬ春原少年の下半身。
またも一秒かからず紅潮しかけた志保が、ふと気付く。
国崎が示す指の、正確な延長線上。
そこにあるのは、毛むくじゃらの達磨とその尻尾のような見慣れないモノと、それから。
見慣れた、というほどまじまじと見たりはしないけれど、それなりに見覚えのある、器官。

59it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:13:31 ID:AwGSRtsw0
「んー……?」
「……」
「……んんー、」

目をすがめ、顔を近づけ、指を伸ばそうとして早苗に触ってはいけませんと窘められて引っ込め、

「……キモっ」

結論を出した。
同時、国崎が床に崩れ落ちる。

「うおおーっ!」
「何よあんた、うっさいわねえ」

一通り床を転げまわって悶えた国崎が、立ち上がって志保に詰め寄った。

「それだけか!? 本当にそれだけなのかお前!?」
「だって……」

少年と、その一部を横目で見る志保。
達磨の方も段々慣れてきた。

「両方あるなんて、キモいじゃない」
「お前な……」

率直過ぎる感想に、国崎が嘆息する。

「両性具有……というのは聞いたことがあるが、しかし……」
「ええ。こういうものでは、ないと思います」

国崎の言葉を引き取って、早苗が頷く。

「ちゃんとお産ができるのかどうかも、正直なところよく分かりません」
「……ねえ、あたし難しいことはよく分からないんだけどさ」

表情を曇らせた早苗に、志保が顔を向けて肩をすくめる。

「現にこいつがここにいるんだから、仕方ないじゃん。
 考えなきゃいけないのは、何で……じゃなくて、どうするか……ってことなんでしょ?」
「おい、簡単に言うがな……」

言いかけた国崎を、早苗が身振りで制する。

60it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:13:44 ID:AwGSRtsw0
「……そうですね。長岡さんの仰る通りです」

曇りを払うように微笑んだ早苗が、苦しげに顔を歪める春原の額に浮かんだ汗を優しく拭う。
そのまま跪くと、静かに春原の腹に耳を当てた。

「わ……!」
「おい……」
「ほら、こうすると」

驚く二人に、早苗は慈母の笑みを向ける。

「とくん、とくん、って。生まれたい、って言ってます。
 なら……私たちにできるのは、そのお手伝いでしたね」

その笑みの、輝くような温かさに気圧されながら、国崎が口を開こうとする。

「いや、しかしな……」
「あ、お母さん」

言いかけた言葉は、背後からの声に遮られた。
振り返った国崎の視線の先には、古河渚が立っている。

「どうかしましたか、渚?」
「パンが焼けたみたいですー」
「あら、本当? ありがとう」

ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンに消える早苗の背を見送って、
国崎が深い、深い溜息をついた。

61it's all we could do Ⅱ/ Ha'Olam habah:2009/06/11(木) 16:13:59 ID:AwGSRtsw0
 
【時間:2日目 午後2時ごろ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:疲労・法力喪失】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:健康、白髪、ムティカパ、エルクゥ】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠・意識不明】

→1074 ルートD-5

62来客予報:2009/06/14(日) 00:30:44 ID:Sd7UWGMg0
「遅いな、初音ちゃん。すぐ戻るって言ってたのに……」

そわそわとした様子で、視線を辺りに彷徨わせながら長瀬祐介が呟いた。
彼が今座っている椅子の正面、少し前までそこで朝食を摂っていた少女はここにはいない。
支給された食べかけのパンは、そのままの状態で放置されていた。

時刻は午前七時を回っている。
第二回目の放送が行われてから、一時間の時間が経った。
放送はこの民家に滞在していた三人に、大きな衝撃をもたらすことになる。
まずその人数。
第一回目の放送時に流れた名前の倍以上の人数が、今回の放送にて発表された。

そこには祐介にとって、馴染み深い少女達の名前も並ぶことになる。
心を許した愛しい彼女達との永遠の別離、実質上祐介が元からの知り合いで心を許していた人間は、これで零となった。
顔見知りである太田香奈子や月島拓也の存在を、無視するという気が祐介の中にある訳ではない。
しかし心理的に祐介が最優先する存在が、二人を置き去りにした状態のままここで浮上したことになる。
それが彼女、柏木初音だった。

『ごめんなさい。大丈夫。大丈夫だよ……』

顔面蒼白の少女が呟く。
声は小さく震えていた。初音の動揺が、そこには直に表れている。
三人の姉を含む親族達と共にこの島に放たれた初音は、姉妹の中でも末っ子である四女だった。
しっかりしているものの、根は甘えん坊であり誰かに縋ることで自己を回復している面が、初音にはある。
そんな彼女は、このたった一晩で多くの家族を奪われた。
初音は結局、血を分けたかけがえのない姉妹達と再会することが叶わなかったのだ。
金輪際、未来永劫。
この争いにより大切な身内を失った初音のことを思うだけで、祐介は胸が締め付けられそうになる。

63来客予報:2009/06/14(日) 00:31:21 ID:Sd7UWGMg0
『―― 少し、外に出るね。外の空気が吸いたいんだ。大丈夫、すぐ戻ってくるから……』

放送が終わってから、少し経ってからのことだった。
初音の願いを止める者は、ここにはいない。
孤立することが危険なことに変わりないが、彼女の心情を思えば了承する以外の選択肢は存在しない。
誰もが初音を労わっていた。
……少なくとも、祐介はそう思っていた。

「そうですね、確かに心配です。でも……わたしは、柏木さんがすぐに戻られなくてよかったです。
 わたし自身が、この時間で落ち着くことが出来ましたから」
「有紀寧さん……もう、いいの?」
「はい。ご心配、おかけしました」

力ない足取りでダイニングであるこの部屋に現れたのは、暗い面持ちを保つ宮沢有紀寧だった。
初音がこの民家を出た後、気分が悪いと言った彼女は寝室で休んでいた……ことに、なっている。
祐介の手前上傷ついた素振りで自身のか弱さを演出する必要があったのと、例の書き込みをした掲示板のことが有紀寧は気になって仕方なかった。
今のところ、有紀寧の書き込みに対するレスはついていない。
有紀寧が想像していたよりも、この掲示板の存在を知っている参加者はもしかしたら少ないのかもしれなかった。

(まぁ、あくまでこれは余興ですし)

反応がないのもそれはそれで物悲しいものであるが、結局はそこだ。
一つため息をつくと、有紀寧はこっそり寝室に持ち込んだノートパソコンのディスプレイを伏せる。
気分を切り替え戻ったダイニング、落ち着きのない祐介の様子に思わず浮かんだ苦笑いを即座に隠し、有紀寧はそっと彼の隣に座った。

「きっと、柏木さんは目を真っ赤にして戻ってくると思います。
 わたし達の前で見せなかった分、一人でたくさん泣いているでしょう」

64来客予報:2009/06/14(日) 00:31:46 ID:Sd7UWGMg0
痛ましげに顔を歪める有紀寧につられるよう、祐介も表情を落ち込ませた。
こういう純朴な祐介の姿は、有紀寧からすれば滑稽にしか映らない。
優しい性格ではあるが、どうにも存在自体が心もとないというのが、有紀寧の持つ祐介に対する印象である。

今や有紀寧にとって、祐介と初音の存在は枷以外の何物でもなかった。
柏木の姉妹達は消え、残る柏木性は一人となる。
初音曰く頼りになる存在と有紀寧も聞いているが、あの子のことだ。
祐介のことを持ち上げる態度を見る限り、初音にとっては誰もが尊敬に値する人物に当てはまるのではないだろうか。
人を疑わない優しい素直さは、確かに初音の持ち味だ。しかし、それが通じる世界にここは値しない。
初音も、祐介も。
有紀寧の駒とし利用するには、あまりにも役不足である。
それではどこで、手を切るか。有紀寧は考えていた。

(かと言って、いきなり一人になるのは危険にも程がありますし。どうしましょうか……)

どうするも何も、自分から積極的に動くことが今有紀寧はできない身である。
とりあえずは、初音の帰りを待つしかないのだ。
ちらりと視線を動かせば、部屋の隅にまとめられている自分達の支給品等が入ったデイバッグが有紀寧の目に入った。
初音が散歩に出かけた際護身用で自身のバッグを持って行ったため、今そこにあるのは二つだけである。
有紀寧のものであるバッグは、容易く見分けがついた。
不格好な形でゴルフバックがはみ出ているバッグ、そこには本来の彼女の支給品であるリモコンは入っていない。
いざという時のためと、有紀寧は常にスカートのポケットにリモコンを隠し持っている。

祐介と二人無言で座るだけの、有紀寧にとっては退屈としか思えない時間は着々と積もっていく。
有紀寧が自分の身を持て余した頃だった。……それは、彼女も予想だにしなかった幸運。

「……二人、か。黙って手を上げろ、敵意はない」
「な、那須さんそれでは駄目です。そんな言い方では、怖がらせてしまいます」

65来客予報:2009/06/14(日) 00:32:13 ID:Sd7UWGMg0
声は、二人の背後である部屋の入り口が発信源であった。
一人は男性のもの。もう一人は女性。
この民家に他者が侵入してきたことすら、有紀寧も祐介も気づいていなかった。

突然の来客に二人して固まる。手を上げるも何も、あまりの驚きで二人の動作は激しく鈍くなっている。
ただひたすら、初音のことを心配していた祐介。
自分のこれからを、どうするか考えていた有紀寧。
不足の事態に対し、二人はあまりにも無力だった。
しかし。
天は二人を、見放さなかった。

「あ、あの……驚かせてしまって、すみません。
 あなた達が話されているの、少しだけ聞かせていただきました。
 よろしければ、あの。少し、わたし達ともお話していただけませんか?」

丁寧な口調で、どこかおどおどしたようなしゃべりをする少女の声に、祐介はゆっくりと首を重点に動かし声の主を確認しようとした。

「っ!」

と、少し身を捻った所で凄まじい殺気が祐介の姿を射抜いてくる。
走る緊張に胃が焼ける思いが沸き上がり、祐介は中途半端な位置で身を止めた。
それはどこか、毒電波を浴びせられた感覚によく似ているかもしれない。

「……那須さん?」
「悪い、クセなんだ」

どうやらそれは、少女の隣にいた男性に関係していたようである。
少女が嗜めるように男性の名前と思われる固有名詞を口にすると、祐介が受けていた圧迫感はするっと消えた。

66来客予報:2009/06/14(日) 00:32:40 ID:Sd7UWGMg0
「あ、あなた達、一体……」

問いかけたのは、有紀寧だった。
見ると、祐介よりも先に体勢を整えた彼女は視線をしっかりと来訪者に合わせているのが、祐介も確認できる。
相手の相貌を拝もうと、慌てて振り向いた祐介の視界にも来訪者の姿が映る。
驚愕。
目に入った人物二人に対する素直な感嘆を、祐介は表情にそのまま出す。
来客者達は、どこからどう見ても祐介と同年代である、少年少女であった。





晒された視線に、古河渚は小さく自身の肩を震わせた。
強張っていく表情を自覚するものの、渚自身ではどうすることもできない。

「大丈夫だ、普通の奴等だと思うぜ。いざという時は俺もいる」
「あ……」

小さな耳打ちが優しげに、渚の鼓膜を振動させる。
それは硬くなった渚の筋肉すらも、和らげる効果があったのかもしれない。
隣を見れば、優しく微笑む頼もしい少年の姿があり、渚も小さく頷き彼の気遣いにそっと答えた。
ぎゅっとデイバッグの肩掛け部分を握り締め、渚は少しだけ目を瞑る。

(お父さん、お母さん……)

渚のデイバッグには、彼女の両親に支給された物が形見のような形で入っていた。
母とじゃれた、ハリセン。
父が守ってくれた、拳銃。宗一に確信してもらった所、込められている弾数は四発で断層の残りも見当たらないとのことだった。
しかし、渚はそれを人に向けることだけは絶対にしないと心に決めている。

67来客予報:2009/06/14(日) 00:33:08 ID:Sd7UWGMg0
人を傷つける行為。
誰かが悲しむことが分かりきっている結末を、渚は望まない。
それを回避するためにも。

「……あんぱんっ!」

渚は心強いパートナーと共に、目的の第一歩へと歩みを進めた。





【時間:2日目午前7時30分頃】
【場所:I−6上部・民家】


長瀬祐介
【持ち物:無し】
【状態:驚愕・初音を待つ】

宮沢有紀寧
【持ち物:リモコン(5/6)】
【状態:前腕に軽症(治療済み)・強い駒を隷属させる】

以下の荷物は部屋の隅に放置
【持ち物:鋸・支給品一式】
【持ち物:ゴルフクラブ・支給品一式】

古河渚
【持ち物:支給品一式(支給武器は未だ不明)・早苗のハリセン・S&W M29(残弾4発)】
【状態:宗一と行動・殺し合いを止める】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾20/20)、支給品一式】
【状態:渚に協力】


鉈を除いた葉子の支給品一式は、病院に放置

(関連・485b・553)(B−4ルート)

68まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:19:27 ID:SytagYXA0
細い雨がしとしとと振り続ける静かな夜。
全てが終わった氷川村でただ雨が降っていた。
散っていった命を鎮める様に。
そして生き残った者達を優しく祝福するように。
しとしとと振り続けていた。

生き残ったのはたった三名。
藤田浩之、姫百合瑠璃、リサ・ヴィクセン。

数々の想いの果てにそれでも生き残った者達。
失ってしまった大切な人達の分まで生きようとする者達だった。

「さてと……こんな物でいいかしら」
「ああ……沢山死んだん……だよな」
「浩之……」

その3名は一度情報交換、手に入れた武器の確認、休憩を行う為にある民家に居た。
共に戦い抜いた仲間だったのもあり、スムーズに行う事が出来た。
そして今に至るのだが……

「本当に……沢山死んだ」

怨敵、藤林椋が死にその前にも珊瑚が死に……この短い間でまた沢山人が死んでいる。
その事に浩之は何か憑き物を落ちたようにそう重く呟いていた。
その隣に瑠璃が不安そうに浩之の手を握っている。
頼るのはもう浩之しか居ないと思っているように。

「……可笑しいよな、人殺しなのに」

浩之は自嘲しながらそう呟く。
椋や初音を殺す切っ掛けを作ったのは間違いなく浩之だろう。
そして殺す為に動いたのもまた浩之なのだ。
これで良かったんだという思いと何処か釈然とない思いが浩之の心の中で廻っていた。
瑠璃は哀しそうにでも何を言えばいいか思いつかず押し留まっているだけ。
それでもこの繋いだ手は絶対に離しやしないと強く握って。
リサは少し思案しながらやがて優しい瞳を浩之に向けながら口を開く。

69まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:21:29 ID:SytagYXA0

「いえ……可笑しくはないわ。人が死んだ事を悔やんだり、祷りを捧げる事は……誰もが持っている権利よ」

優しくまるで栞に話したように浩之にそう言った。
浩之はその言葉にまるで救われたような表情を浮かべリサを見ていた。
その浩之の表情を見ながらリサは安心したように立ち上がる。

「今はゆっくり考え休んでなさい……私はちょっと出るわ」
「何処に……?」
「叶わなかったデートの誘いを受けるのよ。直ぐそこだから大丈夫よ」
「解りました……」
「一応、回収した銃を置いておくけど……私も傍にいるから……まあ気休め程度よ」

リサはそれを伝え民家を出て行った。
用事もあったのだろうが浩之と瑠璃を2人にしたかったのだろう。
浩之はそんな事を薄々感付きながら心の中で感謝していた。
そして残されたのは瑠璃と浩之だけ。

二人は言葉は発せずただ繋いだ手を強く握るだけ。
何を話していいのかさえ戸惑ってしまう。
互いが互いを必要としているのは確かなのに。
それでも想いだけはこの手を通じて届けといいたい様に握り合う。
やがて瑠璃が震えながら口を開く。

「ひろゆき……」
「何だ?」
「ウチら……さんちゃんの仇とったんや……」
「……そうだな」

珊瑚の命を奪った悪魔、藤林椋は爆炎に飲まれ遂に死んだ。
珊瑚、環、みさき、観鈴の仇を遂にとったのだ。
やっと、やっと。
それなのに、瑠璃は体の振るえが止まらない。
繋いでない片方の手が震えるのを見ながら言う。

70まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:22:56 ID:SytagYXA0
「せやなのに……せやのに……なんでこんなに心が晴れんのやろ」
「瑠璃……」
「仇とったんや……憎いのに……憎いのに……震えがとまらへんよ……」

震えている瑠璃を思わず浩之は後ろから抱きしめる。
何も言わずに瑠璃を強く、強く。
瑠璃があの時の様に消えてしまいそうに見えたから。
瑠璃は抱きしめている浩之の腕を握りながら言葉を続けた。

「だって……誰も戻ってこうへん……さんちゃんは戻ってこうへんよ」
「瑠璃……いいから!……喋らなくていいから!」
「さんちゃん……いないんやっ……もういないんやっ……」

瑠璃は箍が外れたかのように喋り続ける。
また溢れ出した涙と一緒に、沢山、沢山の言葉を。
浩之はただ抱きしめるしかできなくて。

「ウチ……独りになってしもうた……」

その瑠璃の呟きが余りに哀しくて。寂しくて。
瑠璃にとって珊瑚はどれだけ大切なものだったかを認識せざるおえなかった。
瑠璃は言葉を吐き続ける。
珊瑚への想いを。

「さんちゃん……さんちゃん……ウチ大好きやったんよ……さんちゃんが……」
「瑠璃……」
「仇とったのに……さんちゃん戻ってこうへんのや……哀しくて……空しくてしょうないんよ」

瑠璃は想う。
哀しい、空しいと。
仇をとっても珊瑚は永久に戻ってこない。
あの二人で居た時間も二人で居た場所も戻ってこないのだ。
仇を取った達成感が過ぎ去ればただの哀しみと空しさだけ。
瑠璃にとって珊瑚居ない……そんな寂しさしかないのだ。
それは半身をもぎ取られたと言っても等しい喪失の痛み。
瑠璃はそれに涙するしかなくて。

「さんちゃん…………さんちゃん……」

ボロボロと大粒の涙を流す。
今まで抑えていた珊瑚への想いと喪失の哀しみを。
一度に吐き出していた。
それはとまる事が無くただ流れるだけ。

71まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:23:51 ID:SytagYXA0

珊瑚は戻ってこない。
瑠璃は独りなのかもしれない。

でも。

それでも新たなに手に入れた温もりがあるから。


「瑠璃……瑠璃は独りじゃない。おれがいる。おれがずっといる。何処にも居なくならないからっ……」

そう、それは同じく全てを失った藤田浩之。
浩之は大切な瑠璃を抱きしめる。
全てを失ってもまだ大切したいと思えるもの、瑠璃が居るから。
だから浩之は前に進めた。
だからこそ瑠璃を強く抱きしめる。
独りなんていって欲しくないから。
この温もりを二度と失いたくなんてないから。
ぎゅっとぎゅっと。
瑠璃はここにいるよ、おれはここにいるよと瑠璃自身に確かめさせるように。

「ひろゆき……ウチな、さっきから想ってたん……」
「何だ……?」
「ウチ……嫌な子や……」
「……え?」
「ひろゆきを大切やと思ってるのに……一瞬、一瞬やけど……さんちゃんの代わりと想ったんやよ……最悪や……ホンマ最悪やっ……」

瑠璃の嗚咽が響く。
浩之の事を大切だと思っていたのに。
それなのに珊瑚の代わりと思ってしまった。
依存できる代わりの存在して。
互いが生き抜くために依存の代わりの存在と想ってしまった。
それを再自覚した瑠璃はその自身にショックを受け哀しみに咽び泣いていた。

それは否定できないと浩之自身も思ってしまう。
全てを失い瑠璃しかいない自分。
そしてその瑠璃に依存してまっている自分がいる。
それは紛れも無い事実。
だけど、それでも浩之は思い誓う。
あの時と気持ちは変らない。
だから、それを瑠璃に伝える。
想いを言葉に代えて。

72まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:24:37 ID:SytagYXA0
「最悪なんかじゃない……おれもそう想っていたのもある」
「ひろゆき……」
「でもっ」
「でも……?」
「今は……代わりでもいい。依存できるかわりでもいい」
「……せやけど……それは」

瑠璃が哀しげに口篭る。
誰かの代わりの依存はただの停滞でしかない。
想いはその代わりになどなくただの縋り合いでしかにから。
そして何時か破滅するしかないのだ。
そんな哀しいもの。
でも、浩之の言葉には続きがあった。

「それでもおれは瑠璃が大好きなんだ、これは変らない」
「……ひろゆき」
「瑠璃もそうなんだろう?」
「……せや。ウチも浩之が大好き」

互いが本当に大好きという気持ちがあるなら。
あるというのなら。

もう、大丈夫。

「なら……生きようぜ。その依存が、代わりが、明日には、未来にはかけがえないただの一つの想いになるように」
「ひろゆき……!」
「俺達は――――生きてる。まだ生きているんだ。明日を未来を………………生きれる!」

生きているんだから。
色々な人の想いを沢山背負って。
今は二人の関係はただの依存かもしれない。ただの縋り合いかもしれない。
それでも……彼らは生きている。
明日を、未来を生き抜く事ができるのだ。
生きている限り、ずっとずっとその先まで見る事ができるのだから。
だからこそその依存の関係を変える事が出来る。
未来には互いを代わりじゃない唯一つの関係になれるように。

この大好きという気持ちと。
ずっと生きるという心持さえあれば。

明日には。
未来には。


変える事が出来る。

きっと、きっと。

そう思えるから。

73まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:27:18 ID:SytagYXA0
だから

「瑠璃……大好きだ……一緒にずっと未来まで生きよう」
「ひろゆき……大好き……一緒にずっと未来まで生きような」


生きよう。


二人はそっと唇を重なる。

この想いをそっと伝えて。

ずっとずっと生きる為に。


さあ―――行こう。


―――まだ見ぬ明日へ。


【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×5:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。英二の元へ。全身に爪傷、疲労大】

姫百合瑠璃
【所持品2:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。るりとずっといきる。守腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】


→B-10 1044

74第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:09:36 ID:mI8fKiE60
「……面白くないですね」

 例のモニターを眺めながら、デイビッド・サリンジャーはさも不快そうに息を吐き出す。
 それもそのはず、殺し合いを煽るはずだった放送はまるで意味を為さず、それどころか積極的殺人肯定派は全員が死亡。
 現状は15人。しかもやたらとグループを作り、あまつさえ連携まで取れだしている。

 サリンジャーは殺し合いが進まなかったことに腹を立てているのではない。自らの思い通りにいかなかった事実が腹立たしかった。
 神の掌で弄んでいるはずが、こちらを見据えて刃を突きたてようと目論んでいる。そのように思えたのだ。
 黄色い猿め、と内心に罵る。いつも自分を阻害し、否定しようとしてくる。

 だが奴らは現状、こちらに対する対抗手段を持ち合わせてはいない。アハトノインが損傷したことには内心焦りを覚えたが、
 右手が喪失しただけに過ぎず、相手側は寧ろ船という脱出手段を失ったのだ。
 これで首輪が解除できようができまいが、絶海に包囲され、身動きできなくなったも同然。
 もはやこちら側がじっくりと料理すればいいだけの話なのだ。

 アハトノインに損傷を負わせた事実は寧ろ褒め称えてやってもいい。人間のしぶとさを多少見誤っていた。
 いいデータが取れた、とこれだけに関してはサリンジャーも満足だった。
 02は現在帰還して損傷した箇所の修理にあたっている。
 ただ一朝一夕にパーツの交換が行えるはずもなく、整備には朝までかかりそうだというのが現状だった。

 朝か、とサリンジャーは蛍光色で光を帯びた腕時計を見る。デジタル式のそれはここに来てから三日が経ったことを告げている。
 日本政府、米国はそろそろ異常に気付いたころなのだろうか。日本各地で突如として起こった拉致事件。
 そして出現した謎の島。全てを繋ぎ合わせるには到底至っていないだろうが、そう悠長にできるほど余裕があるわけでもない。
 セレモニーはこちらから派手に行う必要があるからだ。神の軍隊による世界への宣戦布告を。

「とりあえず、今日中には決着をつけたほうが良さそうですね……楽しくなくなってきましたし」

 しかしこちらの思い通りにいかないというのはどうにもサリンジャーには癪だった。
 黄色い猿風情に噛み付かれたという事実そのものが嫌悪感を催すのだ。

75第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:09:49 ID:mI8fKiE60
 サリンジャーは決してシオニスト(差別主義者)ではない。
 あくまでも己が理論を否定し、断固として受け入れようとしない姿勢が気に入らないのだ。
 サリンジャーには自らが優秀だという自負がある。誰もが開発できなかった戦闘用ロボットを作り上げたという事実がある。
 にもかかわらず日本人は、いや世界は優秀であることを受け入れず寧ろ疎んじさえした。
 その結果がしがない会社の平プログラマーであり、ロボットは兵器であるべしという論文を真っ向から否定されたということだった。

 能力のある者が省みられないという現実。それがただ許せず、復讐の機会を目論んでいた。
 間違っているのは自分ではない、能力を疎んじた世界の方なのだと。

「時間だ。放送しろ」

 粘りつくような憎悪を含ませながら、サリンジャーはマイクの前に立っていたアハトノインに伝えた。
 怨恨によって研がれ、冷たく輝く瞳はモニターを凝視したままだった。

     *     *     *

「皆様、いかがお過ごしでしょうか。日付も変わりましたので、定時放送を行いたいと思います。
 親しい方や、大切な方を亡くされた方も大勢いらっしゃることでしょう。
 ですがくじけないでください。あなた方はここまで生きてこられたのです。
 終わりはすぐ、そこまで来ているのです。ですからどうか、光輝を目指して、諦めないでください。
 ――それでは、名前を発表致します。

76第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:10:10 ID:mI8fKiE60
4 天沢郁未
14 緒方英二 
21 柏木初音 
24 神尾晴子 
32 霧島聖
39 向坂環 
45 小牧愛佳 
48 笹森花梨 
54 篠塚弥生 
69 遠野美凪 
70 十波由真 
78 七瀬彰 
79 七瀬留美 
85 姫百合珊瑚 
91 藤林椋 
100 美坂栞 
104 水瀬名雪 
108 宮沢有紀寧
111 柳川祐也 

 以上、19名となります。次回の放送は朝とさせていただきます。
 それでは皆様、ごきげんよう。
 そして、神のご加護があらんことを」






【場所:高天原内部】
【時間:三日目:00:00】

デイビッド・サリンジャー
【状態:朝まで待機】

→B-10

77it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:18:06 ID:qsNVNyN.0
 
「……ねえ、ところでさあ」
「何だ」

まるで一ミリたりとも視線を動かすまいと固く神に誓ってでもいるかのようにじっと『それ』を
見つめながら問いかける志保に、どんよりとした表情で国崎が答える。

「まさかとは思うけど……あれがパンっていうんじゃないわよね……」
「俺に聞くな……」

言いながら脂汗を拭った国崎の視線もまた、志保と同じくその物体に吸い寄せられている。
興味や好奇心を掴んで離さない、というわけでは決してない。
むしろ直視する時間に反比例して精神の許容量が音を立てて削られている気すらする。
だが、目を逸らすわけにはいかない。
本能が命じていた。
絶対に気を緩めるな、油断すれば待つのは一片の情け容赦もない無惨な未来。
ここは野生の戦場だ、敵は眼前、我らは哀れな被捕食者だ。
目を逸らさず、刺激せず、一歩づつ、否、半歩づつ距離を取れ。
音を立てるな立てれば死ぬぞ。
牙を剥き飛びかかってこられたら我らに抵抗の術はない。
背を向けるな、しかし戦うな、我らの為すべきはこの場を生き延びてあれという存在の危険性を
叩き込んだ遺伝子を子々孫々に残すことだ。

そんなはずはない、と。
理性の一部は告げている。
うららかな午後のリビングはいつから戦場になったのだ。
野生などどこに存在する。
目の前にあるのはパンだ。小麦粉を主原料とした食物の一種だ。
少なくとも制作者はそう呼称している代物だ。
目を逸らしても牙は剥かない襲い掛からない。
逃げ出す必要がどこにある。
そう告げてはいるが、その声はひどく弱々しい。
思考の国会議事堂に逃げ込んだ理性の保守本流が拡声器で告げる声は遠く掠れて聞き取りづらい。
残りの理性はといえば、中道右派から改革派まで大連立を組んでシュプレヒコールを上げている。
馬鹿にするな、我らは理性だ。
目の前の事実を認めろ現実認識を歪めるな。
パンという存在は、とりあえず食物に分類されるパンというものは、ふしゅるふしゅると音を立てたりしない。
ぶよぶよと不定形に揺れ、あるいは時折どろりと何かの汁をこぼしながらぐねぐねと皿の上を這い回らない。
青く、黒く、赤く白く桃色であったり紫色をしていたり、それらの混じり合った玉虫色の内部から
自ら淡く光を放っていたりはしない。
牙はない触手もないぎょろりぎょろりと辺りを見回す大きな濁った一つ目など存在しない。
そういう怖気の立つような様々な属性がくっ付いている代物を、我らは決してパンと呼ばない。
などと肩を組んで大合唱する過半数の理性たちは、よく見ればしかし手に手に酒瓶を持っている。
顔を赤らめアルコールに逃避しながらアナーキズムに酔う理性は、自らの存在意義を半ばから放棄している。
常識の枠外からの侵略者に対して、理性は実に無力であった。

78it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:18:33 ID:qsNVNyN.0
「くそ……なんで俺がこんな目に……」
「あのさ……」

そんな内心の葛藤に頭を抱えながら、国崎は『それ』をどんよりと睨んでいる。
くい、と国崎のシャツの裾を引く志保の指先もじっとりと嫌な汗で湿っていた。

「もし、もしかしたらの話よ」
「何だ」
「まだ目を覚ましてなかったら、あたしもアレを……」

ごくり、と恐怖に染まった表情で唾を飲み込む志保。

「……ちっ、その手があったか」
「殺す気!?」
「生き返らせるんだろう」
「できるかっ!」
「ぐぁっ!? 俺が言ったわけじゃ―――」
「……できますよ、きっと」

すぱん、と叩かれた頭を抑えながら言い返そうとした国崎の言葉を、穏やかな声が遮る。
振り返ればそこにはいつの間に戻ってきたのか、古河渚の姿があった。
その手には大きな紙袋を持っている。

「見たことも聞いたこともないようなもの、皆さんが頑張って探し出して、それを舞さんが持って帰ってきて。
 そうやってできたパンですから。たくさんの気持ちとか、願いとか、そういうの、きっと篭ってます。
 なら、起きてほしいなって思いませんか。魔法みたいなこと」

訥々と告げるその顔には、静かな笑みが浮かんでいる。
それは眼前の気弱で小柄な少女が、しかし確かに古河早苗の血を引いていると思わせる、穏やかな静謐である。

「……」
「……」
「わ、わたし、もしかして何か、すごく偉そうなことを言っちゃいましたか……!?」

気圧されるように言葉を失った国崎と志保を前に、少女が急に頬を紅潮させる。
慌てたように手を振って、言葉を継ぐ。

79it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:19:14 ID:qsNVNyN.0
「そ、それに、お母さん言ってました!」
「早苗さんが……?」

手にした紙袋が、がさがさと音を立てる。

「わたしたちは、食べるためにパンを焼くんだって! えっと……だ、だから!
 もし何も起きなくたって、そのときはわたしたちで食べちゃえばいいんです! これ!」

びし、と指さした先に、うぞうぞと蠢くこの世の怪奇。

「……」
「……」
「あ、そうでした。何をしに来たんだか、すっかり忘れてました」

文字通りの意味で絶句し、蒼白な顔で己を見つめる二人の様子には気付くこともなく、
渚がぽんと小さな手を打つ。

「これ、いつまでも出しっ放しにしておいたらダメなんだそうです。乾いちゃいます」

ひょい、と無造作に手を伸ばし、きしゃあと奇妙な威嚇音を立てるのを無視して
充血した一つ目の辺りをがしりと掴む。

「ひ……!」
「お、おい……」

持ち上げた拍子に、自動車から漏れた油のように七色に光を反射する黒い汁が垂れる。
ずるりと暴れる触手が指に巻きつくのをまるで意に介さず、渚が表情も変えずにそのおぞましい物体を
紙袋に放り込み、口を閉じた。

「……? どうかしましたか?」
「お前……いや、何でもない……」
「い、意外と根性あるわね……」

がさがさと不気味な音を立てる紙袋を手にしながら首を傾げる渚。

「お母さんの準備が終わるまで、くつろいでて下さいね」
「あ、ああ……」
「うん……」

かける言葉を見失った二人が、沈黙のままにその背を見送る。
扉の閉まる音と同時、顔を見合わせると、ほぼ同時に深い溜息をつき、
疲れきったように椅子に座り込んだ。

80it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:19:52 ID:qsNVNyN.0
「しかし……」
「ねえ……」
「あれが何であるかはさておくとして」

肩をすくめた国崎が、テーブルの端に置かれていたカップを手に取って呟く。

「死人が生き返るだの、んな非常識なことが―――」

つい今しがたまで悪夢の産物に支配されていたテーブルの中央には、いやらしく粘つく黒い汁が
点々と飛び散っている。
それに眉を顰めながら冷めた紅茶を啜った、その瞬間。

「ぐああぁぁぁっ!?」
「な、何よ、また!? 今度はどうしたってのよ!?」

突然奇声を上げて椅子から転げ落ちた国崎が、そのままゴロゴロと床をのた打ち回る。
取り落とされたカップが床に落ち、重い音を立てた。

「うぉぉーっ! 口が! 俺の口が!」
「く、口が!?」
「口の中が!」
「口の中が……!?」
「か、痒い! 熱い! かゆ熱ぃー!」
「……。微妙な症状ね……」

びたんびたんと水揚げされた魚のようにのたうつ国崎が酸素を求めるように突き出した舌は
しかし明らかに赤く腫れている。

「何だ、何を入れやがった!? 毒か! 毒なのかっ!?」
「ちょ、あんた、毒って……ああ、これっ!」

言われ、国崎の取り落としたカップに目をやった志保が表情を凍らせる。
中身はすっかり床の上にぶち撒けられていたが、陶器のカップ自体は小さく欠けただけで
粉々に割れることもなく転がっている。
恐る恐る拾い上げた志保がたった今、目にしたものを確かめるように中を覗き込む。

81it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:20:14 ID:qsNVNyN.0
「……やっぱり」
「な、何だ!? やはり、毒だったのか……!?」
「いいえ、違うわ。……自分で見てみなさいよ」

床に倒れたまま腫れ上がった舌を突き出し、息も絶え絶えといった風情の国崎の鼻先に
志保がカップを差し出した。
それを目にして、国崎が思わず呻き声を漏らす。

「……! 何……だと……」
「理解したようね……」

悲しげに首を振る志保が、手にしたカップにもう一度目をやる。
その小さく欠けた飲み口にはくっきりと、どす黒く、しかし不気味な七色に照り輝く痕が付着していた。

「アレの……汁が……」
「そう、一滴……紅茶の中に撥ねてたのよ……」
「くそ……そうとも知らず、俺は……」
「可哀相だけどあんた、もう助からないかもね……」

目を伏せた志保が、

「……ん?」

ちょいちょい、と奇妙な感触に振り返る。
視界を埋めていたのは見事な白銀の体毛である。

「あら、あんた……えーと、カワ……川なんとか」
「……川澄舞」

ぼそりと答えた白銀の主が、志保の制服の裾を摘んでいた。

82it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:20:44 ID:qsNVNyN.0
「そうそう、川澄。川澄さんね。で、その川澄さんが何か志保ちゃんにご用?」
「……」
「ちょ、ちょっと……?」

ずい、と志保を押し退けるようにして身を乗り出した舞が、無言のまま蒼い顔の国崎を見下ろす。

「というか、お前ずっといたのか……」
「……」
「まるで気付かなかっ……もがッ!?」

国崎の言葉を遮ったのは、物理的な障害である。
舞がその手を、否、その手に握り締めた何かを国崎の赤く腫れた口腔へと捻じ込んでいた。

「あんた、何を……!」
「……」

慌てて止めに入った志保が舞の腕を掴むが、時既に遅し。
その手にしていた何かは、国崎の力なく開かれた口の中へと放り込まれている。
ただ、ぱらぱらと白い粉のような何かが、舞の手から零れ落ちるだけだった。

「な、何だこりゃ―――ぐおおおっ!」
「……! ど、どうしたの!? まさか……更に毒を……!?」

途端、口元を押さえて突っ伏した国崎を見て志保が戦慄する。
横目で睨んだ舞の表情は変わらない。
白銀の長髪の向こうに見える瞳の涼やかさは、いまや冷徹に実験動物を見つめる
厳格な研究者のそれであるかのように志保の目に映る。

「あ、あんた……!」

言いかけたときである。

「……、」
「何!? 何が言いたいの!?」

痙攣する身体を抱き締めるように蹲った国崎が、何事かを呟いたように聞こえて、
志保が耳を寄せる。

83it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:21:19 ID:qsNVNyN.0
「……、し……」
「し……?」
「……し……!」
「うん、うん、それから!?」

一言一句を聞き漏らすまいと、志保が精神を研ぎ澄ませる。

「し、し……」
「……」
「……しょっぺえええっ!」
「紛らわしいわっ!」

思わず全力で引っぱたいた。

「うっさいのよあんた! もう静かに死になさいよ!」
「お前、大概ムチャクチャ言うな!」
「うわ、汚なっ」

叫び返した国崎の口から、何かが吹き出す。
舞に捻じ込まれた、それは白い粉のようなもの。

「これ……もしかして、塩?」

頬に飛んだそれを指先に取り、しげしげと眺める。
舐めてみる蛮勇はない。
しかしそれは、普段から食卓の上で見慣れた結晶……食塩のそれであるように、志保には思えた。

「ああ……だからそう言ってるだろ……」
「あんたねえ……!」
「畜生……口の中がかゆ熱しょっぺえ……ん?」

84it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:21:36 ID:qsNVNyN.0
もう一発いってみようか、と憤りに任せて平手を振り上げた志保の前で、
国崎が目をしばたたかせる。

「死ぬほど塩辛いが……痒くも、熱くもない……?」
「え……?」

目の端に涙が滲んだままの国崎を見れば、果たして真っ赤に膨れていたはずの唇からも
その腫れが引きつつあるように感じられる。

「どうして……」

呟いた志保の背後に、静かな気配。
向ける視線の先に、白銀の少女が立っている。
その手には澄んだ水をなみなみと湛えたグラス。
す、とグラスを国崎に差し出した舞の表情には、ある種の確信が浮かんでいた。

「あんた、あの塩……もしかして」
「……消毒」

こくりと頷く。

「そういうことは、まず口で言えっ!」

塩を吐き出し、瞬く間に水を飲み干した国崎が舞に食って掛かろうとする。
リビングに穏やかな声が届いたのは、まさにその瞬間であった。

「皆さーん、準備が終わりましたよー」

古河早苗の声が、奇跡の開幕を告げていた。


***

85it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:13 ID:qsNVNyN.0
 
「しかし、ただの一滴であの惨劇だぞ……本当に食べさせていいのか……?」
「被害者が言うと説得力が違うわね……」

遮光性のカーテンを閉め切った薄暗い診察室の中に、ぼそぼそと囁き声が響く。
白いパイプベッドを囲む影は五つ。
いまだ目を覚まさぬ春原陽平を除く、沖木島診療所に集った全ての人間が一同に会していた。
中心にいるのは古河早苗である。
その手にした紙袋からは時折がさごそと不気味な音が聞こえてくる。

「そもそも食べさせるったって……なあ」
「そうね……相手があれじゃあ、ねえ」

彼らの囲むベッドの上には、横たわる一つの躯がある。
川澄舞の持ち込んだ、その少女の名を吉岡チエという。
失血死とみられるその死に貌は暗い室内にぼんやりと浮き上がるように白い。
苦痛に歪むことのない、眠るように目を閉じた無表情がひどく、冷たかった。

「ただ寝てるのとはワケが違うぞ……」
「しっ、……始まります」

尚もこぼす国崎の言葉を遮ったのは古河渚である。
がさり、と音がした。
早苗が、口を開いた紙袋に手を入れていた。
ぽう、と淡い光が漏れる。
早苗の手に掴まれ、引きずり出された怪奇の結晶がほんのりと光を放ち、薄暗い室内を照らしていた。

「ん……?」

何かに気付いたように国崎が声を漏らす。

「この光の、色……」

先刻、陽光の下で見たそれは白く輝いているように思えた。
しかし闇の中、それの放つ光だけを見れば、そこにあるのは白の一色ではない。
限りなく澄んだ純白の海の中に、ただ一滴の異彩が混じっている。
それは、淡い淡い、空の青。

86it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:28 ID:qsNVNyN.0
「これ……」
「……」

呟いた志保と、ほんの僅か表情を険しくした舞が見つめる、その目の前で、
ぞろぞろと蠢くそれが、少しづつ、少しづつ光を強めていく。
澄み渡る白から、透き通るような青へ。
輝きを増すにつれ、その光は彩を変えていく。

「この……、感じ……?」

煌く青い光が、小さな世界を、包み込んでいく。
それは吉岡チエを照らし、古河早苗と古河渚を包み、川澄舞の白銀の毛皮を輝かせる。
国崎往人が目を覆い、そして長岡志保は一つの記憶を呼び起こす。

「あの時と……同じ……!」

神塚山の麓、小さな社の境内で。
弾けた青が、世界を割り裂き、長岡志保に、流し込む。
痛みと、混乱と、そうして届けた小さな祈りの、記憶。

「また、何か……、拡が、って……!」

ぬめりと歪んだ視界が、意識を刈り取ろうとする。
強くあろうと、その先にある願いを、祈りを、意思を届けようと、決意したはずだった。
しかし、踏ん張ろうとした足に力が、入らない。
膝が、震えていた。
心が克服したはずの恐怖を、身体が揺り起こそうとしていた。
視界は歪む。
力が抜ける。
身体が、どこにあるのか曖昧になっていく。
心が、何を支えればいいのか分からなくなっていく。
揺らぐ記憶が、次第に黒く、腐って糸を引く絵の具で塗り替えられていく。
長い、絶望的に長い悪夢だけが、そこにあったように、感じられた。
正気と狂気の狭間を遥かに飛び越えた、息もできない無間の地獄。
そんなものに、もう一度浸らねばならないのか。
癒えきらぬ疲労と苦痛への恐怖とが志保の足元を掬い、抵抗する力を奪っていく。
ぐらり、と。
ついに重力に逆らえず上体が傾ぐのを、志保はどこか、他人事のように感じていた。
倒れる、と。
支えきれない、と。
諦念が意思を塗り潰そうとした、その小さな体を、

「―――」

がしりと掴む、手があった。
思わず目をやり、歪む視界は影しか映さず、しかし、声は聞こえた。

「今度は、支えてやる」

国崎往人の、声だった。


刹那。
世界が、変わる。



******

87it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:51 ID:qsNVNyN.0
 
 
そこには何も、残らない。


それは、ただの一言、ただ一つの想いを伝えるだけの、束の間の夢物語だ。


それを奇跡と、人は呼ぶ。



***

88it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:23:29 ID:qsNVNyN.0
 
 
古河渚が目にしたのは、笑顔である。
光の中だった。
薄暗い診察室はどこにも見えない。
小さな瓶の沢山置かれた薬棚も、乱雑に書類や本の散らばったデスクも、
銀色の舌圧子が幾つも立てられたグラスも、光の中に溶けたように見当たらない。

ふわふわと、浮き上がるような感覚が足元から伝わってくる。
光の海にたゆたうように立つ渚は、しかしそんな情景を気にかけることもない。
ただ、目の前に突然現れた影に心を奪われ、言葉もなく立ち尽くしている。

「―――」

影が、笑う。
慣れ親しんだ笑みに、その力強さに浮かぶ涙を抑えきれぬまま、その名を呼んだ。

「お父さん……!」

古河秋生。
渚が父と呼んだその影は、言葉を返すこともなく、ただ静かに笑んでいる。
その目に浮かぶ儚い色に、古河渚は気付かない。
ただ父に、我と我が身と、そして家族とを護るその広い胸に飛び込まんと、駆け出そうとする。

「お父さん、お父さん、お父さ……!」

足元がふわふわとして走りづらい。
躓きそうになりながら歩を踏み出す渚の、今まさに駆け出そうとしたその腕が、

「え……!?」

ぐ、と引き寄せられていた。
強い、力。
思わずバランスを崩し、光の海に転びそうになる渚を、やわらかいものが受け止める。

89it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:23:54 ID:qsNVNyN.0
「……お母さん……?」

見上げれば、古河早苗がそこにいた。
渚を抱きしめるように腕の中に包んだ早苗が、無言のまま、首を振る。

「お母さん! お父さんが来てくれましたっ! これで皆でお家に帰れますっ!」
「……」

言葉はない。
渚を包む腕に、ほんの僅か、力が込められる。

「お母さん! ほら、お父さんですっ! お帰りなさいをしないと!」
「……」
「お母、さん……?」

間近に見上げた母の瞳は、しかしその奥に秘めた色を垣間見せることもなく、
薄暮の静謐だけを浮かべている。
じっと、光の中に立つ秋生だけを真っ直ぐに見つめながら、早苗はただそっと、
渚を抱きしめて立っている。

「―――」

母の瞳が意味するところを、古河渚は理解できずにいた。
その腕に抱きしめられたまま、ただ温もりとやわらかさだけを感じながら、
言葉を差し挟むこともできず、ぼんやりと眼前に立つ父を見つめていた。
眠りに落ちる寸前のような心地よさが、渚の全身に行き渡っていく。

「……」

次第に薄れていく光が、落ちかけた瞼の重さによるものか、それとも光そのものが
本当に小さく消えていくものなのか。
微睡みが、思考と弛緩との境界をかき消していく。

消えていく。
淡い光が、
浮き上がるような感覚が、
そうして最後に父の笑顔が、
消えていく。

最後まで、最後まで。
古河秋生は静かに、しかし力強く、笑っていた。



***

90it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:24:30 ID:qsNVNyN.0
 
 
光の中に、立っていた。

「 く に さ き ゆ き と ー ! 」
「うぉっ!?」

背後から響く元気のいい声に、反射的に身を躱しながら振り返る。
捻った身体のすぐ脇を、鉄砲玉のように駆け抜けていく姿は―――そこにない。
代わりに佇むのは、どこか困ったような、ばつの悪そうな苦笑いを浮かべた少女である。

「久しぶり」
「みち、る……?」

見上げてくる少女には、顔をくしゅりと歪めるような満面の笑みも、或いは稚気に満ちた怒りも、
常に浮かんでいたはずのそのどちらの表情もない。
咎めるような、それでいながらどこか甘えるような苦笑は幼い少女には不釣合いで、
しかし国崎は違和感を無視して少女に駆け寄る。

「お前、今までどこに……いやそんなことはいい、無事だったんだな!
 遠野は、遠野は一緒じゃないのか!?」
「……ここまで、残ったんだねえ」

手を体の後ろで組んだまま、くるりと少女が踵を返す。
苦笑が隠れ、黄昏色の声音だけが残った。

「みちる……?」
「どうしよっかなー。こんなやつ、たよりにならないしなー」
「おい……!」

見えない石を蹴るように足をぶらぶらさせながら、組んだ手の指をせわしなく動かしながら、
少女は国崎を無視するように何事かを呟いている。
その声が何故か、幼子が震える口元を引き結んで張り詰めた心の糸の上を歩いているように、
今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えているように聞こえて、国崎が少女へ手を伸ばす。

「おい、みち―――」
「うんっ!」

振り向かせようと、肩に手を掛けようとした瞬間、少女が大きく頷く。
思わず、手を引いた。

「いいよ、って。きっと、ゆってもいいよって。美凪はきっと、ゆるしてくれるから。
 だから、国崎往人に、おねがいしようかな。……うん、そうしよう」
「お前、何を言って―――、」

91it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:06 ID:qsNVNyN.0
何度も何度も、誰かに言い聞かせるように頷いた少女が、くるりと身体ごと振り向く。
泣き顔の形に歪んだ目の端に浮かんだ涙を勢いよく拭って、無理やりに笑うまで、ほんの一瞬。
言葉を失った国崎に、少女がびしり、と指を突きつける。

「―――ここまで来い、国崎往人っ!」

高らかに言い放つそれは、命令のかたちをした、願いである。

「わたしのところまで! 今すぐ! 十数えるうちに来なかったら承知しないぞ!」

笑みに隠した懇願と、涙に融かした哀願と、声音に秘めた切願と。

「わかったか、へんたい誘拐魔!」

だから、国崎往人はそういうものを受け止めて、取り落とさぬよう顔を顰めて。
いつも通りの仏頂面で、難儀そうに天を仰いで、深い溜息をついて、

「……気が向いたらな」

それだけを、返す。

「うん」

ひどい面倒事を押し付けられたような、ぶっきらぼうに響く国崎の声音にも、
少女は怒ることも、落胆することもなく、ただ頷く。
無理やりに作られた仮面の笑みの中、ほんの僅か滲んだのは、少女の年相応の、
本当の笑顔だっただろうか。
くるりと再び踵を返したその表情は、もう見えない。

「……きっと、きっとだからね」
「……」

小さく手を振ったその後ろ姿が、次第に薄れて消えていく。

「じゃね。ばいばい」

その声を最後に。
少女の姿は、もう見えない。

92it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:30 ID:qsNVNyN.0
「―――」

小さく、細く、疲れたように息をついた国崎が、身を屈める。
光の中、少女の消えた場所に落ちているもの。

「……お前、もう動かないんじゃなかったのか」

それは掌に収まるほどの、みすぼらしく薄汚れた何か。
国崎往人と共に長い旅を終えたはずの、小さな相棒。

「―――」

それは、言葉を話さない。
縫い付けられた口は開かない。
汚れて黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの布切れと、ボタンや毛糸の顔立ちと。
そういうもので、できている。

「……ああ、分かってる」

人形の指さす先には、窓がある。
光の中に浮かんだ窓は、診察室のものによく似ている。
似ているが、違った。

「あれ、か……」

窓の外には、森の緑と蒼穹と、そうしてそれらを繋ぐ、黒い糸が見えている。
診療所まで歩く最中、嫌でも目に付いたそれは島の南東端に突如現れた、異様な建造物だった。
北向きの窓から見えるはずのないそれを指さす人形は、つまりそういうことなのだろうと頷く。

「あれ登らなきゃならんのか……面倒だな。やめちまうか」
「―――」

人形は言葉を話さない。
しかし黒いボタンの瞳はじっと、国崎を見つめている。

「……」
「―――」
「……冗談だ」

何度目かも分からない深い溜息をついて、国崎が肩をすくめる。

「行ってやるさ。それがこの旅の、本当の終わりならな」

言って頷いた、その途端。
それを聞いて、まるで安心したかのように。
ぱたり、と小さな音がした。

「……」

手を、伸ばす。
拾い上げて、埃を払った。
黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの小さな相棒は、もう動かない。
もう二度と、動くことはなかった。


「……長い間、ご苦労さん」



***

93it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:52 ID:qsNVNyN.0
 
 
どこまでも拡がる暗闇の中に、一筋の光が射している。
浮き上がるように照らし出されているのは白く簡素なベッドである。
小さな寝台の他には何もない、書き割りの空間。
そんな子供だましの舞台装置のようなベッドの傍らに、川澄舞は立っていた。
舞の覗き込む、どこからか射す光に照らされて目映いほどの白さを際立たせる寝台の上には、
一つの骸が横たわっている。

それがたとえ、二度と開かぬはずの眼をゆっくりと瞬かせ、やがてしっかりと見開いたとして、
散大しきった瞳孔のどんよりとした昏さは黄泉路にある者のそれである。
或いは血の通わぬ青黒い唇を震わせるようにして何事かを囁いたとして、
それは冥府に惑う亡者のおぞましい聲である。
蘇る、ということの醜悪さを前にして、しかし川澄舞は表情を変えない。
静かに、ただじっとその瞳を見返し、囁きを聞き届けようと耳を澄ましていた。

「……とび、ら……、」

眼前に横たわるそれは、決して生者ではない。
その手を取り、彼岸からの帰還を喜び合う道理もない。
だが、と。
川澄舞は、思考にすら届かぬ、その在り方を以て断言する。
それが、なんだ。
生者とは死んでいないものだ。
死者とは生きていないものだ。
ただ、それだけのものだ。
喪われたことを悔やむなら、抗えばいい。
生死の境とはこの世の理の根幹であり、ただそれだけのものだ。
この世すべてに抗うならば覆る、その程度の境でしかない。
それをして川澄舞を押し留めることなどかなわない。

「……せ……り、か……ひら……く……」

94it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:03 ID:qsNVNyN.0
故に眼前の生にも死にも意味はなく、吉岡チエという命が喪われたことを、川澄舞は悔やまない。
それは自信の取り戻すべき力ではなく、護るべき、奪還すべき約束の地ではなく、
ならばそこにあるのはただ、果たすべき約定の果たされた、その結果でしかない。
吉岡チエという骸を見つめる舞の瞳は、だから何も映していないかのように揺ぎ無く冷ややかで、
その思考、その在り方が既に此岸に生きるもののそれではないことを自覚しないまま、
川澄舞という異形はじっと亡者の聲を聞いている。

「……あり……が……と……」

砂埃を散らしながら乾いた荒野を吹き抜ける風のように掠れた聲が最後にそう呟き、
やがて震える口を閉じ、どろりと重い瞼を閉じて、前触れもなく光が消えても、
川澄舞はただゆっくりと一つ、瞬きをしただけだった。
その瞳が見つめる先には、真黒い闇だけが残っている。
その先にあったはずの白い寝台は、もう見えない。



***

95it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:18 ID:qsNVNyN.0
 
 
そうして、夢は醒める。


ただの一言、ただの一つ、想いを伝えて、束の間の奇跡は、その幕を下ろす。


残されたものを、人という。



******

96it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:54 ID:qsNVNyN.0
 
 
光が消え、目を開ければそこは、薄暗い診察室の中だった。
時が止まったかのような静けさが、そこにあった。
五人の囲んだ白い寝台の上には、目を閉じた吉岡チエの骸が、変わらず横たわっている。
青白い瞼を開けることもなく、起き上がることも、止まった心臓が再び鼓動を刻み出して
その全身に熱い血潮を送り込むことも、なかった。
骸は骸として、そこにある。
それは光の弾ける前と、何一つとして変わらない光景のように、見えた。
ただ古河早苗の手から落ちたらしき怪奇の産物が、居心地悪そうにもぞもぞと床の上を
這い回ろうとしているのだけが、幾ばくかの時間の経過を示しているようだった。

「今の……は……」

ぼんやりと重い頭を振って呟いた、長岡志保の言葉がきっかけであったかのように、
時計の針が動き出す。
弾かれたように振り向いたのは古河渚である。

「お母さん! 今の……!」
「夢……だったんでしょうか……」

珍しく噛みつかんばかりの勢いで迫る渚に、しかし早苗の反応は冴えない。
こめかみを押さえながら歯切れの悪い答えを返す母に渚が食ってかかる。

「そんなことないです! お父さん、いました! だけど消えちゃって……!
 あれ、どういうことでしょうっ!?」
「ごめんなさい、渚……私にも、よく分かりません……」

嘘だ、とそのやり取りを眺めていた志保は直感する。
古河親子が何を見たのかは分からない。
結局のところ、志保には声や想いや、自身を通り抜けていくそういうものが何であるのか、
どういったものであるのかを理解することはできなかった。
それは色であり、音であり、光であり、それらすべての断片だった。
砂粒ほどのピースを繋ぎ合わせて意味を見出すことなどかなわない。
乱れる鼓動も、いまだ収まらぬ荒い呼吸も、胃が引っくり返りそうな嘔吐感も、
それを解明する鍵にはならなかった。
しかしそれでも、と志保は思う。
その何かを受け取った者たちを眺めるだけで分かることも、中にはある。
伏せた視線を落ち着かない様子で細かく動かしながら言いよどむ早苗の挙動不審は一目瞭然であった。
あれ程に分かりやすい嘘はそうあるまい。
渚が見たという父の姿、それをはぐらかしているのはつまり、その男について早苗は
何かを知っているということだ。
或いは、その身に何が起こったのかを。

97it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:27:31 ID:qsNVNyN.0
「お母さん、あれはきっと夢なんかじゃありませんっ」
「……」

それを隠す理由は、分からない。
だが察することは、できた。
それはきっと、知ってしまえば渚自身が深く傷つく、そういうことだ。

「ねえ、ちょっとあんた……」

困り果てた様子の早苗に助け舟を出そうとした、そのときである。
きい、と。
錆びた蝶番の立てる軋んだ音が、薄暗い診察室に響いていた。

「なあ、誰かいるの……?」

続いて聞こえてきたのはどこか間の抜けた、眠たげな声。
もうすっかり耳に馴染んだ、その脱力感に満ちた声に、志保が思わず振り向く。

「……! あんた……!?」
「あれ、長岡……? 国崎さんも……」

ぼりぼりとその乱れた金髪を掻き毟り、大きなあくび交じりに自らを指さすその少年に、
駆け寄った志保が挨拶代わりに平手を入れようとして、その身に巻きつけたシーツの下で
まるで膨らみを隠せていない腹が目に入り、咄嗟に手を止める。
代わりに、その名を呼んだ。

「バカ春原……!」
「いきなりご挨拶ですねえっ!」

98it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:28:20 ID:qsNVNyN.0
春原陽平。
希代の神秘をその身に宿した、傷だらけの少年が、そこにいた。

「バカで済ませてやったんだから感謝しなさいバカ!」
「はあ? ムチャクチャ言うなよ、おまえっ」
「散々心配させて……!」
「……」

テンポよく続く罵声に何かを言い返そうとした春原が、言葉を止めた。
志保の表情に、紛れもない安堵の色があるのを見て取ったからだろうか。
悪態の代わりに、辺りを見回して不審そうに尋ねる。

「……なあ、それよりここ、どこ? あの人たちは……?
 っていうか、僕ぁ一体……」
「ああ、えーっと、話せば長くなるような、そうでもないような感じなんだけど―――」
「何だ、目を覚ましたのか春原。なら、丁度いいな」
「そうだ、あんたからもこのバカに説明を……、って何で荷造りしてんのよあんた!?」

振り返った志保が思わず声のトーンを上げる。
その視線の先では、屈み込んだ国崎が自らのデイパックをごそごそと弄りながら
必要なものとそうでないものを選別し、中身を入れ替えようとしていた。

「何って、外に出るからに決まっているだろう」
「そういうことを聞いてるんじゃないっ!」
「痛ッ!? いきなり蹴りを入れるな!」

荷を詰め終わったのか、デイパックの口をしっかりと閉めた国崎が立ち上がり、
蹴られた背中をぱたぱたとはたいてから荷物を背負う。

「ったく……。すぐに戻る、そう心配するな」
「心配なんかしてないわよ! 説明しなさいって言ってるの!」

答えず、国崎が顔を向けたのは古河早苗である。

「なあ、あんた……」
「はい、何でしょう?」
「志保ちゃんを無視するなぁーっ!」

志保の大声に片耳を塞いで、国崎が軽く早苗に頭を下げる。

99it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:28:55 ID:qsNVNyN.0
「悪いが、俺が戻るまでこいつらを頼めるか」
「ええ、それは構いませんが……」
「ちょっと、あんたねえ……!」
「ぼ、僕も状況についていけてないんですけどっ!?」
「やかましいっ!」
「ひぃぃっ!?」
「あ、あの皆さん、落ち着いてくださいっ……」
「……」

背後の喧騒を完全に無視して戸口へと歩き出した国崎に、早苗が声をかける。

「そういえば、どちらへ?」

振り返らずドアノブに手を掛けた国崎が、肩で扉を押し開けた。
開いた扉の隙間から差し込む光は逆光になり、国崎のシルエットだけを映している。
影になった国崎が、片手を挙げて答えた。

「ちょっとそこまで、迷子のガキを迎えにな」

きい、と閉まる扉の向こうにその姿が消えるまで、ほんの数秒もかからない。
止める声も、なかった。

「いってらっしゃい。……あら」

ふとした気配に横を見れば、そこには輝く銀の毛皮。
いつからだろうか、川澄舞が立っていた。
片手には部屋の隅に転がしていたはずの抜き身の一刀を提げている。

「舞さんも、お出かけですか?」

こくりと頷いた拍子に、白銀の長髪がさらさらと流れた。

「これ……」

ぼそりと呟いて掲げた手に、もぞもぞと蠢くもの。
朽ちた自動車から垂れ落ちる廃棄油のような、不気味に照り輝く玉虫色の何か。
至宝の結晶、怪奇の根源をむんずと握り締め、舞が尋ねる。

「もらっても、いい?」
「ええ、構いませんよ」

即答に、思わず外野が反応を返す。

「いいの早苗さんそんな簡単に!?」
「ええ、元々は舞さんが材料を揃えてきたものですし……」
「うわ何あれ怖っ!?」
「あんたはちょっと黙ってなさい」

それらの声を聞いているのかいないのか、ぼたぼたと垂れるおぞましい汁で
美しい毛皮に覆われた足をべったりと汚しながら、舞が僅かに表情を変える。

「……ありがとう」

ほんの幽か。
春の風に滲む花の香りのような微笑に、早苗が満面の笑みを返して、頷いた。

100it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:30:13 ID:qsNVNyN.0
 
  
【時間:2日目 午後2時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:健康】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠】


国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:法力喪失】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:健康、白髪、ムティカパ、エルクゥ】

→1076 ルートD-5

101名無しさん:2009/07/01(水) 14:41:40 ID:YqzPWL2M0
『Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' /或いは永遠に羽ばたかぬ蛹の美しさを』


 
降りていく。
暗い、暗い地の底へ、どこまでも降りていく。

射していた光も、もう届かない。



***

102名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:03 ID:YqzPWL2M0
 
 
冥府までも続くような深い闇の中を、来栖川綾香は下っている。
それは地割れでできた断崖であったはずだった。
しかし今、綾香の踏み締めるは剥き出しの岩くれではない。
切り出され、敷き詰められた明らかに人工の石材である。
断崖を下れば下るほどに足場が良くなっていくという怪奇が、綾香の行く手にあった。
怪奇の萌芽は下るのに都合良く突き出した石であり、窪みである。
いつしかそれらは積み重なって断崖に刻まれた険しい道へと姿を変え、
道はやがてなだらかな段差を形作り、足元からは泥や岩が消えていき、
ついに現れたのはぐるぐると果てしなく延びる、石造りの螺旋階段である。

ぺたり、ぺたり、かつり。
裸足の足音が、塵一つない階段を一歩づつ下っていく。
時折響く硬い音は、綾香の鍛えられた足裏にできた胼胝が床を叩いて鳴るものである。
ぐるぐると、どこまでも螺旋が続く。
あり得ぬことであった。
地割れによって生じた断崖の奥に、このような階段など存在する筈もない。
如何なる手管、如何なる外連の為せる業か。
闇の中に生じた怪奇は既にうつし世を離れ、常世じみた魔境へと往く者を誘うかのようでもあった。
灯り一つない闇の中、血の色の瞳を爛々と、鬼火のように揺らめかせながら、しかし綾香は足を止めない。
歩を止めず、ぐるりぐるりと螺旋を下りながら、来栖川綾香は哂っていた。
何となれば、下る先から漂う微かな風である。
ねっとりと粘つくように吹くそれは、紛れもない悪意と憎悪とを存分に孕んで生温い。
出来すぎた舞台装置を用意した何者かの、この先に待つという証であった。
従者を迎えるその足が、討ち果たすべき何者かへの歩みともなる。
それをして己が道、己が生であると、来栖川綾香は哂っている。

ぐるぐると、ぐるぐると。
螺旋の階段は闇の中、どこまでも続いている。



***

103名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:18 ID:YqzPWL2M0
 
 
広い、広い空間である。
射していた光が消え、周囲が闇に包まれるや否やのことだった。
柏木楓が数歩を踏み出せば、目の前にはいつの間にか広大な空間が拡がっていた。

「……」

それは、地下に生じた巨大な空洞のようだった。
振り返れば岩盤を剥き出した壁面は左右遥かに続いて僅かな弧を描き、対面の果ては微かに紛れてよく見えない。
列を成した星のように見えるのは、壁面に等間隔に設えられた蜀台に揺らめく灯火であろうか。
見上げれば天井もまたどこまでも高く、まるで巨大な鳥篭に迷い込んだような錯覚を覚えさせられる。
奇妙、不可解を通り越したその空間の異質に、柏木楓が小さな溜息をつく。
それほどに下った覚えはなく、それほどに歩んだ記憶もない。
このように巨大な空間が神塚山頂の直下、せいぜい数十メートルに存在できよう筈がなかった。

「……」

声を上げるのも、その名を呼ぶのも嫌だった。
だから代わりに、柏木楓はその白い手指を振り上げる。
刹那、細くしなやかな指が、変成していく。
白から黒へ。
たおやかな手指が、禍々しい骨と罅割れた皮膚とで構成された無骨なそれへ。
鬼と呼ばれる、黒い腕。
そして、鮮血を垂らしてかき混ぜた月のような、赤い、赤い爪。
長く、美しく、そしておぞましい刃が、灯火揺らめく薄闇を切り裂くように、弧を描いた。
果たして、

「―――お帰りなさい、楓」

じわり、と。
闇の向こうから滲み出すように姿を現したのは、一人の女。
柏木楓の奉ずる嫌悪を、捏ねて固めて練り上げたような、その女の名を、柏木千鶴という。

104名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:37 ID:YqzPWL2M0
「……」

予想はしていた。
覚悟もしていたはずだった。
だが、それでも。
ざわざわと、灰色をした足の多い虫が這い回るような悪寒が、楓の臓腑を掻き乱す。
虫は胃の腑を食い荒らし、ぽろぽろと零れ落ちながら背筋を駆け上って脊髄をかりかりと擦る。
頬の隅にできた吹き出物のような、潰して抉って綺麗な水で肉ごと洗い流したくなるような、
圧倒的な嘔吐感が、楓の三半規管を締め上げる。
今すぐに反吐を吐き散らして、熱いシャワーを浴びて白くてゆったりした服に着替えられたら、
どんなにか素敵だろう。
そんな益体もない空想に縋って、柏木楓はそれが視界に映るという不快に耐えている。

「どうしたの、楓。こっちにいらっしゃい」

紅を塗った唇が、弓形に歪んでいる。
それは、笑顔のつもりなのだろうか。
男に売る媚ばかりを仕舞った倉庫には、きっとそれ以外のものはただの一欠けらも入っていないのだ。
濡れたような唇の隙間からは、くらくらするような極彩色の毒気が漏れ出している。

「もう何も心配は要らないわ。私がずっと守ってあげる」

夜の色の髪がさらさらと、閨の衣擦れのような音を立てて癇に障る。
同じ色をしたこの髪を、この瞳を、毎夜鏡を見るたびに引き裂いてやりたくなる衝動に駆られていた。
どうして、と楓は叫ぶような切実さをもって思う。
どうして私は私でいたいだけなのに、それだけであんなものと似てしまうのだろう。
違うと泣いても。
そんなことないと、首を振っても。
どれだけ否定したって、よく似てきたね、と。
おぞましい呪いの言葉は、私に付きまとう。
その度に、私は私を切り裂いて。
流れる血に、嫌なものが脂のように浮いて流れていってしまうように祈って。
そうして何も、変わらない。

105名無しさん:2009/07/01(水) 14:43:20 ID:YqzPWL2M0
「もうすぐ終わる世界を、二人で越えましょう」

身体に混ざる、どろどろとした、舐めると甘い汁のようなものが、厭わしかった。
そういうものが、澄みきっていたはずの身体を濁らせていくと、柏木楓は信じていた。
日ごと夜ごとに作り変えられていく身体が、疎ましかった。
太く。醜く。弱く。
そういうものになっていくのが、堪えられなかった。

「神様の死んだ、この場所で」

吐いても、吐いても。
切っても、切っても。
自分が、女になっていく。
汚いものに、なっていく。
じくじくと腐って、柏木楓が死んでいく。
喉も嗄れよと叫んでも。
時計の針は止まらない。

「私たちは、家族なのだから」

つう、とこの頬を伝う涙はきっと、身体を満たした嫌な気持ちと汚い汁と、
そういうものに押し出されてきた、私の欠片だ。
口の端に溜まる雫を嘗め取って、舌先に広がる微かな塩辛さに、柏木楓は息を吐く。
一息ごとに朽ちていく、柏木楓であるはずのものが、なくなってしまう前に。
嫌な気持ちの全部と、じゅくじゅくと泡立つ、汚らしいファンデーションの臭いのする汁の全部を、
その大元を、消してしまわなければ。
それが、それだけが、時計の針を止める、たった一つの方法。

106名無しさん:2009/07/01(水) 14:43:47 ID:YqzPWL2M0
「これからも、ずっと」

言葉の端々に混じる吐息が、ひどく不快で。
隙のない口紅から揮発する臭いが、色のない糸を引くようで。
息が、詰まる。
胸を掻き毟りたくなるような猫撫で声が、視界にばらばらと細かい灰のようなノイズを振り撒いていく。
それはどこまでも無為で、限りなく無駄で、果てしなく無益だった時間のリフレイン。
どこもかしこも薄く黄ばんだあの古ぼけた家の、化粧の臭いが充満していたリビングの、
端から何もかもを引っ繰り返して滅茶苦茶にしてやりたくなる衝動と必死に戦っていた時間の、
それは悪質な再現だった。
だから柏木楓は、害と断ずるその声に、

「―――煩い」

と、それだけを、返す。
死ねとは、言わなかった。
消えろとも、言わなかった。
あれは、あってはならないものだ。
あれは、あれば害を為すものだ。
怖気の立つような声と、気持ちの悪い仕草と、吐き気のするような服と化粧と香水と、
そういうもので、たいせつなものを汚してしまう害悪だ。
だからそれは死ぬべきで、消えるべきで、柏木楓が命じる必要などなくただ世の理に従って
あるべき姿に還ればいい。
あんなものがなければ、柏木楓の世界は今よりずっと美しくなる。
今よりずっと綺麗な空気と、今よりずっとたいせつなものだけが光り輝く、そういう場所になる。
あってはならないものがあるという、そのことだけが間違いなのだ。
だから、言葉など必要ない。
ただ爪を、血の色の爪を長く伸ばして、その刃を向ければ、それでいい。

107名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:02 ID:YqzPWL2M0
「……楓」

嫌な臭いを吸わないように、息を止めて切り刻もう。
着いた血を、いい香りのするボディソープで洗い流そう。
さらさらとした肌触りの白いワンピースを着て、あの縁側で風を感じよう。
夏が終わるまで、次の夏がやってくるまで。

「駄目よ……やめなさい」

綺麗なものだけを、素敵なものだけを部屋に並べよう。
リビングの家具も、ぜんぶ取り替えよう。
静かで、清潔で、やさしい家にしよう。
ずっとずっと、穏やかな空気だけが流れるような。
そんな家に、しよう。

「……殺せないわ、楓。私には、最後の家族を殺したりできない」

深紅の爪が、刃となって。
嫌悪という毒を、塗り込んで。
ちかちかするように瞬く視界の中で。
ただの一歩、踏み込む。
跳躍にも似た、加速。

「―――!」

柏木楓が、世界をあるべき姿に戻す刃を。
一直線に、振るう。


***

108名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:25 ID:YqzPWL2M0
 
ぼとり、と。
水の詰まった袋が地に落ちるような、重い音がした。
だらり、だらりと。
零れ落ちる何かが薄闇の中、ねっとりと黒い水溜りを拡げていく。

「―――」

ゆらりゆらりと灯火の揺らめきが光と影との端境を曖昧にぼやかして、
ざらざらとまとわりつくように暗がりが染み渡る。
ゆらり、
ゆらり、だらり、
だらり、ぐらり、ぐらり。
光と影とが入れ替わり、つられて上と下とが曖昧にでもなってしまったかのように。
世界が、歪む。

頬に感じる感触は、いったい何だろう。
ひんやりと冷たくて、ごつごつと硬くて、岩のようだ。
これではまるで、気付かない内に倒れ伏して、地面に横たわっているみたいじゃないか。
分からない。
どうしてこうなったのか、分からない。
何が起きているのか、まるで理解できない。
振るった刃が風を裂き、ぼとりと落ちたものがあった。
それは勝利を、世界があるべき姿を取り戻したという、そのことを意味していたはずだ。

ならばどうして、倒れている。
ならばどうして、起き上がれない。
ならば、だらりだらりと黒い水溜りを広げていく、あれは一体、何だというのだ。

109名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:45 ID:YqzPWL2M0
―――ああ、ああ。

ようやく、分かった。
目を凝らしてみて、やっと理解が追いついた。
倒れている。横たわっている。起き上がれずにいる。
その全部が、繋がった。
成る程、それなら仕方がない。
だって、ぼとりと落ちて、だらりだらりと黒を撒き散らすそれは。

―――柏木楓の、右腕だ。

刹那、悲鳴が迸る。
痛みはない。
ただ、生命という単位の危急に際して打ち鳴らされる警告が、少女の全身を激しく殴打していた。
狩猟者の遺伝子が生存を最優先に緊急活動を開始する。
切断面の筋肉が収縮し血管を結紮し再生を加速する。
それは生命の設計図に刻まれた本能であり、本人の意思が介在する余地はない。
脳の演算機能のすべてが応急と再生とに費やされ、精神を保護するためのフィルタが取り払われる。
最初に感じたのは熱である。
貫かれ、修復の途上にあった左眼の奥。
眼窩の底で繋がりかけていた神経の修復が中断され寸断され轢断され、それに対する猛烈な抗議が脳髄へと、
あらゆる緩衝を受けずダイレクトに伝えられていた。
熱い、と感じたのは一瞬。
寸秒を経て、それは衝撃へと変容する。
抉り出された眼球の裏を丹念に炎で炙られるような、地獄の責め苦。
衝撃は、止まらぬ。
燎原の火の如く、それは拡がっていく。
鬼と呼ばれる血に潜む驚異的な再生機能。
その恩恵に与っていた全身の傷、そのすべてが眼窩と同様の、或いはそれ以上の衝撃を以て、
少女という個体を責め苛んでいた。
脚が、胸が、腹が首が肩が腿が指が骨が肉が、歪み、軋み、引き裂かれ捻じ切られ、
また無造作に貼りつけられて捏ね回される。
脳髄という城砦は今やその将兵のすべてが右腕の戦場に出払い、防衛力として機能していない。
ぎ、と獣じみた悲鳴を上げた拍子に噛んだ舌先が千切れ、需要過多の血液を無益に消費する。
びくりびくりと痙攣する全身は残る左腕を抑えきれず、変生した黒腕と紅爪が岩盤を抉って辺りに散らした。
生きようとする本能が、柏木楓を挽き潰していく。


***

110名無しさん:2009/07/01(水) 14:45:01 ID:YqzPWL2M0
 
「―――殺せないわ、楓。私には、殺せない」

響く声など、少女に届く由もない。
それでも、のたうつ少女を見下ろして、その白くたおやかな指の先からぽたりぽたりと真っ赤な雫を
垂れ落としながら、女は言葉を続ける。

「あなたは大切な家族ですもの」

血溜まりの中、呼吸と悲鳴との入り混じった声を漏らす実妹を見下ろす、その瞳に宿る光はひどく冷たい。
夜空に青白く輝く星の、数万度の冷厳を湛えて、柏木千鶴が薄く笑む。

「私には、殺せない」

紡がれた声音の意味を理解する余裕は、少女にない。
殺せないと呟いた、息の根は止めぬ、ただそれだけと見下ろした、慈愛と酷薄とが矛盾なく混じり合う
その笑みを、地獄の責め苦に苛まれる柏木楓は見ていない。
見えぬことを、聞こえぬことを知りながら紡がれた千鶴の、その言葉と笑みとは、故にその実、
少女に向けられたものではない。
聞く者は、他にいた。

「―――」

ゆっくりと振り向いたその先に、降り立つ一つの影がある。
薄暗がりに裸身を晒す、それは女の影だった。

「……結構な姉妹愛だな、化け物」

呆れたように肩をすくめる影を真っ直ぐに見据え、深く笑んだ柏木千鶴の双眸は、
足元に流れ出す妹の血を呑んだように紅く、どこまでも昏い。

111名無しさん:2009/07/01(水) 14:45:25 ID:YqzPWL2M0
 
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

柏木楓
 【状態:エルクゥ、重体(右腕喪失、全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

→973 1071 ルートD-5

112Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:20:42 ID:baxXJd5E0
 リサ=ヴィクセンの目の前では一人の男が横たわっている。
 手首を失くし、体中を打ち抜かれ、眼鏡はその衝撃で壊れている。
 先ほどの戦闘の煽りもあったのだろう、スーツは爆風の余波を受け、見るも無残に汚れていた。

 けれども、それはみじめなようには思えなかった。
 ほっとしたように全身の力を抜き、安心しきった表情で瞳を閉じている緒方英二の姿を見れば、そうとしか思えなかった。
 愚直に過ぎた。大人でありすぎたのだ。
 年長であるがゆえに責務を果たそうと欲し、私情を置き去りにして彼岸の向こうへ旅立ってしまった。

 それでも、生きていて欲しかったのに。
 切なる願いが胸の底から押し上げ、涙の形になって流れ落ちる。
 ひどく情けないと思ったが誰も見てはいないし、見られたところで雨が誤魔化してくれる。

 ――だが。

 このままでいいのか。自分もまた大人としての責務に縛られ、気持ちを押し殺したままにしておくのか。
 辛いことや苦しいこと。それを我慢したままで、溜め込んでしまっていいのだろうか。
 英二は考える暇も悩む暇もなく、やれることをやって死ぬしかなかった。
 結局気付いたのは最後の最後でしかなく……

「夢が、あったのよ」

 涙を拭った。雨に紛れさせ、誤魔化すことなく、体から溢れる温かさの欠片を受け止めた。
 みっともなかった。代わりに自分はまだ人間なのだとも思った。

「栞と、英二と、私で一緒に過ごしてみるって、そんな夢物語」

 夢物語と言ったのは、叶うはずがないと考えていたからではなかった。
 ずっと一緒にいられるわけはない。リサは仕事柄そういうわけにはいかないし、英二と栞にはそれぞれ親だっている。
 精々数日かそこら。それでもいい、互いに笑い合って共有する時間を過ごしたかったのだ。
 今まではそんな想像をすることさえ怖く、自分にそれだけの価値があるのかとも疑問に感じていた。

113Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:03 ID:baxXJd5E0
 しかし実はそうではなく、奥底からこうなって欲しいと願っていた。
 本当はずっと寂しく、ずっと孤独に震え、ずっと希望を見出そうともしなかった。
 手に入れられるとは思わず、ただ失っていくだけなのだと思い込んでいた。

 そうじゃない。考えて、考えて、考え抜いて、時には躊躇って、でも最後には勇気を出して行動が出来るのならば。
 きっと、手に入れることが出来たはずなのに。
 私はまた青い鳥を逃がしてしまったのだ。

「……家族がいなくて、ひとりなのが耐えられなかった。
 でも大人になってしまって、意地ばかりが凝り固まって、言いたいことも言えなくなった。
 そんな丈夫な人間でもないくせに、ね」

 ひとりは寂しい。そんな当たり前のことさえ口に出せなくなった大人。
 悲しみに暮れているのは敗北だと断じ、復讐に縋って目を逸らすことしか出来ず、どうしようもなく無力になってしまった大人。
 それが自分だ。
 もっとやりたいことがあった。もっと普通の、当たり前の生活がしたかった。
 もし、もっと昔に気付いていれば……

「マリアって言うの。……私の、本当の名前」

 愛称はマーシャよ、と微笑しながら付け加える。殆ど誰にも明かさなかった名前を口にしてみたが、思ったほどの開放感はなかった。
 それほどの意味を持ち得ないということなのだろう。当然のことを、当然のように行っただけだ。

 特別でも何でもない。やはり恐れていただけだった。交わりを作り、関係を持つのが怖かった。
 臆病に過ぎただけで、名前をひた隠しにしていたことにどんな理由もない。
 或いはそれが分かっただけでも上等なのかもしれなかった。

「Спасибо」

114Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:22 ID:baxXJd5E0
 ありがとう。そしておやすみなさい。それらの意味を含んだ母国の言葉を最後に、マーシャはリサに戻った。
 やはり自分は大人でしかいられない。少女の心に戻るにはいささか物事を知りすぎた。

 しかし、だからと言って捨て鉢になり生きることそのものを諦めたつもりはない。
 大人だからこそ守っていけるものがある。伝えるべきものがある。
 それがリサが見出した生きる価値で、生きていく意味だった。

 涙と共に己の弱さ一切を洗い流したリサの目は疲れきった女の目ではなく、鋭さを取り戻した猛獣の目だった。
 雌狐は誰よりも誇り高く、獰猛さを兼ね備えていた。

     *     *     *

 今にして思えば、なんとまあ恥ずかしいことを言ってしまったのだろうと、藤田浩之は思っていた。
 感情が昂ぶると直情怪行になるきらいでもあるのだろうか。

 好き好き大好きおまけにキス。しかもこのやりとりは二度目だ。
 おまけに今度は野外である。リサが戻ってきていたら……どうなっていたのであろうか。
 やんわりと微笑を浮かべ、あらあらうふふとでも言うか、それともふっと溜息のひとつでも零されるか。
 何にせよ見つからなくて良かったと思う。無論自分のやったこと自体は間違っていないと言える自信はある。
 それでも、まあ、TPOを弁えなければならないことというものはあるもので……

 ぐだぐだ考え込んでしまっている自分の姿を眺め、浩之はやめようと思った。
 堂々としていればいい。見つからなかったのでした、めでたしめでたしでいいではないか。

 それでいいんだと半ば強引に納得させ、浩之はぴったりと寄り添っている姫百合瑠璃の表情を窺う。
 同じことを考えていたのか唇を堅く結んでいたが、紅潮した頬は抑えきれない嬉しさのようなものがあった。
 ひょっとしたら自分もそうなのかもしれない。これが恋人というものか。
 やはり皆には見せられないと浩之は内心に固く誓うのであった。

「ん……?」

115Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:40 ID:baxXJd5E0
 視線に気付いたのか、瑠璃が上目遣いにこちらを見る。
 生きたいという気持ちと一緒にいたいという気持ちが瞳を通して伝えられる。
 己の中を占めていたはずの空虚がふっと消え、「おれ」が一瞬、「俺」に戻った気がした。

 命なんてどうでもいいと思っている部分。心の片隅に潜み、何をやっても無駄だと囁いてきた暗黒が霧散し、
 曇りきりの空を晴らしてくれるような、そんな感触があった。
 みさきを始めとして知人を失うたびに感じてきた未知の物質。
 それを抱えて暮らしていくしかないものだと思っていたものが、実はその気になれさえすればどうとでもなるのではないか。

 死者が急き立てたことによって生み出された思考ではなく、自分自身が考えて生み出した思考に浩之は驚きを覚えた。
 もしかすると、こうして自分で考えることこそ彼ら、或いは彼女らが望んでいたことではなかったか。
 しがらみに囚われず、やりたいことをやればいい。
 頑張ってという言葉は責任を取れという意味ではなく、望むように生きてみろという意味ではないのか。

 浮かんだ思考が弾け、浩之はガツンと頭を殴られたような気分になった。
 そういうことなのか? 思いながらも、まだ確信は持てなかった。

 しかし新しく生まれたその考えは、頑張れという言葉に合致するように思えたのだ。
 自分たちは孤独だ。孤独であるからこそ寄り集まろうとし、時として依存や執着しようともする。
 だがそんなものは甘えでしかなく、助け合うということにはならない。互いを食いつぶしていくことにしかならない。
 だから手を取り合いつつも守るべき自分は自分で何とかする。

 自分を守れるようになって、ほんの少しだけできた余裕で誰かに手を伸ばす。
 それが協力、協調という言葉の意味ではないのか。みさきたちは既にして分かっていたのではないのか。
 ただ、その結果があまりに大きすぎたというだけで……

 馬鹿だ。自分にも、死んでいった彼らにも対して浩之は言った。
 何故今まで気付かなかった。何故黙っていたままなんだ。今さら気付くなんてあんまりじゃないか。
 ぶつけようのない思い、感極まった思いが喉元に込み上げ、浩之はいてもたってもいられないような気持ちになった。


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