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避難用作品投下スレ3

1管理人★:2007/10/27(土) 02:43:37 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

438十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:16:51 ID:IHprr5pU0
「どうして、撃たなかったんですか」

座り込んだ尻に、屍から流れ出す血と体液が染みてじんわりと冷たい。
その冷たさを感じながら、久瀬が問う。
南側に音がしない理由。
南側で、人が死なない理由。

「いくらだって、機会はあったはずです。二人まとめて殺してしまえる機会が、いくらだって。
 ……どうして夕霧たちを退かせたんですか。それが僕には理解できない。
 それが正しい指揮だというのなら僕には無理だと、そう言ったんですよ、坂神さん」

一気に言い放つ。
淡々とした、しかし拭いきれぬ苦味を感じさせる、その声音。
その指示を聞いた瞬間の、愕然とした思いが久瀬の脳裏に蘇る。
松原葵と交戦に入った来栖川綾香に対し、坂神蝉丸は夕霧による狙撃を停止した。
幾度も膠着状態に陥り、あるいは互いに倒れ伏して動きを止めた二人を仕留める機会のすべてを、蝉丸は座視していた。
北側と西側で続く戦闘の指揮を執りながら、しかし南側に対してだけは何の対策も採らなかった。
久瀬が問うているのは、その理由だった。

「……」

一瞬の沈黙。
流れる風が、血の臭いと砂埃を運んでくる。
歩み来る綾香に視線を向けながら黙していた蝉丸が、ほんの僅かだけ視線を動かして、口を開いた。

「人が、その尊厳を賭ける闘いに水を差せば、我らは義を失う……それだけだ」
「矛盾ですよ、それは」

陰鬱な、しかし斬りつけるような久瀬の言葉。

「一方では死人を物みたいに扱っておきながら、一方では大義を口にする……。
 矛盾してるじゃないですか、そんなの」

439十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:17:26 ID:IHprr5pU0
割り切れと、蝉丸は言う。
その通りだと、目的に至る最短の道を選べと、久瀬の理性は告げている。
しかしそれでは、それでは筋が通らないと、久瀬の中の少年は首を振っていた。
人の道を捨てろと命じた男が、同じ口で仁義を説くのか。
わかっている、分かっている、判っている。
今はそれを語るべき時ではない。一分一秒を稼ぐために命を磨り減らすべき時だ。
味方を詰ったところで何ひとつ益はない。
だが、口を閉ざすことはできなかった。
閉ざしてしまえば、何かが死ぬ。
それは心臓や、血管や、温かい血や、そういうものを持たない何かだ。
だがそれはきっと、ずっと長い間、久瀬の中に息づいてきた、大切な何かだ。
いま目を逸らせば、口を閉じれば、耳を塞げば、それは死ぬ。
だから、久瀬は言葉を止めない。

「じゃあ……、じゃあ夕霧たちは、何のために死んでいったんですか。
 綾香さんを食い止めるために死んでいった、沢山の夕霧たちはどうなるんですか。
 矜持がそんなに大切ですか。どれだけの命を費やせば、それに釣り合うんですか。
 あなたは矛盾に満ちている。あなたは勝利を目指していない。あなたは幻想に縋っている。
 あなたは何も願っていない。あなたは夕霧の幸せも、まして僕のことも、何とも思っちゃいない。
 あなたはただ、ありもしない何かに手を伸ばそうとしているだけだ。あなたは―――」

尚も言い募ろうとした久瀬が、ぎょっとしたように目を見開いて飛び退こうとする。
遅かった。宙を舞った大きく重い何かが、久瀬を押し潰すように覆い被さっていた。
小さな悲鳴を上げてそれを押し退けようとして、できなかった。
ぬるりとした手触りのおぞましさが、怖気の立つような冷たさが、それをさせなかった。
自らの上に乗ったものを正視できず、しかし目を逸らすこともできずに、久瀬は涌き上がる嘔吐感をただ必死に堪えていた。
背中から首筋にかけて露出した肌をケロイド状に焼け爛れさせた、それは砧夕霧の遺体だった。

440十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:17:57 ID:IHprr5pU0
「死人は重いか、久瀬」

傍らに土嚢の如く積み上げられた骸の山の内から無雑作に一体を放り投げたまま、蝉丸が口を開く。
透徹した視線は遥か南を見据え、久瀬の方へは向けられようとしない。

「どうした。それは重いか。それとも抱いて歩けるほどに軽いか」

久瀬は答えない。
答えられない。
口を開けば、反吐ばかりが溢れそうだった。
ねっとりと絡みつくような手触りが、久瀬に圧し掛かっていた。

「三万だ。お前の肩には、それが三万、乗っている。既に喪われ、今また散りゆく三万の骸を、お前は背負っている。
 抗うと決めた、その時からだ」

組んでいた腕を静かに下ろして、坂神蝉丸が歩き出す。
カツ、と軍靴の底が岩肌を打つ音が響いた。

「将はお前だ。命じるのはお前だ。
 立って抗えと、座して死ねと命じるのはお前だ、久瀬」

震える手で遺体の肩を掴めば、それは冷たく、ぬるりと重い。
まるで生者の熱を奪おうとでもいうようなその温度に全身の毛が逆立つような錯覚を覚えながら久瀬が振り向けば、
蝉丸の姿は既に数歩を経て遠かった。

441十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:18:31 ID:IHprr5pU0
 
「―――あなたはまるで、擦り切れた軍旗のようだ」

徐々に小さくなる蝉丸の後ろ姿を見ながら、久瀬が呟く。
それは先刻口にしようとしていた言葉、言いかけて止められた言葉の、その続きだった。
威風堂々と振舞う男。
何度も死線を潜り抜けてきた歴戦の勇士。
幾つもの勲章を胸に下げた肖像の中の英雄の如く少年の目に映る彼は、坂神蝉丸という男はしかし、脱走兵だ。

戦場にはためく紋章旗の空虚を、孤独を、滑稽さを、久瀬は思う。
絶えず舞う埃に塗れたその姿を。
何の前触れもなく日に数度降る雨に濡れたその姿を。
水溜りから跳ね飛ぶ泥に塗れたその姿を。
曲射砲の撒き散らす鉄片に小さな穴をいくつも空けられたその姿を、久瀬は、思う。

坂神蝉丸は擦り切れた軍旗だ。
ただ風を受けて己を示し続ける、薄汚れた、誇り高い布きれだ。
それは暗い密林で熱病を運ぶ蚊に怯える兵士の見上げるとき、あるいは砂漠で乾いた唇を摩りながら見上げるとき、
崩れかけた心に小さな火を灯し、清水を満たす紋様だった。
斃れた戦友の痩せこけた手を握るとき、それは遥か遠い故郷へと続く道標のように見えた。
そこにあるのは戦神の加護であり、散っていった者たちの魂だった。
その薄汚れたぼろぼろの布きれは、戦場にはためくとき、そういうものであれるのだった。
敗残の兵、軍務違反の脱走兵である坂神蝉丸という男は、つまりそういう男だった。

「あなたは戦う者たちの希望。あなたは抗う者たちの刃。そう在り続けられると、自身でも信じている。
 ……だけど同時に、恐れてもいるんだ」

そうして久瀬は、口にする。

「戦争が終わって、桐箱に仕舞われる日のことを」

442十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:19:00 ID:IHprr5pU0
坂神蝉丸の、それはこの世界で唯一の恐怖なのだと、久瀬は思う。
思って、天を見上げる。
日輪は蒼穹に高く、しかし天頂には未だ遠い。
瞼を閉じてなお、陽光は眩しく瞳を灼いた。
大きな深呼吸を一つ。
目を開ければ、収縮した瞳孔が映す世界には蒼という色のフィルターがかかっている。

南に視線を下ろせば、男の背中が見えた。
寂寞と荒涼の骨格を矜持と凛冽によって塗り固めたような、遠い背中だった。

背中の向こうには、一人の女が立っている。
笑みの形に歪んだ顔を、動脈血と静脈血で赤黒く染め上げた女。

「―――」

何事かを小さく呟いて、久瀬は対峙する二人から目を逸らす。
それは訣別であり、また激励であったかもしれない。
いずれにせよ、踵を返した少年が振り返ることは、遂になかった。
山頂の南側にあるのは、坂神蝉丸と来栖川綾香の物語だった。


***

443十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:19:33 ID:IHprr5pU0

向き直った少年が目にするのは、幾筋もの光芒。
爆音と焦熱の臭い、無軌道に蠢く無数の影。
それは血と苦痛と災禍と、消えゆく命に満ちた物語。
砧夕霧の物語が、そこにあった。

「僕の名前は、どこにも刻まれない」

少年が、一歩を踏み出す。

「だけど、決めた。抗うと決めた」

屍の山の只中に。

「それは意志だ。他の誰でもない、僕自身の意志だ」

散華する少女たちの王として、

「だから、もう一度だけ言おう。これが僕の、僕たちの答えだ」

高らかに、

「聞けよ、世界」

美しく。

「―――諸君、反撃だ」

開戦を、告げた。

444十一時十八分/Seifer Almasy:2008/03/26(水) 03:20:06 ID:IHprr5pU0
 
【時間:2日目 AM11:20】
【場所:F−5】

久瀬
 【状態:健康】
砧夕霧コア
 【状態:健康】
砧夕霧
 【残り6911(到達・6911)】
 【状態:迎撃】

坂神蝉丸
 【状態:健康】
来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング】

→943 955 ルートD-5

445誰が為に:2008/03/26(水) 16:11:51 ID:we92bBF.0
「……ふむ、それで、バラバラになって逃げてきた、と」
 鎌石村小中学校内にある保健室。古い校舎故か八畳の広さもないと思われる狭い空間に、四人の男女(内一人は意識がないが)が輪になりながら話し合いをしている。
 消毒用のアルコールの匂いに紛れてはいるが、それでも染み付いた赤の汚れは飛散し、そこは決して安息の地などではないことを示していた。
 頼りなげに彼らの天井で光る照明も、それに拍車をかけている。チカ、チカと、彼らの命が儚いものだとでもいうように。

「ええ、ひょっとしたら、今にでもあの女がここに足を運んでいるかもしれません。目立つ場所だから、ここは」
「確かにな……」

 藤林杏の治療を終えてようやく折原浩平の話を聞く事ができた聖は、腰掛けた回転椅子の上で足を組み替えながら何事かを考えているようだった。
 その隣ではパートナーである一ノ瀬ことみが心配そうに杏の様子を窺いながらも、まずはこの会話に集中することにしたのか自分のデイパックから一枚の紙を取り出すと、それを浩平に渡す。
「私達は、今は人探しをしているんだけど……」
 それが本当の目的ではないということは、あまり考えるのが得意ではない浩平にもすぐに分かった。
 浩平に渡されたのは、先にことみが芳野祐介や神岸あかりと出会った時に書き綴った脱出計画のあらまし。そのために必要な材料の確保。これが現在の行動指針ということらしかった。恐らく、友人を探すのはそのついでなのだろう、と浩平は思った。

「私は佳乃という妹。ことみ君は岡崎朋也、古河渚、藤林椋、そして今ここにいる藤林杏……を探しているんだが、君に心当たりはないか?」
「……いや」

 割と数多くの人間と行動してきたつもりではある浩平だが、その人間については知らない。それよりも気になるのは、本当にこんなもので爆弾が、それも建物一つを吹っ飛ばせるものが作れるのか、ということだったが、だからといって浩平に別案があるわけでもなかったので信じるべきだろう、と自分を納得させる。

「あ、そうだ。さっき会った人達と情報交換をしてきたんだけど……」
「何? 初耳だぞ、ことみ君」

 いつの間にメモなんか書いていたのか、と思っていた聖だったが誰かに会って脱出計画の話をしてきたというのなら一応納得は出来る。ただ、その情報交換をした人間とやらが本当に信用できるのか、という疑問はあった。万が一にでも、この計画は主催者側には知られてはならないのだから。

446誰が為に:2008/03/26(水) 16:12:17 ID:we92bBF.0
「うん、芳野祐介って人と、神岸あかりって人と……別行動をしてるみたいなんだけど、長森瑞佳って……」
「長森!? 待て、詳しく聞かせてくれっ! オレの知り合いなんだ!」

 瑞佳の名前を聞いた瞬間、身を乗り出すようにしてことみに詰め寄る浩平を、「落ち着け」と頭を軽く叩いて椅子に座らせる聖。何はともあれまずは冷静に話を聞け、と付け加えて。
 いきなり形相を変えた浩平の様子に怖気づきながらも、ことみは話を進める。

「えっと、それと、柚木詩子って人もその長森瑞佳って人と別行動してて、今はそれぞれ分かれながら使えそうなものを探しているらしいの」
「柚木もいたのか……なら、いいが……」
「折原君、一ついいかな」

 瑞佳が知り合いと一緒にいると分かって少し安堵していた浩平に、今度は聖が問いかける。
「その長森君、とやらはどんな人物なんだ? ああ、それと柚木君、という方も知っているようだからそちらについても教えてくれると助かる」
 直接会ったわけではない聖は若干ながら疑いの念を持ってはいる。浩平の様子からそこまで危険視するほどでもないと考えてはいるが、一応尋ねておくべきだ、と思ったからだった。

「長森はオレの幼馴染だ。ガキんときからの腐れ縁だからあいつの性格はおつりが来るくらい知ってるさ。世話焼きで、まあしっかり者だよ。お人よし、とも言うかな……とにかく、あいつは絶対信頼できる。間違いないっす。柚木の方は……うるさい。やかましい。アホ。これくらいっす」

 瑞佳の評価に対して詩子のほうはおざなりだな、と聖は思ったが子供の時からの腐れ縁、だというならその性格に関しては問題ないだろう。
 残りは芳野祐介と神岸あかり、という人物だが……名前からして、芳野という方は男だろうし、ことみの言動から見ても、心配はないはずだ。
 いささか慎重になりすぎだろうか、と聖は自分を分析しながら「すまない、話の腰を折ってしまったな。ことみ君、続けてくれ」と話を促す。

「うん、それで、お互いの目的を確認し合って、芳野さん達には西を、私達は東を当たることにしたの」
 ことみは浩平の手から紙を取ると、鉛筆で『硝酸アンモニウム』の部分に横線を引き、上に小さく『芳野組、達成』と書き足した。
 つまり、既に芳野達は行動を開始している、ということになる。残すは軽油とロケット花火だった。

「ふむ、つまり、私達は当初の行動を変える必要はない……むしろその芳野祐介とやらが肩代わりしてくれているから手間が省ける、そういうことだな?」
「大正解なの」

 ぱちぱちぱち、とことみが拍手する。だがそれを遮るように、浩平が「もういいか?」と言いながら席を立ち、保健室の外へと向かおうとする。

447誰が為に:2008/03/26(水) 16:12:45 ID:we92bBF.0
「悪いが、オレは長森を追いかける。芳野とか神岸って奴がどんなのか知らないが、長森もオレを探してここまで来たはずなんだ。会ってやらないと」
「待て、折原君」
「……何すか、聖さん」

 扉に手をかけられたとき、聖が呼び止める。

「会って、それからどうする? 一緒に行くのか? それともここに戻ってくるか、それだけ聞かせてくれ。場合によってはこちらも行動指針を変えなければならないからな」
「……? どうしてすか?」
 一人がいなくなったところで何か変わるものなのか。かなり真剣な様子の聖の声に、浩平は疑問を抱かずにはいられない。それよりも早く瑞佳を追いたい、そればかりが浩平の頭の中を過ぎっていた。

「そんなことも分からないか?」
 やれやれという調子で肩をすくめる聖の挙動に、少しイラッとした浩平が声のトーンを上げる。
「もったいぶってないで、早く言ってくれませんか」
「……本当に分からんか」
 呆れたようにため息を吐き出すと、聖は立ち上がり保健室の奥にあるカーテンを引く。
「あ……」

 浩平が、呆けたように声を出す。
 それは患者を寝かせるベッドと聖達のいる応接間というべき部分を分かつカーテンだった。
 ミントグリーンの、柔らかな絹のそれに守られるようにして、ベッドで眠っていたのは、藤林杏。
 肩から上の部分しかその姿は確認できないが、穴が開き、赤と土色で無残に汚れた制服がハンガーにかけられていることから、恐らくは下着のみなのだろう。
 つまり、それだけの大怪我を負っていた。その事実を雄弁に物語っている。
 さらに時折聞こえる苦しそうな寝息が、彼女の命がまだ危ういものであることを証明している。

「――分かったか」
 数メートル先にいるはずなのに、聖の声は耳元で話しかけられたように、浩平には思えた。
 見せるべきではなかったんだがな、と呟いてから聖はカーテンを閉め直す。
「あんな怪我人を連れて行動なんてできない。いや、医者としてそうさせるわけにはいかない。これは私の意地だ」

448誰が為に:2008/03/26(水) 16:13:14 ID:we92bBF.0
 連れて行けるわけがない。そうだ、連れて来たのはオレなのに。どのくらい酷い怪我だったのかはオレが一番良く知っていたはずなのに。
 どうして失念していたんだろう。

 思いながら、そう、浩平は肩を落とした。
「彼女をここに置いておくとなると、当然護衛……というのは大げさにしても、付き人が必要だ。何せ抵抗もできないのだからな。となると、折原君が戻ってこなかった場合、私かことみ君のどちらか一人で探索に向かうことになる。それはそれでまた危険だ。だから君に答えを求めた」
 確かに、爆弾を作る材料を抱えながらの移動は危険極まりない。加えて聖……はともかく、ことみは女性だ。腕力的にも材料を持って運べるか、と尋ねられると……無理だろう、と浩平は考える。
 それに、二人のやろうとしていることは万が一にでも失敗が許されないものだということは浩平にも分かっている。万全を期すためにも危険は極力避けたいところなのだろう。

 つまり、今後どう行動するかは、浩平に委ねられている、と言っても過言ではなかった。
「どうなんだ、折原君」
 再度、聖が尋ねる。ようやく平静さを取り戻した浩平の頭が、この場の全員にとって、最善だと思える選択肢を、瑞佳にとって最良の選択肢となるように、論理を導き出す。

「……やっぱり、長森には会いに行きます。それで、もし聖さん側に連れて来れるようだったら、そっちに戻ってその後はついて行きます。ダメだったら……長森について行きます。その時は、その旨は必ず伝えるつもりですけどね。だから、オレが長森に会って答えを出してくるまでここで待ってて下さい」
 妥協できるのはここまでだった。何はともあれ、ずっと浩平と共に在った瑞佳の存在は、やはり大きなものだった。
 えいえんのせかい。
 そこに消えていくだけの浩平を連れ戻してくれたのは、瑞佳だったのだから。

「……どうだ、ことみ君」
「10分で済ませな。それまでは大人しく待っててやるぜベイベ、なの」
「何の真似だよ、そりゃ」

 一昔前の映画俳優のような渋い口調で提案を受け入れたことみと、そして聖に、浩平は呆れ顔で笑いながらも我侭を許してくれたことを感謝する。
 ぺこり、と一つ大きく頭を下げて。
「それじゃ、行ってきます」
 平凡な日常で、学校に行くときの挨拶のように。

449誰が為に:2008/03/26(水) 16:13:39 ID:we92bBF.0
 折原浩平は永遠から日常へと回帰するためにドアを開け放った。

     *     *     *

「芳野、さん……」
 瑞佳と詩子の身体を調べていた芳野は、黙って首を振る。もう手遅れだ、と付け加えて。
「畜生……なんで、俺はあんなことを」

 仏頂面ないつもの芳野祐介は、もうそこにはいなかった。
 突如瑞佳と詩子の命を奪った殺人鬼への怒りと、間違った判断を下してしまった自分への情けなさとが入り混じって。
 何度も何度も、歯を食いしばりながら芳野は拳を地面に打ち付ける。血が滲むほどに、芳野の手は土埃で汚れていく。

「くそっ……くそっ!」
 一際大きく拳を振り上げようとしたところで、芳野の異変を感じ取ったあかりが慌ててその腕を掴む。
 拳先から僅かにあふれ出していた血が、あかりの目に留まる。
 それは詩子の脳からあふれ出していたそれとはまた違う、土と赤が入り混じった絵の具のような汚い色だった。

「神岸、放せ」
「だ、だめです」

 ドスを利かせた暗闇の中からの声に一瞬力を緩めてしまいそうになるが、それでもあかりなりの意地を出して芳野の腕をがっちりと止める。
 ぎゅっ、と。抱きかかえるようにして。
「お願いです、自分だけを傷つけるようなことだけはしないでください……誰が悪いわけでもないんです。でも、みんなに責任があるんです。私も、長森さんも、柚木さんも……芳野さんにも」
 なお振りほどこうとする芳野だったが、殴り続けていたせいで力が入らずあかりの拘束を受け続ける羽目になる。
 力でねじ伏せることの出来なくなった芳野は、口先を武器に反論する。

450誰が為に:2008/03/26(水) 16:14:11 ID:we92bBF.0
「全部俺の責任なんだ。効率ばかりを重視して、こいつらの安全を確保しなかった。時間がかかってもいい、命はあってこそのものなんだ。それを、俺は……俺はっ!」
「違います! これは私たちが、自分で決めたことなんです!」
「何を!」
「反対ならいくらでも出来ました! 別れることの危険性や、デメリット……それくらい私にだって分かります。木偶人形じゃないんだから! 口には出さなかったけど、みんな、それを納得して芳野さんの意見に賛成した! だから責任は私たち全員にあるの!」

 芳野の怒りにも負けぬような、あかりの決死の反論。
 それは推測に過ぎない。本当にそれらを分かっていたかどうかなんて、今となっては知りようもない。
 けれども、別れるときに異論はないかと尋ねた芳野に、誰も異論は挟まなかった。それは事実だ。確かに、納得していたのだ。その時は。
 どんな人物に二人が殺害されたのかは、芳野にもあかりにも分かるわけがない。
 だがあかりは、今までの話から詩子も瑞佳もそれなりの戦闘を掻い潜ってきていることは知っている。警戒心が全くなかったわけではない。
 つまり、そこから考え出せる推論は、こうだ。
 二人は、してやられたのだ。狡猾に、隙を窺い、卑劣にも恥辱を与えるような、残虐で凶悪な人間に。
 それは誰かが悪かったわけではない。だが責任がなかったわけでもないのだ。そこまで最悪な事態を考慮できなかった、その思考に。

「仕方がなかったなんて言えないけど……でも、自分を傷つけたってどうにもならないよ……後悔しても、もう、戻ってこないから……」

 不用意な行動のせいで、あかりは自分を信じてくれた一人の人間を殺害したにも等しい行為をしてしまった。
 いくら謝罪しても、いくら泣いて喚いても時間は戻らない。
 だから、せめて。

「無理矢理にでも、先に進むしかないよ……長森さんや、柚木さんが探していた人と、会えるまで」

 一際強く、あかりは芳野の腕を抱きしめる。許しを請うわけではなく、贖罪をして、償っていくために、逃げることはあかりには許されていなかった。
 それが、国崎往人の拙い人形劇を見たときに決めたことだったから。

「逃げちゃ、いけないんです」

 ふっ、と。
 芳野の腕から、急速に力が抜けていく。握り締められていた拳は、いつの間にか開かれていた。

451誰が為に:2008/03/26(水) 16:14:38 ID:we92bBF.0
「……確かにな」
 自嘲するような、芳野の呟き。
「いつもそうだ。何もかも背負い込んだ気になって、一人で勝手に潰れて、逃げようとする。昔っから変わらない」

 遠い、今ではなく遥かな昔に、青かった時となんら変わらない自分に、芳野は辟易する。
 伊吹公子が優しく迎え入れてくれたあの時に、もうそんな真似はしないと誓ったはずだったのに。
 また、こうして叱ってくれるまで忘れていた。
 男だから。年上だから。
 そんなつまらないプライドのために逃げ出そうとしていたのだ。
 嘆いて形ばかりの責任を取るよりは、もう過ちを犯さないために彼女らの死を無駄にしないことの方が余程マシだ。

「ああ、そうだ。今は、やれることをやるしかない」
 石のように重たかった芳野の頭は、今は羽のように軽い。
 だから、空を見上げることができた。
「いつか、歌を贈らせてもらう。その時まで、今はまだ俺を許してくれ」
 題名は、そうだな。『永遠へのラブ・ソング』。

 目標を立てることで、芳野は新たに生き残る意思を固める。またそうすることで、少しは彼女らの意思を継げると思ったから。
「すまない。手を、離してくれ。長森と、柚木を弔ってやらなくちゃいけない」
「……はい。私も手伝います」

 あかりの腕が静かに離れる。手の甲についていた血は、すっかり乾ききっていた。力も、十分に入る。
「一人ずつだ。まずは……長森からだ。裸のままにしておくのは、忍びないからな」
「ですね……」
 近くにあった瑞佳の制服を取り、丁寧に包み込むように、贈り物を包装するように瑞佳の身体に包んでやる。これ以上、誰にも汚させぬように。
 芳野が、お姫様抱っこの要領で持ち上げ、埋葬に適した場所に連れて行こうとした、その時だった。

452誰が為に:2008/03/26(水) 16:15:07 ID:we92bBF.0
「……おい、あんた、何だよ、それ」
 一人の少年の声。
 信じられないというように、当惑するように、そして、怒りを隠しきれぬ声色を以って。
「あんた……長森に、柚木に何をしやがった!」
 ――折原浩平が、仁王立ちとなって、芳野とあかりの背後で叫んでいた。

 握り締められた包丁はカタカタと震え、一直線に進む視線からは明らかな殺意が見て取れる。いや、殺意だけではない。
 そこには絶望が、悲しみが、困惑が。大切な宝物を奪われた少年の顔が、そこにあった。
「お前……推測を承知で言うが、折原浩平か」
 見ず知らずの芳野に言い当てられたことに少々驚いた浩平ではあったが、すぐに表情を怒りのそれへと戻して返答する。

「ああ、そうだ。あんたが抱えてる……長森瑞佳の……幼馴染だよ。あんたが殺した、長森のなっ!」
 は、と唾を吐き捨てて浩平は芳野への罵倒を続ける。
「そうやって騙したんだろ? 善人の振りして、情報を引き出して、用済みになったから殺したんだろ?」
「ちが……」
 それは間違っている、と主張しようとしたあかりを、芳野は片手で制して止める。言わせてやれ、と浩平には聞こえないように、小声で言いながら。
「大事そうに抱きかかえやがって、そんな悲しそうな目をしてたって……オレには分かるんだからな。あんたは人殺しだ、殺人鬼なんだろ。全部演技なんだろ。無駄だからな、オレを騙そうったってそうはいかないんだからな……なあ、何とか言えよ! 図星なんだろっ!?」

 芳野は黙ったまま。言い訳もせず、ただ黙って目を伏せたまま、浩平の罵倒を受け入れていた。
 それくらいなら、いくらでも聞いてやる。そうとでも言うように。

「なあ、オレはな……」
 怒りだけだった浩平の声が、次第に転調を始める。
「長森のこと、どうしようもないアホで、お節介で、世話焼きで、鬱陶しいとか思ってたときもあったけどさ、でもオレにはいなくちゃいけないやつだったんだよ……あんたみたいなクソ人殺しには分からないに決まってるだろうけどさ、長森は、オレの支えだったんだ。いつだってオレを助けてくれてさ、いつだってオレのバカに付き合ってくれてさ、そんないいやつ、この世にいると思うか?
 いないんだよ、長森はたった一人なんだよ、他にどんなバカ正直なお人よしがいたとしてもさ、長森はたった一人で、オレがありがとうって言えるのは長森しかいないんだよ。なのに」

453誰が為に:2008/03/26(水) 16:15:34 ID:we92bBF.0
 一本の線が、浩平の頬を伝う。
 震えの原因は、怒りから、悲しみに。喪失感で溢れたものへと、変わっていた。
「なのに、もう、いないんだよ。言ってること分かるか? いなくなったんだ。もう、オレは長森に何もできない。できたとして、全部自己満足なんだよ。もう、あいつから、何も聞けないんだ。あいつには、いっぱい、しなきゃいけないことがあったのに」

 浩平には分かっていたのだ。芳野が、演技などではとてもできない本気の涙を流しながら、瑞佳を抱いていたから。
 何も言わず、言い訳すらせず、浩平のしようとしていることを受け入れようとしている。
 そんな奴が、長森を殺すはずがない。長森も、そんな奴じゃなきゃ付いていかない。だって、一番よく知ってるんだから。
 そんなこと、とっくの昔に分かってたのに。
 やり場のない怒りを、目の前の男にぶつけることで何とか発散しようとしている。
 なんて小さい男なんだ、オレは。
 だから、浩平は、泣き喚きながらそうするしかなかった。

「責任取れよ」

 包丁を捨てる。
 カラン、と卑小な音を立ててそれが地面に落ちる。
 ゆっくりと、浩平は芳野に向けて歩き出す。

「責任取りやがれよ」

 分かっている。こんな行動こそ、まさに自己満足でしかない。
 なのに、止まらない。止められない。
 ガキだから。聞き分けのないクソガキだからだ。

「長森と柚木がどんだけ苦しんで、どんだけ助けを求めたか、あんたには分かるんだろ! なら、お前もそれを味わえよっ! この……」

 ――走り出す。
 拳にやり場のない怒りを乗せて。
 まずは一発、いや、最初で最後の一発を放つ。

454誰が為に:2008/03/26(水) 16:16:01 ID:we92bBF.0
「――ダメぇっ!」

 ――つもりだった、のに。
 どん、と。
 浩平……いや、何故か芳野もあかりによって突き飛ばされていた。女の子とはとても思えないくらいの、全力で。

「うおっ……!?」
「ぐ……!?」

 2メートル。
 それくらいは離れただろうか。
 二人は尻餅をつく。二人とも、突き飛ばしたあかりを見上げる形になる。
 分からない。何が『ダメ』なのか。
 芳野は真意を、浩平は文句を、それぞれ唱えようとしたとき。

 たたた、と。
 どこか遠くで、でもすごく近い、そんなところから浩平には聞き覚えのある音がして。
「――!!」
 悲鳴を、必死に食いしばるようにして、神岸あかりが何かに貫かれ、くるくると回転しながら、赤いスプレーを、さながらスプリンクラーのように散らしながら。
 どさっ、と。
「……か、かみ、ぎし……!」
 倒れた。

     *     *     *

 多分、それは時間にすれば、ほんの一瞬で、今までの人間の歴史から――それどころか、私が生きてきた短い人生から見てもゴマ粒のように一瞬だったように思う。
 逆に言えば、それだけあれば人は死ぬんだなあ、って思う。長森さんや柚木さんも、こんな一瞬で、痛みを通り越して死んでしまったのかな?
 でも、やっぱり死にたくはなかったんだろうなって思う。だって、今の私がそうなのに。
 なんで、あんなことしちゃったんだろう。銃口に気付いて、切磋に突き飛ばす、なんて。

455誰が為に:2008/03/26(水) 16:16:28 ID:we92bBF.0
 いや、きっとそれで正解だったのだと思う。
 私一人が生き残って勝てない戦いをするより、芳野さんと、折原浩平、っていう人が一緒に戦ってくれれば。
 それに、あの人は、ほんのチラッと見ただけだけど……美坂さんを、殺した柏木千鶴――その人だったように思う。
 ああ、今にして考えれば、折原浩平くんのように、一発殴りたかったな。私らしくないけど、簡単に人の命を奪うような人を、私は絶対に許せない。
 殺された人にも、家族とか、友達とか、好きな人がいたはずなのに。
 ……けど、やっぱり柏木千鶴さんにも、人を殺してまで守りたかった人がいるのかもしれない。他人を切り捨てられるくらいに愛する人がいたのかもしれない。
 そう考えると……誰も悪くはないのかな、と思うようになってきた。ああ、でも、やっぱり、浩之ちゃんに会えなくなっちゃったのは、とても、辛い。

 浩之ちゃんも、折原浩平くんみたいに私を探してくれてるのかな。長森さんのように……とまではいかないけど、私が死んだら凄く悲しむのかな。
 それを想像すると、胸が痛んだ。でも、私の行動は間違っていなかったと思う。
 だって、人を見殺しにするなんて、浩之ちゃんなら絶対にやらなかっただろうから。分かるから。ずっと一緒にいた、幼馴染だったから。

 ……国崎さん。もし、もう一度国崎さんに会えたら、その時はあの人形劇を見せてもらいたかったな。あれは、元気と、勇気のでる、最高のおまじないだから。
 ……長森さん、柚木さん。少ししか一緒にいられなかったけど、とても楽しかった。どこかで、会えるといいな。
 ……志保、雅史ちゃん、レミィ、葵ちゃん、来栖川先輩、姫川さん、マルチちゃん、みんな、ごめんね。
 ……浩之ちゃん――

 ――大好き。

     *     *     *

 柏木千鶴が鎌石村小中学校にやってきたのは、ウォプタルがだんご大家族(100匹分)を全て平らげた後だった。
 来た道を戻ってきたのは、先の戦闘で、これ以上進んでも人間との遭遇は在り得ないと結論付けたからだ。
 加えて、それなりの武器は入手している。自身の戦闘力を踏まえれば大抵の戦闘は潜り抜けられる。
 乱戦の中に飛び込んでも勝利できるだけの自信はあった。

456誰が為に:2008/03/26(水) 16:16:53 ID:we92bBF.0
 そして、さらに幸運なことに、学校にやってきてみれば、二人の男が口論のようなことをしているではないか。
 あと一人女……と思われる人間がいるが、止める術を持たないのかただ傍観しているばかり。
 何を言っているかは分からないが、この機に乗じて全員抹殺することは容易だと、千鶴は考えた。
 一方の……少年と思われるほうが、今にも掴みかかりそうな勢いで、青年の方の男に迫る。
 二人の格闘が始まる瞬間が、千鶴にとっては好機だった。
 ウージーサブマシンガンを構え、始まると同時にウォプタルを駆けさせ、ウージーを乱射し一網打尽にする。
 それで終わりのはずだった。
 だが、少年が掴みかかろうとしたまさにその瞬間、女の方がこちらに気付く。

「あの子は……」
 前に一度見た事がある。いやそればかりか殺害寸前にまで持っていったことがある少女。
 偶然の再会に、千鶴のトリガーにかかった指が、一瞬だが止まる。
 それが結果的に未来を大きく変えてしまうことになる。
 千鶴の指が止まっている時に、少女――神岸あかりは二人の男――芳野祐介と折原浩平を突き飛ばし、彼らを千鶴の射線から外してしまったのだ。
 当然、指の動きを止めていたのは一瞬だったので、狙いを変えることは出来なかった。
 たたた、とウージーが弾を吐き出し終えても……
「――く、しくじった!」
 倒したのは、あかり一人だけという結果。いや、そればかりか。

「貴様ぁ……ッ!」
 芳野祐介が、千鶴に向けてサバイバルナイフを振るう。あかりが倒れた瞬間、芳野はその矛先を襲撃者――千鶴に向け、目にも留まらぬ勢いで疾走し、攻撃を開始する。
 悲しみでもなく、動揺するだけでもなく。ただ、あかりを倒した目の前の女が許せなかったのだ。そして、またもや気付けなかった芳野自身にも。

「キャウウウウゥゥゥゥッ!」

457誰が為に:2008/03/26(水) 16:17:18 ID:we92bBF.0
 避けきることの出来なかったナイフは、真っ直ぐにウォプタルの首筋を切り裂く。
 暴れ、もがくウォプタルの背中に乗っていられぬと判断した千鶴は素早く飛び降り、体勢を整えようとする。
 そこに、芳野の第二撃が迫る。
 順手ではなく、逆手でナイフを握っての斬撃。突くのではなく、振るうという目的で使うにはこちらの方がより効果を発揮する。
 回転するように振るわれた芳野のナイフは……当たらない。
 キィン、という甲高い音と共に、千鶴は日本刀の刀身で芳野の刃を受け止めていた。

「くっ……」
「くそ……」

 二人の力が、刃を通じて真正面からぶつかり合う。
 ギリギリと、お互いの意地と怒りを乗せて。
 芳野は引けない。
 千鶴はマシンガンを持っていて、少しでも後退しようものならそれで穴だらけにされて終わるだろう。
 千鶴は距離を取りたい。
 むざむざ相手の有利な距離で戦う必要性は皆無。その上戦う相手は芳野だけではないからだ。
 しかし……

「ぐ……」
 なんだ、この女の力は?

 少しずつ押される事実に、芳野は戸惑いを隠せない。
 日本刀が、徐々に芳野の顔面に近づいてきているのだ。押し返そうとするも、それ以上の圧力で跳ね返されてしまう。どう見ても、細身の女だというのに。

「どうしたの? 苦しそうだけど」
「あんたに、心配される筋合いは……ない……!」

 千鶴に、少し余裕が生まれる。
 このまま押し切っても距離を取っても、芳野に勝利できる公算は十分にある。むしろこのままジリ貧になってくれたほうが都合がいい。
「く、そっ……」
 日本刀の先が、芳野の髪の毛に触れる。
 もう少し――

458誰が為に:2008/03/26(水) 16:17:44 ID:we92bBF.0
 千鶴が、更に力を込めようとする。その真横から、新たに迫る人影があった。
「!?」
 気付いて避けようとしたが、既に遅かった。芳野と鍔迫り合いしていたから、というのもあった。
 折原浩平が、包丁を抱えて、突進してきていた。
 勢いをつけられた包丁の刃が、千鶴に突き刺さる。

「っ……!!」
 悲鳴を出すことは流石にしなかったが、日本にかける力が緩んでしまう。それを芳野が見逃すはずはなかった。
 一歩下がると、思い切り体勢を低くし、アッパーのようにナイフを振り上げる。
 しかし千鶴もさるもの、バックステップを利用しあっという間に数メートルの距離を取る。

「やって、くれるわね」
 憎々しげに、千鶴は浩平を見据える。刺された左腕からはとめどなく血が流れ出し、既にウージーは強く握れなくなっている。
 どうせ弾切れだ。
 千鶴はそれを地面に打ち捨てると日本刀を横一文字に構え、二人に対峙する。
 ちらりと横目で見れば、ウォプタルは苦しそうに呻いていて、足としての役割は期待できそうにない。
 いいわ。これはハンデにしておいてあげる。真っ向勝負で屈服させてあげるから。
 目が、細められる。それは紛れもなく、本気を出した『鬼』の様相を呈していた。

「……さっきは助かった」
「勘違いすんな、これはオレのリベンジなんだ。あいつは……オレが絶対に倒す。ちょっとした因縁もあるからな」

 浩平は七海を屠り、杏に大怪我を負わせ、今またあかりを殺害した千鶴に対して絶対的な敵意を向けていた。
 そして、またもや助けられ、何もできなかった自分への不甲斐なさ、無力さにも。

 どうして、オレはいつもこうなんだ。
 誰かに助けられて、理不尽にも当たり散らすだけで、また誰かに助けられて……
 ふざけんな。
 ここで決別する。
 オレは、オレで借りを返せる人間になるんだ。クソガキなオレは、今日で卒業だ。

 ――えいえんのせかいなんて、ブッ壊してやる。

459誰が為に:2008/03/26(水) 16:18:14 ID:we92bBF.0
 少年が、覚悟を決める。
 しかしただ熱くなっているだけではない。冷静に、浩平は状況を分析していた。
 柏木千鶴とは以前戦ったことがあり、その身体能力の差は歴然としていた。真っ向からの勝負では、とても勝ち目はない。
 ならば、勝機はどこにあるのか。
 答えは……

「――せあっ!」
「来るぞ!」

 芳野の声に弾かれるようにして、浩平が真横に飛ぶ。それまでいた空間は既に千鶴の日本刀によって貫かれていた。
 これで安心してはならない。
 浩平は包丁を縦に構え、受けの体勢を取る。果たして予測は外れなかった。
 甲高い音と共に、包丁は千鶴の追撃を跳ね返す。

「――!」

 千鶴は少々面食らった顔をしていたが、サッと刀を返すと真後ろから迫っていた芳野の斬撃を打ち払う。
 またもや押し負けた芳野が僅かにふらつくのを見逃すわけもなく、千鶴が追撃とばかりに芳野の腹部に横蹴りを放ち、クリーンヒットさせる。
 横転しながらもすぐに体勢を立て直す芳野に、二の矢が迫る。
 首ごと斬り飛ばすかの如き勢いで垂直に振り下ろされる刀。芳野は膝立ちの体勢から横に小さく飛んでごろごろと転がりつつ、辛うじて躱す。次にようやく立ち上がったかと思えば、水平に放たれた刃が迫る。慌てて動作をひっくり返ししゃがみの体勢を取る。相反する命令を下されながらも、ぎりぎりのところで刀を空振りさせた。
 それでも僅かに切れた髪の毛が、ぱらぱらと宙に舞う。ゾッとする怖気を感じながらも、芳野は懐に飛び込んだ今がチャンスだと即座に判断し、千鶴の胸元へと向けてナイフを振るう。

 しかし千鶴の反応はそれ以上であり、半歩引いたかと思うと刀身でナイフを弾き、完璧に防御する。
 だが一度懐に飛び込んだのだ、引けば即、死に繋がる。
 素早くナイフを順手に持ち替えた芳野が、縦、横、袈裟と次々に斬撃を繰り出して千鶴に反撃する隙を与えない。

460誰が為に:2008/03/26(水) 16:18:38 ID:we92bBF.0
「くそ、どうして当たらない!」

 様々な方向から斬り付けているはずなのに、全て防御されことごとく弾かれる。
 剣道の達人とでもいうのか。いやそれにしては太刀筋はそう変わらない。とにかく、手練れであることは間違いない。
 だが、徐々に押してはいる。流石にこうも連続して攻撃を加えられては引きながら戦わざるを得まい。追い詰めさえすれば。
 そう考える芳野の視界に、浩平があるものを拾い上げているのが写る。

 マイクロウージー。千鶴が捨てていたサブマシンガンだ。
 だが捨てていたということは弾丸は入っていないのでは? 弾丸のない銃など役立たずも同然。何を考えているのか。
 その時、芳野の脳裏にある推論が思い浮かぶ。そしてそれは、浩平がへたり込んでいるウォプタルに向かったことで、確信へと変わる。
 間違いない、あいつはあの恐竜みたいなのにぶらさがっているデイパックからマシンガンのマガジンを奪うつもりだ!
 身軽にするためと、自身に負担をかけさせないためにそうしていたのだろうが、それは荷物を放り出しているも同じ。それが奴の命取りだ。

(……だが、問題は予備のマガジンがあの中に入っているかどうかだ。可能性として本当に弾切れになったから捨てていたかもしれない。運否天賦、になるが……)

 実際はそうではない。浩平はPSG1が奪われたことも知っていたためたとえマガジンがなくとも銃を確保できるのは確実だった。だが、破壊力からすればウージーのマガジンが入っていることの方が遥かに望ましい。
 結果は――

「……よし!」

 ウォプタルにぶら下がっていたデイパックの中から、ウージーの予備マガジンが浩平の手中に納まる。
 これをはめ込み、千鶴に向かって乱射すれば命中は確実だった。

 浩平がマガジンを取り替える動作に入ろうとした、その時。
「……遅いのよ」
 ふっ、と芳野の視界から千鶴が消える。何が起こったか、一瞬理解できなかった。だが数瞬の後。
「な……」

461誰が為に:2008/03/26(水) 16:19:05 ID:we92bBF.0
 一歩分の距離はあったはずだった。密着などしていてはナイフは振るえない。
 なのに。
 千鶴の顔は、キスできそうなほどの近距離にあったのだ。
 次いで、ずん、と何か重いものを叩き込まれる衝撃。肘を打ち込まれたのだと分かった時には顎を刀の柄で突き上げられ、仕上げとばかりに回し蹴りで薙ぎ倒された。

「がは……っ」
 無様に地面を転がりながら、なお千鶴の追撃に備えようとしたが、それは間違いだと知ることになる。

「そうやって、交換する動作の時が……一番無防備なの。わざわざ遊んでやったのはこのため……甘ちゃんなのよ」

 芳野が目にしたのは、浩平の腹部が千鶴によって貫かれていた光景だった。
 背中から突き出した刃が、浩平の鮮血を啜って怪しく輝いている。待ち焦がれた、とでも言うように。
「く、そっ、そういう事か……」

 芳野は理解する。
 最初から、こうなるように仕向けていた。二人いっぺんの刃物を相手取るよりは銃を持たせ、マガジンを交換する隙に仕留める。
 一対一なら苦労するまでもなく、あっという間に倒せる。押されていたのではない。そうさせていたのだ。
 見取りが甘かった。最初の鍔迫り合いのときに普通の女ではないことは分かっていたはずだった。ナイフを全て防御されていたときに、おかしいと気付くべきだった。
 敗北か。俺達の――
 芳野は悔しさに歯をかみ締めようとした。

「甘ちゃん……? へへ、あんたの方が甘いぜ、大甘だ……!」

462誰が為に:2008/03/26(水) 16:19:30 ID:we92bBF.0
 それを嘲笑うかのように。折原浩平が、笑っていた。
「何が――ぐっ!?」
 いつの間にか、千鶴は刀ごと腕を掴まれているのに気付く。握られた手は石のように硬く、また刀が刺さっているのも相俟って、ビクとも動かない。
「は、刺された、くらいで、死ぬとか……動けなくなるとか思われたら、困るんだよ……こっちは、腹、くくってんだからな!」
 浩平は叫ぶと、更に刀を食い込ませるように、より引きにくくさせるかのように、一歩千鶴へと向けて進む。
 加えて、はまり切っていなかったウージーのマガジンを膝で叩いて無理矢理押し込む。

「撃てるぜ、おねーさんよ」
 それはいつもと同じ、下らないことを思いついたときの浩平の笑みである。だがそれは、今の千鶴にとっては悪鬼の笑みに他ならない。
 心臓が早鐘を打ち、訳もなく足が震える。
(嘘……? 鬼の、わたしが、怖がっている……?)
 ゆらり、と死刑を宣告するように浩平の腕が持ち上げられる。千鶴は何とか逃れようと全力でもがき、怪我をしている左腕で浩平の顔を殴りつけるもまるで応える様子がない。

「あんたの殺戮劇は……もう、閉幕なんだよっ!」
「こんな……! 耕一さ……!」

 千鶴の叫びは、五月蝿過ぎるくらいの銃声に飲まれ、消えた。
 大きな血の穴を開けながら、最期の最期まで家族のために戦った、哀しき鬼の末裔が――あっけなく、崩れ落ちた。

     *     *     *

463誰が為に:2008/03/26(水) 16:19:56 ID:we92bBF.0
 くそ、カッコよく決めたつもりだったけどさ、やっぱ、生き残れなくっちゃヒーローじゃあないよな。
 上手く立てたつもりだったのにな。見破られてたなんて思いもしなかったぜ。
 気合と根性! でどうにかしたけどさ。はぁ、やっぱオレってそんなのは似合わないよなぁ。
 七瀬あたりが見てたら何そのヒーローごっこ、みたいな感じで笑われてたかもな。
 ……いや、泣くだろうな。絶対泣く。漢泣きするね、きっと。

 ……。
 ふぅ、アホッ、とかまたバカなこと言ってる、とかそういうツッコミがないのは寂しいな。なんだよ、結局オレは一人じゃダメなんじゃないか。
 笑っちゃうよな、全く……
 本当、アホだわ、オレは。

 ……。
 何だよ、何か、体軽くなったな。ハハア。オレはこれから天国に連れて行かれるんだな? いや、一人殺したから地獄か? いやいやいや、情状酌量の余地は残ってるはずだぜ? だから考え直してよ閻魔さんよ。
 なんて、お願いしてみたけど、まあやっぱり地獄だよな。それでもいいか。長森たちと会えないのはちょっと寂しいけどな。
 ひょっとしたら誰か知り合いがいたりして。深山先輩とか。
 いやいや、冗談ですって。だからオレの頭に入ってこないで! イヤーン!

 ……。
 冗談はともかくとして、まだ茜や、みさき先輩、澪に、七瀬、住井に……まあ、広瀬もか。そいつらは生きてるよな。
 絶対こいつらなら生き残ってくれるさ。みんなオレなんかより強くていい奴らだからな。後は頼むぜ。

 ……。
 お、何か体が重くなったぞ。ひょっとしたら地獄にご到着なのかもな。なんだよ、誰もいないじゃないか。最近の地獄は人手不足なのか?
 まあいいや、のんびりさせてもらおう。ふはは、オレこそが地獄の閻魔大王だー、なんて。

 ……長森。
 本当に済まないと思ってる。
 お前がいなきゃ、今のオレはなかった。お前がいてくれたから、オレはオレであり続けられたんだ。
 けど……結局、何も出来なかった。せめて、最後に、お前に、触れてやりたかったのに……

464誰が為に:2008/03/26(水) 16:20:28 ID:we92bBF.0
 ――できるよ。

 ……え?

 ――できるよ。ほら、わたしはここにいるから、浩平。

 ウソ……だろ。何で、長森が、ここに……いや、恥ずかしいわけじゃないぞ。ちょっと驚いただけなんだからな。
 あー、その、触れてやるってのはだな、つまり、その……

 ――ね、お願い、していいかな?

 お? お、おう、どーんと来い! 長森ごときの願い事なぞオレに叶えられないわけないっ!

 ――じゃあ……


 ぎゅって、して……


     *     *     *

「いくらなんでも、遅すぎるな」
 浩平が出て行ってから早一時間近く経っている。学校や、外を探し回っているにしても遅すぎる。
「ことみ君、確かに間違いはないんだな?」
「うん、多分……」

 芳野祐介達に硝酸アンモニウムの運搬を任せ、そのまま島を西回りに材料を探してもらうという約束。
 硝酸アンモニウムを探してもらうところから始めてもらったというのだから、探索して、運び出して、仕舞う。このプロセスを辿るだけでも結構に時間がかかるはずだ。
 浩平が出遅れた、ということはありえない。
 だとすれば、何らかのトラブルに巻き込まれたという可能性が高い。

465誰が為に:2008/03/26(水) 16:20:49 ID:we92bBF.0
「様子を、見に行ってみるか。少し離れることになるが……杏くんはまあ大丈夫だろう」
「うん……私も、心配なの」
「よし、行こう」

 聖とことみは立ち上がると、保健室に鍵をかけて校舎内から、まずは外に硝酸アンモニウムを仕舞ってあるはずの体育倉庫へと向かう。
 ――だが、そこまで行く必要は、なかった。
 彼女らが外に出た時。

「……これ、は」
「芳野、さん?」

 横たわっているのは、幾つもの死体。幾つもの血溜まりが、グラウンドを塗りつぶしている。
 その中央では、一人の男が悲しげに佇んでいた。

「……俺には、こいつらを背負い込むには小さすぎる」
 芳野祐介。
 その足元には、二人の男女が折り重なるように――いや、芳野が折り重ねていたのだ――横たわっている。
「手伝って、くれないか」
 恨むでもなく、ただ死者に応えるようにと願うような口調で、芳野は二人に向き直った。

466誰が為に:2008/03/26(水) 16:21:18 ID:we92bBF.0
【時間:2日目午後15時00分ごろ】
【場所:D-06・鎌石村小中学校・駐車場】

芳野祐介
【装備品:サバイバルナイフ、台車にのせた硝酸アンモニウム】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)、腹部に鈍痛(数時間で直る)】
【目的:瑞佳とあかりの友人を探す。まずは死者たちを埋葬したい。爆弾の材料を探す。もう誰の死も無駄にしたくない】

神岸あかり
【装備品:包丁、某ファミレス仕様防弾チョッキ(フローラルミントタイプ)】
【持ち物:支給品一式(パン半分ほど消費)】
【状況:死亡】

柏木千鶴
【持ち物1:日本刀・支給品一式、ウージー(残弾18/30)、予備マガジン×3、H&K PSG−1(残り3発。6倍スコープ付き)、日本酒(残り3分の2)】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図】
【状態:死亡】
ウォプタル
【状態:首に怪我。衰弱中(数時間は動けない)】

467誰が為に:2008/03/26(水) 16:21:42 ID:we92bBF.0
霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【状態:爆弾の材料を探す。死体の山に呆然】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯】
【状態:爆弾の材料を探す。杏ちゃんが心配。死体の山に呆然】

折原浩平
【所持品:包丁、フラッシュメモリ、七海の支給品一式】
【状態:死亡】

藤林杏
【所持品1:携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、ほか支給品一式】
【所持品2:スコップ、救急箱、食料など家から持ってきたさまざまな品々】
【状態:重傷(処置は完了。回復までにはかなり時間がかかる)。うなされながら睡眠中】


【その他:付近には瑞佳の遺体(浩平の遺体と重なっている)と詩子の遺体があります】

→B-10

468電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:14:25 ID:lyGUT/is0
 瑠璃ちゃんに渡されたフラッシュメモリを持ってパソコンのとこに戻ってきた。
「ふぅ……」
 瑠璃ちゃん達との会話が頭に浮かんでくる。
「瑠璃ちゃん……めぇかわっとったなー……」
 きっと、瑠璃ちゃんがフラッシュメモリのこと言い出したんはウチを殺し合いからのけるため。さっきの瑠璃ちゃんのあの眼。ウチを見るときの瑠璃ちゃんの優しい眼。ウチを見てないときの暗いキレイな瞳。あの五月二日、貴明がウチと瑠璃ちゃん、いっちゃんを助けてくれた日。瑠璃ちゃんはウチがすきやってゆうてくれた。瑠璃ちゃんは、この島でもずっとウチを守ってくれた。こんな足手まといなウチを連れて、ずっと守ってくれた。きっと、これからも瑠璃ちゃんはウチを守ってくれる。守るために頑張ってくれる。ウチも、そうしたい。でも、ウチは瑠璃ちゃんよりずっとトロいし、力もない。瑠璃ちゃんとおんなじことしようとしても、きっと瑠璃ちゃんの足引っ張る。瑠璃ちゃんがそのせいで動けんくなるんだけはあかん。ウチは瑠璃ちゃんが人質にとられたら何もでけへん。たぶん、瑠璃ちゃんも……
 もしホンマにどうしようもなくなったら……
 殺しあいんときウチに出来るんはみさきの手を引いて逃げること。弾除け。後は瑠璃ちゃんのミサイル。それくらい。
 でも、殺し合い以外やったらウチにもできる。首輪。ハック。クラック。できることはなんでもやる。瑠璃ちゃんが生きて帰るためにできることは。瑠璃ちゃんと生きて帰るためにできることは。
 首輪の爆弾なんかこわない。ここがウチの戦場。ウチが瑠璃ちゃんを守る場所。ぜったい、負けへん。

469電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:14:42 ID:lyGUT/is0
 まずはフラッシュメモリの解析をする必要がある。
 HDDを取り付ける。
「あ……」
 取り落とした。
 割に盛大な音を立ててマザーボードにぶつかる。
 マザーボードは見た目壊れていないようだが。
「……」
 彼女は暫くHDDを見詰めて、ふと思いついたように異様な速度でHDDを分解し始めた。
「あれ……?」
 その手が止まる。
 眼はHDDの中にある見慣れない物質に止められている。
「……?」
 摘み上げる。
 暫し見詰める。
「……………………!」
 珊瑚は口に手を当てて漏れる声を抑え、深呼吸する。
「物理的な断線は……ない……みたいやね」
 そしてHDDを元通り組み立てる。直方体の物質も一緒に。
 改めてHDDを取り付けて、フラッシュメモリを差し込む。
『パスワードを入力してください』
「……こんだけ?」
 キーを撃つ音が僅か響く。
『パスワード認証しました』
「……あふれさせてしまいやん」
 彼女は溜息を吐き、フラッシュメモリを開いた。
「……!」
 と、同時に彼女は息を呑む。
 フラッシュメモリの中には『島内カメラの使い方』と言うタイトルのテキストと、その横にやたら大きいサイズのデータがあった。
「これ……使える……!」
 『島内カメラの使い方』を開き、猛烈な速度で文字を読む。
 今、珊瑚の頭は恐ろしい勢いで回り始めた。
 最初に引き当てたレーダー。
 同じく瑠璃が引き当てた携帯ミサイル。
 首輪に付いているであろう盗聴器。
 島の中に恐らく複数あるであろうパソコンとその中身。
 環たちの持ってきたフラッシュメモリ。
 その中身の示すもの。
 先ほどのHDDの中の直方体。
 それらがどうやって動いているのか。それらは何処から情報を得て正常に動いているのか。
 この島の支配者の心理。
 何故自分や那須宗一、そのナビであるエディ、リサ・ヴィクセン。そんな人間がいるにも拘らずパソコンを置いてあるのか。
 望外な幸運に晒されて、相当な情報が彼女の元には入ってきている。
 様々な点が一つの線になり、複数の線が一つの絵になる。
 珊瑚は一つの結論を出し、瑠璃の顔を思い出し、フラッシュメモリのデータを開き、インストールし始めた。
「これでどこに何があるか分かるな」
 主催者には思惑通りに進んでいると思わせる必要がある。
 珊瑚は先程まで作っていたワーム製作を放り投げ、フラッシュメモリの中身を調べ上げると共に新しいプログラムを作り始めた。

470電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:15:06 ID:lyGUT/is0
 タン、とエンターを強く撃つ音が部屋に響く。
 プログラムは完成した。後は実験。
「そや。ろわちゃんねるどうなっとるんやろ」
 彼女は既にパソコンに入っていた全てのファイルは調べ上げていた。この状況で生死を握る鍵となるパソコンなのだから当然と言えば当然だが。
 ろわちゃんねるに繋ぐ。作ったプログラムからプロンプト上に文字列が排出される。
 実験は成功だった。
「あ……」
 が、珊瑚の頭からはそんなものは完全に抜け落ちていた。
「貴明……」
 その名が死亡者報告スレッドに載っていたから。

471電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:15:21 ID:lyGUT/is0
「貴明……」
 どれくらい呆然としていたんだろうか。珊瑚は自分の呟きに引き摺られて現に戻ってきた。
「貴明……」
 が、その眼からは涙が止まらない。
「貴明〜……」
 椅子の上に膝を抱えて座り込み、溢れる涙を袖とスカートで拭い続ける。
「う〜……」
 五月二日が頭に浮かぶ。もう戻らない五月二日。もうイルファもいない。貴明もいなくなった。
「う……」
 しかし、珊瑚はそれ以上泣き続けることが出来なかった。
 まだ自分には妹がいる。この世で一番大切な妹が。そして、ここで泣き続けることは自分達の死を座して待つのと変わらない。
 上手く回らない頭でそこまで気付いてしまうと、それ以上泣き続けることは最早彼女には出来なかった。
「貴明……」
 だから、この眼から流れ続けるのは決して涙ではない。
「ぜったい、ウチら生きて帰るからな……」
 涙なんかではないのだ。

472電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:15:39 ID:lyGUT/is0
 弱気、恐怖、混乱。悲哀、後悔、怒り。人の感情は容易く他人に伝播する。
 だが、伝播するのは負の感情だけではない。
 強大な敵に立ち向かうだけの覚悟と勇気は、彼女の娘から彼女の妹を通じ、いつしか彼女自身にも伝播していた。

473電脳皇帝:2008/03/28(金) 01:15:50 ID:lyGUT/is0
【時間:二日目17:00頃】
【場所:I-5】

姫百合珊瑚
【持ち物:デイパック、水、食料、フラッシュメモリ、工具箱、HDD】
【状態:対主催者情報戦争中】

474命を繋ぐか細い糸:2008/03/28(金) 01:16:24 ID:lyGUT/is0
【時間:二日目17:00頃】
【場所:I-5】
「努力・謀略・勝利!」
「愛・友情・勝利!」
 同時に叫んでドアを開く。
「おかえ環!?」
 瑠璃が俺達に抱えられた環を見て叫ぶ。
「どうしたん!? その頭……!」
「弟にバットで思いっきりぶん殴らせたんだよ……」
「なんで……」
「そんなことより手当てだ! 浩之、お前も横になれ!」
「お……」
「浩之もやられたん!?」
 瑠璃が眼を剥いてこっちを見る。
「まぁ、ちっと腹蹴られてな」
「血反吐吐くまで蹴られて何がちっとか。悪いけど先に向坂見るぜ」
「当然だ」
 腹より頭のが万倍やばい。
「もろに入ってたからな。……糞っ、血がとまんねえ!」
「ウチにかして!」
「瑠璃……?」
「祐一は浩之看とって!」
「あ……ああ……」
 瑠璃……?
「環? ウチが分かる? 環? 分かるんやったらまばたき二回して! 環? 頭おすで? ガマンしてな。環? 今から頭に包帯巻くで? 環? せや!」
 瑠璃は唐突にこっちを向いた。
「なぁ、環は頭殴られてから動ていた?」
「いや……最後に雄二を倒してすぐに倒れた」
「やったら、環動かした?」
「あ……ああ……ここまで運んでこなきゃなんなかったからな」
「でも、なるべく頭は動かさないようにして来たぜ」
「そか……」
「向坂は大丈夫なのか……?」
「わからへん……でも、かなりまずい……鼻から血が流れてきとる」
「やばいのか!?」
「わからへん! それより、浩之も腹蹴られたんやろ!? 動いたらあかん!」
「うっ……」
 瑠璃の気迫に負けてくずおれる。
 腹が痛むのもまた確かだ。俺が何しても向坂の助けにならないことも。
「祐一! さんちゃん呼んできて!」
「みさき?」
「浩之君」
 みさきが手を握ってきた。
「お腹を痛めた時は、ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ。まして血を吐いたんなら、内臓か食道を傷つけてるかもしれないんだから」
「ああ……」
「畜生……! どうすりゃ……!」
「瑠璃ちゃん!」
「さんちゃん!」
 珊瑚が部屋の惨状を見て息を呑む。
 が、すぐに見た目に一番酷い環のところに行った。
「どうなっとるの?」
「頭バットで殴られたんやて……頭はあんま動かしてないらしい」
 珊瑚が環の口元に手をやる。
「息が……」
 珊瑚が環に躊躇うことなく口付けた。
「珊瑚!?」
 そのまま息を吹き込む。って人工呼吸かよ。馬鹿か俺は。
「ふー……ふー……はー……ふー……ふー……はー……」
「さんちゃん、大丈夫?」
「ふー……ふー……ぷわっ……瑠璃ちゃん、変わって」
「う、うん」
 そう言って珊瑚は俺の方に来る。
「さ、珊瑚?」
 どうしてもその唇に眼が行く。
「あんな、このままやと環死んでまうかもしれん。ウチらじゃ応急手当位しかでけへん」
「そんなに……酷いのか……?」
「わからへん……それも分からんねん」
「医者がいれば、何とかなるのか?」
 祐一が突然思い出したようにいった。
「それはわからへんけど……いないよりはいた方がええと思う」
「俺達は元々神尾を医者に見せる為に診療所に向かったんだ。もしかしたらいるんじゃないか、ってな。霧島聖って人が医者なんだって。神尾が言ってた。本当は寝かしときたかったが……怪我人が半分ならどうしたって医者はいるよな……」
 そう言って祐一は観鈴のいる布団へ行く。
「神尾、すまん。起きてくれ。神尾……」
「ん……」
 程なく、神尾は目を覚ます。
「あれ……ここ……」
「神尾、すまない。どうしても医者が必要になった。霧島聖、って人の詳しい説明してくれないか」
「あ……うん……」
「それやったら」
 珊瑚が観鈴の前に出る。
「誰……?」
「大丈夫だ。味方だよ」
「こっち来てくれん?」
姫百合珊瑚
【持ち物:デイパック、水、食料、フラッシュメモリ、工具箱、HDD】
【状態:対主催者情報戦争中】

475命を繋ぐか細い糸:2008/03/28(金) 01:17:25 ID:lyGUT/is0
 祐一に肩を借りながら観鈴はパソコンの前に座る。傍らには浩之とみさきもいた。
「あのフラッシュメモリな、この島のカメラを見れるプログラムはいっとった。画面切り替えてくから聖って人がでたら止めてな」
「うん……にはは、責任重大」
 先程作り上げたプログラムを使って、ネットに接続しているデータを主催者に送りながら珊瑚はカメラを立ちあげる。
「ほな、いくで」
 ディスプレイに大量のウィンドウが出る。
 その中でカメラの移動以外で動いているものを選び、順次拡大していく。
「どうだ、神尾?」
 観鈴は答えず、順に流れるカメラを見続ける。
「! これ! この人だよ!」
 流れるように切り替わっていたカメラが、一気に止まる。
「これ……D-6?」
「くっ……遠いな……」
 祐一が舌打ちをする。
「でも行かないわけにはいかねーだろ?」
「でも、環は動かされへんよ?」
「俺が行く」
「祐一?」
「誰かが行って連れてくるしかないだろ。だから俺が行く」
「わたしもいくよ」
「神尾?」
「馬鹿を言うな! お前だってまだ傷口塞がってないだろ!?」
「だいじょぶ。痛いけど、もう血は出てない。わたしがいないと、先生連れてこれないかもしれないよ」
「それは……いや、駄目だ! お前は怪我人なんだぞ!?」
「でももし先生連れてこれなかったら、みんな死んじゃうんだよね? 祐一くんが襲われて先生のところまで辿りつけなかったら……」
「う……」
「祐一。諦めろ。お前の負けだ」
「浩之……」
「そう言う事なら俺もついていく。観鈴よりは動けんだろ」
「黙れ怪我人二号。お前まで何言い出すんだよ。大体そんなことしたらここの守りは」
「瑠璃がいる。あいつなら大丈夫だ。きっとここを守りぬく。むしろ俺らの方がアブねーかもしんねーぞ?」
「じゃあ私も行こうかな」
「待て」
「私は浩之くんに付いていくって決めたから。皆が襲われて先生連れて帰れなかったら困るよね?」
「いや待てだからお前」
「それに私怪我してるわけじゃないから、荷物持ちくらい出来るよ。浩之くんも観鈴ちゃんもとても重い物を持つなんて出来そうにないけど?」
「う……」
「浩之。諦めろ。お前の負けだ」
「てめ」
「しょうがねえ。決まったんなら早めに行動しよう。向坂には時間がない」
「おう」
「まって」
 いざ、と言うところで珊瑚が止めに入った。
「これ。もってって」
 そう言って珊瑚は浩之にフラッシュメモリとメモを渡した。
「これ……?」
「パスワード消しといたで。それを使えばどのパソコンでもこのカメラみたいに出来る。この家のカメラだけはこわしといたけど、その他やったら全部見れる。やり方は同じ。パソコン消すときはデータちゃんと消しといてな」
 そしてメモを見る。
『いろいろやっといた。なるべくこのかみはウチらいがいのひとにはみせんといて。
もしホンマにだいじょぶそうやとおもうひとがいても、なるべくひろゆきがせつめいして。
ワームはだいたい8わりくらいできた。あと、しゅさいしゃだますてもふたつよういした。ここのネットワークのくみかたとくびわのはんべつしゅだん、たぶんしゅさいしゃのおくのて。さらにうらがないかこれからまたしらべる。こっちはなんとかする。やから、いしゃたのむわ。』
 恐ろしいほど主催者との騙しあいは進んでいるようだ。しかも珊瑚優勢で。
「浩之」
「あ……ああ……」
「みんなで、生きて、帰ってきてな」
「お……おう!」
 当たり前だ。誰一人として欠けさせるか。
 みさきと祐一と神尾を伴って部屋を出る。
「……ぅ、……ぁきみたいには……」
 だから、最後に珊瑚が呟いた言葉ははっきりとは聞き取れなかった。

476命を繋ぐか細い糸:2008/03/28(金) 01:17:52 ID:lyGUT/is0
「行くん?」
 環が布団に寝かされていた。瑠璃がやったんだろう。布団と毛布も掛けられている。呼吸は安定したんだろうか。瑠璃は俺達に背を向けたまま膝を抱えて座り込んでいた。
「ああ。ちゃんと連れて帰るから、安心しろ」
「……ウチは、さんちゃんが一番大事や。やから、ついてけん」
「分かってる」
「……危ないで」
「分かってる」
「浩之、怪我してるんやで?」
「そうだな」
「みんなでここにいた方が安全やけどな」
「でも、そうすると環が危ない」
 全部瑠璃も分かってる。そのはずだ。
「……浩之」
 瑠璃が身体全体でこっちを向く。
「あの覚悟、覚えてるな?」
「……たりめーだ……っと、そうだ。瑠璃。これ、餞別な。なんかあったら使ってくれ」
 瑠璃に火炎瓶を一本投げ渡す。
「っと……ええの?」
「ああ。どうせ数あったってしょうがねえ」
「分かった。もらっとく。……生きて帰ってくるんやで。みんな」
「おう」
「うん」
「にはは」
「ああ。いってくんぜ」
 大丈夫だ。腹は痛いがまだ動ける。戦える。絶対生きて帰ってやるぜ。なぁ、みさき?

477命を繋ぐか細い糸:2008/03/28(金) 01:18:07 ID:lyGUT/is0
【時間:二日目17:20頃】
【場所:I-5】
【備考:家に待機】

姫百合珊瑚
【持ち物:デイパック、水、食料、フラッシュメモリ、工具箱、HDD】
【状態:対主催者情報戦争中】
【備考:主催者の仕掛けたHDDのトラップ(ネット環境に接続した時にその情報を全て主催者に送る)に気付く。選択して情報を送れるプログラムを作成。ワーム製作約8割】


姫百合瑠璃
【持ち物:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数3、レミントン(M700)装弾数(5/5)・予備弾丸(12/15)、火炎瓶、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:守る覚悟。民家を守る】

向坂環
【所持品:なし】
【状態:左側頭部に重大な打撲、左耳の鼓膜破損、頭部から出血、及び全身に殴打による傷(以上手当て済み)、布団に移されている。昏睡】

【時間:二日目17:20頃】
【場所:I-5】
【当面の目的:聖を連れ帰る】

藤田浩之
【所持品:フラッシュメモリ(パスワード解除) 、珊瑚メモ、包丁、殺虫剤、火炎瓶】
【状態:守る覚悟。腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】

川名みさき
【所持品:包丁、ぼこぼこのフライパン、支給品一式、その他缶詰など】
【状態:健康】

相沢祐一
【持ち物:ワルサーP5(6/8)、包丁、支給品一式】
【状態:右足甲に打ち身(手当て済み)】

神尾観鈴
【持ち物:なし】
【状態:脇腹を撃たれ重症(手当て済み、表面上血は止まっているが重態)】

478幸せな固執:2008/04/08(火) 23:21:38 ID:yrmGipuE0
頭に走る鈍い痛み、氷上シュンが目を覚ました原因はそれだった。
ぼやけるシュンの視界に緑が入り込む。頬を撫でる風で動くそれが、シュンの現在位置を表していた。

(ここは……)

深夜、シュンは太田香奈子と共に鎌石村小中学校を目指し移動をしていたはずだった。
しかし今シュンの目の前に広がる世界に、深夜特有の暗さは存在しない。
爽やかな空気が演出しているのは、間違いなく早朝を表す時間帯である。
……いつの間にか、眠っていたというその事実。
寝起きのシュンは、まずそれに自覚という物を持てずにいた。

「氷上君、起きた?」

寝っ転がったままのシュンの頭に被さるような形で、その影は落ちる。
逆行で面影を確かめることはできないシュンだったが、さらりと揺れる髪の動き相手を悟ることは出来るだろう。
ゆっくり瞬きを繰り返し視界を正常に戻した後、シュンは彼女の名前を呼んだ。

「太田さん……」
「びっくりしたわ。氷上君、走ってる途中でいきなり倒れちゃったんだもの」

ああそうかと、シュンはここでやっと今自分の身に起きた事態を想像することができた。
体の弱いシュンにとって、昨日一日で蓄積された疲労というのも決して少なくはなかったのだろう。
肉体面もあるが、精神面でのダメージも強かったかもしれない。
シュンは突然気を失ってしまう程弱っていた自身の状態の変化に、全く気づかなかった。
それで一番迷惑がかかったのはシュン本人ではない。間違いなく、同行者である彼女だ。

「ごめん、僕……」
「気にしないで。体が弱いっていうのは聞いていたことだから」

479幸せな固執:2008/04/08(火) 23:22:00 ID:yrmGipuE0
シュンの苦笑い混じりの言葉を、香奈子はしっかりとした声で遮った。
物怖じしないその様子には、本来は気さくなのであろう香奈子の性格が窺える。
必要以上の遠慮を拒む今の香奈子には、島に来た際にあった虚ろな空気は存在しなかった。
シュンを手伝うという明確な指針があるのも原因なのかもしれない、学園でも生徒会副会長を務めていた香奈子だ。
やり遂げなければいけない仕事というものが分かっている以上、彼女の本来の真面目さがそこに発揮されるのも至って自然なことだった。

「体、そんなに悪いの?」
「はは、お世辞にもいいとは言えないね」

ゆっくり上半身をもたげようとするシュンに、香奈子の手がすかさず差し伸ばす。
そっと柔らかな香奈子の手を握り返し、シュンはそのまま彼女の力も少し借りながら立ち上がった。

「あの、氷上君」
「何だい?」

おぼつかなくなりそうな足取りを気にし、シュンがつま先で地面を確かめている時だった。
何か言いたげにしている香奈子の表情は少し曇っている、ちょっとした彼女の変化にシュンは小首を傾げ言葉の先を促した。

「あなたが目を覚ます少し前……ちょっと、この辺りを見てきたの」
「一人でかい? 危ないよ、それは」
「そこまで離れていた訳じゃないわ、大丈夫。迂闊なことをする気はないもの」

シュンが眉をしかめた所ですかさず香奈子もフォローをかけるが、それでシュンの持つ全ての不安が拭われることはない。

「ちょっと、気になることがあって。あなたを休ませるにも、ここが本当に安心できる場所か確かめたかったのよ」
「太田さん……」

しかしそう言われてしまうと、シュンは何の意見も出せなくなってしまう。
シュンは、自分を気遣ってくれている相手の物言いを無下に扱えるような人格ではなかった。

480幸せな固執:2008/04/08(火) 23:22:21 ID:yrmGipuE0
「それで氷上君。その、ちょっと……来てくれる?」

言葉を濁しながらシュンの返答を待つことなく、香奈子は先導を切る形で歩き出そうとする。
置いていかれないよう、そのすぐその後ろをシュンがつけた。香奈子が振り返る様子はない。
……何か、あったのだろうか。
言葉を発しない香奈子の背中を見つめながら、シュンは無言で足を動かした。

香奈子の足が止まるのに、そう多くの時間はかからなかった。
ちょっとした繁みを抜け現れたのは歩道と思われる空けた場所、目立つ地に伏せているのは服装から少女だろうか。
少女は、先ほどのシュンと同じように寝転んでいた。
目に見える外傷等痛々しい姿を持った少女だが、その口の隙間から漏れる呼吸音は確かな命の証であり、生命が途絶えていないことだけはシュンにもすぐに窺える。

「この子は?」
「分からないわ。目立つ足音が聞こえて、気になって様子を見に来てそれで……」
「太田さんが来た時には、もう倒れてたってことかい?」

すかさず入ったシュンのフォローに、香奈子はこくりと頷き同意を表した。
前のめり、うつ伏せの状態で気を失っているらしい少女。
背格好からシュンや香奈子とも、そう歳は離れていないだろう。
シュンの隣、立ち尽くすような形で少女を見下す香奈子の顔に浮かんでいるのは、無表情に近いものだった。
目に入ったそれに内心驚くものの、シュンは特に言及せず一人屈み込み少女の様子を確かめだす。
……うつ伏せになっていた少女の体を仰向けにし状態を確認しようとしたところで、シュンは彼女の異変に気づいた。
いや、それは本来臭いなどの部分から察しなければ行けない事柄だったかもしれない。

刻まれた服、そこから覗く白い肌には赤や青などの痣ができている。
黒のブレザーにこびり付いた白い染み、べたつくそれは撫で付けるように彼女の体のいたる所にも付着していた。
拭われた形跡は見当たらない内股にも、それと同じような液体や血液が走り去った跡がある。

痛々しい暴行の痕跡は、少女の幼い容姿や体つきをさらに助長させるような厳しさを持っていた。
無言。シュンは少女に対しどう接すればいいのか分からず、思わずその動きを止めた。

481幸せな固執:2008/04/08(火) 23:22:43 ID:yrmGipuE0
「私はこんな子知らないわ。助ける義務もないと思ってる」

はっきりとそう口にしたのは、シュンの隣でいまだ立ったままである香奈子だった。
シュンが見上げた香奈子の表情は、彼が目覚めた時と同じように逆行が遮っていて窺うことはできなくなっている。
先ほどは無表情だった、香奈子のそれ。
しかしシュンは、そこに別の表情を思い描いていた。
香奈子の声色から想像するシュンの見た表情、それは ――

「でも、放っておけなかったのよ。無理なのよ、こんな……こんな状態、見せられちゃ……」

表情の見えない香奈子の髪が、ふわりと揺れる。
それは香奈子がシュンと同じよう、少女の傍に屈みこんだからである。
一気に近くなった香奈子との距離、隣にいるシュンの視界に彼女の横顔が入り込む。
見えなかったそれが、シュンの目の前に現れた。
目元を歪め苛立ちを噛み潰すよう強く唇を噛んでいる香奈子は、今にも泣きそうになっていた。
痛々しいそれの反面、そのままゆっくりと少女の太ももを撫でる香奈子の手つきは非常に優しいものである。

今、香奈子は陵辱された少女の体を見てかつての自分を思い出していた。
好きだから、受け入れたということ。
愛しているから、痛みさえも喜びに変えていこうと努力していたこと。
しかしそれでも、どこか拭えない虚無感は常に香奈子を襲っていた。
香奈子は見ない振りをしていた。
し続けていた。
それで縛れるものなら容易いことだと、そう思っていた。
思い込んでいた。

「太田さん、君はこの子を助けたいんだよね」
「……」
「僕も同じ気持ちさ。きっと、その思いには違いはあるだろうけどね。
 僕は君じゃない、だから君の思いは分からない。考えることはできても、それは憶測に過ぎない」
「……」

482幸せな固執:2008/04/08(火) 23:23:05 ID:yrmGipuE0
シュンの言葉を噛み砕きながら、香奈子はゆっくりと瞳を閉じた。
理解していくごとにどんどん温まっていく胸の内、まるでシュンの言葉は魔法のようだという錯覚すら、香奈子は覚えそうになる。
こんな気持ち、香奈子は初めてであった。
月島拓也と関係を持っていた時間、あの熱さを香奈子自身忘れた訳ではない。
しかしそれとは別種のこの温度は、あくまで優しく、柔らかく、そして一切の棘も存在しない。
こんな甘い世界に対し、香奈子はあまりにも不慣れだった。
不思議としか言いようがない。比べることすら違いすぎ、できるはずもないだろう。

「今は、それだけでいいと思う。太田さんは太田さんのやりたいように、すればいいんだと思う」

瞳を開け改めて見るシュンの表情に、香奈子は一瞬言葉を失った。
ばつの悪さすら感じてしまう邪気の無さ、シュンのそれに香奈子は戸惑いが隠せない。

「この子を拾っても、足手まといになることは目に見えているわ」
「それなら僕等がフォローすればいいじゃないか」
「……この子のせいでもし氷上君に何かあったら、私はこの子を殺すかもしれない」
「はは。なら太田さん、せっかくだし僕を守ってくれないかい?」

予測していなかったシュンの回答に、思わず香奈子も目を丸くする。
そんな香奈子が微笑ましかったのか、シュンも小さく破顔した。

「そして僕は太田さんを守る。この子も守る。ほら、これならいいんじゃないかな」
「何よ、それ……」
「あはは。いざ実際に何か起きないと分からないってことだよ、太田さん。
 それなら今やりたいと思うことを優先させた方がいい。後悔しないためにもね」

最後、引き締まったシュンの瞳には口先で述べている甘さが含まれていなかった。
氷上シュンは不思議な少年だ。
優しさや甘さが目立つ、この島で長生きするためには持つことが許されない性格のくせに、時々意味深なことを口にしたり世界の儚さを嘆くような物言いをする。
どこかミステリアスな所も垣間見れるシュンの隣に香奈子は約一日いたことになるが、それでも彼の全容を彼女は掴んでいなかった。
もっと彼のことが知りたいと。純粋に、香奈子はそう思っていた。
一言で表せば好奇心と呼ばれる感情、その奥底に存在する欲望が恋情に繋がるかはまだ香奈子自身図りかねている所がある。
それでもシュンの言葉を使い、香奈子が「今やりたいと思うことを優先させる」とするならば。

483幸せな固執:2008/04/08(火) 23:23:41 ID:yrmGipuE0
「ごめんなさい氷上君、五分だけ頂戴。五分だけ、あなたの時間を貸して」

シュンの返答を待つことなく、香奈子は勢いのままシュンの胸倉を引き寄せそこに顔を押し付けた。
当初シュンが着用していたセーターは河野貴明の元に置いてきている、シャツごしに伝わるシュンの温度は香奈子が想像していたよりもずっとリアルに伝わってくるだろう。
筋肉の硬さも贅肉の柔らかさも感じないシュンの病的に骨ばった胸板、しかし今の香奈子にとってはどこよりも安心できる場がそこだった。
それと同時に感じるせつなさに酔う前に、香奈子は願いを口にする。

「五分だけ、思いっきり抱きしめて」

断ち切ったはずの月島拓也への思い。
それでもあっさりと過去を切り捨てられるほどの強さを、香奈子は持っていない。
そんな軽い執着でもない。
そんな香奈子の前に現れた光景は、過去の自分を彷彿させるものだった。
簡単に表そう。彼女の奥底にあるのは、ちょっとした不安にすぎない。
その不安が彼女の精神を軽い混乱に陥らせようとし、疲弊させた。
しかし今、それら全ては解消されることになる。

ゆっくりと回されたシュンの腕、その居心地の良さが香奈子のそれを消していった。
安心という言葉の意味を、ここにきて再び香奈子は痛感した。





ちょうど香奈子が落ち着いた頃だろうか。
第一回目の放送が行われ、二人は放送にて呼ばれた人数に唖然となる。
幸いシュンの会うことが目的となっている人物等はまだ生存しているらしいが、それも時間の問題だろう。

「この先に学校があるのは確かだと思う。当初の予定通り、まずはそこに行こう」
「ええ」

484幸せな固執:2008/04/08(火) 23:26:02 ID:yrmGipuE0
シュンの言葉に頷く香奈子の表情には、僅かな陰りがあった。
月島瑠璃子。
聞き覚えのあるその名前は、当初香奈子が自らの手で消すことも厭わないと考えていた人物のものである。
月島拓也を振り切った今、特別彼女に手を出そうという考えは香奈子の中にもなかった。
しかしいざ瑠璃子の死を知るとなると、香奈子も心中複雑になってりまうのは仕方のないことかもしれない。
気持ちを入れ替えるよう小さく首を振り、香奈子は一人気合を入れる。
今自分が固執すべき事柄を考えた上での行動、ちょっとした香奈子の変化がそこにはよく表れていた。






氷上シュン
【時間:2日目午前6時】
【場所:D−6】
【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】
【状態:由依をつれ、香奈子と共に鎌石村小中学校へ向かう、祐一、秋子、貴明の探し人を探す】

太田香奈子
【時間:2日目午前6時】
【場所:D−6】
【所持品:H&K SMG Ⅱ(残弾30/30)、予備カートリッジ(30発入り)×5、懐中電灯、他支給品一式】
【状態:シュンと同行】

名倉由依
【時間:2日目午前6時】
【場所:D−6】
【所持品:カメラ付き携帯電話(バッテリー十分)、破けた由依の制服、他支給品一式】
【状態:気絶、ボロボロになった鎌石中学校制服(リトルバスターズの西園美魚風)着用、全身切り傷と陵辱のあとがある】
【備考:携帯には島の各施設の電話番号が登録されている】

(関連:395・869)(B−4ルート)

485十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:40:04 ID:m9uMag2.0

死は穢れだ。骸は穢れの塊だ。
ならば僕の生きるこの場所は、既にして祝福から見放されている。

屍の折り重なる山の上、久瀬少年はそんなことを考えて、一瞬だけ目を閉じる。
吸い込んだ空気は生臭く、鉄の味がした。

瞼を開ければ、そこにあるのは骸と命の斑模様。
重く、冷たく、ぬるりとした一人が、一万、積み重なった山の上。
盤上に並ぶのは七千の駒。
着手するのは混乱した戦局の建て直し。

細く、長く息を吐く。
第一に考えるべきは指揮系統の再統一。
第二には防御陣の再構築。
そして第三に、死なせるべき五千の兵と、守り抜く二千の兵の選別だ。
残り四十分、二千四百秒。
一秒に二人、少女は死ぬ。
三人めの命だけを守るのが、将としての役割だった。
すべての命を、平等に活かす。
活かした上で、生と死に振り分ける。
それが久瀬の道。
抗いぬくと決意した、少年の歩む道だった。

拳を握る。震えはなかった。
跳ね上がる心臓の鼓動を、感覚から切り離す。
将としての久瀬が最初に殺したのは己の脈動であった。
軍配はない。
だから少年は、握った拳を打ち振るう。
その手の先に、覚悟を乗せて。

無作為に蠢いていた七千の砧夕霧が、動きを止める。
僅かな間を置いて動き出した少女達の挙動には、明らかな統制が見てとれた。
一つの意思の下、七千の少女達が寄せては返す波の如く、あるいは堅固な壁となる如く動き出す。
有機的に連動したその動きは、まるでそれ自体が山を包む巨大な一つの生き物であるようだった。

将の下、兵たちの反撃が始まった。


******

486十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:40:29 ID:m9uMag2.0

「……チッ」

舌打ちして吐いた唾は赤く、苦い。
返り血が唇を伝って口に入ったものか、それともどこかが切れているのか。
かき上げようとした髪は乾いた血がこびりついて指を通さない。
苛々とした気分を隠そうともせず、手にした薙刀を振り下ろす。
横たわった遺体の力の入っていない肉を両断する、鈍い感触が返った。
風を切るように振れば、不可視の力に包まれた刃は血脂を綺麗に弾く。
刃こぼれ一つない凶器に己の顔を映して、その返り血で赤黒く斑に染まった醜い肌に眉を顰め、
天沢郁未はその苛立ちをぶつける相手を探すように左右を見回す。
だが、刃の届く範囲に立つ影は一つだけだった。

「面倒なことになってきましたね」

突き立てた喉元から分厚い刃を引き抜きながら、影が口を開く。
鹿沼葉子だった。
動脈から噴き出す鮮血が顔に飛ぶのを避けようともしない。
長い金髪から茶色の革靴に至るまで、その全身が既に見る影もなく返り血に染め上げられていた。
新たなペイントがその身を汚していくのにも構わず、葉子は静かに山道を見上げる。

「ハナっから面倒だらけよ、私らの人生」
「中でもとびっきりです」
「そりゃひどいわ。……で?」

茶化すように問いかけた郁未だが、その瞳は一切の笑みを浮かべていない。
生まれ落ちた瞬間からそうであったような仏頂面のまま、葉子が答える。

「気付いているでしょう。……また、動きが変わった」
「戻った、の間違いじゃない?」
「かもしれません」

辺りを見渡す葉子の視界に、郁未の他には動く影が見当たらない。
殺し尽くした、という意味ではなかった。
確かに死体は無数に転がっていた。
中に詰まっていた血と臓物を存分に拡げて、世界と女たちを赤く染め上げていた。
転がる死体。
だが葉子の視線の先には、もう一種類の死体があった。
見開いた目を四方八方に向け、折れた手足を老木から伸びた枯れ枝のように突き出したそれは即ち、
山と積まれた、誰かの手によって積み上げられた、死体の壁だった。
そんな死体の壁が、十、二十、否。百を越える数で、山道のいたるところに存在していた。

487十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:41:06 ID:m9uMag2.0
「完ッ全にイカレてるわね」
「単なる狂気の沙汰であればよかったのですけれど」

壁の向こうに蠢く無数の気配を、葉子は感じている。
こびりついた血が乾き、固まった髪をばりばりと掻き毟る郁未も、それは理解していた。

「放棄したように見えた防禦拠点を、数分の間を空けてまた利用しだした。
 ……そこに何か意図があるのでしょうか」
「死体で作ったトーチカに篭るような連中が何考えてるかなんて、私にはわかんないけど」
「私にも分かりませんよ。有益な推測ができればと考えただけです」
「で、我らが頭脳労働専門家さんの回答は?」
「進めよ、されば与えられん」
「何よそれ」
「断片的な情報は往々にして安易な、自分に都合のいいストーリーを作り出すものです。
 推論の皮を被った妄想を根拠に動く愚挙を避けたまでのことですが」

さらりと告げられる相方の言葉に、郁未は深く嘆息する。

「……ま、いつも通りだけどね」
「さし当たっては一つづつ潰していくしかないでしょう」
「間に合うの?」
「間に合わせてください」
「他人事みたいに……」
「全員が当事者ですよ。蒸発したくなければ頑張ってください」
「はいはい……」

小さく首を振った郁未が、前方を見もせずに跳躍した。
葉子は既に飛び退っている。
それより一瞬だけ遅れて、二人の立っていた場所に熱線が着弾していた。
跳んだ先にある死体の壁を、郁未は思い切り蹴り崩す。
雪崩を起こした山の一番上にあった少女の骸を無造作に掴むと、

「せえ……のッ!」

勢いをつけて、投擲した。
手足を広げた格好のまま、少女の遺体が回転しながら飛んでいく。
その軌道の先にある、生きた少女の篭る死んだ少女でできた壁に、人としての尊厳を奪われた骸が激突した。

「ストラーイクッ!」

篭った少女が崩れた山の下敷きになって、光芒が途切れる。
その一瞬を逃すことなく相方が駆け出すのを目にして、郁未は牙を剥くように笑う。
笑いながら、転がる骸の一体を盾代わりに掲げ、自らもまた走り出していた。


******

488十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:41:27 ID:m9uMag2.0
 
朗、と巨獣が猛っていた。
その堂々とした体躯のあちこちから薄く煙が上がっている。
よく見れば白く煌めく剛毛の先が、小さく焦げているのだった。
新たに奔った光線がその身体を焼くのに巨獣は鬱陶しげに身を振って、光線の出所を睨む。

轟、と一つ啼いて、巨獣の体躯が跳ねた。
鋼の如き後ろ肢に力を込めて大地を蹴れば、それは既に巨獣の間合いだった。
がぱり、と開いたその口腔が音を立てて閉じる。鈍く濡れた音がした。
少女、砧夕霧の首を事も無げに噛み千切った巨獣が、次なる獲物を仕留めるべく丸太のような首を回す。
しかし、そこには既に動く影とてなかった。
無数に蠢いていたはずの夕霧はまるで波が引くように逃げ去り、既に巨獣の爪が届く場所にはいない。
代わりとばかりに四方から光線が迸り、巨獣を焼いた。
刃を通さぬその剛毛が、ほんの僅かづつではあるが黒く焦げ、ちりちりと縮れていく。
苛立たしげに唸り声を上げた巨獣が疾駆し、爪を振り上げる。
風を巻いて振り下ろされた爪の一撃に、夕霧たちの隠れていた死体の壁があっさりと突き崩される。
衝撃で四肢をばらばらにされながら四方に散る骸には目もくれず、巨獣が壁の裏に隠れていたはずの夕霧を叩き潰すべく、
その鼻面を瓦礫のように積み上げられた死体の山に突っ込む。
が、一瞬の後にその生臭い牙が探り当ててきたのはただの一人だった。
乱暴に引きずり出された際に肩を脱臼したか、腕を噛まれたままだらりと垂れ下がるようにしている砧夕霧を見て、巨獣が猛る。
ばつん、と音がして、夕霧の腕が胴体と泣き別れた。
噴水のように鮮血を噴き出す胴を踏みつけるようにして爪を下ろせば、そこにはかつて人であった肉塊だけが残っていた。

轟、と巨獣が再び吠えた。
思い通りにならぬ苛立ちが、その爛々と光る眼に隠しようもなく浮かんでいる。
ほんの数刻前から、一事が万事この調子であった。
巨獣の行く先に蠢く無数の影が、ある一点を境にして急速に厄介な存在へと変わっていた。
噛み裂き、叩き潰し、薙ぎ払えば済むだけの存在であったものが、今やひどく鬱陶しい。
駆け抜けようとすれば寄って集って足元を狙われ、食い千切ろうと駆け寄れば蜘蛛の子を散らすように逃げ去る。
一体、二体を仕留めてもどこから涌くものか、まるでその数を減らしたように見えぬ。
猛るままに大地を掻き毟れば、先刻踏み殺した一体の躯が泥と混じって磨り潰され、ぬるぬると滑って余計に苛立ちが増す。
言語にならぬ怒りに突き動かされ、獣の咆哮が辺りを揺らす。
焦燥と憤怒の入り混じった咆哮に、応えるものがあった。

ひう、ひう、と。
それは、病に伏した者の喘鳴のようだった。
一息ごとに生きる力とでもいうような何かが抜けていくような、そんな音。
呼吸というにはあまりにか細く薄暗い、生命活動の残滓。

死臭に満ちた山の上でなお濃密な、どろりと濁った血の臭いに巨獣が振り向く。
そこに、妄執が立っていた。

 ―――返せ、わたしの、宝珠。

言葉にはならぬ。
どの道、言葉を発したところで巨獣には解せぬ。
だが、ぼこりと紫色に腫れ上がった皮膚で片目を覆われ、だらだらと血膿を垂らしながら
なお巨獣を貫き通すように向けられたその醜くも鋭い眼光は、どんな言語よりも明確に、
そう語っていた。

三度、獣が吠えた。
逃げ去らぬ獲物が現れたのを悦ぶような響きが、その咆哮に満ちていた。


******

489十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:42:02 ID:m9uMag2.0
 
いける、と思う。
知らず頬が笑みを浮かべようとするのを、久瀬少年は必死に抑える。
それほどに確かな手応えが、久瀬にはあった。

北麓、及び西山道における遅滞戦術は極めて有効に機能していた。
射線を集中し侵攻ラインを限定した上で、潰されるべく配置した兵と陣だけを潰させる。
大切なのは一気に浸透させないこと。
たとえ一対多であろうと近接戦に持ち込まないこと。
持ち込まれた兵を、犠牲として活用すること。

一瞬だけ胸の中に生じた棘を、久瀬は奥歯を噛み締めて無視する。
誘導に成功した敵侵攻ラインからは一気に山頂を目指せない。
ひとたび山道から外れれば、険しい山中は天然の要害だった。
無数の遮蔽物は敵の浸透を阻止し、こちらの遠距離砲撃を有利に機能させる。
反撃開始から三分、百八十秒。
予想を下回る犠牲者数で戦局は推移していた。
残り三十七分を耐え抜き、勝利を得るだけの計算が、久瀬にはあった。
初陣であり、学生に過ぎぬ自分の指揮で勝利を得る。
思い通りに兵を動かすことの喜びが、久瀬の心中を駆け巡っていた。

高揚を抑えながら、久瀬は傍らに控える砧夕霧群の中心体を見やる。
共有意識による情報伝達は作戦の要だった。
目視では掴みきれぬ情報も、彼女がいる限り久瀬の掌中に集約されるといってよかった。
得られた情報を地図上に反映させ、そこから陣を展開していく。
一手、一手。無数の教本や戦訓を頭に浮かべながら、的確に対応する。
久瀬にとって、それは正しく盤上の勝負に等しかった。
詰めば喪われるのが生命であると、本当の意味で理解していたかどうかは定かではない。
久瀬は将であり、学生であり、そしてまた少年だった。
決意によって立ち上がり、覚悟によって将となった、彼は少年であった。

夕霧群の中心体から齎された情報を咀嚼し、久瀬が新たな指示を出すべく腕を振り上げた。
大きな身ぶりとともに声を張り上げようと、口を開き―――刹那、闇が落ちた。
視覚が、触覚が、聴覚が、嗅覚が、ありとあらゆる感覚が、途絶した。
意識も、思考も、何もかもが消えた。
後には何も、残らなかった。


久瀬少年の人生は、そこで終わっている。

490十一時二十分(1)/Sense Off:2008/04/09(水) 14:42:57 ID:m9uMag2.0
 
 
【時間:2日目 AM11:23】
【場所:F−5】

久瀬
 【状態:死亡】
砧夕霧コア
 【状態:健康】
砧夕霧
 【残り6708(到達・6708)】
 【状態:迎撃】

【場所:E−5】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰・不可視の力】

【場所:F−5】
川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体、軽傷(急速治癒中)】
深山雪見
 【所持品:牡牛座の黄金聖衣】
 【状態:出血毒(左目喪失、右目失明寸前)、激痛、意識混濁、頭部強打、
       肋骨数本及び両手粉砕骨折、ムティカパLv1】

→915 943 962 ルートD-5

491十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:32:27 ID:2LxlvcbQ0

「北麓の二人は鎖場で止める! 融合体を中心に当たれ、砲撃を集中して敵を分散させるな!
 西側、敵を直接狙うな、山道を崩せ! 相手は四つ足だ、崖下に誘い込んで動きを封じろ!」


******


風が、少年の張り上げる声を微かに運んでくる。
その声を背中で受けながら、銀髪を靡かせた男が静かに口を開いた。

「教科書通りだが、的確だ。あれはきっとよい将になる。
 ……貴様はどう思う、来栖川綾香」

男の正面に立った影、しなやかな身体をぴったりとしたボディスーツに包んだ女は、
口の端を上げて答える。端正な顔立ちの中、鼻筋は青黒い痣に覆われて痛々しい。

「今は気分がいい。呼び捨ては見逃してやるよ、白髪頭」

笑みの形に歪められたその瞳の色は、魔の跋扈する夜に浮かぶ月の如き真紅。
白を基調にしたボディスーツの両腕はその肘あたりで内側から裂けたように破れている。
肘から先、前腕から手首、指先に至るまでのシルエットは、常人のそれではない。
丸太のように肥大した腕を包むその皮膚は黒くごつごつと罅割れた、大型の爬虫類を思わせるそれに変質しており、
節くれ立った指先からは瞳の色と同じ真紅の爪が、刃の如き鋭さをもって長く伸びていた。
異形、と呼ぶに相応しいその姿を目にしても、対峙する銀髪の男、坂神蝉丸は眉筋一つ動かさない。
ただ一言、告げたのみである。

「手負いで俺に勝てるつもりか、来栖川」

言われた綾香が、笑みを深める。
獰猛とすら見える、歓喜と殺意に満ちた笑顔だった。
蝉丸の言葉は綾香の顔に刻まれた痣や傷に向けて放たれたものではない。
綾香の歩む姿、その体捌きや重心移動の中に深刻な異常を見て取ったものであった。
事実、綾香の身体は通常であれば歩くことすらままならないほどの打撃を受けている。
苦痛にのたうち、そのまま死に至っても決しておかしくはなかった。
それを鍛錬と、そして何より薬物の力によって無視し、綾香は歩を進めていた。

「言うなよ、可愛い後輩の餞別にくれてやった傷だ。もっとも―――すぐに気にならなくなる」

492十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:32:50 ID:2LxlvcbQ0
何かを見せ付けるように、綾香が片手を差し出してみせる。
どこから取り出したものか、長い爪の先に細長い筒状の物が挟まれていた。
注射器であった。中には薄い黄色の液体が満たされている。
一瞥して、蝉丸が鼻を鳴らす。

「それは……上級士官に支給される、自決用の薬物か」
「よく知っているじゃないか、下士官風情が」
「今にして思えば愚の骨頂だ。誇りを捨てぬための自刎を薬で汚そうというのだからな」
「自分が見捨てられたらイデオロギーの全否定か? 救えないな転向者」

嘲笑うような綾香の言葉にも、蝉丸が表情を動かすことはない。
そんな蝉丸に哀れむような視線を向けながら、綾香は手にした注射器を軽く振ってみせる。

「勘違いするなよ。こいつは確かに最後の一手だが……別に自決用ってわけじゃない。
 軍人は戦って死ね、一兵でも多く道連れにすれば軍神の列に加われる……。
 そんな、カビの生えた教本の一節をイカレた国粋主義者どもが寄って集って形にしたもんさ」

来栖川という、国家の中枢に食い込む家名を背負った女が微笑すら浮かべながら言う。
或いは、その微笑は己が欺瞞に向けられたものであったのかもしれない。

「で、だ」

軽口を叩くように、綾香が口を開く。

「こいつを、こうする」

それはまるで、女学生が菓子を口に運ぶような気軽さだった。
注射器の針が切り揃えられた短髪の下、来栖川綾香の白い首筋に突き立てられていた。
無造作に押し込まれるピストンに、薬液が体内に流れ込む。
ほんの一瞬、綾香の全身がびくりと震えた。

493十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:33:18 ID:2LxlvcbQ0
「……」

暴挙を目にしても微塵も揺らがぬ蝉丸の冷厳な眼差しが綾香を貫く。
その眼前、奇妙に甲高い音が響いていた。
俯く綾香の、呼吸音であるようだった。
熱病にうなされる末期の病人の漏らすような、或いは内圧に軋みを上げる蒸気機関のような、それは音だった。
やがてゆっくりと、甲高い音が収まっていく。
最後に一つ、長い息を漏らして、音がやんだ。

「―――ほぅら、もう、痛くない」

言って顔を上げた、その綾香の容貌に、さしもの蝉丸が小さく眉根を寄せた。
その整った、美しいといっていい細面の、左半分。
鼻筋を境にしたその全面に、異様な紋様が描かれていた。
張り巡らされた蜘蛛の巣のような、緻密な刺繍のような、赤一色の複雑な紋様が、
綾香の額から目元、頬から口元、顎までを覆っていた。
否、よく見れば内側から暗く光を放つようなその赤は、浮き出した血管であった。
麗しかった来栖川綾香のかんばせは今やその半分が、醜い血管の迷宮に覆われていた。
元が整っていただけに、それは醜悪を通り越した、異相であった。
赤の支配する貌の真ん中で、ぎょろり、と真紅の瞳が動く。

「さあ……始めようか、白髪頭」

牙を剥いて笑むそれは、人妖の境を踏み越えた、異形であった。


***

494十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:33:55 ID:2LxlvcbQ0
 
大地を這う蛇の如く身を低くした姿勢から綾香が疾走を開始する。
対する蝉丸は腰に佩いた一刀の鯉口を切り、刃を外に捻じり向けた居合の構え。
人外の速さで迫る綾香を迎え撃つ。
疾風とすら見紛わん勢いの綾香が間合いに踏み込んだ刹那、銀弧が閃いた。

「チィ……!」

舌打ちは神速の抜刀を見せた蝉丸である。視線は上。
横薙ぎの一閃が奔った刹那、綾香が跳躍していた。
瞠目すべきは見切りの疾さ、そして何よりその高さである。
人の背を越える高さを、足の力だけで跳び上がっている。
ましらか猩々か、いずれ妖の類としか思えぬ反応であった。
見上げた蝉丸の眼が反射的に細められる。
中空、跳び上がった綾香に背負われるようにして、日輪が輝いていた。
抜き放った一刀の切っ先を強引に捻じろうとするが、到底間に合わぬ。
咄嗟に抜刀の勢いのまま身を投げ出すようにして前転、頭上から迫る真紅の爪を辛うじて躱した。
膝立ちになるや、蝉丸は刀を水平にして頭上に掲げる。
直後、硬い音が響いた。刃と爪の交錯する音だった。
綾香の姿は蝉丸からは見えぬ。
背を向けたままの受けは踏んだ場数の賜物である。

「オォ……ッ!」

裂帛の気合と共に、刃で受けた五本の爪を、下から体重をかけて弾き飛ばす。
刹那、立てた膝を支点として半身を捻じる。
視界の端に映った影を薙ぐように斬撃を走らせた。
腰を落とした姿勢とはいえ、柄頭に左手を添えた重みのある一撃である。
それを、

「遅いな、白髪頭!」

綾香は余裕を持ったバックステップで避ける。
距離の開いた機を逃さず立ち上がった蝉丸の顔には、僅かに驚愕の色が浮かんでいた。
それを見て取り、綾香が嘲るような声を上げる。

495十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:34:29 ID:2LxlvcbQ0
「どうした強化兵、ノリが悪いな」
「……一つだけ問おう」

白刃を陽光に煌めかせながら、蝉丸が綾香を見据えて口を開く。
砂埃の混じった風を受けるその顔は既に巌の如き無表情に戻っている。

「聞いてやるよ白髪頭、言ったろ? 今は気分がいい」
「……國の礎となるべき者が、何故、人を捨てる」

重々しく放たれた問いに、軽口を叩いていた綾香の表情から笑みが消えた。
その半面に朱い蜘蛛の巣模様を浮き上がらせ、真紅の瞳を見開いた異相が、真っ直ぐに蝉丸を見返す。

「つまらないことを聞くな」

白昼、その身の周りにだけ夜が訪れたような、それは昏い声音だった。
ざわり、と切り揃えた髪が揺れる。
擦り合せた異形の爪が、しゃりしゃりと耳障りな音を立てた。

「お前に―――お前に勝つ為だろう、坂神蝉丸」

その名を呼ぶ。
砂塵に塗れた旅人の、冷たい水を渇望するような。
一人祈る乙女の、恋しい男の名を呼ぶような。
暗い死の淵に、永劫の怨嗟を込めて呟かれる呪のような。
それが来栖川綾香の、真実、唯一つの言葉だった。

「……そうか」

国家と天秤にかけられた男はただ一言、そう漏らすと、手にした一刀の刃を返す。
ぎらりと、白刃が煌めいた。

「ならば、是非も無い」

496十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:35:03 ID:2LxlvcbQ0
踏み込む。
瞬時に詰めた間合いから閃くのは、下段から伸びる切り上げ。
綾香の左胴を切り裂くかに見えたそれは僅かに届かない。
身を引いた綾香に躱されている。
が、そこまでは蝉丸とて予想の範疇だった。
体を止めず、奥足を踏み込んでの二の太刀は逆袈裟の切り下ろしである。
一太刀めは囮であった。
体勢の流れた綾香には、二の太刀を更に下がって躱すことができぬと踏んでの斬撃である。

「ナメるな……っ!」

硬質な音と共に、綾香がその爪をもって刃を受ける。
しかし蝉丸は刃を引かず、更に体重をかけていく。
鬼の手を持つ綾香は今や、腕力においては己よりも遥かに上であると蝉丸は判断していた。
だが同時に、命のやり取りは腕力のみにおいて決するわけではないということも蝉丸は理解している。
体勢の差、重心の差、そして体重の差を利用した鍔迫り合いに持ち込んだのも、そうした意識と
無数の経験との上に成り立つ戦術であった。
じりじりと近づく刃に、綾香がたまらずもう一方の手を添える。
両の爪を十字に交差させる、堅い受けである。
押しやられる一方だった刃が、ぴたりと止まった。
力と力の鬩ぎ合いの中、蝉丸が言葉を漏らす。

「大義を忘れ妄執に拘る……、貴様のような輩が國を惑わすのだ……!」

ぎりぎりと、音を立てそうな鍔迫り合いの最中である。
冷厳を以ってなるその声にも、常ならぬ激情が篭っていた。

「ガキを担いで……! 人形遊びが、お前の大義か……!」

受ける綾香の瞳は杯に鮮血を満たしたように紅い。
その瞳には紛れもない嘲りと、そして憤激が浮かんでいた。

497十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:35:53 ID:2LxlvcbQ0
「義を見失うのが國ならば、俺は俺の義を貫くまでだ……!」
「他人を、巻き込むなって話……だろう、がっ!」

言い放つと同時、綾香が全身の撥条を使って体を捻じる。
鬩ぎ合う力を横に流そうとする試みは成功した。
流れた白刃が綾香の左肩、その皮膚を浅く削いだが、それだけである。
体勢を崩され、無防備な脇を見せた蝉丸に向けて綾香の横蹴りが放たれる。
上体捻じった勢いを加算した重い横蹴りが、蝉丸の脇腹に食い込んだ。

「ぬぅ……っ!」

息を漏らした蝉丸だったが、しかしすぐさま流れた刃を返し、強引な切り上げに入る。
下から迫る刃に追撃を断念し、綾香が飛び退る。
再び距離が開いた。蝉丸の白刃は既に油断なく綾香へと向けられている。
刃を横に寝かせた平青眼、必殺の突きを狙う構えに再度の接近を試みようとした綾香の足が止まった。

「人形遊び、か……貴様から見ればそうなるのだろうな、来栖川」

告げた蝉丸の顔からは、一瞬だけ浮かんだ苦痛の色は消えている。
暗夜に浮かぶ月の如き静謐をもって、その瞳が真っ直ぐに綾香を見据えていた。

「あれらを、生み出したのではなく……作り出した、と貴様等は言う。
 驕慢でなく、傲然でなく、ただそれを当然と、疑念すらを抱かず貴様等は言うのだ」

凛と冷え切った声音が言葉を紡ぐ。

「何故、その聲を聞かず、その道を見定めず、無用の長物と放り棄てる。
 あれらを人でなく、傀儡と育んだは貴様等の罪業だろうに、何故それを肯んずる。
 生の意味を与えず、思考の時を与えず、命を求める声をすら与えず」

白刃は揺らがぬ。
声音は荒れぬ。
しかしそれは一片の違いなく、

「そこに―――如何な義の在るものか」

坂神蝉丸が見せた、激情の吐露であった。

498十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:36:30 ID:2LxlvcbQ0
風が、一際強く吹き抜けた。
砂塵を含んだそれが沈黙を運ぶ。
否、沈黙は小さな音によって破られていた。

「……っ、……」

耳を澄まさねば聞こえぬほどのそれは、しかしすぐにその音量を増していく。
初めはさざ波のように、そして瞬く間に瘧の如く爆ぜたそれは、笑い声であった。
面持ちを険しくした蝉丸の眼前、来栖川綾香が、呵々として笑っていた。
その顔の半分を覆う朱の紋様がまるで羽虫を絡め取った蜘蛛の巣の如く、醜く蠢いている。
可笑しくて堪らぬといった様子で笑う綾香が、その笑みを収めぬまま口を開いた。

「―――知るかよ、そんなこと」

蒼穹の下、弓形に歪んだ真紅の瞳が、ぬらぬらと凶々しい光を湛えて揺れていた。
そこには快の一文字も、愉も悦すらも存在しない。
ただ、嘲弄と軽侮だけが、浮かんでいた。

「私の仕事は算盤勘定だ。ついでに教えてやる。科学者連中の仕事は自分の妄想を形にすることで、
 技術屋の仕事は製品のコストを下げることだ。連中の生まれた意味なんて誰も考えちゃいない。
 知りたきゃ坊主にでも聞いてくるといい」

ぎり、と鳴ったのは蝉丸の奥歯を噛み締めた音か、それとも握り直した柄の軋みか。

「それが、貴様の道か」

言うが早いか、蝉丸の身体が駆けた。
踏み出した足の大地を噛む音が後から聞こえてくるほどの、猛烈な踏み込み。
広い間合いを、ただの二歩で詰めていた。
驚いたように見開かれる綾香の真紅の瞳、その中心を狙った突きが閃いた。
手応えは、ない。
文字通りの紙一重で、躱されていた。
未だ白く残る方の頬に一文字の傷を開け、鮮血の雫を飛ばしながら、綾香が身を撓める。

499十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:37:17 ID:2LxlvcbQ0
「じゃあ……訊いてやる、白髪頭ッ!」

突き込まれる刃に微塵の恐怖も見せず、綾香が叫んだ。
カウンターで突き込まれる爪を、蝉丸は辛うじて柄頭で弾く。
下に流した真紅の軌跡はしかし、五本。

「お前には……ッ、聞こえてるのか、……あいつらの、声がッ!」

残る片手の爪が、上から迫る。
それを、軸足で地面を強引に蹴り離すことで上体を反らし、回避する。
軍装の釦が一つ、弾けて飛んだ。

「あたしたちを! 助けてください、って!」

両の爪を躱されてなお、蝉丸の頭上から落ちる影がある。
鉞の如き威力を備えて落とされる踵であった。
返す刃は間に合わぬ。たたらを踏むように、更に一歩を退いた。

「どうか生きる意味を! 教えてくださいって!」

着地と同時、綾香が加速する。
薬物の効能で人体の常識を超えた出力を誇る筋力に加えて、胴廻し蹴りの前転による勢いを利用した加速である。
その速度は蝉丸の眼をもってしても容易には捉えきれぬ領域に達していた。
躱しきれぬ、とみた刹那。
蝉丸は手の一刀を逆落としに地面へと突き立てていた。
伝わるのは刃の先が僅かに岩を食む硬い感触。
もとより、綾香を狙ったものではない。

「ぬ……ッ!」

掛け声と共に、蝉丸の身体が跳んでいた。
突き立てた刀の柄頭を土台とした、高飛びである。
迅雷の如く迫ってきた綾香が真紅の爪を振るうのと、ほぼ同時であった。
宙を舞う蝉丸の影が、身を低くした綾香の背に、落ちた。
交錯した両者がその位置を入れ替え、そして離れる。
必中の一撃を避けられたと悟った綾香が砂塵を巻き上げながら身を翻せば、
蝉丸もまた束の間の空から大地へとその身を戻していた。

500十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:38:04 ID:2LxlvcbQ0
「泣いて頼まれたか。夢枕にでも、立たれたか。違う、違うな、強化兵」

一転、綾香が静かに語る。
その視線は対峙する蝉丸の纏う枯草色の軍装、その足元へと向けられていた。
編み上げ式の軍靴が踏みしめる地面に、じわりと拡がる染みがあった。
乾いた岩場を濡らす赤黒い染みは、紛れもない鮮血である。
蝉丸の軍装、右のふくらはぎの辺りが、ざっくりと裂けていた。

「お前には何も聞こえていないだろうよ。あいつらの声も、願いも、何も」

綾香が、爪を振るう。
何滴かの血が、球になって散った。

「お前は手前勝手な願望を、あいつらに押し付けているだけだ。連中が本当は何を願っているのか、
 生きたいか、死にたいか……それさえ、お前には分からない」

ゆっくりと、綾香が歩を踏み出す。
陽だまりの中、散策でも楽しむかのような足取りとは裏腹に、顔には酷薄な笑みを浮かべている。
冷笑に侮蔑をたっぷりと乗せて、ほんの僅かな憐憫を込めて、綾香が首を傾げ、言う。

「手前ぇの恨みつらみを語るのに、誰かの名前を使うなよ。なあ、出来損ないの強化兵」

蝉丸の表情が、初めて歪んだ。
挑発への怒りではない。まして、傷の痛みでもなかった。
ただ、歪んだのである。
正鵠を射られたとは思わぬ。
義憤とは安い侮辱に消える程度の炎ではないと、蝉丸は信じていた。
ただ許せぬと、肯んじ得ぬと貫き通すべきものはあると、蝉丸は確信している。
しかし、否、故に、蝉丸の表情はただ、歪んでいた。
綾香の放った嘲弄の矢が射抜いたのは、蝉丸の心に燃え盛る義ではなかった。
坂神蝉丸という男の、中心。
何もない、草木の一本すら生えぬ、ただ広がる荒地の、その真ん中に、突き立っていた。
そこを潤すものはない。そこに実るものはない。そこに生きるものはない。
舞い上がる砂塵も、吹き荒ぶ風すらもない。
ただ時の止まったような、荒涼とした大地。
そこに一本の矢が突き立ち、静謐が乱れた。
決して感情の範疇でなく、さりとて理性の領域でもなく、思考でも思想でも思索でもなく、
ただ感覚として、蝉丸は己が中心に広がる寂寞を見た。
故に表情を歪めたのである。

「そうか」

だからそれだけを、蝉丸は口にした。
肯定でも否定でもない、それはひどく簡素な相槌であった。

「分かんないなら、そう言えよ」

無造作に間合いを詰めながら、綾香もまた、それだけを応えて口を閉ざした。
その手の爪が、足取りにあわせてゆらゆらと揺れている。

501十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:38:44 ID:2LxlvcbQ0
間合いに入るまで五歩と、蝉丸は見て取った。
白刃を下段に構え、その一瞬を待ち受ける。
刀の間合いは、爪の間合いよりも遥かに広い。

残り、四歩。
仙命樹の治癒とて万能ではない。
深く抉られた肉を繋ぐまでには幾許かの時を必要とする。

残り、三歩。
右を軸足に使えぬ今、受けるも攻めるも難い。
ならば勝算は、間合いの差。

残り、二歩。
踏み込んだその足を、その爪を、その頸を。
斬の一念を込めて、断ち割る。

残り、一歩。
踏み出されたその足が―――消えた。

と見るや、綾香の姿は既に蝉丸から見て右に占位している。
爆発的な加速によるサイドステップ。
が、蝉丸の刃は微動だにせぬ。
横に流れた綾香の踏み込みは、未だ僅かに間合いの外。
陽動であると、見抜いていた。
右に動いた綾香が更に加速する。
脇を走りぬけ、後ろをとると見せた刹那。
右構えの下段が最も対処しづらい、右斜め後方から、綾香が、間合いに踏み込んでいた。
同時、蝉丸の白刃が閃いた。
構えによる誘いは無論、綾香とて気付いていると、蝉丸は理解している。
狙い通りの剣筋の、なおその上を行く疾さを備えていると確信しているからこその踏み込み。
慢心であり、虚栄であり、しかし高雅であった。
それは来栖川綾香の唯我たる矜持、魂に刻まれた自負。
ならばそれを斬り伏せよと、坂神蝉丸は己に命じる。
慢心を斬り、虚栄を断ち、来栖川綾香を滅せよ、と。
一刀を、振るう。

502十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:39:06 ID:2LxlvcbQ0
「―――!」

風が、裂けた。
真紅の刃が、まとめて切り裂かれ、折れ飛んだ。
蝉丸の振るった白刃が斬ったその数は、九。

ただの一本が、残った。
残った一本は、刃であった。

細く、鋭く、風が、流れた。
一直線に伸びたその軌跡は、狙い違わず蝉丸の喉笛へと迫り、そして―――失速した。

「……あ、」

漏れた声は、濡れていた。
ごぼりと、血の泡が溢れた。
口中いっぱいに鉄錆の味を感じながら、来栖川綾香が、ゆっくりと倒れた。

503十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:40:16 ID:2LxlvcbQ0
「……」

蝉丸の視線が、大地に横たわる綾香を見据える。
険しいその表情は勝者のものとも思えぬ。
そもそも、蝉丸の刃は綾香の爪だけを斬ったものである。
倒れた綾香の身体に斬撃による大きな刀傷はない。
だが鮮血は実際に噴き出している。
蝉丸は頬に飛んだ返り血を拭い、見下ろした綾香の、震える五体に眉を顰めた。
溢れる血は、綾香の内側から、流れ出していた。

「あ……あああ……っ!」

びくり、と投げ出された鬼の手が震える。
野太いそれがぶるぶると痙攣したと見えた、次の瞬間。
内側から爆ぜるように、黒く罅割れたその肌が裂けた。
大量の血液が飛び散り、辺りを染め上げる。

肌に張り付くようなボディスーツの内側から、嫌な音がした。
太腿から、上腕から、背筋から、ぶちぶちと断続的な音が響く。
主要な筋肉の断裂する、音だった。
スーツの隙間から覗く白い肌が、青黒く染まっていく。
内出血が拡がっているようだった。

「が……あ、あぁ……ッ!」

絶叫と共に気管に流れ込んだ血と唾液を垂れ流しながら、綾香がのたうち回る。
その端正な顔の半分を覆う赤い紋様、浮き出した血管で形作られた蜘蛛の巣が、
まるでそれ自体が別の命をもつ生き物であるかのように波打ち、蠢いていた。
その幾つかが弾け、真っ赤な液体が溢れ出す。
さながら綾香が血の涙を流しているように、それは見えた。

「……限界だな、来栖川」

504十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:40:49 ID:2LxlvcbQ0
内側から自壊していくような綾香を見下ろして、蝉丸が静かに息をつく。
その白刃は自らが作り出した血の海で泳ぐ綾香に、油断なく向けられていた。

「人を超えた力など……所詮、人の身で扱いきれるものではない」

しゃら、と澄んだ音を立てて、蝉丸が刃を返す。
陽光が反射し、流れ出る血と流れ出た血の両方で全身を染め上げた綾香を照らした。
未だ癒えぬ傷の痛みを無視して、蝉丸がゆっくりと歩を進める。
踏み出したその足が粘つくのは、血だまりを行くせいか、或いは軍靴の中に溜まった己が血のせいか。

「そこで時をかけて命を終えるか、それとも楽にしてほしいか」

返答など期待せぬ何気ない呟き。
既にその声が耳に届いているかも怪しい。
蝉丸が足を止めたのは、故に微かな驚きによるものである。

「……誰、に……」

声とも呼べぬような、掠れた響き。
だがそれは確かに来栖川綾香の紡ぐ、言葉であった。

「……誰に、口を……聞いてる、……三下……!」

それは一つの、奇跡であったやも知れぬ。
綾香の瞳、真っ赤に充血したその瞳は、蝉丸を確かに射抜いていた。
そればかりではない。
腕、足、胸、腹、首、いたるところに爆ぜたような傷が開き、肉どころか何箇所かは骨すら覗いている、
到底動けるはずもない身体で、綾香は微かに、しかし確実に、蝉丸の方へと這い寄ろうとしていた。
蛞蝓の這いずるような、遅々とした動き。
しかしそれを、蝉丸は瞠目をもって迎えていた。
沈黙が、何よりも雄弁に驚愕を語っていた。

「……あたし、は……、」

ぶるぶると震えながら、最早流れ出す血液すら残らぬような身体で這いずりながら、綾香が言葉を紡ぐ。
殺意もなく、邪気もなく、ただ澄みきった何かだけが残ったような、言葉。

「……あた、しは……、……ずっと、世界の……真ん中、に……。
 こんな、こと……で、終わ、ら……、ない……」

そよぐ風よりも微かな呟きが、段々と小さくなっていく。
伸ばした手が、蝉丸の軍靴に触れた。
掴み引き倒す力とてあろう筈のない、その赤黒く染まった手を、蝉丸はじっと見ていた。
深く、深くつかれた息は、果たしてどちらの漏らしたものであっただろうか。

「……」

蝉丸が、手にした白刃を天高く掲げる。
抗う術は、綾香に残されてはいなかった。
突き下ろせば、それが最期となる筈だった。

それが為されなかったのは、蝉丸の背後、凄まじい音が響いたからである。


******

505十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:41:27 ID:2LxlvcbQ0
 
知らず振り向いた蝉丸の、その表情が固まる。
見上げた視線の先に、異物があった。

僅か数十メートル先、神塚山山頂。
そこに、何かが突き立っていた。

天空から下ろされた一本の蜘蛛の糸のような。
或いは天へと伸びる果てしない塔のような。
限りなく細い何か、紅色と桃色と鈍色が考えなしに混ざり合ったような、醜悪な何か。
それが、神塚山の山頂、その中心へと突き立てられていたのである。

「……、」

そこにいた筈の、青年へと移り変わる途上のような顔をした、少年の名を、蝉丸が口にするより早く。
ひどく耳障りな雑音交じりの、しかし不気味によく通る声が、天空から響いていた。

「待っていましたよ―――この瞬間を」

それは遥か蒼穹の高み、突き立った細い糸のような何かの上から、降りてきた。
最初は芥子粒のような、しかし瞬く間にその大きさを増していくそれは、異様な姿をしていた。
人のような、しかし決して人にはあり得ないシルエット。
三対六本の腕、瘡蓋の下に張った薄皮のような桃色の、巨大な翼。
人と蟲と蝙蝠を、止め処ない悪意によって混ぜ合わせたようなフォルム。

かつて長瀬源五郎と呼ばれた人間の成れの果てが、そこにあった。

506十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に:2008/04/15(火) 21:42:00 ID:2LxlvcbQ0
 
 
 
【時間:2日目 AM11:23】
【場所:F−5】

坂神蝉丸
 【状態:右足裂傷(重傷・仙命樹により治癒中)】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:全身裂傷、筋断裂多数、出血多量、小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、
      顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング限界】

長瀬源五郎
 【状態:シルファ・ミルファ融合体】

→916 962 967 ルートD-5

507十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:52:48 ID:CaxMWfFA0

それは、雨であった。
鋭い鋼鉄の穂先を大地へと向け、穿ち貫かんと落ち来るそれを、雨と呼ぶならば。

それは、槍であった。
天空より間断なく流れ落ち、地上へと等しく降るそれを、槍と呼ぶならば。

雨の如く降り注ぐ、桃色と鈍色の入り混じった無数の槍。
遥か高みより降る凶刃が終わらせたのは、たった一つの命である。

その、命であったものの名を、久瀬という。
最初の一筋が脳天を貫いた瞬間に、久瀬少年の命は終わっている。
何かを掴もうと伸ばされた指がびくりと震え、そして、それが最後だった。
直後、幾筋も幾筋も降り注いだ槍が貫き通したのは、少年の骸である。

人の形をしていた少年が、赤い液体と無数の欠片へと解体されたその場所へ、降り立つ者があった。
返り血と思しき赤黒い斑模様で纏った白衣を最早そうと呼べぬまでに汚し、背には肉色の翼。
肩の辺りから生えた四本の鋼鉄の腕をやはり血で染め上げ、はだけた胸からは断末魔の如き表情をした
女の顔が二つ、埋め込まれているのが見えた。
人、と呼ぶにはあまりにもヒトとかけ離れたその姿を目にして、声を漏らした者がいる。
急ぎ駆け戻った男、坂神蝉丸であった。

「長瀬……源五郎……!」

名を呼ばれ、悪夢を具現化したかの如き姿の男が、にたりと笑った。
歯茎を剥いた、怖気が立つほど醜悪な笑い。

「司令、と呼び給えよ、坂神君。いや……坂神脱走兵、というべきかね?
 副社長におかれても、ご機嫌麗しく」
「……何故、久瀬を殺した」

触れれば斬れるような声音。
口臭の漂ってきそうな笑みにも、血の海に倒れ伏す来栖川綾香を見下した視線にも委細構わず、
蝉丸はそれだけを口にする。

「……何故? 何故と問うのかね、君は?」

そんな蝉丸へと視線を戻すと、長瀬はくつくつと笑う。
肺病やみが咳き込むような、痰の絡んだ笑い方だった。

508十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:53:21 ID:CaxMWfFA0
「特段の理由などないよ。ただ私の道具を取りに来た、そこにたまたま彼がいただけさ」
「道具……だと」

言われて初めて、蝉丸が気付く。
長瀬の足元、のたうつ肉色の槍に隠れるようにして、小さな影があった。
広がる血の海の中で暴れることもなく、じっと蹲っている影を、長瀬の鋼鉄の腕が掴んで引きずり起こす。
久瀬少年の血に塗れながら表情一つ変えず、眼鏡の奥で焦点の合わぬ瞳を光らせる少女を見て、
蝉丸が呻くような声を漏らした。

「貴様、それは夕霧の……」
「演算中枢だよ、坂神君。私はこれを取りに来ただけだ。ずっと君の目が光っていたから、少しばかり難儀したがね」

見せ付けるように、片腕で夕霧を吊り上げる長瀬。
その身体から伸びた、ケーブルとも槍ともつかぬ金属製の管が、まるで触手のように夕霧の身体を這い回る。

「迂闊だったねえ、坂神君。君が目を離したりしなければ、私もこれに近づけなかった。
 ……久瀬大臣の愚かな御子息も、死なずに済んだかもしれないなあ」
「―――黙れ」

激昂も見せず、あくまでも静かに、蝉丸が口を開いた。
転瞬。

「―――!」

銀弧が閃いた。
音もなく駆けた蝉丸が、一気に間合いを詰めると手の一刀を振るったのである。
それを、

「おっと」

おどけるような仕草と共に、長瀬が飛び退って避ける。
強い風が、蝉丸の頬を叩いた。
長瀬は文字通り、肉色の翼を羽ばたかせて飛んでいたのであった。

509十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:53:46 ID:CaxMWfFA0
「貴様……!」
「おお、怖い怖い。君といい光岡君といい、強化兵の近接戦闘能力は驚愕に値するからね。
 正面からやりあう気などないよ」

刀の届かぬ高度でゆっくりと羽ばたきながら、長瀬が肩をすくめる。
鋼鉄の腕には砧夕霧を抱えている。
その血に濡れた身体の上には、やはり触手のような管が何本も這い回っていた。

「……うん、これではよくわからないな」

一人呟いて首肯する。
と、夕霧の身体を這っていた管の束が、唐突にその動きを変えた。
夕霧の纏った質素な服の上を這っていたものが、一斉に襟を、裾を、袖を目指して蠢く。
瞬く間に衣服の下へと潜り込んだ管の群れが、ぞろぞろと布地を持ち上げる。
宙吊りにされた少女が無数の蛇に肢体をまさぐられているような、それは淫靡な光景であった。

「どうだい、ミルファ、シルファ。私の可愛い娘たち。解析は終わりそうかい」

鳥肌の立つような猫撫で声で長瀬が語りかけたのは、その胸に浮かぶ人面瘡の如き二つの顔である。
よく見れば、ケーブルの束は断末魔を写し取ったようなその顔の、口腔の奥から伸びているのだった。
時折、びくりと夕霧が震える。
薄い布地の向こう、襟から潜った管が小さく盛り上がった双丘を舐る。
袖から腕、脇を通って背筋をまさぐる管もあった。
スカートの裾から入り込んだ管は下腹部から尻の辺りを取り巻いていた。
濡れた音がするのは、如何なる行為によるものか。

「下種が……!」

押し殺したような怒声と共に飛んだ針のようなものを、長瀬が翼の一振りで悠々と躱す。
虚しく弧を描いて落ちるのは、真紅の細刃。
先刻の交戦で斬り飛ばされた、来栖川綾香の鬼の爪であった。

「そう急かないでくれ給えよ、坂神君。焦らなくとも、もうすぐ……おや、終わったのかい、娘たち」

蝉丸への嘲るような声音とはうって変わった、気色の悪い甘い声。
見れば、びくりびくりと震えていた夕霧の肢体がだらりと弛緩している。
それを目にして満足げに頷く長瀬。

510十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:54:33 ID:CaxMWfFA0
「うん、それじゃあ……始めようか」

言葉と共に、びり、と音がした。
布の裂ける音。夕霧の纏っていた、質素な服が引き裂かれていく音である。
陽光の下、白い肌が惜しげもなく晒されていく。
瞬く間に、その肢体を覆っていた布地がすべて取り払われた。
乳房の先に覗く桃色も、下腹部を薄く覆う翳りもすべて、その上をのたくる管の群れと共に曝け出されていた。
長瀬の鋼鉄の腕によって両腕を拘束され、吊り下げられるような姿勢のまま裸体を隠すこともできず、
しかし夕霧はぼんやりとした瞳だけを眼鏡の奥に光らせたまま、表情を変えない。
そんな夕霧を後ろからかき抱くようにして身体を寄せると、長瀬がその感情のない顔に手を伸ばした。
肩から生えた鋼鉄の腕ではない。長瀬源五郎の、生身の手である。
ゆっくりと撫でるようにして、長瀬の手指が夕霧の頬を這う。
痩せこけた血色の悪い唇を、ごつごつと骨ばった長い指がなぞる。
白い首筋からこびり付いた血の乾き始めた耳の辺りまでを嘗め回すようにしていた長瀬が、その耳元に囁いた。

「私と一つになりなさい、失敗作」

同時。
ぞぶり、と嫌な音と共に、ケーブルの先端、槍の穂先のように尖ったそれが、夕霧の裸体に突き刺さっていた。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
首筋に、背に、脇腹に、太腿に、二の腕に、薄くあばらの浮いた肢体に、何本も刺さっていく管の群れ。
その度にびくりと震える夕霧の身体からは、しかし奇妙なことに血が流れ出さない。
それどころか、まるで刺さったケーブルを取り込むかのように、破れた皮膚が再生し、薄皮が張っていく。

「成る程、成る程、成る程。余計な感情を溜め込んだものだ。余分なノイズを取っておいたものだ。
 こんなものは―――消してしまえばいい」

目を細め、長瀬が独り言じみた呟きを漏らした途端、夕霧の身体が一際大きく跳ねた。
激しい痙攣が二度、三度と続き、そしてすぐに静かになった。

「さあ、これで綺麗になった」
「……ッ!」

歯噛みしながら見上げていた蝉丸が、思わず絶句する。
頷いた長瀬がひと撫でした夕霧の顔は、先刻までとはまるで異なっていた。
何の感情も浮かべていなかったその顔に、一つの明確な表情が刻まれていた。
即ち―――、絶望。

「貴様……!」

そこにあったのは、苦痛でも、悲嘆ですらなかった。
この世に存在する希望という希望を絶たれ、怨嗟に塗れ、生を呪う、それは亡者の表情。
それはまるで、長瀬の胸に埋め込まれた二つの顔をそっくり写し取ったような、顔であった。

511十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:55:00 ID:CaxMWfFA0
「何を……一体、何をしたッ……!」
「ん?」

地上で叫ぶ蝉丸の存在を、まるで今思い出したとでもいうように長瀬が見やる。
にやにやと見下ろすその視線には、何らの特別な感情は浮かんでいない。

「何、と言われても……道具をフォーマットしただけさ。雑念が煩かったからね」
「外道が……!」

曇った眼鏡を拭いただけ、とでもいうようなその口調に、蝉丸が手の一刀を握り直すとほぼ同時。

「ぬ……!?」

蝉丸が跳んでいた。
僅かに遅れて、立っていたその場所に突き立つものがある。
上空を飛ぶ長瀬の身体から伸びた、肉と鉄の入り混じった槍であった。
その足元に広がっていた、乾きかけた血の海がべしゃりと撥ねた。
ざっくりと裂けた右足から真新しい紅の珠が飛ぶのにも、蝉丸は眉筋一つ動かさない。
天空の高みから次々と迫り来る槍を的確に躱していく。
しかし、

(……?)

おかしい、と蝉丸は己の直感が告げるのを感じていた。
次々に降り注ぐ槍は確かに鋭く、速い。
しかしその位置、照準、タイミングがあまりにも粗雑に過ぎた。
長瀬が戦闘に関して素人であると言ってしまえばそれまでなのかも知れない。
しかし、それだけでは片付けられない何かを、蝉丸の研ぎ澄まされた勘は嗅ぎ取っていた。
降り注ぐ槍には何か別の狙いがある、と。
蝉丸がそこまでを思考したのを読み取ったかのように、天空からの攻撃が、止まった。
大地に張り巡らされた蜘蛛の巣のように無数の槍を突き立てておきながら、蝉丸には未だ傷一つつけていない。
それが唐突に止まっていたのである。
思わず見上げた蝉丸の耳朶を、

「さあ、食事の時間だ」

長瀬の声が打ったのと、時を同じくして。
ぞぶり、と音がした。
音は、一つではない。
それは蝉丸の周囲、四方八方のあらゆる方向から、無数に響いていた。

512十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:55:21 ID:CaxMWfFA0
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。

まるで挽き肉を捏ね回すような、或いは鍋に満たした湯の沸き立つような。
ひどく耳障りなその音は、蝉丸のすぐ側、或いは手の届かぬ遠く。
地面に突き立った無数の槍の、その中から、響いているようだった。

ごぼり、と泡立つような音がして、見れば突き立てられた槍の穂先が、濡れていた。
赤く濡れたそれの周りにはしかし、鮮血など存在しない。
否、砂を染めた血痕が、そこに血の流れていたことを示している。
そこかしこに積み上げられた夕霧たちの躯から流れ出たはずの、それは血だまりの痕だった。
それが、なくなっている。

「……飲んだ……のか……!」

険しい表情のまま見回せば、山頂のいたるところを染め上げていたはずの、乾きかけた血の海が、
まるで潮が引いたように小さくなっている。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がするたびに、血だまりは小さくなっていく。

「……ッ!」

衝動のままに一刀を振るえば、硬い感触と共に槍の一本に亀裂が入る。
ごぼり、と噴き出した粘性の高い血液が、蝉丸の手を汚した。

「長瀬……! 貴様、どこまで……!」
「おいおい、人の食器を傷つけないでくれよ」

天空を睨んだ蝉丸の視線にも、長瀬はただにやにやと笑いを返すのみ。

「君だってあまり人のことは言えた義理ではないと思うがね。
 土嚢代わりに使うのは死体の血を吸うより高尚な行いなのかい?」
「……!」
「こんなものは、単なる資材でしかない。君と同じさ。
 もっとも、私が本当に使うのは―――生きた方、だがね」

生きた方、という言葉の意味が、染み渡っていく。
と、何かに気がついたように、蝉丸が辺りを見回した。
ぞぶり、という音は、止まっていた。
咀嚼音が止まり、静寂が落ち、しかし―――静かすぎる。
北側と西側では戦闘が続いていたはずだった。
久瀬の死によって命令系統は混乱しているだろう。
僅かな間に戦線は崩壊したかもしれない。
しかし、閃光も、騒音も、何もかもが止んでいるのは、異常だった。
生きた方、という言葉がもう一度、蝉丸の脳裏に甦る。

513十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:55:42 ID:CaxMWfFA0
「まさか……!」

蝉丸が弾かれたように長瀬を見上げた、その刹那。
長瀬の身体が、爆ぜた。
否、爆ぜるような勢いで、膨れ上がったのである。
白衣が、スーツが、その布地の限界まで張り詰め、裂けた。
その下から無数に飛び出したのは、肉色の槍である。
それが生えていたのは、長瀬の胸に埋め込まれた二つの顔からではない。
腕といわず腹といわず、隙間を埋め尽くすようにして、その醜く蠢く管は
長瀬の肉体のいたるところから奇怪な腫瘍の如く飛び出していた。
その数は先刻に倍し、太さに至っては一本一本が人の腕ほどもある。
そんなものに埋め尽くされた長瀬は、まるで空に浮かぶ磯巾着か何かのようにすら見えた。
が、そう見えたのも一瞬。
無数の管が、凄まじい勢いで伸びていた。
目指すのは大地。

「……!」

瞬間、蝉丸は己の危惧が的中したことを知る。
長瀬の身体から伸びた無数の管はそのすべてが、山頂ではなく、そのすぐ周辺。
北側と西側の山道へと、向かっていたのである。
天頂を境とした空の半分を覆い尽くすように、肉色の管が巨大な天蓋を形作る。
測定を拒むが如き数の管が伸びるその先には、きっかり同数の影が、佇んでいた。
影、砧夕霧と呼ばれる少女達の群隊は抗う様子も見せず、迫り来る管をぼんやりと眺めている。
矢のように伸びた管の群れが、その速度の一切を殺すことなく、夕霧たちへと突き刺さった。
否、刺された少女たちからは、一滴の血も流れない。傷すらも、できてはいなかった。
故にそれらは、突き刺さったというべきではなかったかもしれない。
それらは単に、少女達へと貼り付き―――呑んでいたのである。

514十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:55:59 ID:CaxMWfFA0
ぞる、と先刻の血液を咀嚼する音にも倍して奇怪な音が響くたび、少女達が歪んでいく。
誇張でも比喩でもない。
管の貼り付いた部位を中心に、骨格を無視し人体構造を無視して、少女の身体のその全体が、
奇妙に捻じ曲がっていくのである。
同時に、音が響くのと歩調を合わせて、その肉体そのものが小さくなっていく。
ぞる。少女の腹が、べこりと落ち窪んだ。
ぞる。少女の胸が、片方の乳房を残して、捩じくれた。
ぞる。少女の腕が、肘まで肩に埋まった。
ぞる。少女の腰が、臓腑ごと競り上がった。
ぞる。少女の脚が、胸の下から、覗いていた。
ぞる。少女の首が、管へと吸い込まれていた。
ぞる。少女の、全部が消えた。

少女を呑み尽くした管は、まるでフィルムを逆回しにするように天空へと巻き取られていく。
巻き上げられた管の根元が、ぼこりと膨らんでいる。
それは紛れもない、少女の体積。
ぞる。ぞる。ぞる。
音と共に、少女が管に呑まれ、管が巻き上げられ、その根元が、ぼこりと膨らんでいく。
ぞる、ぞる、ぞる。
ぼこり、ぼこり、ぼこり。
それは、ヒトのカタチをしていたモノが、ヒトならざるモノの中に、吸い上げられていく音であった。
およそこの世のものとは思えぬ悪夢の光景の中心に、笑う顔がある。
長瀬源五郎であった。
肉腫の如く膨らみ続ける体の中心に、長瀬源五郎の顔が浮かんでいた。
すぐ下には三つの断末魔。
イルファ、シルファ、そして砧夕霧の中枢体が、悪夢の象徴のように並んでいる。
巨大な肉腫は重なり合い、互いを覆い隠すように拡がっていく。
七千にも及ぶ生体が、融け合って膨れ、崩れて肉腫となり、やがて何かを形作っていく。
それは、受精卵の細胞分裂を繰り返す様を、偏執的な悪意で塗り潰していくような。
そんな印象を見る者に与える光景だった。

515十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:56:20 ID:CaxMWfFA0
どこまでも長く感じられる、しかし実時間にしてほんの数十秒の内に、
それは、この世に姿を現していた。
身長、およそ三十メートル。体重にして二百七十トン。
神塚山、北西側の山肌から、山頂の台地へと手をかけるようにしてへばりついたそれは、
途方もなく巨大な少女―――砧夕霧であった。
天頂へと迫りつつある陽光を受けてぎらぎらと額を輝かせながら、

「―――」

るぅ、と啼いたそれは、長瀬源五郎と同じ顔で、嗤っていた。


.

516十一時二十三分/軛、解き放つ:2008/04/26(土) 02:56:56 ID:CaxMWfFA0

【時間:2日目 AM11:26】
【場所:F−5】

坂神蝉丸
 【状態:右足裂傷(重傷・仙命樹により治癒中)】

究極融合体・長瀬源五郎
 【状態:シルファ・ミルファ・砧夕霧中枢(6314体相当)】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:全身裂傷、筋断裂多数、出血多量、小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、
      顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング限界】

→968 ルートD-5

517(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 16:58:27 ID:WLKNz3/g0
 海のほとりにある、ごく小さな一軒屋。
 明るく輝く太陽の光とは対照的に、カーテンで閉ざされた室内はほの暗く、物の輪郭を僅かながらに、色彩を僅かながらにしか映し出しているのみ。
 けれども、そこの動く一つの影――小牧郁乃――の瞳は今にも燃え出しそうなくらいに爛々と輝いて、殺戮と絶望が飛び交うこの島においてもなお、不屈の意思を秘めたものを持っていることを示していた。

「……ふぅ、大分……動けるようになった」
 額につく、僅かな汗を袖で拭いながら郁乃は一息つく。

 ここ数時間で郁乃が歩行した距離は僅かに数キロにも満たない。遅すぎるほどの速度。
 だがそれでも郁乃は、自分が確実に歩けるようになっていることを確信していた。
 走ることはまだ叶わないが、少なくとも人の手を煩わせずに移動することができる。もう少し時間があれば様々な行動を取れるようになるだろう。
 もう、足手まといにはなりたくない。

 負けず嫌いとも自責ともいえるその一念が、郁乃を衝き動かしている。元来そのような性分だとは理解してはいたが、ここまでしていることに自身でも感心するくらいだ。
 姉……いや、病院の中だけだった狭い世界だったのが、七海を始めとして様々な人間に触れ、いかに郁乃自身が小さいものだったのかを思い知った結果かもしれない。事実、今まで郁乃はそこまで劣った存在ではないと思っていた節があったのだから。

 情けない話だ。
 経験して、叱責されて、ようやくそれに気付けたのだから。それもそうだが、それ以前に。
(……あいつに言われて、ってのがどうしても気に入らない)
 高槻と名乗ったその男。

 美形とは言い難いし、性格は最悪。すぐ調子に乗るし、スケベだし、ロリコンだし、ホラ吹きだし、天パだし。
 その上私の唇を奪おうとした。なんか告白まがいのことまでしてきたし。
 なんというか、ムカツク。そんな奴に指摘されて気がつくなんて。
 でも……いつの間にか、あいつのことを考えていたり。どこかで頼りにしていたり……違う違う! あいつの顔があまりに印象的すぎるだけ!
 というかなんで私はドキドキしてるわけ!? ありえない! だから最悪なのよあいつは!

「あの、小牧さん?」
 高槻の事を考えるあまり(本人はそう思ってはいないだろうが)頭を抱えたり腕を振り回したりしていた郁乃に不安を感じたのか、ほしのゆめみが手に水の入ったペットボトルを持って差し出していた。

518(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 16:58:54 ID:WLKNz3/g0
「少し、休憩なされた方がよろしいかと思います。小牧さん、顔が赤いですし……体温の上昇が見受けられます」
「て、照れてなんかないわよ!」
「はい?」

 要領を得ないゆめみの表情に、そういう意味で言ったのではないとようやく悟った郁乃はげんなりして、「……ごめん、勘違い」と水を受け取り、ボトルのキャップを開く。
 久々に感じる水分の潤いが郁乃には心地よかった。色々考えていたのがアホらしく思えてくる。

「はぁ……ねぇ、ゆめみ」
「はい、なんでしょう」

 いつもと変わらぬ調子で応えるゆめみ。こういうとき変な勘繰りをしてこないことが、郁乃には都合がよかった。
「あいつ……高槻のことは、どう思ってるの?」
 別に深い意味などなかったが、何となく聞いてみたくなったのだ。高槻の事を考えていたから、他の人間は(ゆめみはロボットだけれども)どのような評価を下しているのか純粋に気になった。

「そうですね……行動力のある方だと思います」
 へえ、と郁乃は目を丸くする。郁乃の印象ではお調子者で間抜けな人間像だっただけに。
 気になったので、さらに追及する。

「どういうところが?」
「例えば……申し上げにくいことだとは理解していますが、宮内さんが殺害されたときに、真っ先に現場に直行して、確かな推理をなさっていましたし、わたしたちが襲撃されたときもわたしたちを守るために積極的に戦って下さいました。小牧さんを助けるために、海へ飛び込んだことも。模範となるべき人間像だとも考えます」

「……」
 過大評価でしょ、と郁乃は言いたくなった。
 確かにそういう場面もあったけど、模範と言えるかどうかと問われれば……絶対違う。
 というか、あいつは絶対自分のためだけに行動してるでしょ。うん、私には分かる。

519(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 16:59:19 ID:WLKNz3/g0
「そ、そうなんだ……うん、まぁ、そういう見方もあるわよね」
 藤林杏や折原浩平、立田七海に再会できたときにはそっちに意見を聞いてみよう、と郁乃は思うのであった。

「ふぅ……」
 何はともあれ、少しは休憩した方がいいだろうと考えた郁乃は椅子を引いてそこに腰掛ける。ごく自然な動作だったが、それは郁乃の努力の賜物、というべきものであった。
 無論、郁乃本人はまだそれに気がついていないのであるが。
 頬杖をつき、どのくらい時間が経っているのだろうとふと気になったので時計を探してみる。
 が、置いていないのかそれとも死角に隠れているのか、どこを見渡しても時計らしきものは見当たらない。散らかっているくせに、なんと物のない家なんだ、と郁乃は息をつく。

「どうされました?」
「ああ、うん、時間が気になって」
「それでしたら、現在は日本時間の16:30を回ったころになります」

 再び郁乃は周りを見回す。どこにも時計のようなものはない。どうして分かるの? と尋ねるとゆめみは明朗に、
「わたしには体内時計機能も内蔵されておりますので。壊れていなければ、いいのですが……ここが世界のどこに位置するのか分かりませんので、調整しようにも出来なくなっているんです。申し訳ありません……」
 ああ、なるほどと納得する。確かに元がメイドロボであるHMXシリーズのOSを使っているのならそれくらいはあってもおかしくはない。

 しかし、もう夕方のだったのかと郁乃は時の流れの速さに驚かずにはいられない。病院にいたころには一日はあまりにも長く感じられたのに。
 そしてこの間にも人はどんどん死に絶えている。一体何人が命を落としたのだろうか。姉は無事なのだろうか。離れ離れになったみんなはどこにいるのだろうか。様々な不安が郁乃の中に蓄積されていく。それで何が変わるでもないと分かっていながらも、考えずにはいられないのだ。

 いや。今こそ行動を起こすべきなのではないだろうか。ゆめみも高槻もどちらかと言えば積極的に動くのは反対意見だ。当てのないまま動いても人を見つけられないという意見は、確かに郁乃も理解はできる。

520(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 16:59:44 ID:WLKNz3/g0
 だがそれは大人の見方ではないのか。黙っていてどこそこに誰々がいる、という情報が入ってくるとでも言うのか。
 結局、自分の足で動かなければ情報は得られない。例え、それが徒労になるものだとしても。
 何より――今の自分には足があるじゃないか。

 しかしそれを提案したところでゆめみはともかく、高槻は首を縦には振らないだろう。
 高槻の目的はあくまでも脱出。悪く言ってしまえば自分が生き残れればそれでいいという自分本位の考え方だ。恐らく優先順位としては杏、浩平、七海を探すことよりも岸田洋一の残している可能性のある船を探すことの方が上のはずだ。
 分かっているのだ。高槻の言葉の裏に、郁乃を始めとして他の仲間たちをそれほど重要視していないというのが見え隠れしているということを。
 郁乃には、分かっていた。人の顔色を見ることは、得意だったから。
 しかし一方で、度々郁乃を守り、かばってくれた高槻の姿もまた真実である。それが、高槻の自己満足的な行動だったとしても、だ。
 だからこそ、郁乃は高槻に対する思いを決められずにいたのだ。彼の『善意』を信じるか『悪意』を信じるか。

 とかく、初めての経験が多すぎた。誰かに相談しようにも、ゆめみはそこまで人の心に通じてはいない(ゆえに郁乃は話しやすいと考えていたのであるが)。まだ、それを決められるほどには、郁乃は大人ではなかったのだ。
 そして、大人ではなかったがために――彼女は、迂闊な決断をしてしまったのだ。

「ゆめみ、ちょっとお願いがあるんだけど」

     *     *     *

521(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:00:11 ID:WLKNz3/g0
「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」
「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」
「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」

 何故かその台詞が連呼される夢を見ていた俺様が目覚めたのは、日の傾きかけたころだった。
 ああ、よく寝た。思えばこの島にやってきてからというもの、ついぞ寝た覚えがなかったな。さっき寝てたって? バカ、あれは気絶って言うのさ。大体犬の王子様のキッスで起こされるなんて最悪だ。お前らもそう思うだろ?

 ……つーか、やけに静かじゃねえか。よくよく見れば郁乃もゆめみもいやしないじゃないか。なんだ? これはビックリドッキリ企画か?
 ハハア。どうせポテトあたりでも使って何か良からぬ企みでもしているんだな? バカめ、そうそう俺様が引っかかるか。
 俺様はすっと立ち上がると実に久々の、初めてポテトと出会ったときのように拳法の構えをとってポテトの奇襲に備える。

 ……と、そこまでしたところで、今は殺し合いの真っ最中だということに気付いた。よく考えてみりゃいかに毒舌女王様の郁乃とボケの大魔神ゆめみ様と言えどもそんなことをするわけがない。
 ならどうして誰もいないんだ? 一言も言わずにここから出て行った、とでもいうのか?
 郁乃も、ゆめみも、ポテトもか?

 見捨てられた。
 そんな言葉が俺様の頭を過ぎる。
 ……まさか。郁乃もゆめみも、そんなことをする奴らじゃない。そんなわけがないだろ、常識的に考えて……

 待て。
 どうして俺様は動揺してるんだ?
 いつものことじゃないか。どこでだって俺様は嫌われ、罵られ、怨嗟をぶつけられてきた。その自覚もあったし、人の道を外れた行為なんていくらでもしてきたじゃないか。
 いつものこと。せいせいして、また一人になれて気楽気ままになったと喜ぶ。それが俺様じゃあないのか?
 なんだよ、まるで、自分が自分でないみたいじゃないか。ムカツクな……もやもやとしやがる。

522(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:00:38 ID:WLKNz3/g0
「クソッ」
 悪態をつき、床に唾を吐く。それでも収まりがつかなかった。
 もういい。もうどうでもいい。適当にしてりゃいずれ分かる。またいつも通りにやればいいんだ。
 再び床に座り込み、二度寝に入ろうと俺様が目を閉じたときだった。

「ぴこぴこ、ぴこーーーーっ!!!」

 懐かしい、とさえ思ってしまうくらいに、実に久々に聞いたような、そんな声(というか鳴き声な)が耳に飛び込んできて、俺様は反射的に身を起こす。
 暗い家屋を照らす、一条の光。
 僅かに開けられた扉から、俺様を導くように……いや、叱咤するように、そいつは出てきた。
「ポテト……? てめえ、今まで何を」
 その時は、僅かに嬉しかったのだ。何故うれしかったのかなんて分かるわけがなかったから、またムカついたのだ。再会に感動する、なんて俺様のキャラでは考えられないからな。
 だからとりあえずいつものようにお仕置きでもしてやろう。そんな風に考え、俺様はポテトに駆け寄った。

 だが。何故か、どうしてか、ポテトの体は土に汚れ、弱弱しく俺様を見上げていたのだ。
「おい、なんだよ、それ」
 またもや訳がわからない。ポテトが何か悪戯でもして、郁乃あたりにでも投げ飛ばされたか?
 はは、ざまねえな。俺様ならこんなヘマはしないってのによ。

「ぴこ……っ!」

 何をやっているんだとでも言うように、ポテトは力を振り絞って吠えやがる。なんだよ、この必死さは。
 まさか……
「ぴこ!!!」

 いや、分かっていたはずなのだ。ただ、その可能性を認めたくはなかったのだ。
 在り得る可能性としての、郁乃とゆめみがいない理由。
 それは――

「クソッタレめ!」

523名無しさん:2008/04/27(日) 17:00:58 ID:xYL3nTsE0
.

524(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:01:06 ID:WLKNz3/g0
 俺様は認めたくなかったのだ。目の当たりにしたくなかったのだ。
 弾かれるように走る。外へ、砂浜へと向かって。
 否定するために、ポテトの必死な目線が悪戯なんだと証明するために。
 しかし――嘘つきな俺様は、とうの昔に神様に見捨てられていたらしい。
 そこに、そこにあったのは――

     *     *     *

 その場所には、民家が立ち並んでいた。
 多少の違いはあれど、基本的には似たような作りの日本建築の家。
 普段であれば掃除機の五月蝿いモーター音、子供達が騒ぐ声、あるいはギターをかき鳴らす音色があるかもしれない。
 だが、そこには一つとして音はなかった。ただ一つ、気だるそうに、徒労に引き摺られるようにした足音があった。

「クソッ、骨が何本か逝ってやがる」
 防弾アーマー越しながらもごわごわと感じる自身の異常に、岸田洋一はイライラしていた。
 たかが、女二人にここまでの手傷を負わされたのだから。
 戦利品は申し分ない。狙撃銃のドラグノフ、89式小銃、二本目の釘打ち機(ただし釘だけ抜き取ってしまったが)。攻撃力は二度目の高槻の敗北の時と比べると月とスッポンである。

 だが、それでもなお残留する鈍痛という事実が彼の心を満たしはしなかった。とかく、また誰かを殺害――それも坂上智代と里村茜などとは比べ物にならないくらいの凄惨な殺し方でなければ気がすまない。
 いや、それでさえも彼の心は満足しないだろう。最終的な目標は、あくまでも岸田をコケにするように見下してきた高槻という男への復讐。
 奴の取り巻きどもを目の前で無残に殺し尽くし、憎悪をむき出しにして殺し合いを挑んでくる高槻を下し、絶望的な敗北感を味わわせる。
 これこそが極上の美食であり、最上の贄。岸田は早くそれに舌鼓を打ちたくて仕方がなかった。
 お腹が空いたと食べ物をせがむ、無邪気な子供のように。

「しかし、止むを得なくなったとは言え高槻から遠のいてしまったかもな」
 七瀬彰、七瀬留美、小牧愛佳が駆けていった方向とは逆に、岸田は移動していた。いくら岸田が強靭で逞しく、戦闘経験が豊富とはいえ傷ついた体で全力の戦いを何度も続けられるかと問われれば、岸田本人でさえ首を横に振るだろう。
 ある程度の休息が必要だった。それでもまだ十分に戦える状態ではあったのであるが。

525(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:01:33 ID:WLKNz3/g0
 民家の森を抜けた岸田に、思わず目を細める光景が映る。
 海と砂浜。寄せては返す波の群れが彼を出迎えていた。場所こそ違えど、海は岸田の出発点でもある。
「そうだ、あのクソ忌々しい女もいずれブッ殺す必要があるな……」
 この島において初めて出会った人間にして、隙をつかれ苦汁を舐めさせられた女。笹森花梨の存在を、岸田は改めて思い返していた。
 高槻ほどではないが、花梨の存在も岸田には腹立たしかった。彼の辞書に敗北の文字は許されるはずがなく、汚点を残した花梨は全力で殺すべきだと認識を新たにする。

「まあいい。しばらくは海沿いに歩いてみるとするか。考えてみれば島の内陸部ばかり歩いていたからな」
 正式な参加者でない岸田に地図は支給されていない。道沿いに行動しては出会ってきた人間を襲うばかりだった。
 探索を楽しむのも一興と、砂浜へと向けて歩みだそうとした、その足がピタリと止まる。

 ある種の喜悦というものを、岸田は感じた。宝物を見つけた少年の瞳の如き輝きを、同じくその目に宿している。
 これまでの徒労が、憤怒が、花火のように弾け飛んで笑いという形で飛び出しそうにさえなった。

 誰かが言っていた。
 一度目は偶然。
 二度目は必然。
 三度目は運命。

 まさしくそうである、と岸田はそれを言った人物を褒め称えたくなった。
「そうか、そういうことなのだなぁ?」
 まるで無邪気な声ながらも、その内に潜む残忍さと冷徹さが、声のトーンとボリュームを下げる。
 柄にもなく、岸田洋一はワクワクしていた。

 そう、これはパーティの開演。
 全てが岸田洋一という一人のためだけに作り上げられた会場。
 この状況を、彼ならば何と言い表すだろう?
 決まっている。一声に、狼煙は上げられた。
「サプライズ・パーティー……開幕だっ!」

     *     *     *

526(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:01:56 ID:WLKNz3/g0
「はい、何でしょう」

 お願いがある、という小牧郁乃の言葉に、ほしのゆめみはこれまでのように応える。わたしに可能な事柄でしたら、と付け加えるが。
「少し、外に出たいんだけど。ほら、こんな狭いところばかり歩き回ってても仕方ないじゃない? 少しは凹凸のあるところで訓練したいんだけど」

 郁乃の本音は、少し違う。単に訓練だけではない。拠点である民家の周りを歩き回って僅かでも仲間の探索を行いたかったのである。
 高槻の真意は、今でも推し量れない。馬鹿でお調子者だが大人であるがゆえの冷徹さを持ってもいる。
 いや、それも演技であるかもしれない。考えてみれば郁乃を助けてきた理由も、共に行動している理由も曖昧に誤魔化されたままだ。
 分からない。結局、分からない。
 信じるにも信じないにも、不確定要素が多すぎるのだ。

「それは……わたしは反対です。危険だと考えます」
「あいつが……そう言ったから?」
「それもあります、が状況から判断しましてバラバラに行動するのは好ましくありません。特に小牧さんは、まだ本調子ではないようですし」
「大丈夫よ。それに、一人で行くなんて言ってないでしょ。ゆめみにサポート役としてついててもらいたいんだけど……それでもダメ?」
「……高槻さんは、どうなされるのですか?」

 未だに高槻はすやすやと静かな寝息を立てて(郁乃には意外だったが)眠っている。寝ている人間を放置して出かけるのはそれも危険だと、ゆめみは判断したのだが郁乃はあまり心配していないような口調で答える。

「少しの間だけだから。それにこの家の周りをちょこっと歩くだけだから起きても探しに来るでしょ? ……そうだ、ポテト」
「ぴこ」

 高槻の隣でじっと待機していたポテトが、郁乃の呼びかけに応じてぴこぴこと寄ってくる。

「もしあいつが起きたら、私たちに知らせに来て。すぐに戻るから」
「ぴこ……ぴこ?」

527(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:02:20 ID:WLKNz3/g0
 頷きかけて、ゆめみの方を見上げる。意見を伺っているかのようだった。
 ゆめみはそれならば、とようやく納得したように頷き、
「分かりました。ではわたしがお供します。ポテトさん、高槻さんをよろしくお願いしますね」
 恭しく頭を下げるゆめみに、任せろとでも言うようにしっぽを動かすポテト。

 実に奇妙な光景である。普段の郁乃なら思わず突っ込みを入れる場面だろうが、このときの彼女はとにかく外に出られるのならという気持ちで一杯になっており、そちらに意識が傾いていたのでそれをすることはなかった。

「決まりね。なら早速行きましょ」
「あ、少しお待ちください」

 玄関の方へ移動しようとする郁乃の後ろでゆめみがデイパックを抱える。万が一を想定して、武器類を持っていくことにしたのである。
 その準備の時間すら、郁乃には長く思えて仕方がなかった。
「……先に出るわ。ま、遅いからすぐに追いつけるはずだけど」

 結局、郁乃は先に出ることにする。とにかく、早く外に出たかった。
 恐らく、この場に第三者がいれば、明らかに郁乃が焦っているということは手に取るように分かったことだろう。
 歩行訓練のときはまったく意識していなかった時間という言葉が、重く圧し掛かっていたのである。
 これまでの仲間だけでなく、姉の愛佳や、他の知り合いも……
 ひょっとしたら危機に立たされているのではないか。そう考え始めると、それを考えないようにするのは不可能だった。
 幾分かの慢心にも近い、油断のようなものも無意識の内にあった。
 数時間前までとは違う。今はそれなりに行動でき、多少は戦える。そんな思いが。
 訓練に集中していたときに考えなかったことが、今一気に噴き出してきた、その結果だった。
 加えて、高槻へのほんの些細な疑心と反発。
 少しずつ、少しずつ。
 要因は、積み重なっていた。

 それが――
「では、わたしも行ってきますね。ポテトさん、高槻さん」
 寝ている高槻からは返事はない。ポテトだけが「ぴこ!」と元気に返事しようとした、その瞬間だった。
 たん、と何かが弾けたような、そんな感じの形容しがたい音が響いてきた。
 ――最悪の、状況を導き出すことになった。

528(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:02:53 ID:WLKNz3/g0
「え……?」

 何の音か理解できなかったゆめみが呆然とそれを聞いていたのと対照的に、ポテトが玄関へと向けて走り出す。
 その白い姿で、ようやく我を取り戻したゆめみがそれに続くように駆け出す。
 いや、正確にはあの音が特別に危険な代物であると、コンピュータが推測したからだった。
 そう、その音は、銃声に、酷似していたのだ。
 ゆめみとポテトが乱暴とさえ言える勢いで外に出る。
 玄関の扉を開けた、すぐ前の砂浜で……

「小牧さんっ!」
「ぴこっ!」

 小牧郁乃は、うずくまるようにして、白い砂浜を赤く染めていた。
 そして、その真横に悠然と、されど傲慢に立つ男。
「……なんだ、奴はいないのか? まぁいい、前座にはぴったりだ。そうだろう、ロボットに糞犬」

 岸田洋一、その男が笑っていた。

「ぴこーーーーーーーっ!」

 その言葉を聞き終えるが早いか、ポテトは真っ直ぐに岸田へと猛進していた。
 小牧郁乃から離れろ。彼女を汚すな。ポテトの目はそう語っていた。
 地面を蹴り、砂を巻き上げるその脚力はポテトの小柄な姿からは想像もできないくらいに力強い。あんな小さな犬と侮っていた人間ならまずその速度に驚愕し、牙による一撃を腕か足か、どちらかに受けていただろう。

529(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:03:16 ID:WLKNz3/g0
 だが今の岸田にはそれはお遊戯程度でしかなかった。
 軽く身を捩って躱し、そればかりか飛び掛かって空中にいたポテトの頭を掴むと、そのまま近くの木の幹へと投げ、叩きつける。
 したたか打ち付けられたポテトが力なく落ち、痙攣を繰り返す。
「犬如きが、何をできると思った!? 図に乗るなッ!」
 恫喝するその声は、もはや無学寺での面影はない。殺人鬼の名称ですら相応しくない、まさに狂戦士の姿である。

 ふん、と侮蔑にも満ちた視線で一瞥すると、次はそれをゆめみへと向け――鉈を取り出した。
「小牧さんから……離れてください!」
 まるで予測していたかのように、ゆめみが忍者刀を振り下ろしてくるのを、岸田はあっさりと受け止めていた。

「ほぅ、以前よりはマシになっているじゃないか……だが、そんなもので俺が満たせるかッ!」

 力任せに押し戻すと、岸田はバランスを崩したゆめみに向かって思い切り前蹴りを見舞う。
 モロにそれが直撃したゆめみは砂浜を転がりながらも、すぐに起き上がる。そこに岸田が間髪入れず、鉈を振り下ろす。
 プログラムによって運動能力が向上していたゆめみは、それを間一髪ながらも避ける。もしも以前のままであれば頭部のコンピュータごと唐竹のように割られていただろう。代わりに散ったのは、長く、美しい浅黄色の髪の一部。

「せあっ!」

 再び、刀で岸田目掛けて切りつける。やや単調な攻撃ではあるが、早さだけ見るならそれは並大抵の男よりは十分に早い攻撃だ。
 しかし事もなげにそれを防御し、そればかりか受け止めつつ左フックを顔面目掛けて放つ。
 首を捻ってそれを回避したかに思えたゆめみだが、またもや体勢の崩れたところを今度は膝蹴りで吹き飛ばされる。
 人口皮膚を通してパーツの一部がギシッ、と悲鳴を上げたのがゆめみには分かった。

 背中から砂浜に打ち付けられ、砂が服の中に入り込むが、それをどうこう感じるようなゆめみではない。もとよりそのような機能は備わっていない。
 ただ、かつて郁乃を傷つけたばかりか沢渡真琴を殺害したこの男を放置しておくのはあまりにも危険だと、そう考えるが故に。
 ゆめみは、立ち上がり続ける。

「まだまだ……わたしは動けます!」
「ポンコツの癖に、粋がるなッ!」

530(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:03:44 ID:WLKNz3/g0
 三度、ゆめみの刀と岸田の鉈がぶつかる。
 力では勝てないと経験則で判断したゆめみは手数で攻める。
 あらゆる方向から薙ぎ、どこか一箇所でも傷をつけようと攻めを繰り返すも、躱され、受けられ、流される。
 それでも繰り返せば当たると、そう判断するゆめみは斬撃を続ける。それでもなお攻撃は当たるどころか、掠りさえしなかった。

「ふん、貴様、それで俺を殺すつもりなのか」
 その最中、岸田が口を開く。
「さっきから腕や足ばかり狙いやがって……俺を殺すつもりがないのか! 殺すなら、突いてみろ! 俺の胸を! 切り裂いてみろ! 俺の喉をッ!」
 胸を指し、顎を持ち上げて無防備にも喉を見せる岸田だが、ゆめみは手を変えようとはしない。あくまでも腕や足を狙うのみ。

 何故か?
 それは、彼女が……ゆめみがロボットだからだ。
 ロボット三原則。
 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 今ゆめみがしている行動は、矛盾している。
 人間に危害を及ぼさないために、別の人間に危害を及ぼそうとしている。本来ならエラーを起こすくらいの重大な問題ですらある。
 だが、今回は特別であった。岸田洋一という男を放置しておけば、よりたくさんの人間に被害を与える。そう判断できたからだ。
 しかし、それでも、人間を殺害するというその行為だけは、ゆめみにはできなかったのだ。
 岸田洋一もまた、人間であるために。

「殺しません……殺さずに、小牧さんを助けてみせます!」
「殺さない!? 殺さないと言ったか! そんな中途半端なことで……俺が負けるわけがあるかッ! だから貴様はクズなんだよッ!」

 一瞬、岸田の姿が大きくなったように、『ロボットであるのに』ゆめみは錯覚した。
 錯覚という事象を判断できず、ゆめみの動きが数瞬、停止する。岸田がそれを逃すはずはなかった。
「今ここで貴様をぶっ壊すのはやめだッ!」
 岸田の放った鉈の一撃が、ゆめみの手から刀を奪う。続けてゆめみを蹴り倒すと、起き上がらせる間もなく岸田はゆめみを足蹴にし続ける。
「貴様も! 小牧郁乃も! 高槻の目の前で殺してやるッ! バラバラに砕いて、絶望に慄く姿を見ながら、楽しみながらな! 貴様のような、貴様のような! 口だけの甘ったれが! 戦いの場に出てくるんじゃないッ!!! 大人しく死んでいれば……いいんだよッ!!!」

531(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:04:04 ID:WLKNz3/g0
 一際強く、ゆめみの頭部を蹴り飛ばす。あまりの勢いで体ごとその体が吹き飛ぶ。
 そして、それ以降、ゆめみの体は動かなくなった。
「……こんなのにも耐えられないとはな。所詮、ゴミクズはゴミクズか」
 吐き捨てる岸田。その背中に、かかる言葉があった。

「ひどい……なんて、ひどいことを……!」
 足をドラグノフで狙撃され、そのまま倒れこんでいた、小牧郁乃の声だった。
 撃たれた足からはじくじくと血が流れ出し、赤で砂浜を染め上げている。
 岸田は不敵に笑いながら、憎々しげに見上げる郁乃の頭を、砂浜にめり込ませるかのように踏みつける。ぐっ、と短い呻きが漏れる。

「どの口がそんなことをほざく? 貴様さえここにいなければあの犬もあのガラクタもああならずには済んだのかもしれないじゃないか? ん、どう思う小娘」
「何よ、他人事みたいに……!」

 強気な口調ながらも、心の底では岸田の言葉を、郁乃は否定しきることができなかった。
 『また』。また、自分のせいで誰かが傷つき、倒れる。
 沢渡真琴が骸と化したあの光景が、郁乃の頭に描き出される。
 しかし、今回も、『また』、そうなのか?

「違う……! 私が、私がみんなを……助けるんだ!」
 周囲の音全てをかき消す怒声に気圧され、岸田のかけていた圧力が弱まる。郁乃はその機を逃さず岸田の踏み付けから逃れ、ごろごろと転がりながらあるものを掴み取る。
 岸田は身軽に戦うため、自分のデイパックを砂浜に放り出していた。また、その時にふと零れてしまったのか、拳銃(ニューナンブM60)が転がっていたのだ。

 郁乃が取ったのは、まさにそれだった。
「形勢逆転よ! あんたが走ってもこの距離なら外さない!」
 ニューナンブの銃口が、岸田の真正面に立つ。予想外の反抗に、岸田は苦虫を噛み潰したような表情になった。
 装備は手持ちの鉈だけ。伏せているこの体勢ならばそうそう外すことはない。
 勝った、と郁乃は思った。

532(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:04:26 ID:WLKNz3/g0
「……威勢はいいようだが、撃てるのかな? 人を殺したことはないんだろう? だいたい、本当に撃てるならとっくに撃ってるはずだからな。どうした、そら、撃ってみろよ」
 岸田は必死に虚勢を張るが、明らかに動揺しているのが見て取れる。哀れみにも似た感情を、郁乃は抱いた。
「それじゃあ、お望みどおりにしてあげる……あんたの罪を、ここで償えっ!」

 躊躇うことなく、郁乃はトリガーを引いた。
 ぱん、という軽い音と共にそれが岸田の真正面に命中する。
「……ほ、本当に……撃ちやがった……」
 がくりと膝を落とす岸田。このまま体の上半身も倒れ、そのまま骸となるのだろう。
 これがあの殺人鬼の最後なのだろうか。あっけないものだ――

「なぁんてな」

 腹を抱え首を垂れていた岸田が顔を上げたのは、郁乃がそう思った瞬間だった。
「え……っ!?」
 気が緩みかけていた郁乃に、再びニューナンブを構えるだけの時間はなかった。
 いや、構えようとしたときには、岸田は既に郁乃に向けて全力の蹴りを放っていた。
 どん、という鈍い感触と共に、郁乃の体は宙に浮いていた。まるで、サッカーボールのように。

「か……はっ」
 ニューナンブを奪いに行ったときよりも数倍の勢いで転がる。その勢いに圧され、ニューナンブは郁乃の手から離れてしまっていた。
「く……な、なんで……?」
 止まったときには仰向けであった。目に映るのは一面の空だけ。ひどく綺麗だった。
 体中に痛みを感じながら、郁乃はそんな疑問を漏らす。

「なんだ、もう忘れたのか」
 影が差すように、空を遮って岸田の顔が現れる。その表情は喜悦に満ちていた。
「まったく、学習能力がないなお前は。忘れたか? 俺が着ているものを」
「あ……っ!」

533(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:04:48 ID:WLKNz3/g0
 そうだ。どうして忘れていたのだろう。
 岸田は、防弾アーマーを着ていたということを。
 愕然とした郁乃の顔を見た岸田が、さらに嗤う。

「仲間を助けるんだとか言って、自分に酔いしれていたんじゃないのか? 笑わせるな、小娘」
 郁乃は息を詰まらせる。そんな、そんなはずはない。
 しかし失念していたのは確かだ。愚かなのには違いなかった。
 歯噛みする郁乃を見てひとしきり顔を歪めると、一転して表情が不機嫌なものへと変わる。

「……しかし、今のは痛かったぞ。ごわごわするんだ……ああ、肋骨の一本でもイカれたかもしれない。そこだけは、やってくれたな」
 身も凍りつくような、とはまさにこれだと郁乃は思った。
 視線の先から滲み出る悪意。それに射られただけで体がすくんで動けない。
 カチカチ、と音が鳴っている。それが理解できたのは、岸田が振り上げた鉈の刃に移る自分の姿を見たときだった。
 震えているのだ。そう思ったときには鉈が郁乃の足に振り下ろされていた。
 めきっ、と何かがひび割れるような感触があった。それに続いて、今まで感じたことのないような熱さと痛みが、足から這い上がりたちまち郁乃の全身へと広がった。

「ぅあああああっ!」
 悲鳴を上げ、砂浜でのたうつ郁乃。
 奇妙なダンスだった。何かを求めるように、手が空をさ迷う。苦痛を和らげるものがないか、探すかのように。
「くくく、はははははっ! どうだ、大切な足をザックリやられた感想は!? せっかく歩けるようになったのに、これでまた車椅子生活だなぁ? まったく、無駄な努力になってしまったなぁ!」

 郁乃の努力を、生き方を嘲笑うように岸田は嗤い続ける。
 郁乃は苦痛に喘ぎながらも、悔しくてたまらなかった。怒りを感じていた。
 自分のミスにも、岸田の冒涜するような行いにも。

「はっはっは……さて」
 まだまだこれからだ、とでも言わんばかりに岸田はまた鉈を振り上げ、今度は反対の方の足へと鉈を振り下ろす。
 また嫌な音がしたかと思うと、苦痛が倍になって襲い掛かってくる。いや、倍などという生易しいものではなかった。累乗と言っても差し支えない程の痛みが、郁乃を苦しめる。自分の悲鳴すら、今の郁乃には届いていなかった。

534(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:05:19 ID:WLKNz3/g0
「いい鳴き声じゃないか。そら、もっと鳴いてみろ。そら」
 傷口を直接、岸田は足でぐりぐりと擦りつける。100万ボルトの電流を流されたような痛みが追加され、郁乃は気を失いそうになる。
「あ……がっ……この……外道……!」

 ほぅ、と岸田は感嘆にも似た声を漏らす。絶対に屈しないという意思を集約したかのような目で、郁乃は抗い続けていた。
 ますます愉快そうに、岸田は嗤った。簡単に堕ちるようでは贄の役割は務まらない。無駄な抵抗を踏み躙る事こそ器を満たす液体。
「光栄だな。では、ご褒美だ」

 三度目の鉈。今度は手のひらの中心へと刃が落ちた。
 続けて四度目。さらに反対の手のひらにも振り下ろされる。
 既に、悲鳴はなかった。朦朧として霞む意識で、郁乃は耐え続けるしか抵抗する術はなかった。

「くく、これで物も満足に握れなくなったってワケだ。さしずめ達磨さんといったところかな……そうだ、どうせなら切り落としてやろうか? どうだ、ん?」
「……か……」

 勝手にしろ、という言葉すら痛みにかき消されて出てこない。意識を繋ぎとめるだけで精一杯なのだ。
「潮時か。まあ、お前はよく頑張ったよ。まだ見えているなら、俺があのポンコツを壊す様をじっくりと見てるんだな」
 岸田の興味は、既に倒れているゆめみに向けられている。蹴られたときの衝撃でシステムがダウンしているのか、ぴくりとも動かない。

 いけない。まだだ、まだ注意をこちらに向けさせないと――
 激痛を必死に堪えて、口を開く。
「……!」

 岸田の体の向きが、変わる。
 やった、また、注意を向けさせることができたのだ。大量の失血により薄れゆく意識の中で、郁乃はそう思っていた。
 しかし、違った。郁乃は結局、声を出せなかった。岸田が引き付けられたのは、郁乃の声にではない。

535(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:05:44 ID:WLKNz3/g0
「……来たか。待った、この時を待ちかねたぞ……!」

 そこに、一人に男が駆けて来たからに他ならない。

「高槻ッ!」
「岸田ァ!」

 そして、二人は同時に叫んだ。

「「ブッ殺してやるッ!」」

     *     *     *

 ゆめみが転がっていた。
 郁乃が倒れていた。
 何故二人が外に出ようとしたのかなんて、俺様には分からない。だが、今の状況を作った原因が、奴のせいだということはすぐに分かったさ。

 三度目だ。奴とこの島で会うのは三度目。
 三度目の正直とはよく言ったもんだ。二度逃がした結果が、これか。
 くそっ、畜生!
 何で俺様はこんなに頭にきてるんだ?
 郁乃もゆめみも、赤の他人じゃねぇか。別にどうなろうと知ったこっちゃない。そう思ってたってのによ。ああもう、分からん。

 俺様が、俺様を分からない。
 だが、これだけは言える。
 奴だけは……岸田洋一、奴だけは絶対に許さん!

「高槻ッ!」
「岸田ァ!」

536(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:06:06 ID:WLKNz3/g0
 俺様は懐にあったコルト・ガバメントを抜きながら叫んだ。

「「ブッ殺してやるッ!」」

 ちっ、ハモるとはますます気分が悪くなるぜ。
 俺様はまず一発、発砲する。奴の武器は鉈だ。なら距離を取って戦えばいい。
 だが岸田はそれを予測していたようで、身軽な動きでサイドステップしてこちらに迫る。

「飛び道具はつまらんぞ! せっかくの決闘に、そんなものを持ち込むなッ!」
「うるせぇッ! お前も今までさんざ使ってきたじゃねえか!」

 円を描くように振り回される斬撃の応酬を、俺様も飛び跳ねながら避ける。クソッ、あいつ、今までより動きが良くなってやがる!
 銃を構えようとしても照準を向ける前に鉈が迫ってくる。赤い鉈が。
 だが奴だっていつまでも振り回し続けられるはずがない。疲れて動きが鈍ってきたところに、一発叩き込んでやる! 今度はヘマはしねえ、ドタマをブチ抜く!

「どうした、避けてばかりいないで反撃してみたらどうだ!」
 言われずともそうしてやるさ。奴の攻撃もだんだん大振りになってきた。次を躱したときが……チャンスだ!
「っ、さっさと当たれ!」
 岸田が大きく鉈を振りかぶる動作をする。よし、今だ――!?

「フェイントだッ!」
 ニヤリ、と岸田は笑ったかと思うと、目にも留まらぬ勢いで鉈を振ってきやがった! 疲れていたように見せていたというのか!
 俺様はギリギリで反応し、体に当たることだけは防いだ、が、運悪くガバメントに鉈の刃が当たり俺様の手から弾け飛んで遠くへと放物線を描いていってしまった。
 ぐっ、と手を押さえる俺様に、岸田はトントンとてめえの頭を指しやがる。

「俺を、今までの俺だと思うな、高槻」

 何か言い返したくなるところだが、確かに奴は今までとは違う。何かが洗練され、研ぎ澄まされたような感じだ。……そういえば。野郎、俺様のことを名前で呼ぶようになってやがる。今までクズだのカスだの言ってたくせによ。は、ここにきてようやく人間に格上げですか。そりゃまあクソありがたい事ですね。

537(飲酒運転)/Fight it out!:2008/04/27(日) 17:06:37 ID:WLKNz3/g0
「さぁ、お遊戯は終わりだ。そこの刀を取れ、高槻。極限の状況、互いが互いの殺意を向け合う決闘では、肉体と死の感触を得られる格闘戦こそ相応しい」

 岸田が、まるで用意されたかのようにあった、俺様のすぐ横にある忍者刀(だったかな)を鉈で指す。どうも奴はこだわりがあるようだ。
 冗談じゃない、奴のこだわりとやらに付き合う暇も、余裕もない。……しかし、アレ以外に、近くに武器がないのも、確かなことだ。
 だったら、奴の決闘ごっこに付き合いつつ、銃を拾い、こっちのペースに持っていくしかない。
 俺様が刀を握るのを見届けた岸田が、ようやく満足そうな笑みを浮かべる。クソッ、気に入らない。

「そうだ、それでこそ、あの贄どもの意味も出てくるというものだ」
「贄……?」

 オウム返しのように、その言葉の意味を尋ねると、岸田はさも愉快そうに説明を始める。

「あぁ。愉しかったぜ、必死で抵抗するあの小娘の四肢を切り刻んでやったのはな……見せてやりたかったぞ高槻。あいつは、せっかく歩けるようになったというのに、この俺の手で二度と立てないようにしてやったんだからな! いや、ひょっとしたらあのまま死んじまったかもな、はっはっは!」
「な……に?」

 あいつは、歩けるようになるまで、必死に頑張っていたというのか? 俺様が寝ている間の、何時間という間を。
 それを、こいつは、その何十分の一という時間で、全部台無しにしやがったってのか?
 小賢しい知恵が、俺様の頭から吹き飛んでいく。代わりに流れ込むのは憤怒。どうしようもない思いだった。

「ついでに手も切ってやったしな。これであの小娘は一人じゃ何にも出来なくなったってワケだ。悔しそうだったぜ、あの時の顔は」

 郁乃の、ほんのささやかなプライドすら……野郎は、踏み躙ったってのかよ?
 ……許せねえ。
 何が許せないか? 岸田もそうだが、それ以前に……

「まぁ、あえて文句を言うならあそこでみっともなく助けでも求めてくれれば――」
「――黙れ」


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