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直観音楽アンサンブル とりあえず2

1Tausendhaender★:2007/07/03(火) 01:19:52
リフレッシュのため1を倉庫に入れました。
こちらで元気よく再開しましょう。

2千手:2007/07/03(火) 01:36:35
「直観」を「自由大学院」からきりはなしたら、と思っています。
何よりも直観音楽を完成させたい。

3千手:2007/07/03(火) 01:38:03
外の、海外のどこでも戦いができる水準まで。

4Pentatonics:2007/07/04(水) 00:46:11
>>2
これまで「直観」は、「風日」と並んで京都自由大学院の2大事業の一つだったわけで、一同そう思ってきたと思うのですが、真意をお聞かせください。

5千手:2007/07/04(水) 03:22:12
>>4
ご質問有り難うございます。
「直観」は、運営にもとてもスピードが要ると思うのです。「京都自由大学院」の中に置かれていると、
それが桎梏になるおそれがある気がするのです。
 今の私の気持ちでは、「直観」が何よりも緊急で重要なのです。

6千手:2007/07/04(水) 04:23:44
追加
例えばここ(この掲示板)で、次はいついつやるということを掲示することもできない。
そういう桎梏ことです。
 「京都自由大学院」の活動としてでなく、自分の活動としてやりたいのです。

7毛蟹★:2007/07/08(日) 12:03:24
「音と音楽を聴く会 第3回」を7月29日(日曜日)に開催しますのでぜひご参加ください。

詳細は「京都自由大学院 掲示板」の「招き猫」スレッドをご覧ください。

8千手★:2007/07/25(水) 03:01:51
「間」について(シュトックハウゼンの「正しい長さ」から考える)

古語に「間近し」「間遠し」という語があります。普通「間」の語を使って表記します。
古語辞典の中でおそらく最も鋭い言語感覚で書かれた『岩波古語事典』もこの表記を使っていますが、
わたしにはこれはもとは「目(ま)近し」「目遠し」であった気がします。
「間」についてエッセンシャルに考えるためには、「間」を「目」から考えることが必要ではないかと思います。
「ま(間、目)」は「Punkt・点」(ドイツ語)と関係し、
あるいはより正確には動詞の「punkutieren」(点を打つこと)に関係すると思います。
つまり注目点に点を打つことです。
このことを経過的な時の流れに対して行なうことが「間」を取るということではないでしょうか。
つまり一つの音の持続は、正しく間をとって打たれた第二の点、次に付けられた音の時点によって、
「間」を定められ、「間」として成立するように思います。
そこにはやはり目をつける、注目するという意味での、「注目点」という概念があり、「間」はそのようにして「目」を含んだ行為によって成立すると思われます。
このことが「間」についての議論の最も本質的な点ではないでしょうか?
(これはブログにも載せます)

9千手★:2007/07/25(水) 03:19:14
>>8
訂正
「punkutieren」→「punktieren」

10毛蟹★:2007/07/25(水) 03:20:26
>>8
>つまり一つの音の持続は、正しく間をとって打たれた第二の点、次に付けられた音の時点によって、
「間」を定められ、「間」として成立するように思います。

「第二の点」というのは(一つの音の)持続の終了点ということでしょうか?ここでの「間」は「持続の長さ」ということでしょうか?
>>8の文章全体が、僕のアタマでは全く理解できません。

11千手★:2007/07/25(水) 10:17:45
>>9

第一音の持続を終了させる点になるということです。

「間」は単なる持続の長さではなく、第一音が他なるもの(としての第二音)との関係の中で
捉えられるようになる、という把握、あるいは意味理解の形のことです。第二音によって引き継がれなければ
そのまま単音として消失してゆく。その単音を消失とのあわいの中で引き継いでゆくという形式。
孤音としての消失を、掬って継ぐ(救って継ぐ)行為。
間の活性。活性化としての第ニ音。
その辺のことを考えてみたいのですが。

12毛蟹★:2007/07/25(水) 14:08:53
>>11のご説明、ありがとうございます。ですが、僕にはやはり>>8>>11も理解できません。僕には無理です。

13Pentatonics★:2007/07/25(水) 14:23:16
第2音の打たれた瞬間によって、第1音が活かされる、ということでしょうか?

14毛蟹★:2007/07/25(水) 16:26:33
>>11,13
直観音楽の奏者に限らず、インプロヴァイザーの誰もがやっていることなのでは?

15毛蟹★:2007/07/25(水) 16:47:12
形式を追求し、演奏のベクトルを揃えてたところで、それが直観のリズムを捉える助けになるとは思えません。反対に、奏者を形式や思考に縛り付け、直観から遠ざけることになるのではないかと危惧します。

16E嬢★:2007/07/25(水) 17:49:16
「間」を「注目点」としてとらえるのなら、
弧を描いて着地するのではなく、直線上にあるということですか?

17毛蟹★:2007/07/25(水) 21:02:54
語れば語るほど矮小になり、平凡な演奏に着地するするのが「七つの日より」という作品だと思います。

18Pentatonics★:2007/07/25(水) 21:51:50
youtubeに、「Set Sail For The Sun by Karlheinz Stockhausen」
http://www.youtube.com/watch?v=v-1Vmr9xjg4
というのを発見しました。
シュトックハウゼン関係のファイル、結構ありますね。

19Pentatonics★:2007/07/25(水) 22:13:45
>>18の演奏をしている
「mus2301」はマンチェスターとマイアミにメンバーがいるグループみたいです。
http://mus2301.com/

メンバーはこういう人たち・・・(?)
http://mus2301.com/members/index.html

「正しい長さ」も公開しているようです。
http://mus2301.com/media/movies/3_11_06%20-%20Right%20Durations.mov

ニールセンさんよりいいような気がする。

20千手★:2007/07/25(水) 22:14:09
今も仕事中で今夜は徹夜になりそうです。
疑問にはかばかしく答えられないのですが、>>8>>11は、
「間」は静寂だとかいう「間」の理解に対して、「間」を創る行為をしっかりと見て、
そこから「間」についての議論をしなければならない、という主張です。
一度現われて消失してゆく孤音もある。孤音と次の孤音の間が「間」を創らない音楽も一方にある。
シュトックハウゼンの「正しい長さ(正しい持続)」は、他者の音に対して点を打つという意味で正しい「間」を作れ
という意味も含んでいる。音色、音強、リズムなどの他の音の要素の決定も当然含まれるが、
しかし時点という意味でのタイミングをきわめて重視すべき要素としている曲だとは言えるだろう。

「活性化」に関して直観音楽を持ち出すと、不正確な、言葉だけの議論になるだろう、というのが>>17ですね。
しかしシュトックハウゼンの音楽にはpunktierenするという問題が、本質的な関心を払われていると見えます。
そしてその結論として、その問題がもっとも純化して取り出されたのが「七つの日より」だ、とわたしは考えています。
とりあえず以上。

21千手★:2007/07/25(水) 22:18:58
>>16
>>8,>>11は、
「間」はpunktierenから考えろ、ということです。

22E嬢★:2007/07/25(水) 23:50:16
>>21
「点を打つ行為」というのが、書道をイメージしてしまうのは、間違いでしょうか。
《木》という字を書くとするなら、最後の払いには、消失してゆく弧音のようであり、
《一》という字であれば、それはひとつの「音」として完結しているように思えます。

「点」をつなげていけば、「線」になります。
《一》は点と点をつないで、一つの線になっているということは、
「点を打つ行為」は、「間」よりも「音」の方に本質があるのではないでしょうか。

23毛蟹★:2007/07/26(木) 00:32:20
>>20
>タイミングをきわめて重視すべき要素としている曲だとは言えるだろう。

その程度のことはメンバー全員が承知しているはずです。
しかし、「正しい長さ」のテキストに「正しい『間』を作れ」という指示はありません。それは「千手さんの『正しい長さ』」として演奏に於いてご自分に課せばよいことです。「点を打つ」という言葉についても同様です。

24毛蟹★:2007/07/26(木) 01:04:20
僕は千手さんをシュトックハウゼンの後継者とは認めていません。直観音楽の演奏者としての僕は、シュトックハウゼン自身が語る言葉しか信用しません。

25毛蟹★:2007/07/26(木) 01:07:14
シュトックハウゼンの後継者はいないし、今後とも現れることはないと確信しています。

26毛蟹★:2007/07/26(木) 01:15:45
IMEが「直観音楽」の演奏グループとしてシュトックハウゼンに認められることは演奏活動のとても良い区切りになるとは思っています。

27E嬢★:2007/07/26(木) 12:19:04
毛蟹さん
なぜ、後継者問題へ展開するのか、不思議でならないのですが…

音をひとつ弾き、その音をどこで切り、またつなげるのかということは、
とても大切なことだと思うのです。
音の「正しい長さ」は、どこに「点を打つか」を正しく理解しなければ、
ただの音の暴走になってしまいます。

私は、卒業研究で、《間》について書いています。
とても興味のあることですし、みなさんの意見も参考に考えてみたいのです。
今、ここで、この議論を中断させることよりも、
音の有りかた、間の存在について、根底を考えることは大切なことだと思います。

28千手★:2007/07/26(木) 14:39:10
>>23
分かりました。ここに書くべきではなかったようです。
「詩歌管弦」に移動します。

29千手★:2007/07/27(金) 05:38:39
24日の「強度」の演奏で、はじめてあのサヌカイトのかたまりを、あの塊の全体がもっともよく響く弾き方を試みることができました。
いままではあのサヌカイトを、道具として、拷問にかけていた感覚です。
E嬢が、あの安っぽいステンレスの鍋ぶたを、その安っぽい音ながら、その物の本質がよく表現されているような音を出していたのも
特によく気がついたことです。
「暖かさ」への指示は、そうした、楽器としての物を成仏させるような奏法を促しているように感じました。

30毛蟹★:2007/07/27(金) 19:49:30
>>27
>音をひとつ弾き、その音をどこで切り、またつなげるのかということは、
とても大切なことだと思うのです。

一体これ↑は誰の何という作品について仰っているのですか?

>音の「正しい長さ」は、どこに「点を打つか」を正しく理解しなければ、
ただの音の暴走になってしまいます。

未来の「どこに点を打つか」を考えながら音を出す。その予測をクリシェというのです。「点を打てるようになるために私はどうなるべきか?」という問いを立てたほうがはるかにマシだと思います。

31毛蟹★:2007/07/27(金) 19:57:04
>>30
>「点を打てるようになるために私はどうなるべきか?」

「やめるべき瞬間にやめられるようになるために私はどうなるべきか?」に訂正します。

32毛蟹★:2007/07/27(金) 22:51:56
「やめるべき瞬間」は自分が選べるものではなく、「命令」として受け取るものだと僕は思います。「命令」を受け取るまでは弾き続けなければならない、というのが「正しい長さ」の指示だと僕は理解しています。「正しい長さ」が奏者に求めるのは、この「命令」を受け取る能力だと僕は思っています。

33E嬢★:2007/07/27(金) 23:14:51
>>30
>音をひとつ弾き、その音をどこで切り、またつなげるのかということは、
とても大切なことだと思うのです。

>一体これ↑は誰の何という作品について仰っているのですか?

誰の何という作品に限ったことではないと考えています。
誰かが作曲したり、音の創造を行う時、この活動は必ず存在するのではないでしょうか?
これは、これまでの作曲家、もしくは演奏家が行ってきた共通の活動だと考えます。

>未来の「どこに点を打つか」を考えながら音を出す。その予測をクリシェというのです。
これは驚いたのですが、「試している」ということではないでしょうか?

34毛蟹★:2007/07/28(土) 09:49:52
>>33
>誰の何という作品に限ったことではないと考えています。
誰かが作曲したり、音の創造を行う時、この活動は必ず存在するのではないでしょうか?
これは、これまでの作曲家、もしくは演奏家が行ってきた共通の活動だと考えます。

一般教養をありがとう。

>これは驚いたのですが、「試している」ということではないでしょうか?

その通りだと思います。そしてそれは禁止されている行為です。

35E嬢★:2007/07/28(土) 23:50:13
すみません、毛蟹さん。
一般教養程度ぐらいのことしか言えなくって・・・

必死の背伸びをした抗戦の結果です。(笑)

36千手★:2007/08/05(日) 15:34:23
直観音楽 録音演奏会
2007年8月10日 18時から
京都造形芸術大学 陽陽館2F

初めての方も遠慮なくご参加ください

37千手★:2007/10/11(木) 23:32:05
11月11日(日)十八時から直観音楽録音演奏会をします。
場所は陽陽館に集合して下さい。陽陽館が使えない場合を考え他に教室を一つ確保しておく予定です。
森元さんが、その日なら来れるということで開催します。

なお、11月12日はピナ・バウシュのワークショップがあります。時間がある方は参加して損はないはずです。
先着500名で稲盛財団ホームページから申し込めます。

38毛蟹★:2007/10/12(金) 09:51:30
>>37
僕は参加できません。直観音楽に関する議論の相手(僕)の「発言」に「特別な思い入れ」というラベルを貼る、つまりは議論の相手を「狂信的な信者」として囲い込むような人々とは一緒に演奏したくありません。

39E嬢★:2007/10/12(金) 10:34:22
>>38

「僕はあなたと議論したくありません。」って書いて、
今度は、「議論の相手(僕)」ですか…

参加しない理由を、わたしのせいにしないでください。
わたしは11日は参加しませんので、ご安心してご参加ください。
日本にいませんから。

40千手★:2007/10/12(金) 17:38:12
>>38

ご自分に対するひとの尊敬や親愛の気持ちがわからないのでしょうか?

わからなくなったとしたらいつからなのでしょう?

E嬢のことです。

41毛蟹★:2007/10/12(金) 17:50:36
>>40
いつからでしょうか?おそらく「石器交換所」の末期からだと思います。そのころからシュトックハウゼンについての僕の発言内容と、シュトックハウゼンを語る僕が「狂信的な信者による語り」として扱われてきたと感じています。

42毛蟹★:2007/10/12(金) 17:54:00
>>40
E嬢ではありません。千手さんとE嬢のことです。

43毛蟹★:2007/10/12(金) 18:01:59
そのような扱いに「特別な思い入れ」という名前を付けてくれたのがたまたまE嬢だったということです。

44千手★:2007/10/12(金) 18:12:33
>>42
わたしが言っているのはE嬢のことだけです。

45千手★:2007/10/12(金) 18:13:56
>>41
馬鹿な! とだけ言っておきます。

46毛蟹★:2007/10/12(金) 19:17:16
>>44
40はスレッドを変えてもらったほうがよかったと思います。38は直観音楽の議論の中から生まれた僕の感情です。

僕はこれまでE嬢にキツイことを書きました。僕はE嬢にハンディーをあげられるほど力量のある人間ではありません。毎回全力でぶつかっています。僕はここ、ペルセポリスで何人とも表層的な語らいはしたくありません。もっと言えば表層的な語りに満足することを己に禁じています。そのせいでメンバーの皆様に「毛蟹は攻撃的だ」と思われていることも承知しています。僕は内と外からペルセポリスを見ています。初めてペルセポリスを訪れた人間の目でこの掲示板を見る癖が付いてしまいました。「なんじゃこいつらは」と思われたくはありません。そのためには憎まれ役に回ることもあります。それだけです。果たして答えになっているでしょうか?

47毛蟹★:2007/10/12(金) 19:20:01
>>45

ありがとう!

48千手★:2007/10/13(土) 10:54:04
録音演奏会案内
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8706/1183368487/

49千手★:2007/12/08(土) 20:50:33
カールハインツ・シュトックハウゼンの逝去を悼みます

   直観音楽アンサンブル(Intuitive Musik Ensemble)
(代表 中路正恒)

50千手★:2007/12/08(土) 21:04:10
カールハインツ・シュトックハウゼン氏の逝去を悼み
追悼演奏会を開きます
時 2007年12月8日 18時30分より
所 京都造形芸術大学陽陽館2F
 演奏曲目
 1. 正しい長さ (『七つの日より』より)
 2. 無限に   (同上)

 同志の参加を歓迎します
 直観音楽アンサンブル(代表: 中路正恒)

51千手★:2007/12/09(日) 05:21:23
 シュトックハウゼンが亡くなった。
 巨大な人だった。

 初めてお会いしたのは1997年のことだったと思う。京都で、「シリウス」の演奏とか、また別の会場で
「ハルレキン」の演奏とか、そして知恩院で関西の音楽家との交流のディスカッションとかの催しとかの
あったときだ。「ハルレキン」の演奏の後、レセプションの時間があって、その時ゲーテ・インスティチュートの
館長のケンプさんのご紹介で、「友情のしるしに」と、花束を差し上げた。青い桔梗の花束だ。
わたしたちが「京都大学直観音楽研究会」として活動をしていたときだ。そのときの一緒だったメンバーは、
安藤正人、篠原資明、西尾君江、光田和伸と、今も一緒に活動している寺村幸治君だった。
ドイツ・グラムフォンとの関係が微妙になってくる時だったのだと思う。キュルテンの新しい出版局の案内をくれると約束してくれた。
 その二三日後に、知恩院で開かれたワークショップのような催しにも、ゲーテ・インスティチュートのご厚意で
招待してくれた。日本の側からは、知恩院の僧侶が声明を聞かせてくれた。それに対するシュトックハウゼンの意見は、
音楽家が演奏をしてもっと洗練させれば素晴らしいものになる、ということだった。ディスカッションでは質問をしなかった。
今から思うと、ともあれ何か質問をしておけばよかったと思う。篠原君は、国歌のことで質問をしたかったのだが、
わたしが質問をしないので遠慮した、と後から言った。その時は、わたしたちが演奏をして、はじめて聞いてもらえる水準に達した
「無限に」(『七つの日より』より)のテープをお渡しすることが、わたしの最大の目的だった。シュトックハウゼンの前に立ち、
何と言ったものか、「これを!」とか、そのくらいのことしか言えなかった。シュトックハウゼンは、あの一瞬にして真剣になる目で、
応じ、そして受け取ってくれた。ディスカッションの場でも、そのテープのケースを彼は時々手で回転させたりしていた。
過去の大作曲家の音楽について"Es ist nur Erinnnerung"(それは思い出に過ぎない)と、非常に明確な物言いをしていたことが
最も印象に残っている。その後12月には、楽譜や本やレコードや、たくさんのプレゼントをしてくれた。
「京都大学直観音楽研究会の音楽家たちに」と記された数枚のレコードが今もゲーテ・インスティユートにあるはずだ。
「音楽家たち」と呼んでくれたことが何よりも嬉しかった。テープを聞いてくれた上での表現だからだ。

52千手★:2007/12/09(日) 05:25:56
【承前】
 2005年6月30日に都ホテルでお会いできたのは幸福なことだった。前日、メンバーの神村さんと訪ねた時は
お会いできず、ホテルの宿泊者名簿に名前すらないということだった。伝言すら伝えられなかった。その後東京や京都の
ゲーテ・インスティチュートの方々の尽力で、カチンカ・パースベーアさんとともに来ていて、カチンカさんの名前で
泊っているということがわかった。30日には妻と訪ねた。ホテルに戻ってくる頃の時刻。妻が目ざとくそれらしい人を見つけた。
追いかけて、「ヘルン・シュトックハウゼン」と呼びかけた。「二十数年前にお会いしたナカジですと」自己紹介した。
あの大きな目がすぐに変化する。その目が満身を込めた暖かい表情になり、そして両掌で握手をしてくれた。
このこれだけの行為で、何と大きなことが伝わることか。
 
 「CDはないのか」と訊かれた。まだないと答える他なかった。「直観音楽アンサンブル」として活動を
再開してまだ間のないときだった。「明後日の土曜日に演奏会をするが来ないか」、と誘った。
土曜日は人と会う約束があるということだった。その演奏会で録音したなかで一番いいものをDATテープのまま、
その翌日ホテルに届けた。お会いすることはできなかった。後日『来るべき時のために』の新作CDを送ってくれた。

 今てもとにわたしたち「直観音楽アンサンブル」が2006年11月26日に演奏したCDがある。
曲は「正しい長さ」と「無限に」。85点水準の演奏だ。これでもパリ・グループの演奏よりは優れたものだ。
わたしたちはケルン・グループの『短波』の演奏を100点と考えている。そして90点以上の演奏をして
お聞かせしようと思って録音演奏活動をつづけていた。今年11月11日に録音演奏会を開いたときには
ある予感があった。もういつ迄ご存命かわからない。時期を区切り、その時までの最高の演奏をまずはお
聞かせしておきたいと思ったのだ。期限を来年の3月いっぱい、とメンバーには言った。
気持ちではこの11月11日が最後だと思っていた。その時の「無限に」の演奏。
相当によい水準の演奏ができた。87点ぐらいだろうか。だが、わたしのミスで、録音ができていなかった。
録音に成功していれば、それをお送りしていたかもしれない。けれど今思うのだが、
録音されていないその時の演奏こそを、生前のシュトックハウゼンへの最後の贈りものと考えようと思う。
 シュトックハウゼンは巨大な人だった。わたしにとって、「溺れることのできる海」だった。
 満身の感謝を捧げたい。

53千手★:2007/12/09(日) 23:27:22
>>51
訂正
199年→1977年

54千手★:2007/12/09(日) 23:29:08
追悼演奏会終わりました。その素晴らしさは書き表せない。
後日報告します。

55千手★:2007/12/09(日) 23:30:13
>>53
さらに訂正:
199年→1977年

56千手★:2007/12/10(月) 00:31:56
あのシュトックハウゼンの『短波』が示した最高の歓びが、また達成され、繰返されるものであることを示したい。
これがわたしたちがこれからも直観音楽を続けてゆく理由です。
賛同してくれる人を求めます。
 中路正恒

57<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

58千手★:2007/12/12(水) 04:30:13
2007年12月11日朝日新聞朝刊の長沢誠司氏の「作曲家・シュトックハウゼン氏を悼む」という記事への疑問。

http://25237720.at.webry.info/200712/article_10.html

59千手★:2007/12/13(木) 12:16:44
一見、そして投稿を。

http://25237720.at.webry.info/200712/article_11.html

60千手★:2007/12/14(金) 02:36:02
>>50
12月8日→12月9日
今さら訂正しても遅いのですが、これを見て行きたいのに行けるはずがないというダブルバインドに
かかってしまった人がいたらごめんなさい。慌てたための単純なミスです。

61千手★:2007/12/15(土) 07:13:03
わたしの家に上司永慶の「大道無門」の軸がある。東大寺の別当をされていたときに書かれたものだ。抽選だったのだが運良く手に入れることができた。
字の意味は、どんな方途をとっても仏道の究極に達することが出来るという意味だと理解しているが、誤っていれば訂正していただければ幸いだ。
この書軸を得て以来、この大道無門という言葉が大好きになった。そしてこの言葉は、あの東大寺のスケールの大きさをよく示しているように思うのだ。たとえばあの二月堂のお水取りの音響空間。あの音響空間の中では鉦や法螺貝なども破天荒な響きを発するし、それが読経や読咒や呪祷(正式にどう呼ぶのか知らない)、神名帳の読み上げによる神々の勧請や過去帳の読み上げなど、そのさまざまな声による音響の技や、下駄の踏み鳴らしによる堂内活気を与える音響などと何の齟齬もなく雑じり合い、交じり合う。わたしはそれをわが国で耳にすることのできる最高の音楽であると思っている。大道無門の精神は、この音響空間の構成を貫く思想でもあるだろう。
 シュトックハウゼンの音楽もそれと変わらない。ジャック・デリダにならって「音楽テクスト」と呼んでおこう。その音楽テクストは、あらゆる音によって構成されうる。ヘリコプターの音はコンチェルトを作るし、上唇のダンスは口から吐き出される息とトランペットのから取り出すことのできるあらゆる音響によって音楽を構成する。すべての音は音テクストとして、音楽への道を与えられる。大道無門と呼ぶべきこの音の解放は、シュトックハウゼンにおいて、間違いなく直観音楽が開いたものだ。宇宙のすべての音要素は音テクストとして、音楽を奏でる。音楽へと導かれる。音楽とは音による究極の快楽のことだ。究極の歓び。
 実際ケルングループの『短波』の演奏(=Spiel・あそび)は二度と達成することの困難な究極の歓楽を示している。フリッチュやコンタルスキー、ボージェやアリングス、ゲルハールなど、それら超音楽家たちの突破の力の結集・凝縮は、奇跡とも言うべき出来事である。シュトックハウゼンの周囲においてすら、それを結集させるのは容易ではなかっただろう。だが彼らの演奏する(あそぶ)直観音楽によって、無門は開かれたのだ。大道への道からあらゆる門が取り壊されたのだ。
 わたしは直観音楽以降のシュトックハウゼンの活動のよき理解者ではない。だが、実際その幾つかを聴いてみれば、宇宙のすべての要素を可能な音楽テクストとして構成する音楽として、つまり大道無門を示す音楽として理解することができるように思う。


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