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鬼和尚に聞いてみるスレ part19

1避難民のマジレスさん:2021/07/31(土) 23:36:27 ID:TEyhyzXI0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part18
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514

472鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 23:12:07 ID:1d4drIFg0
>>467 人間だけでなく、生き物は皆苦しみから逃れ快楽を得ようとしているものじゃ。
 それが本能なのじゃ。
 それも全ての根源である意識から来ているのじゃ。
 そこに戻るのが悟りなのじゃ。
 自分を知ることは、悟りへの最も近い道なのじゃ。

473鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 23:16:40 ID:1d4drIFg0
>>471 観察がまだ完全ではないからなのじゃ。
 知識としてわかっただけではまだ完全に厭離できていないからなのじゃ。
 何度も観察して心からその反応を取り除かなければならんのじゃ。

 例えば部屋が汚れていて、掃除をしなければならないとか頭で思っているだけでは綺麗にならないようなものじゃ。
 実際に部屋を掃除して、酷い汚れがあるところは何度もふかなければならんじゃろう。
 
 そのように心の汚れにもにた苦しみは何度も観察して取り除かなければならんのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 23:58:20 ID:/zJOcwlU0
>>472
ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。

問:私とは誰でしょうか?

答:七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。
五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。
五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。
五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。
ものごとを考える心でさえ、私ではない。
対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。

Who am I ?

The gross body which is composed of the seven humours (dhatus), I am not;
the five cognitive sense organs, viz. the senses of hearing, touch, sight, taste, and smell, which apprehend their respective objects, viz. sound, touch, colour, taste, and odour, I am not;
the five cognitive sense organs, viz. the organs of speech, locomotion, grasping, excretion, and procreation, which have as their respective functions speaking, moving, grasping, excreting, and enjoying, I am not;
the five vital airs, prana, etc., which perform respectively the five functions of in-breathing, etc., I am not;
even the mind which thinks, I am not;
the nescience too, which is endowed only with the residual impressions of objects, and in which there are no objects and no functioning’s, I am not.

(七つの要素:栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子)
(五つの生気:パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ(気)
アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。)

475避難民のマジレスさん:2021/11/26(金) 17:49:07 ID:DDnig7ss0
>>469
教えていただきありがとうございます。
意識は何の性質もないのに、なぜ認識などを起こそうと意思できるのでしょうか?

476鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:41:05 ID:1d4drIFg0
>>474 ここでマハリシが説いている法は、お釈迦様が大念処経等で説いた教えと同じなのじゃ。
 自分の身体とか器官とか心の働きなどを詳細に観察して、自分ではないものを厭離していくのじゃ。
 観察すれば観察対象となったものは、主体ではないという気づきが起こって厭離されるのじゃ。
 それが最も速やかに無我にまで至る法なのじゃ。

477鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:44:43 ID:1d4drIFg0
>>475 意識は何でも出来るのじゃ。
 全ては夢幻であるからのう。
 人が空想に耽れば何でも心に生み出せるようなものじゃ。
 総てただ仮に起きていると言えるだけなのじゃ。

478避難民のマジレスさん:2021/11/26(金) 23:22:03 ID:2sO.aa9c0
>>476
問:もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

答:今述べたことすべてを「これではない」「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒―――それが私である。

If I am none of these, then who am I?

After negating all of the above-mentioned as ‘not this’, ‘not this’, that Awareness which alone remains – that I am.

479避難民のマジレスさん:2021/11/27(土) 12:28:06 ID:DDnig7ss0
>>477
教えていただきありがとうございます。
私が、ご説明を聞いてわかったようなわからないような感覚になるのは
それは、何でもできるものには何か性質と呼べるものがあるはずだ、という思い込みがあるせいでしょうか?

480鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/27(土) 23:02:30 ID:1d4drIFg0
>>478 全てを否定していけば、否定すらも消えて行くのじゃ。
 疑う自分があるうちはまだ否定しきっていないのじゃ。
 否定がなくなれば真の主体があるのみなのじゃ。
 それが意識なのじゃ。

>>479 そうじゃろう。
 観念の中に居るうちは観念の無い状態がわからないのじゃ。
 観念である言葉で表したり、受け容れようとしても不可能なのじゃ。
 自ら感得する以外はないのじゃ。

481避難民のマジレスさん:2021/11/27(土) 23:09:44 ID:DDnig7ss0
>>480
思考では到達できないものであることがよくわかりました。
教えていただきありがとうございました。

482避難民のマジレスさん:2021/11/28(日) 00:17:05 ID:uzLkGRNQ0
>>480

問:覚醒の本性とは何でしょうか?

答:覚醒の本性は、存在―意識―至福である。

Q:What is the nature of Awareness?

A:The nature of Awareness is existence-consciousness-bliss.

483鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:31:32 ID:1d4drIFg0
>>481 どういたしまして、またおいでなさい。

>>482 覚醒によって本来の意識に到達すれば、それだけが存在しているものとわかるのじゃ。
 そしてそれが一切の苦がない永遠の至福であることも感じるのじゃ。
 それはもはや言葉で説明することができない境地なのじゃ。
 どのような言葉で綴ろうとも、嘘になってしまうのじゃ。
 実践して悟りを得て初めてわかることなのじゃ。

484避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 00:22:40 ID:tvh25SKA0
>>483
問答4

問:真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

答:「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見るもの」である真我は実現されるだろう。

Q:When will the realization of the Self be gained?

A:When the world which is what-is-seen has been removed, there will be realization of the Self which is the seer.

485避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 12:33:07 ID:FtdqObDk0
対人恐怖の観察ですが、ネガティブな想像に気づいたら人の笑顔や受け入れられた記憶を思い出す様にする事で、対面する時の恐怖感は前より薄れました。

それとは別に、話した後の後悔や自責はまた別の原因があるようで、それは理想の自分と、理想通りに出来ない自分を責める心がありました。

理想自体も印象だけの稚拙なものだし、自分は思っていたより偏見だらけである事にも気付きました。結局その偏見や稚拙な理想が自分を見下してバカにしている、自分は結構嫌な奴だと気付きました。

あと、責める心の原因のひとつに怒りがあるので、怒りについて観察していると私は実は結構怒りを感じやすい事に気づきました。
怒りもいくつかパターンがあり、良く感じやすい怒りの原因の1つには、「何かを邪魔されたと感じた時」に突発的な強い怒りを感じやすいです。
これは何か予定や願望などの方向性があって、それが邪魔された時に行き場のないエネルギーみたいなものが湧いてくる感じです。
それを他責や自責という、責める事でストレス解消しようとする働きがありました。

責められる心、罪悪感の心もあります。
これはまだよく分からないのですが、度々自分が罪人であるかのような気分になります。
自分のせいで大事な人を不幸にさせてしまったような無力感と悲しみのようなものも、深くにある感じがします。
原因のわからない憂鬱感はこのような所からも来ている気がします。
さらに観察をしていきます。

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/29(月) 21:39:49 ID:1d4drIFg0
>>484 客体の全てである世界がなくなれば、主体だけが残るじゃろう。
 それが見るものである真我なのじゃ。
 それは全ての観念をなくすことで感得されるのじゃ。
 それが全てを否定する真我の道なのじゃ。

>>485 そうじゃ、更に実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

487避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 00:05:41 ID:6vueSoFw0
>>486
問答5

問:世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるということはないのでしょうか?

答:ないだろう。

Q:Will there not be realization of the Self even while the world is there (taken as real)?

A:There will not be.

488避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 16:01:08 ID:wPHKciIQ0
気圧の変化で気分が落ち込みやすいのですが、
気圧と気分はどのように関係しているのですか?

やたらと気分が落ち込むと思って気圧を調べると
超警戒マークがついています。

489避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 16:15:03 ID:wPHKciIQ0
今日も気分が悪く罪悪感が強いです。

恐らく気圧の影響ですが
何に対してなのかわかりませんが
申し訳ない気持ちです。

例えば自分は現在働きながら普通の暮らしを出来ているけど、そうでない人も沢山いる事や、
食事で肉を食べる事、よくファストファッションを利用するけど世界でゴミ問題や環境破壊なども問題になっていること、人間のために動物実験がされていることなど、
直接的に自分が行ってはいないけど、
生活のために利用している事に罪悪感を感じます。

まだまだ知らない事は沢山あると思いますがどこかで誰かの不幸の上に成り立っていると知ってしまうと罪悪感を感じます。

しかし何も出来ず、何もしていません。

この罪悪感に対してはどうしたら良いのでしょうか。

両親が不幸だと感じる事も影響しているきがします。
両親は貧しく不幸です。私に出来ることはあまりありません。

490避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 16:58:34 ID:wPHKciIQ0
両親の問題は置いておいても、
自分の家族にも感じます。
実際に相手はなにも思っていない時でも、
自分のせいで不幸にさせているとか、
不幸にさせてしまうかもしれない、
(実際不幸なわけではないのですが
 度々何かそのような気持ちになります。)
など思います。
しかし具体的には何をしたら良いのかわかりません。

491避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 17:52:15 ID:IasFnqGA0
和尚様
何か言ったり思ったりした後に、…って言ってる。…って思ってる。と思う事は、自我がほんとの自分ではないと知るための助けになるでしょうか?
それと、覚った者には一切の感情がなくなってしまうのでしょうか?
宜しくお願いします。

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 21:54:42 ID:1d4drIFg0
>>487 世界が実在しようと、しまいと人が認識する世界は観念としてなのじゃ。
 観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 全ての観念がなくなれば真我独存になるのじゃ。

>>488 気圧が下がれば血流もわるくなり、気分が落ち込むのじゃろう。
 冬でも寒くて血流がわるくなるから落ち込んだりするのじゃ。
 
>>489 それも心の中に原因があるからなのじゃ。
 心の中の原因を探すのじゃ。
 原因からそのような罪悪感が起こり、原因が無ければ罪悪感も起こらないと観察するのじゃ。
 そうすれば消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

493鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 21:55:31 ID:1d4drIFg0
>>491 なるじゃろう。
 日々続けると善いのじゃ。

 あるのじゃ。
 起こそうと思えば起こせるのじゃ。
 自在なのじゃ。

494避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 23:44:04 ID:C636iy9Y0
>>493
和尚様
お答えいただいて、ありがとうございます。
実践に励んで参ります。

495避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 00:12:58 ID:PRgXfFG20
>>492
問答6

問:なぜでしょうか?

答:見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。
錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は得られない。
同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。

Q:Why?

A:The seer and the object seen are like the rope and the snake.
Just as the knowledge of the rope which is the substratum will not arise unless the false knowledge of the illusory serpent goes,
so the realization of the Self which is the substratum will not be gained unless the belief that the world is real is removed.

496鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/01(水) 21:55:39 ID:1d4drIFg0
>>494 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。


>>495 心に幻想の観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 縄と蛇の両方を一度に認識できないようなものじゃ。
 幻想があれば蛇と見え、幻想が無ければ縄と見える以外にないからのう。
 幻想がなくなれば真我も実現したといえるのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 22:13:12 ID:WW3Qevas0
>>496
問答7

問:対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

答:すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。

Q:When will the world which is the object seen be removed?

A:When the mind, which is the cause of all cognition and of all actions, becomes quiescent, the world will disappear.

498鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/02(木) 21:41:01 ID:1d4drIFg0
全ては心で創られる故に、心が鎮まれば対象となる世界も消えるのじゃ。
心が観念を生み出すことも無ければ認識の対象も無いのじゃ。
サマーディにまで到達すればそれも可能なのじゃ。

499避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 01:16:42 ID:qL2B6IQU0
>>498
問答8

問:心の本性とは何でしょうか?

答:「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。
心はすべての想念を起こさせる源である。
想念を離れて心のようなものは存在しない。
それゆえ、想念が心の本性である。
想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。
深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。
クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させる。
真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。
それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。
真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。
「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。
心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。
それはひとりであることができない。
微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。

500避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 01:23:44 ID:qL2B6IQU0
Q:What is the nature of the mind?

A:What is called ‘mind’ is a wondrous power residing in the Self.
It causes all thoughts to arise.
Apart from thoughts, there is no such thing as mind.
Therefore, thought is the nature of mind.
Apart from thoughts, there is no independent entity called the world.
In deep sleep there are no thoughts, and there is no world.
In the states of waking and dream, there are thoughts, and there is a world also.
Just as the spider emits the thread (of the web) out of itself and again withdraws it into itself, likewise the mind projects the world out of itself and again resolves it into itself.
When the mind comes out of the Self, the world appears.
Therefore, when the world appears (to be real), the Self does not appear;
and when the Self appears (shines) the world does not appear.
When one persistently inquires into the nature of the mind, the mind will end leaving the Self (as the residue).
What is referred to as the Self is the Atman.
The mind always exists only in dependence on something gross;
it cannot stay alone.
It is the mind that is called the subtle body or the soul (jiva).

501避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 09:25:16 ID:HEaYpSkM0
因縁の縁とはどのように作られるものなのですか?

因については経験や記憶から作られるという理解で合っていますか?

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:10:17 ID:1d4drIFg0
心も対象があって働くものじゃ。
想念という対象がなければ心も働かないのじゃ。
その時、真我が現われるのじゃ。
それは対象がなく独立して存在するものなのじゃ。

503鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:12:37 ID:1d4drIFg0
>>501 因となる観念から別の観念が起こる時、縁があったからだと仮設するのじゃ。
 観念から観念が起こらなければ縁はなかったと言われるのじゃ。
 そのように観念から観念が起こることを、説明した観念が縁なのじゃ。
 
 そのような理解で善いのじゃ。

504避難民のマジレスさん:2021/12/04(土) 01:15:25 ID:PnSwz97c0
>>502
問答9

問:心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

答:身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。
もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。
そこが心の起源となる場所である。
絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。
心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。
この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。
二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

Q:What is the path of inquiry for understanding the nature of the mind?

A:That which rises as ‘I’ in this body is the mind.
If one inquires as to where in the body the thought ‘I’ rises first, one would discover that it rises in the heart.
That is the place of the mind’s origin.
Even if one thinks constantly ‘I-I’, one will be led to that place.
Of all the thoughts that arise in the mind, the ‘I’-thought is the first.
It is only after the rise of this that the other thoughts arise.
It is after the appearance of the first personal pronoun that the second and third personal pronouns appear;
without the first personal pronoun there will not be the second and third.

505避難民のマジレスさん:2021/12/04(土) 04:32:07 ID:QWnvuCVw0
人が死ぬと身体という知覚器官を失って外部の対象もなくなる気がするのですが
死んだ人間が悟らないのは何故ですか?

死んだ人間にも何らかの対象と知覚の働きがあるのでしょうか?
あるとしたらどういったものですか?

506避難民のマジレスさん:2021/12/04(土) 18:45:47 ID:h5P9mv0k0
死期って悟れるものでしょうか?
「ああ、もうじき自分は死ぬんだな」という感覚って死ぬ直前の人間や動物はわかるものなんでしょうか?

鬼和尚が死期を悟ったら、ブログなり掲示板なりで報告してもらえますか?

507龍閃:2021/12/04(土) 22:08:30 ID:kD5V7aHg0
死後は眠っている状態に近いとのことですが、
生きているうちに夢をコントロールする能力を身につけていれば、
中有でもその能力を生かせたりするものなのですか。

508鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/04(土) 23:28:40 ID:1d4drIFg0

 心はまず自分として現われるというのじゃ。
 自分があって、自分の思考とか、感情があるのじゃ。
 それが探求の妨げになるのじゃ。
 自分と自分のものを守ろうとするからなのじゃ。
 自分が無ければ思考も鎮まり、意識があるのみになるのじゃ。

509鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/04(土) 23:34:39 ID:1d4drIFg0
>>505 観念がまだあるからなのじゃ。
 観念があり、思考も記憶も残っているのじゃ。
 夢の中であるようなとりとめもない思考であるがのう。
 自分も観念に拠ってあるのじゃ。
 それらが有る限り、悟りは訪れないのじゃ。

>>506 悟れる者も居るのじゃ。
 長い病とかでもうそろそろ自分の体力がつきそうだと知れることも在るのじゃ。
 事故とかでいきなり死ぬのはわからないじゃろう。

 わしはあと七十年ほどいきるのじゃ。
 
>>507 少しは役に立つのじゃ。
 夢の行はそのための修業なのじゃ。
 自分の意志に拠っていく所を決めたりもできるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

510避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 00:12:31 ID:BkzbujUE0
嫌な事を思い出して心が痛む事があります。
その時とても不快で、怒りに変わったり、どう対処しようかや何故なのかと考えたり、もしくは良い方に捉えるとか、違う事を考えるとか、
様々な逃避がありますが、
まずその痛みを受け止める事が大事でしょうか?

私は多少の体の痛みには強い方で、少しの怪我なら気付かなかったりするし、我慢する事が出来ます。
しかし心の痛みには潔癖症な位に敏感で、避けようとしてしまいます。

体の痛みを多少我慢できるのは、それは大した事がないと思えたりすぐ治る一時的なものだと思えば気に病まないでいられます。
心の痛みはどうしてそうはいかないのか… 見えないものだからこそ、自己イメージの傷は一度ついたら一生残るもののように思えてしまうからかもしれません。

まずその痛みを感じて耐えてみるというか、痛いということから逃げないで感じてみたらそれは大した事ないと思えるのでは、、と思い、
とりあえず痛みを感じるようにしてみることを試していますが、
これは良いことでしょうか。

また、体の痛みと心の痛みはどう違うのでしょうか?
心の痛みは、体の痛みより明らかに「痛く」はないのに苦痛なのは何故なのでしょうか。
痛みも観察していけばわかることはあるでしょうか。

511避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 00:19:55 ID:BkzbujUE0
人は悟りを求めるべきだと思いますか?

死後も今が続いて行くだけの世界ならそれはそれで良いのかもしれないと思うのですが、
苦痛は恐ろしいです。

生まれ変わりがあってどんな境遇に何になるのかわからない、いつ悪夢のような世界に落ちるかわからない、自己の存在とはそのようなものなのでしょうか。

確か仏教でも天界で徳を使い切ってしまったら地獄に落ちるというような話があったかと思うのですがそれは本当なのでしょうか?それを繰り返すのですか?

今が安泰だからこれがずっと続いていくわけではないですか?自己の存在はいつか必ず地獄のような世界に落ちるのでしょうか?

512避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 02:51:45 ID:MJvA6rnA0
>>508
問答10

問:どうすれば心は静かになるのでしょうか?

答:「私は誰か?」と尋ねることによってである。
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
そのとき真我は実現されるだろう。

Q:How will the mind become quiescent?

A:By the inquiry ‘Who am I?’.
The thought ‘Who am I?’ will destroy all other thoughts,
and like the stick used for stirring the burning pyre, it will itself in the end get destroyed.
Then, there will arise Self-realization.

513避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 20:43:40 ID:czRftzgI0
自分の意志で思考・行動している(主体)ようで、実際はその光景(客体)を見ていることに気付きました

514避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 20:44:33 ID:czRftzgI0
主体として行動している景色を客体として見ているという意味です

515鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:32:10 ID:1d4drIFg0
>>510 受け止めなくて善いのじゃ。
 それをありのままに観察するのじゃ。
 痛みに逃避が起こっているならば、逃避していると観るのじゃ。
 それだけでよいのじゃ。
 そしてその原因を探すのじゃ。

 良くも悪くも無いのじゃ。
 
 心の痛みはただの比喩なのじゃ。
 実際にはいたくないのじゃ。
 ストレスとか悲しみとかの感情を引き起こすから苦しいのじゃ。
 わかるじゃろう。
 ありのままに観て原因を探すのじゃ。

>>511 求めるべきなのじゃ。
 一切皆苦なのじゃ。

 そのようなこともあるのじゃ。
 人に拠っては繰り返しているじゃろう。
 
 続かないのじゃ。
 悟りを得なければいずれは地獄に落ちることもあるのじゃ。

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:35:15 ID:1d4drIFg0
>>512 私は誰かと問うことが観念を破壊するというのじゃ。
 自分という問題の他には何も問題は無いからなのじゃ。
 その想念さえも滅びれば、何も無くなるのじゃ。
 それが真我の実現だというのじゃ。

>>513>>514 そうじゃ、意志もまた客体なのじゃ。
 全ては自分無しに働いていくものじゃ。
 ただ自我を投射しているだけなのじゃ。
 更に実践あるのみなのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:47:46 ID:5uRnxYQQ0
>>516
問答11

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。
それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。
このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

518避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:53:34 ID:5uRnxYQQ0
Q:What is the means for constantly holding on to the thought ‘Who am I?’

A:When other thoughts arise, one should not pursue them, but should inquire: ‘To whom do they arise?’
It does not matter how many thoughts arise.
As each thought arises, one should inquire with diligence, ‘To whom has this thought arisen?’.
The answer that would emerge would be ‘to me’.
Thereupon if one inquires ‘Who am I?’, the mind will go back to its source; and the thought thaarose will become quiescent.
With repeated practice in this manner, the mind will develop the skill to stay in its source.
When the mind that is subtle goes out through the brain and the sense-organs, the gross names and forms appear;
when it stays in the heart, the names and forms disappear.
Not letting the mind go out, but retaining it in the Heart is what is called ‘inwardness’ (antarmukha).
Letting the mind go out of the Heart is known as ‘externalisation’ (bahirmukha).
Thus, when the mind stays in the Heart, the ‘I’ which is the source of all thoughts will go, and the Self which ever exists will shine.
Whatever one does, one should do without the egoity ‘I’.
If one acts in that way, all will appear as of the nature of Siva (God).

519鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/06(月) 23:47:52 ID:1d4drIFg0
私は誰かという問いも日々続けなければいかんというのじゃ。
日々続けることで心の奥深くまで進むことが出来るのじゃ。
感覚器官から外に向かう心から、心の内側を見る心になるのじゃ。
そしてその源である主体にまで辿りつくこともできるようになるのじゃ。

520避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:42:37 ID:idQKiClY0
>>519
問答12

問:心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

答:探究以外に適切な方法はない。
他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。
けれども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが思わないようにとの神の意志によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。
心はつねにさ迷いつづけるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。

521避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:49:25 ID:idQKiClY0
Q:Are there no other means for making the mind quiescent?

A:Other than inquiry, there are no adequate means.
If through other means it is sought to control the mind, the mind will appear to be controlled, but will again go forth.
Through the control of breath also, the mind will become quiescent; but it will be quiescent only so long as the breath remains controlled, and when the breath resumes the mind also will again start moving and will wander as impelled by residual impressions.
The source is the same for both mind and breath.
Thought, indeed, is the nature of the mind.
The thought ‘I’ is the first thought of the mind; and that is egoity.
It is fromthat whence egoity originates that breath also originates.
Therefore, when the mind becomes quiescent, the breath is controlled, and when the breath is controlled the mind becomes quiescent.
But in deep sleep, although the mind becomes quiescent, the breath does not stop.
This is because of the will of God, so that the body may be preserved and other people may not be under the impression that it is dead.
In the state of waking and in samadhi, when the mind becomes quiescent the breath is controlled.
Breath is the gross form of mind.
Till the time of death, the mind keeps breath in the body; and when the body dies, the mind takes the breath along with it.
Therefore, the exercise of breath control is only an aid for rendering the mind quiescent (manonigraha); it will not destroy the mind (manonasa).

Like the practice of breath control, meditation on the forms of God, repetition of mantras, restriction on food, etc., are but aids for rendering the mind quiescent.

Through meditation on the forms of God and through repetition of mantras, the mind becomes one-pointed.
The mind will always be wandering.
Just as when a chain is given to an elephant to hold in its trunk it will go along grasping the chain and nothing else, so also when the mind is occupied with a name or form it will grasp that alone.
When the mind expands in the form of countless thoughts, each thought 24becomes weak;
but as thoughts get resolved the mind becomes one-pointed and strong;
for such a mind Self-inquiry will become easy.
Of all the restrictive rules, that relating to the taking of sattvic food in moderate quantities is the best;
by observing this rule, the sattvic quality of mind will increase, and that will be helpful to Self-inquiry.

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 23:35:11 ID:1d4drIFg0
集中の瞑想は観察のための助けになる方法に過ぎないのじゃ。
それによって得られる仮の心の静けさによって、観察を容易にするだけなのじゃ。
心の真の静けさは自らの主体を見ることによって訪れるのじゃ。
それによって真の大悟徹底もできるようになるのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 06:02:30 ID:sEAjaaO20
>>522
問答13

問:心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

答:真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

Q:The residual impressions (thoughts) of objects appear unending like the waves of an ocean.
When will all of them get destroyed?

A:As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.

524鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/08(水) 23:03:41 ID:1d4drIFg0
雑念は始めのうちはいつまでも浮かんできて終わりが無いように見えるのじゃ。
しかし、瞑想を日々続けていると、それがとまるときが来るのじゃ。
思考が無いのに意識はある状態になるのじゃ。
一度そこに至れば何度でもできるようになるのじゃ。

525避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:19:22 ID:sEAjaaO20
>>524
問答14

問:数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

答:可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいられようか。
自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

Q:Is it possible for the residual impressions of objects that come from beginningless time, as it were, to be resolved, and for one to remain as the pure Self ?

A:Without yielding to the doubt ‘Is it possible, or not?’, one should persistently hold on to the meditation on the Self.
Even if one be a great sinner, one should not worry and weep ‘O! I am a sinner, how can I be saved?’
One should completely renounce the thought ‘I am a sinner’ and concentrate keenly on meditation on the Self;
then, one would surely succeed.
There are not two minds – one good and the other evil;
the mind is only one.
It is the residual impressions that are of two kinds – auspicious and inauspicious.
When the mind is under the influence of auspicious impressions it is called good; and when it is under the influence of inauspicious impressions it is regarded as evil.
The mind should not be allowed to wander towards worldly objects and what concerns other people.
However bad other people may be, one should bear no hatred for them.
Both desire and hatred should be eschewed.
All that one gives to others one gives to one’s self.
If this truth is understood who will not give to others?
When one’s self arises all arises; when one’s self becomes quiescent all becomes quiescent.
To the extent we behave with humility, to that extent there will result good.
If the mind is rendered quiescent, one may live anywhere.

526鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/09(木) 23:27:24 ID:1d4drIFg0
数知れぬほどに輪廻を重ねて業を積み重ねていれば、それを今消すことが出来るのかと思うものもいるじゃろう。
他人にしたことが自分に返り、それがまた他人への行いの動機となり、他人に対する行いとなるというような繰り返しではとどまることがないと思うのじゃ。
しかしそれもまた幻影でしかないことを知れば今一度真理を知れば消え去るのじゃ。
ただ幻想の自我に気付けば世界もまた消えるのじゃ。
そのようにして全ての業も幻想と気づくのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 01:05:55 ID:7A6BnE9k0
鬼和尚様
自分はコミュ障だと開き直り、嫌味が口癖のようになっている人が仕事のチームメンバーにいます。
彼は頭の回転は早いです。
どうも自分が頑張っているんだから、お前たちも自分のようにがんばれよ、と内心思っているようです。
嫌味が不愉快なのですが、どのように接すれば良いでしょうか?アドバイスいただけると幸いです。

528避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 07:39:59 ID:NwRCZB2I0
>>526
問答15

問:探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

答:心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。
要塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。

Q:How long should inquiry be practised?

A:As long as there are impressions of objects in the mind, so long the inquiry ‘Who am I?’ is required.
As thoughts arise they should be destroyed then and there in the very place of their origin, through inquiry.
If one resorts to contemplation of the Self unintermittently, until the Self is gained, that alone would do.
As long as there are enemies within the fortress, they will continue to sally forth;
if they are destroyed as they emerge, the fortress will fall into our hands.

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/10(金) 23:43:49 ID:1d4drIFg0
>>527 よいところを見つけてどんどん誉めて働かすと善いのじゃ。
 嘘をついて誉めてはいかんのじゃ。
 実際に誉められるところを探して誉めるの社。
 頭の回転が速いと既にわかっているのであるから、それもほめると善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>528 探求は全ての観念がなくなるまでやるべきだというのじゃ。
 観念がなくなれば何かをする主体はなく、することもなくなるから自然に止むのじゃ。
 それまでは常におこたりなく実践に勤めるのじゃ。

530避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 07:55:46 ID:9P3qqenE0
>>529
問答16

問:真我の本性とは何でしょうか?

答:真実、存在するのは真我だけである。
世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。
これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。
それは沈黙と呼ばれる。
真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。
すべてはシヴァ、真我である。

Q:What is the nature of the Self?

A:What exists in truth is the Self alone.
The world, the individual soul and God are appearances in it, like silver in mother-of-pearl;
these three appear at the same time and disappear at the same time.
The Self is that where there is absolutely no ‘I’-thought.
That is called ‘Silence’.
The Self itself is the world; the Self itself is ‘I’; the Self itself is God;
all is Siva, the Self.

531避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 14:31:15 ID:DPZIW9O60
鬼和尚様に質問です。
日々悟るために修行をしていて、少しずつは進歩していると思うのですが、ふと、自分が進歩していると思っているだけで、家族や友人、知人、その他の知らない人などからみると、進歩していると勘違いしるが、おかしくなっているだけのヤバい人なのではないかと思うと心がモヤーっとします。
あるいは他人がどう思おうがいいとしても、自分は人と違うとか世間なんてどうでもいいとか、ただ傲慢になっているだけなのではないかなど不安になります。
もちろん大半の時間は「とはいえ、悟ること以上の目的はない」と確信を持てているのですが、このような魔がふと忍び寄ることがあります。
これはどうしたら解消できるでしょうか。これについても、とにかく観察あるのみでしょうか?
ご意見をお聞かせください。

532避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 17:13:57 ID:7A6BnE9k0
>>529
鬼和尚様
アドバイスありがとうございます。>>527 です。
嫌な相手を褒めるのはなかなか心理的に抵抗ありますが、やってみます。

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:34:50 ID:1d4drIFg0
>>530 真我の道は真我以外を全て否定するのであるから存在すると言えるものは真我だけなのじゃ。
 それが全ての本性であり、神とよぶものの本性でもあるのじゃ。
 他に存在するものは無いのじゃ。
 そしてその真我そのものは認識することは出来ないのじゃ。
 ただありのままに在ることだけが出来ることの全てなのじゃ。

534鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:41:59 ID:1d4drIFg0
>>531 そのような疑問が湧いたら、常に死を想うのじゃ。
 無常であるこの娑婆世界では誰もが死を免れないのじゃ。
 実践することが死に対抗する唯一の手段なのじゃ。
 死を克服するまでは一切の妥協は許されないのじゃ。
 死が目前に迫ったときに、もっと真剣に実践していればよかったと後悔しないようにするのじゃ。
 
 死を超える道を知り、実践することが出来るのは大きな幸運なのじゃ。
 それを知らなければ善人でさえ、自分がどこにいくか知らずに恐れを持って死ぬのみなのじゃ。
 そのように正しい知識を持って、実践の道を持たないものにも哀れみを持つと善いのじゃ。
 そうすれば他人を気にして迷うことも無いのじゃ。

>>532 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

535避難民のマジレスさん:2021/12/12(日) 09:03:44 ID:tAZf5vzQ0
>>533
問答17

問:すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

答:欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。
磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そして休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。
神は何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。
それは、世間の行為が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能: 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動: パンチャ・ヤジュニャ。
『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義務。

Q:Is not everything the work of God?

A:Without desire, resolve, or effort, the sun rises;
and in its mere presence, the sun-stone emits fire, the lotus blooms, water evaporates, people perform their various functions and then rest.
Just as in the presence of the magnet the needle moves, it is by virtue of the mere presence of God that the souls governed by the three (cosmic) functions or the fivefold divine activity perform their actions and then rest, in accordance with their respective karmas.
God has no resolve; no karma attaches itself to Him.
That is like worldly actions not affecting the sun, or like the merits and demerits of the other four elements not affecting all-pervading space.

536鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/12(日) 23:56:27 ID:1d4drIFg0
神が主体であるならばそれは何かをするということはないのじゃ。
それはありのままにあるだけなのじゃ。
何かがなされたというのは観念によるものなのじゃ。
人格を持つ神ではなく、自らの主体としての神を心の中に見出すのじゃ。

537避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 11:25:12 ID:MpBRLa8k0
>>536
問答18

問:帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

答:神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。
自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして安心しなさい。

Q:Of the devotees, who is the greatest?

A:He who gives himself up to the Self that is God is the most excellent devotee.
Giving one’s self up to God means remaining constantly in the Self without giving room for the rise of any thoughts other than that of the Self.
Whatever burdens are thrown on God,He bears them.
Since the supreme power of God makes all things move, why should we, without submitting ourselves to it, constantly worry ourselves with thoughts as to what should be done and how, and what should not be done and how not?
We know that the train carries all loads,
so after getting on it why should we carry our small luggage on our head to our discomfort,
instead of putting it down in the train and feeling at ease?

538避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 18:32:39 ID:DPZIW9O60
>>534
本当におっしゃるとおりですね。
死の前にはすべてが無意味なのでした。
初心に返ることができた気がします。ありがとうございます。

さらに質問があります。
「死を克服するまでは一切の妥協は許されないのじゃ。死が目前に迫ったときに、もっと真剣に実践していればよかったと後悔しないようにするのじゃ」とのお言葉をいただき心から同意しますが、迷いや不明点もあります。
初めにサマーディに入った頃は、瞑想や悟りという言葉すら知らず、死について考えたことすらなく、ただ楽しみや遊びのような感覚でした。
それからもサマーディ状態になるのは、ボーッとしていたり寝る前だったりと、ほとんどが修行以外のときで、逆に瞑想をしたり経典を読むのは半分は義務感で行っていて、力んでいる気がします。
瞑想中は快も生じ、気付きや種々の体験もあり、日常でも一瞬で集中できるようになったという成果もありますが、やらないと罪悪感を持ったり、自分を観察しても行き詰まったり、途中で嫌になったり足や背中が痛くなっても時間が来るまでは続けるなど、苦痛も混ざっています。
仕事や勉強などであれば、難しかったり量が多くても、休まずに調べたり、こなしたりすれば終わることも多いと思いますが、悟りの場合は頓悟も多く、休まずにたくさんやれば得られるというものでもないのではと感じて、ずっと途方に暮れています。
苦痛でも、無理をしてでも、できる限りたくさん瞑想して集中や観察をすることが、妥協のない真剣な実践ということなのでしょうか?
それとも、本当に心から悟りたいと思っているのかを突き詰める方が重要でしょうか?
楽しく自然に実践でき、悟ることができたら、これほどよいことはありません。
ぜひともご意見をお聞かせください。

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:03:30 ID:1d4drIFg0
帰依とはもともと神仏に自分の心身を与えるということなのじゃ。
真我に自分の全てを与える事が出来るならば、悟りも速やかにやってくるじゃろう。
恐れずに心身を与えるならば、もはや患うこともないのじゃ。
全てであることが見出されるのであるからのう。

540鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:07:19 ID:1d4drIFg0
>>538 自分ではわからないかもしれんが、実際は修行もやった分だけ進歩しているのじゃ。
 日記をつけてみるとよいのじゃ。
 読み返してみるとやはり頑張った時にはよく進歩しているのじゃ。
 苦しい時ほど進歩していると言えるのじゃ。

 その苦痛すらも観察して見極めるのじゃ。
 そうすれば楽な道も見つかるのじゃ。
 それはただ単に姿勢が悪くて苦しいだけかもしれん。
 或いは自分を失うことに恐れがあるからかもしれん。
 苦痛を観察して滅しながら進むのじゃ。

541避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 14:25:27 ID:ljldEexk0
>>539
問答19

問:無執着とはどういうことでしょうか?

答:想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところなく完全に消滅させること、それが無執着である。
真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

Q:What is non-attachment?

A:As thoughts arise, destroying them utterly without any residue in the very place of their origin is non-attachment.
Just as the pearl-diver ties a stone to his waist, sinks to the bottom of the sea and there takes the pearls, so each one of us should be endowed with non-attachment, dive within oneself and obtain the Self-Pearl.

542避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 19:31:30 ID:h5P9mv0k0
魔除けなどで水晶を身につけることによって実際になんらかのエネルギーが発生するんでしょうか?
昔から人間は石に大きな力を感じて身につける習慣があります。
どのような石に効力があるんでしょうか?

543避難民のマジレスさん:2021/12/15(水) 20:20:00 ID:DPZIW9O60
>>540
ご返信、ありがとうございます。じっくり拝読しています

苦しい時ほど進歩しているということは、極端に言うと、時間や体力が許すのであれば、昔の禅僧のように7日7晩とか13日間寝ずにとかぶっ続けで瞑想(座禅)できるなら、その方が進歩するということでしょうか?
寝ずにとかは現実的には無理でも、例えば歯を食いしばってでも毎日12時間ずつ瞑想できれば、1日2時間とか5時間よりも進歩するし、悟るためには望ましいということですか?

> その苦痛すらも観察して見極めるのじゃ。

何が苦痛なのかを掘り下げてみたところ主に2点ありました。

1,30分の瞑想では背中が痛くならないが、1時間続けると痛くなることが多い
姿勢が正しければ禅僧のように何時間も座り続けられるのでしょうか?

2,何をすればよいのか、ちゃんとできているのかどうかが分からない
瞑想中の観察について鬼和尚は「すべてを観察する」とおっしゃっていたので何度も試したのですが、無数の対象があるため同時にすべてを観察できず、結局何をすればいいのか分からない、の繰り返しになっています。
観察の瞑想ってこれでいいのか?という疑問が何年もつきまとい、それが苦痛となっています。

ここまで書いたあとで、何が苦痛なのかを改めて確認するために、試しにすべてを観察する瞑想を行ってみました。
皮膚感覚、呼吸、思考や感情に伴う肉体の変化などから離れたところから、それらのすべてを俯瞰する意識で、何が起ころうが観てやろうという気持ちではじめたところ、はじめは思考や、思考と同時に起こる肉体の変化など、起こることをそのまま眺めていたのですが、途中でグッと瞑想が深まり、心身がスカーッとして、目を閉じているのに視界が眩しく輝き、さらなる集中状態になりました。
そこで、観察している主体に意識を向けたところ、主体の中にしばらく意識がとどまっていましたが、そのうちにお尻と背中がすごく痛くなり、中断しました。40分経っていました。
硬いところに座っていたので、次は柔らかいものを敷いたり、工夫してみます。
姿勢が正しくなくても、このような瞑想状態になるものですか?
また、鬼和尚のおっしゃっていた「すべてを観察する」は、このように俯瞰するやり方で合っていますか?
最近はずっとパッとしない気持ちでしたが、久々に少し明るくなりました。

544鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:49:30 ID:1d4drIFg0
昨日はソフトが動かなかったのじゃ。
 おかしなことじゃ。

>>541 瞑想をしていれば雑念は常に起こってくるものじゃ。
 それにとらわれずにいれば消えて行くのじゃ。
 雑念がなくなれば自分の心の中を深く観察していくこともできるようになるのじゃ。
 思考に執着せずに心の奥ふかくを探索して行くのじゃ。

>>542 それはむしろ人のもつエネルギーなのじゃ。
 人のエネルギーが好む石によって増幅したりするのじゃ。

 そうであるから人によって効果のある石が違ったりするのじゃ。
 おぬしにもおぬしだけに効果のある石があるじゃろう。
 川原とかのたくさんの石があるところで探してみると善いのじゃ。

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:52:37 ID:1d4drIFg0
>>543 そうじゃ、長い瞑想が出来るならばその方がよいのじゃ。
 そこまでは人には無理なのじゃ。
 二時間が限界じゃな。
 三十分毎にたってあるくとよいのじゃ。

 一 できるじゃろう。
    しかし、血行が悪くなるからしなくてよいのじゃ。
    三十分毎に休むのじゃ。

 二 それでよいのじゃ。
    更に実践あるのみなのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2021/12/16(木) 15:37:24 ID:NdtEudKw0
>>544
問答20

問:神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

答:神やグルは解放への道を示すだけだろう。
神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。
トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。
けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解脱に達しなければならない。
人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?

Q:Is it not possible for God and the Guru to effect the liberation of a soul?

A:God and the Guru will only show the way to liberation;
they will not by themselves take the soul to the state of liberation.
In truth, God and the Guru are not different.
Just as the prey which has fallen into the jaws of a tiger has no escape, so those who have come within the ambit of the Guru’s gracious look will be saved by the Guru and will not get lost;
yet, each one should, by his own effort pursue the path shown by God or Guru and gain liberation.
One can know oneself only with one’s own eye of knowledge, and not with somebody else’s.
Does he who is Rama require the help of a mirror to know that he is Rama?

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/16(木) 21:38:25 ID:1d4drIFg0
どのような神やグルでも一人の人間を強制的に解脱させるということはできないのじゃ。
誰もが自分自身を観て、無我になり、無認識に回帰するのみなのじゃ。
それができるのは自分だけなのじゃ。
自分自身を救う道を神やグルは示してくれるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 09:00:48 ID:SC6QYTJc0
>>547
問答21

問:解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探究する必要があるでしょうか?

答:ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。

Q:Is it necessary for one who longs for liberation to inquire into the nature of categories (tattvas)?

A:Just as one who wants to throw away garbage has no need to analyse it and see what it is, so one who wants to know the Self has no need to count the number of categories or inquire into their characteristics;
what he has to do is to reject altogether the categories that hide the Self.
The world should beconsidered like a dream.

549避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 21:30:19 ID:DPZIW9O60
>>545
ご返信くださり、ありがとうございます。孤独な修行の励みとしております。

何時間も座り続けるのは人には無理ということですが、ブッダが悟ったときは実は途中で食べたり眠ったりトイレに行ったりしていたということでしょうか?
歴史的な禅僧の本などを読むと、3日とか7日とか13日とか座り続けたという記述を散見しますが、これも本当ではないのでしょうか?
今でも蔵入りなどは死にかけていますよね。あれは無駄の多い苦行にしか思えませんが。

また、観察中に視界が眩しくなり深い瞑想状態に入ったり、無念無想や体が消える感覚になったなどの場合でも、姿勢が正しくないということもあるでしょうか?
毎回少しずつ工夫はしていますが、もし姿勢をより正しくできるなら、そうしたいです。

しばらく前に、瞑想中ではないのですが、肉体、思考、感情、記憶などのずっと底に、「ただ、ある」としか言えないような、何の特徴も境界もなく、徹底的に均質な、ただただ静かな無限の存在があるのを感じました。
自分だと思っていたものはこんな表面的なものでしかなかったのか、死ぬというのは上に乗っている思考や記憶などが剥がれるということなのだ、本当はこの無限の存在しかないのだ、本当の本当に何もないのだな、肉体も世界も全部観念だというのはこういうことか、などとなんとなく理解できた気がして、少し死や悟りの恐怖が薄れて安心しました。
この経験以降、自分と同一視している肉体、思考、感情、記憶などをうわべだけの嘘のものとして、日常的に観察しやすくなった感覚があります。
そして昨日と今日のことなのですが、瞑想中にすべてを俯瞰するように観察していて、深い瞑想状態に入ったときに主体に意識を向けたのですが、途端に心臓や鳩尾あたりに我慢できないほどの圧迫感、苦痛を感じました。何年も瞑想をしていて、ここまでひどいのは多分初めてです。
この苦痛をよく観察しようとしたのですが、まるでナイフで何度も刺されながら、刺されている箇所を観察しているような緊急事態感で、苦しすぎて瞑想をやめたくて仕方がなくなり、集中の瞑想に切り替えたり、まだ気が済んでいないんだねなどと自我をなだめたりいろいろした挙げ句、瞑想を終了しました。
このように昨日から、主体を観察すると必ず心臓と鳩尾の苦痛が起こるのですが、苦しさをこらえながら無理に観察したらよいのか、自我が消えたくない理由を推測して一つ一つ自分に問うて、収まるかどうかの反応を見て当たりをつけるのか、どうしたらよいですか?
もしかしたら、まだ集中力が足りないということでしょうか?
どうしたらこの先に進めるのか、ぜひともご意見をお聞かせください。鬼和尚しかいません。たのんます。

550避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 23:20:18 ID:DPZIW9O60
蔵入り×

堂入り○

551鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/17(金) 23:59:38 ID:1d4drIFg0
>>548 真我の道では真我以外の全てのものごとを否定しなければならないのじゃ。
 構成要素もなんでも全て否定し去ってしまわなければならないのじゃ。
 認識する全てのものを捨てるのじゃ。
 真我そのものも認識できない認識主体であるから、認識する全てを捨てて辿りつくしかないものじゃ。
 全ては夢幻の如きものとして否定し去るのじゃ。

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 00:05:39 ID:1d4drIFg0
>>549 瞑想に熟達すれば瞑想が睡眠の変わりになるのじゃ。
 食べたり飲んだり排泄したりはしたじゃろう。
 
 本当ではないのじゃ。
 何も飲食しなければ三日ぐらいで死ぬのじゃ。
 排泄をトイレでしなければ糞尿塗れなのじゃ。
 昔の本はおおげさにかくのじゃ。

 どのような状態もありえるじゃろう。
 
 その反応が起こる原因を探すと善いのじゃ。
 原因がわかれば滅することも出来るじゃろう。
 
 他は何も問題は無いのじゃ。
 正しい道を歩んでいるといえるのじゃ。
 そうであるから抵抗も在るのじゃ。

 気づきもあったのじゃ。
 ただひたすらに座ると善いのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 07:49:08 ID:KC7wU8H60
>>549
文章が長すぎやがな。要点を絞って書くがな。

554避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 12:55:05 ID:K3LTGWrs0
>>551
問答22

問:目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

答:目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。
これより他に何の違いもない。
目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢のなかでは真実に見える。
夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。
目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時に現れるのである。

Q:Is there no difference between waking and dream?

A:Waking is long and dream short;
other than this there is no difference.
Just as waking happenings seem real while awake, so do those in a dream while dreaming.
In dream the mind takes on another body.
In both waking and dream states thoughts, names and forms occur simultaneously.

555鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 23:14:17 ID:1d4drIFg0
悟っていない者は覚めている時も自分があると思っているように、夢の中でも自分が有ると思っているのじゃ。
現世もまた夢幻なのじゃ。
単に長い夢であるだけなのじゃ。
ただ意識だけがあると言えるのじゃ。

556避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:06:01 ID:q.ad6W3Q0
>>555
問答23

問:解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

答:すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。
それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべきである。
この探究がどうして書物のなかでできるだろうか?
人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
真我は五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。
真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。
アンナー・マヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。

Q:Is it any use reading books for those who long for liberation?

A:All the texts say that in order to gain liberation one should render the mind quiescent;
therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent;
once this has been understood there is no need for endless reading.
In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is;
how could this search be done in books?
One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom.
The Self is within the five sheaths; but books are outside them.
Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books.
There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

557避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:51:50 ID:sskB6J8c0
鬼和尚様
人が夢の内容をほとんど忘れてしまうのは何故ですか?
起きた瞬間には憶えていてもすぐに忘れてしまったりよほど印象的な夢しか覚えてないと思います

それともむしろ現実でのことを記憶しているのは過去や現実への執着が強すぎるからでしょうか?

夢にしろ現実にしろ記憶は細かいことまできちんと残していくほうが修行としていいでしょうか?
それとも細かい記憶は残らないほうがいいでしょうか?

悟った人はどの程度どのように記憶をしているのですか?

558避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 16:34:02 ID:czRftzgI0
禅の歌を見つけました
https://youtu.be/bw_odBsdOXE

559避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:04:33 ID:DPZIW9O60
>>552
ご返信くださり、ありがとうございます。
正しい道を歩んでいると言っていただきましたし、悟ること以上に求めるものもないので、これからも観察や集中を続けていきます。

更に質問があります。

1,ブッダは悟る直前に「悟るまでは立たない」と決意したとのことですが、「ただし飲水と排泄は除く」だったということでしょうか?
他の禅僧なども同じでしょうか?書物などによると断食は瞑想と兼ねる修行も多かったようですが。

2、7日間とか座りっぱなしのとき、脳は睡眠状態になるかもしれませんが、体はエコノミー症候群などにはならなかったのでしょうか?
実は排泄後の座る前とかに足の曲げ伸ばしやマッサージとかもしていたのですかね?

3,どんな姿勢であっても深い瞑想状態になったり悟ることもありえるが、正しい姿勢の方がそれらの状態になりやすい、という理解でよろしいでしょうか?

560避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:05:40 ID:DPZIW9O60
4,正法眼蔵の坐禅儀によると、座禅は昼夜ともに明るい場所で目を細く開いて行わなければならない、とのことですが、どうしてこのように言っているのでしょうか?
明るい場所で目を開いて行うメリットは何ですか?居眠りしないとか妄想が発生しにくいとかですか?

5,また坐禅儀では、
「一切の環境に捉われる心の働き(原文では「諸縁」)を投げ捨てて、心身を休息させなさい。
善の心、悪の心に捉われないそのままの心が座禅である。
座禅は思いはからい(原文では「心意識」)でも瞑想(原文では「念想観」)でもない。
仏になろうとしてはいけない。(別の訳では「悟ろうと思ってはならない」)
座ったり寝たりするという差別の気持を捨てなさい(原文では「座臥を脱落すべし」)」
とあります。
なんとなく、「心を操作せず、ただそのままにしておけ。無心で座れ」と言っているように読み取ったのですが、合っているでしょうか?
この方法は実践してみる価値はあると思われますか?散漫になるだけでしょうか?

561避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 19:06:23 ID:DPZIW9O60
6,鬼和尚は目を開けるか閉じるかについて、本人がやりやすい方でやるのがよい、とおっしゃっていますが、鬼和尚が図書館から帰宅し悟られたときの瞑想では目は開けていらっしゃいましたか?
また、現在瞑想されるときはどうされていますか?参考までにお聞きしたいです。

7,集中の瞑想時に、呼吸に気づいている意識がありつつ考えごともしているという場合、それに気づくたびに呼吸だけに意識を集中させるようにしています。
両方を並行させている方が楽で時間が過ぎるのも早いのですが、やはり呼吸だけに集中させた方がよいでしょうか?

8,心身すべてを俯瞰して眺める瞑想のとき、漠然とか散漫といった状態になりやすく、気づくとボーッと考えごとをしているような状態であることが多いです。
何か一箇所を観察する方が、集中の瞑想で磨いた集中力を発揮できる気がするのですが、漠然とした観察でもよいのでしょうか?

以上、溜まっていた疑問なので多くなりましたが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

562鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:28:19 ID:1d4drIFg0
>>556 本に書いてある知識はただ実践のための方法を示すものじゃ。
 方法がわかったらもはや本は要らないのじゃ。
 自分自身を追及する実践をひたすら続けるべきなのじゃ。
 本で得た知識もいずれは捨て去られる瞬間がくるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

>>557 記憶が働いていたり、いなかったりするからなのじゃ。
 所々働いていて、断片的に覚えていたりするのじゃ。
 肉体的な要因なのじゃ。

 目覚めている時は記憶能力が常に働いているからなのじゃ。

 残さなくて善いのじゃ。

>>558 よいことじゃ。
 どんどん歌うと善いのじゃ。

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:33:49 ID:1d4drIFg0
>>559 1 そうじゃ、そうでなくては死ぬだけなのじゃ。
     同じなのじゃ。
     断食しても尿は出るのじゃ。
     誇張表現なのじゃ。

    2 一時間毎にたって歩いたりするのじゃ。     
     今の禅堂でもやっていることなのじゃ。
     それも除いてあるだけなのじゃ。
     全部含めて座禅なのじゃ。

    3 そのような理解で善いのじゃ。
      実践で確かめるのじゃ。

>>560 魔に囚われるからというのじゃ。
    暗いところでは妄想も激しくなったりするからのう。

   そのような理解で善いのじゃ。
   ただひたすら集中するのじゃ。
   
   数息観などで習熟してからの方が善いのじゃ。
   雑念がなくなってから無心で座ると善いのじゃ。

564鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:37:36 ID:1d4drIFg0
>>561 わしは目を閉じていたのじゃ。
    今も眼を閉じているのじゃ。
    それがわしに合っているからなのじゃ。
    あわない者は眼を開けてやるとよいのじゃ。


  7 呼吸に集中するとよいのじゃ。
   意識を向けなければ思考はいずれ止まるじゃろう。
   それを目指すのじゃ。

  8 そのような者は手とか足とかを一つずつ観察する法がよいじゃろう。
   実践してみるとよいのじゃ。

565避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 12:42:30 ID:aGDaQz8I0
>>562
問答24

問:幸福とは何でしょうか?

答:幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我-幸福を楽しむのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである。

Q:What is happiness?

A:Happiness is the very nature of the Self;
happiness and the Self are not different.
There is no happiness in any object of the world.
We imagine through our ignorance that we derive happiness from objects.
When the mind goes out, it experiences misery.
In truth, when its desires are fulfilled, it returns to its own place and enjoys the happiness that is the Self.
Similarly, in the states of sleep, samadhi and fainting, and when the object desired is obtained or the object disliked is removed, the mind becomes inward-turned, and enjoys pure Self-Happiness.
Thus the mind moves without rest alternately going out of the Self and returning to it.
Under the tree the shade is pleasant; out in the open the heat is scorching.
A person who has been going about in the sun feels cool when he reaches the shade.
Someone who keeps on going from the shade into the sun and then back into the shade is a fool.
A wise man stays permanently in the shade.
Similarly, the mind of the one who knows the truth does not leave Brahman.
The mind of the ignorant, on the contrary, revolves in the world, feeling miserable, and for a little time returns to Brahman to experience happiness.
In fact, what is called the world is only thought.
When the world disappears, i.e., when there is no thought, the mind experiences happiness;
and when the world appears, it goes through misery.

566鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/20(月) 21:27:24 ID:1d4drIFg0
本当の幸福は悟りを得る以外に無いのじゃ。
この世では一時の幸福も、苦しみから眼をそらすためだけのものなのじゃ。
一時期快楽を味わってもすぐに苦が戻ってくるものじゃ。
全ての観念がないとき、真の幸福があるのみなのじゃ。

567避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 23:55:32 ID:.tofT0a20
仕事で自分がやろうとしたことに対して
それはやらなくていいです
と言われると自己否定されたと感じると観察しました

そこで怒りが湧くのは自分がなくなる不安に対する機械的な反応だと観察しました

同時に死にたくもなります
それは自己否定された通りにしようとしていると観察しました

このようなことが何度も起こり
何度も死にたいと思うとうつになると観察しました

568避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 00:12:13 ID:.tofT0a20
>>567
自分は世間とは合わない
とずっと感じてきましたが
これはこういうことがあったときの反応の一つだと観ました

569避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 07:46:21 ID:.tofT0a20
>>567
>仕事で自分がやろうとしたこと
というのは、これをやっておけば後々誰にとってもいいことだと思うようなことです

570避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 12:42:34 ID:jLA8ILnE0
>>566

問答25

問:洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

答:静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

Q:What is wisdom-insight (jnana drishti)?

A:Remaining quiet is what is called wisdom-insight.
To remain quiet is to resolve the mind in the Self.
Telepathy, knowing past, present and future happenings and clairvoyance do not constitute wisdom-insight.

571鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/21(火) 21:35:56 ID:1d4drIFg0
>>567 よい観察なのじゃ。
 そのように気づきが起これば、囚われなくなるじゃろう。
 まだあるならば更に観察すると善いのじゃ。

>>570 心が完全に鎮まっていれば洞察力も起こるのじゃ。
 仏教では妙観察智というのじゃ。
 それはまだ悟っていない忘我の段階でも起こすことが可能なのじゃ。
 自己の囚われから離れた視点からの洞察なのじゃ。
 眠る時などには誰もが経験することなのじゃ。


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