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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

593書き手:2013/03/10(日) 13:10:20
>序章が丁度この頃、という感じでしょうか?
そうですね、もうちょっと尚隆がぐるぐるして、「序」章はその後という感じです。
あえてきっちりつなげることはしませんけど。
にしても書き始めたときは、まさか五年もかかるとは思いませんでしたw

次回は、早ければ今月中、遅くても来月には投下します。

594永遠の行方「王と麒麟(197)」:2013/03/20(水) 09:32:38

 眠る六太の傍らで、ひとり静かに腰かけた尚隆は、ふう、と小さく息を吐い
た。
 彼には鳴賢が楽観したような、「お慕いしています」程度の言葉を聞かせれ
ば解ける呪とは考えられなかった。何を恨んでいたにせよ、長い時間をかけて
周到に準備した呪者が、偶然解ける可能性のある条件を採ることはないだろう。
少なくとも何らかの能動的な行為、おそらく身体的な接触は必要なはずだ――
性交かどうかはともかく。
 陽子は生娘だろうな、と尚隆は重い気持ちで考えた。あの六太が生々しい行
為を望んでいたとは思わない。とはいえこのまま他に心当たりを思いつけない
なら、可能性を完全に除外するわけにはいかないのではないか。
 鳴賢との約束もあり六太の懸想を明かすつもりはないが、もっともらしい言
い訳さえ考えられれば、生真面目な陽子は逆に覚悟を決めて同衾してくれる可
能性はあった。今、雁に何事かあれば、慶も共倒れしかねないからだ。
 だが慶の諸官に話が漏れたら大変なことになる。景麒への恋着から暴君と
なった予王の記憶のせいで、ただでさえ女王の色恋沙汰に厳しい国柄だ。また
もや相手が麒麟、それも今度は他国の麒麟となれば、民や官の幻滅と反感を招
くのは必至。そうなればまだまだ足元が固まっていない赤楽王朝にとって致命
傷となりかねない。目覚めた六太自身、罪悪感に駆られて苦しむだろうし、
却って陽子と疎遠になるかもしれない。計らった尚隆との関係に至っては、想
いの深さの反動から言っても確実に悪くなるだろう。そうなればたちまちのう
ちに歪みが蓄積し、雁の王朝もきしみを上げ始めるに違いない。
 そして――それでも呪が解ければまだしも、見込み違いで解けなかったらそ
れこそ悲惨だ。
 こればかりは単なる試みや、だめでもともとという考えでやっていいことで
はない。必ず呪が解けるという確証が必要だった。
 だがあれからずっと考え続けていた尚隆にはわかっていた。慶を、他国を巻
き添えにしてはいけないことを。王としての決断を下すなら、このまま口を閉
ざして語らず、陽子はもちろん誰にもほのめかすことさえせず、六太自身の望
みどおり彼を放置すべきであることを。だがその選択を脳裏に浮かべた尚隆は、
即座に嫌だと思ったのだった。

595永遠の行方「王と麒麟(198)」:2013/03/20(水) 09:45:21
 このまま六太を見捨てる。半身を切り捨てる。何もかもを――諦める。
 一緒に出奔した日々。楽しかった道中。喧嘩と仲直り。
「なぜ、俺に言わなかった」
 昏々と眠り続ける六太に、尚隆は吐き捨てるような口調で問いかけた。せめ
て六太の想い人が陽子だという確実な証拠があれば、誰の心情も傷つけない方
法を模索できるかもしれないのに。
 だが今の状況では、あまりにも繊細な事柄ゆえに、六太の片恋にからむ話題
は何であれ考えることさえ危険だった。第一、六太の生命が危ういならまだ言
い訳のしようもあるが、まったく問題はないのだ。
 鳴賢が口にした、蓬莱で親に捨てられたという経緯を思い出す。捨てられた
ことを恨みもせず、家族が生きながらえるために、みずからの死を受け入れた、
たった四歳の子供。
 二度と目覚めないという呪を受け入れた六太は、そのときと同様、死を甘受
したのと同じだ。肉体的な死がありえないことを術者にしつこく確認したのは、
単にそれが王の命とつながっているがため。王の死は簡単に国の荒廃につなが
るため。仮にそうでなかったとしたら、真の死すらあっさり受け入れたのだろ
う。見知らぬ他人の命さえも哀れんでしまう彼は逆に、自らの安全や命に対し
て、ある意味では非常に無頓着だった。しかし。
 たとえ六太が陽子に懸想していたとしても。
「俺にとって、おまえ以上に大切な者などおらんのがわからんのか……!」
 ついに尚隆は苦悩の声を上げた。
 答えはなかった。

 草木が瑞々しく萌えいずる春だった。宮城の殿閣も華やかな色彩に飾られて
いるはずだった。
 なのにこの褪せたような風景は。
 窓辺でひとり園林を眺め渡していた尚隆は、不思議だな、とぼんやり考えた。
最初は必ずや呪を解く方法を見つけると意気込んでいたし、確信してもいた。
しかし六太の覚醒は望めないかもしれないと覚悟せざるを得なくなった今、傍
らに彼がいないだけですべてが無彩色になったようだった。
 冬官たちが日々努力しているのは承知している。しかし現実には事件以来、
何の進展もないのだ。そして誰も六太の懸想を想像してもいない。相手が陽子
かもしれないということも。元日にもたらされた占形とて、実際には身のある
内容はまったく示されていなかった。

596書き手:2013/03/20(水) 09:52:36
こんな感じで、またしばらくちまちま投下していきます。

597永遠の行方「王と麒麟(199)」:2013/03/23(土) 00:37:00
 だが尚隆は官の精勤に水を差すつもりはなかった。解決に向けて努力し続け
る限り、彼らが真に絶望に駆られることはないだろうからだ。そしてそのうち
自然と、誰にとっても六太の不在が当然の状態になる。
 いや、既に宮城でも、解呪に携わらない大半の者にとってはそうなっている
と言えるだろう。それでも新年の慶賀を一区切りとして、王に障りがないこと
を確信したらしい官の多くが安堵して見えるのは幸いだった。あるいは水面下
では、万が一のために不正に蓄財をもくろむ輩も出てきているかもしれないが、
明らかな傾国の兆候が見えるまでは大事に至らないはずだ。
 尚隆は毎日機械的に政務をこなしていた。冢宰や六官の働きには不足もなく、
尚隆の決断を必要とする事態も起きていない。吟味され、奏上された書類を承
認すればそれで済む。その陰でほとんどの官は、主君の鬱屈の度合いが静かに
進行していることに気づいていなかった。
 尚隆は時折、ふらりと仁重殿を訪れて六太を見舞った。冬官たちが詰めてい
たり黄医による診察の時間帯は避け、最近では女官たちと談笑することもなく
すぐに人払いをし、ただじっと半身の眠る姿を見つめて過ごした。
 ――本当に陽子なのか。
 心の中で幾度も問いかける。そしてもしや自分を見捨てろとの伝言は、今の
尚隆の状況を見越してのことだったのだろうかと考えた。陽子のために。慶の
ために。呪にかけられる直前、六太が気遣ったのは、果たして隣国の女王のこ
とだけだったのか。
 だとしても、尚隆ならひとりでも大丈夫だと信頼してのことだったのだろう。
しかし買いかぶりすぎだと思うのだ。これまでどれほど後悔を重ねて生きてき
たか、尚隆自身が一番よく知っていた。
 ある晩、数日ぶりに仁重殿を訪れると、六太は横たわったまま薄目を開け、
放心しているように見えた。だがその目は何も映しておらず、焦点が結ばれる
ことはないのだ。頬に掌を添わせても反応はない。普通なら額を触られるのを
嫌がるのに、これまた無反応だった。呪者の残した言葉通り、人形と何も変わ
らない。しかしながら温かな血の通う肉体を前にして、たとえ心はここになく
とも人形だと思うことは難しかった。
「何が望みだ」
 ぽつりとつぶやく。しかしその言葉は空しく牀榻の壁に吸い込まれて消えた。
尚隆は椅子に座ったまま、伏せた顔を片手で覆い、苦悩の吐息を漏らした。

598永遠の行方「王と麒麟(200)」:2013/03/23(土) 10:38:58
 決断、というほどのことはない。このまま手をこまねいていれば、おのずと
六太は見捨てられる。しかしそうすべきだという王としての理性と、個人とし
ての感情はいまだに折り合いがつかなかった。
 それでいて焦りがあるかと言えば、不思議なことに逆なのだ。理性と感情の
狭間にあって、どちらにも行けない今、心中はむしろ凪いでいた。それは平静
というより、亡国もやむなしとする諦めの境地に近い。これからの人生を半身
たる麒麟なしで孤独に生きることを考えると、王朝に対する未練は自分でも意
外なほど感じなかったからだ。
 積極的に死にたいわけではない。しかしあらためて終わりのない生と王の重
責を思うと、いかに雁を愛していても気が重いだけだ。ここまで国を繁栄させ
るのも相当な苦労だったのだから。
 そもそもこれだけ長く生きたのだ、いつ死んでも文句のあるはずはない。そ
ういえば六太も同じことを鳴賢に語ったのだったか。
「五百年、か」
 乾いた声でふとつぶやく。われながらよくぞここまでもったものだと、尚隆
はしみじみ思った。
 潮時なのか、とも考える。これは寿命のない王に対する運命からの宣告の一
種なのか。
 決して国を滅ぼしたいわけではなかった。だが孤独をかかえたまま重責を担
い続けなければならないとしたら、この際、風のように消えていくのも悪くな
いように思えた。第一どの道を選んだとて、終焉自体は必ずやってくるではな
いか。
 いずれにしろ、このまま日々を漫然と過ごしていても遠からず王朝は傾くだ
ろう。王が迷いに囚われるようになったら最後なのだから。毎日の政務を機械
的にこなす程度では、国が徐々に疲弊していくのは避けられない。だがそのこ
とに諸官が気づいたときには遅いのだ。
 もちろんすぐには影響は出ないだろう。雁の体制はそれほど脆弱ではない。
仮に尚隆が政務を放棄したとしても、祭祀さえ行なっていれば数十年程度はも
つと思われた。しかし王の乱心による亡国が犯罪によるむごたらしい即死のよ
うなものとしたら、職務放棄による消極的な傾国は、みずから望んだ断食によ
る緩慢な衰弱死だという程度の違いしかない。

599永遠の行方「王と麒麟(201)」:2013/03/23(土) 19:49:24
 これまで滅亡への暗い思いをいだいたことは幾度となくあると自覚している
尚隆は、そのときでも妙な気概はあったなと過去を振り返った。今の腑抜けた
気持ちとは全く違う。国を滅ぼそうと考えるのにもそれなりの覇気がいるもの
らしいが、それでも亡国という結末は同じだ。とはいえ、雁に頼っている慶に
とっては猶予期間があるほうがありがたいだろう。
 ――そう、陽子を巻き込むわけにはいかないのだ。
 彼は孤独に笑った。そして心の中で六太に、俺がいなくなってもおまえは平
気なのかと問いかけた。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きも
のだと六太自身が語ったのではなかったか。
 確かに意識はない。しかしこうして尚隆が見舞うたび、奥深いところでは主
君の来訪を喜んでくれていないだろうか。もし王気が遠く離れたら、麒麟とし
ての本能ゆえだろうが何だろうが、王を探しに赴きたいとの強い欲求が芽生え
ないだろうか。
 淋しげな笑みを浮かべながら、尚隆は半身の髪に指を通し、そっと頭をなで
た。そしてしばらく押し黙ったのち、決然とした表情になると静かに立ち上
がった。
「王を探すのは麒麟の役目だ」
 低いつぶやきを残して六太の牀榻から立ち去る。彼はいったん正寝に戻ると、
そのまま宮城から姿を消した。

「主上が?」
「禁門の閹人(もんばん)によると、昨夜遅く外出なさり、まだお戻りではな
いようです」
「また大学にでも聞き取りに出向いておられるのだろうか」
「だとしても、これまでは夜中のうちに戻っておいでだったのに」
 主君の逐電の報を聞いた六官は、早朝あわただしく会合を持った。そのまま
主君なしで朝議を済ませたものの、午(ひる)になっても尚隆が戻ってくる気
配はなかった。大司馬などは最初「そろそろ主上も息抜きしたかったのだろ
う」と悠然と構えていたが、白沢と目配せした朱衡の「実はこんなことが」と
いう話にさすがに不安をあらわにした。
「王など首をすげ替えればすむと、本当にそうおっしゃったのか? 五百年も
よくもったものだ、と?」

600永遠の行方「王と麒麟(202)」:2013/03/23(土) 22:07:33
「はい」
「不吉な」大司馬は難しい顔で唸った。
 そのまま丸一日が過ぎても尚隆は戻らず、彼らは本格的に不安に駆られた。
何ヶ月も行方をくらますこともあった以前と違い、この一年、姿が見えないと
してもせいぜい半日程度だったのだ。それも遊興ではなく、市井での聴取のた
めとわかっての不在だった。
「さて、どうしたものか」
「しかし現実問題として、このままお帰りを待つしか」
「うむ……」
「とにかく我々が動揺を見せては、部下たちに悪影響を及ぼしかねません」
「そうですな。しばらくお姿がなかったとしても、主上は以前のように気楽に
出奔なさったのだという体でいるのが一番良い。実際、そのうち何事もなかっ
たようにお戻りになるはずだ」
 ――でなければ永遠に姿を消すか。ついそんなことを考えてしまった朱衡は
身震いした。
 いずれにしろ、やはり悪い兆候だったのだ。一見すると些細な事柄だったゆ
えに、まさかまさかと思いつつも打ち消してきた。しかしよくよく考えてみれ
ば、以前にも似たようなことはあった。
 あれはいつだったか。光州の、梁興の謀反の少し前だったように記憶してい
るから――二百年以上は昔の話だ。
 まだ、主君の滅入る気配がはっきりとしなかった頃。ある日、尚隆がぽつり
とつぶやいたことがある。宮城にいてばかりでは「息が詰まる」と。
 冗談交じりに、あるいは単にぼやいただけなら聞き流しただろう。しかしそ
の疲れたつぶやきは妙に朱衡の心を捉え、不安にさせた。彼が主君の出奔をあ
る程度まで大目に見ていたのはそのためだ。宮城を離れて息抜きをしなければ、
おそらくあの王は窒息してしまうのだろう。
 こうしてあらためて考えると、尚隆には意外ともろいところがあるように思
えた。何よりこれほど長い治世を敷いても、心の内を臣下に見せることなど滅
多になかった。どんなにいい加減に見えても、臣下との間には明確に一線を設
けていた。それは言い換えると、素の自分を誰からも慎重に隠して孤立してい
るということではなかったか。

601永遠の行方「王と麒麟(203)」:2013/03/24(日) 12:44:40
 主君にも心の支えが必要だ、と朱衡は初めて強く考えた。何事かあったとき、
少なくとも気を紛らわせる人なり物なりがなければならない。だが……。
 難しい問題だった。平素なら尚隆は自分で適当に市井で発散してくれるから、
その意味では面倒がなかったのだが。

 そうして宮城で六官が内々に打ち合わせていた頃、肝心の尚隆は騶虞を駆り、
既に関弓から遠く離れた場所にいた。市井の様子を見聞するときは妓楼だの賭
場だのに入り浸り、表面に表われない民の本音をさぐることが多かった。そう
いったいかがわしくも賑々しい場所では雑多な人間が集まる上、素性を詮索さ
れにくかったからだ。
 しかし今回ばかりは目立たない町を選んで逗留し、何の変哲もない地味な舎
館で息を潜めるようにじっとしていた。そして騎獣を預けたまま時折ぶらぶら
と食事に出るのみで、無為に時を過ごした。
 毎晩舎館を変えていた彼は、ある安宿で話好きの使用人の少年と暫時言葉を
交わした際、問われるまま、待ち合わせをしていると簡潔に答えた。だが本気
で六太が探しにくることを期待していたはずはない。この程度で目覚めるもの
なら、とうに目覚めていたろう。
 それでも尚隆は昼間、ふと往来で空を見上げては、どこかに金色の光がない
かと探した。
 目に映る春の空の色はまだ淡い。そしてその空と下界とを隔てているはずの
雲海はここからでは視認できなかったが、決して通り抜けられない障壁として
確かに存在する。それは尚隆と六太を隔てる障壁でもあった。
 一人部屋に泊まっていたものの、安宿は壁も薄いものだ。特に外の静まる夜
間は、他の房間の話し声やいびき、廊下の足音といった雑多な騒音が耳につい
た。しかしそうやって他人と完全に切り離されなかったことは、却って今の尚
隆には良かっただろう。夜の静けさは人を物思いにふけさせるものだ。そして
明るい陽の下では平気だったことが、不意に耐えられなくなってしまう魔の刻
でもあるのだから。
 それゆえ普段の尚隆は、夜間は市井でも宮城でも決断を要することは考えな
いようにしていた。哲学めいた思索には向いているかもしれないが、夜の闇と
静寂の中でひとり考えたことは概して悲観的になる傾向があるからだ。

602永遠の行方「王と麒麟(204)」:2013/03/24(日) 12:51:53
 だが今の彼はみずからを追いつめるように、折りたたんだ衾褥に寄りかかり
ながらじっと考えに沈んでいた。夜が更けるにつれ隣室の話し声もやみ、遠く
で聞こえるいびきだけになっていく。
 平和だ、と彼は思った。平凡で穏やかで――何百年も彼が守ってきた市井の
暮らしがここにあった。
 だが安らぎではなく懐かしいような切なさを感じるのは、この平穏が終わり
つつあることを知っているからだろうか。今この時代が、すぐに過去形で語ら
れることになるかもしれないと知っているからだろうか。
 ――五百年の昔、蓬莱にあった小松家のように。
 口に出したことこそないものの、尚隆は自分の根がいまだに蓬莱にあると感
じていた。彼にとっての故郷は今でも瀬戸内のあの小さな所領なのだ。既にい
ろいろな記憶はおぼろになり、親兄弟の名前さえ忘れてしまったというのに。
 もちろん雁にも愛着はあるし愛してもいる。自分で試行錯誤してここまで育
て上げたのだ、雁も確かに彼の故郷だった。小松の領地でのことは、おそらく
思い出の中で美化されてもいるだろう。時々無性に懐かしくなるのは二度と帰
れない場所だから。雁も記憶の彼方で懐かしむだけの存在になれば、尚隆は
きっと雁が恋しくて仕方がなくなるに違いない。
 だが王たる彼にはそのときは絶対に訪れない。王でなくなれば死あるのみな
のだから。
 そんなことをつらつらと考えていた尚隆は、ふと六太に思いを馳せ、ああ、
とすべてが腑に落ちた気がした。
 ずっと胸中を蝕んでいた奇妙な苛立ち。淋しさ。自分でも正体のわからない
もやもやとした焦燥感。
 それは王として麒麟を失うからではない。六太が陽子に懸想していたからで
も、身内と見なしていた親しい者を失うからでもない。それらの理由も決して
小さくはないが、六太との別れは、尚隆が生まれ育った時分の蓬莱、懐かしい
瀬戸内との永遠にして完全なる決別だからなのだ。
 陽子に指摘されるまでもなく、六太相手なら蓬莱の話は普通に通じた。それ
も異世界のような現代の蓬莱ではなく、尚隆が生まれ育った時代の蓬莱だ。泰
麒を迎えにいったときのあちらの夜景は無機質で、灯りだけは豊富だったもの
の不思議と温かみは感じられなかった。直線ばかりの灰色の町並みはそっけな
く、その見知らぬ風景は既に完全な異邦だった。だから尚隆にとって懐かしい
と感じる時代の蓬莱を知る者はもう六太だけなのだ。

603永遠の行方「王と麒麟(205)」:2013/03/24(日) 12:57:13
 この世界に来た当時は、むしろ六太を見ると過去を思い出してつらい思いも
したような気がする。だが瀬戸内で出会ったがゆえに、そこにいるだけで六太
は今はもうない故郷の存在を証だてていた。
 何しろ数百年を経た今、蓬莱の記憶はもはや雲をつかむように曖昧だ。そも
そも身ひとつでこちらの世界に渡ってきた尚隆には、その記憶以外に、既にお
のれの故郷を確認するすべはない。しかし一部とはいえ思い出を共有する六太
がいたことで、故郷が夢の産物ではないことを無意識のうちに確認できていた。
王が孤独であるのは当たり前だと、ずっと冷めた思いで突き放しているつもり
だったのに、本当は六太が傍らにいたことで救われていたのだ。たとえその自
覚がなかったとしても。
 これがたとえば臣下に蓬莱出身の者がいない陽子なら、早い段階で克服しな
ければならない事柄だろう。しかし尚隆は六太がいたことで、良くも悪くも故
郷との完全な決別の機会を失った。ときには蓬莱の話をするだけでなく六太を
派遣して、いろいろな情報を得させることさえした。そうして五百年もの長命
の王朝を築いた今になって初めて、本来ならば登極直後に克服すべき現実と対
峙することになったのだ。
 六太こそは尚隆の根、尚隆に残された唯一の蓬莱の形見だった。なのにその
彼を失ってしまっては、いくら枝を伸ばし葉を茂らせようとしても無意味とい
うもの。
 自分はひとりだ。尚隆は今度こそ明確にその意味を理解した。小松の領地も
あの時代も、蓬莱では既に歴史の彼方に消えてしまっている。単に年代的なこ
とを言うだけなら当時から仕えている官もいるが、彼らはあくまでこちらの世
界の人間だ。故郷で同じ時間を共有した人間は、とうの昔から六太しかいない。
 なのに。
「――おまえが!」
 突如としてこみあげた激情のままに、尚隆は思わず声に出していた。拳を握
り、心中を吐露する。
「おまえが俺を連れてきた。おまえが俺を王にした。なのに――なのに、今さ
ら見捨てるのか!」
 彼は両手で顔を覆い、魔の刻の中で日頃の無意識の自制が決壊するに任せた。
 このまま六太を失いたくなかった。たとえ彼が自分を主としてしか見ていな
いとしても、尚隆にとっては唯一無二にしてかけがえのない存在だったのだ。

604書き手:2013/03/24(日) 13:04:01
今回はここまでです。
次回……は慶サイド(陽子)の視点に変わるかな?
投下するまでちょっと時間がかかるかもですが。

605名無しさん:2013/03/27(水) 01:03:44
必須とはいえ小松が切ないですなぁ…
二人が笑い合えるのを願うばかりです。

606永遠の行方「王と麒麟(206)」:2013/04/04(木) 19:14:04

 陽子の元に雁から知らせが来ること自体はおかしくない。しかし鸞や青鳥で
はなく使者が書状を携えてくるのはめずらしかった。おまけにいちおう面識が
あるとはいえ、さほど親しくもない朱衡からの私的な使者。雁からの良い便り
を待ちわびていた陽子とて首を傾げたのは当然だろう。
 外殿の一室で、彼女は景麒を同席させた上で使者を招き入れた。先方は特に
人払いを願ったわけではないが、六太のことがあるので念のために官は下がら
せた。景麒の使令がいれば陽子の安全は確保されるから、護衛の小臣もうるさ
いことは言わずに御前を辞した。
「花見?」
 使者の用件は花見の宴への招待だった。予想外のことに陽子はぽかんとして
問い返した。それを肯定した使者は、朱衡からの書状をうやうやしく差しだし
た。
「景王におかれましては、昨年は見舞いに景台輔を派遣してくださるなど、つ
ねづねわが国へのご配慮に感謝しております。つきましてはちょうど玄英宮の
桜が見頃になりますので、ぜひ景台輔とともに花見の宴にお越しいただき、日
頃のご政務のお疲れを癒していただければと」そこで使者はいたずらっぽい顔
で少し声をひそめた。「実はわが主上がかなり退屈しておられまして、大司寇
は景王をお招きして主上を驚かせたい趣向なのです」
 使者から書状を受け取った景麒が文面を確認し、陽子に招待の詳細を説明し
た。件の桜は現在の蓬莱で一般的な染井吉野ではなく山桜や八重桜の一種らし
い。しかしそれでも蓬莱出身の陽子には懐かしいだろうとの誘いだった。この
世界で花見と言えば普通は梅だ。桜で花見の宴を開くなど、王と宰輔が胎果で
ある雁ならではだろう。
 陽子は少し迷ったのち、返事をするのでしばらく待ってほしいと告げ、女官
に使者のための房室を用意させた。その後、冢宰府まで急いで浩瀚を呼びにや
り、景麒と三人で話しあった。
「何だか唐突な感じなんだがどう思う? 延台輔の事件と無関係とは思えな
い」
 書状を読んだ浩瀚はこう答えた。

607永遠の行方「王と麒麟(207)」:2013/04/04(木) 19:16:11
「これがもともと主上が親しくしておられる延王ご自身のお招きなら不思議な
ことではありません。しかし慶を後援してくださっているとはいえ、相手はた
かが六官。個人的な交友があるならまだしも、そうではないということは、何
か主上においでいただきたい用件があるのでしょう。花見の宴は口実です」
「やはりそうか。書状には訪問の際に渡したいという贈りものの目録もあるけ
ど」
 陽子は貴重な陶磁器やら玉石やらの一覧を指した。かなり高額な金銭の提示
もある。日頃の交流のお礼にしてはおかしいが、先方は陽子たちが不審に思う
ことは織り込み済と思われた。表面的には友邦国からの非公式な宴の招待だが、
これは取り引きの申し出なのだ。陽子が雁を訪ねてくれればこれだけの援助を
するとの。それも一日程度ではなく、少なくとも数日は滞在してほしいのだろ

「朱衡さんと話をしたことはあるけど、とても礼儀正しい人だった。いくらこ
ちらが小国でも、いたずらに他国の王を呼びつけるとは思えない。わたしがな
かなか慶を離れられるはずがないこともわかっているはずだ」
「だからこその好条件なのでしょうね。雁の大司寇の領地がいかほどかはわか
りかねますが、慶の国力との対比で考えれば、一年ぶんの収入以上と考えても
おかしくない額です」
「年収丸ごとか。領地の経営にもいろいろ必要だろうに思い切ったな」陽子は
感嘆した。「ということは、どうしてもわたしに来てほしいということか」
「おそらく」
「延台輔に何事かあったんだろうか」
「確かなことは申せませんが、延王が退屈しておられるという話が気になりま
す。どうやら延台輔ではなく延王に何事かあったようです」
「延王に」陽子はさっと顔色を変えた。
「この様子では使者も詳細は知らされておらず、本当に宴への招待だと思って
いるのでしょう。どうやらあらかじめ理由を説明するわけにはいかないが、雁
としては主上のご助力で何か確実に助かることがあると考えているようです。
少なくとも雁の内紛に主上を利用するといった陰謀の一端とは考えられません」
 陽子は眉根を寄せ、書状の細目を眺めた。しばらく考えこんでから「でもこ
れはこれで悪くない」とつぶやく。

608永遠の行方「王と麒麟(208)」:2013/04/04(木) 19:18:15
「ほら、この間わたしが提案した奨学金制度の計画、予算を捻出できるまで棚
上げになったけど、これだけあれば賄えるんじゃないか? それから時計塔の
建設と」
 彼女が期待をにじませて相手の反応を窺うと、浩瀚は苦笑した。
「とりあえず奨学金の件なら。あとは時計塔より里家の助成に回したほうが良
いですね。正直なところを申せば、主上にはあまり金波宮から出ていただきた
くはありません。ましてや国外になど。しかし台輔がご一緒であれば万が一の
危険もないでしょう。隣国ですし、数日から十日ほどでしたら、その間は拙官
が何とかしますよ」
 物分りの良い態度を見せた浩瀚だが、これは延王もしくは延麒に何事かあっ
たらしいと推測されるためだろう。陽子の安全さえ確保できるなら、彼も早急
に現状を把握したいのだ。
「ああ、頼む」陽子はほっとして眉を開いた。
「主上は延台輔のこともご心配なのでしょう?」
「うん。ちゃんと自分で見舞いに行きたいと思いながらなかなか行けなかった
けど、いい機会だ。ついでに直接延王に日頃の後援のお礼も言える」
「先方からの招待ですし、何よりこれだけの援助があるとなれば他の官も納得
しやすいですね。延王ご自身のお招きではないとはいえ、堅苦しいことのない
よう形式的に官からの非公式の招待になったという話にしておきましょう」
「景麒も特に問題はないよな? 何日か瑛州を留守にしても?」
「はい、かまいません。わたしも延台輔が心配です」
「よし。それならおまえとふたりだけで行くことにしよう。そのほうが却って
面倒がない」
 非公式とはいえ、他国への訪問で王が仰々しい供を引き連れないとは異例だ
が、登極直後、雁に遊学するふりをして固継で暮らしていたときも陽子はひと
りで、供を連れて遊学しているという体裁も取り繕わなかった。もともと堅苦
しいことを嫌っている彼女だから、今回もそれで通せるだろう。
 返信を持たせた使者を帰した陽子は、青鳥でも先方と簡単な打ち合わせをし
たのち、さっそく雲海上から雁に向かった。下界から行っても良かったのだが
旅程が余分にかかるし、何が起きたのだろうと気が急いたのだ。もちろん、よ
く雲海上を気軽に行き来していた延王延麒の影響を受けたというのもある。

609永遠の行方「王と麒麟(209)」:2013/04/04(木) 19:20:18
 高岫を越えてすぐ、雁の最初の凌雲山で、陽子と景麒は朱衡が差し向けた迎
えと合流した。そのまま彼らに護衛される形で玄英宮に入ったふたりは、内々
での訪問とあって目立たないよう数人の下吏を従えただけの朱衡に出迎えられ
た。
「お久しぶりです、朱衡さん」
「遠路はるばるおそれいります。景王、景台輔にはお変わりなく」
「桜を見せていただけるとか。金波宮にはないので楽しみにしてきました」
 当たり障りのない挨拶をにこやかに交わしたのち、掌客殿ではなく朱衡の私
邸に案内された。非公式の訪問であるのみならず、今回は朱衡の私的な招きに
よるものだからだろう。
 もっとも雁の大司寇の住まいとあって相応の格式を持った建物で、一国の王
を招いても礼を失するものではなかった。
 陽子はまず汗と埃を落とすための湯浴みを勧められて好意に甘えた。先方は
現代の蓬莱では毎日入浴する習慣なのを知っているのだ。久しぶりの長時間の
騎乗でこわばった筋肉を入浴でほぐした彼女は、用意されていた豪華だが楽な
衣裳に着替えたのち、奥まった一室で軽食を供されるのに任せた。そうして朱
衡が人払いをし、側仕えの下吏も下がらせて三人だけになってから、ようやく
彼女は口を開いた。
「このたびはお招きありがとうございます。ただ、提示してくださった金額は
大国雁の六官としても高額ではないでしょうか。うちの冢宰によると、年収相
当としてもおかしくないとか。慶としては助かりますが、朱衡さんは大丈夫で
すか?」
 ぶしつけではあるが、やはりはっきりさせておかねばなるまいと陽子は思っ
たのだ。財政の厳しい慶にとってありがたい申し出とはいえ、そのことで万が
一にでも朱衡が難儀するようなことがあれば、それも心苦しい。
 すると朱衡は少し驚いたように目を見張ってからほほえんだ。
「確かに高額ではありましょうが、さほど無理をしたわけではありませんので
どうかお気遣いなく。拙官は独り身ですし、金のかかる趣味も持ってはおりま
せんので、ありがたいことに自然と財はたまる一方なのです。何しろ定期的に
領地の者に還元しているくらいで。それより景王にはこちらの無理を聞いてく
ださったのですから、万謝の印としてぜひお納めいただきたく」

610永遠の行方「王と麒麟(210)」:2013/04/04(木) 19:22:21
「そうですか。では遠慮なく」ほっとした陽子もほほえんで応じ、さっそく本
題に入った。「ところで延台輔のご様子はいかがでしょう。それからそちらの
使者によると、何でも延王が退屈しておられるとか」
 朱衡は数瞬だけためらうそぶりを見せてから、こう答えた。
「台輔のご様子にお変わりはございません。相変わらず眠り続けておいでです。
景王は率直なお人柄ですから、この際、拙官も打ち明けて申しましょう。冬官
は日々努力しておりますが、正直なところ手詰まりの状態です」
 陽子は緊張とともに、傍らに座る景麒と顔を見合わせた。
「もちろん最悪の場合は解呪に何十年もかかるかもしれないと、口には出さな
いまでも可能性は頭の片隅に置いておりました。おそらく主上もそうだったに
違いないのですが、最初のうちは泰然としておられたのに、どうも最近の主上
は苛立っておられるようなのです」
「苛立つと言うと……」
「政務を放擲するわけではありませんが、何事にも以前より反応が薄いのです。
どこか投げやりとでも申しますか。それでいて万事に執着がないわけでもなく、
常日頃は官に対して鷹揚であられるかたが、先日、台輔のことはもう諦めたほ
うが良いと進言した官に怒って即座に罷免しようとしたほどで」
「それは」陽子は絶句したのち、何とかこう続けた。「しかしその官が悪いの
では? わたしだってもし景麒が似たような事件に巻きこまれて見捨てろと言
われたら憤慨する」
「わかっております。しかし今まででしたら、主上はあからさまな態度は取ら
なかったと思うのです」
「つまり精神的な余裕がなくなってしまった、と?」
「はい」
 溜息とともにうなずいた朱衡に、陽子は顔を伏せてしばし考えこんだ。確か
に尚隆らしくない言動だし、臣下が心配するのも理解できた。わざわざ陽子を
呼ぶような真似をしたということは、他にも彼らが懸念する材料が多々あるに
違いない。彼女は顔を上げ、状況が状況だけに単刀直入に尋ねた。
「それで、わたしは何をすれば? 延王を励ますとか? ただこういうことは、
下手な慰めや励ましは逆効果だと思いますが」

611永遠の行方「王と麒麟(211)」:2013/04/04(木) 19:24:25
「申し訳ないながら、主上が気晴らしになるような話でもしていただければと。
景王も主上と同じく胎果であらせられる。もし主上が興味をお持ちになれば、
現代の蓬莱の話などはいかがでしょう」
 陽子は押し黙った。蓬莱のことは、陽子にとってもまだ思い出になってはい
ない。そんな状態で、なりゆきで自然と話が及んだならともかく、意識的に話
を振るのは気が進まなかった。そもそも励ましのための話題としてふさわしい
だろうか。そのときはお互いに楽しいかもしれないが、あとになって空しくな
らないだろうか。
 彼女はふと、自分が五百年後にその時点で流されてきた海客と蓬莱の話をし
た場合を想像してみた。懐かしいというより――ちょっとした拍子に切ない気
持ちのほうが大きくなって気鬱になるかもしれない。公私ともに充実して精神
的に満たされているときならまだしも、少なくとも苛立ったり暗くなっている
ときにしていい話ではないだろう。
 むろん六太となら現代の蓬莱の話もたくさんしたが、彼はいくらでも蓬莱と
自由に行き来できた。陽子にとってもまだ自分の記憶と乖離しない情報だから、
郷愁の念を覚えるのはさておき、彼がもたらす話を興味深く聞くことも可能
だった。どちらも尚隆とは条件が違う。
「延王がお望みになればいくらでも話はしますが」彼女は慎重に答えた。「た
だ、気晴らしといっても、正直なところ若輩者のわたしにうまくできるとも思
えません」
「何でもいいのです。少なくとも変わりばえのない官の顔を見、変わりばえの
ない話を聞くよりはずいぶんと違うはずです。それに麒麟が昏々と眠り続ける
などという事態は前代未聞で、そうなると同じ王としてのお立場を持つ景王か
らのお言葉は、我々のような臣下が何を言うよりはるかに重みがあります」
「しかし……お役に立てるかどうか」
 そう答えながら、陽子は六太とかつて話した内容を思い出していた。
 彼は言ったのだ、国同士が交流するのはいいことだ、自然と王同士も交流す
ることになるからと。王の気持ちは王にしかわからない、だからそういった日
頃の交流があれば、いざというときにも孤独に陥らず、王の支えになるだろう
と。

612永遠の行方「王と麒麟(212)」:2013/04/04(木) 19:26:29
 六太自身はそこまで語らなかったものの、彼が麒麟である以上、主である尚
隆を念頭に置いた発言だったはずだ。陽子の目から見ても、普段の尚隆が麒麟
の助言を必要としているようには見えなかった。だからこそ万が一の場合を考
え、主に頼りにされない自分ではなく、他国の王という同じ立場の人間と交流
させることで凶事を遠ざけたいと願ったのだろう。
 ならば実際に尚隆を力づけられるかどうかはさておき、陽子が彼といろいろ
な話をすることは、それだけで六太の希望に沿う行動ではあった。
「今さらこう申しても何ですが、どうか気楽にお考えください」黙りこんでし
まった陽子に朱衡は微笑した。「景王にはいろいろご苦労もおありでしょうし、
何かとお疲れもありましょう。今回のことはたまの休暇とでも思し召して、単
に骨休みのために玄英宮においでになったとお考えください。明日は主上をお
招きして内々で花見の宴を催します。景王は今回、台輔のお見舞いと花見のた
めにおしのびでいらしたということにしますので、まずは主上を驚かせていた
だき、そのまま普通に歓談していただければ」
「そうですね……」陽子は考え考え口を開いた。「では、すべては延王にお目
にかかってからにします。単に話を聞くのと自分の目で確かめるのとでは違い
ますから。それから延王をお誘いして、延台輔のお見舞いにも伺わせていただ
きます」
 昨年、最初に景麒が玄英宮を訪問した際は、尚隆みずから仁重殿に案内した
という話だった。六太のことが尚隆の苛立ちの原因だとすれば、眠りつづける
麒麟を前にした彼の様子も見ておいたほうがいいだろう。
 朱衡は礼を述べ、重要な話はとりあえず済んだので、三人はそのまま軽食を
つまみながら雑談した。いい機会ではあり、陽子は政治について朱衡にいろい
ろ質問し、慶でやりたいと内心で温めている二、三の計画について意見を求め
た。朱衡はそのすべてに丁寧に答え、考えうる限りの利点や難点を挙げ、過去
に雁で似たような試みがあれば、率直にその成功例や失敗例を示した。数百年
に渡って王を支え、六官を歴任してきた彼の実務知識は豊富で、経験の浅い陽
子にとって非常にありがたく、それだけで今回の訪問の甲斐はあったと思える
ほどだった。

613書き手:2013/04/04(木) 19:28:33
陽子視点でさらっと。

次回は朱衡視点。あまり空けずに投下できるかと思います。

614永遠の行方「王と麒麟(213)」:2013/04/06(土) 11:37:59

 相変わらず生真面目な陽子の人柄は、朱衡にとって好ましいものだった。
気取らず臆さず、それでいて他国の官にさえ謙虚に教えを受ける。それゆえに
軽んじる者も出るだろうことを考えると危険な側面はあれど、慶にはそんな若
き女王を支える忠臣も順当に育っているに違いない。
 しばらく陽子や景麒と歓談したのち、ふと朱衡は、六太が尚隆を信頼してい
たと思える逸話がないだろうかと尋ねてみた。陽子は驚いたように彼を見つめ、
「信頼、ですか?」と聞き返した。
「はい。官が主上に何を申しあげようと、日頃からお側に仕えている以上、目
新しい話にはなりえません。しかし普段は遠く離れておられる景王の口からそ
ういう逸話が出たとなれば、多少は主上の気も晴れるように思うのです。何し
ろ台輔は主上に何の言伝も残してくださいませんでしたし、それどころか見捨
てろとまでおっしゃいました。それはうがった見方をすれば誰にも呪を解ける
はずがない、解決できるはずはないという、不信と諦めの現われと解釈するこ
ともできてしまいますから」
 彼は以前白沢と話した内容を手短に説明し、だからこそ六太の信頼を確信で
きれば、それ自体が励みになりうると告げた。すると陽子は、話を聞くうちに
苦笑してこう答えた。
「延台輔が延王を信頼しているなど、当たり前じゃないですか」
「え?」
「日頃からあれだけ親しく遠慮のないやりとりをしていて、信頼していないは
ずはないでしょう。見ていればわかります。何かと言い争うこともあったよう
ですが、そんな真似ができたのも逆に確固たる信頼があればこそです」
 力強く断言され、朱衡はまじまじと相手を見た。陽子の傍らで黙って控えて
いる景麒も、朱衡と目が合うなり、同意を示すかのように軽くうなずいた。
「失礼ですが、そこまで玄英宮の皆さんが疑心暗鬼に陥るほど状況が悪いので
しょうか」
「は、まあ……」
「ではわたしからはっきりと申しあげます。延台輔は延王を信頼しておられま
す」
「それはわかっているのですが、しかし」

615永遠の行方「王と麒麟(214)」:2013/04/06(土) 11:40:04
「逸話が必要なのは、延王ではなく朱衡さん自身が確信できないからでは?
だから延王にもはっきり進言できない。でもそんな疑いをいだく必要がどこに
あります? ずっとおふたりを見てきた皆さんに、新たな根拠など今さら必要
ないでしょうに」
 ぶしつけとも思える大胆な物言いに朱衡は呆気に取られた。これまで彼女と
話をしたことは何度もあるが、その印象では気遣いのある、どちらかと言えば
控えめな女性だった。事実、今しがたまで謙虚に朱衡の助言を聞いていた彼女
なのだ。だが無心になってみれば、言われた内容にうなずける部分はあった。
 なるほど、と彼はすぐ気を取り直した。いくら国主たる身分に慣れてきたと
はいえ、彼女が普段からこのような物言いをしているとは思えない。そもそも
六太とは数年の付き合いしかない陽子だ、五百年も仕えてきた朱衡に対し、普
通ならここまで強い調子で言えるものではないだろう。
 これは故意の態度であり、激励の一種でもあるに違いない。何しろ事態が動
かない以上、あとは気持ちの持ちようと言うしかない。だとすれば万事を明る
く捉えたほうが好ましいに決まっている。皆で難しい顔を寄せ合って鬱々とし
ても得るものは何もないのだ。
「は――い。そうですね……」
「たぶん皆さんは、ずっと事件の渦中におられるだけに滅入ってしまったんで
しょうね。誰の目にも明らかなことさえ、つい疑いを差し挟んでしまうほど不
安になっていらっしゃる。わたしは当事者ではありませんし、最近の玄英宮の
様子も知りませんから、いくらでも無責任な言葉を吐けますが、だからこそわ
かることもあります。延台輔は延王を慕っておられますし、信頼してもおられ
ます。そもそも呪の眠りを受けいれたのは延王を助けるため。全部、延王のた
めなんです。延王にもそう申しあげて、どうか延台輔の誠心を疑わないようお
願いしてください」
「はい……」
「もちろん雁という国のためでもあるでしょうが、ここまで長命の王朝となる
と、たぶん国と王を明確に分けて考えるのは難しいと思います。わたしだって
雁と延王を切り離して考えることなんてできません。それを――そうですね、
たとえば国さえ安泰なら延王の気持ちはどうでも良いと延台輔が考えていただ
ろうとか、そういった薄情な解釈を皆さんや延王がなさっているとしたら延台
輔が可哀想です」

616永遠の行方「王と麒麟(215)」:2013/04/06(土) 11:42:07
 他に聞く者があれば、いくら王とはいえ、後援する大国の高官にこれほど遠
慮のない物言いは無作法だと思ったかもしれない。当事者ではないから気楽に
言えるのだと反論したかもしれない。だが荒削りながら素直な確信に満ちた彼
女の言葉は力強く、国官としてまっとうな誇りを持ちこそすれ驕りを戒めてい
る朱衡にとって、嫌悪を感じさせるものではなかった。むしろ勇気づけられる
気がした。
 実際、日頃の六太の様子を思い起こすまでもなく、主君を好いていることは
明らかなのだ。政務上の方針における衝突は、民への慈悲がすべてに優先する
麒麟と現実的な王との問題だから別の話としても、私的な時間における周囲が
はらはらするほど遠慮のないやりとりは確かに信頼があればこそだろう。
「今回の件は、自分の命か延王の命かという究極の選択を迫られた延台輔が延
王の命を選んだ、そういう単純な話だと思うんです。時間だってそんなにあっ
たようではないし、状況が状況だけに、延台輔自身動揺してもいたでしょう。
後になって延王がどう受けとめるかなんてじっくり考える余裕もなかったん
じゃないでしょうか。だからその時点で最善と思える決断をした。自分の望み
を鳴賢に明かさなかったのも、きっと聞いたら誰もが納得するような深い事情
があるんでしょう。延王に言伝を残さなかったのだって、もしかしたら別れの
言葉を言いたくなかっただけかもしれない。またいつか絶対に会える、そう思
いたかったからこそ何も言わなかったと解釈することも可能じゃないですか。
鳴賢への説明はさておき、延台輔の本心がどうだったかなんて誰にもわからな
いんですから」
 畳みこむように言われて朱衡はうなずいた。確かに六太の本心を知ることが
できない以上、いくらでも好ましい方向での解釈は可能だ。
 納得した朱衡は、穏やかにほほえんでみせた。それに晴れやかに笑い返した
若い女王の顔はまぶしかった。
 不意に、これも若さというものの発露かもしれないと考える。いくら仙は外
見が変わらないと言っても、年を重ねればどうしても考えかたが硬直してくる
し、疲れも見えてくるものだ。そうして今回のように余計なことまで気を回し、
たったひとつの確信に至るまでに延々と遠回りをしてしまう。しかし後から振
り返ってみると、真実は意外と単純だったりするのだ。

617永遠の行方「王と麒麟(216)」:2013/04/06(土) 11:45:54
 思えば長いこと膠着状態が続いているがゆえに、尚隆のみならず自分たちも
思惟の迷宮に入りこみ、無意識のうちに考えすぎていたかもしれない。主君に
対して不用意な励ましは逆に事態を悪化させかねないと危惧して自制していた
し、陽子自身も先刻似たようなことを口にしたが、言った当人が心から信ずる
言葉であればおのずと説得力を持つだろう。そう考えると、疑念を差し挟む余
地がないほど確固たる態度で接していたら、意外と尚隆もすんなり受け入れて
前向きな態度のままだったかもしれないのだ。なのにいつの間にか腫れものに
触るような対応をすることで、知らず知らずのうちに主君を追いつめてしまっ
たのか。
 これではとても王を支える重臣とは言えないと、朱衡は反省した。そしてよ
どんだ空気を払う一陣の風が吹いたような印象を感じ、陽子を雁に招いたこと
は間違いではなかったと確信したのだった。
 もちろん今の尚隆の精神状態は常と異なるし、もし陽子が同じような態度で
接した場合、一歩間違えれば彼を憤激させかねなかった。そもそも当人は配慮
しているつもりでも、若い時分は無意識に相手の心に切りこんで頓着しないこ
とがままあるものだ。その結果、事態の悪化を招くことも。しかしだからこそ
逆に成せることもあるのではないか。
 正直なところ不安もないではなかった。しかし陽子が真に傍若無人に振舞う
はずもなし、最近の主君の様子をあらためて思い返した朱衡は、この際、少し
気持ちをかき乱されるくらいでちょうど良いのかもしれないと考えた。何より
これまで彼女が書き送ってきた大量の書類を思えば、心から六太の心配をして
いるのは明らか。そんな相手と懇談することで、尚隆の気が少しでも晴れるこ
とを彼は願った。

 朱衡は翌日、楽俊と引き合わせる手はずを整えていたため陽子は望外に喜ん
だ。首尾よく大学を卒業した楽俊が、結局雁の国府で任官することになり、朱
衡の引きで秋官府に登用されたことは知っていたらしい。それで今回、もしお
互いに時間が取れるようなら会う心積もりはあったようだが、尚隆や玄英宮の
状況がわからないだけに訪問の予定も伝えていなかったとのことだった。

618永遠の行方「王と麒麟(217)」:2013/04/06(土) 11:47:57
 何しろ任官したばかりの下っ端の新人官吏だ、本人の意思だけではそうそう
融通が利くはずもない。おまけに周囲の目を考えれば、楽俊自身のためにも、
まさか景王であることを明かして強引に面会の時間を作るわけにもいかないだ
ろう。
 朱衡は過去の書類の整理という名目で楽俊を大司寇府の一室に呼び出し、自
分が朝議に出ている間、彼らだけで歓談できるよう計らった。その後、ちょう
ど午(ひる)に、久しぶりに旧友に親しんで気分が高揚している陽子と景麒を、
花見の宴を催す場所に案内した。そこは宮城の園林の奥まったところにある場
所で、山桜や桃、早咲きの八重桜などが咲き誇る美しい一画だった。むろん大
司寇とはいえ朱衡が自由に占有できる領域であるはずもないが、他の六官にも
白沢から話を通した上で、景王を歓待するためとして了解を得てのことだった。
 ただし大々的な酒宴ではなく、あくまで内輪の催しである。給仕をしたり楽
器を演奏したり華やかな舞を添える女官は幾人も侍っていたが、客としては陽
子と景麒、冢宰の白沢、そして尚隆だけだった。
 護衛の夏官を数人引きつれ、白沢を伴って現われた尚隆は、それまで何やら
興味の薄そうな様子で白沢と言葉を交わしていたのが、出迎えた陽子と景麒に
気づくなりさすがに驚いて目を見張った。
「お久しぶりです、延王。楽俊からこちらで桜が見ごろと聞き、延台輔のお見
舞いに伺うついでに、朱衡さんに無理を言ってお邪魔してしまいました」
 尚隆は陽子の傍らに控えていた朱衡にちらりと目を遣った。彼女の言を鵜呑
みにせず、朱衡が計らったことだと直感したのかもしれない。が、「なるほど」
と言ってわずかに苦笑したのみで、少なくとも追求はしなかった。
 用意されていた席に皆が座り、ひととおり料理と酒が並べられたあと、延王
ならびに景王の長寿を祈念して乾杯する。あまり酒を飲みなれていないという
陽子に、朱衡は弱い果実酒を中心に勧めた。彼女は範から取り寄せた繊細な玻
璃の杯の美しさに感嘆していた。おまけに山桜の花びらの一片が杯に落ちると
いう椿事が起きたものだから、風流だと大喜びだった。
「金波宮には桜がないとおっしゃっていましたね。蓬莱では梅よりも桜が愛で
られているという話ですから、この際、何本か植えてみてはいかがですか?」
 そんなふうに話を向けると、陽子は困ったように「正確に言えば、桜の一種
はあります」と答えた。

619永遠の行方「王と麒麟(218)」:2013/04/06(土) 11:50:00
「でもわたしが見慣れていた淡い色合いの品種と違って、鮮やかな寒緋桜なん
です。下界には薄い色合いのものもあるそうですが、宮城にあるのは赤みが強
くて。むろんあれはあれで綺麗ですが、残念ながら桜を見ている気にはなれま
せんね。だからこうして山桜や八重桜を見ると嬉しいんです。ここにはないよ
うですが、枝垂桜なんかも好きですよ」
「桜と言えば六太が言っていたな……」興味を引かれたらしい尚隆がふと口を
挟んだ。どこか遠くを見るようなまなざしでつぶやくように言う。「今の蓬莱
では、葉が出る前に花が咲く品種が主流だと。だから満開になると花だけで枝
が覆われて、かなり見ごたえがあると。もっとも色が淡いため、どぎつくはな
いらしいが」
「そうです。よくご存じですね」
 昨日の様子では、蓬莱の話をすることに抵抗があるふうだった陽子だが、自
然な会話の流れであるためか微笑んで普通に相槌を打っていた。
「染井吉野という品種です。同じ場所にあるものは皆一斉に満開になるため、
そりゃあ見事で。ただ満開になったあとは数日程度しかもたないし、風や雨に
すぐ散ってしまうのが難点ですが。それに比べると山桜や八重桜はいろいろ種
類があるので長く楽しめていいですね。同じ場所にある同じ品種でも、開花の
時期まで揃うわけではないようですし」
 陽子と歓談する主君の様子は、多少の疲れは窺えるものの、内心で朱衡が危
ぶんでいた苛立った気配は今は薄れていた。一時はどうしたものかと思ったも
のだが、少しは気持ちが浮上したのかもしれない。だが陽子はどう見ているだ
ろう。何しろ女性は一般的に、男性より他人の顔色やちょっとした所作の変化
などを敏感に見分けるものだ。彼女の目にも、尚隆は以前と大差ないように
映っているだろうか。
 陽子は午前中に会った楽俊の話題も出し、新米とあって覚えることが多くて
大変だと、だが忙しいながらも充実しているようだと話した。尚隆は笑みを浮
かべたまま鷹揚に聞いていたが、そうやって親しく語らい、皆で華やかな舞い
や楽曲の美しい旋律を楽しむうちにすっかり酒を過ごし、朱衡が気づいたとき
には主君は完全に酔っ払ってしまっていた。

620永遠の行方「王と麒麟(219)」:2013/04/06(土) 11:52:04
 陽子も多少は酔ってはいたようだが、量としてはさほど飲んでいないためだ
ろう、頬が上気する程度で、受け答えもはっきりしていた。翻って尚隆は最後
には呂律が回らなくなり、話すというよりもはや唸る感じで、途中で陽子は何
度も聞き返さなければならなかった。それも神仙であればこそで、もし彼女が
只人だったら一言も聞き取れなかったに違いない。
 過去、尚隆が酔う場面など朱衡は無数に見てきたが、ここまでひどいのは初
めてだった。少なくとも、内々の宴とはいえ屋外で正体がなくなるまで酔った
ことなど一度もない。せいぜいふざけて周囲にからむ程度だった。
「これは……まだ夕刻にもなっていないが、主上にはそろそろお休みいただい
たほうが良さそうですな」
 節度を持ってちびちびと酒を味わっていた白沢が苦笑いとともに言った。朱
衡も動揺を隠して「そうですね」と同意した。
「とりあえずそこの殿閣の一室にお運びしましょうか」
「わたしが手伝います」
 くすりと笑った陽子が茶目っ気のある仕草で軽く片手を挙げた。宴の間、離
れて警備していた夏官を呼び寄せるべく頭をめぐらせた朱衡を押しとどめる。
「素敵なご招待をいただいたのですから、お礼にサービスします。それにして
も延王もこんなに酔っ払うことがあるんですね。意外とわたしのほうがお酒に
強いのかな?」
 おどけたように言った彼女は、半ば眠っている尚隆の様子を窺うように顔を
近づけるなり、なんとぺちぺちと頬をたたいた。
「ほら、延王、しっかりして。もうお年なんだから、そろそろお酒は控えない
と」
 周囲を唖然とさせる台詞を吐いた彼女は、輿を用意しようかとざわめきだし
た女官らを気にせず、尚隆の片腕を取って肩を貸そうとした。だが体格の差か
ら言っても力の差から言っても支えられるはずはなく、見守っていた面々に対
しばつが悪そうに笑った。
「ごめん、やっぱり重くて無理だ。景麒、ちょっと手伝ってくれ」
「主上……」

621永遠の行方「王と麒麟(220)」:2013/04/06(土) 11:54:07
 呆れた顔をした景麒だったが、溜息をひとつついたあと、諦めたように尚隆
の反対側の腕を取って肩を貸した。それでもかなり難儀していたが、陽子が尚
隆を軽く揺すりながら「ほらほら、延王、ちゃんと立って」と声をかけると、
幸いにも完全には酔いつぶれていなかったらしい。重く頭を垂れていた尚隆は
何やら唸りながらもふらふらと立ちあがり、それを景麒が必死で支えた。女官
たちも尚隆の装束の袖や長い裳に手をかけて、主君が少しでも歩きやすいよう
に手助けした。
 やがて一番近い殿閣の臥室のひとつに案内されたあと、臥牀に腰を下ろした
尚隆は額を押さえながら、先ほどよりは随分とはっきりした声で「水……」と
つぶやいた。女官たちが、水の用意やら正寝への連絡やらで暫時あわただしく
姿を消すと、陽子は張りのある声で「延王、しっかりしてくださいね」と言葉
をかけた。呼応するかのようにひとつ大きな息を吐いた尚隆は、のろのろと顔
を上げ、弱々しい笑みを浮かべて相手を見た。
 だがつられた朱衡も陽子に目を遣ると、彼女のほうはとうに笑顔を消してお
り、それどころか厳しい表情をしていたので彼は驚いた。
「今、あなたに斃れられては迷惑です」
 突き放すような鋭い語気に、一瞬、室内に緊張がはらんだ。朱衡も白沢も息
を呑み、傍らの景麒があわてて「主上!」と小声でたしなめた。しかし尚隆は
呆気に取られたかと思うと、すぐに顔を伏せておもしろそうにくっくっと笑い
だした。
「新米の王が言うようになったな。恩人の俺に」
「仕方ありません。今雁が斃れたら、間違いなく慶には大打撃です。わたしに
支えきれるかどうかわかりませんし、それどころか周辺諸国が共倒れになる危
険すらあります。それを許すわけにはいきません」
「なるほど」
 尚隆はもう一度低く笑うと、「では英気を養うために、今日はこの辺で休ま
せてもらうとしよう」と言った。そうして陽子を追い払うかのように、手の先
をひらひらと振った。陽子は肩をすくめて退出しかけ、ふと振り返った。
「そうそう、明日は延台輔のお見舞いに伺いたいのですが。案内していただけ
ますか?」
「ああ、いいぞ」
「ではまた明日」

622永遠の行方「王と麒麟(221)」:2013/04/06(土) 11:56:11
 それだけ言うと、彼女はあっさり臥室から出て行った。それを景麒が追い、
あわてた朱衡も白沢にうなずいて、彼とちょうど戻って来た女官たちに後を任
せて陽子の後を追った。
 朱衡が房室を出ると、景麒が小走りに主に追いつき、周囲をはばかるように
「主上!」と呼んだところだった。扉の外で控えていた夏官たちが驚いたよう
に彼らと朱衡を交互に見た。
「あれではあまりにも延王に無礼ではないですか」
 だが陽子は歩調を落としもせず、顔を正面に向けたまま足早に歩きながらこ
う返した。
「耳に心地好い言葉をかけるばかりが激励ではない。特に王にはな。わたしな
ら難局に直面したとき、優しい言葉で場当たり的な慰めをかけられるより、厳
しい言葉で奮い立たせてもらったほうがありがたい。自分で自分を奮い立たせ
られないならなおさらだ」
「しかし」
「何なら引っぱたいてもらってもかまわない。だがさすがに他国の王に暴力を
振るうわけにはいかないからな」
「景王」
 朱衡がようやく追いついて声をかけると、陽子はにこっと笑って「失礼しま
した」と返した。
「いえ、あの……」彼女の前に出て殿閣の出口に先導しながら、めずらしく言
うべき言葉を見つけられずに朱衡は口ごもった。
「今日は桜を見せてくださり、ありがとうございます。それにしても今からお
休みになったとしたら、明日は延王も随分早くお目覚めになるでしょうね」
「は、まあ、そうですね」
「では明朝お目覚めになったら、朝食のあとでさっそく仁重殿に案内していた
だきたいのですがよろしいでしょうか。それともやはり朝議には出ていただい
たほうが? ならば午後からでも結構です」
 朱衡は考えるまでもなく、即座に「いえ」と首を振った。
「急ぎの案件はないはずですし、今は何より台輔のことが最優先ですから。も
ともと頻繁に朝議にお出になるかたではありませんので、官もご不在に慣れて
おります」
 陽子はまたにこっと笑い、「わかりました」と答えた。

623書き手:2013/04/06(土) 11:58:15
今回はこんな感じ。
陽子は叱咤激励担当ということで。

前回は思ったより早く投下できましたが、
次はちょっとかかるかもしれません。

624永遠の行方「王と麒麟」(218):2013/04/12(金) 19:27:11
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両端に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は力ない笑みを浮かべながら大儀そうに立ち上がった。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

625書き手:2013/04/12(金) 19:32:39
す、すみません、>>624は忘れてください。
他の場所に投稿しようとして誤爆しました。
見なかったことにしてもらえると助かります。
申し訳ない。

626書き手:2013/04/17(水) 22:52:10
予定ではきりのいいところまで書いてから投下するつもりだったため、
まだしばらくかかるはずでしたが、ポカをやってしまったので
途中までですが6レス投下します。

627永遠の行方「王と麒麟(222)」:2013/04/17(水) 22:54:18

 夜の静けさの中で考えこんでいると、深い深い海の底にいるようだった。
一切の物音は絶え、空気はしんとして動かない。
 だがもともと宮城というものは静謐で、立ち並ぶ殿閣の威容もあって謹厳な
雰囲気が漂っているものだ。騒々しくも活気のある市井とは違う。朱衡にいろ
いろ言われたこともあり、陽子の意識そのものが常と異なっているだけに違い
ない。
 用意してもらった臥室でひとり臥牀に座っていた彼女は吐息をもらした。景
麒は隣室をあてがわれているが、使令は彼女の傍にもいるはずだ。
「班渠」
 呼びかけると、姿のないまま「ここに」という静かないらえのみが返ってき
た。
「延麒の使令の気配はないか?」
「はい」
「そうか。やはり完全に封じられているのか……」
 今さらではあるが、ありうべからざる異状に陽子はしばし瞑目した。
 彼女の目から見ても状況が良いとは言えなかった。おまけに宴席で尚隆のあ
んな醜態を見るはめになるとは思いもせず、少なからず動揺もしていた。陽気
に酔うならまだしも、あれはやはり鬱々とした心情の現われによる泥酔だろう。
 だが救いようのないほど悪いわけでもなかった。打つ手がないほど事態が悪
化していたら、そもそも朱衡は陽子を呼ぶことはしなかったろうし、尚隆もま
ともに彼女の相手をしていないはず。尻にまだ卵の殻がついているようなひ
よっこの王の言葉など、実績のある大国の王にとって何ほどのものでもないの
だから。
 そんな前兆の段階で朱衡が動いたのは、タイミングとしては非常に適切であ
るように思えた。だが自分の態度が、期待されているように尚隆に良い影響を
及ぼすか否かはわからなかった。陽子には心理学の素養などない。ただ、朱衡
たちが気遣う一方らしいのを見て取り、誰か叱咤する役の者もいなければなら
ないと即座に思った。もし自身が同じ立場に陥ったら、慰めと同時に、景麒に
言ったように引っぱたいてでも奮い立たせてくれる相手もほしいだろうと思う
からだ。

628永遠の行方「王と麒麟(223)」:2013/04/17(水) 22:56:22
 とはいえ臣下という絶対的に弱い立場の者にそれを望むのは酷だろう。第一、
朱衡をはじめとする重臣たち自身、現状に動揺している。ならば身分的には同
等である陽子が引き受けるしかない。雁の諸官は当事者ではあるが、麒麟を持
つ王の心情に添えるのは同じ王しかいないのだから。
 もっとも気分は滅入っているとしても、尚隆はちゃんと王として自身を律し
ていた(六太のことは諦めろと言った家臣に憤ったのは大いに同情の余地があ
る)。ならば少しぐらい自分が無礼な物言いをしても大丈夫だろう。慰め、気
遣う役は、大勢いる雁の諸官に任せておけばいい。
 厳しい表情でそんなことを考えていた陽子は、ふと目元をなごませた。尚隆
の憂鬱が六太の不在によるものなら、彼女が感じていたよりはるかに麒麟を大
事に思っていたということだ。普段の彼は六太をからかったり適当にあしらっ
たりと、どうかすると麒麟を軽んじているふうだったが、やはり半身同士の結
びつきは何物にも代えがたいということだろう。六太のほうも表面上は尚隆を
気遣う態度を見せなかったが、折にふれ陽子に語った言葉には、おそらく主を
想定しているのだろうな、と察せられるものが多々あった。何より彼らは同時
代に生まれ育った胎果だ。日頃の態度がどうであれ、その関係には余人に計れ
ないものがあるに違いない。
 それを思うと雁の主従を襲った不幸な事件に心が痛むのはもちろんだが、主
従愛というか男同士の友情というか、その絆に憧憬を覚える陽子だった。女同
士だとついついすべてを言葉に乗せて伝えようとするが、男同士である彼らは
単に余計なことを口にしないだけなのだろう。
 大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせた。第一、今回の事件は尚隆にも六太に
も非はないのだ。なのに麒麟を奪われ、このまま雁が沈むような理不尽があっ
ていいはずはない。
「おやすみ、班渠」
 そう言って臥牀に身を横たえた陽子は、すぐに穏やかな眠りに引き込まれて
いった。

 翌朝、陽子は朝餉を済ませると、朱衡の案内で景麒とともに尚隆を迎えに
行った。尚隆はあのまま正寝に戻らずに寝(やす)んだらしく、昨日の殿閣で
は近習らが主君の着替えやら食事の世話やらで忙しく立ち働いていた。

629永遠の行方「王と麒麟(224)」:2013/04/17(水) 22:58:26
 出迎えた女官に陽子の案内を任せ、朱衡は礼をすると朝議のためにその場を
辞した。
「おはようございます、延王」
「おう」
 陽子に応えた尚隆に昨日の泥酔の名残はなかった。しかし目元には疲れた様
子が漂っており、気力が満ちているとは言いがたい。
 やがて彼女と景麒は、尚隆や彼の護衛とともに仁重殿に向かった。内々に景
王の訪問を伝えられていた仁重殿の女官たちは大層な喜びようで、大人数でい
そいそと出迎えた。
「延台輔にこれを」陽子は出迎えの女官のひとりに一通の書簡を差し出した。
「お見舞いを何にしようか迷ったのですが、延台輔が喜びそうなものを考えつ
かなかったので手紙を書いてきました。延台輔の枕元に差しあげてください」
「ありがとうございます。台輔もさぞやお喜びになると存じます。いつも景王
からの鸞や青鳥に楽しそうにしていらっしゃいましたもの」
 そう応じて六太の臥室に案内する。陽子たちが護衛を扉の外に待たせて中に
入ると、そこは景麒が報告したとおりの花の楽園だった。春とあって花などめ
ずらしくないとはいえ、すがすがしい朝日の中、華麗な装飾が彩る宮城の室内
で花々が咲き乱れるさまは桃源郷以外の何物でもなかった。陽子は室内をぐる
りと見回し、感嘆の声を漏らした。
「景麒から聞いてはいたが、確かに見事だ」
「台輔がはやくお目覚めになるように、またお目覚めになったとき、お目を楽
しませられるようにしております」
 褒め言葉に女官は嬉しそうに答え、さらに奥にある牀榻へと導いた。牀榻の
折り戸は完全に開け放たれており、臥牀を隠す帳も巻き上げられていた。これ
また花で飾られた臥牀には小柄な体が静かに横たわっているのが見え、陽子の
体にわずかに緊張が走った。女官は先ほどの陽子の書簡を枕元に置いて「台輔。
景王がお見舞いにいらしてくださいましたよ」と優しく声をかけた。
「延麒」
 女官と入れ替わるようにして臥牀の傍らに立った陽子は、あたりをはばかる
ようにそっと呼びかけてみた。反応があるはずはないとわかってはいたが、間
近で見ても単にぐっすり眠っているだけとしか思えなかった。

630永遠の行方「王と麒麟(225)」:2013/04/17(水) 23:00:30
 普段の六太は明るくにぎやかで、物静かなどという形容は絶対に当てはまら
なかった。しかしこうして見る彼は静謐そのもの。常ならばくるくるとよく動
く親しみやすい表情は、外見の幼さもあって悪戯小僧という印象ばかり強かっ
たが、何の表情も浮かべていない今、美しいと言ってもいい顔立ちをしている
ことに陽子は気づいた。まるで六太ではなく、性格の違う双子の兄弟と対面し
ているようだった。何より咲き乱れる美しい花々に囲まれて眠る様子はメルヘ
ンの世界そのもので、とても現実とは思えなかった。
「眠り姫みたいだ……」
 静謐な美しさに目を細めた彼女は、ほのかな微笑とともにつぶやいた。その
まま黙り込んでいると、彼女と並んで立っていた尚隆が「眠り姫、とは?」と
尋ねてきた。顔を上げた陽子は尚隆にも微笑を向けた。
「蓬莱――いえ、外国の童話です。いばら姫とも眠りの森の美女とも言います
が、悪い魔女に呪われて百年の眠りについた王女の話です」
「童話……」
 何やら考えこんだ尚隆はすぐ「六太も蓬莱の童話には詳しかったらしい」と
言った。さらに話を聞いた陽子は、海客の団欒所で六太の発案を元に上演され
たという人形劇の話を聞いて驚いた。竜王公主の恋物語が明らかにアンデルセ
ンの人魚姫の焼き直しだったからだ。陽子自身の経験から言うと、男の子はこ
の手のロマンチックな童話に詳しくないことが多かった。中学のとき、文化祭
の出しものをクラスで検討した際、シンデレラや白雪姫のようなディズニーが
アニメ化した物語でさえ筋を知らない男子が多くおり、常識だと思っていた女
子は当惑したものだ。
「なのに延麒は知っていたんですね」
「実際に脚本を書いたのは海客の娘という話だから、六太が提案したとは限ら
んがな。知っていたとしても、もともと劇の題材を探していたようだからその
せいもあるだろう。あるいは海客たちと親しく交わる過程で彼らに教わったの
かも知れん」
 それにうなずいた陽子は六太に視線を戻し、ならば眠り姫の物語も知ってい
たかもしれないと複雑な思いをいだいた。まさか六太も、自分が同じような呪
いの眠りに囚われるときが来るとは想像もしていなかったろう。

631永遠の行方「王と麒麟(226)」:2013/04/17(水) 23:02:33
「……で。件の話の姫は眠りから覚めたのか?」
「はい」
 尚隆の問いに、陽子は六太を見おろしたまま応えて簡単に説明した。
「姫の眠る城はいばらに囲まれて誰も近づけなかったのですが、ある日噂を聞
いた王子がいばらを切り開いて城に乗り込み、姫の美しさに思わず接吻したと
ころ、呪いが解けて目覚めたんです。そしてふたりは結婚していつまでも幸せ
に暮らしたと。王子や王女の接吻で相手の呪いが解けるというのは、童話でよ
くあるパターンのひとつかもしれません。魔女の毒りんごで命を落としたと思
われた白雪姫も、王子の接吻で息を吹き返しますから」
 彼女が話したのはあくまで眠り姫や白雪姫として語られる物語の類型のひと
つだったが、大筋としてはこんなところだろう。
 尚隆の応えはなく、しばらく沈黙が続いた。ふと複数の衣擦れの音を聞いた
陽子が不思議に思って振り返ると、女官たちがしずしずと臥室から退出すると
ころだった。何か合図をしたのだろうかと眉根を寄せて尚隆を見ると、すべて
の女官が退出してから、彼はようやく口を開いた。
「陽子。頼みがある」
「何でしょう」
「六太に接吻してはくれまいか」
「えっ……」
 驚いた陽子は彼に向き直った。まさか今の童話のパターンの話を真に受けた
わけでもあるまいにと、混乱のままに相手の顔を凝視する。
「あの」
「頼む」尚隆はその場で膝を折ると、両手を床について頭を垂れた。「このと
おりだ」
「や、やめてください、延王!」
 焦った陽子もあわてて膝をつき、土下座している尚隆の肩に手をかけて起こ
そうとした。しかし彼は深く頭を垂れたまま頑として動かなかった。
「延王!」
 再度呼びかけた陽子が弱りきって顔を上げると、後ろで控えていた景麒も茫
然とした体で立ちすくんでいた。今回の訪問で、今までになく感情を覗かせる
尚隆に不安を覚えてはいたが、童話のよくある演出にさえすがりたいと思うほ
ど追い詰められていたのかと、予想外の反応に陽子は激しく動揺した。だが…
…。

632永遠の行方「王と麒麟(227)」:2013/04/17(水) 23:04:37
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両側に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は大儀そうに立ち上がりながら自嘲気味に言った。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

633永遠の行方「王と麒麟(228)」:2013/04/25(木) 19:11:05
「はあ」
 あやふやな調子で応えた陽子は、何となく接吻と口移しとでは違うのではな
いかと思った。だがそんなふうに感じてしまうのは、彼女にこの手の経験がな
かったせいだろうか。確かに口を触れ合わせるという行為自体は同じなのだか
ら。
 やがて三人は牀榻を出、臥室にあった小卓を挟んで向かい合うように座った。
黙り込んでいる尚隆に、陽子はここ最近考えていたことを口にした。
「延王。わたしは呪の仕組みについては何も知らないし、そもそもこの世界の
理(ことわり)に疎い以上、市井の只人より物を知らないとは思いますが」
「ああ……。それが?」
「だから割り切って、この際、蓬莱人として考えてみました。延麒がずっと目
を覚まさないのは、要するに昏睡状態が続いているということですよね」
「そうだな……」
「そんなふうに怪我や病気で意識が戻らない状態を、今の蓬莱では俗に植物状
態と言います。とはいえ最近の進んだ医学でも人体についてまだまだ解明でき
ていないことが多く、医者が絶望を宣告した患者が奇跡的な回復を見せること
もあります。十人の医者が十人とも回復不可能と断言したとしても、必ずしも
一〇〇パーセント見込みがないわけじゃないんです。
 たとえばこんなことがありました。当時は感動の夫婦愛として大きなニュー
スになったそうですが、植物状態から絶対に回復しないと言われていた老人に
奥さんが毎日頬ずりしていたら、奇跡的に意識が戻ったんです。目を覚まさな
い奥さんに旦那さんが毎日話しかけ、音楽を聞かせたり、手足をさすったりと
刺激を与え続けていたら目覚めたなんて話も聞いたことがあります。夫婦のよ
うな親密な間柄の相手による継続的なふれあいは、地道に続けると病状を改善
させることもあるんです」
 陽子の知識の元は、ある日の保健の授業における教師の雑談だった。それを
記憶の底からさらいながら懸命に説明した。当時は、その時点で随分過去の出
来事であったのと、赤の他人ゆえの平凡な感嘆をいだいただけとあって細部は
あやふやだったが、医者に回復を絶望視されていた患者が、配偶者による触覚
的聴覚的な接触の継続のおかげで奇跡的に意識を取り戻したという基本的な構
図は覚えていた。

634永遠の行方「王と麒麟(229)」:2013/04/25(木) 19:13:12
 最初はいぶかしんでいた尚隆も話が進むにつれ興味を示し、真剣な表情で耳
を傾けた。
「景麒から呪について説明してもらったとき、どの方面からも破れない鉄壁の
守りをめぐらすのは難しいし、まず不可能と考えていいと言われました。誰に
も絶対に解けない完全無欠の術などない、だからこそあえて弱点たる解呪条件
を設け、解呪の試みによって生じるエネルギーがすべてそちらにそれるよう誘
導した上で、その部分のみを過剰に防御するのだと。正直なところその説明を
理解したとは思いませんが、要はどれほど堅牢に見える術でも解く方法がある
ということでしょう。それに何であれ、人間のやることに『絶対』はありえな
いはず。おまけに延麒の場合は自分の望みがかなったかどうかを知るための部
分は起きていると、少なくとも待ち受けている部分があると考えられるそうで
すね」
「らしいな」
「だったら延麒の体に毎日刺激を与え続ければ、もしかしたら条件を満たさず
とも意識が戻る可能性もあるとは思いませんか? 蓬莱で回復した患者の奇跡
の例にならって、親しい相手が毎日地道に話しかけたり頬ずりをしたりすれば、
時間はかかるかもしれないけれど延麒の反応を引き出せるかもしれないと思い
ませんか? だって延麒はもともと目覚めを待っているんだから、解呪条件に
合致しなくても外部からの刺激に反応する可能性がないとは言えない」
 陽子はそんなふうに意気込んだが、尚隆は難しい顔でこう答えた。
「話はわからぬでもないが、六太の近習はもともと毎日きちんと世話をしてい
る。床ずれが起きぬよう寝返りを打たせたり、関節が固まらぬよう手足を動か
したりさすったりしているぞ。美しい楽の音も聞かせている。だが今に至るま
で何の反応もない」
「もしかしたらまだ時間がかかるのかも。蓬莱での奇跡の例は、少なくとも何
年もかかったように記憶していますから。それにしょせん女官です。官は家族
じゃありません。少なくとも夫婦のように親密な相手というわけでは」
「……麒麟には家族も配偶者もおらぬだろう」
「王がいるじゃないですか!」陽子はここぞとばかりに身を乗り出すと畳みか
けた。「麒麟は王の半身、生命を分け合っている存在です。ある意味では夫婦
や親兄弟より近しい関係と言えるはず。ならば延王が毎日声をかけ、手足をさ
すったりすれば、延麒も反応するかもしれない。――そう、少なくともこんな
ふうに離れた宮殿で暮らすのではなく、正寝に連れて行って一緒に暮らすとか。

635永遠の行方「王と麒麟(230)」:2013/04/25(木) 19:15:23
景麒によると、麒麟は王といると嬉しく離れるとつらい気持ちになるそうです。
だったら毎日延王の近くに置けば、眠っているとはいえ延麒も嬉しく感じ、そ
れが良い作用を及ぼす可能性も――」
「確かに麒麟は王を慕う生きものと聞くが、果たしてどうかな。特に六太の場
合は、必要以上には俺に近づかなかったからな。つきあいの長さを思えば互い
に相手のことを知りつくしていてもいいはずだが、現状はほど遠い。というこ
とは実際のところ、あまり親しいとも近しいとも言えないのかもしれん」
 陽子の言葉を遮った尚隆はそう言い、同意を求めるかのように、同じ麒麟で
ある景麒を見た。
「慕う――というのとは違うと思いますが」ややあって、景麒は慎重な様子で
答えた。
「ふん?」
「王のそばにいると嬉しいという麒麟の感情は好悪とは無関係なのです。した
がって延台輔が延王を個人的にどのように思っておられようと、主上がおっ
しゃったように近くで生活なさるほうが望ましいのは確かです。王とともにあ
ることを切望するのは麒麟の本質ですから」
「好悪と無関係というのがぴんとこないな」陽子は首をかしげた。「だって王
の近くにいたいと思うわけだろう?」
「そうです」
 景麒はうなずいたものの、口下手な彼はそれ以上うまく説明できないよう
だった。だがさらに聞き出すうちに、ふと思いついたらしい尚隆が尋ねた、
「水のようなものか?」と。水は人が生きるのに不可欠だ。それがある場所に
住みたいと思うし、断たれれば苦しいが、自身の好悪の感情とは何の関係もな
い。せいぜいまずい水よりはうまい水を欲する程度だ。
 景麒は即座に「王と麒麟の関係に比するものなど存在しません」と否定した
ものの、最終的に部分的な比喩としては認めたのだった。
「なるほど、王は麒麟にとっての水か……」
「つまり生命の源にも等しいということですね」
 視線を床に落とした尚隆が低く笑うのへ、陽子は彼が皮肉な考えに囚われぬ
よう即座に言った。目を上げて彼女を見た尚隆に微笑して続ける。

636永遠の行方「王と麒麟(231)」:2013/04/25(木) 19:17:26
「だからこそ誰が王を見捨てても麒麟だけは味方です。麒麟だけは絶対にわた
したちを裏切らない。それが麒麟の性(さが)だと言ってしまえばそれまです
が、それゆえに忠誠が保証されているとも言えます。ならばそういう存在を与
えられたことはとても幸せなことではないでしょうか」
 もちろん即位して数年しか経たない陽子にそこまで実感できているはずがな
い。そもそもまだ景麒と信頼関係を構築できたとは言いがたく、親しさで言え
ば、彼より後に知り合った桓?や祥瓊のほうが勝るだろう。
 だが彼女は、遠い遠い未来の自分にも伝わるようにと、どこか祈るような気
持ちでそう言ったのだった。
 尚隆は静かに彼女を見つめ、やがて「そうだな」と彼も穏やかに笑った。
「では六太も、麒麟である以上、王たる俺のそばに置けば良い作用を受けるか
もしれぬな」
「ええ」
 尚隆はわかったとうなずき、女官を呼ぶと急いで黄医を召しだすよう命じた。
そうして何事か起きたのかとあたふたとやってきた黄医に陽子の提案を吟味さ
せた。
 詳しい内容を聞いた黄医は驚いたものの、迷うことなく「景王のご提案は一
考の余地がございます」と答えた。
「何しろ前例のないことですので、正直に申しまして呪に対する効果のほどは
わかりかねます。しかし少なくとも台輔に悪い影響があるとは思えません。む
しろ良い案であることは間違いなく、となれば台輔を主上のおそばにお移しに
なるのは拙官としても賛成いたします」
「そうか。害がないことがわかっているなら試しても損はない」
 尚隆は少しの間考えをめぐらせてから、期待をこめて控えている女官らを見
回した。
「六太を長楽殿に移す」
 主君の宣言に、女官たちは了解のしるしとしてうやうやしく頭を垂れた。
「毎日、俺のそばで過ごさせることで良い影響があるなら、多少なりとも術が
解けやすくなる可能性はある。そうなればあるいはふとした拍子に目が覚める
かもしれん」
 尚隆はそう続け、いつも六太の世話をしている面々が引き続きそばにいたほ
うが良かろうと、彼女らにも一緒に長楽殿に移るよう命じた。

637書き手:2013/04/25(木) 19:22:04
あう、桓魋が化けました。失礼。
いつもは数値文字参照に変えるのですが、うっかりそのままコピペしました。

きりがいいので、今回はこの辺で。

638永遠の行方「王と麒麟(232)」:2013/05/10(金) 19:07:51

 それからは大忙しだった。衣類を中心に六太の身の回りの物をまとめなけれ
ばならないのはもちろん、近習も大勢正寝に移動しなければならない。
 だが六太を長楽殿に移すとしても、侍官や女官、護衛といった面々が控える
房室も用意する必要があり、それとの位置関係も鑑みて具体的にどの房室をあ
てがうか決めなければならなかった。場所としてはとりあえず主君の臥室の近
くでいいのではという案が女官から出たが、彼女らと黄医や尚隆の話を横で聞
いていた陽子が口を挟んだ。
「近くでもいいでしょうが、この際ですから延王の臥室に延麒のための臥牀を
運びこむわけにはいきませんか?」
「俺の臥室に?」尚隆が聞き返した。
「そうです。どちらにしても昼間は政務がある以上、一日中一緒にいられるわ
けじゃありません。だったらせめて夜くらい、延王の目の届く場所に延麒がい
てもいいと思うんです。もちろん臥室は狭くなってしまいますが」
「それは別にかまわんが、わざわざ臥牀を入れることもあるまい」
「でも……」
「もともと俺の臥牀は広い。片側に六太ひとり寝かせておいても邪魔にはなら
んだろう」
「ああ――なるほど」
 意表を衝かれた陽子は瞬いたが、言われてみればその通りだった。金波宮で
もそうだが、ただでさえ王の牀榻は広い。臥牀そのものもキングサイズのベッ
ドより大きいと思われ、大の男がふたりで寝てさえ狭くはないだろう。一方が
小柄な六太ならなおさら。おまけに雁の主従は男同士であり、その点でも問題
のあろうはずはなく、新たに臥牀を運びいれるより遥かに手軽だった。何より、
わざわざそのための時間を作らずとも毎晩王のすぐそばにいることになるため、
陽子の提案に端を発する今回の目的にはむしろ都合が良い。
「とはいえ、俺の臥牀まで大量の花で飾られても何だがな。その辺は手加減し
てくれ」
 からかうように言った尚隆に、傍らの女官も苦笑いしながら「はい」と応え
た。

639永遠の行方「王と麒麟(233)」:2013/05/10(金) 19:09:55
「ではこちらで準備している間に、先に何人か長楽殿に遣りましょう。それか
ら台輔を輿でお連れいたします。本日中がよろしいでしょうか、それとも占卜
で吉日を占って――」
「そう大仰にすることもあるまい。どうせ帰るついでだ、今、俺が連れて行く」
 尚隆は女官がきょとんとしたのを尻目に臥牀に近づき、手早く衾で六太をく
るむと軽々とかかえあげた。そのまま「行くぞ」と周囲に声をかけてさっさと
歩き出す。我に返った女官らがあわてて身振りで指図しあって分担を決め、数
人が王につき従った。陽子も景麒にうなずいて後に続こうとしたが、黄医に声
をかけられて立ち止まった。
「恐れ入ります。しばらく長楽殿もこちらもばたばたするでしょうし、その間、
先ほどの昏睡状態からの回復例について今少し詳しくご教示いただけましょう
か。蓬莱で行なわれている介護の方法についても教えていただけると参考にな
るのですが」
「いいですよ」
 陽子は快く応じ、傍らの景麒には「延王とご一緒してくれ」と言って送り出
した。何しろ今は六太の使令がいない。房室の外で待っている護衛とともに戻
るとはいえ、万が一のためにも用心するに越したことはなかった。玄英宮にい
る間、陽子には常に景麒の使令がつくことになっていたから、ひとりでいても
彼女の安全には何の心配もない。
 黄医は残っている女官にも「景王からいろいろご助言をいただけることに
なった」と声をかけ、何人か一緒に話を聞くよう促した。陽子はあわただしい
雰囲気になった六太の臥室を出、近くにある落ち着いた小部屋に案内された。
「わたしは医療の専門家ではないため、あくまで伝聞による素人の私見になり
ます。それから先ほど延王や黄医にご紹介した蓬莱における回復例ですが、も
ちろん滅多にあることじゃないでしょう。だからこそ奇跡だと騒がれたのだと
思います」
 最初に陽子はそう断って、彼らが過剰な期待をいだかぬよう釘を刺した。希
望を持つのはいいが、効果がなかった場合の落胆の大きさを思えば確実視され
ても困るのだ。何だかんだ言っても尚隆はその辺の区別を冷静につけられるだ
ろうが、臣下がどうかとなると心もとない。仮に効果が出るとしても、少なく
とも数年はかかると思われればなおさらだ。

640永遠の行方「王と麒麟(234)」:2013/05/10(金) 19:11:59
「心得ております」黄医はうなずいた。「そもそも呪に強制された眠りと、怪
我や病による昏睡とはやはり性質が違いましょう。しかし実際に台輔がお目覚
めになるか否かはさておき、良い影響があるらしいとわかればお世話をするほ
うも安心して取り組めます。意識はなくとも快く感じておられるかもしれない
と思えば張りも出ます」
「わかりました」
 陽子もうなずき、意識が戻らなかったり、肢体が不自由になった患者の介護
に関する話題を懸命に思い起こして話した。女官たちも熱心に聞き、六太のた
めとあって幾度となく質問もし、時にはこれまでの介護方法を実演して陽子の
助言を仰いだ。
 そうやって彼らの相手をしながら、陽子は先ほど六太を抱きあげて歩き去っ
た尚隆の姿を思い浮かべた。所作がきびきびとしていたせいか、どこか気持ち
に張りが出たように見えた。少なくとも気がまぎれたことは間違いなく、これ
で朱衡も少しは安心するだろうかと思う。日頃の後援の礼は、昨日の花見の宴
で同席の三人に既に述べていたのだが、やはり具体的に役に立てたと思えるほ
うが嬉しいものだ。
 午(ひる)になり、長楽殿の尚隆から昼餉の誘いが来たのを機に陽子が立ち
あがると、女官のひとりが「本当に景王には何とお礼を申しあげて良いか」と
しみじみと感謝を述べた。
「最近では官の中にも公然と台輔を見捨てるべきだと放言する不埒な輩がいる
上、このところ主上もあまりお見舞いにいらしてくださいませんでした。でも
景王のおかげで台輔を主上のおそばにお連れすることもできましたし、これで
わたくしどもも少しは溜飲が下がります」
「これ、景王に申しあげることではありませんよ」
 別の女官が朋輩の軽はずみな発言を叱責した。陽子は一瞬だけ迷ったものの
「朱衡さんからお聞きしています」と答えた。
「何でも、延王に延台輔を見捨てるべきだと進言した官がいるとか」
 注意したほうの女官に尋ねると、相手は少々ためらいを見せたのち慎重に答
えた。

641永遠の行方「王と麒麟(235)」:2013/05/10(金) 19:14:02
「確かにおるようです。わたくしどものところまで詳細が聞こえてきたわけで
はありませんが、解呪が難しいと思われる以上、無駄な努力は放棄して政務に
勤(いそ)しむべきだと。それが結局は雁を案じていた台輔に報いることにな
ると」
「そうですか」陽子は少し考えてからこう続けた。「仁重殿の皆さんもいろい
ろ苦労があることでしょう。進言した官も雁のために心を鬼にしたのかもしれ
ない。ただ、延王が延台輔のことを気にかけているのは確かです。皆さんも延
台輔を心配しているでしょうが、あえて言いますと、一番衝撃を受けているの
は延台輔の半身である延王です。ただそういった内心を容易に明かす人ではな
いというだけ。何かと雑音も聞こえてくるでしょうが、延王を信じて引き続き
延台輔のお世話をしてあげてください。物事というものは、何であれ疑おうと
思えばいくらでも疑えます。でも今必要なのは、延王を信じ、どれほど時間が
かかろうと延台輔が目覚めることを信じることだと思います。そのこと自体が
延王を支えることになりますから」
「承知いたしました。お言葉を肝に銘じていっそうの忠勤に励みます」
「申し訳ございません。つまらぬことを申しまして」
 女官たちは礼と詫びとで頭を下げ、陽子も「皆さんが不安に思うのもわかり
ますから」と優しく応じたのだった。

 昼餉の場は尚隆の臥室の近くにある、広く気持ちのよい露台だった。仁重殿
からついてきた女官たちが、長楽殿の尚隆の近習と協力して六太のためにいろ
いろ整えているのが遠目に見えた。
 案内されてきた陽子はそれを一瞥し、促されるまま卓についた。献立は、彼
女のためだろう、蓬莱ふうの料理を取りまぜた繊細かつ美味なものだった。
「身体を動かしているせいか、女官たちも良い気分転換になったようだ」
 果実酒を勧めながら言う尚隆自身、気がまぎれたらしく、今朝より格段に明
るい顔をしていた。陽子はにっこりして杯を受けた。
「何ならわたしが玄英宮にいる間だけでも碧双珠を貸しましょうか? 延麒が
怪我でも病気でもないことはわかっていますが、身につけさせれば良い作用が
あるかも。それに多少は飢えや渇きがやわらぎます」

642永遠の行方「王と麒麟(236)」:2013/05/10(金) 19:16:05
「主上」さすがに景麒が咎める声を出した。彼は主が碧双珠を身体から離すこ
とに良い顔をしない。
「ここにいる間だけだ」陽子はなだめるように言った。「心配ならその間、延
麒におまえの使令をつけておくといい。延麒の護衛にもなる」
「すまぬが、そうしてくれ。呪に対する効果までは期待せぬが、飢えや渇きが
少しでもやわらぐならありがたい。意識がなくとも身体は苦しんでいるかも知
れぬでな」
 尚隆も丁寧に景麒に頼んだ。景麒は逡巡ののち「わかりました」と答えた。
 食事を終えて尚隆の臥室に赴いた彼らは、碧双珠につけた紐を六太の首から
下げた。ちょうど女官たちがひとまず房室のしつらえを終えたところで、三人
はそのまま人払いをして臥室の片隅で椅子に座った。
「冬官の作業で進展と言えるものは本当にないのですか?」陽子が尋ねた。
「正確には判断がつかぬといったところだ。何しろ実際に大当たりを引き当て
るまで、何が解呪条件かわからぬわけだからな。新年に春官府の占人が手がか
りを求めて占卜を行なったが、身のある内容が得られたとは言いがたい。ああ
いうものはたいてい、どうとでも解釈可能だ」
「そうですか……」
「長丁場は覚悟している」
「はい」
 陽子はうなずいた。

 一方、朝議を終えた朱衡は、六太の見舞いに赴いた陽子と主君のやりとりは
どうなったろうと気にしながら、陽子を昼餉に招くために仁重殿に使いをやっ
た。そこで急遽六太を長楽殿、それも尚隆の臥室に移すことになったと聞いて
驚いた。しかも既に尚隆自身が六太を連れていったという。
 そのまま主君は陽子と景麒を昼餉に招く意向との話だったので、自分も食事
を済ませて時間を計ってから長楽殿に赴いた。人払いがなされている最中だっ
たが入室を許され、朱衡はひとりで主君の臥室に向かった。房室に入ると、仁
重殿の六太の臥室がそうだったように牀榻の扉は開け放たれ、帳は巻きあげら
れていた。臥牀の奥では六太が穏やかに眠っているのが見えた。

643永遠の行方「王と麒麟(237)」:2013/05/10(金) 19:18:09
「これはまた、急なことで」
 驚きのまま、拝礼もそこそこに言うと、尚隆が「善は急げというからな」と
笑った。
「蓬莱で意識が戻らず疾医(いしゃ)に見放された病人に対し、伴侶が声をか
けたり手足をさすったりする献身的な看護を続けていたら目覚めた例があるそ
うだ。それを思えば、麒麟は王といると嬉しい生きものゆえ、俺のそばに置い
て俺が声をかけたり手足をさすったりすれば良い効果がもたらされて呪が解け
ぬとも限らぬ。まあ、蓬莱の例はあくまで病の話だし、奇跡とも騒がれた稀有
な例だそうだから安易に期待はできぬが、何もせずに手をこまねいているより
はましだろう」
 朱衡は、なるほどと納得した。そうしてから、これほど好ましい措置もない
だろうことに気づいて、提案したという陽子に感謝した。これで玄英宮で一部
に広がりつつある、王はもう宰輔を見捨てたいのだという見当違いの噂を抑え
ることができようからだ。六太を王の臥室に寝かせること以上に、尚隆の関心
と気遣いを示す行為はない。しかも王みずから運んだとあっては。主君の見舞
いが間遠になっていたことを憂(う)いていた六太の近習にしても、これで力
づけられるに違いない。
 さらに朱衡は、六太の胸元を飾る碧双珠の青い輝きを認めていっそう驚いた。
玄英宮に滞在している間だけとのことだったが、いかに後援である雁を頼りに
しているとはいえ、慶の大事な宝重なのだ。まことに景王は情に厚い人柄だと、
彼は感服した。
 尚隆が言った。
「六太の世話の勝手がわかっているだろうから、六太の近習もこちらに移す。
それ以外はもともと人手が足りぬでなし、正寝の者で何とでもなろう。殿閣の
手入れもあるから、仁重殿を完全に空けるわけにもいかぬしな。六太が目覚め
れば、また戻ることになるのだし」
「冢宰へは」
「先ほど使いをやった。あとのことは白沢が適当に計らうだろう」
 主君の声音には張りがあり、朱衡は安堵した。油断はできないにせよ、気分
が浮上したらしいことは単純に喜ばしい。
(やはり景王においでいただいて良かった)

644永遠の行方「王と麒麟(238)」:2013/05/10(金) 19:20:12
 尚隆がいったい何に滅入っていたのかはわからない。しかし在位年数という
決定的な差があるとはいえ、同じ王という立場にある者との交流は良いほうに
転んだようだった。
 陽子に招待の使いを送ったのと同じ時期に朱衡は帷湍にも個人的に青鳥を送
り、宮城の近況を報せていたが、こちらも感触は悪くなかった。自主的に謹慎
している体の帷湍であり、いくら親しい朱衡からとはいえ、私的なやりとりは
先方も歓迎してはいなかった。しかし困難な状況にあるのは確かだが、だから
こそ地方州がしっかり支えねばならないこと、帷湍が治めるがゆえに多少光州
と連絡をせずとも安心していられることをはっきり伝えると、あちらも気を取
り直したらしい。朱衡への青鳥の返信で、光州は任せろ、こちらはこちらで
しっかり国を支えるときっぱり伝えてきたのだった。何だかんだ言っても、や
はり激励は必要だったのだ。
 朱衡は尚隆とともに、蓬莱における介護の例も陽子から興味深く聞いた。尚
隆が言うように呪に対する効果のほどはわからないとはいえ、六太が少しでも
心地よく過ごせる可能性があることならありがたいことだった。
 尚隆の指示で、陽子と景麒は正寝に房室を用意されて朱衡の私邸から移り、
それからさらに四日滞在した。せっかくの機会ということで、陽子は朱衡以外
の六官とも交流を深め、おしのびで各官府の見学までした。そして日に一度か
二度、必ず六太の見舞いに訪れてくれた。
「次はぜひ延麒の快気祝いに駆けつけたいですね」
 最後の日、朱衡が約束の贈りものを運ばせるためにつけた騎獣や従者ととも
に帰国の準備をしながら、陽子はにこやかに言った。明るい表情で確信をこめ
て言われると、それだけで勇気づけられる思いだった。
 贈りものについては話を聞いた尚隆が色をつけてくれたのだが、十数頭もの
大柄な騎獣に分けて積載された高価な品や金貨の山に彼もさすがに驚いたらし
い。朱衡を一瞥して「大盤振る舞いだな」と苦笑していた。
「拙官もそのように願っております」
「ではまた」
「道中、お気をつけて」
 朱衡は深々と拝礼し、主君や冢宰、他の六官とともに隣国の王と麒麟の出立
を見送った。

645書き手:2013/05/10(金) 19:22:15
慶サイド(陽子)の登場はたぶん、全編を通して今回でおしまい。
仮に出てくるとしてもイレギュラーです。

次回は再び、ぐるぐる尚隆で、六太が目覚めるまであと少しかかります。
とはいえ陽子訪問がこの章のひとつの区切りだったので、
終わりも何となーく見えてきました。
地の文でさらりとすませるか、実際にシーンを描写するかにもよりますが、
あと数回の投下でけりがつくんじゃないかと。


ところで今、完全版(新装版)の『東の海神 西の滄海』を読んでいるんですが、
蓬莱において六太が尚隆を呼ぶ場面で、「なおたか」とルビのある箇所はなさそうですねぇ。
それどころか地の文とはいえ、六太視点で「しょうりゅう」というルビが出てきちゃってる。
完全版はやたらとルビが振られており、「もしかして?」とちょっと期待しただけに残念。

646名無しさん:2013/05/12(日) 22:31:56
乙ですー
尚隆の追い詰められていっぱいいっぱいな感じが新鮮で素敵ですなw

647名無しさん:2013/05/14(火) 01:04:34
陽子ありがとう!という気持ちになりますなぁ。

新装版はまだきちんと読めてないけど
なおたかはないっぽい気がする。

648永遠の行方「王と麒麟(239)」:2013/05/24(金) 22:35:52

 陽子と景麒が去って、玄英宮に日常が戻った。尚隆の目には不思議に色褪
せて見える、自分と六太の周囲だけ時が凍結しているような日常が。
 突然の陽子の訪問には驚いたが、朱衡が私財を投じて招待したことを知って
さらに驚いた。どうやらそれによって主君の気を紛らわせようとしたらしく、
そこまで真剣に心配されていたのかと苦笑した。確かに我ながら気分が滅入っ
ているのは自覚していたし、それでいてさほど言動を取り繕ってはいなかった
から、長年の側近である朱衡が懸念したのは当然ではあった。
 内心で、さてさて悪いことをした、と茶化すように考えながらも、六太を唯
一の蓬莱の形見と悟ったあとでは、やはり完全な平常心は取り戻せなかった。
このまま六太を失うようなことがあれば、きっと自分は心の拠りどころを失う、
そんな予感がした。
 近臣の中には、主君の気持ちを推して慮っている者もいよう。だが、二度と
帰れない異世界を故郷に持つ者の気持ちは、おそらく実際に経験した者にしか
真に理解はできまい。
 むろんこの世界にも故郷を失った者は大勢いる。特に遥か昔に昇仙した古株
の官は、生まれ育った里そのものがなくなっている場合さえある。だがそれで
も彼らには、里や国は違えど、同じ理(ことわり)に支配され、同じ時代の空
気を吸っていた同胞(はらから)がこの世界に大勢いるのだ。
 六太でさえ、親に捨てられたという悲運はさておき、今では蓬莱にさほど執
着していないかもしれない。特に彼はあちらと自由に行き来できたのだから、
そのぶん執着心が薄くても当然だろう。だが蓬莱ゆえに半身にこだわっている
のは尚隆のほうだけだったとしても、彼にとって六太がかけがえのない存在で
あることに変わりはなかった。

 六太の近習は日中は六太の世話をし、夜は尚隆に任せて臥室をさがる。通常
の不寝番は隣室で、護衛は扉の外で常に控えているため、特に問題はなかろう
と、夜間は詰めておらずとも良いと尚隆が言い渡したからだ。実際、昏々と
眠っているだけの六太だから、寝所を移してからこれまでの数日で不都合なこ
とは何も起きていない。

649永遠の行方「王と麒麟(240)」:2013/05/24(金) 22:37:55
「それでは主上、台輔。お休みなさいませ」
 その夜も一礼して退出する女官らを笑顔で見送ってから、尚隆は牀榻の帳を
開けた。臥牀の奥では六太が横たわっていたが、日に何度かそうなるように、
今もうっすらと目を開けて放心した風情を見せていた。
 臥牀の上、すぐ傍らであぐらをかいた尚隆は、そんな六太をぼんやり見おろ
した。
 不思議だな、と切ない気持ちでつくづく思う。麒麟は必ず王の近くに侍るも
の。その心も、景麒が言ったように好悪の別はさておき、常に王とともにある
と言えるだろう。たとえば乱心した王が麒麟を遠ざけることはあっても、麒麟
が自分の意志で王から離れることは決してない。だから六太も傍らにいて当然
だと思ってきた。もしも心が遠く離れるなら、王である自分のほうだろうと。
 だが現実には今、身体はあるものの六太の心はここにない。夢も見ない眠り
に囚われたままなのだから完全な空白であり、王に対する関心すらないわけだ。
尚隆はこうしてそばにいて彼を気にかけているというのに。
「陽子と景麒は慶に帰ったぞ。おまえが目覚めたら、くれぐれもよろしく伝え
てくれと言っていた」
 静かに話しかける。王がそばにいて声をかけることで、少しは良い影響があ
るだろうかと考えながら。それから不意に口の端に笑みを浮かべ、からかうよ
うな声を投げた。
「おまえ、陽子に接吻されたのだぞ。わかっておるか?」
 だがそのからかいにも淋しげな色は禁じえない。
 陽子が眠り姫の話題を出したとき、もしや、と彼は期待した。六太の懸想の
相手が彼女であるなら、陽子に接吻されれば目が覚めるのでは、と。
 六太が恋の成就を望み、それが最大の願いだった可能性は高い。ならば呪者
は皮肉を込めてその意を汲み、相手の女性との何らかの接触を解呪条件にした
に違いない。しかしながら神獣であり性的に幼いと思われる六太と、普通の男
のような生々しい欲望は結びつかない。ならば――。
 ところが実際には解呪は果たせず、落胆した尚隆は、ごくごくわずかな時間
の間に自分がいかに激しい希望をいだいたのか思い知った。

650永遠の行方「王と麒麟(241)」:2013/05/24(金) 22:39:59
 しかし他国の王にこれ以上のことは望めない。望んでいいことではない。ど
んなに滅入ろうと、それがわからないほど道理を見失ってなどいない。余裕の
ない国の国主が、大量の贈りもので乞われたとはいえはるばる雁にやって来て、
他国の麒麟に接吻までしてくれた。それでもう十分だ。
 遠くに思いをはせるようにふと牀榻の天井を仰いだ尚隆は、彼にあえて厳し
く接した陽子の言動を思い浮かべた。なんだかんだ言っても実際のところは、
別段、それを不快に感じたわけではない。尚隆を力づけようとしているのはわ
かっていたし、むしろ若さゆえの大胆な言動に、かつての泰麒捜索の折、玉座
などいらないと臣下の前で言い放ったときの浅慮をなつかしく思い出しさえし
た。
 彼女は若い。若すぎてまだまだ自分の感情を抑えることができない。しかし、
だからこそ成せることもある。それに以前は言動の影響を慮るところまでいか
ないことも多かったが、さすがに今回はそれなりの予測をもって行動したのだ
ろう。
 六太に視線を戻した尚隆は、彼女と文をやり取りしていた六太の言を思い出
した。
 六太は、陽子にはあまり先行きが暗くなりそうな話題を振らないように配慮
していると軽口で言ったものだ。既に五百年以上を生きている自分たちとは違
う、老爺の繰り言は若い心にはそぐわない、と。
 確かに蓬莱の稀有な回復例を引き合いに出しての励ましなど、生きることに
倦んだ者にはとても思いつかないだろう。あれはどんな低い可能性にも希望を
失わない、生命力に満ちたまっすぐな心ゆえに口にできた言葉だった。おまけ
にまだまだ彼女はこの世界の理に通じたとは言えず、天帝の思惑よりも自分の
信念のほうを無意識に信じている。
 ならば、この際それに賭けてみてもいいだろう。
 もちろん陽子の提案に過剰な期待をいだいたわけではない。この世界は蓬莱
とは違う理に支配されている。あらためて考えるまでもなく、しっかり施され
た呪が解呪条件以外に解ける可能性はほとんどないと思われた。
 ただ、もしかしたら、ということはある。ほんの毛筋ほどでも可能性がある
ならば、諦める前にあがいてみるのもいい。

651永遠の行方「王と麒麟(242)」:2013/05/24(金) 22:42:03
 それに尚隆は天意を享(う)けた王だ。国内の状況から言っても、各種占卜
に凶兆が現われていないことを鑑みても、決して天命を失ったわけではない。
ならば天運は王に味方するはずだ。
 そう考えるのは別に彼が天帝を信じているからではない。少なくとも尚隆に
は天帝に対する「信頼」や「信仰」といった情緒的な感情はなかった。ただ経
験則から導きだした論理的な考えから、創造神に類する存在の確信があっただ
け。だからこそ天命を享けた王の運の強さを含め、この世界が天意を反映する
ように作られていることを納得して、ある意味では突き放すような冷静さで受
け入れてきた。条理の大いに異なる別世界からやってきただけに、いったん作
為の存在を得心すれば、世界の成り立ちをも含めた全体を俯瞰する視点に立っ
て割り切りやすかったのかもしれない。
 それゆえ、これまで謀反が起きたときの大胆な対処法も、天運を味方にして
いる王としてのおのれは必ず念頭に置いていた。もし天が尚隆にまだ雁を治め
てもらいたいと考えているなら、この危機も乗り越えられるだろう――尚隆自
身が諦めさえしなければ。
 問題はそこだった。
 六太が唯一の蓬莱の形見だと自覚し、なのに彼に見捨てられて一時的に憤り
に似た絶望に駆られはした。それはある意味では感情のほとばしりであり、負
の方向にとはいえ生の躍動感の発露でもあった。
 ところが今はそうではない。尚隆は不思議と覇気を失ってしまった自分を明
確に自覚している。食事をして初めて空腹だったことを自覚するように、立ち
止まって初めて歩き疲れていたことを自覚するように、ふと歩みを止めて進ん
できた道を振り返ってしまった尚隆は、これまで感じなかった疲労を、再び同
じように歩き出すには億劫だと思うような倦怠感を覚えてしまったのだった。
 おそらく、とどこか物憂い気分の中でも冷静に分析する。治世の最初の数十
年のようにやることが山積みで、国そのものも貧しかったらここまで迷いに捉
われはしなかったろう。そんなことに意識を割かれるほどの余裕はないからだ。
たぶん六太の望みどおり、彼を捨て置いても国政に力をそそいだに違いない。
余裕ができるのは喜ばしいことだが、暇がありすぎると得てして余計なことを
考えてしまうという見本かもしれない。

652永遠の行方「王と麒麟(243)」:2013/05/24(金) 22:44:07
 そもそも最初の百年で雁の全土はいちおうの復興を遂げた。続く百年で安定
した発展を続けてきた。つまり国を平和に豊かに治めるという目標は何百年も
前に達成できているのだ。進むべき段階的かつ具体的な目標と、最終目標に対
する未来像を描けているうちは気が張っているからいい。だが実際にそこに到
達してそれなりの達成感を得たあとは、ただ後戻りしないよう、少しずつでも
歩み続けるだけのゆるやかな現状維持だ。そこにもはや大局的な目標はない。
 人間というものは贅沢や便利さにすぐ慣れてしまうものだ。その上いったん
慣れると、少しでも後戻りすると不満を感じてしまう厄介な性質があるのだか
ら、国の安寧を保つためには決して立ち止まるわけにはいかなかった。だがだ
からといって既にどこへ行けるというものでもない。
 ふと尚隆は、自分はどうしたいのだろうかと考えた。ただ前に進むだけの、
永遠に続く重責の連続をこれからも続けるのか――たったひとりで。
 何を達成しても、傍らで共に喜ぶ者がいなければ張り合いはない。そしてそ
れは尚隆が意のままに罷免でき、いくらでも余人に代えられる官では物足りな
かった。
 むろん麒麟も王の臣下だが、王の選定という役目を負った神獣で、王の生命
も握っている特殊な立場にある。それゆえに玉座の象徴とされ、王の半身と呼
ばれる。いわば共同で王位を守っているようなものだ。主従ではあり、本気の
勅命を拒否することはできないとはいえ、王に対して真に強い態度を取れる唯
一の存在だった。
 だからこそ、このままむざむざと六太を失うことを認めてはだめだ、とは思
う。きっと天命ある王の終焉は、王自身が諦めるか否かにかかっている。諦め
さえしなければ、どんな困難も克服できるのではないか。たとえ間一髪で命を
失うような危険の連続にさらされてさえ。この世界に連れてこられた陽子の過
酷な放浪の旅 がそうだったように。
 そもそも尚隆はこれまで何事も諦めたことはなかった。暗い滅亡の誘惑に駆
られてさえ、その動機はどうあれずっと前を見据えていた。しかしいったん立
ち止まって足跡を振り返ってしまうと、既に目標を達成してしまっただけに、
これまで感じなかった疲労による誘惑は甘美だった。そろそろ荷を降ろして休
んでもいいのではないか、という魔のささやきは甘露のごとく甘く優しい。

653永遠の行方「王と麒麟(244)」:2013/05/24(金) 22:46:10
 何しろこの世界の王に老衰による自然死はない。天命を失っていないならな
おさら、禅譲にしろ弑逆にしろ、どこかの時点で王なり臣下なりが決断するし
か王朝の終焉はありえない。
 その上、彼は永遠など信じていなかった。武士は散り際が肝心だ。むろん王
の心構えとしては永遠を目指すべきだろうが、同時に終焉のことも想定してお
かねばならない。見たくないものを見ない、考えたくないことを考えないとい
うのは、市井の民なら許されるかもしれないが、王たる者の精神ではない。
 だが六太のことが原因で尚隆が王の位を退くことは、きっと六太を裏切るこ
とだ。たとえ愛する女性のために呪者に屈したのだとしても、尚隆がいれば国
の安寧は保たれると信じればこそ、覚めない眠りを受け入れたのだろうから。
 なのにこんなふうに惑っている主君を見たら、六太はいったい何と言うだろ
う。「なに、柄にもなく深刻に考えこんでんだよ」と呆れるだろうか。
「深刻にもなろう。半身に見捨てられたとなれば」
 ふと苦笑まじりにつぶやいたものの、六太は時に凍結されたように静謐をま
とったまま、実際に声が届くはずもない。しかし尚隆は脳裏で彼がわざとらし
く顔をしかめたのを感じた。
(ひねてんなー。見捨てるも何も、いつも俺を無視して勝手にやるくせに)
 確かに、と続けて苦笑する。万事に見通しの甘い六太の諫言や進言を聞き入
れたことは一度もないのだから。
(じじいになると繰り言が増えるんだよなぁ。やだねー、愚痴っぽくて)
 幻の六太は呆れたように肩をすくめている。尚隆は手を伸ばして、眠る六太
の頬をなでた。
 今にも起きあがって、幻聴ではなく本当に以前のような憎まれ口をたたかな
いだろうか、と夢想する。しかし現実にはただ横たわっているだけ。
 尚隆は六太が、王には何も悪影響がないことを呪者にしつこく確認したとい
う鳴賢の言を思い出した。王がいなければ国が荒れるのはすぐだから、と説明
したという。おそらく尚隆が王でなければ、この少年にとって何の価値もない
のだ。

654永遠の行方「王と麒麟(245)」:2013/05/24(金) 22:48:14
 だがそれは当たり前だ。六太は麒麟だ。麒麟が王を求めるのは本能であり、
それ以上の意味を求めるものでもない。おそらくは麒麟でなければ、尚隆の存
在に意識を向けることさえなかったに違いない。
 それでも少しは王としてではなく、個人としての小松尚隆を気にかけたのだ
と思えたらどんなにいいだろう。五百年もの間、苦楽をともにし――少なくと
も同じ時代の蓬莱に生まれ、同じ時を過ごし、ここまで来た。彼を玉座に据え
た当人とはいえ、いや、だからこそ、六太にとって尚隆が王でなければ一片の
価値もない存在だとは思いたくなかった。
 だが真実を知ることは尚隆には永遠にできない。彼が王でなくなるのは死ん
だあとなのだから。何より、ふたりは出会ったときから王と麒麟でしかなかっ
た。
 ――そう、王と麒麟だからこそ出会った。
 半身の顔を眺めながらそんなことをつらつらと考えていた尚隆は、徐々に心
の中に何かがしみいるのを感じていた。
 たとえ六太が陽子に懸想をしていようと、尚隆には天に強いられた忠義しか
なかろうと、そのこと自体は大した問題ではないのかもしれない……。
 ――なぜなら。
 なぜなら彼らは最初から王と麒麟だったのだから。だからこその出会いだっ
た。でなければ尚隆はあの瀬戸内の海で討ち死にしていたはずだし、そもそも
六太はそのずっと前に飢えて死んでいたのだろう。
 王と麒麟だからこそ出会った。そこへ、もし王でなかったら麒麟でなかった
らと仮定することは意味がない。
 ならば。
 それこそが自分たちの絆だ。王と麒麟であること、それ自体が。
 陽子に対するようなこまやかな気遣いを示されずとも、個人としての尚隆に
など六太がいっさい関心を寄せていなかったとしても。尚隆との間にも余人と
の関係に代えられない培ってきたものはあるはずなのだ。
 ――ならば。
 ならば王としてできるだけ長く六太の前にあること。それができれば。
 尚隆は拳を握りしめた。その目に一瞬、強い光が蘇る。
 このまま諦めてしまうことはできなかった。

655書き手:2013/06/03(月) 19:25:00
また海客などのオリキャラが多少関わってしまうこともあり、
ちまちま小出しにするのではなく、
この章の終わりまで書き上げてから一気に投下したいと思います。
そのためしばらく……というか、おそらく今度はかなり間が開きます。

尚六的承&転となる次章に突入してしまえば、
宮城における尚隆と六太のやりとりが主体になるため、
少なくとも下界のオリキャラはほとんど出ないんですけど。

656名無しさん:2013/08/19(月) 21:01:31
この作品に会えてよかった(*´∀`)

657名無しさん:2013/08/23(金) 10:45:28
応援してます

658書き手:2013/10/27(日) 20:43:56
章の終わりまで書いて一気に投下、と予告しましたが、
しばらく二次創作から離れていたので全く進んでいません(汗)。
と言っても十二国記から離れていたわけじゃないんですが。

当初は書き溜めていた部分も含めて推敲するつもりでそう予告したんですが、
時間が経って、別にこのままでもいいかぁと思ってしまったので少しだけ落とします。
ただ本格的に続きを投下するのはまだ先になります。

659永遠の行方「王と麒麟(246)」:2013/10/27(日) 20:46:01

 陽子のおかげで気晴らしができたためだろう、主君の様子はかなり改善され
たように見えた。一時のどこか苛立ったような気配は鳴りをひそめ、逆に人当
たりが柔らかくなりさえした。そして近習に様子を聞いても、朱衡自身の目か
ら見ても、かなり丁寧に六太の世話をしていた。
 にぎやかなほうが良かろうと、女官を含めた大勢でいろいろな噂話をしなが
ら六太にも普通に声をかけ、彼も話に混ざっているかのように振る舞う。何も
ないときは六太の眠る臥室に留まり、みずから優しくも根気よく手足をさすっ
たり関節を動かしたり寝返りを打たせたりし、その間も宮城でのできごとを話
して聞かせる。毎日の着替えでさえ、女官の手を借りながらも尚隆自身がやっ
ていた。朱衡や他の六官が見舞えば彼らにも談笑に加わるよう促すので、主君
の臥室は、開放的で活気がありながらなごやかな場所になった。
 本来なら昇殿できない官位の下官らも大勢招こうとしたため、さすがに警備
上まずいと官が進言し、代わりに外殿の一室に場所を設けて六太を連れだして
は、六太と親しかった下官たちを見舞わせて近況報告がてら談笑させるように
もした。仁重殿にいたときほど花は飾られていないが、それでも臥室を訪れる
人々の目を楽しませる程度には飾りつけがなされ、趣味の良い香が焚かれ、毎
日三度、時間を決めて楽人による演奏が行なわれた。水や果汁を飲ませるのも
女官まかせにすることなく、政務を中断して戻ってきてまで、かならず尚隆が
口移しで飲ませた。
「どうせなら関弓の街にも連れていって、六太の親しかった者たちと会わせて
やりたいものだがな」
 尚隆はそう言ったものの、使令がいない今、万が一を思えばさすがに無理と
いうものだろう。足を伸ばすのを許容できるのはせいぜい国府どまりと思われ
た。
 そうこうしているうちに尚隆は、下界に行く代わりにいくつかの凌雲山にあ
る離宮に六太を連れていくと言いだした。ずっと宮城にいては六太もつまらな
いだろう、場所を変えれば気分転換にもなる、と。少しでも六太が喜びそうな
ことは片っ端から試すつもりらしい。
「せっかくだ、おまえたちもつきあえ」

660永遠の行方「王と麒麟(247)」:2013/10/27(日) 20:48:05
 主君はそう笑い、政務の合い間に近習はもちろん六官の誰かを代わる代わる
同道しては離宮に赴き、そのまま二、三日逗留するのを繰り返した。離宮とて
基本的な造りは宮城と似通っているが、それぞれに特色はあるため、もしかし
たら本当に六太も微妙な空気の違いを捉えて喜んでいるかもしれなかった。
 陽子が尚隆や近習に行なった助言は、女官らの口を介して自然と広まってい
たから、宮城の誰もが王の意図を理解して協力した。特に下官は仙境蓬莱に由
来するとあって件の助言を確実視し、近日中に六太の目が覚めるに違いないと
思いこんだ者も多かった。
 むろん六太の身近にいる者たちはそこまで楽観してはいない。冬官たちも引
き続き解呪条件を突きとめるための努力を懸命に続けている。それでもこれま
での一年と異なる方向性での奮闘は気持ちを一新したし、ひんぱんに離宮に赴
くことは気晴らしにもなり、何かと滅入りがちだった六太の近習たちの慰安に
もなった。それは尚隆も同じだったに違いない。
 とはいえ主君の様子にずっと気を配っていた朱衡は、完全に不安をぬぐえた
わけではなかった。何しろ神仙である尚隆は、仮にどれほど生活が乱れ気持ち
が荒れても簡単にやつれることがない。だから一見すると面立ちは何も変わら
ないように思えるのだが、ずっと仕えてきた身からすると、どこか疲労の色が
窺えたし、何より表情に翳りがあった。それに妙に精力的なのも逆に気がかり
だった。こういうことは忙しくしている間はいいが、ふと気がゆるんだときが
怖いのだ。
 それでも朱衡は陽子の励ましを信じ、どれほど時間がかかろうと六太は必ず
目覚めるとの希望を胸に、主君の前では決して迷いを見せないよう気をつけた。
一方、白沢はともかく他の六官は早々に安堵したようで、朱衡などよりずっと
朗らかだった。
 尚隆が政務で不在の間、女官たちは六太を椅子に座らせ、彼が喜びそうな楽
しい物語を朗読して聞かせたりした。彼女らは市井に赴いてまでさまざまな物
語の写本を買い求めたが、尚隆にも、もし海客の書いた物語が他にもあれば、
ぜひ取り寄せてほしいと頼んだ。
「確かに六太は聞きたがるだろうな」

661永遠の行方「王と麒麟(248)」:2013/10/27(日) 20:52:13
 そのとき臥牀に寝かせた六太の枕元に腰をおろしていた尚隆は要望を聞き入
れ、鳴賢を通じて海客に頼んでみることを約束した。ついで日課となっている
楽人たちの美しくも荘厳な演奏がなされ、さらに女官たちが優しい声で柔らか
く合唱したあと、尚隆はどうせなら海客の音楽も聞かせてやろうと言いだした。
「海客の音楽、ですか?」
「そうだ」
「あれはかなり騒々しいとの話ですが……」
 果たして六太の身体に良いものやらわからぬと不安そうにした女官に尚隆は
苦笑した。
「だが六太は好んでいたそうだぞ。むろんおまえたちの歌声は美しく耳に心地
よいが、にぎやかで騒々しい歌や楽曲もたまには良かろう。特に海客のみなら
ず関弓の民と一緒に大勢で歌うときは楽しそうだったと聞くしな」
「しかし、不用意に台輔を下界にお連れするわけには」
 その場にいた朱衡もそう言って懸念を示した。民の前に出すならどうあって
も金の髪は隠さなくてはならないが、眠ったままの六太の頭を布で巻くのは不
自然ではなかろうか。
 尚隆は少し考え、六太は事故で頭を打ったことにしようと言った。
「頭を怪我したことにして保護のための布をぐるぐる巻き、一筋か二筋、薄い
茶色のかもじを垂らしておけば誤魔化せよう。こいつは市井に出るとき、よく
眉に薄茶色の眉墨をなすりつけていたから、出会った者たちは何となく茶色の
髪だと思っているはずだしな。そして天幕なり何なりで囲った場所を片隅に
作ってもらい、人目に触れぬよう、そこでこっそり歌や楽曲を聞かせてもらえ
ばよい。そもそも海客の団欒所は国府にある。街中に出すよりは相当に安全だ
ろうよ」
「では念のため、拙官もご一緒させていただいてよろしいでしょうか」
「おまえが?」尚隆はおどけたように眉を上げた。「海客の音楽は好みではな
いのではなかったのか」
「それも経験というものです。そろそろ拙官も新しい経験をいたしたく存じま
す」

662永遠の行方「王と麒麟(249)」:2013/10/27(日) 22:54:35
「なるほど」おかしそうに笑った尚隆は、傍らの六太に手を伸ばして頭をなで
ながら優しく話しかけた。「朱衡はそろそろ新しい経験をしたいそうだ。慣れ
ぬことをして頭痛がせねば良いが」
 その声音と所作には紛うことなき慈愛がこめられ、朱衡はとっさに言葉を続
けられずに数瞬、間が空いた。それから取り繕うように微苦笑してみせ、言葉
を継いだ。
「たまには頭痛がするようなことをするのも新鮮でいいものです。主上こそ、
聞きなれぬ楽曲に頭を痛めることのなきよう。台輔に笑われてしまいますよ」
「なに、日頃から何かとおまえたちに笑われているゆえ、今さらこれに笑われ
たとて別にこたえんな」
 そう言って穏やかに笑った主君の目も声もやはり優しかった。

 数ヶ月ぶりに大学寮に風漢が訪ねてきたとき、彼が「おう」とにこやかに手
を上げたので鳴賢はとっさに期待してしまった。
「もしかして呪が解けたのか?」
 房間に招きいれて扉を閉めるなり、急(せ)きこんで尋ねる。だが相手は笑
顔のまま首を振った。
「いや、まだだ」
「そ、そう、か……」
 ふくらんだ希望を一瞬のうちに打ち砕かれ、鳴賢は落胆のままに肩を落とし
て大きく息を吐いた。風漢の声音や物腰が今までよりずっと柔らかく感じられ
たため、てっきり事件が解決したのかと思ったのだ。適当に座ってくれ、と
言って、自分も椅子にかける。
「じゃあ、また俺に聞き取りでも?」
「いや、今日はちと頼みたいことがあって来た」
「俺に?」
「六太に読み聞かせたいので、海客が書き記した物語があれば、以前のように
手に入れて送ってほしいのだ。それと海客の音楽も聴かせたい。おまえは団欒
所の海客と面識があるゆえ、その旨を仲介してはくれまいか」
「えっ……」しばし絶句したのち、鳴賢は慎重に尋ねた。「それって……彼ら
を宮城に招くってこと、か?」

663永遠の行方「王と麒麟(250)」:2013/10/27(日) 22:56:39
 六太の身分を知られたらまずいだろうに、と懸念もあらわな彼に、風漢は
「いや」と笑いながら首を振った。
「いつもやっているように、団欒所で演奏なり合唱なりしてくれればよい。そ
れもできれば関弓の民も呼んでにぎやかにやるほうが良いな。陰で六太に聞か
せるゆえ、盛大なほど六太も喜ぶだろう」
「いや、その、だって。そもそも何だってそんなことを」
「実はな」
 風漢の説明は驚くべきものだった。先日、景王がわざわざ玄英宮を訪問し、
解呪条件を突きとめられずとも呪が解ける可能性があると力説したのだという。
いわく、蓬莱で怪我や疾病のため昏睡に陥り、二度と目覚めぬと思われた人々
が地道な看護で意識を回復した奇跡の例がある、ならば六太の場合も触覚や聴
覚に刺激を与え続ければ似たような効果が望めるかもしれない、と。特に親し
い間柄の人間による親身な看護、ひんぱんに声をかけたり好きだった音楽を聞
かせること等々が好ましいらしい。
 病と呪とでは条件が違うが、症状自体はよく似ているわけで、もしかしたら、
ということはある。それで王に一任されたのだと風漢は語った。
「むろん安易に期待はできぬ。できぬが、害のないことならやっても損はある
まい?」
「それもそうか……」
 はたから見てどれほど可能性が低いように思えても、手立てを尽くすという
意味では何であれやってみる価値はあった。
「でも、六太は養い親に連れられて余州に行ったってことになってるんだけど」
「六太は事故で頭を打ち、それ以来昏睡が続いていることにする。養い親は良
い瘍医にかからせるために首都関弓に戻りたかったが、勝手に任地を離れるわ
けにはいかぬとあって迷ったあげく、俺に頼んで六太だけ関弓に戻した。そこ
でこの手の症状に詳しい瘍医に、好きだった音楽を聞かせると効果のあった患
者がいると助言されたことにするのだ」
 既に基本的な設定は考えてきたのだろう、風漢の説明は淀みなかった。意表
を突かれて瞬いた鳴賢だが、少し考えただけでうなずいた。
「なる……。それなら矛盾はないか……」

664名無しさん:2013/11/04(月) 22:32:09
一気に読んでしまいました
めっちゃオモローです…!

665名無しさん:2013/11/14(木) 05:39:44
再読だけでも3日はかかりました。ああ、まだまだ何年も読んでいたい。
どの章も面白いです!

666永遠の行方「王と麒麟(251)」:2013/11/21(木) 22:51:02
「六太は俺が連れてくるが、頭を怪我したということで布をぐるぐるに巻いた
上で、隙間から薄茶色のかもじを覗かせて髪の色を誤魔化す。だが大勢が集ま
るとなると何が起きるかわからぬゆえ、念のために団欒所の片隅に天幕なり何
なりで囲った一角を設けてもらいたい。そこでなるべく人目に触れぬようにし
て歌や曲を聞かせるのだ。頼まれてくれるか」
「わかった」鳴賢はいったん了解したものの、すぐに不安な声になった。「け
ど、そう簡単にはいかないかもしれない。何しろ楽器を弾ける海客って、今は
守真と恂生だけなんだよ。悠子という娘は楽器を弾けないって聞いたことがあ
るし、もうひとり華期って男がいるんだけど、国府に勤めてて忙しいらしくて
全然顔を出さないから俺も会ったことがない。さすがにふたりだけじゃ難しい
んじゃないかな。関弓の民も呼ぶなら、彼らの相手をする人も必要だろうから」
「華期?」眉根を寄せた風漢は、すぐに、ああ、とうなずいた。「それならば
心配はいらぬ。忙しくとも開放日には顔を出すよう、俺が頼んでみよう」
「あ、そうか。あんたも海客だったんだよな。もともと知り合いか。でもそれ
なら、あんたが直接守真に頼んだほうが話が円滑なんじゃないか?」
「いや……。実を言うと俺はその女人と面識はないのだ」
「え、そうなのか?」
「最初から団欒所に行かぬ海客も少なからずいる」
「それでも華期とは知り合い?」
「国府で働いている者同士、まあ、いろいろとな」
「そうか。なるほど」
「それより関弓の民の相手をするなら、ほれ、楽俊の母親がいたろう。人形劇
も見にきて楽しんだ上、世話好きでいろいろ手伝ってもくれたそうではないか。
今度も頼めば引き受けてくれるのではないか」
「ああ、いい考えだ。さっそく明日にでも話してみるよ」
 楽俊によると母親も六太の身分も知っているということだし、その意味でも
安心だ。いろいろ気を配ってもくれるに違いない。
「文張は今頃きっと仕事で忙しいだろうな。とっとと卒業しちまいやがって」
鳴賢は明るい顔で毒づいてみせた。「じゃあ、団欒所のほうは今度の開放日に
訪ねていって、守真に頼んでみる」

667永遠の行方「王と麒麟(252)」:2013/11/21(木) 22:53:06
「うむ。よろしく頼む」
 必要に応じてそれらしい設定を即興で作ってかまわないとも言われたが、念
のためにその場でいろいろ擦りあわせをした。そのまま、何度かそうしたよう
に一緒に飲み食いでもしにいくかと思えば、風漢は開放日後の再訪を約束して
すぐに辞去した。聞けば 女官と一緒に六太の世話をする役もおおせつかった
ため、空いた時間はすべて六太の側にいるのだという。何度も聴取にやってき
たことといい、意外と職務熱心で面倒見のいい男だったんだな、と鳴賢は感心
した。
 翌朝、鳴賢は遅い朝餉を摂りに飯堂に行った際、こっそり楽俊の母親を呼ん
で計画を伝えた。ちょうど忙しい時間帯が一段落したところで、人の好い彼女
は真剣に耳を傾けてくれ、予想通り、ぜひ協力したい、詳しいことが決まれば
教えてほしいと言ってくれた。それから開放日までの間、鳴賢は頭の中で何度
も守真との想定問答を繰り返した。
 当日、実際に団欒所に赴くと、とっくに敬之が顔を出しており、ここに備え
つけられている簡単な言葉の対応表を広げて、片言の会話を混ぜた筆談を悠子
としているのを目にした。彼とはこの数ヶ月、何度か団欒所でも顔を合わせて
いたから、特に予想していないわけでもなかったが、今では悠子も片言で応じ
ているらしく、時折楽しそうな笑い声さえ聞けるようになった。敬之当人は蓬
莱の言葉に興味があって教えてもらっていると言い訳していたが、悠子を気に
かけているのは明らかだった。考えてみれば阿紫もそっけない娘だったし、年
頃も似通っている。意外とああいうのが好みなのかもしれない。いずれにせよ、
失恋の痛手を癒せたのなら喜ばしいことだった。
 鳴賢は談笑の輪の中にいた守真を見つけ、内々に相談したいことがあると耳
打ちした。いつになく真剣な様子に感じるものがあったのだろう、気を利かせ
た彼女は鳴賢を手招きし、隣の誰もいない小部屋へ連れていった。物置のよう
なそこで向かい合って座り、ためらいながら六太が頭を怪我して昏睡状態が続
いていることを告げると、いつもにこやかな守真も絶句してしばらく呆然とし
ていた。
「あ、命には別状ないんです。ほら、六太は仙籍に入ってるから、ちょっとぐ
らい飲まず食わずでも影響ないし」

668永遠の行方「王と麒麟(253)」:2013/11/21(木) 22:55:10
 安心させるように言うと、守真は幾度も目を瞬き、それからようやくのこと
でかすかにうなずいた。蓬莱に子を残してきた彼女は、赤の他人であっても子
供の災難に同情しやすいのかもしれない。
「養い親は手を尽くしたんだけど、やっぱり地方じゃいい瘍医がいないらしく
て。それで知り合いの風漢って男が世話を頼まれて、最近になって六太だけ関
弓に戻ってきたんです。そうしたら風漢の伝手で診てもらった瘍医に、地道に
手足をさすったり話しかけたりすると回復することがあるとか、好きな音楽を
聞かせたら反応を見せた患者もいるといった話を教えられたそうです。風漢は
小間使いを何人か雇って、ひんぱんに話しかけたり楽器を弾かせたりして六太
の世話をさせることにしたけど、俺が六太は海客の歌や曲も好きだって教えた
ものだから、ぜひ聞かせたいって乗り気になって。もっとも今、楽器を弾ける
のは守真さんと恂生だけだけど、それを言ったら、国府に勤めている官同士、
風漢は華期さんを知ってるから、何なら忙しい華期さんにも開放日ぐらいはこ
ちらに来てもらえるよう頼んでみると言ってました」
 さらに、できれば関弓の民も呼んで大勢でにぎやかにやってもらいたいこと、
かと言って六太を好奇の目にさらすのは本意でないため、堂室の一角を天幕な
どで囲って人目に触れない場所を作り、そこに運び入れたいとも伝えた。人手
が足りないが、話を聞いた楽俊の母親がぜひ手伝いたいと申し出てくれている
ことも。
 黙って話を聞いていた守真は、やがて得心したのだろう、気を取り直したら
しく大きくうなずいた。
「そうだったの……。大変だったのね」
「ちょっと聞いたところじゃ、六太は他の官吏の子弟と遊んでいてどこか高い
ところから落ちたらしいです。怪我自体は大したことなくてほっとしたはいい
けど、打ちどころが悪かったのか、それ以来、目が覚めなくて」
「まあ」
 顔を歪めた守真は口に手を当て、心の底から気の毒そうな声を上げた。彼女
自身は、景王が口にした蓬莱の回復例を知らないようだったが、効果があるか
どうかわからないにせよ、必死に手を尽くそうとする親御さんの心中を思えば
自分も苦しい、できることがあればいくらでも協力すると言ってくれた。

669永遠の行方「王と麒麟(254)」:2013/11/21(木) 22:57:19
「でも、歌や曲を聞かせるのって、一度だけじゃなく、きっと何回もやったほ
うがいいわよね?」
「あ、そう――ですね」鳴賢は内心で、風漢にそれを聞かなかったなとあわて
ながらもうなずいた。「そこまでは言われてないけど、確かにそうかもしれな
い。一回や二回ではだめでも、何回も繰り返すほど効果が現われやすいかもし
れないんだし」
 それを聞いて考えをまとめるかのようにしばし目を伏せた守真は、何やらひ
とりうなずいてからこう言った。
「だったら最初からきっちり予定を立てて大がかりにしなくてもいいと思うわ。
自然に人が集まったならともかく、関弓の人たちに声をかけてにぎやかに催す
のは後回しにして、はじめはついでのような気軽な演奏会でいいんじゃないか
しら。それなら準備もいらないからすぐできるし、何なら初回はわたしがひと
りでピアノを弾いて歌ってもいいんだもの。むしろ六太を運び入れる場所をき
ちんと作ったほうがいいわね。単に布を垂らしただけじゃ、誰かに興味本位に
覗かれないとも限らないし、そんなのは嫌でしょ」
「そうですね」
「六太も親しくしていた大工さんがいるから、ちょっと頼んで、背の高いしっ
かりした仕切り板を取りつけてもらうわ。あちらの堂室の中のことなら、ある
程度はわたしの裁量に任されているから、あとで取り外せるようにしておけば
咎められないし、上のほうが開いていれば声や音もよく聞こえるでしょ。舞台
裏のような体裁の、わたしたちだけ出入りできるような雰囲気にして。次の開
放日までに完成させたいから、しばらく一時的に大工さんを入れてもらえるよ
う担当の官に頼むわ。それから当日は早めに来て、他のお客さんたちが来る前
に六太にそこに入ってもらったほうがいいわね」
「はい。風漢に伝えておきます」
「六太の付き添いは、その風漢さんだけ?」
「あー……どうだろう……」

670永遠の行方「王と麒麟(255)」:2013/11/21(木) 22:59:23
「じゃあ、あとひとりぐらい見ておきましょうか。仕切った中に、六太を寝か
せておけるような場所と、付き添いの人のための椅子が必要ね。それなりの時
間を過ごすわけだから、いちいち外に出てこなくてもゆったりくつろげるよう、
お茶や軽食も用意して」
 てきぱきと段取りを口にする守真に鳴賢は、よろしくお願いします、と頭を
下げた。
 それから鳴賢は、六太に読み聞かせたいので、以前やった人形劇の脚本とは
別に、蓬莱の物語を書き記したものがないだろうかとも尋ねた。しかしこれに
関しては、残念ながら他にはないとのことだった。
「じゃあ、恂生にはあとでわたしが話をしておくわ。彼もショックを受けると
思うけど……。悠子ちゃんも今日来てるから――」そこまで言い、いったん言
葉を切って嘆息を漏らす。「あの子も聞いたら動揺するでしょうね。何だかん
だ言って六太とはよく話していたから。あなたのお友達の敬之がよく訪ねてく
れるようになったおかげで、最近はずいぶん明るくなったんだけど」
 やがて話を終えた鳴賢は守真とともにいったん隣の堂室に戻った。あちらこ
ちらでなごやかに談笑している人々を見渡し、それから敬之を捜すと、やはり
彼は悠子を相手に熱心に筆談を続けていた。邪魔をしては悪いだろうと思い、
さてどうしよう、用は済んだことだし今日はもう帰って勉強の続きでもするか
と考えたとき、後ろから恂生にぽんと肩をたたかれた。彼は「やあ」と挨拶す
ると、声を潜めて尋ねてきた。
「さっき、あっちで守真と話をしていたけど、何か込みいった話?」
「うん……。一言じゃ説明できないんで、あとで守真さんに聞いてくれ。君た
ちにぜひ頼みたいことがあるんだ。人助けになることなので、協力してもらえ
るとありがたい」
「へえ。なんだろ」
 鳴賢に頼まれるような事柄に心当たりがないためだろう、恂生はきょとんと
した顔で首をひねっていた。

671永遠の行方「王と麒麟(256)」:2013/11/21(木) 23:01:27

「おまえ、よく海客の団欒所に行っておったろう。今度な、おまえのために海
客たちが演奏したり歌ったりしてくれるそうだ。それも一度ではなく、何度で
もやってくれるそうだぞ」
 鳴賢から海客らの快諾を伝えられた尚隆は、その夜、早めに女官を下がらせ
て牀榻に入ると、すっかり細くなってしまった六太の腕や足をゆっくり動かし
ながら優しく話しかけた。六太をここに移して以来、彼は六太に触れるときは
必ず話しかけていた。もちろん最初は陽子に勧められたためだが、もともとふ
たりでいるときは互いに遠慮なく無駄口をたたいてきた間柄だ。たとえ反応が
なくとも黙ったまま世話をするよりはずっと自然だった。
「心配はいらぬ。団欒所の一角に仕切りを設けてくれるそうだから、その中で
聴けば民の目には触れぬゆえ」
 そんなことを言いながらひとしきり運動させたあと、乱れた被衫を直して衾
をかけてやった。
 六太と親しかった官を呼んで皆で談笑するのも、大勢で離宮に赴いて気分を
変えるのも、こうして話しかけながら六太の世話をするのも、早くも日常の光
景になっていた。何であれ、やるべきことがあるのはありがたいものだ。しか
し尚隆の気がまぎれるかといえば、実はそうでもない。結局のところはすべて
同じことの繰り返しにすぎないからだ。団欒所に海客の楽曲を聴きに行くのも、
二度三度と繰り返せば目新しさは急速に薄れていくことだろう。
 おまけに雁は基本的に官吏が勝手にやる流儀が定着しているため、もともと
尚隆の私的な時間は多い。それゆえ六太の世話に時間をかけること自体は負担
でも何でもないが、逆に気持ちの上では余計なことを考えやすかった。
 いたずらに期待はしていないが、諦めてもいない、と思う。しかしながら六
太を手元に置き、日常の一部としての看護が定着してしまうと、この状態に慣
れてしまい、なんだかんだ言っても彼の不在を受け入れていく過程になるよう
な気もしていた。不吉なたとえではあるが、既に死した者を見送る殯(もがり)
や葬儀のように。

672永遠の行方「王と麒麟(257)」:2013/11/21(木) 23:03:45
 葬儀など、実際は死者ではなく遺された者のためのものだ。皆で悲嘆にくれ、
故人の思い出を語り合い、その過程で現実を見つめられるようになって悲しみ
を克服していくのだから。
 六太をそばに置いて常に気にかけ手を尽くすことも、それに似て、やれるこ
とはすべてやったとの諦念のもとに現状を受け入れて気持ちを整理する過程に
なるのかもしれず、それはそれで淋しいことだと尚隆は思った。今こうして
惑っているのも、単に服喪の過程における遺族の嘆きの一段階のようなものな
のだろうか、と。
 とはいえ悲しいとき、人は泣くことで逆に癒されるものだが、今、尚隆の目
に寂寥や疲労の色はあっても乾いている。涙を浮かべたことなど、こちらに来
て一度たりともない。もはや人ではない王に涙は流せないのだ。
 ならばやはり、六太の不在を真に克服できることはないように思えた。これ
ほど長い歳月を経ても過去の蓬莱に対する望郷の念に強くとらわれているよう
に。
 尚隆は、とうにおぼろになっている故郷の遠い記憶に思いをはせた。彼が幼
い頃に亡くなった母親の記憶は既にないに等しく、兄ふたりや父親のことも、
もはや名前さえあやふやだった。市井の民については、子供の頃から親しくし
ていた人々も大勢いたはずなのに、顔や名前を思い出せる者はもうひとりもい
ない。それでいて国が攻め滅ぼされたときのことを考えるといまだに切ないの
だから、もはや自分でも何にこだわっているのかわからなかった。
 もしかしたら、と思う。こちらに来たとき、尚隆は討たれた父親と滅びた国
に思いをはせて思い切り泣いて荒れるべきだったのかもしれない。そうやって
とことんまで感情を爆発させていれば、ある時点で気が済んで、悲しみも後悔
も克服でき、いまだに蓬莱へのやみがたい郷愁にとらわれることもなかったか
もしれない。
 だが尚隆は泣かなかった。涙で癒される必要があるなどとは決して考えな
かったし、そもそも雁は貧しすぎて王が泣いている暇などなかった。

673永遠の行方「王と麒麟(258)」:2013/11/21(木) 23:05:54
 六太によってこの世界に連れてこられたとき、あまりにも異なる条理に呆れ、
造物主の存在と作為をひしひしと感じた。だがそんなふうに人工的な匂いを強
く嗅ぎ取りつつも必死に尽力してきたのは、人々の喜怒哀楽がまったき真実
だったからだ。愛し、嘆き、怒り、笑う。ねたみ、そねみ、騙しもすれば、逆
に命を賭(と)して他人を助けたりもする。人の営みはあちらもこちらも何も
変わらない。
 もちろん雁を富ませても、小松の地で死んだ人々の命は還らない。人の命に
は代わりがないのだから。しかしそれぞれを比せないからこそ逆に人数で量る
しかないのだ。意図せずして生き残ったのみならず寿命を失ってしまった身に
は、何としても生きがいが必要だったし、でなければ王などやっていけるもの
ではない。
 だがこうして雁を繁栄させ、大勢の国民に幸福をもたらした今になっても、
小松の民を救えなかった尚隆の後悔の念が消えることはなかった。ここまでき
たら、この思いは墓まで持っていくことになるのかもしれない。
 ――おまえのせいじゃないだろう?
 遠い記憶の中で、六太の声が耳に蘇る。
 確か――そう、討ち死にするつもりが六太に救われ、気がつけば重傷を負っ
て小舟に揺られていたのだ。やりとりのすべてを覚えているはずもないが、人
生における最大の転機だったからだろう、契約に至るまでの言葉の断片はいま
だに記憶に残っていた。
 悔やむ尚隆に、彼は静かに言ったのだ。凪いだ海のように穏やかに、淡々と、
尚隆のせいではない、と。あのときの彼の姿が、静謐をまとっているせいか今
の姿と不思議に重なって見えた。
 ――おまえはできるだけのことをやったろう?
 思えばあの言葉は、その後の五百年の治世で六太が尚隆に発したどんな言葉
よりも慈悲深かった……。

674書き手:2013/11/21(木) 23:19:49
特に盛り上がりもありませんが、このままの調子でたらたら行って
あと一回か二回の投下でようやくこの章が終わりです。
いちおう年内には投下したいと思っています。

次章は>>393の予定だと「絆」章でしたが、最初の部分がそれ以降と毛色が違うため、
独立させて「封印(仮)」章とすることにしました。
これまであえて書かなかった六太視点(ただし回想)ですが、
ろくたん好きにはもしかしたらきついかもしれない内容なので
実際に投下する前にあらためて注意書きを書きたいと思います。
(筋を箇条書きにしてるだけで、まだ本文を書いていないため予定は未定ですが)

脳内ではとっくにいちゃこらしてるんですが、
ラブラブになるのは「絆」章がずっと進んでから、
書き逃げスレに上げた「後朝」「続・後朝」よりも後になります。
先は長い……。

675名無しさん:2013/11/22(金) 03:21:30
区切りが近いというか、話に動きがあるせいか、ここ暫く物語へまた深く惹き込まれてます

時折訪れる尚隆の真実へのニアミスとすれ違いがもどかしく萌えます。

676名無しさん:2013/11/23(土) 11:14:43
ろくたん好きなので六太視点どきどきします。
そしてこの先がどうなっていくのかとても楽しみです。
ラブラブが待ち遠しいですが、気長に待ってますので
ぼちぼちよろしくお願いします。

677書き手:2013/11/30(土) 11:45:01
出来はともかく、何とか最後まで書いたので投下していきますね。
……が、レス数と連投制限(投稿間隔)の関係で短時間の投下は面倒なので、
内容と同じく、たらたら適当に落とします。

678永遠の行方「王と麒麟(259/280)」:2013/11/30(土) 11:58:42

 海客出身の華期という軍吏が団欒所に姿を見せなかったのは、他の官と同じ
ように禁足を課され、宮城から出られなかったからだ。その禁足も、現在では
緘口令を条件にほとんど解かれているのだが、自主的に宮城に留まっている生
真面目な官も少なからずいた。華期もそのひとりだったらしい。
 尚隆が外殿の一室に彼を召しだして六太に海客の音楽を聞かせる計画を伝え
ると、華期は礼儀正しい態度で逐一不明を確認したあと、次の開放日までに準
備が整うよう守真と連絡を取ると答えた。当日いきなり行っても、まともな演
奏も合唱もできないからだ。蓬莱でも軍人だったせいだろうか、生真面目すぎ
る態度に尚隆は「あまり難しく考えるな」と苦笑した。
「要はいつもそうだったというように、皆で楽しくにぎやかにやってくれれば
いい。それにこれから何度も顔を出すのだ、仮に最初は不手際があったとして
も一向にかまわぬ」
「は」
 彼は緊張をにじませながらも、きびきびとした態度で頭を垂れた。尚隆は傍
らに控えていた朱衡を顎でしゃくった。
「六太は俺が連れていくが、朱衡も付き添いたいそうだ。守真によると、とり
あえずふたりまで付き添いを考慮するとのことだからちょうど良いだろう」
「えっ」
 華期は驚いたように小さく叫んで顔を上げた。それからあわてた風情で「ご
無礼を」と口走ってまた頭を垂れたので、尚隆は笑って顔を上げさせた。華期
は迷うような表情ながら、しっかりした声で進言した。
「畏れながら、主上。国府とはいえ、万が一ということもございます。護衛を
お連れにならずに雲海の下におでましになるのは……」
「風漢、だ」
「は?」
「俺は市井では風漢と名乗っている。そしておまえとは国府に勤める官同士、
顔見知りという設定だ」

679永遠の行方「王と麒麟(260/280)」:2013/11/30(土) 13:26:09
 絶句した華期に、朱衡が同情した様子で口を挟んだ。
「案ぜずとも良い。主上も台輔も昔から、粗末ななりで民に混じって来られた
ものだ。おまえも噂ぐらい聞いていよう」
 いったい何と返してよいものやらわからなかったのだろう、華期は激しく瞬
いたのち、無難に「御意のままに」とだけ答えた。
「当日は他の客が来る前に早目に来てほしいとの話ゆえ、おまえに案内しても
らいたい。むろん場所はわかっているが、海客仲間であるおまえと連れ立って
行ったほうが先方もよかろう」
「かしこまりまして」
「で、そのようにしゃちほこばってもらっても困るので、顔見知り程度の丁寧
さに抑えてもらえぬか?」
「……努力いたします……。そのう、風漢、さ、ま――」
 必死で言葉を押し出した華期に、朱衡は気の毒そうな顔を向けていた。尚隆
は苦笑した。
「市井ではたいてい呼び捨てにされておるのだがな」
 ぐ、と言葉に詰まった様子の華期だったが、観念したのだろう、一度大きく
息を吐いたのち、力強い調子でこう返した。
「せめて、さん付けでお許しください」

 そして団欒所の開放日当日、六太の付き添いのために外殿の一室にやってき
た朱衡は、めずらしく簡素な長袍姿だった。髪も普通の民のように巾でまとめ
ているだけだ。いつもは大司寇の冠と官服なので、当人も少々居心地が悪そう
ながら、市井で民にまじっても違和感のない服装と言えた。
 一方、こういうことに慣れている尚隆のほうはさらに粗末な――当人にとっ
ては楽な――いでたちだった。
 肝心の六太は簡素な被衫姿で椅子に座らされている。長い金髪を小さく丸め
てから薄茶のかもじをかぶせ、その上から幅広の布を幾重にも巻いてある。そ
うすると誰の目にも頭を怪我しているように見えた。

680永遠の行方「王と麒麟(261/280)」:2013/11/30(土) 18:01:17
 華期が参内して面子がそろうと、尚隆は無雑作に「では、行くか」と言った。
赤子をくるむように薄い衾で六太をくるんで軽々とかかえあげる。はらはらし
た様子で見守っていた華期だったが、朱衡が促すようにうなずくと覚悟を決め
たらしく、「では、ご案内いたします」と主君らを先導した。
 凌雲山を下って雉門を出、主君や六官の顔を知らない下官たちのささやかな
好奇の目と幾度かすれ違いながら、奥まったところにある建物の堂室に向かっ
た。団欒所の扉は閉じられていたが、不意にそこが開き、外の様子を窺うよう
に顔を覗かせた男と尚隆の目が合った。腕の中の六太に目を留めた相手はびっ
くりしたように小さく「あ」と声を上げ、ついで傍らの華期に会釈しながら扉
を大きく開いた。「こんにちは」と言って一行を招きいれる。
「風漢さんだ。あちらは朱衡さん」
 華期が男に紹介する。男は尚隆らに軽く頭を下げ、「はじめまして、恂生と
言います」と自己紹介した。
 一行が堂内に入ると、恂生がふたたび扉を閉めた。中では数人が座っていた
が、すぐに皆立ち上がって出迎えた。事情は承知しているのだろう、尚隆に抱
えられている六太を見るなり、一様に痛ましそうな顔をした。
 鳴賢、そして中年の女がふたり。片方は尚隆も面識のある楽俊の母親だった
から、もうひとりが守真だろう。呆然とした表情の十五、六の少女と、傍らに
立つ敬之。少女は胎果の海客だとあとで紹介された。
「こんにちは。よくいらっしゃいました。わたしが団欒所の責任者の守真です。
いろいろ大変だったそうですね」
 女が優しい声をかけながら歩み寄ってきた。それを皮切りに他の面々も会釈
しながら次々に寄ってきて、何とも複雑な吐息とともに六太を見おろした。少
女は真っ青になると、口元に拳を当てて体を震わせた。
「あたし、まだ六太に謝ってない……」
 今にも泣き出しそうな様子に、傍らの敬之が慰めるように軽く肩をたたいた。

681永遠の行方「王と麒麟(262/280)」:2013/11/30(土) 18:15:47
守真はそれに気遣いのある目を向けながら、尚隆を背の高い仕切り板の向こう
の小部屋に案内した。出入口に当たる部分にはきちんと扉が取りつけられ、そ
こを開けると重く帳が垂れていた。帳を開けた向こうは意外と広い空間で、小
さめの臥牀と椅子、小卓が用意されており、尚隆は示されるままに臥牀に六太
をおろして寝かせた。臥牀に載っていた褥も衾も高価なものには見えないなが
ら、ふかふかと柔らかく手触りも良い。椅子にも詰めものがいくつも置かれて
いて座り心地は良さそうだった。小卓の上には軽食のたぐいだろう、何やら盛
り上がって布巾のかかった大皿が置かれ、傍らに水差しと杯、おしぼりまで
あった。
「面倒なことを頼んですまないな」
 尚隆がねぎらうと、守真はにこやかな顔で「いいえ」と首を振った。
「この出入口は堂室の扉とも近いので、外の厠に行くときも目立たないと思い
ます。来てくれるお客さんには、ここでわたしたちが打ち合わせや裏方の作業
をしていると説明しておくので、籠もっていても不審には思われないだろうし、
わざわざ扉を開けてまで覗く人もいないでしょう」
「うむ」
「こちらのお皿は軽食で、飲みものは水差しに。果実酢を水で割ったものです。
お酢は体にいいし、さっぱりしてけっこう美味しいんですよ。温かいお茶がよ
ければお持ちしますけど」
「いや、そこまでしてもらわずとも大丈夫だ」
 尚隆はそう言って、勧められるままに臥牀の傍らの椅子に腰を降ろした。尻
の下や背の詰めものが心地よく身体を支えた。
「なかなか具合がいい」
 尚隆が明るく笑いかけると、守真も笑顔で返した。ついで彼女は少し表情を
曇らせて六太を眺めやった。
「六太はまったく目を覚まさないのですか?」
「うむ……。時折目を開けることはあるのだが、意識そのものはないらしい。
だが根気よく手足をさすったり話しかけたり、好きな音楽を聞かせたりすると
回復することがあると知り合いの瘍医が言っていた。むろん当てにはできぬが、
これの両親にくれぐれもよろしくと頼まれたことでもあり、少しでも可能性が
あればすべて試したいのだ。何より六太はにぎやかなことが好きだから、親し
い者たちの歓談の様子を聞くだけでも喜ぶのではと思ってな」

682永遠の行方「王と麒麟(263/280)」:2013/11/30(土) 19:34:29
 守真は悲しそうな目でうなずいた。
「今日は久しぶりに華期もいることだし、四人で無伴奏で合唱しようと思って
ます。アカペラって言うんですけど、関弓の民にも意外と評判いいんですよ」
「ほう」
 そのとき恂生が帳の間からひょいと顔を差し入れた。「一番手のお客が来ち
まった。まだ扉を開けてなかったのに」と慌てたように小声で言ってすぐ引っ
込む。守真の「まあ、今日は早いのね」というつぶやきにかぶさるようにして、
恂生ら海客と客が親しげに挨拶する声が届いた。おそらく常連なのだろう。小
部屋ふうにしっかり仕切られているとはいえ、上部が開いているので会話の内
容はよく聞こえた。
「ときどき様子を見にきますけど、何かあったら遠慮なく呼んでください」
 守真は小声でそう言い残し、帳と扉を閉めてそこを立ち去った。尚隆が促す
と、朱衡ももう一脚の椅子に腰をおろした。
「こまやかな気遣いのある親切な女性ですね」外に聞こえぬよう、声を潜めて
話しかけてくる。
「そうだな。蓬莱に子を残してきたらしいから、子供の災難に敏感なのかも知
れぬ」
 言いながら尚隆は小卓の上の布巾を取ってみた。ほとんどは菓子のたぐいだ
ろう、大き目の皿に、見た目も美しく一口大の食べものがたっぷり盛られてい
た。朱衡が「なかなか趣味が良い」と感心したように言い、尚隆が手を伸ばす
のを押しとどめ、「念のために、まず拙官が」と蒸し菓子らしきものをひとつ
口に入れた。
「どうだ?」
「めずらしい味ですが美味ですね。拙官は甘いものは苦手ですが、これはさほ
ど甘くないし、抵抗なく食べられます」
「ふむ。付き添いが男ふたりということを考慮してくれたのかもしれん」
 他国では男女を問わず甘味がごちそうだったりする場合も多い。しかし豊か
な雁、特に王宮にいれば食糧事情は豊かだ、糖をたっぷり使った甘味とてめず
らしいものではない。むしろ甘すぎると食べ飽きてしまうという贅沢な現象さ
え起きるくらいで、貧しい国々と違って特に男性は甘味が苦手な場合も少なく
なかった。

683永遠の行方「王と麒麟(264/280)」:2013/11/30(土) 20:00:46
 朱衡は別の薄い菓子にも手を伸ばした。端をかじると軽い音がした。
「こちらは……焼き菓子、でしょうか。よくわかりません。そもそも菓子では
ないのかな。かなりしょっぱいですね」
 尚隆は同じ菓子を手にとってためつすがめつし、すぐに得心して、ああ、と
うなずた。
「薄く輪切りにした芋を油で揚げて塩をふったものだ。以前、六太が言ってい
たことがある。今の蓬莱で一般的な菓子だそうだ」
「ははあ。ではこれは全部蓬莱ふうの食べものかもしれませんね」
 菓子ばかりかと思いきや、薄い鶏皮をパリパリになるまで焼いて塩をふった
ものもあり、尚隆はつい「酒がほしくなるな」と苦笑した。決して高価ではな
いが冷めてもおいしく食べられるものばかりで、配慮の行き届いたもてなしに
尚隆も感心した。水差しにたっぷり入っていた、水で割られた果実酢もさわや
かだった。
「面倒見の良い女人だ。これでは六太も居心地が良かったろう。道理で暇があ
れば顔を出していたはずだ」
 尚隆はそう言うと、六太の肩のあたりに手を伸ばしてそっとなでた。
 堂室のほうでは少しずつ客が増えているらしく、挨拶やら何やらの声が次第
ににぎやかになっていった。多いときは三十人程度は訪れるという話を聞いて
いたから、もしかしたら今日もそれくらい来るのかもしれない。
 やがて何か合図でもあったのか、不意に談笑の声がやんだ。守真の柔らかな
声が響く。
「今日は華期も来てくれたことだし、久しぶりに皆で合唱します。ぜひお聞き
ください」
 それからまた少し間があって、尚隆と朱衡が興味深げに耳を澄ましているう
ちに、驚くほど美しい歌声が響いてきた。
 伴奏はない。海客らの声だけで奏でられた和音が堂内にこだました。旋律自
体は尚隆にもなじみがなかったから、現代の蓬莱の曲かもしれない。予想外に
繊細で美しい歌声に、傍らの朱衡が呆気にとられた様子で瞬いた。

684永遠の行方「王と麒麟(265/280)」:2013/11/30(土) 22:33:33
 声もなく聞き入っているうちに、長いようで短い一曲が終わった。気安い調
子で賞賛の声と拍手が沸き、尚隆も微笑とともに朱衡と顔を見合わせて控えめ
に拍手した。
「驚きました」朱衡がささやく。「前に聞いたような、単に騒々しい曲ばかり
ではないのですね。数人の合唱だけでこれほど繊細な印象になるとは」
「なかなか興味深いものだ」
「台輔も一緒にこんなふうに歌うことがあったのでしょうか。幼い子らととも
に遊びのようににぎやかに歌うのも楽しいでしょうが、これほど美しく合唱で
きるなら、それも張り合いがあったでしょうね」
「そうだな」
 同じように無伴奏の次の合唱がすぐ始まり、結局立て続けに四曲が歌われた。
明るく滑稽な曲調の歌もあったが、伴奏がないせいだろう、いたずらにうるさ
く感じることもなく、思いのほか楽しむことができた。
 その後はしばらく雑談の時間になったようで、楽しげな談笑の声が聞こえて
きた。あちこちで交わされる会話の細かな内容まではさすがに聞き取れなかっ
たものの、和やかで落ち着ける雰囲気だった。
 尚隆は目を細めて傍らの六太を見やった。臥牀に手を伸ばしてそっと頬をな
でる。先ほどの美しい合唱にしろ今の穏やかな団欒の空気にしろ、六太も楽し
んでいてくれればいいとしみじみ思った。
 そうこうするうちに子連れの客も訪れたようで、元気のよい幼い声も響くよ
うになった。それはまさしく市井の活気ある日常に他ならず、尚隆にとっても
思いがけず心安らぐひとときになった。朱衡でさえ笑みを浮かべ、果実酢や菓
子を堪能しつつ、人々の談笑を背景に、低い声で主君と語らっては楽しんだ。
 守真は二度、顔を見せ、飲みものや食べものの残りを確認してから、六太に
優しく声をかけてまた出ていった。その後、彼らを堂室に招き入れた恂生とい
う青年が入ってきて、小卓の上を布巾で拭いてから、おしぼりを新しいものに
換えてくれた。

685永遠の行方「王と麒麟(266/280)」:2013/11/30(土) 22:52:51
 だがそのまま出ていくかと思えば、彼は閉ざした帳にちらりと目をやり、明
らかに小部屋の外を気にする体で声を潜めると、深刻そうな表情で口を開いた。
「あの」
 小卓に頬杖をついていた尚隆がそれに応じて片眉を上げ、朱衡も微笑して目
顔で先を促すと、彼はこう続けた。
「その、こんなことを聞いたからって、無礼なやつだと思われても困るんです
けど」
「何か?」
「そのう……俺は神仙じゃないし、詳しくないんで、あれなんですけど。こ
れって失道の症状じゃないんですよね?」
 尚隆は何も答えなかった。朱衡も顔色を変えなかったのはさすがは六官とい
うところか。微笑を絶やさないまま、小首をかしげてみせただけだ。
 遠慮を窺わせながらふたりを交互に見た恂生は、答えがないことを知ると、
抑えた声ながらはっきりこう問うた。
「麒麟は玉座の象徴であり、王の半身だとも聞きました。失道かどうかはとも
かく、六太が、台輔がこうなって、主上に影響はないんでしょうか」
 朱衡が尚隆に目をやった。ここまではっきり言うからには。六太の頭に巻か
れた布から覗く茶色の髪がかもじだということもわかっているのだろう。
 尚隆が泰然と構えていると、ふと床に視線を落とした恂生は沈んだ声で続け
た。
「俺、何ヶ月か前に結婚したんです。嫁さんは一人っ子で、ずっと兄弟がほし
かったから、代わりに子供がたくさんほしいと言ってて、彼女のためにさっそ
く里祠に申しこんで帯を結びました。そしたら、すぐに卵果がなったんです。
簡単になるものじゃないって聞いてたのに」
 いったん言葉を切り、顔を上げてから決然とした表情で続ける。
「もちろん蓬莱と違って血のつながった子ってわけじゃないんだろうけど、少
なくとも俺はこれで天に認めてもらえたことになります。この世界で生きて
いっていいんだって。そして家族になった嫁さんにも、世話になった嫁さんの
両親にも、生まれてくる子供にも俺は責任があります。だからもし雁に何かあ
るとしたら、家族のためにも心構えだけはしておきたいんです。どうか教えて
くれませんか」

686永遠の行方「王と麒麟(267/280)」:2013/12/01(日) 09:58:38
 それだけ言って口をつぐむ。すぐには誰も口を開かず、しばらく小部屋の外
の談笑の声だけが響いていた。
「……失道ではない」
 やがて尚隆が穏やかに答えた。恂生はただうなずいて、次の言葉を待った。
「事情があって詳しいことは明かせぬが、これは事故のようなものだ。だがも
ともと神仙は飲まず食わずでも相当もつし、特に麒麟は天地の気脈から力を得
る生きものゆえ、仮にこのまま目覚めぬとしても生命に別状はない。したがっ
て王にも国にもなんら影響はない。その点は蓬山のお墨付きだ」
「そうですか……」恂生は安堵したように息を吐いた。それから複雑な表情で
六太を眺めやる。「神仙は病気にならないし、大抵の怪我もすぐ治るって聞い
てたのに」
「それはそうなのだが、何事にも例外のような事柄はあってな。だがいくら国
や王に影響がないとはいえ、六太を見捨てるわけにはいかん。それゆえ俺たち
は王の命を受け、こうして手を尽くしているわけだ」
 恂生はまたうなずき、「わかりました」と答えた。
「答えてくださってありがとうございます。あまり役に立てないかもしれない
けど、他に俺にできることがあったら言ってください。台輔だからっていうだ
けじゃなく、六太は友達だし恩人でもあるんです」
「うむ。何かあればぜひ頼もう。ところでちと聞きたいのだが」
「はい」
「他の海客らもこのことは?」
 何を聞かれたのかすぐ察したのだろう、恂生は首を振った。
「守真も悠子も、六太の身分は知りません。華期は――知ってるんですよね?
宮城から皆さんを案内してきたんだから。守真は薄々疑っていたとは思うけど、
今回のことで思い違いだったと考えたと思います。たぶん前に鳴賢が、六太が
養父母と一緒に地方に行ったって聞いたときに」
 しかし彼はそれが言い訳にすぎず、何かを誤魔化そうとしていると察したわ
けだ。鳴賢に関しても事情を知っているのではと疑っているだろうが、そうで
はない可能性も考え、確信があるまでは注意深く口をつぐんでいるというとこ
ろか。

687永遠の行方「王と麒麟(268/280)」:2013/12/01(日) 10:23:13
「だがそなたは違ったわけだ。六太に明かされていたのか?」
 恂生は困ったように笑って、また首を振った。
「別にそういうんじゃないけど。まあ、十年以上も付き合ってれば何となく。
たぶん街にも、俺と同じように気づかないふりをしている民は何人もいるん
じゃないかな」
「ほう」
「だって本人は隠したがってたみたいだから、気づかないふりをしてやるのが
気遣いってものでしょう」
 どこかおどけた表情で言った恂生に、尚隆も「なるほど」と苦笑した。
「それにここに来ていろいろ遊ぶことが六太は本当に好きみたいだった。でも
麒麟だって皆に知れたら、たぶんもう来られなくなる。そんなのは俺たちも寂
しいから」
「そうだな……」
「何にしても守真や悠子は知らないし、むしろ知らせたくはないです。俺は
こっちで恋人ができて結婚したから、故郷に帰ることを諦められた面もあるん
です。でも守真たちは違う。特に悠子は蓬莱に帰りたくて、六太が麒麟だって
知ったら無理難題を言うに決まってるから」
「麒麟は慈悲の生き物だからむげには断れず、困らせるだろうということか」
 だが恂生は肩をすくめると、あっさりこう言ってのけた。
「確かに六太は優しいです。できないことを頼まれたら、きっぱり断るくらい
優しい。それで傷つくのは悠子のほうなんだから、あの子は知らないほうがい
い」
「ほう……?」
 意外に思った尚隆が眉を上げると、恂生は「優しいってことは、優柔不断と
は違うでしょう?」と笑った。
「本当の優しさは、時には残酷に見えることがあると思います。六太はそれを
わかっていた」
「それはまた意外なことだな」

688永遠の行方「王と麒麟(269/280)」:2013/12/01(日) 10:35:45
「そうですか? そりゃ、六太も前はかなり甘ちゃんだったそうですけど。い
つだったか、昔は自分もずいぶん餓鬼で、いろいろ莫迦なことを言って周囲を
――特に主を困らせたと笑ってました」
 主ということは王のことだ。尚隆はますます意外に思った。
「今は違う、と?」
「少なくとも、六太の言う『昔』とは変わったってことじゃないかな。本人が
そう言ったんだから」
「なるほどな……」
 尚隆は微苦笑して応え、最近の六太の言動を思い浮かべた。はるか昔、最初
の大がかりな謀反だった斡由の乱の頃と比べれば物分かりは良くなったから、
確かにそのぶん成長したとは言えるだろう。尚隆に対してさえ相変わらず遠慮
はないし、目先の慈悲に捉われる麒麟の性のせいか、見通しが甘く人を見る目
がない点はさほど変わらないが。
「それじゃ、そろそろあっちに戻ります。俺の質問に答えてくださってありが
とうございました」
 恂生は丁寧に頭を下げてから小部屋を出ていった。それでようやく朱衡は大
きく息をついた。
「驚きました。台輔のご身分が知られていたとは」
「だがまあ、あの様子では他の者には言うまい。あれでも過去にはいろいろ
あったそうだが、なかなか見どころのある男だ」
「そうですね」
 それにさすがに尚隆が王ということまでは気づいていないだろう。
 しばらくするとふたたび海客たちの無伴奏の合唱が聞こえてきた。それで本
日はお開きとなり、歌と団欒を楽しんだ客たちは機嫌よく帰っていき、尚隆た
ちも守真らに礼を述べた上で再訪を約したのだった。

689永遠の行方「王と麒麟(270/280)」:2013/12/01(日) 13:35:42

 宮城に帰りついた尚隆は、いったん女官に六太の世話を任せ、内殿で官に奏
上された雑務をこなしてから正寝に戻った。六太のいる臥室で夕餉を取る際の
慰みに、海客の団欒所での温かなもてなしを女官たちに話してやると、彼女ら
は興味深く耳を傾けては六太に「台輔、良かったですねえ」と話しかけた。
 夕餉のあとで酒肴を運ばせた尚隆は、近習をさがらせ、しばしひとりで酒杯
をあおった。そうしてほろ酔い気分で牀榻に入った。
 眠る六太の傍らに座りこんだ彼は、ふ、とほのかな笑みを口元に浮かべ、半
身に声をかけた。
「まったくもって意外なことだな」
 六太は王に――尚隆に――莫迦なことを言って困らせたことがあると言った
という。自分は餓鬼だったから、と。海客の男が語ったその話は本当に意外
だったのだ。
 普段の六太は、今も昔も尚隆に対して遠慮はないし、言葉を選ばないものだ
からかなり辛辣な言い方もする。だが何しろ万事に見通しの甘い彼のことだか
ら、その意見に任せていたら実際には人的な被害が出たり国が混乱しかねない
ことばかりだった。それでいてうまく切り盛りする尚隆をねぎらうことはなく、
むしろ自分の意見に固執して非難するくらいだから、基本的にみずからの言動
を反省するということがない。本人はあくまで民への慈悲に立脚しているつも
りだからだろう。六太の言動が結果的に他人に害をもたらした場合は、さすが
の尚隆も厳しく接するせいかしょげることもあるが、どうも本質を理解しての
ことではないらしい。気持ちの切り替えが早いと言えば聞こえはいいが、要す
るにその場かぎりのことに見えた。
 だから具体的に何を思い浮かべて言ったにせよ、王に対する事柄で、彼が自
発的に反省の意を述べたこと自体が驚きだったのだ。
 もっとも尚隆自身は彼に殊勝な態度を求めたこともなければ、その言を気に
病んだこともない。口の悪さとは裏腹に悪気がないのはわかっていたし、何よ
り宰輔は王に進言や諫言、助言を行なうのが本分。理由もなく反対するならま
だしも、本人なりに考えた結果であれば、立派に自分の務めを果たしていると
言えた。それを容れるか否かはあくまで尚隆の側の問題だろう。

690永遠の行方「王と麒麟(271/280)」:2013/12/01(日) 18:45:50
 そもそも天帝から慈悲の性を与えられた麒麟には、普通の人間のような割り
切った考え方は絶対にできず、時に国のために厳しい決断を下さねばならない
王の論理とは決して相容れない。そういった考え方をする能力はないのだと、
尚隆はかなり早い段階で理解していた。それゆえ本人の能力を超えたところに
責めを負わせたいとは思わなかった。
 むろん官吏の中にはこれまで、大局を見極められず、短絡的な言動を多くす
る六太に諫言する者もいることはいた。しかし人的な被害がなければ、尚隆自
身はいつも彼の好きにさせていた。
(だが、それでも何やら省みるところがあったというわけか……)
 自分は餓鬼で、昔はそのせいで主を困らせたと。第三者に対する言葉とはい
え、今でもそう口にするということはずっと気にしていたのだろう。直接言っ
てくれれば、尚隆も茶化すなり真面目に対応するなりして慰め、それで六太自
身も気持ちに区切りをつけて忘れることができたろうに、あくまで黙っていた
ところが意地っ張りな彼らしい。
 相手に伝えたいともその必要があるとも思わなかったからこその沈黙だろう
が、今にして思えば少しは伝えてほしかったというのが正直な気持ちだった。
いつも飄々としている尚隆とて、本心では半身からの気遣いを欲さないではな
かったのだから。何であれ、言葉に出さないと相手には伝わらないものだ。
 こうして振り返ってみると、自分たちは一見、相手に言いたい放題だったよ
うに思える。しかし実際はずっと一定の距離を置いたまま、口にしないことも
数多くあったということなのだろう。
 もちろん相手の心に踏み込まない態度こそが逆に気遣いという場面もあった
はずだ。少なくとも尚隆はそうだった。それでも六太が内心でいろいろ省みて
いたとすれば、生命を分けあった半身同士、もう少し互いの内に踏み込んでも
良かったのかもしれない。
 陽子に対するような明らかな気遣いを示された記憶はないが、そういう尚隆
自身、半身への気遣いや励ましのたぐいを言葉にしたことはなかった。それで
も六太に対する配慮はいつも念頭に置いていたのだから、六太もそうではな
かったとは言い切れないだろう。
 今回の事件で知った六太の生い立ちを考えれば、麒麟の本能を忌避するかの
ようなこれまでの彼の言動は苦悩の裏返しということも考えられた。蓬莱で為
政者に虐げられた幼い頃の記憶に縛られて王を厭い、王のそばにあることを切
望するはずの麒麟の本能さえ厭う原因となっていたなら哀れなことだった。

691永遠の行方「王と麒麟(272/280)」:2013/12/01(日) 19:58:36
 しかしもし尚隆が気遣いを口にし、意見を容れなかったとしても彼の存在自
体が大事なのだと言ってやれていたら、何かが違ったのではないか。他国の王
と麒麟と違って年がら年中一緒にいたわけではないし、六太の進言も諫言も却
下してばかりだったが、それでも自分なりに半身を大切にしていたつもりなの
だから、きちんと言葉で伝えてやれば良かったのかもしれない。
 普段は必要以上に主に近づかず、それで少しも気にするふうのなかった六太
は、何だかんだ言って他国の麒麟ほどには主に執着していたわけではないだろ
う。顔を合わせてばかりいると、嬉しがるどころかうんざりするような反応を
見せることさえあった。だが尚隆は六太の相手をするのは嫌ではなかったし、
特に一緒に旅に出て、にぎやかな市井ではしゃぐ六太を連れ歩くのは楽しかっ
た。麒麟に似合わぬ口の悪さも、周囲がきついと受けとめて諌めるような暴言
でさえ、尚隆にしてみれば外見が幼いせいかほほえましかったのだ。
「六太」
 静かに声をかけた尚隆は、手を伸ばすと、今まで幾度となくそうしたように
六太の頭をそっとなでた。
「おまえが大事だとちゃんと伝えたことがあったかな?」
 返事はなかったが、答えは自分でわかっていた。
「なかったかもしれんな。せめてこうなる前に伝えておくべきだった。二度と
言葉を交わせなくなる前に」
 人は後悔する生きものだ。いつまでも同じ日々が続くと思いこみ、いざそれ
を失ってしまってから、取り返しがつかなくなってから初めて後悔する。
「覚えているか? たまにそろって宮城を脱出するときは楽しかったな。昔は
一緒に他国にまで足を伸ばしていろいろと見聞したものだ……」
 何しろ五百年だ。好きなようにやってきたつもりだったし、この事件が起き
るまでは、いつ死んでも悔いはないと思っていた。何よりひとりで、自分の足
で立っていると思っていた。すぐそばにいて自分を支える小さな麒麟の存在に
気づかないまま。
 天帝が配したように、確かに王に麒麟は必要なのだ。孤独と責務を分かち合
う相手として。でなければこの長い生を耐えられるものではない。たったひと
りで重責を担い続けることは人にはできない……。

692永遠の行方「王と麒麟(273/280)」:2013/12/01(日) 21:44:28

 季節は移る。
 雁の夏は、日差しこそ強いが空気は乾いて涼しく過ごしやすい。くっきりと
濃い緑に黄金の陽光が降りそそぎ、雲海を透かして見る下界は、秋の実りを予
感して彼方まで豊かな色彩にあふれていた。尚隆の心中を置き去りにしたよう
な鮮やかな色彩が。
 尚隆が予想したとおり、この頃になると海客の団欒所への訪問も目新しさが
失せ、すでに日常の一部となっていた。だがもともと市井で民と交わることを
好む尚隆だから、先方のきめ細やかな心配りもあって心がなごむひとときでは
あった。
 おかげで気持ちはずいぶんと落ちついたものの、相変わらず淋しさはあった。
それは六太が傍らにいないせいでもあるが、いよいよとなればひとりで治世を
続けるしかないという重い現実のせいだった。
 六太を裏切りたいとは思わない。ということは、仮にこのまま麒麟を失おう
と、最後まで王として立ち続けねばならないということだ。
 しかしいかに理性でそう考えても、覇気を失い、どこか疲れを覚えてしまっ
たことはいかんともしがたかった。既に六太を置いて気晴らしに下界に行きた
いとも思わなくなっていたし、そんな自分の変化に呆れてもいた。
 六太はあれで淋しがりやだが、実際のところ俺もそうだからな、と嘆息まじ
りに考える。これまでひんぱんに下界に降りて民にまじってきたのも、市井の
情報を収集するためもあるが、結局は人々といたいからだった。孤独を望む者
もいるだろうが、尚隆は人間が好きだった。君主である以上、宮城において安
らぎや楽しみを見出そうとは思わなかったが、そうやって自分を律しているぶ
ん、粗末な服で民にまぎれ、親しく接せられるのは嬉しかった。
 そんなふうに根が淋しがりやであるからこそ、いざこうして半身を取りあげ
られ、しかもそれが故郷を同じくする唯一無二の存在となると、その事実は心
に重かった。本当は尚隆とて幸せになりたかったし、真にすべてを分かち合え
る者――配偶者であれ親友であれ――を得ることへの憧れを持たないわけでは
なかったのだから。




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