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コルベ神父様
1
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/12(火) 22:26:35
コルベ神父様
2
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/12(火) 22:26:45
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
13、ブラザー・マキシミリアノ・マリア
1910年9月4日に汚れなきおとめの祭壇の前でライモンド・コルベは16歳でブラザーとなった。その瞬間から彼の名前はブラザー・マキシミリアノ・マリアであった。彼は勇敢な兵士たちそして有名な支配者たちに属する一つの名前を受けた。彼の上長は彼のうちには何か例外的なものがあると感じた。そしてブラザー・マキシミリアノの心証はそのすべての強さと美しさにおいて見られた彼のフランシスコ会の召命に従って行動しようと強く決意した者の心証であった。
修練期の年は穏やかに過ぎ、祈り、勉学、日々の労働そして修道者の諸徳の訓練、「共同生活」すなわち、祈り、清貧そして償いに捧げられた共有の生活であるフランシスコ会の生活の学習と実践に費やされた。修道士マキシミリアノは彼の諸々の試練を持っていた。一つの点で彼は良心の呵責に悩んだ。しかし彼の上長に従う従順と真に聖なる司祭、ヴェンザンジオ・カタルジニエック(Venzanzio Katarsyniec)神父との摂理的な出会いが苦痛に満ちた霊的苦しみをすばやく癒した。
修練期の年の終り、1911年9月5日にブラザー・マキシミリアノ・マリアはアッシジの聖フランシスコの会則を忠実に守ることを約束して、従順、清貧、貞潔の誓いをもって神に自らを奉献した。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe02.htm
3
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/12(火) 22:38:27
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
第2章
--熱心な青年--
14、永遠の都で
修練期の年が終わるとすぐに、ブラザー・マキシミリアノは彼の短大の勉学を続けるためにクラコウの熾天使神学校へ送られた。もう1年が過ぎた後、彼の管区長の神父が彼を喚び出し、かれに次の選択肢を与えた:「君はここポーランドで君の勉学を続けることを選ぶか、それとも哲学と神学の博士号を取るためにローマの国際的な大学に行きたいかね?」
マキシミリアノのすばやい答えはこうであった:「私の貧弱な健康のことを考えますと、私はローマの大学で博士号を取ろうと試みることよりはむしろポーランドで勉学することの方を選びたいと思います。
彼にローマへ行く機会を取り下げる気にさせたもう一つの秘密の動機があった。彼はマドンナによって彼に約束された白い冠を熱心に守ることを欲していた。彼は自分の清純な純潔に対して恐れを持っていた。なぜこの恐れを持っていたのか?なぜなら、不幸にもローマはポーランドのブラザーたちの間では好ましからざる評判を持っていたからである。そこには堕落や公の不道徳の話があった。そこには誇張があった。しかしブラザー・マキシミリアノはキリスト教的節度が支配的であったクラコウのより安全な環境の方を選んだのである。
管区長の神父は彼に機会を取り下げないように説得したが成功しなかった。それで彼はブラザー・マキシミリアノの名前を永遠の都へ割り当てたブラザーたちの名簿から削除した。
しかし翌日ブラザー・マキシミリアノは彼の管区長神父に会うために戻って行った。彼の上長にまで決定を残さなかったことに対する後悔が彼の心の平安をかき乱した。彼は言った:「神父様、昨日私は自分自身の個人的な望みを表明しました。そしてごめんなさい。私は今あなたの望まれることを私にさせるようにあなたにお願いします。なぜなら、私はただ従順を実践したいだけだからです。」
「それでは君はローマに行くことになる。」管区長神父は微笑みながらそう言った。そしてブラザー・マキシミリアノの名前を他の者たちの名前のリストに戻した。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe02.htm
4
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/12(火) 22:40:43
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
15、一人の聖人が大学に出席する
短い時間が過ぎ去っただけである。そしてブラザー・マキシミリアノは注目すべき知性と結合されたその例外的な善性によって国際大学におけるすべての者を啓発した。学長ステフェン・イグヌーディ(Stephen Ignudi)神父は聖マキシミリアノを「聖なる青年」と記述した。そしてこの記述を大学の記録簿に入れた。
彼の仲間のブラザーたちにとって、マキシミリアノは教化の真の模範として傑出していた。「彼は言葉の正確な意味において真に一人の聖人でした」と彼の同僚の学生の一人は報告している。そして彼はこうつけ加えている。「彼はあらゆることについて、そしてあらゆる人に謙遜で柔和でした...彼は会則の最も小さな条項においてさえ、最も厳守する人でした。上長からの最初の合図、あるいは修道院のベルの最初の音で、彼は一つの語の真ん中でさえそれを止めて、すばやく無言になるのでした...信心に関して言えば、祝せられた秘蹟[=御聖体の秘蹟]におけるイエズスに対する彼の愛は彼の心の最も深い奥底にまで達していました。彼は永久聖体礼拝の会に入会していました...かれは毎時間御聖体訪問をするのでした...聖母に対して彼が持っていた信心は心からのものであり、純真なものでした。私たちが散歩に出かけるとき、彼は私を誘ってロザリオを唱え、また彼と共に他の祈りもするのでした...彼は、私たちが大学の中庭にいる自由時間の間にもしばしば同じことをしていました。彼は常にマドンナに「私のママ」(Mamma mia)という甘美な名前を与えていました...現実の生きている人間の中で、私はマキシミリアノ神父以上にマドンナに対する大きな愛情を持った人には誰も会ったことはありませんでした。彼はいとも聖なるマリアの真の子どもでした。」
「聖なる青年」と「いとも聖なるマリアの真の子ども」--それはローマにおけるこの時期の間の福者マキシミリアノをわれわれに美しく示す二つの判断である。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe02.htm
5
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/14(木) 00:39:22
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
15、一人の聖人が大学に出席する
短い時間が過ぎ去っただけである。そしてブラザー・マキシミリアノは注目すべき知性と結合されたその例外的な善性によって国際大学におけるすべての者を啓発した。学長ステフェン・イグヌーディ(Stephen Ignudi)神父は聖マキシミリアノを「聖なる青年」と記述した。そしてこの記述を大学の記録簿に入れた。
彼の仲間のブラザーたちにとって、マキシミリアノは教化の真の模範として傑出していた。「彼は言葉の正確な意味において真に一人の聖人でした」と彼の同僚の学生の一人は報告している。そして彼はこうつけ加えている。「彼はあらゆることについて、そしてあらゆる人に謙遜で柔和でした...彼は会則の最も小さな条項においてさえ、最も厳守する人でした。上長からの最初の合図、あるいは修道院のベルの最初の音で、彼は一つの語の真ん中でさえそれを止めて、すばやく無言になるのでした...信心に関して言えば、祝せられた秘蹟[=御聖体の秘蹟]におけるイエズスに対する彼の愛は彼の心の最も深い奥底にまで達していました。彼は永久聖体礼拝の会に入会していました...かれは毎時間御聖体訪問をするのでした...聖母に対して彼が持っていた信心は心からのものであり、純真なものでした。私たちが散歩に出かけるとき、彼は私を誘ってロザリオを唱え、また彼と共に他の祈りもするのでした...彼は、私たちが大学の中庭にいる自由時間の間にもしばしば同じことをしていました。彼は常にマドンナに「私のママ」(Mamma mia)という甘美な名前を与えていました...現実の生きている人間の中で、私はマキシミリアノ神父以上にマドンナに対する大きな愛情を持った人には誰も会ったことはありませんでした。彼はいとも聖なるマリアの真の子どもでした。」
「聖なる青年」と「いとも聖なるマリアの真の子ども」--それはローマにおけるこの時期の間の福者マキシミリアノをわれわれに美しく示す二つの判断である。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe03.htm
6
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/16(土) 00:49:18
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
17、彼の指が奇跡的に癒される
ある日ブラザー・マキシミリアノは右手の人差し指を悪い病菌に冒された。医者は注意深く検査し、なすべき唯一のことはすぐさまそれを切断することだと宣告した。これは翌日行われることになった。
これはブラザー・マキシミリアノにとってショックだった。右人差し指の切断は彼が司祭になることを妨げ得るであろう。なぜなら、この指はミサ聖祭を司式するのに必要とされたからである。彼は、悲しみを感じる一方で、自らを神の御旨に委ねた。学長の神父はその夕べ彼を訪れたが、彼が穏やかなのを見出した。そして彼に、この種の事例が彼が少年であったときにどのように起こったかを告げた。彼の脚の膿瘍が耐えられない苦痛を引き起こした。そして医者は次の朝その切断を命じた。しかし、十分な信仰をもった彼の母親は布きれをルルドの水に浸してそれを膿瘍の上に当てた。翌朝医者はルルドの水が使われたことを知り、宗教的迷信について辛辣に話した。しかし彼が脚の包帯をほどいてそれが癒されているのを見たとき、彼は混乱し、そして謙虚になった。
彼は回心の恵みを受けた。そして後に私財を投じて教会を建てさせた。
「私はもうそれ以上は言わないよ」と学長は言葉を結んだ。彼はポケットからルルドの水の入った小瓶を取り出し、それをテーブルの上に残した。
朝が来たとき、医者が切断手術を執行するために到着した。マキシミリアノは言った。「先生、私は切断手術をしなくても私を癒すことができる薬を見つけたかもしれません。テーブルの上にあの小瓶があります。どうかそれを私の指に塗っていただけないでしょうか?」
その医者はよいキリスト教徒であった。彼は理解した。そしてブラザー・マキシミリアノのこの信仰の行為において彼の役割を果たすことに同意した。彼はガーゼをルルドの水で湿し、それを指に巻き付けた。
翌朝医者はこの普通でない医薬がどうなったか知りたがった。彼は切断の必要がなくなったことを見出して驚いた。指はよくなっていた。汚れなきおとめは一つの明白なそして目に見える仕方でご自分の愛する子どもの必要のために備えてくださったのだ。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe03.htm
7
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/18(月) 01:09:57
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
19、聖マキシミリアノ・コルベ
幸いなことに、キリスト教徒はいたるところで今年、アウシュヴィッツにおけるその英雄的な殉教が単にマリアを通してキリストの支配へと完全に献げられた生活に聖性の最後の封印をした福者マキシミリアノ・コルベの列聖によってマルキシズムに劣らずフリーメーソンと戦う必要について思い起こさせられるであろう。
なぜなら、それについて聖マキシミリアノ・コルベが彼の生涯のあらゆる瞬間に絶えず意識していた一つのことがあったとすれば、それはフリーメーソンの脅威だったからである。
若いブラザー・マキシミリアノはフリーメーソンの目標を次の言葉で分析した:
「神なきこれらの人々は悲劇的な状況のうちに自らを見出す。教会と地上におけるキリストの使者たちに対するそのような執念深い憎しみは個々の人間の能力のうちにあるのではなくて、つまるところフリーメーソンから生じる組織的な活動の能力のうちにある。特に、それはカトリック宗教を滅ぼすことを目標としている。彼らの諸々の欺瞞は、異なった諸々の外観において、しかし同一の古い目標をもって、全世界に広められてきた。すなわち、その目標とは、宗教的無関心と彼らの基本的原理:われわれは議論をもってではなく、むしろ道徳的堕落をもって、カトリック教会を征服するであろうという基本原理に従う道徳的諸力の弱体化である。」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe03.htm
8
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/22(金) 04:06:09
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
23、「君、それで十分だ」
そうこうしている間に、霊魂たちの救いに対するマキシミリアノの熱意は何か非常に生き生きとしたそして活動的なものであった。彼は霊魂を救う機会を黙って見過ごすようなことをさせなかった。そして可能なときには彼は何かよいことを率先して達成した。小さいけれど重要であるこのことについてのいくつかの事例がある。
かつて汽車の中で前に坐っていた一人の紳士が宗教と教皇に反対して公然と話をしていた。マキシミリアノは黙っていることができなかった。彼は逐一彼に答え始めた。議論はすぐに活発な論争となり、その中でその紳士は少しずつ地歩を失いつつあった。最後に彼らはある点に達した。そしてその男はこう言った。「それで十分だ、君!君は私が誰か知らない。私は哲学博士だ。」
「もしそのことが問題なら」とマキシミリアノはすばやく答えた。「私も、哲学博士です。」
この答は懐疑論者にまさに彼が誰と関わらなければならなかったかを知らせた。そして議論はより穏やかに続いた。終りになって、彼は宗教、教会そして教皇制を擁護するマキシミリアノの議論の力に注意を払った。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe04.htm
9
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/22(金) 04:07:24
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
24、緑の宮殿
ジョゼフ・パル神父はこう書いている。「ある日、イタリアのフリーメーソンのグランド・マスターそして他のフリーメーソンを回心させるために、彼は緑の宮殿、パラッツォ・ヴェルデへ彼と一緒に私が行くよう提案した。私はもし学長が許可を与えたならば、彼に同道するだろうと確約した。夕食の後のレクリエーションの間に、彼はイグヌーディ神父のところへ行った。そして彼の提案を説明した。私が待っていた中庭に彼が戻って来たとき、彼は少しばかり当惑していた。しかし、彼が私に、学長の神父がしばらくはそのような冒険は適切ではないこと、そしてフリーメーソンのために祈る方がよいと言ったと告げたとき、彼はそのことを断念した。その場で彼は私に彼らの回心のために彼と一緒に祈らせた。」
この小さな出来事のうちにわれわれは野獣にそれ自身のすみかの中で近づくために、汚れなきおとめの力を十分に強く感じた若い使徒の勇敢さを発見する。われわれは、彼にしばらくは彼がただ祈るべきであると忠告した上長の意志への彼の謙遜な服従を賞讃する。この忠告をすぐさま果たし、そして直ちにフリーメーソンのために祈りを始めるということは彼にとって賞讃に値することであった。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe04.htm
10
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/22(金) 04:08:06
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
25、目に涙をためて
ここにもう一つの精神を高揚するできごとがある。
同じパル神父はこう報告している:「われわれ二人が聖使徒大学へと戻っていた間、汚れなき乙女の祝日の準備のノヴェナの間に、われわれは三四人の労働者が、住宅での彼らの仕事に戻ったときにマドンナに対する冒涜の言葉を口にしているところを通りました。
マキシミリアノは私を通りに残して、彼らに大急ぎで近づいて行きました。彼は目に涙をためて、なぜ彼らは聖母を冒涜するのかと、彼らに尋ねました。私は、彼に時間を浪費しているのだと確信させるために無益な努力をしました。彼はその間ずっと激しく涙をもって話し、行動したので、最後には彼らは謝りました。そして自分たちは極端な怒りに駆り立てられたときに鬱憤をはらすやり方としての習慣からそうしたのだと言いました。彼は、彼らの怒りを何とかして鎮めるまでは彼らに嘆願することをやめませんでした。」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe04.htm
11
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/22(金) 04:09:06
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
26、「従順な道具」
マキシミリアノは熱心な気性を持っていた。サタンを打ち負かす汚れなきおとめという考えは彼を陽気にした。霊魂たちを滅ぼしている霊的道徳的な退廃を見たことは、霊魂たちを「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(1ヨハネ 2:16)から救い出すために、時間を浪費しないこと、あらゆる手段を用いること、あらゆる方法を勇敢に試みることへと彼をせき立てた。
彼の勇敢さは純粋に汚れなきおとめに与えられた限界のない力をあてにしていた。人々をして自らを聖母の御手の中に置くようにさせ、聖母の「従順な道具」であるようにさせよ--それで十分である。そうすれば、この征服されざる女性戦士は「この世の子ら」(ルカ 16:8)そして「やみに行われる業」(ローマ 13:12)を打ち負かされるであろう。
コルベはこう言った。「マドンナはわれわれを何ら必要となさらない。しかしマドンナはわれわれに功績を与え、勝利をより栄光あるものとされるために、へりくだってわれわれをお用いになるのである。--それが、貧しい、弱い人々を通じて、そして世間的な基準によって、不適切である手段をもって、勝利されるときのように--なぜなら、霊的な武器は俗物によって嘲られ、格下げされるからである。
われわれは、あらゆる適法な手段を利用し、話された言葉を通じ、マリアに関する書籍と不思議のメダイの配布を通じて前進し、そして祈りとよき模範によってわれわれの活動に強さを与えながら、従順な道具として聖母の御手の中に自らを委ねることが必要である。
それゆえに、マリア使徒職の手段は汚れなきおとめの旗印の下に戦う意図をもってマリアの聖なる軍隊に自らを登録すること、同様にまた、ミリティアを他から区別するものとして不思議のメダイを身につけることであろう。同時に聖母の兵士として毎日、その中でわれわれがわれわれに対するマドンナの保護を嘆願し、そして特に教会の最大のそして最も頑固な敵であるフリーメーソンの回心のために願う短い祈りを捧げることであろう。」
マキシミリアノはこのすべての傑出した模範であった。彼は、特に祈りとよき模範によって聖母に対する奉仕であるいかなる機会をもとらえそこなうことがないように機敏な、真に聖母の御手における「従順な道具」であった。彼が若い聖職者であったとき、そして彼が円熟した司祭であったとき、彼がローマあるいはワルシャワの通りで、汽車あるいは船の中で、大学キャンパスで、そしてニエポカラノフ(Niepokalanow)の廊下で、ロザリオを唱えているのを人は容易に見ることができたであろう。彼が「ロザリオの祈りがより多くなされるとき、より多くの霊魂が救われる」というこの小さな金言を書いたとすれば、彼は霊魂を救うためのロザリオの価値に無限の信頼を置いていたのである。聖なるロザリオを愛する者にとって何という励ましであろうか!
彼は常にポケットの中に不思議のメダイをせっせと供給していた。彼はそれを人間の心の中に突破口を開く「弾丸」あるいは「小さな爆弾」と呼んだ。彼は人々がそれを手に入れるのを保証するのに最も適した場所にそれを残すことについての臨機の才を持っていた。
人は聖マキシミリアノをどんな仕方でもしりごみすることなくマリアに服従した真に従順な道具の完全な模範として記述することができるであろう。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe04.htm
12
:
カトリックの名無しさん
:2016/01/26(火) 01:25:05
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
27、マリアの司祭
聖マキシミリアノにとって、神学校に入る一人の少年の最も美しい夢--司祭になる夢、祭壇に上る夢、十字架の犠牲を更新する夢、彼の手の中にイエズスを降りて来させる夢、霊魂たちにイエズスを配る夢--の実現がついに来た。
1918年4月28日にマキシミリアノは司祭に叙階された。翌日彼はローマの聖アンドレア・デッレ・フラッテのバシリカ、「奇跡の祭壇」--祝せられたおとめがユダヤ人ラティスボンに御出現になり、彼が瞬時に回心したその場所--で初ミサを献げた。
マドンナのその祭壇で、マキシミリアノはマリアの司祭の生きている模範として立った。彼ら二人--マドンナと聖マキシミリアノ--イエズスの御母と司祭たるキリストの人格と同一化した司祭--を熟考してみよう。マドンナはどのように愛情をこめてその最初のミサをご覧になり、それをお助けになったに違いないことだろう!そしてマキシミリアノはどのようにマドンナを愛情をこめて眺め、マドンナ、女王、仲介者、彼の司祭職の汚れなき御母に栄光を帰したに違いないことだろう!
イエズスにおいてあらゆる司祭は、その中で彼が、イエズス御自身の、神の御母に対する天的な愛をもって、彼自身の心と精神にイエズスを溢れさせる程度においてマリアの司祭となるべきである。
彼自身をイエズスによって完全に貫通され支配されるようにさせ、その結果彼がイエズス御自身の聖母に対する司祭的な愛をもって、彼の天上の御母を愛するようになる以外にどのようにして人はマキシミリアノについて考えることができようか?
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe05.htm
13
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/01(月) 05:10:43
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
33、病者への使徒
マキシミリアノはその諸々の機会に従ってサナトリウムの病人たちの間で働いた。各々の患者との個人的私的な話のほかに、できるようになるとすぐに彼は集会と宗教的な会議を組織した。彼は討論を行い、そして不思議のメダイを配布する機会を見逃さなかった。
汚れなきおとめはご自分の支持を彼に与えられ、そして「無神論者たちの拠点」と考えられていた場所における無数の回心の喜びを彼に与えられた。
彼は死んで行く学生に洗礼を授ける幸福を持った。その青年はコルベの護教論の講義に忠実に出席していたが、しかし各々のセッションの終わりにはすばやく抜け出ていた。ついに彼はその日のセッションが彼が出席できる最後の日である、なぜなら彼の病気は非常に進行したのでもはやベッドを離れることができない、そして今はただ死を待つだけだからだ、ということを彼に告げるために聖マキシミリアノのところへやって来た。
聖コルベは彼を訪問することを約束した。重病であった者を訪問することは禁じられていたが、しかし彼はなんとか許可を得た。彼はたびたび訪問し、彼に話し、彼の首に不思議のメダイをかけ、適切に彼に準備した。彼は洗礼、聖体、終油の秘蹟を授けた。
彼は少年に尋ねた。「君は幸せかい、それとも何か困っていることがある?」
「僕の母--彼女はユダヤ教からキリスト教に回心した僕を呪うでしょう。」
「恐れてはいけない。君のお母さんが着くときには、君は天国にいるだろう。」
彼の母は若者の死の1時間後に着いた。彼女がその首に汚れなき聖母のメダイをつけた息子の体を見たとき、彼女の非難が強く表明された。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe06.htm
14
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:33:31
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
37、「兄弟なる機械設備」
マキシミリアノは、1ヶ月に5万部以上印刷を始めたときに、彼自身の印刷所を持つことについて考え始めた。これは馬鹿げたこと、彼の他の諸々のプロジェクト以上にもっと大きな馬鹿げたこととさえ、思われたであろう。しかしマキシミリアノは自分のことを「汚れなきおとめの馬鹿」と呼ばなかったか?
汚れなきおとめの助けと共に、「汚れなき聖母の騎士」がそれ自身の印刷機--コルベがそれを呼んだように、「兄弟なる機械設備」--を獲得したとき、この一見馬鹿げたプロジェクトは一つの現実となった。
もっと大きなそしてもっと適した場所を手に入れるために、彼は北ポーランドにある山岳地帯、グロドゥノ(Grodno)においてすべてのことを始めることを考えた。そしてそれから、彼と共に働くために割り当てられた修道士たちと一緒に、聖マキシミリアノはそこに移り、絶え間なく働き続けた。
編集、執筆、印刷--これらは、祈り、ミサ、礼拝、告解、そしてグロドゥノからおよそ2マイルの町でのカテキズムの教授に捧げられた時間に加えて、彼の日々の雑事であった。彼は、熱があろうとなかろうと、弱さを感じようと強さを感じようと、祈り、働いた。また執筆し、授業を受け持った。そのことについて心配するのは無益であった。なぜなら、時間は非常に早く過ぎ去り、そして彼は汚れなきおとめのために完全に自らを犠牲にしたいと思っていたからである。
彼は弟のアルフォンスス(Alphonsus)神父にこう書いた。「私の一日は本当に仕事でいっぱいだ。読者数が大股で増大している。汚れなきおとめはご自分の雑誌を強い手で前進するように導いておられる。時に私の顔が熱で赤くなろうとも、私は病気である暇がない。たとえ常に弱いと感じているとしても、私はこう繰り返している:私は病気である時を持っていない、と。」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe07.htm
15
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:34:31
38、多くの召命
その間に汚れなきおとめは聖マキシミリアノのためにもう一つのより大きな奇跡を働いておられた。
聖母をすべての人のところへお連れし、聖母を地上における戦闘の教会においてすべての心の女王とする夢は聖母のために完全に奉献された霊魂たちなしには真実のものとなることはできないであろう。もし汚れなき聖母の騎士が繁栄すべきであるならば、エネルギーと愛をもった新しい手と心がその完全な発展へとそれを前進させるために必要である。
実際、この「夢」--彼が始めた他の馬鹿げた冒険と同じと思われた--はすばやいそして際だった仕方で実現へ向かって動いた。
汚れなきおとめに対する聖マキシミリアノの大きな愛は宗教的召命を産み出すようになった。彼はこう言った。「人々にとって汚れなき聖母にふさわしい者であるために、彼らの霊魂は奉献されていなければならない。汚れなき御母の仕事は商業的な企てでははない。それは無限にそのすべてのもの以上である。」
彼らの仕事において完全な沈黙のうちにそして祈りの精神に浸されて印刷機のところで忙しくしている修道士たちを見ることはフランシスコ会修道会の歴史において初めてであったに違いない。聖フランシスコは修道会の女王の栄光のために努力を傾けている彼自身の修道士たちを見て喜ばずにはいられなかったであろう。
さまざまの年齢や条件の男たちが次々にやって来ていた。彼らの到来は一つの新しい問題をもたらした。すなわち、滞在するために彼らのために十分な部屋を見つけることそして彼らの仕事を提供することである。古い修道院には放棄されていたすべての部屋が再びまるまる使われた。しかし召命の数は、雑誌の発行数やミリティアの会員--今や10万人を越えた--と同様に、なお増加した。
それゆえ次に聖マキシミリアノが夢見ていたもう一つの冒険が始まった。それは彼の大きな愛のすべての夢の中でも最も美しい夢であった。それは完全な都市、「汚れなき聖母の都」の創設であった。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe08.htm
16
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:35:28
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
39、都市の場所
聖マキシミリアノは直ちにこのマリアの本拠地を始めるために適当な場所を探し始めた。彼はそれがワルシャワからそう遠くないところであることを望んだ。このことは彼の出版物の輸送や郵送を容易にするであろうから。
彼は探しに出かけた。そしてテレシン(Teresin)に広大な区画の土地を見つけた。それはドゥルッキ-ルベッキ(Drucki-Lubecki)王子の地所だった。マキシミリアノは王子と会う手はずを決め、そして彼がその土地に彼の印刷工場と汚れなき聖母の修道士-騎士のための住居を建てることができるかどうかを尋ねた。王子はその修道士に好印象を持った。そして彼が要求したすべてのことを、一つの条件の下で、すなわち、マキシミリアノが彼に彼、王子の両親のために年に2回のミサを永久的に捧げてくれることを保証するという条件の下に、喜んで許した。
マキシミリアノは彼の上長たちからミサのための取り決めを得ることを約束した。その間に、大いに喜んで彼はテレシンへ行った。そして他の何よりも先に汚れなきおとめの美しい像を建てた。なぜなら、彼がその場所を所有するようになったのは聖母の利益に奉仕するためだったからである。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe08.htm
17
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:36:24
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
40、礼拝堂が最初に来る
修道士たちの最初のグループがマキシミリアノと一緒に新しい場所に到着した。そして彼らはショベル、つるはし、その他の道具で、土地を開墾するために働いた。これは1927年8月の終りのことであった。マキシミリアノは彼らと一緒だった。彼らの仕事は速いペースで進んだ。彼らは一軒の農家の床にわらのベッドを作って眠った。そしてわずかしか食べなかった。
最初に建てるべき建造物は木造の礼拝堂であった。マキシミリアノはそこでミサを捧げ、神の栄光に仕えるため、そして汚れなきおとめを通じての霊魂たちの救いのために奉仕する場所を聖別した。
礼拝堂のバラックの周りに、印刷工場の異なった部門のための建物と同様に、修道士たちのための建物が建設された。
11月21日、[エルサレム]神殿への聖母の奉献の祝日に、聖マキシミリアノと共に働いていたグロドゥノのすべての修道士たちは新しい土地に旅行し、テレシンの最初の二つのバラックへと移った。テレシンはそのときから「汚れなき聖母の都市」(ポーランド語で「ニエポカラノフ」)と呼ばれた。
汚れなきおとめの美しい像はそこを訪れる人は誰でも皆歓迎するためにこの独自の都市の入り口にそびえていた。マキシミリアノはお互いにマリアの名前によって挨拶する習慣を紹介した。数年前、一つの全-マリア修道会の彼の夢-プロジェクトについて他の修道士に話したとき、彼はこう言った。「何という美しい共同体だ。それはそこで『マリア』がいたるところで聴かれる共同体である。『マリア』が挨拶であり、『マリア』が挨拶への応答である。彼女はマドンナ・ハウスの女性の主人であり、保護者である。」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe09.htm
18
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:37:04
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
41、英雄的な生活
フランシスコ会士である聖マキシミリアノはアッシジの熾天使的聖人を真に模倣したいと思った。最初の出発点からマキシミリアノは彼自身のためにそして彼の修道士たちのために聖フランシスコへの忠誠、最初のフランシスコ会の共同体に入るに値する宗教生活、英雄主義の点にまで従った会則や会憲の完全な遵守を望んだ。彼は限りない寛大さを支持した。彼は、その中で人々がその全生活を犠牲において捧げ、あらゆるテストをパスする一つの基礎以外の何物の上にもそのように大きな仕事を建てることはできなかったであろう。グロドゥノを去る前に、彼は修道士たちに言った。「新しい修道院においてはわれわれの犠牲は完全でなければならない。宗教生活はそこでは最も完全な遵守において栄えなければならない。会則と会憲は力強く遵守されなければならない。なぜなら、ニエポカラノフはすべての人々にとって宗教生活の模範でなければならないからだ。」
汚れなき聖母の都市の顕著に熱心な使徒的活動を養い、支えたのは英雄的に生きられた宗教生活であった。
よく剃髪された頭、サンダルとあて布をされた僧服の修道士たち、彼らは日の出数時間前に、そしてその後の夜までの合間に祈りに集まり、完全な沈黙のうちに熱心な仕事の数時間を過ごし、冷たい気候と飲食および休息における簡素に不満を漏らさずに耐える、--これらの人々は、彼らの日々の自己犠牲によって汚れなきおとめの愛に対して霊魂たちを勝ち得る値段を支払っていたのだ。
マキシミリアノの書き物からの一つの啓発的な節は次のように述べている:「ニエポカラノフ共同体の成員は慰めあるいは楽しみを求めない厳密に必要な物に彼の個人的要求を限定する。このようにして、彼は、慰めと楽しみを放棄することによってそれのために支払うとき、汚れなき聖母の騎士のますます多くの部数を印刷し、それをより広範に読まれるようにすることを可能にするのである。」
聖マキシミリアノはこのような精神の持ち主である修道士だけを望んでいた。それゆえに、ニエポカラノフへ行くためにグロドゥノを去る直前に、彼ははっきりと彼らにこう告げた。「自分はそこへ行く強さを持たない、あるいはそこへ行く意志を持たないと感じる者は誰でも誠実にそして率直にそう言って貰いたい。」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe09.htm
19
:
カトリックの名無しさん
:2016/02/04(木) 03:37:41
◆ 聖マキシミリアノ・コルベ(ステファノ・マネッリ神父著)
42、フランシスコ会の貧しさ
汚れなき聖母の都市は二つの事柄の上に建てられた--貧しさと汚れなきおとめ--聖マキシミリアノはそう宣言した。
われわれは聖コルベの貧困の愛をどのように記述するかを知らない。それは彼の熾天使的父祖聖フランシスコに相応しい愛であった。聖マキシミリアノの貧困に関するページは初期フランシスコ主義の諸著作の一つの概説としてりっぱに役立ち得るであろう。そして汚れなき聖母の都市の貧困の模範はわれわれを最初のフランシスコ会共同体の貧困の模範へと連れ戻す。
小さなことにおいてと同様に大きなことにおいても、聖マキシミリアノは彼自身常に、心と身体においてこの世のすべての所有物から距離を置いた、何物をも所有することを欲しない貧しい人のように生きるために厳密に必要であるものに満足して、その結果完全に神の所有物となり、所有物として汚れなきおとめに無条件に委ねたアッシジのポヴェレッロ[小さな貧しき人]の忠実な追随者であることを証明した。
コルベは汚れなき聖母の都市のために、ポーランドにおいても、あるいは日本においても、どんな土地の所有権も望んだことはなかった。彼は言った。「なぜ所有権を持つのか?使用で十分だ。聖フランシスコのようでありなさい。何も所有するな。われわれは所有者がわれわれの滞在に同意する限りその場所にとどまろう。彼がわれわれにもはやとどまることはできないと告げるとき、われわれは別のところへ行くであろう。」
一人の同僚の修道士、アッシジのドミニック・ステラ(Dominic Stella)神父は聖コルベの上述の言葉について次のコメントをした。「これは彼の明確な考えと堅固な説得を伝えた。マキシミリアノの精神において最も重要なものが熾天使的父祖の精神と完全に一致した貧困の純粋な理想であるということは明らかなことであった。」
同様にまた、彼がインドにいたとき、エルナクラム(Ernaculam)の司教は彼にいくらかの土地、一軒の家、そして一つの礼拝堂を与えたかった。しかし聖マキシミリアノは「ただ用益権だけ」--すなわち、財産の使用とその産物への権利--を受け入れようとした。「なぜなら、私たちは所有権を欲しないからです」と彼は説明した。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/kolbe09.htm
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