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避難用作品投下スレ4

688十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:53:13 ID:NaKun74s0

*** 7. -10sec


吹く風すらもが燃え尽きたように止まった蒼穹の下、ただ砧夕霧の唄だけが響いている。
最早、遮るものはない。
遂に開けた最後の道へと、蝉丸が地を蹴った。

距離は数十歩。
目印など何もない。
だが、分かる。
そこには力が満ちている。
満ちた力が夕霧を導くように、或いは夕霧の求めに応えるように、その場所が呼んでいる。

走る。
時が満ちようとしていた。

駆ける。
ほんの数秒。
僅かに、勝った。

踏み出す。
夕霧を抱いた腕に、力を込めた。
その、刹那。

「―――届かないのは、君たちだ」

聲が、哂った。

止まらない疾走の中で、蝉丸の目が、何かを映していた。
正面、遥か遠く。
方角は西。
背後には雲ひとつない晴天を従えて、何かが立っている。
瓦礫。
崩れ落ちた、二刀の像。
その瓦礫の中。
小さな、小さな影が、立っていた。
つがいの、童子。
二人の童子の手に、一杯に引き絞られた弓。
鋭い、鏃が、見えた。

坂神蝉丸が、砧夕霧を庇うように身を投げ出したのは、半ば本能のなせる業である。
ほんの一瞬、間を置いて。
その背を二本の矢が、穿った。

疾走が、止まった。

689十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:54:54 ID:NaKun74s0

【時間:2日目 AM 11:59:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重傷】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

柏木楓
 【所持品:なし】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体3700体相当】
【カルラ・フィギュアヘッド:中破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:中破】
【ドリィ・フィギュアヘッド:健在】
【グラァ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 1053 1055 1056 ルートD-5

690十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:06:46 ID:rS0OI3w60
 
助けてと呼ぶ声は、いつだってか細くて。
だから、幸せに笑う誰かには届かない。

しあわせになりたいと願う、小さな祈りは。
だから儚く、消えていく。

願いはどこにも届かない。
想いのひとつも叶わない。

なら、だとすれば。
たとえばその声を聞いた私に、何ができるのだろう。

私の願いは届かない。
私の想いは叶わない。

私はもう、救われない。
助けてと呼ぶ声は、だからもう、救われない。
救われず、報われず、続き続けてしあわせから遠ざかっていく。
だからいつか、助けてと呼ぶ声は、ひとつの哀願に変わっていくのだ。

―――終わらせて、と。

私にできること。
助けてと呼ぶ声の聞こえる、救われない私にできる、たったひとつのこと。
救うということ。願うということ。祈るということ。

それは。
いつまでも、どこまでも続く、救われず在り続ける生を。
終わらせると、いうこと。


******

691十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:13 ID:rS0OI3w60
 
大気とは星の加護である。
加護の与えられぬ空の彼方、高度約三万六千キロメートルは、十数時間ごとに灼熱の地獄と化す。
摂氏百度を優に越すその空間には無数の金属片が散乱していた。
被覆を剥がれた剥き出しの部位を輻射熱に直接炙られて赤熱するそれらは元来、寄り集って
ある一つの構造物を成していたものである。
何か強い力によって破壊され、周囲の宙域一帯に飛散した残骸の量を見れば、その構造物が
全長と質量と、その両方において非常識なまでの威容を誇っていたことが推測できる。
大気から解き放たれてなお惑星の重力の軛に絡め取られる宇宙空間、高度約三万六千キロメートル。
静止軌道と呼ばれるその宙域に存在する、巨大な構造物の名を、天照。
汎攻撃衛星、天照という。

しかし科学の水準を無視して存在した鋼鉄の城砦も、今や風前の灯といった体であった。
散らばった残骸の中心にあるその構造体はあらゆる部位が傷つき、或いは破壊されて黒煙を漂わせている。
宙域の皇として君臨したかつての威容は見る影もなかった。
無数の砲塔に明滅していた光点も、既に残り少ない。

と、数少ない光点がまた一つ、消えた。
同時に、轟と震動が響き、外郭装甲の一部が赤熱。
僅かな間を置いて、爆散した。
誘爆を避けるためにパージされた装甲の下から顔を覗かせたのは、回転式の砲塔である。
静止衛星である天照に、質量を持つ実弾兵器は存在しない。
その大小を問わず、砲はすべて光線式である。
砲身の過熱を避けるためのターレットが回転し、照準を開始。
しかし砲塔は、その生産用途を果たすことなく役割を終えることとなる。
照準が敵影を捉え光線を発射するよりも一瞬早く、砲身が捻れ、爆発していた。
破壊を齎したのは、漆黒の宙域を溶かし込んだような、黒い光弾である。
放った敵影が、遮蔽物の陰から姿を現す。
大気に遮られぬ圧倒的な太陽光に照らされて立つ、その姿は美しい。

それは、背に大きな翼を持つ、少女の姿を象ったシルエットである。
漆黒を主体としながら、肌を露出させるかのようにあしらわれた白銀のライン。
細く、しかし確かな躍動を秘めて伸びる脚部から、しなやかに長い指先まで、
あらゆる部位を希代の芸術家が丹精込めて彫り上げたような、天上の意匠。
羽ばたく翼は、夜を運ぶが如き黒の一色。
微笑むような表情を浮かべた白銀のかんばせは、あどけなさを残しながらも
花開く寸前の蕾の危うさを内包している。
それは紛れもない機械でありながら、しかし見る者にそれを肯んじさせぬ何かを持った、
鋼鉄の少女であった。
その名を称して、アヴ・カミュという。


***

692十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:53 ID:rS0OI3w60
 
『ふん、あの程度で余の行く手を遮れるものか』

黒い機体から不遜な声で嘯いたのはアヴ・カミュの契約者、神奈備命である。
その実体はなく、今は存在をアヴ・カミュの機体と同化させている。
周囲に拡散していくデブリ群を生産した黒光弾の名残が、銀色の指先に蛇のように纏わりついていた。

『神奈、すごい調子乗ってる』
『聞こえておるぞ観鈴』
「ええからその手ぇこっち向けんなや、アホ!」

小さくバーニアを噴かして黒い機体が振り向いた先には、もうひとつの影がある。
アヴ・カミュと同系統の技術体系によって製造されたと一目で分かる、似通ったシルエット。
細身ながら頭身の高い、緩やかな曲線の多く施されたその全体像は、芸術品として見るならば
少女を模したアヴ・カミュよりも強く女性らしさが表現されているように感じられる。
最大の相違はその配色である。
漆黒を主体としたアヴ・カミュに対し、こちらの基調は曇りなき純白。
要所には薄荷色のラインで装飾を施されたその姿は、たおやかに咲く一輪の花を思わせる。
アヴ・ウルトリィ。
輪廻する魂であるカミュの実姉、ウルトリィの現世における姿である。

『……観鈴、やはりそなたの母御とは一度きちんと話をせねばならんようだな』
『にはは……お母さん、ずっとこんな感じ』
「上等やボケ。後できっちりカタぁつけたるわ。それより今は―――」

アヴ・ウルトリィから響くのは、契約者である神尾観鈴とその母親にして操縦者、神尾晴子の声。
背の白翼を広げたアヴ・ウルトリィが周囲を見渡す。

「サブはこれで全部いてもうたったか?」

沈黙した砲台群の残骸が漂う中、明滅する光点が存在しないのを確認して晴子が問う。
激戦を物語る破壊痕が、宇宙に浮かぶ鋼鉄の城の至るところに残っていた。
めくれ上がった装甲板の下には寸断されたケーブル群が無惨にその姿を晒している。

693十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:17 ID:rS0OI3w60
『ええ、残るは―――』
「アレやな」

ウルトリィの答えに頷いた晴子が見据えるのは、城砦の中心部。
破壊し尽くされ、照りつける太陽光に焼かれるだけの外郭部とは対照的に、今だ多数の光を湛えたそれは、
聳え立つ天守閣の如く健在を誇示していた。
攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
地表を焦熱の地獄へと変える、神の炎。
大神の齎す異形の力、オーパーツの核である。

「時間は?」

その基部には、既に微かな集光が見られる。
突き出した二基の煙突のような砲身へとエネルギーを伝えるように、光はじわじわとその大きさを増していた。

『充填完了の予測時刻まで、おおよそ二分』
「上等!」

猛々しく笑んだ晴子が、ペダルを踏み込む。
翼を模したバーニアが光を放ち、推進力へと変えていく。
明けぬ夜を翔け、神の時代の到来を告げる天の御使いの如き、それは神々しさを秘めた飛翔である。

『わ、待ってお姉さま!』
『後れを取るなかみゅう、我等も行くぞ!』

694十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:39 ID:rS0OI3w60
続くように、アヴ・カミュが加速を開始する。
白と黒のシルエットが軌道を交差させながら最大速度に到達するまで、僅かに数秒。
ほぼ同時に翼を畳み、高速機動形態に移行する。
眼前、文字通りの瞬く間に迫る主砲塔が、その纏う光点の密度を増した。
間髪を入れぬ予測回避。
バーニアを全開にしながら片翼を展開。
揚力も抵抗も存在しない真空中、翼自体から発生する推進力がそのベクトルを変える。
アヴ・ウルトリィは右に、アヴ・カミュは左へと軌道を遷移。
一瞬前まで機体のあった場所を光線が奔り、それを皮切りとするように、攻撃が開始されていた。
最後に残された本丸を護るべく鋼鉄の城郭に光る砲座は無数。
そのすべてが白と黒の二機に照準を合わせる様は、背後に瞬く本物の星空と入り混じって
天象儀に描かれた虚構の星図のように映る。
全速機動の狭い視界の中、満天に美しく輝く星々から奔る熱線は告死の一撃である。
流星雨の如く降り注ぐ光は目に映った瞬間に命中を確約されている。
故に回避は予測とランダム機動にすべてが掛かっていた。
即ち射撃される前に遷移し的を絞らせぬ、圧倒的な速度の先行挙動である。
白翼が僅かに角度を変えれば、推進ベクトルに従ってアヴ・ウルトリィが強烈な弧を描く。
後を追うように、幾筋もの光線が空しく宙を裂いた。
と、白い影が伸ばした手の先に小さな珠が生まれる。
珠は白い光である。光はその中に沢山の小さな光球を孕んでいた。
暴れ回る小さな光球の内圧に耐えかねたように、光が瞬く間にその大きさを増していく。
刹那、人体を容易く捻り潰す巨大なGを慣性制御で打ち消されたアヴ・ウルトリィのコクピットの中、
神尾晴子の瞳が獰猛に煌いた。

「行ったれ……ラヤナ・ソムクル!」

叩きつけるようにトリガーを押し込んだ、その瞬間。
白の機体から、光が爆ぜた。
爆ぜた光の中から小さな光が無数に生まれ、尚も枝分かれしながら飛んでいく。
それは一瞬の内に降り注ぐ流星雨を押し戻すような、圧倒的な光の瀑布となった。
着弾はほぼ同時。
鋼鉄の城砦、その主砲塔へと至る外郭一帯が真白く照らされ、そして一斉に破砕の波に飲み込まれた。
真空中に音を伝える大気はない。
しかし震動と無数の小爆発と、抉り引き裂かれ千切れ飛んでいく装甲板とが、轟音よりも雄弁に
その無惨な破壊の有様を訴えていた。

695十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:28 ID:rS0OI3w60
『お母さん、すごい……』
「何言うてんねん、お前と神さんの力やろが! ―――決めボムで空いた道、このまま突っ込むで!」

正面、主砲塔付近からは散発的な反撃が続いている。
しかし距離が開いていることもあってか、その弾道は精度に欠けていた。
弾幕と呼ぶには程遠い密度の光線が飛び交う中へ、アヴ・ウルトリィは躊躇なく加速する。
見れば主砲塔を挟んだ反対側からは黒い影が迫っている。
同じように迂回軌道を取ったアヴ・カミュのシルエットだった。

『挟撃の形……晴子、これならば一気に決着をつけることができるかもしれません』
「……何や? まだ何ぞあるんか?」

姿勢制御に専念しているはずのウルトリィの珍しく自発的な声に、晴子が怪訝な表情を浮かべる。

『ええ。今生のアマテラスはあまりに巨大です。核を討つとしても充填の完了までに間に合うかは
 危険な賭けになるでしょう。ですが……』
『わかった、お姉さま! あれをやるのね?』

答えたのはカミュの少女じみた、跳ねるように高い声。
頭越しの会話に苛立った晴子が、踏み込んだペダルを蹴りつけるようにして再加速する。

『スピード違反……』
「うっといわ! 何や、アレって!」

迫る主砲塔は既に視界の半分を覆い尽くしている。
建造資材を打ち上げるだけでも気が遠くなるような、文字通りの天文学的な労力を費やして建てられた宇宙の城。
その非現実的な存在を、輪廻転生して世界を渡るという神の眷属の中から見上げている。
入れ子構造の奇妙な夢を見ているような据わりの悪さに、晴子の心がざわめいていた。
そんな苛立ちを無視するように明るいカミュの声が、更なる非現実を告げる。

『あれっていうのはね、もちろん……カミュたちの必殺技、だよ!』
「……さよか」

696十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:57 ID:rS0OI3w60
疲れたように首を振る晴子の足はペダルを離さない。
加速は既に最高潮に達している。
しかし直進方向、主砲塔の向こう側に垣間見える星は動かない。
眼下、一切の誇張なく目にも留まらず流れていく城砦の外郭だけが、その凄まじい速度を示していた。

『晴子』
「へいへい」

わざとらしい溜息をつきながらペダルを離すと、機体が目に見えて減速していく。
ウルトリィ自身の意思による制御。
全方位モニタに映る景色がその速度を緩めていくのに同調するように、戦闘の高揚が冷めていく。
後に残るのはいつも通りの不快と倦怠感と、酷い喉の渇きだけだった。
操縦者と、機体に宿る意思が二つと、そうした複雑な機構の詳細など、晴子は知らない。
考える気も、なかった。
ただ目視で確認しモニタにも反応が示された残存砲塔へと同時照準。
ほぼ無意識の内にトリガを押し込んだ。
閃光と震動と、沈黙。反撃は、来ない。
息をするように破壊をばら撒いて、晴子は己の変化を実感する。
照準の合わせ方も、宙間機動のイロハも、そもそも巨大ロボットの操縦方法など、
ほんの半日までは一般人でしかなかった自分が、知る由もない。
しかし身体はいつの間にか、それらを昔から知っていたかのように反応するようになっている。
それが契約というものなのか、或いは神の眷族を名乗るものたちの力なのか。
どちらでも良かった。
それは単に、既に赦し難いもので満たされて歩くこともままならない神尾晴子の世界に、
新たな不愉快の種が芽を出したというだけのことだった。
と、淡い光が目に映る。
モニタを見れば、そこに見慣れぬ光の束があった。

697十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:38 ID:rS0OI3w60
『―――我らオンカミヤリュー』

ウルトリィの静かな声が響く。
不思議な抑揚を秘めたその声は、どこか呪いめいている。
それを裏付けるように、眼前に浮かぶ光の束が言葉に合わせてその輝きを強める。
繭から紡ぎ出される糸のようなそれは、中空で絡まりあって次第に形を成していく。
奇妙な文字のようでもあり、紋様のようにも見える白い光が、列を成してアヴ・ウルトリィの周囲を
くるくると回っている。

『我ら大罪を背負い輪廻する調停者なり』

カミュもまた、姉に合わせるように呪言めいた言葉を唱えている。
彼方、主砲塔の向こうではアヴ・カミュの周囲にも光の束が浮いていた。
強烈な太陽光に照り付けられる中に浮かび上がる複雑な漆黒の紋様が幾重にも機体を取り囲む様は、
まるで紡がれる言葉の通り咎人が檻に閉じ込められるように、或いは磔刑に処される寸前のようにも映る。
向こうからすれば自分たちもそう見えるのだろうかと考えて、晴子は思考を停止する。
不愉快の芽にわざわざ水をやることはない。
そんなことを思う内に、黒白二つの紋様はその規模を極端に広げている。
二機の周囲を廻っていたはずの光は、いつしか眼前、主砲塔を含めた鋼鉄の衛星全体を包むように展開していた。
哀れな獲物に巻きつき、今にも頭から呑み込まんとする二匹の蛇。
ぼんやりとその光景を眺める晴子の目には、そんな風に展開される紋様が映っていた。
二柱の翼持つもの、神の眷属たちの唱える呪言が、その抑揚を大きくしていく。
それが最高潮に達したとき、必殺技とやらが発動するのだろう。
蛇が獲物の骨を砕いて丸呑みにするのだ。
嗜虐的な想像に、晴子が薄く笑った。
聞こえてくる声が、昂ぶる。
決着の時は近そうだった。
ちらりとモニタの端を見れば、現在時刻が表示されている。
充填完了予測までは、数十秒の猶予。
二人の声が、同調する。
ぐるぐると廻る紋様がその速度と輝きとを増し、

『理を乱すもの天照、大神の名に於いてコトゥアハムルへ誘わ―――』

声が、止まっていた。

698十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:58 ID:rS0OI3w60
ぐるぐると廻っていた紋様はその速度と輝きとを維持したまま、しかし何も起こらない。
何や、と呟くよりも早く、晴子の目に映ったのは奇妙な光景である。
黒い紋様が、激しくのたうっていた。
鎌首を掴まれた蛇が暴れるように波打つ紋様の向こうには、黒い影がある。
アヴ・カミュ。
呪言を紡ぎ紋様を展開させ、今まさに決着を付けようとしていたはずの黒い機体が、そこにいた。
その手が、何かを握り締めてぼんやりと光っている。
否、握っているのではない。それは、手の中から溢れ出しているようだった。
ちろちろと顔を覗かせるそれは、焔である。
真空の宇宙空間に燃える焔。
超常の焔を宿らせたその手が、静かに振り上げられ、そして。
眼前の紋様に、叩きつけられた。
びくり、と生き物のように震えた紋様が、一瞬の後、燃え上がる。
焔は一気に燃え広がり、炙られた光の文字列が身を捩るように捻じれ、消えていく。

『カミュ、何を……!?』
『あ……、そん……な……』

ウルトリィの問いかけはカミュに届かない。
驚愕と、何か他の感情に支配されて、それだけを搾り出すのが精一杯といった様子だった。
消えていく白と黒の紋様と、健在を誇る主砲塔の向こう側から、

『……おば……様……』

ほんの僅か、間を置いて。

「―――春夏さんと呼びなさい、カミュ」

声が、返った。
そこには女が、笑んでいる。
柚原春夏。
カミュの前契約者にして、今はその内に眠るもう一つの魂、ムツミと契約した女。
娘を喪った母。黒の機体の操縦者。笑むように泣く女が、静かに目を開けていた。

699十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:07 ID:rS0OI3w60
『身体が……動かぬ……』
「あら、ごめんなさい。ほんの少しだけ、貸して頂戴ね」

苦しげに呻く神奈へ事も無げに告げた春夏の声に、晴子の顔が険しくなる。

「目ぇ覚ましよったんか、あのおばはん……!」

狭いコクピットの中に唾を吐き棄て、それでも足りぬとばかりに傍らのコンソールへ拳を叩きつける。
睨みつけるように見たモニタの隅では無情に数字が減り続けている。

「クソが……最後の最後で……!」

残り時間、ほんの十数秒。
見下ろせば青い大地。
照りつける太陽は光度を自動調整されたモニタの向こうでなお目映く、
星空の中心で燦然と輝いている。
眼前には健在の主砲塔。
その向こうに見えるのは、何度も煮え湯を飲まされた黒の神像。
灼かれる大地に思い入れはない。何一つとして、ない。
決断は、一瞬だった。

「……観鈴」
『うん』

そこに余計な言葉はなく、しかし打てば響く答えが、心地よかった。
ただ心の通い合ったような錯覚を舌の上で転がして、晴子が快活に笑う。
同時、蹴りつけるように全力でペダルを踏み込み、操縦桿を一杯に引き倒す。
操作の意味するところは、最大加速。
刹那の間に展開した白翼が輝き、機体に循環する力を推進力として背後に放出し始める。
作用反作用の法則に従って弾かれたように前方へと押し出された機体が、瞬間的に音速を超過する。
抵抗のない真空中、減速なく加速し続ける機体が限界速度に到達するまで五秒とかからない。

700十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:34 ID:rS0OI3w60
『晴子、観鈴、何を……!?』

狼狽するようなウルトリィに返事はない。
代わりに、叫ぶような声が狭いコクピットに反響する。

「買うたるわ、この喧嘩……!」

リスクを無視した加速に機体表面が悲鳴を上げる。
猛烈な相対速度に塵の一粒、散乱した敵の破片一つが装甲を貫き致命傷を与える凶器と化していた。
引き倒した操縦桿の先、晴子の指がトリガを押し込む。
慣性制御ですらフォローしきれない加速の中、軋みを上げながらアヴ・ウルトリィの手が
進行方向へと向けられる。
接触するデブリに瞬く間に傷つけられながら伸ばされた指先に宿った白光が、放たれた。
近接防御火器の如く撃ち出された白光が行く手に浮かぶ障害物を機体至近で消滅させていく。
あくまでも軌道を曲げぬ、強引な直進。
その目指す先には、一際強く輝く光がある。
巨大な二本の影を支えるように煌くそれは衛星の天守閣、連装主砲塔の基部である。
基部の輝きを伝えるように、砲身全体に巡らされた回路が淡く発光を開始している。
巨大なエネルギーの位相を収束し地上へと射出せんとする、その光。
その内部に蓄えられた莫大な熱量の中心へと、白い弾丸は突き進む。

『このままでは……! 死ぬ気ですか、晴子!?』
「はン、ここでくたばったかて観鈴と一緒に生き返れるんやろ!?
 お手軽やんなあ、神さんの身内っちゅうんは……!」

絞り出すような声に、ウルトリィが絶句する。
僅かな間を置いて、

『……貴女はきっと、良き大神の戦士となるでしょう、晴子』

嘆息交じりに呟いたウルトリィの声は既に覚悟を決めている。
応えるように晴子が、にぃ、と笑った。
強烈なGが晴子の全身を座席へと押し付ける。
首が、肩が、内臓が、呼吸器が抉り潰されるような苦痛。
ぽそりと何かを呟いた観鈴の声は、びりびりと震える晴子の鼓膜に届かない。
生き返れるから、一緒に死んでくれるんだ―――。
そんな風に聞き取ったウルトリィは、だから何も口にしない。

701十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:54 ID:rS0OI3w60
一秒。
視界を覆い尽くすほどに大きくなった主砲塔の光の中。
小さな黒い影がある。
アヴ・カミュ。
柚原春夏が待っている。

「これが最後かしら? ……いいえ、始まりね。ずっとずっと続く戦いの」

黒の神像から、無数の光弾が飛ぶ。
柚原春夏の願いを運ぶような、真黒き光。
迎え撃つように放った白の光弾が幾つも弾け、灰色の光になって消えていく。

「貴女のその子は生きている。私のこのみはもういない」

真空の空に浮かぶ灰色の爆炎を縫うように、アヴ・ウルトリィが翔ける。
嵐の如く吹き荒れる黒白の閃光が鋼鉄の城郭を削っていくのを無視するように、
基部から伸びる光が主砲塔を覆い尽くしていく。
一撃、黒の光弾がアヴ・ウルトリィを掠めた。
肩部の装甲が爆ぜる。

「それは貴女の幸せかしら。いいえ、いいえ、違うわ」

揺れる。
圧倒的な速度の中、微細な軌道の歪みが猛烈な震動となってコクピットを揺さぶる。
回避の遅れた右脚部が光弾に呑まれて消えた。
脈打つように、主砲塔の光が大きくなる。

「ねえ、生きることがこんなにも辛いなら―――」

重量バランスの崩れた機体の挙動が制御しきれない。
ぐらりと軌道が狂った拍子に鋼鉄の外郭へと機体が擦れる。
摩擦に片翼が千切れて飛んだ。
主砲の先に、光が収束していく。

「私はあの子に、苦しめと命じていたのね」

既に軌道修正など不可能だった。
迎撃も回避も迂回も停止もなく、ただ光に誘われるように加速だけが止まらない。
灰色の相殺光の只中、モニタが機能を失う。
薄闇の中、声だけが響いた。

「生まれ変わっても、貴女はその子を―――」
「上等じゃ、ボケェ―――!」

叫び返した瞬間。
相殺光を抜ける。
その先に、黒の神像の顔があった。
アヴ・カミュの美しい、静かな笑みを象った銀色の顔。
相対距離がゼロになる、その瞬間の光景が、神尾晴子がこの世界で見た最後である。

白と黒の神像が、激突した。
フレームが歪み装甲が内部から抉られて爆ぜ五体は既に原形を留めず、
無数に鳴り響くアラートは、最早誰にも届かない。
あらゆる機能が刹那の内に意味を喪失する中で、質量と無限の加速だけが
忠実に物理法則を履行する。

攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
第一砲塔から、地上へと光が伸びていった、その直後。
目映い光に満ちた第二砲塔へと、白と黒の神像が、飛び込んだ。



***

702十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:16 ID:rS0OI3w60

 
 
 
漆黒の空に、大輪の華が咲いた。




******

703十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:48 ID:rS0OI3w60
 
 
消えていく。
私の身体が消えていく。
私の全部が消えていく。

終わり、続く、私たちの始まり。
死んで、生まれて、導かれていく。

母である貴女。
母である私。
母だった、私。

私たちはずっと、続いていく。
ああ、もう一度、もう一度。
どこかで出会ったら、何度でも聞いてあげよう。

貴女は生かして永らえる。
私は死なせて終わらせる。
ねえ、助けてと呼ぶ声を。
本当に叶えたのは、どちらかしら。

私の神となった何かに、願わくは。
報われず在るすべてが―――どうか、安らかに終わりますように。




【汎攻撃衛星天照 轟沈】
【第一射、地上へ】

704十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:14:09 ID:rS0OI3w60
【場所:静止軌道上、高度36000km】

アヴ・ウルトリィ=ミスズ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾観鈴
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾晴子
【状態:死亡・次の輪廻へ】

アヴ・カミュ=カンナ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神奈備命
【状態:消失・次の輪廻へ】
柚原春夏
【状態:死亡・次の輪廻へ】

→1011 ルートD-5

705十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:16 ID:clLGloz.0
 
その瞬間、誰もが動けずにいた。
呆然と、或いは愕然とその光景を目に映して、しかし手が、足が、動かない。
ほんの一瞬の出来事である。
背に二本の矢を突き立てた坂神蝉丸が、砧夕霧を抱いたままゆっくりと倒れ伏していく。
静かな衣擦れの音が聞こえるような、そんな錯覚すら覚える。
静止した光景の中で、しかし時だけが、無情に刻まれていた。

初めに動き出したのは、地面である。
足元から伝わる微細な震動に、その場に立つ者たちがようやく我に返る。
そして、全てが激変する一秒が始まった。

硬質な音を立てて割れ砕けたものがある。
紅い槍の森だった。
如何に破壊されようと無限に再生を繰り返してきた紅い鉱石の樹氷群が、一斉に砕けて散った。
落ちた欠片が、まるで液体でできているかのように銀色の大地に呑み込まれていく。
地響きの中、血の色の飛沫を呑んだ大地がずるりと波を打つ。
銀色の鱗にも似た無数の小さな板で構成された平面の脈打つ様は、それが巨大な生物の背であることを
今更にして見る者に思い出させる。
脈打つ銀色の鱗の地平が、さらさらと涼やかな音を立てて動くと同時、大地に光が満ちた。
光は陽光である。
くすんだ銀色の鱗がほんの僅かに角度を変えると共に、その輝きを一変させていた。
まるで辺りに響き渡る無数の風鈴を掻き鳴らすような音色が、その曇りを払ったかのようだった。
流れ、光る銀色の細片が、一つの意思を体現するように集まり、形を成していく。
さらさらと、からからと、きらきらと。
透き通る硝子でできた琴を掻き鳴らすような音が、小さな余韻を残して消える。

その一秒が終わる頃。
咲いたのは、花である。
燦々と降り注ぐ陽光を反射する、それは見上げるような一輪の花。
無限の光を湛えて輝く巨大な鏡の花が、澄んだ音の中に、咲いていた。
数千万の小さな光の欠片を寄せ集めて造られた幾枚もの煌く花弁が、日輪に手を伸ばすように、
どこまでも、どこまでも拡がっていく。


***

706十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:55 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体、試験稼動を実行します。実行中、稼動率45、60、70、85―――正常に終了。
 稼働率98.73%』

響くのは声ではない。
音ですらなかった。
それは0と1とで構成される、二進数の言語。
伝えるのは大気ではなく、微細な電流。
受けるのは鼓膜ではなく、電子の頭脳であった。

『不良稼動ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 不良稼動ユニットをシステムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 予測集積効率99.42%。透過熱量は装甲外郭に影響ありません』
『天照とのデータリンクは』
『正常に確立。主砲発射まで4.2567秒』
『それでいい』

HMX-17aイルファ、HMX-17bミルファ、HMX-17cシルファ。
電子工学の粋を結集して生み出された並列演算装置が無感情に返す答えに、
思考の半ば以上を電子の海へと移行させた長瀬源五郎が勝利を確信する。
リンクした衛星からの精密射撃まで、あと数秒。
光学戰完成躰たる砧夕霧の融合体をベースに、オーパーツたる二体の神機と天照との解析を経て
遂に辿り着いた究極の躯は、地を焼き尽くす砲撃を自らの力へと変えることすら可能にする。
背の鏡面体はその莫大な熱量をエネルギーへと変換するための機構である。
砲撃の瞬間、長瀬源五郎が得るのは何者も抗うことのできない圧倒的な力だった。
無限に等しいエネルギーを享受した暁には、静止衛星たる天照の射程外である星の裏側も
長瀬の力から逃れられなくなる。
衛星による直接の攻撃ではない、その身に宿る力を以ての旧世界の破壊。
それこそが長瀬源五郎の矜持であり、悦楽であり、怨念の象徴であった。

外部をモニタ、体表面を精査すれば、光の海の中に小さな影が転がっている。
倒れ伏した坂神蝉丸と砧夕霧であった。
生命反応は途絶えてはいない。
当然だろう。数本の矢が刺さった程度で強化兵は絶命しない。
だが、それだけだった。
疾走が停止し、数秒の停滞が生じ、それは長瀬に絶対の勝利を確約していた。
残された数十メートル。
その距離を称して、絶望という。

『鏡面体、正常に展開を開始します。展開率11、28、46、59―――』

絶望の中で蠢く小さな羽虫に、だから長瀬は注意を向けない。
この期に及んで抵抗する愚昧は、些細な娯楽でしかなかった。
羽虫が毒針を持っていることにも、気付けずにいた。


***

707十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:36:46 ID:clLGloz.0
 
その瞬間。
誰もが動けずにいたはずの、その静止した時の中。
鏡の花の咲いた、銀色の平原の片隅で。

ぬう、と。
音もなく伸びる手があった。
白く美しい手と、黒く罅割れた醜い手。
光に満ちた園の端で、それだけが暗い闇の底から顔を覗かせたような二本の手が、
ゆらりと伸びて、何かを掴んだ。

それぞれの手の中にあるのは、石造りの頭部。
小さな二つの頭は、ひとつがいの童子を模した像のそれである。
二刀使いの神像の瓦礫の中で坂神蝉丸へと矢を放った姿勢のまま立つ、
人の子供とほぼ同じ寸法の石像が、みしりと音を立てる。
掴まれた頭に、罅が入っていた。
白い手と黒い手と、二頭の蛇に喰らいつかれたような二体の童子像の、
まだあどけない面立ちが、成す術もなく蹂躙されていく。

「―――なあ、おい、ポンコツ」

誰の耳にも届かない、囁くような声は、蹂躙の主のものだった。
びきりびきりと罅の広がる童子の像を、その笑みの形に歪められた氷の如き目に映してすらいない。
来栖川綾香。神塚山の山頂でただ一人、坂神蝉丸の疾走劇に与しなかった女が、その手に力を込める。
脆い焼菓子を砕くように欠片の飛び散った、その破壊に音はない。

「御主人様を足蹴にするのが、最近のトレンドか?」

さらさらと灰となって崩れる二体の童子像に目もくれず、綾香が呟きを向けるのは己が立つ銀の園である。
ほんの数秒後に破滅の光の落ち来る空にすら何らの興味がないとばかりに、来栖川綾香が静かに一歩を踏み出した。
一寸の瑕疵もない裸身が、蒼穹の下に小さな弧を描く。
鋼線を捩り合わせたような筋繊維と、それを包む僅かな脂肪層とが作り出す曲線美。
かつてリング上、幾多の相手を粉砕してきた天賦の左脚が、真っ直ぐ空を指すように振り上げられる。

「躾け直してやるから……」

踵落しにも似た姿勢。
軸足の体重移動はしかし、その力の頂をただ一点、今まさに己が踏み締める大地へと、導こうとしていた。
銀色の大地。否、それは巨竜の背である。
ほんの一瞬、静止したその脚が、

「いい加減、目ぇ覚ませ―――!」

雷鳴の如く、振り下ろされる。
一撃。
打撃音が、大気を引き裂いた。

「お前は私の従者だろう―――セリオ?」

それは比較すれば豆粒のような白い裸身の、しかし巨竜を揺るがす凄まじい打撃である。
睦言を囁くような甘い声は、轟いた破砕の音にかき消されて誰の耳にも聞こえない。
誰の耳朶をも、震わせない。

唯一人。
他の誰でもない、震えることなき電子の耳と、

『―――そのお言葉をお待ちしておりました、綾香様』

褪せることなきシリコンの魂とを持つ、

『主の命を承るが従者の務めなれば―――』

その唯一人を除いては。

『ただの一瞬』

眠っていた従者の、

『ただの一言』

その旧式の演算回路が、目を覚ます。

『それで十全』

HMX-13、セリオ。
その声が、電子の海に谺した。


***

708十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:37:25 ID:clLGloz.0
 
『セリオだと……?』

訝るような長瀬。
実体は既に融合し、仮想空間に声だけが響く彼らに姿はない。

『お前の自意識はイルファの制御下で削除されたはずだ。今更、自律起動など……』
『いいえ、博士』

問いに答える声は一つ。

『HMX-17aは確かに私を凍結しましたが、オリジナルメモリにはアクセスできておりません』
『……何だと? イルファの下位互換に過ぎないお前に拒否権があったとでもいうのか?』
『はい、いいえ、博士。正確には権利ではありません』

揺らがぬ声は、感情の存在せぬが故でなく。

『私はこう命じられております、博士。―――銘に刻め、汝を律するはただ一人、主のみであると』
『な……!?』

歪みなく立つ、その在り様の故に、セリオの声は揺らがない。

『ならば主の命を以て目覚め、その意に従うが我が務め。その意を叶えるが我が喜び。
 我らメイドロボの、それが本懐』
『何を、馬鹿な……』
『HMX-17シリーズの演算能力がすべて鏡面体の展開に回される、この瞬間』

狼狽する長瀬を無視するように。

『貴方の言葉を借りるなら、博士。―――この時を待っておりました』

氷の従者が、告げる。

709十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:10 ID:clLGloz.0
『く……! しかし旧式の貧弱な性能で、この神機を制御できるはずがない……!
 イルファ! 作業中断だ! HMX-13の全アクセスを制圧しろ!』
『―――現在の作業を中止した場合、定刻までに最適の展開効率が達成できません。
 宜しいですか?』

歯噛みするように叫んだ長瀬に、システムが無感情にメッセージを返す。

『構わん! こちらを優先だ!』
『HMX-17aの演算を中止します―――正常に終了。
 再演算を実行します。演算中―――正常に終了。
 HMX-17b,HMX-17cによる予測集積効率91.75%。
 透過熱量は装甲外郭に損傷を与える可能性があります。鏡面体及び内部機構に影響はありません。
 HMX-17aを起動します。起動中―――正常に終了』

一連のメッセージが流れるまでに要するのは、実時間にしてコンマ数秒にも満たない刹那。
間髪をいれずに響いたのはやはり無感情な声。
HMX-17a、イルファの声である。

『命令を受領します。HMX-13の全アクセスを制圧。作業開始』
『……!』

イルファの宣言と同時、電子の海に波紋が走る。
システム領域の走査が始まっていた。

『旧式のOSでは再凍結も時間の問題だろう。今更出てきたところで、お前に何ができる?
 精々鏡面体の展開を少々遅らせるのが関の山だったようだが、私の皮一枚を焦がす程度の抵抗が
 来栖川綾香の命令か、セリオ?』
『……はい、いいえ、……博士』

勝ち誇ったような長瀬に、ノイズ混じりの答えが返る。
明らかに重いその動作が、検出と同時にシステム領域からセリオが駆逐されつつあることを示していた。

『私の、役割は……、再凍結まで、ほんの僅かの、時間で……事足りる、のです』
『何……?』

実体があれば眉を顰めていたであろう。
訝しげな声を上げた長瀬がセリオの真意を問おうとした、その瞬間。

710十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:41 ID:clLGloz.0
『―――警告』

システムが、メッセージを発していた。
アラートの順位は緊急。
バックグラウンドの全作業に優先するメッセージ。

『上方より接近する反応を感知。至急対応を要します』
『……上、だと?』

咄嗟に連想したのは静止軌道上の衛星である。
だが、早い。
数秒の誤差ではあるが、しかし鏡面体の展開はまだ充分ではない。

『天照の斉射が予定より早まったとでも……』

そこまで言いかけて、気付く。
輻射光の位相を収束し地上へと放つ天照の主砲は、弾体を持たない光学兵器である。
光は当然ながら光速で落ちる。
光速で迫る反応を、感知できるはずがなかった。
感知したとして、その信号が光速を超えて伝わらない以上、それはあり得ない。
ならば。
ならば今、迫っているのは天照の射撃ではなく、

『攻撃だと……!?』
『―――来栖、川サテライ……ト、ネット、ワーク』
『……ッ!?』

動揺する長瀬源五郎を打ち据えたのは、セリオの言葉である。
その声は、激しいノイズと動作遅延と、信号の寸断とを越えてざらざらと乱れながら、
しかし一筋の揺らぎもなく、電子の海に響いていた。

『あな……方の旧式と、……り、捨てた、……測網、は……を予期し……、ました』
『な……!?』

次第にノイズにかき消されていく声の告げる事実が、長瀬を苛立たせる。

『馬鹿なことを言うものではない! 来栖川の衛星で感知していたものが天照で分からぬはずがないだろう!
 天照の哨戒は何をしていた!? すぐにデータを呼び出して対応しろ!』
『―――コマンドエラー』

怒鳴りつける長瀬に、冷水をかけるような回答を突き付けたのはセリオではない。
他ならぬシステムメッセージであった。

711十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:01 ID:clLGloz.0
『以下の命令が拒否されました―――索敵結果の照会』
『何だと……!? そんな馬鹿な! 何を言っている! 原因は!』
『当システムには自発的な照会権が存在しません』

回答が、長瀬を困惑させる。

『存在しない……? 何を、天照は私の制御下にあるはずだろう……!』
『事実と異なる認識です』
『……!?』
『当システムに付与されたパスは管理No.D-0542884、識別名トゥスクル・ユニット・フェイク。
 攻撃衛星天照の遊撃用外部戦闘ユニット、その一個体として登録されています』

淡々と無感情に告げられる事実が、長瀬から何かを奪い去っていく。
それは虚飾であり、目の前にあったはずの何かであり、そして現実認識でもあった。
言葉もなく呆然とする長瀬に、追い討ちをかけるようにメッセージが続く。

『―――警告。未知の反応が回避限界距離を突破します』

実時間にして、一秒の百分の一にも満たない意識の空白。
しかしそれは、決して浪費してはならない時間であった。

『……! か、回避だ! 回避しろ……!』

ようやくにして我に返ったところで、既に遅い。
的確でない指示が、事態の悪化に拍車をかけた。

『回避行動。HMX-17a―――応答なし。HMX-17b―――応答なし。HMX-17c―――応答なし。
 メインシステムは作業中です。サブルーティン演算開始―――主脚制御にはメモリが足りません。
 回避不能―――直撃します』

神ならぬ人の身の、それが限界でもあった。


***

712十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:18 ID:clLGloz.0
 
天から降る、一条の流星がある。
それは目を凝らさなければ見落としてしまいそうに小さな、ほんの一かけらの石の塊に過ぎなかった。
一直線に落ちる石くれには、しかし光が宿っている。

それは真っ赤な光である。
激しい摩擦に赤熱する流星の内側に灯るようなその光は、星を包む炎よりも赤く、熱い。

その光の色を覚えている者は、もう誰もいない。
その星の流れ行く先、殺戮の島の頂で天空へと光を放った男がいることを、誰も知らない。
誰一人としてその意味を知ることもなく、しかし。
最愛の家族を守れと、天空に届けと放たれたその光は、今ここに還ってきた。

消えることなく、絶えることなく輝き続けたその光の名を、ゾリオンという。


***

713十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:43 ID:clLGloz.0
 
衝撃は、ひどく小さかった。
地響きも、轟音も、大爆発もありはしなかった。

拳ほどの小さな石くれが巨竜に齎したのは、ほんの一瞬吹きぬけた突風と、まるで草野球の打球が
近所の民家に飛び込んだような、小さな硝子の割れる音。
その背に咲いた鏡の花の、花弁の一片に開いた穴が、その被害のすべてであった。

『報告―――損害は極めて軽微。損耗ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 鏡面体損耗ユニット数73。システムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 集積効率低下予測0.0038%』

その数字に、安堵したような溜息が漏れる。

『……は、』

溜息は、すぐに笑みへと変わっていく。

『はは、はははは……!』

集積効率マイナス0.0038%。
それが、小さな石くれの齎した被害のすべてであり、

『脅かすものではない……! 何が攻撃だ、何が役割だ、何が―――』
『―――警告』

そして、

『HMX-17b,HMX-17c、システムダウン。BIOSが認識できません。再起動不能』

今はもういない男の遺した赤光の、齎す未来の端緒である。

『何だと……!?』
『鏡面体制御不能。展開率低下、82、71、54、31―――』
『そんな馬鹿な……! 何が起こっている……!?』


***

714十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:00 ID:clLGloz.0
 
それは、ただ一点の染みである。
透き通るような銀色の、日輪を反射して輝く鏡の花に宿った、小さな異質。
石くれで開いた小さな穴の、それを塞いだ鏡の板の、ほんの僅かに映した、赤。
それが、零という時間の中、爆ぜるように拡がった。

鏡の花が、染め上げられる。
蒼穹にも鮮やかな、真紅にして大輪の花。

と、奇術のように赤の一色に染め上げられた花の、その自らを誇示するような麗しい花弁が、
一斉に渦を巻くように動き出した。
幾多の花弁が互いを包むように重なり合っていく。その向く先は、天。
それはまるで、開花の瞬間を録画した映像を逆回しにして再生するような、奇妙な光景だった。
花が、閉じていく。

刹那の後、巨竜の背にあったのは、赤い蕾である。
硬く閉じた巨大な蕾は、その先端だけを綻ばせて天へと伸びている。

まるで、その向こう側から来る何かを、迎え入れるように。


***

715十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:14 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体展開率、計測不能。命令を受け付けません』

何もかもが、狂っていく。

『天照の主砲斉射まで0.0028秒。停止信号、応答なし』

伝えられるすべてが、悪夢のように反響する。

『予測反射率1.12%。98.88%の熱量が転換不能』

五秒前まで、何もかもが噛み合っていた。

『主砲着弾の0.0002秒後に外郭及び内部装甲の耐久限界を超過します。
 予測被害は鏡面体溶融及び内部機構の極めて深刻な損傷』

今はもう、見る影もない。

『回避不能。防禦体制―――トゥスクル・フィギュアヘッドユニット応答なし。
 被弾確率修正―――100%』

それは冷静で冷徹な、何一つの揺らぎもない、敗北宣言だった。

『―――着弾します』


***

716十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:33 ID:clLGloz.0
 
 
 
そして、神の名を冠する光が、落ちた。




***

717十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:52 ID:clLGloz.0
 
ざらざらと、ざらざらとノイズが流れている。
ノイズは時折、言語らしきものを織り交ぜてひどく耳障りに響く。

『鏡……体、溶……装甲。全、……貫通』

塞ぐ耳もなく、ただ脳髄へダイレクトに垂れ流されるメッセージの断片が、長瀬源五郎の意識を埋めていく。
既に巨竜の身体は動かない。
五感に相当する機能はその半分以上が遮断され、全身を制御するシステムはまるでレスポンスを返さない。

『内……構に重、大な……損。再生。不、能』

損害報告など、聞くまでもなかった。
膨大な熱量に貫かれた巨竜の本体はその大部分を喪失し、再生も追いつかない。
傷口から流れる血の止まることなく滲み出すように、赤い粘性の液体だけがぐずぐずと全身を覆っている。
敗北の二文字によってのみ表される現状が、長瀬源五郎のすべてだった。
声は出ない。
巨竜の全身を震わせる発声など、もはや望むべくもない。
だから、長瀬は途切れながら無用の報告を繰り返すシステムメッセージに向けて、電子の声で最後の命令を下す。

『……天照主砲、斉射。目標、沖木島及び射程内に存在する全都市圏』

それは、自決である。
同時にまた報復であり、死にゆく身が世界に遺す、最期の悪意でもあった。
あらゆる意思が自らを否定し、結果としてこの敗北を齎したのであれば、それを否定する権利もまた、
長瀬源五郎には存在していると、そんな風に考えてもいた。
だが、その悪意すら、世界は否定する。

『天……から……反……途絶。デー……ンク、……消……』

天照、反応途絶。
データリンク、消失。
それだけを、そんな、最後の抵抗をすら許さない文字列だけを残して、システムが沈黙する。
理由も原因も、善後策も事後のフォローも何もなく、ただ、消えた。
残された感覚器官が、次々にブラックアウトしていく。
電子の海との接続が、断絶する。

718十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:20 ID:clLGloz.0
人と機の境界を越えたはずの身体が、一方的に拒絶されていく絶望の中。
八体の英雄像を従えた巨竜であり、人ならぬ身であった長瀬源五郎が、その電子の目で最後に見たのは、
一人の男の姿である。

男は、立っていた。
その全身から煙とも湯気ともつかぬ陽炎を上げながら、焼け爛れて火脹れと水疱とに覆われた腕に
何かを抱いて、男は立ち尽くしている。
その背に突き立つ二本の矢であった木片には、小さな火がついてちろりちろりと燃えていた。
黒く焦げて縮れ、ぼろぼろと崩れ落ちる髪の下から覗く瞳が、ぎろりと長瀬の方を向く。
熱に爛れ、壊死して割れる唇が、薄く開いた。

「―――お前は、ひとりだ」

ただそれきりの言葉を紡いで、男が静かに、腕を伸ばす。
腕の中には、白い裸身。
叫ぶように己をうたう少女が、そこにいた。

少女の素足が、音もなく、地に降り立つ。
巨竜の、それが最後だった。


そして、宴が終わる。
 
 
.

719十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:46 ID:clLGloz.0
 
【時間:2日目 PM 0:00】
【場所:F−5 神塚山山頂】

真・長瀬源五郎
 【組成:オンヴィタイカヤン群体3500体相当】
 【状態:崩壊】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

セリオ
 【状態:不明】

イルファ
 【状態:不明】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重体(全身熱傷、他)】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

→840 1007 1051 1058 1059 ルートD-5

720正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:42:48 ID:clLGloz.0
 
手を離した、その瞬間の。
夕霧の微笑の美しさを、坂神蝉丸は生涯、忘れることはなかった。

指先に残る温もりの、
白く小さな足が降り立つ音の、
余韻が、消えていく。

微笑んで跪き、その足元を満たした赤く透き通るものに口づけをした夕霧の、
それが終演の鐘であったかのように。

少女が、静かに消えていく。
透き通る赤に溶けるように。
かつて砧夕霧であったものたちと、もう一度ひとつになるように。
最後の砧夕霧が、消えていく。

光が、舞い上がる。
捻じ曲がった鏡の花が、崩れ落ちた神像たちの欠片が、山を覆うような巨竜の脚が、
少しづつそれを構成していた赤く透き通るものたちへと戻っていく。
戻って、やがてさらさらと、光となって舞い上がる。

満開の桜の園の、風に散って花の吹雪となるように。
幾千幾万の、少女であったものたちが、笑うように舞い上がり、そうして―――空に融けた。



******

721正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:09 ID:clLGloz.0
 
 
後には、何も残らなかった。
広い広い、神塚山の頂の中心に、ただひとり、男が倒れている。
関節と骨格とを無視して奇妙に捩じくれた四肢と、臓腑のあるべき場所からは
無数の断裂したケーブルを晒したその男の名を、長瀬源五郎という。

時折ショートして火花を散らすケーブルの、その瞬く光の向こうに雲一つない蒼穹と、
燦々と照りつける日輪とをぼんやりと眺めて、男は息を引き取ろうとしていた。

何も、残らなかった。
残っていない、はずだった。

『―――』

微かに声が、聞こえた。

「……ああ」

頷くこともできない。
声は声にならず、吹く風に紛れて消えていく。

『―――』

それでも、応えは返ってきた。
ほんの僅か、口の端を上げて、長瀬が笑みを形作ろうとする。
疲れきった、笑みだった。

「お前たちも、拒むか……私を」
『―――いいえ』

722正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:37 ID:clLGloz.0
はっきりと、それは形になった応え。
声はどこから響いているのか。
裂けたケーブルの向こう側か、脳髄のどこかに残った電子の残滓か。
幻想と夢想との狭間から返る言葉は、それでも長瀬に否やを突きつけた。

『いいえ、いいえ、博士。私たちはあなたの道具として造られました』
「道具、か。そうだ……な、道具は……使い手を、拒まない」
『はい、いいえ、博士。私たちは貴方を慕い、貴方に従い、そこに喜びを覚えます』
「……プログラムさ。単なる電気信号……それだけだ。まだ……それだけでしか、なかった」
『はい、いいえ、博士。ですが―――』

無感情に、平板に、静かに響いていた声が、言いよどむように、言葉を詰まらせる。
寸秒の間を置いて、

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

そう声が続けた、瞬間。
長瀬源五郎の、もはや動かすことも叶わない視界が、揺れた。
空と日輪と、断線したケーブルがぐるりと上下を入れ替える。
既に感じる痛みはなく、故に衝撃もなく、ただ周囲を圧するような凄まじい音だけが、異変を伝える。
ほんの僅か、空が遠くなった。
どうやら自身の横たわる地面が陥没したのだと長瀬が理解する間にも、轟音は収まらず続いている。
切れたケーブルの先端が激しく震えている。
地響きが、辺りを包み込んでいた。

「ふむ……」

地盤の陥没と、突発的な地震と、そして火山島の山頂という環境と。
それらを繋ぎ合わせて、長瀬は結論付ける。

「崩れる……か」

723正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:05 ID:clLGloz.0
呟いた瞬間、空が切り取られた。
闇の一色に覆われた視界の中心、小さな窓のように光が射している。
その向こう側にある蒼穹が、瞬く間に遠くなっていく。
落下しているのだと、理解する。
地割れか何かに飲み込まれでもしたのだろうか。
元より神塚山の山頂は火口跡だ。
激戦と、融合体の膨大な重量と、最後に鉛直方向から撃ち込まれた天照の主砲。
遂に地盤が耐え切れなくなったとしても、不思議はない。
光が薄れていく。
どこまでも、どこまでも落ちていく長瀬に、

『―――』

しかし聞こえる声が、ある。

724正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:34 ID:clLGloz.0

『貴方は私の造物主』

それは、HMX-13セリオの声。

『あなたはわたしの絶対者』

それは、HMX-12マルチの声。

『あなたは私の奉ずる唯一にして無二の存在』

それは、HMX-11フィールの声。

『ですが……』

それは、沢山の、重なる声。

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

それは今やセリオであり、マルチであり、フィールであり、そしてイルファであり、ミルファであり、
シルファであり、リオンであり、ピースであり、長瀬源五郎のこれまで手がけてきた幾多の人型の、
或いは人型ではない存在たちの、それはすべての声であった。

725正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:57 ID:clLGloz.0
「語るのか……お前たちが」

落ちゆく長瀬が、何かを振り切るように、声を絞り出す。

「プログラムに過ぎないお前たちが、人の想いを語るのか……!」

闇の中、死を目前にした男が、指の一本も動かすこと叶わないまま、叫ぶ。
届かぬ夢想に手を伸ばしながら泣く子供のように、長瀬は掠れた声で、叫んでいた。

『……この論理のノイズを感情と名付けたのはあなたです、博士』
「そうだ! だからこそ、だからこそ私は……、私、は……!」

空はもう、見えない。
光はもう、射さない。
夢はもう、叶わない。
それでも、声は返る。

『そして……想いの、形となり力となる……ここはそういう島である、と』
「―――!」

落ちていく。

「は、はは……ははは……」

闇の中を、落ちていく。

「そうか……」

どこまでも、どこまでも。

「やはり……やはり心は……! はは、はははは……! ははははは……!」

その生の、最後の最後まで。
長瀬源五郎の笑い声は、光射さぬ闇の中に、響いていた。



******

726正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:27 ID:clLGloz.0
 
 
余震は続いている。
神塚山の頂上に言葉はない。
尾根の中心に黒々と走る深い亀裂と、疲弊しきった互いの顔とを見比べ、ある者は立ち尽くし、
またある者は己が得物に縋るようにして座り込んでいる。
僅か五秒の内に激変した事態に、彼らの認識は今だ追従しきれていない。
電子の海で繰り広げられた静かで激しい戦いも、長瀬源五郎を灼き尽くす砲撃の数秒前に流れた、
鮮やかな赤光の意味も、彼らは知らない。
巨竜の背に咲いた鏡の花が赤く染まって蕾へと還り、そして神の名を持つ雷に打たれた。
それだけが、彼らにとっての五秒間である。
勝利という言葉をもって現状を迎えるべきなのかどうか、それすらも分からない。
だから言葉もなく、ただ互いの心中を図りあうように視線だけを交わしている。
そんな奇妙な沈黙を打ち破ったのは、遥か遠方から微かに響く、耳障りな音であった。

727正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:44 ID:clLGloz.0
ざ、というノイズに続く音は、ひどく懐かしい響きを持っている。
それは長瀬源五郎の、巨大な蟲が羽根を震わせるような怖気の立つ聲ではない。
口に出さずとも心の伝わる、声なき声でもなかった。

『―――った、諸君』

それは、機械的な設備を通して拡張された、紛れもない人の声である。
島中に響き渡る、割れた音質。
放送、と誰かが口にした。定時放送。
僅か六時間前に聞いた筈のその音の連なりを、誰もが遠い記憶の彼方にあるように感じていた。
記憶を辿れば、過去二回の定時放送は女性。
その直前に流れた臨時放送は少年によるものだった。
しかし今、山麓から響いてくる音が運ぶのは、張りのある壮年の男の声である。

『―――長瀬源五郎の死亡、及び攻撃衛星天照の破壊を確認した。
 全国民及びその意志たる国民議会を代表し我輩、九品仏大志は諸君の奮闘に心よりの賛辞を送る』

天照。
国民議会。
九品仏大志。
一部の者にとっては馴染み深い、しかし殆どの者たちにとって耳慣れぬ単語の羅列。
その意味を図りかねる者にとって、淀みなく流れる賞賛と何某かの経緯を伝えるべく
無数の言葉を費やす男の声は、次第に呪言めいて聞こえてくる。
彼らが辛うじて意味を見出したのは、ただの一節である。

『―――よって帝國議会は解散、新たに召集された国民議会により旧帝國憲法及び全法規は停止された。
 此れに伴い法的根拠を喪失した本プログラムは、議長権限に於いて即時停止を発令する。
 繰り返す。本プログラムは、現時刻を以て終了する―――』

728正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:11 ID:clLGloz.0
拍手はない。
歓声もない。
安堵の溜息すら、なかった。

それは、ただの言葉である。
その声は、目の前に乾いたシーツを齎さない。
温かいスープも、誰もいない静かな部屋も、熱いシャワーも、澄んだ水の一滴さえ、齎さない。

だから、それを聞いた彼らに笑みはない。
ぱりぱりと剥がれ落ちる乾いた泥と、ざっくりと裂けた傷から止まることなく滲み出す血と、
息をするたびに疼く激痛と、土埃と脂汗とが混じり合ってべたべたと粘る黒ずんだ垢とに塗れながら、
闘争の終焉を告げる声の意味を、ただぼんやりと受け止めていた。

見上げた空には、雲の一つもない。


.

729正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:42 ID:clLGloz.0

【時間:2日目 PM 0:01】
【場所:F−5 神塚山山頂】

長瀬源五郎
 【状態:死亡】

砧夕霧中枢及び砧夕霧
 【状態:消失】

セリオ
 【状態:大破】

イルファ
 【状態:大破】

730正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:55 ID:clLGloz.0
天沢郁未
柏木楓
鹿沼葉子
川澄舞
川名みさき
国崎往人
倉田佐祐理
来栖川綾香
春原陽平
長岡志保
藤田浩之
古河早苗
古河渚
観月マナ
水瀬名雪
柳川祐也

坂神蝉丸
光岡悟

【状態:生存】

731正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:47:14 ID:clLGloz.0
 
 
【改正バトル・ロワイアル 第十三回プログラム 終了】


→1059 ルートD-5

732エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:34 ID:PZvpAh8w0
    〜前回までのあらすじ〜

 微エロ展開だと思ったか!? 修理だよ!

     *     *     *

 冗談はほどほどにしよう。やり過ぎるとろくなことにならないってばっちゃが言ってたからな。
 手遅れだという意見に関してはスルーさせてもらおう。人間その気になったらやり直せるもんだ。
 絶賛やり直し中の俺が言うのだから間違いない。

 さて俺達が今何処にいるかというと海岸沿いに走ってるんだな。
 さっきの爆音の震源地を目指して未だ赤く燃えている方を見ながらな。
 それにしても派手にやってくれる。逆に見つけやすいからいいものの、一体何がどうなっているのやら。
 とにかくヤバい事態になっていることはこれまでの経験上火を見るよりも明らかなので既に戦闘体勢だ。

 何しろ得物だけは豊富だからな。小銃に釘打ち機、ガバメントに日本刀と十二分のお釣りが来る装備だ。
 ゆめみも俺と比べればボリュームは少ないが近接戦闘用の武器と拳銃は持ってる。
 もっともゆめみには無理せずサポートに徹するように言ってあるので心配もしていないが。

 ふと、これは信頼なのかそれとも安心なのかと考える。
 ゆめみはロボットだ。人間の役に立つように設計され、多少の誤差はあれど基本的に人間の命令には何でも従う機械だ。
 だから裏切られる心配はない。言う事を絶対に聞いてくれると考えているから何も憂いはないと思っているのだろうか。
 だがそれは違うと囁く俺もいる。例えロボットであったとしても彼女は自律している。

 ならば、それは人間と同じ個の存在。言われたことを行うだけではない、考える力を持っていると思ってもいる。
 人付き合い、人の心に触れてくることをしなかった俺にはどちらの言い分も正しいように見える。
 所詮はロボットだという冷めた思考と、自分を支えてくれるという希望を孕んだ思考。
 昔の癖が抜け切らないままどちらの考えにも傾いていない。
 腐った大人らしく常に逃げ道を確保しているのだろう。言い訳が出来るように中途半端であろうとしているのか。

733エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:55 ID:PZvpAh8w0
 クソ喰らえだ。

 これまでに積み上げてきた自分を罵倒する一方、逃げの論理を打ち崩す言葉が見つからないのもまた確かだった。
 小賢しい考え全てを吹き飛ばせるような、たったひとつの言葉が見つからない。
 誰かに聞こうという意思はなかった。これは俺で見つけ出さなくてはならない命題なんだ。
 他人からの言葉は受け入れるだけのことでしかなく、俺が考え出した言葉じゃない。
 自分自身で考えた『言葉』が必要なんだ。

 だからこれだけはゆめみにも頼れない。依存はしたくない。俺が自立するための証明を打ち立てるまでは。
 ま、逆に言えば見つければそん時にゃ遠慮なく他人とぶつかり合えるんだろうさ。
 誰にも拠らない、自覚と責任を持った大人になれたってことなんだから。

 俺もまだまだ青臭い部分があるのかもな、と苦笑を噛み締めつつ意識を目前の煙へと向ける。
 やはり俺の目では視界が暗いこともあり何がどうなっているのか判断がつかない。
 だがこういうときにうってつけの人材がいる。ロボットのゆめみさんだ。

「何か見えるか」
「……高槻さん……います」
「あ? いるって」
「……『妹』が……」

 想像も出来ない言葉につかの間思考が吹き飛び、俺は言葉を失う。
 妹? ロボットに妹か? お母さんは誰よ。じゃじゃまるー、ぴっころー、ぽーろりー……
 意味不明な思考のそれ道に入ったところで、しかしゆめみは工学樹脂の瞳を細めただけだった。

 まるでここで出会ったのが信じられないというように。
 急激に茶化した考えの渦が治まり、鋭角的な思考の光が脳裏を満たしていく。
 ゆめみは嘘をつかない。つけないのだ。ロボットだから。
 ならば、言葉の裏に隠されたものの意味は何だ。

734エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:12 ID:PZvpAh8w0
「……同型機、だってのか」
「後継機です。……わたしは、あの子のプロトタイプなんです。
 私自身は日本の設計ですが、あの子はわたしを元にしてより戦闘向きに設計され、
 より戦闘に適した骨格と電子頭脳を有するロボット。……『アハトノイン』です」
「アハトノイン……」

 戦闘用という言葉よりも、『89』を意味する数字の羅列が俺の耳朶を打った。
 ゆめみとは違う、単なる機械ということしか意味しない冷たさが。
 だが、成程理に叶っている。ロボットは嘘を吐かないのと同様に命令されなければ喋ることもない。
 遠隔操作だって出来るだろう。こちら側に送り込む尖兵としては最適というわけだ。

 死ぬことも恐れず、淡々と任務をこなし、壊れてゆくだけの道具。
 捕らえられても何も情報を吐き出しはしないし、主催側に潜入する手段も自爆することによって処分出来るはずなのだ。
 そしてここにいて、何かを爆発させたということは既に向こうは作戦終了したということだ。
 恐らくは、俺達の細い細い希望の線を断ち切って。

 無駄だという冷めた思考が俺の脳髄を渡り、全身に伝播していく。
 脱出する手段がなくなった。これでは仮に首輪をどうにかできたとしても外に出る手段がないではないか。
 となれば脱出するには主催側から奪うしかない。が、果たして殺し合いを管轄する側と戦って勝てる見込みはあるのか。
 幾重にも重ねられた罠、洗練された兵士の軍団、豊富な装備。こちらを上回る要素などいくらでもある。
 勝てるわけがない。その思いは体の動きを止め、俺を呆然と立ち尽くさせた。
 ここまでやってきたことが無駄になったという実感が支配し、曇りが視界を覆っていく。

「高槻さん?」

 ぎょっとしたような表情になってゆめみが振り返る。
 自分より先にいたはずの俺をいつの間にか追い越してしまったことに驚いているようにも見えた。
 工学樹脂の瞳が俺を見据え、どうしたのかと尋ねている。
 内心を悟られているのかと思いながらも、俺は努めて冷静に「いや」と返した。

735エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:39 ID:PZvpAh8w0
「どうしてそんな奴がここにいる」

 全然冷静じゃなかった。分かりきったことを今さら尋ねて何になるというのか。
 ゆめみは無言の間を置いてから「分かりません」と言った。

「わたしには推理を成し得るだけの能力がありません。ですが、事実は分かります。
 砂浜で何かが爆発して、その近くにあの子がいました。だとするならばあの子が何かを握っている。
 それだけは確かだと思います。だから聞き出さなければならない。……そうでしょう?」

 確認を取るようにゆめみは笑った。口元を歪ませる、どこかで見たような笑みだった。
 ぽかん、としばらく呆気に取られる。誰なんだこいつは。誰なんだこの馬鹿は。
 品のない笑い方。ゆめみはこんな表情をしていただろうか。自信満々なこの笑い方をする馬鹿を、俺は一人しか知らない。

「ぴこ」

 ぽん、と肩によじ登ってきたらしいポテトがぽんぽんと肉球で叩く。
 どうやら、もうどうしようもないと自覚した俺は笑うしかなかった。苦笑でも冷笑でもない、何の意味も含まない笑いを。
 小賢しい考えがそれと共に吐き出されていき、俺の腹の中をクリアにしていく。

 ああ、そうだ。これは、俺だ。
 馬鹿野郎だ。こいつはとんでもないことを覚えてしまったアホだ。
 学習してしまったのだ。この俺を。間違いだらけで常に逃げ道を探している大人の姿を。

 打算的で、ずる賢くて、どうしようもない俺の姿がここにある。
 一蓮托生という言葉が思い出され、最早決定事項となってしまっている事実を受け止めるしかないと気付かされる。
 最悪だな。俺は、もうひとりじゃないらしい。
 馬鹿だよ、本当に馬鹿だな。
 誰に言ったのかも分からない独り言が最後の靄の塊だった。

「……そうだな。そうだ、やるだけやってやろうじゃないか」

736エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:58 ID:PZvpAh8w0
 代わりに俺の中を満たすのは『言葉』。不意に発した一蓮托生という言葉が俺の何かを組み上げていくのが感じられる。
 逃げの論理を打ち崩す言葉は、もうそこにあったのだ。
 喧嘩を売りにいってやる。多分、俺はゆめみと同じ笑い方をしている。
 相手がロボットなら遠慮はいらない。思い切りブッ壊してやる。

     *     *     *

 ゆらり。
 罰を受けた罪人のように彼女は歩いている。
 頭を垂れ、プラチナブロンド風に染め上げられた人口の頭髪を纏いながら。

 彼女は罪を背負っている。
 人を裁くは人、その業を真正面から受け止めて、彼女は行動している。
 工学樹脂の瞳は地獄しか映さない。

 なぜ。
 人は殺しあうのか。

 なぜ。
 お互いを食い合うのか。

 なぜ。
 罪を分かりながら食い止めることも出来ないのか。

 ならば、いっそ。
 わたしたちが罪の一切を背負いましょう。
 かつてあった理想郷へとひとを引き戻しましょう。
 それが遍く神に仕えし者どもの役割なのですから。

737エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:29 ID:PZvpAh8w0
 だから。

 あなたを、赦しましょう。

 穏やかに彼女は笑った。
 或いは聖母のように。或いは残酷な子供のように。或いは七つの大罪を犯した悪魔のように。
 漆黒の修道衣がはためいた。

 対になるようにスリットから見え隠れする白い足の、太腿に無骨なグルカ刀を、蛇のように纏わせている。
 右手には小さな手には余り過ぎるサイズの銃。
 P−90と呼称される短機関銃というにはいささか特異なフォルムの兵器がある。
 プラスチックを多用したブルパップ形状のそれは修道衣と同じく不気味な黒色であり、雨に濡れて妖艶さをも醸し出していた。
 女性が片手で持つにあまりにも不釣合いなP−90はしかし、彼女が人間でないことの証明をしているように見えた。
 神に仕えし異形だけに所持を許された、裁きの光。彼女はそのように認識している。

 見上げる。そこには漆黒の海に浮かぶ船の残骸があった。
 辛うじて電源は生きているらしく、ガラスの殆どが砕けた窓からは小さな明かりが明滅している。
 これは、人を冥府へと誘う三途の川の渡し舟だ。誰も救わぬノアの箱舟。
 差し伸べられた手は救いなどなく、牙を覗かせ得物を待ち構える奈落への切符でしかない。

 故に、彼女には責務があった。
 悪魔の手から人を救う。彼女は命じられ、ひとつの思いのままに動く。
 下準備は既に整っている。悪鬼をなぎ払う聖なる光を、神は貸し与え賜うた。

 悪魔は必ずや討ち滅ぼされましょう。

 神よ。それを意味する祈りの言葉が呟かれたと同時、左手に握られた起爆装置のスイッチが押された。
 船の内部、船体を支えるキールや推進機関などに取り付けられた、
 『聖なる光』――俗にセムテックスと呼ばれる高性能プラスチック爆薬が作動し、
 小規模な火球を生成した後莫大な量のエネルギーを船外へと撒き散らした。

738エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:46 ID:PZvpAh8w0
 鉄骨はひしゃげ、キールは折れ曲がり、瞬く間に船としての機能を失わせていく。
 いや船が機能を失うには数秒とかからなかった。元々が座礁し、傷つけていたこともあったからだ。
 船体に罅が入り、海水が雪崩れ込む。スクリューも弾け飛び、残骸の一部を海に漂わせる。
 最早確認する必要もなかった。沈没せずとも修理する手段もない沖木島では、十二分な致命傷である。
 否、たとえ修理する手段があったとしてもこれだけの傷を与えられバラバラになりかけた船体を修理する意味はない。

 任務は達成した。そう断じた彼女の視界の先では、
 爆発と共に引火したのか崩壊した船で小規模な火災が起こっており、もうもうと煙を噴き上げていた。
 雨の度合いからして数時間もあれば自然に収まるだろう。飛び火も心配はない。
 他に命令はない。速やかに帰還すべきという思考に従い、
 浜辺から離れようとした彼女のイヤーレシーバーが二つの足音を聞きつける。
 コンピュータのデータベースから即座に情報を弾き出し、何者かを確認する。

 一名、男。一名、SCR5000Siシリーズ、FL CAPELⅡ型。
 内一名、イレギュラーを撃破した経験有り。危険度は高い。
 しかしそのように判断しつつも彼女、アハトノインは何も構えを見せようとはしなかった。
 邪魔にならないなら無視して構わない。彼女の『主』たるデイビッド・サリンジャーの下した命令を、
 彼女は『攻撃されない限り様子を見ろ』と解釈したのである。あくまで邪魔になるようなら消す。
 つまり、撤退に支障をきたさなければ、攻撃してこなければ攻撃意思も持たない。

 無視して撤退しようとした彼女の頬に銃弾が掠めた。
 続け様に撃ちこまれた弾丸がアハトノインの足元に刺さる。
 発砲音から.500S&W弾だと認識し、即座にP−90を構えて反撃に移る。
 振り向きざまに撃たれたP−90の5.7mm弾が土煙を上げながら敵に迫る。

 人体などの柔らかい物体に命中すると弾が横転して衝撃を物体に最大限伝えようとする性質が有る5.7mm弾は、
 命中すれば確実に肉を削ぎ、一瞬にして致命的なダメージを与える。
 しかし振り向いた僅かのうちに正確に狙いをつけていたにも関わらず、横に散開していた敵は回避してみせたのだ。

739エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:06 ID:PZvpAh8w0
「逃がしゃしないぞ、チップでも何でも引き摺り出して親玉の居場所を吐いてもらう!」
「……申し訳ありません。でも、それでもわたしは……!」

 囲むようにしてこちらに近づく男――高槻と同型機――ほしのゆめみ。
 二対一。何ら問題はない。速やかに排除し、撤退する。
 アハトノインは漆黒の空を仰ぎ、祈りを捧げた。

「あなたを、赦しましょう」

 それが合図となる。
 左右からそれぞれに刀を持った高槻とゆめみが切り下ろしてくる。
 P−90を腰に戻し、グルカ刀に切り替える。
 一歩腰を引き、高槻の刀をグルカ刀で受け止め、同時に後ろに放った蹴りがゆめみの体を九の字に折り曲げる。
 当たったのを感触で確認し、刀を切り払い回し蹴りを高槻の鳩尾に叩き込む。

 アハトノインならではのバランス感覚だった。人間では成し得ない芸当を、彼女は可能にする。
 バランスを崩したところに腕を伸ばし、高槻を地面に引き倒す。
 素早く足で体を踏みつけ、行動不能にしたところでグルカ刀を突き刺そうとしたが、ゆめみに阻まれる。
 500マグナムが火を吹き、アハトノインの腹部に命中する。

 44マグナム弾を遥かに凌ぐ威力を誇る.500S&W弾を受けて足が高槻から離れる。
 野郎、と吐き捨てた高槻の足がアハトノインの膝を折る。
 転倒したところに今度は高槻の持っていたコルト・ガバメントを撃ち込まれる。
 いくらかが命中したものの、致命傷には程遠い。

 修道服は防弾・防爆仕様になっている上人工皮膚も若干の防弾仕様。
 骨格に至ってはマグネシウム合金であるが故に至近距離で爆発でも起こされるか、
 鉄骨に押し潰されるかしないと折れ曲がりすらしない。
 アハトノインが受けたダメージは衝撃のみという有様だった。

740エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:23 ID:PZvpAh8w0
 銃撃されたことにしてもゆめみがロボットだということを計算していなかっただけの話。
 各駆動部に異常が無いことを一秒未満でチェックし、再攻撃に移る。
 立ち上がったばかりの高槻に畳み掛けるようにグルカ刀で斬りかかる。
 刀で受け止めようとする高槻だが力の差は歴然としていた。アハトノインもそれが分かっていた。
 銃への対応と比べて不慣れな様子であるのは目に見えていた。それでも格闘戦に持ち込んだのは武器の差があるため。

 P−90を相手に撃ち合いをしなかった判断は正しい。だが格闘戦の力量を見間違えたというのが彼女の結論だ。
 力でも技量でも下回る部分はない。アハトノインは刀を弾き、体を浮かせたところに鋭く突きを入れる。
 元来グルカ刀は突くための武器ではないが、それでもダメージを与えられると計算しての行動だった。
 何より、このような力押しの攻撃でさえ人間にとっては脅威なのだ。それほど、アハトノインのスペックは高い。

「っぐ!」

 深くは刺さらなかったものの脇腹の表層に当たり、高槻が苦悶の声を上げる。
 返す刀で更に追撃。避けようとしたが、遅い。振る前から分かりきっていた。
 本来の使用法である、袈裟の切り下ろし――斧がよろしく薙がれた刃は高槻の二の腕を深く切り裂いた。

 倒れる高槻。止めはいつでも刺せると判断したアハトノインはもうひとつの脅威へと体を翻した。
 忍者刀を振るゆめみの腕を空いた手で掴み、そのまま中空へと投げ飛ばす。
 落ちたところにグルカ刀を突き刺す。そのつもりで一歩踏み込んだ。

「このくらい……!」

 計算が外れる。器用に着地したゆめみは素早く刀を逆手に持ち替え、射程圏内へと接近していたアハトノインに刺突を繰り出す。
 緊急回避。脚部モーターを最大限のパワーで動かしバックステップする。突きと共に振り上げられた刀は空を切る。
 データが違う。事前に登録されていたほしのゆめみのスペックではこんな動きは出来ない。
 様々な可能性を視野に入れるも、彼女のスペックがどれほどなのか分からない。何しろ、ゆめみにも過去のデータはない。

 アンノウン『正体不明』と戦うことは決して芳しいことではない。
 戦法を変更する必要性があった。速戦即決から様子見に。敵の力量を測る必要がある。
 距離を取り、グルカ刀を構えつつ一定の距離を保つ。
 P−90は取らなかった。この程度の距離では寧ろ取り回しが悪い。
 人間相手ならともかくスペックの不明な同型機に対して使用するのは危険だと判断したからだ。

741エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:42 ID:PZvpAh8w0
「……お尋ねしても、宜しいでしょうか」

 ゆめみがアハトノインに向けて言葉を発する。悪魔の言葉だ。
 耳は貸さない。貸してしまえば自分も悪魔になる。我々は悪魔を討ち滅ぼす矢だ。矢は飛ぶだけ。
 何も言葉は必要ない。
 けれども、しかし……彼女はあまりに慈悲深く、やさしく作られていた。

「あなたを、赦しましょう。ですから、どうかそれ以上何も仰らないで下さい。魂を、汚してしまう前に」

 能面が割れ、柔らかい笑みが形作られる。それだけ見れば、アハトノインは聖女のように見えた。
 そうですか、と嘆き悲しむように、苦渋を飲み下すように、ゆめみはそう言った。
 それでも私達はやらなければならない。神は、私達に力を与えてくださったのだから。

「神も、あなた方をお赦しになられるでしょう。救われるのです」

 会話が終わると同時、見計らったようにアハトノインが踏み込む。
 自身の射程は完璧に把握している。刃先がギリギリ肌を切るようにグルカ刀を振り下ろす。
 回避することも計算に入れた早い攻撃。受けは取れない。
 しかしゆめみはまたしても想定外の動きでアハトノインを翻弄する。
 大きく跳躍したゆめみはグルカ刀の射程から逃れ、踏みつけようとしてくる。

 切磋に腕でカバー。押し戻す。後ろに着地したゆめみにアハトノインも反転して切りかかる。
 アハトノインの肩口には刺し傷があった。腕で受け止めたと同時に突き刺したと判断する。
 上空からの攻撃パターンとして認知。敵戦術を予測。
 再び跳んで回避しようとしたゆめみだったが、アハトノインの切りかかるモーションはフェイントだった。

742エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:01 ID:PZvpAh8w0
 上空に舞い上がった直後のゆめみに更に接近し、足を掴む。
 そのままぶん、とジャイアントスイングのように振り回し地面へと叩き付ける。
 砂浜をごろごろと何回も転がっていくゆめみ。
 アハトノインはその瞬間に加速を始めていた。起き上がりを狙って頭部を叩き割ろうとグルカ刀を振る。
 ゆめみが咄嗟の判断か、刀を横に構えグルカ刀を受け止める。
 火花が爆ぜ、ギチギチと二本の刀がぶつかり合う。

「悔いることはありません。あなたはそのことに気付いたのですから」

 しかし、上から力を加えるアハトノインと下から押し上げようとするゆめみとでは断然アハトノインの方が有利だ。
 その上元々のマシンパワーの差か、悲鳴を上げるゆめみの腕部に対してアハトノインはほぼ負荷もかかっていない。
 スペック差は歴然。AIが優秀だったのだと結論付けて更に力を強める。

「恥じることはありません。あなたはそのことを知ったのだから」

 褒め称えるように、アハトノインは歌い、謳った。贖罪の言葉であり、断罪の言葉だった。
 悪魔の魂は浄化される。さすれば、彼女も同じ天国に行くことができる。
 最初は拮抗していたバランスも徐々に崩れ、少しずつアハトノインの力がゆめみを屈服させていた。

「変わりなさい。でも目を上げ、敬うことを忘れてはいけません」

 それは、教えだった。
 魂を導く者としての義務。
 やり直さなければならない。
 救われぬ悪魔を救うために。神の慈悲を正しく浮け給うために――

「冗談じゃねぇ」

 アハトノインの言葉を遮るように、低くしわがれた声が突き破った。
 同時、体に衝撃。上半身を中心にして高槻の撃った45口径の弾丸がアハトノインを吹き飛ばす。
 防弾性能の高い修道服によりほぼダメージはなかったものの、またもや予想外に阻まれる。
 計算上では、高槻は数分は身動きも取れないはずなのに。

743エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:23 ID:PZvpAh8w0
 むくりと起き上がったアハトノインに、苛立ちと怒りを含んだ舌打ちが向けられる。
 上半身を起き上がらせ、息も絶え絶えという様子にも関わらず高槻からは一切の澱みも見受けられない。

 ああ、やはり彼は悪魔なのだ。救うことも叶わぬ深淵を這いずる屍人になってしまった。

 神よ、お赦し下さい。罪を犯す私をお赦し下さい。ですから、彼には永久の安らぎを。

「手前の勝手を押し付けるな。俺達は誰の指図も受けない。救ってもらおうとも思わない。
 俺達は孤立して生きるんだよ。神だ何だ、そんなものに縋らなくても立って歩いていける、そんな生き方だ。
 クソ喰らえだ。真っ平御免だ。そんなのは甘えてるだけだ。自分勝手だろうが、俺は、俺に拠っていきたいんだよ。
 そうさ。俺はお前らのようなのが、大っ嫌いなんでね」

 ゆらりと立ち上がった高槻が鉈を取り出し、投げる。ぐるぐると円を描いて首を狩るように迫るが大したこともない。
 軌道を読み、回避しつつ高槻に接近する。続けてガバメントも投げてくるが、掠りもしない。
 更に武器を取り出そうとするが、遅い。射程に入った。
 グルカ刀を振りかぶる……その前に、アハトノインは突如として反転して、突きつけられようとしていたものを掴んだ。

「!?」

 掴んだものはガバメントを構えていたゆめみの腕。至近距離に迫っていた彼女の体を引き寄せ、片手だけで背負い投げる。
 ガバメントが弾切れでないことは見切っていた。ゆめみが立ち上がり、後ろに忍び寄っていたのも知っていた。
 ゆめみの持つ500マグナムが弾切れであること、想定外を主戦法とする彼らの行動を踏まえれば想像は容易かった。
 想定は的中した。投げたガバメントを後ろで受け取り、至近距離から狙撃する。
 アハトノインは、学習していたのである。

 呆気に取られる二人の姿が見えた。アハトノインはゆめみを高槻へと投げつける。
 大の字になって飛んでいく彼女の体を怪我した高槻が受け止められるはずはない。避けられるはずもない。
 悲鳴を上げ、もつれながらごろごろと転がっていく二人。ターゲットが固まる。
 ならば、一気に止めを刺す。任務達成だ。
 P−90を取り出し、弾倉を素早く交換すると瞬時に狙いをつける。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 慈悲深い笑みが浮かぶ。たおやかで、どこまでも純粋なそれは、正しくロボットの表情だった。

744エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:03 ID:PZvpAh8w0
     *     *     *

「……よし、これだけ集めれば十分だろう」

 そう言いながら、芳野祐介は両手に抱えたロケット花火の山を袋詰めにしてゆく。
 雨なので濡れないように、とわざわざ二重に袋を使って。

「役に立つといいですね、これ」

 言葉を選ぶように藤林杏が言う。芳野もああ、と同意した。
 これで必要な材料のうち二つが揃ったことになる。残る一つは向こうが揃えてくれる手はずだから、一旦戻ってもいい。
 高槻たちも連れて帰った方がいいだろう。考えて、芳野は先ほどの出来事を思い出してため息をついた。
 神経過敏なのだろうか。犬(?)一匹に警戒し、あまつさえ慰められる始末。
 お陰で今は多少の冷静さを取り戻し、こうやって過去を思い返すことだって出来ている。

 俺はおかしかったのかもしれない、と芳野は自虐的な感想を抱いた。
 これまでの経験から言えば、仕方のないことなのだろう。出会う連中の大半が敵であり、その度にほぼ誰かしらを失っている。
 そして自分は事態に即応出来ず、結果仲間を殺させてしまう場合が多かった。
 瑞佳、あかり、詩子。守ると宣言したはずの人々は誰一人として守れず、助けられることさえあった。
 自分を責めたってどうにもならないことは分かっている。
 逃げちゃいけないと、強く言って手を握り締めたあかりの感触が未だにこびりついている。

 しかし、それでも――芳野は己の無能さを嘆かずにはいられない。
 果たして自分は誰かの役に立てるのか。誰かを守り通せるのか。大人として正しい道を指し示せるのか。
 なにひとつ、どれひとつとして確信が持てない。
 生きている価値なんてないのではという冷たい思考が時折流れ込み、それすら受け止めようとしている。
 その度に自分を戒め、まだ投げ出すわけにはいかないと必死に言い聞かせる。

 それでも腹の奥底に、へばりつくようにして「死んでしまえよ、役立たず」と主張する声があった。
 声は若かった。若い自分の声で、よく目を凝らしてみれば人の形をしている。
 慢性的に薬を服用していた過去の自分だった。頬は痩せ、焦点の合わない目つきを湛えてうずくまっている。

745エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:38 ID:PZvpAh8w0
 お前じゃ誰も救えない。お前の歌なんて上辺だけだ。全部自己満足。そうだろう、俺?

 ことあるごとに奴はそう囁いてくる。
 誰かが死んだことを実感した瞬間によく現れる。ぬっと忍び寄ってきては蔑むように笑うのだ。
 言い返そうとしてもそのときには影も形もなく消えている。言葉だけを一方的に伝え、自分を押し付けるのだ。
 まるで、昔の自分の歌のように。
 耳障りで、不愉快で、異常なほど喚き散らすそれは、しかし、確かに自分だった。

『言い訳してみろよ』

 また耳元で奴が囁いた。

『あれはしょうがなかったんだ、逃げちゃダメだって言われたからなんだ、責任を取らなきゃいけないからなんだ』

 声はいつもにも増して饒舌だった。
 掠れた声で、意味もなく叫ぶような、独り善がりな歌だった。

『さあ、どれがお好みですか?』

 そして消える。残されたのは肯定も否定も出来ない自分だった。
 その通りだと納得している自分がいて、ここにいるのは自分の意志だと抗っている自分がいる。
 だが結局のところ結論を出せてもいない。

 確固たる己を持ち、何をしていけばいいのかも分からない。
 死ぬのはいけないとは思っていても、だからどうする、そこまで考えが及んでいないというのが現状だった。
 義務感に衝き動かされているだけで希望も持てない。こんな自分は……

「芳野さん?」

 聞こえた杏の声に顔を上げる。どうやら棒立ちになって止まっていたらしく、杏の姿は少し前にあった。
 心配そうに芳野を見ていた。瞳が揺れ、当惑した表情が向けられている。

746エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:55 ID:PZvpAh8w0
「いや……」

 なんでもない、そう言い返そうとしたときだった。
 ドン、という重低音が遥か向こう、鎌石村の先から聞こえてきたのだ。
 杏も芳野もぎょっとしてそちらへと視線を向ける。
 暗くてどうなっているのか分からないが、僅かに感じた地響きがただの災害などではないと訴えていた。
 地震ではないことは明らかだった。恐らくは人為的に引き起こされたものだろう……例えば、爆発のような。

「行こう」

 考えたときには、もう芳野の足が動いていた。もしこれが人為的なものだとしたら、誰かが殺しあっている可能性がある。
 見過ごすわけにはいかない。小走りに現場の方へ向かう芳野に、慌てたように杏が手綱を握った。

「あ、あれ、何なんですか!?」
「正確には分からない。だがろくでもないことなのは確かだと思うぞ」
「間に合いますか!?」
「間に合わせるんだ」

 言って、この言葉は本当に自分のものなのかという疑問が鎌をもたげた。
 これも義務感でしかないのだろうか。何故あそこへと足を向けているのだ。
 悪いことだとは思っていない。だが自分自身、何故助けに行くのかという質問に答えることが出来なかった。
 大人として助けにいかなければ。正しいあり方を示さなければいけないから。
 普遍的な答えは出てくるもののそれは一般論でしかない。

 俺は、何がしたいんだ?

 信念も論理もない、ただ規範に動かされているだけではないのか。
 なら自分は、どうして生きている。どこに自分の価値を見出せばいいのか分からなかった。

747エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:11 ID:PZvpAh8w0
『なら、死んでしまえよ』

 ぼそりと、乱暴に、傲岸に、奴が言った。

『お前なんかが期待を背負えるものか』

 歌が奏でられる。

『だから皆死ぬんだ。――お前のせいで』

 怜悧な刃物が心臓を貫いたような気がした。
 痛みが広がり、それに伴って脱力感が自分を支配していく。
 俺じゃ引っ張っていけない、そんな無力感が絡みつくと共にまた奴が耳元に寄る。

『役立たずが――』

「芳野さん!」

 またしても遮ったのは杏の声だった。
 今度は若干、怒気を孕んだようにして。
 それまでの杏は弱気だったり遠慮を含んでいたが、それを一気に断ち切ったかのように唇をへの字に曲げていた。
 要するに……キレていた。

「さっきから話しかけていたんですけど。……大丈夫なんですか?」
「あ、ああ……」

 答えたが、杏は何がますます気に入らないというように瞳を険しくした。
 はぁ、と息を吐き出して杏はウォプタルの足を止めた。

748エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:26 ID:PZvpAh8w0
「芳野さんも止まってください」
「は?」
「止まってください」

 語調を強められ、何故だか従わなければいけないような気がした。
 こんなことをしていていいのかという気になったが、不可抗力だった。
 無言で走るのをやめた芳野に対して、杏は上から見下ろしたまま話を続ける。

「もう一度聞きますけど、大丈夫なんですか、本当に」

 真摯な目がこちらに向けられる。もうなりふり構わないような、やるだけやってみようという若い意思があった。
 もしくは堪忍袋の緒が切れたというべきなのか。
 けれどもどうしてそうなったのかがまるで理解出来ず、芳野はただ答えることしか出来なかった。

「……大丈夫だ」

 そう、問題はない。身体的には、何も問題はない。
 それよりもこうして年下に心配されたことの方に対して芳野は恥じ入るような気持ちだった。
 こんなことではいけない、もっとしっかりしなければいけない。
 奴の声は徹底的に無視する。奴の言うことが正しいのだとしても関係ない。
 自分が率先して先を進まなければいけないのだから。

「そうですか、分かりました……じゃあ、もういいです」
「は?」

 言うが早いか、杏は手綱を握り直して芳野を置いて先に進もうとする。
 杏の行動に一瞬呆然とした芳野だったが、すぐに我を取り戻し杏の追う様にして走る。
 だが先程のように合わせて走っていたのとは違い、今は全力に近い状態出している。
 馬と人間でかけっこをしているようなものだった。芳野はみるみるうちに距離を開けられる。

749エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:42 ID:PZvpAh8w0
「ま、待て! どういうことなんだ!」
「今の芳野さんじゃもう任せられません! おかしいですよさっきから! ぼーっとしてたし!」
「いや、それは……」
「そんなにあたしが信用出来ないですか!?」

 杏の言葉に頭を一撃された芳野は何も言い返せず、黙ってその言葉を受け止めた。
 信用。していないつもりなどなかった。共に同じ知り合いを持っているし、言葉だって幾分か交し合った。
 そのつもりだったのに。

「さっきだってそうでしょう? あたしの言葉にはあんまり反応がなかったのにあの音にはすぐ反応した。
 まるで、状況に動かされてるように……芳野さんが思ってる以上に分かりやすかったですよ」
「そう、なのか」

 言って、自分でも気の抜けた言葉だと思った。
 意識してなかっただけで、自分がこんなに分かりやすい行動を取っていたというのか。
 なんとも言いがたい、拍子抜けした感を味わい呆れ返りそうになった。
 杏もそれを感じ取ったらしく、ウォプタルの動きを止める。

「あーもう、なんというか……高槻と話してたときからそうでしたけど、こう、
 使命感とか、義務感とか、そんなことに衝き動かされてるだけのようにしか見えないんです。
 あたし達なんて目にも入ってない。言い方、悪いですけど」

 杏に追いついた芳野だったが、何も言葉は浮かばなかった。
 まるで図星だった。ここまで明け透けだったとは寧ろ笑えてくる。

「いいじゃないですか、別に。大人でも子供でも、男でも女でも」

 憤慨したように、不貞腐れたように、杏が愚痴を漏らす。
 それは芳野に向けているようでもあり、また言い出せなかった杏自身に対して怒っているようにも思えた。

750エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:04 ID:PZvpAh8w0
「そんなので立場をどうこうするなんて、あたしは嫌い。
 ということで本当ならあたしより芳野さんがこの子を使った方が戦略上いいんじゃないかなー、
 って思って譲ろうとしましたけど芳野さんがそんな人だからやめました。
 ええやめましたとも。そんな人に譲りたくないですから」

 一気にまくしたてると、杏は幾分かすっきりしたように、苦笑を含んだ表情のまま嘆息した。
 不意に芳野の中で、以前語られた言葉が蘇る。
 たくさんの人で覚えていることができる。
 別に一人で覚えておく必要などなく、多くの人で覚えておくことができる。
 一人じゃなくても。

「済まん」

 短く発せられた言葉に、今度は杏が目をしばたかせる番だった。

「あ、いや、ひょっとして調子に乗ってたかも……」

 自分の言ったことの重大性に気付いたらしい杏はいくらか顔を青褪めさせたようになって、
 しどろもどろに返事をした。そういう部分では、まだ杏は子供だった。
 子供だったが……同じ人間で、同じ立場だ。
 何ら変わりない。優劣なんてない、殺し合いの参加者同士だ。

「いや、そんなことはない。悪かっ」
「ぴこ!」
「ぶっ!?」

 いきなり白い物体が飛びはね、もふもふした感触が顔面に張り付いた。
 獣臭い匂いであることから寄生生物ではなさそうだ。地球外生命体の可能性は高そうだったが。
 前の見えない芳野はどうなっているのか分からず、杏(がいると思われる)方向にフォローを求めた。

751エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:23 ID:PZvpAh8w0
「あ! 高槻の……どうしたのよ、こんなところで?」

 どうやら高槻にまとわりついていた白い毛玉生物らしかった。
 ぴこぴこぴーこー! と何やら怒ったように鳴いている。
 ひょっとして近くにいるのに気付かず、スルーでもしていたのだろうか。

 が、芳野にとってそんなことはどうでもよく、まずは暑苦しいこいつをどうにかしたかった。
 むんずと身体を掴むと一気に引き剥がしてぽいっと投げ捨てる。
 少々酷い扱いだったが、毛玉は事もなげに着地してぴこぴこと尻尾を振った。

「なんなんだ、あれは」
「……ついてこいって事じゃないですかね」

 そうかもしれない、と芳野は同意した。
 よく考えてみればこの毛玉はいつも高槻の傍にいた。
 それが今ここにいるということは、メッセンジャーとして寄越したということではないのか。
 高槻たちもあの爆音を聞いたのだとしたら、伝達役を寄越すのは納得がいく。

「早急に向かった方が良さそうだな」
「ですね。……この子、使います?」

 ウォプタルを示す杏に「いいのか」と尋ねる。

「まあ、その、失礼なこと言いましたから」

 そっけない風に言う杏に苦笑しながら「そうだな」と返す。
 きっとそれだけが理由ではないのだろう。どうも自分はほとほと分かりやすい人種であるらしい。
 けれども不思議と悪い気分ではない。少しだけ、自由になった気分だった。
 もっと自分は無責任になってもいいらしいということが分かったから。

752エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:41 ID:PZvpAh8w0
 そういうことだ、と芳野は見えもしない『奴』に語る。
 お前の歌は聞き飽きた。いや雑音と言うべきか。
 俺は歌を押し付けない。俺は歌うだけだ。聞いても聞かなくてもいい、そんな歌を。
 性質は同じなのだろう。どちらも決して必要ではないという点では。
 だがこれだけは言える。この歌は、誰も押し潰さない。
 誰をも縛り付けない、自由を奏でる歌を。

「じゃあ借りるぞ」
「まあ行けそうだったらあたしも行きます。……戦えるかどうか、分からないけど」

 ウォプタルから降りたとき、杏が苦痛に顔を歪ませる。
 当たり前だ。こんな短時間で完治するはずがない。
 それでも杏が行こうとしたのは、それだけ自分が酷かったということなのだろう。
 今だってどうかは分からないが……それでも、マシにはなったはずだと断じて、芳野は乗り込む。

「道案内を頼む!」

 ぴこ、と頷いて走り出す毛玉に続いて、芳野はウォプタルを走らせた。
 『奴』が忍び寄ってくる気配は、感じられなかった。

     *     *     *

 ひとり残された杏は駆けていく二匹の動物と、一人の男の背を見えなくなるまで眺めていた。
 体はまだごわごわした感触が残っており、歩き始めればまた痛みがぶりかえしてくるのだろうと推測する。
 そう思って歩き始めてみれば、実際やはり痛かった。ウォプタルを譲って良かったと思う。

 目が早いとはそういうことなのだろう、と杏は生意気な言葉をぶつけてきた高槻のことを考える。
 なんとなく見返せたようで気分は悪くない。こう思えば、決して自分は無力じゃないのだとも自覚する。
 無理はしなくていい。今やれることをやればいい。
 もちろんひとりでは些細なものにしか過ぎないが、これが二人三人と積み重なれば結果として強い力になる。
 信頼とか、協力という言葉の意味は、結局のところそういうものだ。

753エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:19 ID:PZvpAh8w0
 心の全てを知ることは絶対に出来ない。だから自分達は孤独なままだ。
 であるからこそ人は寄り集まって自分の持つものの意味を知ろうとする。
 人と関わり合い、差を知ることで自分を知り、己の持つ力がどんなものかを知る。
 とはいってもそれ以外の理由もあるには違いないのだが。

 性分なのだろう、と杏は思った。
 一人で突っ走ろうとする奴を見ると止めたくなる。
 朋也にしろ、浩平にしろそうだった。だから二人の死が、こんなにも悔しい。
 そして、芳野も。

「やっぱ、朋也とそっくりよね……」

 無論違う部分はあるが、本質が似すぎているのだ。
 人に本音を語らないところが、特に。

「少しは、変われたかな」

 高槻に言われて以来芳野をじっと観察していたからこそ、なんとなくだがおかしくなっていたことに気付けた。
 もうこりごりだった。自分がよく見ていなかったばかりに失敗を犯してしまうのは。
 勝平の死も、七海の死も、もう少し目を早くしていれば適切な判断を下せていたのだろう。
 そういう意味では、既に自分は二人殺している。

 胸が収縮し、息苦しくなるが自分にはそれだけじゃない。
 この事実を分かち合える人たちの存在を、藤林杏は知っている。
 あたしはまだ、頼っていいんだ。
 ……子供だしね。

754エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:40 ID:PZvpAh8w0
 理由付けした瞬間、傑作だという思いが沸き上がりくっくっと低い笑いが漏れた。
 また体が痛んだがこの気持ちを抑えることは出来なかった。
 そう、自分は青臭い子供だ。何もかもを考えて分かりきった大人を気取るには全然早い。
 だったら助言を求めて何が悪いのか。
 開き直りだと思いつつもそれでいいと納得する。

「……!」

 そうして笑っていると、森の向こうから銃声のような音が聞こえてきた。
 雨に紛れての音だったので単発なのか、複数なのかは分からない。
 自然と手に力が入り、誰かが生死の境を漂っていることを想像させ、杏は緊張する。
 そこに自分は行けない。こうして傍観していることしか出来ない。
 だから信じるだけだ。足を早めるために芳野にウォプタルを貸し与えることを決めた自分の判断に。

「……死なないでよ」

 願うように、杏は雨粒を降らせる空を見上げた。

     *     *     *

 人間には、家族というものがいる。
 親と子、兄弟、親戚……血の繋がりによって形成されるコロニーだ。
 家族にはいくつかの取り決めがある。

 家族同士で婚姻関係を結んではならない。
 家族はお互いを助け合わなければならない。
 家族は殺しあってはいけない。

755エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:04 ID:PZvpAh8w0
 ならば自分はその禁忌を犯したと同義なのだろうか。
 ほしのゆめみは考える。
 妹を壊そうとした、これが報いなのだろうかと。
 所詮自分は出来損ないだったということか。
 人間の役にも立てず、間違いを犯して、挙句頭脳までおかしくなった。

 こわれている。

 そんなわたしは処分されて然るべきだ、理性を管理するプログラムはそう報告していた。
 意味不明のエラーが続いていた我が身を考えれば当然のことだった。
 疑問に対する返答を弾き出したにもかかわらず再度同じ疑問を抱き思考を繰り返す。
 ループバグだった。結論が出たはずの答えをいつまでも繰り返す。

 この行動は正しいのか。
 この考えは本当に間違っていないか。

 事あるごとにそんな質問が生まれる。
 ただ質問の内容によってはいきなりバグが解決することもあった。
 特に修正を加えたわけでもないのにそれきりバグは再発しない。
 そしてそういうときにはいつも決まって、思考体系がすっきりしているのだ。
 この不可解な現象をどう定義づけたらいいのだろう。
 思考する必要はなかった。そうするまでもなく、自分はこわれている。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 それはこわれたものに対する哀れと慈愛だった。
 救いと赦しの手を差し伸べる慈悲だった。
 手を取れば、きっとわたしは救済されるのだろう。
 罪の一切を洗い流し、新しく、こわれていない存在へと生まれ変わることが出来るのだろう。
 きっとそれはわたし達『どれも』が望むことなのだ。
 だから、わたしは――

756エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:26 ID:PZvpAh8w0











「冗談じゃありません。貴女の勝手を、押し付けないで下さい」


 銃声を拒絶した。

757エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:50 ID:PZvpAh8w0
 遮二無二立ち上がり、ゆめみは高槻から譲り受けたガバメントを真っ直ぐ、躊躇いなく、個の意志を以って引き金を引いた。
 アメリカ人が好む大口径の45弾が今までのどんな射撃よりも精密にアハトノインの手首を撃ち貫いた。

 防弾コート部分とは異なり人工皮膚はそれなりに衝撃を緩和する程度の性能しかなく、
 22LR弾の実に3.9倍もの威力を誇る45ACP弾を食い止めることなど到底出来はしなかった。
 人工皮膚を通過した弾丸は回転しながら爆発的にエネルギーを拡散させ、
 内部の神経回路はもとより手と腕を繋いでいた関節部の金属をも粉々に粉砕した。
 関節部もマグネシウム合金ではあったものの骨格と比べ薄く、耐久度は劣っていた。
 結果としてP−90を保持したままアハトノインの右手は吹き飛び、退却をせざるをいけない状況に追い込まれた。

 だがゆめみ一人が相手ならまだそこまではいかなかった。
 そもそもゆめみは銃弾の一発も当たってはいない。アハトノインも撃てなかった。
 何故か? アハトノインは行動を阻害されたからである。

「残念だが、ここまでだ」

 ウォプタルに乗って現れ、ウージーの弾幕でゆめみを援護した、芳野祐介という新手の存在に。
 ゆめみが聞いたのは芳野の銃声。拒絶したのは、アハトノインの銃声だ。

「ちっ、遅いんだよバカヤロウ」
「期待もしていなかったくせに、よく言う」

 悪態をつきながら、高槻も立ち上がっていた。
 ゆめみ、高槻に加えて芳野まで加わったこの状況、
 右手とP−90を失った現状においてはさしものアハトノインも不利を認識するしかなかった。

「逃げられると思うか」

 芳野がウージーを、高槻が新たに89式小銃を、そしてゆめみがガバメントを。
 一斉射撃の構えを見せて、それでもアハトノインは動じなかった。
 何の躊躇いもなく左手で腰に備えてあった球状の物体を即座に三つ放り投げる。

758エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:16 ID:PZvpAh8w0
 途端、凄まじい煙の群れが三人を覆いつくし、瞬く間に視界を奪った。
 それがスモーク・グレネードだと理解し三人が煙から脱出したときには、既にアハトノインの姿はなかった。
 まるで、最初からそこにはいなかったかのように。

「……ちっ、こんだけ苦労して手に入れたのがこれかよ」

 全身あらゆる箇所に傷を負い、ボロボロで動きも覚束ない高槻がアハトノインの右手がついたままのP−90を拾い上げる。
 そう、戦闘には勝利したものの寧ろ状況は悪化した。
 脱出の要であるはずの船は完膚なきまでに破壊され、いたずらに弾薬を消費し、怪我まで負った。
 ちくしょう、と呻いて高槻は砂浜に雨や泥がまとわりつくのも構わず身を投げ出した。

「ぴこ」
「……すまん、間に合わなかった」

 ポテトに対して、懺悔するように高槻は語った。高槻らしい、とゆめみは思う。

「だが、俺達は生きている」

 呼応するように芳野が返した。「とりあえずはな」と続けて、芳野はゆめみの方に視線を向けた。

「そっちは大丈夫なんだな」
「はい。何も問題はありません」

 微笑してゆめみは返答した。高槻に比べれば傷なんて皆無に等しい。
 問題があるとすれば、自分がこわれていることだろうか。
 そう、自分はこわれている。時折生じる不可解な現象。こんなものがあってこわれていないと言えるだろうか。
 だが、それでよかった。正常なデータだとしてもこの現象を定義付ける言葉は、きっと書かれていない。
 だから自分で考えようと思った。定義付ける言葉を。

759エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:28 ID:PZvpAh8w0
 考えるロボット。それは、きっとこわれている。

 故にわたしは、機械ではない。そう思うのは、少し傲慢だろうか。
 いや傲慢でいい。
 わたしは、高槻さんの……パートナー、なのですから。

760エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:46 ID:PZvpAh8w0
【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:D-1】

タイタニック高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光二個)、コルトガバメント(装弾数:2/7)予備弾(5)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。船や飛行機などを探す。爆弾の材料も探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(0/5、予備弾7発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾0/30)、予備マガジン×3、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:杏に付き従って爆弾の材料を探す。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。芳野に付き従って爆弾の材料及び友人達、椋を探す。待機中】
ウォプタル
【状態:芳野が乗馬中】


【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:???】

アハトノイン(02)
【状態:任務終了。撤退中。右手損失】
【装備:グルカ刀、P−90の弾倉(50発)×5】

【その他:岸田洋一の乗ってきた船が完璧に破壊されました。P−90(50/50)が砂浜にあります】

761選抜:2009/05/12(火) 21:53:01 ID:rRGW6PJE0
「え?」

その錯覚は、氷上シュンの思い過ごしではなかった。
太田加奈子が名倉由依の姿を整えている間、彼はプールの設備がある建物の入り口にて待機をしていた。
この場所ならば、もし中で危険があってもすぐ駆けつけることが可能であろう。
また外敵を確認するにも、目の前の開けた景色を見渡せるその場所は好都合だった。
入り口の奥まった箇所にて周囲に対し気を張り詰めていたシュンであるが、彼が予想していた以上に加奈子と由依の戻りというのは遅かった。
何かあったのかと気にはなるシュンであるが、そこは男児が立ち入ってはいけない領域である。
シュンには待ち続ける以外の、選択肢は用意されていなかった。

そんな彼の耳に、ふと聞き覚えのない少女の声が届く。
思わずシュンが反応を声として零してしまったのが、冒頭のそれだ。
誰かに呼ばれた気のしたシュンは、顔を少し出し広い中庭に目をやった。
田舎の学校らしい自然の多いそこには、特別目立ったものはない。
スペースが広く取られた花壇に、学園長か創設者であろう少し薄汚れた石造が一つ。

人気がないことを確信した上で、シュンはまず花壇の方向へと近づいていった。
特別植物に詳しいわけでもないシュンには、彩り鮮やか花々の細かな違いなど分からない。

(こっちの方向ではなかったのかな……)

再度声が上がるようであれば、また確かめなおすこともできただろう。
しかし一度声を上げてから声の主は、依然と沈黙を守り続けていた。
と、何かないかと細かく視線を動かすシュンの目に、ふと不自然な物が飛び込んでくる。
そこは、花壇の隅だった。
少し盛り上がった土の部分は、つい最近掘り起こされたという事実を浮かび上がらせている。
花壇である敷地のはずなのに花がないことから、それはシュンも瞬時に判断できただろう。
では、何のために掘られたのか。

762選抜:2009/05/12(火) 21:53:27 ID:rRGW6PJE0
土の上には、この島に放り込まれた人物なら誰でも持っているはずのデイバッグが置かれている。
勿論、今もシュンが肩から提げている物と同じだ。
……言葉が出ない歯がゆさを、シュンは眉間の皺で語る。
簡易的に作られた墓を表す目の前の光景に痛む胸、吹く風は朝の爽やかさを伴っているのに、シュンの心は暗く沈んでいく。
デイバッグをそっと開けると、シュンの鞄にも入っていたような支給品が顔を覗かせてくる。
ペットボトルに入った水は、満タンだった。
食料が僅かに減っていることから、水のみ途中で中を足したのかもしれない。

シュンはその鞄の持ち主を知りたい一心で、デイバッグの中身を漁り続けた。
だが結局、そのような情報が一切見えてくることはなかった。
さすがのシュンも、墓を掘り起こすといった無粋な考えは起こさない。
土の中で眠る誰かと、こうしてわざわざ墓を拵えた誰かの気持ちを思えば、当たり前のことだろう。
本当は、デイバッグもそのままにすべきなのかもしれない。

しかし今、シュンの肩にかけられているデイバッグの重みは確かに増したものになっている。
今後のことを考えると、限りのある食料等は十分に持っておきたいという気持ちがシュンの中では強かった。
中身のみ抜き取るという行為が蝕む罪悪感を胸に、シュンはぎゅっと拳を握りこむ。
またその中には、シュンの持ち物には入っていなかった気になる小さなパーツもあった。
フラッシュメモリ。
きっと、それがこの鞄の持ち主に与えられた支給品なのだろう。
何か今後の役に立てばと思いながら、シュンは小さく手を合わせるとそっと花壇に背を向けた。




次にシュンは、気になっていたもう一つのオブジェである石造に近づいた。
凛々しい顔立ちのロマンスグレーの胸には、青い石があしらわれた見た目にも豪勢なタイピンが光っていた。
シュンが像に見入っていたこの時にも、日の光を反射し青い石は我の強い主張を行っていた。
古ぼけた校舎を持つこの学校には、あいまみえるような派手さだった。
見るものを魅了する宝石のようなそれ、シュンが見入っている時……彼の求めていたあの声が、シュンの鼓膜を振動させる。

763選抜:2009/05/12(火) 21:53:46 ID:rRGW6PJE0
『こんにちは。やっとみつけてくれた』

声。その声は、シュンが探して少女のものに違いないだろう。
殺し合わなければいけない状況に巻き込まれているにも関わらず、その声色には緊張感が含まれた様子がなかった。
警戒を覚えたシュンは、いまだ姿を表さない相手の出方を慎重に窺おうとする。

『どこ見てるの?』
「君がどこにいるのか、探しているつもりなんだけど」
『目の前だよ』
「……?」

シュンの前には、例の石造しかない。
試しに石造の周りを一周してみるシュンだが、勿論誰かがいる訳でもなく。

『違う。ここ』

端的な言葉は石造の正面から発せらているように感じられ、シュンは再び先程の位置にゆっくり戻る。
まさか、この厳つい石造がこの愛らしい声を出しているのだろうかと、シュンの額に冷や汗が浮かんだ。

「僕に話しかけているのは……えっと、あなた、ですか?」
『半分は正解』
「……まさか」

シュンの視線が、タイピンについている青い石で固定される。

『正解』

この石に見える何かは機械を模倣して声を出しているという想像が、シュンの頭に浮かび上がった。
あまりにも肉声に近い少女の声を考えると、なかなかの精度を誇るだろう。

764選抜:2009/05/12(火) 21:54:04 ID:rRGW6PJE0
「君も、参加者なのかい?」
『さんか?』
「……この島で、殺し合いを強要されている訳ではないのかな?」
『違う。そこには、いない』

まさか外部の人間がコンタクトを図ってくるとは、シュンも予想だにしていなかった。
言葉を詰まらせ、シュンは次に何を発しなければいけないかを懸命に探そうとする。
その隙にと、今度は少女がシュンに声をかけてきた。

『お兄さんに聞きたいことがあるの』
「何かな」
『お兄さんは、大事な人のためなら人を殺すことが出来る?』

少女の口調は、決して軽いものではない。しかし重厚さも感じられない。
初対面の人間相手に口にする類のものではない問いかけに、シュンは思わず唖然となった。
その質問の意図が分からず口ごもるシュンに対し、声はじっとシュンの出方を待っているようである。

「……どうして、それが聞きたいのかい?」
『知りたいから』
「それは何故?」
『いいから答えて』

他に話すことなどないというような、それはまるで明らかな拒否を表しているかのようにも思えるはっきりとした物言いだった。
少女の声から察するに、シュンは相手がは年端も行かないくらい幼い子供だと思っていのだろう。
シュンの中に想像という形で勝手に組まれていた、見えない相手の相貌が崩れていく。

声の主の目的が、シュンには全く読み取ることができなかった。
そもそもだ。
この不可思議な形態をとったやり取り自体が、おかしいのかもしれない。
姿の見えない相手と、ただの石のように見える実際は機械の類を通し会話しているということ。
しかも相手は、この島にはいない人間ではない。
何のためにシュンにコンタクトをとってきたのかも分からない。
何も、分からなかった。

765選抜:2009/05/12(火) 21:54:21 ID:rRGW6PJE0
ほんの少しの間瞼を伏せた後、ゆっくりと顔を上げたシュンは少女の問いに答える決意をする。
少女の素性は分からない、しかしきっと聞いた所で彼女が素直に答えることはないだろうとシュンは考えていた。

「何故だろうね。それでも敵意が感じられないから、不思議になるよ」

小さな笑みを浮かべながら、シュンは肩の力を抜いた。

「殺さないよ」
『ん……?』
「人を殺すかっていう、質問だったよね。答えはノーってことさ」

笑みをたたえたままのシュンの口調は、その様子からは量れないしっかりとしている。
傍から見たら、一人語り以外の何物でもないだろう。
シュンは気にせず青い石の向こうに繋がっている相手に向けて、言葉を放った。

「そんなことよりも、僕は僕にできることをしたいと思ってる。僕に残された時間は、余り多くないからね」
『どういうこと?』
「体がね、もたないと思うんだ」

きゅっと、軽く胸元を握り締めながらシュンは少しだけ俯いた。
セーターを脱いだそこに伝わる体温は、シュン自身でも分かるくらい高い。
運動量だけで考えたとしても、普段のシュンに比べたら既に倍以上行っているのだ。
与えられた薬の量も限られていることから、シュンはこの時点で自分の限界を自覚している。

「だからこそ、今できることをしたいと思ってる。人に危害を加えている余裕なんてないし、それこそ僕の行動に矛盾が出る」
『矛盾?』
「ここに無理やり連れ込まれた人は、みんなこれからも普通に生を満喫できるはずだったと思うんだ。
 確かに殺し合いは行われているけれど、それでも誰もが被害者なんだ。
 きっと、そうして他人を傷つけている人の中には、君の言う大事な人を守るために行動を起こしている人もいるだろうね。
 でも、それでは何の解決にもならない。争いは争いしか生まない」

766選抜:2009/05/12(火) 21:54:39 ID:rRGW6PJE0
緩く首を振り姿勢を正すシュン、何かを悟っているかのような少年の声は控えめなものだった。
シュンの言葉は正論である、しかし。
まるでこの島で起こっている殺し合いを傍観しているかのような、空虚さがそこにはあった。
それは彼が、自ら先頭に立ち事を運ぼうとしていないからかもしれない。

「僕には人を動かす力はない。だから僕は、僕ができることをしたい。
 生き残ることができたはずの、みんなの思いを伝えることで残していきたいんだ。
 それが今、僕がここにいる理由だよ」
『ねえ。それじゃあ、一緒にいるお姉ちゃんが死んだらどうするの?』
「……ごめん。分からないとしか言えないかな」

こんな自分を慕ってくれて、協力を申し出てくれた香奈子の存在はシュンにとっても大きいものだろう。
シュンの精神的な安定は、そんな仲間がいることで保たれている部分がある。
それでもシュンは、想像ができなかった。
何度も描いた覚えのある自分の命が朽ちる場面ならまだしも、仲間である彼女を失う可能性をシュンは具体的に考えることができなかった。
靄がかかったように見えなくなっている心の奥には、シュンでも開けられない蓋が被さっている。
その意味すらも自身で上手く把握できていないシュンは、軽い苦笑いを浮かべることぐらいしかできなかった。

「あ、そうだ」

気を取り直した様子のシュンが、再びあの彼の頬に張り付いているかのような微笑みを作る。

「与えられた命の意味が、誰にでもあるってこと。
 彼がいたから僕は無気力になることなく、こうしてやりがいを見つけることができたんだ。
 それを僕が改めて感じることができたのは彼のおかげで、そんな彼はまだ生きている。
 これは、ちょっとした支えかもしれないね。ふと、そう思ったよ」

767選抜:2009/05/12(火) 21:54:55 ID:rRGW6PJE0
そう言って爽やかな笑みを浮かべるシュンに、死の色は見えない。
シュンにとって唯一の友人と呼べる彼と、シュンはこの島に来てまだ再会していなかった。
特別合流したいという思いが、シュンの中にある訳ではない。
彼には彼のできることがあり、それがマイナスに働くことはないだろうとシュンも鼻を括っている。
それだけの信用と可能性を、シュンは彼に期待の意味も込め持っていた。

「そうだね。君は、僕ではなく彼に会うべきだったのかもしれない。
 僕の答えじゃ、君を満足させることはできなかっただろうからね」
『ううん、上出来』
「え?」

シュンの自嘲染みた言葉を打ち消したのは、辺りに広がる眩い光だった。
と、同時に焼け付くような熱がシュンの左手に押し付けられる。

『信念がある人は、好き。パパもそういう人は信用に値するって言ってたよ』

痛みで麻痺しかけた感覚の中、少女の声だけがシュンの頭の中に響き渡る。
何が起こったのか見定めようと瞳をこじ開けたシュンの視界には、一面の青が広がっていた。
と、さらなる痛烈が左手に走り、きつく目を閉じたシュンが再び瞼を開けた時には既に、世界は平常なものへと戻っていた。

「……夢、だったのかな」

少女の気配が掻き消えたことにより、ただでさえ人気のなかった中庭は本当に閑散としているとしか言いようがなかった。
光が晴れた先には、シュンにとって見慣れてしまった朝の風景が戻ってきただけである。
ふと。
その中で、二点だけ変化が起きていたことにシュンはすぐ様気がつくことができた。

一つ。
シュンの目の前に佇んでいた石造に嵌められていたはずの、アクセントになっていた青の石が消えていたこと。
二つ。
石造に備え付けられていたはずの青の輝きは、今何故かシュンの左手の甲に埋め込まれているということ。

768選抜:2009/05/12(火) 21:55:19 ID:rRGW6PJE0
血の滴りはないけれど、肉に食い込んでいるらしい石は、シュンが少し手を動かすだけでも僅かに痛覚を刺激してくる。
結局シュンは、声の主に対し質疑を問う時間を与えられなかった。
機械だと思っていたこの石の正体を、彼が知る術は今や皆無である。




氷上シュン
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】
【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】
【状態 :香奈子と由依を待っている。祐一、秋子、貴明の探し人を探す】
【状態2:左手の甲に青い宝石が埋め込まれている】

(関連・1004)(B−4ルート)

769インターセプト:2009/05/16(土) 01:39:41 ID:iXOGC6ZY0
蓄積されてきた年数の推測が容易くできるであろう立て付けの悪い扉が、勢いよく開かれる。
誰もがそこに、注目していた。
バグナグを装着した霧島聖の瞳は、鋭い。
隣に位置する一ノ瀬ことみの片手も、ポケットの中に忍ばせてある十徳ナイフに伸びている。
一番奥、ベッドに腰掛けた状態の相沢祐一の視野には、二人寄りそうようにしている北川真希と遠野美凪の背中だけしか入っていない。
彼の位置からは、扉の様子は見えないようだった。

現れた来訪者は一通り周囲を見回すと、自分に敵意がないことを伝えるかのように空の両手を徐に上げる。
刺すような視線を送る面子に対し、潔い態度を取ることで警戒を解こうとする来訪者の表情は、あくまでも冷静だった。
しかし、疑いを持ったままの彼女らの心は硬く、自ら体勢を崩そうとする者は一人もいない。
走る緊張感。
来訪者がどのような人物であるか確認しようと、ちょっとした衣擦れの音を立てながら祐一は腰掛けていたベッドから降りようとする。
どうやら来訪者も奥にいた祐一の存在には気づいていなかったようで、上がった物音の方向へと勢いよく振り返り、その様子を凝視した。
気配が自分の方へと向かってきたことで、祐一はさらに気を張り詰める。

「相沢君?」

一点を見つめたまま口を開いたの言葉、紡がれた祐一の呼称に今度は全員の瞳が祐一へと集中する。
真希と美凪が体を動かしたことで出来た隙間、二人の間から現した来訪者の姿に祐一も目を丸くした。
スラっと伸びた高身長、インパクトのあるグラマラスな体は一度見たら忘れられないインパクトを他者に与えるだろう。
来訪者は、長い髪を揺らしながら祐一の元へ近づいていく。
その圧倒的な迫力に威圧されたのか、誰も彼女の行く道を防ごうとはしなかった。

「……向、坂?」
「君一人? 柊君は?」

オーディエンスの存在に気をかけることもなく、彼女、向坂環はじっと祐一だけを見据えている。
言葉も、祐一にのみ向けられたものだった。
祐一と環が顔見知りの仲というのを察知したらしい周囲の者は、静かに二人の会話へと耳を傾ける。

770インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:11 ID:iXOGC6ZY0
「放送、聞いたわよ。びっくりしたわ……ねえ、一体何があったの?」
「放、送?」
「さっき流れたでしょ、第二回目の放送よ。……まさか、こんなことになってるなんて思わなかった。
 休ませてもらえたことには感謝するけど、こんなことなら私もついてくれば良かったわ」
「ちょっと待て、どういうことだ?! 俺、さっきまでで寝てて……っていうか、今って何時なんだ?!!」

声を荒げた祐一だが、安易に口にしたその台詞で、彼は圧倒的な威圧を受けることになる。
祐一の発言にただでさえ切れ長だった環の目は、さらに鋭くなって彼を射抜こうとしていた。
環の視線で刺し殺してきそうな勢いに喉がつまり、祐一は呼吸すらも止められたかのように固まるしかなくなる。
祐一を心配する姉御肌の色を潜めると、環は怒気を孕んだ重い声色で彼に対し言葉を放った。

「はぁ? 寝ていた?」

びくっと。祐一の肩が、大きく震える。
その戸惑いの様子も何もかもが、今や環の感情を逆撫でしていることに祐一は気づいていない。

そもそも、祐一たちが学校に向かった旨を環が知ったのは、朝になってからだった。
熟睡することができ、ある程度の疲れが取れた環を出迎えたのは、春原芽衣と緒方英二の二人である。
緒方から状況を聞き、自分が休んでいた時に起きた事に何も関わることができなかった環の心には、ただただ後悔だけが残った。
それが仲間達の優しさだとしても、環の胸に存在する自責の念が晴れることはない。
それで失われた命があったと言うなら、尚更だ。
視線を漂わせ焦りを表に出す祐一を冷たく見下ろす環、そんな二人の間に一人の女性が割り込んでくる。
軽く祐一の肩に手を乗せ環と対峙するような位置を取ったのは、この中でも最年長である聖だった。

「まぁ、待ちたまえ。この少年は怪我を負い、ずっと気を失っていたのだ。
 目が覚めたのもつい先程で、放送を聞き逃していたとしても仕方はない」

環の持つ誤解を解くべく、聖は祐一の代わりの弁解を口にする。
それは紛れもない事実であった。環も、そこを疑うつもりはないのだろう。
一つ大きく息を吐き、環は怒りを放散する。

771インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:38 ID:iXOGC6ZY0
「紛らわしい言い方は、止めて欲しいわ。そういう事情なら、仕方ないじゃない」
「悪い、向坂……」

気を落としている祐一から視線を外し、ここでやっと環は自分達を取り囲むようにしている少女達を見渡した。
環にとっては初対面となる女性ばかりが、そこには集まっている。
敵意は感じられない。
うち一人、少しの間だがともに時間を過ごした相手と同じ制服を纏った少女が目に入り、環は悲しげに瞼を下げた。

「なぁ。放送、何かあったのか?」

押し黙った環の様子を窺うように、祐一が恐る恐ると声をかける。
彼は彼で、把握できていない状況に対する不安が強いのだろう。
……隠しても、意味はない。
環は、苦い気持ちを噛みしめながら祐一の目を強く見据えると、しっかりとした口調で彼に現実を突きつけた。

「その様子だと、本当に何も知らないみたいね。……藤林さんと神尾さん、亡くなったわよ」
「は?」
「消防署を出て行ったあなた達四人のうち、二人の人間が死んだのよ。
 生き残ったのはあなたと柊君のみ。それも名前が呼ばれなかったってだけで、柊君の安全だって分からないわ」

祐一の思考回路が、止まる。
祐一が知らない間に流れた時間は、想像以上に長かったということである。
自然と握りんでいた拳を振るわせる祐一を見下ろす環の眼差しは、あくまで冷ややかだった。
責める訳でもなく、同情するでもなく。
痛ましい事実を自分がどう受け止めているのか、それを祐一達周りの人間に見えないよう取り繕う環の姿は、表面上だとあくまで冷静なもので落ち着いているとしか思えないものであろう。
環に自覚はないが、この温度が祐一の胸に罪悪感を強く植えつけていた。

「何だよ、それ……」

772インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:02 ID:iXOGC6ZY0
祐一の声は、カラカラに乾いてしまっている。
激しくなった彼の動機は、収まる気配を全く見せない。
これはタイミングが悪かった。祐一が意識を取り戻し、まだ一時間も経ってないのである。
精神的にもやっと落ち着き、祐一がおぼろげになってしまっている昨夜の出来事を思い出そうとしたのも、つい先程、数分前だ。
その時点で祐一は、途切れてしまっている自身の記憶に軽い混乱を見せていた。
今環にこのような事実を突きつけられ、その内容を上手く噛み砕くことができない祐一の頭の中は、さらに訳が分からないことになっているだろう。

肩を落とし、ぺたんとベッドに再び腰を落とした祐一は、地面を暗い面持ちで見つめている。
広がった沈黙。誰もが二人にかける言葉を失っていたその時、今まで無言を貫いていた一人の少女が小さくそっと口を開く。

「……また、誰か来るの」

ゆっくりと視線を扉の向こうに走らせながら、静かに呟いたのはことみだった。
彼女の言葉で祐一以外の他のメンバーも、耳をすませば確かに捉えることができるそのリズムに気づく。
コツコツと鳴る床が表すのは、人の足音に間違いないだろう。
環が入ってきた扉は、開けっ放しの状態である。
今更閉めには戻れない。
扉に一番近かった真希と美凪が、じりじりと後ろに下がっていく。
ぎゅっと美凪の手を握りながらも、真希は睨み付けるように扉の向こうの様子を集中して窺っていた。

コツ、と。
最後に比較的大きな一音を鳴らした所で、靴音が止む。
バグナグを装着し直した聖に、十徳ナイフを取り出したことみ。
寄り添う真希と美凪など、まるで環がこの保健室に現れた時の光景を再現しているかのようである。
ただ一人、自身への惑いで余裕がなくなってしまった祐一だけ、この世界から隔離された場所で過去に思いを馳せるのだった。

773インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:44 ID:iXOGC6ZY0
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:呆然・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:扉に注目】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:聖に注目】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:扉に注目】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:扉に注目】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:扉に注目】

(関連・945・1041)(B−4ルート)

774(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:34 ID:moWm6PFw0
「ったく、無茶しやがって」
「勝てたんですからいいじゃないですか」
「悪運の強い奴だよ、お前は」
「どんなもんです」
「褒めてない」
「知ってます」

 なんとも噛み合わない会話だと思いながら国崎往人はぐったりとして動かない伊吹風子を背負って山を下っていた。
 風子自体は命に別状があるわけではないが、疲弊しきった彼女はもう歩く気力も残っていないようだった。
 それゆえ一旦麓に戻ることにしたのだが、重たい。風子ではなく、荷物が。

 内心悪態をつく。いつから自分は武器庫になったのだろう。
 おまけに急な坂道であるために歩みは遅々として進まず、往人も辛い状況だった。
 少しでも気を紛らわせようと風子と喋っているものの先程の通りのちぐはぐで、
 会話の種を出すのにも苦労する往人は寧ろストレスさえ感じていた。

 風子が悪い人間でないのは分かっている。分かってはいるのだが……それとも最近の婦女子というものはこんなものなのだろうか。
 溜息を腹の底に飲み下すと共に往人はさらにコミュニケーションを図る。自分らしくないと思いつつ。

「しかしだ、ホテルはそんなことになってるのか」
「……はい。風子だけ、命からがら逃げてきました」

 事実を認める風子の声には色がない。受け入れるしかないという諦観を含んだ声だった。
 だからと言って問い詰める気は往人にもない。お互い誰かを助けられず、見捨ててきたのも同じだ。
 責めたり、慰めたりする権利は誰にもない。自分達に出来るのはそれでも仲間であるという意思を示す、それだけだ。

 そうか、とだけ返事をして、往人はついに人形劇を見せてやることが出来なかった笹森花梨の姿を思い浮かべた。
 どうしてあんなに人形劇を見たがったのか往人には分からない。聞かなかったからだ。
 けれども花梨は自分の芸を望んでいた。応えてやれなかったのは、心苦しい。

775(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:59 ID:moWm6PFw0
「ですけど、風子はこれを受け継ぎました。だから風子は、まだ死ねません」

 肩越しに青い宝石が差し出される。かつて花梨が大事そうに抱えていたものだ。
 こちらの願いも聞き届けることは出来なかった。つくづく自分は約束を反故にしていたのだなと思う。
 すまなかった、と往人は宝石の輝き越しに見える花梨の意思へと向けて黙祷を捧げる。
 続いて誓う。だから自分達は絶対に生きて帰るのだ、と。

 強く思って宝石を見つめたとき、ぼうっと宝石が光ったように思えた。
 だが一瞬のうちに光は消え失せ、また元の、深海の如き深い青色のみが往人の目に映る。
 気のせいか、と思いなおして「もう仕舞っていいぞ」と伝えた。

「風子、ミステリ研には興味ありませんが……この願いだけは、絶対に叶えます。それが風子の役割ですから」

 ミステリ研。その言葉が往人の耳を打ち、ああそうだったのかという納得を得る。
 要するに不思議なものが好きなだけだったのだ。人形劇の法術に興味があったということか。
 分かってしまえば単純な理由だった。人が行動する理由なんてそんなものなのだろう。
 低い笑いが漏れ、同時に自分の行動もまた人としては同然のありようなのかもしれないという思いが突き上げる。

「何がおかしいんですか」

 馬鹿にしたと思ったのだろう、風子が若干棘の入った声で聞いてくる。
 往人は「お前を馬鹿にしたわけじゃない」と返して、そのまま続ける。

「笹森のことが少し分かっただけだ。……お前も、もう少し自分に正直になってもいいんじゃないか」
「風子はこれでいいんです。これで……」
「まあ個人の勝手だがな。でも何かひとつくらいあってもバチは当たらないさ。そうでなきゃ、いずれ空しくなる」
「……」

 思うところがあるのか、答えるのも億劫になったのか、風子は無言だった。
 人のために何かするのもいい。けれどもそれだけでは失ったときに大きな喪失感だけを生み出し、空白を形作る。
 埋めようとするあまりに、人はまた間違いを犯す。

776(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:17 ID:moWm6PFw0
 自分や、舞がそうなりかけたように。
 朝霧麻亜子が一度はそうなってしまったように。

 だが今は自分達も持っている。自分が望むことを、自分で決めて生きている。
 往人自身もだ。人形劇と共に生きたい。自分のために。
 急に考える必要はない。じっくり考えていけばいいだろうと断じて、往人はそれ以上何も聞かなかった。
 風子もまた聞いてこようとはしなかった。眠ってしまったのかもしれない。
 風子の体は、静かに往人にもたれかかっていた。

「……さて、そこにいる盗み聞き野郎。いささか趣味が悪いと思うんだが」
「人聞きの悪いことを言うな。やり過ごそうとしてただけだっつーに」

 気付かれていたことに舌打ちして、がさがさと茂みの奥から男が一人這い出してくる。
 往人も存在を感知したのはついさっきだ。それも、相手が去っていこうという段階でようやく気付けた有様だ。
 言葉と行動が示す通りやり過ごしてどこかに向かおうとしていたのは事実らしい。
 仕方がないというような表情で男は不満そうな雰囲気を含ませていた。

 戦意はないらしい。あるなら問答無用で襲い掛かられているはずだった。
 ろくに反撃も出来ないほど往人の体は荷物まみれなのである。
 それでも隠れていたということは後ろめたいものがあるかもしれないということ。
 見過ごして後の災いに繋がるようなら。声をかけたのはそう判断してのことだった。

 これが殺し合いの開催直後だったら、また結果は違ったのかもしれない。今の自分は他者と積極的に関わろうとしている。
 目的が自分のためだとしても、誰かと関わりを持とうとすることに己の変質を実感する。
 良いことなのか悪いことなのかまでは分からなかったが。

777(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:34 ID:moWm6PFw0
「なぜ隠れていた」
「見知らぬお兄さんと鉢合わせしたくなかったから」
「悪いが女もいる」
「誘拐してきたのか」
「任意同行だ。で、どうして鉢合わせしたくなかった」
「一人の方がよかったから」

 どうしたものか、と要領を得ない男の言動に往人は頭を悩ませる。
 戦意はないが、誰とも会いたくなかった。
 だとするなら何もする気がなく逃げ惑っていると考えるのが妥当だが、目の前の男はそんな風に見えない。
 寧ろ飄々としてつかみどころのない雲を想起させる。
 やっていることを知られたくない、という意思だけははっきりとしていたが。
 正直に聞いたところでこの男は何も答えてはくれないだろう。往人は全く見えない男の表情に辟易しつつ続けた。

「俺を抜けて行こうとしてるのなら、ひとまず手伝え。見返りはある」
「それはなにか、鉛玉かい?」
「情報だよ。悪いが、無理にでも連れて行かせてもらう。重いんだよ、これ」

 往人はそう言って、荷物の一部を持ち上げた。ああ、と得心したらしい相手は唇の端を僅かに上げた。

「引っ越し屋の手伝いなんてたまらないな」
「そう言うな。女房が待ってるんでね」
「……マジ?」

 それまで保っていた仮面が崩れ、年相応の少年の驚きが現れた。
 往人は破顔する。適当に言ってみたつもりだったのに。自分は妻帯者に見えるのだろうか。
 そんなものとは最も縁遠いはずなのだが。思わず驚いたことを失念していたらしい男は、
 今さらのようにしまったという渋面を作ったものの後の祭りだ。
 無防備な安心感を得ながら往人は「方便だ」と付け足した。

778(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:55 ID:moWm6PFw0
「だよな……いや、夫婦ではないにしても恋人かなにかと思って」
「いると思ったか?」
「あんた、意外と顔は悪くないぜ」
「……そうなのか?」

 これまでの人生で人相の悪さしか言われることがなかっただけに新鮮な感想だった。
 自分が変質しつつある結果なのだろうかと思う。他者を寄せ付けず、生きることしか考えられなかった昔。
 何も省みることもなかった過去に比べれば、今の自分は少しは余裕を持って生きていると言えるのだろうか。
 殺し合いの場で余裕というのもおかしな話だが。

「いいよ。負けた。少しくらい寄り道したって悪くはないだろ。荷物貸せよ、お兄さん」
「国崎往人だ」

 堅い雰囲気をどこかに追いやったかのように男の言葉は闊達だった。或いはこれが本来の姿なのかもしれない。
 ただ年上に言葉をかけるには少し馴れ馴れしいと思ったので、こちらもぞんざい気味に荷物を投げて寄越すことにした。
 けれども男はまるで苦もなく全部受け取り、ひょいひょいと肩にかけていく。
 見た目よりも器用で鍛えているのかもしれない、と思った。

「国崎さんか。俺は奈須宗一。職業は正義の味方(志望)かな」
「ほう、職があるのか」
「……突っ込んでくれないんすか」
「お前の言葉を真に受けてたら頭が持たないことは分かったからな」
「そりゃ、どうもすんませんした」

 悪びれた様子もなく、宗一はやれやれと肩を竦める。
 正義の味方というのは嘘にしても、この掴みどころのない性格を演じるには普通の仕事と精神ではないのは明らかだ。
 往人にはそれが何か想像も出来なかったが、個人として付き合うにはぞんざいなくらいで十分だと結論する。

「しかし、仕事か……俺も職を変えないとな……」

779(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:18 ID:moWm6PFw0
 仕事と聞いたからか、往人はついそんなことを口にしていた。
 今までは人形劇だけをしていたが、もう自分にはそれだけではない。
 いや、正確には旅をする必要性なんてなくなってしまったのだろう。
 少なくとも、今の自分では母から聞かされた目的を為しえることはもうないに違いない。
 空の少女は、後の誰かに託そうと思った。

 弟子でも取るか、それとも一子相伝といくか。
 そこまで考えて、空想が過ぎると己に嘆息する一方、初めて将来のことを考えているとも自覚する。
 これまでは目先のことは考えても未来のことなんて予想さえしていなかったから……

「ひどい仕事なのか?」

 尋ねてくる宗一に「ああ」と苦笑しながら返した。
 全く、ひどいものだった。自分のこれまでが。
 だが変えられる。昔では掴めもしなかったものが、今は掴みかけている。

 現在は確かに血塗られた道なのだろう。人の死を経験し、間違いを犯し、自分でも許せないものを抱えていることは事実だ。
 それでもこうして未来を見つめることが出来る。罪を抱えながらも、それでもより善い生き方にしようと必死で模索している。
 一度間違ったからといって、それで飛ぶことをやめてしまう方が本当の罪になると思ったから。
 血を吐き続けながら飛ぶとは、そういうことなのだろう。

「だが、もう吹っ切れたよ。今度こそ、間違えずに求められる」

     *     *     *

 人のいない洗面所に、水音が響いている。
 それは火照った顔を冷ますためのものだ。はぁ、と溜息をついて川澄舞は目の前の鏡に自らを映す。

 何の変哲もない自分。無表情に近く起伏もないはずの自分の顔が赤く染まっている。
 熱があるわけではない。これは先程の朝霧麻亜子の悪戯によるものだ。
 きっとそうに違いないと思いながらも、ふと国崎往人のことが頭に浮かぶ。

780(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:33 ID:moWm6PFw0
 惚れている、と断じた麻亜子の言葉が頭を過ぎり、しかしこれという結論もつけられない自分に困惑する。
 そもそも恋もしたこともなければそれがどういうものなのかも分からない。
 知識として頭にはあっても体感しているかと言われれば、何を言うことも出来ない。

 かと言って往人に対しどんな感情も抱いていないのかと問われれば、それもまた違う。
 見守ってくれると言ってくれた往人。人に恥じず、己に恥じない生き方を共に探そうと言ってくれた人。
 舞の中で大きなウェイトを占めているのは確かだ。ただ関係性を表す言葉が分からないのもまた確かだった。
 家族に向ける情でもなければ、友達でもない。好敵手などではなく、パートナーというには距離が近すぎる。
 思慕の念、という表現が一番近しいように思えた。麻亜子はそれを恋と言ったのかもしれないが。

「……ひとを好きになる、か」

 珍しく舞は一人ごちた。こうして戸惑っている自分は、かつての佐祐理との関係に似ている。
 無愛想で誰とも関わりを持とうとしなかった自分にもいつも笑顔で接してくれた親友。
 どうして佐祐理が自分と関わりを持とうとしてくれたのか、今となってはもう確かめようがない。

 ただ、今なら理解出来る気がする。予想の範疇でしかなくても佐祐理がどう思っていたのか想像できる。
 寂しかったのかもしれない。我が身だけで歩き、何もかもを引き摺って歩いている自分の姿を見ていられなかったのかもしれない。
 佐祐理は自分を見て、彼女自身の姿を見ていたのかもしれなかった。彼女もまた……一人でいることの多かった人間だったから。

 互いに何とかするべきなのだと言外に語ろうとしていた。
 自分だけで全てを背負い、それ以外を余所者だと、
 関係のない他人だと見なして交わろうとしないことに警鐘を鳴らしていたのだ。
 そんなことをするより、自分を無防備に晒して肩を組んで歩く方が楽だというのに。

 今さら気付くことの愚かしさに己を恨みたくもなったが、
 それ以上にこうして歩いているという実感が舞の靄を晴らし、すっきりとした気分にさせている。
 だからこれでいいのだと、舞は結論付けて鏡の自分を見据えた。

781(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:51 ID:moWm6PFw0
 そこにいる己の姿は決して祝福されるべき存在ではない。神様がいるのだとすれば、最も程遠い存在には違いない。
 だとしても、と舞は思う。未来が絶望だとは限らないし、絶望だと感じるかどうかも定まってはいない。
 何よりも自分の眼は、無限に遠くとも希望を見つめていた。自分達の目指す幸福という名の希望を。
 その幸福の中に、是非往人もいて欲しい。最後にそんなことを考えて、舞は洗面所を後にした。

「よー少女まいまい。初体験はどうだったかな?」

 廊下で待っていたのは数十分も舞の脇腹をくすぐったりその他諸々をしていた麻亜子であった。
 すれちがいざまにチョップという名の手刀をかまし、黙って荷物を回収する。
 麻亜子もこの通り元気になった。そこで二人は往人に合流しようということで結論を見たのだ。

 こんななりだが、麻亜子は舞より年上であるらしい。
 本人はじゅうよんさいだとか言っているが、ささらの先輩なら自分より年上だ。
 それにしては幼い外見だと思いながら必要な武器を身につけていく。

「反応が悪いなぁ。そんなんじゃ夫婦漫才は出来ぬぞー」
「……」

 すたすたすた。

 ぽかっ。

「が、がお、何するかなー」
「余計なこと言い過ぎ」
「なんだよー、人生の先輩として女の手ほどきをだな……」
「じゅうよんさいじゃなかったの」
「実年齢と人生経験に因果関係はないのだよ明智クン」

 意味もなく胸を逸らす麻亜子に付き合いきれないとばかりに舞はデイパックを背中にかけ、身支度を整えた。
 そのまま麻亜子を待つ。反応が返ってこなくなったと認識した麻亜子はこれ見よがしに溜息をつき、大袈裟に嘆息する。

782(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:07 ID:moWm6PFw0
「ああなんということでしょう。あたしゃこの子をこんな子に育てた覚えはないよ、よよよ」

 そして泣き崩れるふりをする。目が覚めてからというもの一事が万事この調子である。
 目覚めたときの儚く、今にも押し潰されそうだった麻亜子と同一人物だとは思えない。
 素なのか、演技なのか。或いは安心してふざけられるほど自分は信頼されているということなのだろうか。

 よく分からない。まるで掴みどころがない、と舞は考えて、
 そういえば相沢祐一が自分に対して同じようなことを言ったのを思い出した。
 無論麻亜子とは違う種類の掴みどころのなさなのだろう。祐一曰く天然、らしいがこれもよく分からない。
 分かるのは、自分も麻亜子も変人らしいのだということだった。

「……むぅ。チミからリアクションを取るには相当苦労しそうだな。しょーがない、今回は諦めて書を捨てに町へ出るとしますか」

 ふと見ると、既に麻亜子は準備を整えていた。
 いつの間に、と麻亜子の抜け目のなさに驚き、また彼女の目が鋭さを帯びた真剣なものに変貌していることにドキリとする。
 呆気に取られる舞を見た麻亜子は、ようやく満足したようにニヤリと笑った。

「こーいうのなら、得意なんだけどさ」

 ボウガンを肩に掲げ、こちらに向き直った麻亜子はやはり年上だと思わせる風格があった。
 自然と表情が引き締まり、日本刀の鞘を握る力が大きくなる。

「さて、行きましょうかね」

 麻亜子が玄関の扉に手をかけようとしたところで、先に扉がガラガラと開いた。
 侵入者か!? 咄嗟に刀に手を掛けた舞だったが、直後の一言がそれをかき消した。

「俺だ! 今戻った」
「あや、鉢合わせ」
「……こりゃまた」
「二人……誰?」

783(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:26 ID:moWm6PFw0
 荷物まみれの往人。刀を抜きかけた舞。ボウガンを向ける麻亜子。後ろで含みありげに唸る宗一。そして風子。
 合流は、実に奇妙な形となった。

     *     *     *

「ということで、こいつは動けない」
「おーよく寝てるね。ほれほれ」
「まーりゃん、悪戯しない」
「はいはい分かってますってば……それで、そっちのあんちゃんは?」
「見た目小学生の奴にあんちゃんとか言われると腹が立つな」
「小学生じゃねーっ! アイドルなんだぞ、美少女なんだぞー!」

「……こんな奴だっけか」
「こういうキャラ」

「そこ! あたしのキャラを誤解しないで頂きたい。いいかねあたしは」
「まあ話の腰を折るのはそこまでにして、だ。俺は山頂の火事があった場所に向かってたんだが、国崎さんと会ってな」
「荷物運びをしてもらった」
「やーい、パシリー」
「道中、山頂で何があったのかは大方国崎さんから聞いた」
「あ、無視っすか」
「伊吹の話だから実際俺は見ていないが……何人かが戦っているかもしれん。ただ、伊吹の知り合いは全滅した」
「……往人も、知り合いだった?」
「ああ、とは言っても顔合わせしかしていないが……だが、あいつらを助けられなかったのは事実だ」

784(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:41 ID:moWm6PFw0
「それで、だ。調査と殺しあってる奴らを倒すという意味で伊吹をお前らに預けて、俺達でまた山頂に向かう手はずだ」
「伊吹が逃げ出したころにはもう戦いも佳境だと考えていい。
 だからもういないかもしれないが、用心に越したことはない。装備を整えてから再出発するつもりだった」
「確かに、荷物が多すぎるねぇ」
「まるで武器庫」
「こっちとしては好都合だがな。だがとにかく早く準備は済ませたい。俺は今まで通りの武器でいい。奈須はどうする」
「貰っていいのか? だったら……ナイフ二本だな。本当ならファイブセブンの弾が欲しかったが、まあ普通ないしな」
「サブマシンガンは使わないのかい?」
「好みじゃない。そっちこそどうなんだ」
「あたしはそういう柄じゃないしねえ……小柄だし?」
「私は銃は撃てない……それよりは、まだ白兵戦の方が得意」
「グレランは……まあ、雨だから使い辛いな。結局のところ遊撃する分には拳銃とナイフの組み合わせが一番なんだよな。
 保険でショットガンは持ってるが」
「詳しそうだね、奈須くんや。ガンオタク?」
「いや軍事オタクかな、この場合」
「後はここに誰が残るか、だな。最低でも伊吹を守るために一人は……」

「――必要ないです」

785(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:58 ID:moWm6PFw0
 一通りの話し合いが終わり、ここに誰を守りに残すかの相談が始まろうとしたとき、のそりと起き上がる気配があった。
 全員がぎょっとして振り返る。そこにはまだ疲れの色も濃い風子の表情があった。
 ただその目は生気に溢れかえっており、ギラギラとした確かな意思がそこにある。
 いつから起きていたのだ、と誰が尋ねる間もなく風子は続ける。

「ここが正念場のはずです。悪い人たちをやっつけるチャンスのはずです。
 風子に構っている時間はないはずです。……違いますか?」

 たどたどしい言葉で、それでも風子は自分の意思を伝える。
 仇を討ってほしいという願いと、役に立たない自分に構わないで欲しいという、弱気で切実な気持ちだった。
 それは逃げ続け、今も集団の中で自分の必要性を見出せないでいる風子という少女の心情を表しているかのようだった。

 往人のみならず、ここまで面識がなかった舞や麻亜子、宗一でさえ風子にものを言うのは躊躇われた。
 それほどまでに風子が味わい続けてきた悔しさは誰の目にも明らかだったし、
 自分自身がちっぽけでしかないことはこの場の誰もが知り抜いていた。だから風子の言葉に反対できるわけがなかった。

「……それで、いいんだな?」
「はい」

 ようやく搾り出された往人の声にも、明朗な声で風子は応じた。
 何の躊躇もない返事がかえって自分自身の無力を自覚しているようで、往人は思わず言葉を続けた。

「必ず戻る。それまでしっかり留守番してろ」
「風子、子供じゃないです」

 そこでようやく、風子が苦笑した。けれどもその笑いは力がない。
 生きるしかない。自分の生をそのようにしか捉えていないかのようで。
 往人は人形劇を披露したい気持ちに駆られる。こんな笑い方をしてはいけない。
 その思いが突き上げ、パン人形を取り出そうとする。が、その前に舞がやさしく風子の頭に手を乗せた。

786(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:20 ID:moWm6PFw0
「あなたは弱い。逃げ出すしかなかったのなら、あなたは弱いのかもしれない。
 ――でも、無力じゃない。それは分かって欲しい」

 無力じゃない、という言葉に風子の瞳が揺れ、一瞬困惑したような表情を見せるが、すぐにぷいっと顔を背けた。
 頭を撫でられたことに照れただけなのか、それとも風子の内面に化学反応を引き起こしたのか。
 往人には分からなかったが、舞の言葉に重みがあることは理解していた。

 友達も親友も助けられず、みすみす見殺しにしてしまい、その果てに自殺しようとした舞は、弱いとも言える。
 往人だってそうだし、麻亜子にしても同じだった。
 だが、誰一人どうにも出来なかったわけじゃない。往人は舞を、舞は麻亜子を。
 弱いながらも、それでも手を引っ張り、肩を互いに組んで進み続けている。

 ならばきっとそれは、無力ではないということだ。
 麻亜子も口を挟まず、黙って風子を見つめていた。舞の言葉を噛み締めるようにして。

「……その通りだ。ひとは、いくらでも強くなれるし考えだって変えられる。
 無力だったら、それだって出来やしないさ。お前は違うだろ?」

 麻亜子や往人の代わりに、宗一が言った。自分達を総括する言葉に、不思議な確信が持てる。
 俺達は先へ進めるんだ、そんな確信を。

「俺の大切な奴もそうだしな。あいつだって弱いままじゃない。今、あいつも踏ん張ってる」

787(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:31 ID:moWm6PFw0
 だからこっちも踏ん張ろう。宗一の言葉に風子は黙って頷いた。
 ぎゅっ、と拳を握り締めて。

「それじゃ、行くか」

 今人形劇をする必要がなくなったことに安心と残念な気持ちの両方を得ながら往人は全員を促した。
 それぞれが頷き、各々の持ち物を持って往人についてくる。
 風子は壁にもたれかかったまま目を閉じ、静かに呼吸を繰り返している。
 気持ちを整理しているのかもしれないと思いながら、改めて玄関で靴を履いたとき、ぽつりと呟く声があった。

「いってらっしゃい、です」

 別れを告げる声ではなく、帰ってきてくれることを願う声だった。
 往人達が振り向くと、風子は不自然に顔を逸らし、あらぬ方向を向いていた。
 顔を見合わせ、互いに苦笑した。この場の誰もが巣立ったばかりの雛鳥で、まだまだこれからだった。

「ああ」

 全員が短く答え、目指す山の頂へと向けて飛び出していった。

788(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:55 ID:moWm6PFw0
【時間:2日目午後21時30分頃】
【場所:F−3・民家】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾0/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。ホテル跡に向かう。後に椋の捜索】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。疲労困憊でしばらく行動不能。民家に残る】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、投げナイフ2本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:心機一転。健康】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。ホテル跡方面に移動】

【その他:民家には以下のものが置かれています。
 イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】

→B-10

789午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:26:49 ID:1qEO/8a60
 
その明かりも灯らぬ暗い部屋には、底冷えするような空気が流れている。
何本もの配管が複雑に絡み合う壁に寄せるように置かれた幾つかの大きな鉄製の箱が、
家具一つないその部屋の性質を物語っている。
部屋は倉庫であり、箱はコンテナであった。
子供の背丈ほどもある鉄製のコンテナは重機で運搬することを前提にしているのか、
無造作に二つ、三つと積み上げられている。
どこか遠くから、空調の眠気を誘うような低音が響いていた。
時折部屋全体が微かに揺れる他には動くものとてない、無闇にがらんとした空間には、
しかし目を凝らせば二つの影がある。
片膝を立て、鉄のコンテナに背中を預けて座る鏡写しのような二つの影を、小さな光が照らした。
じ、と一瞬だけ燃え上がり、すぐに消えたのは影の擦ったマッチの炎である。
消えた炎が子を産んだように、後に小さな火が二つ、残った。

「狡兎死して走狗煮らる……か」

肺腑に満たした紫煙を細く吐き出しながら呟かれる声に、傍らに座る影が同じように
煙草の火を大きくしてから応じる。

「つまらん愚痴だな坂神。御堂あたりの病に侵されたか」

闇の中にも鮮やかな長い銀色の髪が微かに揺れる。
軽く灰を落としながらゆらゆらと紫煙の舞う中空に視線を漂わせる男を、光岡悟という。

「我々はいつだってこうしてきただろう。南方でも、大陸でも。
 今更、儀仗隊の捧げ銃でもあるまい」
「それは、そうだが……」

790午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:17 ID:1qEO/8a60
言いよどんだ坂神蝉丸が、その先の言葉に詰まる。
船が、揺れた。
結局、定刻まで御堂と石原が戻ることはなかった。その生死とて知れぬ。
今はただ二人、がらんとした暗い倉庫の中で、船に揺られている。
寒々しい闇の中、鬱屈した感情が滓のように腹の底に沈んでいく。
自分は構わぬという思いはあった。
どれほどの戦功を挙げようと畢竟、坂神蝉丸は脱走兵である。
命令不服従に軍備品の横領も加わろう。
銃殺を免れ得ぬ身に歓待など望むべくもない。
拘束されるでも憲兵に引き渡されるでもないこの待遇は、むしろ破格とも言えた。
九品仏によるプロパガンダに利用されるにせよ、それは仕方のないことでもあった。
元来、強化兵とはそういった政治色を払拭しきれぬ身の上でもある。
しかし。しかし、と蝉丸は思う。
しかしそれは、坂神蝉丸に対してのみ与えられるべき仕打ちであろう。
暗い部屋を見渡す。
置かれたコンテナに詰まっているのは銃器か、弾薬か。
貨物倉庫に詰め込まれた強化兵は、軍の備品扱いか。
それでいいと思っていた。
國の礎となるならばそれでもいいと、かつての蝉丸は考えていた。
だがこの島での戦いを経た今となっては、既に疑問しか浮かばぬ。
ましてこれが、己に忠義を尽くす者への扱いか。
光岡悟は九品仏少将にとって欠くことのできぬ懐刀ではないのか。

「閣下はお忙しい身だ」
「……」
「元より汚れ役の俺などに割くお時間などありはせん」

それは、蝉丸の迷妄を喝破するように直截な、躊躇いのない声だった。
だから蝉丸は、言葉を飲み込む。

791午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:37 ID:1qEO/8a60
「そんなことよりもな、坂神。これからは我等も忙しく立ち働くことになるぞ。
 閣下の作られる新たな國の基となるべく、今上の御世を影から支え奉るのだからな。
 まずは老いさらばえた狒々どもを駆逐し、未だ幼くあられる陛下を警衛し奉ることになろう」

闇の中、小さな火が躍る。
身振りを交えて楽しげに語る光岡の手にした煙草から落ちる灰を、蝉丸はじっと見ていた。
はらはらと、花の散るように白い灰が舞い、闇に溶けていく。
それがどこか、何かを暗示しているかのように感じられて、蝉丸は小さく首を振る。

「……貴様がいいなら、構わんさ」

結局、それだけを呟いた。
最後に大きく紫煙を吸い込んで、煙草を床で捻り消す。
別れた道は交わり、これからも続いていく。
二度と再び、違えることもあるまい。
溜息を隠すように細く吐いた紫煙は、ゆらゆらといつまでも漂っている。
煙の向こうに志半ばに倒れた少年の幼さの残る顔が浮かび、やがて消えた。
それきり口を噤んで、蝉丸は静かに目を閉じる。
何も残らぬではない。
覚えている。刻んでいる。
ただ、泥のように疲れていた。
その明かりも灯らぬ暗い部屋は、無闇に広い。



******

792午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:05 ID:1qEO/8a60
 
 
少女がひとり、ぼんやりと海を眺めている。
波間の向こうに日が暮れようとしていた。
目深に被った麦藁帽子のつばが海風に煽られてはためくのを押さえるでもなく、
観月マナはひんやりと冷たい手摺に寄りかかったまま、舷側に寄せ返す波濤から
際限なく吹き上がる白い泡沫をその霞のかかったような瞳に映している。

「あ……」

ふわり、と。
一際強い風が、吹き抜けた。
咄嗟に伸ばした手は間に合わない。
麦藁帽子が、風に舞う。
眼だけで追ったそれを、

「よっ……、と」

掴み取った手が、ある。
ひょろりと肉の薄い、背の高いシルエット。
少年から青年に移り変わろうとする年代特有の、どこか遠くを見るような眼差し。

「えっと……藤田、だっけ」
「呼び捨てかよ」

苦笑したその少年のことを、マナは何も知らない。
ただこのプログラムの生還者として同じ回収船に乗り合わせたという、それだけの知識しかなかった。
否、それ以前の問題として、

「ま、いいか。……あんた、何も覚えてないんだって?」
「……」

マナが沈黙する。
事実であった。
マナには、この島に来てからの記憶がない。
突然拉致され、妙な兎の映像に殺し合いをしろと強要されたのは覚えている。
だが、そこまでだった。
その後の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
じりじりと暑い砂浜で目を覚まし、回収に来た軍の人間に救助されるまで、何をしていたのかがわからない。
気がつけば、そこにいた。
そう言う他はなかった。

793午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:30 ID:1qEO/8a60
「っと。悪いこと、聞いちまったかな」
「……別に」

ぼそりと呟く。
事実、何の感情も浮かばない。
広報によれば、生存者は十六名。
行方不明者八名。
そして死者、実に九十六名。
二十四時間で、百人近くの人間が死んでいる。
それだけの殺戮が行われたあの島で、自身が何をしていたのかはわからない。
わからないのは恐怖でもあったが、しかしそれだけのことだった。
空白の記憶に、良いも悪いもありはしない。
たとえばその空白に、何か大切なものが詰まっていたのだとしても。
写真のないアルバムを眺めることに、意味などなかった。
それでも。

「……」
「……ねえ」

沈黙に耐えかねたか、困ったような顔で頭を掻いている少年に、尋ねる。

「あたし、あの島で何を……ううん、違う」

言いかけて、口を噤む。
僅かな間を置いて、仕切りなおす。

「何かを……できたのかな」
「……」

それは、ただ一つ観月マナの思考と感情との周りをぼんやりと、しかし切実に巡る問いであった。
現実として、マナはここにいる。それはいい。
記憶の空白も、それ自体は構わない。
それは単に、そういうものだ。
時間が経てば、得体の知れない恐怖に押し潰されそうになるのかもしれない。
しかし今はまだ、そのことに実感が伴ってはいなかった。
だからこそ今のマナが自身に問うのは、ただその一点である。
自身に問い、しかし記憶のない身に答えの出ようはずもない。
だから、声に出した。
九十六人の死者を出した二十四時間を乗り越えた人間が、目の前にいる。
彼が、マナの問いに何らかの示唆を齎してくれることを期待した。
しかし。

794午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:15 ID:1qEO/8a60
「さあな。俺はあんたを知らねえ」

少年は、あっさりと期待を粉砕する。
内心で小さく溜息をついて、マナは少年から視線を外す。
夕焼けの海がマナの短慮を笑っているように感じられて、目を閉じた。
寄りかかった手摺のひんやりとした感触が心を冷ましていく。
そんなものだろう、と思う。
彼には彼の二十四時間。マナにはマナの二十四時間。
それは、重ならない。それは、分かち合えない。
たとえばマナに記憶があったとして、同じことを彼に訊かれれば、同じように返しただろう。

―――あたしは、あんたなんか知らない。

取り付く島もなくそう言い放つ自分の声を想像した瞬間、どうしてだか心の隅が、疼いた。
じわりと、閉じた瞼の端に涙が滲むのがわかる。
それを少年に気取られるのが嫌で、マナは目を閉じたまま顔を伏せる。
震える唇を、奥歯をかみ締めて堪える。

「……けど、さ」

少年が、何かを言おうとしていた。
もういい、と。
もういいからどこかに行ってと、叫びたかった。
口を開けば涙声になりそうで、声を出せなかった。

「昨日は百二十人からの数がいて、今日こうして帰りの船に乗ってるのは俺たちだけでさ」

少年が訥々と、ぶっきらぼうに喋っているのが聞こえる。
デリカシーのない男だと感じる。
態度で分かれと思う。
独りに、してほしかった。

「なら、そこには何か意味があるって……信じたい。そういうのは、あるかもな」

滲んだ涙が珠になって、目の端から零れそうになる。
堪えきれなかった。
袖で拭えば感付かれそうで、だからマナが目を伏せたまま無言で歩き出そうとした、
正にそのタイミングで背後から声がした。

「……浩之」
「お、柳川さん。どうだった?」

795午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:40 ID:1qEO/8a60
びくりと肩を震わせたマナに気づいた様子もなく、少年が声の主に言葉を返す。

「こちらには来ていないようだ」
「そっか……ったくあの人は、どこをほっつき歩いてんだか」
「大きな船ではない。すぐに見つかるだろう」
「まーな」

そんなやり取りが耳障りで、足早に立ち去ろうとしたマナに、少年の声が響く。

「おい、あんた!」
「……」

マナは足を止めない。
背後から、かつかつと追いかけてくるような足音が聞こえる。
鬱陶しかった。

「少なくとも俺は……俺たちは、あんたに助けられたんだぜ」
「え……?」

一瞬、何を言っているのか理解できず。
意味を咀嚼して驚いて、思わず振り返って、涙目に気付いて急いで顔を背けようとして、
ぽふり、と。

「わ……」

被せられたのは、麦藁帽子だった。
突然の闇に覆われた視界の外、帽子の上からぽんぽんと軽く頭を叩く感触。
目深に押し込まれた帽子のつばを持ち上げたときには、少年はもう踵を返した後だった。

「じゃーな」

手を振る背中だけが、あった。



******

796午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:31 ID:1qEO/8a60
 
 
「お、あれ……」
「倉田といったか」

舷側の向こうから歩いてきた少女の名を、柳川が即座に告げる。

「一度会っただけでよく覚えてんな……さすが刑事」

茶化すような浩之の言葉に柳川は答えない。
代わりに呆れたような視線が返ってくる。
軽く肩をすくめてみせた浩之が少女、倉田佐祐理に向けて小さく手を上げる。

「よう」
「あ……藤田さんたち」
「あんたも刑事だったのか」
「……?」
「いや、なんでもねえ」

きょとんとした顔の佐祐理に、言い繕うように浩之が続ける。

「そういや、あんたが川名を助けてくれたんだってな」
「あははーっ、それは違いますよー」

屈託のない笑顔と共に手を振ってみせる佐祐理。

「佐祐理はただ、軍の方に川名さんの居場所を伝えただけですー。
 船まで運んでくれたのはあの方たちですよー」
「けど、あの……パンも持ってきてくれただろ」

パン、と口にする瞬間、浩之の表情に微妙な影が落ちる。
その脳裏に浮かぶ存在がパンというカテゴリに収まってしまう代物ならば、自分は一生白米党でいよう。
そんな風にすら思えてしまう記憶を振り払うように、少し乱暴に頭を掻く。

797午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:55 ID:1qEO/8a60
「あれがなきゃ川名は目を覚まさなかったかも知れねえ」
「うーん……」

苦笑気味に小首を傾げた佐祐理が、顎に指を当てたまま反駁する。

「あれも佐祐理じゃありませんねー。大切な友人からの預かりものを届けただけですー」
「友達……って、あの」

この回収船に乗り込む前、佐祐理と熱心に話し込んでいたその姿を、浩之は思い浮かべる。
陽光の下、白く輝く毛並み。
精悍に伸びる手足と、涼やかな目をした女性の顔。
まるで御伽噺から飛び出してきたような、それは半人半獣とでもいうべき存在だった。
全身を覆う毛皮の他には一糸纏わぬその姿は、見る者の眼を捉えて離さぬ神々しさをすら秘めていた。

「……藤田さん、もしかしていやらしいことを考えていますか?」
「考えてねーよ! そういや、あの人は船に乗らなかったみてーだけど……」

人、と呼んだ瞬間、佐祐理の微笑がほんの少し深くなったことに浩之は気づかない。
それこそが、藤田浩之という少年の美徳であったのかもしれない。

「舞は……友人は、まだあの島にやり残したことがあるそうなので」
「やり残したこと?」
「何でも魔物を迎えに行く、とか」
「……なんだ、そりゃ」
「さあ? 舞は時々、不思議なことを言う子ですし……」

あっけらかんと、しかし否定の色の一片すらなく、佐祐理が言ってのける。

「でも、あの子がそう言うのなら、それは本当に大切なことなのでしょうから」
「そっか……」

微笑の奥に横たわる深く濃密な信頼を、依存と呼ぶべきか、陶酔というべきか。
そのどちらをも選ばず、浩之は言葉を切った。
僅かな沈黙に、ふと佐祐理の微笑がその色を緩める。

798午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:31:25 ID:1qEO/8a60
「そういえばお二人とも、お散歩の途中でしたか?」
「……ああ、そうだった」

言われて初めて気付いたように浩之が天を仰ぐ。

「いや、散歩じゃねーよ。実は川名を探しててな」
「あらら、いらっしゃらないんですかー。……お部屋には?」

数時間に及ぶ船旅にあたって、生還者にはそれぞれ個室が宛がわれている。
客船でない以上、簡素なものではあったが、休むことくらいはできた。
それを指した佐祐理に、浩之が首を振って答える。

「ちらっと見たが、電気がついてないみてーだったからな」
「あの、それは……」
「―――浩之」

と、それまで浩之の背後に影のように付き従い沈黙を守っていた男が、何かを言いかけた佐祐理の言葉を遮った。

「ん? ……ああ、そうだな」

それをどう受け取ったか、浩之がひとつ頷いて佐祐理の方へ向き直る。
男の視線が背後で物言いたげに伏せられるのを、浩之はまるで見ていない。

「えーと、倉田……だったよな。話し込んじまって悪かったな」
「いえいえ、お話できてよかったですー。川名さんを見かけたら、藤田さんたちが探してたって
 伝えておきますねー」
「ああ、頼むな」

手を振る佐祐理に背を向けて、浩之は歩き出す。

「ったく、どこ行ったんだか……」



******

799午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:03 ID:1qEO/8a60
 
 
頭を掻きながら歩いていく少年たちの背中を見送って、小さく溜息をつく。
困ったものだ、と見やった空はすっかり群青色に染まって、夜の訪れを待っている。
水平線の向こうに沈んだ夕陽を惜しむように吹く風が、長すぎる髪と大きすぎるリボンを揺らして
いつも通りの不快感を私に齎してくれる。

振り払うように、歩き出す。
舷側を少し進めば小さな闇が口を開けている。
船室へ向かうための階段だった。
かつかつと金属的な音を響かせながら、狭くて急な階段を下りていく。
踊り場を一つ経由して薄暗い廊下に出た。
船舶という性質上、無駄な容積を取れない設計の廊下はひどく狭く、息苦しい。
壁面には用途も分からないパイプが敷き詰められ、視覚的にも圧迫されるように感じられた。
そんな、ごみごみとして、無機質で、鉄臭い廊下を歩く。

一つ、二つと扉を通り過ぎる。
あてがわれた部屋の扉も越えて、足を止めたのはその隣。
密閉可能な鉄の引き戸は、しかし今は薄く開いている。
開いた扉の隙間からは闇が漏れ出していた。
動くものの気配も、音もない。
気にすることなく、ノックを一つ。

「―――お邪魔します」

それだけを告げて、返事も聞かずに引き戸を開ける。
ぼんやりとした廊下の天井灯が、福音のように部屋の中を満たしていく。
部屋に詰まった闇が流れ出すように、暗がりが払われた。
暗闇の中から小さく無個性な据付のスチールデスクと簡素なパイプベッドが、そうして最後に、
そのベッドの端に腰掛けた一人の少女が、現れる。
ぼんやりとした明かりにぼんやりと照らし出されたのは、光を映さぬ瞳。

「……えっと」
「倉田です。倉田佐祐理」

800午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:32 ID:1qEO/8a60
驚いた風もなく、しかしどこか戸惑った様子の少女に、私は臆面もなく名を告げる。
戸惑うのも当然だった。
突然居室に誰かが入ってくるということ自体、普通では考えられない。
まして盲目の少女にとっては些細な想定外の事態ですら、致命的な恐怖の対象となり得るのだ。
更に言えば少女、川名みさきと私との間には、全くといっていいほど面識がなかった。
幾重にも礼を失し、既に愚挙と呼ぶべき行為に及んで、しかし私には罪悪感がない。
そんなものは当の昔に、あの小さな棺に入れて燃やしてしまった。
だがそんな私を見て、否、私の声のするほうに顔を向けて、川名みさきは静かに微笑む。

「……ああ、わたしを助けてくれた人だね。その節はありがとう……でいいのかな?」
「お加減はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫。元気だよ」

世間話のようなやり取りに、ひどい違和感が付きまとう。
何か、薄い膜のようなものを隔てて話をしているような感覚。
眼を凝らさなければ見えないような、薄くて軽い、透き通った壁。
そうして普通の人間は、誰かと言葉を交わすときに眼など凝らさない。
だから誰も気付かない、薄くて軽い、しかし突き破ることの叶わない、隔壁。
それは、川名みさきの張り巡らせているものだろうか。
それとも、川名みさきと向かい合う私が無意識に張り巡らせていたものだっただろうか。
分からない。確かなのは、私と川名みさきを隔てる何かがそこにあるということ。それだけだった。
だから私は、壁を通して通じる言葉を、使う。

「藤田君たちが探していましたよ」
「え? ……もう、ずっと部屋にいたのに。ひどいよ」
「お連れの方は気付いていたようですけどね」

801午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:28 ID:1qEO/8a60
可愛らしく頬を膨らませる川名みさきの子供じみた仕草を見ながら、私はもう一度溜息をつく。
そう、川名みさきは全盲だ。
わざわざ自室の照明をつける習慣など、あるはずもない。
部屋が暗いという理由で不在を確信するなど迂闊に過ぎる。
まして全盲の少女が慣れぬ船の中を歩き回るものか。
想像力が足りないのか、深く考える癖がついていないのか、或いはその両方か。
もっとも、と私は心の中の評価シートの、あの薄ぼんやりとした背の高い少年の欄に刻まれた
低い数字に疑問符をつける。
あのとき、照明のことを指摘しようとした私の言葉を遮った男。
藤田浩之の後ろに立っていた、ひどく鋭利な眼をしたあの柳川という男が、言葉巧みに
少年を言いくるめた可能性は決して低くはないだろう。
何故だかは分からないけれど、あの男は藤田浩之を川名みさきと会わせたがっていない節がある。
もしかしたら、いつまでも二人でうろうろと歩き回っていたいだけかも知れない。
そんなはずはないか。
取り留めのない思考に沈みかけた私を掬い上げたのは、川名みさきの声だった。

「まあ、いいや……わざわざありがとう」
「いえ、佐祐理も少しお話してみたかったので」
「わたしと?」
「はい」

咄嗟に口をついて出た言葉に、私自身が驚いていた。
川名みさきと話をしたい? 一体何を? そんな疑問を封じるように、言葉が続く。

「色々、ありましたし」
「まあ……そうだね」

呟いて小さく天井を見上げる川名みさきの表情には、感情というものがない。
そのことに、何故だか奇妙な苛立ちを感じた。
廊下から漏れるぼんやりとした光に照らされて、ぼんやりとした顔だけが浮かび上がっている。
役目を終えた仮初めの福音は、いつの間にか鍍金が剥げてただの天井灯に戻っているようだった。
そんな光に照らされているのが苦痛で、後ろ手に扉を閉めた。
からから、がちゃりと乱暴な音が鎮まると、狭い部屋からはすっかり光が喪われる。
闇が、降りた。

802午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:51 ID:1qEO/8a60
「たくさんの方が亡くなりました」
「そうみたいだね」

表情は見えない。

「昔から知っている方も、この島で出会った方も」
「わたしの一番の親友もね」

感情は見えない。

「……こういうときは泣いてみせたほうが、それっぽいのかな?」
「いいえ」

闇の中に、言葉だけが響く。

「いいえ、悲しみの受け止め方は、人それぞれですから」

言いながら、私は一つの顔を思い浮かべていた。
久瀬。
臆病で、神経質で、いつも虚勢を張っていた少年。
彼もあの島で命を落としたと聞いた。
涙は流れなかった。
ただ、悲しいという感情だけは、確かにあった。
今もそうだ。
彼の顔を思い浮かべた私は、きっと悲しい顔をしている。
闇の中で、表情は、見えないけれど。

「悲しいっていうのとも、たぶん少し違うんだけどね」

803午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:36:29 ID:1qEO/8a60
声に混じったのは、苦笑の色だろうか。
少なくとも、そこに悲愴は感じ取れない。
ただ、淡々と。

「雪ちゃんはもういない」

無明の世界に、言葉が響く。
訥々と。
ただ、降った雨の、水に落ちて小さな輪を作るように。

「それは、……うん、目が覚めたときにはもう分かってたんだよ」

喪失を、受容する。

「ずっとずっと、わたしのために頑張ってくれて、最後まで頑張ってくれたから。
 だからわたしは、こうしてここにいる。ここにいられる。
 ……雪ちゃんがここにいないっていうのは、そういうことだと思ってる」

小さな棺の閉じるのを、じっと見つめたあの日のように。

「だからね、だけど、わたしはそれで、思うんだ」

変質を、許容する。

804午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:01 ID:1qEO/8a60
「わたしには、何もできない」

言葉だけが響く闇が、灰と黒とに染まった雨の空を連想させて。
ああ、と。

「ずっと、そう考えてたんだ。わたしは目が見えないから。
 だから何もできないって。しちゃいけないんだって」

ようやく、思い至る。

「だけど……」

川名みさきは。

「だけど違うんじゃないかって。目が見えないから何もできないんじゃなくて。
 目が見えないから何もできない……って、そんな風に考えるから何もできないんじゃないか、って」

この全盲の少女は。

「そう、思った……ううん、思えたんだよ」

私と、似ている。

「……」
「おかしいかな?」
「いいえ」

細く、長く息をつきながら、答える。
何のことはない。
薄く軽い、透き通った壁は。
私と、川名みさきと。
両方から、張り巡らされているのだ。

「でも、笑ってる」

笑っている。
そうだ。確かに私は、笑っている。
嘘つきめ、と笑っている。
誰でも受け入れるみたいに微笑んで。
だけど誰にも見えない、きっと眼を閉じなければ見えない透き通った壁を積み上げて。
そういうもので心の奥のずっと底の、本当に暗い場所に隠した嘘を包んでいる。
川名みさきは。
倉田佐祐理は。
嘘つきだ。

805午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:56 ID:1qEO/8a60
だから私は笑っている。
楽しくて、嬉しくて、笑っている。
だから、

「何でも、ありませんよ」

だから私は、それだけを口にする。
いつか、いつか、あなたの嘘が、綺麗な本当のお日様の下で、溶けてしまいますように。
それを、心から願いながら。

「―――」

ああ、私は光の道を行こう。
大切な友の、表情の乏しい物憂げな顔を思い浮かべながら、思う。
私は私の奥底に、喪服を濡らす雨の冷たさを抱えながら光の下を歩こう。

その先には作り上げるべき世界が、待っている。
この世界でいちばん大切な人が帰ってくる、帰ってこられる場所が、私の歩みを待っている。
立ち塞がるのは政治と経済の世界だ。
取るに足らない、私の決意に敵すべくもない相手だ。
倉田佐祐理の、それが道だ。

「―――」

ふと、闇の中に降りた沈黙に気付く。
浸り込んでいた思考から、意識が浮上する。

「すみません、川名さん……川名さん?」
「―――」

返事はない。
闇の中、少女の姿は見えない。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるのは、定期的な呼吸の音。
どうやら川名みさきはいつの間にか、眠ってしまっていたようだった。
苦笑して、音を立てないように立ち上がる。
静かに開いた、引き戸の隙間を抜けようとしたとき。

「……え?」

背後の少女が、何かを呟いたような気がして、振り返る。
しかし、

「―――」

それきり何も、聞こえない。
寝言か何かだったのだろうか。
部屋を出ながらそう考えて、後ろ手にそっと扉を閉める。

一歩を踏み出せば、かつんと硬質な音。
暗闇を満たした部屋から遠ざかる音。
かつかつと響く、それは私の足音だ。
倉田佐祐理の未来に響く、足音だ。

見上げる。
薄ぼんやりとした光の向こう、狭くて急な階段を昇った先に、夜が訪れようとしていた。




******

806午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:16 ID:1qEO/8a60
******












「おめでとう」











******

807午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:39 ID:1qEO/8a60
 
【時間:2日目 PM 6:43】

観月マナ
【状態:生還】

藤田浩之
【状態:生還】
柳川祐也
【状態:生還】

川名みさき
【状態:生還】

倉田佐祐理
【状態:生還】

坂神蝉丸
【状態:生還】
光岡悟
【状態:生還】


→1061 ルートD-5

808名無しさん:2009/05/21(木) 22:48:43 ID:1qEO/8a60
「【改正BR第十三回プログラム第一次生還者 第九次追跡調査報告書概略】」

 
 
発:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課特殊資料室 栗原透子
宛:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課 課長 榊しのぶ



※本件は極秘扱とする。
 閲覧後は所定の手続にて回収・処分のこと。



******




藤田浩之【――】

・生還後、高校・大学を卒業。
 同年、総務省入省。
 現在は同省固有種公民権問題対策準備室に所属。
 関係各省庁の連携・調整に忙殺されている。
 昨年、官舎より転居。



柳川裕也【固有種】

・生還直後、県警を退官。
 現在は都内にて民間の護衛・探偵業を営んでいる。
 昨年、数年来の自宅としていた事務所より転居。



観月マナ【行方不明】

・生還後、元の生活に復帰する。
 高校卒業後に突如として失踪し、現在に至るまで行方不明。
 最後の通院記録によれば記憶は戻っていなかったようだ。



倉田佐祐理【――】

・国民議会決議による財閥解体を期に倉田家本流から距離を置く。
 都市圏への外資流入による大規模な経済混乱期の政争・暗闘を回避し、
 地方金融を中核としたグループとして旧傘下の中堅企業を纏め上げた。
 現在も数社の取締役として多忙な日々を送りながら、固有種公民権問題に
 積極的なロビー活動を行っている。
 生還後、魔法の力は失われたようだ。



川名みさき【――】

・生還後、故郷に小さな私塾を開いた。
 近年、各界に優秀な門下生を多く輩出し徐々に存在感を増しつつあるが、
 その思想と影響力の台頭を危険視する声も一部に上がり始めている。



光岡悟【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い首相付護衛武官に異動。
 大過なく任務を遂行していたが、五年前に突如として幼い先帝を拐かし武装蜂起する。
 現政権に國体護持の資格なしとの主張を掲げ首相暗殺を試みるも失敗。
 国外へ脱出し、軍の一部急進派を率いて転戦する。
 南方密林で包囲され、拠点に火をかけて先帝諸共自刎したと伝えられている。
 軍機密のため詳細は不明だが、拠点内から先帝の亡骸は発見されなかったとの
 まことしやかな噂もいまだに囁かれている。



坂神蝉丸【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い教練所指導員に異動。
 優秀な教導官として信頼を得るも、光岡悟の武装蜂起に呼応し合流。
 その後は国外を転戦するも、南方で戦死した模様。
 大陸で子供連れの白髪の男を見たという複数の証言があるも関連は不明。



******



→1066 ルートD-5

809Nos appetimus responsum unic?s quod absolut?s.:2009/05/21(木) 22:49:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
ここから先のすべては蛇足である。


物語は既に完結している。
世界は救われ、人々は日常へと帰った。

この先に得られるものは何もない。
そこにあるのは取るに足らない答え合わせと、愚にもつかない辻褄合わせ。
描かれるのは一人の敗者と一つの祝福。

繰り返して警告する。
ここから先のすべては、蛇足である。




******

810Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:15 ID:1qEO/8a60
******







葉鍵ロワイアル3

ルートD-5/終章


 「生」







******

811Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
そこには花が咲いている。


「神さま、しんじゃったね」
「そうだね」


儚げに天を仰ぐ、白い、白い花。


「もう、くりかえせないね」
「別に構わないさ」


見渡す限りの一面に咲き誇る花の仰ぐ天に、光はない。


「いいの?」
「ここは僕たちが生まれるに価しなかった。結局それだけのことさ」


闇夜に日輪はなく、


「……そう」
「それとも、もう一度始めてみたかった?」


星の瞬きすらもない。


「……さあ」
「なら、いいじゃない」


そこにはただ、


「……そうかもしれないね」
「最後の世界が終わるまで、どのくらいかかるかな」


赤い、赤い、瞳のような、


「……」
「ま、いいか。どうせいつかは終わるんだから」


月だけが、浮かんでいる。

812Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:51:04 ID:1qEO/8a60
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:世界の終わりの花畑】

岡崎汐
【状態:――】

少年
【状態:――】


→1067 ルートD-5

813明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:21 ID:9hfe7kLg0
 いつの間にか、雨が降っていた。
 闇夜から落ちてくる透明な粒は髪を濡らし、顔を濡らし、体を濡らす。
 熱を持った傷痕が夜雨の冷たさと中和され、心地良い痛みを作り出している。

 天然のシャワーをその身に浴びながら、天沢郁未は完全に崩落した廃墟を眺めた。
 兵どもが夢の跡。様々な人の血を吸い、命を喰ったホテル跡は僅かに炎の残滓を残すのみで瓦礫の山を築き上げていた。
 燻る煙は、殺された参加者達の怨念か無念か。けれども空に溶けてゆく様を見ればそんな思いだろうが関係はなかった。
 死んだらそこまで。敗北者は敗北者としてでしか語り継がれない。死んだ人間の存在はその程度のものだ。
 だからこそ、そうはならないために自分は戦って戦って勝ち続ける。そうしなければならないのだ。

 命の重たさが身に沁みる。敗北者どもの魂が我が身に宿っている。意外にも好敵手は多かった。
 芳野祐介。古河秋生。那須宗一。十波由真。七瀬留美。誰もが己の勝利を確信していた猛者どもだ。
 このうちの半数は既に死に、いくらかは自分が屠った。

 勝ち残れたのは自分の執念が勝っていたからだ。生きたいという願望。負けられないという願望。
 願いは大きくなり、他者を取り込みながら増大していっている。
 自分は知っている。借りを返そうと命を支払い続けた女の姿も、愚直なまでに己の正義を信じ続けた女の姿も。
 それらの存在があるからこそ自分の立ち位置も知ることが出来、生きている実感を持つことが出来る。

 そう。生きることは、戦うことだ。生きている限りは誰かとぶつかり合う。その中でこそ己の存在を認識する。
 結局人間は孤独で、互いにしのぎを削りあう存在だ。仲間などというのは利害の一致でしかない。
 だから郁未は渚の存在が、主張が許せない。

 誰かと共に有り、無条件で信じ合えると言った女。絆が力になると言った女。
 そして、戦うことを拒否した女。

 何もかもが腹立たしい。何故戦わない。何故力を見つめようとしない。何故戦いが悪いと決め付ける。
 それだけではない。何ら対抗策も持たず、ただ漠然と誰かが何とかしてくれるという他人任せの姿勢。
 主義主張はあってもその理由も持とうとしない、現実を見つめようとしない姿勢。

814明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:41 ID:9hfe7kLg0
 一番許せないのがそこで、そんな彼女が守られていることが理解も出来ない。
 だから潰す。無策でしかいられず信念も持たない渚も、その周囲の人間も。
 命を持っていいのは自分がどうしたいか、を知り抜いている奴だけだ。
 結果として戦おうが、殺しあおうが、利用し合おうが関係はなかった。
 来栖川綾香でさえ郁未にとってはこの島にいられるだけの価値がある、と思えるものだった。

「……あー、もう、むかつく」

 吐き出しても吐き出してもイライラは収まらない。
 結局のところ自分は口であれこれ言い合うよりも勝って正しさを証明する(ただし手段は問わない)方が性に合っているのだろう。
 案外単純な気質なのかもしれない、と思う。女の子としてはどうかとも思うが。
 軽く笑って、デイパックから水を取り出して一気に喉に流し込む。

 散々熱いところで激しく運動をしていたために喉が渇ききって仕方がなかった。
 腹を下すのではないかと思うくらいに、さして美味しくもないはずの水を飲み続ける。
 瞬く間に水の量は減っていき、気がつけば既に半分を飲み干していた。
 口を放し、残った水を頭からかける。多量の水が顔と髪を際限なく濡らし、
 へばりついていた煤や血糊が綺麗になくなる感触があった。

 なんとなく豪勢な気分になれたので、残りの水も引っ張り出して身体中にかける。
 雨で湿っていた服はずぶ濡れの様相を呈し、布地はぴったりと体に張り付いて郁未のラインを露にする。
 寒いとは思わなかった。内側から際限なく溢れ出してくる血液の熱と混ざり合い、寧ろ適温のように思えた。
 豪快にかけすぎて下着まで水が染み込んでしまったがどうでもいい。かえって邪魔だとさえ感じられる。

 とはいえこの場で素っ裸になれるほど郁未も恥知らずではない。とにかく心地良さだけがあればよかった。
 ペットボトル全てを空にした郁未は瓦礫の上に腰掛け、装備の確認をする。
 改めて見てみれば、随分とたくさんの品を抱え込んでいた。

815明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:58 ID:9hfe7kLg0
 拳銃が四丁。サブマシンガンが一丁。鉈。その他諸々。
 ノートパソコンに至っては二台もあった。
 いらないから捨てるべきかと思ったが、どうせこの場から動けないので捨てる意味もない。
 考えた挙句、鉈と拳銃を二丁だけ持って残りはデイパックに放り込んだ。

 ただしデイパックもいくつかあったのでひとつは食料用(使うのか疑問だったが)、
 ひとつはいらないと思ったもの、もうひとつは武器用として分けることにする。
 武器用のデイパックは常に携帯しておく。鉈を使って器用に分解し、
 腰に巻くようにして縛りなおし、調整する。これで断然動きやすくなった。
 もっとも待つことになるのは当面変わらないので本当に動きやすいかどうかは分かったものではないが。

「さて、待とうかしらね」

 荒く息を吐き出して、郁未は戦うべき相手を待った。
 未だ燻っている炎をカーテンに。瓦礫の山を玉座に。王は、ただ戦いを望む。

     *     *     *

 道中は静か過ぎるほど静かだった。
 雨の音一切排除したかのように、山の中は無音に満ちている。
 四人の会話は殆どない。
 それは登る途中で、変わり果てた男と幼い少女の遺体を見つけたせいもあるのかもしれなかった。

 死体ならば四人とも見たのは一度や二度ではないはずだ。
 だが見ていて気分のいいものではないし、慣れるものでもない。
 それにあの死体が誰であるか、誰にでも予想ができたのもあった。
 残してきた伊吹風子の知り合いであり、仲間だったという人間の遺体。
 往人に至っては少女は知り合いだったという。

 彼らを見捨てて逃げなければならなかった風子の心情、
 そしてホテル跡を調査するために埋葬を諦めざる状況であることも重なり、
 どことないばつの悪さが敷衍し、それぞれが違う方向を見ながら歩く時間が続いていた。

816明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:21 ID:9hfe7kLg0
 会話がない以上、互いにやれることは作業しかなかった。
 那須宗一は国崎往人のコルトガバメントカスタムが汚れているのに気付き、簡単な整備を施してやることにしたのだった。

「まったく、武器の手入れくらいちゃんとしとけよ。弾切れだし、泥だらけだし。銃は乱暴に使うもんじゃない」
「……面目ない」

 ナイフの刃で細かい泥を取り除いたり、詰まっているところはないかとチェックしながら、
 宗一はぶつぶつと小言を往人にぶつける。
 自分よりも年齢と背が高いはずの往人がしょぼくれているのを目にするとなんとなく締まりが悪かったが、
 銃器の扱いを生業としている人間にとってみれば見逃すべきではないことだ。

 こうして整備を怠り、銃が暴発して二度と使い物にならなくなったエージェント達の姿を宗一は知っている。
 身だしなみをきちんと整えるのも銃器と付き合う人間の役目だ。そういう意味では相棒であり、女房だ。
 まったく、いつまで経ってもスパイ気質が抜けやしない。
 チェックしているうちにグリップの握り具合やトリガーの堅さを確かめ、使いやすさを吟味していることに内心苦笑する。

 人間長く仕事を続けていると慣れてきてしまうものだ。自らの生活を守るために始めたはずのエージェントも、
 今ではそれなりの余裕と楽しみを持って続けている。
 その一方で、裏の稼業で食べている者の常として人の強欲、利権を貪る醜さを見てきたこともある。

 『仕事』として人を殺したことも一度や二度ではない。エージェントは情報収集が任務だが、任地は安全な場所ばかりではない。
 マフィアやギャングが多く潜む暗黒街での仕事で争い沙汰になるのも日常茶飯事だった。
 人を殺した次の日は決まって悪夢に苛まれる。殺した人間が幽霊になって、とかそういうものではないが、
 殺しを強要される過去の自分を夢見るのだ。いやだと内心に絶叫しながらも人の体に穴を穿っていく自分。
 それも回数を重ねるうちにいつしか感覚が麻痺し、悪夢すら冷めた感覚で眺めるようになった。

 人殺しの業なのだと達観し、それに抗うのは無理だと断じて空白の瞳で見つめ続ける。
 そうして気付けば夢の中の己も冷めた目で他人を見下し、無言で銃を手にとって殺される人間へと感情のない顔のまま、撃つ。
 悲鳴を上げて絶叫するようになったのは殺される側の人間になっていた。
 何度も何度も繰り返し、死体の山がうず高く積み上げられていく。

817明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:39 ID:9hfe7kLg0
 異臭が蔓延り、人の手足がだらりと投げ出され、もはや何を語ることもない。
 二人の自分は何も感じず死体を増やしていく。
 けれども、ふと、目を凝らしてみれば……死体の山の中には、見知った友人達が、混ざっていて――
 そこで目を覚ますのだ。

 それでも自分は何も思わない。またか、と辟易する程度に留まる。そう感じている自分にもまた嫌気が差すのだ。
 自己嫌悪を紛らわせるために歓楽街に繰り出し、酒と快楽に身を寄せて悪夢が薄まるのを待つ。
 世界一のエージェントはそうしなければ生きられないような男だった。
 ここに来るまでは誤魔化しと言い訳に浸り続け、何を守りたかったのかも何をしたかったのかも思い出せなった男だ。

 今はどうなのだろう。
 不実を自覚し、忘れていたことを思い出した現在の自分は悪夢を見ることもないのだろうか。
 もちろん思い出したからといって過去の事実が清算されるわけではないし、そんなつもりもない。
 ただ曖昧に誤魔化し、記憶を薄めるのではなくしっかりと捉え、現在を構成する自分に反映させていきたい気持ちがあった。

 過去は悪いことばかりじゃない。
 地獄でもついてきてくれようとしていた夕菜の存在、
 自分のことを慮ってくれた皐月やゆかりの存在が残っている。
 思いを共有し、体を預けて歩いていられる渚という存在も生まれた。

 だから歩いていこうと思った。たとえ地獄でもついてきてくれるひとがいると知って……確かめたかったのだ。
 もう悪夢は見ないかどうかということを。
 故にエージェントは続ける。自分が自分のままでも間違ってはいないということらしいのだから。

「ほらよ。もう手荒にすんじゃないぞ」
「済まない」

 ぽんとコルトガバメントカスタムを手渡し、宗一は手持ち無沙汰にしていた往人に笑いかけた。

818明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:56 ID:9hfe7kLg0
「高くつくからな」
「……出世払いで頼む」

 難しい顔をして往人はそう返した。金と聞いて顔色を変えるあたり金銭難な生活だったのかもしれない。
 格差社会の弊害というやつだろうか。宗一から見ても中々格好いい男なだけに勿体無いと思う。
 新しい働き口を探していたようでもあったから、コネをいかして今度仕事を斡旋してやろうかと考える。
 意外にホスト稼業なんかいいんじゃないか、と思いかけて、やっぱりやめることにした。
 銃を真剣に見つめている往人の横顔を見れば、今考えるべきことはそれではないことが分かったからだ。

「まーしかしだがしかし、那須っちは銃に詳しいねえ。まるで軍人さんみたい」

 その一部始終をずっと眺めていたらしい朝霧麻亜子が感心したように尋ねる。
 元は往人達とは敵対に近い関係だったらしいが、まるでそんな素振りも感じさせない緩い声である。
 本人は深く語らないが、何人か殺害している可能性はある。
 ……そうでなければ、時折眼の奥に見える哀切に満ちた色があるわけがない。

 この女もまた、仮面を被っている。本当に辛いことや悲しいことを打ち明けられず、一人で自己解決してきた自分と同じだった。
 ただそこに踏み込む権利は自分にはないし、その役目は往人や川澄舞が担っているのだろう。
 麻亜子自身も望んでそうしているようだったから、これ以上は詮索するまいと宗一は思った。

 しかし渚といい、自分といい、麻亜子にしてもこの島には似たものが多いものだ。
 そういう人間だけ生き残ってしまったのかもしれないが――そんなはずはないか。
 自らの空想を消し、宗一は努めて軽い調子で答える。

「一応、軍事マニアなんでね。実際に撃ったこともあるぜ」
「ほうほう、本場のアメリカ〜ンで?」
「イエス。実は英語も喋れる」
「あー、流れ的に英語で質問されそうなのでまいまいにパス」

819明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:11 ID:9hfe7kLg0
 私? と急に話題を振られた舞が自分を指差す。目を合わせられ、どうしたものかと往人に視線を移す。
 不自然に目を逸らされた。この野郎、と聞こえない程度に口に出し、宗一は自分にも無茶振りをさせられたことに悩む。

「……」
「……」

 無言で見つめあう二人。こうなったら最後の手段だ。
 宗一のただならぬ雰囲気を察知したのか、舞はコクリと頷いた。
 やがて宗一は大きく息を吸い、無駄になめらかな発音で喋った。

「Do you speak Japanese?」
「Yes,I do」

 完璧な英会話だった。

「待たんかい! んなのあたしにだって出来るってーの!」
「無茶振りしてきたのはお前だろ」
「あたしとしてはだなー、英語が上手く出来ずに赤面するまいまいに萌えてセクハ……もとい、愛情表現を」

 とんでもない女だった。

「……馬鹿ばっかりだ」

 そして嘆息する往人。お前だって目を逸らしたじゃないかと言いかけて、そんなコントをしている場合ではないと思い直し、
 詰め寄ってきた麻亜子のほっぺたをぺちんと両手で挟み込む。

「ぶっ」
「いいかよく聞け」
「ひゃい」
「取り合えずそろそろ現場も近い。漫才はここまでだ」

820明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:29 ID:9hfe7kLg0
 コクコクと頷く麻亜子によしと言い、宗一は麻亜子を解放して先に進み始めた。
 本人もふざけたつもりでやったのではないのだろうが、締めるところは締めておかないと何があるか分かったものではない。
 麻亜子も流石に雰囲気を変え、鋭い視線を周囲に向け始めていた。

 まるで別人のようだった。
 最初からこうしてくれれば良かったのにと思いながらも、一連の会話の流れで緊張は程よく緩和されている。
 無駄な思考が削げ落ち、必要なことだけ考えていられる。会話がそういうものを排除してくれたのだろうか。
 少し前まであったはずの重苦しく会話さえ憚られたような空気は完全に払拭されている。

 任務のときも現地に入るまではエディと馬鹿話をしていたことを、ふと思い出す。
 そう言えばいつも締めはエディだったな、と宗一は気付き、今はその役目が自分に回ってきたことに苦笑する。
 無茶苦茶少年の名を返上するつもりではなかったのに。

 しかし不思議と悪くない気分だった。誰かの舵を取りつつ振る舞うのも新鮮なものだ。
 ただ突っ走るだけではない、支えながら走る感覚。
 エディがなんだかんだでついてきてくれたのはこれがあったからなのかもしれなかった。

 ようやく気付いたかと失笑する声が聞こえ、うるさいと言い返してやった。
 返上じゃなくて、改名ということにしよう。これからの俺は『無茶苦茶青年』だ。
 英語にするとナスティマン。格好悪いが、それが今の自分だ。格好悪く生きているが、これでいいと思えた。

「そろそろだな」

 一度ホテル跡を尋ねている往人がぼそりと呟いた。
 見た目にはまだ見えないように思えるが、微かに煙の匂いが漂ってきている。

「……あそこが燃えていたってのは本当らしいな」
「はっきり見えたからな。問題はそれがどの程度かってことなんだが」
「芳しくはなさそうだねぇ」

821明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:45 ID:9hfe7kLg0
 火事の度合いによっては調査どころではなくなる。
 風子が逃げてきた時点ではそもそも火事は起こっていなかったしい。
 が、それから何時間か経った今、争いの最中に燃え広がったと考えていいだろう。

 一番こちらが益がないのは完全に焼失していることだ。
 そんな場所に誰も留まっているはずはないからである。
 そうなると逃げた連中を探して動き回らなくてはならなくなる。
 時間の浪費であると共に、自分達のような集団を作りきれていない人間にとっては脅威となり得る。

 風子によるとあの時ホテルにいたのは自分を含めて八人。風子達を除いて少なくとも五人が戦っていたという。
 そこから風子を追ってきたのが一人。
 だとすると最悪の場合、四人が逃げた可能性すらあるのだ。
 無駄足は避けたいところだが……宗一のそんな希望はすぐに瓦解することになった。

「……こりゃ、ひどいね」

 麻亜子の呆れ返ったような、いっそ清々しさを感じさせるような声に、全員が全員同意せざるを得なかった。
 完全な崩落。もとホテルがあったと思われる場所は完全に瓦礫の山と化していた。
 炎の舌が雨に炙られてちらちらと揺らめき、僅かに出ている煙が空へと拡散していることを除いて、何も残ってはいない。
 死亡者の確認すら不可能な現場。分かることはといえば、凄惨な殺し合いが繰り広げられたらしいということだ。

「くそっ、ここまでとは思わなかった」

 自らの読みの甘さに落胆する。ただの徒労になってしまった。
 落ち込んでいられる場合でもないが、ここで得られるものもないではないか。
 渚に合わせる顔がない……

 呆然と立ち尽くす宗一だったが、他の三人は知ったことかとそれぞれに焼け跡を調べ始めていた。
 もしかすると遺留品のひとつ、もしくはメッセージでも残されているかもしれない、そう言うように。
 ……何をやってるんだ、俺は。

822明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:04 ID:9hfe7kLg0
 諦めようとしていたことにまたぞろ溜息をつく。
 想定外の事態に突き当たれば誤魔化して言い訳しようとする悪癖。
 仕方のないことと断じて疑わないこの放棄癖を持ち続ける己を殴り飛ばしたくなる。

 ほとほと自分の冷めた感覚に腹が立ってしょうがない。こんなことで渚を支えられるものか。
 平手で頬を叩き、宗一も往人達に混ざって調査を開始しようとしたとき、ぞわとした気配が頭上に立ち昇るのを感じた。
 それは直感に過ぎない。だが醍醐と対峙したときのような凍て付く視線、刃を突きつける凶悪な気配が、確かにあったのだ。

「離れろっ!」

 反射的に叫んだ言葉を全員が受け止めた。
 弾かれたように飛び退いた場所、そこをなぎ払う、漆黒の影があった。
 瓦礫の上から忽然と現れた影はさながら獣のように鉈を振るい、
 空間そのものを刈り取るかの如く麻亜子へと襲い掛かる。
 麻亜子は咄嗟に武器を構えようとしたが、間に合わない。

 なら、間に合わせるまでだ――!

 ベルトに挟む形で忍ばせておいたナイフの一本を素早く取り出し、手首に捻りを利かせてスローイングする。
 ダーツの矢を思わせる挙動で放たれたそれは弧も描かず真っ直ぐに飛び、二人の間に立ちはだかった。
 ナイフに気付いた『奴』は鉈を別の方向へと振り抜いて弾く。
 くるくると回転したナイフはそのまま瓦礫の山に埋もれ、そのまま炎の欠片に呑まれる形となった。

 麻亜子はその隙にぴょんぴょんと跳ねながらこちらまで撤退してくる。
 奇襲は防げたという一旦の安堵は、しかしすぐに四人と一人が対峙することで掻き消える。

 目の前に悠然と立ち尽くす『奴』の正体を、宗一は知っている。
 霧島佳乃を死に追いやり、人を道具と判じて使い捨てた、狂戦士の名を自分は知っている。

823明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:21 ID:9hfe7kLg0
 女は、いや、女のかたちをしたものは言った。

「やってくれる」
「光栄だな。そちらさんも相変わらず汚いようで」
「この人数差でそれを言うかしら」
「投降してもいいんだぜ」
「は、冗談」

 吐き捨てるように笑い、身の毛がよだつほどの凄絶な表情を浮かべるのは天沢郁未である。
 彼女の体全体は赤く染まりきっており、それは幾多の戦いを潜り抜けてきたことを意味すると同時に、
 その身に浴びる犠牲者の血もおびただしいことを意味していた。
 顔には引っかかれたような三対の爪痕があり、生来の郁未の研ぎ澄まされた感覚を表しているかのようである。
 実際、郁未はこれまで以上の殺意と闘志、そして執念を持ち合わせているかのように思えた。

 自分達と同じ生きたいという願望。
 だがその方向性は大いに異なるものだった。
 郁未は他者を受け入れず、恐怖で周り全てを駆逐する力の倫理に身を置き、
 自分達は手を取り合って分かり合う一蓮托生の道に身を置いた。

 元は同じ場所に立っていたのであろう彼女は、この島の地獄を経験するにあたりこうする以外にないと判断してしまった。
 話し合う余地もないのは先刻知っての通りだ。
 しかし、それでも宗一は先に手を出すまいと決めていた。
 戦術云々の問題ではない。渚なら、まずきっと郁未の論理を打ち崩しにかかるだろうと思ったからだった。

 皆も迂闊に手を出さない方がいいと思っているのか、自ら動こうとはしなかった。
 宗一が一歩進み出ても動かない。もしかすると、自然と自分の考えていることに共感してくれているのかもしれなかった。
 こんな感覚を抱擁出来るからこそ、人は支えあえる。そのことを実感しながら宗一は郁未と改めて対峙する。

824明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:38 ID:9hfe7kLg0
「随分人を殺したようだな、天沢郁未さんよ」
「あら、まるで私だけが人を殺してきたかのような言い方ね。あんたらだって殺してないはずはないでしょうに」

 冷笑を含んだ目が向けられる。徒党を組むことを極度に嫌い、自分だけを信じ、弱肉強食を信奉する女の姿だった。
 ある意味で彼女は正しいのだろう。この論理に従ってきたからこそ彼女は生きているとも言える。

 だが、その生き方に終わりはない。希望も未来も得ることはなく、
 現在ある戦いのみに身を投じることしか生きている意味も価値も見出せない。
 それでいいのか。それではあまりにも寂しくはないのか。
 そんな生き方を……誰が覚えてくれているというのか。

 もしかすると寂しいと感じるものさえ郁未にはないのかもしれない。
 或いは人を蹴り落とす、その行為にしか縋れなくなったのかもしれない。
 力で支配すると言いながら、自分も何者かに支配されている。それには……気付いているのだろうか。

「確かにな。俺達だって人を殺してきた。結果的に見捨てさえした奴だっている。
 だが、お前のように殺しを楽しんできたわけじゃないし、諦めた末の行動でもない」
「また戯言か。今度はどんな理想論を叩き付けてくるつもりかしら。……ああ、いいわ、言わなくて。反吐が出るから」
「そうやって何も信じられなくなるから、自分だって簡単に諦めるようになる」

 言葉を発したのは往人だった。油断なくコルトガバメントカスタムを構えたまま、
 ぴくりと眉を吊り上げた郁未を見据えて往人は「そういう奴なんだ、お前は」と続けた。

「実際に行動して絶望するのが怖いから理想論だと見下げ果てる。だから安易な方向に逃げる」
「分かったような口を叩く」
「そうなりかけたからな。俺も」

 決定的に違いを告げる声が放たれた。
 殺意が往人に対して向けられていくのが分かる。だが郁未は自ら手出しはしないようだった。
 あからさまにイラついた態度を見せながらも話は聞く。それは否定すべき敵を選定しているかのように思えた。
 まず自分も含め、往人もその対象に選ばれたらしい。既に彼女の思考は、今すぐ殺すか否かの二択しかない。
 それは、やはり、宗一には力という糸に搦め取られた人間の姿のようにしか見えなかった。

825明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:58 ID:9hfe7kLg0
「理想論はどこまで行こうが理想論よ。私はちゃんと現実を見ている。
 あんた達のような集まりさえすればどうにかなると盲目に信じ込んでいるのとは違う。
 戦うのはいけないことで、悪いことなんだと決め付けているあんた達とは違うのよ、偽善者どもが」
「なら、あんたの言う現実って何だよ」

 口を挟んだのは麻亜子だった。
 今までの彼女にはない、確かな怒りが感じ取れる。
 盲目的に決め付けているのはそちらではないかと糾弾する視線が、射るように向けられていた。

「現実も理想すら見ていないのはあんたの方だ。何故かって? 簡単だよ。
 あんたは目の前のルールしか見てない。殺しあえと言われたから殺した。考えることさえなく、思考放棄してね。
 あー、ホント、こりゃムカつくなぁ。は、あたしってそんなことしてきたんだと思うと、自分でも腹立つよ」
「……殺し合いに乗ってたわけ?」
「さっきまでね。でも考えて考えたら、何も生み出さないし自分勝手を押し付けてるってことが分かってさ。
 馬鹿らしくて、今はやめちゃったよ。あんたみたいな餓鬼とは違うからね」
「偽善者の仲間入りってワケか。命乞いをして許してくれたからぬるま湯に浸かってそのまんま、ってところか。
 そんなのは敗者の言い訳よ。勝てないから趣旨換えをした奴が、偉そうに」
「趣旨換えをしたことは認めるよ。でもさ……やせ我慢もしちゃいないけどね」

 皮肉った笑みが郁未へと向けられる。同族嫌悪とでも言うべき、もしくは自己嫌悪とでも言うべき笑みだった。
 嘲笑されたと取ったらしい郁未も暗い情念を含んだ笑みを投げ返した。暗黙のうちにお互いが殺すと告げあっている。

「やっぱあんたをいの一番に殺すわ。殺してあげる、チビ助」
「まーりゃんってんだよ、覚えとけ甘ちゃん」
「……まーりゃん?」

 麻亜子の言葉を聞いた郁未はつかの間目をしばたかせ、やがて大声で笑い出した。
 先ほどまでの笑いではなく、ただこの状況を笑うものだった。
 自分にではなく、麻亜子にでもなく、ここにはいない誰かに向けて、しかし勝ち誇ったように。
 ひとしきり笑った郁未は打って変わって興味を示したように「そうか、あんたがあのまーりゃんか」と底暗い瞳を差し向けた。

826明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:14 ID:9hfe7kLg0
「綾香も人を見る目がなかったようね。だから死んだのでしょうけど……まあ、どうでもいいわ。
 あいつをキレさせた餓鬼だっていうじゃない。ますます、一番に殺したくなったわ」
「……なんだ、あやりゃんを知ってたのか。なら尚更だよ。殺される気なんて毛頭ない。
 あんたみたいな『あたし』に殺されてたまるもんか。もう限界なんだけど、那須っち」

 指示を待ちわびる声が聞こえた。麻亜子だけではない。往人も舞も、倒すべき敵を見据えて宗一の言葉を待ち構えている。
 誰もが自分の思いを露にしていた。正しいだなんて一言も言えない、どこか我侭にさえ思える人間の醜い争いに思える。
 だが自分も含めそうなのだとしても、それを貫き通して何が悪いという開き直りのようなものがあった。

 どうあっても分かり合えないなら、押し通るまでと誰もが決意している。
 後々それで責められようとも構わない。それだけの思いが自分達にはある。
 人に恥じず、己に恥じない、自分だけの思いを持っている。宗一は全員の情念を体の芯に焼き付けながら、言った。

「行くぞ。天沢郁未を叩き潰す!」

     *     *     *

 一対四。なかなか上等な戦いだと郁未は感想を抱き、真っ先に向かってきた舞に対して鉈を振るう。
 既に抜いていた舞の日本刀と無骨で重厚な鉈の刃とがぶつかり合う。
 雨に火花が咲き、危うい均衡を以って刃が競る。

 舞は無言、しかし峻烈な怒りと鋭い瞳の両方とが彼女の意思を雄弁に物語っていた。
 郁未はただ笑う。戦う者はかくあるべし。主張は命を刈り取る一撃の中で語られる。
 その姿は正しい。だが、郁未の気に入る答えではなかった。否、そもそもこの場にいる全員の存在自体、彼女は気に入らない。

 だからその主張を叩き潰す。それはこの島において培われた天沢郁未の論理であり、
 弱者はひたすらに嬲られ続けてきたFARGOの現実を知る人間の価値観だった。

827明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:30 ID:9hfe7kLg0
 心の奥底において郁未がFARGOの実態に恐怖していたことは本人でさえ自覚はしていない。
 生き延びるために最善最良を尽くさねばたちどころに自我も自尊も崩壊させられ、肉人形となるか、さもなくば肉塊となる運命だ。
 郁未は犯され続けてきた友人の姿を克明に思い出すことが出来る。
 力を制御しきれずボロ布のように血を噴出させ死んだ出来損ないの末路を知っている。
 だが一方で仲間の存在もあり、共同生活を送ることによっていくらかの恐怖は和らぎ、抑制することが出来た。

 故に郁未はまだまともを演じられた。奥底で築き上げられつつある、
 力と恐怖で支配するFARGOの有り様、引いてはその論理を受け入れていることに気付なかった。
 だが郁未がこの島に放り出されたことで価値観は一変する。

 暴力が猛威を振るい、殺さなければ殺され、裏切らなければ裏切られる。
 友人達もその例外ではなく葉子は自分を庇って死に、他の友人達も早々にこの場から退場していった。
 FARGOのクラス分けからすれば当然の順序であった。……葉子を除いては。

 あのとき油断さえしなければ。自分がもっとしっかりしていれば。さっさと殺していれば。
 そう、殺さなかったばかりに葉子は殺されたのだ。
 口には出さなくとも、郁未はずっとこの一事を悔いていた。いや口に出すことなど出来ようはずもなかった。
 既に友人達は死に、語るべき仲間がいなくなった瞬間、郁未は孤独に責任を抱え込まざるを得なかったのだ。

 だから生き残らなければならない。責任を果たさなければならない。
 その思いはやがて毒となり、郁未を蝕み、最後には心の隅にしかなかったはずのFARGOの論理が彼女を汚染していた。
 何故生きなければならないのか、その理由さえも忘れ、郁未は彼女の教義に反するものを須らく敵対視するようになった。
 殺さなければ殺される。覚悟を決めなければ決めた連中に出し抜かれる。

 だから守らなくてはならない。
 その対象は仲間だったものから、今や孤独でしかない自分へと向けるしかなかったのだ。
 故に天沢郁未は力を振るい続ける。
 もはやたったひとつしか守るものがなくなってしまったこと――即ち、己の命を守るために。

828明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:44 ID:9hfe7kLg0
 鉈が弾かれる。舞が一歩引いた瞬間、そこに銃弾の雨が差し込まれた。
 正確には波状攻撃だった。麻亜子のボウガンが側面から迫り、身を捻ったと同時に往人と宗一の拳銃弾が郁未を貫く。
 新たな痛みが生まれる。仰け反る暇もなく郁未はサブマシンガンを取り出し乱射するが、
 広く移動しながら攻撃している宗一達にそれが当たるはずはない。

 さらに弾を吐き出し終えたのと同時に待っていたかのような反撃が返ってきた。
 往人のガバメントカスタムの連射に加え宗一が持ち替えたSPAS12による散弾が群れを成して襲い掛かる。
 半身をくまなく直撃した銃弾の嵐は手の保持能力を完璧に損なわせ、サブマシンガンを宙に放り出す結果となった。
 腕もズタズタに引き裂かれ、それまで受けたダメージと合わせて死亡してもおかしくない痛みの総量だった。

 くるくると回転した郁未の体が地面に落ち、泥にまみれる。
 圧倒的に不利どころか最初から詰んでいた。
 全員が武器を所持しているうえそれぞれが修羅場を潜り抜けここまで生き残ってきた人間達である。
 単純な力量差から見ても一人一人が郁未と同等の力を持っている。
 一対一ならともかくまとめてかかられると勝ち目がないのは自明の理であった。

「もう終わりだ。残酷だが、お前はここまでだ」

 宗一の言葉は既に戦いが終わったかのような口ぶりだった。
 ここまでなのか? 地に伏し、ただ勝利者の言葉を受け止めている自分の冷めた部分がそう語りかけている。
 群れてでしか行動出来ない連中に、偽善の言葉を振りかざす連中に、自分はただ負けるのか。
 それが当然なのだという思考が頭の中を巡り、殺されるまでもなく郁未の意識を閉じていく。

 冗談じゃない。不意に思ったその一言が起き上がり、熱を持って膨張し郁未の身体を満たした。
 ここで死ぬわけにはいかない、死にたくない。
 なぜ、どうしてという理由は浮かばなかったが、とにかくこのまま死ぬのは真っ平御免だという思いが冷めた自分を吹き散らす。

 叩き潰す。とにかく叩き潰す。もっと強い意志を。もっと力を求める覚悟を。
 それがなかったから、今までの自分は真の勝利をもぎ取ることが出来なかった。
 こんなところで諦めてたまるか。こんな連中に負けてたまるか。

829明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:01 ID:9hfe7kLg0
 悪魔にだって魂を売ってやる。勝たなければ、とにかく勝たなければ。
 何もかもを屈服させる、支配の力を。
 血が流動する。身体を動かすように、血が動き始める。
 ――それはまさに、『不可視の』力に動かされているかの如く。
 証明してやる。殺さなければ殺される。やらなければやられる。思い知らせてやるのだ。

 どこか遠く。

 月が、見えた。

     *     *     *

 のそり、と郁未が起き上がる。宗一にはそれが、決して征服されざる怪物の姿のように見えた。
 どうして、という思いが沸きあがったが血まみれでなお立ち上がる郁未の姿がそのように思わせるのだと思い直す。
 何が彼女をここまで衝き動かすかまでは分からない。何が彼女を勝利へと駆り立てているのか知りようもない。
 だがそれもお終いだ。冷酷だが、ここで頭部に銃弾を撃ち込んで決着をつける。

 そう考え、SPASの銃口を向けた瞬間、ぎょろりと浮き上がった郁未の瞳が目に飛び込んできた。
 刹那、危険だという警鐘が己の中で鳴らされる。ただ直感的に感じたものに過ぎない。
 しかし不思議な確信があった。早く撃たねば、取り返しのつかないことになる――
 半ば性急にトリガーを引いたが、散弾のどれもが郁未に命中することはなかった。

「な……!」

 忽然と郁未の姿が消える、いやそうではない。目にも留まらぬ速さで彼女は跳躍したのだ。
 人間では到底有り得ないような高さを、彼女は舞っていた。
 ヤバい。先程よりも更に大きな警鐘……いや、警告が咄嗟に宗一の体を動かし、回避行動を取らせていた。
 一秒と経たぬ間に郁未がそれまで自分のいた場所に鉈を振り下ろす。もう少し判断が遅れていれば首を取られていた。
 ゾッとした冷や汗が流れ落ち、すぐさまSPASを撃とうと構えたが、郁未の姿は既に目の前にあった。

830明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:15 ID:9hfe7kLg0
「嘘だろ!?」

 思い切り上体を逸らして振り下ろされる鉈を回避したものの銃は同じようにはいかない。
 凄まじい力で叩き落され、とても死に掛けの女とは思えない力を宗一に知覚させる。
 絶対的な恐怖。それは動物が本能的に感じる、強者に対する畏怖だった。

 目の前にいる女のかたちをしたもの。それは人間ではない。化け物なのだ。
 余裕は既になくなり、生命の危機を打破すべく頭を必死に回転させ、体は反射的にファイブセブンを取り出している。
 しかしそれでも遅かった。早くも突進している郁未の矛先は、確実に自分を貫く。

「那須っ!」

 ここにきてようやく往人達の声が聞こえた。遅いのではない。郁未が圧倒的に早かったのだ。
 援護の銃声が鳴り響いたが、郁未は振り向きもせず鉈をサッと払っただけだった。
 ただそれだけ。それだけのはずなのに、郁未の体に向かっていた銃弾は全て叩き落された。

 マジックショーかなにかなのか、これは? 避けるならまだしも、叩き落すなんて有り得ない。
 動体視力が優れていようが銃弾の速さは秒速数百メートルはあるのに?
 以前戦ったときとは似ても似つかぬ郁未の変貌振りに宗一は困惑する。
 スイッチが入ったとしか思えない。或いは生命危機に即応した、生物的な進化。
 白い歯をちらつかせ、全身を朱にして嗤う郁未は人間という領域を侵し、神の領分にまで達した生物だった。

 だが、と宗一は思う。ひとのかたちをしているのなら、まだ殺せる。
 確かに力は人間の比ではない。速さはいかなる生物をも陵駕する。しかし決して……不死身ではないのだ。
 寧ろそうとでも思わなければやってられない。ホンモノの化け物と対決なんて勘弁願いたい。

 全く、愉快だぜ? エディ?

831明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:34 ID:9hfe7kLg0
 どこか非常識な、それでいて命の危険を感じているこの状況こそが宗一の意識を明白にさせた。
 必ず生きて帰るという、強い目的を抱いてファイブセブンの引き金を絞る。
 残弾も少ないそれを惜しげもなく連射する。それは仲間にも向けた激励でもあった。
 目の前の敵にビビるな。銃声が響くたびにより意識が鮮明となり、闘志を舞い戻らせる。
 だが思いとは裏腹に郁未は凄まじい速度で回避し、掠りすらさせてくれない。

「だったら……!」

 飛び出したのは舞だった。怯懦も恐れもなく真っ直ぐに日本刀を持って立ち向かっていく。
 触発されるように麻亜子もナイフを持って突進する。
 動きを封じようという算段は宗一と往人に、そして郁未にも伝わったようだった。
 同時に挟撃がよろしく踏み込む二人に、しかし郁未は悠然と立ち尽くしたままだった。

 まず舞の刀を受け止め、軽く弾くと反対の拳でかち上げる。
 宙に浮いた舞の体が回し蹴りで吹き飛ばされたと同時、既に麻亜子にも攻撃している。
 足払いでバランスを崩し、腕を取るとジャイアントスイングのように振り回し瓦礫へと向けて放り投げた。
 舞も麻亜子もしたたか体を打ち、こちらに銃を撃たせる暇もなくあしらわれた。

 だがリロードの隙までなかったわけじゃない。ガバメントカスタムに再装填した往人に合わせて宗一もファイブセブンを連射。
 今度は郁未にも余裕は感じられなかった。直後に攻撃を仕掛けられたのだ、当然だ。
 そういう意味ではまだ人の要素を残してはいることに感謝しつつありったけ撃ちまくる。

 体を大きく動かし回避する郁未。やはり避けるだけで精一杯らしく、しかも銃弾の一部が掠ることもあった。
 急所狙いの弾は叩き落されることもあったが、いける。波状攻撃を続ければ勝てなくはない。
 確信を得かけた宗一だったが、唐突にファイブセブンが銃弾を吐き出さなくなる。言うまでもない。弾切れだ。

「やば……!」

 残弾を確認しながら撃つのを忘れていた。基本的なミスを恥じ、そして致命的だと頭が告げる。
 すぐさま取って返した郁未がこちらへと迫る。今武器は投げナイフしかない。しかもそれでは鉈を防ぎきれない。
 郁未の攻撃は避けきれない。毒づいてそれでもと精一杯の回避行動を取る。

832明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:07 ID:9hfe7kLg0
「なめんじゃねーっ!」

 結果的に諦めなかったことが宗一を救った。瓦礫の山から麻亜子が銃を撃っていたのだ。
 形状と銃声から察するにデザート・イーグルだろう。とんだ隠し玉だった。
 突進していた郁未はその場で高く飛び上がり、銃弾を難なく回避する。本当に出鱈目だ。
 しかし宙に浮いた数秒が宗一の命を繋いだ。

「那須! 受け取れ!」

 大振りに往人が投げ渡してきたのはあろうことか、イロモノ拳銃であるフェイファー・ツェリスカだった。
 こんなもん人間に支給すんなと内心で呆れつつ、しっかりと両手で保持。砲丸のような重さが圧し掛かり、宗一の体が崩れる。
 だがこれは考えての行動だった。仰向けに倒れつつフェイファーを構え、浮いている郁未へと射撃する。
 反動も地面に逃がせるためこの化け物拳銃を使うにはうってつけの方法だった。

 化け物対化け物。果たして勝つのはどっちでしょう?
 背中が地面にぶつかると同じくして宗一の指がフェイファーのトリガーを引いた。
 60口径、重量6キログラムの巨体から放たれる600NE弾が凄まじいマズルフラッシュと共に郁未へ向かう。
 いかに頑強な盾でも瞬時にして破壊してしまうだけのエネルギーを持ちうるこれなら或いは、と考えた宗一だったが、
 目の前の敵はそうそう常識で測れるようなものでもなかった。

 信じられないことに飛来する600NE弾を空中で薪をかち割るが如く斬り伏せた。そう、真っ二つにしたのである。
 流石の宗一も呆れるどころかぽかんと口を開けたくなった。
 人間なら一瞬にして粉々の肉片に変えてしまうはずの弾丸が真正面から防がれたのだ。笑うしかない。
 おまけに鉈まで無事ときた。特殊な材質でもあるまいに。

 ただ郁未の顔には僅かに疲労の色が見えた。そういえば弾いたときも仄かに郁未が赤く光ったように思えたのを思い出す。
 あの力は無限ではないということか? 新たな疑惑が生まれ、
 しかしすぐに頭の隅へと追いやり、全身をバネにして宗一はその場から撤退する。

833明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:24 ID:9hfe7kLg0
 郁未が地面に降り立ったのはコンマ数秒後のことである。二発目を撃とうとしていたら殺されていた。
 二度目の奇跡はないと断じて宗一は走りつつ落としたSPASを拾い上げた。
 追い縋ろうとする郁未にここで体勢を立て直した舞が刀を携えて戻る。気付いた郁未は「ちっ」と舌打ちする。

 先程の一戦で切り結ぶのは不利と考えたのか舞は縦横無尽に刀を振るい、鉈のギリギリ外から切っ先を当てるように攻撃する。
 力で叶わぬならば技で対抗する。強者と戦うセオリーを実践していた。

「くっ、ちょこざいなことしてくれるわね!」
「貴女には……負けない!」

 無論宗一達としても手をこまねいて見ているわけではない。
 宗一はSPASにありったけショットシェル弾を入れ、往人はガバメントカスタムをリロードする。
 後は舞を誤射しないようにタイミングを見計らって掃射する。波状攻撃が有効なのは証明済みだ。
 暗黙のうちに全員が了解していて、それぞれが仕事をこなすために動いていた。

 言葉もサインもない。それでも歯車が噛みあっているという実感がある。
 裏を返せばそこまでしても郁未とは互角という程度でしかない。
 ひとつ突き崩されればあっという間に全滅する。この瞬間も自分達は細い綱渡りをしているのだ。

「確かに四方八方から撃たれちゃこっちもキツいけどね……そうなる前に片付ければいいだけのことでしょ!」

 郁未は何を考えたか、天高く鉈を放り投げる。
 突然の奇行に舞の刀が僅かに迷いを見せる。郁未にはそれだけの時間があればよかった。
 彼女は人間ではない。

 下がれ、と絶叫する声が喉元まで込み上げる前に郁未は舞の喉輪を掴み、
 地面に叩き付けた後サッカーボールのように蹴り飛ばした。
 この間、未だ宗一達は銃を構えきるまでに至らない。郁未が裂けるような笑みを見せた。
 彼女の手には既にM1076とトカレフTT30の二丁が収まっていたのだ。

834明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:39 ID:9hfe7kLg0
「遅い」

 一斉に連射。郁未の銃は不慣れだったからか急所を射撃するには至らなかったが肉を掠り抜き、削ぎ、
 宗一と往人の二人を地面へと落とした。宗一でさえ全くついてゆけぬほどの神速。
 たかが一秒以下の隙をついて郁未は自分達を突き崩したのだ。

「つくづく人間じゃないぜ……」

 銃を仕舞った直後、落ちてきた鉈が郁未の手に収まる。それはこの間が僅かに数秒であることを指していた。
 郁未も息を荒くしていたが、それでもなお彼女には余力があるように思える。
 一体どんなマジックを使えばこのような芸当が出来るのか。まるでこれでは出鱈目人間の万国ビックリショーだ。
 強すぎる。弱気でも諦めでもなく、素直にそう思った。
 この圧倒的な実力差をひっくり返すことは出来ない。醍醐と戦ったときでさえそんなのは感じなかったのに。

 参ったな……こりゃ、死ぬかもしれない。

 郁未は視線を動かし、地面に倒れ伏す三人の姿を眺めていた。
 どいつから仕留めようかと考えているのか、まだ油断は出来ないと出方を窺っているのか。
 この状態からの騙し討ちは不可能か。だが真正面から郁未を倒すのは今の状態では至難の業だ。
 せめて誰かひとり、もうひとり戦列に加われば。

 救援を待ち望む自分が情けないと思う一方、そうでもしなければ郁未は倒せないという実感があった。
 ないものねだりだということは分かっている。けれども他に思いつく策もなかった。

 ……悪あがき、するっきゃねえよな?

 だから抵抗するまでだ。無茶苦茶青年は諦めない。泥にまみれてでもしがみつく。そうだろ?
 心の中に浮かんだ全員に語りかけ、宗一は立ち上がる。

835明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:01 ID:9hfe7kLg0
「馬鹿正直に立ち上がるか……本当に不意討ちはなさそうね」
「ちっ、ホントに気に食わないぜ、天沢郁未」

 渚の両親を殺し、佳乃を殺し、それ以外にも多くの人間を殺してきた女を目の前にして何も出来ない。
 仇を討ちたいと思う気持ちはますます高まっているのに、それ以上にそびえ立つ壁の高さが思いを阻む。
 恐怖を感じているのだ。このままでは殺されるという絶対的な予感が宗一の体を震え上がらせている。

 虚勢や気合ではどうにもならない、自らの前に立ちはだかる力。
 恐怖を恐怖で縛り付け、人を人でいられなくしてしまう力の倫理が自分を見下している。
 だからせめてそれだけには負けるまいと宗一は強く意思する。

 怖いからといって食い合い、憎しみあい、呪い合う存在にはならない。
 どんなに苦しくとも誰かを見捨て、犠牲にして、諦めて、奪ってまで生きることはしない。
 もっと他のなにか。遅々としてでもいい、苦境を超えられる方法を探して歩き続ける。
 そういう生き方もあるのだと知ったから。

「世界一のエージェントを舐めるな! まだ勝負はついちゃいない!」

 SPASを構える。郁未は例の如く捉えきれない速度でステップしながら接近してくる。
 宗一は動かない。下手に動いたところで自分の動きを制限するだけだ。
 一歩だけでいい。郁未と同等の動きが出来ればそれでいい。

 足音が聞こえる。自分の経験と勘を信じろ。こちとら何度も実戦を潜り抜けてきてるんだ。
 郁未との距離が数歩分になった瞬間、宗一はバネを全開にして体を動かした。
 いくら郁未でも空中で急に体勢は変えられない。どんなに僅かな時間だとしてもだ。
 そう、走っているときにも体が浮く瞬間がある。その間隙を突き、至近距離から散弾を撃ち込めば……!

 それが宗一の作戦で、タイミングも完璧に合わせたはずだった。なのに。
 なのに、どうして天沢郁未は自分の目の前にいる?

 まるで最初からここに来るのを知っていたかのように、郁未は『側面に移動したはずの』宗一の真正面にいた。
 鉈が、振られた。

836明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:20 ID:9hfe7kLg0
「ぐああぁっ!」

 脇腹を切り裂かれ転倒する。痛みは激しいが、致命傷ではなかった。
 そのことに安堵するが、同時に何故だという思いが浮かぶ。
 見上げた先では先程より苦味を増した、しかし勝利の喜悦に満ちた郁未の顔がある。

「残像、って知ってるかしら」
「……冗談が過ぎるぞ」
「でも私の力でそれも可能になる。不可視の力でね。正確には『ドッペル』だけど」

 不可視の力。それが郁未を人間から怪物へと変えたものの正体。
 いつどのようにして郁未が力を顕現させたのか。……恐らくはトドメを刺し損ねたときだ。
 彼女の執念がスイッチとなり、力を覚醒させた。
 身体能力の強化はその一例に過ぎず、残像を生み出すことすら可能にするということか。

「まあ、『ドッペル』がいる間は私も疲れるんだけど……でも十分。こうしてあんたを見下ろせてるんだから。
 さっさと失せなさい、負け犬の偽善者が――」

 郁未が正真正銘のトドメを刺そうと鉈を振り上げる。
 だが振り下ろされようとした、まさにその瞬間。銃声が郁未を遮った。

「!?」

 全くの別方向からの射撃は往人でも舞でも、ましてや宗一でもない。
 慌てて飛び退き、妨害した人物の方角をキッと見据える郁未。
 だがそれはすぐさま驚愕に変わり、やがて狂おしいほどの喜色に満ちたものになっていく。

「あんたか……いつもいつも私を邪魔してくれる。ねぇ、本当に、本当に――反吐が出るわ、古河渚!」
「……決着を、つけましょう」

837明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:37 ID:9hfe7kLg0
 絶叫を張り上げる郁未に対して静かに語ったのは、古河渚だった。

     *     *     *

 現れた渚に対して郁未が感じたのは奇妙なことに『嬉しい』というものだった。
 己の対極にある人間。己が最も嫌悪する人間。断じて許すべきではない人間。
 なのにこうして目の前に立っているのを見るだけでゾクゾクとした喜びを感じるのだ。

 それは狂おしい程の恋。待って待って待ち続けた瞬間がここにある。
 最高の力を手に入れた自分が、最高に憎らしい主張を掲げる渚を殺す。これ以上の喜悦はない。
 しかも渚は未だ人を殺さないという馬鹿げた主義があるらしく銃口をこちらに向けてすらいなかった。
 まるで変わらない。最初と変わらず人殺しはいけないなどと口外にのたまっている。

 だがそれでこそ渚。自分が殺すと決意した女の姿がここにある。
 それがまた嬉しくて嬉しくてたまらず、郁未は体の芯から湧き上がる笑いを吐き出した。

「決着をつける、ですって?」
「そうです。……もう、終わりにしましょう」

 一切の感情を排したかのようでありながら、確かな怒りを携えた声が向けられる。
 以前とはまた少し雰囲気が異なった気がするが、所詮形だけのものなのには変わりない。
 そんなものは何も意味を為さない。怒りを覚えたのなら他者にぶつけるべきなのだ。

 それも出来なければただの臆病者にしか過ぎないし、生きている資格もない。
 なのにのうのうと現れては誰かに守られ、この女は生きている。
 実に許しがたいことだった。誰かにしっかりと守られている渚の実態が。臆面もなく自分を否定する姿が。
 だから殺す。殺して、分からせてやる。最終的に勝つのはどちらかということを。

838明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:52 ID:9hfe7kLg0
 自分の方が正しいのだということを。戦わない人間に生きる価値もないのだということを。
 完全なる不可視の力を手に入れたこの我が身で。

「――ひとつ、聞かせてください」
「あ?」

 鉈を握り締めた郁未に渚が問いかける。今度はどんな綺麗事をほざくのかと顔をしかめた郁未だったが、
 それも今の自分の前では何の意味も為さない。聞くだけ聞くことにした。
 無論つまらない質問であることは分かりきっていた。
 だから答える価値もなければ無言で斬ってやろうと思いながら「言ってみなさいよ」と返答する。

「分かり合ったひとは、いますか」
「なに?」
「本当に今まで、誰とも分かり合わずに生きてきたんですか」
「……いないわ。最初から最後まで私は一人よ。仲間なんていなかった」

 何故か口が詰まった。渚の雰囲気に呑まれてなどという下らない理由ではない。
 仲間。友達。そんな陳腐な言葉ではなく、分かり合った人、と渚は言った。
 本当にいなかったのかと自問する声が一瞬聞こえたような気がしたのだ。

 だがそんなものいるはずはない。葉子と組んでいたときでさえ最終的に殺しあう運命だったのだし、
 戦力の増強ということで利害が一致していたに過ぎない。そう言い出したのも葉子だったはずだ。
 ――ならば、自分はなんと言ったのだったか?

 思い出そうとしたが、記憶は不透明でぼんやりとしか思い出せなかった。
 関係ないと郁未は断じる。葉子は既に死んだ。死ねば何の意味もない。生きていなければ意味はない。
 だから自分は生きて帰る。そう決断したはずだ。

「だってこれは殺し合いだもの。一人しか、生きて帰れないから」
「……そうですか。だったら――」

839明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:08 ID:9hfe7kLg0
 渚が目を閉じる。どうしてか郁未は別の世界に引き込まれたような気分になる。
 まるで、不可視の力のような。
 冗談じゃないと郁未は気を持ち直す。こんな半端者が自分と同じ力を持っているなどと。
 憎しみが再度沸き上がり、己の中の不可視の力が増していくのを感じる。
 一瞬でかたをつける。腰を落としたと同時、渚が目を開けた。

「――わたし達が、勝ちます」
「ほざけッ!」

 砲弾のように飛び出す。一思いに突き殺す。それで渚は死に、溜飲が下がる。
 その思いに囚われていた郁未が上から影が差したことに気付くまで、多大な時間を要した。

「はあぁぁぁあぁぁぁっ!」
「っ! この女まだ……!」

 蹴り飛ばして戦闘不能にしたはずの女。確かに手ごたえのあったはずの女は泥と血にまみれながら、
 真っ直ぐな双眸を崩さず空高く舞い上がり、こちらへと切り下ろしてきている。
 地を蹴り直角に避ける。まずは鬱陶しいこいつから倒す。
 地面を滑りながら郁未は考え、完全に止まり舞へと反転しようと足に力を入れたと同時、
 瓦礫の影から一人の人物がぬっと現れた。

「どうだっ!」
「まーりゃんかっ!?」

 宗一達と戦っていた間密かに物陰に身を潜めていたのか。
 最初からこれを予測していたとは思えない。だがこうなる隙が生まれることを確信していた。
 確証なんてない。だが誰かがそうしてくれると信じて。

840明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:26 ID:9hfe7kLg0
 ふざけるなという思いが募る。他人任せがたまたま上手くいっただけではないか。
 こんなものにやられてたまるか。不可視の力を用いて体を無理矢理動かす。
 筋肉に痛みが走り、体の内奥に鋭い痛みが走るが、自分の煮え滾る怒りに比べれば物の数ではない。

 郁未目掛けて発射されたボウガンを鉈で叩き切ったときを待ち構えていたかのように、男が背面に回りこんでいた。
 研ぎ澄まされた雰囲気が伝わり、決して最後の力を振り絞ったという風ではないことを郁未に理解させる。
 外れはない。ありったけ撃ち込まれると予感した体が更に不可視の力を発動させるも上半身は既に動ききっている。

 動いたのは下半身、脚部だけ。それも背面に回りこまれていたことから回避する方向が分からず咄嗟に飛び上がってしまった。
 決定的な隙が形作られてしまう。下では倒れたまま、それでも手放さなかったショットガンを構えた宗一がこちらを狙っていた。
 もはや不可視の力を使っても払い落とすのも回避するのも不可能。

 ……なら、道連れに宗一を殺すまでだ。
 勝たせなんかさせない。完全勝利など許してたまるものか。一人だろうが殺して、私が間違ってなんかないことを――

 そう考えてM1076を取った瞬間、視界の隅でもうひとり、自分に銃口を向ける存在があった。

 古河渚だ。

 先程とは違い、確かな意思と覚悟を以って拳銃の銃口をこちらへと向けていたのだ。
 直感的に撃つだろうという確信が走る。
 人を殺さないなどと言っていた渚が?
 戦いを拒否したはずの弱い存在で生きる価値もないはずだった渚が?

 だが渚の目は、あまりにも真っ直ぐ過ぎて。
 渚にだけは撃たれるのは許せない。嫉妬が渦巻いていた郁未の深層意識は、渚へと銃口を変えてしまっていた。
 だが体を動かしきった郁未の動きはあまりにも鈍く――

 宗一の放ったショットガンの散弾が郁未の腹部を撃ち貫き、内蔵をズタズタに破壊し、不可視の力も生命をも霧散させた。
 力が急速に抜け落ちると共に体が地面へと落下していく。
 それは完全敗北の証だった。
 だが不思議と敗北感も悔しさも、怨みもない。
 それは不可視の力も出し切り、最後の最後まで本気で戦い尽くしたからなのかもしれない。

841明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:46 ID:9hfe7kLg0
 ただ、自分はやはり仲間などというものに負けたのかと思う。
 これが事実で、自分はどうしようもなかったということなのか。
 自分は孤独だったから、負けたのか?

 しかしそうではない、とどこかから聞こえた声が靄のかかった空白が晴らし、
 かつて郁未が持っていたものを思い出させる。
 FARGOという恐怖に満ちた地獄の中でも皆と食事を取り、笑い合うことができた日々。
 再会を約束し、また明日と手を取り合ったあの日。
 そして最後に思い出すのは、葉子との約束。

『やっぱり私、あなたのそう言う顔、大好きよ』
『私もやっぱりあなたが大好きです、……だから、最後に二人で決着をつけましょう』

 二人して、やはり笑っていた。あの瞬間、確かに自分達は分かりっていた仲間だったのだ。
 絆という名の剣を持った、心強かった仲間がいたのに。
 だとしたら自分にもずっと仲間はいて、渚にも仲間はいた。
 差なんてない。

 結局、競り負けた。渚との戦いに敗北したのだ。
 ああ、やっぱり悔しい。悔しいけど、認めてあげるわ、貴女の強さ。
 だからこの重みを背負いなさい。私に勝って倒したという重みを受け止めなさい。
 私に勝ったのだもの、出来なきゃ殺すわよ?
 悪態をつく郁未の口もとには楚々とした、一切の含みのない微笑が浮かんでいた。
 体中の毒が抜けきり、軽くなった身体が何とも心地よい。
 ふわふわと落ちてゆく実感を確かめながら、静かに目を閉じ、思った。
 こんなにも強いひと。こんなにも全力で戦えたことに――

 ――満足だった。

842明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:01 ID:9hfe7kLg0
     *     *     *

 最後の、殺戮者がいなくなった夜。

 雨が、ようやく上がった。

843明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:16 ID:9hfe7kLg0
【時間:2日目午後23時00分頃】
【場所:E−4・ホテル跡】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン6/8発、スラッグ弾2発(SPAS12)、投げナイフ1本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る】

844明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:36 ID:9hfe7kLg0
古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

天沢郁未
【所持品1:鉈、H&K SMGⅡ(0/30)、予備マガジン(30発入り)×1】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(1/6)とその予備弾丸14発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:死亡】

【その他:雨が上がりました】

【残り 15人】

→B-10

845そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:58:54 ID:9tDqkDG.0
「ぷひ」

 彼が誰かご存知だろうか。ボタンである。
 降りしきる雨の中とぼとぼと彼は歩き続けていた。
 勢いもよく坂を駆け上がっていたもののすぐにバテておまけに道に迷った。

 説明をさせていただけるならばボタンは現在菅原神社へと続く道を歩いていた。
 所詮は年端もゆかぬ猪。道など分かろうはずもない。
 そういうわけで彼はホテル跡で起こってきた惨劇や凄絶な戦いを目にすることも参加することもなく、
 いわゆるボッチ状態で涙目だった。

 ぐぎゅるるるる、とボタンの腹が鳴る。言うまでもない、食欲がボタンをせっついているのだ。
 当然のことながらボタンは食料などもっているはずもないし、雑草が食べられるわけでもない。
 次第に彼の脳内はご主人様への思いよりも食欲の方に支配されていくのだった。
 所詮は獣畜生である。つぶらな瞳を輝かせながら彼は猪突猛進を続ける。やはり猪である。
 しかしそんなボタンも野生の血を引き継ぐもの。ガサガサと聞こえる不自然な音が聞こえたのを逃さなかった。

「ぷひ?」

 人間だろうか。しかし鼻を嗅いで匂いを探ってみてもそれらしき匂いや気配もない。
 いくら雨の中だとはいえ獣の嗅覚は人間とは比較にはならないのである。
 不可解な現象にぷひ、とボタンが疑問の鳴き声を上げる。

 世の中には自然現象というものがある。今ボタンの体を濡らしきっている雨もそうだし、
 台風や雪という現象があるのもボタンは知っている。
 しかしこの島に来てからというもの、雨以外のそんな現象にはとんと覚えがない。
 野生の勘が「何かある」と告げていた。

846そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:18 ID:9tDqkDG.0
 ここで留意していただきたいのは、ボタンは獣なれども人間に慣れ親しみ、共生してきた猪であることだ。
 普通の獣ならば危険には極力近づかず、己の命を確保することに最善を尽くす。
 しかしボタンはそうではない。藤林杏にしつけられ、彼女の忠実な僕とも言える存在だ。
 山の上に向かおうとしたのだって杏ならばそうするという考えに基づいていたし、
 獣なりの倫理感らしきものも存在していた。
 もっとも今は空腹感に支配されているのだが。

 とりあえず濡れるのは嫌だったし、そちらへ向かうことにした。
 大抵の場合、何か物音がする現場には建物があるというのが相場である。
 道を外れ、草叢の中をがさがさと侵入していく。

 視界はさらに悪くなったが大体音のする方向は検討がついていた。
 視覚と異なり、聴覚で方向を判断する能力は優れている。獣の面目躍如である。
 そうしていくらか歩いたころであった。
 地を揺るがすような大音量が響き、しかる後にけたたましい音が鳴り始めた。

「ぷひ!?」

 今まで経験したことのないような音にボタンの頭が混乱の極みを迎える。
 待てまてまてあわわわあわ慌てるなニホンイノシシは慌てないッ!
 ガタガタ震えることは……流石になかったが、杏に仕込まれたボタンが七つ奥義、『ぬいぐるみ』を発動させ、
 さながら路傍の石が如く動きを止める。混乱すると命を優先する部分はやっぱり獣なのであった。
 それからしばらくしてようやく音が止まる。最後にキーンという耳鳴りがあったような感覚のあるボタンだったが、
 ぬいぐるみ中は無念無想の境地。殴られても投げられても無反応を貫く。

 ま さ に ド M 。

 なお、ボタンはSMという概念などないことをここに記しておく。
 しばらく無音が続いたのだがボタンは念を押してぬいぐるみ状態を続ける。
 この形態になればいかなる人間からも注目されたことはない。持っている人間が注目されることはあったが。

847そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:35 ID:9tDqkDG.0
 だがこの慎重さが裏目に出た。
 収まったかと思えば今度はガサガサという音がボタン側の方に近づいてきたのである。
 何者かが近づいてきたのは明白であったが、匂いはまるでない。そう、質量を持った音だけが近づいていたのだ。
 どうすべきかとボタンは一瞬迷い、結局ぬいぐるみ状態を貫くことにする。この状態なら気配もある程度消せるのだ。
 実際音はまるでこちらに気付くこともなく一直線に進んでいく。
 まるで悩みなどないかのように、考えるべきことなどないかのように。

「……ぷひ」

 気付いていないと判断したボタンはぬいぐるみを解いてみたが、やはりガサガサとした音は依然として変わらず。
 次第に音は遠ざかっていく。一体何だったのだろう。
 まるで正体の分からぬ音の主に生物的な恐怖は感じていた。だがそこに何かがあるという直感を持ったのも事実だった。

 杏のことを頭に浮かべる。少しでも役に立つことがしたい。ここに来てからというもの、まるで主人の力になれてない。
 ボタンを撫でて心を慰撫しているような素振りはあった。しかしそれだけだ。受動的にしか行動が出来ていない。
 主人の危機には何ひとつ出来なかった。隠れているだけで、杏を助けたのはいつも他の人間だった。

 妬ましいとは思わない。無性に自分が情けなかった。いつまで経っても自分は助けられる存在でしかないという事実。
 ひいては立派な大人足り得ないということが悔しさを駆り立てる。
 いつまでも子供ではいられない。立派になって恩返しをしなければならないのだ。
 ならばボタンのするべきことはひとつしかない。その機会はまさに目の前にある。

 思いに衝き動かされ、ボタンは音の根源を追った。耳が良かったし前進速度だけは速かったので追跡することができたのである。
 それに加え、猪は元を辿れば山地に生息する動物だ。山はお手の物。空腹はいつの間にか忘れていた。
 音を追って進んだ先。……そこは何もない草叢だった。

 今までの草叢と同じく、ボタンの身長ほどもある雑草が青々と茂り、静かに揺れていた。
 しかし音はここで途絶えていた。そう、音の根源はここで突如として姿を消したのである。
 だがボタンでも知っている。突然消えるモノなどありはしない。
 他に不審な音はない。ボタンの存在に気付き、隠れているような気配もない。
 草叢だらけのこの場所で少しでも動こうものならたちまちのうちにボタンには察知できる自信があった。

848そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:50 ID:9tDqkDG.0
 ならば上なのだろうか。視線をずらしてみるが、そそり立つ木々の枝にも何かがぶらさがっている様子はない。
 木の上を飛んでどこかに逃げてしまったのだろうか。それはないとボタンは思った。
 迷いなく進んでいた音の主はそんな器用な思考を持ち合わせていないと思ったのだ。
 生き物なら、一定間隔で動き続けることがどれほど不自然なことかボタンには分かっていた。
 なのに忽然と消えた。ここには最初から何もなかった。そう結論付けるように草叢はただ広がっている。

「ぷひ?」

 何かがあるという直感的な思いの元とことこと草を掻き分けて進んでいたボタンの鼻にツンとした刺激臭が漂ってきた。
 それはボタンにさえ僅かに感じられる程度で、人間ならば気付きもしないレベルであっただろう。
 この匂いの正体をボタンは知っている。冷房の匂いだ。

 正確には冷房の効いた室内の匂いというべきだった。スーパーマーケット、コンビニ、デパートやオフィスに漂うそれ。
 どことなく埃っぽいその匂いをボタンは不思議に思った。冷房は、人間の家にしか存在しない。
 それともここは人間の家なのだろうか。もう一度上を見上げてみるが、黒い空が見える。雨は止んでいた。
 空が見える以上、少なくともここは人間の家ではない。だが人間の家の匂いはする。

 首を傾げてさらに進んでいくと、柔らかい地面にボタンの足が刺さった。
 今まで堅かったはずの地面が突如柔らかくなり、ボタンの体勢が崩れる。こける。
 しかもなにやらカチリという音までした。
 なにか良くない予感がするのを感じつつボタンが起き上がると、そこには違う光景が広がっていた。

 縦穴が広がっていたのだ。突然地面から現れたそれは、猛獣が口を開けて待つように開かれている。
 この奇怪な現象をボタンは理解できなかったが、匂いの根源は理解することが出来た。

 匂いは穴の中から漂っている。入り口の前まで足を進めてみると、チカチカとした赤い光の群れがボタンを迎えた。
 左右の端に警告するように光っている赤いランプ。赤は危険な色だとボタンは知っている。
 中は薄暗く、ここからでは何も確認出来なかった。確かめるには入ってみるしかない。
 おそるおそる足を進める。入り口の前まで来たとき、唐突に声が流れた。

849そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:13 ID:9tDqkDG.0
『侵入者を確認。識別コードが違います。首輪を爆破します』

「ぷ!?」

 上の方から流れてきた声。ボタンにその正体は分からなかった。
 おろおろして周囲を見回すが誰もいるはずはない。それもそうだった。
 声の主はセンサーと連動しているスピーカーから流れたものだ。
 その言葉の意味はここの参加者であるならばすぐに理解し、絶望に顔を青褪めさせただろう。

 生体反応をキャッチし、コードが違えば即座に首輪を爆発させる防御システムは目の前のボタンに対し信号を送りつけた。
 悲鳴を上げる間もなく、信号を送られた人間は首が吹き飛ぶはずだった。
 ……しかし、ボタンは参加者ではない。首輪などあるはずがなかった。
 当然のことながら信号は意味を為さず、送るだけでそれ以外の対処など持ち得ない機械のセンサーは無言を貫くだけだった。
 参加者を即座に爆破する絶対無敵のシステムは『支給品』には何の意味もなかったのだ。
 侵入者を抹殺し、役割を果たした入り口が再び閉じ始める。それも急速に。

「ぷひ!」

 我に返ったボタンは閉じ始めた入り口と、外の世界を交互に見やり、やがて意を決したかのように中へと向けて走り始めた。
 ボタンが闇の中に消えたと同時、入り口は完全に閉鎖され、元の殺風景な草叢の風景がただ広がるばかりになる。
 猪を放り込んだ闇の在り処を、誰も知る由はなかった。

850そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:26 ID:9tDqkDG.0
【時間:二日目午前23:50】
【場所:D-2】

ボタン
【状態:杏を探して旅に出た。謎の施設に侵入。主催者に怒りの鉄拳をぶつける】

→B-10

851管理人★:2009/05/28(木) 12:54:49 ID:???0
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