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鬼和尚に聞いてみるスレ part19

1避難民のマジレスさん:2021/07/31(土) 23:36:27 ID:TEyhyzXI0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part18
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514

513避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 20:43:40 ID:czRftzgI0
自分の意志で思考・行動している(主体)ようで、実際はその光景(客体)を見ていることに気付きました

514避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 20:44:33 ID:czRftzgI0
主体として行動している景色を客体として見ているという意味です

515鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:32:10 ID:1d4drIFg0
>>510 受け止めなくて善いのじゃ。
 それをありのままに観察するのじゃ。
 痛みに逃避が起こっているならば、逃避していると観るのじゃ。
 それだけでよいのじゃ。
 そしてその原因を探すのじゃ。

 良くも悪くも無いのじゃ。
 
 心の痛みはただの比喩なのじゃ。
 実際にはいたくないのじゃ。
 ストレスとか悲しみとかの感情を引き起こすから苦しいのじゃ。
 わかるじゃろう。
 ありのままに観て原因を探すのじゃ。

>>511 求めるべきなのじゃ。
 一切皆苦なのじゃ。

 そのようなこともあるのじゃ。
 人に拠っては繰り返しているじゃろう。
 
 続かないのじゃ。
 悟りを得なければいずれは地獄に落ちることもあるのじゃ。

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:35:15 ID:1d4drIFg0
>>512 私は誰かと問うことが観念を破壊するというのじゃ。
 自分という問題の他には何も問題は無いからなのじゃ。
 その想念さえも滅びれば、何も無くなるのじゃ。
 それが真我の実現だというのじゃ。

>>513>>514 そうじゃ、意志もまた客体なのじゃ。
 全ては自分無しに働いていくものじゃ。
 ただ自我を投射しているだけなのじゃ。
 更に実践あるのみなのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:47:46 ID:5uRnxYQQ0
>>516
問答11

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。
それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。
このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

518避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:53:34 ID:5uRnxYQQ0
Q:What is the means for constantly holding on to the thought ‘Who am I?’

A:When other thoughts arise, one should not pursue them, but should inquire: ‘To whom do they arise?’
It does not matter how many thoughts arise.
As each thought arises, one should inquire with diligence, ‘To whom has this thought arisen?’.
The answer that would emerge would be ‘to me’.
Thereupon if one inquires ‘Who am I?’, the mind will go back to its source; and the thought thaarose will become quiescent.
With repeated practice in this manner, the mind will develop the skill to stay in its source.
When the mind that is subtle goes out through the brain and the sense-organs, the gross names and forms appear;
when it stays in the heart, the names and forms disappear.
Not letting the mind go out, but retaining it in the Heart is what is called ‘inwardness’ (antarmukha).
Letting the mind go out of the Heart is known as ‘externalisation’ (bahirmukha).
Thus, when the mind stays in the Heart, the ‘I’ which is the source of all thoughts will go, and the Self which ever exists will shine.
Whatever one does, one should do without the egoity ‘I’.
If one acts in that way, all will appear as of the nature of Siva (God).

519鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/06(月) 23:47:52 ID:1d4drIFg0
私は誰かという問いも日々続けなければいかんというのじゃ。
日々続けることで心の奥深くまで進むことが出来るのじゃ。
感覚器官から外に向かう心から、心の内側を見る心になるのじゃ。
そしてその源である主体にまで辿りつくこともできるようになるのじゃ。

520避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:42:37 ID:idQKiClY0
>>519
問答12

問:心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

答:探究以外に適切な方法はない。
他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。
けれども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが思わないようにとの神の意志によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。
心はつねにさ迷いつづけるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。

521避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:49:25 ID:idQKiClY0
Q:Are there no other means for making the mind quiescent?

A:Other than inquiry, there are no adequate means.
If through other means it is sought to control the mind, the mind will appear to be controlled, but will again go forth.
Through the control of breath also, the mind will become quiescent; but it will be quiescent only so long as the breath remains controlled, and when the breath resumes the mind also will again start moving and will wander as impelled by residual impressions.
The source is the same for both mind and breath.
Thought, indeed, is the nature of the mind.
The thought ‘I’ is the first thought of the mind; and that is egoity.
It is fromthat whence egoity originates that breath also originates.
Therefore, when the mind becomes quiescent, the breath is controlled, and when the breath is controlled the mind becomes quiescent.
But in deep sleep, although the mind becomes quiescent, the breath does not stop.
This is because of the will of God, so that the body may be preserved and other people may not be under the impression that it is dead.
In the state of waking and in samadhi, when the mind becomes quiescent the breath is controlled.
Breath is the gross form of mind.
Till the time of death, the mind keeps breath in the body; and when the body dies, the mind takes the breath along with it.
Therefore, the exercise of breath control is only an aid for rendering the mind quiescent (manonigraha); it will not destroy the mind (manonasa).

Like the practice of breath control, meditation on the forms of God, repetition of mantras, restriction on food, etc., are but aids for rendering the mind quiescent.

Through meditation on the forms of God and through repetition of mantras, the mind becomes one-pointed.
The mind will always be wandering.
Just as when a chain is given to an elephant to hold in its trunk it will go along grasping the chain and nothing else, so also when the mind is occupied with a name or form it will grasp that alone.
When the mind expands in the form of countless thoughts, each thought 24becomes weak;
but as thoughts get resolved the mind becomes one-pointed and strong;
for such a mind Self-inquiry will become easy.
Of all the restrictive rules, that relating to the taking of sattvic food in moderate quantities is the best;
by observing this rule, the sattvic quality of mind will increase, and that will be helpful to Self-inquiry.

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 23:35:11 ID:1d4drIFg0
集中の瞑想は観察のための助けになる方法に過ぎないのじゃ。
それによって得られる仮の心の静けさによって、観察を容易にするだけなのじゃ。
心の真の静けさは自らの主体を見ることによって訪れるのじゃ。
それによって真の大悟徹底もできるようになるのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 06:02:30 ID:sEAjaaO20
>>522
問答13

問:心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

答:真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

Q:The residual impressions (thoughts) of objects appear unending like the waves of an ocean.
When will all of them get destroyed?

A:As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.

524鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/08(水) 23:03:41 ID:1d4drIFg0
雑念は始めのうちはいつまでも浮かんできて終わりが無いように見えるのじゃ。
しかし、瞑想を日々続けていると、それがとまるときが来るのじゃ。
思考が無いのに意識はある状態になるのじゃ。
一度そこに至れば何度でもできるようになるのじゃ。

525避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:19:22 ID:sEAjaaO20
>>524
問答14

問:数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

答:可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいられようか。
自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

Q:Is it possible for the residual impressions of objects that come from beginningless time, as it were, to be resolved, and for one to remain as the pure Self ?

A:Without yielding to the doubt ‘Is it possible, or not?’, one should persistently hold on to the meditation on the Self.
Even if one be a great sinner, one should not worry and weep ‘O! I am a sinner, how can I be saved?’
One should completely renounce the thought ‘I am a sinner’ and concentrate keenly on meditation on the Self;
then, one would surely succeed.
There are not two minds – one good and the other evil;
the mind is only one.
It is the residual impressions that are of two kinds – auspicious and inauspicious.
When the mind is under the influence of auspicious impressions it is called good; and when it is under the influence of inauspicious impressions it is regarded as evil.
The mind should not be allowed to wander towards worldly objects and what concerns other people.
However bad other people may be, one should bear no hatred for them.
Both desire and hatred should be eschewed.
All that one gives to others one gives to one’s self.
If this truth is understood who will not give to others?
When one’s self arises all arises; when one’s self becomes quiescent all becomes quiescent.
To the extent we behave with humility, to that extent there will result good.
If the mind is rendered quiescent, one may live anywhere.

526鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/09(木) 23:27:24 ID:1d4drIFg0
数知れぬほどに輪廻を重ねて業を積み重ねていれば、それを今消すことが出来るのかと思うものもいるじゃろう。
他人にしたことが自分に返り、それがまた他人への行いの動機となり、他人に対する行いとなるというような繰り返しではとどまることがないと思うのじゃ。
しかしそれもまた幻影でしかないことを知れば今一度真理を知れば消え去るのじゃ。
ただ幻想の自我に気付けば世界もまた消えるのじゃ。
そのようにして全ての業も幻想と気づくのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 01:05:55 ID:7A6BnE9k0
鬼和尚様
自分はコミュ障だと開き直り、嫌味が口癖のようになっている人が仕事のチームメンバーにいます。
彼は頭の回転は早いです。
どうも自分が頑張っているんだから、お前たちも自分のようにがんばれよ、と内心思っているようです。
嫌味が不愉快なのですが、どのように接すれば良いでしょうか?アドバイスいただけると幸いです。

528避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 07:39:59 ID:NwRCZB2I0
>>526
問答15

問:探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

答:心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。
要塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。

Q:How long should inquiry be practised?

A:As long as there are impressions of objects in the mind, so long the inquiry ‘Who am I?’ is required.
As thoughts arise they should be destroyed then and there in the very place of their origin, through inquiry.
If one resorts to contemplation of the Self unintermittently, until the Self is gained, that alone would do.
As long as there are enemies within the fortress, they will continue to sally forth;
if they are destroyed as they emerge, the fortress will fall into our hands.

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/10(金) 23:43:49 ID:1d4drIFg0
>>527 よいところを見つけてどんどん誉めて働かすと善いのじゃ。
 嘘をついて誉めてはいかんのじゃ。
 実際に誉められるところを探して誉めるの社。
 頭の回転が速いと既にわかっているのであるから、それもほめると善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>528 探求は全ての観念がなくなるまでやるべきだというのじゃ。
 観念がなくなれば何かをする主体はなく、することもなくなるから自然に止むのじゃ。
 それまでは常におこたりなく実践に勤めるのじゃ。

530避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 07:55:46 ID:9P3qqenE0
>>529
問答16

問:真我の本性とは何でしょうか?

答:真実、存在するのは真我だけである。
世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。
これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。
それは沈黙と呼ばれる。
真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。
すべてはシヴァ、真我である。

Q:What is the nature of the Self?

A:What exists in truth is the Self alone.
The world, the individual soul and God are appearances in it, like silver in mother-of-pearl;
these three appear at the same time and disappear at the same time.
The Self is that where there is absolutely no ‘I’-thought.
That is called ‘Silence’.
The Self itself is the world; the Self itself is ‘I’; the Self itself is God;
all is Siva, the Self.

531避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 14:31:15 ID:DPZIW9O60
鬼和尚様に質問です。
日々悟るために修行をしていて、少しずつは進歩していると思うのですが、ふと、自分が進歩していると思っているだけで、家族や友人、知人、その他の知らない人などからみると、進歩していると勘違いしるが、おかしくなっているだけのヤバい人なのではないかと思うと心がモヤーっとします。
あるいは他人がどう思おうがいいとしても、自分は人と違うとか世間なんてどうでもいいとか、ただ傲慢になっているだけなのではないかなど不安になります。
もちろん大半の時間は「とはいえ、悟ること以上の目的はない」と確信を持てているのですが、このような魔がふと忍び寄ることがあります。
これはどうしたら解消できるでしょうか。これについても、とにかく観察あるのみでしょうか?
ご意見をお聞かせください。

532避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 17:13:57 ID:7A6BnE9k0
>>529
鬼和尚様
アドバイスありがとうございます。>>527 です。
嫌な相手を褒めるのはなかなか心理的に抵抗ありますが、やってみます。

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:34:50 ID:1d4drIFg0
>>530 真我の道は真我以外を全て否定するのであるから存在すると言えるものは真我だけなのじゃ。
 それが全ての本性であり、神とよぶものの本性でもあるのじゃ。
 他に存在するものは無いのじゃ。
 そしてその真我そのものは認識することは出来ないのじゃ。
 ただありのままに在ることだけが出来ることの全てなのじゃ。

534鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:41:59 ID:1d4drIFg0
>>531 そのような疑問が湧いたら、常に死を想うのじゃ。
 無常であるこの娑婆世界では誰もが死を免れないのじゃ。
 実践することが死に対抗する唯一の手段なのじゃ。
 死を克服するまでは一切の妥協は許されないのじゃ。
 死が目前に迫ったときに、もっと真剣に実践していればよかったと後悔しないようにするのじゃ。
 
 死を超える道を知り、実践することが出来るのは大きな幸運なのじゃ。
 それを知らなければ善人でさえ、自分がどこにいくか知らずに恐れを持って死ぬのみなのじゃ。
 そのように正しい知識を持って、実践の道を持たないものにも哀れみを持つと善いのじゃ。
 そうすれば他人を気にして迷うことも無いのじゃ。

>>532 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

535避難民のマジレスさん:2021/12/12(日) 09:03:44 ID:tAZf5vzQ0
>>533
問答17

問:すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

答:欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。
磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そして休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。
神は何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。
それは、世間の行為が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能: 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動: パンチャ・ヤジュニャ。
『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義務。

Q:Is not everything the work of God?

A:Without desire, resolve, or effort, the sun rises;
and in its mere presence, the sun-stone emits fire, the lotus blooms, water evaporates, people perform their various functions and then rest.
Just as in the presence of the magnet the needle moves, it is by virtue of the mere presence of God that the souls governed by the three (cosmic) functions or the fivefold divine activity perform their actions and then rest, in accordance with their respective karmas.
God has no resolve; no karma attaches itself to Him.
That is like worldly actions not affecting the sun, or like the merits and demerits of the other four elements not affecting all-pervading space.

536鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/12(日) 23:56:27 ID:1d4drIFg0
神が主体であるならばそれは何かをするということはないのじゃ。
それはありのままにあるだけなのじゃ。
何かがなされたというのは観念によるものなのじゃ。
人格を持つ神ではなく、自らの主体としての神を心の中に見出すのじゃ。

537避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 11:25:12 ID:MpBRLa8k0
>>536
問答18

問:帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

答:神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。
自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして安心しなさい。

Q:Of the devotees, who is the greatest?

A:He who gives himself up to the Self that is God is the most excellent devotee.
Giving one’s self up to God means remaining constantly in the Self without giving room for the rise of any thoughts other than that of the Self.
Whatever burdens are thrown on God,He bears them.
Since the supreme power of God makes all things move, why should we, without submitting ourselves to it, constantly worry ourselves with thoughts as to what should be done and how, and what should not be done and how not?
We know that the train carries all loads,
so after getting on it why should we carry our small luggage on our head to our discomfort,
instead of putting it down in the train and feeling at ease?

538避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 18:32:39 ID:DPZIW9O60
>>534
本当におっしゃるとおりですね。
死の前にはすべてが無意味なのでした。
初心に返ることができた気がします。ありがとうございます。

さらに質問があります。
「死を克服するまでは一切の妥協は許されないのじゃ。死が目前に迫ったときに、もっと真剣に実践していればよかったと後悔しないようにするのじゃ」とのお言葉をいただき心から同意しますが、迷いや不明点もあります。
初めにサマーディに入った頃は、瞑想や悟りという言葉すら知らず、死について考えたことすらなく、ただ楽しみや遊びのような感覚でした。
それからもサマーディ状態になるのは、ボーッとしていたり寝る前だったりと、ほとんどが修行以外のときで、逆に瞑想をしたり経典を読むのは半分は義務感で行っていて、力んでいる気がします。
瞑想中は快も生じ、気付きや種々の体験もあり、日常でも一瞬で集中できるようになったという成果もありますが、やらないと罪悪感を持ったり、自分を観察しても行き詰まったり、途中で嫌になったり足や背中が痛くなっても時間が来るまでは続けるなど、苦痛も混ざっています。
仕事や勉強などであれば、難しかったり量が多くても、休まずに調べたり、こなしたりすれば終わることも多いと思いますが、悟りの場合は頓悟も多く、休まずにたくさんやれば得られるというものでもないのではと感じて、ずっと途方に暮れています。
苦痛でも、無理をしてでも、できる限りたくさん瞑想して集中や観察をすることが、妥協のない真剣な実践ということなのでしょうか?
それとも、本当に心から悟りたいと思っているのかを突き詰める方が重要でしょうか?
楽しく自然に実践でき、悟ることができたら、これほどよいことはありません。
ぜひともご意見をお聞かせください。

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:03:30 ID:1d4drIFg0
帰依とはもともと神仏に自分の心身を与えるということなのじゃ。
真我に自分の全てを与える事が出来るならば、悟りも速やかにやってくるじゃろう。
恐れずに心身を与えるならば、もはや患うこともないのじゃ。
全てであることが見出されるのであるからのう。

540鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:07:19 ID:1d4drIFg0
>>538 自分ではわからないかもしれんが、実際は修行もやった分だけ進歩しているのじゃ。
 日記をつけてみるとよいのじゃ。
 読み返してみるとやはり頑張った時にはよく進歩しているのじゃ。
 苦しい時ほど進歩していると言えるのじゃ。

 その苦痛すらも観察して見極めるのじゃ。
 そうすれば楽な道も見つかるのじゃ。
 それはただ単に姿勢が悪くて苦しいだけかもしれん。
 或いは自分を失うことに恐れがあるからかもしれん。
 苦痛を観察して滅しながら進むのじゃ。

541避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 14:25:27 ID:ljldEexk0
>>539
問答19

問:無執着とはどういうことでしょうか?

答:想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところなく完全に消滅させること、それが無執着である。
真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

Q:What is non-attachment?

A:As thoughts arise, destroying them utterly without any residue in the very place of their origin is non-attachment.
Just as the pearl-diver ties a stone to his waist, sinks to the bottom of the sea and there takes the pearls, so each one of us should be endowed with non-attachment, dive within oneself and obtain the Self-Pearl.

542避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 19:31:30 ID:h5P9mv0k0
魔除けなどで水晶を身につけることによって実際になんらかのエネルギーが発生するんでしょうか?
昔から人間は石に大きな力を感じて身につける習慣があります。
どのような石に効力があるんでしょうか?

543避難民のマジレスさん:2021/12/15(水) 20:20:00 ID:DPZIW9O60
>>540
ご返信、ありがとうございます。じっくり拝読しています

苦しい時ほど進歩しているということは、極端に言うと、時間や体力が許すのであれば、昔の禅僧のように7日7晩とか13日間寝ずにとかぶっ続けで瞑想(座禅)できるなら、その方が進歩するということでしょうか?
寝ずにとかは現実的には無理でも、例えば歯を食いしばってでも毎日12時間ずつ瞑想できれば、1日2時間とか5時間よりも進歩するし、悟るためには望ましいということですか?

> その苦痛すらも観察して見極めるのじゃ。

何が苦痛なのかを掘り下げてみたところ主に2点ありました。

1,30分の瞑想では背中が痛くならないが、1時間続けると痛くなることが多い
姿勢が正しければ禅僧のように何時間も座り続けられるのでしょうか?

2,何をすればよいのか、ちゃんとできているのかどうかが分からない
瞑想中の観察について鬼和尚は「すべてを観察する」とおっしゃっていたので何度も試したのですが、無数の対象があるため同時にすべてを観察できず、結局何をすればいいのか分からない、の繰り返しになっています。
観察の瞑想ってこれでいいのか?という疑問が何年もつきまとい、それが苦痛となっています。

ここまで書いたあとで、何が苦痛なのかを改めて確認するために、試しにすべてを観察する瞑想を行ってみました。
皮膚感覚、呼吸、思考や感情に伴う肉体の変化などから離れたところから、それらのすべてを俯瞰する意識で、何が起ころうが観てやろうという気持ちではじめたところ、はじめは思考や、思考と同時に起こる肉体の変化など、起こることをそのまま眺めていたのですが、途中でグッと瞑想が深まり、心身がスカーッとして、目を閉じているのに視界が眩しく輝き、さらなる集中状態になりました。
そこで、観察している主体に意識を向けたところ、主体の中にしばらく意識がとどまっていましたが、そのうちにお尻と背中がすごく痛くなり、中断しました。40分経っていました。
硬いところに座っていたので、次は柔らかいものを敷いたり、工夫してみます。
姿勢が正しくなくても、このような瞑想状態になるものですか?
また、鬼和尚のおっしゃっていた「すべてを観察する」は、このように俯瞰するやり方で合っていますか?
最近はずっとパッとしない気持ちでしたが、久々に少し明るくなりました。

544鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:49:30 ID:1d4drIFg0
昨日はソフトが動かなかったのじゃ。
 おかしなことじゃ。

>>541 瞑想をしていれば雑念は常に起こってくるものじゃ。
 それにとらわれずにいれば消えて行くのじゃ。
 雑念がなくなれば自分の心の中を深く観察していくこともできるようになるのじゃ。
 思考に執着せずに心の奥ふかくを探索して行くのじゃ。

>>542 それはむしろ人のもつエネルギーなのじゃ。
 人のエネルギーが好む石によって増幅したりするのじゃ。

 そうであるから人によって効果のある石が違ったりするのじゃ。
 おぬしにもおぬしだけに効果のある石があるじゃろう。
 川原とかのたくさんの石があるところで探してみると善いのじゃ。

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:52:37 ID:1d4drIFg0
>>543 そうじゃ、長い瞑想が出来るならばその方がよいのじゃ。
 そこまでは人には無理なのじゃ。
 二時間が限界じゃな。
 三十分毎にたってあるくとよいのじゃ。

 一 できるじゃろう。
    しかし、血行が悪くなるからしなくてよいのじゃ。
    三十分毎に休むのじゃ。

 二 それでよいのじゃ。
    更に実践あるのみなのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2021/12/16(木) 15:37:24 ID:NdtEudKw0
>>544
問答20

問:神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

答:神やグルは解放への道を示すだけだろう。
神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。
トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。
けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解脱に達しなければならない。
人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?

Q:Is it not possible for God and the Guru to effect the liberation of a soul?

A:God and the Guru will only show the way to liberation;
they will not by themselves take the soul to the state of liberation.
In truth, God and the Guru are not different.
Just as the prey which has fallen into the jaws of a tiger has no escape, so those who have come within the ambit of the Guru’s gracious look will be saved by the Guru and will not get lost;
yet, each one should, by his own effort pursue the path shown by God or Guru and gain liberation.
One can know oneself only with one’s own eye of knowledge, and not with somebody else’s.
Does he who is Rama require the help of a mirror to know that he is Rama?

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/16(木) 21:38:25 ID:1d4drIFg0
どのような神やグルでも一人の人間を強制的に解脱させるということはできないのじゃ。
誰もが自分自身を観て、無我になり、無認識に回帰するのみなのじゃ。
それができるのは自分だけなのじゃ。
自分自身を救う道を神やグルは示してくれるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 09:00:48 ID:SC6QYTJc0
>>547
問答21

問:解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探究する必要があるでしょうか?

答:ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。

Q:Is it necessary for one who longs for liberation to inquire into the nature of categories (tattvas)?

A:Just as one who wants to throw away garbage has no need to analyse it and see what it is, so one who wants to know the Self has no need to count the number of categories or inquire into their characteristics;
what he has to do is to reject altogether the categories that hide the Self.
The world should beconsidered like a dream.

549避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 21:30:19 ID:DPZIW9O60
>>545
ご返信くださり、ありがとうございます。孤独な修行の励みとしております。

何時間も座り続けるのは人には無理ということですが、ブッダが悟ったときは実は途中で食べたり眠ったりトイレに行ったりしていたということでしょうか?
歴史的な禅僧の本などを読むと、3日とか7日とか13日とか座り続けたという記述を散見しますが、これも本当ではないのでしょうか?
今でも蔵入りなどは死にかけていますよね。あれは無駄の多い苦行にしか思えませんが。

また、観察中に視界が眩しくなり深い瞑想状態に入ったり、無念無想や体が消える感覚になったなどの場合でも、姿勢が正しくないということもあるでしょうか?
毎回少しずつ工夫はしていますが、もし姿勢をより正しくできるなら、そうしたいです。

しばらく前に、瞑想中ではないのですが、肉体、思考、感情、記憶などのずっと底に、「ただ、ある」としか言えないような、何の特徴も境界もなく、徹底的に均質な、ただただ静かな無限の存在があるのを感じました。
自分だと思っていたものはこんな表面的なものでしかなかったのか、死ぬというのは上に乗っている思考や記憶などが剥がれるということなのだ、本当はこの無限の存在しかないのだ、本当の本当に何もないのだな、肉体も世界も全部観念だというのはこういうことか、などとなんとなく理解できた気がして、少し死や悟りの恐怖が薄れて安心しました。
この経験以降、自分と同一視している肉体、思考、感情、記憶などをうわべだけの嘘のものとして、日常的に観察しやすくなった感覚があります。
そして昨日と今日のことなのですが、瞑想中にすべてを俯瞰するように観察していて、深い瞑想状態に入ったときに主体に意識を向けたのですが、途端に心臓や鳩尾あたりに我慢できないほどの圧迫感、苦痛を感じました。何年も瞑想をしていて、ここまでひどいのは多分初めてです。
この苦痛をよく観察しようとしたのですが、まるでナイフで何度も刺されながら、刺されている箇所を観察しているような緊急事態感で、苦しすぎて瞑想をやめたくて仕方がなくなり、集中の瞑想に切り替えたり、まだ気が済んでいないんだねなどと自我をなだめたりいろいろした挙げ句、瞑想を終了しました。
このように昨日から、主体を観察すると必ず心臓と鳩尾の苦痛が起こるのですが、苦しさをこらえながら無理に観察したらよいのか、自我が消えたくない理由を推測して一つ一つ自分に問うて、収まるかどうかの反応を見て当たりをつけるのか、どうしたらよいですか?
もしかしたら、まだ集中力が足りないということでしょうか?
どうしたらこの先に進めるのか、ぜひともご意見をお聞かせください。鬼和尚しかいません。たのんます。

550避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 23:20:18 ID:DPZIW9O60
蔵入り×

堂入り○

551鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/17(金) 23:59:38 ID:1d4drIFg0
>>548 真我の道では真我以外の全てのものごとを否定しなければならないのじゃ。
 構成要素もなんでも全て否定し去ってしまわなければならないのじゃ。
 認識する全てのものを捨てるのじゃ。
 真我そのものも認識できない認識主体であるから、認識する全てを捨てて辿りつくしかないものじゃ。
 全ては夢幻の如きものとして否定し去るのじゃ。

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 00:05:39 ID:1d4drIFg0
>>549 瞑想に熟達すれば瞑想が睡眠の変わりになるのじゃ。
 食べたり飲んだり排泄したりはしたじゃろう。
 
 本当ではないのじゃ。
 何も飲食しなければ三日ぐらいで死ぬのじゃ。
 排泄をトイレでしなければ糞尿塗れなのじゃ。
 昔の本はおおげさにかくのじゃ。

 どのような状態もありえるじゃろう。
 
 その反応が起こる原因を探すと善いのじゃ。
 原因がわかれば滅することも出来るじゃろう。
 
 他は何も問題は無いのじゃ。
 正しい道を歩んでいるといえるのじゃ。
 そうであるから抵抗も在るのじゃ。

 気づきもあったのじゃ。
 ただひたすらに座ると善いのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 07:49:08 ID:KC7wU8H60
>>549
文章が長すぎやがな。要点を絞って書くがな。

554避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 12:55:05 ID:K3LTGWrs0
>>551
問答22

問:目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

答:目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。
これより他に何の違いもない。
目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢のなかでは真実に見える。
夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。
目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時に現れるのである。

Q:Is there no difference between waking and dream?

A:Waking is long and dream short;
other than this there is no difference.
Just as waking happenings seem real while awake, so do those in a dream while dreaming.
In dream the mind takes on another body.
In both waking and dream states thoughts, names and forms occur simultaneously.

555鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 23:14:17 ID:1d4drIFg0
悟っていない者は覚めている時も自分があると思っているように、夢の中でも自分が有ると思っているのじゃ。
現世もまた夢幻なのじゃ。
単に長い夢であるだけなのじゃ。
ただ意識だけがあると言えるのじゃ。

556避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:06:01 ID:q.ad6W3Q0
>>555
問答23

問:解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

答:すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。
それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべきである。
この探究がどうして書物のなかでできるだろうか?
人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
真我は五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。
真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。
アンナー・マヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。

Q:Is it any use reading books for those who long for liberation?

A:All the texts say that in order to gain liberation one should render the mind quiescent;
therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent;
once this has been understood there is no need for endless reading.
In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is;
how could this search be done in books?
One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom.
The Self is within the five sheaths; but books are outside them.
Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books.
There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

557避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:51:50 ID:sskB6J8c0
鬼和尚様
人が夢の内容をほとんど忘れてしまうのは何故ですか?
起きた瞬間には憶えていてもすぐに忘れてしまったりよほど印象的な夢しか覚えてないと思います

それともむしろ現実でのことを記憶しているのは過去や現実への執着が強すぎるからでしょうか?

夢にしろ現実にしろ記憶は細かいことまできちんと残していくほうが修行としていいでしょうか?
それとも細かい記憶は残らないほうがいいでしょうか?

悟った人はどの程度どのように記憶をしているのですか?

558避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 16:34:02 ID:czRftzgI0
禅の歌を見つけました
https://youtu.be/bw_odBsdOXE

559避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:04:33 ID:DPZIW9O60
>>552
ご返信くださり、ありがとうございます。
正しい道を歩んでいると言っていただきましたし、悟ること以上に求めるものもないので、これからも観察や集中を続けていきます。

更に質問があります。

1,ブッダは悟る直前に「悟るまでは立たない」と決意したとのことですが、「ただし飲水と排泄は除く」だったということでしょうか?
他の禅僧なども同じでしょうか?書物などによると断食は瞑想と兼ねる修行も多かったようですが。

2、7日間とか座りっぱなしのとき、脳は睡眠状態になるかもしれませんが、体はエコノミー症候群などにはならなかったのでしょうか?
実は排泄後の座る前とかに足の曲げ伸ばしやマッサージとかもしていたのですかね?

3,どんな姿勢であっても深い瞑想状態になったり悟ることもありえるが、正しい姿勢の方がそれらの状態になりやすい、という理解でよろしいでしょうか?

560避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:05:40 ID:DPZIW9O60
4,正法眼蔵の坐禅儀によると、座禅は昼夜ともに明るい場所で目を細く開いて行わなければならない、とのことですが、どうしてこのように言っているのでしょうか?
明るい場所で目を開いて行うメリットは何ですか?居眠りしないとか妄想が発生しにくいとかですか?

5,また坐禅儀では、
「一切の環境に捉われる心の働き(原文では「諸縁」)を投げ捨てて、心身を休息させなさい。
善の心、悪の心に捉われないそのままの心が座禅である。
座禅は思いはからい(原文では「心意識」)でも瞑想(原文では「念想観」)でもない。
仏になろうとしてはいけない。(別の訳では「悟ろうと思ってはならない」)
座ったり寝たりするという差別の気持を捨てなさい(原文では「座臥を脱落すべし」)」
とあります。
なんとなく、「心を操作せず、ただそのままにしておけ。無心で座れ」と言っているように読み取ったのですが、合っているでしょうか?
この方法は実践してみる価値はあると思われますか?散漫になるだけでしょうか?

561避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:06:23 ID:DPZIW9O60
6,鬼和尚は目を開けるか閉じるかについて、本人がやりやすい方でやるのがよい、とおっしゃっていますが、鬼和尚が図書館から帰宅し悟られたときの瞑想では目は開けていらっしゃいましたか?
また、現在瞑想されるときはどうされていますか?参考までにお聞きしたいです。

7,集中の瞑想時に、呼吸に気づいている意識がありつつ考えごともしているという場合、それに気づくたびに呼吸だけに意識を集中させるようにしています。
両方を並行させている方が楽で時間が過ぎるのも早いのですが、やはり呼吸だけに集中させた方がよいでしょうか?

8,心身すべてを俯瞰して眺める瞑想のとき、漠然とか散漫といった状態になりやすく、気づくとボーッと考えごとをしているような状態であることが多いです。
何か一箇所を観察する方が、集中の瞑想で磨いた集中力を発揮できる気がするのですが、漠然とした観察でもよいのでしょうか?

以上、溜まっていた疑問なので多くなりましたが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

562鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:28:19 ID:1d4drIFg0
>>556 本に書いてある知識はただ実践のための方法を示すものじゃ。
 方法がわかったらもはや本は要らないのじゃ。
 自分自身を追及する実践をひたすら続けるべきなのじゃ。
 本で得た知識もいずれは捨て去られる瞬間がくるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

>>557 記憶が働いていたり、いなかったりするからなのじゃ。
 所々働いていて、断片的に覚えていたりするのじゃ。
 肉体的な要因なのじゃ。

 目覚めている時は記憶能力が常に働いているからなのじゃ。

 残さなくて善いのじゃ。

>>558 よいことじゃ。
 どんどん歌うと善いのじゃ。

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:33:49 ID:1d4drIFg0
>>559 1 そうじゃ、そうでなくては死ぬだけなのじゃ。
     同じなのじゃ。
     断食しても尿は出るのじゃ。
     誇張表現なのじゃ。

    2 一時間毎にたって歩いたりするのじゃ。     
     今の禅堂でもやっていることなのじゃ。
     それも除いてあるだけなのじゃ。
     全部含めて座禅なのじゃ。

    3 そのような理解で善いのじゃ。
      実践で確かめるのじゃ。

>>560 魔に囚われるからというのじゃ。
    暗いところでは妄想も激しくなったりするからのう。

   そのような理解で善いのじゃ。
   ただひたすら集中するのじゃ。
   
   数息観などで習熟してからの方が善いのじゃ。
   雑念がなくなってから無心で座ると善いのじゃ。

564鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:37:36 ID:1d4drIFg0
>>561 わしは目を閉じていたのじゃ。
    今も眼を閉じているのじゃ。
    それがわしに合っているからなのじゃ。
    あわない者は眼を開けてやるとよいのじゃ。


  7 呼吸に集中するとよいのじゃ。
   意識を向けなければ思考はいずれ止まるじゃろう。
   それを目指すのじゃ。

  8 そのような者は手とか足とかを一つずつ観察する法がよいじゃろう。
   実践してみるとよいのじゃ。

565避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 12:42:30 ID:aGDaQz8I0
>>562
問答24

問:幸福とは何でしょうか?

答:幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我-幸福を楽しむのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである。

Q:What is happiness?

A:Happiness is the very nature of the Self;
happiness and the Self are not different.
There is no happiness in any object of the world.
We imagine through our ignorance that we derive happiness from objects.
When the mind goes out, it experiences misery.
In truth, when its desires are fulfilled, it returns to its own place and enjoys the happiness that is the Self.
Similarly, in the states of sleep, samadhi and fainting, and when the object desired is obtained or the object disliked is removed, the mind becomes inward-turned, and enjoys pure Self-Happiness.
Thus the mind moves without rest alternately going out of the Self and returning to it.
Under the tree the shade is pleasant; out in the open the heat is scorching.
A person who has been going about in the sun feels cool when he reaches the shade.
Someone who keeps on going from the shade into the sun and then back into the shade is a fool.
A wise man stays permanently in the shade.
Similarly, the mind of the one who knows the truth does not leave Brahman.
The mind of the ignorant, on the contrary, revolves in the world, feeling miserable, and for a little time returns to Brahman to experience happiness.
In fact, what is called the world is only thought.
When the world disappears, i.e., when there is no thought, the mind experiences happiness;
and when the world appears, it goes through misery.

566鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/20(月) 21:27:24 ID:1d4drIFg0
本当の幸福は悟りを得る以外に無いのじゃ。
この世では一時の幸福も、苦しみから眼をそらすためだけのものなのじゃ。
一時期快楽を味わってもすぐに苦が戻ってくるものじゃ。
全ての観念がないとき、真の幸福があるのみなのじゃ。

567避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 23:55:32 ID:.tofT0a20
仕事で自分がやろうとしたことに対して
それはやらなくていいです
と言われると自己否定されたと感じると観察しました

そこで怒りが湧くのは自分がなくなる不安に対する機械的な反応だと観察しました

同時に死にたくもなります
それは自己否定された通りにしようとしていると観察しました

このようなことが何度も起こり
何度も死にたいと思うとうつになると観察しました

568避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 00:12:13 ID:.tofT0a20
>>567
自分は世間とは合わない
とずっと感じてきましたが
これはこういうことがあったときの反応の一つだと観ました

569避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 07:46:21 ID:.tofT0a20
>>567
>仕事で自分がやろうとしたこと
というのは、これをやっておけば後々誰にとってもいいことだと思うようなことです

570避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 12:42:34 ID:jLA8ILnE0
>>566

問答25

問:洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

答:静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

Q:What is wisdom-insight (jnana drishti)?

A:Remaining quiet is what is called wisdom-insight.
To remain quiet is to resolve the mind in the Self.
Telepathy, knowing past, present and future happenings and clairvoyance do not constitute wisdom-insight.

571鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/21(火) 21:35:56 ID:1d4drIFg0
>>567 よい観察なのじゃ。
 そのように気づきが起これば、囚われなくなるじゃろう。
 まだあるならば更に観察すると善いのじゃ。

>>570 心が完全に鎮まっていれば洞察力も起こるのじゃ。
 仏教では妙観察智というのじゃ。
 それはまだ悟っていない忘我の段階でも起こすことが可能なのじゃ。
 自己の囚われから離れた視点からの洞察なのじゃ。
 眠る時などには誰もが経験することなのじゃ。

572避難民のマジレスさん:2021/12/22(水) 00:39:01 ID:DPZIW9O60
>>562>>563>>564
鬼和尚様
たくさんの質問にご返信くださり、ありがとうございます。
過去の禅僧達と同じくらいの覚悟でやらないといけないのだろうかと考え、だけどできそうにもないので、自分を卑下したり投げ出したりしかけていました。
観察や集中の瞑想についても、常にこれでいのだろうかという不安と疑問でいっぱいで、苦痛になっていました。

おかげさまで、新しい気持ちで修行を進めていかれそうです。
足の裏に刺さった1本の小さなトゲのせいで登山ができなくなるように、小さな疑問や不安のために修行が停滞したり止まったりしてしまうものだと実感しました。
また何か疑問が発生しましたら、小さなことでもお聞きするつもりです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

573避難民のマジレスさん:2021/12/22(水) 13:00:24 ID:vdFKd1bg0
>>571
問答26

問:無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

答:無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。
無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離れないことが智慧である。

Q:What is the relation between desirelessness and wisdom?

A:Desirelessness is wisdom.
The two are not different; they are the same.
Desirelessness is refraining from turning the mind towards any object.
Wisdom means the appearance of no object.
In other words, not seeking what is other than the Self is detachment or desirelessness; not leaving the Self is wisdom.

574鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/22(水) 23:25:56 ID:1d4drIFg0
>>572 こちらこそよろしくなのじゃ。
 またおいでなさい。


>>573 無欲と智慧は同じものというのじゃ。
 それは真我の別の側面であるからというのじゃ。
 真我以外に何も求めないことが無欲であり、真我から離れないことが智恵と定義しているのじゃ。
 そうであれば無欲と智恵で真我を実現することが適うからなのじゃ。
 常に真我だけを求め、離れないようにするのじゃ。

575避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 12:18:26 ID:5nOQTO2M0
>>574
問答27

問:探究と瞑想の違いは何でしょうか?

答:探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。

Q:What is the difference between inquiry and meditation?

A:Inquiry consists in retaining the mind in the Self.
Meditation consists in thinking that one’s self is Brahman, Existence-Consciousness-Bliss.

576避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 14:58:56 ID:CikOZtHk0
気功やヨガの法で、男女によって左右が違うものがあったりしますが、なぜ違うのですか?
その通りにやらないとどんな事が起きるのでしょうか?
性別に嫌なイメージがあったり、肉体と精神の性別が違う人などはどうればよいですか?

577避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 16:56:40 ID:CikOZtHk0
鬼和尚に以前教えて頂いた気功革命を読んでいるのですが、1番のオススメの法はありますか?

できる限り順番にしっかり時間をとってやった方が良いとは思うのですがどれも数分で切り上げてしまいます。最初はそれでも大丈夫でしょうか。

ひょうたん功をやると、お腹を膨らませてから吐く時に意識がクラっとするような感じと体が熱くなるのですが、そのような効果は本などに書いてなかったのですが、これは良い効果でしょうか?
気持ちは良いですのですが、
単に力み過ぎでしょうか?

578避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 16:57:52 ID:CikOZtHk0
自分でも反省しているのですが、鬼和尚に色々教えて頂いた事を最初はやってみるのですが、なかなか継続ができていません。
どうしたら毎日継続できるようになるでしょうか。

579避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 17:01:26 ID:CikOZtHk0
背骨を真っ直ぐにするために一度整体など行ってみようと思っています。十字式という気功の整体があるようなのですご存知ですか?効果はあると思いますか?

580鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/23(木) 23:31:03 ID:1d4drIFg0
>>575 探求は直接真我のなかにいることだというのじゃ。
 瞑想はブラフマンを観想することだというのじゃ。
 どちらでも悟りへの道が開かれるのじゃ。
 悟りに至ればそれらは一つであったと知れるのじゃ。

>>576 体にある器官や能力が違うからなのじゃ。
 副作用が起きたりするじゃろう。
 起こらないこともあるじゃろう。
 肉体の性別に随うのじゃ。
 器官が違うのであるからのう。

>>577 たんとう法じゃな。
 これだけで最後まで至れるのじゃ。
 数分でも善いのじゃ。
 毎日続けることが大事なのじゃ。

 よい効果なのじゃ。
 熱の気が出てきたのじゃ。
 それだけでも健康によい効果があるじゃろう。
 筋が善いのじゃ。
 日々続けると善いのじゃ。

581鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/23(木) 23:38:22 ID:1d4drIFg0
>>578 必要が無いからじゃろう。
 絶対に必要ならば毎日やるじゃろう。
 
 心臓が痛くてやらなければ死ぬとかいう理由ならば毎日やるのじゃ。
 それほどてはなくとも体を観察して必要な理由をいくつも探すと善いのじゃ。

>>579 あるものもいるというのじゃ。
 いってみるとよいのじゃ。

582避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 05:45:01 ID:czRftzgI0
人の苦しみの根源は、無意識に起きる思考・感情を自己のものと思うことにあると垣間見ました

583避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 13:36:23 ID:e.waK4Eg0
>>580
問答28

問:解脱とは何でしょうか?

答:束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。

Q:What is liberation?

A:Inquiring into the nature of one’s self that is in bondage, and realising one’s true nature is liberation.

584鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/24(金) 23:05:17 ID:1d4drIFg0
>>582 よい気付きなのじゃ。
 それがお釈迦様の説いた縁起なのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>583 自己の本性を悟ることが解脱だというのじゃ。
 何か別の者になる事が解脱ではないのじゃ。
 どこまでも自分を追及して、本性に気づくことで解脱も訪れるのじゃ。
 それは知識や記憶では出来ないことなのじゃ。
 ただひたすらに今ここで観察する事でできるのじゃ。

585避難民のマジレスさん:2021/12/25(土) 12:14:51 ID:IJxaZk3w0
ありがとうございます。
気功法が合うような気がします。
まずは少しづつでも毎日続ける事を目標にします。

早速効いているのか、早い時間にスっと目が覚めるようになって驚いています。(目覚め後の憂鬱は変わらずなのでダラダラしてしまうのですが)

もう1つおききしたいのですが、
このような行法を行うとイライラが出やすい気がします。
エネルギーが出てくるとイライラも起きやすいのでしょうか?
元気になりたいけど、元気になるとイライラが出て辛くなる場合、どうしたら良いのでしょうか?

586避難民のマジレスさん:2021/12/25(土) 14:22:00 ID:czRftzgI0
三禅とはどういう状態をいうのでしょうか? サマーディと同じですか?

587避難民のマジレスさん:2021/12/25(土) 14:23:34 ID:czRftzgI0
五感を感じない状態ですか?

588避難民のマジレスさん:2021/12/25(土) 15:03:12 ID:1rvJf7v.0
>>584
解説をありがとうございました。
ラマナはこの問答だけで十分だと言っていたようですが、総評をお願いできませんか?

589鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/25(土) 23:26:56 ID:1d4drIFg0
>>585 運動すると善いのじゃ。
 さらに健康になるじゃろう。

 或いは小周天とかクンダリニーをあげて、頭頂のブラフマランドラにエネルギーを集中するのじゃ。
 自然にサマーディにはいれるじゃろう。
 実践在るのみなのじゃ。

>>586>>587 それは五感はなく、心の働きが止まり、快もない状態なのじゃ。
 サマーディも超えているのじゃ。
 検索して調べて見ると善いのじゃ。

590鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/25(土) 23:30:30 ID:1d4drIFg0
>>588 さまざまな問答があったがマハリシは何を聞かれても、ただひたすらに私を追求することを勧めるのじゃ。
 それを基準にして全ての問いに答えているのじゃ。
 それが真の悟りへの道であるからなのじゃ。
 全ての法はそれを目指しているのじゃ。
 人々がそれを忘れて観念遊戯を聞いても、マハリシは常にその道に戻って教えるのじゃ。
 それこそ真のグルの教えといえるのじゃ。

591避難民のマジレスさん:2021/12/26(日) 12:08:36 ID:czRftzgI0
禅定をまとめました

初禅:思考や感情がまだあるが離欲による快がある状態
二禅:思考や感情などの心の働きも止む状態
サマーディ
三禅:五感はなく、心の働きが止まり、快もない状態。安楽のみ在る状態
四禅:安楽もなくなり全ての感受もなくなる状態

592鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/26(日) 22:52:49 ID:1d4drIFg0
>>591 それでよいのじゃ。
 パタンジャリのヨーガスートラでは禅定の上にサマーディがあるという分類なのじゃ。
 仏教の分類とは違うから注意しなければならないのじゃ。
 どちらがよいとか悪いとかではないのじゃ。
 それらも観念による分類であるから、本来はないものじゃ。
 修行者が自分の状態を知って不安をなくせばそれでよいのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 17:36:14 ID:sskB6J8c0
初禅が思考や感情がまだあるが離欲による快がある状態だということについてお聞きしたいのですが

それは思考や感情を自分だとまだ同一視している状態ですか?
それとも思考や感情が自分ではないと同一視が抜けたけどまだ今までの慣れで気を抜くと余計な思考や感情が出てしまうような状態ですか?

禅定と厭離についての相関が本など読んでもいまひとつ分からないので
初禅において思考や感情が自分でないときちんと分かっているのかまだ分かってないのかが知りたいのでおしえてください

594避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 17:40:56 ID:sskB6J8c0
あと禅定はあくまで何かへの集中状態で集中対象以外を認識下に眠らせているだけできちんと厭離できてるわけでないのか
それとも禅定に入った時には厭離できているのか
そのへんもおしえていただけるとありがたいです

595避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 18:43:45 ID:rlAecqNg0
鬼和尚様

高藤聡一郎さんの仙人入門という本の19ページに

人間が肉体を持ったまま、生死を超えて天地と一体化する。これこそ本当の悟りである。

とあるのですがそうなんでしょうか?

596避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 22:51:04 ID:F1.xNQG20
年末年始は1人で過ごすことにしました。人生で初めての選択です。
今年は心に思うことを日記にして残していたので読んでみました。成長してるんだか、してないんだかイマイチよくわからなかったです(笑)
でも、去年の自分だったらできなかったであろう1人になる勇気を持てたことは唯一褒めたいです。

現在の私はまだふとした時に怒りや邪念が浮かびます。
この年末年始から改心して少しでも囚われの檻から抜けれるように励みます。

寒い日が続きますが、ご自愛ください。
少し早いですが、よいお年を。

597鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/27(月) 23:07:31 ID:1d4drIFg0
>>593>>594 同一視しているのじゃ。
 禅定の間だけ離れているのじゃ。
 禅定から覚めればまた同一視してしまうのじゃ。

 禅定だけでは厭離はできないのじゃ。
 禅定は厭離ができやすい心の状態をつくるだけなのじゃ。
 四禅や三昧を極めても全く厭離が出来ていない者もありえるのじゃ。
 実践によって確かめるのじゃ。

598鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/27(月) 23:10:49 ID:1d4drIFg0
>>595 違うのじゃ。
 それは仙道の考えなのじゃ。
 仏教的には無色界の境地じゃな。

 真の悟りは違うものじゃ。
 そこにはまだ観念があるからいつかはまた生まれかわってしまうのじゃ。

 無我になり、無認識になれば観念も滅して永遠の意識に没入するのじゃ。
 それが真の大悟徹底なのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 23:22:30 ID:sskB6J8c0
>>597
ありがとうございます
古来より言われている中で最もベーシックな解説通りですね
たまにやたら禅定を重視する説明を見かけるのでお聞きました
実践にいかしたいと思います
ありがとうございました

600鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/28(火) 21:48:07 ID:1d4drIFg0
>>596 以前はできなかったことが出来るのは進歩しているのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 おぬしも体に気をつけるのじゃ。
 よいお年をなのじゃ。

>>599 どういたしまして、またおいでなさい。

601避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 12:18:42 ID:rlAecqNg0
鬼和尚様

先日も私の質問に答えていただき本当にありがとうございます。

602避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 17:55:59 ID:19SK/XQo0
鬼和尚さま、こんにちは。
私の質問にご回答頂きありがとうございました。
返事が大幅に遅れ申し訳ございません。
今年の2月頃に精神科を受診し入院すると報告した者です(下記参照)。


126: 避難民のマジレスさん :2021/02/12(金) 20:44:32 ID:Pei9acVg0
鬼和尚さま、こんにちは。
私は働くこと・生きていくことへの恐怖心から大学卒業後ほぼ引きこもり生活を送っていました。
その間、強迫的な恐怖心と自分への不甲斐なさから、あらゆる娯楽などを拒絶する心に囚われたまま、
つい無意識的に死に関する思考や厭世観や仏道修行に傾倒し過ぎてしまいました。
その結果、周囲のあらゆるものに意味や喜怒哀楽を感じない状態になってしまいました。
人生の意味が消失しそうで、このままの状態が進展することが恐ろしく、もがくような非常な不安と苦しみを感じています。
これを受け入れることができず精神科を受診して入院することが決定しました。
悟りたく無いという心があるのですが、元の喜怒哀楽のある状態に戻れるのでしょうか。
もうどうしようも無くて困っております。
やはり一旦は元の状態に戻りたいのですが、もう二度と戻れないような気もしています。
しっかり働いて両親に報いるためにも、元の状態に戻りたいです。

127: 避難民のマジレスさん :2021/02/12(金) 20:46:10 ID:Pei9acVg0
↑本当に物事に意味を感じる心が無くなってしまったかのようです。
そこまでするつもりは無かったのにどうしてこうなったと後悔しています。


数年間、鬼和尚さまの仰る瞑想などを行っているうちに
(就職しなければならないという強い焦りも原因かもしれませんが)、
あらゆる物事への興味関心がほとんど無くなってしまいました。
これは修行が進んでいる証拠でしょうか。
これが楽しいといった感情や自然が美しいといった感覚も
無くなってしまっているようです。
この状態を拒絶して元の興味関心のある状態へ戻りたいという気持ちも
あるのですが、もう元の状態へは戻れないという予感もあります。
正直、生きていくモチベーションが保てそうにありません。
精神の混乱の中で頭の働きも鈍ってしまいました。
何事にも興味が持てないので、余暇があるとつい寝てしまいます。
以前鬼和尚さまは「戻ろうと思えば戻れるのじゃ」と回答されていましたが、
一向に戻る気配はありません。
もう普通の人のように外的な物事を楽しんで生活することは諦めるしかない
のでしょうか。もう決心して修行を進める以外に道は無いのでしょうか。
正直、修行や悟りにも関心がありますが、俗世の事柄を楽しみたい自分を
捨て切れずにいます(実際には楽しめなくなっているのですが)。
いったい自分はどうしたら良いのでしょうか。
何も楽しめずに生きていくのが苦しいです。

//眠気眼

603鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/30(木) 21:35:25 ID:1d4drIFg0
>>601 どういたしまして、またおいでなさい。

>>602 一人で旅に出るとよいのじゃ。
 そうすれば楽しいことも見つかるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

604避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 21:39:00 ID:VghTikOs0
>>474のこの文の意味がよくわからないので解説していただけたら嬉しいです。
「無知」とは何を指しているのでしょうか?

対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。

the nescience too, which is endowed only with the residual impressions of objects, and in which there are no objects and no functioning’s, I am not.

605避難民のマジレスさん:2021/12/31(金) 14:12:09 ID:h5P9mv0k0
鬼和尚。
今年1年、たくさんの質問に答えてくださりありがとうございます。
個別にお礼が言えず、年末にまとめてのお返事になりますがお許しください。

良いお年をお迎えください。

606避難民のマジレスさん:2021/12/31(金) 18:07:26 ID:Gnrz5V8w0
鬼和尚さん

今年もいろいろ教えてくださってありがとうございました。
今日はやっと、三年近く前の鬼和尚さんの心の観察についての回答が理解できました。
ここまでこられて良かったです。
鬼和尚さんのおかげです。いつもありがとうごさいます。
来年もがんばります。

鬼和尚さんも良い年を迎えて、2022年も健康でいてください。
来年もよろしくお願いしますm(_ _)m

607避難民のマジレスさん:2021/12/31(金) 20:26:49 ID:qhuUuJkQ0
鬼和尚
今年もお世話になりありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

608避難民のマジレスさん:2021/12/31(金) 21:17:51 ID:s.qd8MIE0
鬼和尚
今年も一年いろいろ教えてくださりありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。

609避難民のマジレスさん:2021/12/31(金) 23:05:24 ID:e2UfT75Y0
鬼和尚様
今年も質問に答えて頂きありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
長生きして下さい。

610鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/01(土) 00:01:24 ID:1d4drIFg0
>>604 無知による、対象への印象も、そして対象も働きも無いという(境地)も私ではない、というような意味じゃな。
 要するにどんなに深い瞑想の境地も自分ではないというのじゃな。
 それは無知による幻想というのじゃ。
 
>>605 どういたしまして、またおいでなさい。
 おぬしもよいお年をなのじゃ。

>>606 よいことじゃ。
 来年も精進あるのみなのじゃ。
 おぬしもよいお年をなのじゃ。

611鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/01(土) 00:03:02 ID:1d4drIFg0
>>607 どういたしましてなのじゃ。
 こちらこそよろしくなのじゃ。

>>608 どういたしまして、なのじゃ。
 こちらこそよろしくなのじゃ。

>>609 どういたしまして、なのじゃ。
 こちらこそよろしくなのじゃ。
 おぬしも体に気をつけるのじゃ。

612避難民のマジレスさん:2022/01/01(土) 11:56:07 ID:Vc9avoeU0
鬼和尚あけおめです。
今年もよろしくおねがいします!


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