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覚支相応における止住・死没の条件について

1サトミ:2013/10/07(月) 16:51:22 ID:???
和井恵さん、ご無沙汰しています。お体の具合は如何でしょうか。さて、今回は、面白い経典は発見したので、ご報告かたがた、解説をお願いしたくスレッドをおこしました。
かつて、もう20年以上前ですが、某教団の月刊機関誌に、南伝大蔵経の特集があり、毎月楽しみにしていました。中でも、『覚支相応』(ボッジャンガ・サンユッタ)の特集で、各覚支につき、「無量である」と覚知し、「善く正しく勉励された」と覚知し、「止住する」と覚知し、「この縁あることからわたしにとって死滅する」と覚知する 云々というような内容がありました。これについての続き、詳しい解説を念願していましたが、やっと最近それを見つけました。日本でテーラヴァーダ仏教を実践されてらっしゃる「アラナ精舎」というところのHPの現代語訳パーリ経典の中で、小部経典翻訳blogのページから、パティサンビターマッガ(小部経典15.3)の、〔1462〕〜〔1467〕です。止住の条件として、八つの行相、すなわち、①生起なきに〔心を〕傾注したことから、②生起に〔心を〕契沖しなかったことから、③転起されたものではないものに〔心を」傾注したことから、④転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、⑥形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、⑦止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、⑧諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、止住し、①〜⑧の逆条件が縁となって死滅する、と解説されていました。ここ1年半くらい、和井さんのブログを愛読していますが、自分には直感的に役に立つ内容に感じます。まさに、アートとサイエンスの極致のような、正確無比にして、その解説の存在そのものに無量の慈愛を感じるのは私だけでしょうか。見つけて1週間になりますが、まだ内容についての把握に自信がないので、ブログの方でも構いませんから、解説をお願い申し上げます。(サトミ)

2和井 恵:2013/10/09(水) 22:21:16 ID:/qZ2M5.2

この、小部経典の「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」は、取扱い注意が必要な経典だと考えています。

古来より、パーリ正典(経蔵)として扱われていた経典は、長部・中部・相応部・増支部の四部経典でした。
五世紀前半に、さらに五番目の小部経典(15編)を加えたのは、スリランカの上座部大寺派の僧侶ブッダゴーサでした。

 ※現存する上座部仏教は、すべて、この上座部大寺派の流れを汲んでいます。

ブッダゴーサは、「清浄道論」という、上座部仏教の修行体系の基礎となる教典を表わしましたが、
この「清浄道論」を書き上げるうえで、その論拠として採用したものが、
14.ニッデーサ(義釈)と 15.パティサンビダーマッガ(無礙解道)であったと指摘されています。
( 参考文献、「上座仏教の思想形成 ── ブッダからブッダゴーサへ ── 」馬場紀寿・著/春秋社 )

小部経典には、スッタニパータやダンマパダなどの貴重な経典が集められているのですが、それだけではなく、
ブッダゴーサは、自分の著作(「清浄道論」)に都合の良いものも「正典」として組み込ませているのです。


パティサンビダーマッガ(無礙解道)は、尊者サーリプッタが表わしたものであると言われていますが、
私は大分以前に、サトミさんが紹介されている「アラナ精舎」のHPで同じように見つけて、大雑把に目を通しましたが、
「経典」というよりは「解説書」つまり「アビダルマ」に近く、書いた人も、尊者サーリプッタだとは思えませんでした。
ですから私は、この経典は、参考にできる部分もあるでしょうが、書いてあることを、鵜呑みにするのは危険だと判断しています。


── と、前置きを済ませたうえで、
ご質問のあった「七覚支」の各支の止住の条件として挙げられている「八つの行相」についての考えを書かせて頂きます。


> ①生起なきに〔心を〕傾注したことから、
> ②生起に〔心を〕契沖しなかったことから、
> ③転起されたものではないものに〔心を」傾注したことから、
> ④転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、
> ⑥形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、
> ⑦止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、
> ⑧諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、
>
> 止住し、①〜⑧の逆条件が縁となって死滅する、と解説されていました。


私には、これらの条件が、何故「各覚支」の止住(そこに留まって住する)の条件になるのか解りません。
何故ならば、上記の条件は、「明解脱(慧解脱)」でなく、「心解脱」の条件のように見えるからです。

①と②、③と④、⑤と⑥、⑦と⑧は、それぞれ「逆相(対立相)」として語られています。
そして、1.「生起の無い」・2.「転起されたものではないもの」・
3.「形相ならざるもの(無相)」・4.「止滅〔の入定〕(諸々の形成〔作用〕の無い)」というこれらの「相」は、
例えば「小空経」の「無相心三昧」や、三解脱門(三三昧)と呼ばれる「空・無相・無願」と関係があるように見えるのです。

 ※ちなみに、「空三昧・無相三昧・無願三昧」をアビダルマなどでは三解脱門と呼んでいるようですが、
  これらは実は、同じものを便宜的に、三つの側面から表わしただけのもので、個別にあるわけではありません。

上記の1.〜4.の「四つの相」に心を傾注するということは、要するに、

 『 生じたもの 』 でなく 『 成ったもの 』 でなく
 『 作り為されたもの 』 でなく『 形成されたもの ( 有為 ) 』 でない もの

に心を向けて、それに集中するということです。
そしてこれは、「小空経」の「非想非非想処」から離脱して「無相心三昧」に入定するときの手法と、同じなのですが、
中途半端なのですね、この説明だけでは。

── つまり、次の説明が抜けているのです。

  かれは このように 知る。
  ( すなわち ) この 無相心三昧 は 作られたもの であり 思念 されたもの である。
  何であれ 作られたもの であり 思念されたもの は、無常 であり 滅する性質 の もの である と 知る。
  かれは、このように 知って、このように 見て、
  欲の煩悩 から 心が 解脱し、生存の煩悩 から 心が 解脱し、無明の煩悩 から 心が 解脱する。

〈 つづく 〉

3和井 恵:2013/10/09(水) 22:22:49 ID:/qZ2M5.2

〈 つづき 〉

要するに、

『 生じたもの 』 でなく 『 成ったもの 』 でなく『 作り為されたもの 』 でなく『 形成されたもの ( 有為 ) 』 でない もの

というこれは、「否定」と「肯定」が、それぞれ互いに「対立する相手(対立概念)」に依存して成立しているもので、

「『 生じたもの 』 でない」と言いながらも、それは依然として、「生じたもの」の範疇のままなのです。

  ※これは、比丘たちよ、( もし、誰かが )  
   「 私は、色 を 離れ 受 を 離れ、想 を 離れ、行 を 離れて、それらとは まったく別 ( 無関係 ) な、
    更なる、識 ( 識別・六識 ) の 来往 ( 行き来 ) ・ 死生 ( 生滅 や 再生 ) ・ 長益 ( 生育 ) ・ 広大 ( 増大 ) を 説明してみせよう 」
   と 言ったとしても、そのような 言説 は、此処 ( 根拠となる 道理 や 依処となる 足場 ) が、 何処 にも 存在していない のである。
   という経典での説明する「意図」なのです。

ですから、

  かれは このように 知る。
  ( すなわち ) この 無相心三昧 は 作られたもの であり 思念 されたもの である。
  何であれ 作られたもの であり 思念されたもの は、無常 であり 滅する性質 の もの である と 知る。

というプロセスを経ないと、
本当の「無相」「無願」「空」(という表現をあえてしますが、これは言葉だけのものにしか過ぎません)には至れません。

ですから、この「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」の説明は、参考にはならないと私は判断しています。



参考になりそうな経典を挙げるとすれば、次の経典など…

  比丘たちよ、また私は、明解脱に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。
  何を明解脱の食とするのか?
 (それは)七覚支であると説く。

  比丘たちよ、また私は、七覚支に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を七覚支の食とするのか?
  四念処であると説く。

  比丘たちよ、また私は、四念処に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を四念処の食とするのか?
  三(身口意)善行(妙行)であると説く。

  比丘たちよ、また私は、三善行に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を三善行の食とするのか?
  六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の防護であると説く。

  比丘たちよ、また私は、六根の防護に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を六根の防護の食とするのか?
  正念正知であると説く。

  比丘たちよ、また私は、正念正知に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を正念正知の食とするのか?
  如理作意であると説く。

  比丘たちよ、また私は、如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。
  何を如理作意の食とするのか?
  信あることと説く。

  比丘たちよ、また私は、信あることに食があり、食あらずということはないと説く。
  何を信の食とするのか?
  正法を聞くことであると説く。

  比丘たちよ、また私は、正法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。
  何を正法を聞くことの食とするのか?
  善人(正しい指導者)に親しむことであると説く。

  比丘たちよ、このように
  善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、
  正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、
  信あることを成就するなら如理作意を成就し、
  如理作意を成就するなら正念正知を成就し、
  正念正知を成就するなら六根の防護を具し、
  六根の防護を成就するなら三善行を成就し、
  三善行を成就するなら四念処を成就し、
  四念処を成就するなら七覚支を成就し、
  七覚支を成就するなら明解脱を成就する。

  このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。

これが、七覚支を成就するプロセスを示しているのです。
いずれ詳しい説明は、gooブログの中でする予定です。

4和井 恵:2013/10/10(木) 14:16:36 ID:/qZ2M5.2


「ニッデーサ(義釈)」と「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」については、
以下の過去記事の中ほどで、ある程度説明していますので、参考にしてみてください。


http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0937569e33b9c86986cc943709dec32e

5サトミ:2013/10/10(木) 16:57:43 ID:???
引用のブログは、頻繁に目を通していたつもりだったのですが、テーラヴァーダの方はあまり参考にならないと思い、読み飛ばしていて無礙解道の引用を見ていませんでした。
参考にならない理由もよくわかりました。やはり、和井さんにおききしてよかったです。
せっかく七覚支の話題だったので、もう一つ。昨年、たまたまネットでヒットした論文です。『ニカーヤにおける修行道の相互関係 ―四念処と七覚支および八聖道との比較研究』(インド哲学仏教学研究 5、1988.3)ターナヴット― ビック (東大大学院博士課程)という論文の中で、以下の引用がありました。
 ・・・七覚支が螺旋的に修習されるものであることを次の経典は示している。『相応部経典』「大篇」第二「覚支相応」、第六「覚支総摂品」、第五二「理趣」において、釈尊は次のように説いている。
    比丘たちよ、如何なる方法があってその方法によって七覚支が十四となるのか。
    比丘たちよ、内法の念も念覚支であり、外法の念も念覚支である。念覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、内法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支であり、外法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支である。択法覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、身の精進も精進覚支であり、心の精進も精進覚支である。精進覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、有尋有伺の喜も喜覚支であり、無尋無伺の喜も喜覚支である。喜覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、身の軽安も軽安覚支であり、心の軽安も軽安覚支である。軽安覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、有尋有伺の定も定覚支であり、無尋無伺の定も定覚支である。定覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、内法の捨も捨覚支であり、外法に捨も捨覚支である。捨覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、このような方法があり、この方法によって七覚支は十四となる。(SN5、p.110,l.29-p.111,l.33)
この経典では、七覚支の各支が二種に分けられている。これは、七覚支と四禅との関係及び七覚支の修習の在り方を知るために役に立つ。(中略)軽安は禅支の中に含まれないが、『相応部経典』「六処篇」第二 受相応、第二 独坐品、第十一 独坐 に次のような文が見られる。
    比丘よ、これらの六つの軽安である。
    初禅に入定する者には言葉が軽安となり、
    第二禅に入定する者には尋伺が軽安となり、
    第三禅に入定する者には喜が軽安となり、
    第四禅に入定する者には入出息が軽安となり、
    滅尽定に入定する者には想と受が軽安となり、
    漏尽の比丘には貪が軽安となり、瞋が軽安となり、癡が軽安となる。(SN 4、p.217、l.26−p.218、l.5)
これは軽安覚支の場合にも適用できるのではないだろうか。・・・・・・

 引用長くなりました。原典にあたってないので、よくわかりませんが、このあたりは大丈夫でしょうか。11ページにわたるかなり長い論文からの抜粋ですので、機会があればブログの方で構いませんから解説いただければ幸いです、(サトミ)

6サトミ:2013/10/10(木) 17:16:50 ID:???
引用論文は、1988.3ではなく、1998.3のようでした。申し訳ありません。(サトミ)

7サトミ:2013/10/11(金) 17:01:39 ID:???
ついでに、もう一つだけコメント下さい。和井さんの影響で、原始仏典を読む重要性をあらためて認識し、今年になってから、仏典(哲学之道)の無料サイトから、長部33経(34?)、中部152経のうち131経、相応部40経をざっと目を通してみました。「空」と訳されている箇所だけは、少ししっくりこないところが多かったのですが、それ以外は、おおむね読みやすくわかりやすかったです。特に、相応部は、蘊相応80章、因縁相応50章など充実している印象でした。増支部に相当するのがないのが残念ですが。訳文は、和井さんが引用されているものの方がよいと個人的には思うので、参考程度にしています。そこで、質問ですが、最近の『時』さんのやりとりでも「帝釈所問経」(サッカパンハ・スッタンタ)の話題がでてきましたが、こういうサイトで気軽に読んでも大丈夫でしょうか。何か特に注意すべき点は、ないでしょうか。四念処・七覚支・四禅を修習するのに、本当に役立つのか、否か、という点についてお聞きしたいです。なにしろこのサイト、200経以上の仏典がありますので、個別にコメントはかなり困難かと思いますが、ブログの方で、何かの機会があればおいおいコメントしていただければ幸いです。(サトミ)


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