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【実践が】修行するスレ【肝心なのじゃ】

1蓮恵:2018/06/26(火) 20:42:21 ID:673pd1OM0
修業したい輩がひたすら修業のためのスレを作ってみました

修行が足りないと感じている方は、
懺悔して修行に励むスレです笑

実践したことや工夫、
修行のためになること、
モチベーションが上がるようなこと、
成長を感じたこと、修行の愚痴とか、独り言とか書いていくスレです。

2蓮恵:2018/06/27(水) 22:30:49 ID:wgmHycAY0
長時間無理なく座るための姿勢を模索している

以前、知り合いに腰が反っていると指摘されたが、その通りで確かに私の今の姿勢では腰に負担がかかる

腰に負担をかけないような座り方を模索する
更には、上中下の丹田が直線になるように座る

そのような姿勢になれば、頭部に気が流れ、定が深まるだろうとの鬼和尚の言葉がある

3蓮恵:2018/06/28(木) 12:50:17 ID:hoZtgThs0
座る理由がなくなるまで、座れば良い

4蓮恵:2018/06/29(金) 05:08:38 ID:hoZtgThs0
朝から座る

5蓮恵:2018/06/30(土) 00:48:12 ID:q2c17jDA0
鬼和尚スレの594氏は、
私が要約するならば、
諸行無常=行蘊の遷流を
観察されたのだろう

彼の観察は見事である

6素人A:2018/06/30(土) 10:11:26 ID:gOqWUDAs0
テレビ観る事はクダラン世なあ いやチューブ?
中島みゆき 地上の星実践したつもり https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE 
心我落ち着きが無い 椅子禅はやる気が無い 
栄光の架橋もくだらない でも孝子さんの歌はくだると言う 差別化 まあ色々良い野花も
何故か今心我落ち着いた 何故か気が向いた坐禅5分使用

7素人A:2018/06/30(土) 10:23:28 ID:gOqWUDAs0
人にはストレスがあり 言いたい事書き込めば少しは気が晴れる
それが芸事版の良いところ 坐禅なんて時間の損だし 
でもクダラン事やらないだけでもまだましか

8避難民のマジレスさん:2018/06/30(土) 21:04:10 ID:/zzdxcfo0
>>5
蓮恵さん、鬼和尚スレの594です。
鉄眼禅師という方は存じてませんでしたが、とても参考になります。
ご紹介頂きありがとうございました。
時間のある時にじっくり読み進めている最中ですが、【五の五】にある

>明らかなる鏡の中に終日(ひねもす)かげのうつるを見れば、天をうつし、地をうつし、花をうつし、柳をうつし、人間をうつし、鳥獣をうつし、さまざまの色かわり、しなことなりて、刹那もとどまらざるに似たれども、その鏡の本体は、鳥獣にもあらず、人間にもあらず、柳にもあらず、花にもあらず、地にもあらず、天にもあらず、ただ明々として、くもりなき鏡の全体なり。

この文を見つけ震えました。
まさにその通りです。
しかしまだ私は鬼和尚の仰る阿頼耶識を完全に滅した世界を観れていないと感じます。
涅槃静寂はそこにあると思いますので、観察を主とした実践に励んで参ります。

9蓮恵:2018/07/02(月) 23:01:07 ID:awKSWTIg0
>>8
仮字法語が素晴らしかったので、誰かに紹介したかったのです
そして、まさにその箇所を読んで頂きたかった
良ければ、またこのスレに書き込みお願いします
お互い励みましょう

10蓮恵:2018/07/03(火) 08:56:13 ID:i4aZRtoI0
ttps://ameblo.jp/oniosho/entry-11783835377.html?frm=theme

ダンマパダ解説

21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。

怠けてばかりいる者が立派になったり、簡単に悟りを得るというような事はあり得ないものじゃ。

つとめ励む事によって人は目的を達成する事が出来る。
つとめ励む事によって人は偉大な者となる。
つとめ励む事によって人は目覚めた者となる。

 正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、苦から逃れられる事は出来ない。
 正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、死によって破滅する。
 正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬと諦めている苦を滅する事が出来る。
 正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬ死をも超越する事が出来る。
 
 知識は未だ阿頼耶識の範疇にあり、それによって正しい認識を得た事にはならないからじゃ。
 つとめ励み、自ら悟りを得たならば、それによって正しい認識が生じ、不死の境地に居る事が了解される。
 死は生の裏側であり、それは同じものであったと判るじゃろう。
 その時までつとめ励むのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2018/07/04(水) 22:07:36 ID:/zzdxcfo0
>>9
蓮恵さん、ありがとうございます。
私にはまだこの大きな鏡を観ている自我が残っているようです。
瞑想に一から取り組み直していますが、ちょうど鬼和尚スレで鬼和尚からGOを頂きましたので、このまま続けて見ます。
お互いに切磋琢磨していきましょう。

12蓮恵:2018/07/06(金) 09:07:25 ID:awKSWTIg0
瞑想に対しての執着があるのではないか
瞑想の利益は大きいが、それらへの執着を捨てることで、瞑想が深まるのではないか

捨である

13蓮恵:2018/07/06(金) 12:29:19 ID:awKSWTIg0
中丹田の位置は以前、私が思っていた位置よりは後ろである

14蓮恵:2018/07/07(土) 10:59:57 ID:QHN4ezEg0
井上義衍老師

今これが在るとも思わんでも在るということはまだ人間の考え方としての主体があってですね、
そして、それをこう見ている人がおるんです自我が。
それまでが共にこう無くなってしまうということですよ。
それから人もおらんようになるはですね、物も無くなってしまうほど、ただそのものになる、という必要があるんですよ。
そうでないというとですね、思い込みのこの我見としての私という思い込みの根源がですね、本当に無いんだという確証を得ることができないんです。
そこまでいきませんと、そこまでいきますと、確証が得られるということはですね、なに、さっき言いかけたんですけど、そのもの自体の時には、そのものを自覚することもができないほど確かな生活者です。
ちゃんとこれがね、そいう生活の真った中におってですね、それでこう(手を打つ)縁に触れるとですね、その縁の様子にフットこう一念が起きるんです。
人の心がこう始めて動き出すんです。
認識が、その時に始めてその真意がですね鏡にものをパット写したと同じようにですね、自分たちの考える以前の実相がチャットこう写るようにできている。
それを把握する道ですわね。そのためにこう自他の関係というものがすっかり無くならなきゃあものにならんということなんですわ

15蓮恵:2018/07/07(土) 11:07:39 ID:QHN4ezEg0
「寒い日や、暑い日は、どうやってやりすごせばよいのでしょうね」
すると
洞山和尚は
「寒くもない、暑くもないところに行けばいいじゃないか」
僧は
「それはいったいどんなところですか?」
と聞き返すと
「寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨(寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す)」
と、答えた。

「寒いときはお前さんを寒さが殺し、暑いときはお前さんを暑さが殺すのさ」

16蓮恵:2018/07/07(土) 20:18:26 ID:bBhHG6gQ0
正法眼蔵

ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる

17避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 16:59:50 ID:ZNACB4pQ0
慢性的な倦怠感が有る。酒や薬物を飲むとこれがなかった。
人間関係が少しは関係してると思う 人とぶつかったときに起こるズーンとした残念な感覚が近い
それは胸と背中と首のあたりに起こる。呼気が浅くなる。人の多い飲食店は体に若干の緊張が有る。
逃避として動画を見て部屋にこもることが多い。いい天気だと残念と焦りと損失と罪悪感が有る。
この行動で怠惰に拍車がかかる。
たまに倦怠のない時ががある。何が有るとき倦怠で、何が無いとき倦怠が無いのかを知りたい。

睡眠、倦怠、怠惰--これらは修行の妨げである。そのよすがを知り究めよ。(感興のことば5章 34)

知りたいどす。

18避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 17:20:10 ID:ZNACB4pQ0
すません書きたくなったので連投で。以降控えます。

あえて人の多い駅に行って観察でもしてみようかと今思うが。
漠然だがそれは誰かに迷惑をかけるのではないかという不安がある。これが倦怠の感覚に少し近い。

小さい頃スキー場でインストラクターの人をソリでハネたことが有る。女の人に文句を言われたことがある。自分の誕生日か何かでショッキングな出来事だった。
関係はないかもしれない。

書いててなにかスッキリした。しかし上記に書いたことは漠然と自分の中では既知のものだったが。

19蓮恵:2018/07/09(月) 12:20:21 ID:Voac38LI0
鏡の比喩に対しての個人的見解です

鏡に物が映る働きは無我であり、
意識が物事を認識する働き自体は無我です
主体なく、自ずから、計らいとは関係なく、勝手に、映る、認識されるといったようなものでしょうか
(そもそも主体などという物は、
人我の見、つまり自他という枠組で物事を解釈した時にのみ、存在するものではないでしょうか
計らいがなければ主体は存在する道理はありません)
眼自体に物を見ようとする計らいは皆無ですが、眼は分別なく勝手に眼の前の物の色をとらえる
その際、眼が認識する主体であり、眼に映った物が認識対象であるなどという構図は成り立たない

20蓮恵:2018/07/11(水) 18:24:13 ID:xkWevCpc0
恐怖が生じるとき、
必ず何かの記憶が呼び起こされる

21蓮恵:2018/07/14(土) 00:43:54 ID:O3OmiHPQ0
まさしく生は泡沫のようなもの
その泡沫の生滅が人生と呼ばれている

22蓮恵:2018/07/17(火) 00:01:06 ID:zziYk6zo0
認識されたものに対して
己を持ち込むことなく、
認識は認識として放っておく

現在起きている現象に、
過去から得た見解や知識や分別を加える必要はない
現在は現在のままで完結させる

魚が泳いだ痕跡が残らないように、
鳥が空を飛んだあとに痕跡が残らないとは

23蓮恵:2018/07/17(火) 00:17:54 ID:zziYk6zo0
主体なくして六根の働きがある
そこに人間はいない

人間が六根の働きを認識しているのではない
認識があるのみである
そこに人間はいない

ただ主体なくして心が生じる
その時の心は何と呼ばれるのだろうか

24蓮恵:2018/07/27(金) 19:31:02 ID:673pd1OM0
今という体験がある

体験は六根が知覚する
しかしながら、
人間の知見では、その体験を眼で見た、耳で聞いた、と判断する
これは分別である

体験は体験のまま、分別される必要はない
そもそも六根を六根として分別する必要はない

25蓮恵:2018/07/27(金) 19:35:19 ID:673pd1OM0
六根を"私"の所有物として、
見ているのではないか?

その"私"の六根が今の体験を認識しているなどと思っているのではないだろうか

実のところ、体験は体験であり、
体験の中に六根は存在しない

眼が眼をみないように

26避難民のマジレスさん:2018/07/27(金) 21:46:22 ID:tk2vui..0
>>25
蓮恵さんはハーディングやダイレクトパス的なアプローチで探求してるんですね。
六根を記憶で結び付けて「私」が出来上がってるんだなと、私も実感します。

27避難民のマジレスさん:2018/07/27(金) 22:04:53 ID:tk2vui..0
私は六根のうち、視覚が強烈に自分を想起させます。
目をつぶり聴覚を意識すれば、外と内の境界はないことがわかりますが、目を開けた途端に「あちら」と「こちら」に分離します。
「こちら」が私ですね。
「こちら」を丁寧に探しても、あるのは探している思考だけで、私はいないのになぜか「こちら」を感じます。
「あちら」と「こちら」自体が分別であり、「こちらに私がいる」ということも観念。また「私」という個も観念。
そして目の奥の筋肉の圧力を「私」とし、分離している。
また、そのようなことを今あれこれと探求している「私」という自我に気づくと、「私」が消滅し、「観照」と思われる状態となります。
が、鬼和尚は自我が消滅したら戻ることはないと仰ってますね。
まだどこかに自我が潜んでいるのかもしれません。もしかしたら「これが観照か」と認識している者かもしれません。
まだそこがはっきりしていない状態です。

28蓮恵:2018/07/30(月) 12:54:03 ID:/ga7aJzk0
>>26
曹洞宗の井上義衍老師を参考にしています
老師の不思量の言うところは、
ダイレクトパスに似ているかも知れません

29蓮恵:2018/07/30(月) 12:58:19 ID:/ga7aJzk0
対象の物体と自分の身体との距離を認識しているときは、それは距離を認識しているのであって、
その時、物体と己はない

30蓮恵:2018/07/30(月) 21:31:42 ID:/ga7aJzk0
概念には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
概念は、概念としてのそれ自体の体験である

思考には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
思考は、思考としてのそれ自体の体験である

感情には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
感情は、感情としてのそれ自体の体験である

31蓮恵:2018/07/30(月) 21:39:22 ID:/ga7aJzk0
所有、非所有の観念、自他の観念、
といった概念、思考、感情といったものと、"体験そのもの"とは完全に離れたところに存在する

もしくは概念、思考、感情自体が独立した別の体験そのものである
2つを同時に体験することは不可能である

32蓮恵:2018/07/30(月) 21:49:50 ID:/ga7aJzk0
伝心法要

修行者よ、疑うことなかれ。四大が集まって身体ができている。

その四大には我(アートマン)はない。

また身体には主体はない。

このことよりこの身には我(アートマン)はなく、主体はない。

五蘊が心である。

五蘊には我(アートマン)はなく、主体はない。

故にこの心には我(アートマン)はなく、主体はないことが分かる。

六根、六識、六境(=十八界)が和合し生滅するのも同様である。

このように十八界(=六識+六根+六境)は既に空であるから一切が皆空である。

ただ、本心のみがあって無限定の清浄さを保っている

33避難民のマジレスさん:2018/07/31(火) 18:51:39 ID:jDggCKfs0
蓮恵 サンは、はじめましてなのかな?
で,坐禅会などいったことがあるのですか?

34蓮恵:2018/08/01(水) 01:32:58 ID:Voac38LI0
>>33
はじめまして
座禅会はたまにいきますよ

35蓮恵:2018/08/02(木) 10:17:37 ID:/ga7aJzk0
たとえ過去の記憶に依存した思考といえども、それ自体は新しいものといえる

それはなぜか

今行われているからである

36蓮恵:2018/08/02(木) 19:37:11 ID:jfIRm1IY0
>>14
無分別に参ずればよい
分別の前に、祖師方の仰有る実相がある

37蓮恵:2018/08/02(木) 19:42:28 ID:jfIRm1IY0
この心、この思いをどうにかせんとする作為が生じる
生じた自分の心を評価または操縦しようとする作為がある

ただ心あるままに、
無抵抗であればよいのではないだろうか

38蓮恵:2018/08/02(木) 21:25:09 ID:jfIRm1IY0
仏がいわれた、
「仏性を知ろうと思うなら、まさに時節の因縁を観なければならぬ。
時節もし至れば、仏性が現前する」
「仏性を知ろうと思うならば、というのは、ただ知るだけの問題ではない。
「修行しようと思うならば」「覚ろうと思うならば」「説こうと思うならば」「忘れようと思うならば」みなここに当てはまる。
「説く」「行ずる」「覚る」「忘れる」「錯(アヤマ)る」「錯らない」などということも、すべて時節の因縁である。
時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもって観ずるのである。
修行の日々において観ずるのである。
智慧・無智・覚・始覚・無覚・正覚などの分別を用いては、観ずることはできないのである。
「当観というのは、観ずるものと観ぜられるものとにはかかわらない。
正しい観、まちがった観などにも関係しない。
まさに当観である。
当観であればこそ、自他の観でもない。
時節因縁そのものである。
因縁を超越したものである。
仏性そのものである透脱した仏性である。
できないのであってひたすら観ずるほかはないのである。

39蓮恵:2018/08/04(土) 13:37:03 ID:xkWevCpc0
私は人間の精神活動の根本的な部分に疑問をもっている

これは記憶によって生成されたイメージに言語を結びつけて、それを認識することです

40蓮恵:2018/08/04(土) 23:19:00 ID:jfIRm1IY0
自他の識別と記憶機能から、
己が相手に何をしたとか、何をされたとか、物語のようなものが生まれるが、そのような認識は本当に正しいのだろうか

41蓮恵:2018/08/06(月) 12:29:27 ID:arcilThk0
十二因縁であれ、唯識の認識論であれ
観察の際にそれら知識を用いるべきではない

42蓮恵:2018/08/19(日) 17:54:33 ID:/GsKRCTo0
全てが作為とイメージを超えたところ、あるがままにあるのだ

43蓮恵:2018/08/19(日) 17:55:40 ID:/GsKRCTo0
あるがままとは全ての作為とイメージを超えることである

44蓮恵:2018/08/20(月) 01:36:51 ID:AJvXZZkI0
慈悲、 勇猛心、その他の徳も我を離れたところで本当の意味で働くのだ

45素人A:2018/08/20(月) 12:11:36 ID:gOqWUDAs0
我々衆生は在るがままとかありのままとか、真理の言葉は
皆自分の都合よく解釈して怠ける心理がある。でも真面目な心理の人は
辛い世根と私は勝手に辛いと思うだけなのかも根。それぐらいの心構え
画無いと思い出のDVdをたたき割って伸世界に生まれ変わらんのかも
私は未練たらたらで有る我飯に浸るばかりで勇気そのうちに来るのか?
2段目ロケット切り離せずつい楽してしまう運命

46蓮恵:2018/08/23(木) 16:17:24 ID:Voac38LI0
うーむ
認識した物に観念をつけてるのは
自分でした

47蓮恵:2018/08/24(金) 12:18:40 ID:jfNKViO60
観念は、過去の記憶や体験から生成されているのである

物の態度や苦しみというものが、
ここにおいて生じるということである

48蓮恵:2018/08/24(金) 12:22:57 ID:jfNKViO60
無駄な議論に時間をさくのは、釈迦の精神に外れている

49蓮恵:2018/08/26(日) 17:44:51 ID:QHN4ezEg0
これにたいして、全ての説明は不要である
説明と解釈が自我を生むのである
全ての説明と解釈を捨て去る

50蓮恵:2018/08/31(金) 12:41:36 ID:/ga7aJzk0
認識されたものは、それだけである
無知と作為によって、付け足されるのである
それはそれだけである

バーヒヤ経に、
それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである
とある

51蓮恵:2018/09/01(土) 09:39:37 ID:V73v3q9s0
存在するというのも、存在しないというのも
消え去るというのも、残っているというのも人の見解にすぎない

事実は見解を超えている

52蓮恵:2018/09/06(木) 20:24:26 ID:7BnCBKyw0
今まで自分というものを消そうと思っていた
違う
全てを消すのだ

53蓮恵:2018/09/10(月) 18:23:50 ID:mOD8.0pA0
本当の用心は、気付きを待つことではない
気付きを忘れることである

手が熱いものに触れれば、
手がおのずから、思いなくして、
勝手に、動くのである
 
真の用心は、用心を忘れることである
無用心である
気付きは気付きの方から訪れて、去っていくのである

生まれなかったものは生まれなかったものとして、去っていく
生まれたものは生まれたものとして去っていく

54蓮恵:2018/09/12(水) 12:27:24 ID:O2oCEnnw0
量り来ること久し、豈思量せざらんや。然れども山は是れ山と言わず、代わって山と言う、名何ぞ形を労せん。言わざるも露わる、阿誰か誤る事有らん。

量らざる者親し、誰人か亦、疎き有らん。巍巍堂堂として、寸糸を繋けず、繊毫を置かず、全身放下し、命根截断す。

此の処、何ぞ非思量の処と名づけん、豈識情測り難しと言うべけんや。

此の田地に究到落着せば、普州の人、賊を追う、誰か贓を顕わさん。
子細に看来たれば、声を揚げて響きを止めんと欲し、耳を掩うて自ら去るが如し。如かず、此の鼓笛を打たせざらんには。

55蓮恵:2018/09/13(木) 18:44:40 ID:dL6aU5yg0
何ももっていないふりをしながら、
正しさを主張する心を隠し持っているではないか

56蓮恵:2018/09/14(金) 22:40:45 ID:eNOmhG0Q0
大徳、汝波波地(ははじ)に諸方に往いて、什麼物(なにもの)を覓めてか、汝が脚板を踏んで濶(ひろ)からしむ。

仏の求むべき無く、道の成ずべく無く、法の得べき無し。外に有相の仏を求むれば、汝と相似ず。汝が本心を識らんと欲すれば、合に非ず亦た離に非ず。

道流、真仏無形(むぎょう)、真道無体、真法無相。三法混融して一処に和合す。既に弁ずること得ざるを、換(よ)んで忙忙たる業識(ごっしき)の衆生と作(な)す。

57蓮恵:2018/09/26(水) 01:08:28 ID:wCfwUKq.0
人の行く先は必ず死に繋がっている
どの人がどのような道を行こうとも必ず墓場に辿り着く

58避難民のマジレスさん:2018/10/12(金) 21:39:44 ID:/mRrWwwM0
うちの隣は中古車修理販売のみせがある隣の飽きたスペースには廃車が
山と積まれている。車のご主人は新しい車に乗り換えて廃さようならで
これも輪廻転生鴨知れない

59蓮恵:2018/10/25(木) 00:13:00 ID:wCfwUKq.0
する、しないのどちらでもない
見るでも見ないでもない

60蓮恵:2018/11/05(月) 20:54:14 ID:Voac38LI0
瞑想をしているときに瞑想などない
坐っているところに坐など存在しない

61蓮恵:2018/11/09(金) 16:34:12 ID:c.F6pmfg0
思わなければ過去も未来もなく
分別がなければ自他はない

作為と理解は不要であり、
その時、その時のことを徹底すればいい

感覚、思考、観念に騙されなければ良い

62蓮恵:2018/11/09(金) 18:51:34 ID:bBhHG6gQ0
作為と理解は、暇と隙があるゆえに生じる
一切の間隙なく徹底して死ねばよい

63蓮恵:2018/11/18(日) 13:07:26 ID:/ga7aJzk0
自他という区別はもとよりないのである
が、作為ある限り、一切というものを自他という区別を使って見ているのである

64素人A:2018/11/20(火) 11:44:36 ID:gOqWUDAs0
何かパソコンみたい

65蓮恵:2018/11/26(月) 22:32:57 ID:wCfwUKq.0
いくら有無の概念と、
そのままの事実は完全に離れている

六根の情報を思考で扱わないのか?

66蓮恵:2018/11/28(水) 12:29:41 ID:OYYO4D/k0
是の法は平等にして高下あること無し。
是を菩提と名づくと。即ち此れ本源清浄の心にして、衆生諸仏、世界山河(せんが)、有相無相、遍十方界と一切平等にして、彼我の相無し。
此の本源清浄の心、常に自ずから円明にして遍く照らすも、世人知らずして、祇、見聞覚知を認めて心と為して、見聞覚知の為に覆わる。
所以に、精明の本体を覩(み)ず。
但だ、直下無心ならば本体自ずから現ずること、大日輪の虚空に昇って遍く十方を照らして、更に障礙なきが如し。
故に学道の人、唯だ見聞覚知を認めて施為(せい)動作するも、見聞覚知を空却せば、即ち心路絶して入処なし。
但だ、見聞覚知の処に於いてのみ本心を認む。
然も本心は見聞覚知に属せず。
亦、見聞覚知を離れず。
但だ、見聞覚知の上に於いて見解を起こすこと莫れ。
亦、見聞覚知の上に於いて念を動ずること莫れ。
亦、見聞覚知を離れて心を覓(もと)むること莫れ。
亦、見聞覚知を捨てて法を取ること莫れ。
即せず離せず、住せず著せずんば、縦横自在にして道場に非ざること無し。

67蓮恵:2018/11/28(水) 20:47:13 ID:mcxPUZkg0
円覚経に雲はやければ月はこび、船ゆけば岸うつると説きたまえるはこの意(こころ)なり。

雲のゆく事はやければ、月のうつりはこぶがごとく、舟の行くこと速やかなれば、岸も山もうつるに似たり。

これ山うつりうごくにはあらず、我のりたる舟の行く故なり。

わが心の雲はやき故に真如の月はこぶと見る。

諸法は本より実相にして常におのずから寂滅の相なれども、三世にうつりかわると見、 四時のとどまらざるしなを見るは、みな行蘊のまよいなり。

???
認識される全ての物は、もとより寂滅??

68蓮恵:2018/11/28(水) 20:52:28 ID:mcxPUZkg0
一切もろもろの衆生は、この万法の諸相にまどいて、目に見てはむさぼり、耳にききてはあらそい、鼻にかぎ、舌にあじわい、身にふれて、そのものごとに、貪着して、さらにこの万法の、夢幻泡影のごとく、鏡象水月のごとくにして、幻化虚妄なる事を知らず。


胎卵湿化の四生をうけ、生住異滅の四相にうつされ、五欲の境界に着して、六根の罪業をつくり、千生万劫、地獄餓鬼のほのおに身をこがし、生々世々、畜生修羅のくるしみにしずみ、あるいは人間に生ずれども、四大和合の色身を、我とおもい、六塵虚妄の縁影を、心として、生老病死念々におかし、春夏秋冬時々にうつり、みどりの髪たちまち白く、花のかんばせついにしぼみて、朝の露と消え、夕の煙とのぼる。


かかる無常転変の浮世、電光石火のわが身、しばらくもとどまることあたわず。

刹那もしずかなる事なくして、水の時々にながるるがごとく、ともし火の念々消ゆるに似たり。

これまさしく行蘊のすがたなり。

しかるに衆生の三界に流転するは、万法の幻化を知らずして、その夢幻の六塵に貪着して、十悪五逆の幻業をつくるゆえに、地獄餓鬼の幻果を受く。


わが身本より幻なれば、その心もまた幻なり。

その心すでに幻なれば、その煩悩もなまた幻なり。

煩悩本より幻なるゆえに、その悪業もみな幻なり。


悪業ことごとくげ幻なれば、三途の苦果もこれ幻なり。

三途すでに幻なれば、人間天上もまた幻なり。


三界の生死幻なれば、四生の因果も、ことごとく幻にして、一大法界のその中に、幻にあらざるものある事なし。

衆生幻業をつくりて、幻苦を受くるゆえに、諸仏幻慈をたれて幻法を説き、幻苦を救って、幻楽を与う。

これを涅槃の大楽という。


この大楽を受くる事は、その幻法を知るゆえなり。

衆生は幻法に迷うゆえに、幻業によりて幻苦を受く。

諸仏は幻法をさとるゆえに、幻苦を脱して、幻楽となす。


幻法にまよう衆生は、夢幻の生滅にばかされて、生死無常の行苦を受けて、行蘊の遷流となす。


幻法をさとる諸仏は、夢幻の生死を涅槃となして、行苦を滅して常楽にのぼる。


いかんしてか生滅の行苦をもって涅槃の常楽となすとならば、これ別に造作にあずかるにあらず。

ただ万法の遷流、生死の法を徹底夢幻と知ればなり。



【五の二十】


このゆえに円覚にいわく、幻と知ればすなわち離る。

方便をなさず、幻をはなるればすなわち覚なり。

また漸次なしと。


そのゆえいかんとなれば、三界万法すでにこれ幻なるゆえに、幻は本より生ずることなし。

すでに生ぜぬ万法なれば、いずれの時か滅する事あらん。

すでに生滅去来にあずからず、あに不生不滅の涅槃にあらずや。

すでに不生不滅の体なれば、何ぞ是非得失の沙汰あらん。


本より生死なきゆえに、涅槃というも仮の名なり。

生死にも涅槃にもあらざれば、煩悩菩提のわかちもなく、衆生諸仏のへだてもなし。


生死のわずらいは煩悩なり。

煩悩なきがゆえに菩提もなし。

煩悩もなく生死もなければ、何をか衆生と名づくべき。


衆生のさとりたるを諸仏という、本より衆生にあらざるゆえに、いまさとりて、諸仏というべき事もなし。

されば悟という事は、かくのごとく人々の、本より迷わずして、ただ本のすがたなることをたしかに見つくるをいうなり。

円覚経に始知衆生本来仏と、説かれたるこの意(こころ)なり。

本来成仏とは、本より仏という意なり。

本より衆生にあらざる故に、仏というべきようもなけれども、本より迷いの衆生にあらざることを、しいて仏と名づけたり。

このゆえに生死もなく、涅槃もなしといえども、凡夫のはかりがたき、奇妙のさとりの体、なしという事にはあらず。

69蓮恵:2018/11/28(水) 20:54:38 ID:mcxPUZkg0
円覚経に、いまだ輪廻をいでずして、円覚を弁ずれば、かの円覚もまた、輪廻に帰すといえり。

この意(こころ)はいまだその心さとらずして、その分別の心をもって、かのさとりの円覚の体を弁別し、思量すれば、かの円覚もまた輪廻となるという意なり。

真実にさとりの体にかなわんと思わば、一切の知解情識をすてて是非邪正に心をとめず、銀山鉄壁にさし向かうがごとくにして真実堅固の志をおこし、一則の話頭を提撕して、前後左右をかえりみず、寝食寒暑を忘れて、疑い来り、疑い去らば、時節因縁到来して、忽然として曠劫以来の無明の漆桶を打破せんとき、はじめて長夜の夢さめて、掌(たなごころ)を打て呵々大笑して、本来の面目をあらわし本地の風光をあきらめ、千生万劫の本意をとぐべし。

ただ大真実の心をおこさずんばこの無明をやぶりがたし。

70蓮恵:2018/11/29(木) 08:51:18 ID:wH2dj8Oo0
諸法従本来 常自寂滅相
諸法は本より来 常に自ら寂滅の相なり

世界が意味から離れるのか、
意味から世界が離れるのか

71蓮恵:2018/11/29(木) 16:33:25 ID:IHq1KMvM0
自分がそこにいるということは、
そこにいる自分を認識したのではない

本来無我なる見聞覚知というものが、
自分という観念を認識の対象としたのである

主体なき見聞覚知が我という観念にぶつかったのである

我という観念にぶつかる前の、見聞覚知はどのような色をしているのだろうか

72蓮恵:2018/12/06(木) 18:37:51 ID:IHq1KMvM0
求めなければそこが終点なのだ
動けば動くことが根底である
止まれば止まることが根底である

見聞覚知は根底である

73避難民のマジレスさん:2018/12/23(日) 13:06:03 ID:nQuOo6Uo0
人がいるのではなく、世界があるのではなく
主体があるのではなく、対象があるのではなく、
只、今があるだけ

74避難民のマジレスさん:2019/01/03(木) 20:58:11 ID:4lEhioOQ0
分別というものを休んでみれば良いのではないのだろうか
分けて考えるのを止める

認識したものを分別するのは迷いである

75蓮恵:2019/01/22(火) 23:27:36 ID:wCfwUKq.0
そのままがそのままである
色眼鏡をつけていればそのことに気が付かない

76蓮恵:2019/01/23(水) 23:02:41 ID:wCfwUKq.0
色眼鏡をはずすだけで良い

77蓮恵:2019/02/08(金) 00:59:53 ID:wCfwUKq.0
物をみるとき、自分の見解を持ち込まなければ、目に何の曇りがなければ

78蓮恵:2019/02/12(火) 19:27:06 ID:wCfwUKq.0
差を作らなければ
全てが円くおさまる

79蓮恵:2019/03/16(土) 13:59:39 ID:wCfwUKq.0
頭を使って思考を認知すると思考に振り回されるが、
呼吸とともに思考を認知すれば思考から離れられるのでは

呼吸を無理に整える必要はないが
呼吸を無視するべきではない

80蓮恵:2019/03/18(月) 22:00:29 ID:wCfwUKq.0
引用
肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。

 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということも
ないじゃろう。

 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

81蓮恵:2019/03/26(火) 17:36:02 ID:n2etsBCM0
物を動かさそうとしたとき、
対象が生じる

作為したときに、働きかける対象と
動きかたのイメージが生じる

82蓮恵:2019/03/26(火) 19:46:42 ID:1OLZ8miA0
己を守る対象と見るゆえに、己が生じる

83蓮恵:2019/04/18(木) 18:48:18 ID:YQgnoBzQ0
何者にもなりたくなかったのだと観察した

84蓮恵:2019/04/18(木) 18:57:17 ID:YQgnoBzQ0
人は己に向き合わなければならないと
感じた

85蓮恵:2019/04/22(月) 20:03:02 ID:z4mODpew0
私は勘違いしていたようである
己の人生と呼ばれるモノが存在するのではない
己の人生が存在するという解釈が存在する

86蓮恵:2019/04/30(火) 07:43:29 ID:h2jVs.sQ0
所有の意識の奥には混乱、恐怖、焦りがある

87蓮恵:2019/05/02(木) 20:11:58 ID:2hhAA/.U0
己の人生を誰かに見せようとしているのではないのだろうか
誰かを納得させるような生き方をしようという自己監視
そのような意識があるのでないか

88蓮恵:2019/05/10(金) 01:48:41 ID:wCfwUKq.0
向かうところなく、
求めることもなく、
対するところなく

悟りと迷いをくべつすることなく

89蓮恵:2019/05/23(木) 08:15:06 ID:8a.0p5BI0
正しい見方もなければ、間違った見方もない
修行とは何かを目指すことではなく、
教えとは何かに向かわせることではない
大道というものから、もとから離れたものではない
だが向かうところがあれば、気づかない

90蓮恵:2019/06/25(火) 21:05:06 ID:kIZ.CUOQ0
人が功績を残したり、能力を高めようと意図するのは己の居場所を求めるためである


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