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金剛般若経を読んで実践する
127
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/03(月) 12:56:16 ID:j8lz7Juk0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D
***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」
師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
その時、師は、次のような詩を歌われました。
形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。
***
次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
三十二相をもって如来を見るべきかと、
須菩提長老は
そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は
そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
と、答えたのじゃ。
前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。
お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
外道なのじゃ。
というのじゃ。
如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
法によって如来を見るのが正しいのじゃ。
128
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/04(火) 12:28:15 ID:tzB6bB2U0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS
***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
***
それからお釈迦様は
如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
そのようなことはないからというのじゃ。
なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
そうであめから相とよばれるのじゃ。
無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。
更に断滅も断滅ではないのじゃ。
そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。
ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
129
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/05(水) 11:59:21 ID:sCrl/u8g0
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh
***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は
ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
それは功徳を受けないからであるというのじゃ。
なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
功徳では無いものを功徳というのじゃ。
観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。
幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。
それをお釈迦様は次に、
菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
貪欲も執着も無い境地なのじゃ。
130
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/06(木) 10:51:58 ID:U5n9iQq20
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw
***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」
***
続いてお釈迦様は須菩提長老に、
もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
と、いうのじゃ。
なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。
そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
そうであるから三千大千世界というのじゃ。
なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
それが全てであることなのじゃ。
しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。
つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。
131
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/07(金) 10:39:01 ID:VG/pkc6M0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0
***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に、
もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
と、聞いたのじゃ。
長老は、
それは正しくない
なぜならば、それらの見解は見解ではない。
それを見解とよぶのじゃ。
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は、
その通りじゃ。
無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
法という観念を持つべきではない、
と、答えたのじゃ。
なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
そうであるから法という観念なのじゃ。
と、説いたのじゃ。
そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。
132
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/08(土) 11:16:16 ID:ABGgMtuA0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU
***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。
世界の一切のものごとは
夢や幻、泡や影、
露や稲妻のよう、
そのように観るがよい。」
師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。
***
>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
人のために説いた方がより大きな福を得る
といったのじゃ。
どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
それが人のために説くということなのじゃ。
というのじゃ。
つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
そして詩句を示すのじゃ。
一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
と、説いたのじゃ。
つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
それもまた金剛般若経の法なのじゃ。
この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
次は総評なのじゃ。
133
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/09(日) 11:03:48 ID:2FR8Sx8o0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU
金剛般若経も終わったのじゃ。
全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。
もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。
全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。
それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。
観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
それが向いている者には効果がある法なのじゃ。
自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。
134
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/27(金) 11:26:14 ID:3mnA./cI0
※抜けがありました。追加いたします。
___
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(二十九)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」
***
それからお釈迦様は、
もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。
なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
来ることも去ることもないものなのじゃ。
既に死を超越したからなのじゃ。
死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。
死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。
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