私はチャロを視ていないので文脈はわかりませんが、
この now の位置は「倒置」と呼ぶほどでもない、よくあるケースだと思います。
COBUILD にも Beef now costs well over 30 roubles a pound. という例があります。
私には、now know の now も now costs の now も「まえは限定」のように思えます。
どちらも「(過去はそうでなかったが)今は[…]」という感じです。
もし I know now that she loves me just the way I am. という位置なら、
「うしろは説明」の文末から that の前への「倒置」とも取れるでしょう;
that 以下が長いため文末に置くと何を説明しているかわからなくなることを避け、
同時に文の調子を整えるために「挿入」したように感じられます。
soonなんかでも
He will be here soon.叙述的な意味で「すぐに」、述部を装飾
He will soon be here.「ここにいる」という事柄に対して「まもなくだ」という心理的評価
あと、文頭につく副詞用法もあります。
Now I know that she loves me just the way I am.
ジェンヌさんはこっちの形の方に馴染みがあるのではないでしょうか。
これはnowが文全体を前から限定してます。
「私が〜と知る」のは「今だよ」ということで
よく、「さあ/さて、〜だ」とかの訳がつきます。
きわむさんのこだわり>>14>>15はよくわかりました。 >>13で「[2]より[3]の方が感情の動きが大きい/強い対比である」というのは、
限定の一般論からながめれば、そう言えそうにも思えます。
限定の入れ子構造を機械的に大げさに例えると、例えば、
[0] I know that ... now. は I 県 know... 市 now 区
[1] Now I know that .... は now 県 I 市 know... 区
[2] I know now that .... は I 県 know... 市 now 特別区
[3] I now know that .... は I 県 now 市 know... 特別区
のようになるでしょうから。
でも私は、常にそうとも言えず、文脈によると思うのです。
私には、
[2] も [3] も now と know との結び付きが強く対比の強さは同じくらい、
[3] は now が know と冷静にしっかりタグを組む感じが強い、
[2] はそのタグがわずかにゆるいぶん語調を整える感じが強い、
([3] が the yellow tie なら [2] は that tie, the yellow one のような感じ)
([1] は now だけが単独で飛び出している感じだから対比も強い)
そのように思われるのです。
[3] の「冷静さ」は私の読み書き経験(数学の論文や本が中心)から来るものですが、
[3] に「冷静さ」のようなものを感じるからこそ、
常に「[2]より[3]の方が感情の動きが大きい/強い対比である」というご意見には、
そうとまでは言えず文脈によるのでは、と留保を付けたくなるわけです。
(実は今日、帰宅途中、テキストを立ち読みしてきたのですが、この台詞、
分析が冷静で客観的な元警察犬のもののようですね。物語は知らないのですが。)
> I went to the park yesterday. の方が少しだけ標準的で,
> Yesterday, I went to the park. を通常の前から限定より逸脱の前置ととらえる感覚の方が
>ネイティブにとっては若干強いのだろうと想像もしています。
以前にお答えいただいたものですが
Yesterday, I went to the park.は 自分が公園に行ったこと を昨日の出来事だという括りを付けて伝えています。
逆からみれば、Yesterdayに対して文をつなげて、昨日の事柄を後ろから説明しているとも捉えられるわけです。
つまり、昨日の出来事だということに中心があり、話は昨日起こったことという括りで展開していくでしょう。
対してI went to the park yesterday.は一番伝えたい「公園に行ったよ」という話題に
時の情報を付け加えているに過ぎません。
I went to the park yesterday.の方が標準的に捉えられるのは
時の情報が文の意図の根幹ファクターではなく
単に時の情報を示したい場合がほとんどだからだと思います。
やはり、>>23のまとめ (1) (2) 通りのお考えのようですね。
確かに、(1) だけでどこまでも行けるなら「理論としてはスッキリする」でしょう。
でも、(2) がなければ修辞による名文がなぜ名文なのか説明できないのではないか、
理論としてスッキリしていても射程が短くなってしまうのではないか、と考えます。
なぜなら修辞技法の多くは通常の配置を転換することにより効果を生むものだからです。
例えば、anastrophe(倒置法)の例ですが、
She looked at the dark and menacing sky. という通常の語順を
She looked at the sky dark and menacing. と倒置させることにより強調効果を得る、
と修辞技法的には説明されます。(参照:http://rhetoric.byu.edu/)
このことを「前=限定位置から後=説明位置に動かしたから強調される」(?)と
(1) だけで説明できるようには思えません。(2) かそれに相当するものが必要でしょう。
このように、通常の配置というものがなければあり得ないような修辞技法も多いのです。
パーヤンさんの懸念に対しては、>>23を補足して以下のように答えたいと思います。
Q: 通常の位置があるのか…A: ある、配置の言葉だから、副詞などは複数あるとしても;
Q: その位置は認識すべきか…A: すべき、表現を豊かにする修辞の技巧などもあるから;
Q: その認識は可能なのか…A: 可能、慣れが必要だが、表情の認識のようなものだから。
(1) だけで行けるという可能性まで否定するつもりはありません
(それで、以前「どう発展させられるか期待しています」と書きました)が、
いかがでしょうか?