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哲学的・雑談的 3

1千手★:2007/07/16(月) 22:27:25
急遽新しいスレッドを作り、「2」を過去ログ倉庫に入れます。
よほど慌てていたのでしょう「雑談的」と記すべきところを何と「雑学的」と
してしまっていたのです。「雑学的」これはわたしの最も嫌悪するものです。

このスレッドは、他のスレッド同様、「非雑学的に」お願いします。
いまだ未知のいまだ脆弱であやうい観念に言葉をあたえ、姿をもたせてやりたいという希いです。
そしてそれをできれば世に通用する概念に育ててゆきたいのです。
参加をお願いします。

183毛蟹:2008/10/28(火) 09:23:17
>181

「瞬息」において贈与されるのは「神性」のみならず贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与されるのではないでしょうか。
つまり「わたしの中にある主観的な時間(わたしの歴史)」が「瞬息」に連結される、それも「贈与」ではないかなと考えてみました。

184千手:2008/10/28(火) 13:34:32
「この最終的な永遠の確認と封印以外の何ものをももはや望まないためにはお前はおまえ自身と生をどれほどいとおしまなければならないことだろう」
というニーチェの(『悦ばしい知識』341晩)と関連させると、
>贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与される<
というこの贈与の対象は、「この永遠の確認」だということになるのでしょう。
 直観音楽を「何のために演奏するのか」の答えもまた、「この永遠の確認のため」となるのでしょう。

>>182,>>183の評、ありがとうございました。

185千手:2008/12/02(火) 21:16:13
Youtubeでみつけた田中角栄さんのスピーチ。
聞いてると並の漫才師ではとうていかなわないほどおもしろい。
感心した。
http://jp.youtube.com/watch?v=3IICS3Hsyy8

186千手:2008/12/04(木) 22:20:36
『正法眼蔵』四十六「無情説法」の中、
「いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに所生長の百草万樹、おほよそ有情と学しつべきあり、無情と認ぜられざるあり、草木の人畜のごとくなるあり、有情無情いまだあきらめざるなり」
有情と無情の境を引くのはとても難しいからよく考えろ、と言っているのだが、なるほどと感心する。
だがこれは有情論、仏性論にとっては、きわめて本質的で斬新な提案ではなかろうか。

187千手:2008/12/09(火) 03:20:26
「無情説法の会下には、諸聖立地聴するなり。諸聖と無情と、聞を現成し、説を現成せしむ」
無情がする説法は諸聖が聴くというのだ。「無情説法諸聖聞得」とも言われる。

「無情すでに諸聖のために説法す、聖なりや、凡なりや」
無情がする説法は当然ありがたいものなのだ。

さらに
「無情説法、無情聞得」
これもおもしろい。無情のする説法は無情こそが聞きとり得る、ということか。人間も無情にならなければ無情のする説法を聞取り得ないのだ。
「無情説法什麼人得聞」とはそういうことだろう。

188千手:2008/12/09(火) 03:31:11
私がここで言っていることは、『法華経』如来寿量品14に
「是(これ)より來(このかた)、我常に此の娑婆世界に在りて、説法教化す」
と説かれていることに含まれている問題、つまりその場合常住の如来は一体どういう形で説法をしているのか、という問題に対する道元の、あるいは禅門の、答えをここに見出せるのではないかということなのだが、お分かりいただけただろうか?
これはこの前の「風日」の研究会で、堀田さんの発表を註釈して付け足して言ったことなのだが。

189千手:2008/12/09(火) 03:40:22
『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。
或いは当り前のことかもしれず、また道元の専門学者からは問題にもされないことかもしれない。
誰か問うた事のある問題提起であり、解釈なのだろうか?
『正法眼蔵』を『法華経』から解釈するということは、あるいは『法華経』が残している問題に道元がどう取組んでいるかを考えるということは、日本仏教史の研究が当然しなければならない研究のはずなのだが。
 まあ、私も辻さんの本を読んでから言うべきなのだが、まずは最近発見したことを書きとどめておくことにしよう。

190千手:2008/12/09(火) 18:15:57
>>189
>>『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。

webで調べたところ、『法華経』→『禅』という研究はなく、むしろ浄・禅関係で研究がされているようです。
「無情説法」の話です。

191千手:2008/12/31(水) 14:48:10
床田和隆さんのビデオ作品『ワイア(WAIA)』を観た感想。
http://25237720.at.webry.info/200812/article_3.html

192千手:2009/02/11(水) 22:49:45
ドゥルーズのこういう理論はどうでしょう?

コリントの例において、金属貨幣はまず(生産者)としての「貧しい者」に配布され、
彼らは土地に対する権利を買い取るためにこれを使用した。このとき貨幣は、停滞しないという条件、
つまり、貨幣と財および役務とのあいだのに等価交換が成立し、貧者は財または役務の形で、
富者は金銭の形で、富める者も貧しい者も全員が税を収めるという条件のもとで、富んだ者の手に渡るのである。
(『ミル・プラトー』13)

193千手:2009/02/11(水) 22:53:19
[承前]
貨幣はいつも権力装置によって配布されるのであり、財−役務−金銭のあいだの等価関係が成立するように、
保存、流通、循環という条件をともなって出現するのである。
(同前)

194千手:2009/02/12(木) 20:11:14
原国家(Urstaat)の仮説:
「国家というものは人類の最も遠い時代にまで遡るものである」
ドゥルーズはピエール・クラストルを、「未開社会を基体、すなわち自足した実体にした」として批判する。
MPp.444、訳本415頁

195千手:2009/02/26(木) 21:39:24
芸術大学の使命

芸術大学は
cultivating art (耕作芸術あるいは開墾芸術)
さらには
vegetating art (植物栽培芸術)
の学科を作るべきだ。
農学部とどこが違うって?
きっと大して違わない。
より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

たとえば、
ケシ栽培にたよらなければ生活を維持できないところに、
他の植物を栽培することによって生活できる途を作ってゆくこと。
イサム・ノグチが言ったアースのカーヴィング(彫刻)を、ほんの少し変えただけのことだ。
この芸術によって
きっと、ノグチが生みだした以上の喜びを生みだすことが出来るだろう。

196毛蟹:2009/02/27(金) 10:03:45
>195
僕の感じたことをお伝えします。

>農学部とどこが違うって?
>きっと大して違わない。
>より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

この文章は提案者のものとしてはおかしくないですか?
現在の大学農学部の教育、研究、活動の中身についてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?
そしてご自身は土、植物、動物、気象、マーケットについてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?

100人の専業農家の一人にでも勝る理解をお持ちですか?

おそらく答えは「NO」でしょう?
「耕作芸術、開墾芸術、植物栽培芸術」これらの概念に含まれる「芸術」は銀蝿とどこが違うのでしょう?

197千手:2009/02/27(金) 21:12:19
知識、技術の内容は農学部、専業農家のもつもを学ぶ。(他にあるとは思わない)
それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。
それは「銀蝿」でしょうか?

198毛蟹:2009/02/27(金) 23:02:19
>195
>この芸術によって

それは「農業」でしょ?「農業」と呼ばれてきた営みに「芸術」という名称を付けてパクる(失礼)のは如何なものでしょうか?
銀蝿は匂いを辿って飛来し、そこに止まって卵を産み付けます。

>197
まずはご自身で学び、実践した上で口を開かないと「ドラエモンのポケット」になってしまいませんか?

199毛蟹:2009/02/28(土) 00:04:48
>197
>それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。

「美しい姿」・・・それって見学者の、お客様のヴィジョンでしょ?
「実践的に探求する」ってことは農業で飯を食うということですよね?でなければ探求を続けられませんからね。
ということは、「お客様のヴィジョンを持ち、かつ農業やって飯の食える人間を育てる」ということになりますね。

農業の世界にも名人はいるでしょう。でもその名人の名人たる根拠は口で説明してもらわない限りわれわれには分からないはずです。名人とは事物の根っこを問い続けてきた人です。「なぜ名人はそうするのか?」その理由は同じところまで達した人間以外には分かりっこありません。
その程度の耕作芸術家が「食える芸術家」を育てられるとお思いですか?

200千手:2009/02/28(土) 00:49:14
ケシを栽培せずに、芋を栽培して食べれるようになれば、それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

201千手:2009/02/28(土) 00:54:49
誤解してほしくないのですが、わたしは「art」をラテン語の「ars」に近い意味で捉えているのです。
これが「art」の由緒正しい使い方だと考えています。
また「六藝」の「藝」にしても相当に生活密着的な技のことです。
近代日本の「芸術」の観念が異常だとわたしは考えています。

202毛蟹:2009/02/28(土) 09:17:58
>200
>それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

観光や視察でそこを訪れた人間、メディアの流す映像を見た人間なら皆心を痛めてそう言うでしょうね。

ところで、彼らは芋が好きなのですか?

>201
なぜ「技」と言わないのですか?農家の人びとにとって「芸術」という言葉は、正に千手さんが異常だとする観念を喚起するのではありませんか?

「異常な観念を纏わされている(とする)」芸術という言葉を使うのであれば再定義したうえで(フェノロサ批判とか・・・よう知らんけど)用いる慎重さが必要ではないでしょうか?
僕なら使いませんね。

203毛蟹:2009/02/28(土) 09:40:53
>202
ケシ畑は視察も観光もできるところではありませんね(笑)。ま、その程度のお気楽人間なんですよ僕は。

メディアの伝える情報を美味いコーヒーを飲みながら(そのコーヒー豆はフェアトレードしたものか・・てなことは考えない)心を痛める人間はゴマンといるでしょう。
その中で『ケシ畑を芋畑に・・・』と考える人間もニマンはいるでしょう。
千手さんもその中の一人で、他と違っているのはそれに「芸術」という名前をつけるところです。

204毛蟹:2009/02/28(土) 10:51:47
思いついたのですが、

「掠め取る芸術学部」というのを設けて「技」を仕込んでやれば、その学部の卒業生は案外すいすい飯を食って行けるかもしれません。
実際そのような芸術のジャンルもありそうです。

205千手:2009/03/02(月) 01:26:35
>>204
>「掠め取る芸術学部」
 何を掠め取る? どうやって?
 香具師の術?
 オレオレ詐欺の術?

206千手:2009/03/02(月) 01:32:37
>>203
>ケシ 
ミャンマーのシャン州の話。地元住民なら殺されないということ。ごく親しく一緒に行動していれば大丈夫だそうだ。
見学に行ってみたいですか?
 アフガニスタンでも事情は同様でしょう。

207千手:2009/03/02(月) 01:34:49
>>202
芸術の新しい定義を提案すること、これは常に大事なことだ。

208毛蟹:2009/03/02(月) 11:26:31
もう止めます。

209千手:2009/03/04(水) 10:03:54
>>205
香具師の術(口上)は、「限界芸術」のカテゴリーに入るでしょう。

210千手:2009/03/07(土) 10:35:10
>>203
ニマンといるならしめたものです。受け入れられるかもしれない。
「芸術」の歪曲、「芸術」=高尚なものという「芸術」理解は誰が広めたか、というと
それは「芸術」を「上部構造」として位置づけたマルクスの影響が非常に強いのではないかと最近思うようになった。
 彼は労働者から芸術を取り上げてしまったことになる。もともと取り上げられていたから、だが、
労働者の内に「芸術の種」を認めてもよいはずだった。

211千手:2009/06/02(火) 01:12:44
鎮魂という思想(追出しの思想)という短いものを纏めたい。
人を追いだすなら賠償金を払ってあっさり追出せばいい、鎮魂のまねごとなどするな。
鎮魂をするなら、風土記の谷刀の神を追出した、マタチ(だったか)のように、永代にわたって鎮魂を続けよ。
せめて一身だけでも死ぬまで鎮魂に従事せよ、というような思想。
いつからこんなにまがいものの鎮魂がはびこってしまったのか?

212千手:2009/06/09(火) 01:21:23
>>211
今日『歴史懇談』25周年記念号にむけて纏め、送った。寄稿を求められていたので。

213千手:2009/07/23(木) 22:15:42
ニーチェの問題は、おおよそこの三つだろう。
1.神が死んだ
2.無意味なものの永続としての世界
3.肯定の発見
ヘッセの詩"Im Leide"(苦しみの中で)を読むと、この問題が縮約された形で読み取れる。ドイツ人がニーチェをどう理解したか、ということはヘッセを読むとよくわかる。非常にストレートに受け止めているのだ。哲学者が読むとどうも素直じゃない。

214千手:2009/07/23(木) 22:17:26
こんな詩だ。

Im Leide (Hermann Hesse)

Daß bei jedem Föhn
Vom Berg die Lawine rollt
Mit Saufen und Todesgetön ---
Hat das Gott gewollt?

Daß ich ohne Gruß
Durch der Menschen Land
Fremd wandern muß,
Kommt das von Gottes Hand?

Sieht Er in Herzensnot
Und Qual mich schweben?
--- Ach, Gott ist tot!
Und ich soll leben?

215千手:2009/07/23(木) 22:25:02
>>213
うまくない。
1.神が死んだ
2.永遠回帰---無意味なものが永遠に
3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する
 この方がいい。

216毛蟹:2009/08/10(月) 16:57:32
「コブクロ」という若者に人気のJポップのユニットがいる。
しょうもない歌詞を必死の形相で歌い合う二人の姿はさながらサルのせんずり合戦のようでキモイことこの上ない。
しかし、これがどうも彼らの商売上の戦略のようなのだ。
つまり彼らは彼らの曲に感情移入しているのではない。
彼らにとってのお客様は、「はい、ココで感動しろよ。次、ココ泣くところだからね」と教えてやらなきゃならないほどのバカになってしまった若者達である。
若者のバカ度が進むほど金が儲かるシステムを構築してバカをせっせと養殖しているである。

217毛蟹:2009/08/10(月) 18:00:00
>216
バカ度=情報化社会への適合度であるから彼らは情報化社会のビジネスモデルの最先端を実践していることになる。
バカは2つの種に分類される。一つは顧客になるバカ。もう一つはこのビジネスモデルを知らないバカである。

218毛蟹:2009/08/13(木) 11:03:25
>>215
>1.神が死んだ

神が死んだら神学者、宗教学者は何をなすのですか。

>3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する

ある事件がある者にとって歓びであると同時に別のものにとって苦痛であるような場合(たとえば戦勝国の国民と敗戦国の国民)、この事件は回帰するのでしょうか。

219千手:2009/08/17(月) 09:20:21
>>218
1.神の墓守
2.本人の問題なので他の者からはわからない

日本の戦没者慰霊の儀式がひどく自分勝手に見えるのは、バカな作戦行動によって殺された他国の人たちへの慰霊という問題意識が微塵も感じられないところです。

220毛蟹:2009/08/18(火) 00:10:02
>>219
1.神の墓守

なるほど。

2.本人の問題なので他の者からはわからない

例えば「快楽殺人」は回帰するのか?という問いです。
殺す側の人間だけに「快楽殺人」という出来事が回帰する、などということは・・不可能ですよね?

221千手:2009/08/18(火) 10:03:06
--- Ach, Gott ist tot!
Und ich soll leben?
ああ、神は死んだ!
わたしはなおも生きねばならないのか?

これがヘッセの詩の結びですが、彼にはまだ「3」への見通しはなかったでしょう。

222千手:2009/08/18(火) 10:09:43
>>220
>例えば「快楽殺人」は回帰するのか?という問いです。
>殺す側の人間だけに「快楽殺人」という出来事が回帰する、などということは・・不可能ですよね?

この問いへの答えをわたしは知りません。
ただ柳田国男が「殺生の快楽」という時(『後狩詞記』)、彼は何かを誤解しています。

223毛蟹:2009/08/18(火) 22:51:42
>>222
>この問いへの答えをわたしは知りません。

僕の問いは「永遠回帰・・・歓び(だけ)が回帰する」に対するきわめてストレートな問いです。そしてこの問いに対する答えは、千手さんの解釈する「永遠回帰」の基本構造(性質?)を明らかにしてくれると期待していました。まったく残念です。

224千手:2009/08/19(水) 09:35:09
>>223
要は「快楽殺人」を理解できないということです。

225毛蟹:2009/08/19(水) 11:41:27
>>224
強姦殺人ならどうですか?

226千手:2009/08/20(木) 00:19:31
>>225
要は、「快楽殺人」にせよ「強姦殺人」にせよ、その快がどのように構成されるかがわたしにはわからないということです。

バタイユの「眼球譚」なら少し考えようがあるかもしれません。

227毛蟹:2009/08/20(木) 09:31:54
>>219,222,224,226

どうもありがとうございました。
ニーチェについて千手さんにお尋ねしたいことはもうありません。

228千手:2009/08/20(木) 13:39:22
>>227
それならお尋きしましょう。
いわゆる「快楽殺人」者は、正確に言って、どこに快楽を感じているのでしょう?

229毛蟹:2009/08/21(金) 00:31:18
>>228
>いわゆる「快楽殺人」者は、正確に言って、どこに快楽を感じているのでしょう?

それは「他の者からはわからない」。そして殺れた者も快楽を感じていたかもしれない。それも「本人の問題なので他の者からはわからない」。すべてそう言って済ませることができる。一方にとって快であると同時に他方にとって不快であるような2者間の出来事は「ある」ということが認められない人のニーチェ論に興味を失ったということです。

230千手:2009/08/23(日) 01:24:21
>嘆きの声は言う、「終わってくれ!」と。
>しかしすべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ---。
>深い、深い永遠を欲してやまぬ!
『ツァラトゥストラ』III-15「第二の舞踏の歌」氷上英廣訳

この「よろこび」と関係のない快楽は、ニーチェの永遠回帰の思想と関係しません。

231毛蟹:2009/08/23(日) 13:26:55
>>230
>しかしすべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ---。

この「よろこび」が個人の生涯に訪れるものに限定されず、生命が経験した「輝かしい」歓び、一切を回帰させる者ということであれば、
「歓びが回帰する」という認識を僕も共有できます。

232千手:2009/08/24(月) 22:40:25
>>231
その通りです。

233毛蟹:2009/08/25(火) 14:23:29
>>232
ご教示ありがとうございました。

234千手:2009/08/28(金) 17:47:32
>>233
いいえ、「教示」というほどのことではございません。

235毛蟹:2009/09/28(月) 22:17:53
オーディオ屋としての目下の課題は、「短波」に登場する全ての音に死に場所を与えることです。呵責の無い力とスピードで音が到達する高さはやはり比類がありません。かれこれ2週間ほどシジフォス的作業に没頭しています。10月5日までに何とかしたい。面屋庄甫氏のモノに対する姿勢が励みになります。

236千手:2009/10/03(土) 12:42:24
>>235
10月5日?

237毛蟹:2009/10/06(火) 10:04:43
法然院でのスクーリング(10月6日〜7日)に間に合わせたいということです。
成果の程は・・・う〜ん、微妙。

238千手:2009/10/26(月) 23:09:28
昨日小泉義之さんに「哲学」の特別講義をしてもらった。
ううーん、おもしろい。何が?
彼だけしかもたないような発想がある。
たとえば、
「ぼくは癌が病気だとは思ってないんです…」
そうか、それは自然な過程と思ってもいいことなのか……。

まあ、僕とは意見も発言のスタイルもあまり合わないのだが、それでも面白い。
鶴見和子の件の絡みでそう思った。

また関心も方法も違う。僕の関心は「神の死の体験」とその先、だが、彼にはそこへの関心はなさそうだ。
方法は、愚にして鈍が僕の流儀だが、彼は明晰な頭脳で次々何でもこなしてゆく。

ともあれ面白かった。いずれ僕の頭の中が整理されて、何がほんとの問題だったかわかってくるだろう。

239毛蟹:2009/10/30(金) 11:59:06
一昨日okamotoさんの絶賛するクリント・イーストウッド監督・主演「グラン・トリノ」を観に祇園会館に行きました。上映は今月末まで。滑り込みです。祇園会館はいい感じのヘタレ具合になっていました。
いい映画でした。戦争という極限状態に於いても敵国人を殺害するのは「自分の意志」であるということ。贖罪は自分の手で行わなければならないということ。この厳しさ。そして主人公は友人と彼の家族を守るため自ら命を捨てるのですが、それが友人にとって返済不能な贈与とならないために返済の方法(愛車「グラン・トリノ」の相続)を用意して死にに行きます。この優しさ。
グラン・トリノが走り去るエンドロールも秀逸でした。画質とイーストウッドの歌声のハーモニーが喩えようもないくらい肌理の細かい時間を作り出していました。このエンドロールによってこの映画は最良のアメリカ映画に成り得たといっても過言ではないと思います(この部分は映画館で観ないと十分には伝わらないかも)。

240千手:2009/11/21(土) 01:24:57
『病いの哲学』と今回の講義に関連して、わたしが質問したのは次のこと、
「死に淫するとはどういうことなのか?」

彼がソクラテス、ハイデガー、レヴィナスを死に淫する哲学者として批判しているのだから、「死に淫する」とはどういうことなのかを明瞭に説明してほしかった。
それほど明瞭な答えをいただけなかったので、後がもつれてしまった。

その連関で、シュテファン・ゲオルゲのある詩について、批判をまとめたい気になっている。
「命を賭けた求愛」というようなことについてだ。
ゲオルゲはそれに成功してしまった。
それは喜びなのか、後悔なのか?
命にまさる価値を、ともかく彼は殺してしまったのだ。

241千手:2009/11/21(土) 01:30:30
ソクラテスは病気であった。だからこそ死に淫した。
---わたしは、ニーチェに倣って、およそこのように思っている。

「病気」とは、肯定できないこと。ルサンチマン。

242千手:2009/11/21(土) 01:39:48
ゲオルゲは、まともな人間なら、非常に苦いものを体験したはずだ。
「神は死んでいた」と言いうるようなものを。

243<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

244中路正恒:2009/12/23(水) 09:08:33
「中路正恒公式ブログ」というものが誰ともわからぬ人物によって立てられていて、
http://plz.rakuten.co.jp/tad77/diary/?act=list
それについて楽天の方に対処をお願いしたら、何もできないという匿名の返事が来ました。
そのやりとりを公開してゆこうと思います。

個人の持つ信用を利用した詐欺行為が、そのブログからはじめられるかもしれない、のに、です。

245毛蟹:2009/12/24(木) 12:10:47
教えて頂きたいのですが、かつて白人には食人習慣というものがあったのでしょうか?
イエスが「このパンはわたしの肉である。この葡萄酒はわたしの血である。」と弟子に言ったと言われています。食人習慣のない種族が思いつくものではないだろうし、同種族の間で広く記憶されていないような比喩をわざわざ用いることはないように思えます。

246毛蟹:2009/12/24(木) 12:28:50
>>244
これは酷い。「個人の持つ信用を利用した詐欺行為」というよりも、個人の信用を貶めることを目途とした行為のようです。
楽天のいう「何もできない」は、現行の法規制では「何もできない」のか、「何もする義務がない」のかどちらでしょうか。後者なら有効な対抗策はなさそうです。黙殺することくらいでしょうか。そのブログを作った人間はこの掲示板も見ている可能性があります。ここで楽天とのやり取りを公開するのは、そいつに餌をやることになってしまうかもしれません。やめたほうが賢明ではないでしょうか。

247毛蟹:2009/12/24(木) 12:31:54
>>246 訂正
誤:後者   正:前者

248毛蟹:2009/12/24(木) 12:45:26
>>245
京都府警のHPです。
http://www.pref.kyoto.jp/fukei/anzen/seiki_h/cyber/sodan/hibou.htm

249毛蟹:2009/12/24(木) 13:00:38
警察への「被害届け」は少なくとも楽天に対するプレッシャーになるはずです。

250千手:2009/12/24(木) 19:19:50
>>249
有り難う。近々警察に相談に行くつもりです。年末で時期が悪いかな。また、まだ仕事が終わらず、毎日追い回されています。
年明け早々もまずいし。ともあれ、行きます。

251千手:2009/12/31(木) 02:30:25
書評:菅野覚明の『神道の逆襲』
http://25237720.at.webry.info/200912/article_5.html

252千手:2009/12/31(木) 02:31:54
書評: 吉田松陰の『留魂録』
http://25237720.at.webry.info/200912/article_4.html

253毛蟹:2010/01/02(土) 11:37:13
本年もよろしくお願いします。
>>251,252
拝読しました。学生に向けて書かれたと思える分かりやすい文章が僕にはとても有り難い。
『留魂録』の書評の最後で中路氏が述べていることとほぼ同じことを内田樹氏がブログで言っています。「労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである」、「自分がなした仕事から何らかの喜びや愉悦や利益を受け取る他者がいつか出現するであろうという予測をもてるならば、それは、労働に今ここで価値を加算するのである」。
『神道の逆襲』の書評を読んで考えさせられたこと。「世界(宇宙)と身体で繋がることは、神の名を出さねばならぬほど特別な経験なのか?もしかして、それは普通の人間が『してはいけない』ことなのか?もしそうなら、誰が何の目的で禁止してきたのか?」・・・分からない。

254毛蟹:2010/01/02(土) 21:19:27
>>253
それとも、「神的な経験」というのは、「誰に返礼したらいいのかさっぱり分からない贈与」みたいなものでしょうか?
人間の能力の「連続性?(うまく言えない)」を断ち切ることで誰かが利益を得ているのかもしれないけれど、喜びや感謝の感情を投げ入れるポストとしての「神」なら在ってもいいかと思う。

255毛蟹:2010/01/09(土) 13:02:59
さきほど「病の哲学」(小泉義之)を読了しました。
僕にとってはハードルの高い本であり、理解には程遠い。けれども武器(知力)の正しい使い方とはまさにこのようなものであろうと思わせられた。僕個人の経験(祖母の臨終の際して僕は祖母にとって「不気味なもの」になっていた)と重なって、読みながら幾度も落涙してしまった。今更詫びてもどうしようもない。
最も印象に残った箇所はこれでした・・・「しかし、「生命、しかも病的な生命」は、「もっとも深い、もっと隠された、存在論的レベル」に位置している。深き淵にいるのだ。とすれば、それに相応しい「根本的な地位」を賦与しなければならないのは明らかではないか」。(P224)

256毛蟹:2010/01/09(土) 15:09:25
もうひとつ、「デカルト『方法序説』を読む」(谷川多佳子)も読了。
谷川さんに導かれてスイスイ読めてしまうのだが、一旦本を閉じて自分の頭で「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」を考えようとすると、たちまち混乱してしまう。
「考えるわたし=存在するわたし」は事後的に私によって存在を−かつて存在していたことを−与えられたということであり、現在(この瞬間)に於いてわたしに存在を与えるものは不在ではないのだろうか。

257毛蟹:2010/01/11(月) 15:13:29
「そうならなくてはおかしいはず」というニュース。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&id=1073646

「『豪州人総バカ』と思われたら堪らない」ということらしい。
シー・シェパードの人々が一番恐れることは、「捕鯨国の捕鯨によって鯨類が減少あるいは絶滅してしまうことではなく、鯨類が減少あるいは絶滅する前に捕鯨が絶滅すること」である。そんなことは誰でも想像がつく。

258千手:2010/01/17(日) 00:15:25
とりあえず控えておこう。

川勝平太、鶴見和子『「内発的発展」とは何か』pp.168-169
 鶴見 私、今日は非常に多くを学んだ。まずこの「解説」を読んで、どうしようと思ったのは「類推」。アナロジーが方法になる? こんなこと、いままでの学問の中で聞いたことがないの。これが科学方法論になる? 私、びっくりしたの。アメリカの大学で科学方法論という講義をちゃんと聞いておりますのよ。この中に一度も出てきたことがない。びっくりした。
 川勝 今西錦司ですね。
 鶴見 今西錦司の前に外国にはない? キリスト教の中に。
 川勝 ないと思いますね。やはり今西錦司。
 鶴見 アナロジーというのは、心理学では出てくるけれど……。ロジック、つまりロジカル。メソッドというのには出てこない。サイエンティフィック・メソッドの中にも出てこない。だから私、びっくりしたのよ。

アナロギア・エンティスは? と、ふと思う。難しい。また『差異と反復』の中のノマド的配分と対比されるアナロジー的配分の問題。

259千手:2010/01/17(日) 00:21:46

引用内一字訂正。「ロジカル。」→「ロジカル・」

鶴見さん、さすがだと思う。キリスト教に、という勘のつけ方が。

260千手:2010/02/25(木) 03:35:20
沖縄問題の見方ひとつ。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/142005167.html

261千手:2010/03/05(金) 09:26:33
小沢報道と「テレビ文化人」
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

262毛蟹:2010/04/12(月) 10:05:36
沖縄基地問題に対する内田 樹さんのコメント。
4月8日付けブログ「従者の復讐」。
http://blog.tatsuru.com/

日本国民の対米感情、国家のなすべきこと、小泉純一郎への評価、いずれも感心させられました。
ただ、日本政府の勝利を「米軍の沖縄からの撤退と基地の全面返還である」とする考えには同意しかねます。

263千手:2010/04/12(月) 10:55:54
>>262ちょっと拝見
わたしは、国家の外に繋がる見えない通路をたくさん作ることを仕事にしているので、「国民国家の黒字」という論点には何のかかわりも持ちたくない所です。
彼の小泉純一郎論は、田中宇の「隠れ多極主義者」という概念とかなりよく似ていると思います。
とりあえず以上。

264毛蟹:2010/04/12(月) 17:29:54
>彼の小泉純一郎論は、田中宇の「隠れ多極主義者」という概念とかなりよく似ていると思います。

これは僕も同感です。

265千手:2010/08/02(月) 21:10:05
内田樹の『日本辺境論』を読んだ。30分以上時間をかけて。「機」の話しは直観音楽と結びつくが、読んでわかったからといって速くなるわけではない。
辺境性に執着してみろ、というお勧め。それで見えてくるものは確かに幾つかある。だもう一歩何が言いたいのかわからない。

266千手:2010/08/03(火) 20:59:39
インターチェンジャブルな能力が大事だと鶴見俊輔は言う。「転移の能力」と言い換えているのがそれだと思う。『新しい風土記へ』の中の池沢夏樹との対談で。うん、と思う。しかしそれと内田樹などの言う「機」と結び付けなければならない。「インターチェンジャブルなのは誰か?」と。それは私なのか?
私ではない。私の背後にありまた手前にある生成なのだ。わたしの言うところの「浮立の気」なのだ。そのはずだ。それは誰のものでもない。
わたしの言葉で言えば、それがリズム(宇宙の)なのだ。

(twitter再録)

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