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夢日記と思想と独り言

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1 : 2016(1) / 2 : 夢日記と思想と独り言 その1(88) / 3 : 辻(12) / 4 : コトタマ学(1) / 5 : 長歌(2) / 6 : 教育(3)
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1 2016 (Res:0)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1:2016/08/06(土) 22:35:09
立ち返り過たむかも独り居の心細きは群れらかへ寄る

ぬばたまの闇やは過ぐる一夜だに後の月日し安げならまし

真夏日の強き日射しを直に受け麦藁帽の鍔の下居り


ファクトリーの方は人目を非常に気にして発言するから、こないだパソコンで一通り見回して、それで終わらせる事にしよう…ファクトリーの方はと思っていたのだから…それを実行に移すのである。自分の例えば今の苦しみは歌として分けて、その思いの丈を解き放つより他にない。しかし余り人目を気にしないというのが大切な事なのであるから、場をこちらへ移すことにしよう。さて、今日は東京は日中最高気温が35度だったらしいが、午後二時から二時間日射しをもろに受けて尺八と読書をしていたのであった。他に日光浴をしている人がいて、上のシャツも脱いでいたのに習い、上半身は裸で自分も時を過ごした。昨日やるべき事は済ませてあったから、のんびり出来たし、歌の前の段も今下書きをして出来上がり、まぁ日中の時間は有効に使えたであろうと思う。悩むのは明日大本か池袋の寺か上野の寺かに行くかどうかという事である。それについては今からじっくり考えよう。日中の強い日射しを受けていたせいか、それとも二枚の短歌のプリントのせいか肩が凝り、だるく体が思いからもう早い処休みたいと思っているのだ。朝八時に起きれなかったら夕方のお寺…ともなるか、禅の方は全生から内へは入れない気がするし、池袋はそれなりに遠いのだ。しかし週に一度位は少し自分の殻を破って、外へ出て、他人に近づいてみる必要が確かにあるであろう。夕方でいいから池袋へ行こうか、非常に悩む処である。

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2 夢日記と思想と独り言 その1 (Res:80)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1名無しさん :2012/01/01(日) 17:48:20
夢日記と思想と独り言 その1

82名無しさん :2013/11/17(日) 12:36:31
いきのつかいかたが、じぶんにはわからない、じょうたいであったが、しんぞうからいちばんはなれた、みぎあしのゆびをうごかすのであり、するとこきゅうはしぜんに、おさまるのである、くちをあけるとか、かんそうとか、くちにとなえるとかは、そのあとのことなのである。

けっきょく、まくものは、ほーむぺーじのしょうかいを、することにしたが、いんさつはせずに、てがきにて、くばることにした、もんだいは、さくじつは、ちょくせつてわたすことをかんがえたが、ここしばらくは、ぽすとにとうかんをしていた、どちらがよいかということであるが、きょうはでさきで、そのごじゅうぶを、どちらかのかたちで、くばってしまうのが、いいだろう。

ゆとりをもってでかけ、まちやひとを、よくみて、すこやかにすごす、よるのぎょうじまでに、しょうかいと、うたができればいいが、そとのほうが、うたはできやすい。


83:2015/04/24(金) 14:15:57
このいまのじょうたいからぬけだすためにはまずほうのうをやりなおすことでありまたたんかはすがをつかうことにしよういやうぇぶではなまえはひとつとしてしたいところなのであるからこのぶんしょうもすべてつじでせいぎょをするのだただでさえじぶんのないうえにうぇぶでもそれぞれのなまえをつかうとなるとややこしいしひとつにしていおけばそれがめいとなりむじのようによりどころともなるであろうからたんかもつじをつかうことにするのであるうぇぶもなにもうつわもふうとうもすべてつじのいちもじにするのであるそのほうがなにをするのでもつごうがよいはじでありたぶんしょうかいはひゃくしんのみだけとなるひととのせっしょくのようにそれをすればなにかしらのあんらくはかんじるではあろうからそのときもつじのひともじだけであるかといってことたまのへへおくることはこんごいっさいなくあくまでわたしはびゃしょをもたないつじとしてしゅどうけんはこちらがわにあることをいまかくにんをしておこうとはおもうのであるできたらきどうをしゅうせいするそのいみでそのためにいまそのみっつをやっておくといいかもしれないがこのたいちょうのわるいなかわたしはほとんどふつかにいちどはいっつうだしているのでかなりくたびれているのもたしかなのであるにちようびはうたのあつまりがあるゆえうたはあしたまでにおわらせるとしてもきょうはほうのうとしょうかいをたしょういちかてごりーをいますこしやってみることにしよう

20150320


84名無しさん :2015/06/01(月) 22:14:13
肉に関する話や言葉が多いのは、夏になって薄着になったせいで、よく目に付くから、という事と自分の中でフラストレーションが、まさに塊として厳然としてあるからであろう。少し狂ったような歌を連発しているが、本命の為に話と歌とを分けて、自分をさらけ出すそのみじめさ・・はある意味自分の本性なのかも知れない。


8520150730 :2015/09/08(火) 00:34:48
朝、お寺の活動の誘いがあったが参加しておらず、その関係の方からの電話で目覚めた、この日は母と健康ランドに行く約束をあいていたが、前日アニメを見ながら眠ってしまい、目覚まし時計をかけていなかったので丁度良い電話だった、集合に三十分遅れるとメールして現地で落ち合い、先ず食事をした、中華御膳という千四百円の物を頂き、満腹状態で風呂へと向かう、体重がまた、三キロ程増えて、はけなくなったズボンや上着は捨てようと脇へ寄せてはある、さっと風呂に入り胸が苦しい状態であったが、すぐに出て休憩室で横になり、歌の詠みをざっと作る、それは会のバックナンバーを使用し、季語や俳句の一句を引用した、その後何か無性に又、紹介をし始めて体調を崩した、あれをやると体が」、心がおかしくなってしまうようである、もう一度お茶を飲み、五時過ぎに出た、母に四千円を頂きそれでタイマッサージへと行った、かなり体に負担があるようで体重の増加を指摘された、あの店は少し高いが腕は確かだ、食事するラーメン屋が休みだったのですぐに帰り、短歌や俳句だけをやみくもにupして、座禅をしながら四十分独り言をしていた、映画、味園ユニバースを見て三、四時に薬をのみ眠る。


86:2016/03/06(日) 23:38:26
独り居のうら耐へ難きやをら涌くこりの密かな生えは叶はじ

一月に金欠になっておば(姉)の一人から一万円を借りる時、そのおばの家に遊びに行ったのである。それ以前からお金に少し困るようになっていて、月一度は母と健康ランドへ行って、ご馳走を食べて小遣いをもらったりしているのだが、練馬区に住む母の妹の所へも昨年の暮れから月一度ペースぐらいで泊まりに行っていた。ある時おばの息子とその嫁と友達…彼らは二十台だが、一緒に行きつけのスナックで一緒に飲んだ。息子の嫁は同性の友達が多いらしく、酔っていた事もあって私に女性を紹介してくれるとか…という話が出たのである。去年の末の事だ。で、その後何となく冗談が長じてそんな話になったのだが、〈いつ紹介してくれるのか…〉と思う自分がいるのである。今年に入って二度目だが練馬に再び泊まりに行って、その息子と嫁と顔を合わせる機会はあったのだが、そんな大勢で飲んで、話の勢いで出た言葉に心密かに期待している自分がいたのであった。


87:2016/08/24(水) 01:30:52
巧妙な術を施し長らえど大した事も成さぬ命か

丁寧に補足・振り仮名添え送る無名文書に問題がある

三十分それだけでいい室内で読書しページ進ませる事

思い出す若い娘の生き生きとした姿見て惜しむ気持ちも

忙しなくアダルトを観て用を足すもっと落ち着き時過ごしたい

金町で君の子供に友達か聞かれたけれど答える間なく

予報では明日雨だから病院のデイケアへ行く選択も有る


88:2016/08/24(水) 01:32:58
デイケアへ行くのならばと目覚ましを十時にセットしてどうなるか


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3 (Res:4)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1春日 :2014/11/12(水) 11:12:42
この何年かの間、夢中になってきた短歌。その短歌自体は個人に対する一枚の葉書でもって頂となり、文字を伴うというより依り処とするから、古語文法というよりは造語に近い作業である。さすがに18文字全てではなくて、今日組まれたものは先ず的があった。的は3音の1字で秋空の上空にまばらに浮いてとどまる雲である。この的を引っ張って古事記伝の水戸神の段の書写をしてあっという間に31音がその大半は組み上がった。漢字は時間があったから、神代文字を使用して大半は合成された文字。季語は秋の暮れである。振り返ると葉書の場合はもう少し明解な筆跡が良いだろうか。今はその内容の出来事について心の内を明らかにしておくことにする。一言でいうと、ある女性から物をもらった。ただそれだけのことが記された歌であった。

6春日 :2014/11/12(水) 17:13:48
私の妹の娘が10才位、それ以上でその芸大生が22才位か、すると年の開きは私の39と比べると芸大生は妹の娘に近い。妹の娘を女性とはそれ程意識して見ないが、22の方は健気で多分私より強い心臓を持っていることだろう。心を奪われまいと心を引き締めてはいたが、妄念とはかくも恐ろしや…。一番初めに見掛けた時よりも、変化を感じる。自分もそうであったが、そういう年頃だろうし同級生らは進学して大学へと進み、はたから見ていると本当に楽しそうに見えたものだ。そういう可能性を秘めたる若さ、生命力を妬む気持ち。でその方が大接客のサービス片付けが終り、荷物をまとめていたら「ハイ」といって何かおみやげの食べ物を渡して呉れた。ただそれを素直に「ありがとう」だけで済まない…思いが歌になったのである。


7春日 :2014/11/12(水) 17:26:16
忘れていたが、谷中に住んでいた時があり、丁度施設を出て、独り暮らしを始めたのが、月三万円程度のアパートで便所は共同であった。二階の隣の隣の部屋は女性の芸大の方がアトリエとして使用していて廊下には私があげて描いて…もらったベーコンチックな顔の絵がある。時々彼氏と一緒に歩いていたり、銭湯へ行く時にすれ違ったものだ。まあ芸大生といっても無数にいるが、自分の美術に対する思い入れから、あるいは男として特に心に残るのであろう。施設を円満に出て、自分は何かをしたいけど、何をすればいいのか分からない状態で陶芸をすすめられて習ったのもその頃であった。


8春日 :2014/11/15(土) 02:34:22
幡ヶ谷のアパートへと移り住み始めたのは、そこにT氏が住んでいたからで、私はそれ以前やっていた仕事を辞め、引越しの時は大きなダンボール一つであった。前日、そして幡ヶ谷に着いた時は薬の酔いが回っていて、出てくる時アダルトビデオを編集したテープを、思い切って捨てた覚えがある。何年か後に、アダルトの制作会社の編集部に勤めた因縁…である。駅前のパチンコ店で三ケ月位働き、その後六本木のSMのショーパブで働くようになる。T氏の彼女が芸大の子で当時私と年令は変わらなかったが、ある夜私のアパートへと訪れて来た。私のアパートは洋服屋、リテイル屋の裏の狭い風呂なしのアパートで、彼女はT氏と別れた、と告げる為にやって来た。私の当時の部屋は照明がなく、夜は真っ暗で彼女とヒソヒソ話をした。そして彼女は、途中トイレへ行って用を足す。木造モルタルの部屋で、音が響く。要するに彼女は「どうぞ食べて下さい」と暗にやって来た。それは、私とT氏がSMパブで一緒にサロンみたいなことを始めたり、近づいた。彼女は具体的に交、行為を口にする。性病…?だったか、ただ私も当時急に彼女が出来たばっかりだったし、私は妄想はひどいが以外と頭だけで、具体的性、加え乱暴は、はっきり一度覚えている。他にもあるだろうが、あの時は相手に、申し訳ないと今でも思うのである。


9:2015/04/29(水) 10:12:22

にどねをしてしまいまつりにはさんかができぬがきょうはいけぶくろへといくそしてうつわをだしてつやけしのしらはぎがいいかどうかはできあがりをみてからかんがえるとしてうつわのみつをうけとりいいだばしからきんだいびじゅつかnへといきそしてかなりあるきたいきもちなのであるでんしゃではざっしをよみきるかんじでいきそしてあるきにはこじきでんとのりとをよみあげることだそれでくわえてさくらをひとつよみたいとはおもうのであることたまのかいほうはひとつをぷりんとあうとをしてじたくでいっかげつあたためてしょしゃするよぶnなはんしがあるからそれをりようたんかはめもをたよりにあるていどはできあがるであろうきょうはあちこちあるいてみることだかえってきたらとちゅうとしょかんでうたをまとめあげてよるにこじんへとだせたらかんぺきとはいえるができるはずなのであるけっきょくこのがいどがあればことたまのまなびのさーくるはたちあげることができるのではなかろうかそのようにもおもえるここでかんがえているじかnがあればさーくるをめーるあどれすひょうきでまたつくりまいてそれをしごととすることができるのではなかろうかとかようにおもうものなのであるはいくのあつまりにもきょうみがあるしただぶらぶらとあるいているだけというよりはもしやことたまのまなびにとういつをするのかつじはいつつまでできるであろうがりくりとしてさーくるのちらしづくりをやってみるというのかそれともひとにこmrんとをするときのなまえにするそのためにそれもわるくはなかろうとおもうのであるがいまはとにかくきょうはともかくいけぶくろときんだいびじゅつかんへといくことをするのだ


10名無しさん :2015/05/09(土) 01:18:05
iroironakotokaatutakeretoimaikiteirukotokatotusenarikatakuomoetanohamitukaranonamaemoarihuutounohensimonituuninarikokotehanasiwoshitemitukarawototonoerukotokatekirehasorenarinotankainikitakotoninarunotehaarousituhaihashiyoukaitearikousitehanasiwosurukotokatariteinakatutaashitahaesuherantonohukusiyuutoutanokanseiwoshitesouhuwosurukonkaihakiyosumisirakawanitemukaihinisuwatutaonnnasansiyuumitonomononohisatoashitosunetaitonasukaatosorenarinikawaiikuririsiikashiriyouwohisanouetehirakusonosutotukinkuhahatanoirotokamihitoetearuosekisanhamirukotokatekisuanohokuroahatnohahaahakikonsiyatearimusumehutarinikowoharamaserumousoumohuusennoyounihukuramukaasuhashitukarisuwarikehuhasirasetekutusitesimaisuwaresuniaritanotakasikarisuwariutatoesunohukumanahiwosurusoshitehiteowokaesunotaatarutohanankatukarerunotakakarirehaiisaeikahayoukanohukikaenoaruakushiyountokakayoikakonoeikanosekaikaramomousukosinuketasitaikihunnanotehaaruokorekaramouhitotumiteyasumutokinikusuriwohukumiharatetehaketawatashiwoosekisanhatouomoinuretawakemokuwaetanohatetuhanoanokenakenanaasunanota


11名無しさん :2016/03/07(月) 00:10:37
ストローの端を二人でくわえ込み副流煙を相手に送る

確か一度目にタイへ行った時、サムイ島のラマイ・ビーチに日本人が集まっていて、M 君を中心に大勢と毎日薬漬けののんびりした時を過ごした。夜中のディスコへ行く前に、ラマ・センというゲスト・ハウスの一室でヤーマーと言う覚せい剤をばっちり決めて行くのだが、その時の事である。皆アンフェタミンをあぶってそれをストローにて吸い込む。その後、口から吐き出される副流煙を再びストローを用いて、別の人にその相手の口中へ送り込む、煙を送るのである。M 君の彼女の女の子はそれ程美人という訳ではなかったが、日本人女性…紅一点という事もあり彼女とは日本の那須の温泉ホテルで知り合ったのだが、その時よりもずっといい女に思えた。ストローを私とその相手の子とで両端を口にくわえ相手の顔が間近になる。肌の白い子だがほっぺが少し赤らんで妙に色っぽい。只キスをするよりもエッチな気分になる。周囲では皆が見ている訳だし…でアンフェタミン(ヤーマー)の最後の煙をストローを通して送るのであった。今から 15 年くらい前の事であろうか。


12:2016/03/19(土) 22:04:18
正しさやより良い幸を説くもののその実態は何であろうか

お寺の班の方と一緒に、折伏の活動に参加をした。〈正しい宗教は一つだけ、そうでないと幸せになれない…〉一緒に回った厚い信心を持つ女性の言葉が心に残っている。お寺の活動には時折、参加して外部との接点を多少持てば良いだろう。

積徳の布教の後の夕げにと油ののった豚肉を食う

朝からお寺のの行事に参加して、その日は座談会へ出て、街折に出て、夕方の勤行にも参加をした。途中、コンビニにてカップ・ラーメンを食ったが、帰宅するとぐったりであった。帰り道駅のスーパーで買った値下げされた豚肉を食べながら、その日一日の宗教的な行為が水の泡になった様な気がした。

大勢の唱題の声に紛れ込みぼんやり仰ぐ妙の一文字

夕方の勤行まで、多少無理をして出たのはその後半月は出る、参詣が出来ないだろうから、当分来ないからという気持ちがあった。その時には、人に向けてコメントして話をWeb上でしていたが、それは余り自分を良い方向へは持って行かなかった。

信仰は人それぞれで構わないただ自らが属す居場所か

日蓮の本仏論は、一見整合性を感じさせるものの自分には受け入れ難い事だった。日蓮自身が考えていた事、結局日興が作り上げた事であったのだろうと想像する。そもそも、末法以後日蓮が只一人の仏であり続けるという事は有り得ない。
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4 コトタマ学 (Res:0)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1名無しさん :2015/04/09(木) 02:46:37
私が言霊という言葉をはじめて目にしたのは、知人のブログで今はないが、夢窓庵日記においてである。丁度その頃、東京池袋に住んでいて、江戸川橋にあったアダルトビデオの映像制作会社に勤めていた時のことであった。私は座禅も読書も未だにそれ程夢中になって行う訳でもなく、今もそうだろうが頭の中の思考が止まらない。絶えず考える、マイナスに・・多分その地獄(自語苦)から抜け出せないようなのである。会社をを辞めて、実家へと戻り谷中の全生庵へ再び行くようになった・・・嫌施設を出て谷中に住んでその時に、近所には全生庵があり、これは夢窓庵さんにすすめて頂いた無門関提唱という本の因縁で、本の中に谷中の全生庵での山本玄峰老師の提唱も入っていたのである。その老師の侍者をされていたという中川球童老師という方の法話・・無門関の提唱を三度聞く機会を得たのである。私は二十台には実家から逃げ出しては、借金をしたりして戻ってしまう。人には夢があるとか、美術なんだとか、思想とか大そうなことを口に出さない迄も思っていたが、実際何をしてよいのか分からず、唯一マッカーシーのエディターズ・ノートというその人なりの制作の手だて、ガイドのようなものや、或いはベーコンのように只、写真をうつす、をもって描く一応それぞれ行ったのである。ポロックのような事・・・何かしら意味付けしたものとして、出来たビデオとか写真とかをウェブに公開する程の話だったのである。まあそれが、桧の置物へと変わって、まあ安田(かん)さんやイサム・ノグチのような極めてシンプルなフォルムの木の置物をノミや切り出しで日々作って、読売年鑑等を見て著名な人へと送り、活動資金を求めていたり、或いは何かのコンクールへと出したりしていた。その頃に、コトタマの話という本を近所の図書館で見掛け、何が何だかよく解らないまま、自分の木の置物を言霊だといって、当時言霊の会の島田先生は存命中であったので、一方的に送り付けていたのである。電話すると「やめなさい」・・・手紙でも同じような感じで「言霊ではありません」とか、今もそうだが人と普通の会話が出来ないのであった。言霊の会は月に一度開かれていて、一度生前に参加したことがあったが、電話して会いに行く事も出来たのであろうと思う。しかし結局電話口で「天津太祝詞音図」と言われただけで会話にはならなかった。だから、日常生活をただす、というか身近で一番知っていたのは夢窓庵日鍾さん、伊沢鍾太郎様なのである。私としては右翼の大物とうかがっていたから、何か役割でも頂けて仕事なり食っていけるかとも考えていたのであろう。それがない事を知り、疎遠になり何年か前、私がコトタマにとりつかれた様になり、心配して頂いたのか日蓮正宗のお寺へと連れて行ってくれたのである。神代七代・・・老師の提唱の中過去七仏とおっしゃっていた。はじめのものが何なのか、これをかなり悩むというか投げ槍だったのであるが、第一の夢窓庵さん、第二の老師の室号が死活庵である。伊沢様宅で見掛けた文字は築四であるが、夢窓死活となる。全体五部のはじめの一枚は天津菅麻音図で頭とお尻が閉じられていて、ここでアオウとなる。つまり夢窓死活アオウ、むそうしかつあおう。先日大徳寺の塔頭へ自分の住所と名前を書いて、南無妙法蓮華経とやって奉納・・・してしまい葉書の返事には南無釋迦牟尼佛とあった。しかし、音図はイでお尻がIE2015、春日イエとなる事と伊沢さんも古神道を口にしていた為、仏教・釈迦を持ち上げるそのお寺の宗旨なのであろう、と変わった。神の世界、先日おほもとで艮の金神と大本皇大神の関係についておうかがいし、答えて頂く機会があったが開祖の口から出た神の艮の方が時間としては先、しかし後で全ての大本の神である大本皇大神が設定されたと、見た。よく知らないけれど、キリスト教の神も言語によって違うだろうし、この神の世界はすごくはっきりしない。でもそれを言えば「心で感じるもの、体感するのですよ」とでもさとされそうである。その点、日蓮正宗の戒壇の本尊は信仰の対象がはっきりとしていて、多分それが強さだとよく考える。ラテン語の聖書を英語へ訳すというだけで争いが起きるという神の世界らしい、、こういうあいまいさに対しては・・・何の話になったのか・・・。とにかく自分の内においては、はじめに夢窓死活アオウ、むそうしかつあおう。16である。五枚目の暦も今の処最大数は16で何となくそれでよいとは考えているのではある。何だか知ったかぶりの、あがめる神の話が邪魔したが、エホバの証人の人も文語聖書でせめて勉強に誘って欲しいね。それなら参加するかも。合掌

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5 長歌 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1 名前:名無しさん 投稿日: 2013/12/11(水) 02:16:52
くるしみの そのわけしらに
ためいきは いきづまりをり
はくことの ちりぢりでない
おもいをば あらしめおきて
こころすみ あしたをそとへ
まきみつは あしひきこちで
けふをまた またぎてゆかむ
のりごとの おだやかつつみ
こころたださむ

2 名前:スス 投稿日: 2014/08/01(金) 19:13:26
線路内 人が立ち入り ホームには ひしめき合って 列をなし 車内詰め込み 密着す 中に微かな 柔らかい 物の触れるを 一度二度 駅を次いでは 更に満ち 下腰元に 半目の 襟を開いた 薄衣の 顔も近づき 何となく 妙な気分で ぶっつける 体と体 大半は 男だったが 少数の 異性近きが 嬉しきもあり

満員の電車の中で少数の女性近きは嬉しくもある

押し退けてぶつかり合って腰元の位置に近づく薄衣の顔

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6 教育 (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 6
1 名前:井上 投稿日: 2014/07/13(日) 04:59:54
ときじかる おもひにたへね

みこころを たふちしづめる

いめまどかなり


私が教育と云う言葉を共有する前に、願ったのは確かに個人だった。高校を卒業して、成り行きで配ぜんの仕事を転々としていた。学生なら自由で居られただろうが、大学へ進んだクラスメートを横目に見ながら、私は日々派遣先のレストランや宴会場で接客の仕事をしていた。知人らはバンドをやっていて私も音楽が好きだったし、時にもう二十年以上前の事だが、薬物の乱用…各種の薬に手を出していた。音楽はジョプリンやドアーズが特に好きで、ニルバーナや今でもソニックユース、ポーティスヘッドを時々聴く事もある。オルタナティブ、サイケデリック、ノイズ、フリージャズ…そういったジャンルの音楽には、クスリ…は付き物だったのである。私が願ったのは何か?虎ノ門の某有名ホテルにて宴会半年、ラウンジ半年勤めていた時、皿洗いをしていた方で多田さんと云う方が居た。個性的な人で、映画をつくっているとの事で彼も元々ジャンキーだったから、イギーポップの話で分かち合い、今の私が四十位、彼と同じ位の年令になったのだ。紹介してもらった映画の中では、「リキッドスカイ」とても印象に残っている。と童子にまあ現代美術や西洋の…哲学と呼ばれている、思想。それが自分にとっては高位にあるものであり、自分は貪る様に本を買い漁り、通読も叶わず、鼻高々になったのか、ただ自分なりにその中から「こういう人、存在となりたい」そのモデルを得たのであろう。特にデュシャン、マッカーシー、ベーコン。「絵でもかいてみたら」と言われたが右も左もわからない。後一応形や第三者に伝わるようになった、その時もそれをどうすればいいのかも分からない。「学校なんか、美術なんか習う必要なんてない…」と多田さんも、ベーコンも本の中で言っていた。だから、私がクスリから逃げたい一心で…途中SMのショーパブで働いていた時に、それぽっい写真を撮ったり、クレヨンで心から離れないイメージを描いたり、大きなカンバス…を組み立てたはいいものの、「一体何を?」と云う状態だったのである。結局、好きな作家であるポロックやマッカーシーやブランクーシ。こういった方々の作業を手近に真似してみると云う事を始めたのは、兵庫県の季節労働の寮に居た時の事である。出来上がったはいいものの「それをどうする?」「気持ちは晴れた?」だから、今思えば「好きな事をして収入を得たい」特にゴッホの様に?死後評価され、認知されるのではなく、マッカーシーやベーコンの様に生きている間に世間に認められたいと願っていたのだろう。そんな中、職業的な作家をよそにデュシャンの存在は大きかった。想像するに、公の場から退き何かしらの活動や制作・作業はしていたであろうが、それ程目立った動きはなさそうだった。多田さんも「バロウズは偶然世に出た」と言っていた。「デュシャンは語る」の本の中で、「無名の作家の存在がいる…」ということ。百歩譲って名を成したり、生活する事は出来なくとも、それで生きてゆければいいと思った。でも、何をやっても駄目だった。そんな時にニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の上巻と出会い、私はそのどん詰まりから、一旦は逃れる事が出来た。浅田彰さんの対談でニーチェを知り「逃走論」部分の言葉の力も加わったのであろう。私は借金をして外国へと逃げる事になったのである。しかし、人生をリセットして遣り直す積もりが、クスリに手を出し、半分死体の様になって一カ月を過ごし、やがて再び日本へと戻る事を考え、もうクスリとは縁を切りたかったから、最後にと思って生産地であるタイの北部にて三カ月を過ごした。結局、帰りの飛行機には乗れず心神喪失の状態で母に迎えに来て頂いた。だから、私の心の本質は「偶然生き残った」である。今も映画「リアル」…程はっきりしない、のであるが夢・現象と現実との境は曖昧であり、「幽霊が求めるのは肉体…」「時々朝起きて、まだ生きているらしい事にびっくりする…」のではある。今日たまたまバルテュスの自伝の様な本を読んで、この小さな命の記憶、おもいを記してみようとなったのであろうか。

2 名前:名無しさん 投稿日: 2014/07/14(月) 18:59:43

 台所薫る桧の俎は

 包丁握る楽しみとなる

3 名前:井上 投稿日: 2014/07/14(月) 19:13:42
自分が気に食わないのは、先ず自分の名を書けないという事。加え言霊の会へ送らねばならない、全て明らかにという事だった。逆にこの二つをやめる。個人に対して、コピー用紙4枚程の結果を送る事、ただそれだけだ。宣伝に関しても「各自でして下さい」とあった気がするが私の思い込みだったのだろう。つまり怒りの二点は自分の名を記すという事と会へは送る必要もなくなった。問題は…別にいいよそれで。決定。

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